赤飯様

ーみりん編ー

 

 

パチンという音が響くが彼女には聞こえていないだろう。

向こう側で椅子に座ったまま上を向いて、あれはおそらく眠っている。

 

「・・・えっ、それってなんか意味あるの?」

 

向かいの椅子に座っていた寺屋蘭々がそう尋ねてきた。

蘭々の横に座っている坂木トト子はイヤホンで音楽を聴きながら雑誌を読んでいた。

自分の世界に浸っているので、蘭々には関心を向けていないようだ。

 

「さぁ・・・どうでしょう」

 

次藤みりんが曖昧な感じに返事をすると、蘭々はますます混乱しているようだった。

そんな混乱をよそに、軍団長の勝村さゆみは椅子に座ったまま眠っているようでピクリとも動かない。

 

「・・・ええっ、だってこれ、こうすれば取れちゃうよ?」

 

蘭々は将棋盤を見つめながら自分の駒を前に進めながらそう言った。

みりんが先ほどパチンと打った駒は、蘭々が駒を動かすことによって取られてしまった。

 

「・・・それでいいの?」

 

みりんは蘭々の顔を見ながらそう尋ねる。

 

「・・・えっ、うん」

 

蘭々がそう返事した言葉を聞くと、みりんは手際よく自分の駒を動かした。

 

「はい、これで王手ね」

 

「えっ、あれ?」

 

「もうこれで私の勝ちだよ」

 

蘭々は一瞬で何が起こったのかわからない有り様で将棋盤を見つめた。

先ほどみりんの駒を取ったことで動かした自駒のせいで自分の王の逃げ場がない。

 

「・・・えー、なんでそうなるんだろう・・・?」

 

蘭々は腑に落ちない表情で将棋盤を見つめていた。

みりんに将棋を教わり始めてからまだ三回目の対戦だった。

 

「さっき打ったこの駒がね、ちゃんと意味があるんだよ」

 

みりんは先ほど蘭々に取られた駒を手にとり、

対局の二、三手前まで駒を戻していく。

 

「ここの駒が王を守っているから王手できないじゃん?

 だから、私がここに駒を打つことで蘭々は逃げるか取るかするしかなくなるのね」

 

みりんは理路整然と将棋盤を指差しながら対局を解説していく。

近頃、将棋道場でアルバイトをしているだけあって、腕はメキメキと上がっていた。

 

「この駒は捨て駒になって取られちゃうけど、そのおかげで他の駒が王手をかけられるの。

 見たところは犠牲になっているように見えても、実はちゃんと役に立ってるんだよ」

 

みりんが解説していく様子を蘭々は真剣に耳を傾けながら聞いていた。

蘭々は別に棋士になろうと思っているわけでもなんでもないが、

いつも空き時間に本を読みながら将棋の勉強をしているみりんに興味を持ったのだった。

そして話をしているうちに、自分も少しずつ将棋を教えてもらうようになったのだが、

やはりなかなか趣味程度では上達するのも難しかったようだ。

 

「へぇ~、そうなんだ、やっぱり私にはちょっと難しいかな・・・」

 

蘭々はやっとルールを覚えたばかりなので将棋の戦略などはまだ先のことだった。

簡単な戦術であっても、まだ見たことも聞いたこともないことばかりでチンプンカンプンだったのだ。

 

「そんなことないよ、ちゃんとさっきの捨て駒の意味を理解できたでしょ?

 ちょっとずつ学んでいけばやってるうちに覚えていくからそんなに難しくないよ」

 

みりんは理論的に教えるのが上手なうえ、相手の感情に配慮しながら話をすることができる。

よって先生としての能力も比較的に高かった。

 

「えーっ、でもやっぱりなんか難しいなー、トト子はわかる?」

 

「えっ、何か言った?」

 

トト子は何かを話しかけられていると気づいて片耳のイヤホンを外した。

 

「さっきの場面、わかった?」

 

蘭々はもう一度トト子に話しかけた。

 

「あー、なんか横でちょいちょい見てたからなんとなくわかったかも」

 

みりんが見てた限り、トト子は本当にちょいちょいしか見てなかったので、

あれで本当に彼女がさっきの対局の意味を理解しているとは到底思えなかった。

 

「ほんとにー?」と訝って見せたが、みりんはそれ以上は突っ込まなかった。

色々と感情や状況に配慮するのがみりんのやり方だったからだ。

自分より年下の子達を追い詰めるようなやり方は基本的に採らなかった。

 

みりんと蘭々が終わった対局の駒をまた元どおりに片付けていると、

トト子はもうすでに興味を失ったようにイヤホンをつけて雑誌に見入った。

何やら先ほどからずっと最近のアニメ事情をチェックしているようで、

その集中力は赤ペンを耳にかけながら競馬新聞を読んでいるおっちゃんと大差ないようにも思える。

それくらいアニメが好きだろうし、好きなことにはとてつもない集中力を発揮するのがトト子だった。

 

どうしてこんな例え話が登場したのかと言うと、それはみりんの職場に理由があった。

みりんがさゆみかん軍団の財政を取り仕切っているのだが、

そもそも、ほとんどの財源は彼女が将棋道場で稼いでいる給料だった。

そこには基本的におっちゃんしかおらず、将棋以外の話題が出るとしても、

何やら競馬や競艇だったり、盆栽や時代劇だったり、とにかく渋い話題しか出ない。

このままだと精神的に枯れていく一方だと思ったみりんは、

最近では若手の人々とフットサルをしたりと、どうにかして若いエキスに触れようと尽力していた。

しかし、基本的にはそんな努力を続けていても、将棋道場にいけばまた枯れていく。

みりんは若いのにもかかわらず、どんどん渋い魅力が増していくのだった。

 

「・・・ううーっ、あーっ!!」

 

少し離れた場所にある椅子に一人座って眠っていた軍団長がお目覚めのようだった。

寝起きの猫みたいに自由に伸びをして、きっと暇つぶしにこちらにやってくるだろうとみりんは思った。

なぜ暇をつぶす必要があるのかといえば、このよろず屋に全く仕事がないからだった。

たまにある仕事を取ってくるのはほとんどみりんであり、それらの仕事の稼ぎが十分ではないため、

みりんは将棋道場にアルバイトをしに行っているのであった。

それを見かねた蘭々が、最近ではようやくピザ屋のアルバイトを始めて助けてくれるようになった。

トト子は覚醒を待つほかないのでしょうがないと思っているのだが、

軍団長はこの頃ではもうよろず屋の運営を諦めてしまったのか、

昼間からでもよく眠るようになった。

要するに、彼女が眠るための時間をみりんが働いて確保していることになる。

今ではそれを多少皮肉りながら「眠りのさゆみかん」とみりんは裏で呼んでいた。

先日、TVで偶然見たコナンくんに登場する「眠りの小五郎」から影響を受けたのだ。

軍団長が眠っているとき、トト子と蘭々と彼女の声を当てて遊んだこともあった。

だが、それもすぐに飽きてしまい、結局残ったのは昼寝をする軍団長の存在だけになってしまっていた。

 

回転する椅子をくるりと回し、目をしばしばさせながら軍団長がこちらを向いた。

どうやら仲間になりたそうにこちらを見つめているように思えた。

それはまるでドラクエで仲間になりたいモンスターがこちらを見つめているようであり、

軍団長の威厳はどこにもないようにみりんには思えた。

とにかく、これは構って欲しいという合図なのだろう、もう慣れっこだった。

 

「軍団長、お目覚めですか?」

 

みりんは構ってちゃんシグナルを受け取ってそう尋ねた。

軍団長は子供みたいな表情をしながら無言でこくりとだけ頷いた。

 

「昨日の夜は早く寝なかったんですか?」

 

「・・・ちゃうねん、聞いてー、あんなー・・・」

 

昨日の夜に眠れなかった理由を延々と語り出した軍団長に相槌を打つみりん。

蘭々は話し相手のみりんを取られたので、ふっと自由に解放されて立ち上がった。

トト子は軍団長が寝ていようが起きていようがアニメの方が大事らしい、雑誌のチェックに余念がない。

 

「・・・ほんでなー、かっちゅんがなー・・・」

 

何も知らない人がこの光景を見たら、みりんは保母さんか何かと思われるだろう。

まるで母親のようにこのよろず屋の面々を諭したりあやしたりしているように見えるからだ。

だが、お母さんはいつも子供達のために犠牲を強いられなければならない。

シングルマザーのようにお金を稼ぎながら頑張るみりんであったが、

本人もその環境にもうすでに慣れっこになっていたし、

たまにお金と時間に余裕があるときだけ、友人とテーマパークにでも遊びに行ければ、

もうそのような小さな幸せで満足するようになってしまっていた。

まるで食べる量を減らしていれば小さくなってくる胃袋のように、

みりん個人のわがままな時間というのは日に日に縮小していったのだった。

 

先ほど立ち上がった蘭々が気分転換のために建物の玄関へ向かった。

がらがらぴしゃりと引き戸を開けると、外は良い天気だったのだろう、

日光が射し込んできて部屋の雰囲気も少し明るくなったような気がした。

こんな日にはどこかへお出かけでもできればいいのにと蘭々は思った。

そうすることが、仕事もなくただ鬱々と存在している、

このよろず屋にまとわりつく悲しみの忘れ方に違いなかったからだ。

 

建物から一歩外に出て、蘭々は日光を浴びて伸びをしてみた。

ふぅーと息を吐いて多少リラックスできたなと思ったとき、

少し離れたところにある電信柱に隠れる人影を見かけたのだった。

 

実は、蘭々がこの人影を見たのは初めてではなかった。

この間も、みりんの玄関先の掃除を手伝っていたとき、

電信柱の陰からこちらを見つめる視線に気がついたことがあった。

不気味に思ったので、その時はみりんにそっと耳打ちすると、

それに気づかれたのか、その人影は走って逃げて行ったのだった。

 

(・・・なんだろう、もしかしてストーカーかな・・・?)

 

なんどもなんども同じようにこちらを見つめているように思われるので、

蘭々はさすがに怖くなってきて、気づいていないふりをして建物の中へと戻った。

そして小走りにみんなの元へ向かっていった。

 

「・・・ねぇ、あの人また来てるよ?」

 

ようやく軍団長との話がひと段落ついていたみりんに、

蘭々はそう言って相談したのだった。

 

「えっ、もしかしてあのストーカーっぽい人?」

 

「うん」

 

蘭々は不安そうな表情でそう答えた。

一体誰をストーキングしているのかわからないが、

じっとよろず屋を見ているのだから、ターゲットはこの四人のうちの誰かかもしれない。

 

「えっ、それ何の話?」

 

基本的にずっと寝ているのでこの話を全く知らなかった軍団長が尋ねる。

トト子も何だか周囲の状況が騒がしいと思ったのか、イヤホンを外して様子を伺っていた。

 

「なんかー、この頃ずっとよろず屋の方を見ている人がいるんですよ。

 このあいだも蘭々と玄関先の掃除をしてる時に見かけたことがあるんです。

 ちょっと気持ち悪いんで、そろそろ警察とかに連絡しちゃったほうがいいですかね?」

 

さすがのトト子も少し驚いた表情を浮かべていた。

誰かが狙われているとしたら、それはとても怖いことだったし。

 

「えー、なんでよー」

 

軍団長の反応は三人の予想したものとは外れた。

 

「それってよろず屋に頼み事がある人に決まってるやんかー。

 入りたいけど勇気がなくて入られへんだけちゃうん?」

 

そう言われれば、私たちの仕事はよろず屋だったと蘭々は思い出した。

こんな得体のしれないお店だから、建物の中に入りづらい人がいてもおかしくはなかった。

 

「・・・でも軍団長、本当にストーカーだったらどうしますか?」

 

用心深そうにトト子が尋ねる。

 

「えー、うちならめっちゃ逃げる」

 

なんの解決策にもならない返答に一同が心の中でツッコミを入れた。

だが、本当に声に出してツッコミを入れたのはみりんだけだった。

 

「ほら軍団長だって怖いと思ってるんじゃないですか」

 

ツッコミに追い込まれてちょっとシュンとなってしまった軍団長。

 

「・・・やっぱり、警察に電話した方がいいんですかね?」

 

蘭々は心配になってきて結論の確認を急ぐ。

とりあえず四人で話をして、いきなり警察に電話はまずかろうということになった。

 

じゃあ誰があの人に話しかけに行くのかとなると、

それはもう満場一致でみりんと役者が決まった。

みりん自身もどうせそうなるだろうと思っていたし、

ある意味でそこが自分の存在意義であることも理解していた。

私が行かなきゃ誰が行くんだ、と。

 

 

・・・

 

 

みりんが覚悟を決めて椅子から立ち上がると、

残りの三人も同じようにして席を離れた。

よろず屋の玄関から出ると、みりんは辺りを見回して人影を探した。

すると、ここから15mくらい先の電信柱のところにその人影を見つけた。

 

みりんがそちらへ向かって歩いて行くと、

残された三人は玄関のところから覗きみるように顔だけひょっこり出していた。

相手からは見えないように、蘭々は密かに携帯電話を握りしめていた。

これはみりんが言い残していったことだったのだ。

 

「もし私に何かあった場合、すぐに警察に電話してね」

 

蘭々は手に汗を滲ませながら電話を握りしめる。

勇敢なみりんは覚悟を決めたようにどんどんと電信柱に向かっていく。

 

一方、ひょっこり覗いている軍団長は見えないように金属バットを握りしめていた。

もしみりんが襲われてストーカーがこちらに向かってきた場合、

その金属バットで相手と戦おうと思っていたのだ。

 

こうして二段構えセキュリティで防衛戦を張っていた三人に対して、

みりんはほとんど丸腰で電信柱の相手に立ち向かっていった。

こちらの方がよほど勇気を要する役割なのだが、

みりんは軍団ではこういう役目を負うことは覚悟していたのだ。

 

(・・・私に何かあっても、あの三人が何とかしてくれる・・・)

 

みりんは常に戦略的に考えている、というよりも考えてしまうのだ。

これは将棋を趣味としているからなのか、

こういう性格だから将棋が趣味になったのかは定かではない。

とにかく自分だけの視点で物事を考えることは少なく、

基本的には全体を俯瞰した上で、自分という駒の位置取りを考えるのである。

 

こうしてみりんはみるみるうちに電信柱へと近づいていった。

向こうもこちらが向かってくることに気がついたのか、

二人の間に漂う空気に緊張感が走ったのがわかった。

 

「・・・あの・・・」

 

そう言ったのは二人同時だった。

みりんが話しかけた時、相手も同じタイミングで話しかけてきたのだ。

 

それからはお互いに譲り合いになりながら少々気まずくなったが、

最終的には譲られたみりんが切り出して話が進んだ。

 

「・・・えーっと、もしかしてうちのよろず屋に何かご用でしょうか?」

 

二人が会話を始めたのを遠くから見ていた三人は、

いよいよかと携帯や金属バットを持つ手に力が入っていた。

トト子は祈るように両手を合わせて見守っているようだった。

 

肩がこるほどの緊張感を全身に漲らせて待っていた三人は、

やがて遠くから会話を終えたみりんが両手を頭の上に掲げて、

大きくマル印を作って合図を送ってきたのが見て取れた。

それを見た蘭々はホッとして携帯を持つ手を緩めたし、

トト子もふぅとため息をついて大事にならなかった様子に安堵した。

軍団長は隠れていた引き戸から飛び出して微笑みながら両手を挙げてみりんに手を振った。

 

みりんは相手の男を連れてよろず屋へ戻って来る様子だったが、

お客を迎えてくれようとして「いらっしゃいませ~♡」と叫んでいた軍団長の姿を見て、

なんとも言えない表情を浮かべていたのだった。

 

(・・・軍団長・・・持ってる金属バットが丸見えですけど・・・)

 

さっきまでストーカーと勘違いしていたことを悟られたくなかったみりんは少し恥ずかしくなった。

 

 

 

・・・

 

「はい、どうぞ」

 

よろず屋の建物の中に男を招き入れた四人は、

客人用の長椅子に男を座らせて向き合っていた。

みりんは一人せっせと働いてお茶をいれて持ってきたのだ。

また一つ仕事を取ってきたみりんは、軍団のお役に立てているのが嬉しかったし、

是非ともこの仕事を成功させて軍団の財政を潤さなければと考えていたのだ。

 

「それで、お願い事ってなんでしょうか?」

 

ゆっくりと自分も席に腰掛け、目の前の男を見つめながらみりんはそう尋ねた。

男は電信柱の陰に隠れている時は怪しい人に見えたのだったが、

よくよく見てみると、きちんとした身なりをした人だったし、

清潔感のあるタイプで、みりんの問いかけに少しはにかんだ様子などは、

全く不快感を感じさせるような人ではなかった。

 

「・・・いや、そんな大したことではないんですが・・・」

 

男は右手で頭の後ろを掻きながら照れくさそうにそう答えた。

彼は少し視線を外してから、またみりんの方を見つめると、

みりん以外の三人へ素早く視線をやり、またみりんをまっすぐに見つめた。

 

「そんなに遠慮されなくても大丈夫ですよ。

 ここに来られる方のお悩みを解消するのが我々の役目ですし、

 例えどんな小さな事でも遠慮なく言ってくだされば大丈夫ですから」

 

みりんは相手の反応を見ながら緊張をほぐすように対応する。

誰かに悩みを相談するというのは中々に気恥ずかしいものだし、

ましてや赤の他人にいきなり打ち明けるなんてのはかなりレベルが高い。

だが、よろず屋で一番仕事をとってきているみりんなので、

その辺りの客人の繊細な感情などを汲み取るのは慣れていたのだ。

 

「そうそう、うちらはお金さえ払ってもらえればなんでもやりますから♡」

 

みりんの隣に腰掛けていた軍団長が満面の笑みでそう言った。

せっかく努力して場を和ませているのにも関わらず、

財政事情の厳しさを言葉の端々から露呈してしまう軍団長に、

みりんは正面の男を見つめたまま、表情も変えずにそっと軍団長の足を手でつねった。

 

「痛っ!」

 

「なんでもないなんでもない」

 

男は少し驚いたような顔をしていたのだが、

声を上げた軍団長を無視するように、みりんは作り笑いを浮かべる。

トト子は泣きそうな顔でシュンとしている軍団長を見て少し笑っていた。

 

「・・・いや、その、お悩みと言ってもですね」

 

男は少し申し訳なさそうな表情でそう言う。

みりんは身を乗り出しながらその声の続きを待った。

 

「大変恐縮なんですが、その、よろず屋さんへのお仕事の依頼ではなくてですね・・・」

 

男がそこまで言いかけた時、部屋のどこかからアラームの鳴る音が聞こえた。

それはどうやら隣の部屋から聞こえて来る音だったようで、

ハッと表情を変えたみりんが突然席を立って隣の部屋に駆け込んで行った。

 

残された四人はみりんが出て行った方向を見つめていたが、

やがて携帯を持って戻って来たみりんは「ごめんなさい、アルバイトの時間忘れてた!」

と焦るように言ってからまた部屋に戻って鞄を取りに行った。

 

「せっかく来ていただいたのにすいません。

 ちょっと今から用事がありますので、ご要件はこちらの三人が受けたわまります」

 

部屋から飛び出してきたみりんは、男にそう言って駆け足でよろず屋を出て行ってしまった。

その場に残されてしまった男は少し悲しそうな顔をして、みりんが出て行くのを見送っていった。

 

 

・・・

 

 

なんとか時間に間に合うようにしてアルバイト先にたどり着いたみりんは、

いつもどおり、ここ児玉坂将棋道場での仕事を開始した。

 

みりんが携わっているお仕事内容は、主として将棋道場へやってくるお客さんの受付対応、

お客さんが楽しむための将棋盤のセッテイングや片付けなどだった。

やらなければならない雑務は本当にたくさんあったのだが、

正直なところ、彼女がここで最も必要とされているのはお客さんの話相手だった。

最近では将棋は若い人達にも親しまれるようになってきていたが、

やはりここへやってくる客層はほとんどが年配の方々であり、

そういう人達は定年退職をすませた人であるために話し相手がいない。

趣味を満喫しながら寂しさを解消することもできる将棋道場は、

そういう人々にとっての憩いの場でもあり、みりんに求められる話し相手という役割も、

ここへやってくる人々にとっては欠かすことのできない楽しみを提供するものだったのだ。

 

みりんは昔から将棋に詳しかったわけではない。

だが、さゆみかん軍団を支えるためにアルバイトを探している時に、

偶然この将棋道場で雇ってもらえることになったのだ。

それからというもの、興味がなかったはずの将棋にも関心を抱くようになり、

仕事を続けているうちにメキメキと腕を上げていくようにもなっていた。

 

彼女は軍団員の中でも特殊なタイプである。

やりたくない仕事でもある程度我慢してやれる立派な大人だ。

人間には様々なタイプがある、やりたいことしかやりたくない人、

やりたくないことでもやれる人、何でもできる人、何もしたくない人・・・。

 

みりんは特にやりたくないと思っている事でも、

やらなければならないと思えば取り組む事ができるし、

次第にそれを心から好きになれるような性格をしていた。

先述したタイプ別の分析では、軍団員はやりたいことしかやりたくない人率が高い。

それは悪いことではない、自分がやりたいことへの奇妙なまでの情熱を持つというのは、

その方面においてとてつもない力を発揮することもあるからだ。

しかし、他の三人の弱点を補うという意味では軍団におけるみりんの存在はかなり重宝される。

だが、元をたどれば、彼女をスカウトした軍団長に見る目があったとも言えるのだが。

 

「みりんちゃん、何を作ってるんだい?」

 

受付の机でせっせと何かを作っているみりんを見たお客さんがそう尋ねる。

みりんが作っていたのは何やら手作りの説明書のようだった。

 

「あっ、これですか?

 これ、初心者の方のための指南書です。

 駒の動き方とか初歩的なところから理解する必要がある人達向けの簡単な資料なんです」

 

この将棋道場はもともと、老人達ばかりが集まる憩いの場だったが、

みりんがアルバイトに来てからというもの、もっと多くの人に将棋を知ってもらいたい気持ちが高まり、

彼女の提案で初心者への無料講座を開催することになったのだ。

それによって、今まで将棋にあまり興味のなかった若い人達も、

今ではその講座を楽しみにしてこの将棋道場へ足を運ぶことになっていた。

 

「恥ずかしいからあんまり見ないでください」と少し照れながらみりんは資料を手で隠した。

お客さんはそれでも気になってみりんの手をどけて資料をひょいと取り上げる。

とてもわかりやすく解説されているのを見て、お客さんもみりんの有能ぶりに関心するのだった。

 

「おーい、みりんちゃん、相手してよ!」

 

資料を見ながらお客さんと話をしていると、

向こう側から呼ぶお客さんの声が聞こえてきた。

対局の相手がいない時、そのお客さんと将棋を指すのもみりんの役目だった。

 

初めの頃、もちろんみりんはなかなか勝利することはできなかったのだが、

親切なお客さんに対局を通じて色々と教わったり、

アルバイトの時間以外にも将棋ドリルを行うなどの努力を繰り返したことで、

みりんは様々なテクニックやコツを身につけていったのだった。

それによって影響があったのは、将棋の腕前だけでなく、

彼女の思考力の拡大と、それがもたらす生き方だった。

 

彼女は今では、例えば人間を見ても駒に例えて考えることができるようになった。

様々な動き方をする駒に、生きている人間を重ねてみるということは、

実はとても抽象的な思考法を身につけているということになる。

その人間と駒の相似している部分を抽象的に抜き出して比較していることになり、

こういった考え方は、彼女の思考回路を拡大することに成功したのかもしれない。

だが、そもそも彼女がこういう思考ができるために将棋にのめり込んでいったのかもしれないし、

これは鶏が先か卵が先かの論争と言えるかもしれない。

 

「来たねー、中飛車!」

 

対局しているお客さんが声を張り上げた。

それを聞いていたみりんがにっこりと微笑む。

中飛車とはみりんの得意の戦術であり、

最強の駒と呼ばれる「飛車」を真ん中に置く戦法だった。

将棋では相手の「王」を追いつめなければならない。

相手の「王」を追いつめたほうが勝ちになるのだ。

その中で飛車は縦横無尽に動き回れる駒であり、

大胆かつ自由に将棋盤の上を飛び回れるのである。

ちなみに、このように中央から左半分へ大胆に飛車を動かす戦術を「振り飛車」とも呼ぶらしい。

 

その後、周囲のお客さん達が見守る中、

長考するでもなく、みりんはどんどんと駒を進めていく。

普段から将棋ドリルに取り組むことで、

こういう場合はどうする、という型がもう頭に入っていたのだ。

 

「王手です」

 

「あれっ、ちょっと今の待った!」

 

昔は勝てなかったお客さんに対しても、

みりんはこの頃では勝つことができるようになっていた。

そして、ニコニコと笑顔を絶やすことはないのだが、

それでいて容赦なく相手を打ち負かすのだった。

 

「待ったはダメですよ。

 すいません、私の勝ちですね」

 

周囲で二人の対局を見ていた野次馬達が「おおっ!」と歓声を上げる。

負けてしまったおじさんは恥ずかしそうに手で頭を掻いていた。

 

「みりんちゃん強くなったねー」

 

観客のおじさん達が成長した娘に対して接するように、

しみじみとそんな風に言うのだった。

 

「いやー、たまたまですよ」

 

みりんはあくまでも謙虚である。

本当は内心嬉しいのであるが。

 

「そんなことないよ、本当に強くなったよ。

 今じゃ立派な看板娘になっちまったもんなー。

 将棋指しに来てもみりんちゃんいないとなんか寂しいもんな」

 

おじさん達はそう言いながらヘラヘラと笑っている。

みりんはここではまるでみんなのアイドルになっているのだ。

 

「そんな風に言ってもらえると嬉しいです。

 私、褒められて伸びる子なんで」

 

さらっと述べる甘えアピールも嫌味じゃない。

有能はみりんは着実にこの将棋道場で自分の存在を確立していったのだった。

 

 

 

・・・

 

アルバイトの時間が終わるともう夜になっていた。

みりんは荷物を持って少し早足でよろず屋へと帰ってきた。

お客さんを置いて抜け出して来てしまったことが心配だったのだ。

あの三人で本当に大丈夫だったのだろうか・・・?

 

がらがらぴしゃりと戸を開けて建物の中に入ると、

もちろん予想していた通りあの男の人はもういなかった。

普通に考えてもお悩み相談は終わり、もう帰ってしまったであろう時間だったからだ。

 

悩み相談を受ける場所である部屋の中央の椅子には誰も座っておらず、

こんな時間なのでみんな奥にある部屋に引っ込んでしまったのだろうと思った。

もう季節は冬になっているのだし、こたつにでも入ってぬくぬくとしているのだろう。

 

そう考えながらみりんが奥の部屋に入ると、目に入ってきたのはこたつにうつぶせで眠っている軍団長だった。

顔を横に向けながら何やら幸せそうな夢を見ているようにむにゃむにゃと過ごしている。

昼寝もしていたはずなのに、こんな時間も寝ているなんて信じられなかった。

もはや現実逃避の極致に至り、夢の世界でお姫様にでもなっているのだろうかとみりんは思う。

 

同じこたつに入りながらトト子と蘭々はアニメを見ているようだった。

今シーズンのアニメは何やらかなり面白いらしくて二人して見逃さないようにチェックしていたようだ。

だが、アニメをあまり見ないみりんにはその情熱はさっぱり理解することができない。

みりんにとってはあのお客さんの結末が気になるところなのだ。

よろず屋の財政事情を一人で気にしているのも、なんだかバカバカしくもあるのだが。

 

「あっ、みりん、おかえりー」

 

蘭々が気づいたようでみりんの方を向いてそう声をかけた。

トト子も小さい声で「おかえりー」と言ったが顔はテレビの方を向いたままだ。

これは相当集中しているなと感づいたみりんは、とりあえずトト子に声をかけるのは遠慮した。

 

蘭々も同じようにアニメを観ていたのだが、みりんは思い切って話しかけようとした。

だが、「ごめん、いまいいところだからー」と言われてしまい、また無邪気にTVへ向き直った。

二人はテレビに観入ったまま動く様子もないので、みりんはもう昼間のことを尋ねるのはしばらく諦めることにした。

 

 

みりんはTVを観ている二人を邪魔しないように、

別の部屋に移って鞄の中から家計簿を取り出した。

ノートを開いてコツコツと一人で収支計算をしていく。

一応、今月は先月に引き受けたデパートの屋上でのミニライブの給料が入ってくる。

よろず屋として、屋上で何か客引きのパフォーマンスをして欲しいと依頼があり、

急ごしらえながら歌とダンスを覚えて四人で披露したのだったが、

実際にそれを観た人はほとんどいないので誰にも知られていない。

まあそれでも依頼をこなしたことになるので僅かな収入を得ることはできた。

だが、それからというもの、よろず屋にはまだ新しい仕事は獲得できていなかった。

このままで行くと来月以降のやりくりが大変だとみりんは頭を痛めていたのだ。

 

幸いにして、みりんの将棋道場と蘭々のピザ屋でのアルバイトがよろず屋を支えており、

来年まで何とかやっていけるほどの余裕はできていた。

だが、世間では年末のボーナスなどが支給されている中で、

よろず屋にはそんなことをしている余裕などはないのだとみりんは思っていた。

そんなことは露知らず、隣の部屋では幸せな夢を見て眠っている軍団長がいる。

 

みりんは家計簿をつけながらあの新しいお客さんの仕事を今後の収入と想定していた。

果たしてこの仕事の収入がどの程度なのかは定かではなかったが、

淡い希望を抱きながら少しでも良いニュースを想定したいのが彼女の心境だったのだ。

他の軍団員が休んでいる1日の終わりにも、みりんにはこうした仕事が待っていた。

 

そんな風に一人で机に向かっていると、どうやらアニメを見終わったのか、

トト子と蘭々がこちらの部屋にやってくるのがわかった。

トト子はまるで自由な猫のように両手を上にあげて伸びをしていた。

そして、「んにゃー」と言ってその伸びを終えてみりんの方へ目をやると、

次は何やらずっとニヤニヤと笑っているようだった。

なんだろう、よほど面白かったアニメの余韻が残っているのかなとみりんは思っていた。

 

一方の蘭々は「ごめんねー」と先ほどアニメに夢中になってしまったことを詫びながら、

まるで飼い主を見つけた犬みたいにコロコロとみりんの元へ駆け寄ってきた。

 

「あれ、みりん、これ何?」

 

そばに寄ってきた蘭々がみりんの手元にあるノートに気づいたようだった。

ノートを取り上げてペラペラとめくりながら中身を確認していく。

 

「これは我らがよろず屋の家計簿だよ」

 

みりんがそう教えてあげると、「えっ、すごーい」と棒読みでトト子が言った。

みりんにとっては彼女が本当にすごいと思っているのかわからなかったのだが、

何も言ってないのに「本当だよー」とまたもや棒読みで付け加えてきたところを見ると、

何も語らずして表情に出てしまっていたらしいと、みりんは少しドキッとした。

 

「えー、そうなのー、見ても全然わかんない」

 

蘭々がペラペラとページをめくり終えてそう言った。

事細かに記載している数字の意味などは、みりんだけが知っていることだったし、それでいいと思っていた。

財政事情に変な気を使わせないようにと思って、一人でこんな離れた場所で密かにつけているのだったし。

 

もうタイミング的に大丈夫かな、と思ったみりんは、

お昼の男の人の相談結果がどうだったのかを聞き出そうと思った。

「あのさぁ、お昼の男の人の、あれどうだった?」とみりんが尋ねると、

トト子と蘭々は少し顔を見合わせながら「ふふふっ」と笑いあった。

何がおかしいのかみりんにはさっぱりわからなかったのだが、

何か面白いことでもあったのかと続きが気になった。

 

「うーん、なんかちょっと違うみたいだったよ。

 よろず屋への相談じゃなかったみたい」

 

蘭々がそう言うと、みりんは少しがっかりした。

せっかく仕事が増えると思ったのに、ダメだったかという落胆が彼女を襲ったのだ。

 

「それで、そのまま帰っちゃったの?」

 

「帰っちゃったー」

 

トト子が無邪気にそう言い放った。

彼女にとっては別に何てことのない出来事なのだろうとみりんは思った。

だが、無邪気な一言がみりんのため息を誘発する。

無邪気な彼女たちに何を言っても仕方のないことなのだが、

時に家計のやりくりの大変さをわかってくれる人がいない孤独に、

みりんは疲労感を覚えずにはいられなかった。

 

「でもまたみりんちゃんには会いに来るかもー」

 

トト子がふわふわとした態度でそんなことを言った。

 

「えっ、なんで、どういう意味?」

 

「なんか、みりんちゃんのアルバイト先の事を聞いてたから」

 

自分のアルバイト先の事を調べるだけで帰って行ってしまったなんて、

みりんには何の事やらさっぱりわからなかった。

 

「それで、教えちゃったの?」

 

「えっ、ダメだったの?」

 

蘭々が驚いた様子でそう尋ねた。

勝手に教えてしまった罪悪感が芽生えてきたらしい。

 

「別にダメじゃないけど、なんなんだろうね?

 将棋に興味でもある人なのかな?」

 

みりんがフォローを入れると蘭々はホッと安心したようだった。

そこまで話をしていると、トト子はふわふわと蝶々のように、

またどこかへ飛び去ってしまったようだった。

 

「あっ!」と声を上げた蘭々の方を見ると、

何やら先程の家計簿の中身を指差していたようだった。

何だろうと覗いてみると、彼女が指差していたのは、

彼女が働いているピザ屋のアルバイトの収入について書かれていた部分だった。

 

「すごーい、こんな風に書かれてたのかぁ」

 

「蘭々も書いてみる?」

 

特に意味もなく勧めてみたのだが「ああっ、遠慮しておきます」と照れくさそうに静かにノートを置いた蘭々がいた。

私にはこんなもの、わからないし書けないから、とでも言うように。

 

 

 

・・・

 

その後、よろず屋には相変わらず仕事の依頼は来なくなった。

 

何の仕事をするでもないが、とりあえず四人はそれでも来客を待つ。

軍団長は「お腹すいたー」か「眠たいー」くらいしか言わず、

時々トト子に唐揚げとアイスを買ってくるように命じる。

トト子も「嫌です」や「ご自分で行ってください」などと抵抗するが、

軍団長も子供のように「えー、お願いお願い!」と駄々を捏ね始めるので、

みりんはそっとよろず屋のがま口をポチリと開けて幾らかのお金をトト子に手渡す。

トト子は仕方なくふわふわとよろず屋を出てコンビニへ向かう。

 

みりんと蘭々は玄関前の掃除を終えてから将棋を指し始めた。

二人ともアルバイトが始まる時間まで少し余裕があるのだ。

みりんは蘭々に駒の動かし方からレクチャーをしていくが、

将棋を知らない人にはこれでもなかなか難しいものだ。

「歩」は一歩ずつ前にしか進めないんだよ、

「飛車」は縦にも横にもどこまでも進めるんだよ、などと説明するが、

いざ将棋を指してみると本番では混乱してよくわからなくなってくるのである。

 

将棋が全くわからない人のためにみりんは道場でもよくレクチャーをする。

将棋とは様々な動き方が決まっている駒を動かしながら、

相手の駒と同じマスに止まれば、その相手の駒を自分のものにすることができる。

手に入れた駒は将棋盤のどこにでも自由に打ってまた動かすことができるし、

そういう取った取られたの攻防を繰り返しながら、相手の「王」を追いつめた方の勝ちである。

ちなみに「王」は縦横斜めならどこにでも一歩だけ動くことができる。

それほど派手に大きく動くことはできないので、多くの駒を使って動く道を封じてしまえばいい。

その最後一手を「王手」と呼び、相手の「王」をそうやって全く動かせなくしてしまえば勝利である。

 

みりんは初心者である蘭々の為にかなり優しくレクチャーをするのだが、

結局、将棋崩しやはさみ将棋の方に蘭々は興味を抱いたようだった。

これらは将棋駒を使った遊びだが、一般的な将棋とはルールが違う。

将棋崩しはジェンガのような物で、将棋盤の上に積まれた駒を一つずつ交互に取る。

音を立ててしまうと負けになる遊びである。

はさみ将棋は一般的な将棋のルールに似ているのだが、

駒の進み方に複雑なルールがなく、ただ相手を左右から自駒で挟めば相手の駒を取れるというシンプルなルールだ。

 

当初の目的は将棋のルールを教えることだったにもかかわらず、

みりんと蘭々は将棋崩しやはさみ将棋で遊ぶことになっていた。

みりんは少し残念にも思ったが、初心者が将棋に慣れるには、

こういった方法も有効であると割り切って考えていたようだ。

 

やがて玄関の戸が開いてトト子が帰ってきた。

その様子を見て、軍団長が嬉しそうに椅子から立ち上がる。

すぐさまトト子に駆け寄って買ってきた唐揚げとアイスをチェックした。

「あ~ん私のトト子素敵~♡」と軍団長はトト子のほっぺにキスをしようとしたが、

トト子はそれを器用に避けて「結構です」と手を前に出して拒絶したようだ。

 

「はい、みりんちゃんと蘭々の分も買ってきたよ~」

 

そう言いながらビニール袋を差し出すトト子。

優しい彼女は二人の分まで買って来てくれたのだが、

みりんにとっては余計な出費がかさんでいくのが心痛かった。

こうして軍団長が欲しいといえば、結局はみんなの分を買うことになる。

一人のわがままも全員分に連鎖していき、収支のバランスが改善することはない。

 

「あー、ありがとう・・・」

 

みりんはそんな出費の辛さを見せないように笑顔を繕って答える。

トト子が何やら将棋盤を覗き込んでいるので「トト子もやる?」と尋ねるみりん。

無言でブンブンと首を振りながらも、トト子は将棋盤の上の駒を手に取った。

 

「私、この駒が好き」とトト子は珍しく感情を込めて言った。

トト子が手に取った駒を覗き込んでみると、

それは「歩」の駒だったことがわかった。

 

「この歩が好きなの?」

 

「えー、違うよ、こっちだよ」

 

トト子はみりんの認識を訂正するようにそう言った。

どうやらトト子が気に入っていたのは「歩」の駒の裏側にある「と」のようだった。

 

将棋の駒には表面と裏面がある。

それぞれ駒の役割を示した文字が書かれているのだが、

実際に将棋を指す場合にはほとんどの場合が表面を使う。

まず、始めは当然のことながら表面を見せるように駒を置くのだ。

ではいつ裏面を使えるのかと言うと、相手の陣地まで駒を進めた時だ。

一番奥から手前の三マス目までを突破すると、駒を裏返してもよいことになる。

逆にいえば、相手の駒も自分の陣地内に近づいて来られれば、

駒を裏返されて使用されることになってしまう。

基本的には裏面の駒の方が強いので、つまり相手の陣地に入れば、

駒の能力がアップすると考えればわかりやすい。

 

「ねえ、それってもしかしてトト子の『と』だから?」

 

みりんが見透かしたように推量すると、トト子は笑顔のまま無言で頷いた。

こういう時のトト子の無邪気な笑顔は誰よりも可愛いのであるが、

「トト子かわいい♡」と言ってしまうと軍団長が拗ねるのでみりんはグッと堪える。

さゆみかん軍団の鉄則として「かわいい」は軍団長の為にある言葉なのである。

 

トト子はニコニコとした笑顔のまま、無邪気に「と」をどんどんと将棋盤の上に並べ始めた。

蘭々もそれに合わせて自分の駒を将棋盤の上に並べていった。

実際のところ「と」は「金」という文字の崩し字だと言われている。

だから厳密に言えばそれはトト子の「と」ではないのだが、

今のトト子に対してそんな野暮なことをいうつもりはなかった。

みりんは、もしかして二人がついに将棋に興味を抱き始めたかと思い、トト子の駒を並べるのを手伝い始めたのだった。

 

蘭々がすべての駒を並べ終えると、トト子もそれを見よう見まねで並べ始めたが、

「歩」と表面で配置しなければならないところ、すべてを「と」で配置していたのだった。

 

「あー違う違う、これは始めはこっちしか使えないから」

 

みりんはそう言ってトト子の「と」の駒をひっくり返して「歩」に戻す。

 

「えー、そうなのー?

 じゃあこれはいつから『と』になれるの?」

 

トト子が不思議そうに尋ねる。

 

「これはね、相手の陣地に近づいたら裏返してもいいの。

 『と』は『金』と同じ動き方ができる強い駒なんだよ」

 

「と」は強い駒なのか、という驚きの顔でトト子は「と」の駒の文字を見つめる。

その時、みりんは蘭々が一つ一つの駒の裏面を見つめては何かを探しているのに気がついた。

 

「蘭々どうしたの?」

 

「えっ、いや、私も『蘭』の駒がないかなーと思って」

 

そう言いながらやけに熱心に一つ一つを丹念に調べていく蘭々。

確かに「蘭」の駒があれば何となく豪華な駒だろうなとは思う。

とても華やかな文字なので、結構強い駒になるのではないだろうか。

だが、残念ながら将棋の駒に「蘭」の文字などはない。

 

二人の想像もつかない自由な発想に、みりんは二人が一向に将棋を指し始める様子を感じなかった。

トト子はやがてみりんが「歩」に並べ直した駒をまた裏返して「と」に変えていく。

 

「・・・もう飽きちゃった?」

 

みりんがそうトト子に尋ねると、また無言のまま笑顔でこくりと頷くトト子。

その様子はどうしても可愛いのだから、もうみりんは母の気持ちになって「そうだよねー」と許してしまう。

そうしてトト子はまたふわふわと何処かへ行ってしまったようだった。

 

「あっ、もうこんな時間」

 

みりんは携帯電話の時間を見ると、もう将棋道場へ向かわなければならない時間だと気付いた。

蘭々もそろそろピザ屋のバイトへ向かわなければいけないと支度を始めたようだ。

 

「じゃあ軍団長、バイトへ行ってきますね」

 

みりんは準備を済ませてよろず屋を出る前にそう声をかけた。

だが、椅子に座っていた軍団長からは何の返事もない。

おそらく、唐揚げとアイスを食べてまた眠ってしまったに違いなかった。

 

「・・・まったく」

 

やれやれ、この「蜜柑」という駒は前にも後ろにも横にも斜めにも動く事はない。

もはや諦めの境地に至り、みりんはよろず屋を出て行った。

 

 

 

・・・

 

また将棋道場へやってきたみりんだったが、

道場の中に入ると、すぐにオーナーから声をかけられた。

 

「ああ、みりんちゃん、来て早々ごめんね」

 

何だか困ったような様子で尋ねてくるオーナー。

みりんは何事かと不安な気持ちがよぎる。

 

「どうしたんですか?」

 

「いや、みりんちゃん、あの人知ってる?」

 

オーナーは直接指さすと失礼にあたるので、

見えないように体で指を隠しながら方向を指し示した。

みりんが指さされた方向に目をやると、

そこには将棋盤を前にしてスーツを着て座っている人が見えた。

とても端正な様子で背筋も伸びていてピシッとしている。

みりんは遠くからその顔を見て、この間よろず屋へやってきた男だとすぐにわかった。

 

「まあ、知ってると言えば知ってますし、

 知らないと言えばあまり知りませんけど・・・」

 

曖昧な答え方をしたみりんに、オーナーも不安げな表情を浮かべた。

こんな風に答えればそうなるよなと思いながらも、

みりんだってほとんど彼の事を知らないのが本音だったのだ。

 

「あの人、もう1時間くらい前からみりんちゃんを待ってたんだよ。

 知らない人って・・・もしかしてストーカーじゃないだろうね?」

 

オーナーは優秀なスタッフであるみりんが変な事件に巻き込まれないよう、

もし変な奴ならこっそり警察に通報しても構わないと気を使ってくれていた。

 

「まあ一応、もうその疑いは一度晴れてるはずなんですけど・・・」

 

オーナーはまた訝しげな表情になってしまったが、

みりんもこれ以上はうまく説明もできなかった。

そうしていると、彼はどうやらみりんがやってきた事に気付いたようで、

みりんの方へ顔を向けて少し照れた様子でにこりと微笑みかけた。

みりんもその様子を見て軽く会釈をするようにぺこりと頭を下げた。

 

 

・・・

 

 

「突然訪ねてしまってすみませんでした」

 

みりんは将棋盤を挟んで男と向き合って座っていた。

どういうわけかわからないが、自分を待っていたのだから、

礼儀として彼の座っている席へ顔を出す事にしたのだ。

 

「いえ、こちらこそこの間はすみませんでした。

 アルバイトがあったのでお悩み相談に乗れませんでしたから」

 

そう言ってから、みりんは彼がよろず屋に来たのがお悩み相談ではなかったと思い出した。

だが、そうでなければ一体なぜ彼がよろず屋へやってきたのかがよく分からなかった。

 

「私の名前は飛島大輔と言います」

 

男は特に怪しい様子もなく自己紹介としてまず名前を告げた。

聴いたところ特に違和感もない普通の名前だと思ったのだが、

その名前を聞いてよくよく漢字を連想すると、みりんはある事に気づいたのだった。

 

「・・・飛車が隠れてますよね、名前の中に」

 

「飛」島大「輔」の部分の事をみりんは指摘していた。

将棋盤を挟んで向かい合っているからこそ気付いた違和感だった。

 

「さすがですね、一発でわかるなんて」

 

男はまいったなぁとでも言うように右手で頭を掻いた。

どうやら照れている時に頭を掻くのが彼の癖らしい。

 

「うちのおじいさんがつけた名前なんですよ」

 

そんなことを言いながら、彼は右手で駒を幾つか握ると、

将棋盤の上に置いてから一つずつ並べ始めた。

 

「昨年亡くなりましたけど、将棋が好きでしてね。

 昔はよくこの将棋道場にも通っていたって聴いたことがあります」

 

淡々と話を続ける男に合わせて、みりんも何となく駒を並べ始めた。

将棋盤を挟んで座っていると、こうするのが礼儀だとでも言わんばかりに。

 

「・・・名前負けなんです」

 

「えっ?」

 

飛車の駒を指でつまんでいたみりんが手を止めた。

 

「なんで飛車なんて最強の駒の名前をおじいさんはつけたんでしょうね。

 実のところ、私はおじいさんみたいに将棋にそれほど興味もなかったし、

 今まで特に好んで将棋を練習してきたわけでもないんです」

 

男がそう言うのを聞いて、みりんは合点がいった気もした。

先ほどから駒を並べている動作だけでも、彼が慣れているのかどうかがわかる。

みりんは彼がそれほどスムーズに並べているとは思わなかったのだ。

初心者というわけでもないが、それほど腕のある棋士というわけでもない。

 

「もちろん、おじいさんはこの飛車みたいに強い駒になってほしかったんでしょう。

 縦横無尽に動けるこの駒みたいに、強い男になって欲しいと願いを込めた」

 

男は飛車を指ですくって見せて、そのまま駒の定位置に置いた。

 

「だけど、私なんてどちらかといえばこの『歩』の方が好きですよ。

 とても不器用な生き方しかできないだろうけど、一歩ずつ進むのが健気でいいじゃないですか」

 

一人でずっと熱っぽく語り続ける男に、みりんはうまく返事もできなかった。

「そうですね」なんて相槌も打てないし、「そんなこともないですよ」と否定するほど彼のことも知らない。

 

「一局、お願いできませんか?」

 

先ほどの話を打ち切って、彼はいきなりそう切り出した。

先に並べておいた「歩」を5枚ほど取り上げて手のひらでふり混ぜ、

将棋盤の上にじゃらりと無造作に落としたのだった。

これは「振り駒」と言って将棋の先行後攻を決めるやり方だ。

結果、表の「歩」が三枚、裏の「と」が二枚だったので、

この場合は振り駒を行った彼が先行をすることになった。

 

まだ対局を受けるとも答えていないにもかかわらず、

男はもう有無をいわせず対局を始めてしまったようだった。

男がまず先手として進めてきたのは真ん中の「歩」だった。

 

見たところそれほど腕の立つ棋士ではない彼が、

一体どんな手を使ってくるのか全く読めないかりんだったが、

とにかくどんな手を用いてきても自分のスタイルで勝負しようと思った。

常に将棋ドリルでコツコツとした努力を続けてきている彼女には、

派手さはなくともしっかりとした土台の強さがあった。

基礎となる人間力とでも言えば良いのだろうか、

人生を生きぬいていくだけの基本姿勢のようなもの、

社会人としての礼儀やマナーのようなもの、

何か揺るぎないベースが彼女の中に築かれている。

だから何が起きても動じずに冷静に対処することができるのだ。

 

彼女はいつも通り、中飛車の戦法を取り始めた。

振り飛車とも言うこの戦法は、縦横無尽に動ける飛車を、

まず中央にいる王の前に文字通り「振る」のである。

通常は自分から見て右手に位置している飛車を、

思いきって中央まで寄せてくる戦法だった。

王の前に飛車が陣取る事になり、中央突破のかなめになる。

最強の駒が中核になることで一気に攻めやすくなると言える。

 

もちろん、将棋の世界は奥深い。

戦法にはその戦法を崩す陣形などもあるので、

何が一番優れていると決めるのは難しかった。

だがとにかく、みりんはいつもの自分のスタイルで相手の出方を待った。

 

しかし、相手の駒の進め方にみりんは驚きを隠せなかった。

彼は先ほど進めてきた真ん中の「歩」をまた前に進めてきた。

みりんはバランスの悪い進め方をする相手の出方に戸惑うしかなかった。

ひょっとすると相手も中飛車を狙っているのだろうか?

進めてくる「歩」の後ろには「王」がいるので、

そこをガラ空きにしておくのは防御が甘すぎるのだ。

それとも他の駒を使って後で何かその隙間を埋めてくるのだろうか。

 

「・・・この駒って本当に一生懸命だと思いませんか?」

 

対局の最中、男はそんなことをつぶやいた。

彼が指しているのは先ほどから進めてくる「歩」についてだ。

 

「一歩ずつ健気に進んでいって、それがやがて『と』に成る。

 地味だけど、その駒の存在が決めてとなって勝負が決まることだってある」

 

「はぁ・・・」

 

みりんは何と答えたらいいのかわからずに男の言葉を聴いていた。

対局の最中に余計なことを話す余裕なんてあるのだろうか。

とにかく不気味すぎる駒の進め方に、みりんも心が落ち着かない。

だが、とにかくみりんは自分のやり方を着実に進めていった。

もう彼女の飛車は振られて中飛車のスタイルをとっていた。

 

次に男の順番になった時、みりんは相手の出方に戸惑って絶句した。

男は自分の「歩」をみりんの「歩」の前まで進めてきたのだ。

この状態では、次のみりんの順番になれば彼の「歩」は簡単に取ることができる。

つまり男はこの「歩」を捨て駒にしようとしているのだろうか?

