別れ際、もっとも隙になる ー出会い編ー

 

 

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おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。

                  ー魔女の宅急便ー


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道路に面したお店の窓ガラスは頻繁に汚れていた。

だから数日に一度は外まで出て行ってその窓ガラスをきちんと拭かなければならない。

 

窓を拭く雑巾と窓拭き用のガラスクリーナーを持って、

森 未代奈はしばしば窓ガラスの清掃に精を出した。

綺麗好きの彼女であるから、お店の窓ガラスはピカピカにしておきたいのだ。

曇りない透き通った外観を保つことが商売繁盛には大事だと思っていたし、

彼女もそうして日々の心地よい労働に従事するのが嫌いではなかった。

ちょうど先ほども、いつもの汚れを落としてから、

カフェ・バレッタに戻って他の仕事を片付けていた。

 

窓ガラスにはいつも手形がついていた。

その手形がどうしていつもそこについているのか、

未代奈はその理由をきちんと冷静に理解していたし、

だからこそ、色々な感情を噛み締めながらも、

彼女はその手形をきちんと後が残らないように消していく。

重たい義務感と多少の罪悪感に苛まれながら、

窓にべっとりと残っている指紋を跡形も残らないように雑巾で拭き取っていくのである。

 

未代奈が店内に戻って熱いコーヒーを入れていると、

外から騒がしい声が聞こえて来るのがわかった。

ちょうどこの時間には学校帰りの学生たちがお店の前を通りかかる。

下校してからたむろしてバレッタに立ち寄る学生たちもいたし、

そのままカラオケにでもいくのか、ただ賑やかに素通りしていく者もいた。

ちょうど、数名の女子高生が何かを話しながら賑やかに店の前を通り過ぎていくのが見えた。

そして、未代奈はまたいつものように窓ガラスに手形を残していく犯人の姿を見つけた。

 

「でさー、それがマジウケるんだよねー・・・って舜奈また話し聴いてないじゃん!」

 

窓ガラスに両手をつきながら店内を眺めていた犯人に女学生達はそう呼びかけていた。

呼びかけられた犯人である三藤舜奈は、それでもまだぼんやりと店内を見つめて佇んでいるようだった。

 

「ちょっと舜奈、またそのお店覗いてんのー?

 そんなに気になるんなら別にここ入ってもいいけど。

 でもカラオケ行くってさっき言い出したの舜奈じゃんねー?」

 

キャッキャと騒ぐ女子高生達の声が聞こえないように、

舜奈は店内の様子を探りながら、やがてコーヒーを注いでいるショートヘアーの女の子へ視線を向けた。

視線を向けられた未代奈は作業の手を止めないようにしながらも、

その視線を真っ向から受けるようにして舜奈と目を合わせた。

どういう感情も読み取れない、とても冷たい目だった。

 

そんな風にどちらも視線を逸らさないようにして数秒が経った頃、

痺れを切らせた女子高生達が舜奈の制服を引っ張るようにして窓ガラスから引き剥がした。

 

「ねえ舜奈~!

 バイトまで時間あるからカラオケ行くって約束したじゃんか~!

 友達との約束破っていいわけ~!?」

 

数人がかりで引っ張られた舜奈は、

先ほどまで引きつけられていた未代奈の視線と窓ガラスから離されたが、

まだ少しぼんやりした表情のままで呟いた。

 

「・・・約束・・・約束かぁ」

 

舜奈がまた店内に視線を戻すと、もう未代奈は先ほどの場所に見当たらなかった。

その瞬間、彼女の心は霧がかったようにまた不鮮明になってしまった。

心の奥底に沈んでいる大切な宝物を見失ってしまったような気がしたのだ。

先ほどはこのお店の中に何か微かに輝く光を見たような気がしたのだが・・・。

 

「ねえ、早く行こー!」

 

「・・・うん、わかった」

 

そう言ってもう一度、視線を店内に向けてから、

ついに諦めたように舜奈はバレッタを去って友達の後を追いかけて行った。

 

 

 

・・・

 

「あの子、また来てたね」

 

未代奈が運んできたコーヒーを飲みながら男はそう言った。

そのコーヒーカップを持つ仕草はとても上品であり、

男は裕福な家庭で育てられたのだということが一目で見て取れる。

 

一方、未代奈は男の声が聞こえなかったかのように仕事を続けていた。

先ほどまで誰かが座っていた座席のテーブルに置かれていた食器を片付けていたのだ。

 

「ねえ、まだショックから立ち直れないのかい?」

 

男は未代奈が聴こえていないふりをしているだけだと見抜き、

そんな風に思考の先回りをしたつもりで話掛けた。

 

「気持ちはわかるけどさ、警察なんてあんなもんだよ」

 

そう言って男は目をつぶってコーヒーの香りを嗅ぎながらまた一口飲んだ。

未代奈は淡々と食器をトレイに乗せてから店の奥へと運んで行った。

 

「組織なんてのはいつの世でも責任転嫁ばかりなのさ。

 人の作り出す組織は長く続けば必ず腐敗する。

 あまりにポジションが増えすぎて官僚的になるからだろうね。

 誰も主体的に責任を取ろうとしなくなってしまい、

 決められたルールを盾に当たり障りのない答弁を繰り返すばかりになる」

 

未代奈は店の奥に引っ込んでしまったが、

そこで作業をしていることは男にはわかっていたので、

少しだけ声のボリュームを上げて話を続けていた。

何も返事はなくとも聴こえているだろうという確信とともに。

 

「やれやれ、どうも人間は人間を過信しすぎているんだね。

 誰もがキリストや仏陀みたいに高尚な知性を持っているのなら、

 多少の理想主義も許せるけれど、現実はそうじゃない。

 民衆は権利を主張し、その義務を忘れて怠惰を貪る。

 だから言ったろう、女泥棒は捕まりっこないってさ!」

 

未代奈は相変わらず沈黙を貫いていたが、

男が話していたのは先日起こったバレッタの泥棒事件のことだった。

昨年のクリスマスイブの夜、バレッタに忍び込んだ女泥棒がいた。

その現場を目撃した未代奈は警察に通報したのだが、

結局犯人を捕まえてはくれなかったのだった。

それを見かねた未代奈は、自ら交番に乗り込んだ。

そして捜査協力をしたのであったが、その甲斐も虚しく捜査は打ち切りとなった。

実は、この事件が迷宮入りになったのは未代奈にも問題があるのだが、

未代奈はまさか自分に落ち度があったなんてこれっぽっちも気づいていないし、

ここにいる男もそんな事実を一ミリも知らないものだから、

必然、二人の怒りの矛先は全て警察へ向けられた。

 

男は未代奈がまだその事件のショックを引きずっていると思っていたのだ。

あの泥棒事件は彼女にとってかなりショックだったらしいのだが、

実際には被害はそれほどでもなく、男はもうさっさと忘れるべきだと考えていた。

 

男はそんな事を言いながら優雅にコーヒーを飲み続け、

店内のよく目立つところに貼られているポスターを眺めていた。

ちょうどその時、未代奈はまたトレイにデザートを乗せて店の奥から姿を現した。

彼女は多少ぶっきらぼうに男の前にまた姿を現したかと思うと、

トレイに乗っていた三色のアイスクリームの乗ったお皿を乱暴にテーブルに置いた。

そして、また無言のままでさっさと店の奥へと姿を消してしまった。

 

男はその様子を見て少し大きなため息をついた。

いったいどうすれば彼女の機嫌がおさまるのかまるでわからないようだった。

男は食器などが入っているテーブルの隅にあるカトラリーケースから小さなスプーンを取り出し、

その三色のアイスクリームの真ん中に置かれていた白いアイスを器用に削り取った。

その欠片をスプーンに乗せて口元に運んでから、どうやらその答えを閃いたようだった。

なんのことはない、女性はとにかく褒めるに限るという安易な解決策であった。

 

「このキャッチコピー、なかなかいいよね」

 

男から未代奈の姿は見えなかったが、彼女に聴こえるように少し大声で話した。

その声の大きさは話をする、というよりは叫んでいるに近いくらいのボリュームになっていた。

 

「素敵だよね、まったく粋だよ、『それでも、塩アイスは永遠だから』なんてさ」

 

男は壁に貼られていたポスターの真ん中に書かれているキャッチコピーを読み上げたのだった。

そのポスターにはバレッタのおすすめデザートである塩アイスが盛り付けられた写真が中央にあり、

涼しげなそのアイスの上部には、男が先ほど読み上げたキャッチコピーが添えられていたのだった。

 

「これはさ、いきなり接続詞から始まるのが粋なんだよね。

 だってね、『それでも』って言葉自体が、

 その前にはきっと何らかの物語があるって事を暗示してるわけなんだから。

 そこに人間の想像の余地を用意しているってのが味噌だよね。

 あんな風だったのかな、こんな風かもしれないなーって、

 色々と想像を巡らせてくれる響きを持っているコピーだよね。

 まったく、このアイスはそういうロマンスの味がするってものさ。

 僕くらいになると、その辺の違いもよくわかるんだから」

 

これだけ誉め倒しても未代奈はやはり一向に姿を見せる様子はなかった。

もちろん、褒めているつもりがいつの間にかうぬぼれに変わってしまうのが、

この青年の悪い癖なのだったが、それにしても糠に釘の状況に対して、

さすがに彼も一人喋りを続けていることに忍耐の限界を感じ始めたようだった。

彼の座っている位置からでは見えないが、どうやら店の奥からは先ほどからずっと水の流れる音が響き続けていたので、

おそらく未代奈は先ほどから洗い場で食器を洗っているのだと思われた。

 

「それにしてもこの風味、絶品だね。

 特にこのバニラ味のアイスには絶妙の塩味が効いてる。

 一体これはどうやって作ってるんだろうね?

 そりゃ児玉坂の街以外からでもわざわざ足を運ぶ人がいるってのもうなずけるよ」

 

そんなことを言いながら、男はそっと椅子から立ち上がっていた。

声のボリュームを少しずつ落としながら距離を詰めていることを悟られないようにする。

彼の耳には洗い場の水音のボリュームは上がっていき、距離が近づいているのがわかった。

 

「そりゃそうだ、おいしいものを嫌う人なんていないよ。

 人間が作り出すものには理由は説明できなくても良し悪しがちゃんとあって、

 食のそれを判断するにも五感のすべてが求められることになる。

 だって僕らは決して舌だけで物を食べているわけではないからね。

 造形や匂い、舌触り、食べた時に口の中で鳴る音だって大事だよね。

 どんなにおいしい物でも見た目が美しくなきゃ食欲もわかないし、

 噛んだ時に適度な弾力や抵抗がなければ満足もできやしない。

 だけどね、僕の興味はそれを作り出す人間に向けられるのさ」

 

彼は幾分己の言葉に酔いしれながら軽やかにステップを踏んでいた。

そっと洗い場の近くまで忍び寄り、まだ口の中に残る塩アイスの感触を楽しんでいた。

 

「だって、この美食を生み出した人こそが最高の芸術作品に違いないじゃないか!

 一体どうやってこの美しい食べ物を思い付いたんだろうか?

 そこにはどんなエピソードがあったのだろうか?

 そして、その食物をこの世界に具現化させたその純粋な心と可憐な手。

 僕が興味あるのはそういう君のような美少女なんだよ!」

 

そう言って彼は洗い場に突然姿を現してそこで洗い物をしている可憐な手を取った。

この華奢な手首、繊細な指先、腕まで伸びた立派な黒い毛、人類の祖先のようなたくましい表情・・・。

 

「・・・ソルティーヤくん?」

 

彼が捕まえた手首は未代奈ではなかった。

それはどう見てもゴリラのルックスをしているのにもかかわらず、

自分はチンパンジーだと言い張って聞かないソルティーヤくんだった。

 

「・・・なぜ君が洗い物を?」

 

「ミヨナは店の奥で何か準備してるよ。

 もうすぐ出かけるんじゃないかな」

 

ソルティーヤくんは男が掴んでいる手首を迷惑そうに解くと、

納得がいかないような表情をしてまた皿洗いに戻った。

 

「出かけるって、この店はどうするんだよ?

 まだ夕方だしお店を閉めていい時間でもないんだぞ?」

 

彼はソルティーヤくんを掴んでいた手を恥ずかしそうに後ろにしまった。

ソルティーヤくんはたくさんの食器を泡だらけにして慣れない洗い物に専心しているようだった。

 

「どうなることやら心配だね。

 決めたらすぐの人だから」

 

ソルティーヤくんは少し呆れたような口調でそう言った。

食器の泡が彼の黒い毛を覆うようにして手首から腕まで上ってきていた。

 

「そんなバカな・・・。

 ゴリラ一匹が店番してるカフェがどこにあるんだよ!」

 

「ゴリラじゃないよ、チンパンジーだよ」

 

食器乾燥機へお皿を詰め込んで機械をスタートさせながら、

ソルティーヤくんはとても大事なことだとでも言うようにそう訂正した。

 

「あと、一応店長だっているよ」

 

ソルティーヤくんは片手で汗を拭いながら反対の手でカウンターを指差した。

そこにはいつも通りヘミングウェイを読みふけっている店長が座っていた。

彼が今日読んでいた本のタイトルは「武器よさらば」だった。

 

「あんなのお飾りだろ?

