Gute Reise(グーテ・ライゼ)

(ー天才ピアニストと天才漫画家に敬意を込めてー)


牢屋なう。


絵里菜は、ここはおそらくデュッセルドルフのどこかの牢獄に繋がれていると考えた。
手と足には重い枷をつけられていて、絵里菜の力では全く動かせなかった。

目の前には大柄の外国人だと思われる男達が大勢、規律正しく整列をしていた。
彼らは皆、手に銃を持っていて、もちろんその中身もしっかり詰まっていることだろう。
そして、この絶対絶命の状況下で、絵里菜の命は彼らに握られていると言っても過言ではなかった。

絵里菜が朦朧とした意識で目を開けると、目の前に一人の男が歩み出た。
手には、かなり弾力があるであろう鞭を握りしめていた。

男はヒュッと鮮やかに鞭を絵里菜に向かって打ち付けた。
鞭は絵里菜に当たり、千切れて破片となって散らばった。
鞭の材質はうどんでできていた。

「アッハッハ」とその場に整列していた男達は笑い声をあげた。
絵里菜は顔に残るうどんの欠片を振り払って、男達を睨みつけた。


彼らの拷問方法は一風変わっていた。
おそらく、彼らは絵里菜を精神的に弄んでいるのだ。

絵里菜はまだ鼻に残る嫌な臭いを思い出していた。
うどんの鞭の前に行われた彼らの拷問は、絵里菜に無理やりドリアンアイスを食べさせることだった。

絵里菜はアイスを無理やり口に入れられた瞬間、その臭いに体が震えた。
「ん〜!」と苦しみながら足を悶えさせて苦しんでいると、
その男達は「アッハッハ」と笑い、ドイツ語か何語かはわからないが、
「1マカオ」という風に絵里菜には聞こえるようなセリフを放った。

その前はレモン汁を46回かけた冷やし中華を食べされられ、
絵里菜の顔は故障したかのように歪んだ。

その前には、誰が握ったのかわからないぐちゃぐちゃのおにぎりを無理やり食べさせられた。

彼らは、理由はわからないが絵里菜が精神的に嫌がる方法を知り尽くしていた。
そして、その執拗に続く精神的な攻撃に、もう絵里菜の心は折れてしまいそうなほど疲弊していた。


絵里菜は悔しくて顔を下に向けた。
そして、自分はデュッセルドルフに来ただけで、
どうしてこんな事件に巻き込まれてしまったのかと考えていた。



・・・


事の発端は空港だった。

絵里菜は親友の麻紀とともにデュッセルドルフへやってきた。
ピアニストを生業としていた絵里菜は、その自分の生まれ故郷であるデュッセルドルフから、
演奏会に参加してほしいという仕事のオファーを受けていた。
生まれ故郷からのオファーは彼女にはとても光栄な話であり、
彼女自体もこの凱旋演奏会を快く承諾した。

ただ、絵里菜がドイツに住んでいたのは5歳までの話で、
その後すぐに日本へ帰国してしまったため、
彼女はドイツ語を話せるわけではなかった。
子供の頃にデュッセルドルフに住んでいた以外、
海外旅行へ行った経験が少なかった絵里菜は、
さすがに一人旅は心細く、親友の麻紀と、自分の男性マネージャーに同伴を頼んだ。


実は、絵里菜には密かに期待していたことがあった。
今回、絵里菜に対して仕事のオファーをくれたのは、
デュッセルドルフに住んでいた時の幼なじみの男性だった。
当時、子供ながらにすでにピアノを習い始めていた絵里菜は、
立派なピアニストになったあかつきには、デュッセルドルフであなたにピアノを弾いてあげると、
子供ながらに無邪気な約束をした仲であった。

絵里菜はそんな約束は子供時代の話だと思ってもう忘れていたのだが、
彼女の名前が世界的に知れ渡った事もあり、幼なじみの彼の耳にも入ったのだろう。
彼は極度のロマンチストなのか、もしくはたいそう律儀なのかわからないが、
絵里菜の連絡先を調べ、今回の仕事のオファーを出してきたのだった。
ところで、彼は絵里菜と同じ日本人駐在員の子供であり、
どうやら今でもまだデュッセルドルフに住んでいるらしい。

当時は大変仲がよかった男友達であったので、
絵里菜は胸の奥で密かなロマンスを思い描いていた。
異国の地は、特にそういうロマンスを喚起する何かがあった。


だが、悲劇は突然にしてやってきた。

絵里菜達がデュッセルドルフ空港の中から入国手続きを終えてロビーへ出てきた時、
そこでは「絵里菜様御一行」と書かれた紙を掲げた男達が待っていた。

絵里菜達は彼らが自分達を迎えに来てくれた旅行会社の人達だと思ったが、
彼らとしばらく行動を伴った後、空港施設内の人気のない場所に差し掛かった時、
男達は突然にして絵里菜達を襲った。

まず、マネージャーが後ろから男達に羽交い締めにされた。
先に男を狙う事も、彼らはあらかじめ計画していたようだった。

そして、彼らは絵里菜と麻紀に襲い掛かった。
絵里菜達は荷物を武器や盾に必死の抵抗を続けていたが、
大柄のドイツ人の男達に腕力で勝てるわけもなかった。

もう取り押さえられるというギリギリの状態で、
マネージャーが勇敢にも持っていたボストンバッグで絵里菜に襲い掛かった男を殴りつけた。
一瞬ひるんだ男は、怒りに震えてマネージャーに襲い掛かった。