だが、通常は捨て駒にするのであれば、その犠牲を超えるメリットがあるはずだ。

しかし見た所、男の「歩」を捨て駒にしてまで得るメリットは何も見つからないようだった。

つまりこのまま行けば、男の「歩」はただ無駄死にすることになってしまう。

 

今まで読んだどんな将棋ドリルにも載っていない無謀にも思える戦術に、

みりんはどう対処して良いのかわからなくなっていたのだが、

とにかく、どう考えても自分の「歩」で男の「歩」を取るべきなのだと思った。

それをするからと言って、みりんに何も不利なことは起こらないはずだ。

 

「・・・取らないで」

 

みりんが自分の「歩」に手をかけようとした時、

男はポツリと呟くような声を出してそう言った。

みりんが驚いて顔を上げて男の顔を見ると、

男は少し照れくさいような表情で口元が笑っていた。

 

みりんには大混乱が訪れていた。

そもそも「その一手は待った」と言ってやり直すことはあっても、

相手に対して「その駒は取らないで」なんてのはむちゃくちゃだ。

そんなことがまかり通れば勝負が成立しなくなる。

 

「取らないで」

 

男はまた念押しするように、今度ははっきりとした口調で言った。

しかし、この駒を取らなければ、次の男の番がやってきて、

今度はみりんの「歩」が取られてしまうではないか。

もちろん、みりんの「歩」の後ろには飛車が控えていた。

最強の駒の飛車が控えている限り、彼の「歩」はいつでも射程距離内だ。

 

よくわからないまま男の気合に押されてしまったみりんは、

ひとまず男の言う通りに彼の「歩」を取るのはよした。

だが、次に彼の順番が来ると、彼は何の躊躇もなく自分の「歩」でみりんの「歩」を取ったのだ。

そして彼はその「歩」をひっくり返して「と」に変えてまた配置した。

 

みりんはその容赦ないやり方に絶句した。

私には取らないでって懇願しておいて、自分は容赦なく駒を取る。

こんなめちゃくちゃがまかり通るわけがない。

みりんはそんなことをするのなら私だってと思い、

次は飛車に手をかけてその彼の「と」を取ってしまおうと思った。

そうでなければ、次はその「と」によって容赦なく飛車がやられてしまう。

最強の駒である飛車を失うことがどれほど不利になるかを思えば、

ここは躊躇している暇はないとみりんは思った。

 

「取らないで!」

 

みりんが飛車に手をかけようとした時、

男は強い口調でまたみりんにそう言った。

もうその手には乗せられてたまるものかと、

みりんはふと顔を上げて彼を睨み返そうとした。

だが、みりんが見た彼の表情には、何かとても必死で切実な、

この「と」を取ることを許さないような気迫がこもっていたのだった。

 

(・・・どういうこと・・・?)

 

みりんがどうすることもできずに手を止めていると、

まだみりんの順番であったはずなのに、

彼は勝手に自分の「と」を進めてみりんの飛車を取ってしまった。

 

もはやルール無視もいいところの彼のやり方に、

みりんはどうしてよいのかわからないで唖然としていたが、

気づいたら、彼の「と」はみりんの「王」の前に迫っており、

すでに王手の段階に差し迫ってきていた。

もちろん、王の周囲の「金」で彼の駒を排除することはたやすい。

だがそれは無論ルール上でのことだった。

そんなことが許されないことは、この対局を通じてみりんは理解していた。

彼はただ将棋を指したいだけではなかったのだろう。

彼のやり方には何か特別な意味があるに違いない。

そう解釈するしかみりんにはやり過ごす術がなかった。

 

そして、次の男の言葉はみりんには全く予期できなかったのだった。

 

「・・・これで君のハートに王手かな?」

 

 

 

・・・ 

 

 

「ねえ、みりん」

 

将棋盤を挟んで向こう側から呼びかける声が聞こえる。

だがみりんはどこか焦点の定まらない視線を宙に浮かべている。

 

「みりんってば!」

 

身を乗り出してきた蘭々に肩をポンポンと叩かれて、

みりんはようやく現実空間に意識が戻ってきたらしかった。

 

「次はみりんの番だよ」

 

ふと我にかえると、どうやら蘭々の順番は終わっていたらしい。

さっきからどうも長考をしていた様子だったので、

蘭々が将棋盤を見てうんうん唸っている間、

どうやらみりんは考え事をしてしまっていたようだった。

 

「ああ、ごめんごめん、聴いてなかった」

 

少しボーッとした表情のままでそう答えたみりんは、

とりあえず将棋盤に視線を落とし、次の手を考えようとした。

だが、先ほどまで考えていたはずの戦術を全く思い出せなかった。

 

「みりんってさ、いつもその駒をそこに置くよね」

 

急に話しかけられて、またみりんは視線を蘭々へ向けた。

蘭々がこちらの駒を指差しているのがわかった。

彼女の華奢で細い人差し指の先を追いかけていくと、

そこに指し示されていたのは「王」の前にある飛車だった。

 

「ああ、これは中飛車っていうやり方でね。

 なんかこの駒がここにあると安心するんだよね」

 

慣れ親しんだ戦術に、みりんはすでに安心感を感じるようになっていた。

誰もがそうだが、人は何かに固定されると安心感を感じる。

生活習慣や座席の位置など、日替わりというのは冒険心が高められるが、

どこか不安な気持ちを抱えて生きて行くことになり心労が増える。

多くの人は、やはり決まりきったやり方に安心を感じるものである。

 

「でも、確かにそこにその駒があるとなんか攻めづらいかも。

 王をしっかり守ってるって感じがするから」

 

毎日少しずつみりんに教わりながらアルバイトまでの時間を将棋に割いていると、

蘭々もちょっとは棋士の感覚がわかるようになってきていたのだった。

 

「なんか、飛車って騎士様って感じがするよね」

 

だが、ここからは蘭々のお得意の妄想トークが始まるのだった。

独特の視点から切り込んでいくその話し口調は、

おそらく彼女にしかできない危うさと面白さが秘められていた。

 

「だってどんなに遠くにいてもバーッて助けに来てくれるし、

 攻め込んでいくにも、この子が一番頼りになるかなって」

 

少しずつルールが飲み込めてきた嬉しさもあったのだろう。

蘭々は無邪気に楽しそうに持論を展開していった。

全然間違っていないし、飛車の役割を知ることは将棋にとってかなり大事だった。

攻守ともに万能な最強の駒である飛車を使いこなせるかどうかが、

将棋がうまくなるかどうかを左右するのは間違いない。

 

「・・・でも結構プレッシャーだよ?」

 

みりんはポツリとそんな言葉を持って返事とした。

「えっ?」っと蘭々は思わず聞き返した。

 

「それよりは『歩』とかの方が気楽かもしれないよ。

 一歩ずつ進んでいけば『と』になれることもあるし」

 

そう言いながらみりんは「歩」を一歩前に進めた。

次は蘭々の順番だよと右手を差し出して示した。

 

「うん、私はこの子も好きだよ。

 だけど、なんかこの子は儚いかなって思うけど」

 

そう言いながら自分の駒を動かしながら先ほどみりんが進めた「歩」を取った。

まさか取られると思っていなかったみりんは呆気にとられてしまった。

ついうっかり前に進めてしまったけれど、蘭々の駒の位置をよく見ていなかったのだった。

 

「だって一歩ずつ進んでいっても『と』になる前にこうしてとられちゃうかもしれないし、

 そうなると『あぁ!』ってなる、せっかくここまで頑張ったのにって」

 

蘭々がこんな持論を展開しながらも、

先ほど「歩」を取られたのはみりんの方だったので、

実際に儚い思いを体験したのはみりんだった。

 

「ふむふむ、なかなか深い話しをしておるな~」

 

そんなことを言いながら近づいてきたのは軍団長だった。

今日は朝から椅子に座って眠ることはなく、退屈だったのだろうか。

いつもは将棋を指していても興味を示さないはずなのに、

軍団長はトト子を引き連れて場を茶化しにきたらしい。

 

「軍団長は将棋わかるんですかぁ?」

 

一緒についてきたトト子が無邪気な質問を浴びせる。

「本当はわからないんじゃないですか?」という意味の裏返しだったのだろう。

 

「むー!かっちゅんだってちょっとくらいわかるよー!」

 

そう言って無理やり蘭々が座っていた席を奪った軍団長は、

「むむむっ!」と言いながら厳しい顔をしてみりんを凝視した。

そして、なにやらおもむろに余っていた駒を取り上げて、

将棋盤の上に「パチン!」と大きな音をさせるように打ちつけた。

 

「ショージキ、みりんちゃんはうちらに何か隠し事をしている」

 

いきなりそんなことを言い放った軍団長に呆気にとられながらも、

みりんは心の奥底で驚きを隠せずに動揺してしまった。

どう返答すべきか迷っていると、自分を置き去りにして会話は進んで行く。

 

「軍団長、それって昨日のTVでやってたやつですよね?

 児玉坂46のメンバーが出てたコダマビンゴの」

 

蘭々が嬉しそうにそう告げると「あー、バレた?」とニヤニヤ笑いながら軍団長は右手で頭の後ろを掻いた。

どうやらみりんがいない間に三人で観た昨夜のTVの影響らしかった。

 

「・・・いいえ」

 

実はみりんも児玉坂46が大好きだった。

児玉坂一の児玉坂ヲタクを自称するくらい好きだったのだ。

だからその番組も、もちろん過去に観たことがあったし、

その軍団長の一言に対してどう返答すべきかもわかっていたのだ。

先ほどは驚きのあまり声も出なかったのだけれど。

 

「そうそう!昨日のやつめっちゃおもしろかってん!

 録画してあるからまたみりんちゃんも観てなー!」

 

ヘラヘラと笑いながら軍団長はそんなことを言ってきた。

みりんには確かに言うに言えない事情が多々あった。

よろず屋の家賃の滞納、日々の家計のやりくり、軍団員の将来のこと、

様々な苦労を一人で抱えているのだから時に少し重荷にも感じる。

 

そんなことを考えていると、いつの間にかトト子が後ろに立っていて、

くくっているポニーテールの髪の毛を両手でサラサラと撫でてくる。

どうやら手触りが気持ち良いらしく、それ以外には特に深い意味はないようだが。

 

「あれっ、駒が違う」

 

ポニーテールを撫でる手の動きを止めてトト子がそう言った。

どうやら目に留まったのはみりんのヘアゴムについていた将棋の駒らしい。

 

「いつもはあれなのに」

 

そう言いながら将棋盤の上に乗っていた「香車」の駒を指差した。

ちなみに、軍団員の中ではこのヘアゴムこそがみりんちゃん本体だという説があり、

本当のみりんは実は操り人形にすぎない、ヘアゴムを取り上げれば、

みりんの力は半減するなど、色々な妄想話のネタになっているという。

 

「ああ、もうこんな時間だ」

 

そう言いながらスックと立ち上がったみりんは、そばに置いてあった鞄を急いで取った。

 

「バイトの時間だからもう行くね、また夜に時間があれば」

 

教えている途中だった蘭々にそう告げると、

みりんは駆け足でよろず屋を走り去っていった。

 

 

・・・

 

 

 

将棋道場に到着したみりんは、またもやオーナーに呼びかけられた。

「今日もあの人が来ているよ」というのがこの頃の決まり文句になっていた。

 

みりんが道場の受付に立つと、飛島大輔は彼女に視線を向けて会釈をした。

みりんも軽く会釈を返したが、それ以上はもう視線を向けることはなかった。

飛島大輔は道場内の参加者と一緒に将棋を指しているようだった。

 

みりんは次の初心者講座用の資料作成を始めたのだが、

途中でぼんやりと考え事をしてしまって作業がはかどらない。

いつも考えてしまうのは、飛島大輔と指したあの一局のことだった。

 

 

・・・

 

 

「これで君のハートに王手かな?」と言い放った飛島大輔は、

すぐさまスーツの内ポケットに手を突っ込んでなにやら紙切れを二枚取り出した。

 

「一緒に行ってくれませんか?」

 

永久に自分の順番ばかりを繰り返す飛島大輔は、

王手をかけている状態にもかかわらずまだ話しを続けてきた。

みりんは勢いに押されてその差し出された紙切れを受け取った。

それはどうやら児玉坂ランドで開催されている冬季限定のアトラクションのチケットで、

今、大人気となっているツンデレラ姫が登場するというものだった。

そして、どういう理由で彼がこのチケットを持っているのかわからなかったが、

このアトラクションは今みりんが最も見に行きたいものだったのだ。

 

 

・・・

 

「みりんちゃーん」

 

ハッと気づくと誰かに呼ばれているのに気がついた。

辺りを見回すと、呼んでいたのは道場内で対局しているお客さんだった。

 

「対局終わったよ、次のお願いね」

 

「あっ、はい!」

 

どうやら先ほどみりんが手配した対局は終了していたらしく、

お客さん達は次の対局の組み合わせをみりんに要求していたようだ。

 

「すいません、お待たせしました、えーっと」

 

みりんは対局が終わった将棋盤を見ながら記録をつけていく。

それによって次の対戦相手を選んでいく基準になるからだ。

 

「みりんちゃん、なんか変わった服だね」

 

みりんが記録をつけている間、お客さんは話しかけてくる。

みりんはお客さんの相手をしながらも仕事も進めていく。

 

「あっ、これですかー?

 これはハグブラウスって言うんです。

 数年前に流行したブラウスなんですけど、

 後ろからハグされてる気分になれるんですよ」

 

そう言いながらみりんは着ているブラウスの襟の部分を触ってみせた。

このブラウスは襟の部分が手のようなデザインになっており、

見たところまるで後ろからハグをされているように見えるのだ。

みりんはそういう遊び心のあるファッションが好きだった。

 

「みりんちゃん、寂しいの?

 誰かにハグしてもらうの待ってるのかい?」

 

お客さんにとって待ち時間にみりんと話をするのもここの楽しみの一つだった。

こんなことを言いながらも、実は寂しいのはここにくるお客さん達である。

みりんに話相手になってもらうことが嬉しくてたまらないのだ。

 

「いえいえ、私別にそういうの求めてないですから。

 こんな服だけを見て可哀想とか言わないでくださいね。

 それより、この刺繍見てください、爪のところ、ネイルみたいにしてるんですよ」

 

みりんは自分で服に刺繍を加えてアレンジしている部分を強調して見せた。

お客さんが覗き込んで爪のところが上手く縫われているのを見て笑った。

「みりんちゃんはいい奥さんになれるよー」なんて言いながら。

 

みりんが次の対局の組み合わせを決めてお客さんに告げると、

「ありがとう」と言われてもうその客はまた次の対局の準備を始めた。

 

また受付へ戻る時、みりんは飛島大輔の横を通り抜けることを意識した。

案の定、飛島大輔は通りかかったみりんに対して視線を向けたのだが、

彼の存在を強く意識したみりんは、彼の視線に無視を決め込んでいたのだった。

 

 

・・・

 

 

「この一手、待ってください」

 

そう言いながらみりんはツンデレラ姫のチケットを丁重に差し出した。

飛島大輔は少しがっかりしたような表情を浮かべて黙っていた。

差し出されたチケットを受け取る様子もないようだった。

 

「私はずっと忙しいので、おそらくご一緒することはできそうもありませんし」

 

飛島大輔は彼女が断る理由がよくわからないようだった。

おそらく彼なりに事前にリサーチをしていたのだろう。

みりんが今一番見たいはずのプレミアチケットをなんとか手にいれてきたのだ。

例え自分の事をそんなに好きではなかったとしても、

このチケットには抗いがたい魅力を感じているはずなのに。

 

「・・・少し強引すぎましたか?」

 

飛島大輔はやっと観念したのか差し返されたチケットを受け取りながらそう言った。

確かに、彼は「歩」の方が好きだと言いながらも、やはりそのスピード感は飛車に違いなかった。

よろず屋までやってきたのも、悩み事の相談があるふりをしたのも、

ただみりんと話しがしたい為の口実だったのだろうと思われた。

いきなりやってきて、強引に攻めてくるスタイルに、みりんは戸惑いもあっただろう。

 

飛島大輔のその言葉に、何も返事をすることがないまま、

「お仕事がありますので失礼します」と言ってみりんは席を立ったのだった。

 

 

 

・・・

 

それからも将棋道場に度々やってくるようになった飛島大輔を、

みりんは基本的に無視することに決め込んでいた。

好意を持たれていたことは嫌なことではなかったのだが、

そのやり方があまりに急すぎたのと、色々な心の整理がついていなかったのもあり、

沈着冷静なみりんは「待った」をかけることになったのだった。

 

客としてお金を払ってやってくる飛島大輔を完全に無視することはできず、

受付業務や呼びつけられた際には応対することはあった。

だが、みりんはそれ以上に親しくなろうとはしなかったのだ。

必要以上に視線を交錯させることもせず、バイトが終われば淡々と帰った。

この日もそんな風にしていつも通り彼との関係は曖昧なままでやり過ごしていたのだった。

 

ちょうど給料日だったこともあり、みりんは将棋道場の帰り道にコンビニに立ち寄った。

今年は少し寒くなるのが早いのか、まだ冬の初めだというのに随分と肌寒かった。

みりんはいつもは我慢するところを、この日は暖かい飲み物を買うことに決めた。

これが給料日に許されるプチ贅沢だったのだ。

 

軍団長に隠し事をしていると言われれば確かにそうで、

財政を一手に引き受けている以上、これは特権乱用かもしれなかった。

だが、申し訳ないがよろず屋で一番働いているのは自分だったし、

これくらいの事は許されても構わないだろうという意識もあった。

本当の事を言えば美味しそうなゼリーだって買いたいのだが、

それを買うとすれば、さすがに他の軍団員の分も買ってあげたくなる。

それは余計な出費を増やす事になってしまうので憚られた。

 

レジに飲み物を持って行ってがま口の財布を取り出して代金を払う。

その時、ついでに鞄の中身を確認することになり、みりんはどうもおかしいと思ったのだった。

給料日だという事もあり、特別意識を向けていた事もあったのだろう。

出費の項目が多い中で、収入の欄を埋められるのはみりんにとって至福の瞬間だったのだ。

だから思わず家計簿の存在を意識してしまったのであるが、

どうやらその家計簿が鞄の中に入っていない事に気がついて少し焦った。

道場で鞄の中身にはほとんど触れていないので、おそらくよろず屋に忘れてしまったかと思った。

 

「ありがとうございましたー」という店員の声が店内に響き、

みりんは缶を両手で持つと、ホットの缶はホカホカで、やっと凍えていた手に温もりを取り戻せた。

そのままコンビニの自動ドアを通り抜けて帰り道にその飲み物を飲んだ。

 

よろず屋に入る前には飲み物は随分と減ってしまったのだが、

まだ少し残っている分を飲み干してから帰ろうと思った。

そして近くの自販機のそばにある空き缶入れに捨てて帰らなければ、

一人だけプチ贅沢をした事が軍団員にばれてしまう。

 

みりんは最後の幸福をぐいっと飲み干した後「ふぅー」っとため息をついた。

吐く息が白い煙となって冬の暗い空に吸い込まれて消えていくのが見えた。

みりんは空になった缶を手に持ったまま、空き缶入れのそばへゆるゆると歩みを進めていった。

 

「う~ら~め~し~や~」

 

突然背後から声が発せられるのを聞いたみりんはビクッとなって「わっわっ!」と声を出した。

そのまま少し前へ屈みながら逃げて後ろを振り返ると、そこには幽霊のポーズをした軍団長が立っていた。

両手をだらりと下へ垂らして手の甲を相手に見せるお決まりの幽霊ポーズだ。

 

「ちょっと軍団長!脅かさないでくださいよ!」

 

「う~ら~め~し~や~」と軍団長である勝村さゆみは繰り返す。

視線はチラチラとみりんの手に持っている空き缶へ注がれていた。

そのままひょいと片手で空き缶を取り上げると、缶を掲げて舌を出した。

缶を振って残りの水滴を飲もうとしたのだろうが、もう中には一滴も残っていなかった。

 

「う~ら~め~し~や~」

 

次は涙声になりながら軍団長がそう言った。

顔は子供が泣いた時のような表情をしている。

言葉は一つしか喋れない設定を守っているらしかった。

感情たっぷりに話しかけてくるので何を言いたいのかはみりんにもよくわかった。

 

勝村さゆみは軍団を結成する前にはフードファイターとして生活をしていたらしい。

とにかくたくさん食べることが好きだった彼女は、それを天職と呼んでいたらしいが、

あまりに食べると太るという当たり前の事実に苦しめられた彼女は、

泣く泣くその天職を捨てて新しい仕事を探すことにしたらしい。

そして軍団を結成して、今はよろず屋を開業することになったのだが、

前職と比べると食べる量が減ってしまっていることにかなりご不満らしかった。

「ご飯なかったら生きてる意味がない」とまで言い切ったこともあったが、

「財政状況は厳しいですよ」と口が酸っぱくなるほどみりんが言って聞かせているので、

どうやらシュンとしながらも食事制限を行っているのだった。

そこでみりんだけ何やら贅沢をしている様子を目撃してしまったので、

軍団長は不満を爆発させて幽霊になってしまったというわけなのである。

 

「・・・いや、まあ私が一番稼いでますからね」

 

みりんはバレてしまった状況を開き直りながらそう言った。

後ろめたさも若干あったが、これは極めて正論だと思っていた。

理がある話には、みりんは堂々として返答をするのだ。

 

「う~、う~」

 

下を向いて何やら唸り始めた目の前の幽霊は、

さすがに怒らせてしまったかなとみりんは思ったのだが。

 

「う~、う~、う~ら~め~し~や~!」

 

次は大声をあげて泣きながら幽霊はしょぼくれて建物の中へと戻っていった。

まったく、これ以上化けて出られても困るので、今後はもっとひっそりとやらねばとみりんは心に誓った。

 

 

 

・・・

 

幽霊を追いかけてよろず屋の建物へと入ったみりんは、

泣いていた幽霊の頭を撫でて慰めているトト子が目に入った。

トト子はそれほど食欲があるわけではないので、

きっとこの幽霊の気持ちはわからなかっただろうけれど。

 

正直な所、幽霊の気持ちが一番わかるのはみりんだった。

みりんも密かに大飯食らいだったので、現状の節約生活のひもじさは身にしみてわかっている。

椅子に座って何やら作業をしている蘭々も目に飛び込んできた。

思えば彼女なんてあんなにやせ細ってしまって・・・と思ったが、

彼女が細いのは元々だったと思い直して気を確かに保とうと思った。

貧しさに負けて冷静さを失ってはいけなかった。

 

仕事の疲れが残ったまま、帰宅したみりんはとりあえず蘭々の向かいの椅子に座った。

テーブルに向かって何をしているのかも気になったので覗いてみたかったのだ。

椅子に座ってテーブルの上を眺めると、みりんはとても驚いた。

蘭々が熱心に眺めていたのは先日見せた事のあったよろず屋の家計簿だったからだ。

 

「あれ、これどこにあったの?」

 

みりんは帰り道に見つからなかった家計簿をどこに置き忘れたのか気になって尋ねる。

 

「あっ、今朝ちょっと気になって見てたら返すの忘れちゃって・・・」

 

そう言って蘭々は少しあわあわしながら申し訳なさそうに家計簿を両手で差し出した。

みりんがそれを受け取って中身を見ながら本日分の記載を始めた。

 

「ねえ、これどういう意味?」

 

横から蘭々が覗き込んできて記載の一部分を指で示した。

 

「これがね、今月の私の給料だよ」

 

そう言いながらみりんは入ったばかりの給料の数字を書き込む。

 

「じゃあこれは?」

 

蘭々がまた覗き込みながら記載されている数字の意味を尋ねてきた。

そんな質問がずっと浴びせられていき、みりんは何だか奇妙な気持ちになっていた。

 

「蘭々どうしたの?家計簿なんかに興味あるの?」

 

「えっ、うん、もしこういうの書けたらかっこいいなーって前から思ってたよ。

 でも難しそうだからできないかなって思ってたんだけど・・・」

 

少しモジモジしながらも、蘭々は何だか嬉しそうに笑っていた。

 

「なんかみりんが教えてくれるならできそうかなって」

 

何がどうしてこうなったのやらわからないが、そんな蘭々の言葉を聞いて、

みりんの母性愛が刺激されて涙腺が緩んだのは間違いなかった。

アルバイトに行く前、遊び半分にでも将棋をレクチャーした甲斐があったのだろうか、

何やら彼女の自発性を引き出す事ができたのか、あれやこれや・・・。

 

みりんはちょっと心が震えるのを表に出さないように努めながら、

「じゃあ簡単な所からいくね」と言って家計簿の記載のやり方を説明し始めた。

蘭々はいつになく真剣な表情で話しを聞きながらメモを取っていた。

 

「みりんちゃん、ちょっと」

 

上着の裾を引っ張られて後ろを振り向くと、そこにはトト子が立っていた。

 

「どうしたのトト子?」

 

「この駒ってどうやって動くの?」

 

トト子は右手の親指と人差し指で「銀」の駒をつまんで見せていた。

 

「銀はね、横と後ろ以外は一歩ずつならどこでも動けるよ」

 

「横と後ろ以外?」

 

確かにこの駒は「歩」や「飛車」よりも動きが覚えにくかった。

まあでも教えてもすぐに飽きてしまうのだからとみりんはそれ以上何も言わないでおこうかと思ったのだが。

 

「ちょっとトト子、みりんちゃん味方につけんのずるい~!」

 

後ろから叫んだのは先ほどまで恨めしそうにしていた幽霊の軍団長だった。

みりんが振り向いた時、二人はどうやら将棋を指しているらしかった。

 

「だって軍団長がこの駒をさっき後ろに動かしたじゃないですか」

 

トト子はどうやら軍団長の駒の動かし方に違和感を覚えて質問に来たらしい。

自ら疑問を抱いて解決しようという姿勢にみりんは多少感動したが、

それよりもどうして二人が将棋を指しているのかの方が気になった。

 

「こんな渋い名前をしてる駒やから、そら後ろにくらい動けるに決まってるやんかー」

 

軍団長は意味のわからないことを言って正当化を図ったが、

みりんにルールを確認したトト子は、もはやそれが嘘であることはわかっていた。

トト子は黙って向こうの部屋に行ってからすぐに戻ってきた。

手には何やらペンのような物を握っているようだった。

 

「軍団長、嘘ついたから罰ゲームです」

 

トト子はそう言いながら笑顔で軍団長にペンを渡す。

みりんが見た所、それは以前遊びで使ったビリビリペンだった。

ペンをノックすると、電流が走る仕組みのやつだ。

 

「あうーっ!!」

 

ペンを投げ出すようにして床に倒れこんだ軍団長がいて、

それを見て楽しそうに笑っているトト子がそこにいた。

 

「・・・もうー!みりんちゃんが正解を教えるから悪いんやんかー!」

 

床に倒れて転がりながら軍団長はまだそんなことを言っていた。

 

「さあ軍団長、続きをやりましょう」

 

そう言って冷静なトト子はまた軍団長を将棋盤の前に連れて行った。

今日はどういうわけか、二人がやけに将棋に取り組んでいる。

いつもならすぐに飽きて投げ出してしまうはずなのに。

 

「ねえみりん、ここはどうするの?」

 

蘭々が家計簿の説明の続きを聞きたがった。

どういうわけか、今日はやけに引っ張りだこになっている。

蘭々のそばに体を寄せて家計簿の説明を再開すると、

蘭々は何やら目配せをしてきたように思えた。

 

「ん?どうしたの?」

 

みりんがそう言うと、蘭々は嬉しそうにはにかみながら、

みりんの耳のそばに口を近づけて密かにつぶやいた。

 

「・・・トト子がみりんのアルバイトのお手伝いがしたいんだって」

 

「えっ?」

 

みりんがそれを聞いて後ろを振り向くと、

トト子が「パチリ」と駒を打ち付けて「王手」とつぶやいた。

なんだかいつも通りの棒読みな王手ではあったが、

あのトト子が将棋を覚え始めているのにみりんは感動を隠しきれない。

 

「えーっ!ちょっとそんなんアカンわ~!」

 

「軍団長、待ったはなしですよ」

 

みりんの瞳が潤いを帯びて溢れそうになってきて、

さらにいつものトト子よりも二倍も三倍も頼もしく見えてきた。

 

「あー、これで私も家計簿をつけられるかなー?」

 

また蘭々の方を振り返ると、蘭々は自分で書いたメモを見ながら何度も復習して微笑んでいるようだった。

どういうわけかわからないが、おそらく蘭々もトト子と同じように自分を助けようとしてくれているに違いなかった。

 

「だって、みりんだけが捨て駒になる必要なんてないもんね」

 

蘭々がそう言って微笑みかけてくれた時、以前教えた捨て駒の意味までちゃんと理解してくれていて、

日々コツコツとレクチャーを続けていたことはやはり無駄ではなかったと、

みりんは成人した娘達を見るような親心を若くして既に理解してしまったかと思った。

 

しかし、それにしても今日は物事がうまくいきすぎている。

これは明日は雨でも降るんじゃないかと、みりんは心配になって携帯電話で天気予報を調べてみた。

 

「あっ、やっぱり」

 

みりんが見た天気予報には「雨のち雷」と表記されていた。

 

「こりゃあ明日はやばいなー」

 

「えっ、みりん、これ今日の天気予報だよ」

 

蘭々に指摘されて「あれ、そっか」とみりんは日付を明日に合わせてみた。

どうやら明日の天気は快晴のようで雨が降る気配もないようだった。

 

「明日は晴れか、じゃあ大丈夫なのかな?」

 

みりんは余計な杞憂だったかと思ったが。

 

「でも、今日の天気予報も当たってない気がするけど・・・。

 外は全然雨なんか降ってないし、雷だって鳴ってないし」

 

蘭々が首を傾げながらそう言った。

まあ天気予報も外れることはあるしなとみりんはその程度に解釈して深く考えるのはやめた。

 

「ねえみりんちゃん、この駒はどう動くの?」

 

トト子がまたもや質問にやってきた。

今度は「角」を持ってきたらしい。

 

「ああ、これは斜めだったらどこまでもいけるよ」

 

「前は?」

 

「前はムリだよ」

 

みりんがそう教えると、トト子は満足げに帰っていく。

 

「軍団長、前はムリだって言ってますよ」

 

トト子はみりんに確かめたルールをもって軍団長を正すのだが。

 

「だって相撲って角力とも書けるやんか~!

 だから角は突っ張りで前に行けるに決まってるの!」

 

さすが軍団長、頭がいいのやら悪いのやらわからないギリギリのラインをついてくる。

それにしても、どうやら二人の雲行きが怪しくなってきたなとみりんと蘭々は思っていたが、

正しいルールを盾にして、トト子は容赦なくまたビリビリペンを軍団長に渡す。

 

「軍団長、罰ゲームです」

 

「あうぁー!」

 

ビリビリと痺れた電気に打たれ、軍団長はまたもや床に沈み込んだ。

その目尻からは水滴がこぼれ落ちたように見えたのだが、

これでは「雨のち雷」ではなく「雷のち雨」だなとみりんは思った。

 

「天気予報も外れることはあるよねー」

 

蘭々が無邪気にそう言って「ああそうだね」とみりんは返事をしておいた。

 

 

 

・・・

 

あの日からというもの、蘭々はみりんの代わりに家計簿をつけてくれるようになった。

もちろん、初めの頃は横でみりんが確認しながら記載していたのだが、

そのうち慣れてくると、もう彼女一人に任せてもほぼ問題はなくなった。

 

トト子はあれから将棋を少しずつ勉強し始めた。

無論、みりんと対局すると初心者そのものなので相手にならず、

みりん自身のトレーニングにはコンピューター相手に対局をすることになったが、

どうやらきちんと駒の動きは覚えていったようで、以前蘭々に教えた「捨て駒」の意味もちゃんとわかっていたようだ。

 

やがて「将棋道場を見学したい」とトト子がいい始めたが、

だからと言って翌日に雨が降ったりすることもなく、二人して将棋道場へ見学に出たこともあった。

みりんが普段どんな風に仕事をしているのかを見て学び「これなら私もできそう」とまでトト子は言い切った。

 

頼もしい娘たちの成長っぷりに、みりんは嬉しい気持ちと寂しい気持ちが同居していくのを感じた。

今まで自分が彼女たちのために自己犠牲を強いられてきたような思いもしていたが、

それが自分のポジションを担保していてくれたという事実にも直面した。

あまりに彼女たちが頼もしくなってしまうと、次は自分が何をしたら良いのかわからなくなってきた。

おそらく子供を一人前に育て上げた母親もこんな気持ちになるのかもしれないと思った。

子供達が家を出て行った後は、ペットを飼うなり、新しい趣味を始めるなりして、

そのぽっかりと空いた時間と寂しさを埋め合わせることになっていくのだ。

そうしてまた、人は役割という新しいポジションを探していかねばならない。

 

そんな心境に至った後、やがて見える景色が変わり始めたことに驚いた。

人は時にこうした立場の変化や状況の変化によって、

今までの自分では考えられなかったような感情に直面することがある。

好きではなかった食べ物が好きになってきたり、

興味のなかった物事に突然興味が湧いてきたりもする。

今まで何かに抑圧されていた視点がパッと明るく開けていくことで、

いままで自分の中で縛られていた規律や常識が音もなくほどけていくのを知るのである。

 

それはみりんにとっては飛島大輔だった。

 

彼は相変わらず将棋道場へ決まった日に顔を出していた。

だが、みりんは今までは彼の存在を冷たくあしらっていた。

しかし、彼が来ない日にはかすかに寂しく感じることもあり、

だけれども彼がやって来た後は、またいつもの冷たいあしらいに戻る。

 

こんなことの繰り返しだったにもかかわらず、

飛島大輔はめげずにずっと将棋道場へ足を運び続けた。

そういう彼の誠意に打たれたものとみりんは思っていたのだが、

実際のところ、それはトト子と蘭々のおかげかもしれなかった。

彼女たちの面倒を見るという役割を失ったことで、

自分がいる存在理由を埋める必要が発生し、

そこにすっぽりと収まるのが飛島大輔なのかもしれなかった。

 

そんな揺れる思いを抱えながらの帰り道、

みりんはまたふとコンビニに立ち寄りたくなった。

外の冷たい風に吹かれるのを避けて暖をとるためと考えたが、

雑誌などを立ち読みしていると、暖かい飲み物を買っている人が目に入る。

「すこしぐらいなら」という考えが頭をよぎってから、

みりんはグッと歯をくいしばるようにして雑誌を置いてコンビニを出た。

トト子と蘭々が頼もしくなってくれて、少しくらい気が緩んでいるからといって、

そんなことで贅沢をしてはいけないと思った。

またあの幽霊に会いたくなかったのもあるし。

 

そうして暖かい飲み物も我慢し、寒い手をこすりながらみりんはよろず屋へ帰ってきた。

建物の中に入ると、ストーブが付いているのでやっとマフラーが外せた。

ぐるぐると首からマフラーを巻き取りながら、みりんはトト子が何やら準備をしているのを見つけた。

 

「あっ、みりんちゃん」

 

そう言いながらトト子は部屋の中央に置いてある椅子を隅に片付けながら、

その空いたスペースに空のみかん箱を置いていた。

 

「どうしたのトト子、これ何?」

 

みりんが手袋を外しながら尋ねた。

 

「なんか軍団長から大切なお知らせがあるらしいですよ」

 

「大切なお知らせ?」

 

一体何事だろうとみりんは思った。

何かまたとんでもないことを思いついたのだろうか。

 

そんなことを考えていると、玄関からがらがらぴしゃりと音がした。

振り返ると軍団長が入ってきて「あかん、寒い、死ぬー」とトト子に抱きついて暖をとった。

トト子はもちろん嫌そうな顔をして引きはがそうとする。

 

続いて奥の部屋から蘭々が出てきた。

その手にはどこから手に入れたのかカラオケマイクのような物を持っていた。

先端に赤いスポンジが被せられていてなんだか昭和を連想させるやつだ。

見ようによってはガラクタにも思える代物だった。

 

軍団長はしばらくストーブに手をかざして凍える体を温めていたが、

やがてコートを脱いで蘭々からマイクを受け取ってみかん箱に登った。

軍団員たちは一応、彼女の前に整列するというルールがある。

 

「あー、あー、この度はお忙しい所をお集まりいただきましてどうもありがとう」

 

マイクのチェックをするような仕草を見せたが、

このマイクはおもちゃのようで実際に声は拡大されてはいない。

ただ形式にこだわって準備された物だったのだろう。

みりんからすれば不要な出費であることは明白だった。

 

「今年も寒い冬がやってきましたが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?」

 

いつも一緒にいるじゃん、と三人は思った。

それぞれの家族よりも長い時間を毎日一緒に過ごしているじゃないか。

 

「寒い日にはやっぱり、内側から体を温めるのが基本ですよね。

 寒いからって何枚も上着を羽織ったところで、内側から温めないと意味がありませんよね」

 

一体何の事を言っているのか三人にはさっぱりわからない。

前説が長すぎるのだろうか、早く本題に入って欲しいと思った。

ただでさえ突っ立っているのは寒いのだったし。

 

「そこで温めるには懐からという事で、軍団員の皆さんに良いお知らせがあります!」

 

とうとう本題に入ったと思い、三人は集中力を耳に預けて軍団長の言葉を待った。

 

「なんと日頃から頑張っている軍団員の皆様に冬のボーナスを支給しちゃいま~す♡」

 

「ふところあったかバンザーイ!」と両手を挙げて満面の笑みで叫ぶ軍団長をよそに、

みりんの堪忍袋の緒は切れそうになっていた。

よろず屋の財政事情を考えると、今はボーナス支給どころではないのに。

 

「ふところあったかバンザーイ!」とトト子と蘭々も一応呼応する形をとったらしい。

二人とも適度に両手を挙げてバンザイポーズを取っているようだ。

だが、一体いくら支給されるのか知らないが、財政事情を知っているみりんとしては、

ここは黙って見過ごすわけにはいかなかった。

そもそも、よろず屋の収入はみりんの将棋道場と蘭々のピザ屋のアルバイトから成り立っている。

それがどうして軍団長の一存でバラマキ政策をとる事になってしまうのだろうか。

これはどう考えてもおかしい、腑に落ちない、むかっ腹が立った。

 

「・・・軍団長、お言葉ですが」

 

三人がバンザイポーズをピタッと止めて、視線はみりんへと注がれる。

 

「軍団長は何が買いたいんですか?」

 

みりんは色々な意味を込めてそんな言葉を発した。

 

「え~っと、かっちゅんは焼肉食べに行ったり~、新しいコート買ったり~、あとはあとは~」

 

「・・・そんなお金どこにあるんですか?」

 

みりんの言葉はもともと皮肉だったのだが、軍団長はそう受け取らなかったらしい。

だから仕方なく、率直に現実を突きつける事に決めたのだった。

 

みりんは蘭々がつけてくれている家計簿ノートを広げて軍団長に突きつけた。

 

「今はボーナスどころか家賃を払うのも手一杯なんですよ。

 そんな余計な出費をしてる場合じゃないんですよね」

 

できるだけ感情を抑えていたのだが、さすがに声の調子は強くなる。

軍団長は叱られた子供みたいな表情になってかしこまってしまった。

だが、そこで意外にも軍団長のヘルプに乗り出したのはトト子と蘭々だった。

 

「でもほら、貧しい中にも楽しみは必要だって言うし・・・」

 

蘭々がそう言ってみりんを宥めるように努めた。

 

「みりんちゃんだって新しいコートとか買えるよー。

 ほら前に欲しいって言ってたやつ」

 

トト子は以前一緒に服を見に行った時にみりんが言った言葉を覚えていたのだった。

あの時は確か桃のプリントされたかなり安いTシャツをお揃いで購入してそれで終わりにしたのだ。

できるだけ余計な出費をしないようにと思いながらそれで済ませた。

確かに冬場はコートとか欲しいよね、という話題にはなったが、

みりんは決して本気で買う事ができるとは思ってもいなかった。

 

「いや、でもそれはお金が十分にある場合の話であってね・・・」

 

「えー、宝塚のチケット買いたかったな・・・」

 

「声優さんのライブに行けると思ったのに・・・」

 

トト子と蘭々が残念さを体から滲ませているのを見ると、

みりんはさすがに一人だけ反対している自分が悪者に思えてきた。

確かに、今年はよろず屋を始めてからずっと耐えに耐えて生活をしてきた。

贅沢はしないようにひもじさに負けないように努めてやってきたのであったが、

何一つ彼女達に楽しみを味あわせてあげられていない事にみりんは気付いた。

やがてトト子と蘭々は両手を組み合わせて祈りのポーズを取って見せた。

二人にそんなに悲しい顔で見つめられると、さすがにみりんも苦しくなってくる。

どさくさに紛れて軍団長も祈りのポーズで瞳をうるうるさせて見つめてきた。

それには若干イラっとしたのだが、もう怒るよりも呆れてしまって何も言えなくなってしまった。

 

やがて「それなら・・・もうご勝手に」とみりんが呟くと、三人は一斉に飛び上がって抱き合って喜んだ。

まるでサッカーW杯で日本が優勝でもしたような勢いの盛り上がりに、

もうそこまで喜んでくれるならどうにでもなれとみりんは思ったのだった。

 

 

 

・・・

 

あの日、ボーナス支給が決まった後、

みりんは軍団長と話あって最低限度の金額で手を打った。

「さすがにこれ以上の金額は出せませんよ」と抵抗するみりんに、

「了解りょうか~い♡」と嬉しそうに答える軍団長。

金額はともかくとして、ボーナスが支給されればそれで満足したらしい。

 

かなり支給額は削られたのだが、それでも軍団員達の希望は叶えられる額だった。

トト子は声優さんのライブチケットを購入したようだし、蘭々も宝塚のチケットを買う予定らしい。

軍団長は結局何に使うのかよくわからなかったが、腹一杯何かを食べるのかもしれない。

 

もちろん、みりんにもボーナスが支給されることになった。

はじめはそれでも貯金をしておこうかと考えたのだが、

そう言えば今年は何も自分にご褒美を買っていない事に気付いたみりんは、

今回ぐらいは自由に使わせてもらってもバチは当たらないだろうと思った。

それに元はと言えば、ほとんどは自分が将棋道場で働いて得たお金である。

変な罪悪感を感じている方が異常だとみりんは気付いたのだった。

 

そして久しぶりの休暇に、みりんは街へと繰り出した。

久しぶりに自由を満喫するようにショッピングに行き、

前から欲しかった大好きなオモチャのフィギュアを購入した。

3コインのお店でメガネを買おうとしたらなぜか1000円だというトラップにも引っかかったが、

そんな事も笑って済ませられたのは皮肉にもふところが暖かかったからだろう。

寒い冬を乗り切るために新しいコートも物色した。

店員さんから真っ白のコートをお薦めされたのだが、

「白は汚れちゃうからなー」と思わず口に出してしまって、

どうにも貧乏性が身についてしまっていると気付いたみりんは、

思い切ってその欲しい真っ白のコートを買う事に決めた。

こんな時くらいは精神的に豊かな感覚を思い出すべきだと考えながら。

 

欲しいものを買って満足した帰り道、街角で何やらイベントをしているのが目に飛び込んできた。

それはどうやら今、児玉坂ランドで行われている冬季限定アトラクションが関係している、

ツンデレラ姫が登場するイベントの宣伝のようだった。

 

その周りにはかなり人だかりができていたが、テンションが上がったみりんは、

その人の群れをすり抜けながらイベントが見える場所へと進んでいった。

こんな時に背が高ければ後ろからでも見えるのだが、

友人からは「だるま」と呼ばれてしまう体型がコンプレックスなみりんは、

それでもめげずに小さい体を利用して器用に人波をくぐり抜けていく。

色々と辛い事があっても、決してめげる事がないのが彼女の強さだ。

 

やがて前の方へと進む事ができたみりんの前に、

どうやら簡易ステージの上でツンデレラ姫の一部が披露されているのがわかった。

今時、MVでもなんでもショートバージョンなんかを作って宣伝する。

本当に見たければCDなりを買ってみてねというやり方である。

おそらく、このイベントもそういう類のものであって、

最終的には児玉坂ランドへ人を呼び込むためのものなのだろう。

 

みりんがワクワクしながらツンデレラ姫のステージを待っていると、

周囲から大きな拍手が上がってツンデレラが登場してきた。

ちなみに、このイベントはミュージカル調であり、

ツンデレラも歌にセリフを乗せて舞台の上を飛び回る。

 

「ああ~イジワルなババァどもにこきつかられ~

 こんなに可愛い私が~どうして舞踏会に行けないの~」

 

場面はまだツンデレラがいじめられて舞踏会に行けないところだ。

やがて彼女は魔法にかけられてスイカの馬車に乗ってお城へと向かうのだろう。

 

「ああ~マジ意味わかんない~ほんとムカつくんだけど~

 ていうかあたしの方が絶対可愛いのに~あたしまだこんなに若いし~」

 

周囲の人だかりからヒソヒソと話声が聞こえる。

どうやらツンデレラ役の女の子は今年の夏場にノギニャンという猫のキャラクターを演じていた子らしく、

ひょんな事から素顔をさらしたが、その方がいいじゃんという事になったらしく、

冬場のアトラクションで見事ツンデレラの役を獲得したらしかった。

みりんはノギニャンの事は残念ながらあまり興味がないので詳しいことはわからなかった。

 

「ていうか~ほんと面倒くさいから~もうあたし自分で魔法かけちゃうし~

 若い頃はみんなの心に魔法をかけちゃおうとしてうまくいかなかったけど~

 そんな黒歴史も乗り越えて頑張ってるし~あたしマジえらいよね~」

 

あれ、こんな物語だったっけ?

みりんは不思議に思いながらも自ら魔法をかけてお城へ向かうツンデレラを見ていた。

やけに逞しい女の子だったんだなと、みりんはツンデレラの認識を改めるのだった。

 

「スイカの馬車とか~中身けっこうマジで赤いし~やばくない?

 でも王子様が待ってるっていうから~しょうがないから行ってあげるだけだし~」

 

このツンデレっぷりがたまらないんだよなぁ、とみりんは心を躍らせていた。

このステージはまだ簡易のステージだから簡素なものだけれど、

児玉坂ランドで用意されているステージはもっと豪華で見ごたえのあるものだ。

花火が打ち上げられたり、豪華なプロジェクションマッピングを駆使した演出など、

いつかネットで検索してそのお城の様子を見た時、みりんはとても興奮したのを覚えていた。

 

やがて「おおっ!」という歓声があがり、ステージの裾から王子様が登場した。

今年の王子様役の彼は、かなりの大抜擢だったらしいともっぱらの噂だ。

 

「おお~ツンデレラ姫~よかったら一緒に踊ってくれませんか~」

 

「別にそんな気なかったけど~かわいそうだから踊ってあげてもいいけどさ~」

 

王子様とツンデレラはステージの上で見事に手を取り合った。

それから華麗なステップで踊り始めたようだ。

どうやら見ている限り二人の息はかなり合うみたいだ。

 

「別にあんたの~為に~踊ってるんじゃないんだからね~

 偶然暇だったから~相手をしてるだけだからね~」

 

ツンツンしながらもデレが垣間見えてみりんはゾクゾクしてきた。

王子様の衣装もかなり凝っていて、なかなか力が入っているなと思った。

みりんはコスプレの衣装を自作できるほどの腕前を持っているので、

こうした衣装などに注目して見てしまう癖があるのである。

王子様の衣装はなかなかの物だったが、なぜかシルクハットを被っているのは解せなかった。

 

やがて「ゴーンゴーン」と音がなった。

これはきっと12時を告げる鐘の音だったのだろう。

ツンデレラの魔法が解けてしまう時間だ。

 

それまで順調に踊っていたツンデレラは、

鐘の音に焦りながら、ダンスの途中に急に王子様に肘鉄をくらわせた。

突然の肘鉄にみぞおちをやられ、腹部を抑えてうずくまる王子様。

 

「これは超やばいやつ~魔法が解けちゃう時間が来たのね~

 ああもう帰らなきゃ~別にあんたにこれ以上用事もないわけだし~」

 

ツンデレラは「ばいぴち~」と言いながら急いでステージから走り去る。

その途中でガラスの靴を落としてしまうのだった。

 

「おお~愛しのツンデレラ~どこへ行ってしまうのだ~

 おや~これはツンデレラの履いていた靴ではないか~

 それではこれにピッタリの足を持つ人がツンデレラに違いない~」

 

王子様が腹部を抑えながらなんとかガラスの靴を拾ったところでイベントは終了のようだった。

「やっぱここで終わるよなー」とみりんは少し悔しそうだった。

ふと我に帰ると、ここがお城ではなく街の片隅だったことを思い出し、

そうだった、私はよろず屋で働くしがない娘だったとみりんは少し自嘲的に笑った。

魔法になんてかからないし、スイカの馬車も迎えに来ることはない。

 

「ふぅ」と大きなため息をついて、みりんは後ろを振り返って歩き出した。

そこで、すぐに人とぶつかってしまい頭を打ってしまった。

痛いと思ったが、ぶつかってしまったことの方を謝らなければと思い、

「すいません、不注意でした」と謝罪の言葉を口にして顔を上げた。

 

「みりんさん」

 

声を聞いただけでもすぐにわかったのだが、どうやらみりんがぶつかったのは飛島大輔だった。

みりんは頭をぶつけたのだが、ちょうど飛島大輔の胸のあたりだったので、

彼は特に何も被害は受けていないようだった。

 

「飛島さん・・・」

 

みりんがそう言うとすぐに、彼は胸ポケットからあの時に渡した二枚のチケットを取り出した。

先ほど見たツンデレラの物語の続きが見られるプレミアムチケットだ。

 

「こんなのずるいですよ」

 

みりんは少し怒ったような声を出してそう言ったが、

なんとなく口元が緩くなってくるのが抑えられなかった。

ボーナスを貰うと人は財布の紐が緩くなって経済が動くというが、

人は余裕ができるとこんなにも心が豊かになるらしいとみりんは気付いたのだった。

 

「さっきまであの端っこのほうで観てたんですけど」

 

飛島大輔が何やら右方向を指さしながら説明し始めた。

 

「みりんさんの姿が見えたので、すぐにここまで飛んできました」

 

ステージの真ん前、中央まで急いで来たのだと説明されて、

みりんは思わず気を許して微笑んでしまった。

 

「中飛車ですか」

 

みりんは以前、蘭々と将棋を指していた時に彼女が言っていた、

「なんか、飛車って騎士様って感じがするかも」という言葉が突然頭に浮かんできて離れなくなってしまった。

 

 

 

・・・

 

それから数日後、朝早く起きたみりんはかなり念入りによろず屋の掃除をしていた。

自分でもどういう心境かはわからなかったのだが、

掃除をきちんと終えて出かける支度を始めた時、

鏡で自分の顔を見ながら、どうやらこれは後ろめたさだったとようやく気がついた。

 

いつもはナチュラルメイクくらいしかしないみりんだったが、

一応、今日は念入りに化粧を施してみたりした。

金属アレルギーなので普段はネックレスなんかもつけないのだが、

この日は少し無理してネックレスをつけてみたりもした。

いつも通り将棋駒のヘアゴムで後ろ髪をくくると、

髪の毛がすっきりしてネックレスも目立つようになった。

 

昨夜、トト子にはもう確認してあった。

もっと正しく遡れば一週間ほど前だ。

申し訳ないけれど、この日のバイトを代わってほしい。

自分の代わりに将棋道場に行って仕事をしてきてほしいと頼んだ。

トト子はすぐさま「いいよー」とさっぱりとした彼女らしい返事をした。

 

帰ってくるのが夜遅くなってしまう可能性もあった。

だが、家計簿に関しては蘭々がきちんとつけてくれていた。

この頃ではわざわざ確認しなくても、間違いはほとんどなくなっていた。

 

みりんは鏡の前で買ったばかりの真っ白なコートに袖を通した。

フード部分に白いふわふわのファーが付いていて、まるで雪景色みたいに優美に見える。

汚れては困るので、みりんはこの日までこのコートを大事にしまっておいたのだ。

 

準備を済ませて出かけようとすると、もうトト子も蘭々もバイトに出かけたようだった。

一人残された軍団長はと言えば、相変わらずいつも通り机に伏せって眠っている。

またお姫様になる夢でも見ているのだろうか、むにゃむにゃと時々声を発した。

 

軍団長を起こさないように、足音を立てずによろず屋を出るみりん。

そこでまた手鏡を出して髪の毛を気にした。

問題ないことがわかると手鏡を鞄の中にしまって歩き始めた。

 

買ったばかりのコートのポケットは滑らかで全く痛んでいない。

指を入れても触り心地もいいし、まだ癖も何も付いておらずピシッとしている。

みりんはそのポケットの中からチケットを取り出して眺めてみる。

念願だったツンデレラの上演が間近で見られるチャンスがついにやってきた。

おそらくこれは一年に一回だけの神様からのプレゼントではないかと思った。

貧しさを気にせず、軍団長に恨めしく思われることもなく、

浮き浮きした足取りはとても身軽になったような気がした。

今まで知らないうちに、身体中に重たい何かをたくさん背負っていたんだと気付いた。

それらが全て洗い流されてしまったような新しい気持ちで生きられることはこんなに幸せかと思った。

 

日中は冬の寒さも和らいで、日差しが暖かくて気持ちよかった。

昨日から天気予報も調べて見たけれど、降水確率は0%だっだし、

まあ天気予報なんて当てにはならないけれど、その予報の結果はみりんの気持ちを晴れさせていった。

 

やがて児玉坂ランドの入場ゲートが見えるところまでやって来た。

たくさんの人でごった返している中で、みりんは飛島大輔を探さなければならない。

すぐに見つかるかどうか不安にもなったのだが、その心配は必要なかった。

彼はいつの間にか横の方からスーッと近づいてきて自然な形で合流することになった。

 

 

初めてのデートってどうすればいいんだっけ?