 店番なんてできるわけがないじゃないか。

 今までに一言だって何も言葉を発したことがない人なのに」

 

男はそう言ってカウンターに座っていた店長を睨みつけた。

 

「君はそうやって言葉だけにとらわれるからいけないんだよ。

 物静かな人だって仕事ができないわけじゃなし。

 有言実行の人もいれば不言実行の人もいる。

 大切なのは何をやったか、言葉なんてそれこそお飾りだよ」

 

泡のついた手を洗ってからタオルで拭きながらソルティーヤくんはそんなことを言った。

 

「そうは言うけどね、この街じゃ言葉がなけりゃ思いも何も伝わらないじゃないか。

 特に近頃はね、世間には言ったもん勝ちな風潮だってある。

 中身が伴わなくたって、アピールしなきゃその他大勢に埋もれてしまうんだぞ。

 まったくゴリラには人間の苦労なんてわかりゃしないんだから」

 

そこまで聴いていたソルティーヤくんは手を拭いたタオルを男に投げつけた。

男の顔には微妙に湿ったタオルが覆いかぶさった、かすかに獣の臭いがした。

 

「ゴリラじゃないって言ってるだろ!

 だいたい、歴史を見なよ、僕達がいなかったら人間だって存在してなかったんだ。

 これからは敬意を込めてチンパンジー先輩って読んでもらいたいものだね」

 

そう言ってソルティーヤくんは脇に置いてあった紫色のバンダナを首に巻きつけた。

体が小さいのかバンダナが大きいのか、それは彼の体の半分を覆ってしまうほどだった。

 

「とにかく、この店を置いてどこかに出かけるなんて許されたことじゃないよ」

 

男はそう言ってから店の奥へ入って行った。

「森ちゃん!森ちゃんどこだい!?」と叫びながら未代奈を探しているようだった。

 

 

・・・

 

 

「えっ、何ですか?」

 

そう言いながらいつの間にか店内に姿を現していたのは未代奈だった。

男が店の奥の部屋へ大声で叫びながら探していたのにもかかわらず、

耳が遠いのかその声には気付かないようにしていつの間にかソルティーヤくんのそばにいた。

そして、その素っ気ない反応にどういうわけか誰もが強烈に惹きつけられるのだった。

 

「森ちゃん、いつの間に・・・」

 

未代奈はいつの間にか仕事着から着替えを済ませていた。

水色のシャツにデニムのサロペットを身につけ、

首元にはソルティーヤくんと同じ紫色のバンダナをつけていた。

とてもシンプルで素朴なファッションなのだが、

彼女が着るととてもよく似合っているのだった。

 

「黒ゴリラにデニムなんてまるで動物園の飼育員みたいだわ」

 

未代奈はお店の壁にかかっている鏡を見ながらそう言った。

ソルティーヤくんは洗い場からお店へやってきて鏡を覗き込むと、

そこには少し不満げな顔をした未代奈が映っているのがわかった。

 

「全部微妙・・・」と言いながらその服装を嘆いた未代奈だった。

きっと動きやすさを重視した為にそうなってしまったのだろうと思ったが、

ソルティーヤくんは別にそのスタイルでも十分様になっていると感じたこともあり、

先ほどまで怒っていた気分も瞬時に忘れてしまった。

 

「そんなことないよ、とてもよく似合ってるよ。

 それに、そんなに形にこだわらなくても大丈夫、大切なのは心だよ」

 

ソルティーヤくんがそう告げると、曇っていた表情も晴間をのぞかせ、

彼女は何やら嬉しそうに笑顔を見せてくれたのだった。

 

「わかってるわ、心の方は任せといて。

 お見せできなくて残念だわ」

 

彼女はパッと華やかな表情を浮かべたかと思うと、

「ソルティーヤくん!レッツゴー!」と言って突然お店の外へ向かって走り出した。

 

「えっ、僕も行くの?」

 

「当たり前でしょ、ラジオをつけるのは君の役目なんやから」

 

入り口のドアの前で立ち止まった未代奈はサロペットのポケットから古い銀色のラジオを取り出してそう言った。

それを見たソルティーヤくんは長い両手を振りながらしぶしぶ彼女の後を追いかけることにした。

 

「行ってきまーす!」

 

そう言って一人と一匹は営業時間中にもかかわらずバレッタを飛び出していった。

店長はその走り去る姿を一瞥しただけで、また視線をすぐに「武器よさらば」に戻した。

 

「まったく・・・ちょっと自由にしていいって言ったらすぐこれなんだから」

 

男はさきほどまで座っていた椅子に戻って呆れた様子でそう言った。

観念して再度スプーンを持った時には、もう三色の塩アイスは溶け出してしまっていた。

 

 

 

・・・

 

さて、未代奈とソルティーヤくんはバレッタを飛び出してしまったのであるが、

今はまだ一人と一匹の後を追いかけるのは少しよそうと思う。

 

そしてまず、皆様に少しだけ時計の針を巻き戻すことをご了承いただいて、

彼女達を追いかける前に、その時期の彼女達のことを知っておいてもらいたいのである。

 

それはまだ、彼女が髪を切る前のお話である。

とても古い話に感じるかもしれない。

だが、それらすべてが現在の彼女を形作っているのだから、

多少の昔話でも悪くはないのではなかろうか・・・。

 

 

・・・

 

 

「ソルティーヤくん、今夜に決めたわ、出発よ!」

 

どこからか大急ぎで走ってきた未代奈は玄関先で寝ているチンパンジーにそう呼びかけた。

 

「お母さーん!」

 

家に辿り着くなり未代奈は大声で家の中へそう叫んだ。

 

「お母さん、天気予報聞いた?

 今夜晴れるって!絶好の満月だって!」

 

その言葉を放つ先には彼女の母親らしい人が立っているが、

それに対して何も言い返すようなそぶりは見せなかった。

 

「ねえいいでしょ?

 私決めたの、今夜にする!

 だって次の満月が晴れるかどうかわからないもの!

 私、晴れの日に出発したいの!」

 

そういうなり未代奈は自分の部屋へと一目散に駆けて行った。

 

 

「あら、あんなに急かしたくせに、いざとなったらグズつくのね!」

 

部屋の中でたくさんの荷物をまとめながら未代奈はソルティーヤくんに話掛けた。

その言葉を聞いて何も返答しないトルティーヤくんに対し、

未代奈は急に作業の手を止めると、かなり不満げな顔をして見せた。

その未代奈の表情を見てソルティーヤくんはしぶしぶ口を開いた。

 

「どうしても言わなきゃだめ?」

 

床に座って未代奈を見上げながらそう言うと、

未代奈はさっきまでのキリッとした表情を突然崩した。

 

「だって二人であんなに練習したやんか~」

 

「でも、僕なんだか恥ずかしいよ。

 こんなんじゃ、ミヨナ一人で遊んでる寂しい子みたいに見えちゃうよ」

 

ソルティーヤくんはモジモジと言いにくそうなことを頑張って述べたが、

未代奈の情熱の火はその程度で消し飛ぶようなものではなかった。

 

「ダメ~ちゃんとやるの~!

 完全再現することに意味があるんやから~」

 

赤いリボンを頭につけていた未代奈はもう意見を変える気は無さそうだった。

少し子供みたいに駄々をこねるように意地でも完全再現を固持していた。

 

「どうなることやら心配だね、決めたら譲らない人だから・・・」

 

「そのセリフ間違っとるよ、しかも一個飛ばしとるし」

 

「はいはい、違うよ~旅立ちはもっと慎重に厳かに行うべきだと思うんだよ~」

 

ソルティーヤくんが観念して未代奈の台本に沿ったセリフに戻ると、

それを見た彼女は満足そうにタンスに向かって行って準備をし始めた。

 

「そして一月伸ばして素敵なボーイフレンドが現れたらどうするの?

 それこそ出発できやしないわ!」

 

「・・・そんなこと言って、留学したら恋愛禁止なんだよ、それでも頑張れるの?」

 

「こら~また違うセリフ言っとる~!

 もう、ちゃんと言わんかったら晩御飯抜きにするから」

 

「・・・どーせ一人で食べるくせに」

 

そんな風にしてソルティーヤは未代奈の台本に従わされていった。

その台本に沿った形で未代奈は自分の荷物をまとめていったのだった。

 

 

 

・・・

 

この出発準備の少し前、未代奈は母親に嘘ついて家を出たことがあった。

友達とテーマパークに遊びに行くという理由を告げていたのだが、

本当は遊びに行くのではなく、留学の予定を決める説明会があったのである。

 

その説明会で聞いた留学先は児玉坂という東京の小さな街であり、

もちろんそこに無理して決めなくても、未代奈にはそれ以外にもたくさんの選択肢があったはずだった。

 

留学で言ってみたい国はたくさんあった。

フィンランド、フランス、イタリア、アメリカなどなど、

彼女には夢にまで見た憧れの土地が人一倍たくさんあったのだ。

どこの行き先を選んでもそれなりに楽しい生活が待っているはずだった。

 

だが、未代奈はどういうわけか児玉坂を選んだのだった。

そして、決めたら譲らない彼女の性格も影響して、

彼女は全てをこの留学に捧げる決意をして旅立ちを決めたのだった。

後日、テーマパークに行くと嘘をついたことはすぐに家族に謝った。

 

だが、彼女にはとても強いこだわりがあった。

その出発日は必ずラジオの天気予報を聴いてから判明した満月の夜でないとダメだというのだ。

彼女のこだわりは彼女の好きな映画に由来するものだったのだが、

とにかくそれを再現する形で出発したいというのが彼女のこだわりだったのである。

 

出発の形はどうあれ、とにかく彼女は16歳という若さで単身留学を決めた。

家族は多少心配したのだが、ペットのソルティーヤくんが一緒に行くということで、

少なくとも寂しさを紛らわせることくらいはできるだろうと思っていたのだった。

 

 

・・・

 

 

「どっちへ行くのー!?」

 

「南よ、海の見えるほう!」

 

嬉しそうにソルティーヤくんに返事をした未代奈は、

満月が見える夜空をほうきに乗って飛んでいた。

これも彼女の強いこだわりの出発方法なのである。

ちなみに方角は実際には東へ向かっているのであって、

南と言っているのは彼女のこだわりのセリフなのであった。

 

「ソルティーヤくん、ラジオをつけて、いま手が塞がってるの、早く!」

 

お決まりのフレーズか来たと思ったソルティーヤくんは身構えた。

空を飛びながらも未代奈の代わりにラジオのスイッチを入れなければならない。

猫くらい小さかったらよかったが、自分はチンパンジー、かなりでかいのだ。

だがこの日のために未代奈に相当訓練を受けたソルティーヤくんは、

大きい体でほうきのバランスを崩さないように器用にするりと動いていって、

見事ラジオのスイッチを押すことに成功したのであった。

その時の未代奈の嬉しそうな顔ったらなかなか見られるものではない。

 

ラジオをつけると松任谷由実の「ルージュの伝言」が流れ始めた。

これは偶然ではないし、このラジオはおそらく本当はラジオではないとソルティーヤくんは思った。

全て仕組まれた台本通りの音楽が流れていったのだから。

 

「やればできるやんか~」

 

珍しく嬉しそうな未代奈はそういってソルティーヤくんの頭を撫でた。

こんな嬉しそうな顔をするのは何か美味しいものを食べた時以外はないはずだったが。

 

「・・・ん?ミヨナ、この場面でそんなセリフないけど・・・」

 

「あっ、いいの~これはおまけやから」

 

練習の成果が出て思わず嬉しくなって素に戻ってしまったのだろう。

それにしても、他人にはあれほど厳しいのに自分は天然なんだからずるい。

 

「そういえば、もうすぐ雨が降ってこなくちゃいけない場面だね」

 

ソルティーヤくんはそう言って雲行きを確かめてみた。

このあたりは綺麗に晴れ上がって黄色い満月がくっきりと見えている。

どうやら向こう側に雨雲があるように思えたが、ここからは随分と距離がある。

 

「あっ、そこまで完全に再現しなくても大丈夫やから」

 

必死で雨雲を探していたソルティーヤくんに向かって、

未代奈は冷たいトーンでポツリとそんなことを言い放った。

表情は瞳孔が開いていて感情が読み取れなかった。

 

(・・・えっ、ここはリアルを追求しなくてもいいの?・・・)

 

ソルティーヤくんは密かに心の中でそんな風に抗議したが、

やがて雨も降ってないのに雨が降ってきた仕草をし始めた未代奈。

 

「わー!!何よあの天気予報はー!」

 

そう言って雨に濡れる仕草だけを続けながら一人と一匹はわちゃわちゃと飛び続けた。

留学初日の夜を楽しんでいる間に、やがて彼女達の前方には児玉坂の街が姿を現したのだった。

そこは未代奈が夢見ていた海に浮かぶ街でもヨーロッパのような幻想の街でもなかったが、

やがて彼女の青春を全て捧げることになる、坂道の美しいとても小さな街だった。

 

「私、この街にする!」

 

この街にするも何も、留学先はここしかなかったのだが、

未代奈は嬉しそうにそんなセリフを口にすると、まだ暗い夜の街に灯りがついている一軒のお店を目掛けて飛んで行った。

そこには見るからにみすぼらしくて寂れた一軒のボロい時代遅れの喫茶店があったのだった。

 

 

・・・

 

 

未代奈とソルティーヤくんが喫茶店の前に降り立った時、

店内はまだうっすらと灯りがついていたのだが、

それは外から見ただけでどことなく薄暗くて陰気くさい感じがした。

 

「・・・本当にここであってるの?」

 

ソルティーヤくんは心配そうに未代奈にそう尋ねた。

彼は一緒についてくることにはなっていたけれど、

留学の内容については未代奈一人で決めたことだったので何も知らなかった。

 

「なんか学校の先生が全部手配してくれとるって聞いたから、

 たぶん住むところはここであっとると思うけど」

 

「・・・ちゃんと調べてこなかったの?