「絵里菜逃げろ!警察に連絡するんだ!」

マネージャーの叫び声とともに、絵里菜は駆け出した。
混乱に紛れて何を思ったかマネージャーのボストンバッグを抱えて逃げたのだった。


やみくもに走り、絵里菜は空港内の公衆トイレの中に逃げ込んでいた。
女子トイレであれば、男達も入っては来れないととっさに判断したのだった。

中に隠れた絵里菜は手で口を押さえながら声を押し殺して泣いた。
どうしてこんな事になってしまったのか全く理由はわからなかった。

ひとしきり震えて泣いた後、逃げのびた自分が警察に連絡しなければ、
マネージャーと麻紀が危ないと気づいた。
正直、絵里菜は誰かが助けに来てくれるまでここを出たくはなかった。
しかし、自分が出なければマネージャー達がどこかへ連れて行かれてしまう。
もしくは、その後には結局自分へ攻撃の矛先が向けられる可能性があった。
そう考えると、できるだけ早く行動に移した方がよかった。

絵里菜はその自身が生まれ持った冷静な分析力と判断力、
そして強い意志の力を持って困難を脱しようと考えた。

ふと気づくと、自分の荷物はあの場所に置き去りにしてしまった。
持っていたマネージャーのボストンバッグに入っていたのは、
旅行用の地図やガイドブック、数日分の着替え、洗面用具と整髪料くらいだった。
マネージャーの財布はきっと彼のズボンのポケットにでも入れていたのだろう。
そして絵里菜は自分の鞄に財布を入れていた、よってここにお金は1円もなかった。

「どうしよう・・・」とべそをかきながらも、
絵里菜はある作戦を思いついた。
彼らは明らかに絵里菜達を狙っていた。
おそらく、自分が狙われた可能性が高いと考えたのだ。
世界的に名前を知られているのは自分だけで、
マネージャーと麻紀にはドイツで誰かに襲われる理由はないからだ。
そして、彼らは推測するに絵里菜達の到着を計画的に狙っていたのだろう。


もしこの仮説が正しければ、彼らは絵里菜の顔を知っていることになる。
他に仲間達が応援に駆けつけたとしても、おそらく自分の顔はみんなにばれている。
そうであれば、自分の身なりを偽ることが最善の策だと彼女は考えた。

そしてボストンバッグからマネージャーの衣類を取り出して身につけた。
幸いにして今日はすっぴんだった為、男装にはちょうどよかった。
髪の毛は、比較的にショートヘアーだったので、
トイレの中で鏡を見ながら整髪料を使って男性風に仕上げた。

そして勇気を出して周囲を確認しながら忍び足でトイレを出ていった。

・・・

トイレを出た瞬間、前方でキョロキョロしている男性が目に入った。
さっき自分達に襲い掛かった男の仲間であることは間違いなかった。

早く警察に連絡したいのは山々であったが、
このまま空港内にいるのはまずいと思った。
きっと彼らの仲間がたくさん潜んでいると思われたし、
また絵里菜が誰かにこの緊急事態を伝えたくとも、
ここは海外だし、彼女の知っているドイツ語と言えば、
グーテン・タークとブンダバーぐらいだった。
「こんにちは」と「素敵」だけでは何も伝えられないのは明らかだ。
そして、この状況は一つも素敵などではなかった。

絵里菜は自分の英語力の貧困を悔やんだ。
もちろん、彼女は成績優秀で英語もそれなりにできたが、
さすがに慣れていない海外でこの緊急事態をテキパキと伝えられる程の語学力はない。

また、自分の方向音痴を深く嘆いた。

渋谷で迷子になったくらいであれば、
誰か自分を知っている親切な人が道を教えてくれたこともあった。

しかし、海外での方向音痴は致命傷だ。
しかもこのような状況であった。
ボストンバッグに地図は入っていたが、
見ながら歩くと旅行者とばれて明らかに怪しい。
かと言って何もなければ道に迷うしかない。


だが、もう絵里菜には迷っている時間はなかった。
自分は男性だと暗示をかけながら出口を探して歩き出した。
絵里菜は催眠術など信じていなかったし、
自分は絶対にかからないと思っていた。
だが、今から自分にかける暗示だけは少しでもかかってくれと神に祈った。


前方にいた男達は絵里菜が絵里菜であることに気づいていなかった。
絵里菜は彼らの横をスーッと通り抜けることに成功した。

心の中で「よしっ!」と呟いた絵里菜は、
そのまま同じ速度と身振りのままで歩き続けた。
10m先くらいに空港の出口が見えた。
そこまで辿り着けば、とりあえず助かるかもしれない。

絵里菜は焦る気持ちを落ち着かせ、歩みの速度を一定に保つよう気をつけながら、
一歩一歩と出口へ近づいていった。

その時、後ろから男の呼び止める声が響いた。
ドイツ語だから何を言っているかわからない。
自分のことじゃない、自分のことじゃないと言い聞かせて、
5m、4m、3m、2m、1m・・・。