みりんは慣れない感覚に少し戸惑いがあったのだが、

彼はあんなに大胆にアプローチしてきた割に、

どういうわけか手をつないだりしてくることはなく、

以外と奥手なのかもしれないと思った。

自然な距離感で歩いていきながら、

みりんは彼の背中を追いかけるようにしてついていった。

 

児玉坂ランドにはたくさんのアトラクションがあった。

ダンジョンの中を進んでいくとカーテンが幾つも現れて、

それをぐるぐる巻いていくと中から脅かす人が出てくる男子禁制のアトラクションや、

数人で固まって前の人の腰に手をやって乗るかなり横揺れするローラーコースター系の乗り物で、

各種様々なシャンプーの香りを含んだ風が吹いてくる道を潜り抜けていくものもある。

恋人同士で参加するものは、片方が自転車に乗ってもう片方を追いかけるのだが、

恋人に早く追いついた方が勝ちだというもので、かなり立派なサイクリングロードを走ることができた。

 

さすがに恋人同士で参加するアトラクションには二人とも照れてしまったのか参加することは遠慮した。

スタッフの方に「お二人でいかがですか?」と尋ねられたが恥ずかしくなって何も答えることができなかった。

 

特に何も気にせずに参加できたのは、片方がボールをノックをして片方がグローブでキャッチをするアトラクションだ。

大勢の参加者が一斉に行って、その中で最も多く捕球できたペアが優勝となる。

ここではみりんがノックをして、飛島大輔がそれをキャッチした。

ただそれだけのシンプルなルールだが、こういう共同作業を通じて男女は仲良くなったりするものだ。

 

謎の新アトラクション「その教室」は参加者が不思議な紙袋を被って教室に座るところから始まった。

先生達に詰問されるステージから始まり、とにかく教室内で起こる出来事を回避して、

ダンスを踊りながら抜け出すという危機脱出ゲームを応用したような内容だった。

少しホラーな内容が含まれているため、ホラーレベル5という設定になっていたのだが、

確かに最後に女性の謎の笑い声が響きわたるという、かなり恐ろしい内容であったのは確かだった。

 

児玉坂ランドは決して一日で遊び尽くせるような場所ではない。

小さなアトラクションを含めると、DIYコーナーでは牛乳パックでベッドを作ることもできるし、

参加者に割り箸が配布されてボケを競うコーナー、謎のフィンランド人達がフィンランド民謡を歌ってくれるコーナーなど、

各種様々なものがありすぎて語り尽くせないのである。

 

それでもみりんと飛島大輔はかなりたくさんのアトラクションを回った。

高所、閉所、暗所が苦手なみりんはかなり苦労もしたのだが、

ジェットコースター系の乗り物などは飛島大輔が乗らなくてもいいよと言ってくれたので、

無事に回避することができた。

 

みりんは園内を歩きまわっている丸い岩のようで鋭い目と力強い二本足が付いているキャラクターと写真を撮った。

キャラグリと彼女は呼ぶのだが、こうして園内のキャラクターに挨拶をして回るのが彼女の好みだった。

このキャラクターの両目の部分がデザインされている帽子を買って被ったりもした。

時々、園内で見かけた赤いハイヒールを履いているダチョウみたいなキャラクターは気持ち悪いので挨拶しなかった。

二人で手相占いをしてもらえるコーナーもあったのだが、相性を見てもらうのは恥ずかしく、

また占い師の前でひたすら「いってんのよ」とタメ口で手相を見てもらっている人がいて、

かなり長い間「いってるいってる」とタメ口で手相のアピールをしていた。

よく見ると、みりんも会った事のある世界的なピアニストである菊田絵理菜であることがわかったが、

忙しい中でプライベートで来ているのだろうと思って、声をかけるのはやめておいた。

人気者もさぞかし大変だろうなと気を使った部分もあったのである。

 

お腹が空いたりもしたが、アトラクションをたくさん回りたかったので、

飛島大輔は気をきかせてテイクアウトできる食べ物を買ってきた。

先ほどグッズを買ったあの丸い岩のような生物の肉まんはかなり美味しかった。

先ほど見かけたダチョウのようなキャラクターのもも肉という商品もあったのだが、

かなり気持ち悪いので飛島大輔は買うのを控えたようだ。

それは正解だとみりんは飛島大輔に賛同した。

 

軽い食事を済ませてから、午後も同じようにしてめいいっぱいアトラクションを回った。

夕食は園内できちんとしたレストランに入ることにした。

 

「『その教室』はちょっと怖かったね」

 

飛島大輔はみりんと向き合って座っている。

注文した料理を食べながらそんなことを言った。

 

「最後のところ、後ろからスタッフの島田さんが押してくるから怖いんですよね」

 

みりんは怖いなりに楽しかった思い出を興奮気味に語った。

どれくらいぶりにこの解放感で無邪気に楽しめているのだろうと思った。

普段は色々と気苦労が絶えないのだが、こんな日がくるなんて思いもしなかった。

 

「あの紙袋被って手をあげられたらさすがに怖いですよね」

 

飛島大輔も思い出し笑いをしながら感想を語る。

もうすぐ終了だと思わせたところで、あの紙袋女と笑い声は反則だと言った。

 

そんなことを話しながら、気づいたら時間はかなり過ぎ去ってしまい、

もうすぐメインである夜のツンデレラ姫のイベントが始まろうとしていた。

 

「そろそろ行きましょうか?」

 

飛島大輔はそう言って席を立った。

食事代を割り勘にしようとみりんは財布を取り出したが、

何も言わずに飛島大輔が支払ってくれたのでお礼を言っておいた。

 

 

 

・・・

 

二人がツンデレラ城の前にやってくると、

そこにはたくさんの人だかりができていた。

さすがに季節限定のメインイベントだけあって混み方は半端ではない。

あの街角で見た小さなショートバージョンなどとは比較にならないほどだった。

 

「中飛車の中央突破だ」

 

飛島大輔はそう言って人をかき分けてどんどんと前に進んでいった。

みりんは彼が人をかき分けてくれた道をただついていくだけでどんどんと前に進むことができた。

 

背が低い自分でもかなり良く見える位置まで誘導してくれた飛島大輔は、

みりんの隣に立って「もうすぐですね」とみりんに声をかけた。

「そうですね」としか返せなかったみりんだが、本当は色々な意味でドキドキしてしまった。

もうすぐ見たかったイベントが始まる、そして隣には男の人が立っている。

 

やがて群衆の中から声が上がり、大きな音楽が鳴り響くと共にイベントはスタートした。

お城の左右から豪華な花火が打ち上がり、プロジェクションマッピングによって、

先ほど園内で見かけた様々なキャラクターのアニメーションが映し出されていた。

 

一度音楽が最高潮に盛り上がったところで静かになった。

次は実際に人が出てくるミュージカル形式の舞台演出のようだ。

どうやらあの街角で見た続きから始まるようで、いよいよクライマックスまで物語を楽しむことができる。

 

やがてステージに現れたのは王子様だった。

相変わらず王子様には不釣り合いなシルクハットを被っている。

 

「おお~愛しのツンデレラ姫~いったいどこに行ってしまったのか~」

 

シルクハットを手で取ってダンスを始めた王子様。

ダンスの腕前はなかなかで、おそらくパフォーマーとしてのキャリアは長いのだろう。

 

「そうだ~このガラスの靴が合う人を探せば~きっとツンデレラは見つかるに違いない~」

 

王子様はそう言って踊りながらシルクハットの中からガラスの靴を取り出した。

どうやらマジックもできる役者さんなのか、それには「おおっ」という声が観客から上がった。

 

そうすると音楽に合わせて多数の女性が次々とステージの端から現れてはガラスの靴を試していく。

サイズが合わないのだというジェスチャーをしながら、王子様はどんどんと女性に靴を履かせていった。

 

そこへ偶然ボロい服を着た女性が通りかかった。

それはどうやら見るからにツンデレラであり、観客はまた「おおっ」と沸いた。

どの女性に靴を履かせてもダメだった王子様は、通りかかったツンデレラに声をかける。

「えっ、あたしですか」というジェスチャーをして、ツンデレラはとうとう靴を脱いでガラスの靴に足をかける。

誰もがクライマックスだと思って息を飲んで見守っていた。

 

だが、みりんは見ていてどうも様子がおかしいことがわかった。

音楽はかなりクライマックス級の盛り上がりを見せるのだが、ツンデレラが一向にガラスの靴を履かない。

いや、どうやら履けないようなのだ、足がむくんでしまっているのか、ガラスの靴に足が合わない。

 

えっ、こんな展開あったっけ?

そう思ってみりんと飛島大輔もハラハラしながら見守っていたのだが、

どうやっても足にはまらないガラスの靴に嫌気がさしたのか、

ツンデレラはそのガラスの靴を持って王子様の頭を叩いてしまった。

 

頭を押さえてしゃがみこんでしまった王子を尻目に、

ツンデレラは満足げにガラスの靴を投げ捨てた。

そのガラスの靴は、どういうわけかみりんのところへ飛んできて両手にすっぽりと収まった。

 

「ほんとマジウケるんだけど~靴に合う人がツンデレラなんて誰が考えたの~」

 

ツンデレラは頭を抑える王子を放っておいて一人で歌とダンスを始めた。

 

「あたしはそんなのまっぴらだし~足がむくんだらおしまいの恋なんて要らないし~

 本当のあたしを見つめてくれる王子様~そういう人のことを待っているんだから~」

 

みりんは、これはおそらくアドリブなのだろうと思ったが、

ひょっとすると、これが脚本通りなのかもしれないとも思った。

どちらにせよ、これほど観客をハラハラドキドキさせてくれるエンターテインメントは滅多にないと思った。

彼らの歌もダンスも華麗で素晴らしく、衣装も舞台セットもライトアップされていて、

すっかり日が暮れてしまった夜の児玉坂ランドはまるで幻想の世界かと思った。

できることなら、この素敵な物語が終わらないでほしいと願ってしまった。

 

「あなたはいったい誰なのか~ツンツンしてるその態度~

 怖いけれど嫌いじゃない~秘めたるデレがたまらんぜ~」

 

頭を叩かれたはずの王子様が頭を押さえながら立ち上がって歌い上げた。

やはりこれが脚本通りなのかもしれない、なんか物語の構成的にうまくまとまってる感じがする。

 

「別にあなたのためにここに来たわけじゃないし~

 あなたに名乗る義務もない~悔しかったら捕まえてごらん~」

 

そう言いながらツンツンしたツンデレラは走り回りながら王子様を翻弄した。

追いかけても捕まらない、追いついたと思ったら肘鉄を喰らわせられる。

王子はみぞおちを押さえながらまたもやステージ上で崩れ落ちた。

ガラスの靴と合わせると二回目のKOだった、次やられたらもう立ち上がれないだろう。

 

「おお~もしやその肘鉄は~わが愛しのツンデレラ姫ではあるまいか~」

 

王子様はまた立ち上がったようだ。

そして、今度はシルクハットの中からバラの花を取り出してツンデレラに差し出した。

 

「別にあんたの為に戻ってきたんじゃないんだからね~

 たまたま肘鉄が喰らわせたかっただけなんだから~」

 

そう言いながらツンデレラはバラの花を受け取った。

音楽がさらに盛り上がっていき、どうやらここがクライマックスらしかった。

 

あとは登場人物が全員ステージに上がってのダンスパフォーマンスだった。

王子様とツンデレラを中心に、お城の兵士達や女性達も皆踊った。

王子様のシルクハットからは無数のハトが飛び出してきて空がその時だけ一面ハト色に染まった。

 

最後は王子様とツンデレラが手をつないでの大団円でパフォーマンスは幕を閉じた。

脚本なのかアドリブなのかわからない内容にドキドキさせられながらも、

まるで長い夢を見ていたような心地よい気持ちになってみりんはふと我に返った。

集まっていた観客達も一斉にその場を離れ始めた。

このイベントが終わると帰る人々が多いのだ。

みりんはまだ感動冷めやらないままにその場に立ち尽くしていた。

そのうち、スタッフが駆け寄ってきて先ほどのガラスの靴だけは回収していった。

あれが飛んできたのはかなりのハプニングだったのだと思われた。

 

「どうでしたか?」

 

隣に立っていた飛島大輔が尋ねた。

とても良かったに決まっているのだけれど、

なんだか恥ずかしくて何も言い出せないみりんがそこにいた。

 

みりんは思っていた。

いつかこのツンデレラ城の前で結婚式をあげたい。

それが彼女のひそかな夢だったのだ。

周囲から理解されずに夢見すぎと批判されたとしても、

真っ白なウェディングドレスを身にまとって、

このお城の前で結婚式をあげられたらどんなに素晴らしいことだろう。

 

「紙吹雪、ついてますよ」

 

飛島大輔がそう言ってみりんのコートについていた紙吹雪を払ってくれた。

ゾクッとした感覚がみりんの体を走り抜けたのがわかった。

この児玉坂ランドに来てから初めてお互いの体に触れた瞬間だった。

 

ふと気づくと、もう辺りには誰もいなくなってしまっていて、

二人はその場所に取り残された形になっていた。

まもなく閉園の時間がやってくることもあり、

余韻に浸っていたいけれど、もうそろそろ帰らねばならなかった。

 

「そろそろ帰りましょうか」

 

みりんは飛島大輔にそう告げた。

初めてのデートでお互いの仲は深まったように思う。

そして、こんな素敵なイベントに連れてきてくれた彼は、

はじめはちょっと強引に思ったりもしたけれど、

それほど悪い人ではないとみりんは感じ初めていた。

どうしてこんな風になってしまったのだろうとみりんは思う。

最初の頃はこんな風に二人でデートするなんて思わなかった。

自分が捨て駒にならねばならないよろず屋に身を置いた結果、

こういう素敵な気持ちを忘れてしまっていたのだなと気付いたのだった。

帰りましょうか、なんて言ってしまったけれど、本当はもう少しここに残っていたかった。

 

だが、その時に悲劇が起こったのだ。

 

帰ろうとして後ろを振り向いて歩き出したみりんは、

物陰に誰かが隠れているのに気がついた。

冬のイルミネーションでライトアップされた大樹の後ろに、

どうやらあれは軍団長が潜んでいることがわかった。

 

「えっ、ちょっと、何してるんですか!?」

 

みりんが大声を上げると、その大声にびっくりしたのか、

軍団長が後ろから誰かに押されたように見えた。

そして次の瞬間、押された軍団長が「うわー!」と声をあげながら前に倒れて姿を現し、

その後ろから彼女を押してしまったトト子と蘭々は、もつれるように絡まり合って倒れながら姿を現したのだ。

 

そしてそれに驚いていた数秒後、

みりんは新しい真っ白のコートのファーの部分に気配を感じた。

次の瞬間、みりんは突然後ろから抱きしめられたのだ。

それは飛島大輔であり、おそらくこれが彼なりの最後の王手だった。

 

 

 

・・・

 

みりんは後ろから抱きしめられた瞬間、

あまりのことに呼吸が一度止まったように感じた。

そして、勢いよく吐き出した吐息は白い煙となって宙に舞い上がった。

 

「いやーーーーーーーー!!!」

 

みりんは咄嗟に大声をあげて飛島大輔を振り払って走り出した。

無我夢中で振り払った際にヘアゴムがパチンと音がして外れてしまい、

くくっていた髪の毛がふわっと重力に引かれて肩に落ちてきた。

だが、みりんは混乱した頭で我を忘れるようにして走り去っていった。

 

そんなみりんを追いかけて来たのは蘭々だった。

遠くまで逃げてから、怯えるように小さくなって座り込んでしまったみりんに、

蘭々は駆け寄って同じように座り込んで背中をさするようにした。

 

「ごめん!みりん大丈夫だった!?」

 

謝罪の言葉を口にしたけれど、みりんが本当に怖かったのはあの三人ではない。

かと言って飛島大輔が何か悪いことをしたかというとそういう訳でもないのだった。

 

「・・・ごめん、私、ああいうのムリ」

 

「ああいうのって?」

 

「距離が近いっていうか、とにかくムリムリムリ」

 

怯えるようにしてうずくまってしまったみりんの背中を、

蘭々はさすり続けるようにして介抱していたのだが、

やがて向こう側からトト子と軍団長がやってくるのがわかった。

 

「みりんちゃん、大丈夫?」

 

トト子も心配そうに声をかける。

そういえば、トト子は聞いたことがあった。

みりんは例え好きな人であっても近い距離からハグされるのは嫌だと。

一般女子はみんな賛同するようなシチュエーションであっても、

彼女はどうしても受けつけないと語っていたことがあったらしい。

 

「・・・ごめん、飛島さんは?」

 

みりんはふと我に返ってトト子に尋ねた。

彼は何も知らないのだ、自分がこういう体質をしていることを。

だから彼が悪いわけでもないのに、びっくりさせてしまったかもしれない。

 

「嫌われたかな、って呟いてどこかに行っちゃったよー」

 

(・・・違う、そんなんじゃない・・・)

 

みりんは急に立ち上がって走ってきた道を戻り始めた。

勢い余って軍団長を突き飛ばしてしまい、軍団長は蘭々に激突した。

 

みりんは先ほど飛島大輔が紙吹雪を払ってくれた地点まで戻ってきた。

思えばあの時、触れられた瞬間にゾクッとした感覚が体を走り抜けたのだ。

あの時に早めに説明をしておけばよかった、自分の体質はこういうものなのだと。

 

だが、その辺りを探しても、もう飛島大輔は見つからなかった。

ここまで頑張って渾身の王手をかけてもダメだったのかと、

さすがに落ち込んで帰ってしまったのかもしれない。

 

駆けて来たせいで息があがってしまったみりんは、

肩で息をしながら白い吐息を周囲に撒き散らす。

ひとりぼっちになってしまった寂しさが急に体に染みてきて、

冬の冷たさが骨まで凍らせてしまうように思えた。

 

「・・・飛島さん・・・違うの・・・これは・・・」

 

どこにも見つからなくなってしまった飛島大輔にただ誤解を解きたかった。

私は別にあなたの事を嫌っていたわけではなかったのだと。

ただもう少しゆっくりと距離を詰めていくことさえできれば、

ずっと一緒に居られることだってできたかもしれないのに。

 

グスッ、グスッと音がするなと思ったら、どうやらそれは自分が鼻をすする音であって、

おそらく鏡で自分の顔を見たら鼻が真っ赤にでもなってしまっているのかもしれないと思った。

鼻をすするたびに連動して涙腺がどんどんと緩んでいくのがわかった。

みりんは天気予報なんて嘘つきだと思った。

だってあんなに降水確率は0%だって言ってたのに。

 

その時、児玉坂ランドの園内に「ゴーンゴーン」と鐘の音が鳴り響いた。

これはもうまもなく閉園の合図であり、外へ向かってくださいという暗黙の知らせだった。

だが、みりんにとってはそれはそれは残酷なツンデレラの十二時の鐘の音だと思った。

素敵な魔法が解けてしまって王子様はいなくなってしまう時間・・・。

 

 

 

・・・

 

(・・・トト子や蘭々がいるのに・・・)

 

普段見せない顔を見せてしまっていると思いながらもみりんは涙が止まらなかった。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。

ちょっとした歯車が狂ってしまっただけで、

まるで魔法から解けたツンデレラのように落ちぶれてしまうなんて。

 

恥ずかしいと思いながらもみりんは一人では立ち上がる気力もなかった。

そんな彼女に肩を貸したのはトト子と蘭々だった。

そもそも、どうしてこの子達がここにいるのだろうとみりんは思った。

飛島さんのことも、もしかして知っていたのだろうか?

 

「・・・うん、もう大丈夫だから」

 

みりんは立ち上がってから、肩を支えてくれていた二人にそう告げた。

 

「・・・なんか、ごめんね」

 

人差し指で両目の涙をぬぐいながらみりんは続けた。

この子達の前でとりみだし続けるわけにはいかないという気持ちが、

かろうじてみりんに冷静さを取り戻させてくれることになった。

 

なんだか髪の毛が邪魔だなと思って両手を首元に当てると、

どうやらヘアゴムがなくなってしまったことに気がついた。

そして、慣れないネックレスのせいで金属アレルギーが発症してしまっている。

ネックレスをつけていた部分が赤くなって少し痒い。

 

「・・・ヘアゴムが」

 

涙声のままみりんはそう言って暗いあたりを見回した。

園内はかすかに残っている電灯が道を照らしてくれているが、

それほどはっきりと見えるわけではなかった。

 

「みんなで探そう!」

 

そう声をあげたのは軍団長だった。

軍団長の命令は絶対であり、それに逆らうことは許されない。

トト子と蘭々は一斉になくなったヘアゴムの捜索へと乗り出した。

だが、もうすぐ閉園してしまう時間であり、やがて警備員さんが巡回してくるだろう。

おそらくもう捜索する時間はそれほど残されていなかった。

 

 

 

・・・

 

寒い夜、かすかな電灯の明かりを頼りに四人はヘアゴムの捜索を始めた。

先ほどみりんがいた地点から走って行った地点の間に落ちているはずなので、

きっと見つかるはずだと軍団長はみりんに告げた。

軍団長の命令は絶対なので、みりんも同じように捜索に参加する。

 

だが、もはやもうそんなものはみりんにとってどうでもよかった。

もう失われた時は戻っては来ないのだし、飛島さんの誤解を解くこともできない。

そもそもこのヘアゴムは飛島さんと出会ってから作ったものだった。

いつもの「香車」をやめて「歩」を用いたのは、

彼が「歩」が好きだと言ったからだった。

みりんは気づかなかったが、当初から彼を意識していたのだった。

 

一歩、また一歩と進みながらヘアゴムが落ちていないかと地面に目をやる。

飛島さんみたいに素早く動ければ、もっと早く見つかるだろうにと思う。

やはり自分なんて「歩」と同じなのだなとみりんは思ってしまう。

こんな風に惨めな姿になって、一歩ずつ地道に探し物をするだけ。

 

暗闇の中で捜索しながら、みりんはいつか蘭々が言っていた言葉を思い出した。

「『歩』ってなんだか儚いよね」と確か彼女は言ったのだった。

こんな風に一歩一歩と進んでいっても、取られてしまえばそこで終わり。

もっと強い駒だったら器用に動き回って逃げることもできるけど、

前にしか進めない「歩」なんてのは、やっぱり捨て駒にしかなれないのだ。

 

フッとかすかな点滅が起きて、

電灯の明かりが一段階暗くなったのがわかった。

もうお客さんは出て行く時間になるのだから、

こうして園内からの退出を暗に促しているのだ。

 

「・・・もしかしたら拾わないほうがいいのかも」

 

隣で探していた蘭々はポツリとそんなことを言った。

みりん自身、もう探さなくてもいいと思っていたのだが、

蘭々の理由は自分とは異なるものだったようだ。

 

「落ちていれば王子様が拾って探してくれるかも」

 

「・・・ガラスの靴みたいに?」

 

みりんがそう聞き返すと蘭々はこっくりと頷いた。

ツンデレラの魔法は解けてしまったけれど、

ヘアゴムを拾ってくれた飛島さんが後日みりんを探してくれる・・・。

 

申し訳ないけれど、そんなことは多分ないだろうとみりんは思った。

だって飛島さんはみりんのことがわからなくなったわけでもない。

そんな物を手掛かりにして探す理由なんてどこにもないのだ。

慰めようとしてくれている蘭々には悪いけれど、

それはさすがに夢物語みたいな設定すぎるとみりんは思った。

 

だが、もしかしたらそれでいいのかもしれないとも思う。

こうして人は素敵な理由をつけて何かを誤魔化して諦めて行くのだ。

そうすることで、辛い思い出を素敵な記憶へと昇華することができる。

 

「・・・うん、そうだね、もうあれはいいや」

 

みりんがそう告げたのを蘭々と軍団長は聞いていた。

二人は立ったままみりんをまっすぐに見つめてくる。

そのうち、そんな真面目な顔をしている二人のことがおかしくなって、

みりんは堪えきれなくなってフッと笑みがこぼれた。

 

「・・・二人ともなんて顔してるのー?」

 

みりんはそう言ったが、二人はどんな顔をしていいのかわからないようだった。

悲しいような、切ないような、なんとも言えない表情をしている。

 

「そんなに悲しむことじゃないですから。

 別にヘアゴム一個なくしたって世界が終わるわけでもないし。

 さあ、もういいですよ、帰りましょう、寒いし」

 

みりんがそう言って出口へ向かって歩き出した時、

向こうの方から「あったよー!」と叫ぶ声が聞こえた。

どうやらその声の主はトト子のようだった。

軍団長と蘭々はトト子の方を振り向きながら、

軍団長はトト子の方へと駆けて行った。

残された蘭々は帰ってしまおうとするみりんを見つめる。

 

「・・・さっき言ってたじゃん、もう拾わなくてもいいって。

 たとえ見つかったって、拾っちゃったら王子様は探しに来てくれなくなるよ?」

 

みりんはそんなことを明るい調子に努めて言った。

寒空の下で電灯が一つまた一つと消えていく。

月明かりだけがかすかに残された四人を明るく照らしていく。

誰かが何か言葉を吐くたびに、それは白い吐息となって冷たくて暗い空へ吸い込まれていく。

 

「みりんちゃーん、これ見てー!」

 

トト子が向こう側からまだ叫び続けている。

もう拾わなくてもいいってことを彼女たちにも伝えなければ帰れない。

 

「もう寒いんだからよしなって」

 

呆れた様子でみりんはそう言って立ち尽くしている。

蘭々は何を思ったのか振り返ってトト子の方へと駆け出した。

三人ともこちらに来ないのだから、これではよろず屋へ帰れない。

 

「もう・・・風邪ひくよー!」

 

仕方なくみりんは蘭々の後を追いかける。

トト子と軍団長はしゃがみこんでいるようだった。

おそらく、見つけたヘアゴムを取り囲んでいるのだろう。

まったく大げさな、ヘアゴムは逃げはしないのにとみりんは思った。

 

蘭々が先にたどり着き、三人はぐるりと輪になっていく。

後はみりんがそこにたどり着けばきちんとした輪になるようだった。

 

「別にもう拾わなくてもいいって言ってるのに・・・」

 

みりんは寒い中を駆けながら三人が座っているところにたどり着き、

その輪を埋めるような位置に座り込んだ。

四人の吐く息が交差するくらいの距離になっている。

 

「ほら、みりんちゃんこれ」

 

トト子が嬉しそうに指差す先の地面には、

確かに落としたみりんのヘアゴムが落ちていた。

将棋の駒の「歩」を改良したものだったのだが、

落ちた時にゴムが取れて裏返ってしまったのか「歩」の駒は裏側の「と」になっていた。

 

 

みりんはトト子の声に応えることができなかった。

胸にこみ上げてくる何か熱い物を抑えるのに必死で、

それがまた彼女の鼻をグスッ、グスッと音を立てさせる。

 

トト子はその駒を人差し指と親指でつまんで拾い上げると、

立ち上がって満面の笑みで手のひらに乗せてみりんに差し出した。

トト子の手のひらには、もちろん「と」の方が見えている。

 

「・・・うわーん」

 

同じように立ち上がったみりんは、もう堪えきれずに声をあげて泣いてしまった。

そして目の前にいるトト子に抱きつくと、もっと声を大きくあげて泣いた。

後ろから背中をさすってくれる蘭々と軍団長がそこにいた。

 

 

 

ツンデレラの魔法は解けてしまってもう戻れない。

だけど、ガラスの靴がないと探しに来てくれない王子様なんて要らない。

本当の私を知ってくれる人だけを待っていればいいんだから。

それに恋を失ったって、私にはまだこの子達がいる。

進むのが一歩ずつだって、儚くたってかまわない。

たとえ捨て駒になったって、私はこの子達を守ってみせる。

 

 

 

みりんはトト子から「と」の駒をもらうと大事そうに内ポケットにしまった。

そして、何も言うことはないけれど沈黙のまま微笑みあっているのも変なので、

みりんはトト子に話しかける言葉を探してこう言った。

 

「トト子、ツンデレラはどうだった?」

 

「すごかったね」

 

いつも通り棒読みで返答したトト子を見て、やっぱりこんなトト子だから一緒にいて楽だなと思った。

フッと体から力が抜けていって気持ちが楽になっていくのがわかったみりん。

その時、泣きながら笑って吐いた息が真っ白で、距離が近すぎてトト子の顔にもろにかかった。

それをまるで煙でも払うような仕草で、トト子は迷惑そうに右手をブンブンと振り回した。

 

 

 

ーみりん編、終幕ー

 

 

 

 


 

 

 

 

ー蘭々編ー

 

 

「この人ただのデブとはちげーからね」

 

「ワッハッハ」という愉快な声が響き渡り、

続いて「ポリッ」っという砕けるような音が鳴る。

「ガリガリボリボリ」と砕かれるような音がして、

「トト子あれ観てー!」という勧誘の声がする。

 

「お前ら俺のことそういう目で見てたのか!」

 

TVから聴こえてくるやり取りに、勝村さゆみは笑い声が止まらない。

深夜にやっているTV番組「児玉坂工事中」を観ているのである。

先ほどのやりとりは番組MCである人気芸人「キウイマン」の二人のトークだ。

 

温かいお茶をすすりながらこたつに入っている四人だったが、

声を抑えて静かに笑っている次藤みりんとは対照的に、

軍団長の勝村さゆみは豪快に大声で笑い声をあげていた。

温かいお茶には煎餅がよく合う、と言いながら食も進んでいた。

 

さゆみが勧誘する坂木トト子はすでにこたつに伏せっておねむであった。

みりんは児玉坂46の登場するこの番組を観るのは週に一度の楽しみであったので、

眠い目をこすりながらも何とか起きて番組を観ていた。

仕事もせずに昼間に眠っている軍団長はもちろん深夜でも元気だ。

 

お昼にピザ屋でアルバイトをしている寺屋蘭々も眠たげな目をしていた。

だが、翌日はお休みだったので多少夜更かしをしても大丈夫だと思っていたらしい。

先ほどからうつらうつらとしていることもあったが、彼女らしく「ふふふ」と小さく笑いながらTVを観ていた。

 

「じゃあ次のシングルのヒット祈願はワニと戦いますんで」

 

キウイマンのドSの方がさらっと言い放つ一言に対して、

児玉坂46のメンバー達がひな段から立ち上がってクレームをあげる。

「ちょっと、無理ですよ~!」「死んじゃいますって!」「危険すぎますから!」

 

「お前らヒット祈願なめてんのか~?

 CD買う人だって汗水垂らして働いた金を払ってんだ~。

 そんなに簡単じゃないぞ、こっちだって命懸けでやんないとー」

 

キウイマンのいじられ役の男もここは話に乗っかっていく。

「あかんあかん、それは危なすぎや~」と軍団長が興奮している。

トト子はもうぴくりとも動く気配が感じられず、みりんは「さすがにないでしょう~」と疑いの目を向ける。

蘭々は何も言わず、ただ少し驚いたように次の展開を待っているようだった。

 

「じゃあこれやってもらうのはお前ね」

 

「なんで俺なんだよ、そりゃやれって言われたらやるけどよ。

 俺別に入川さん目指してるわけでもなんでもねえからな」

 

キウイマンのドSの方がいじられ役の方を指してボケた。

横で肩にツッコミを入れながら見事にお茶の間を沸かせる。

軍団長も「ワッハッハ」とご機嫌に笑っていた。

 

「じゃあ入川さん目指してるやつにやってもらおうっか?」

 

ドSの方が児玉坂46の中でもリアクション芸が優れている子を指し示してそう言った。

「入川さんを目指してるんだったらこれくらい朝飯前にやっとかないとだめじゃない?」とどこまでも非情だ。

ちなみに、入川さんとはリアクション芸で有名な大御所芸人である。

 

「えっ、あたしですか!?」とその指定された子がびっくりした顔がアップになり、

その次は来週の予告の場面が流されているようだった。

その内容は、指定された子がヘルメットをかぶってワニと戦う企画をするということになり、

「本当にやるんですか?危なくないですか?」と言いながらもワニと戦わされる内容らしかった。

だがそれは実はドッキリで、ワニに見えるのはワニ革のバッグを使用するということらしい。

その偽物ワニに対するリアクションを楽しむのが本来の目的らしかった。

 

「な~んや、そういうことか~!」

 

軍団長がドッキリだと知って合点がいったようだった。

 

「そりゃ本当にワニと戦いとかしませんよ」

 

冷静なみりんがお茶を飲んでからそう言った。

 

「だいたいそこまで命賭ける必要なんてないですから。

 番組なんですから面白おかしくやってるだけですよ」

 

来週の予告がエンディングテーマに乗せて放送された後、

番組は終わってしまったようで、CMの画面に切り替わった。

「さあ、もう遅いから寝ましょっか」とみりんはこたつから立ち上がり、

軍団長の分の湯のみも取って台所へ運んでいった。

 

軍団長はどうやらこたつから出るのが面倒なようで、

そのまま顔をテーブルに乗せてむにゃむにゃとやり始めた。

 

「軍団長、布団で寝ないとだめですよー、ほらトト子も!」

 

みりんが台所で洗い物をしながらもそう叫ぶ。

トト子はどうやら起きたらしく目を眠そうに擦っている。

蘭々はみりんを手伝おうかと思って立ち上がったのだが、

TVから流れてくるCMが気になってそのまま見入ってしまった。

 

「宝塚歌劇が新たな一歩を踏み出します。

 皆様の愛を胸に、夢と感動の新たなステージへ・・・」

 

「えっ!」と驚いた蘭々は、TVの前にかじりつくように前へ出た。

「蘭々TVに近づき過ぎちゃだめだよ~」と後ろからトト子が寝ぼけながら注意をしてくれたが、

それにも躊躇することなく、彼女の耳には届いていないようだった。

 

(・・・薔薇組なんていつできたんだろう・・・?)

 

そのCMは宝塚歌劇団が児玉坂で特別公演を行うという内容だったのだ。

だが、公演を行うのは「薔薇組」だということであり、蘭々は腑に落ちなかった。

 

蘭々は昔から宝塚歌劇団が好きだった。

一人でも遠出をして公演を観に行くこともあったし、

DVDなどを観て何度も夢のような思いを馳せたこともあった。

そんな宝塚歌劇団がここ児玉坂で特別公演を行うというのだから、

彼女のテンションがマックスを振り切ったことは言うまでもなかった。

 

そのCMが終わると、蘭々は突然どこかに向かって走り出した。

台所から戻ってきたみりんとぶつかりそうになったが、

みりんが間一髪で身をかわしてくれたのだった。

「みりんごめん!」と叫びながらも蘭々はどこかへ行ってしまった。

 

 

 

・・・

 

みんなのいる部屋を飛び出した蘭々は、

充電器につながっていた携帯電話を手に取って検索サイトを立ち上げた。

「宝塚 薔薇組」で検索してみたところ、幾つかサイトが引っかかった。

 

宝塚には幾つかの組がある。

花組や月組、雪組や星組や宙組などがあり、

それぞれに所属している生徒達がいる。

各組に所属するためには宝塚音楽学校を卒業する必要があり、

そうでなければ宝塚歌劇団に入ることもできない。

 

蘭々は過去に薔薇組の存在などは聞いたことがなかった。

検索してみてわかったことだが、薔薇組ができたのはつい最近の事らしい。

 

児玉坂では町おこしイベントとして、

他の町から集客を図れる方法を探していたらしい。

元来、宝塚歌劇団はその独立した運営を貫いていたが、

近年では様々なコラボレーション企画に参加することもあった。

クルーズ船とのコラボもあれば、歌舞伎とコラボする事もあり、

薔薇組はそうした企画の一つで児玉坂の町とコラボしたものだということだ。

 

蘭々が悔しく思ったのは、その薔薇組の生徒募集がすでに終了しているのを知った事だった。

いつの間に行われたのかわからないが、薔薇組は期間限定で発足した組であり、

他の組からも特別出演が期待されるが、半分は児玉坂の町からオーディションで選ばれたという。

これは宝塚音楽学校を卒業するという方法を取らない例外的な方法ではあるが、

町おこしの契約期間限定の公演になるので、特例として認められたという。

 

そして、薔薇組はオーディションを経て無事に発足したらしい。

その初公演が来週から行われるという事であり、

先ほどのCMで宣伝されていたのがまさしくそれだったのだ。

 

(・・・嘘だ、こんなの知らなかった・・・)

 

蘭々は毎日アルバイトで忙しく過ごしていたため、

こんな素晴らしい機会を逃してしまった事を残念に思った。

だが、とにかく自分が出演する事はなくとも、

宝塚の公演が児玉坂で行われるのだから、それは絶対に見に行かなければいけないと思った。

 

蘭々はそのままインターネットで公演日程を探し当て、

チケットがまだ買えないかどうかを調べていた。

幸いにして、まだチケットは残っていたので観に行く事はできる。

先日、軍団ではボーナスが支給された事もあり、

それを使えばチケットを買う事も問題はないのだった。

 

「ちょっと、蘭々どうしたのー?」

 

先ほどぶつかりそうになったみりんが心配そうにやってきた。

蘭々は携帯を見つめては「ああっ!」と言って携帯を抱きしめる。

よほどいい事があったのだとみりんは彼女の表情からすぐに読み取れた。

 

「何、なんかいい事あったー?」

 

嬉しそうな理由を知りたくて尋ねるみりん。

だが、蘭々は「えへへ」と言ったり「はぁー」と言ったり、

ニヤニヤしながら浮ついた様子でウロウロとしているばかりだった。

 

「なんか言ってくれないとわかんないよー」

 

みりんが笑いながらそう追求した。

なにはともあれ、嬉しそうな顔をしている蘭々がいるのは良い事だと思っていた。

 

「えへへ、ごめんね、今の私はちょっとウザいかなー?」

 

ニヤニヤしたまま蘭々はそんな事を言った。

詳細を語るのをなんだか勿体ぶった様子だった。

 

「そんなことないよー。

 ただなんかいい事あったのかなーって思うと、

 ちょっと嫉妬しちゃうけどね」

 

みりんは嫉妬してしまうこともあるが、

基本的に蘭々やトト子にいいことがあるのは大歓迎だった。

 

「えへへ、じゃ~ん!

 正解は宝塚歌劇団のチケットが取れる、でしたー!」

 

蘭々は先ほど検索したサイトを見せるように携帯を突き出した。

「えっ、何それ、すごいじゃ~ん」とみりんは携帯を見てそう言った。

 

「じゃあ、その日はバイト休まなきゃだね」

 

みりんにそう言われ、蘭々は頷いた。

今度店長に相談してこの日は休ませてもらうように交渉しなければと思った。

 

 

・・・

 

 

後日、ピザ屋の店長に休みの交渉を行った蘭々は、

「あっ、そうなんや、別にいいで~」と簡単に許しをもらえた。

基本的にこの店長は優しいので何を言っても怒ったりすることもない。

蘭々は「ありがとうございます」と冷静に振る舞ったものの、

休みを取得した喜びから「ウチの店長最高かよ!」と心の中で思った。

 

そうして休みを獲得した蘭々は、着実にチケットも入手することもできた。

あとは公演当日を待つばかりとなり、日々をルンルン気分で過ごしていったのだった。

 

 

やがてすぐに公演当日がやって来た。

朝から何となくソワソワして落ち着かなかった蘭々は、

宝塚のDVDを観たりしながら公演開始までの時間を潰した。

誰に会うわけでもないのだが、普段より少しオシャレをしたりして、

どの服を着て行こうかなと、幸せな優柔不断に浸っていたのだった。

 

開演30分前に児玉坂劇場に辿り着いた蘭々は、

チケットと引き換えに入り口で受け取ったパンフレットに目をやる。

そこには間違いなく「宝塚歌劇団 薔薇組公演」と書かれていて、

どうやら児玉坂の町からオーディションで選ばれたらしい主役の子と、

その他数人の選抜されたメンバーが紹介されていた。

もちろん、宝塚歌劇団の専科からも特別に参加してくれている生徒さんもいて、

素人上がりで構成されたこの劇団のサポートをしてくれるようだった。

オーディションで選ばれた子たちは、わずか数ヶ月の間に宝塚流の特別レッスンを受けたようで、

もちろん、専科の方々には及ばないだろうが、メイクを施された様子は立派な役者さんに見えた。

 

たくさんの人で溢れている劇場の広間から通路の方へと歩いて行き、

ドアを開けて座席が並んでいる部屋へと足を踏み入れた。

ギリギリになって取れたチケットであったため、

蘭々の座席はステージからかなり遠い二階席であったが、

彼女にとってはこの空間に入れたことがもうすでに感激だった。

そもそも座席については文句を言うような性格でもなかったし、

憧れの存在に近づけるのだからこの席で十分だと蘭々は思っていた。

 

劇場内を見回すと自分と同じように若い女性が多いのが目に付いた。

彼女たちはおそらくオーディションを受けたのかもしれない。

自分と同じように宝塚に憧れて、そのステージに立ちたくてチャレンジして、

夢破れてしまったのかもしれないが、それでもせめて観る側として参加を希望したのだろう。

 

その他にも蘭々よりもかなり年齢が上の方々も列席されていて、

さすが宝塚歌劇団の看板を提げている公演だけあると思った。

こうしてこの劇場内には、従来からの宝塚の熱烈なファンと、

それに憧れている若い子達、さらには児玉坂の町で偶然この劇を知り、

興味本位で訪れていた人々など、様々な人達が足を運んでいた。

多くの人々は誰かと誘い合って観劇にやってきたようだが、

蘭々は一人でやってくることに別に寂しさは感じなかった。

一人で行動することも多いし、もう慣れてしまっていたのだろう。

 

公演開始までまだ少し時間があったので、

蘭々はまたパンフレットに目をやった。

今回の公演は薔薇組のために特別に書き下ろされた物語であり、

タイトルは「最後の境界線」というものだった。

舞台は世界の終わりが来た2346年の東京で、

ドラゴンでありながら人間の姿に変えられてしまった少年の物語らしい。

 

どういうわけかわからないが、蘭々はその物語のあらすじを読んだ時、

なんだか虫の知らせというか、ピピピと頭をよぎるものがあった。

どうもこの物語とはご縁がありそうだという不思議な感覚で、

やはり叶うことならオーディションを受けたかったと残念に思った。

しかし、それはもう叶うことではないし、自分ではなく選ばれた子達がいるので、

今回は見る側としてその雄姿を見届けてやろうと頭を切り替えた。

 

やがて公演時間となり、劇場内でアナウンスが流れた。

蘭々のボルテージも否応なしに高まっていく。

心のワクワクが止まらず、自然と姿勢も前のめりになる。

 

幕が上がってついに劇が始まった。

まず登場したのは蘭々も見たことがある宝塚歌劇団専科の方々だった。

専科とはどこの組に所属しているわけでもないのだが、

様々な公演に参加することが多く、もちろん宝塚のプロの人達である。

オーディションで選ばれた子達は主役級の役割をもらっていたようだが、

やはり脇を固める人々に最初は場を温めてもらう段取りなのだろう。

 

多くの観客が見ている中で物語は進んで行く。

第四次世界大戦によって文明が滅びた2346年の東京では、

人々はシェルターに隠れてひっそりと生き続けていたという。

世界はすでに核兵器によって汚染させられてしまっていて、

21世紀に残っていた多くの自然や動物はすでに絶滅してしまっていた。

地球の生命資源を数多く失った人類は、滅んでしまってからようやくその価値を理解したらしく、

科学によって滅んだ生命体を蘇らせるという運動が一時期流行した。

懐古趣味も伴なった運動は化石から恐竜を復活させたし、

人間の理想主義と相まってペガサスやユニコーンなども生み出された。

動物種を科学的に配合することによって異種を生み出していったのである。

だが、無計画に量産された生命体は人類にとっての脅威ともなっていき、

やがて法律によって禁止されることとなったのだが、

法律がある以上、その網の目を潜り抜ける人々もまたいるようで、

技術そのものを世界から抹消された核兵器に代わるものとして、

凶悪な生命体を生み出すものたちも後を絶たなかったという。

 

それが東京の郊外に住むというドラゴンだと言うことで、

シェルターに住む人間達はその存在に怯え続けており、

決して郊外には行かないようにと規律を守って生活を続けていた。

 

やがて音楽が切り替わり、舞台に登場したのが少女だった。

それは蘭々がパンフレットに載っているのを見た女の子で、

オーディションで主役を勝ち取ったあの子だった。

ミュージカル調に歌に乗せてその哀愁を表現していく。

 

「僕が生まれた時~その背中には羽があった~

 なぜなの~どうして~僕は人間じゃない~」

 

その少女は主役の少年役を演じていた。

一人でステージの上で立派に歌い上げる少女を見て、

蘭々は悔しい思いがグッと込み上げてくるのがわかった。

自分とそんなに年の変わらない女の子がこんな立派な舞台に立っている。

しかも憧れの宝塚の主役を演じているのだ。

だが同時にその魅力的な声やルックスに圧倒されてもいた。

たった数ヶ月だけレッスンを受けただけでこんなにも立派になれるものか。

 

「母上に叱られ~追い出されたドラゴンの故郷~

 人間の姿に変えられて~僕はずっと生きてきたのさ~」

 

伸びやかな歌声に合わせて、舞台の上の彼女は寂しさを表現する。

ひとりぼっちで生きてきたという悲しみを全身で表している。

 

「でも僕は~いつの間にか~人間が好きになってしまったのさ~

 叶うなら~このまま人間として生きていきたい~

 母上と和解して~許してもらいたいよ~」

 

次は人間として生きる喜びを全身で表現していた。

顔の表情、手足の使い方、華麗なステップなど、

数ヶ月のレッスンで素人からここまで変わるなんて、

一体どれほどの努力をしたのだろうと蘭々は思う。

 

そこで音楽が転換し、ミュージカル調ではなく、

通常のセリフ主体の劇に変わった。

ステージの上には人間の男役の女性が姿を現した。

 

「おや、君はどうしてこんなところにいるんだい?

 一人で外を出歩くと危ないって、親に教育されなかったのかな?」

 

男は少年を助けようとして手を差し伸べるのだが、

少年はドラゴンの子供であることがバレるのが恐ろしいのか、

その手を取ることはなく逃げてしまった。

 

「おい君!?

 怖がらせてしまったのかな?

 だが、このあたりをうろついていると危ない。

 どこにドラゴンが潜んでいるかわからないんだから」

 

そう言って男は少年を追いかける設定で舞台袖に消えていった。

場面が暗転して、次はドラゴンの母親が出てくる場面のようだった。

豪華で背丈の二倍以上ある赤い衣装に身を包み、

空を飛ぶような演出も交えて母親ドラゴンのセリフが続く。

 

「勝手に家出をするなんて言うから、

 少しお灸を据えてやろうと思って人間の姿に変えてしまったけれど、

 ちょっと見ない間にすっかり人間みたいな所作を覚えてしまって・・・。

 もうそろそろ許してあげることにして連れ戻さないとまずいかしら」

 

そんなセリフを言ってからはまたミュージカル調になった。

優雅なダンスと歌声はさすがに専科の方々でプロレベルだ。

 

「人間は許さない~自分たちのことしか考えていない~

 勝手に命を生み出して~不要になれば殺してしまおうとするなんて~」

 

火を噴くような演出と共に、舞台は赤い照明で染められた。

火を噴く音声も合わさって観客の興奮も高められていく。

 

「人間に騙される前に~あの子を連れ戻しに行かなければ~

 ドラゴンの子は所詮ドラゴンの子~人間とは相容れない生き物~」

 

母親ドラゴンは飛び立っていく演出のまま舞台袖に消えていった。

 

場面が転換して、主役の少年が一人地面に座り込んでいるのが見えた。

なにやら畑で植物の成長を観察しているようだった。

 

「燃えるように真っ赤なトマト~早く大きくなればいい~

 僕おまえが好きさ~子供の頃からずっと変わらない~」

 

少年が一人で畑を飛び跳ねながら歌って踊っていると、

後ろから気づかれないように忍び寄るのは母親ドラゴンだった。

母親ドラゴンはこっそりと近づいて、突然少年の腕を掴んだ。

 

「人間みたいな真似をして~こんなの育ててどうするの~

 水をやらないほうが甘くなるなんて~トマトはあなたに似てうざいのよ~」

 

母親ドラゴンは無理に腕を引っ張って連れて行こうとするが、

少年はそれに抵抗を続けるのだった。

 

「こんなところにいたのね、さあもう帰るわよ!」

 

母親ドラゴンが無理に腕をとって引っ張っていくが、

それに抵抗するようにして少女が母親ドラゴンを突き飛ばした。

 

「なにをするの!?」

 

「僕、帰りたくないんだ」

 

少年は畑に座り込んでトマトを眺めてそう言った。

母親ドラゴンはその言葉を聞いて激昂した。

 

少年は畑のそばに置かれていた古いラジカセのボタンを押す。

すると中に入っていたカセットテープが再生されて音楽が流れ始めた。

スピーカーから流れてきた音楽はジョンレノンの「イマジン」だった。

ちょうど20世紀頃に大流行したイギリス人が作った大ヒット曲である。

少年はテープの音楽に合わせて曲を口ずさみ始めた。

 

「まあ!そんな人間の歌なんか覚えてどうするつもり!