 不必要なセリフはあんなにこだわって調べてきたのに・・・」

 

ソルティーヤくんの皮肉は彼女の耳に届かなかったようで、

未代奈はつかつかとお店のドアに近づいてノブを回してみた。

ドアは閉まっているかと思われたが高い音を立ててゆっくりと開いた。

 

「鍵かっとくの忘れとったんかな?

 中に誰もおらんのやろか?」

 

未代奈がドアを開けて勝手に入っていくので、ソルティーヤくんも後ろから続いた。

店内にはジョーン・バエズの「ドナ・ドナ」が流れていたのだが、

未代奈にもソルティーヤくんにもこの曲が何なのか知る術はなかった。

ただ古臭い悲しいメロディーが薄暗い喫茶店で流れているのは少し不気味であった。

 

「それにしても、確かこのお店の場所は街の中心地だったよね?

 それがこんなボロい喫茶店じゃ、この街もたかが知れてるんじゃないの?」

 

ソルティーヤくんが退屈そうに両腕をぶらぶらさせながらそう言った。

「こら失礼でしょ、そんなこと言わないの~」と未代奈が彼の不用意な発言を戒めた。

 

「だって見てみなよテーブルも椅子もボロボロだよ。

 天井なんか蜘蛛の巣が張ってるし、まるでお化けでも出そうじゃないか」

 

「・・・お化け系はいやや」

 

そう言って未代奈はソルティーヤくんを睨みつけた。

どうやら本当にお化けだけはご勘弁といった様子だったので、

ソルティーヤくんはもうそれ以上彼女を怖がらせることはしなかった。

 

だが、ちょうど「ドナ・ドナ」の音楽が途切れた頃、

未代奈はカウンターに誰かが座っているのを見つけてしまった。

そして思わず大声をあげて叫んでしまったのだが、

そこには老人が座っていて、何やら本を読んでいるらしかった。

読んでいた本の背表紙には「武器よさらば」と書かれていた。

 

未代奈が金切声のような悲鳴をあげたので、

ソルティーヤくんの黒い毛はびっくりしたあまり全身逆立ってしまった。

そして、悲鳴をあげた後で何やら壊れてしまったように未代奈は笑い始めた。

むしろ彼は彼女の不気味な笑い声の方に恐怖を感じたのだった。

 

老人は白髪頭に白い口髭を生やしていて、茶色のベストを着ていたのが印象的だった。

口髭のせいで口元はほとんど見えず、ただくっきりとした二重まぶたがなんとも眠たげに見える。

中肉中背で特に目立った様子もないし、だが一度見るとなんとなく忘れない顔つきをしていた。

だが、とにかく人生に対する覇気が感じられず、悟りの境地に入った仙人みたいな貫禄があるのだった。

 

座っていた老人は未代奈に気づくと、やがて何も言わずにゆっくりと立ち上がり、

一杯のホットコーヒーを白いコーヒーカップに入れて運んできてくれた。

未代奈は静かに「ありがとうございます」とお礼を述べて椅子に座った。

老人はまた何も言わずに読書に戻ったので、未代奈はコーヒーに口をつけた。

若い女の子に対して何も躊躇することなくブラックコーヒーを出してきた老人は、

おそらくこの喫茶店と同じように過去のどこかの時点で時間が止まってしまっていたのかもしれなかった。

未代奈は別に飲めないわけではなかったが、口にしたそのコーヒーはただ苦いだけに思えた。

その味は彼女にとってはちっともおいしくはなかったのだけれど、

彼女には一人で故郷を飛び出してこの街にやってきた誇らしさがあったので、

この苦味こそがなんとなく初めて感じる大人の味かもしれないと思った。

この味を楽しめるようになることが大人への近道なのかもしれない。

 

「あの・・・私、一生懸命頑張ります、よろしくお願いします!」

 

未代奈は勢いよく立ち上がってそう言って頭を下げた。

それは彼女なりの礼儀であり精一杯の感謝の気持ちに思えたが、

老人は少し彼女の方へ視線を向けた後、また何も言わずに本へと視線を戻したのだった。

 

 

 

・・・

 

「僕、明日になると白チンパンジーになってると思うよ」

 

老人にあてがわれた店の奥の部屋にたどり着いた時、

その部屋が埃まみれだったのに気づいてソルティーヤくんはそう呟いた。

これは彼なりの未代奈への配慮であり、元気付けようとするセリフだったのだが。

 

「白チンパンジー・・・?」

 

想像に反して未代奈はキョトンとした表情でソルティーヤくんを見つめた。

どうやら新しい環境にまだ馴染めていない様子で、

大好きな映画のセリフをもじったことに気づく余裕もないようだった。

 

「白チンパンジーなんておらんよ、何言っとるん?」

 

未代奈は冷めたトーンでそう言ってから部屋の窓を開けてみた。

埃と汚れが溜まっていた窓は決して滑らかに開くことはなかったが、

どうやら未代奈はこんな状況の中でも小さな幸せを見つけたようだった。

 

「ソルティーヤくん、坂が見えるよ」

 

喫茶店の二階の部屋の窓から見えるのはこの街の名所、児玉坂だった。

緩やかなカーブを描きながらなだらかに登っていく坂を見ていると、

未代奈には、それがまるでこの街の縮図であるかのように思えたのだった。

彼女は児玉坂がどこにあるかなんて何も知らずにやってきた。

ただ贈り物の蓋をあける時みたいにワクワクした漠然とした気持ちを抱いて、

故郷の生活を捨ててこの地へやってきたのだった。

同世代の子達が気楽に友達達と青春を謳歌している最中に、

彼女は若くしてただ一人別の道を生きることを決意したのだ。

 

(・・・いったいどんな未来が待っとるんやろう・・・)

 

窓枠に肘をつきながらぼんやりと坂を眺めていた未代奈は、

決して不安な気持ちを口にすることはなかったのだが、

いつの世も若者が立ち向かわなければならないもの、

まだ見ぬ将来への不安という恐怖の影が見えたような気がした。

はっきりと姿を現してくれれば恐ろしいことも何もないのだが、

まだ何事も経験の少ない若者にとって、それは漠然としているからこそ、

もどかしくて把握できないプレッシャーになるのだ。

 

その日、未代奈とソルティーヤくんはベッド周りだけを掃除してから眠った。

翌朝起きてから持ってきた簡単な朝食を一緒に食べていた時、

未代奈は突然、奇妙な声をあげて笑い始めたのだった。

ついにまだ見ぬプレッシャーに精神をやられてしまったかとソルティーヤくんは心配になったのだが。

 

「アッハッハッハ、白チンパンジーってそういうことかー、

 白猫とかけてたんやん、アッハッハッハ、もうそういうことならはよ言ってよー」

 

爆笑しながら未代奈はソルティーヤくんの肩をバシバシと叩いていた。

一晩寝てようやく緊張も解けたのかもしれなかったのだが、

未代奈はこの日2、3回は同じ思い出し笑いをしていたようだった。

その度に奇妙な笑い声をあげてソルティーヤくんをバシバシと叩いた。

 

(・・・気づくタイミングが遅いよ・・・まったく天然なんだから・・・)

 

そんな風に彼女を冷めた目で見つめていたソルティーヤくんであったが、

未代奈からバナナをちらつかせられると、本能には従えずに彼もキャッキャと喜びの声をあげた。

そして一人と一匹は初日なのに結構な量を食べてしまったのでさっそく食料が尽きてしまったのだった。

 

 

・・・

 

 

「おはようございます」と元気良く挨拶をした未代奈を見て、

老人は眠たげな目を一瞬向けて、またすぐに読書に戻った。

しばらくの間、誰も何も喋らないために沈黙が場を支配した。

 

「あっ、私、お手伝いします」

 

そう言って未代奈は気まずい沈黙を打ち破り、

ここでホームステイさせてもらっているお礼にと、

この喫茶店のお手伝いを始めることにした。

あたりを見回してみてからすぐに古びた電飾看板を見つけた。

そこには随分と古いデザインで「喫茶 Tender days」とお店の名前が書かれていた。

 

とりあえずその看板をお店の外に出してみたのだが、

よく見ると看板の背面のプラスティックが豪快に割れていて中身の照明が丸見えだったのに気づいた。

見たところ正面はかろうじて無傷だったが、至るところに随分と誇りと汚れが溜まっていたので、

未代奈はお店の裏から濡れ雑巾を持ってきてその看板を丁寧に拭いた。

 

看板はとりあえず古いなりにピカピカになった。

だが、試しにコンセントをつないでスイッチを入れてみると、

中の照明が半分切れているのか、お店の名前は「喫茶 Ten」までしか光らない。

これではかろうじて何のお店かわかる程度にしか役立たない事に気付いた未代奈は、

後でショッピングセンターへ照明を買いに行って交換しようと思ってメモを取った。

 

だが、すぐに未代奈のメモは書き留めた事でいっぱいになってしまった。

このお店には必要な物があまりにも多すぎて、メモ用紙一枚では到底足りなかったのだ。

ソファーにはところどころ穴が空いていたし、テーブルには様々な謎の落書きがされてあった。

椅子が壊れていて釘が飛び出しているところもあったりするし、

エアコンも埃が溜まっていて常に送風しか吹かせてくれなかった。

何よりもコーヒーメーカーを見てから昨夜飲んだホットコーヒーを思い出し、

未代奈はあの時大人の味だと感じた自分を何よりも後悔した。

 

とりあえず、ひと通り店内の掃除を済ませた未代奈だったが、

営業時間になっても誰も店内に入ってくる様子がなかった。

老人は相変わらずカウンターに座ってヘミングウェイを読み続けているのだが、

誰もお客さんが入ってこないこの状況を憂う事もなく、

店内は老人がページをめくる音とジョーン・バエズの音楽しか聴こえてこない。

未代奈がお店のドアを開けて外へ出てみると、

店の前には想像以上にたくさんの人々が行き交っているのが目に入った。

それもそのはずで「Tender days」の立地はこの街の中心地であり、

ここより良い場所なんてこの街にはないはずだったのだ。

未代奈は少しでも集客を図ろうと思ってお店のドアを開けっ放しにしておいた。

だが、それでも誰一人このお店に入ろうと思う者はいないようだった。

 

テーブルを拭いたりしながら来客を待っていた未代奈だったが、

いつの間にかお昼の時間をすぎていたようでお腹が「ぐぅ」となってしまった。

一応メニューを見る限りは軽食も提供しているはずの「Tender days」だったが、

それを目当てに入店してくるお客さんがいる事もなかった。

老人はどういうわけか空腹も感じないようでただ黙々と読書を続けていた。

どうやったらそこまで集中力が続くのだろうかと未代奈は疑問に思ったが、

そんなどこか視点のずれた疑問もかき消されるくらいお腹がすいてきた。

退屈すぎて時間が一向に流れず、仕事もなく何も起こらないこの現状。

そして無限リピートされる「ドナ・ドナ」は監獄よりもキツいと気づいた未代奈は、

思い切って「私、買い物に行ってきてもいいですか?」と老人に尋ねた。

 

老人は未代奈の方を向いて不思議そうに顔を見つめながら、

やがて立ち上がってレジからお金を持ってきた。

未代奈がメモを見せながらこのお店に必要な物を説明すると、

老人は納得したのか、さらに店の奥の金庫からもっと多くの現金を持ってきた。

この経営でどうやってこんなに貯蓄があるのか不思議でならなかったが、

未代奈はとりあえず自分の仕事を見つける事ができたと思い、

ソルティーヤくんを連れて買い物に行く事に決めたのだった。

 

 

・・・

 

 

「暮らすって物入りね」

 