絵里菜がドアの直前に着いた時、
男が目の前の道をふさいだ。

彼はドイツ語で何かを言い続けている。
顔を伏せ気味にしながら、絵里菜は別人のふりをしようと考えた。
パニックになりそうな気持ちをギリギリで食い止めていた。

目の前の男はどうやら別の男に目と指で合図を送っているようだった。
おそらく絵里菜の背後から別の男が近づいているに違いない。
絵里菜はもう自分の体がぶるぶる震え始めるのを感じ、
絶体絶命の危機にめまいがしてくるのを覚えた。


その時。


ドーンという衝撃と共に、絵里菜の前の男が横へ吹っ飛んだ。
そこには別の男が絵里菜の前にいた男に体当たりしたのが見えた。

そしてその男はサッと絵里菜の手を取って一緒に走り始めた。


空港の出口を抜けて二人は一心不乱に走り続けた。
走っている途中で絵里菜は、今自分の手を引いている男性の身体が、
まるでミイラのようにほぼ全身包帯で覆われていることに気がついた。
それでいて筋肉質な体型で、なんともシュールな恐ろしい印象を受けた。

しかし、この状況下では助けてくれた人を信じるより他の選択肢はなかった。
絵里菜は彼に手を引かれるままに走った。

やがて、しばらく走ったところに一台のバイクが見えた。
彼は先にバイクに跨った後、絵里菜に「後ろに乗れ」と日本語で言った。

彼が日本人、もしくは日本語の話者である事で安心感を抱いた絵里菜は、
幾分、恐怖心もなくなり、彼のバイクの後ろに跨った。
こんなものに乗るのは絵里菜は生まれて初めてだった。
日本でも一度も乗った事はなかった。


絵里菜は後ろから男達が追いかけてくる声が聞こえていた。
すぐさま包帯男はバイクを起動させて走り出した。
後ろから聞こえて来る男達の声が小さくなっていく事に絵里菜は安堵したのだった。


・・・

包帯男と絵里菜はバイクに乗ったまましばらく走り続けた。
絵里菜は追ってくる怪しい男達の声が聞こえなくなると、
突然やってきた安心感に声をあげて泣いた。

そして、ひとしきり泣いた後で、
こんな状況であるにも関わらず、
生まれて初めて乗ったバイクの後部座席に興奮し始めた。
風を切るスピード、体に伝わる振動、勇ましいエンジン音。
全てが絵里菜にとっては初めての経験だった。

そして、何よりも絵里菜が感激していたのは、
自分を助けてくれた包帯男の背中だった。
バイクから落ちないようにしっかりと両手を回し、
頬をつけてしがみついたその背中は、
まるで広い宇宙のように神秘的で温かかった。


・・・

しばらく走った後、包帯男はバイクを停めた。
そして絵里菜にも降りるように告げた。

包帯男と絵里菜は目の前にそびえるタワーへ入っていった。
デュッセルドルフの有名なシンボルである「ラインタワー」だった。

「到着が遅れて悪かったよ、君を危険な目にあわせてしまった」

包帯男は初めて落ち着いて話を始めた。
絵里菜の耳に飛び込んできたのはとても優しい声だった。

「絵里菜、綺麗になったね、僕だよ」

包帯男は絵里菜の幼なじみの男だった。
絵里菜は驚いた顔をして何がなんだか信じられなかった。
包帯に半分くらい隠れていて顔はよくわからないが、
こじんまりとした体格と流暢な日本語から、
間違いなく日本人である事は認められた。
そして、日本人の知り合いはデュッセルドルフでは彼だけだったので、
絵里菜はゆっくりと、そして冷静に考えながら納得していった。


ラインタワーを登るエレベーターから出ると、
そこはデュッセルドルフの街を一望できる展望エリアだった。
絵里菜は目の前に鮮やかに広がる景色に目を奪われた。

ちょうど夕日が沈む時間帯であり、
展望エリアから見渡せるライン川の上にオレンジ色の夕日が掛かっていた。
おそらく子供の頃にもここには来たことがあるはずだったが、
絵里菜は当時4−5歳だったからこの街の大きさがわからなかった。
改めて見たデュッセルドルフの光景はとても美しかった。


「木の葉を隠すなら森の中だ」

包帯男はそう言った。
ラインタワーは観光客が多く、
絵里菜のようなアジア系の人々も比較的に多く見受けられた。
ここであれば逆に見つかりにくい、というわけだった。

その時、絵里菜のお腹が「ぐぅ」と鳴った。
安心したからお腹が空いたのだ。

「ごめんなさい、なんか安心したらお腹すいちゃった」

照れ笑いを浮かべながら絵里菜は言った。
包帯男は「気がつかなくてごめんね」と言い、
ラインタワーの中にあるレストランへ案内してくれた。

・・・


彼の名はヨーゼフと言った。

本当は日本語の名前があるはずだった。
しかし、彼のように現地での滞在が長いと、
ニックネームとしてドイツ風の名前をつけることもある。
ドイツ人の友達からその方が呼びやすいとなり、
彼もヨーゼフというその名前を好んだので、
ここでもその名前を絵里菜に教えた。
元々、幼なじみなのだから、絵里菜だって本名は知っていた。