 あなたはドラゴンなのよ、人間になんてなれないんだから!」

 

「そんなの・・・やってみないとわからないじゃないか」

 

そこまで言うと、母親ドラゴンは少年に近づいていき、

無理やりに立ち上がらせて彼の頬を思い切り打った。

彼が転んでラジカセに当たり、テープの音楽が止まった。

 

「これが最後通告だからね、さっさと戻ってくるんだよ!

 どうせあなたにかけた魔法も、もうすぐ効果がなくなる頃だから」

 

そう言って母親ドラゴンは舞台から退場していった。

少年が一人で舞台に立ち尽くしていると、

母親ドラゴンが退場したのと反対側の舞台袖から、

人間の男役が少年に駆け寄るようにして登場した。

 

「君、大丈夫、怪我はない?」

 

立ち尽くしている少年に、男は心配そうに駆け寄ってそう言った。

 

「さっき、東の空にドラゴンを見たって聞いたよ。

 君はドラゴンを見なかったかい?

 こんなところにいたら危ない、さあシェルターに戻ろう!」

 

男は少年の手をとって引き寄せようとした時、

少年の背中に羽が生えていることに気がついて驚いて手を離した。

 

「うわぁー!

 君の背中はどうなっているんだ!?

 まさか、君はドラゴンなのか?」

 

男は恐怖に後ずさりをしながらもそう叫び続けた。

少年は少し苦しそうに胸のあたりを押さえている。

 

「僕、人間が好きです。

 この音楽も好きなんです、聴いてください」

 

少年は苦しみながらもラジカセのボタンを押した。

その行為に恐怖したのか、男は少年に近づいて身柄を拘束しようとした。

ラジカセは音が流れ始めたところですぐに倒れて音楽は止まった。

 

そこで場面は暗転し、しばらく舞台でガタガタと音がし続けた後、

音楽が流れるわけでもなく、ただ暗転した状態が少し長く続いたのち、

少年の叫び声が「キャー!」と響き渡ってなにやら舞台の上で物音がしていた。

蘭々は次にどういう展開になるのだろうと思って瞬きもしないで見つめていると、

しばらくして物音がしなくなったあと、暗転したまま舞台は動かなくなった。

 

(・・・長い暗転っていう演出なのかな・・・?)

 

いつまでたっても場面が切り替わらない舞台の様子にさすがに観客がざわめき始めた。

何かハプニングがあって舞台が止まってしまったのかなと心配になった観客たちは、

もう観劇の途中だということも忘れて声を大きくして話を始めたのだった。

劇に魅せられていた感動がすっかり覚めてしまったのだろう。

蘭々もやがてうっすらと劇の中の世界から現実に引き戻されるのを感じた。

 

舞台にライトが戻らないまま、どういうわけか場内にはアナウンスが流れ始めた。

観劇の途中で大変申し訳ありませんが、舞台上で演者が怪我をしてしまったため、

これ以上は上演することができなくなってしまったという旨の放送が流れる。

それを聞いて観客たちはさらに大声でざわめきの声を上げ始めた。

劇場内の誰もが何が起こったのかわからない説明不足の状況に不満を抱いており、

ある者は舞台に向かって何かを叫んでいたし、ある者は怒り出してさっさと退場し始めた。

とにかく放送は場内からの退場を観客に命じたため、多くの観客達はざわめきながら退場を始めた。

 

蘭々はしばらく席に座ったままで動かなかった。

大好きな宝塚の公演に浸っていたところを強制的に目覚めさせられた気分だった。

あのドラゴンの少年はどうなってしまうのだろう?

このあとの展開は一体どんな風になっていたのだろうか。

あの謎の暗転はどういう事だったのか、主役の子はどんな怪我をしてしまったのか・・・。

 

劇場のドアは解放されており、そこから漏れてくる光がまぶしくなってきた頃、

蘭々は諦めて立ち上がり、観客達に続いて劇場を退出することにした。

入り口のところまでたどり着いた時、多くの観客達は劇場内のスタッフに詰め寄って何やら話をしていた。

何が起こったのか説明が足りないという声や、チケットは払い戻ししてくれるのかなど、

当然と言えば当然のクレームだったが、劇場スタッフ達も情報が十分ではないらしく、

とにかく謝罪をしながら観客をなだめてやり過ごすしかなかったようだ。

 

蘭々はそんなところにいてもどうしようもないと思い、

あのドラゴンの少年はどうなったのだろうと考えながら劇場をあとにした。

 

 

 

・・・

 

「それで、続きはわかんないままなの?」

 

翌日の朝、アルバイトに行く前に椅子に座っていると、

みりんが蘭々に話しかけてきたのだった。

「宝塚はどうだった?」と声をかけてくれたのだが、

「うん・・・」と答えただけで、もうみりんは色々と察してくれたらしかった。

 

早々に立ち去ってしまった蘭々だったが、

その後何かしら情報が入ってくるかと思いながら、

公演のホームページや情報サイトなどをチェックしていたが、

結局、昨夜の詳細は全くわからないまま翌日を迎えてしまったのだった。

チケットの払い戻しについても言及が何もないままであり、

おそらく蘭々だけでなく、多くの観客達が不本意な状況で待ちぼうけを食わされていたに違いなかった。

 

「そんなん詐欺やんか~」

 

遠くから噂を聞きつけた軍団長がトト子と一緒にやってきてそう言った。

せっかく支給したボーナスで買ったチケットが詐欺であるなんていうのは、

軍団長としてはさすがに許せないのかもしれなかった。

 

「まあ、軍団長も結構詐欺まがいの事やってますけどねー」

 

トト子が冷静な様子で軍団長にツッコミを入れた。

 

「ちょっと~!人聞きの悪い事言わんといて~!」

 

「この前だって一生のお願いだからアイス買ってきてって言いましたよね?」

 

「だってアイス食べたかったんやも~ん♡」

 

「その前にも一生のお願いで唐揚げ買ってきてって言ってましたよ」

 

「その時は唐揚げが食べたかったんやも~ん♡」

 

「じゃあもうこれで軍団長の人生の二回分は貸しがありますね」

 

あくまでも冷徹に軍団長を突き放していくトト子に、

「あ~ん、トト子がかっちゅんをいじめる~」とみりんに訴える軍団長。

 

「まあでもそれはトト子の言う事が正しいですからね」と突き放すみりん。

軍団長は頼るべき相手を失ったのか、蘭々にすがるしかなかったのだろう。

だが、直接蘭々に声をかけてすがるのではなく、遠回しに心の距離を近づけようとした。

 

「おお~みんながこんなに〜冷たいんはなんでなんよ~」

 

軍団長は宝塚風の口調で踊りながら蘭々へと距離を詰めた。

そのまま後ろから蘭々の両肩に手を乗せた軍団長は、

蘭々がずっと見つめている携帯の画面を覗き込んだ。

 

「あら、薔薇組やって~、なんか蘭々っぽいなぁ~」

 

画面に映っていた宝塚歌劇団、薔薇組のサイトを見てそんな事を言う軍団長。

薔薇の花が好きだった蘭々は、そう言われるとまんざらでもなく嬉しい。

 

「でも綺麗な花にはトゲがあるって言うからなぁ~

 主役の子も薔薇のトゲに刺さってしもたんやろか~?」

 

チケットの払い戻しもそうだが、蘭々は主役の子も事も気になった。

公演を続けられないほどの怪我なんて、一体どうなってしまったのだろうか?

 

「でもこの公演、簡単に中止できるようなものじゃないと思うんですけどね。

 児玉坂の町おこしって名目で、児玉坂側も結構お金払っていると思いますし、

 オーディションで選ばれた素人の子達にレッスンするのもかなり時間かけてますからね」

 

みりんが言う言葉はもっともだと蘭々は心の中で頷いていた。

数ヶ月前から作り上げてきた舞台を、そう簡単に中止できるとも思えない。

そう考えると、彼女の怪我の具合がどうしても気になってくる。

 

「あれっ、振替公演って書いてあるやん!」

 

携帯の画面を覗き込んでいた軍団長がそう叫ぶと、

考え事をしてボーッとしていた蘭々も慌てて視線を戻す。

更新された薔薇組のホームページには新しい情報がアップデートされていて、

蘭々はその「振替公演」と書かれてある箇所を指でタップした。

想像していたよりも開くのが遅い、おそらく多くの人が同時にアクセスしているのだろう。

「重たい・・・」と言ってからしばらく待った後、開かれたページを蘭々は注意深く読み込む。

 

そこに書かれていたのは昨日の公演中にハプニングが発生してしまったお詫びと、

チケットは払い戻しをせずに近日中に振替公演を行いますという告知だった。

主役の女の子は怪我をしてしまったらしいが、大事には至っていないらしかった。

 

「具体的な日付は書いてへんなー」

 

覗き込んでた軍団長がそう言って、みりんが軽く首をかしげた。

蘭々がいくら探しても振替公演の具体的な日程は見つからず、

昨夜の説明に関しても、これではあまりにも簡単すぎる内容だと思った。

おそらくこの説明に満足しているお客さんはいない事だろう。

もちろん、蘭々もこの程度の説明では納得できなかった。

昨夜に何があり、あの主役の女の子がどうなってしまったのか?

近日中というのは具体的にいつなのか、本当に怪我は大した事ないのか。

かなり大人の事情が絡んでいるとしか思えない曖昧な回答に、

蘭々はため息をつくしかなく、もうこれ以上はどうしようもないと諦めて携帯をしまった。

 

「でもよかったね、また観れるよ」

 

落ち込んでいた蘭々を励まそうとしたのか、トト子がそう言った。

蘭々はとりあえず「うん」と頷いてトト子に微笑みを返した。

説明に納得が言ってないのはみりんから見ればよくわかったが、

みりんもとにかくそれ以上は余計な事を言わないようにした。

 

「あっ、もうこんな時間だ」

 

みりんが携帯で時間を確認すると、バイトの時間が迫っていたので少し慌てて出かける準備を始めた。

みりんが出かけるという事は、蘭々も同じようにピザ屋のバイトの時間が迫っている事になる。

蘭々も立ち上がって荷物を持って玄関まで駆けて行った。

二人が玄関で靴を履いていると、後ろから声が聞こえてきた。

 

「フレー!フレー!みりんちゃん!

 頑張れ!頑張れ!蘭々!」

 

軍団長が応援団長のようにエールを送ってきたのだ。

隣ではトト子が太鼓を叩く振りをしていた。

もちろん、太鼓はないのでエアー太鼓だ。

 

蘭々は声援を受けて少し嬉しくなった。

昨夜の事を共有できた事で心がなんとなく楽になったのもあった。

だが、みりんは同じ思いを抱く事はなかったようだ。

 

「いやエールとか要らないんで、よろず屋の仕事の方、お願いしますよ」

 

みりんが一足先によろず屋を出て行くと、蘭々は後ろから「あー眠たい」という声を聞いた。

蘭々は「水と油」ならぬ「みかんとみりん」だなーと笑いながらよろず屋を後にした。

 

 

 

・・・ 

 

アルバイトに向かう途中、蘭々は少し回り道をしてでも劇場の前を通ってみた。

今となっては昨夜の賑わいは全く感じられず、誰もが忙しそうに劇場の前を通過していく。

昨夜あんな事があった事を誰もが知らないか、興味がないみたいに劇場には見向きもしない。

 

劇場の入り口にある掲示板には急ごしらえな感じで作られた「振替公演決定」という張り紙が出ていた。

薔薇組のポスターの横に無理やり寄せて掲示しただけの簡素なものであり、

とにかくバタバタした騒動の中で対処したのが誰の目にもわかるような代物だった。

 

公演時間外の劇場にはあまりスタッフもおらず、当日券売り場にも人が少なかった。

窓口にわずかに一人だけ座っているが、他の作業を兼任しているのか忙しそうに見える。

蘭々は躊躇しながらも、思い切って振替公演がいつなのかを尋ねてみたりもした。

だが、それはまだわかりません、分かり次第掲示板に張り出しますし、

ホームページも更新されますのでもう少々お待ちくださいという説明だった。

予想していた通りの簡潔で味気ない態度に、蘭々はもうそれ以上追求しようとは思わなかった。

ただ、劇場の入り口のところに簡単なポールが二つほど立てられており、

そのポールを繋ぐように張られているロープによって誰も入れないようにされているのがわかった。

普段からこんな風になっていたかどうか、蘭々の記憶は定かではなかったが、

とにかく何か情報が更新されるまでどうにもできない事だけはわかった。

 

 

・・・

 

 

昨夜の公演中止の出来事はネットニュースにも掲載されていた。

ただ、内容はそれほど大きくなく、児玉坂だけのローカルニュースに過ぎないと思われた。

もちろん、児玉坂の町ではそこそこ大きなニュースとなっており、

バイト先の同僚などは皆この話を一応は知っているようだった。

様々な憶測が飛び交っているが、結局誰も真実を知っているものはいなかった。

 

 

それから数日間、蘭々はなんとなく意気消沈したように日々を過ごしていたのだが、

軍団員もそんな蘭々に気づいてか、それとなく励ましてくれたりもした。

だが、いつまでもそんな事でしょげていても周囲に心配をかけてしまうと思った蘭々は、

もうあまりこの事は考えないようにしようと努めているうちに随分と忘れてしまっていた。

ただチケットだけは取っておいて、振替公演が決まればまた続きを見ればいいと思っていた。

 

 

そうして皆がこの出来事を忘れかけて行った頃、蘭々はまた偶然にもあの劇場の前を通り掛った。

もう掲示板を確認するのは癖になっていて、また無意識で目を向けてしまったのだが、

相変わらず「振替公演決定」とだけ書かれた張り紙が頼りなく張られているだけで、

具体的な日時などは一切わからないままとなっていた。

 

ただ、今日は以前あったあのポールとロープがなくなっているのに気がついた。

チケット売り場を見てもどういうわけか誰も窓口におらず、

ポールに関してもスタッフが準備するのを忘れたのか何かだと思った。

あの日以来、宝塚以外の舞台公演は時々行われていたようだったが、

薔薇組の公演スケジュールがかなり長く抑えられていた関係もあり、

この児玉坂劇場はほとんど寂れた状態になってしまっていた。

通常運転と言えばそうなのだが、それをなんとかするための町おこしだったろうに。

 

ポールとロープがなくなっていた入り口から、蘭々はひょいと中を覗いてみた。

あの日に立ち入った劇場と特に変わっていた様子は何もなかった。

ただ、観客が誰もいないのであの日よりも随分広く見えたものだった。

 

(・・・誰もいないとこんなに広いんだな・・・)

 

以前見た景色とこんなに違って見えるなんて。

そんな風に小さな感動を見つけた蘭々は、遮るものがない入り口に少し足を踏み入れていた。

劇場内は赤い絨毯で敷き詰められており、その赤色に多少興奮してしまったのかもしれなかった。

 

「おい、何をしている」

 

後ろから急に話しかけられたことで蘭々はビクッとなってしまった。

根っからのスーパービビりだと自覚している彼女だったが、

劇場内に無断で足を踏み入れてしまった罪悪感がさらに彼女の心を重たくさせた。

 

「あっ、すいません、ごめんなさい、入る気なんてなかったんです、たまたまロープがなかったから・・・」

 

後ろを振り向いて目をつむりながらひたすらペコペコと頭を何度も下げていた蘭々だったが、

何度目のペコペコかで、もう頭を下げることができなくなった。

前にいる男に手で顎を抑えられてしまったからだった。

蘭々は強制的に顔を上げさせられて前を向かされてしまった。

 

「住居侵入罪で逮捕だな」

 

いきなりそんな事を言われてしまれ、絶体絶命だと思ったのだったが、

無理やり顔を上げさせられてよく見ると、目の前にいるのは知っている男だった。

 

「無断で他人の建物に入るのは犯罪だと誰かに教わらなかったか?

 まあ教わらなかったのはお前が悪い、今までボーッと生きてきた罰だな。

 わからないなら教えてやろう、この場合は三年以下の懲役か十万円以下の罰金に処される。

 さてお前はどっちがお好みだ?」

 

目の前にいる男は以前出会った事のある人だった。

あれは忘れもしない、アルバイトでピザを配達した時だ。

この町の児玉坂教会にピザを届けた時に遅れてしまって説教してきた人だ。

でもなんだか助けてくれたりかばってくれたりしたあの歪んだ人だ。

確か名前は中西とか言ったはずだった。

 

「・・・中西さん、ですよね?」

 

顎を抑えられている姿勢のままで蘭々はそう言った。

周囲から見れば脅されていると見えなくもない様子で。

 

「覚えてたのか、変な所に記憶力を浪費しやがって」

 

そう言って中西はようやく顎から手を離してくれた。

それにしても、どうして彼がこんな所にいるのだろうか。

 

「ごめんなさい、前に来た時にあったロープがなかったので、

 なんかおかしいなーと思ってたら足を踏み入れちゃいました」

 

蘭々は相手が中西だとわかると冷静になって謝罪した。

もしかしてこの劇場のスタッフだったのだろうかと思いながら。

 

「泥棒だってだいたい似たような事を言うんだよ。

 はじめは誰だってそんな大それた事をやろうなんて思わない。

 気づいたら罪の領域に足を踏み入れてたのが大半だ」

 

「私、泥棒なんかじゃありません!」

 

少しムキになって蘭々は応酬した。

嘘をつく事が出来ない蘭々は、誤解される事も大嫌いだった。

 

「じゃあなんだ、劇場に入りたかったのか?」

 

「ちょっとだけ気になったのは事実ですけど、

 本当に入る気なんてなかったんです、信じてください」

 

そこまで言うと、中西はなんだか不敵な笑みを浮かべたように蘭々には見えた。

かすかに口元が歪むあの仕草は、何かゾッとする事を企んでいる人の仕草だと蘭々は思った。

 

「なんだ、入りたかったのか、それならそうと早く言え」

 

「えっ、いや、ちょっと気になっただけで・・・」

 

「こっちだ、早くこいよ」

 

そう言うと中西はつかつかと勝手に劇場の中に入ってしまった。

このままじゃ住居侵入罪になってしまうではないかとオロオロしていたが、

「何してる、早くこい!」と恫喝されてしまったので、蘭々は仕方なく中西の後をついていった。

一歩一歩と踏みしめていく劇場内の赤い絨毯が、まるで焼け付く炎のように感じながら・・・。

 

 

 

・・・

 

「歩くのが遅いぞ」と中西に言われながらも、

蘭々はとにかく必死に彼の後をついていった。

劇場の中では数人の男達が中西に敬礼をしていた。

その態度から見て、中西が普通よりも偉い立場にいる人だという事が見て取れた。

 

中西が向かったのはあの日に蘭々が向かった劇場ではなく、

演者達が出番を待つ控え室の方だった。

蘭々は入った事のない通路にあるドアの前に立つ男に敬礼されると、

ドアを開けてもらって中西に続いて中に通された。

奥にはまだ通路が続いており、そこをどんどん進んでいくと、

左右にいくつもドアがあり部屋が設けられているのがわかった。

中西はそのうちの一つの部屋のドアノブに手を掛けて開ける。

彼は自分がまず中に入っていって蘭々が後から入ると、

蘭々は丁寧に両手でそのドアを音がしないように閉めた。

 

蘭々がドアを閉めてから顔を上げて部屋の中を見ると、

そこはかなり広い間取りになっている部屋で、

中には大勢の人達が集まっているのがわかった。

壁にもたれかかって三角座りをしているもの、

二人組になって何やらダンスの振りを確認しているもの、

椅子に座って腕を組みながらパソコンのキーボードを叩いているもの。

様々な人々の視線が入ってきた中西と蘭々に注がれたのがわかった。

 

「中西さん、その子は?」

 

駆け寄ってきた男がそう尋ねた。

蘭々は見つめられて両手がぴーんとなる。

完全にアウェーの状況で緊張感が体から拭えない。

 

「トップスター候補生だ」

 

中西のその言葉を聞いたものは一斉に顔を上げて蘭々を見た。

蘭々はますます萎縮して目をキョロキョロとさせてしまう。

私がトップスターって一体なんの事だろう・・・?

 

 

・・・

 

 

中西はそのまま部屋の奥にあるドアからさらに中に入った。

蘭々はただ目線を送られてついてこいと促されたので、

ドキドキしながら中西の後をついていくしかなかった。

 

部屋の中に入ると、今度は小さな会議室のような場所だった。

白い壁に掛けられた丸い時計が見えるが、部屋は幾つかの机と椅子が壁際に片付けられている。

必要最小限の机と椅子だけで書類やら写真やらが置かれてあり、

中西はその椅子の一つに深々と腰掛けて蘭々を見た。

 

「お前も座れ」

 

そう言って促されるままに椅子の一つに腰掛けた。

両手を膝の上にちょこんと置いて、蘭々は自分の長い爪を見るように下を向いていた。

 

「トップスターになりたいか?」

 

中西は机の上の資料を漁りながらそう言った。

蘭々の方には視線も向けてくれない。

 

「・・・あの」

 

「なりたいか、なりたくないかだ」

 

「・・・なりたいです」

 

その言葉を聞いた中西は数秒ほど何も言わず黙っていたが、

資料の中から一部を抜き出して蘭々の目の前の机に放り投げた。

ホッチキスで止められてはいたが、ドサッと落ちて無様にページがめくれていた。

 

「お前があの日、薔薇組の公演を観に来ていたことは知っている」

 

「・・・どうしてご存知なんですか?」

 

「入場者のリストを洗った。

 偶然にもお前の名前を見つけた時は笑ったがな」

 

それ以後、中西は口を閉ざしたので、蘭々は目の前に放り出された資料を手に取った。

パラパラとページをめくると、それは何かの台本であることがわかった。

セリフや舞台上での動きの内容などが記されており、

ところどころにはペンで記入したり絵を描いたりしている跡があった。

 

「・・・えっ、これって『最後の境界線』の台本じゃないですか」

 

憧れの舞台の台本が手元にあることに少しばかり感動もあった。

後ろの方のページには物語の結末だって書かれているにちがいない。

だが、これを手に取ることの象徴的な意味を蘭々は薄々感じ取っていた。

 

「私が・・・あの役をやるってことですか・・・?」

 

 

 

・・・

 

「誰もやりたがらないんだよ、お前以外」

 

中西はニヤッと笑ってそう言った。

蘭々は何か彼の思惑に乗せられていることはわかってうろたえた。

 

「あの日、主役を演じていた女は今は病院のベッドの上だ。

 別に身体に問題があるわけじゃない、精神面で療養が必要でな」

 

その言葉を聞いて身体がすくんだ。

公演をストップせざるを得ないほどの精神的なショックを受けたということだろうか。

 

「一応、転んで怪我をしたことに表向きはなっていたと思うが、

 別に彼女は転んだりしていない、衣装はボロボロになったがな」

 

中西はテーブルの上に置いてあった冷めた缶コーヒーを一口飲んだ。

冷めていようが飲み物が何であろうがかまわない様子だった。

 

「劇の途中で暗転した後、彼女はどうやら誰かに斬りつけられたらしい。

 だが、幸いな事に彼女の肉体にはほとんど怪我はなかった。

 しかし衣装に関してはズタボロに切り刻まれてしまったので一から仕立て直しになったんだ」

 

蘭々は目の前で語られていることが現実だとは到底信じられなかった。

ただ劇の途中で転んで怪我してしまったという事だから、

重たくても骨折程度の怪我だと思っていたのだ。

もちろん、実際には怪我はほとんどなかったと言うが、

衣装を切り刻まれる方が精神的にはショックが大きかった。

 

「初めはあの場面で組み合った男役が怪しいかと疑われたが、

 被害者の証言を聞いてもどうも辻褄が合わない。 

 彼女の言い分では、あの男役が離れた後でまた別の誰かに襲われたらしい。

 そうなると、あの場にいた観客も含めて全ての人に犯行が可能になる。

 どうやったか知らないが、暗転のどさくさに紛れ込んだことになるな」

 

缶コーヒーを飲み干した中西は、器用にもその空き缶を隅っこのゴミ箱へ放り投げた。

空き缶は見事にゴミ箱に吸い込まれて「カーン」と高い音を立てた。

どうやらゴミ箱にはもうすでに他の空き缶が捨てられていたらしく、

それとぶつかった音が会議室の中に虚しく響いたのだった。

 

「それでお前も知っての通り、公演中止になった。

 だが、この公演を取りやめるのを反対する人々も多くいる。

 特に今回宝塚にオファーをかけたこの町のお偉いさん方がな。

 こんな不吉な事件で取りやめになったら投資費用が回収できない。

 忌まわしい記憶と悪印象だけをこの町に残すことになるからな。

 だからチケットの払い戻しには応じない、しかし主役をやりたがるやつがいない」

 

そこまで聞いて蘭々は手に持っていた台本を机の上に放して立ち上がった。

これはとんでもないことに巻き込まれていると身をもって理解したのだった。

 

「どうした、逃げるのか?」

 

中西は挑発的にそんなことを言ったが、

蘭々は言葉にならない想いを抱えていた。

そんな危険なこと、私だって絶対にやりたくはない・・・。

 

「逃げるのなら逮捕する。

 住居侵入罪は懲役三年以下か十万円以下の罰金に・・・」

 

中西はそんな脅しをかけていたが、

蘭々はもう何も言わずに出口のドアに歩いて行った。

ドアノブに手をかけて彼を無視して出て行こうとする。

 

「それでいいのか?」

 

ドアノブを回しかけて手を止めた。

怖くてドアノブを持つ手が震えているのがわかった。

自分の身体が震えている、心を強く持とうと考えたって震えは止まらない。

これはもっと身体の奥底から鳴り響いてくる地震みたいに思えた。

震源地は心の奥深く、無意識の領域から余震を響かせてくる。

 

「冗談だよ。

 別にやめても構わないさ。

 だが、この事は誰にもいうなよ。

 限られた人しか知らないトップシークレットだ。

 秘密を漏らしたら、本当にお前を逮捕しなけりゃならなくなる」

 

ドアノブを持つ右手の震えを止めるために左手で右手をつかんだ。

だが、その左手も震えていて、理由の分からない涙が溢れてきた。

この葛藤は今に始まったことじゃない、ずっと昔から知っていた感情な気がした。

恐れから逃げてはいけないという想い、弱さに向き合わなければならないというプレッシャー。

彼女の代役になるということは今までにないほどにスケールの大きな、

そしてリスクの大きすぎる目の前に現れた壁ではあったけれど、

彼女の人生全てを翻弄している根源的な何かとそれは酷似している気がした。

 

酸素が薄い。

 

蘭々は部屋の酸素がとても足りない気がした。

まるで高い山に登っていくみたいに呼吸が苦しくなる。

そんな無茶な行為をどうしてしなければならないのか分からない。

分からないけれど、その山に登らなければ自分自身に敗北することは明白だ。

誰もやらないことをやらなければならない、そうでなければ自我が保てない。

私が私でいることができない、この世界に存在する意味が剥ぎ取られていく。

 

「それがお前の答えでいいのか?」

 

孤独。

 

どうしてこんな感情と向き合わなければいけないのか。

誰かに助けて欲しいと心から願う、だけどそれを振り払って強くならなければいけない。

弱い自分でいることは許されない、誰にも認めてもらえなくなる。

それは私がここにいる理由すら奪われてしまうことになる。

 

「大丈夫だ、俺が守ってやる」

 

左手で震える右手をドアノブからなんとか奪い取り、

顔中からあらゆる水分が出てしまってるんじゃないかと思うほどの顔で蘭々は中西の方を振り返った。

誰にも見せたくない自分の弱い顔、あまりにも情けなくて醜い顔だと思った。

そんな顔を見られたくないから、普段から努力だって他人に見せたこともなかったし、

自分を鼓舞するような強い言葉を自分自身にふっかけてきたのに。

 

「もう一度言う、俺が死んでも守ってやる。

 それが俺の仕事だ、刑事としてのな」

 

中西は立ち上がって蘭々の投げ出した台本を拾うと、

蘭々の元へ歩いて行って手を取ってそれをつかませた。

 

「すでに俺の中で犯人の目星はついてる。

 あとは囮捜査でその正体を暴くだけだ。

 リスクを減らす方法だって色々と検討済みだ。

 お前はただ楽しんで役割を全うすればいい」

 

蘭々の手を離し、中西は両手をズボンのポケットに突っ込んだ。

 

「もう一度聞くぞ、トップスターになりたいか?」

 

この問いの重さを実感しながら、苦しくとも選択できる答えはひとつしかなかった。

 

「・・・なりたいです」

 

嗚咽が出そうな恐怖を飲み込んでそう言った代わりに、

彼女の瞳からボロボロと涙が溢れて台本の上に落ちた。

台本の紙の色が濃くなって沁みて広がっていく。

 

「気分が落ち着いたらこのドアを開けてこい。

 トップスターとしてのレッスン開始だ」

 

中西はそう言ってドアを開けて会議室を出て行った。

 

 

 

・・・

 

中西が出て行ってから、一人残された蘭々に恐怖が襲ってきた。

本当にとんでもないことを引き受けてしまったという実感が一気に噴出し、

部屋に一人だけ残されているという事実が何よりも怖かった。

 

その酸素が足りないような空間には長くいることもできず、

蘭々はやがてドアを開けて出て行くと、先ほど見かけた人々がみな蘭々へ視線をやる。

「この子が新しく主役を引き受けた子か、かわいそうに」とでもいうような憐れみと好奇心の混じった目で。

 

 

振替公演の日程はまだ本当に決まっていないようだったが、

これ以上は延長させることもできないと運営側は考えていたようで、

蘭々のレッスンを開始させると同時に再演の日程を検討し始めたようだった。

 

蘭々は覚悟を決めてレッスンを受けることにした。

監督や演出家の方々を紹介されて自己紹介をしていると、

やがてこの部屋に入ってくるひときわオーラのある方々が目に入った。

蘭々にはそれが専科の方々であることは一目見てすぐにわかった。

憧れの宝塚の方々を目の前にして、本当にすごい舞台に選ばれたのだという実感も湧いてきた。

それと同時に自分で役割が務まるだろうかという主役へのプレッシャーも感じ始めた。

実際にレッスンを始めてみると、先ほど中西が語ったような怖い思いは微塵も感じず、

ただ憧れの舞台に登るのだという嬉しさと感動の方が勝ってきたのだった。

恐怖の感覚が一時的に麻痺しているだけだとは理解していたのだが、

それでもこの夢みたいな現実を目の当たりにしていることが嬉しくてたまらなかった。

 

憧れの方々に指導されてその日のレッスンを終えた蘭々は、

帰る前に中西に挨拶をしようと会議室へと向かった。

ノックをしても返事がないのでおそるおそるドアを開けると、

中西はソファーに横たわって腕を組んで眠っているようだった。

 

起こさないようにしようと思ってそっとドアを閉めようとしたが、

「どうした」と中西から声をかけられてビクッとしてドアをまた開ける。

「ごめんなさい、お邪魔でした!」と謝罪の言葉を口にしたが、

「気にするな」と中西は優しげな言葉を返して少し不気味にも思えた。

 

「レッスンはどうだった?」

 

中西は寝そべって動かないまま声をかけてきた。

蘭々はドアに身体を滑らせるようにして中に入った。

 

「あの・・・とっても楽しかったです」

 

「・・・そうか」

 

そう呟いたまま中西は動かなかった。

おそらく捜査に関わってほとんど眠っていないのだと蘭々は思った。

もうこれ以上邪魔しないうちに退散しようと思った。

 

「個人的な怨恨であればもう事件は起こり得ない。

 当事者はもういないんだからな。

 お前を襲う理由だってないはずだ」

 

中西は急にそんなことを言った。

忘れていた事件の実感が戻って来る気もしたが、

不安を減らそうとしてくれているのだとも思った。

 

「当日の警察のガードは完璧だ。

 劇場内に私服警官を送り込んでいるし、

 遠くからモニターで24時間監視をしている。

 今度は持ち物検査も入り口で実施する予定だ。

 あの時は事件が起こる予兆もなかったからやられたが、

 これだけ事前に準備を整えていれば犯人も簡単には事件を起こせない。

 起こしたところで俺たちに捕らえられておしまいだ。

 しかも、もうほぼ99%は犯人を特定できている。

 あとは証拠がないだけなんだ」

 

中西は中西なりに責任を感じているのだと思った。

彼女を守るために、色々と手段を考えてくれているのだ。

 

「現状はそんな感じだ」

 

こんな役割を背負わせた彼女に対して、

彼は報告する義務があると考えていたのかもしれない。

 

「じゃあ、また明日な」

 

中西はそう言ってまた眠ってしまったようだった。

蘭々は声をかけるのもやめてドアをそっと閉めて会議室をあとにした。

 

 

 

・・・

 

「蘭々おかえりー、どこいってたのー?」

 

よろず屋の引き戸を開けると、トト子のいつもどおりの明るい声が響く。

今日劇場で起きたことなんて嘘だったような平和がここにはある。

 

「あっ、蘭々おかえりー。

 今日はお鍋だよー、寒いからね」

 

向こう側で夕食の準備をしていたみりんがこっちを見てそう言った。

鍋つかみを手にはめながら、熱々の鍋をこたつまで運ぶ。

 

洗面所で手を洗ってうがいをして、蘭々は目の前の鏡を見つめた。

今日はたくさん泣いただけあって、とても疲れた顔をしていた。

 

みんなのいる部屋に戻ると、軍団長は特等席にスタンバイしている。

「白米様はまだ~?」とみりんにご飯を持ってくるのを急かしていた。

 

蘭々もこたつの一角に座ると、トト子がご飯の入った茶碗を手渡してくれた。

目の前にはグツグツと煮えたぎっている鍋があり、湯気を放ちながら部屋の温度を上げている。

「いっただっきま~す♡」と声を上げて軍団長が鍋に箸を伸ばす。

トト子も好きなものを取ろうとマイペースに箸を突っ込む。

蘭々は疲れもあって積極的に箸を動かすことはなく、

目の前で美味しそうな具材が取られていくのをただじっと見ていた。

 

それに気づいたみりんが気を使ってくれて具材を取ってくれた。

お肉や野菜などから湯気が上がっていて、見ているだけでも体温が上がる気がした。

 

「どうしたの蘭々、どっか身体でも悪いの?」

 

みりんが顔を覗き込んで心配してくれていた。

ハッと気づいてブンブンと首を横に振る。

 

「ううん、大丈夫だよ」

 

「早く食べないと軍団長に全部食べられちゃうよ」

 

みりんが食料事情の心配をする。

特に蘭々はピザ屋でアルバイトをしている収入があるのだから、

何も遠慮することはないとみりんは考えていた。

「働かざるもの食うべからず」だと思うのだ。

もちろん、みりんはトト子には甘くなってしまうのだけれど。

 

「こらー、うちはそんなに意地汚くないわ~!」

 

と言いながら軍団長はお鍋の中身をどんどん減らしていく。

食べているときの彼女は満面の笑みなので幸せそうだ。

彼女にとっては白米様が恋人みたいなものなのだ。

 

「・・・あのね」

 

蘭々はお箸をテーブルの上に置いてかしこまった。

トト子もみりんも何事かと視線を向ける。

軍団長は手を止めないけれども視線だけは向けた。

 

「これに、選ばれちゃいました」

 

蘭々はそう言って鞄の中から台本を取り出して見せた。

みりんがそれを受け取って中身をペラペラとめくる。

「えっ、これこないだの宝塚のやつ?」とみりんが驚く。

「えー、すごいじゃん」と感情がわからないニュアンスでトト子が続いた。

 

その時、カランカランと音がした。

軍団長が手に持っていた箸を落としたのだった。

一同はびっくりして蘭々よりも軍団長に注意を引かれてしまった。

 

「・・・トト子ー!うちがキープしてたお肉取ったやろー!

 このゾーンは軍団長エリアって決まってんのにー!」

 

「えっ、ああ、弱肉強食ですよね?

 軍団長がよく言ってるじゃないですか」

 

冷静な口調でそう言いながら、トト子はひょいとお箸でお肉を掴んで口に運んだ。

お鍋の日は大抵こんな風にケンカになるのだ。

 

蘭々はその様子を見てから「ふふふ」と自然と笑みがこぼれた。

こんな危険な役に決まったなんて、どう報告しようかと思っていたが、

ひとりよがりな考えすぎだったかと思えてきたのだった。

 

「えっ、私もお肉食べた~い」

 

元気が出てきた蘭々は箸を取って軍団長のお肉をひょいと奪った。

トト子の動きを徹底マークしていた軍団長は、

逆サイドから蘭々が攻めてくるとは予想しておらず、

挟撃される形で大切なお肉を死守することができずに「ああ~っ!」と声を上げた。

 

それからというもの、軍団長は両手でお箸を持つようになり、

まるでカニのようなスタイルでお肉のディフェンスを始めたのだった。

箸を伸ばすとハサミのような箸で払われるために近づけない。

それを見たトト子が、部屋の隅に置いてあったミカンを投げつけた。

まだ青いミカンを投げつけたので「さるかに合戦が始まったね」とみりんが上手いこと言った。

 

「あれってさるが悪者だったっけ?」

 

野菜を食べながら蘭々がみりんに尋ねる。

 

「まあ、うちらの場合はカニが完全に悪者だけどね」

 

熱々の鍋の中で「うりゃうりゃ!」と他人の箸を蹴散らす軍団長は、

少し火照っていて頬がカニのように真っ赤になっていたように蘭々には見えた。

 

 

・・・

 

 

「蘭々~、先行くよ~」

 

翌朝、みりんがよろず屋を出てアルバイトに向かった。

蘭々も少し後に出かける、ピザ屋のアルバイトにいくためだ。

 

蘭々はよろず屋を出る前に、鞄の中に台本をしまった。

昨夜も興奮して眠れなくなって取り出してつい読んでしまっていた。

もともと書き込みがあったが、すでに自分でも書き込みを加えていた。

それを鞄に入れ忘れそうになってしまったのだった。

 

出かける前に机に突っ伏して寝ている軍団長が目に入った。

よだれを垂らして寝ている姿を見ていると、

さるかに合戦に敗れて潰れてしまったカニのようにも見えた。

青いミカンばかりだとかわいそうなので、

蘭々はそっと彼女が寝ている机にちゃんと橙色になっているミカンを置いてきた。

これで今夜はさるかに合戦が回避できるかな、なんて思いながら。

 

ピザ屋の仕事をしている時も、なんだかワクワクが止まらない。

ピザを焼いていても、配達の準備をしていても、

なんだか自分が主役になったように世界が見えてきた。

ミュージカルのようにピザを焼くのも悪くないと妄想し、

まるで店内でダンスでも踊り出したいくらいの気持ちだった。

「あれー、なんかいいことでもあったんー?」と店長に尋ねられ、

「えへへ、なんでもないでーす」と返答しておいた。

薔薇組の主役に選ばれたことはまだ軍団員以外には秘密だった。

 

休憩中にも蘭々は台本を読み、誰かが休憩室にやってくると、

急いでその台本を背中の後ろに隠した。

世間の人々はまだ振替公演が行われることぐらいしか知らないし、

秘密を漏らしてしまえば中西に逮捕されてしまいかねない。

そんな誰も知らない秘密を抱えていることも蘭々にとっては嬉しかった。

 

 

ピザ屋のアルバイトを終えて、蘭々は駆け足で劇場へと向かった。

他の演者達はお昼からレッスンをしているのだが、

自分はアルバイトがあるために終わってからしか参加できなかった。

プロのレッスンを受けられる時間は限られているのに、

振替公演までそれほど時間はないと告げられていたのだ。

焦る気持ちが自然と彼女の足を駆け足にさせた。

 

劇場の入り口でパスを見せて中に入った。

元々は公演予定が入っていた日程だったので、

薔薇組はこの期間はずっとレッスン場と控室を使わせてもらったいた。

今回の事件でさらに期間を延長することになったのだが、

できるだけ早めに振替公演をしなければならないのは確かだった。

 

赤い絨毯が敷き詰められた通路を進み、威勢良くドアを開ける。

レッスンルームに入った蘭々はできるだけ元気に挨拶して見せた。

そこには監督と話し合っている中西の姿が見えた。

普段は奥の会議室で仕事をしているか、どこかへ出てしまうのが常だったので、

監督と話をしているのは珍しいことだと思ったのだ。

 

「ちょうどいいところに来たな」

 

中西はそう言うと、蘭々の方へと歩いてきた。

何をまた叱られるのだろうと身構えていたが、

中西は予想外にも柔らかな笑みを浮かべていた。

 

「すまんな、主演は取り止めだ」

 

中西はそう言って「ふぅ」と息を吐いた。

相変わらずポケットに両手を突っ込んだままである。

 

「これからまた代わりを探すことにする。

 お前はもう用済みだ、帰ってくれていいぞ」

 

そう言うと中西は振り返ってスタスタと歩き出した。

会議室の方向へと引きこもるつもりのように見えた。

蘭々はいきなり何が起こっているのかわからず、

あれだけ期待していた未来が裏切られたことで心が縮んでいく気がした。

まるで何か重石にでも引っ張られるように心も体も重たく感じる。

 

「・・・すいません、これって、どういうことですか?」

 

激しい思いに駆られて声を荒ぶらせてしまった。

燃えるような怒りが彼女のハートに火をつけたのがわかった。

 

「なんでですか、私の力が足りないからですか?

 トップスターにふさわしくないからですか?」

 

悔しさがジワジワと心に沁みてきて、

それがオイルとなって心をさらに燃え上がらせる。

 

「だってまだ何も始まってないじゃないですか!

 せっかくこれから色々とやって行こうって決めたばっかりなのに!

 まだ何も見てないのに私のことを決めつけないでください!」

 

蘭々には覚悟したという思いがあった。

あれだけ怖い思いをさせておいて、その怖さを飲み込んだ覚悟なのに、

それをこんな形で終わらせるなんてのは絶対に許せなかった。

 

「・・・悪かったな、お前が悪かったんじゃない。

 今回の件はあまりに危険すぎる、ここらで身を引いた方がいい」

 

そう言って中西は歩いていってしまう。

会議室のドアノブに手をかけて入っていく後ろ姿を見て、

ついに燃え上がる心の炎が蘭々の瞳にまで火をつけた。

 

中に入っていく中西の背中を目掛けて駆け出して、

ドアに入っていく中西について会議室に入った。

 

「だって中西さんが言ったんじゃないですか!

 トップスターになりたいかって!

 だから私は怖いけどやるって決めたのに!」

 

「だから悪かったって言ってるだろうが」

 

中西は止まらずに歩き続けてソファーに横になってしまった。

そばに置いていたブランケットをとって肩まで被った。

中西は蘭々から完全に顔を背けてしまったが、

蘭々も止まらずに彼の横に立って言葉を止めない。

 

「私がトップスターにふさわしくないって、

 そういう先入観だけで見ないでください。

 私はそんなもの壊します、私は私が決めたい」

 

蘭々は鋭い口調で次々と言葉を放ったが、

ソファーに横になった中西は何も言わなかった。

 

「死んでも守ってやるって言ったじゃないですか!?」

 

「うるせぇな」

 

中西も少しイライラしている口調になっていた。

だが、ビビりのはずの蘭々はひるむ様子もない。

 

「あの言葉、嘘だったんですか!

 私、すごく嬉しかったのに!」

 

「うるせぇって言ってんだろ」

 

「あんなこと言われたことなかったから、

 信じてもいいかなって思えたのに!」

 

中西は横になったまま「はぁ」とため息をついた。

聞き分けのない子供の相手は疲れるとでも言わんばかりに。

 

「相変わらず、うるせー口だな」

 

ブランケットを剥ぎ取って中西は顔を近づけてきた。

顔が近すぎて驚いて体を引いてしまったが、

中西は突然右手で蘭々の頬を掴んで口を閉じさせようとしたらしい。

蘭々の顔はむにゅっと凹んだ形になった。

 

「諦めの悪いやつだ」

 

そう言って中西は蘭々の頬から右手を離した。

 

「だって諦めが悪いのだけが私の強みですから・・・」

 

強い眼差しで中西をまっすぐ見つめて蘭々はそう言った。

 

「危険だとわかっててもやるってのか?

 後悔はしないんだな?」

 

蘭々を鋭い眼差しで睨むようにして中西はそう尋ねた。

 

「はい!私はそういう人間です!」

 

「・・・好きにしろ」

 

そう言うと中西はまたブランケットを肩まで被って横になった。

中西がそう言ったので、蘭々は「はい!ありがとうございます!」と律儀にお礼を言って部屋を出た。

ドアを開けてレッスンルームに戻ると、声が大きかったのか、おそらくみんなに一部始終を聞かれていたようだった。

向こう側から監督が近づいてきて「じゃあ、レッスンを始めようか」と言ってくれた。

 

 

 

・・・

 

「・・・それでね、私すごいわーわー言っちゃって」

 

よろず屋に帰ってきた蘭々は夕食の席にいた。

先日はお鍋で多少贅沢をしたからか、

今晩はカレーだったけれど、別に不満はなかった。

 

レッスンがとても充実していたからか、

少し興奮気味に今日の出来事をみんなに報告した蘭々は、

中西と少し言い合いになったこと、それでも役を譲らなかった事を熱っぽく語った。

だが、一つだけ嘘をついていたのは、この主役を演じる事のリスクだった。

まさか前回の公演で主役の子が襲われたなんて言ったらみんなは心配するだろう。

だから、その部分だけは伏せるようにしてうまく話をしておいた。

 

「でね、それでね、勝手にしろとか言ったの。

 だから私、もう勝手にレッスン受けてきちゃった。

 明日からもまたバイト終わりにレッスン受けちゃうんだー」

 

楽しそうに話をする蘭々の相手をするのはみりんだった。

トト子もカレーを黙々と食べているようだったが、

たぶん、話を聞いてくれていたように蘭々は思った。

軍団長は先日のお鍋と比較するとグレードダウンした夕食が気に食わないのか、

少し不満そうにカレーを口に運んでいた。

もちろん、口に入れた後は幸せそうな表情になるのだが。

 

「へぇー、よかったじゃん、なんか蘭々生き生きとしてるよね」

 

「よかったねー」

 

みりんとトト子がそれぞれ彼女らなりの言葉をかけて祝福してくれた。

トト子の場合は感情がこもっているのか不明だったが、

もう普段から慣れているやりとりだったので、

これは彼女なりに祝福してくれていると蘭々は解釈した。

 

「・・・なんかごめんね」

 

蘭々はどういうわけか謝った。

ちょっとしたことでも謝ってしまうのは彼女の癖なのだが。

 

「何が?」

 

「薔薇組に加入前からもっとちゃんとみんなに相談をするべきだったかなって思ったから・・・」

 

勝手に台本をもらってしまったのは偶然なのだったが、

それでもこんな危ないことを引き受けているという後ろめたさがあったのだろう。

蘭々は勝手にこんな状況になっていることが説明不足だと彼女自身は思ったのだ。

もちろん、その危ない部分についてはみんなには黙っているのだったが。

 

「えっ、何、カニうまい!?」

 

軍団長が過敏に反応してそう言ったのでみんなは驚いた。

 

「違いますよ軍団長、カニうまいじゃなくて加入前って言ったんですよ。

 ていうかカニは軍団長でしょうに」

 

軍団長はどうやら蘭々が黙って美味しいものを食べたと思っていたようだ。

それでカニうまいなんて彼女が言ったように聞き違えたのだ。

それを昨夜のさるかに合戦を思い出してみりんがあなたがカニでしょと言ったのである。

 

「軍団長、よかったらこのみかんの種とカレーを交換しませんか?」

 

突然、トト子が人差し指と親指でみかんの種をつまんで見せてそんなことを言った。

 

「えっ、どういうこと?」

 

蘭々はよくわからなくてみりんに尋ねた。

 

「ああ、なんか昨日の夜に携帯で『さるかに合戦』って調べてたみたい。

 カニが持ってるおにぎりと柿の種を交換しようってさるは提案するんだよ」

 

トト子はニコニコしながら軍団長の方を見つめている。

軍団長は自分のカレーを両腕で隠すようにして拒否の姿勢を示した。

 

「それで、その後はどうなるの?」

 

「さるは騙してカニのおにぎりを食べちゃって、

 柿の種を植えてできた柿をとれないカニはまたさるに騙されちゃうんだよ」

 

軍団長はカレーを死守する姿勢で隠しながら食べていた。

トト子はつまんでいるみかんの種を押し付けようとしてくるので、

軍団長は「もう、トト子ー!」と嫌がっているようだ。

だが、嫌がれば嫌がるほどトト子の笑顔はレベルを上げていく。

 

「うちのカレーは絶対に渡さへんからー!」

 

軍団長はカレーを持ったまま向こうに行ってしまった。

トト子もみかんの種を持ったまま軍団長を追いかけた。

 

「二人とも子供みたいだね」

 

蘭々はそう言って楽しそうに笑った。

みりんは苦笑していたようだったけれど。

 

 

・・・

 

 

「それでね、次はトト子が出てくる番だよ」

 

夕食を終えた四人は蘭々の劇を演じ始めた。

というよりも蘭々が台本を片手に熱っぽく語るので、

みりんが「じゃあやってみよーよ」と提案したのだ。

 

それぞれ役を割り振り、メモ用紙にセリフを書き写して、

主役の少年を蘭々が演じ、その他を三人がカバーするのだった。

 

「ドラゴンを殺せー。

 人間にとって邪魔なドラゴンは敵だー」

 

トト子はメモ用紙に書かれたセリフを見ながらそう言った。

かなり鬼気迫る感じになるはずの場面だが、

淡々とマイペースに語りすぎて鬼気迫る感じがない。

 

「トト子、ここは人間とドラゴンが敵対する場面だからもうちょっと強い口調で」

 

みりんがそうアドバイスすると、トト子はもう一度同じセリフを言って見せた。

今度は先ほどよりも少し鬼気迫る感じが出ていたので「いい感じだよ」とみりんが褒めた。

 

「ドラゴンの母役はやっぱりみりんかなー」

 

「やっぱそうなっちゃう?」

 

蘭々が決めた配役に、一同は異論がないようだった。

実際に演じてみても、みりんは演技もかなり上手だったし、

さすがに色々と苦労しているだけあって母親の感じがよく出ていた。

 

「さすがみりんちゃんやなー」

 

「おかげさまで」

 

軍団長はキャッキャと騒いでいるようでみりんの皮肉は通じなかったようだ。

いや、わかっていて無視をしている可能性もかなり高いと思えた。

 

「えー、じゃあうちはー?」

 

「えーっと、軍団長はこの場面では役がないので・・・」

 

役を欲する軍団長に適切な役がこの場面ではまだないので蘭々は困った。

この場面では畑に生えているトマトかラジカセくらいしかない。

トト子が「トマトー」と言ったので「じゃあとりあえずトマトで」とみりんが仕切った。

 

「うちはトマトじゃなくてミカンやー!」

 

軍団長は怒った様子でプク顔をして見せた。

 

「いい感じに熟れてますね」

 

みりんがそう言ったので、もう軍団長は膨れて突っ立っていた。

それがいい感じにトマト役に当てはまってくれて蘭々は申し訳ないけれど笑った。

 

 

そんな風にして劇の練習は進んで行ったのだった。

よろず屋のメンバーも協力してくれたおかげで、

蘭々はアルバイトのせいでレッスンの時間が足りないのを補うことができた。

 

 

・・・

 

 

劇の練習がひと段落した休憩中、部屋には蘭々とトト子だけになっていた。

軍団長はトマト役をしている間にうつらうつらと眠そうにしていたし、

終わるとすぐにどこかへ行ってしまったのだった。

みりんは休憩のために何か飲み物でも準備してくれているようだった。

 

「ごめんね、いつもいつも・・・」

 

蘭々は隣に座っていたトト子にそう切り出した。

 

「何が?」

 

「私、何もできなくて」

 

劇の練習を手伝ってくれていたのだが、

蘭々はどうやらまだまだ自分のパフォーマンスに納得がいっていないようだった。

セリフの言い回しやダンス、歌のどれをとっても、

専科の人達はおろか、他の素人上がりの生徒達にもかなわないと思っていた。

 

「できなくてもいいじゃん。

 そのための4人なんだし」

 

「でも・・・力になれなくて」

 

劇の手伝いをしてくれていたのが申し訳なかったのかもしれない。

普段はあまりこんな風にトト子の力になってあげてもいないのに、

こんな時だけ自分ばっかり助けてもらってなんだか悪い気がした。

 

「大丈夫だよ、私だってできないことたくさんあるし」

 

そう言ったトト子の脳裏には二つの選択肢が浮かんでいた。

一つは宝塚の話をして蘭々を喜ばせること。

もう一つはただ思い立って踊るというもの。

蘭々を励ます方法を考えた末にトト子は後者を選んだようだ。

 

椅子から立ち上がってトト子は急に踊り始めた。

それを見た蘭々もトト子に合わせて踊った。

そうしているうちになんだか楽しくなってきて、

いつの間にか二人は笑顔で一緒にダンスを踊っていた。

 

すると突然、トト子が足を滑らせて転倒したようだった。

それに気づいた蘭々が駆け寄ってトト子の身体を揺する。

 

「トト子!トト子!」

 

今、この部屋には二人しかいなかった。

軍団長やみりんがいない時にこんなことになるなんて、

蘭々はきっと正義なんてなかったのだと思った。

 

トト子の身体を揺すり続けても反応がない。

私が落ち込んでしまったばっかりにトト子が励まそうとして、

それでこんな風に踊り始めて、だから転んでしまった。

ネガティブスパイラルに落ちていった蘭々は、

そんな風に考えてしまうと悲しくなってきた。

いつの間にか気付いたら目から涙がポタポタと落ちていた。

その涙はトト子の頬の上にも落ちて、

どういうわけかトト子はそれで目を覚ました。

 

「蘭々、背中・・・」

 

目覚めたトト子は蘭々の背中に白い翼が生えているのが見えた気がした。

まさかドラゴンの少年を演じているうちに、本当にドラゴンになってしまったかと思ったが、

その蘭々の後ろに軍団長がいるのが見えてどうやらこれは夢ではないと気づいた。

 

「じゃ~ん!どうこれ?」

 

蘭々が振り返ると、背中には白い翼が見えた。

なんだろうと思って手を伸ばして触れてみてわかった。

 

「・・・羽毛ぶとんの羽?」

 

「ピンポーン!