ショッピングセンターで買い物をしながら未代奈はそのセリフを何度もつぶやいた。

そして、言うたびにニヤニヤして一人で嬉しそうに微笑んでいた。

 

そして未代奈はメモ用紙を見ながら必要な物を買い込んだ。

新しい掃除用具から椅子の修理をする工具までひと通り揃えると、

次は欲望のままに食料の選別に取り掛かった。

 

鮭、いわし、餃子、ステーキ、味噌ラーメン、レンコンチップス、

手羽先、苺大福、明太子パン、カツオのたたき、紅茶のティーパック、

100%果汁ジュース、チョコレート、ミートソース、パスタ、バナナ、

卵、フレンチトースト、コーヒーゼリー、うどん、味噌カツ、お寿司・・・。

 

「ほんと、暮らすって物入りね」

 

食料を選んではショッピングカートに入れながら彼女はまたそのセリフを口にした。

これは大変だという表情を浮かべていた事にソルティーヤくんは呆れた様子だった。

 

「ミヨナの家のエンゲル計数の問題だと思うけど・・・」

 

どうやらこの世界にまだ自分の食べた事のない美味しい物があると思うと、

彼女は鳥肌が立つという性格をしているようだった。

彼女の生命力の強さはこの強靭な胃袋が説明してくれている気もする。

 

胃袋が強いというのは生命力がある人の絶対条件である。

いや、生命力が強いからこそ胃袋が強いのかもしれない。

鶏が先か卵が先かの議論は置いておいて、

とにかくよく食べるという事は人間としての欲望が強い事を証明している。

 

それは食欲だけにとどまらない。

一つの欲が強いというのは、同時に他の欲も強いという事に繋がる。

もちろん、興味のない対象に欲望は向かないのであるが、

もし何か食の他に興味を抱く物があるとするならば、

未代奈のような人間はステーキに飛びつくようにしてその物事に飛びつくだろう。

そして牛肉も豚肉も鶏肉も魚肉も欲しがるようにして、

彼女は興味を抱いた物事をどんどんと欲すると思われる。

 

彼女はとても欲張りであった。

おそらく全人口の注目を集めたいほどに承認欲も高かっただろうし、

しかし、そのためにひたむきに努力を続ける純粋さもあった。

欲張りなのは決して人間にとって悪い要素ではない。

むしろ欲がなければ人生を謳歌する事は出来ないだろう。

彼女は自分の人生をめいいっぱいまで謳歌するためにエネルギーが必要だった。

だからこそ、こうしてたくさんの食料品を買い込む必要があったのだ。

少食の人間は、省エネである事は現代的ではあるのだが、

おそらく活動に必要とするエネルギーを本能的に欲してはいないのかもしれない。

 

 

「Tender days」に帰ってきた未代奈は少し作業をしてから早速買ってきた食料を食べた。

老人にも食べ物を買ってきたが、彼は何も必要としないようだった。

もう食べたのか尋ねても、よくわからない反応を返すだけで、

あとはひたすら本と向き合って黙って座っているのであった。

 

「何も食べないで大丈夫なんやろか?

 それとも私が勝手に色々買ってきたから怒っとるんかな?」

 

そう言いながら未代奈はステーキをナイフとフォークで切って食べていた。

口に入れたあと、彼女は人生で最も幸福な瞬間を味わっていた。

どうやったらあれほどまで幸せな表情ができるのだろうか?

周りにいる人から見ても眼福だと思われるような笑みを、

どうして食べ物を口にするだけで簡単に手にいれる事ができるのだろう?

そういう意味では彼女は自分が幸福になる事で他人をも幸福にする事が出来ている。

なんとも羨ましい体質である事はまちがいなかった。

 

「別に怒ってるようには僕には見えなかったけどな。

 ほら、仙人は霞を食べて生きてるって言うよね?

 きっとあの老人はそういう達観した感じなんじゃないかな」

 

「やでなんか、あんなに悟りきった表情をしていらっしゃるのかな~?」

 

時々、会話のあいまに未代奈は「ん~!」という声を出した。

食べ物が美味しくてたまらない時に出す声らしい。

目が細くなって満面の笑みを浮かべている。

 

「悟りきったというか、諦めの境地というかね。

 まあきっと僕らにはわからない感覚で生きてるんだと思うよ。

 過去に何か辛い事でもあったのかもしれないし、

 もしかしたら普通の人にはわからない悲しみを見たのかもしれないね。

 人間長く生きてればそういう風になっちゃうのかもしれないけど、

 でも僕はミヨナにはあんな風になってほしくないな。

 もっといつまでもピュアなままで人生を真っ向から謳歌して欲しいと思うよ。

 そのほうがきっと楽しいし、人生を充実して過ごせるはずだから」

 

ソルティーヤくんは未代奈からもらったバナナを頬張りながらそう言った。

いつの間にか未代奈はステーキを食べ終わってラーメンをすすっていた。

 

「なんか最近つけ麺に興味が出てきとってさ~、

 この辺りにどっか美味しいお店とかないんかな~?」

 

未代奈はそういうとズルズルと音を立てた。

先ほどのソルティーヤくんの話を全く聞いていなかったようだ。

 

「ありゃりゃ、余計な話だったみたいだね・・・」

 

未代奈がまたズルズルと音を立てた時、

続いてカランカランという音が鳴った。

この音はどうやら表から聞こえてきたようで、

おそらくこれは喫茶店のドアに付いているベルの音だった。

 

「あっ、お客さん!」

 

ソルティーヤくんがそう言うと、未代奈は右手で口元を隠したまま急いで椅子から立ち上がった。

別に老人がカウンターに座っているはずなので彼女が必ず出る必要はなかったが、

彼女なりにこのお店に来てからの初めてのお客さんをもてなしたかったのだろう。

未代奈は「はいへん!(大変)」と言ってラーメンを咀嚼しながら急いで階段を駆け降りていった。

ソルティーヤくんもバナナを口に突っ込んで咀嚼しながら後を追いかけた。

 

「いはっはいまへ~!」

 

右手で口を押さえながら未代奈は入ってきたお客さんにお辞儀をした。

老人は入ってきたお客さんに愛想を振りまくこともなく読書を続けていた。

その様子を見てこれは流行るはずもないお店だと未代奈は思った。

 

「やあ、どうも。

 君が森 未代奈ちゃんでいいのかな?」

 

「名前・・・どうして?」

 

「さて、どうしてでしょう?」

 

 

 

・・・

 

「あれ、このお店ラーメン屋じゃないのか?

 味噌ラーメン食べたくて入ってきたんだけどなー」

 

入ってきた男は勝手にテーブル席に座るとメニューを見てそう言った。

トレイにお冷やを乗せて運んできた未代奈はそれが彼の皮肉だとすぐにわかった。

 

「ところで、このお店の看板メニューは?」

 

男はメニューを見るのをやめてそう言った。

未代奈は彼のいきなり図々しい態度が鼻についたが、

相手はお客さんなのでここはぐっと堪えることにした。

 

「・・・えっと、ブレンドコーヒーとチョコレートケーキですけど」

 

「・・・ふーん、じゃあそれちょうだい」

 

男は未代奈の目を見ることもなくそう言った。

とりあえず、未代奈はおしぼりとお冷やをテーブルに置いて奥へと引っ込んだ。

 

「なんかすっごいやな感じ」

 

コーヒーを沸かしながらチョコレートケーキを切っていた未代奈に向かってソルティーヤくんはそう言った。

眉間にしわを寄せて傍で騒いでいるそんな彼には一向に構わずに、未代奈はただ黙々と手を動かし続けた。

 

「ソルティーヤくん、笑顔がなくなっとるよ。

 あれがお客さん、接客業やし、時には我慢することも必要やから」

 

未代奈は小声でそんな風に言ってトレイにケーキとコーヒーを乗せた。

これも一つの修行だと自分に言い聞かせるようにして。

 

「大変お待たせしました。

 チョコレートケーキとブレンドコーヒーになります。

 お砂糖とミルクはあちらにありますので」

 

初めてにしては噛まずにきちんと言えたことに未代奈は満足感を覚えた。

嫌な感じのするお客さんではあったが、サービス業としてお客さんを喜ばせなければいけないし、

それにどうして彼が自分の名前を知っていたのか、その理由も聞き出さなければならない。

この街にはまだ誰一人彼女のことを知っている人はいないはずだったからだ。

 

「・・・今時こんなチョコレートケーキとブレンドコーヒーなんてね」

 

男はそう言いながらフォークを使ってケーキを口に運んだ。

 

「どういう意味ですか?」

 

「『チョコをちょこっと』はやめたほうがいいと思うよ」

 

男はお店の壁に貼られていた紙を指で示しながらそう言った。

それは先ほど買ってきたペンと紙で未代奈が即席で作った張り紙だった。

お店の看板メニューを目立たせるために不恰好ながら手作りで作ったものだった。

そしてそのキャッチコピーは未代奈自身が考えたものだったのである。

 

「もったいないよね、こんなお店が街の中心地にあるなんてさ。

 近頃は流行りのおしゃれなカフェやらがたくさんあるっていうのに。

 このお店は実にハードボイルドだよ、あのヘミングウェイがその象徴さ。

 こんな無骨なお店が受け入れられたのは遠い過去の話だよ。

 こんな味と少ないヴァリエーションだけでやっていくなんてどうかしてるさ。

 客のニーズを無視してると言っても言い過ぎではないと思うがね」

 

未代奈はそれを聴きながら老人のほうを見つめた。

カウンターに座っているその背中は寂しいものに見えた気がしたが、

何を言われても言い返すような素振りはまるで見せなかった。

 

「まあいいや、それで?

 君はここへ何をしに来たの?」

 

素性の知らない人からいきなり問いかけられた質問に未代奈が答えかねていると、

男はその様子を見てから笑いだして話を続けた。

 

「ははっ、留学だよ。

 君は何しにここに留学して来たのって聞いてるの」

 

「じゃあもしかして、あなたも?」

 

そういえば未代奈は学校の先生が言っていた話を思い出した。

この児玉坂の街へ留学に行くのは自分を含めて二人だということを。

そして、先生の話によれば、この二人組は留学期間中に互いに監視しあう役目も負っていた。

知り合いのいない街で勝手なことをしないように、

きちんと留学の目的を果たすために努力を続けているかどうか、

親や教師の目が届かないところで非行に走ることはないか、

定期的に監視しあって報告する義務を負っているのだった。

 

「どうも初めまして。

 僕の名前は成瀬 源太郎。

 源太郎はもちろん、あの児玉源太郎からとった名前さ。

 うちのおじいちゃんが歴史好きでね。

 なんて言っても、今時の若い子は誰も知らないよね。

 まあ、同じ東洋人同士だし仲良くしようじゃないか」

 

源太郎はそう言うとチョコレートケーキを全部平らげた。

コーヒーをすすりながらまだ話し足りない様子だった。

 

「僕はね、論文を書こうと思っているんだ。

 この街で見たこと、聞いたこと、感じたことをまとめたいと思ってる。

 ここでしかわからないこともあるだろうからね。

 僕らの故郷では絶対にできない体験をして、

 それをベースに僕が考えることを学校に戻って発表する。

 僕はとにかくそういう目的を持ってここへ来たんだ」

 

彼が話をしながらコーヒーをすっかり飲み干した時、

お店のBGMはいつの間にかジョーン・バエズの歌う「I shall be released」になっていた。

 

「まあとにかくそういうことさ。

 それで、君はどうしてここに留学してきたの?

 君はいったい何がしたいの・・・何ができるの?

 まさか、留学すれば人生が薔薇色に変わるなんて、

 そんな淡い期待を抱いて現実から逃げてきたんじゃないだろうね?」

 

そんな言葉を矢継ぎ早に言われた未代奈は黙っていた。

そして「・・・コーヒーのお代わりはいかがですか?」と義務的な調子で源太郎に返事を返した。

 

「いや、もういいよ。

 それにしてもね、森ちゃん、僕は知ってるんだよ。

 君がここへ来るまでに箒で空を飛んできたってことをね・・・。

 頼むよ、お願いだからそういうのはよしてくれないか?

 もし君がそんなことを続けるのなら、僕はそれを学校に報告しなければならない義務がある。

 だけどね、僕だってそんなにひどいことはしたくないんだ。

 けれど見過ごすわけにはいかないんだよ、そんなことをすれば僕は共犯になる」

 

そこまで言うと源太郎は椅子から立ち上がってお金をテーブルに置いた。

 

「監視なんて先生達の決めたルールだよ。

 そんなことに大事な留学の時間を費やすわけにはいかないだろ?