そうしている間にテーブルへ前菜が運ばれて来た。
前菜は生ハムメロン、海老とアボガドのサラダ、
スモークサーモンなどが美しく盛り付けられていた。

一口食べた絵里菜は、幼い頃におそらく食べたことのある味が、
少し懐かしいようでもあり、何か新しい味であるような気もした。
そして「腹が減っては戦ができぬ」が信条の絵里菜であったが、
少し食べただけで不思議と満たされてくるのを感じた。
それは、絵里菜にとっては生まれて初めての感覚だったが、
彼女の心を満たしていたのは、食欲とは違う別の何かであった。


お腹も落ち着いたところで、絵里菜の次のターゲットは状況把握だった。
どうして自分がこのような事件に巻き込まれてしまったのか、
ヨーゼフは一体なぜ自分を助けてくれたのか等、
好奇心のままに質問を続けた。

彼女の場合、疑問が解消されるまで徹底的に追及するように
幼い頃から教育を受けており、彼女の資質もまたそれに呼応するように備わっていた。
音楽の才能だけでなく、物事の本質を見抜く知性も兼ね備えており、
周囲の人々に常に客観的な意見を求め続ける。
そして、その意見を冷静に分析し、自己反省につなげ、
改善点を探して次の対策につなげる努力をする。
この「才能+努力」の好循環が、彼女を天才ピアニストに育てたのだった。

また彼女はとても真面目で規律正しく、明るい性格の持ち主だった。
ユーモアのセンスもあり、とても負けず嫌いで意志が強い。
まったく神様は色々と贔屓をしたと言えるかもしれない。
あえて意地悪に短所をあげるなら、寂しがりやで甘えん坊なところと、
絵と料理の才能が欠如しているところぐらいだった。
しかし、彼女はそんな欠点を笑いに変えるだけの明るさを持っていたし、
ひょっとすると数年後には、彼女の持ち前の努力によって、
そんな欠点も補ってしまっているかもしれなかった。


そして、ヨーゼフは彼女の話をとても熱心に聞いてくれるタイプだった。
彼女の質問が終わるまで話を熱心に聞き、冷静な客観的意見を返す。
そして絵里菜はその意見をさらに分析した上で疑問を検出し、またそれをぶつける。
それをまたヨーゼフがきちんと論理的に分析して意見を返した。
こうしたキャッチボールは絵里菜にとってとても心地のよいものだった。
自身の知的好奇心は満足し、次に自分がどう行動すれば良いのかが明白になり、
心の中でもやもやした不安が無くなりとても健やかな気持ちになれる。


やがてメインディッシュが運ばれてきた。
鹿肉のステーキにシュペッツレというドイツ風パスタと赤キャベツが添えてあった。


ヨーゼフの話からわかったことは、
絵里菜を捕まえようとした男達はとある組織の連中で、
それは警察も手が出せないアンタッチャブルな存在だと言うことだった。
ヨーゼフは絵里菜と同じ幼少期を過ごしたピアノ教室の先生になっていたが、
この組織の連中の横暴に耐えかねて「レジスタンス」に所属するようになった。
ヨーゼフはピアノの先生を辞めて、彼らへの抵抗運動を続けているのだという。
彼の包帯の下の傷は、その抵抗の結果だと言う事だった。

組織の連中の狙いは、彼らが作成したリストに名前が載っている人物を捕まえ、
彼らに服従を誓わせることだった。
ヨーゼフはそのリストを極秘で手に入れて見たことがある。
そのリストの中にはヨーゼフはもちろんのこと、なぜか絵里菜や麻紀の名前もあった。


ヨーゼフは時々寂しそうに言った。
「音楽では彼らに勝てない、武器を取らなければならない」と。

絵里菜はこの意見に対しては少しばかり反対意見も頭をかすめた。
自分が幼い頃から磨いてきたピアノの腕は、そんなにも無力なものだろうか。


だがヨーゼフはこの国を守るために戦わなければならないと決意していた。
そして絵里菜は少しばかりの恐怖を感じながらも、
ヨーゼフの意見に心を動かされる思いもした。
あの温かい背中が間違っているはずはないという確信もあった。

ここまで話を続けてきたところで、
突然、ヨーゼフの携帯電話に着信があり、
彼は「申し訳ない」と断って少し席を外した。


一人席に残った絵里菜は離れていくヨーゼフを見送っていた。
実は、彼女は生まれて初めて経験する胸の高鳴りを感じていた。
この自分の心に伝わってくる熱い鼓動は一体何なのか。
そして、わからない疑問は常に質問攻めで解消するはずの絵里菜だったが、
この疑問だけは、なぜかヨーゼフには直接尋ねることはできない気がしていた。


その時。

「絵里菜!」


後ろから声をかけてきたのは麻紀だった。

「麻紀!」

絵里菜は彼女が無事だったことを知って思わず声をあげて叫んだ。

二人は涙を流して抱き合った。
こんな旅行に誘ってしまってごめんねと絵里菜は謝った。
麻紀は「ううん、大丈夫」とどこまでも優しかった。

「マネージャーは?」

絵里菜は尋ねたが麻紀は無言で首を振った。
行方不明だと言うことだった。
麻紀はマネージャーの自己犠牲によってうまく逃げ延びたのだ。
そして「レジスタンス」を名乗る組織の援助を得て、
このラインタワーまで逃げてきたのだった。