 さっき寝ようと思ってたらなんか布団から出てきて、

 面白くなってきて集めたら翼みたいになってん!

 どう、めっちゃドラゴンの翼っぽいやろ?」

 

軍団長がそんなことを言っていると、

お茶の準備ができたのかみりんが戻ってきた。

蘭々の背中についている羽を見て驚いていたが、

羽毛ぶとんの羽だとわかると「軍団長!これ高かったのに!」と激怒し始めた。

「ちゃうねんちゃうねん、勝手に抜けてきてん」と慌てて言い訳をしたのだが、

「いやいや、勝手にこんなに抜けないでしょう」と冷静に論破していくみりん。

おそらく少しだけ抜けたのを面白がってたくさん抜いたのは明らかだった。

 

そこからはみりんのお説教タイムだった。

トト子は起き上がるともうふわふわとどこかへ逃げてしまったし、

軍団長はしょげた子供みたいになってしまっていた。

蘭々はなんだか自分のせいで色々と申し訳ない気持ちになったのだが、

こんなに協力してくれる軍団員がいるのだから、

本番では絶対に成功させなければいけないと思った。

衣装ではもっと豪華なドラゴンの翼は用意される予定だったが、

この羽毛ぶとんの翼も、蘭々にとっては大切な宝物となったのだった。

 

そして、この翌日に軍団長は風邪を引いた。

羽毛が足りなくて寒かったんでしょとみりんがズバッと言い切った。

軍団長は何も言わずに服をたくさん着込んで椅子に座って震えていたのだった。

 

そういえば「さるかに合戦」の物語に込められた主題は「因果応報」らしい。

もちろん「さるかに合戦」は、勝手なことばっかりするカニはひどい目にあったとさ、

という物語ではなかったのだけれど・・・。

 

 

 

・・・

 

翌日、蘭々が劇場を訪れた時には振替公演の日程が決定していた。

契約上の問題など様々な大人の事情が考慮されながらも、

新しく主役となった蘭々のレッスンやプロモーションの時間も必要なので、

もろもろの事情を含めて公演日程は1ヶ月後と決まったようだった。

 

前回の少年役の子は転んでしまって怪我をしたということで公表された。

契約上の問題で復帰には間に合わないので代役を立てるという事で世間の理解を得たのだ。

代役は偶然にも前回の公演を観に来ていた女の子だという事も宣伝され、

蘭々を主役に据えた新しい公演ポスターも作成されて劇場にも張り出されることになった。

 

だが、契約上の問題があり、振替公演はたった1回しかできない事になった。

本当は何公演も行っていく予定を立てていたのだが、もうそれほど時間はなく、

この企画に投資したお偉いさん方の収支はおそらくマイナスになる事は間違いなかったが、

とにかく一度でも成功した実績があればまた次回があるという考え方で落ち着いた。

宙に浮いてしまっている今回の事件をとにかく収めてしまう事が肝要だったのだ。

 

蘭々が主役だと発表されてから、彼女はピザ屋でも有名になっていった。

店長は優しいのでアルバイトのシフトをかなり考慮してくれることになった。

他のアルバイトスタッフもそれなら蘭々の分を補ってもいいと納得してくれたのだ。

こうして少しでも練習時間が取れるのが何よりもありがたい事だった。

 

しかし、周囲が異様に盛り上がっていくテンションに、

蘭々は同じように燃え上がっていくことはできなかった。

それは誰も知らないこの事件の危険性を強く意識していくことになったからだ。

秘密にしているその部分が、秘密にすればするほど後ろめたさとリスクが蘭々には際立って見えてくる。

余計なことを考えてしまうたびに、余計なことは考えないようにしようと自分を奮い立たせた。

 

よろず屋に帰ってからの軍団員との練習も続いた。

誰一人として嫌な顔をすることなく、むしろ応援してくれていて、

軍団長などはトマトの役でも文句を言わずに突っ立ってくれていたし、

みりんなどはドラゴンの母親役が板についてきていた。

「もう台本なくてもセリフわかるよ」と言うほどに上達していたのだ。

時々、台本にないアドリブを入れてくる軍団長に対しては、

「やめてください」と言いながらトト子がトマトを制した。

「トマトが喋った方が面白くない?」という軍団長の意見はそうやってトト子がうまく却下してくれた。

 

劇場内でのレッスンでは主役が蘭々に替わったこともあり、

監督の意見で主役の少年は赤い水筒を持つことになったり、

暗転で男役の人に捕まるシーンは前回の忌まわしい事件があるので取りやめになったりした。

また犯人がそのタイミングで何かをする可能性も考えられたので、

これは中西が裏から監督に助言して変更になったのかもしれなかった。

 

 

そんな風にして1ヶ月は瞬く間に過ぎていった。

本番当日、様々なプロモーションのおかげもあって、

前回と同じかそれ以上の観客に足を運んでもらう事ができた。

劇場内は混雑するほどの客入りになっていたのだ。

それと同時に警備も万全の態勢で敷かれていた。

「これでは犯人は何も事件を起こせないかもしれないな」と中西が皮肉るほど、

蘭々の安全を考慮した態勢を陰でとっていたらしかった。

もちろん、一般の観客にはそんなことは公表していないし、

詳細を知っているのは中西とその周囲の人々だけであり、

蘭々も具体的にどういうことを彼が準備していたのかは全く知らなかった。

彼女が尋ねても「余計なことは気にするな」としか中西は答えてくれなかった。

 

 

控え室で衣装を身にまとって出番を待っている蘭々の携帯が鳴った。

Lineで軍団員からメッセージが届いていたのだった。

「なんとか到着したよ」と連絡が入っていたので「ありがとう、ちゃんと見ててね」と返信した。

共に練習を手伝ってくれた軍団員たちも見に来てくれるように誘ったのだった。

「軍団長が持ち物検査で止められてたから遅くなっちゃったけど」とみりんの追加文が来た。

何を持ち込もうとしたのだろうと思ったけれど、まああの軍団長だしなと気にしないでおいた。

 

 

そうしてついに開演の時間がやってきた。

舞台袖でスタンバイしていた蘭々は胸の高鳴りに心臓が破裂しそうだったけれど、

今まで練習してきた成果を出さなきゃという強い気持ちでそれを抑え込んだ。

今日の私はトップスターなんだ、そう自分に言い聞かせると、彼女の瞳に火がついた。

これなら大丈夫だと、蘭々は自分でも不思議なくらいにそう感じていた。

 

 

 

・・・

 

「僕が生まれた時~その背中には羽があった~

 なぜなの~どうして~僕は人間じゃない~」

 

2346年、世界の終わりを舞台とした「最後の境界線」が始まり、

蘭々はステージの上に立って歌っていた。

わずか1ヶ月前に観客席で見ていた憧れの舞台に自分が立っているなんて。

 

専科の方々から直々に指導を受ける機会があるなんて考えたこともなかった。

いつもただDVDを見たり劇場に足を運んだりしながら観劇させて貰う程度で、

それだけで日々を生きる勇気をもらっていたのが宝塚歌劇団だった。

そして今までそれ以上なんて望んだこともなかったのだ。

そんな恐れ多いことを考えることも自分の中では憚られていたのだし。

 

「でも僕は~いつの間にか~人間が好きになってしまったのさ~

 叶うなら~このまま人間として生きていきたい~

 母上と和解して~許してもらいたいよ~」

 

ステージの真ん中で歌って踊っている。

スポットライトが全部自分へと向けられていて、

やっとここまで辿り着いたんだという充実感と、

こんな自分が誰かに認められたという自己充足感に満たされ、

始まる前の緊張もどこへやら消え失せてしまっていた。

ただ気持ちいい、これが私がずっと夢見ていたステージなんだ、

そんな実感がジワジワと身体中に染み込んでくる。

身体から次は心にも染み込んで満たされていって、

まるで自分が強くなったような気持ちにすら感じられる。

そこには大嫌いだった弱い自分なんて微塵も存在していないのだ。

 

 

「おや、君はどうしてこんなところにいるんだい?

 一人で外を出歩くと危ないって、親に教育されなかったのかな?」

 

人間の男役が出てきて、場面が進んで行った。

ドラゴンの子供である自分は逃げなければならない。

育てているトマトとラジカセしか友達がいない設定なのだ。

 

「おい君!?

 怖がらせてしまったのかな?

 だが、このあたりをうろついていると危ない。

 どこにドラゴンが潜んでいるかわからないんだから」

 

蘭々は舞台袖に引っ込むとようやく冷静になって観客席に目を向けられた。

そこにはこちらを見て座っている軍団員三人の姿も目に入った。

ちゃんと観てくれていることに安堵して、さらに心強い気持ちになる。

 

 

次は母親ドラゴンが出てきて歌い始める。

専科の方々にはレッスンを通じて大変お世話になった。

未熟な自分に色々とアドバイスをくれたことは蘭々にとって忘れられない思い出だ。

 

「人間は許さない~自分たちのことしか考えていない~

 勝手に命を生み出して~不要になれば殺してしまおうとするなんて~」

 

さすがに立派な演技だと思ったけれど、

自分だってこの一ヶ月で築き上げたものがある。

まだまだ足元にも及ばないけれど、全力でやってやると蘭々は思う。

 

「人間に騙される前に~あの子を連れ戻しに行かなければ~

 ドラゴンの子は所詮ドラゴンの子~人間とは相容れない生き物~」

 

母親ドラゴンが舞台袖に消えて、場面が転換する。

次は蘭々が畑でトマトを育てている場面だ。

 

「燃えるように真っ赤なトマト~早く大きくなればいい~

 僕おまえが好きさ~子供の頃からずっと変わらない~」

 

この場面は劇場で練習したことよりも、

よろず屋のみんなで練習した事のほうが印象に残っていた。

トマト役の軍団長がいつも笑わそうとしてくるし、

突然アドリブを入れてくるのでいつも困っていたのだった。

そこでいつもみりんやトト子が登場して助けてくれたのだ。

 

「人間みたいな真似をして~こんなの育ててどうするの~

 水をやらないほうが甘くなるなんて~トマトはあなたに似てうざいのよ~」

 

みりんの演技は上手だったなと蘭々は思った。

歌が上手い人は演技をやっても上手なのだろうと思う。

 

「こんなところにいたのね、さあもう帰るわよ!」

 

母親ドラゴンに引っ張られても少年は抵抗する。

 

「なにをするの!?」

 

「僕、帰りたくないんだ」

 

この場面でラジカセのボタンを押すと、

演出で劇場内にジョンレノンの「イマジン」が流れるのだった。

父親の影響で様々な洋楽を聴く習慣があった蘭々だったが、

今回の役を引き受けるにあたって「イマジン」は何回も聴いた。

よろず屋でも流していたし、バイトへ向かう前にもたくさん聴いた。

それを聴く事が全て舞台に上がっている自分につながるのを感じたのだ。

この曲の歌詞を理解する事が、この舞台をよりよくするための一歩でもあると考えていた。

 

「まあ!そんな人間の歌なんか覚えてどうするつもり!

 あなたはドラゴンなのよ、人間になんてなれないんだから!」

 

「そんなの・・・やってみないとわからないじゃないか」

 

母親ドラゴン役の人が近づいてきて蘭々の頬を打つふりをする。

音響効果で「パーン!」と大きな音が劇場内に響き渡った。

 

「これが最後通告だからね、さっさと戻ってくるんだよ!

 どうせあなたにかけた魔法も、もうすぐ効果がなくなる頃だから」

 

母親役の人が退場すると、次は人間の男役が現れる。

 

「君、大丈夫、怪我はない?」

 

大丈夫、怪我はないよ今の所、と蘭々は思う。

前回の劇で事件が起こった場面が近づくと、

やはり少しずつ心臓の鼓動が早くなるのを感じずにはいられなかった。

 

「さっき、東の空にドラゴンを見たって聞いたよ。

 君はドラゴンを見なかったかい?

 こんなところにいたら危ない、さあシェルターに戻ろう!」

 

ここで蘭々の背中には翼が生えているように観客席からは見えた。

後でドラゴンの衣装をちゃんと着るのだが、ここは映像を駆使して、

あたかも幻想的な翼が生えているように見せているのだった。

 

「うわぁー!

 君の背中はどうなっているんだ!?

 まさか、君はドラゴンなのか?」

 

「僕、人間が好きです。

 この音楽も好きなんです、聴いてください」

 

蘭々がラジカセのボタンを押そうとするとき、

人間の男役が蘭々を突き飛ばした。

ラジカセの音が流れ始めた所ですぐに音楽は止まった。

 

そこで場面は暗転となった。

身柄拘束の場面は差し替えとなったのだが、

蘭々は暗転するとすぐに舞台袖に引っ込んだ。

勢いよく引っ込んだので誰かにぶつかってしまい、

小さな声で「ごめんなさい」とつぶやいた。

 

蘭々がそうつぶやいた瞬間、その人にガッと身体を掴まれてしまった。

そして思わず声をあげそうになったとき、同事に手で口を塞がれてしまった。

叫びたくても動けない状態に陥った蘭々は、心の中で「助けて!」と声をあげていた。

 

「・・・うるせー口だな」

 

バタバタともがいていたとき、その人がそうつぶやいたのを聞いて蘭々はもう抵抗するのを止めた。

暗闇の中で顔を上げてみると、蘭々の身体を掴んでいたのは中西だったとわかった。

 

「この場面では犯人は動かなかったようだな。

 拘束される場面を差し替えたのが吉と出たか凶と出たか・・・」

 

蘭々はもう声を上げるつもりはなかったが、中西はずっと蘭々の口を塞いだままだった。

余計な事を喋らせないようにするためかもしれなかった。

 

「いいか、俺がここにいた事は誰にも喋るな。

 暗転が終わったらすぐに俺はこの場を離れる。

 何もなかったように劇を続けろ」

 

それだけ言うと、中西は辺りを鋭い目で見渡し始めた。

何も起こらないのを見届けると、彼はスッと蘭々の身体から離れていった。

だが、気がつくと蘭々の背中にはドラゴンの翼が装着されていた。

この後の場面で必要になる衣装だったが、その運び役を彼が引き受けたのかもしれない。

 

「まったく、どうしてあんな子になってしまったのやら。

 昔はもっと素直な良い子であったのに・・・」

 

暗転後、場面は母親ドラゴンの一人舞台から始まった。

ここからはまだ誰も見たことのない物語となる。

観客席の集中力が高まっていったのを蘭々は舞台袖で感じた。

 

「こんなことであればもっと厳しく躾けておくべきだった。

 甘やかしてしまったばっかりに私に逆らうようになって」

 

こういう母親というのは厳しくするから反発するのだということに気付けない。

もちろん甘やかしてばかりが良いというわけでもないのであるが、

本人の意思を尊重するということを忘れてしまう親が世の中には多い。

それを表現しているのだと蘭々は監督が言ってたのを聞いたことがあった。

 

「・・・あれはなんだ、人間どもがこちらに向けて旗を振っている」

 

母親ドラゴンは遠くを見るような素振りでそう言った。

人間の住む場所とドラゴンの住む場所の境界線の向こうから、

どうやら旗を振ることで何かしらの合図を送っているようだった。

 

「・・・おお、あれは、おのれ人間どもめ、許さん!」

 

母親ドラゴン役はそう言ってから怒りの形相でミュージカル調の歌とダンスを披露して飛び立っていった。

 

母親ドラゴンが舞台から出てしまうと次は蘭々の出番だった。

そばに寄ってきたスタッフに手伝ってもらいながら、

蘭々は木で作られた十字架に括り付けられていった。

人間たちに拘束されて母親ドラゴンをおびき出す餌にされてしまった設定だ。

後で拘束を解くのが必要な場面では、スタッフが裏で動くことで拘束が取れて、

蘭々はドラゴンに覚醒するという流れになっていたのだった。

 

「バカなドラゴンだ、こっちに向かってくるぞ!」

 

人間役の男が双眼鏡で遠くを見てからそう言った。

ドラゴンの少年を人質にとることで母親をおびき出す作戦が成功したのを喜んでいる。

 

「まさか君がドラゴンの娘だったとは思わなかったよ。

 どうだい、黙って僕らに協力してくれたなら、

 君はこのまま人間として共に生きたていたって構わないよ」

 

「協力って何ですか・・・?」

 

そこまで言ってからはミュージカル調になった。

人間の男役が歌い始めたのだった。

 

「人間は一番優れた生き物~平和で安全な暮らしを実現し~

 この世界を良い方向へと導いてきたのさ~」

 

人間の男の周りにも多数の演者がダンス要員として現れた。

彼を代表として人間の素晴らしさをダンスで表現しているのだ。

 

「でも~どうして他の生き物と共存できないのか~

 ドラゴンだって~同じ命を持つものなのに~」

 

十字架に縛り付けられている蘭々が歌った。

動きで表現できない分、声色でうまく伝えねばならない難しいシーンだった。

 

「バカな生き物たちは人間に逆らい続けた~

 だから思い知らせてやらなければならないのだ~」

 

男役は腰に帯びていた剣を鞘から抜いて演武を見せた。

この剣で母親ドラゴンを八つ裂きにしてみせると言わんばかりに。

 

「ドラゴンを生み出したのは人間じゃないか~

 どうして~どうしてそんなに身勝手なんだ~」

 

「生み出してやった恩を忘れたドラゴンよ~

 逆らうのであれば殺してしまう他ないのさ~」

 

やがて音楽が終わり「ギャー!ギャー!」という音が聞こえてきた。

母親ドラゴンが子供を助けるためにやってきたのだった。

その音の演出と共に、照明もめまぐるしく変わって毒々しい色に変わった。

人間の男役達は皆あたりに目をやりながらドラゴンを探している振りを演じている。

 

音楽が切り替わり、母親のドラゴンが現れた。

怒りに狂って翼を広げているという演出もあって、

今まで見ていた母親ドラゴンよりも2倍程度の大きさの衣装になっていた。

人間達は怯えるような演技をしていたが、やがて先ほどからの代表格の男が立ち向かう。

 

「よく来たなドラゴン、この娘の命が惜しければ逆らわぬことだ!」

 

男役は鞘から抜いた剣を蘭々の首元まで近づけて脅す演技をした。

母親ドラゴンは子供を人質に取られて怒り狂っていたが動けない様子だ。

 

「よし、銃を取れ!」

 

男が命令すると、舞台上の人間の男役達がみな銃を構えた。

母親ドラゴンに対して銃口は向けられていた。

 

「待って、母を打たないでくれ!」

 

「打てー!」

 

銃を撃つ音が劇場内に流れてステージが赤色に染まった。

母親ドラゴンが打たれた演出だったのだ。

打たれた母親ドラゴンは苦しそうに翼を縮めてしまう。

高い場所に立っていたドラゴンが、墜落しそうになる演技をしていた。

 

そこで雷が鳴るような音の演出があり、また場面は照明が激しく点灯した。

人間の男役達は指で十字架に括り付けられている蘭々を指して驚いた表情をしていた。

母親ドラゴンを打たれた少年が怒りに燃えて覚醒する場面がやってきたのだ。

 

そこで照明が雷の演出で激しく点灯した後で、照明が落ちた。

あたりは真っ暗になり、蘭々はとっさに何者かに身体を抑えつけられてしまった。

この場面では照明が激しく点滅して多少暗くなっても完全な暗転はないはずだった。

裏方スタッフがやってきて十字架の拘束を解いて完全なドラゴンの衣装に早着替えをするはずなのに。

 

観客達は何も気づいていないようだった。

この真っ暗なことも演出の一部だと思い込んでいるからだ。

これは違うのだ、おそらく犯人の仕業に違いなかった。

 

蘭々は口を手で塞がれて何者かによって舞台袖まで運ばれていった。

万事休すかと思われたその時、舞台上から何やら激しい物音が聞こえた。

そして、照明がまたパッとついて舞台上が明るくなると、

そこでは中西が先ほどの人間の男役を投げ飛ばして取り押さえていた。

 

照明が明るくなったので、観客達はその舞台上を見て騒然となった。

何やら先ほどまで舞台上で男役を演じていた女が何者かによって取り押さえられていて、

どうもこれは舞台の演出だとは到底思えないような緊迫感を放っていた。

もっと最悪だったのは、舞台上の役者が悲壮な顔をして逃げ出したことだった。

これは異常事態だということが観客達にももれなく知れ渡ってしまい、

観客達はパニック状態に陥りながら我先にとばかりに劇場内から逃げ出し始めた。

やはりこの薔薇組公演には何かおかしなところがあると勘づかれたのかもしれなかった。

 

中西はそんな様子を見ても慌てることなく冷静に手錠を取り出して女の手首にはめた。

だが何が起こったのかわからない演者達も一斉に舞台上から退散し始めた。

撃たれたはずの母親ドラゴン役の人すら驚いてどこかへ逃げていってしまったようだった。

 

照明の明かりは舞台袖まで漏れてきていて、蘭々は自分を捕まえている人の顔がわかった。

彼らは蘭々の口を抑えながらも警察手帳を見せてきた、中西の仲間だったのだ。

スタッフが拘束を解きに来るのを利用して彼らを蘭々の救援に回したのだった。

 

やがて舞台袖から多くの男達が乗り込んできて犯人の男を取り押さえた。

中西は「照明役の方はどうだ?」と一人の男に尋ねた。

「我々の動きを察知して逃げたようですが、今追っています」と男は答えた。

「絶対に逃がすな」と中西は命令をして男はその場を離れていった。

 

やがて手錠をかけられた女は引っ立てられて刑事達によって連れて行かれてしまった。

その女は舞台袖にいる蘭々に気づいたのかどうかわからなかったが、

一度も蘭々と目を合わせることもなくそのまま連行されていってしまった。

 

 

 

・・・

 

観客達がパニック状態で出て行ってしまい、

劇場内は突然がらんとして静かになってしまった。

ステージ上にいた演者達も全て逃げ出してしまったし、

先ほどまで詰め寄せた刑事達ももうどこかへと消えさってしまった。

 

中西だけがステージ上で前を見つめながら立っていた。

舞台袖に避難させられた蘭々は、やがて助けてくれた刑事達も去ってしまうと、

ふらふらと立ち上がって舞台袖からステージ上へと歩いてきた。

そこにはただガラガラの空席だけが広がっていて、

先ほどまでトップスターを演じていた空間は夢から覚めたように影も形もなかった。

助けてくれた男達が持ってきたドラゴンの翼は羽毛ぶとんの羽よりも立派だったが、

誰も見てくれる人がいないこの場ではなんだか悲しさだけが際立って見えた。

 

「無事だったか」

 

中西は蘭々の方を向いてそう尋ねた。

蘭々は何も声に出さず、こくりと頷いて見せた。

 

「お前のおかげで助かった、礼を言う。

 こうして無事に犯人を捕まえることができた。

 逃げた共犯のやつも時間の問題だろう」

 

中西は柄にもなく礼を言ったが蘭々は何も答えなかった。

蘭々はドラゴンの翼を背中から降ろして舞台に叩きつけた。

誰もいない広い劇場内に針金で出来た部分が床にぶつかる音が響いた。

 

鼻をすするような音が続いて響き渡り、蘭々は泣いていた。

夢みたいな舞台だと思っていたけど、やっぱり夢だったのだ。

自分がトップスターになるなんて、そんな夢物語なんて現実になるはずがない。

自分はただ捜査協力をして犯人を捕まえるためにレッスンを受けたピエロに過ぎなかった。

夢から覚めた後は、ピエロであっても誰も自分を見てくれる人はいない。

 

「なんで捕まえちゃったんですか・・・」

 

涙声になりながら自分がめちゃくちゃなことを言っていることはわかった。

だが、この儚い気持ちをどう処理していいか蘭々にはわからない。

 

「捕まえなければずっと夢を見ていられたのに!」

 

八つ当たりでしかないことは承知していた。

中西は自分の身を守ってくれた恩人だったのにもかかわらず、

こんなことを言ってしまう自分が一層悲しかった。

 

「そんなに夢を見ていたいならずっと寝てろ。

 この先、永遠に起きなくても構わない」

 

中西が言い放った冷たい言葉が胸に突き刺さる。

悲しくて苦しくて消えてしまいたくもなった。

この悲しみの涙を止める方法がわからない。

蘭々はせめて瞼を閉じて涙を止めようと思った。

 

「・・・拾え」

 

閉じた瞼の向こう側で中西がそう言った。

目を開けると彼は先ほど蘭々が床に投げつけたドラゴンの翼を指差していた。

 

「誰が終わりだといった?」

 

「・・・だってもう誰も見てないじゃないですか」

 

絞り出すように声を出してクレームをつけた。

中西は何も言わずにゆっくりと舞台から降りていった。

そして、一番目の前の真ん中の席に腰掛けてこちらを見つめた。

 

「俺が見てるだろう、さっさと続けろ」

 

「そんなこと言われても・・・」

 

二人しかいない劇場で、こんなことをしていても意味がないと思った。

もう夢は覚めてしまったのだから変な慰めは要らない。

 

「いいから次のセリフを言ってみろ。

 次はお前のセリフだろうが、そこで止まってんだよ」

 

中西がそう言うと、しばらくしてから蘭々は言われた通り翼を拾って背負った。

怒りに目覚めてドラゴンに覚醒した少年が次に言うセリフは・・・。

 

「・・・お願いだから母を撃たないでくれ」

 

母親ドラゴンの前に立ちはだかったドラゴンの少年は、

母親をかばいながらも人間を攻撃することはなかった。

あくまでも理想であるドラゴンと人間の共存を希望したのだった。

 

蘭々は言われた通りにセリフを言ったあと、

すぐに肩を落としてがっかりしてしまった。

自分のセリフは虚しく劇場内のどこかに吸い込まれて消えただけだったからだ。

 

 

だが、その時。

 

 

「ドラゴンを殺せー。

 人間にとって邪魔なドラゴンは敵だー」

 

突然、誰もいないはずのステージ上から声がした。

この感情があまりこもっていない声の主はよく知っていた。

それでいて誰よりも温かい響きを持つこの声を。

蘭々が声のする方に目を向けると、そこにはトト子が台本を持って立っていた。

 

「人間なんて信じてはいけない。

 今のうちに人間を殺してしまうんだ!」

 

蘭々の後ろから声がしたと思うと、そこにはみりんが立っていた。

みりんはもう何度も練習しすぎて迫真の演技になっている。

もちろん、もう台本も必要ないのでもっていない。

いつか見たことのある羽毛ぶとんの翼を背中に身につけていた。

 

「さあ、そこにあるラジカセのボタンを押すトマ。

 早く、彼らが争いを始める前にトマ!」

 

こんなセリフは台本になかったのにと思いながら、

そこには赤い全身タイツを身につけた軍団長が立っていた。

セリフを言った後は几帳面にプク顏に戻っていた。

熟れたトマトの演技も練習の成果が出ていたらしい。

 

 

蘭々は涙が止まらなくてしばらく泣いてしまっていた。

腕で口元を押さえながら中西の方を見つめると、

中西は意味深にかすかに口元を歪めて笑った。

彼のあの仕草は、何かを企んでいた時の仕草だ。

 

急いで両手で涙を拭い去った蘭々は、

気を取り直して次のセリフを言うことにした。

 

「忘れているなら思い出してください。

 聴いたことがないなら覚えておいてください。

 こんな素晴らしい曲を書いたのもまた人間だってことを」

 

そう言って蘭々はラジカセのボタンを押した。

音響スタッフはまだ残ってくれているだろうかと心配したが、

中西がちゃんと手配してくれていたのかもしれない。

劇場内には流れる予定だった曲「イマジン」が流れてきた。

 

 

 Imagine there's no Heaven   

 It's easy if you try        

 No Hell below us       

 Above us only sky       

 Imagine all the people      

 Living for today…       

 

 想像してごらん 天国なんてないんだと

 それはやってみれば簡単なことだから

 僕らの下には地獄なんてないし

 僕らの上にはただ空があるだけ

 想像してごらんよ みんなが

 今日のために生きているのを・・・

 

 

 Imagine there's no countries  

 It isn't hard to do       

 Nothing to kill or die for    

 And no religion too       

 Imagine all the people     

 Living life in peace      

 

 想像してごらん そこには国なんてないんだと

 それはそんなに難しいことではないはずだ

 殺すことも殺されることもなくて

 宗教だってないんだって

 想像してごらんよ みんなが

 平和に暮らしているのを・・・

 

 

劇場内に「イマジン」が流れると、

人間役をしていたトト子が複数人のセリフを代役した。

 

「うるさい、やめさせろー」

「まて、なんだこの曲は」

「やめろ、攻撃するな」

「馬鹿な、逃がすなー」

 

人間達はこの曲を聴いて意見が二分することになった。

相変わらずドラゴンを殺せと訴えるもの、

そんな無駄な争いはもう止めてしまおうと説得するもの。

とにかくそんな混乱に乗じて少年と母親ドラゴンは飛び去った。

 

そして蘭々とみりんが舞台袖に引っ込んだ後、

雰囲気が一転するように明るい調子の曲が流れ始める。

設定は数年後、ドラゴンと人間が和解して共にダンスを踊るという場面だった。

舞台袖から笑顔になって手を取り合いながら出てきた蘭々とみりん。

舞台中央でトト子と蘭々が手を取りあって踊るはずだったが、

間になぜかトマトが割り込んできてしまった。

また台本にないアドリブをかまされたと思った蘭々は、

もう笑うしかなくて仕方なくトマトを挟んで四人で手をつないだ。

壮大な感じに展開する音楽に合わせて歌い踊りながら、

ハッピーエンドの様相を呈して舞台の幕は降りていったのだった。

 

 

 

・・・

 

「お疲れさまでした~」

 

ピザ屋のバイトを終えて店を出た蘭々は、

冬の寒空の下をよろず屋へと向かって歩いた。

 

すっかり日が落ちるのが早くなってしまって、

夕方だというのにどんどんと暗くなってしまう。

蘭々は少しずつ早足になりながら帰路を急いだ。

 

途中、やっぱり気になって回り道をすることにした。

何か用事があるわけではなかったが、

蘭々が立ち寄りたかったのはあの児玉坂劇場だった。

 

寒い両手に息を吐きかけながら劇場にたどり着くと、

入り口のポスターが貼ってあるところを目指した。

辿りついてキョロキョロと掲示板に目をやると、

蘭々がお目当てにしていたポスターを発見した。

 

「あっ、見~つけた!」

 

それは薔薇組の児玉坂公演の第二弾の告知ポスターだった。

あの事件で入院していた女の子の復帰作になる予定だったものだ。

捕まった男役と照明スタッフは入れ替えになってしまったが、

新しい人を迎え入れてもうすぐ公演が始まろうとしていたのだ。

 

ポスターに書かれていた公演日程とチケットの発売日をメモった蘭々は、

入り口の当日券販売のところにいるおばちゃんに気づいてぺこりと頭を下げた。

向こうはどうやら蘭々のことを覚えてくれていたようで笑顔を向けてくれた。

 

さて帰ろうかと思った時、何だか懐かしくなってまた劇場の入り口を覗いた。

懐かしの赤絨毯、この先に通路が続いていって、控え室があって、舞台に通じていて。

ここに立つと薄れていく懐かしい記憶がどんどんと蘇ってくる気がした。

 

「おい、学習しないやつだな」

 

後ろから声をかけられて蘭々はドキッとした。

振り向くとそこには中西が立っていた。

そして、自分の足がまた劇場内に踏み込んでいることに気がついた。

 

「住居侵入罪だ、再犯は情状酌量の余地がないぞ」

 

そう言われて蘭々は急いで赤絨毯の場所から外へ出た。

情状酌量の余地がないので言い訳はしなかった。

 

「それともなんだ、またトップスターの夢が見たくなったか?」

 

あの日、公演を終えた時には観客は中西しかいなかったが、

彼は終わった時に蘭々に拍手をしてくれたのだった。

最後の勇姿を見てくれた観客は彼しかいなかったけれど、

蘭々はともかく最後までやりきることができたのだった。

 

「残念だが、もうここでは事件は起こらない。

 逮捕した犯人達も犯行を自白したんだ。

 もう二度とお前がここでトップスターの夢を見ることはない」

 

中西は少し冗談めかしてそう言ったが、

蘭々が何も答えなかったので少し言いすぎたかと思った。

泣き虫の彼女をまた泣かせたら面倒なことになる。

 

「・・・もし今の実力で私がトップスターになっても嬉しくなんかありません」

 

予想外に蘭々は毅然とした態度でそう返答した。

鋭くていい目をしているなと中西は思った。

 

「もしまた薔薇組に入れるチャンスがあるとしても、

 私はちゃんと認められて入りたいんです。

 一回きりなんて嫌ですから」

 

そんな予想外のしっかりした返事を耳にして中西はまた意味深に笑った。

懐からタバコを取り出してライターで火をつけて口をつけた。

そして空に向かってゆっくりと大きく煙を吐き出した。

 

「イマジン」

 

中西は短くそれだけ言った。

 

「ビートルズで有名なジョンレノンが書いた傑作だ。

 理想主義的な彼の思想は共感を呼ぶところも多いだろう」

 

劇中で流れたあの曲について中西は語り始めた。

何か彼なりに思うところがあるのかと蘭々は思った。

 

「平和運動家としても活躍していたジョンだが、

 最後はちょうどこんな寒空の下で銃弾に倒れた」

 

そう言ってまた中西はタバコを吸った。

今度は地面に向けて煙を吐いた。

怒りにも似た仕草に蘭々には思えた。

 

「理想を貫くってことは簡単じゃない。

 それは命がけなんだよ、非暴力を貫いたガンジーだって銃弾に倒れた」

 

中西は蘭々を鋭い瞳で睨みつけた。

何かを目で訴えかけていることは蘭々にもわかった。

 

「因果応報」

 

また中西は短くつぶやいた。

 

「そんな言葉があるが、この世界はそんな風にはできていない。

 悪いことをした奴がのさばって生き延びるのを証明しているのが歴史だ。

 良い行いをした奴がバカを見る世界になってるのが現実だ」

 

蘭々はよろず屋で聞いた「さるかに合戦」のことを思い出していた。

さるに騙されたカニは、子供を産んでもまた子供達もさるに騙されるのか。

そんな世界は見たくないから、因果応報なんてことを作者は理想的に描いたのか。

 

「俺はそんな世の中が大嫌いだ。

 俺は俺の理想を掲げて生きているんだよ。

 そんな世の中を少しでも変えてやろうと思ってな。

 だからこんな職業をやってる、命懸けでな」

 

その瞬間、少しだけ中西の目が優しさを帯びたような気がした。

ほんのわずかの瞬間だったので夢だったような気もするくらいだが、

蘭々は自分が見たその映像を疑うことはないと思った。

 

「叶えたい夢があるんなら、諦めるな。

 だが、覚えとけ、それはいつも命懸けだ」

 

中西は蘭々の頭をポンポンと叩いて向こう側へ歩いて行ってしまった。

蘭々は振り返って去っていく中西の背中を見つめていた。

 

蘭々はおもむろにポケットの中からイヤホンを取り出した。

携帯を指で操作してすぐに音楽を流した。

曲はジョンレノンの「イマジン」だった。

 

 

 You may say I'm a dreamer

 But I'm not the only one

 I hope someday you'll join us 

 And the world will be as one

 

 君は僕の事を夢想家だと言うかもしれない

 だけど僕は一人だけじゃないはずだ

 いつの日か 君も僕らの仲間になって

 そして世界はきっと一つになるんだ

 

 

蘭々は中西の背中を見送った後、音楽を聴きながらよろず屋の方向へ振り向いた。

そして鋭い瞳を携えたまま「イマジン」を口ずさんでまた歩き出した。

 

 

 

ー蘭々編、終幕ー

 

 

 

 


 

 

 

ートト子編ー

 

 

「トト子、ねえトト子ってば」

 

どこからか呼びかけられる声に気付いて目をさますと、

トト子はよろず屋の客用テーブルに伏せて眠り込んでいた事に気付いた。

声のする方へ目をやると、長椅子のすぐ隣に座っている蘭々がいた。

先ほどから身体を揺すって起こしてくれていたらしい。

深い眠りに落ちていたのか、全く気づかなかったようだ。

 

トト子はまだ眠い目をこすりながら寝ぼけているかと思った。

だが、蘭々の慌てぶりは尋常な様子ではなく非常事態のそれに見えた。

しかし、特に何も変わったことが起きているようには思えなかった。

 

「大変なことになったみたい、ねえこれ読んでみて」

 

トト子は蘭々の差し出した手紙を受け取ると、

眠い目をこすりながらその手紙に目を通した。

その手紙はどうやら脅迫状らしかった。

謎の秘密結社がよろず屋を潰すと脅してきている内容だった。

 

トト子は半信半疑だったのだが、

蘭々の顔はふざけているような風には見えなかった。

これはどうやら本当に起きていることらしく、

どこかの謎の秘密結社によろず屋が狙われているのは事実らしかった。

 

 

その時、よろず屋の扉ががらがらぴしゃりと開いた。

そこに立っていたのはみりんだった。

みりんは右手で左肩を押さえているようで、

どうやら軽く出血もしているように見えた。

 

「みりん大丈夫!?」

 

蘭々は急いでみりんのそばに駆け寄ると、

みりんは「大丈夫だよこれくらい」と言ってみせた。

だが傷がかなり深いことは誰の目にも明らかに思えた。

 

「蘭々、軍団長は?」

 

「まだ奥の部屋で寝ています」

 

これはまずいことになったという表情を浮かべるみりん。

「早く起こさなきゃ」と言いながら歩くも傷が痛んで膝をついた。

蘭々がそれを助け起こすようにして抱きかかえる。

トト子は何もできずにただその光景を眺めるしかなかった。

 

そうしていると、みりんが何かに気づいたようだった。

「この音!?」とみりんが言うので耳をすませてみると、

どこか遠くの方から「ヴィーン」という羽音のようなものが響いてくる。

トト子はキョロキョロと周囲を見回して音の正体を探そうとした。

そして次の瞬間、見つけた音の正体は窓から侵入してきたドローンだとわかった。

だが、わかった時にはもう遅かったのだ。

 

みりんは咄嗟に「伏せて!」と叫ぶと、ドローンはくるりと宙返りをした。

そのドローンから白い小さな固形物がこちらへ飛んできた。

みりんは蘭々を連れてトト子のところまで走ってきて二人をかばった。

マシュマロは床に落ちると大きな衝撃と共に大爆発を起こしたのだ。

トト子が先ほどまで座っていたテーブルと長椅子はバラバラになって吹き飛んでしまった。

 

トト子が頭を抱えて驚いていると、自分たちの周りを何やら取り囲んでいる物があることに気がついた。

それはどうやら巨大な将棋の駒だと言うことがわかった。

巨大な金と銀の駒に囲まれて、トト子と蘭々は守られていたのだった。

どういうことかとみりんへ目をやると、みりんは苦しそうに右手を将棋の駒を持つようにして素早く動かし、

目の前に現れた幻影の将棋盤を操作するようにしてその巨大な将棋の駒達を巧みに操っているのだった。

 

「ショウギフォーカス!」

 

みりんはそう叫ぶと、さらに巨大な将棋の駒達がくるくると三人の周りを回転し始め、

その中の「香車」と書かれた駒が鋭くドローンに向かって飛んで行った。

ドローンは間一髪で避けたのだが、羽の一部をやられてしまったのか、

退散するようにして窓から逃げて行ってしまった。

「ヴィーン」という羽虫のような音が徐々に遠くなっていくのがわかった。

 

どうやら危機一髪のところで助かったらしいということがわかると、

トト子と蘭々は安堵して互いに握りしめていた手を離した。

だが、もはやみりんは満身創痍で闘っていたのだ。

巨大な将棋の駒が消えて無くなると、みりんはフッと身体から力が抜けたように倒れた。

 

「みりん!」

 

蘭々が叫んで駆け寄った。

トト子も何も言わずに続いた。

みりんはボロボロになった姿で苦しそうに何かをしゃべる。

 

「・・・蘭々、早く軍団長を起こしてこの事を伝えて」

 

涙を浮かべながらこくりと頷いて蘭々は奥の部屋へと向かった。

残されたトト子は蘭々の後ろ姿を見送ると、またみりんの方へと顔を向けた。

 

「トト子・・・今まで黙っててごめん」

 

どういう事かわからずにオロオロとしていると、

みりんは勝手に続きを語り始めた。

 

「私たちはね、異能力者なの」

 

そう言うとみりんは咳き込んだ。

かなり傷が深いようで喋るのもよくないかもしれなかった。

 

「よろず屋はね、異能力者の集まりなの。

 ずっと仕事がないふりを装ってたけど、実は幾つも大きな事件を解決してきた。

 警察でも手が出せない危ない案件だって、私たちはひるまずにそれに対処してきた」

 

初めて聞く話ばかりでトト子は声も出ないくらいに驚いていた。

このよろず屋にそんな秘密があったなんて考えた事もなかったからだ。

 

「だけど今回の敵は危険すぎる。

 この秘密結社に目をつけられたらよろず屋ももう持たないかもしれない。

 でもやるしかないの、トト子だって異能力者なんだよ。

 まだ目覚めてないかもしれないけど、素質は十分あるから」

 

トト子は訳もわからずに首をブンブンと横にふった。

「本当だよ」とみりんはそれに対してまた答えた。

 

「さっきのドローンも異能力者の攻撃によるものなの。

 あれは私のショウギフォーカスと違ってもっと遠隔操作のできるタイプの能力だけど、

 あのマシュマロ爆弾はおそらく異能力者自身が補充しなければならないはずだから、

 ドローンを操作している異能力者はまだ近くにいるはず、トト子はあれを追いかけて。

 今なら弱ってるからトドメをさせるかもしれない」

 

そういうとみりんは傷が深いために苦しいのかもう動かなくなったので、

トト子はどうすればいいかわからなかったが、とにかくよろず屋を出てみた。

すると向こう側に先ほどのドローンがフラフラと飛んでいくのが見えた。

あれを追いかけてドローンを壊すか、異能力者本人を倒す事ができれば、

みりんの仇を取る事ができるとトト子は思った。

 

だが、トト子がドローンを追いかけようとした時、

ドローンを守るようにして行進してくる小さなプラモデルが目に入った。

どうやらそれは無数のガンプラであり、それが一斉に歩いてこちらに向かってくる。

そのガンプラは一斉にビームライフルを構えてトト子にビームを放ってきた。

一つ一つのビームは火花に軽く触れた程度の熱しかなかったのだが、なにせ数が多すぎた。

ガンプラ達は群れになってトト子に襲いかかろうとしてきたので、

これはまずいと思ってトト子はまたよろず屋に逃げて避難した。

 

「トト子、大丈夫!?」

 

よろず屋では蘭々がトト子を待っていた。

軍団長を起こすことはできたのだろうか?