 だからね、僕は今回は目をつぶっておいてあげるけど、

 もうこんなことは二度としちゃいけないよ。

 それだけわかってくれたらいいんだよ」

 

それだけ言うと源太郎はドアに向かって歩いて行った。

店を出て行く前に振り返って言い忘れたことがあったらしい。

 

「そうそう、もし住む場所がなくなったら僕のところに来たらいいよ。

 あと、やっぱりそのキャッチコピーはやめたほうがいいね、それじゃ!」

 

またドアベルの音が店内に響いた。

源太郎がドアを開けてお店を出て行ったからだった。

出て行く時には「チョコをちょこっと~♫」と自作のメロディーを口ずさんでいた。 

 

「・・・ミヨナ、大丈夫?」

 

トレイに食器を片付けている未代奈にソルティーヤくんは気遣うように声をかけたが、

未代奈は何も答えずに黙ったまま食器を片付けて店の奥へ戻っていった。 

 

 

・・・

 

 

「やなやつ!やなやつ!やなやつ!」

 

未代奈は食器を洗い場に置くと、

言葉を発しながらまたお店のほうへと戻って来た。

そして、壁に貼ってあった自作の張り紙を片手で思いっきり剥がすと、

またお店の奥へと入っていき、それを手で丸めてゴミ箱へ放り込んだ。

 

ムシャクシャが収まらないのか、

未代奈はそのまま冷蔵庫を開けて冷えたお茶を取り出し、

容器に入れたままで直接口をつけて飲んだ。

 

「チョコをちょこっとはやめたほうがいいぜ・・・」

 

お茶を持ったまま源太郎の口調を真似したあと、お茶をまた冷蔵庫へしまった。

冷蔵庫を閉める時、怒りを込めて思いっきり叩き閉めた。

 

「何よ!」

 

怒りを露わにしている未代奈の姿を見て、

なんとか宥めるための言葉を探していたソルティーヤくんは、

何やら決意を固めた様子でスタスタと未代奈の前に歩いていき、

その右手を未代奈の膝の上に置いて前傾姿勢をとった。

これは猿界で最も人間ウケが良いと聞いている、

彼流の渾身の一発ギャグを披露したつもりだったのだ。

 

「・・・どうしたのソルティーヤくん?  

 何を反省しとるん?」

 

反省ポーズの面白さは残念ながら未代奈には伝わらなかったようだが、

プライドを捨てた一発ギャグは幾分気まずい空気を変えることができたかと思った。

 

「ゴリラはそんな反省ポーズせんやろ?」

 

「そっちかい!」

 

ソルティーヤくんは鋭いツッコミを未代奈の肩に叩き込んだ。

猿界でもここまでの芸当ができるのは彼ぐらいのものだった。

 

「あのね、僕はチンパンジーだから!

 もういいよ、それより元気を出しなよ。

 あんないけ好かないやつの言うことなんか気にしないでさ。

 イライラしたり怒ったって仕方ないじゃないか。

 もっと人生楽しく生きて行くほうがいいと思うよ」

 

「えっ、私は全然怒っとらんよ?

 誰がそんなこと言っとったん?」

 

未代奈がケロっとした様子を見せると、

慰めようとしたソルティーヤくんのほうが哀れになってきた。

 

「だって、さっきあんなにやなやつって・・・」

 

「ああ、あれは私の好きな映画のセリフやお。

 やであんな風にいっぺん言ってみたかったんよね」

 

それを聞いたソルティーヤくんは落ち込んでしまい、

一匹で壁に向かって反省のポーズをとってしまった。

なんだよなんだよ、心配して損したじゃねーか。

 

「えーっ、だってソルティーヤくん知っとるやんか、

 私がそんなイライラしたり怒ったりせんって。

 それにあんな風にしか言えん人って、

 きっと弱い人間やからあんな風になっとるんやと思う。

 逆になんかかわいそうやなって思うくらいやし」

 

ソルティーヤくんは壁に手をついたまま後ろを振り返った。

そこにはいつも通りキラキラした笑顔で微笑んでいる未代奈がいた。

そうだ、これは僕の考えすぎだったのだろう。

僕の未代奈はこんなことでへこたれるような女の子ではなかった。

一人でたくましく生きて行くって留学を決めたんだもの。

未代奈はとても温厚で優しくて可愛らしい女の子だった。

 

ソルティーヤくんが壁に手をついたままにっこり微笑むと、

猿特有の歯ぐきがむき出し笑いになった。

これは猿の宿命とでも言うべきことであり、

笑うときはどうしても歯ぐきがむき出しになってしまうのだ。

だが、未代奈は昔からこの笑顔が好きだった。

いつも僕の顔を見てはバカにして笑ってくれた。

案の定、今回も僕の顔を見て笑ってくれたのだ。

これで良かったのかもしれない。

 

「あっ、お昼ご飯食べるのすっかり忘れとった~。

 しゃべっとる場合じゃなかった~」

 

未代奈はそう言うと嬉しそうに二階へ戻っていった。

ソルティーヤくんも微笑みながら未代奈の後をついていった。

 

「あーーっ!!」

 

二階に辿り着くと突然、未代奈が大声で叫んだ。

ソルティーヤくんは何事かと未代奈のそばに駆け寄った。

 

「・・・ラーメン・・・なんでのびてんの・・・」

 

そこには先ほど食べかけだった味噌ラーメンが置いてあった。

誰も触れていないのだからそこにあるのは当然だったのだが。

 

「・・・どうして、こんなに冷めて・・・」

 

未代奈はラーメンの器を両手で抱えながら怒りに震えていた。

 

「・・・こんなんじゃ仕事頑張った意味ないじゃん!・・・」

 

ついに未代奈はポロポロと大粒の涙を流して号泣し始めた。

先ほどあんなに温厚だった未代奈はもうどこかへ行ってしまった。

 

「・・・同じ留学生だからって食事の時間邪魔していいわけじゃないんだよ・・・!」

 

怒りの矛先が源太郎に向き始めたので、ソルティーヤくんはもう呆れてしまった。

やはりまだ16歳の女の子なのだ、一人で生きていくには辛いこともたくさんある。

 

ソルティーヤくんは、その場に座って泣き崩れた未代奈の肩を抱いて、

その長い両手で彼女の頭を優しく撫でてやった。

今はまだ弱くても構わない、強くなるのはこれからだと心の中でつぶやきながら。

 

 

・・・

 

 

こんな風にして森 未代奈は児玉坂の街へやってきた。

既に多くの住人達が住んでいたこの街へ後からやってくるのは、

そのコミュニティーに加わる苦労も味わうことになった。

 

まだこの街に来たばかりの頃は転校生として高校に通いながら、

空き時間は「Tender days」のお手伝いをするという生活を繰り返していた。

だが、源太郎に言われた言葉がずっと頭に残っていた未代奈は、

自分がこの留学で一体何がしたいのか、何をするべきかを真剣に考え続けた。

その結果、自分は学校よりもあの喫茶店で働いているほうが楽しいことにやがて気がついた。

 

幸いなことに、店長はずっとヘミングウェイを読み続けているだけで、

全く喫茶店経営に関心がなく、未代奈が新しいメニューを追加しても、

新しいテーブルや椅子を追加しても無粋な表情のままで何も文句を言うことはなかった。

初めのうちは「店長やっぱり怒っとるんやろうか~?」とソルティーヤくんに尋ねていた彼女も、

そうして内装を変更したりメニューを増やしている経営努力が実を結び始めると、

日が経つ毎にやってくるお客さんも少しずつ増えていった。

そして、以前に比べて確実にお店の売り上げが改善されていることがわかると、

未代奈はもうあまり店長の顔色を伺うこともなくなっていった。

 

全く気を使わなくなったわけではなかった。

未代奈はとても優しくて真面目な女の子だったので、

他人様のお店を使わせてもらっているという事実を決して忘れたことはなかった。

 

ただ未代奈本人としては、すでに店長との信頼関係が築けたと思っていたのだった。

全く感情をあらわにすることがない店長だったが、

未代奈はやがて少しずつ彼が読む本のタイトルが予想できるようになっていった。

先日は「武器よさらば」だったが、今日はきっと「誰がために鐘はなる」だと予想すると、

少しずつその正解確率が高まっていくのがわかったのだ。

時々、未代奈が気を使ってコーヒーを淹れてあげるのだが、

初めのうちはそのコーヒーに全く手をつけることはなかった。

だが、好みに合うように工夫を重ねていった結果、

やがて店長は未代奈の淹れるコーヒーは全て飲み干すようになっていった。

まるでペットを飼っているような表現で申し訳ない気もするのだが、

未代奈はいつの間にかあの店長を「かわいい」と思うようになっていったし、

無愛想なのは変わらないにしても、未代奈が不在の時には、

未代奈が考えたメニューであっても、きちんとお客さんに出すくらいのことはやってくれるようになった。

声をかけても返事はないが、そういう信頼関係は徐々に築けてきていたのだ。

 

 

もちろん、突然彼女がこの店にやってきたことをよく思わない人々もいた。

 

特にこの街に昔から住んでいる人たちにとっては、

どういうわけであの幽霊喫茶店にあんな若い子が住み着くようになったのか、

その理由が定かではないことも不安を掻き立てられる要素の一つだった。

あの子はあの老人をたぶらかしてお店を乗っ取ったのだとか、

いや、あの老人の愛人に収まって地位を得たのだとか、

はたまた彼女が夜な夜な箒で空を飛んでいるのを見た、

あれはきっと魔女に違いない、老人は生き血を吸われたのだとか、

好き勝手な噂が立って街中に広まっていったりもした。

 

さらにこの喫茶店のお客さんが増えることで、

近隣で経営しているレストランやカフェが非難の声をあげた。

街の中心地に建っているこのお店がこれほど流行り始めると、

今まで来てくれたお客さんを盗られたと考える人達もいたのだ。

もちろん、それはある程度は事実であったし、

それが経済という奪い合いの論理の残酷な真実なのであるが、

真面目でクリーンな経営努力をしていた未代奈が非難される必要はないはずだった。

 

それでも、街の中心地という土地を占めていたこともあり、

他のお店も嫉妬の権利を駆使して色々とこのお店の悪い噂を流すようになった。

裏では人身売買をしているらしいとか、銃を持った危ない奴らがたむろしているとか、

もともとは幽霊屋敷みたいな喫茶店だったのだからゾンビが出るとか、

そういう根も葉もない噂を流しては未代奈は風評被害に苦しめられていた。

 

未代奈は周囲から言われることを初めの頃は気にしていた。

だが、それらが不健全で悪意のある類の非難だということがわかると、

もうそれを気にすることはなくなった。

逆に、それからは彼女の負けず嫌いな性格が発揮されることとなり、

そんな噂があるならそんな風に見せてやればいいと、

自分を攻撃してくる相手に対しては全面戦争の構えも辞さなくなった。

店内にはわざわざ制服を着せた女性のマネキンをディスプレイに飾ってみたり、

ハロウィンには自らがゾンビメイクに扮して人々を怖がらせたりした。

そんな試みが逆に巷の話題を呼び、来店客はさらに増加していった。

 

 

そんな風にして、未代奈はこの喫茶店の経営を軌道にのせていった。

右も左もわからない状態からやってきた彼女には、

もう全力でやれることをやっていくしかないと思っていたのだ。

だから彼女はがむしゃらになって努力を続けていったし、

それが一つ一つ苦しみながらも努力が実っていく結果となったのだった。

 

彼女の幸運は、運良くいきなりこの中心部の立地の喫茶店に住みつけたことだし、

彼女の不運もまた、いきなりこの中心部の立地の喫茶店に住み着くことになってしまったことだったろう。

 

これはおそらくなかなか他人に理解してもらえる境遇ではないかもしれない。

悩みの種類としては極めて特殊で、第三者の共感を得難いものだったことだろう。

なぜなら、他の立地に恵まれない店舗からは嫉妬の対象となってしまうし、

また同時に、良い立地だから良い成績を残して当然だというプレッシャーにさいなまれる。

良い成績を残しても本人の努力よりは「立地が良いからだ」という風に批評されることもあった。

誰が悪いわけでもないのだが、彼女の運命によってそういう道を歩まさせられることになっていたのだろう。

そういった特殊な境遇が彼女を幾分孤独にさせたのかもしれなかったし、

たくましく打たれ強く成長させたと言えるのかもしれない。

 

 

こうしてお店は繁盛していったのだが、

そんなある日、店長を訪ねてやってきた来客があった。

どうやら側で見ている限り店長の旧友のようだったが、

店長が何か会話しているという様子はやはり見られなかった。

彼は久しぶりにやってきた旧友にも興味を示すことはなく、

またいつも通り読書に戻ってしまったのであり、

そんなことから未代奈が代わりに話し相手を務めることになったのであった。

 

店長の旧友は未代奈の手によってすっかり変わってしまったお店を見て、

少し悲しそうに、だが力強い声で店名を変えることを薦めた。

ここはすでに店長が作った「Tender days」ではない、

そしてそれは悪いことでは決してなく、君がもっと良いお店に変えてくれたのだと。

だから、いつまでも昔を偲んで古い名前を守っていても仕方ない。

新しい名前のお店の方がこの児玉坂の街も活気づくことだろうと彼はいった。

 