二人は再会を喜んだが、あまり余裕はなかった。
いつ追っ手が現れてもおかしくはないからだ。

「・・・ねぇ、絵里菜、早く逃げよう!」

絵里菜は少し困惑した気持ちになって聞いていた。

「この国にいると危ないよ。
 早く日本に帰ろう。
 あの連中に捕まったらどうされるかわからないし」

麻紀は少し興奮しながらそう言った。
絵里菜は「えぇ、でも・・・」と無意識に言ってしまった。

絵里菜の頭をかすめたのはヨーゼフの事だった。

彼はこの国であの組織の連中と戦っている。
自分は逃げていいのだろうか?
自分を助けてくれたヨーゼフを置き去りにして、
ここから逃げるのは卑怯ではないだろうか?
また、この国が奴らに占領されてしまったら、
きっと日本に逃げたって追いかけてくるかもしれない。
リストの中には絵里菜や麻紀の名前が載っているのだから。

「私は、ここに残って戦う」

絵里菜は静かにそう麻紀に告げた。
麻紀はとても困惑した表情を浮かべて言った。

「戦う?どうやって?
 まさかピアノで戦うなんて言わないよね?
 絵里菜どうしちゃったの?
 落ち着いて考えてよ、逃げなきゃダメだって!」

友人からは「聖母」というあだ名で呼ばれるほど穏やかで優しい麻紀だったが、
さすがにこの状況では少し声を大きくして意見を飛ばしてくる。
肩を揺さぶりながら激しく説得してくる麻紀をよそに、
呆然とした表情で絵里菜はヨーゼフを置いてはいけない事を痛切に感じていた。


「あっ!」

麻紀が絵里菜の後ろを見つめて驚いた顔で叫んだ。
絵里菜が振り向くと、そこには武器を持った男達に暴行を受けたヨーゼフの姿があった。
男二人に肩を担がれるようにしてかすかにヨーゼフは立っていた。

「絵里菜すまない・・・君達だけでも早く逃げろ・・・」

ヨーゼフは吐血をしながらかすれる声でそう言い放った。

「絵里菜!早く!」

麻紀は逃げながら絵里菜を呼びかけた。
しかし絵里菜は相変わらず呆然とした表情のままでそこに立ち尽くしていた。


・・・

気がついた時、絵里菜はどこかの牢屋に閉じ込められていた。
そして、彼女の横には殴られて気を失っていたヨーゼフの姿があった。

絵里菜は恐怖に怯えながらも、その心はヨーゼフと共にあった。
まるで軍隊のような制服を着て起立正しく整列している男達を目の前に、
絵里菜は彼らをキッと睨みつけて不服従を示した。


そして彼女に対する拷問が始まった。

初めのうちはまだぬるい拷問だった。

男達は音楽プレーヤーを持ってきて、モンゴル900の歌を流して絵里菜に聴かせた。
この曲は絵里菜が学生時代、900m走を運動会で走る事になった時に流れていた曲だった。
絵里菜は運動神経にはあまり恵まれず、しかしこの種目に参加するからには努力した。
毎日走り込みを続けたのだったが、結果はビリだった。

それ以来、絵里菜はこの曲を聴くとあの時のビリのトラウマを思い出す。
まだ続けて走らされるような嫌な気持ちになるのだった。


次は絵里菜が生まれて初めて作っただし巻きたまごの写真を見せられた。
お嬢様育ちであったためにIHクッキングヒーターの使い方がわからず、
その上に生卵を割って昆布と煮干しを添えてしまった恥ずかしい思い出だった。

「・・・もうやめてー!」

絵里菜は思わず叫ばざるを得なかった。


そこからはぐちゃぐちゃのおにぎり、レモン汁46回冷やし中華、
ドリアンアイス、うどんの鞭という拷問のレパートリーだった。

徐々に拷問のレベルが上がっているのを感じていたが、
次はさすがに男達も本気になったように見えた。
指揮官クラスの男が部下に命令し、一本の槍を持って来させた。
そして、ギラギラと輝く槍の先端を揺らしながら、
勢いよくその槍を絵里菜へ向かって突き刺した。

槍の先端は絵里菜の服に当たってたれがべっとりとついた。
槍の先端はイカ焼きだった。

「アッハッハ」

男達は笑い、絵里菜はこんな屈辱は生まれて初めてだと下唇を噛んだ。


しかし、本当の苦しみはここからだった。
男達は静かに黒い布で作られた袋をどこからか持ってきて、
楽しそうに「ウィー!」と掛け声を上げながら一羽ずつ鳩を取り出していった。
そして取り出した鳩を一羽ずつ絵里菜の前に置いていった。
鳩はどんどんと数を増していった。


絵里菜は鳩が大嫌いだった。
あの気持ち悪い首の動きがどうも受け入れられず、
絵里菜は何度も目をそらして叫んだ。

さすがの絵里菜もこれにはめまいを覚えたが、
絵里菜の負けず嫌いとプライドは、鳩ごときでは屈しなかった。
絵里菜は昔、友人と激辛うどんを食べる対決でも勝利したことがあった。
鳩くらいで弱音を吐いているわけにはいかない。
結局、鳩嫌いを克服した絵里菜は、もういくら鳩が来ても動じなくなった。