それはよくわからなかったが、とにかく助けに来てくれたらしかった。

 

だが、もうあの無数のガンプラ達はよろず屋の入り口から雪崩を打ったように入ってきていた。

逃げ場所を失ったと思ったその時、蘭々の目がキッと鋭くなったのがわかった。

 

「タマランゼ!」

 

彼女がそう叫ぶと、どういう訳か世界が全て二次元に置き換えられていった。

よろず屋の建物もどこかアニメーションのような色や形になっていたし、

まるで自分たちがアニメの世界に迷い込んだかのように感じていた。

 

そして、どこからともなくやってきたのはドSな王子キャラだった。

彼は不機嫌そうな顔でツカツカとやってきてガンプラをどんどんと踏み潰していった。

 

「おい、なんだこれは、邪魔だ、目障りだ」

 

そういいながら彼はやってきたガンプラを次々と蹴散らしていった。

とにかく彼のやり方は容赦なくて、黙々と作っていた異能力者はこの残骸を見れば、

精神的なダメージは相当計り知れないものがあるのではないかと思われた。

 

ガンプラを全て蹴飛ばして壊してしまったドSな王子キャラは、

「手間かけさせやがって」と蘭々に言い放ってどこかへ行ってしまった。

蘭々はどうやらのぼせ上がってその様子がたまらないようだった。

やがて彼がいなくなると、周囲の景色が元のよろず屋の建物に戻り始めた。

トト子はどうやらこんな風に妄想を現実化するのが蘭々の異能力だと理解した。

 

 

 

・・・

 

「たぶん、あのガンプラは完全な自動操縦型の異能力だと思う。

 異能力者はただどこか遠くで黙々とガンプラを作っているだけだから、

 あれを破壊したって異能力者を倒したことにはならないはずだよ」

 

蘭々がそうトト子に説明してくれた。

あの異能力者はかなり遠くから攻撃を仕掛けてきたので、

どうにかして本人を見つけ出して倒さなければならないようだ。

だが、とにかくもここは蘭々の異能力のおかげで助かったのだった。

 

蘭々は先ほど軍団長を起こしに行ったので、

もうそろそろ起きてきてくれるはずだと言っていた。

二人はハッと気づいてみりんのそばに駆け寄る。

見た所、命に別状はないみたいだが、かなり傷は深い。

二人はとにかく応急処置程度は済ませる事ができたが、

本当は入院でもさせなければいけないほどのダメージだった。

 

「入院なんかしたらうちらの秘密がばれちゃうからダメだよ・・・」

 

みりんは弱々しい声でそう言った。

異能力者の集団であるよろず屋のことを世間は知らない。

それがどういう訳かばれてしまったのが今回の事件だ。

謎の秘密結社がよろず屋を潰そうとしているのは明らかだった。

 

「この敵を相手にしてはきっとよろず屋だけじゃ勝てないと思うから、

 トト子はうちら以外にもいる異能力者を頼って欲しいのね・・・」

 

そう言ってみりんはポケットから紙切れを取り出した。

その紙切れにはある美術館の名前が示されていた。

そこには女性の名前も書かれており、おそらくその人が異能力者だとトト子は思った。

 

「・・・後はお願いね」

 

そう言ってみりんは意識を失ってしまった。

トト子はみりんの身体を揺すってみたが返事はない。

命には別状はないようだが、とにかくみりんを奥の部屋に運ぶことにした。

 

その時、閉めていたよろず屋の引き戸のガラスがパリーンと割れた。

誰かが何かを外から勢いよく投げ込んできたのだ。

投げ込まれたものが落ちた方向へ目をやると、それは真っ赤なりんごだった。

だが、そのりんごには誰かが齧った後があった。

 

次の瞬間には引き戸が吹き飛ばされて向こう側に人影が見えた。

長いツヤのある黒髪にはシャンプーのCMでも来そうな美少女がよろず屋の中に入ってきた。

 

これは新しい刺客かと思い、トト子はとにかくみりんを安全な場所へと連れて行った。

部屋の奥にみりんを寝かせて、あたりを見回したが軍団長はまだ寝ていた。

蘭々が起こしにいったはずなのに、こんな非常時に二度寝をしているなんて・・・。

トト子は幾らか強めに軍団長を揺すってみたが起きる様子はなかった。

諦めてトト子はみりんを置いて蘭々のいる玄関近くの部屋へと戻ることにした。

 

 

 

・・・

 

トト子が蘭々の元へ戻ると、新しい刺客はゆっくりとよろず屋に入ってきた。

よく見ると、何やらりんごを両手に抱えているようだった。

 

「ジャグリング!」

 

その刺客が叫んだ次の瞬間、その美少女はおもむろに持っているりんごを投げ上げた。

どこからかまた別のりんごを出し、いつの間にか三つくらいのりんごを器用にくるくると宙へ回している。

トト子があっけにとられてそれに見とれていると、次の瞬間にはその美少女の本領発揮となった。

美少女は投げ上げる瞬時の隙をついてりんごを齧ってはまた掴んで投げ上げた。

くるくると回しながらりんごを器用に齧っているのである。

その曲芸のような鮮やかな腕前に油断したのがまずかったのだ。

気づいた時には彼女はその齧ったりんごをこちらへ投げつけてきたのだ。

あまりに早業であり、避けるのも難しいと思われたが、

そのりんごは蘭々とトト子には命中しなかった。

ひょっとしたら、わざと外してくれたのかもしれなかった。

 

「急に投げてくるなんて、汚いですから!」

 

蘭々がどういう意味で言ったのかわからなかったが、

とにかく彼女のやり方は色んな意味で汚いのは確かだった。

食べかけのものを急に投げてくるなんて意表を突かれるし、

人のモラルとしてもどうかと思われるのだった。

だが、遠隔操作型の異能力者に比べると、

直接攻撃型は遥かにパワーが勝っていたのだ。

 

「もう許しませんよ!」

 

そう言って「タマランゼ」を発動させた蘭々。

また周囲の景色が二次元へと飲み込まれていって、

敵の刺客もさすがにそれには驚いているようだったが、

ジャグリングしているりんごを落とすことはなかった。

相当練習したのだろうが、才能もあるのだろう。

重要なのはおそらく後者だ、それを異能力者と世間は呼ぶのだろうから。

 

あたりはすっかり二次元に染まり、どこからかドSな王子キャラがやってきた。

この二次元世界に飲み込まれたが最後、ドS王子にかなうものなどいないとトト子には思われた。

こんなドS王子にりんごを投げつけようものなら、きっと相当怒らせてしまうことだろう。

 

「おい、俺を一日に二回も呼びつけるとはいい度胸だな」

 

どういうわけかわからないが、ドS王子は蘭々に厳しい言葉を浴びせてきた。

どうやらこの異能力は一日に何回も使用すると、それはまずいことになるのかもしれなかった。

 

「お前は俺の犬なんだから、お前が自分で戦えばいいんだよ。

 わざわざ俺の手をわずらわせるな、このバカが」

 

蘭々の異能力は最強かと思われたが、ドS王子を制御しきれないのが弱点かもしれなかった。

だが、ここは非常事態だし、なんとかご機嫌をとって戦ってもらわねばまずいとトト子は思っていた。

蘭々になんとかへりくだってお願いをしてもらうようにしてほしかったのだが、

どうやら蘭々はこのドS王子に罵られるのも大変たまらないらしく、

もう鼻血が出るか出ないかの瀬戸際で自分自身と戦っているようだった。

 

蘭々が勝手にのぼせ上がっている隙をついて、美少女は齧ったりんごを投げつけてきた。

それが蘭々の頭にクリーンヒットすると、とうとう堪えていた鼻血を止められなくなったようだった。

やがてあたりを覆っていた二次元の世界はみるみる溶けていってドS王子も消えてしまった。

 

蘭々が鼻血を出して床に倒れこんでしまうと、もはや標的はトト子だけになってしまった。

敵はジャグリングをしながらゆっくりとトト子に近づいて来る。

やがて高速でりんごを齧り始めたのでこれでゲームオーバーかと思われた時、

後ろの部屋のドアがガラガラっと開いて、誰がが出てきたのがわかった。

 

「なんや騒がしいと思ったら、うちの出番みたいやなぁ」

 

 

 

・・・

 

奥の部屋から現れたのは我らが軍団長だった。

このよろず屋が異能力者の集まりだという特殊な場所だとすれば、

その頂点に立つ軍団長は間違いなく最強の異能力を持っているはずだ。

トト子はそう思って軍団長の方へと駆け寄ってひょいと背中に回り込んで隠れた。

さっきまで寝ていた時は役に立たない人だと思っていたけれど、

最強の異能力を持っているならそれも帳消しになる。

 

だが、軍団長が一向に異能力を使って攻撃を仕掛けないので、

これはもしやすぐにやられてしまう役立たずパターンかとトト子は危ぶんだが、

敵がジャグリングを高速回転させてりんごを齧り始めると、

軍団長の目つきが変わって鋭くなった。

 

「ジャグリング!」

 

敵の美少女がそう叫んでりんごを連投してきた。

もはや敵も最大限のパワーを使って攻撃をしてきたのだ。

万事休すかと軍団長の背中に隠れたその時。

 

「ハクマイサマ!」

 

そう叫んだ軍団長はついに秘められた異能力を発揮したのだった。

軍団長は口を大きく開けると、敵が投げてきたりんごを全て吸い込み始めた。

それを見ていたトト子は軍団長の性格から異能力の正体が一発でわかった。

おそらくそれは、相手の攻撃をなんでも吸い込んでしまうのだろう。

食欲旺盛な軍団長だから、どんな攻撃でも吸い込んで無意味にしてしまうのだ。

案の定、美少女が齧ったりんごは全て軍団長の口の中へと吸い込まれていった。

なんだかそれって衛生的にどうかと思うと、トト子は少し気持ちが悪くなってきたが、

お互いに異能力を最大限に発揮した結果なのだから絵面は気にしても仕方なかった。

 

「なんや、もうおわりなん?」

 

軍団長が余裕の勝利宣言をすると、さすがにりんごのストックがきれたのか、

その美少女は悔しそうな表情を残してその場を逃げるようにして立ち去った。

 

トト子は助かったことで緊張の糸が切れてその場に座り込んだ。

とにかく軍団長の異能力は並外れていることがわかったし、

これなら普段は役立たずでも十分にカバー出来ていると思った。

むしろ、さすが最強の軍団長だったと、この人が味方で心強かった。

 

「ついにこのよろず屋が襲われてしまうとはなー」

 

軍団長は悲しそうな声色でそう言った。

それはそうだ、みりんちゃんも蘭々もやられてしまったのだ。

だが、ひとまず刺客は去ったとは言え、このままではまずかった。

まず攻撃を仕掛けてくる相手がどこにいるのかもわからず、

敵は二人も遠隔操作系の異能力を持っているので、

このままでは永遠に敵をやっつけることができなかった。

おまけに、みりんも蘭々もやられてしまって戦力にならないし、

軍団長の異能力は決して攻撃重視とは言い難い。

また、トト子は自分にもどんな異能力が秘められているかわからないが、

どうやってみんなみたいに異能力を使えばいいのかもわからなかった。

 

「ここはうちが守るから、トト子は他の異能力者を探してみてー。

 うちらのモットーは世界平和やから攻撃系の異能力は少ないけど、

 みりんちゃんの知り合いを頼れば心強いはずやから」

 

軍団長はそう言って鼻血を出して倒れていた蘭々を起こした。

肩を貸してそのまま部屋の奥まで運んでいく。

トト子は自分が役に立てるのかどうかわからなかったが、

二人がやられてしまった今、自分がどうにかするしかないと思った。

そして、トト子は先ほどみりんから渡された紙切れを取り出して、

その美術館へと向かうことを決意したのだった。

 

 

 

・・・

 

よろず屋を出たトト子はキョロキョロと辺りを見回した。

先ほど追い返した刺客達は今はまだ戻ってきていないようだった。

だが、おそらくまたマシュマロを乗せて、ガンプラを組み立てて、りんごを補充して、

あの刺客達はいつ襲ってきてもおかしくはなかった。

 

トト子は自分にしては珍しく走った。

プライベートで走るなんて真似は極力したくないのだが、

実際にはバスケをやっていたこともあって運動神経は悪くない。

おっとりした性格がのんびりに見えてしまっているが、

秘めたるポテンシャルは非常に高かった。

 

児玉坂にある美術館など一人では行ったこともなかったが、

それほど広いわけではない児玉坂の町であるので、

美術館の位置はトト子にもすぐにわかった。

交差点に差しかかると少し不安になってきた。

目の前のあの信号がいつまで青い色なのか。

謎の秘密結社の刺客達はいつどこから襲ってくるのかわからない。

一刻を争う場面で信号に捕まっている場合ではなかった。

ふいに点滅し始めて急かされて、トト子はさらに走るスピードを上げた。

 

並木道の歩道をひたすらに駆け抜け続けて、

トト子の前方にはやがて児玉坂美術館の建物が見えてきた。

だが、反対側の歩道から突然りんごが飛んでくるのがわかると、

それを間一髪でトト子は交わしたのだった。

 

焦っても立ち止まっている暇はない。

走りながら反対側の歩道へ視線を向けると、

そこには先ほどのあの長い黒髪の美少女がジャグリングをしながら走っていた。

しかもりんごを齧りながら猛スピードで走ってそれを投げてくるのに、

どうやら全くりんごを落とす気配もないのだった。

 

トト子が間一髪でかわし続けたせいで、齧られたりんごは店のショーウインドーを次々と破壊していく。

時にはりんごはわざとトト子の前方に投げつけられ、割れたショーウインドーから制服を着たマネキンが倒れてきた。

そうして行く手を阻むつもりだったのだろうが、トト子はバスケのドリブルを思い出して見事に交わした。

トト子はやればできる子なのである、みりんの言葉によればトト子だって異能力者らしいのだし。

 

やがて美術館にたどり着いたトト子は入り口の門をくぐって中に入った。

刺客に追われている状況で入場券を買っている場合ではなかったので、

そこはもう勘弁してもらって強引に美術館の建物の入り口から中へと走りこんだ。

どうやら刺客も追ってきていたようで、入り口の美術館スタッフにりんごが命中して倒れた。

 

クラシック音楽が流れている館内をトト子は走り続けた。

みりんが会うべきだと言った異能力者がこの美術館のどこにいるのかはわからないが、

今足を止めてしまっては刺客によってやられてしまってゲームオーバーだ。

それだけは避けなければならなかった、その異能力者に会えば何とかなるはずなのだ。

とにかくこの危機的な状況で今、話したい誰かがいるのは幸せなことだった。

 

美術館の中で開催されていたのはゴッホの展覧会だった。

そういえばどこかで聞いたことがあったが、ゴッホの絵は高いのだ。

もし下手にぶつかったりして絵を傷つけてしまえば、

大金を払って絵を買い取らなければならなくなるかもしれない。

そうすれば人生というゲームでは圧倒的に不利になってしまうのだろう。

トト子はそんなことを考えながら美術館を走り続けていたが、

刺客はどうやら後ろから追ってきているようで、

齧ったりんごは次々とゴッホの絵に命中していった。

 

こんな高級絵画に齧ったりんごを投げつけるなんて、

この秘密結社はたかがよろず屋を潰すだけでどこまで本気なのかと思った。

おそらくよろず屋を始末するためにはどんなタブーもないのだろう。

ゴッホの絵にはりんごを齧った唾液などが付いていったことだろうが、

刺客である彼女自身も、ただジャグリングの異能力を駆使しているだけなのだ。

 

トト子はりんごを避けながら長い廊下を走っていくと、

どうやらその先には一枚の巨大な絵が飾られていて、

そこで行き止まりであることがわかった。

袋のネズミになってしまったかと思ったが、

どうやらその絵の前に立っている人に気がついた。

そして、その絵に描かれていたのはどういうわけかただの袋に入った割り箸だった。

 

「・・・やあ、君の後ろから追いかけてくるあの粋な女は誰だい?」

 

その人はくるりと振り向いてそう言った。

見るからにとても美しくてクールな女性であり、

トト子は助けてほしいことを雰囲気全体で訴えた。

その事が上手く伝わったのだろうか、

彼女は内ポケットから割り箸を取り出した。

刺客が放ってきた齧ったりんごを目の前にして、

その割り箸を袋からシュッと抜いてりんごを指し示すと、

どういうわけかそのかじられたりんごは瞬時に凍りついてしまった。

おそらく、これがこの人の異能力なのだろうとトト子は思った。

投げつけたりんごが凍らされてしまった刺客は瞬時にたじろいだ。

 

「世界中のみんなが幸せにならないかなぁ・・・」

 

彼女は悲しそうにそう呟いたが、刺客は躊躇する事なくまたりんごを投げつけた。

割り箸を一閃するだけで全てのりんごは凍りついて地面に落ちていく。

もはや彼女に対してこの攻撃は全く通用しないのだった。

 

だが、やはり自分のミッションをやり遂げなければならない使命感があるのか、

この謎の秘密組織のトップの命令には絶対であるのだろうか、

刺客は刺し違える覚悟で彼女に対して接近していく。

それが彼女にとって命取りとなった。

 

「ハシクン!」

 

クールな彼女はそう叫ぶと割り箸を持って刺客に斬りかかった。

お互いに居合抜きのような形になったのだが、

その時には美術館の中がかなり寒くて凍えてしまいそうだったのにトト子は気付いた。

このクールな彼女の異能力は周囲の空気を凍らせてしまうほど寒くするらしかった。

 

ふと気づくと、刺客の女の子は全身が凍りついて動けなくなっていた。

クールな彼女の異能力の攻撃力は絶大で、これほど頼もしい助っ人はいなかった。

 

「お袋さんが泣いてるよ」

 

割り箸から抜いた方の箸袋を持って悲しそうにそう告げた。

また斬りたくもない相手を斬ってしまったとでも言わんばかりに・・・。

 

 

・・・

 

 

「助けてあげたいのは山々だけど、絵を描かなきゃいけないから」

 

先ほど助けてくれた異能力者の彼女はそうトト子に告げた。

どうやら美術館に篭もってインスピレーションを得ながらも、

自分の作品を完成させなければならないらしかった。

彼女自身もかなり追い詰められている様子だったので、

これ以上は無理強いできないとトト子は諦めた。

 

だが、彼女はまた別の異能力者を紹介してくれた。

自分よりもきっと役に立つはずだと推薦してくれたので、

トト子は彼女にお礼を言ってその異能力者を訪ねることにしたのだった。

 

そしてトト子は美術館を出て児玉坂の裏通りに向かった。

表通りとは違って裏通りは少し暗い通りなのだが、

その分おしゃれなお店が多いようだった。

紹介してくれた異能力者はそのあたりの古着屋によく出没するらしい。

トト子はいつも服は近くのよく分からないお店で買うのであって、

こんな場所には今まで一度も来た事がなかったのだった。

 

少し心細い気持ちでキョロキョロしながら歩いていると、

どこからか聴き覚えのある「ヴィーン」という音が遠くから伝わってきた。

これはまずいと思ったトト子は電信柱の陰に隠れてあたりを見回した。

だが、気付いた時にはドローンはトト子のすぐ後ろにいたのだった。

 

くるっと宙返りをすると白いマシュマロがこちらに向かって飛んできた。

トト子は瞬時にその場から飛びのいて地面に伏せた。

マシュマロは地面に落ちて爆発し、先ほど隠れていた電信柱を粉々に吹き飛ばした。

粉砕された破片が飛んでくるのでトト子はできるだけ顔を伏せてやり過ごした。

どんな異能力者が操縦しているのかわからなかったけれど、

これはあまりにも敵意が無邪気すぎるとトト子は思った。

おそらく、この異能力者も先ほどのジャグリングの子とそう変わらない、

いやむしろもっと若くて子供みたいな相手ではないかと思った。

 

ドローンはマシュマロを補充すべくまたどこかへ飛び去っていった。

爆弾を一発ずつしか搭載できないのがこの異能力の唯一の弱点だった。

その隙を見て逃げるしかないとトト子は思ったのだったが、

全く注意していなかった後方からプラスチックが擦れる音がすると思って振り返ると、

そこにはビームサーベルを構えた百体ほどのガンプラがトト子へ向けて歩いてきていた。

いつの間にあれだけ量産できたのだろうと見ていて気持ち悪くなった。

わざわざカラーリングまで完璧で、どうやら異能力者はかなり組み立ての玄人らしい。

 

攻撃をされたところで蜂に刺される程度のダメージしか受けないかもしれない。

だが、百体に一気に襲われると、それは蜂の大群に襲われるような威力に等しい。

それだけは避けなければまずいと思ったトト子は瞬時に立ち上がって走り出し、

一軒の古着屋に飛び込んで隠れる事にしたのだった。

 

圧倒的なボリュームで展開されている古着の陰にトト子は隠れていた。

店内では何やら陽気なリズムの音楽が流れていたのだが、

トト子の耳には全く入ってこなかった、ただ目に注力して外のガンプラを見る。

ガンプラ達は協力しながらキョロキョロとあたりを捜索しているようだった。

遠隔自動操縦型だからか、それほど正確には相手を察知できないのかもしれなかった。

 

これは隠れてやり過ごせるかと思った時、また遠くから「ヴィーン」という音が聞こえた。

マシュマロ爆弾を搭載して戻って来たあのドローンは、何やら高性能カメラでも付いているのか、

ガンプラ達に何かを伝えているようだった。

それは間違いなくトト子の居場所だと思われた。

 

やがて気づかれたのか、ドローンを先頭にしてガンプラ達もこちらに向かってくるのがわかった。

店内はそれほど広くないので襲われてしまうと逃げ場所がないのだった。

トト子が見つからないように大量にハンガーにかかっている服と服の間を移動していると、

そこで服を選んでいた少女とぶつかってしまった。

だが、そこで見た少女こそがトト子の探していた異能力者だった。

美術館にいたあのクールな彼女は紹介する時に似顔絵を描いてくれていたのだ。

それがあまりにも上手だったので、トト子は迷うことなく一発でわかったのだ。

少し丸顔の童顔であどけないルックスをしていたその異能力者と思われる彼女は、

「何、私の顔になんかついてる?」と訝しげだったのだが、

店外に迫ってくるドローンとガンプラを見つけた時、

どうやらこれはただ事ではないとすぐに察知してくれたようだった。

 

「ああ、そういうことか・・・」

 

彼女の両目はキッと鋭くなり、ドローンとガンプラを睨んだ。

異能力者達は見たところ普通の人間と変わらないのだが、

同じように他の異能力者に襲われた経験があるのかわからないが、その勘はどうも鋭いらしかった。

彼女はトト子を連れてそのお店を離れることにした。

 

店長と仲良しだった彼女は裏口から逃がしてもらった。

そうして刺客達の追っ手から逃れることができたかと思ったのだが、

予想外にもガンプラ達は店の裏口にもスタンバイしていたのだ。

その数は表のガンプラと合わせると二百は超えていただろう。

異能力者本体はどこかでひたすら黙々とガンプラを量産しているのだ。

その本体を叩かない限り、こちらに勝ち目はなかった。

 

ガンプラ達に囲まれて万事休すかと思われた時、

先ほど古着屋で出会ったオシャレな彼女はついに異能力を解放した。

 

「セブンノティーン!」

 

そう異能力の名称を叫ぶと、彼女の両手はシロクマの手に変わった。

その鋭い爪のついた手を振り回すと、ガンプラ達は呆気なくプラスチックのゴミ屑と化していった。

今まで知り合った異能力者達とはパワーの桁が違うとトト子は思った。

もはやシロクマの怪力を身につけているのと同じようなものであり、

ガンプラ達が幾ら襲ってきても一撃で粉砕してくれるのだ。

 

だが、さすがにキリがないのでとにかく突破口を作り出し、

彼女はトト子の手を引いて走り出した。

「あんまり異能力を使い続けるとやばいことになるんだよね」と彼女は言った。

これほどパワーのある異能力でありながら、長時間は戦えないのだろうか。

 

裏通りを抜けたところで、ひとまずガンプラとドローンはまいたので、

二人は走るのをやめて立ち止まるとはぁはぁと息をついた。

 

「あんたさぁ、異能力者でしょ?」

 

異能力者同士は何かそういうのがわかるのだろうか。

だが、まだ自分の異能力が何かわからないトト子にとっては、

その質問にはどう答えてよいか全くわからなかった。

 

「なんだ、あんたまだ自分の異能力がわかんないんだ」

 

困惑した表情から読み取られてしまったのか、

彼女にはすぐにバレてしまったようだった。

 

「そんなに悩まなくても大丈夫だよ。

 自然体でいればいつかわかってくるから」

 

そんな風にアドバイスをしてくれたのだが、

トト子にはどうすればその異能力に目覚められるのかがわからない。

もし自分が異能力を使うことができるのであれば、

こうして誰かを頼らなくても自分の手でみりんちゃんと蘭々の仇を討つのに・・・。

 

 

・・・

 

 

シロクマの異能力を持つ彼女は、

自分だけの異能力では敵を倒せないと言った。

遠隔操作型は本体を攻撃しない限りはキリがないのだ。

どうやら彼女には何か当てがあるらしく、

トト子の手を引っ張ってまた走り出した。

 

やがて表通りを駆け抜けながら駅までたどり着いた。

児玉坂駅の西口から階段を降りていくと、

何やら地面に置いたCDラジカセから音楽がなっていた。

トト子があまり好みでない怖い感じの音楽だ。

それはヒップホップであり、その辺りでは音楽に合わせて踊っている人が多かった。

 

古着屋で出会った彼女はそこで踊っているヒップホッパーの一人に声をかけた。

キャップをかぶっているのに、またその上からパーカーをかぶっている。

トト子もパーカーは好きだが、あくまでも楽チンだから好きなのであり、

こんな風に不良っぽく振る舞うために好きなのではなかった。

 

「あたしの力を借りたいってのはあんたかい?」

 

ヒップホッパーの彼女はトト子に話しかけてきた。

とりあえず無言でこくりと頷いたトト子だったが、

相手はそれだけでもう何かを了解してくれたようだった。

異能力者が異能力者を頼る時、それは何か非常事態だという事を意味するのかもしれない。

 

 

・・・

 

 

「この子の力を借りれば敵をおびき寄せる事ができるんだよ」

 

彼女の異能力はどうやら戦う能力ではないらしい。

基本的に今までは戦闘能力が高まるような異能力が多かったが、

そういえば蘭々の異能力だってかなりギリギリのラインだったのを思い出す。

もしかすると異能力というのは決して争いのための道具ではないのかもしれない。

 

「でもあたしはあくまでおびき寄せるだけだからね。

 戦う事はできないから、そこでこの子の異能力が役に立つってわけ」

 

ヒップホッパーの彼女は古着屋で出会った彼女の肩をポンと叩いてそう言った。

なるほど、組み合わせ次第で様々な効果を生む事ができるものだ。

近距離パワー型のシロクマの弱点を補ってくれるのであれば素晴らしいことこの上ない。

 

「だけど、勝負は一瞬だよ、食い止めていられるのは五秒が限界だからね」

 

なるほどたった五秒で相手を倒しきらなければいけないのか。

トト子は、そうなるとシロクマの異能力でもって一撃で葬りさらねばならないと思う。

そう考えている事が顔に出てしまっていたのか、自然と彼女の方を見つめてしまっていた。

 

「うん、わかってる、パワー全開でやるしかないんだよね」

 

先ほど異能力を全開にすることを躊躇っていた彼女だったが、

この状況を前にして覚悟を決めてくれたようだった。

仕留め損なったら、二度目のチャンスはないかもしれないからだ。

 

シロクマの異能力を高めるために集中し始めた彼女をよそに、

ヒップホッパーの彼女がトト子に近づいてきて耳元でそっと囁いた。

 

「気をつけて、パワー全開の彼女は危険だから」

 

意味深な言葉を告げて、彼女もそれ以上何も言わなくなった。

自分自身の異能力を使うために集中し始めたようだった。

「周波数・・・」と目を閉じてブツブツ言いだしたのがわかった。

 

「ヒキヨセノホウソク!」

 

彼女がカッと目を開いて両手を宇宙に向けて掲げた。

何かを放ったものが彼女の元へ戻って来るような仕草をした後、

ダラダラと汗を流しながら苦しそうな表情をしていた。

 

何が起こったのかしばらくはよくわからなかったのだが、

どうやら向こう側から何かに引っ張られるようにして後ろ歩きをしてくる女の子が二人いた。

一人はかなり色白で頬っぺたがもちもちしていそうな子供みたいな女の子で、

もう一人はただ純粋な田舎から出てきたような女の子だった。

その手にはそれぞれスマホとプラスチックのかけらを持っていた。

トト子は瞬時に彼女達がドローンとガンプラの異能力者だとわかった。

先ほどの異能力によってここに引き寄せられて来たのだ。

 

確かにこんなチャンスを逃したら、もう彼女達がどこに隠れているのか見つけられない。

遠隔操作型は本体の異能力者さえ攻撃できればあとは脆いのだ。

ここは一気にやっつけるべきだとシロクマの異能力者の方を見ると、

先ほどまでは両手だけがシロクマだったのに、

もはや彼女の全身が白い毛に覆われてしまっていた。

もはや彼女だと判別できるのはその顔の部分だけになっている。

これがパワー全開だということなのだろうか。

だが、シロクマのパワーが向上したと見るよりは、

彼女のシロクマとしての可愛さが増したようにしかトト子には見えなかった。

 

「うおりぁぁー!」

 

シロクマは引き寄せられてきたあの二人に対してシャケをすくい上げるようなアッパーを披露した。

彼女達はそれぞれ中空へと飛び上がるほどの攻撃を受けてしまい、そのまま地面へ落下した。

スマホの画面は粉々に割れてしまっていたし、プラスチックのかけらもどこかへ消えてしまった。

 

シロクマもヒップホッパーも二人ともかなり息が上がっていた様子だった。

だがとにかく今まで散々苦しめられてきた刺客達を一気に葬り去ったのだ。

トト子は少し安心した気がして、先ほど倒した二人の元へと近づいた。

相手の顔をちゃんと確認しようと思ったのだったが、

そこにいたのはまだあどけない少女達であり、

倒れて眠っている姿を見るだけではあんな刺客だったとは到底思えない。

りんごを投げつけてきた彼女だってまだ似たような年齢だったし、

どうしてこんな若い彼女達がまるで道具のように使い捨てられているのか信じられなかった。

よろず屋は組織とは言えそれほど厳しい上下関係もないのだが、

この謎の秘密組織はかなりトップをリスペクトしているのは間違いない。

完全に忠誠を誓っているか、もしくはかなり厳しいルールがあるのか。

 

 

とにかく二人の異能力者を始末したことで、

シロクマはもう役目を終えたと判断したようだった。

シロクマの彼女の様子は、もはやあの古着屋の彼女ではない。

パワーを全開まで引き出したために、ほぼ完全にシロクマになっていた。

突然何を思ったのか「じゃ、これで」とシュタっと手を上げて去っていく。

そのまま児玉坂駅の改札に向かって行って電車に乗るようだった。

 

刺客を二人倒した事のお礼を言わなければいけないと思い、

トト子はシロクマの後を追いかけることにした。

ヒップホッパーの彼女もかなり息が上がっているようだったが、

後でお礼を言えば良いと判断し、とにかく先にシロクマを追いかけたのだ。

 

改札口へ向かうシロクマの後ろ姿を見つけたトト子は追いかけたが、

何やらシロクマはモゾモゾと動きながら何かを探していた。

定期券でも持っているのだろうかと思って見ていると、

彼女はおもむろにケーキを取り出して改札口にベチャっと叩きつけた。

改札口では「ピンポーン」と音がなって止められてしまったようで、

駅員さんが困った顔で走り寄ってきたのが見えた。

 

「ああ、またあんたかい、これで何度目だい!」

 

シロクマは左手で頭を押さえながらペコペコと謝っていた。

一体何が起こっているのかトト子にはわからなかったが、

駅員さんが怒って話しているのを聞いていると、

どうも彼女は常習犯のようで、いつもこの定期入れの改札口にケーキを入れようとするらしい。

しかもそれを些細な事だと本人はあまり気にしていないようだったのが駅員さんの怒りの火に油を注ぐ。

だが遠くからトト子の姿に気付いたシロクマの目は涙で潤んでいるように見えた。

まるで「私の意志じゃない」とでも訴えているようだったのだ。

おそらく、パワーを全開にするとシロクマに体を乗っ取られてしまい、

定期とケーキをいつも間違うようになってしまうのだろうとトト子は結論付けた。

蘭々の異能力もそうだったが、決して異能力者自身が制御できるものではなかった。

これが異能力の恐ろしいところでもあるのだろう、トト子はシロクマを救うこともできず、

遠くからぺこりとだけ頭を下げてまたヒップホッパーの元へと戻っていった。

 

 

 

・・・

 

 

トト子が先ほどの場所まで戻ってきた時、

目の前には信じがたい光景が広がっていた。

 

先ほど倒したはずの異能力者の二人の姿がそこにはなく、

引き寄せてくれたはずのヒップホッパーの彼女が代わりに倒れていた。

この短時間で一体何が起こったのかわからなかったが、

倒れているヒップホッパーの元へとトト子は駆け寄った。

 

「・・・あーあ、やばいやつまで引き寄せちゃったよ」

 

ヒップホッパーは胸を押さえて倒れていた。

まるで銃で撃ち抜かれたような傷跡が付いていたのだ。

 

「・・・早く逃げな、奴らのトップが来たんだよ」

 

そう言ってヒップホッパーは血を吐き出した。

いまだかつてこれほどの重症に追い込まれた人はいない。

敵のトップの異能力は一撃必殺の殺傷能力を持っているのだろうか。

まるで心臓めがけて迷いなく弾丸を撃ち込むような凄腕の・・・。

 

 

トト子がオロオロと座り込んで動けないでいると、

後ろからポンと肩を叩く者があった。

振り返るとそこには少し年上の脚の長い女性が立っていて、

何やら全ての事情を知っているような表情だった。

 

「残念だけど、彼女はもう助かんないよ」

 

その女性はヒップホッパーの事を指してそんな風にいった。

せっかく助けてくれた彼女に何のお礼もできないまま、

こんな風にお別れするのはトト子には忍びなかった。

 

「悲しいけど逃げなきゃダメ、あんたまでやられちゃうから」

 

そう言った後、その女性は瞬時にトト子を突き飛ばした。

トト子には何が起きたかわからなかったけれど、

トト子とその女性の間を弾丸が突き抜けて行ったのがわかった。

奴らのトップがまだ近くにいて、トト子を狙ったのは明らかだった。

 

トト子はもうわけがわからずに立ち上がることもできなかったが、

脚の長い彼女が無理やりトト子を連れてその場を逃げ出した。

 

「あれ~おっかしいな~外しちゃったみたい♡」

 

無理やり連れ去られている最中に、

トト子はそう言いながら笑顔で追いかけてくる奴らのトップの顔を見た。

先ほどの刺客達とあまり変わらないようなあどけない顔をしている女性に見えた。

 

「ズッキュン♡」

 

そう言いながら逃げるトト子達に向けてまた銃を撃ってきた。

彼女が放った銃弾は又してもうまくトト子達を避けて飛んで行った。

 

「あれ~どうしちゃったのかな~今日はなんだか腕が鈍っちゃってるみたい♡」

 

幸いにして彼女が追いかけてくるスピードはそれほど早くはなかったが、

だからこその遠距離攻撃の異能力なのだろう。

あの銃で心臓を撃ち抜かれたら誰もが一巻の終わりである。

しかも、銃を撃つことを楽しんでいるようなぶりっ子さが逆に恐ろしかった。

これはアニメでよくいるタイプのやつだとトト子は思った。

最強極悪のやつほど笑顔で澄ました顔をしながら残酷に敵を殺したりする。

そういうキャラは嫌いじゃないが敵に回すなら最悪だとトト子は思った。

 

 

・・・

 

 

トト子は先ほどの脚の長い女性に連れられながら逃げていた。

敵のトップは追いかけてきたのだが、追いかけてくる途中で転んだらしく、

これでかなり距離を取ることができたので敵も撃ってはこれない。

どういうわけか色々と幸運に恵まれているなとトト子は思った。

 

だが、隣で走っている脚の長い女性を見たトト子は驚いた。

先ほどまでは二十代前半に見えたものだったが、

今はどういうわけか三十歳くらいに見えるのである。

しかも走る息がかなり上がっていてくたびれているのだ。

 

「単にラッキーなんじゃないからね」

 

女性が説明してくれたところによると、

すでに敵のトップは彼女の異能力の餌食になっているらしかった。

彼女の異能力「ニオシ」は相手の運を著しく下げる効果があるらしく、

それにかかった者は何をやってもうまくいかなくなるらしい。

だから先ほど放たれた銃弾も当たらなかったのだろうし、

追いかけてくる途中で転んでしまったのもそのせいかもしれなかった。

 

だが、隣で走りながらみるみる老けていく女性に対し、

トト子はそれが不気味であり心配でもありで気が気でない。

しかし、これもどうやら異能力を使うことによる反動らしかった。

異能力のパワーを最大限まで発揮すると色々な反動があるらしく、

その反動をどれだけ制御できるのかが異能力者としての熟練度のようだ。

そう考えると、みりんや軍団長はなかなか凄腕だったのかもしれない。

特にみたところ何も反動を受けているようには見えなかったからだ。

 

ずっと逃げ続けて隣の女性がすでに四十代に見え始めた頃、

「さすがにこれ以上は勘弁して」と彼女は言ったのだった。

若さと引き換えにトト子をここまで連れてきてくれただけでも、

トト子は一体どうやって感謝したらいいのかわからないくらいだった。

だが、とにかく彼女はもうここらで「ニオシ」を解除したらしかった。

解除して数時間もすればまた若い体を取り戻せるのだということらしい。

とにかくそうやって走り続け、トト子と女性は本屋へとたどり着いていたのだった。

 

「この本屋の中に凄腕の異能力者がいるの。

 その子があんたのことを助けてくれるはずだから」

 

そう言って四十代の身体をバテバテになるまで駆使してしまった彼女は、

息をゼーハーゼーハーとやりながらトト子にかろうじてそう言った。

どうお礼を言おうかとまごまごしていると「早く行って!」と彼女は叫んだ。

トト子は促されるままに彼女を置いて本屋の入り口へと走りだした。

その様子を見て彼女はにっこりと微笑んだようだったが、

トト子が本屋の入り口から中に入る瞬間、彼女が後ろから撃たれて倒れる姿が微かに目に入った。

 

 

・・・

 

 

本屋の店内を走りながら、トト子は何処にその異能力者がいるのか検討もつかなかったが、

異能力者は異能力者を呼ぶという今までの法則のようなものを信じて走り続けた。

 

それらしい人をキョロキョロと探してみたものの、目ぼしい人は見当たらない。

トト子はそれでも何か小さなヒントでもないかと思って目を凝らし続けた。

すると隣で本を読んでいる小顔の女の子が中原中也の詩集を読んでいるのに気づいた。

ちょうど「汚れちまった悲しみに」のページを覗き込んでいるようだった。

 

トト子は何となく感覚的にだが、彼女が異能力者だと見抜いた。

それはトト子がこれまで数々の異能力者達と出会ってきたことで、

彼女の中で何かが変わり始めていたのかもしれなかった。

黙ってじっとその小顔の女の子の方を見つめていると、

女の子は何も言わずにその文庫本を閉じて棚に戻した。

 

「悪いけど、あんまり異能力は使いたくないんだー」

 

女の子はそう言ったが、どういうわけだかわからない。

非常事態だからと今までの異能力者はすごく協力的だったのに、

彼女はどうして非協力的なのだろうかとトト子は見つめていた。

すると彼女は「恥ずかしいから」とだけ言い放った。

トト子は、一体それはどんな恥ずかしい異能力なのかと不思議に思った。

 

「みーつけた♡」

 

トト子が声のする方を振り返ると、

敵のトップが両手を銃のように構えて笑顔でこちらに歩いてくるのが見えた。

銃を持っているわけではないのだが、その両手で銃を撃つ仕草をすることで、

どういうわけか銃弾を撃つことができる異能力なのだろう。

ということは、もうこの距離に追い詰められているのは万事休すだった。

 

「こーんな可愛い私に撃たれるなんて幸せものだぞ♡」

 

そう言いながら彼女はウインクをしてきた。

せめて軍団長がいてくれればいいのにと思った。

トップはトップ同士で戦ってくれた方がアニメでも盛り上がるのだし。

 

「・・・やばいやつ連れてきちゃったね」

 

小顔の女の子はボソッとそう言った。

 

「そんなこと言ってるけど、本当は私のこと好きなくせに♡」

 

「・・・ふざけんな、あんたのことなんか全然好きじゃないし」

 

小顔の女の子は相手を睨みつけてそう言った。

これだけ強気で言い返せるということは相当すごい異能力を持っているにちがいない。

トト子はとにかく恥を捨てて異能力を発揮してくれることを切に願った。

 

「ズッキュン♡」

 

敵は容赦なく両手から弾丸を撃ってきた。

もはや一巻の終わりかと目を閉じたトト子だったが、

小顔の女の子が恥ずかしそうに叫ぶ声が耳に飛び込んできた。

 

「・・・カミニエラバレシビショウジョ!」

 

ついに異能力を発揮したのかとトト子が目を開けてみると、

小顔の女の子の背中には白い翼が生えてきていて、

敵が撃ってきた弾丸は何やら大きな手によって遮られていた。

その手は上の方の雲から伸びてきていたので、

これはおそらく神の手ではないかとトト子は結論づけた。

彼女の異能力が神を味方につけるのだとすれば、

これほど強力な異能力は他にあるだろうかとすら思った。

だが弱点があるとすれば、彼女があまり使いたがらないことだろう。

その異能力名を叫ぶのがどうやらかなり恥ずかしいらしかった。

 

トト子が敵の方へと目をやると、何やら雲の上から伸びてきたもう一つの手があり、

それが敵を掴んでどこかへ連れて行ってしまうのが見えたのだった。

いったいどこへ連れて行ってしまうのか定かではなかったが、

とにかくこの場は助かったのだとトト子は安堵するのだった。

 

 

 

・・・

 

「とりあえず、今のところはもう大丈夫だよ」

 

小顔の女の子はそう言って別の本棚の方へ歩いていってしまった。

どうやらお目当ての本を見つけたようで坂口安吾の「堕落論」を手に取った。

 

「この本はね、面白いんだよ」

 

小顔の女の子が指で指し示した部分をトト子は読んでみたけれど、

書いてあることの内容が古めかしく難しすぎて意味がわからなかった。

 

「あなたも異能力者だよね」

 

小顔の女の子はまたトト子から「堕落論」を取り返して読み続けた。

 

「一応、私には神の声が聴こえるから言っとくと、

 異能力なんてのはあってないようなものなんだって。

 あると思えばあるし、ないと思えばそんなもんないし」

 

トト子にはまたまた深すぎて意味がわからなかった。

今まで散々目の前で異能力を見てきたのに、

ないと思えばないってどういう意味だろうか。

 

「だからさ、あると思えばいいんじゃないかな?

 きっと世の中ってそんなもんなんだよ」

 

トト子はよくわからなかったけれど、

世の中はきっとそんなもんなのだろうと思って頷いた。

答えを投げ出した気もしたが、今はそれどころではない。

後でゆっくり考えればいいとトト子は思った。

 

「そうそう、あと神が言ってたけど、

 どうやらあなたがこの世界で最強の異能力者らしいよ。

 だから謎の秘密組織があなたを狙ってるんだって」

 

トト子はそれを聞いてまた驚いてしまった。

なんと秘密組織の狙いは元から自分一人だったのだ。

その巻き添えになってみりんも蘭々もやられてしまっただけに過ぎなかったのだ。

自分さえいなければこんなことにはならなかったのにという思いが頭をもたげる。

 

そんな事を思っていると、店内の向こう側から歩いてくる女の子がいた。

どうやらその女の子もお目当ての本を見つけたらしくてテンションが高かった。

その手には「手相完全解読Book」というタイトルが付けられた本を持っていた。

 

「紹介するね、この子も異能力者なんだよ。

 神が言うところによるとね、彼女を連れてよろず屋に戻るといい事があるらしいよ」

 

「こんにちは~ねえ私の手相ってすごいんだよ、見てみる?」

 

初対面にもかかわらずその紹介された異能力者の女の子は馴れ馴れしく話しかけてきた。

どうやら自分の手相を自慢したいようで、トト子は仕方なく気を使ってその子の手を覗き込んだ。

トト子は見てもよくわからなかったが、一本長い線が手のひらから手の甲のところまで伸びているらしかった。

 

 

・・・

 

 

それからトト子は本屋をあとにした。

紹介された新しい異能力者の女の子を連れて、

トト子はよろず屋まで帰る事にしたのだ。

本屋を出るときにも一応外を警戒したのだが、

どうやら神の手によってどこかへ飛ばされてしまった刺客は近くにいないようだった。

 

この新しい異能力者の女の子がどういう異能力を持つのかはわからない。

だが、神のお告げに従うしか今のトト子にできる事はなかった。

完全に敵の刺客を倒したとは言えないこの状況で、

よろず屋に戻る事にどういう意味があるのかはわからない。

また軍団長が言ったように、今連れている彼女が、

敵を完全に倒せるだけの攻撃力を持った異能力者であるかも定かではなかった。

それでも今まで出会った様々な異能力者達の助けを得てここまでこれたのだ。

もはやその導きを信じるほか仕方がなかった。

 

トト子と女の子が走り続けてようやくよろず屋の建物が見えてきた。

玄関は刺客によって吹き飛ばされていたので引き戸も何も無くなっていたが、

どうやら中で誰かがいる気配がしてトト子はすぐに入るのをためらった。

もちろん、軍団長がいるのは間違いないに決まっているのだが、

みりんと蘭々の傷はそう簡単に治るようなものではなかったし、

そう考えると軍団長がいったい誰と話しているのかわからなかったからだ。

 

トト子は玄関の横に隠れてそっと中を覗いてみた。

すると、そこにいたのは先ほど神の手によってどこかへ飛ばされたはずの女の子だった。

向こう側にはその女の子と向き合うようにして軍団長が立っていた。

 

「さゆみん、久しぶり~♡」

 

あの銃使いの女の子が馴れ馴れしく軍団長に話しかけた。

この親しさはいったいどういう事だろうとトト子は不思議に思った。

 

「なんや、やっぱりあんたの仕業やったんか」

 

軍団長は銃使いの女の子を前から知っていたような口調でそう言った。

二人が知り合いだとすれば、どうしてこんな争いになっているのか検討もつかない。

 

「悪いけど、トト子は渡さへんで。

 トト子はうちらの最終兵器やからなー」

 

軍団長は相手を睨みながらそう言った。

あんな真剣な軍団長の顔なんてトト子は今まで見たことなかった。

 

「違う違う、そんな怖い顔しないで。

 今日はちょっと別の用事で来ただけだから♡」

 

銃使いの女の子はあくまでもぶりっ子な風にそう言った。

その笑顔の裏にはどんなあざとさがあるのかと想像すると、

トト子は怖くてあまり関わり合いになりたくないと思った。

 

「・・・いったい何の用事なん?」

 

「さゆみん、私達のとこに戻ってくる気ない?」

 

そのセリフを隠れて聴いていたトト子は思わず息を飲んだ。

その言葉の意味を考えると、うちの軍団長は元はあの刺客達の仲間ということになるのか?

 

「・・・いったい何を企んでんのか知らんけど、うちは戻る気はないよ」

 

軍団長は冷たく言い放った。

トト子はあの軍団長にそんな謎の過去があったなんて知らなかった。

 

「え~でもあんなに一緒に一期生として仲良くしてたじゃん♡ 

 それがいつの間にか抜け出してこんなよろず屋なんて作っちゃってさー」

 

銃使いの女の子はよろず屋の建物を見回しながらそう言った。

逆らうならいつでもこんな建物は潰せるとでも威嚇しているかのように。

 

「・・・今のうちはもう別の道を歩き始めてるから。

 『世界平和』を実現するんが今のうちらの夢やし、

 そのためにはトト子の力がどうしても必要なんよ」

 

軍団長は毅然とした態度でそう言い放った。

それを見ていたトト子は軍団長が裏切らなかったことに安堵し、

また自分の力が求められていることに困惑と希望が胸の中に混在していた。

 

「え~そんな寂しいな~♡」

 

そう言いながら銃使いの女の子は両手を銃のように構えた。

かわいい口調だが、もう決裂は免れ得ないということだろう。

 

「まあその方がいっか、世界で一番かわいいのは私だし♡」

 

そう言いながら銃使いの女の子はウインクして銃をぶっ放した。

轟音を立てて弾丸が両手から具現化されて軍団長を襲う。

 

軍団長は銃弾が飛んできても慌てる素振りもなかった。

「ハクマイサマ!」と叫ぶと異能力を発揮して弾丸は口の中に吸い込まれていった。

 

それを見ていたトト子は絶句した。

りんごであれば吸い込まれても大丈夫だと思えたが、

銃弾まで胃袋の中に入れてしまって大丈夫なのだろうか。

それとも異能力だからそのへんの処理は人間の身体の理屈を超えているのだろうか。

この様子で行くとマシュマロ爆弾でもガンプラでも関係なく食べてしまうことになる・・・。

 

「しばらく会わない間にもう忘れたん?

 うちの異能力の前にはどんな異能力も役に立たへんで」

 

そう言いながら弾丸を咀嚼して食べてしまった。

「しかも、世界で一番かわいいのはうちやし♡」と付け加えることも忘れなかった。

 

お互いに異能力を使いあっていても埒があかないとわかった二人は、

異能力を使うのを諦めて肉弾戦で戦い始めたのだった。

その様子はトト子から見ると嫉妬に狂った女同士のつかみ合いであり、

髪の毛を引っ張ったり、相手の口を大きく広げたり、鼻に指を入れたりしていた。

「私の方がかわいいのー!」「うちの方がかわいいにきまってるやろー!」と言い合いながら、

二人の醜い争いはいつ果てることなく続いていくように思えた。

 

 

トト子は二人がもつれ合って争っている隙を見て手相少女と共によろず屋の中へ入った。

そのまま奥の部屋にこっそりと忍び込んでみりんと蘭々の様子を伺うことにした。

部屋に入ってみると、やはり二人はまだ布団に横になって苦しそうにしていた。

蘭々の傷はともかく、みりんの傷は相当深そうに思えた。

 

「ねえねえ、私の手相ってすごいんだよ、見てみる~?」

 

そんな時にもかかわらず、隣にいた手相少女はそんな事を尋ねてきた。

本屋でも同じ事を尋ねられたし、もうしつこくてトト子は多少うんざりしていたが、

もしかすると、この手相と彼女の異能力が関係あるのかもしれないとピーンときた。

ここへきてトト子の嗅覚はかなり鋭さを増してきており、

その異能力への勘はメキメキと高まってきていたのであった。

 

そうしてトト子が関心があるふりをして女の子の手を覗き込むと、

「この生命線がね、手の甲のところまで伸びてるの」と嬉しそうに説明する。

トト子はその説明を受けて掌を見つめていたが何がすごいのかよくわからない。

そもそも、彼女の説明している生命線が本当に手の甲のところまで行っているのかも怪しく思えてきた。

 

「イッテンノヨ!」

 

彼女がそう唱えると、彼女の周りに異能力を発した時のエネルギーが巻き起こり、

何が起きたのかわからないが、突然みりんと蘭々の目がパッと開いて二人は布団から起き上がった。

何がどういうことかさっぱりわからなかったのだが、とにかく二人の傷は瞬時に癒されたのだ。

 

トト子はこの異能力のカラクリがよくわからなかった。

彼女の異能力への興味関心は非常に高まっていたこともあり、

それでは納得できずにその原因を解明しようとした。

手相少女の手相をよくよく確認したところ、彼女の生命線は本当に手の甲まで伸びていた。

これはもしやと思い、トト子はみりんと蘭々の手相も合わせて確認してみることにした。

すると、どうやらみりんと蘭々の手相でも生命線が同じように手の甲まで伸びていた。

おそらくこれは彼女の異能力によって生命線が手の甲まで伸ばされたのだとトト子は結論付けた。

生命線が伸びることによって生命力が回復するという治癒系の異能力なのだろう。

 

「トト子、無事だったんだね!」

 

傷が回復したことを悟ったみりんはトト子にそう言って抱きしめてきた。

蘭々も隣で嬉しそうにトト子の帰宅を祝福していてくれていた。

もう鼻血は止まっているのだから鼻に詰めているティッシュはとってもいいのにと思い、

トト子は蘭々の鼻からティッシュを抜き取ってゴミ箱に捨ててあげた。

とにもかくにも、これでみりんから託されたミッションは無事にやり遂げたことになる。

よろず屋以外の異能力者たちを頼って、無事に帰ってきてみりんも蘭々も助かった。

 

「トト子、軍団長は?」

 

蘭々にそう尋ねられてトト子はハッとした。

そうだ、まだ全ては終わっていなかった。

向こう側で醜い女の争いをしている軍団長は無事だろうかと気になった。

 

だが、どういうわけか手相少女はまだ自分の手相を認めてもらいたかったらしく、

元気になったみりんと蘭々にも「ねえ私の手相すごいんだよ、見てみる~?」と尋ねていた。

「生命線がね、手の甲まで伸びてるんだよ」とどこまでもしつこい様子にトト子は呆れていたが、

まだ初めてその話を聞くみりんと蘭々は多少話を聞く姿勢を取っていたようだった。

 

だが、みりんは少しいたずらな様子で「本当にいってんの~?」と茶化してしまった。

そこで手相少女をムキにならせてしまったのがまずかったのだ。

 

「イッテルッテバ!!」

 

ムキになって答えた手相少女の周囲にまた異能力のエネルギーが出現したが、

今度は先程よりも異能力のパワーが桁違いに強大だったように思えた。

凄まじいエネルギーの波動がこの部屋のみならず、よろず屋の外側まで爆発的に広がっていった。

 

しばらくすると、手相少女が発したとてつもない波動は収まったのだが、

よろず屋の外まで広がっていったエネルギーの事を考えると、

これはもしかするともしかするのではないかと思ったトト子は焦り、

一人で軍団長の様子を見に行くことにした。

するとそこには先程までいなかったドローン少女、ジャグリング少女、ガンプラ少女までいて、

倒したはずの敵達までがその生命力を回復させて戻ってきてしまっていたのだった。

おそらく、先程のパワー全開の異能力によって児玉坂の町全ての人々の生命力が高まってしまったのだ。

そうであれば、あの銃弾に倒れたヒップホッパーも脚の長い女性も蘇ったのかもしれなかった。

 

仲間達が復活したのは良かったが、敵達が復活してきてしまったことにトト子は絶望し、

もうどうしようもないと思っていると、トト子の存在に気づいた敵達が攻撃をしかけてきた。

銃弾が目の前に飛んでくるのがわかるとトト子は思わず目を伏せたが、

いつの間にか目の前には「金」の駒があって銃弾はその駒によって塞がれた。

後ろを振り返るとみりんが「ショウギフォーカス」によってトト子を守ってくれたのだった。

 

軍団長もいつの間にかトト子が戻ってきたことに気づいたようだった。

「トト子!」と叫ぶとトト子の方へと顔を向けた。

そこで隙を見せたのが彼女の命取りとなった。

銃使いの女の子はその隙を見逃さずに「ずっきゅん♡」と叫んだ。

軍団長は異能力を発動できずに心臓を射抜かれてしまって後ろに吹き飛び、

最終的にはトト子にもたれかかるようにして後ろに倒れこんだ。

 

「軍団長ー!」

 

蘭々が叫んで駆け寄る中、ガンプラもドローンも襲いかかってきたので、

みりんが「金」と「銀」を駆使して仲間達を守りながら戦っていた。

トト子は軍団長の傷を回復させなければと思って奥の部屋を振り返った。

手相少女を早くこの場に呼ばなければと思ったのであったが、

どうやら手相少女はもう疲れて眠ってしまっているらしいのが目に飛び込んできた。

おそらく先程無駄に異能力を全開にしてしまった反動がここへきて出てしまったようだった。

 

「・・・トト子」

 

トト子が体を支えていた軍団長は虫の息でトト子に話かけた。

 

「・・・トト子はやれば出来る子や」

 

そう言って軍団長は意識を失ってしまった。

トト子は軍団長を揺すりながら起きて欲しいと願ったが、

どうにもこうにも反応がなかった。

 

「トト子、異能力を開放して!」

 

隣にいる蘭々がそう叫んだ。

だがトト子は自分の持つ異能力がなんなのかわからない。

 

「トト子、自信を持てば大丈夫だから!