その出来事があってから、未代奈は店名を変えることを検討し始めた。

今の内装やメニューは随分と彼女の色が出ていることもあり、

女性向けのお店へと様変わりしてしまっていた。

このお店の名前が「喫茶 Tender days」なのも確かに奇妙だった。

 

そうして未代奈は店長の横に座っていくつも候補の名前を考えては読み上げた。

あくまでも他人様のお店を借りているのだという意識を忘れてはいなかったのだ。

そこで蝶のデザインを元にした「バレッタ」という店名を告げた時、

いつもそっけなかった店長がついに未代奈をチラ見したのだった。

こうしてお店の名前は「カフェ・バレッタ」へと生まれ変わることとなった。

 

 

・・・

 

 

 

「バレッタ」という名前になってからというもの、

その親しみやすい名前の効果はみるみるうちに現れた。

今まで足を運んでくれなかった若い女の子達やOLさんまで、

新しい女性客層の取り込みに成功したのであった。

 

店内に流れているBGMはと言えば、

これは実は「バレッタ」になる随分前からすでに変更されていたが、

未代奈は好んで児玉坂46の曲を流すようになっていた。

これは店内の雰囲気に曲調が相応しかったこともあるし、

比較的若い男女が好むアイドルグループの曲だったので、

お店の雰囲気を変えるにはうってつけのアイデアだったのだ。

そうして未代奈は「大人への地下道」であったり、

「ブルジョアガール」を流したりしてみた。

 

そんな中で彼女のお気に入りとなったのは、

「別れ際、もっとも隙になる」だった。

この曲はピアノから始まる前奏もなにやら情熱的で好ましく、

何よりもMVの中に登場するカレーとアジフライが美味しそうだったのだ。

早速、未代奈は美味しそうと思ったカレーとアジフライをバレッタのメニューに加えた。

 

ところで、未代奈はバレッタのメニューをどんどんと増やしていったのだが、

そのやり方は主に二つの方法があった。

 

一つは映画やMV、日常生活などからヒントを得て自分が食べたいものを探すこと。

これは未代奈にとっては無意識的に、かつ本能的にメニューを探す方法だった。

彼女はどんなドラマや映画やアニメを見たとしても、必ずそこに登場する食べ物に注目していた。

人は興味の対象に自然と目がいくようにできており、彼女がこれほど食に着目しているのは、

彼女にとって「食」というものが人生にとっていかに重要かを暗に示していたと言える。

香りもなにも伝わってこない食事を見て、あれが美味しそうだ、食べたいとなるのは、

食に興味がない人にとっては簡単に見過ごしてしまう場面なのだが、

彼女は何よりもそこに着目するし、登場する食べ物は必ず覚えていたのだ。

 

そして何より、彼女は食べ物に関する固有名詞のレパートリーが多かった。

北極圏に住むエスキモーは「雪」をあらわす52の名前を持っていたという。

それが彼らの生活にとってとても重要な事だからだ。

そして、砂漠に暮らす民族には「砂」をあらわす表現が50を超えるという話もあるという。

そんな風にして人は関心を持つ対象には多くの言葉を使って細かく表現する傾向があるらしい。

 

バレッタに住む未代奈にとっては「食」をあらわすには固有名詞を並べずにいられない。

「おいしい物」程度の抽象度では満足できるはずもなく、具体性を帯びる言葉を探す。

白玉団子、アサイー、白身魚、チーズフォンデュ、焼きそばパン、サツマイモ、

トマト、チョコバナナクレープ、長崎チャンポン、ベーコンエッグ、フルーツポンチ・・・。

 

こうして彼女は自分の興味を掘り下げていくうちに、

どんどんと新しいメニューを追加していく事が出来た。

自分発信のメニューをお客さんに喜んでもらえるかどうか、

反応を見るのがとても楽しみだったのだ。

 

もう一つの方法は、お客さんのニーズを探る事だった。

彼女はとても天然な一面も持っているのだが、

実はおそらくかなり計算を積み上げているところもあると思われる

それは性格が悪いという意味で言っているのではなく、

お客さんがどんな事をすれば喜ぶのかをよく見ているという意味である。

 

その証拠に、彼女は一度お客さんに喜んでもらった事は忘れない。

それが確実にお客さんに喜んでもらえたという結果をしっかりと覚えておき、

そのサービスなり料理をまた同じように繰り返し提供することに努めていった。

また、周囲からは魔女やら愛人やら悪い噂を立てられて幾分ミステリアスに仕立てられているが、

彼女自身、意外なほどに常識人な一面も持ち、他人に対する礼儀を忘れることもないし、

言葉遣いも丁寧でなのでどうしても自分では気づけない天然な行動を除けば、

実際に彼女を知っている周囲の人々から邪険にされることもなかった。

 

ただし彼女のユニークなところ、孤高に感じさせるところは、

誰かが既にやっている方法を真似する事はあまり好まなかったことだ。

その行為はプライドが許さないのか、基本的には常に自分発信型であった。

これはやがてバレッタの向かいに出来るお店「パティスリー・ズキュンヌ」との決定的な大きな違いだった。

 

「ズキュンヌ」の店長である春元真冬は未代奈とは対照的に、

誰かがやっている事を積極的に流行りだと思って取り込んでいった。

真冬は完全に他者のニーズを拾うところから物事を始めるタイプで、

流行りとして取り込んだこともやがて自分流に消化して武器に変えてしまう。

 

未代奈はおそらくそういったことをするタイプではなかった。

自分は自分が思いつくものの感性の中から武器を選び出し、

もっとも効果が高いと思った武器を繰り返し使うタイプだった。

 

ビジネス論的に言えば、未代奈は誰も想像しなかったすごいものを生み出す可能性が高いが、

あまりにも独創性が強すぎれば大きく的を外れる結果を生むこともある。

真冬は確実に成果をあげることができる方法ではあるが、

独創性のある物を生み出す可能性は未代奈に比べて低くなってしまう。

 

だが、タイプは異なれど、未代奈は真冬のことをきちんと尊敬していた。

自分にはできないことをやってのけるバイタリティーを持っている人であり、

また未代奈と同じように誰の悪口も言わずに黙々と経営努力を続けているからであった。

ある日、未代奈が新しく出来たズキュンヌを偵察するためにゾンビメイクをして出掛けた。

その姿を見て真冬は驚いていたが、ライバル店のスタッフの訪問にも怒らずに応じてくれた。

そのフェアーな姿勢は、タイプの異なるライバル店であっても、尊敬心を抱かせるのに十分だった。

 

 

とにかく、そんな風にして切磋琢磨しながら、

未代奈はカフェ・バレッタを児玉坂一の有名店へと変えてしまったのだった。

 

 

・・・

 

 

「ねえ聞いた、超ウケる話なんだけどさ・・・」

 

「ウソー、それマジで言ってんのー、そいつやばいよねー」

 

学校終わりの夕方頃になるとバレッタは女子高生に占領される。

もちろん、ランチタイムはOLさんに占領されるのだから、

時間帯によって客層が変わってくるというのが正しい表現かもしれない。

 

「それでさ、あいつなんて言ったと思う? 

 ってか、舜奈さっきからあたしの話聴いてなくないー?」

 

「・・・えー、ちゃんと聴いてるってばー」

 

舜奈はストローの袋を細かくちぎりながらそう答えた。

白くて細長い袋は細かくされすぎてもう20個くらいに分裂していた。

 

「つーかマジ舜奈さいきんちょっとおかしくない?

 なんか授業中もうちらのことシカトするしさー」

 

「そうそう、もしかしてこないだ私服をバカにしたのまだ怒ってんの?

 もう伊勢丹の紙袋みたいな服とか言わないから許してよねー」

 

舜奈が退屈そうにしているのも気にならないように、

他の二人の女子はケラケラと楽しそうに話を続けていた。

 

「・・・なんかさー、このままでいいのかなーって」

 

舜奈はテーブルの上に顎を乗せるようにして伏せっていた。

もやもやする気持ちが心の中にあるのだけれど、

それがどうしても掴めなくてもどかしい。

 

「あんたさぁ、何そんな暗いこと言ってんの?

 進路のことなんかまだ考えなくてもいいって」

 

「いや、そーいうんじゃなくてさ・・・」

 

「あーもう、今日の舜奈マジだるいしー。

 いつもはあんなにノリいいじゃん、どしたの?」

 

テーブルに肘をつきながら二人は舜奈の方を見つめた。

そんなに改めて注目されても話し辛かったのに。

 

「なんかさー、つまんないんだよね。

 舜このまんまでいいのかなーって、このまま、ただの女子高生でいいのかなって」

 

「あんたさあ、何言ってんの?

 それだったら児玉坂46のオーディションでも応募すればよかったじゃん。

 ちょうどこのあいだ2期生募集とかやってたのに」

 

「えーっ、だって考えてる間にタイミング逃しちゃったんだもん。

 まあもう過ぎたことは考えても仕方ないじゃんか。

 そういうんじゃなくてさ、なんか普通にバイトとかしてみたいんだよね」

 

舜奈はテーブルから姿勢を起こして二人にそう切り出した。

二人はお互いに顔を見合わせてケラケラと笑い始めた。

 

「ちょっと、何ー?

 何がそんなにおかしいのー?」

 

「だって舜奈がバイトって、何、お水とか?

 あっはは、舜奈だったら絶対いけるって、だって声すっごいハスキーだし、

 見た目もすでに22歳くらいの貫禄あるから!」

 

二人が笑いながらそう言ったのは、舜奈の学校でのあだ名が「年齢詐称の女」だったからだ。

まだ高校生でありながら、三藤舜奈は大人っぽい顔つきをしていることもあり、

年齢を偽っているのではないかという冗談がクラスでも鉄板のネタとなっていた。

 

「そんなの無理にきまってんじゃんかー。

 面接の時に絶対に身分証とか確認されるって。

 あと別にお水やりたいとかひとっことも言ってないしー!」

 

「いいじゃん、そのセクシーな唇でおっさん誘惑してさ、けっこう天職かもよ」

 

「・・・絶対テキトーだよー、他人事だと思って」

 

舜奈以外の二人はやはりケラケラと笑い続けていたが、

やがてスマホを取り出して何やらアプリを操作しながら、

二人のうちの片方が席を立ち上がった。

 

「まぁ、バイトなんかしなくていいって。

 そんな事したらうちらと遊ぶ時間なくなるじゃん。

 ほらもうそんな話しやめてさっさとカラオケいこー!」

 

もう一人の女の子も立ち上がり、二人して舜奈の制服を引っ張った。

舜奈はそんな気分ではなくて行きたくないと思っていたのだが、

こんな風にいつも誘われたら断るのも断りにくかった。

ノリが悪いと思われたら学校での人間関係にも影響が出る。

彼女のノリの良さは長所でもあり、こういう場合には短所にもなる。

 

その時、彼女たちの後ろから突然「カランカラン」というベルの音が聞こえてきた。

振り返ってみてみると、このお店のバイトの女の子が手にベルを持ってそれを振っていた。

 

「お客様、おめでとうございます」

 

「うるっさいなー、そんなの耳元で鳴らさないでくれるー!?」

 

「それは失礼しました。

 なにせこちらのお客様が本日の347番目のお客様でしたので」

 

そのバイトの女の子は舜奈を指し示しながらそう言った。

そしてまた再度カランカランとベルの音を鳴らした。

 

「つーっ!だからなんだってーの?」

 

「はい、347番目のお客様には当店よりドリンク一杯無料にさせていただいております。

 こちらのメニューの中からご注文していただけます」

 

舜奈の目の前には彼女からドリンクメニューが差し出された。

舜奈はわけがわからずに呆然とした顔でそれを見つめていた。

 

「なにそれ、うちらの分もあるの?」

 

「誠に申し訳ございません、あいにく347番目のお客様だけでございます」

 

「つーかまじテンサゲなんだけどー、別にうちらの分もくれてもいいじゃーん」

 

それはルールなのでできないという事を告げられると、

女子高生二人は急に冷めた表情になり、さっさとカラオケに行く事にしたようだった。

「それ飲んだら後から来て」と舜奈に告げて二人は会計を済ませてさっさと店を出てしまった。

 

舜奈はホッとした表情で座りこんでメニューに目を向けた。

途中で助けてくれたバイトの女の子に目を向けると、

彼女のつけている名札に森 未代奈と書かれているのが見えた。

 

「あっ、なるほどー、だから347番目なのか」

 

舜奈は未代奈の名前を知る事で謎の番号の意味がわかって合点がいった様子だった。

347は「みよな」の意味だったのだ。

 

「うん、まあそんなサービスは今適当に思いついただけですけどね」

 

「えっ、それってどういう事?」

 

「なんか、行きたくないなって顔してたから」

 

そう言ってにっこり笑うと、未代奈はおもむろに舜奈の向かいに座った。

テーブルを挟んで向き合いながら、未代奈は舜奈にドリンクをお薦めしていた。

 

「助けてくれたって事?」

 