指揮官クラスの男がゆっくりと、だがとても偉そうに拍手を絵里菜に送った。
ここまで耐えたやつはお前が初めてだ、と言わんばかりであった。


そして急に威厳を持った顔に戻って部下に命令を下し、
部屋の隅にかかっていたカーテンをぐるぐると巻きとらせ始めた。
そこには一台のピアノが置かれていた。

次に、指揮官は部下に絵里菜の手枷と足枷を外させた。
同時に部下にヨーゼフの肩を抱えて無理矢理に立ち上がらせた。
下手な真似をするとヨーゼフに危害を加えると言わんばかりだった。


指揮官は絵里菜をピアノに誘導して椅子に座れと目で合図した。
そして部下に譜面を持って来させて、それを弾けという仕草を見せた。
部下が持ってきた譜面はMNB48の「君らのユリイカ」だった。

絵里菜が困惑した表情で指揮官を見つめていると、
指揮官は部下に満タンに入った液体洗剤のボトルを持って来させ、
部下にヨーゼフの目の前に掲げさせた。


それを見た絵里菜は一瞬で全てを理解した。

「お願い!もうこれ以上はやめて!」


絵里菜は伝わるはずのない日本語で思わず叫んだ。
なんて残酷な奴らなんだと泣きそうになった。
自分が奴らの言う通りにしなければヨーゼフに危害が加わるのは明らかだった。


そして絵里菜は譜面を見て「君らのユリイカ」を弾き始めた。
絵里菜は初見でも大抵の曲を弾くことができた。
そしてその腕前は超一流であり、その美貌とその腕前は、
まさに神様が贔屓をしたとしか思えないものだった。

指揮官はその音色を聴いて心から楽しんだ。
弾き終わる頃には「Wunderbar(素晴らしい)!」と叫んだ。
絵里菜にもその意味は理解できた。

気をよくした指揮官は次の譜面を持って来させた。
次の譜面はKHT48の「桃、みんなで飲んだ」だった。

絵里菜が続いてその曲を弾こうとした時、
虫の息だったはずのヨーゼフが口を開いた。

「・・・絵里菜・・・奴らに・・・屈するな・・・」

指揮官はキッと睨んで何か言葉を発し、部下は手に持っていた洗剤のボトルを離した。
「ドダン!」という音と共に洗剤の容器はヨーゼフの足をかすめて地面に落ちた。

指揮官はニヤリと笑って、部下に洗剤のボトルを再び拾わせた。
「次は外さんぞ」という顔を浮かべて絵里菜を見つめた。

絵里菜は涙を流しながら「桃、みんなで飲んだ」を演奏し始めた。
部下達は「アッハッハ」と笑い声を上げたが、
指揮官が何かを叫んで笑い声を制した。
彼女のピアノの美しい旋律が聴こえなくなるだろうが、とでも言うように。


絵里菜のピアノの演奏が終了すると、指揮官はうっとりとした表情を浮かべていた。
そして部下にまた次の譜面を取ってくるように命令した。


その時だった。

ヨーゼフは一瞬の隙を見て彼の側にいた指揮官の部下に肘打ちを喰らわし、
もう一人には右フックをお見舞いして二人を気絶させた。

そして「ここでそんな音楽は弾くな」と叫んでピアノへ駆け寄った。
絵里菜はビックリして椅子から立ち退いた。

そしてヨーゼフはおもむろにピアノを弾き始めた。

(タタラタンタターン、タラララ、タンタタンタターン♪)

ヨーゼフがその時に弾いた曲は児玉坂46の「僕の名は希望」のイントロだった。
指揮官は怒りを露わにして、自ら直々にヨーゼフを突き飛ばした。
その姿は、あまりの体格差から、ゴリラに吹っ飛ばされるチンパンジーのようだった。

ヨーゼフは「バタリ」と地面に倒れ、ピアノの音は止まった。


絵里菜は「ヨーゼフ!」と叫んで駆け寄った。
まだヨーゼフは息をしていた。
命には別状はないようだった。


だが、指揮官はヨーゼフへ銃を向けた。
そして絵里菜にピアノへ戻るように顎で合図をした。
続きを弾くのだという意図であった。

部下が持ってきた譜面はもう準備されていた。
曲はKAB48の「絶望的ルフラン」だった。

絵里菜は椅子に座り、譜面を広げて置いた。
そしてしばらく下を向いて静かに目をつぶった。


顔を上げて絵里菜はピアノの演奏を始めた。
弾き始めた曲はフレデリック・ショパンの「練習曲作品10第3番ホ長調」、
別名「別れの曲」だった。


弾きながら絵里菜は思った。

奴らに勝つことは、もうおそらくできないだろう。
そして自分とヨーゼフにとって、ここがおそらくお別れになるのだ。

絵里菜は涙をボロボロとこぼしながら弾いていた。
その姿はあまりに神々しくて清らかであり、
指揮官は絵里菜に目を奪われ、その美しいピアノの音色に聴き惚れていた。

ヨーゼフは倒れたままピクリとも動かない。
この音楽が耳に届いているのかもわからなかった。
絵里菜からヨーゼフの顔を伺うことはできず、
彼女はただ無心にこの「別れの曲」を弾き続けていた。