 軍団長がいつも言ってたの、世界を救うにはトト子の力が必要だって!」

 

「金」を盾のように使いながらみりんがそうトト子を励ました。

ドローンのマシュマロ爆弾が近距離で炸裂し「金」の盾は粉々に砕け散った。

みりんも蘭々もトト子もその爆風によって後ろへと吹き飛ばされた。

 

よろず屋の建物はもう半壊状態になり、その中で手相少女はのんきにまだ眠っている。

吹き飛ばされたトト子と蘭々とみりんはそれぞれ床に倒れてしまった。

それを見てニコニコ笑いながら銃使いの女の子がつかつかと歩いてくる。

 

「やっぱり世界一かわいいのは私だったみたい♡」

 

なんとかヨロヨロと起き上がってきたトト子だったが、

その目の前には無情にも銃が向けられていた。

その引き金が引かれれば、もはや全てが終わりだった。

 

トト子はこの極限状態の中で一つだけ悟った。

大切な仲間達を守るには強くならなければいけなかったこと。

もし自分の異能力が使えていれば、仲間達はこんなことにはならなかったかもしれない。

全ては自分の非力さが招いた結果だと思うととても悔しくて涙が出そうだった。

 

「あなたも結構かわいいけど、かわいいのはもう私だけで十分なの、ごめんねー♡」

 

銃使いは終始ニコニコとしながら「ずっきゅん♡」と銃の引き金を引いた。

全てが終わったかと思ったのだが、放った弾丸がどういうわけかトト子の前でバリアに塞がれた。

弾丸がキュルキュルと回転をしながらもバリアを粉砕することができないで勢いをなくして落下した。

 

「トト子ー!」

 

後ろからみりんが叫ぶ声がトト子には聞こえた。

自分がどうして弾丸を弾くことができたのかはよくわからなかったが、

ふと無意識の内に自分の両手でピースサインを作っていることに気がついた。

地面に手をつきながらも手の形がピースサインになっていたのだ。

 

トト子はその時、本屋で出会った異能力者の女の子の言葉を思い出した。

 

「異能力なんてのはあってないようなものなんだって。

 あると思えばあるし、ないと思えばそんなもんないし」

 

異能力っていったいなんだろう。

いったい誰が何を異能力って決めたりしたんだろう。

思えばそれはとても些細なことだった気がした。

 

「だからさ、あると思えばいいんじゃないかな?

 きっと世の中ってそんなもんなんだよ」

 

銃使いの女の子は弾丸を弾かれたことに恐怖したのか、

むやみやたらに銃を連射し始めた。

だが、何発撃ってもトト子の前のバリアに弾かれてしまった。

 

トップの危機を救わなければと思ったのだろうか、

ドローン使いもジャグリング使いもガンプラ使いも、

その異能力を駆使して一斉に襲いかかってきた。

だが、もうその時のトト子には迷いがなくなっていた。

もう自分の異能力がなんなのか明確に理解していたのだった。

 

トト子は立ち上がると同時に両手を前に掲げた。

そして、自信を持って思いっきりこの世界に向かって叫んだ。

 

「ダブルピース!」

 

そう叫んだトト子のピースサインから光が溢れ出した。

その光は目の前にいる銃使いの女の子を飲み込んでいき、

後ろにいた三人の部下達をも飲み込んでいって、

やがてその光はさらに膨らんでトト子自身も飲み込まれていった。

トト子の後ろにいたみりんは光に飲み込まれる前にかすかに笑顔を浮かべた。

 

「やっぱりあの言い伝えは本当だったんだ・・・。

 トト子のダブルピースはいつか世界を救うんだって・・・」

 

そう言ってからみりんは光の中へと飲み込まれいった。

隣にいた蘭々も、動かなくなった軍団長も、奥で眠っていた手相少女も、

やがてはこのよろず屋の建物も、児玉坂の町すべてが光に飲み込まれていった。

 

 

 

・・・

 

「・・・トト子」

 

どこからか声がする。

この声には聞き覚えがあった。

みりんの声に違いない。

 

「トト子、聞こえてる?」

 

さっきより声が大きくなった。

近くにみりんがいるのは間違いなかった。

トト子は頭を動かしてキョロキョロしてみた。

だがみりんの姿は見えないし、見えるはずもないと思った。

 

「トト子、あんまり長時間やっちゃダメだよー」

 

急に目の前が明るくなったと思ったら、

どうやらみりんが後ろからトト子のヘッドセットを外したようだった。

突然明るい世界が目に飛び込んできて、それに驚いたトト子は「はっ!」となった。

 

「トト子ちゃん、どう?

 これ面白かったー?」

 

隣に座っていた女性がトト子にそう尋ねた。

ふとそちらへ目をやると、それは坂田花紗だった。

トト子がニコニコしたまま頷いた。

 

「よかったー、うちトト子ちゃんの笑顔が見たかったからー」

 

花紗はそう言って安堵の表情を浮かべていた。

近くでそれを見ていた軍団長が「うちもやるー♡」と言ってヘッドセットを手にとった。

「えー、私もやってみたいです」と蘭々も隣で順番を待っていた。

 

「別にいいけどトト子ちゃんの視点しかないよ。

 他のストーリーはまだ出来てないから」

 

軍団長はヘッドセットを頭に装着してゲームを始めた。

これは花紗が持ってきたプレイステーションVRのヘッドセットだった。

軍団長は周りから見るとまぬけな感じに首を動かしたりしてゲームに没頭していった。

「うりゃ!」とか「ほっ!」やら「うわっ!」やら叫んでいるようだ。

 

「それってどんなゲームなんですか?」

 

お茶とお菓子を用意してテーブルに置いたみりんがそう尋ねた。

花紗はゲームソフトのケースを手にとって解説を始めた。

 

「これはね、うちの友達が開発した『乃木豪スットコドックス』ってゲームなんだけど、

 異能力を使える者達のお話で、まあ簡単に言うとバトル系アドベンチャーゲームなんだけど、

 PSVRのソフトだからめっちゃすごいの、すっごいリアルなの!」

 

おせんべいをパリッと言わせながらみりんは話を聞いていた。

みりんは実はそれほどゲームに興味関心があるわけではなかった。

ただ、花紗がトト子の笑顔がみたいから見せたいものがあると言って、

今日突然よろず屋にやってきたので相手をしているのだった。

 

「へー、トト子は面白かったの?」

 

「なんかー、没入感がすごかった」

 

トト子が嬉しそうに笑って興奮してそう話すと、

みりんは自分がやっていなくても面白いゲームだったのだろうと推測した。

なにはともあれトト子が笑顔になっているのだからそれでよかった。

 

「うわー、なにこれ、もうゲームオーバー?」

 

軍団長がヘッドセットを外してそう言った。

どうやら序盤のドローンのマシュマロ爆弾でやられてしまったらしい。

 

「えー、これ難しい!」

 

軍団長はわいわいしながら笑顔でそう言った。

ゲーム自体の臨場感はどうやらすごいらしいのが見ていて伝わってきた。

次は蘭々がヘッドセットをかぶってゲームを始めたらしかった。

 

 

坂田花紗は以前、トト子をびっくりさせて嫌われてしまったことがあった。

彼女は多少二重人格のきらいがあり、可愛い女の子を見るとその癖が発動する時がある。

そして「トト子ちゃん可愛いねー」と変態ヲタクの人格になってトト子を怖がらせてしまった。

その罪滅ぼしも兼ねて、このPSVRを持って遊びに来たのだった。

 

「トト子ちゃん、もううちのこと許してくれた?」

 

機嫌が良くなったトト子の現状に便乗して、

花紗は以前のことを帳消しにしてもらおうと思ったのだ。

 

「いや、それとこれとは話が別です」

 

トト子は微笑みながらも冷たく言い放った。

花紗がシュンとした顔をするとトト子はケラケラと笑った。

 

「そんなこと言うと、またうちの異能力が発動しちゃうよ?」

 

少しいじわるに花紗がそう茶化すと、トト子は花紗に向かってダブルピースをした。

それを見た花紗が「うわー、やめて」とそのノリにあわせてリアクションをしたので、

またトト子が嬉しそうにケラケラと笑っていたのだった。

 

「あー、ダメだこれ難しいなー」

 

蘭々もどうやら序盤のジャグリングをかわして美術館までたどり着けなかったらしい。

ヘッドセットを外してコントローラーも花紗に渡した。

 

「そう、これ結構難しいんだよ。

 だから最後の方までいけたトト子ちゃんは結構すごいよね」

 

そう言うとトト子は嬉しそうに微笑んでいた。

ゲームの内容を一人で思い出して噛み締めながら。

 

「はー、じゃあもうそろそろうちはこれで失礼しよっかな。

 家に帰ってPSVR版の『児玉恋リアル』やんないといけないし」

 

そう言って花紗はPSVRを片付け始めた。

彼女が言っていた「児玉恋リアル」のPSVR版はかなりリアルらしく、

自分の推しメンがまるで目の前にいるみたいに話せるらしいが、

これでは児玉坂46の握手会に来ない人が続出するのではと危ぶまれていた。

その噂もあってもうすぐ発売中止になるというのだが、

花紗はもちろん発売と同時に手に入れていたのだった。

 

「えっ、それはちょっと私も興味あるかも」

 

みりんは身を乗り出してそう言った。

みりんは児玉坂一の児玉坂ヲタクを自称するほど児玉坂46が好きだったのだ。

 

「あっ、そうなの?

 じゃあまた今度機会があれば持ってくるね」

 

そう言って花紗は箱にPSVRをしまって、さらに箱を紙袋に入れた。

 

「じゃあねトト子ちゃん、また今度来るからね」

 

そう言って玄関のところまでよろず屋一同で花紗を見送った。

「たいしたおもてなしもなしで」とみりんは謙遜したのだが、

「花紗さんもう二度と来ないでくださいね」とトト子は毒を吐いた。

 

そんなことを言われながらも花紗は笑って帰って行ったのだった。

 

 

 

・・・

 

「もう少しでご飯できるからねー」

 

花紗が帰ってから台所に立っていたみりんがそう言った。

みりんを除く三人はコタツでぬくぬく暖をとりながら待っていた。

 

「あそこで美術館に辿りついたらどうなるのー?」

 

蘭々は先ほどのゲームの続きが知りたくてトト子に尋ねた。

トト子は一生懸命内容を思い出しながら蘭々に説明する。

 

「んーとね、美術館で異能力者に出会って助けてもらえるんだよ」

 

「へー、そのあとはー?」

 

軍団長も興味があったのか続きを知りたがった。

 

「そのあとは、なんか色々と異能力者が出てくるんですけど、

 みんな色々な異能力を使って大変なことになってました」

 

「ふーん」と言いながらも軍団長と蘭々はわかったようでよくわからなかった。

異能力者が出てきて色々と異能力を使って戦うのはわかるのだけれど、

詳細な部分が全部はしょられて説明されているので、

結局、あのゲームを本当の意味で体験できたのはトト子だけだったのだ。

 

「えっ、じゃあさー、最後はどうなるん?」

 

軍団長はとりあえず最終的にどうなるかを知りたかった。

それだけわかればとりあえずなんとなく満足できる気がしたのだろう。

 

「えーっと、最後はなんか光に包まれていって・・・」

 

「ふんふん、それで?」

 

軍団長と蘭々が身を乗り出して聞いていた。

 

「んー、なんていうか、これです」

 

トト子はうまく説明しきれずに両手を差し出してピースをして見せた。

軍団長と蘭々はそのダブルピースを見ても何もわからずに首をかしげていた。

 

「はーいご飯できたよー。

 あれ、トト子何してるの?」

 

出来上がったご飯を運んでみりんが戻ってきたが、

トト子が何やらダブルピースをしているのを見て笑った。

 

「何それ、床屋のハサミ?」

 

みりんが茶化しながらお盆に乗せてきたご飯をテーブルに置いていく。

トト子はちょっと怒りながら恥ずかしそうに両手を引っ込めてしまった。

 

「うそうそ、ごめんね。

 今日なんか近くの床屋さんでアルバイト募集してたからそれを思い出しただけだよ」

 

「えー、そうなんだ、トト子それ行ってみればー?」

 

蘭々がなんとなくそんなことを言ったのだが、

言われたトト子もなんとなく不思議な気持ちがしていた。

別にいってもいいかなーという気がしていたのだ。

 

「えー、じゃあ行ってみようかな」

 

「えー、トト子どうしたん?

 すごいすごい!」

 

軍団長が笑みをこぼしながらトト子の肩を掴んで揺すった。

少し照れくさそうな顔をしてトト子は笑って見せた。

 

「やっぱりトト子はうちらの最終兵器やからなー」

 

軍団長がそう言ったが、トト子はそのセリフがゲームの中のセリフと同じだったので驚いた。

そして、ちょっと迷ったけれどおもむろにまた両手でダブルピースをしてみせた。

三人はどういうことかわからず唖然とその光景を見ていた。

 

「・・・何、そんなに面白かったのあのゲーム?」

 

「・・・なんかね、没入感がすごかった」

 

蘭々が尋ねた問いに、トト子はごまかすようにしてそう答えて笑った。

「もういいよ、ご飯食べようよ」と言ってさらにごまかしていったトト子。

 

「いいじゃんダブルピース、なんかそれでいつか世界が救えるといいね」

 

みりんはそう言うとトト子にお箸を渡した。

それを受け取ったトト子は、ニコニコとしながらあの割り箸の異能力者の事を思い出していた。

 

 

 

ートト子編、終幕ー

 

 

 

 


 

 

ーさゆみ編ー

 

 

窓が白く曇っていて外の空気は凍りついているようだった。

ふと目を凝らすと、どうやら雪まで降り始めてきたようだ。

 

寂しさを紛らわせるために外でも眺めてみようと考えたのが先ほど。

しかし、やはり真冬のこの季節にそんなことをしては風邪をひくのがオチである。

最初は窓をパーっと景気良く開け放って涼しい空気を楽しんでやろうとも考えたが、

そんな愚かしい過去の自分をぶん殴ってやりたいとさゆみは思った。

バカげた想念はさっさと捨ててしまって、彼女はまたコタツに戻って足を埋めた。

 

日めくりカレンダーは31日を示していた。

もちろん、上の方には小さく「12月」と書かれていた。

あれは誰がめくってくれているんやろう、少なくとも自分はそんなこと一度もしたことない。

今年の1月1日から今日までちゃんとめくってくれた人に感謝しなければと思いながらも、

さゆみはいつの間にかウトウトとしてくる自分に気がついた。

コタツの魔力に逆らえるものなど誰もいない、コタツは優しすぎる彼氏みたいだと思う。

たまには冷たく突き放してくれないと、いつまでも甘えてしまうからだ。

 

壁に掛けてある時計の音が静寂の中で響いてきた。

それくらい、あたりはひっそりとして静まり返っているのだ。

それはそうだ、もう年末なのだから誰もこの時間にむやみやたらと外を出歩かない。

だが、ここはよろず屋の建物の中である、建物の中には人がいていいはずなのに。

 

さゆみは時計の針が動く音の寂しさに耐えきれなくなって、

おもむろにコタツの上に置いてあったTVのリモコンを取ってボタンを押した。

急にさっきまでの静寂と寂しさが嘘のような賑わいが箱の中に現出する。

だが、それは虚像の賑わいであり、決して本当の孤独を埋めてくれるものではないのだ。

世の中の人々はこんな風にして自分を騙しながらやれ楽しいとか面白いとか言うけれど、

さゆみにとってはその賑わいはノイズにしか聞こえない時がある。

 

それはこんな夜のことだ。

広い部屋に自分以外誰もいなくて空間が贅沢に使えるけれど、

こんな世界だったら生きていくことは辛いだろうなと、ふとそんなことが頭をよぎることもある。

もちろん時々一人にしてほしいこともあるけれど、でもやっぱり一人は嫌だと思う。

その両極端な気持ちに引っ張られると、自分がなんとわがままなのだなあとさゆみは思うのだ。

気分次第で周りを振り回したり、余計なことを言われたくない時はバリアを張ったり、

もう全部投げ出してしまいたいと何度も思ったこともあった。

だけど、またご飯を食べて幾らか眠った後、何事もなかったようにケロっと起きている。

時々、昨日の自分は全く別の自分ではなかったのかしらと思うこともある。

 

TVのリモコンでチャンネルを変えると紅白歌合戦が始まっていた。

「今年は紅組と白組のどちらが勝つのでしょうか?」と盛り上がっている様子だが、

野球やサッカーの試合でもないのだから、どちらかをご贔屓してる人なんて本当にいるのかしら?

毎年のように「今年こそは白組勝つぞ、買ったら道頓堀に飛び込んでやる」なんて息巻いて、

それくらいのトラキチがいるのだったら認めてやらないでもないのだけれどと偉そうに腕を組んで考えてみた。

だけど実際のところ、どっちが勝つかなんてサッカーのTOTOよりも気にならないでしょう。

この世界のどこかにはこの紅組白組の合戦に賭け事をしている親爺さん達もいるのでしょうかね?

それだったらもっと毎年のようにトリは誰だとか、あの歌手を出せとか要求してるよなー。

こんなにのんびり演歌なんか聞いてる場合じゃないよな、最後の瞬間に賭けたお金が倍になるかすっからかんになるか、

点数が出た瞬間に外れ馬券を空に投げる人みたいに、日本中の家庭で紙くずが宙に舞うはずよね。

 

そんなことを考えながらさゆみはコタツの上のみかんを手に取り、

指で皮をむいてから半分に割って食べ始めた。

小さなみかんなので、半分くらいでも口にはきちんと収まった。

甘みが舌の中に広がりながらも、その酸味の方がクリアに脳内を刺激する。

そういえば今年はさゆみかん軍団を創設した年になったんやけれども、

なんか思い出すのは酸っぱい思い出ばっかりでございました。

結局、一年かけて取り組んだ仕事は数えるほどしかなかったことやし、

このよろず屋の財政状況がどうなっているのかなんて自分には考えたこともなかったし。

その辺は全部みりんちゃんが仕切ってくれてたから安心してたんやけど、

もしかしてそれが原因でこんなことになってしまったんかなぁと珍しく反省の気持ちが心から顔をのぞかせる。

 

 

 

・・・

 

思えば、起きたのは二時間前だった。

 

気づいたらコタツの上で眠っていたことに気づいたさゆみは、

知らない間に肩に毛布がかかっているを発見して目覚めた。

誰かが風邪をひかないように気を使ってくれたのかと思ったのだが、

そのくせ自分以外は誰一人としてよろず屋の中にいないのだった。

 

部屋はどこも電気が消してあったし、冷蔵庫にも何も入っていなかった。

ガスの元栓もきちんと締められていたし、携帯の充電器一つ見当たらなかった。

そんな風に部屋は必要以上に綺麗に片付けられて広々としていた。

みんなどこに行ってしまったのかと不安になったりもしたのだが、

いつか帰ってくるだろうと思いながらすでに二時間が経過していたのだ。

 

強い風が吹いて窓がガタガタと揺れた。

ただそれだけなのにどうしてこんなに心細いのか。

些細な出来事も全部心に沁みて切なさを押し出してくる。

人間は結局心で生きているのだなぁとさゆみは思い知らされる。

 

紅白歌合戦は紅組白組ともに一人目がもう歌い終わっていた。

みりんちゃんは児玉坂46を絶対に観るって言ってたのに、

どうやらTVの下にあるレコーダーには録画されている形跡もなかった。

この時間にはいつもトト子や蘭々が一緒にボーっと過ごす友であり、

なんやかんやどうでもいい話をすることで時間は駆け足で進むのに。

時計の分針はいつの間にか時針を何度も追いかけっこで抜かすのに。

あれを見てるとマラソン大会で周回遅れになった人を思い出したりして、

なんかもっと頑張ってくれと思ったりもするのだけれど、

まあ時計くんもあれはあれでちゃんと仕事してくれてるわけやし、

あんまし気分で物を言ったらあかんなと自分を戒めたりもするわけで。

 

 

そういえば肝心なあれがないことにさゆみは気づく。

年越し蕎麦がどこにもないのに年は無情に超えていこうとしているではないか。

そもそも寒いのだからあったかい蕎麦を食べるのは理にかなっているし、

昔の人はこうして毎年ちゃんとルールを守ってやってきたわけだ。

なのに現代人はすぐにお金があるからってそういう習慣を壊してしまって、

新しい年が来たからって海外旅行に出かけたりする輩も増えて行く。

まあ別にそんな古臭い習慣とかどうでもいいっちゃいいのだけれど、

昔の方々がちゃんとうんうん唸って考えてきた重みを知らんのが問題よななんて。

まあ私もそんなん知らんわけやけどとさゆみは思う。

 

うん、そうや、人は自由やとさゆみは感じる。

別に何かしらそんな窮屈なもんに閉じ込められてるのは好かんし、

とにかく寂しさとか切なさとかに打ちのめされてる今の自分もこれじゃダメ。

別に三時やからおやつを食べないといけないわけでもないし、

もちろん三時のおやつは誰かがそういうルールにしてしまったわけで、

その人のおかげでうちらも美味しいおやつにあやかれてるわけやから、

まあやっぱり昔の人には感謝すべきなんかなと考えて矛盾の奈落。

もうやめとこ。

 

 

そうや、と思い立ってさゆみは立ち上がり、

タンスの前に立っておもむろに引き出しを開ける。

セーターやらニットやら入っている下に手を突っ込むと、

そこからへそくりでも出てきたらいいのになと無駄な非現実妄想を一つ加えてから、

ゴソゴソと手をこねくり回して取り出したのは一冊のノートだった。

 

そのノートの表紙には「勝村さゆみ 妄想ノート」と書かれていた。

すぐ横にはみかんの絵が描かれていたりして可愛く飾られてもいた。

 

さゆみはノートを持ってコタツへ戻った。

いそいそとまた足を突っ込んでテーブルの上にノートを広げる。

そこにはさゆみが普段から思いついたアイデアを書き留めているのだった。

やりたいこと、やれないけど面白いこと、もうやり遂げたこと、まだやれてないことなど、

たくさんの事がとにかくギッシリと書かれていて時々こんな風に読み返したりもする。

ここからよろず屋の将来の仕事が見つけるかもしれないし、

さゆみかん軍団の新しい展望も開けてくるかもしれないと思うと、

なんと二百円くらいのノートは安い買い物だといつも一人でほくそ笑む。

もちろん、このノートを買うお金は自分が働いて得た物ではなかったのだが。

 

さゆみは先ほどまでの冬の寂しさなどすっかりどこかへ忘れ去ってしまい、

ワクワクしながら自分で書いたノートを読み返そうとした。

年も暮れていくことだし、こんな風に今年を振り返っておくのもよいかと思ったのだ。

 

 

 

・・・

 

ペラペラとページをめくっていくと、

そこには「みりんちゃん彼氏計画!?」と書かれたページが目に入った。

 

いつもよろず屋の財政を一手に引き受けてくれているみりんを思うと、

さゆみはいつかあの子にも彼氏とか頼れる人ができたらいいのになと妄想していたことがあった。

それがこのノートのこの箇所に書きつけられていたのだった。

 

だが、残念ながらこれは未達成だったなとさゆみは思った。

一つだけうまく行きかけた事もあったけれど、結局は消え去ってしまった。

 

あれは何が悪かったんやろうとさゆみは思う。

ちゃんと過去の検証をしておくのも次の計画の為やと思い、

さゆみはあの頃の事をきちんと思い出しておく事にした。

 

 

・・・

 

 

ストーカーかと思われるやり方で突然よろず屋を訪れた飛島大輔は、

話の途中でみりんがアルバイトへ行ってしまった事に落胆していたのだった。

 

「はぁ・・・すいません」

 

相談があると言いながらも何も言いださない飛島大輔を見て、

さゆみはとても不思議に思ったものだった。

みりんが出て行ってから急に落胆し始めたところを見ると、

もしかしてこの人はみりんの事が好きではないかとさゆみは思った。

 

「あのー」

 

誰も何も話し出さない空気をさゆみは打ち破った。

飛島大輔は顔を上げてさゆみの方を見た。

 

「みりんちゃんはいっつもこの時間からアルバイトに行くんです。

 うちらの為に頑張ってお金を稼いでくれてるんですよー。

 児玉坂将棋道場ってとこなんですけど」

 

それを聞いた飛島大輔の顔は瞬時にパーっと明るくなった。

そしてそれを見たさゆみも確信した、これは恋の予感がプンプンすると。

 

「そこは行った事があります。

 祖父がよく将棋を指していたんですよ」

 

飛島大輔も落胆した気分から立ち直って返答した。

それを聞いたさゆみはしめしめと思ってにっこり微笑んだ。

 

「あらー、奇遇ですね。

 もしよかったらお祖父様を懐かしむのも兼ねて、

 一度行って見られたらいかがですか?

 いや、まあ行きたくなかったらそんな気にしやんでもいいですけど」

 

ただ軍団員の職場を宣伝しているだけな風を装いながら、

さゆみはそれとなく飛島大輔に将棋道場の事を伝えると、

彼はもう相談すると言った事も忘れてしまったように、

「いろいろとありがとうございました」とだけ言ってよろず屋を出て行った。

 

彼が出て行ったのを見送ると、さゆみは「これは面白くなってきた♡」と言った。

それを聞いていたトト子と蘭々は軍団長が何を考えているのやらさっぱりわかっていなかったようだ。

 

「どうしたんですか軍団長、ニヤニヤして気持ち悪いですよ」

 

トト子が笑っていたさゆみを見てそんな風に言った。

蘭々も不思議そうな顔をしてさゆみを見つめている。

 

「トト子、蘭々、これから忙しくなるでー」

 

「どういう事ですか?」

 

蘭々が訝しげに尋ねる。

軍団長は二人の前に立って左手を腰に当てながら右手の人差し指を立てた。

 

「ロマンスのスタートや~♡」

 

 

 

・・・

 

それからさゆみは変装して出かけるようになった。

みりんにばれないように普段は眠っている振りをしながら、

彼女がバイトに出かけると、こっそりと後をつけることにしたのだ。

 

これは恋の予感がすると思ったさゆみの勘は当たっていて、

将棋道場で二人が将棋を指している場面も見た。

みりんは初めこそ困惑している表情を見せていたが、

どうやら彼女もまんざらでもない事を見て取ると、

さゆみはロマンスのスタートは時間の問題だと思っていた。

 

ところが、どういうわけかロマンスはなかなかスタートしなかった。

おかしいなと思いながらも、さゆみはみりんの観察を続けていた。

どうして吹っ切れないのかと考えていると、それはよろず屋の構造にあると気づいた。

彼女に色々と負担をかけすぎてしまっているため、彼女が恋愛に踏み切らないのだ。

そう思った軍団長はみりんがいない間にトト子と蘭々を呼び出して緊急会議を開いていた。

 

「じゃあ、蘭々は家計簿をつけること。

 トト子は将棋を覚える事、これが今後の方針で~す♡」

 

トト子と蘭々もみりんの恋の行方を密かに祈っていたので、

軍団長の命令に従ってそれぞれのミッションに取り組むことにした。

蘭々はこっそりとみりんの家計簿を借りて眺めるようになったし、

トト子は軍団長と将棋を指しながら将棋を覚えることにした。

みりんのアルバイトの負担を減らせれば、みりんが恋に踏み切ると思ったのだ。

 

そんな中、給料日にみりんの後を尾行していた軍団長は、

偶然にもみりんが一人で暖かい飲み物を買っている場面を目撃してしまった。

みりんのロマンスを応援していたつもりが、余計な事実を知ってしまい、

さゆみは切なくなって化けて出ることになってしまったのだった。

貧しい中で食費も切り詰めながらやってきていたさゆみは、

尾行中にヨダレが止まらなくなって恨めしくなってしまったのだった・・・。

 

 

・・・

 

 

それからもさゆみはみりんの尾行を続けたのだったが、

なかなか進展がなくてすでに半分くらい飽き始めていた。

最近の若いもんは奥手でいけませんなぁとどこかのマダムを気取りながら、

サングラスをかけてからつば広帽子をかぶって新聞紙を広げながらも尾行を続けるさゆみ。

「何がネックになってんねやろ~」と一人でブツブツ言いながらも電信柱の陰に隠れ続ける。

 

ふと将棋道場からの帰り道でコンビニに飛び込むみりんの姿を見つけ、

さゆみはまた自分だけ飲み物を買うのかと恨めしくなった。

足が消えていって気持ち半分くらい幽霊化が進んだところで、出て来たみりんが何も持っていないことに気づくと、

シュルシュルと足を伸ばしてまた後を追いかける事にした。

どうやら今回は前に化けて出てしまったのを気にして購買を控えたのかと推測すると、

なるほどみりんは財政を気にしているから余裕がないのかとマダムは閃いた。

右手で左手をポンと打つ古典的な仕草をすると、さゆみは携帯でトト子に電話をかけた。

 

「もしも~し、やっほー、軍団長からの指令で~す♡」

 

そうしてトト子にボーナス支給の話を伝えて色々と準備するように促した。

蘭々にもこの事を伝えて、なんとかみりんにコートを買う余裕を与えるのだと指令を出した。

 

 

せっかく良かれと思って提案したボーナス大作戦だったが、

思わぬみりんの大反対に心が折れそうになった軍団長。

トト子と蘭々のサポートもあって無事にボーナス支給にこぎ着けた。

四人ともにボーナスを支給したので、もちろん軍団長もボーナスを手にしたのだが、

まあここは我慢しようと思ってみかんの形をした貯金箱にそっと閉まった。

 

その後もみりんを観察していたところ、見事に気分が盛り上がってきたようだった。

街へ買い物に出た姿を尾行しながら、しめしめこれで恋の炎が燃えるのを待つばかりと、

マダムは電信柱の陰で新聞紙を読みながら一人声を上げて笑うという気持ち悪さを披露し、

周囲を歩く人々にその滑稽な姿を見られては失笑されるという失態をさらしていた。

 

だが、そんなことは二の次だった。

「みりんちゃん彼氏計画!?」の遂行に向けてあと一歩である。

 

「諸君、あと少し、もう少し諸君らの力を貸して欲しい!」

 

街でツンデレラのチケットを手渡されたのを見つけると、

さゆみはトト子と蘭々に向かってそう訴えかけた。

そして満を持してみかんの貯金箱からボーナスを取り出すと、

蘭々に頼んで児玉坂ランドのチケットを三人分手配してもらった。

 

 

 

・・・

 

「各自バイトが終わったら合流する事!」

 

そう言い残してさゆみはテーブルに眠りについた。

向こう側からみりんが新しい白いコートを羽織って歩いてくるのがわかった。

みりんはバレないように足音を極力消して歩いているようだが、

さゆみは眠ったふりをしているのがバレないようにできるだけ寝息を大きく響かせた。

両者一歩も譲らない騙し合いに、なんだかさゆみは少し笑いそうだったが、

みりんがよろず屋を出て行くと、なんとか堪えた自分を褒めてやった。

 

またもやマダムの変装をしてよろず屋を飛び出したさゆみ。

かなり緊張していた為に新聞紙を逆さまに持ちながら隠れていた事に気付き、

こんな古典的な失態を晒すくらいなら新聞紙は要らないと開き直って捨てた。

 

それからはマダムは強気でガンガン攻めていった。

みりんが飛島大輔と合流した場面を見つけると、

さゆみは優雅なマダムの一人児玉坂ランドを装いながら尾行を続けた。

二人が入ったアトラクションにも一緒に入ったりもしたし、

「その教室」というアトラクションでは同じグループになった。

後ろからスタッフの島田に押された時は思わず「ひやっ!」と声を上げてしまったが、

幸いみりんにはバレなかったようで、あとで腹いせに島田の頭を叩いておいた。

スタッフの方から「お客様これは演出ですので、このような事はご勘弁ください」と注意を受けたが、

「うちの子が真似したらどうするんざますか!」とモンスター化したペアレントを演じたりして切り抜けた。

 

やがてバイトを終えたトト子と蘭々が合流すると、三人はみりんの尾行を再開した。

トト子が「軍団長、なんか気持ち悪いです」と言ったのでマダムの変装を渋々やめた。

だが、クライマックスはもう近いと思ってそのあたりは譲歩しても差し支えなかった。

 

しかし、最後のイベントであるツンデレラのショーを見に行った三人は、

思いの外すごい演出に、特にさゆみがかなり見入ってしまった。

それが仇となり、隠れていた物陰から姿を晒す事になってしまったのだ。

そこでみりんに見つかり、さゆみの隠密作戦は幕を閉じたのだった。

 

 

・・・

 

 

そんな事を思い出しながら、さゆみはふとTVへ目を向けると、

紅組のベテラン歌手が「Love is over」を歌っているのがわかった。

そういえば、あれからみりんはヘアゴムの駒を「と」に変えたのだった。

恋は終わってしまったけれど、代わりに何か得たものはあったのだろうか。

さゆみはそんな事をしみじみと思いながらもペンを取り、

ノートの「みりんちゃん彼氏計画!?」の箇所に追記した。

 

「未達成は島田のせい」

 

よしこれでおっけい。

本件の振り返りは済んだのでもう同じ過ちは犯さないぞとさゆみは笑った。

 

 

 

・・・

 

ひとつタスクを終えたさゆみはなんだか楽しくなってきた。

当初の冬の寂しさはどこへやら雪のように溶けてなくなってしまい、

心には清涼感のある雪解け水がサラサラと流れ始めたようだった。

 

そんな調子でノートをまたパラパラとめくっていくと、

「蘭々トップスターの巻!?」と書かれた項目を発見した。

ああ、そういえばそんな事もあったなぁとしみじみと感慨深さに浸りながら、

さゆみは当時の記憶を一つずつ引き出していくのだった。

 

 

・・・

 

 

蘭々が宝塚の薔薇組なるものがあると知ったあと、

さゆみは偶然にもその事件の詳細を掴んでいたのだった。

 

「こんにちは」

 

さゆみが昼ごはんを食べてからお昼寝している時、

トト子が一人でアニメ雑誌を読んでいると来客があった。

それはどうやら以前から家賃の取り立てにやってくる男、

ここの土地を借りているオーナーの息子さんだった。

 

このところ、みりんと蘭々がアルバイトに出てくれているおかげで、

遅れながらではあるが、家賃はきちんと納め始めていた。

だからさゆみも以前ほど逃げ回る必要もごまかす必要もないのだが、

とにかくご機嫌を取っておくに越した事はないので、

トト子はテーブルで寝ていたさゆみを揺すって起こし、

来客に応対するようにお願いしたのだった。

 

「あっ、どーもどーも、不動さん、お久しぶりです♡」

 

よだれを拭いながらそう言っても威厳はなかったが、

トト子はとりあえずお茶を汲みに行ってくれたようだった。

 

「さゆみさんもお元気そうで何よりです」

 

家賃をちゃんと納め始めてからというもの、

この男はそれほど家賃の催促をすることはなくなった。

ただ、いつ夜逃げするかわからない状態ではあるので、

時々こんな風にして様子を見に来ているのだろうとさゆみは思っていた。

 

 

・・・

 

「知っていますか、あの事件のこと」

 

色々と世間話をしていた時に、不動さんはその話を切り出したのだった。

 

「児玉坂の町おこしの為に宝塚とコラボレーションするって企画、

 どうやらうちの父親の知人達が関わっているらしいんですけど、

 なんだかよくない噂を度々耳にするんですよね」

 

お茶をすすりながら話を適当に合わせていたさゆみは、

さすがにこの話題に関しては彼女の耳がピクリと反応した。

 

「よくない噂って何ですか?」

 

「ええ、この間、公演が中止になったことがあったでしょう?

 あれなんですけど、主役の子が怪我したってことになってるんですが・・・」

 

「なってるんですが・・・?」

 

「本当は舞台の途中で何者かに襲われたって話なんです。

 だけど真実がバレたら公演を再開することができなくなるって、

 投資家達が騒いで事件をうやむやにしようとしてるらしいんですよ。

 それで事件のことは秘密にしてまた新しい主役の子を探してるって話です」

 

さすがに児玉坂で不動産会社を経営している社長の息子だけあって、

この人は色んな情報を知っているものだとさゆみは感心した。

時々こういうネタを持ってきてくれるのだから、

人脈というものは大事だなと思いながらもお茶をすする。

だが、事件に関してはこの時は他人事であったのだが。

 

 

・・・

 

 

夕食時にカランカランと箸を落としたさゆみは、

昼間に不動さんが言っていた事件のことを急に思い出した。

まさか蘭々がこの役に選ばれるなんて思いもよらなかったので、

あまりの動揺に箸を落としてしまったのだった。

 

だが、お肉を取られたことにしてごまかしたあと、

カニの真似やらなんやらして動揺したことを隠したのだった。

 

 

・・・

 

 

翌日、蘭々がバイトに出て行く時、

さゆみはバレないようにまた眠ったふりをした。

テーブルに突っ伏してよだれまで偽装していると、

哀れに思ったのか蘭々がテーブルの上にみかんを置いていった。

 

さるかに合戦を防ごうと思って置いていったみかんだったが、

蘭々が出て行ったあと、さゆみはやっと寝たふりをやめて起き上がると、

テーブルに置かれたみかんを手にとってはすぐに握りつぶした。

怒りに燃えていたさゆみはすぐにテーブルから立ち上がってよろず屋を出て行った。

 

そのまま急いで向かったのは児玉坂劇場だった。

入り口のところにロープが張られていたが取っ払って無視した。

赤い絨毯が敷き詰められた廊下をずんずん進んでいって、

片っ端から扉を勝手に開けては薔薇組のレッスン部屋を探した。

 

ついに薔薇組のレッスン部屋を探し当てると、

部屋の中にいた一番偉そうな人を探す為にあたりを見回した。

キョロキョロ見回しても誰にこの話をつければ良いか分からずにいると、

やがて不審者に気づいた男が向こうからさゆみに向かって近づいてきた。

 

「おい、お前は誰だ、勝手に入るな」

 

無断で入ったとは言え、事の真相を知っていたさゆみはうろたえなかった。

相手をキッと睨みつけて「人殺し!」と急に言い放った。

 

「うちらの蘭々を返してください」

 

さゆみは一歩も引き下がる様子を見せなかったが、

それを聞いた相手の男の方が呆れた様子で言葉を放った。

 

「やれやれ、お前らのところはまず教育がなってない。

 他人様の建物に勝手に入ってはいけないというところからやり直せ。

 住居侵入罪は三年以下の懲役か十万円以下の罰金だ・・・」

 

中西はそう言って頭を抱えていた。

 

 

・・・

 

 

「知ってて引き受けたんですか!?」

 

奥の部屋に通されたさゆみは男から話を聞いていた。

当初、こんな事件に巻き込まれてしまった蘭々は、

事件の事も知らずに選ばれたのだとさゆみは思っていた。

蘭々自身も事件の事は何も言わなかったからであったが、

事件の詳細を知りながら蘭々は引き受けたのだとこの時始めて知ったのだった。

 

「・・・ああ、まあそうだ」

 

中西が歯切れが悪かったのは、

ある程度強引に引き受けさせてしまった事が後ろめたいからだった。

だが、蘭々には事件の詳細はきちんと話をしていたので、

あながち嘘ではないとも考えていたのだが。

 

「・・・無理やり押し切ったでしょ?」

 

さゆみは中西の目を睨みつけるようにしてそう言った。

普段から蘭々と一緒にいるので性格を知り尽くしているのだろうと中西は思った。

そして、この女はバカなふりを装っているが、実はかなり頭のきれる奴だと思った。

 

「・・・まあ落ち着け」

 

そう言って中西は自分のペースに持ち込もうとした。

彼はさゆみのリズムで話をされては押し負けると瞬時に理解したのだった。

 

「実は犯人はもうわかっているんだ」

 

「・・・どういう事ですか?」

 

「聞き込みや現場検証を行った結果、 

 犯人だと思われる奴はすでに特定されている」

 

中西は余裕の顔つきで語り始めた。

 

「犯人は舞台に上がっている役者の女、それに照明スタッフの男の二人だ。

 事件の時にあのタイミングで主役を襲える人物は限られている。

 襲われた主役の女はそいつではなく他の誰かに襲われたと証言しているらしいが、

 おそらく犯人に脅されて口止めされているんだろうな」

 

会議室の中で資料を漁りながら中西は顔写真を見せてきた。

それは犯人と思われる二人の写真だった。

 

「結局は嫉妬が絡んだ問題だ。

 犯人の女は主役の女が嫌いだったんだよ。

 自分がなるはずだった主役の座を奪われたと逆恨みしていた。

 犯人は自分の能力の方が高いと思って自惚れていたんだ。

 だから選ばれなかった事がショックだったんだろう、バカな事を考えた」

 

中西は犯人の女の写真を投げ捨てた。

 

「もっとバカなのはこいつだ。

 照明スタッフをやっている男だよ。

 この男はこの犯人の女にどうも惚れていたらしい。

 惚れた女の為なら犯罪にでも手を貸してしまうバカ野郎だ。

 女に協力してあらかじめ照明に工作をしておいて、

 犯行に及ぶ際には席を外して自身のアリバイを作る」

 

そう言って中西は男の写真も投げ捨てた。

 

「男女の関係なんてばれてないと思ってるのは本人達だけで、

 だいたい周りから見れば明らかにバレバレなんだよ。

 そういうのは聞き込み捜査を続けていけばわかってくる。

 人間関係を紐解いていけば動機や手段が見えてくる。

 これが捜査の基本だ、どうだわかったか?」

 

スラスラと自慢げに話をする中西にさゆみはムカついていた。

確かにスラスラと事件を解決する手腕はすごいのだが、

その論理が蘭々を巻き込む事の正当化にはならない事をきちんと見抜いていた。

バーっとまくしたてられたからといって、さゆみはひるむ事はなかった。

 

「だからなんなんですか?」

 

「もう事件は99%解決済みだ。

 あとは囮捜査で捕まえるだけなんだよ」

 

中西は物事はそんなに複雑ではないと強調するように言ったが、

さゆみは決して納得はしなかった。

 

「あいつが主役をやったって襲われない可能性だってある。

 犯行動機は個人的な怨恨だからな、これ以上は関係ない奴を巻き込まないかもしれない」

 

「でも、巻き込むとわかってるから囮捜査をさせるんでしょ?」

 

中西は「はぁ」とため息をついた。

この女を煙に巻くのはなかなか骨が折れると思った。

天性に勘が鋭いと言わざるを得ないのだ。

 

「怨恨に思われないように犯人はもう一度関係ない主役を襲う。

 それで、さらに犯人は自分ではないという事を強調する。

 これは怨恨で個人を狙ったのではなくて、無差別に主役を務める者を狙ったと思わせたい」

 

さゆみがそこまでズバリと言ってのけると、

中西はもう方法を切り替えたようだった。

 

「わかった、いくら欲しい?」

 

さゆみは中西の言っている意味が一瞬わからなかった。

急に話を切り替えたからではない、こんな事を言い出すとは想定していなかったのだ。

 

「仕事がなくて困っているんだろう?

 今後は困らないようにすることだって・・・」

 

そこまで言ってから中西はいきなり頬を打たれた。

いきなりのことで中西の方が戸惑っていると、

さゆみは毅然とした表情で中西を睨みつけ、

もう何も言わずにその場をさっさと出て行ってしまった。

 

中西は打たれた頬をしばらく抑えていたが、

頬に手を当てたままソファーに歩いて行き、

そのまま勢いよくその上に倒れこんだ。

 

 

・・・

 

 

さゆみが中西と話をした夜、夕食のおかずはカレーだった。

さゆみは別にカレーに不満だったわけではなかったが、

あれだけ話をしてきたおかげでどうやら中西は蘭々を主役から降ろそうとしてくれたようだが、

どういうわけか蘭々がそれに反抗する形で意地になってしまったのが不満だったのだ。

 

さゆみは黙って蘭々が興奮して話をするのを聞いていたのだが、

どうやら蘭々には蘭々の希望があるのだと理解することにした。

蘭々は事件のことはどうも軍団員には秘密にしているようだったので、

さゆみも知っていたが余計なことは何も言わないと決めた。

そして知らないふりをして明るく振舞ってやろうと思ったのだった。

 

 

蘭々に付き合って舞台の練習をしたあと、

さゆみは昼間にあれだけ口論して疲れていたので寝ようと思った。

布団を被った時、羽毛ぶとんの羽が抜けて宙に浮いているのを見て、

先ほどのドラゴンのシナリオに合わせて翼を作ってあげようと思った。

そうして羽毛ぶとんの羽を自ら次々と抜いていったのだった。

そのあとで蘭々頑張れの意図を込めて翼をプレゼントしたのだが、

羽毛ぶとんが薄くなってしない、翌日は風邪をひいてみりんに怒られてしまった。

 

 

・・・

 

 

いよいよ蘭々が出演する薔薇組公演の当日がやってきた。

蘭々は朝から最後のリハーサルがあったために朝早く出かけて行ったが、

あとで見に行く予定だった三人はよろず屋で出かける準備をしていた。

 

「軍団長、まだですかー?」

 

玄関口からトト子が呼びかける声が響く。

みりんとトト子はすでに準備が整って待っていたのだが、

軍団長は何やら準備に時間がかかっているようだった。

 

「昨夜のうちに準備しとかないからこうなるんですよー!」

 

しびれを切らせたみりんも玄関口から叫んだ。

寝る前に準備万端にしておけばこんなことにはならないとみりんは思った。

だが、さゆみもそれはちゃんとわかっていたのだった。

もちろん前日から準備をしていたのだが、

ギリギリになって色々とまた必要な物を思い出し、

あーでもないこーでもないと準備をやり直す羽目になったのだった。

 

「ごめんごめん、おまたせー!」

 

そう言いながらやってきた軍団長はどういうわけか太っていた。

背負っているリュックもかなり大きなサイズであり、

その中身もパンパンに詰まっていたのだが、

それよりも服の中に何かが入っているのだろうか、

普段のスレンダーな体型は失われてしまい、

みたところ相撲取りのような体型をしているのだ。

 

「・・・みりんちゃん、私この人知りません」

 

トト子はそう言って知らないふりをして先に出発してしまった。

さゆみは何も気にすることなくトト子の後をついて行ったのだが、

着膨れした姿は明らかにおかしいのでこれはまずいことになるとみりんは思った。

 

児玉坂劇場に到着した三人だったが、

入り口で持ち物検査を行っていることを知ってさゆみは焦った。

だが、もう躊躇している暇などなく、公演が始まるまでに突入しなければならなかった。

 

近頃は物騒なのか、児玉坂46の握手会などでも金属探知器による検査が設けられていた。

まず荷物を係員がチェックした後、金属探知器の棒を使って金属チェックをする。

体の上から下へ係員が探知器をかざして検査をするのだが、

金属が探知されると探知器が「ピー」と音が鳴らして係員にチェックされる。

みりんとトト子は特に何もなく通り過ぎることができたのだが、

超絶太ったさゆみは、もう見るからに係員に目をつけられていたし、

リュックの中身をチェックされた段階で怪しい物がたくさん出てきた。

赤い全身タイツ、羽毛ぶとんで作った翼、劇の台本・・・。

その他にもペンチやらハンマーやら工具がわんさか出てきたが、

「児玉坂が工事中なもんで」と工事スタッフのふりをしてやり過ごそうとした。

何うまいこといってんだとみりんは呆れて見つめていたのだが、

金属探知機をかざされた瞬間「ピー」「ピー」「ピー」「ピー」と鳴り止むことのない「ピー」に、

とうとう服の中身をチェックされたさゆみは、中からも危険物がたくさん出てきた。

カッター、ハサミ、シャベル、ワイヤー、メリケンサック・・・。

 

さすがに係員に止められてしまったさゆみは、しばらくお待ち下さいと言われてしまった。

係員がトランシーバーで別のスタッフに連絡を入れ、さゆみはしばらく待たされたのち、

遠くから男が歩いてくるのが見えたのだが、その顔を見てさゆみはニッコリと微笑んだ。

これはうまくいけば助かるかもしれないと思ったのだった。

 

「・・・おい、不審者がいると聞いたから来てみたが・・・」

 

わざわざ出向いてきた中西は手で顔を抑えながらそう言った。

 

「頼むから勘弁してくれ、こっちだって忙しいんだ」

 

 

・・・

 

 

「蘭々が襲われたらどうしてくれるんよー!」

 

多数の凶器を所持していた理由を中西に問いただされ、

それに答えたのが上記の言葉だった。

 

「気持ちはわかるが、これは勘弁してくれ。

 さすがに俺でもこれだけ凶器を持ち込むことを許可するのは無理だ」

 

そう言って中西は持ち込み禁止物は全て没収した後で、

台本と羽毛ぶとんの翼と赤いタイツはかろうじてリュックに入れた。

 

「ここからは警察の仕事なんだ。

 一般人がどうにかできる問題じゃない」

 

「警察なんか信用できへんからこうしてるんやろ?」

 

それを言われるとさすがに中西もプライドが許さない。

血気盛んに胸ぐらでも掴んでしまいそうになったが、

先日の事を思い出して、ここはグッとこらえることにした。

 

「・・・先日はすまなかった。

 あんな事はもう二度と言わないようにする」

 

予想外に非礼を詫びてきた中西に、さゆみも面食らってしまった。

こんな風に言われると徹底抗戦しようと思っていた気持ちも萎えていく。

 

「だが、俺たちの事も信用してくれ。

 俺の命に代えてもあいつに手は出させない」

 

そこまで言われるとさゆみも何も言い返すことはできなかった。

ここまでプライドの高い男が頭を下げてくれたのだから、

一応は彼の心意気を尊重しなければならないと思った。

 

「だが、あんたらにしかできんこともあるだろう。

 俺にはあいつにしてやれないこともある。

 それについては、あんたらに頼んだ」

 

中西はそう言ってリュックをさゆみに渡した。

中身を見てさゆみが何をするつもりなのか中西にはわかっていたのだろう。

それだけは許してくれたことに、さゆみは中西に対して感謝をした。

 

「もうー軍団長何やってたんですかー!」

 

すっかり痩せてスリムになって出てきた軍団長にみりんはそう言った。

没収されるくらいなら何も持ってこなきゃよかったのにと思いながら。

 

「ごめんごめんー!