「あっ、もちろんドリンクは一杯頼んでもいいですよ。

 言ってしまった以上、約束は守りますから」

 

未代奈はもう一度手に持っているベルをカランカランと鳴らした。

 

「これ、このお店で昔使ってた古いベルなんですけど、宝物だから捨てないで持ってたんです。

 私、大切な物はちゃんと失くさずにずっと置いておくタイプなんですよね。

 あっ、そんな事よりドリンクはどうしますか?」

 

「えーっと、じゃあこれにしよっかな」

 

舜奈はドリンクメニューの中からチャイを選択した。

未代奈はそれを聞いてメニューを持って立ち上がって店の奥へと入っていった。

頭につけている蝶の形をしたバレッタが舜奈の印象に残っていた。

 

 

・・・

 

 

未代奈はやがて注文されたチャイをトレイに乗せて戻って来た。

少し太めのストローが入れられているこのチャイは、

「別れ際、もっとも隙になる」のMVでインド研究会を見たときに、

インド料理が食べたくなり、その勢いでバレッタのメニューに加わったものだった。

 

ところでチャイはインドではお茶を意味する言葉であるが、

味はミルクティーに近いものがあり、本場のインド人はかなり甘くして飲む。

庶民的な飲み物であり、かなり砂糖の甘みがするために一度に飲む量はそれほど多くはない。

彼らは移動中などで疲れたときにチャイを飲んで糖分を補給するのだが、

日本人が渋いお茶では補えない糖分を甘い和菓子から摂取するのとは違い、

インド人は飲み物そのものから直接糖分を補給するのである。

だから我々から見れば、インド人にとってのチャイは飲み物とお菓子の両方を性質を兼ね備えているとも言える。

 

だがバレッタのチャイはそこまで本場インドを意識したチャイではない。

日本人はコーヒーに砂糖を自分で入れて甘さを調整する習慣があるために、

未代奈もそこに配慮して糖分は自由に調節できるようにしてあった。

甘くしたい人はテーブル脇に置いてある砂糖を自由に追加すればよかった。

 

「あっ、舜これ無理かも」

 

ところが砂糖の調節うんぬん以前に、一口飲んだ舜奈が放った一言はそれだった。

甘い飲み物を飲んだはずなのに、とても渋い表情になってせっかくのワンドリンクを棒に振ってしまった。

さっきまであんなに得意げに頼んでいたはずなのに、すぐにギブアップした舜奈がおかしくて、

未代奈は笑いをこらえるために必死に手で自分の口を押さえていた。

 

「ちょっと~、そんなに笑わないでよー」

 

「だって、さっきあんなに得意げに頼んでたのに」

 

未代奈は店員の立場も忘れておかしくなって笑ってしまった。

そして、さらに何かニヤニヤしてもっとおかしいことがあるように見えた。

 

「あらら、チャイに失敗し『ちゃい』ましたね」

 

未代奈はそんなダジャレを言って自分で楽しそうにウケていた。

店員とお客さんという立場では失礼にあたる領域まで踏み込んでしまったが、

なんとなく舜奈との波長があったのだろう、お互いに居心地は悪いと感じなかった。

 

「笑っちゃってごめんなさい、よかったら何か他のもの飲む?」

 

「えっ、でもこのチャイ頼んじゃったけど・・・」

 

「別にいいの、気にしないで」

 

未代奈はそう言うと舜奈が飲める別のものをまた持ってきた。

そして「もうここ座っちゃお~」と言って極めて自然な態度で舜奈の向かいの椅子に腰掛けた。

 

「えっ、大丈夫?」

 

「いいの、だって他に誰もお客さんいないし」

 

舜奈があたりを見回すと確かに誰も他にお客さんはいなかった。

目に留まったのはカウンターに座って読書している老人くらいのものだった。

 

「もう何のバイトしたいか決まっとるん?」

 

未代奈は舜奈と向き合って座った時点から口調を変えた。

彼女は誰かと親しくなることをその話しぶりで明確に示そうとする。

いつまでも敬語を使い続けたりかしこまった呼び方をするのは性に合わないらしい。

 

「お仕事するのってさ、めっちゃ楽しいよ。

 普通の人達みたいに学校でキラキラした青春時代を過ごすみたいにはいかんけど、

 その分だけ自分にしかできん特別な経験ができとるなって思うから」

 

未代奈は笑顔でとても楽しそうに舜奈に語りかけた。

そんな精神的に充実している笑みを見せられると、

自分がアルバイトしたいと思っている気持ちが、

決して間違っていないという自信に満ちてくるのがわかった。

 

「・・・実は、もうやりたい仕事、見つけてるんだー」

 

舜奈はそう言って黒いスクールバッグの中から求人雑誌を取り出した。

街角に置いてあるブタのキャラクターがマスコットになっているフリーペーパーだった。

児玉坂46のメンバーもCMに起用されたりすることで女子校生にも認知されているものだ。

 

雑誌にはすでに折り目がついてあり、彼女が事前にチェックしていたことを示していた。

舜奈は未代奈の目の前でその折り目がついていたページを開いて見やすいように折り目を伸ばした。

そこにはそれほど大きい広告枠ではなかったが「Bar Kamakura」と書かれたお店の求人情報が載っており、

写真などはなかったが「若い女性スタッフ募集、店長が気さくなお店です」と書かれていた。

 

「へぇ~、Barとか大人やね」

 

「そう、舜、こういうなんか大人っぽいお仕事やってみたいなって。

 しかもあれだよ、気さくな店長が待ってるんだよ?

 舜、どうせ働くなら楽しい人と一緒がいいと思ってるんだよね」

 

アルバイトの話をしていた舜奈の表情は輝いていた。

若者が抱く未来への好奇心ほど人が生きて行くために必要な活力はない。

現実をまだ知らないからこそ、夢でいっぱい詰まった未来に憧れることができ、

やがて打ちのめされる時がくるにしても、その無垢な憧れは決して悪いことではない。

初めの一歩を踏み出させてくれる、若者に必要不可欠な想像力である。

 

「でも、Barとか高校生はダメなんやないん?

 うちのお店もさすがに私が働く以上はお酒は置けやんから」

 

未代奈もバレッタで働く身であるから、そのあたりの事情は調べたことがあった。

18歳未満は夜22時以降は働くことができない理由もあり、

夜に働くタイプのお店は高校生を採用してくれることはありえなかった。

未代奈がそのあたりの事情を詳しく説明すると、

舜奈はすこし唇をひん曲げて拗ねたような表情になった。

彼女はとにかく顔のパーツの中では唇が際立って目立っていると未代奈は思った。

その年齢に似合わず大人っぽい容姿はBarのお仕事があっているようにも感じていた。

 

「なんだ、やっぱダメじゃん」

 

舜奈は先ほどの諦めたそぶりで求人雑誌をパタリと閉じた。

「諦めることないやん」と言って未代奈はまた雑誌を開いた。

雑誌を両手で持ってパラパラとページをめくりながら他のバイトも探した。

 

「ほら、高校生OKのファーストフード店とかもあるよ~」

 

先ほど見つけたハンバーガーチェーン店の広告を指で示しながら未代奈はそう言った。

 

「う~ん、そういうのは何か違うんだよなー。

 舜、そのBarの広告見た時になんでかわかんないけど急に受けなきゃって気持ちになって。

 自分でもマジでよくわかんないんだけど、なんかこれしかないって思って」

 

理由のよくわからない閃きがあったという舜奈は、

このバイトを受けなければ普通の女子高生で終わってしまう、

何も始まらないのではないかという思いに駆られたのだった。

これに受からないと、女子高生が自分にとっての墓場になってしまう。

 

何か人生の分岐点にでもさしかかっているような舜奈の焦りに、

未代奈は何かこれが彼女にとってはただのバイト探しではないのだろう、

それが彼女の人生にとって大きな意味を持つのだろうと直感的に悟った。

あるいはこれだけ強い意志でこだわり続けているのだから、

それは人間にとって伸ばしてやるべき好奇心と意欲だと思ったのだ。

自分が何か頼られているという意識が彼女を突き動かしたのかもしれない。

 

「そんなにやりたいんやったら諦めたらいかんよ。

 そうや、私にいい考えがあるから任せといて」

 

「えっ、だって絶対無理じゃん、どうすんの?」

 

「いいから」

 

未代奈はそう言ってにっこりと微笑んだ。

その時、舜奈の携帯の音がなったので彼女は画面を見つめた。

とっさに彼女の表情が変わり、目が大きくなったのがわかった。

未代奈はそれが何かよくないことのシグナルだと瞬時に読みとった。

 

「やばい、あの子達のことすっかり忘れてた!」

 

そう言って歩道に面した窓から外を眺めると、

先ほどカラオケに行ったはずの彼女達がこちらに歩いてきているのが見えた。

スマホを指でいじりながら、まだ店内の舜奈達には気づいていないようだった。

 

雑誌を急いで鞄に入れながら出て行く準備を始めた舜奈を見て、

未代奈はとっさに「行きたくないんやろ?」と声をかけた。

 

「えっ、でもいかなきゃノリ悪いと思われちゃうじゃん・・・」

 

舜奈は友人達の間でも非常にノリの良い女の子として通っていた。

だがノリが良いのは裏を返せば周囲の反応を必要以上に気にしているのかもしれない。

それは一つ間違えば誰かの期待に振り回されて生きて行くことになってしまう。

先ほどバイトをしたいと熱っぽく語っていた彼女は、

きっとそんな風ではなかったはずだと未代奈は思っていた。

本当は周囲を気にせずに自分のやりたいことを貫きたかったはずだ。

だからこそ彼女は自分とこうしてまだテーブルで話を続けていたのだ。

 

未代奈は窓の外からこちらに向かって歩いてくる二人組を見ながら、

「大丈夫、ちょっとだけトイレの中に隠れておいてくれればええから」と舜奈に告げた。

戸惑う舜奈を急き立てるようにして席を立たせた未代奈は、

舜奈の鞄を手にとって彼女に押し付けるようにしてトイレへと押し込んだ。

そして自分はそのあとすぐにお店の奥へと引っ込んでいったのだった・・・。

 

 

・・・

 

 

カラオケに行ったはずの二人組が帰ってきてバレッタのドアを開けた。

カウンターに座っていた店長は彼女達の方を見向きもしなかった。

先ほどいたアルバイトの女の子の姿も見えないと思った二人組は、

まあそんなことはどうでもいいかと思って先ほど座っていた席へと向かった。

 

「あれ?」「いなくね?」と言いながら舜奈を探していると、

店内にはどうやら姿が見つからず、またスマホで何やら文章を送信している様子だった。

お店の中には彼女達以外にはお客さんは誰もいなかったのだが、

先ほど舜奈が座っていたはずの席に金髪の女性が座っているのが目に止まった。

向こう側を向いて座っているので顔は見えないのだが、

金髪を二つくくりにし、くくった先はかなりウェーブがかっている。

赤いスウェットに黒いブルゾンを羽織っている姿は、

後ろからでもかなり派手なギャルファッションだということがわかった。

 

「えっ、何、マジ舜奈いないんですけど?」

 

「つーかあいつ誰なの?

 あの服装とか鬼ヤバイじゃん」

 

二人組がそう言ってテーブル席に座っていた女の子の事を話題にすると、

その金髪の女性は席から立ち上がってくるりと振り返って二人の方を見た。

 

「えっ、めっちゃ流行り、めっちゃ流行り、えっ、知らないの?」

 

金髪の女の子はウェーブがかった派手な金髪の髪の毛をいじりながらそう言った。

立ち上がったので細いボーダー柄のスカートにスニーカーを合わせているのがわかった。

なぜかモデルのような堂々とした立ち振る舞いに二人組は彼女のオーラに圧倒されるのを感じていた。

 

「いや、そんな事どーでもいいんだけど・・・。

 それよりさっきまでここにいた女の子どこいったか知んない?」

 

それを聴いてキョトンとした表情を見せた金髪の女の子は、

しばらくしてからうって変わったように手を叩いて笑い始めた。

その奇妙なテンションには不気味さすら感じてしまう。

 

「えっ、マジウケる!」

 

「はぁ!?