出逢えたこと、それが運命。
別れること、それも運命。
交わる線、離れる線。
過去と未来。
今までありがとう。



絵里菜にとって、あまりにも短い時間であったが、
ヨーゼフと出会い、彼を愛したことは彼女の誇りだった。
生まれて初めてこんなに胸が高鳴った。
しがみついた背中に触れる自分の心臓の鼓動は、
これが自分の生きている全宇宙だとすら感じた。


鍵盤を情熱的に滑る絵里菜の指先はやがてその活動を終えた。
静かに「別れの曲」が終わったのだ。

指揮官は恍惚の表情を浮かべて「Wunderbar!」と叫んだ。
突然のアドリブ選曲ではあったが、あまりの繊細な彼女のタッチに、
指揮官はその腕前にますます惚れ込んだのだった。


絵里菜はニッコリと指揮官に微笑みを返した。
そして指揮官は次の譜面を指差してスタートの合図をした。

絵里菜は静かに鍵盤に指を置いた。
そしてとても柔らかなタッチで最後の曲を弾き始めた。

曲は児玉坂46の「大切な人のために弾きたい」だった。
そして絵里菜は優しく歌い始めた。


 幼い頃 近くにある 
 ピアノ教室に通い始めた
 小さな手で白と黒の
 鍵盤を行ったり来たり…

 
指揮官は怒りを露わにしていたが、絵里菜のあまりに美しいオーラに圧倒されて、
まったく足が前に動かせないのだった。

 いつの日にかコンクールで 
 優勝したい
 世界的なピアニストになるのが夢だった


ヨーゼフは顔も見えない姿勢で倒れたまま全く動かない。
だが、かすかに耳がピクリピクリと動いているようにも見えた。


 今 あなたに
 私のピアノを
 聴いてもらってる
 それだけで
 華やかなステージよりも
 しあわせと思った
 ありがとう


絵里菜は、おそらくこれが最後になるであろうピアノの演奏に専心していた。
そのタッチはとても柔らかく鍵盤上を滑っていた。
その歌声はとても澄んでいて清らかな賛美歌のようでもあった。


 幼い頃 近くにある
 ピアノ教室に 通い始めた


絵里菜は初めてヨーゼフと出会った日々を思い出していた。
異国で生まれた者同士、自然と心を通わせて仲良くなった。
そして、運命は二人を大人になってから再会させてくれた。
短い期間ではあったけれど、絵里菜には全く後悔の気持ちはなかった。
世界で一番温かい背中に触れたことは、この生涯で最も美しい瞬間だった。


絵里菜はヨーゼフと出会えた事をずっと忘れないと思った。
例えここで二人がまた離れ離れになってしまったとしても、
どこか遠い未来でまたきっと再会するのだ。
そして、私は、またヨーゼフに私のピアノを聴いてもらうのだから。


絵里菜は自分が小さな頃からずっと練習してきたピアノが大好きだった。
そして、こうして練習を続けてきてよかったと思った。
大好きな人に大好きなピアノを聴いてもらえる事が、
この世で一番幸せな事だと、絵里菜は気づいたのだった。


絵里菜が最後の指を鍵盤に置いた時、
彼女の背中には後光が差しているように見えた。
この部屋には窓などないはずだった。
あまりの美しさに指揮官は言葉を失って立ち尽くしていた。


指揮官は自分の心との葛藤を続けているように見えた。
震える体から、タブーとも思われる賞賛が口をついて出た。

「Wunderbar…」


その時、

規則正しく整列していた部下達が勝手に次々と前に出て、
一斉にヨーゼフへ銃口を向けた。

絵里菜はとっさに体を投げ出してヨーゼフをかばった。
しかし、銃口から発せられた鉛は二人の体を無情にも貫いた。

「Danke schon(ダンケシェーン)・・・」

絵里菜は薄れていく意識の中でそう呟いた。


・・・

「絵里菜!絵里菜!」

絵里菜はふと気がついてアイマスクを外した。
そこでは麻紀が絵里菜に呼びかけていた。

「シートベルト、着用しなきゃだよ」

麻紀は優しく絵里菜にそう告げて微笑んだ。

絵里菜は自分がアイマスクの他に、口にマスクを着用していることに気がついた。
首の後ろには首枕があり、片耳には耳栓が入っていた。
一方の耳栓は麻紀が持っていた。


飛行機の機内だった。


日本語で機内放送が入った。
「本機はまもなく成田空港に着陸を開始いたします、
 シートベルトを着用くださいますようお願い申しあげます」とのことだった。

その後、ドイツ語でも同じ内容の機内放送が入った。
ドイツから日本へ旅行に来た人向けのアナウンスだった。

客室乗務員は最後に「Gute Reise!」と告げて放送を切った。
絵里菜が辞書で調べると、日本語訳では、
「よい旅を、道中ご無事で」という意味だということがわかった。


「私・・・寝てたのかぁ・・・」

絵里菜は呆然とした顔で呟いた。

「そうだよ、疲れてたんじゃない?
 私が声かけてもずっと寝てたんだから」

麻紀は笑顔でそう説明した。

「何か怖い夢でも見たの?」


絵里菜は少し考えながら黙っていたが、
前の席の乗客が機内のモニターで「アニマルプラネット」的な番組を見ているのに気がついた。
そこには野生のゴリラが図々しい顔をして映り込んでいるのが見えた。