 さあ蘭々の晴れ舞台を見守るためにレッツゴー♡」

 

そう言いながら三人は劇場の中へと向かったのだった。

 

 

・・・

 

 

「蘭々トップスターの巻き!?」は残念な結果に終わってしまったけれど、

まあ何はともあれ蘭々が無事でよかったとさゆみは思っていた。

 

「トマトがトップスター」

 

さゆみはノートの中にそう付け加えてまた次のページをめくった。

パラパラとめくっていると「トト子、覚醒への道」という項目が出てきた。

ああこんなこともあったなぁとさゆみはしみじみと思い出していた。

 

 

・・・

 

 

「じゃあ、バイト行ってくるんで後はお願いしますね」

 

みりんはそう言っていつものようにバイトに出て行く。

その後に蘭々も忙しそうにしながらピザ屋へ向かう。

それがさゆみがテーブルから見るいつもの光景だった。

そして、残されたよろず屋には自分とトト子がいる。

 

椅子に座って後ろの壁に掛けられた「世界平和」の言葉を眺めながら、

さゆみはいつもこれからの軍団のこと、よろず屋の将来などを考える。

何か良いアイデアがあればノートに書き溜めておくようにしていた。

確かにすぐに仕事には繋がらないが、何か将来の役に立つアイデアもあるだろうし、

さゆみが狙っていたのはもっと大きな仕事だった。

アルバイトでは稼げない大きなお金を稼ぐためには、

多少時間をかけてアイデアを練らなければならないと思っていた。

例えば、農家に掛け合ってみかん農園を譲ってもらうとか、

そのままIT技術を駆使して合理的な栽培方法を確立して、

安全かつ美味しいみかんを世界中に輸出してやるとか、

そういう類の仕事を想定して考えているのだった。

 

もちろん、端から見れば立派なニートである。

それはさゆみも承知していたのだが、

ニートはニートでも将来のことを密かに考えているスーパーニートだと思っていた。

周りは理解してはくれないのだが、眠っているように見えても頭脳だけはいつも動かしていた。

 

そんな風にして色々と思索を巡らせている時、

いつも部屋の真ん中の長椅子に座っているのがトト子であった。

トト子はいつも何しているのかなと思って見ていると、

大抵アニメの雑誌をチェックして一人うんうん考え事をしていた。

今クールはどんなアニメを見ようかと悩んでいるのだった。

 

時々、さゆみはそんなトト子の将来が心配になる。

「トト子は何がしたいのー?」とある日尋ねると、

しばらく考えた結果「猫とこたつで戯れたい」と返ってきた。

それでは質問の意図と違うと思ったさゆみは「仕事のこと!」と付け加えると、

またしばらく考えた結果「会社員ですかね」と返答してきた。

 

「そっかー会社員ならハローワークでも行かないとなー」とそれとなくほのめかすと、

トト子は「何か資格が取りたいです」と意思表示をして見せた。

 

さゆみはトト子には内に秘めたるやる気はあることはわかったが、

働きに出るきっかけがないのだなと気がついた。

それもそのはず、模範となるべき自分がこうしてグータラしているように見えるのだから無理もない。

「軍団長だって働いてないじゃないですか」とでも言われれば返す言葉もなかった。

しかも、トト子がここにいてくれるおかげでさゆみはみりんの小言から辛うじて逃れられている。

もしトト子がやる気を表に出して「軍団長、アルバイトに行ってきます」なんて言い出したが最後、

「トト子までやる気を出してるのに、軍団長がグータラしててどうするんですか」と詰めて王手をかけてくるに違いない。

 

さゆみはそんな葛藤の中で一人「わーーー!」と叫んだが、

トト子はそれを一瞥して何も言わずにまた雑誌に視線を戻した。

しかし、そんな葛藤に負けているわけにはいかないと思ったさゆみは、

もし自分だけが残されてしまったとしてもトト子に仕事を与えなければと思った。

 

「トト子、ちょっと出かけてくるから!」

 

そう言ってさゆみは珍しくよろず屋を出て行った。

それを見送るトト子の表情の方が驚いているようだった。

 

 

 

・・・

 

「決心のきっかけね~。

 そういうのは理屈じゃなくない?」

 

賑やかな音楽が流れていて声が聞き取りずらかったが、

さゆみは耳をすませながら相手の声を聞き取っていた。

 

「でもほら、なんか自分の事で迷ってしまう時ってない~?

 そういう時ってなんか自分では決め切れやんから、

 誰かに背中を押してほしい時って絶対あるやんかー」

 

ペンライトを振りながらも器用にさゆみは問いかけをする。

ここは児玉坂にある地下アイドルのためのライブステージだ。

坂田花沙と会うためには、彼女がよく出没するエリアをうろつくしかない。

今日はどうやらいろんな地下アイドルの合同ライブらしく、

代わる代わる様々なアイドルが登場してはパフォーマンスを披露していく。

 

「まあそうだけどさー・・・きゃー、今レス貰ったー♡」

 

花沙は嬉しそうに全力で応援しているために汗だくになっていた。

今ステージに上がっているのは花沙のイチオシの地下アイドル、

「マッコウクジラシスターズ」だった。

近年海外から指摘されて問題視されている捕鯨に対して一石を投じるアイドルであり、

歌詞の中には「ほげぇ~♡」と可愛い叫び声のように歌っているが、

実はそれは「捕鯨」とダブルミーニングなのである。

こうして海外から日本の捕鯨をやめるように指摘されている事に対して暗に抗議し、

昔から日本人はクジラを食べてきた、それを強制してやめさせるのはおかしいと、

マッコウクジラのように真っ向から反論しているのが巷で話題になりかけていた。

 

「今何時、もうクジラ!」というのが定番の挨拶フレーズらしく、

それを言うとファン達はうぉーと盛り上がるのだった。

 

「でもさー、トト子ちゃんだって内に秘めてるやる気はあるわけだし、

 それをなんか強制しても意味がないと思うんだよね」

 

マッコウクジラシスターズはクジラを形取ったギターを弾いている。

音楽の系統はパンクロックであり「オイオイオイオイ!」とファン達は合いの手を入れる。

花沙もノリノリで頭を振りながらさゆみに対してそんな風に言った。

 

「まあそうやなー。

 誰かの期待もお節介になったら意味ないよなー」

 

マッコウクジラシスターズの片方が手から網を投げつけて、

クジラ型のギターに絡みついていった。

やがて網に捕らえられたクジラギターを捨てて、

二人一緒に「ほげぇ~♡ほげぇ~♡」とファンを煽り始めた。

それに合わせるようにしてさゆみと花沙も「ほげぇ~♡」と返す。

 

「だからさー、単純にトト子ちゃんを笑わせてあげればいいくない?

 人間楽しくなったらなんでも上手く行っちゃったりするんだしさー」

 

そう言いながら「ほげぇ~♡」と叫んで飛び跳ねる花沙。

楽しそうにしている姿を横目で見ていると、

確かに彼女の言うことは間違っていないような気がした。

 

「ありがとうございまーす!」と叫びながら最後にジャンプをして、

着地すると同時に音楽が終了するとクジラ型のステージセットからプシューと水が吹き出した。

これは恒例の潮吹きの儀式で、ライブの最後にファン達はずぶ濡れになるのである。

さゆみと花沙も熱狂の渦中でずぶ濡れになってしまっていたが頓着しなかった。

それよりもライブの興奮が勝っていたからである。

 

「あー楽しかったー!」

 

花沙はそう言いながら濡れた髪を指でかき分ける。

さゆみもずぶ濡れになるとは全然知らなかったのだが、

ライブの興奮に飲み込まれていたので嫌なことはなかった。

花沙と同じように濡れた髪をかき分けていた。

 

「あーそうだ、うちの友達にゲーム作ってる子がいてさー」

 

花沙は思いついたようにそんなことを言い出した。

 

「さゆみん監修やってみない?

 ゲームのアイデアとか出してくれたらそれを友達が形にするから。

 別に何にも難しいことないし、面白いと思うけどなー」

 

その言葉を聞いたさゆみは、トト子の気に入るゲームを作ったら面白いかもしれないと思った。

 

 

 

・・・

 

そうして出来上がったのが「乃木豪スットコドッグス」だったのだ。

あれからトト子はどういうわけか床屋のアルバイトの面接を受けに行って見事合格した。

だが、お客さんの顔の上にタオルをどんどん積み重ねてしまうという失敗をしてしまい、

今ではそれはなんでもなかったようにさゆみのお昼のボーッとする友達に戻ってしまっている。

だが、トト子のうちに秘めたるやる気はわかったので、もう強制しないことにした。

時々さゆみはトト子にピースサインを送るのだが、トト子はダブルピースで返してくれる。

もはやそれ以上は何も望まない、もはやそれで十分だと思ったのだった。

 

「捕鯨禁止を強制するべからず」

 

さゆみはノートにそう書き加えてからパタリと閉じた。

 

 

・・・

 

 

そんなこんなで気づいた時にはもう夜八時を回っていた。

TVでは紅白歌合戦が続いているが、ノギニャンが映っているのがわかった。

今年は児玉坂ランドで人気が爆発してたもんなあと思いながら、

中に入っている子は大金星やなとちょっと嫉妬した。

 

ノートを閉じてしまうと、相変わらず部屋には一人しかいない現実が戻ってきた。

窓から眺めた外は雪が大降りになっていて、どうやら積もり始めたようだった。

このままで行くと新年の鐘を撞くお寺の人達は大変やろうなとさゆみは思った。

寒い夜に外に出てあんな辛いことをするのが仕事なんてかわいそうにもほどがある。

日本が日本らしく新年を迎えるためとはいえ、ご苦労な事だと手を合わせた。

 

ああ退屈や。

ふとそう思ってしまったせいで、寂しさが雪崩のように心に押し寄せてきた。

いったい三人はどこにいってしまったんやろうと心細くなる。

思えばノートに書いてた計画も全部中途半端に終わってしまってたし、

そんなこんなで役立たずの軍団長についに愛想をつかしてしまったんやろか?

 

寂しさが心を凍りつかせないように、体と頭を動かそうとさゆみは思う。

TVのリモコンを掴むと紅白歌合戦からチャンネルを変えてみた。

他のチャンネルでは今年一年を振り返るような番組がやっている。

司会者が「こんな事もありましたね~」や「来年はどうなるんでしょうね~」やら言っている。

何につけても「オリンピックに向けて」とか言ってる人達が多かったが、

そんな事ばっかり言ってたら2021年があまりにも不憫でならないとさゆみは思う。

なんかオリンピックロス、略してオリロスがやってくる2021年はあかん子なんか?

いや、2021年だって立派なもんや、前年の期待が大きすぎるあまりに、

ただちょっとプレッシャーで霞んで見えるだけで何も悪い事はしてない。

みんなそんなに2021年ちゃんをいじめんといたってー!!

 

さゆみは寂しさが心に奇妙な風に作用してそんな事を言っていたが、

気分が一度わーっと上がってからジェットコースターのように下降する。

両手を広げたままテーブルに突っ伏すようにして寝そべると、

ほっぺたがテーブルに寄せ上げられる格好になりながら静止した。

そのままボーッと思考の世界へとさゆみは飛んでいく。

 

そういえば今年は中国人の爆買いブームも下火になってしまったし、

アメリカ大統領選挙も意外な結果に終わったんやった。

来年からの世界はどうなってしまうんやろうか。

どこかの国ではこうしてる今でも戦争はおわってへんし、

何の罪もない子供達がご飯も食べられへんで泣いてるんかもしれんし、

ああ、そんなこと思ったらやっぱり世界平和を目指さなあかん。

さゆみかん軍団だけでもみんなに希望の光を届けなあかんのやー!!

 

 

ぐぅ。

 

 

司会者が「みなさん年越しそばもう食べましたか~?」と問いかけてくる。

お腹がなってしまって意気消沈してしまったさゆみはもう動けなかった。

どんなに崇高な理想を掲げたって、人は腹が減っては戦はできん・・・、

いやいや、腹が減っては戦を止める世界平和もできないのだ。

このまま年越しそばも食べれずにコタツの熱で干からびていくのか。

うちは2021年ちゃんにも会うことはないんやなぁ~。

アフターオリンピックのオリロスすら体験することはできんのや~。

 

 

「ただいま~!」

 

がらがらぴしゃりと引き戸が開いて聞こえてきたのはみりんの声だった。

どうやらトト子も蘭々も一緒に入ってきてなんだかんだ言いながら身体についている雪を落としているようだった。

 

さゆみは何だか勝手に見捨てられて一人にされていたつもりになっていたが、

三人が単にどこかへ出かけていただけだと知った安堵で急に心に積もっていた雪崩が溶け出した思いだった。

ほっぺたを載せているテーブルにはその心の雪が解けて水滴が落ちたような気もしたが、

恥ずかしいので右手をごしごしとやって水分を拭い去った。

 

「あれ、軍団長やっと起きたんですかー?」

 

みりんが腕に買い物袋をぶら下げながら部屋に入ってきた。

さゆみは先ほどの秘密のノートをコタツの下に密かに仕舞うと、

「むー、遅いー、かっちゅんおこんでー」と強がって見せた。

本当は寂しくて寂しくて仕方なかったのだが。

 

 

 

・・・ 

 

「そんなこと言ったって軍団長が寝てたからじゃないですか」

 

買い物袋を下ろしながらみりんがそう言った。

どうやら三人が出かけてしまったのは、

四人で出かけようという時にさゆみが寝てしまっていたかららしい。

 

「蘭々もトト子もありがとー」

 

自分の買い物袋を置いたみりんは二人の持つ買い物袋を受け取った。

トト子は白いニット帽をかぶっており、蘭々は赤いニット帽をかぶっていた。

それぞれ払ったはずの雪がまだ少しずつ付いていて降雪の激しさを想起させた。

 

「あれ、軍団長なんで紅白観てないんですか!?」

 

みりんが珍しく大きな声を出した。

児玉坂46がどうしても観たかったのだろう。

おそらく出演時間まできちんと把握して出かけていたのだ。

みりんがこう言うということは、そろそろ児玉坂46の出演時間なのに違いなかった。

 

さゆみはそう言われたのでリモコンをとってポチりとチャンネルを変えると、

司会者達が次のアーティストと歌う前のトークを展開していた。

次は白組の番らしく「今年は忙しかったんじゃないですか?」と質問を投げかけていた。

 

「外寒かったですー」

 

蘭々は両手を擦り合わせながらコタツへと足を入れる。

トト子もひょこひょこと駆け寄ってきて無言でコタツへ入った。

さゆみも何も言わなかったけれど、左右にこの二人がいることがただ嬉しかった。

 

「もう作るの面倒だから買ってきました」

 

みりんはそう言いながら買い物袋から食料を取り出して、

明日以降に食べるものは冷蔵庫へとしまいこんでいく。

 

「軍団長ってお好み焼きとご飯を一緒に食べられるんですかー?」

 

トト子がふとそんな疑問を口にした。

さゆみは話し相手がいるって素敵なことやなと思いながら、

必要以上にテンションが上がってしまって返答する。

 

「そんなもん、聞くだけ野暮でしょー!」

 

さゆみがそう言うとみりんは発泡スチロールのパックをテーブルまで持ってきた。

 

「ほらー、私の言った通りでしょ?

 大阪の人って別に気にしないんですよね?」

 

そう言いながらパックを開けるとお好み焼きとおでんが出てきた。

湯気が舞い上がるとさゆみのお腹はまた「ぐぅ」と鳴った。

 

「あー、もうお腹すいたー!

 もちろんおでんもOK!

 うどんだってありやし、ホルモンとかあったら最高!」

 

やっと食にありつけると思ったさゆみは上機嫌にそう言った。

先ほどまでの雪崩を打った寂しさはもうどこかへ溶けてしまって、

彼女の心の中には一足早い春がやってきていたようだ。

 

「えっ、すごーい、全部みりんの言う通りだねー」

 

蘭々が感心したようにそう言うと、

先ほどさゆみが言った食が全てテーブルに運ばれてきた。

みりんが軍団長の好みを予想して見事に買い出ししてきたようだった。

それを見たさゆみのテンションはみるみるうちに高まっていった。

天にも昇る気持ちになっていたが、それでもあえてわがままに甘えてしまう。

 

「あーっ、もう!

 みりんちゃん全然わかってへんわー!

 そんなんええから白米先に頂戴!

 どんぶり山盛りやでー!」

 

お寿司やらカツ丼やらおにぎりやらを準備していたみりんだったが、

軍団長がいつも通りわがままを言うので仕方なくどんぶりにご飯だけ盛りつけて先に運んだ。

「イェーイ!」と言ってお箸をとってから「はむ!」と声を出して一口食べると、

みるみるうちに顔がきゅ~っと縮こまるようになった後で解放されて満面の笑顔になった。

飯を食べさせたらこれほど美味しそうに食べられる才能を持った人もあまりいない。

 

「みりんちゃん、おかわりー!」

 

「えっ、もう食べたんですかー!?

 あとで他の物ちゃんと食べれますー?」

 

みりんが他にも色々と準備していたのだが、

さゆみがご飯だけおかわりを要求したことに驚きを隠せなかった。

 

「ノンノンノン!ノープロブレムよ~♡」

 

蘭々は立ち上がってさゆみのどんぶりを受け取ると、

台所へ行ってみりんに渡した。

みりんがまたご飯だけ盛り付けると、

蘭々はそれを持ってさゆみの元へと戻っていった。

 

「トト子も蘭々もお腹空いてたら先に食べてていいよー」

 

台所からみりんがそう叫ぶと、

「じゃあ」と言ってトト子も蘭々も箸をつけ始めた。

二人はご飯よりもおかずを優先して食べていたのだが。

 

やがてみりんが年越し蕎麦を四人分運んできた。

「いぇ~い!」と軍団長が両手をグーにして掲げると、

トト子と蘭々も同じようにして両手をグーにしてふわふわ揺れて喜びを表した。

そんな様子が見られるだけでみりんは嬉しくなったりもした。

 

みりんもようやくコタツに落ち着いてご飯を食べ始めた。

四人で囲むには最適なアイテムであるコタツだが、

TVを観るときには誰かがTVに背を向けるポジションを取らざるを得ない。

もちろん、それは暗黙の了解でよろず屋ではみりんになるのだが、

紅白歌合戦が放送されているので、いつもは我慢するみりんも、

さすがに体を半身にしながらTVを観ていた。

 

「しっかしすごいイケメンだよねー?」と今年活躍した歌手に対してそう述べた。

だがその時にはあまりTVの方を気にせずにみりんはご飯を食べていた。

お腹が空ききっている彼女にとって今やハートは米の奴隷なのだった。

 

「はぁー、おいしい。

 キスなんかしなくても我慢できますけど、

 ご飯なかったら生きてる意味ないですもんねー」

 

さゆみはみりんがそんな事を言うのを聞いて、

飛島大輔の事件がまた頭に浮かんだ。

彼女の心の中にはまだ彼への気持ちが残っているのだろうか?

それとも彼女が先ほど行った事は強がりではなくて本音なのだろうか?

いずれにせよ、いつか彼女には幸せになってもらいたいとさゆみは思っていた。

 

紅組の応援に宝塚歌劇団の人達が駆けつけた時、

蘭々のテンションは一気に上がった。

「今年は色々とコラボレーションなんかしたりして」と司会者は言う。

「この人、私、直接お会いしたんです!」とTVを指差しながら蘭々はさゆみに言った。

それから両手を口元に置いて「はぁ♡」と言いながら嬉しそうにTVを眺めている。

今年は彼女にとっても成長の年になったなとさゆみは蘭々の顔を静かに見つめていた。

 

「あれ、誰ですか、ちょっと知らない人が入ってきた」と司会者が茶化している。

有名歌手がPSVRのヘッドセットをつけているので誰だかわからないのだ。

「これは今年話題になりましたよねー」と司会者が述べる。

トト子はそんなTVに目をやる事もなく黙々とご飯を食べていた。

アニメ以外の話題にはほとんど食いつかないトト子。

床屋の仕事もいつの間にかうやむやになってしまったけれど、

トト子が覚醒する時期は一歩また一歩と近づいたとさゆみは思っていた。

 

 

「さーてお待たせしました!

 次はこの人達の登場です、児玉坂フォーティシーックス!」

 

司会者がそう言って豪快にグループ名を叫ぶと、

紅白用の特別な衣装を身にまとって彼女達は現れた。

歌披露の前のトークが始まり「今年はツアーで色んなところを回らせていただいて・・・」などと話をしている。

 

「あっ、いけない忘れてた!」

 

みりんは児玉坂46の登場にテンションが上がったのだが、

同時に声を上げてコタツから出てまた台所へと向かった。

せっかくいいところなのに何をしているのかとさゆみは気になったが、

向こうからみりんが何やら持ってくるのを覗き込んでいた。

 

「肝心なものを忘れるところでした」

 

「あっ、赤飯様♡」

 

みりんが持ってきたのは赤飯だった。

テーブルの真ん中に置くと白ご飯との赤白の色の対比が鮮やかだ。

 

「正直、私はあんまり好きでもないんですけど」

 

みりんは小豆がそんなに好きではなかったらしい。

 

「でも今年は紅組に勝ってもらわないとダメなんで、

 スーパーで見つけて買ってきちゃいました」

 

「えっ、いつの間に買ってたの?

 でも私、赤好きだから嬉しいかなー」

 

蘭々がそう言うとみりんもホッとした様子だった。

 

「うん、なんかうちらの軍団カラーは赤って気がするし」

 

トト子がそう言ったが、さゆみはトト子の方を意味深に見つめた。

するとトト子は両手を口元に持って行ってハッとした表情を浮かべた。

さゆみかん軍団はオレンジ色が軍団カラーなのだから。

 

「嘘です、間違えました」

 

トト子はすぐに先ほどの言葉を訂正した。

赤色が軍団カラーだったらみかんじゃなくてあれになってしまう。

それはこの設定上ではタブーなのである。

 

「まあ何はともあれ、こうして四人で大晦日を迎えられたことはめでたいことやなぁ♡」

 

そう言いながらさゆみは赤飯を口へ運んだ。

ちょうど児玉坂46のメンバー達が歌のスタンバイができた頃だった。

 

赤飯を食べながら、さゆみは紅組に絶対に勝って欲しいと思っていた。

一人では紅組白組のどちらが勝っても全く無意味なのだが、

誰かと一緒にいると、そこにはちゃんとご贔屓が生まれるのだ。

この世界のすべてのことは、自分以外の誰かがいるから意味がある・・・。

 

 

 

・・・

 

児玉坂46のパフォーマンスは見事であり、

そうして無事に紅白歌合戦も終わった。

 

あれだけ盛大に準備した夕食も食べ終わり、

各自それぞれコタツでごろごろと至福の時を過ごしていた。

TVでは紅白歌合戦の後番組である「ゆく年くる年」が放送されていた。

 

外は雪も止んだようで、お坊さん達も少しは救われただろうとさゆみは思った。

TVには静寂に包まれた夜に荘厳なお寺の様子が映し出されていた。

さゆみもその様子を見ていると少しセンチメンタルな気持ちになる。

 

「・・・今年もいろいろありましたねー」

 

いつになく真剣な表情でTVを観ながらさゆみはそう言った。

長いようで短かった一年、辛いようで楽しかった一年。

人には誰にも言えない様々な葛藤が心の中にあって、

それがぐるぐる渦巻きながら個人を絶えずかき回し続ける。

生きていくってことは決して楽ではないけれども、

それでも人は一年また一年と生きていかなければならない。

特にゴールがあるわけではなく続いていくその日々を、

感謝の気持ちを持って静かに尊ぶ事が出来るとすれば、

それこそ年末がもたらしてくれる恩恵かもしれなかった。

 

「・・・軍団長、一年の半分くらい寝てませんでした?」

 

みりんにそう言われてさゆみは「むー!」と返した。

私だっていろいろと考えてるんよと思いながら。

「冗談ですよ、今年一年ありがとうございました」とみりんが言う。

「楽しかったです」と蘭々が言い「トト子もだよね?」とみりんが尋ねると「まあ、一応」と言った。

 

そうしてる間に「ゆく年くる年」の番組内で「ゴーン」と除夜の鐘が鳴った。

何度も打ち鳴らされる鐘の音を四人で静かに聴きながら、

頃合いを見て「新年明けましておめでとうございます」と頭を下げあった。

トト子が最後に「まあ、一応」と付け足した。

 

 

・・・

 

 

「初詣に行こうー!」

 

さゆみが思いついてそう言うと、

誰一人反対する事なく出かける準備を始めた。

四人は仲良しなので基本的に全員でのお出かけは好きなのだ。

 

向かうのはもちろん児玉坂神社だった。

先ほど買い物に出ていた三人はもう寒さに慣れていたが、

今日初めて外に出るさゆみは「あかんー、もうむりー!」と出て二秒で音を上げた。

自分で提案しておきながら離脱宣言も一番早くて、

これは新年早々また今年も大変な年になりそうだなと三人は思った。

だが、言い出しっぺのさゆみを離脱させるわけにもいかないので三人は彼女を無理やり外へ連れ出した。

あまりに寒すぎるようでさゆみはトト子と蘭々の腕をとって暖を取っている。

実はこれは見せかけで、本当は寂しいだけなのだが・・・。

 

「ねえ、私はー!」

 

三人だけ腕を組むと一人だけ逸れるみりんは寂しそうな声を上げた。

トト子がハッとした顔をしてみりんへと手を伸ばした。

みりんはその手を取ってトト子の腕に自分の腕を絡めた。

 

外の空気はやはり冷たくて、四人が歩くたびに白い息が空に上がる。

そんな些細な事にも、123でリズムを合わせて吐き出してみたりした。

四人が考え出した吐息のメソッドはなかなかうまくいかず、

白い息は揃う事なくフワーッと吐き出されて消えていくのだが、

揃っても揃わなくてもなんだか心が弾んで楽しかった。

よく一人でゲームをしていると、どうしてもクリアしたくて意地になるが、

好きな友達や彼氏彼女と一緒だと、クリアという目的はいつも二の次になる。

ひとりぼっちの論理と、二人以上の論理は結論が全く異なるのである。

 

児玉坂神社へ向かう道には先ほどの降雪のせいで雪がまだ残っていて、

まだ誰も踏んでいない雪道に足を踏み入れるたびにシャクっと音がする。

時々、誰かが滑って転びそうになったが、腕を組んでいるので転倒はしなかった。

四人一緒に雪の積もった坂道を登りながら何かの歌を歌ったりもした。

さゆみは密かにこの坂をみんなで一緒に登れるのはあと何年だろうと思ったりもしたが、

涙を流すと目が凍りつきそうになる気がしたのでグッと堪えて無理して笑っていた。

 

児玉坂神社に辿り着くと真夜中だというのに多くの人が初詣に来ていた。

入り口の鳥居の前では両脇にそれぞれ狛犬が立っているのが見える。

それぞれ頭の上にまだ雪が積もっていてすこぶる寒そうに思えた。

片方は固く口を閉じているので我慢して耐えているように見えるのだが、

もう片方は口を開けていて、普段なら威厳があるように見えても、

これでは雪の寒さに耐え切れないというSOSの声が聞こえるようにさゆみには思えたのだ。

この狛犬ガードマン達も雪の降る日にこんなところで仕事をしているなんて大変だと思い、

「時給1200円くらいかなぁ?」とさゆみは呟いて三人の頭には「?」が浮かんでいるようだった。

 

四人ははぐれないように手を繋ぎながら神社の奥へと入っていった。

たくさんの参拝者で溢れていて拝殿はほとんど見えない。

人波に揉まれながらようやく手水舎にたどり着く事が出来たので、

寒い中でとりあえず四人は手と口を漱いでまた鳥居を抜けて進みだした。

 

雪が止んだとは言え寒さは相変わらず厳しく、

空はまだ重たい雲を残していて少し圧迫感があった。

前後左右を人に囲まれているのに空まで押し込めてくるかのようで、

四人はギュウギュウ詰めのままで流されるように進むと、

いつの間にかさゆみが手を離したのか一人だけ前に流されていった。

「はうー!」と言いながら流されていく軍団長を三人は必死に追いかける羽目になった。

 

そんな風にして、四人はようやく拝殿へとたどり着くと、

それぞれにお賽銭を入れてお祈りをした。

お祈りが終わるとおみくじを引こうとなって四人はまた人波を流れていく。

 

「軍団長は何をお願いしたんですかー?」

 

なかなか進まないので間を持たせるためにみりんがそう尋ねる。

さゆみは少し間を置いたあとで返答した。

 

「うーんと、今年も宇宙一かわいいさゆみちゃんでいられますよーにって♡」

 

微笑みながら答えたさゆみだったが、みりんは呆れてしまっていた。

蘭々も苦笑いを浮かべていたし、トト子に至っては無視していたようだ。

 

やがてお守りなどが売っている場所へと辿りついた四人は、

一年に一度のお楽しみであるおみくじに胸をときめかせていた。

新しい年に縁起の良い事が書かれていれば自ずとテンションが高められる。

 

「誰からひくー?」とさゆみがワクワクしながら言うと、

「じゃあ私から」とみりんが先陣を切った。

この四人の中で先陣を切るのは自分だと、もう習慣で身についていた。

 

みりんはおみくじを引いて恐る恐る紙を広げて見てみると、

そこには大吉と書かれているのがわかったのであとは一気に広げた。

「いえ~い」と少し嬉しそうにみりんが声を上げると、

さゆみはみりんのおみくじを無理やりたたみ始めて「あかん!まだ早い~!」と駄々をこねた。

おそらく、初めに大吉をひくのは自分であってほしかったのだろう。

 

みりんが大吉をひいてしまったプレッシャーの中で、

蘭々もトト子もさゆみも恐る恐るおみくじの紙を広げていったが、

幸いな事にみんな大吉だったのでホッと胸をなでおろした。

 

大吉効果によって四人のテンションは高められて、

それぞれ自分に書かれた事を読んだあとで交換してまた読み始めた。

 

「軍団長、トト子のやつ面白いこと書かれてますよ」

 

みりんが笑いながらそう言うので何々とさゆみと蘭々が覗く。

みりんが指差しているのはおみくじの「待人」の箇所だった。

 

 

待人:むしろみんながあなたの覚醒を待ちわびています

 

 

「神様はちゃんと見てるんですね」とみりんは言ったが、

「こんなん認めへんわ~作者のさじ加減一つやんか~!」とさゆみは反論した。

「それを言ったらおしまいですよ軍団長」とみりんはさゆみをなだめてくれた。

 

 

その後も四人は交換しながらお互いのおみくじを確認したが、

不思議なことに「恋愛」と「縁談」の箇所にはみんな同じことが書かれていた。

 

恋愛:今は恋よりも仕事を頑張るべし

縁談:今を頑張れば将来はきっと素敵なご縁に巡り会えます

 

 

「みりんは良い母親になれるって書いてあったね」

 

帰り道で蘭々がそんな風にみりんに声をかけた。

 

「うん、縁談はまだ先みたいだけど神様はそんなことはわかるみたいだね」

 

みりんは笑いながらそう答えた。

 

「蘭々は諦めなければいつか夢叶うって書かれてたね」

 

横を歩いていたトト子が蘭々にそう言った。

蘭々はそのおみくじをもう大切にしまいこんでいたらしい。

 

「あれ、軍団長は何書かれてましたっけ?」

 

トト子はもう先ほど読んだ内容を忘れてしまったようだった。

みりんも蘭々も軍団長のおみくじに書かれていたことを忘れていた。

「忘れた人にはもう教えやん!」と言って軍団長はもうおみくじを見せてはくれなかった。

 

さゆみは一人で空を見上げて歩きながら書かれていた内容を思い出していた。

 

(心を強く持ち、心ない人達の声に惑わされず、しっかりと前に進むべし、

 あなたに励まされ、それが生きる力になっている人達がたくさんいることを忘れるべからず・・・)

 

 

帰り道に空を見上げながら歩いていた時、もう空には重たい雲はかかっていなかった。

澄んだ夜空には星が輝いており、冷たい空気も幾分心地よく感じていた。

 

「あっ、流れ星!」

 

さゆみはキラリと流れた星を見つけてそう叫んだ。

みりんと蘭々とトト子がその声を聞いて空を見上げて流れ星を探す。

瞬時に消えてしまった流れ星を三人は見ることはできなかったが、

どうやら軍団長は手を合わせて願い事をしているようだった。

 

「あー見れなかったー。

 軍団長は何をお願いしたんですか?」

 

みりんが悔しそうな口調でそう尋ねた。

 

「さっき神社でしたんと同じことをお願いしてもーたわー♡」

 

そう言ってさゆみは「うふふ♡」と笑った。

「なーんだ」とみりんは残念そうな声を出した。

 

「あーもう疲れたー、はよ帰って寝て縁起のいい初夢でも見やんとなー」

 

さゆみが流れ星にお願いしたこと。

本当は「軍団員がずっと仲良く幸せでいられますように」だった。

もちろん、神社で神様にお願いしたことも。

 

「今年もいい年になりますよーに!」

 

さゆみがそう叫んだ声は空に吸い込まれていった。

その声が神様に届いたのか、またひとつ流れ星が空に流れた。

 

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

赤飯様 ー自惚れのあとがきー

 

 

本作を書き上げてから気づいたのだが、

今年だけで発表した作品は10作だった。

 

思えば遠くまで来たものだ。

こんなにハイペースで発表していたことに自分自身が驚いた。

ほぼ1ヶ月に1作程度のペースを結果的に貫いたことになっていた。

 

前作「世界で一番孤独なババア」で今年度は終了の予定だったのだが、

まだ体力に余裕があったのでもう一つくらいと思って取り組むことにした。

思えばそんな安易な一歩こそが、こんな苦しい道への一歩だったのだと振り返ると気づかされる。

 

今年最後になるのである程度気合を入れながら書くことになったが、

本作は4つの短編小説から構成されている。

これがきつかった、山登りの途中で足が弱ってきてリタイアを考えるように、

安易に取り組んでしまった自分に途中で本当に後悔した。

 

短編小説集を書いたことがなかった筆者は、

なんだかお弁当のような短編小説集を書こうと思いたった。

ご飯があって、様々なおかずがあって、バラエティ豊かな味わいが楽しめる・・・。

理想を掲げるのは簡単だった、だが4つの短編を書くことは1つの長編を書くよりも辛かった。

 

長編を書くのは一つの物語を膨らませて細部を描けば長くなる。

中編は適当に書いてしまえばだいたいちょうど良いくらいで終わる。

4つの短編集は想定した範囲内に1つの物語を収め、

なおかつ4つ分のストーリーやオチを考えるということになる。

筆者が自分で計算した感覚値では、4つの短編を書くのは長編1作の2倍くらい辛い。

登場人物についてのリサーチが最も時間がかかる部分であるし、

ストーリーを考えるのが書き始めるまでに最も頭を悩ませることになる。

気づけば相当長い期間、この4人の登場人物達に寄り添っていたような気がした。

 

 

みりん編にもしキャッチコピーをつけるなら「君が主役になってもいいんだよ」だ。

常にサポート役に回ろうとするみりんなので、だったら彼女を主役にするのが面白いと思っていた。

そこで将棋や将棋に関する言い廻しなどを考えながら取り組んでみたのだが、

彼女を研究していたところ、将棋は筆者が考えている以上に奥が深いことがわかってきた。

これは安易に深いところまで知ったかぶりはできないと気づいたので、

結局そこまで深入りせず、わかりやすい範囲に説明を収めている。

そうでなければ将棋がわからない人には読めない作品になってしまうのもあった。

 

結末は想定していたよりもシリアスな悲劇に近くなってしまった。

本当はもっとコミカルに決着するはずが、みりんの心の移り変わりを書いたせいで、

どうもコミカルには後に引けなくなった、とはいえ恋愛を成就させるのは児玉坂の世界では不可能で、

結局は悲劇の中の小さな希望、みたいなものを表現することになってしまった。

 

実際、この作品には筆者自身の当時の精神状態が色濃く反映されてしまっている。

これは11月6日のポートメッセ名古屋の会場で書き上げた作品で、

握手会の待ち時間を利用して書き進めて行ったのを今でも覚えている。

五部が始まる直前で書き終えたが、さよならの直前だったので気持ちは寂しくなっていたのだろう。

もし握手会会場で一人パソコンに向かっている人がいればそれは筆者かもしれない。

 

人生における恋は少しの誤解やすれ違いで崩れてしまったりもする。

その儚さゆえに美しいとも言えるのだが、失われた時間や思い出と戯れながらも、

それをさらに美化することもできるし、それも一つの方法ではあるのだが、

現実を直視して失われた荒野にまだ咲いている花を探し求めるような、

そういう帰結もありかもしれないと思って書いていた。

終わった恋が全てを奪い去っていくことはないし、

そこで残された欠片みたいなものを大切に守っていくことも生きる糧になるのではないだろうか。

 

思いの外、悲しい物語になってしまったけれど、

中にはそんな作品もなければ単調になってしまうこともある。

みりんの優秀さはみりん編だけでなく全編通して描かれているので、

時にはこんな結末をお許しください。

とはいえ、最後の「と」を拾うシーンやトト子が吐息を迷惑そうに手で払うシーンなどは、

なんとなく筆者の中で稀少な場面を描けたような満足感はある。

 

 

 

蘭々編にもしキャッチコピーをつけるなら「夢があるから生きていける」だ。

これはとてもシンプルで筆者の人生にとっても根幹が同じである。

彼女と同じ価値観を共有できるとすればこの点だと思って書いてみた。

 

こちらもまたリサーチの段階で宝塚歌劇団を本当に観てみたかったのだが、

残念ながらそれほど時間を取れないし、チャンスもないので動画などを観て、

後は想像で埋めていくことにしたのだが、細部まで正しいかどうかは自信がない。

本当はきちんとリサーチしたいが、それをすると1作を発表するのに3ヶ月はかかってしまう。

それはできないのでさすがにこれは諦めることにしたのだ。

 

思えば「春、シオンが泣く頃」で中西と蘭々を出会わせたのも今作への伏線だった。

あれを書いている段階から本作のストーリーの全体構成は想定されており、

「夢」というテーマも決まっていたので書き出すのは比較的に楽だった。

 

「夢」を持っている人は身体からエネルギーが湧いてくる。

それが達成可能か不可能かはさておき、生きる希望となってくれるからだ。

それに対して強い思いを抱く人々が理想を現実に変えて人類を進歩させてきた。

もちろん、その志半ばで倒れた人々も山のように存在しているし、

作中でも示しているように夢を叶えるのは並大抵の努力では足りない。

努力を尽くしても運がなければそこには到達することはできない。

 

だが、それでも「夢」を持つことは素晴らしい。

生きていく過程を薔薇色に変えてくれるのが「夢」だと思う。

もちろん、全ての人がそれを持つべきだなどと説教を垂れるつもりは毛頭ない。

しかしながらそれを持つ人を応援することは楽しいことであるし、

筆者はどんな無謀な夢であっても他人を否定することはしない。

それが人が生きるエネルギーの源泉だと理解しているからだと思っている。

 

物語にはもちろん「ボーダー」要素も拾って盛り込んでいるが、

「イマジン」がかなり彼女にぴったりだったのに気づき、

おそらくこれは偶然ではないな、意図的に作詞者が盛り込んだか?

そんな風に思わされたのも興味深かったりした。

 

 

 

トト子編にキャッチコピーをつけるなら「トト子、覚醒前夜」だ。

実は当初はこんなストーリーになる予定ではなかった。

もともと想定していたのはもっとハートフルな物語で、

捨て猫を助けたりするヒューマンドラマだったのだ。

最後はダブルピースをするという結末は変わらないのだが、

蘭々編を書き上げてからテイストと感覚が前二作に引きずられているのに気付き、

またトト子編にそれがふさわしいとも思えなくなってきたので、

全てをひっくり返してゼロから考えることになった。

ここが今回で一番スランプだったと言える。

 

またトト子は情報源が少ない。

ヒントを探しても開示されている情報も少ないし、

彼女自身から読み取れる情報も多くない。

筆者の異能力「超推理」によると(乱歩さんごめんなさい!?)、

情報を開示しない人は秘密主義者であるから保守的で、

警戒心が強く、没交流主義、自己意識で構成されている比率が高いと思われた。

つまり狭く深い何かを探さなければツボを押さえることができない。

要するにトト子の場合はアニメである、そこを掘り返すしかなかった。

 

そこで「文豪ストレイドッグス」を観ることになった。

この作品は文豪好きな筆者はもちろん知っていたのだが、

少し邪道な匂いがしていたので先入観から敬遠していたのである。

「太宰治が戦うわけないじゃん」と冷めた考えでいたのだが、

太宰治と中原中也が犬猿の仲であったりするのは事実と同じであり、

中原中也がハット帽をかぶっている事なども結構忠実だったりしたので、

きっとこれを考えた人も文豪が好きなんだとわかった。

そうして観てみると案外悪くなかったりした。

むしろ筆者は太宰治と中原中也のどちらを推しキャラにするか今でも悩んでいる。

文豪としてはどちらも好きなので、これは本当に難しい問題である。

まだ観ていないが、どうやら今後はドストエフスキーも登場するようなので、

異能力「罪と罰」が今日の晩御飯より気になっている。

ドストエフスキーは間違いなくかっこいいはずで筆者には鼻血ものであることは疑いがない。

ぜひトト子にも中原中也の詩集やドストエフスキーの小説を読んでもらいたいものであるが、

おそらくそれは高望みをしすぎなのでこの辺にしておきたいと思う。

 

さて「文豪ストレイドッグス」をウィキペディアで調べてみると、

原作者は「文豪がイケメン化して能力バトルしたら絵になるんじゃないかと、編集と盛り上がった」と書いている。

事の始まりはそういうところかと思い、そんなの面白くなるんですかねーと笑いながら、

「じゃあ児玉坂のメンバーが能力バトルしたら絵になるのかな」と思ったのが筆者の発端だった。

 

そこからは神がかったように筆が進んだ。

筆者は前にも書いたがほとんどを通勤電車の中で執筆している。

まずメンバー全ての異能力を考え始めたのである、それは下記の通り(筆者の当時の執筆メモより抜粋)

 

 

・ショウギフォーカス・・・巨大な将棋の駒を操って味方を守る。

・タマランゼ・・・妄想世界に敵を巻き込んで困らせる。

・ハクマイサマ・・・敵のどんな攻撃も食べてしまう、無効化。

・ダブルピース・・・世界を救う力を秘めた最強の異能力。

 

・ズッキュン・・・一撃でハートを撃ち抜く最強の銃。

・ドローン・・・遠隔操作でマシュマロ爆弾を飛ばしてくる。

・ジャグリング・・・手に持つ食料を食べながら投げてくる。

・ガンプラ・・・作り上げた小さな模型ロボが攻めてくる。

 

 

・ハシクン・・・周りのみんなを寒くて凍らせて動きを止める。 ⭐️

・イッテンノヨ・・・生命線を伸ばしてみんなの生命力を回復させる。 ⭐️

・セブンノティーン・・・可愛いシロクマに変身して攻撃する、だが定期とケーキを必ず間違う。 ⭐️

・サユマッチョ・・・筋肉がムキムキになるが必ず嘔吐する。

・エロセンパイ・・・お色気によって酒屋の売り上げを伸ばすことができる。

・クチビルオバケ・・・色んなところで年齢を詐称することができる。

・ポップティーン・・・困った時にみんなから何かと票を集めることができる。

・ヤングギター・・・12345と唱えたあと、みんなが一気に盛り上がる。

・オトナカケイカク・・・髪の毛が伸びて突然綺麗になったりして相手を魅惑するが、色気がまだ足りないと悩む。

・ウルサイ・・・声がバカでかくなれるが、まわりにウルサイと言われる。

・カミニエラバレシビショウジョ・・・神様を味方につけるので物事が想い通りになる。 ⭐️

・テルマエロマエ・・・敵を音楽が流れると自動的に踊ってしまう体にする。

・オニタマ・・・相手を出っ歯にして悩ませる、本人は悩んでいない。

・ポンコツ・・・相手をいじられキャラに変えてしまう。

・ボビー・・・ふざけてる相手をふざけることができなくする。

・ニオシ・・・相手の運気を下げさせるが、能力を使ったものは少し老ける。 ⭐️

・イイトコー・・・相手のいいところを探せる優しい人格に変えてしまう。

・カナオ・・・けっこうアゴが出る。

・バーブー・・・赤ちゃんの言葉がわかるようになる、恥を捨てないと使えない能力。

・センスイノナナ・・・水の中にけっこう長く潜っていることができる。

・ヒキヨセノホウソク・・・逃げる相手を引き寄せて攻撃できる、幸福も引き寄せる? ⭐️

・ドエス・・・周りの人々を全て不幸にしてしまう能力、それを見て爆笑必至。

・ヒナワカッタ・・・色々なことが瞬時に分かったつもりになる。

・ヤリタクナーイ・・・嫌なことはやらなくて済む。

・ゾンビメイク・・・急にゾンビに変身して相手を怖がらせた後で焼肉をおごらせることができる。

・ソレナチ・・・相手が何を言ってもこれで話を切ることができる、嫌味なく相手の話を聞かずに終われる。

・ミライタマゴ・・・相手の言葉をいかようにも好都合に解釈して幸福に過ごせる。

 

 

いかがだろうか。

こんな事をいい大人が電車の中で真剣に悩みながらスーツ姿でカタカタ打っていて、

それを考えながら終始一人でニヤニヤしていたのである。

そういうところはもしかしたらトト子との共通点かもしれないとも思ったりした。

30分程度で考え終えたが、もう家に帰るまでニヤニヤが止まらなかったのを覚えている。

 

そうして考え出した異能力の中から使えそうなものを取り上げて物語に織り込んでみた。

書いている途中にメモの内容から進化した異能力もあったりする。

念のために言っておくが、これは悪口ではないし真剣に考えた異能力である。

愛情込めて一人一人顔を思い浮かべながら考えたのだから決して悪口などではない。

 

書いてみるとさすがにあれだけ人気アニメを生み出したアイデアだと思った。

作品が面白いかどうかは読者に委ねられるが、筆者個人は会心の一作だと思っている。

スランプに陥ったからこそ復帰してまたこの神アイデアに出会えた気がした。

ちょうど3作目という部分でトーンを変えることができた気もする。

 

また、ただのバカ話で終わらなかったのが筆者が気に入った点だ。

本屋で出会う女の子が哲学的な問いを残してくれたおかげだ。

「異能力とはなんなのか?」というのが一つの暗示されたメッセージを解く鍵になっている。

それはここでは詳細には語るつもりはないが、語るより感じて欲しい。

 

 

ちなみに、筆者のお気に入りの異能力は「ショウギフォーカス」と「ハシクン」である。

「ショウギフォーカス」は文豪ストレイドッグスで言えば芥川系の異能力であり、

実は様々なバリエーションで技を考える事もできた。

本作では無理して入れていないが「ショーギフォーカス・穴熊」や「ショーギフォーカス・鬼殺し」、

他にも「金無双」やら「雀刺し」など、変化に富んだ技を生み出す事も出来るのだ。

全てはみりんの目の前に現れるヴァーチャル将棋盤に駒をセットすればいい。

あとはその命令を下す通りに駒達が攻撃も防御も自在にこなしてくれるのだからバランスがよい。

 

最強の異能力者はトト子であるが、近距離戦闘系で最強なのは「ハシクン」かもしれない。

どんな物も凍りつかせるし、パワーを解放すれば空気も凍りつかせて時を止めることもできるはずだ。

そんな能力的な要素もあるのだが、しかし何よりこの異能力者の決め台詞がかっこよすぎる。

「あっ、割っちゃった・・・」と言って割り箸を割って二刀流にすればさらに強くなれるし、

なんだか何をしても色々とかっこよすぎてこれは本当にずるいキャラだ。

きっとこのキャラにとっては割り箸は武士の魂みたいな物なのだろうと思う。

箸袋から割り箸を抜くだけで筆者は鼻血が出そうなほど興奮してしまう。

 

こんな風に、異能力はいくらでも考える事が出来る。

あると思えばあるし、ないと思えばないような物だ。

よければ皆さんも眠っている異能力をたくさん考えてみてくださいね。

 

 

 

さゆみ編にキャッチコピーをつけるなら「かわいい人」だ。

さゆみは自分で自分をかわいいと言うかもしれないが、

まあそれはともかく、この人の破天荒さから生み出される魅力があると筆者は思うし、

話をメチャクチャにしてもらいながらその「かわいさ」を描こうと思った。

 

文体はメチャクチャだし多少読みにくい部分もあるがそのまま残した。

整理するとさゆみらしさもなくなる気もして、そちらを優先したのである。

先の3作の裏筋を書こうと始めから決めていたし、年末スペシャルにしてやろうと思っていた。

「白米様」から良いようにもじるのは難しく「赤米様」も考えたが、

厳密には赤米は赤飯とは種類が違うらしく、紅白にかけて「赤飯様」に改めた。

 

このキャラは一貫性がなく、2秒前の自分を突然否定したりする。

そんな風でありながら頭もよくて仲間思いの部分もあったりする。

バカなのか天才なのかの紙一重のラインを表現するのが難しくもあり楽しくもあった。

ストーリーを引っ掻き回すには最高の能力者であることは間違いない。

この人がいてくれればどんな話も面白くしてくれる、極めて優等生だ。

 

初詣からおみくじのあたりは年末スペシャルにしようと思った時に思いついたネタで、

これが思いついたからこそなんとか今年中に書き上げねばと締め切りを設けられた点でもある。

それが4人分の物語を書くというとんでもない作業に容易に踏み込んでしまった原因でもあった。

今から考えても、もう同じような苦しさは味わいたくないし書きたくもない。

だが、書いてしまうとまた新しいものに着手したくなる筆者はある意味で呪われているかもしれない。

しかし、まだ児玉坂の街で書きたいアイデアはたくさん残っているので書かなければならない。

 

 

一つだけ懸念していたのは、紅白出場が決まるのかどうかだった。

本作ではそれをフライング気味に祝福しながら書いていたので、

発表前に書き上げながらも出場しない場合は書き直すのかとドキドキしていた。

だが、無事に出場も決まってくれたのでもう何も思い残す事もない。

 

 

来年からの分はもうストックもないしまた新たに書かねばならないが、

今後とも活躍をしてくれる限りは書き続ける事が出来るだろう。

ネタを提供してくれさえすれば書きやすい事この上ないのである。

もちろん、さゆみかん軍団の4人はグループとしては神バランスだ。

予測不能スーパーボケの軍団長、エッジの効いたツッコミのみりん、天然党保守派のトト子、天然党革命派の蘭々。

全てが神バランスの上に成り立ってくれているおかげで、

考えようによってはサザエさん方式で延々と書いていける。

 

しかしながら、他にも書かねばならないキャラもいるので、

どの程度の頻度でまた軍団が登場するのかは今後は未知数である。

もちろん、ネタがあれば登場させやすくなるので宜しくお願いします。

 

今後のますますのご活躍をお祈り申し上げます。

それでは、皆様よいお年を。

 

 

 

ー終わりー