「・・・武装したゴリラの夢を見たの・・・」

絵里菜はポツリとそう呟いた。

「えっ?武装したゴリラ?」

麻紀は少し笑いながら言った。
「どんなゴリラだったの」と茶化しながら付け加えた。

絵里菜は呆然とした表情のままで答えた。

「・・・ただのゴリラじゃなくて、槍を持って、それが目の前全部を支配してたの」

麻紀はさすがに吹き出してしまった。

「絵里菜、仕事のしすぎで疲れてるんだって。
 帰ったらまた次の仕事も決まってるから大変よね。
 春の野外ライブで、有名歌手のバックで演奏するって。
 それ、実は私もギターで参加することが決まってるんだ。
 お互いにゆっくり休んで、また頑張ろうね」

麻紀は聖母のような優しい笑みで肩をポンと叩いて慰めてくれた。


絵里菜は「ふぅ〜」と大きく息を吐いてシートベルトを着用した。

そして麻紀も先ほどまで聴いていた機内サービスのヘッドホンを片付け始めた。
何を聴いてたんだろうと、絵里菜がふと麻紀の前のモニターを見ると、
さっきまで麻紀が聴いていたのはどうやら、
フレデリック・ショパンの「練習曲ハ短調作品10−12」
別名「革命のエチュード」だったのがわかった。


絵里菜はその画面を二度見ではまだ足らず、
彼女いわく、五度見した、らしい。


ー終幕ー

Gute Reise ー自惚れのあとがきー



この作品は筆者の3作目の作品である。

「あなたのために誰かのために」を書き上げた直後で、
前作が人間関係の細かな心理を書こうとした作品であったために少々疲れていた。
そして、気分転換の意味でも、全く色の違う作品を書きたいと思った。
それも、あまり深い意味はなく単純で笑えるものであればなお良いと思った。

そこで筆者の心の中でオーディションを敢行したところ、
喜劇と言えば絵里菜ということで彼女に白羽の矢が立った。
そして期待に応えた素晴らしい役割を彼女は演じてくれたのである。

そもそも、彼女程の逸材であればどんな役でもこなせる。
しかし、喜劇を担当してもらったのはやはり正解だった。
彼女のネタの引き出しの豊富さには頭がさがる思いがした。
彼女が主人公である限り、滑稽劇のネタに困ることはなかったからだ。

書いていて気づいたこととして、結局彼女の一番偉いところは、
普通なら欠点と思われるところを笑いにできる長所である。
これによって、何をしても嫌味がない彼女独特の羨ましいキャラクターになる。

もちろん、彼女を書くからには必ず抑えたい点はいくつもあった。
彼女の最大の長所であるピアノ演奏の場面、お芝居の中の役者としての魅力、
誰にも真似できない彼女独特のユーモアのセンスなどである。
だが、結局は初期の構想段階でこの物語が光るものになるだろう予感があった。

それは、彼女がデュッセルドルフに帰るとしたら、いったいどうなるのだろう?
というこの一点だった。

そして、この一点だけで十分に読者の興味を引くテーマであろうと思った。
何せ、筆者自身、その場面を是非見てみたいと感じたからである。
そして、せっかくドイツに帰るのだから、ロマンティックな恋愛要素を加えたかった。
この2点だけで十分に絵里菜が主人公になる価値があったと思う。


しかし、この作品の面白さは最終的に全く別次元のところに結末が流れた。
彼女について色々と調べている時、筆者が興味を持ったのが「虹のプレリュード」だった。
これは手塚治虫原作の漫画で、彼女が舞台で演じたミュージカル作品だった。

筆者は手塚治虫が好きであり、その作品にはショパンが登場するのだ。
それだけで筆者には大変な興味がそそられた。
そして、この「虹のプレリュード」に敬意を込めたパロディにしようと画策したのだった。


本作は別に「虹のプレリュード」を知らなくても読める。
「ダンケシェーン」と「あなたのために弾きたい」をベースに構成された物語で、
最終的に夢から覚めた絵里菜が武装されたゴリラの夢を見たところでも既にオチているのだが、
「虹のプレリュード」の物語とメッセージ性をきちんと理解した人が見れば、
本作の中でいろいろな箇所がパロディであることが判明してくる。
そして、この作品に秘められたメッセージも自ずと見えて来る構成になっており、
武装したゴリラを飛び越えて、最後のショパンの「革命のエチュード」が本当のオチになる。
本作が成功したと思ったのは、この2重構成の妙味であった。


実際、これだけのショート作品であり、筆者が肩の力を抜いて楽しく書け、
なおかつこれだけ深みを持った構成にできたのは奇跡だとしか言いようがない。
それはおそらく、偉大な漫画家と偉大なピアニストが提供してくれた素材の素晴らしさに加え、
主人公の持つユーモアと力強さ、そしてピアノを弾く時のあの神々しい彼女の魅力。
これらが渾然一体となった奇跡なのだろうと筆者は感じている。

そして、絵里菜と麻紀は、帰国後に次の仕事の予定が決まっている。
これはまた別の物語に続いていくのだが、それは今後また別の作品を通じてわかってくることだろう。


ー終わりー