 テメー何が面白いんだよ!」

 

彼女のその態度に二人組のうちの一人が怒りをあらわにし始めた。

知らない人に笑われているのだからその怒りも当然と言えば当然だった。

 

「えっ、だってあの子もうさっきお店から出て行ったし、

 もしかして、戻ってきたら逆にすれ違っちゃいましたー、みたいな?」

 

彼女は片方の手をブルゾンのポケットに突っ込んだまま、

もう片方の手で笑いをこらえるように口元を押さえていた。

 

「マジウケる!」と金髪の女の子はまた言った。

それを見て二人組のうち片方は激昂していったが、

もう片方がそれを制止するように肩に手をやった。

 

「ちょっとマジ、テンサゲなんだけど。

 じゃあ舜奈いまごろカラオケついてんのかな。

 だったらラインぐらい返せっつーの、マジでノリ悪い」

 

「あっ、でもなんか家族の用事とか言ってたかも。

 なんかマジで鬼ヤバイから急用で帰ったっぽかったな~」

 

とぼけた様子でそう言った金髪の女の子を、

二人組の女子は疑り深そうに睨みつけていたが、

やがてもうそんなことにも興味を失ったらしく、

「あーマジだるい、さっさとカラオケ行こー」と言って立ち去ってしまった。

ドアを開けて店から出て行くのを両手をブルゾンのポケットに入れたまま見送り、

道路に面した窓から見えるその姿がどんどん遠ざかっていくのがわかると、

続いて金髪の女の子は何がおかしいのか一人で大声を出して爆笑し始めた。

声のボリュームは小さめの堪え笑いからだんだんとクレッシェンドしていく。

笑い声というよりは、もはや少しばかり奇声を発しているに近いものがあった。

 

「・・・ハッハッハッ・・・ハッハッハッ・・・アーッハッハッハッ!」

 

一度静かになった店内に再び響きわたったその大きな笑い声を聴いて、

どうやら舜奈はもうトイレから出ていいのだとそう解釈した。

彼女を追いかけていた二人組はきっと立ち去ってしまったのだ。

 

そっとドアを開けておそるおそるトイレから出た舜奈は、

出たすぐのところに未代奈が立っている気配を感じて声をかけた。

 

「・・・ありがとう、なんか助けられちゃったね。

  ホント、舜、二人帰ってきたときはマジでビビったけ・・・」

 

舜奈は笑い声をあげている人が未代奈ではなく金髪ギャルであったことに驚いた。

そして次の瞬間、彼女はこちらへ振り返って右手の人差し指を上へあげながら・・・。

 

「マジテンション、爆上げ~!」

 

「いぇ~い大成功」と言いながら金髪ギャルは舜奈に抱きついてきた。

黙って抱擁されながらも、舜奈は目を丸くして立ち尽くしていた。

冷静になって両手で相手の腕を掴んで抱擁を解くと、

舜奈は相手の顔をまじまじと見つめながら言った。

 

「・・・ってかさ、誰?」

 

 

・・・

 

 

金髪ギャルはもちろん未代奈だったのだが、

そのあまりにも変貌した姿に舜奈は面食らったのだった。

 

「もう私、モリッピーって感じで、こういう感じでやってこうかなー」

 

未代奈はそう言いながら嬉しそうに舜奈に告げたのだが、

舜奈はあの短い時間に未代奈がこんな風に変化してしまったことに驚いていた。

「えっ、コスプレやん」と未代奈は説明したのだが、

その金髪の質感もギャル風ファッションも、

一体どうやって瞬時に早着替えしたのかわからなかった。

舞台裏で早着替えをする児玉坂46のメンバーたちでも、

こんな風に早着替えすることなどできないのにと舜奈は思った。

 

「・・・てかさ、なんでコスプレする必要あったの・・・?」

 

「えっ、だってギャルにはギャル語で話さな通じやんやろ~?

 言葉ってすごい大事やから、ここに来る前に色々勉強しとったんやから」

 

未代奈は笑顔で自信満々にそう答えた。

それが自信満々であればあるほど舜奈はおかしくて笑ってしまった。

彼女はまるでギャルを少数民族か何かであるような話しぶりをしたからだ。

標準語では通じないからギャル語を話す必要があるというのは、

まあ確かにそういう風に考えることもできなくはないけれど、

同じ日本人をさらに区分けする方法としては斬新だった。

 

「・・・なんか超ウケる、未代奈ってすっごい独特な感性してるね」

 

「えっ、めっちゃ普通やで~、何言っとるんよ」

 

二人がそんな話しをしていると、別のお客さんがお店に入ってきたので、

未代奈は焦りながら「あっ、いらっしゃいませー!」と言って店の奥に飛び込んでいった。

そして10秒後くらいにまたお店の制服を着て飛び出してきた彼女は、

すぐにお客さんをテーブルに案内してお冷とおしぼりを出した。

その光景を見ていた舜奈はやはりまた呆気にとられてしまった。

この子にはどういうわけか早着替えの天性が備わっている・・・。

 

お店が忙しくなってきたようなので、舜奈は気を使って帰ることにした。

忙しくて相手になれないことを未代奈は謝っていたようだが、

舜奈は気を使わせないようにお会計をカウンターに座っていた店長に頼んだ。

だが、いくら声をかけても彼は読書にふけっていて応対をしてくれない。

その様子を見て慌てて未代奈がレジまで走ってやってきた。

 

「ごめんね、いつもあんな感じやから~」

 

未代奈は彼が普段から無口で全く喋らないことを舜奈に説明した。

これではお店の接客は未代奈が一人でやっているようなものであり、

あまり長居して余計な邪魔をしてはいけないと舜奈は思ったのだった。

 

だが、先ほど店の奥に入った時にスマホを持ってきた未代奈は、

お客さんに見れないように舜奈とラインを交換した。

そして「あの件は任せといて」と舜奈に微笑みかけると、

お釣りとレシートを舜奈に渡してまた店の奥へと戻っていった。

 

 

・・・

 

 

「ご両親はさぁ、この事知ってんの?」

 

赤い革張りの低いソファー型の椅子に座って腕を組みながら、

北条真未は思い切ってその話題に切り込んだ。

目の前に座っている舜奈が思わず目を反らすのを見てしまう。

そのわずか数秒間の目が泳いだ事実が、

この先ずっと晴れる事のない疑念を真未に抱かせることになってしまった。

 

「・・・えっ、うちの両親が何か関係ありますか?」

 

舜奈は震える声を精一杯整えながらそう返事をした。

目の前に座っている真未の目をじっと見つめ返しながら、

その勢いに逆に真未の方が目線を泳がせることになってしまった。

 

「・・・いや、夜遅くまで働いて心配しないのかなーと思ってさ」

 

「・・・舜、今は一人暮らししてるんで」

 

「・・・あっ、そう、そうなの・・・?」

 

真未は少しどもりながらまたテーブルの上の履歴書を手に取った。

店内の照明はムード重視のために薄暗くなっており、

真未は少し顔を近づけてそこに書かれている文字を読むことになった。

習字を習っているのか、舜奈の字はとても綺麗だったが、

その学歴の欄だけはあまりに綺麗に書かれすぎていてどうも腑に落ちなかった。

彼女はすでに数年前に高校を卒業して専門学校に進学した。

そして、その専門学校も無事に卒業して今や20歳を超えている。

 

だが、そういう人生を歩んできているにしては、真未にはどうも気にかかることがあった。

彼女はお店でたくさんの人生経験豊富な方々を見てきたこともあり、

舜奈がどうも外見のわりに年齢は幼いのではないかと感じていたのだった。

面接の受け答えでも、その反応から実年齢は隠しきれない。

人間は年齢を重ねると色々と苦労を経験するために、

どうしても深みが出てくるし、言葉や行動にも変化が現れてくる。

そうした深みがない場合、年齢を重ねた人にはどうしても見抜かれてしまう。

面接の時に自分のことを名前で呼ぶその無遠慮さなどは、

どうしても社会に揉まれた経験が少ないことを物語ってしまう。

 

「いや、別にさぁ、こんなこと言いたいわけじゃないんだけどね」

 

真未は履歴書をまたテーブルの上に放りながらそう語り出した。

 

「わかっちゃうのよね、そーいうのってさ。

 なんていうのかな、人はね、やっぱりほら、嘘ってつけないのよ。

 どっかでさ、そういうのはバレちゃうもんなのよね。

 すごく上手に嘘ついてるって本人は思ってるもんだけどさ、

 ほら、他の人から見たらさ、やっぱり見え見えなのよ、そーいうの」

 

お店のアルバイトを募集した真未だったが、

応募してきた人の中に特に採用したい人がおらず、

本当は猫の手も借りたい状態だった。

にもかかわらずこんなことを言っているのは、

やはり高校生であるのにもかかわらず嘘をついている舜奈を、

ここで働かせることは法律的にもまずいことが一つ。

そして、やはり真未には道徳的にもこれは良くないと思っていた。

彼女はとても後輩思いの一面もあり、

人生の先輩としてフォローしてやりたい、

サポートしてやりたい気もするのではあるが、

不正を許してしまうことはできなかったのだ。

だから彼女なりに言いにくい部分もあるのではあるが、

やんわりと遠回りの愛情で諭してあげることも必要だと思っていた。

 

「いや、舜、別に嘘ついてませんけど」

 

「そう、それよ。

 いや、バレちゃうってのはさ、そういうとこなのよね」

 

真未はなれない言いにくいことを言いすぎて喉が渇いた。

テーブルの上にあったグラスをとって水分を補給する。

なんとか口の中に潤いを取り戻して話しを続ける。

 

「やっぱねー、大人の人ってのはさ、自分のことを名前で呼んだりしないわけよ。

 そういうのはほら、色々と苦労したりするから・・・なのかな?

 うん、理由とかは、まあ真未にもよくわかんないんだけどさ、

 とにかくそういうところで残念ながら幼さが出ちゃってるっていうかー」

 

「えっ、でも今、店長さんも自分のことを名前で呼びませんでした?」

 

「あっ?」と真未が言ってから3秒くらい時が止まったようになり、

「・・・あっ、揚げ足とってんじゃないわよ!」と真未が椅子から立ち上がって叫ぶことになった。

大声で怒鳴られたこともあり、さすがに舜奈もひるんでしまった。

そのことによって主導権が一気に真未へと移ることになった。

場の空気というのはそういう目に見えない力関係で保たれている。

 

「・・・もういいよ、じゃあ身分証だして」

 

真未は座り込んでため息をついてから右手を舜奈の前に差し出した。

舜奈はその問いかけに対して何も反応しなかった。

その様子を見て疑念が確信に変わった真未。

 

「どうせ学生証だと思うけど、まあ学校とか親には言わないから」

 

そうして真未は彼女に逃げ道を用意してあげることで自白を促そうとした。

人生経験の豊富さが違うと真未は自らを少し誇らしくも感じた。

伊達に若くしてBarの店長をやっているわけではないのだ。

それなりに苦労を重ねながら一つ一つ積み上げてきた人生がある。

 

やがてため息をついた舜奈はカバンの中を漁り始めた。

財布の中に入っているカードを取り出して観念したようにそれを真未に渡した。

 

「そうそう、これよこれ。

 運転免許証・・・ってあれ、生年月日は・・・」

 

真未が身分証に書かれている生年月日を確かめて目を丸くしている時、

舜奈は胸が詰まって呼吸が苦しくなり、それを紛らわせるために辺りを見回し、

その結果として、テーブルの上に乗っている小皿の中にお菓子を見つけた。

それはおつまみとしてお客さんに出している金平糖だった。

 

「あーっ、すいません、これちょっともらってもいいですかー?

 舜、金平糖すっごい大好きなんですよー」

 

なんとなく気まずい空気からそんな心にもない事を言いながら、

焦りを隠すように小皿の上に手を伸ばす舜奈はそれを手にとって食べた。

その様子を見て呆然としていた真未は、

もう一度身分証に目を移し、思わず右手で頭を抱えてしまった。

彼女の長い髪が右手の指によって分けられて幾分乱れていた。

 

「・・・あのー・・舜奈・・・さん・・・真未より・・年上・・なんですか・・・?」

 

運転免許証の生年月日の欄を確かめた真未は、

そこに書かれていた情報によると舜奈が自分よりも一つ年上であることに気づいた。

その言葉を聞いてさすがにそれはやりすぎたと気づいた舜奈は思わず口に入れた金平糖を吹き出してしまい、

その金平糖は無情にも真未のおでこに勢いよく当たってどこかに飛んで行った。

 

「・・・あのー、えーっと、絶対に嘘ついて・・・ないよね?」

 

真未はもう一度運転免許証を確認してから舜奈の顔を見つめてそう言った。

 

「・・・えーっと、あっ、はい、舜は金平糖が大好きですから・・・」

 

「・・・いや、そっちじゃなくてさ・・・」

 

こうして三藤舜奈はBar Kamakuraのアルバイトスタッフとして採用されることになった。

色々と嘘をついてしまったことに軽い罪悪感を抱きながら・・・。

 

 

・・・

 

 

 

「ねえねえ、どうやった~?」

 

舜奈は面接を終えてビルのエレベーターから1Fへ降りた。

ドアが開いた瞬間、戻ってきた彼女に気づいた未代奈がすぐに駆け寄ってきた。

 

「・・・マジ、奇跡おこったわ」

 

舜奈は自分でも信じられない様子でそう言い放ち、

「うそ~やった~」と嬉しそうに笑ってくれた未代奈に抱きついた。

舜奈も彼女とハグをしながら嬉しそうな笑みがこぼれるのを抑えられない。

 

しばらくそのままの状態で嬉しさをかみしめていた舜奈だったが、

その抱擁を解いて未代奈と見つめ合っていると、

あまりにもうまくいきすぎた事が逆に恐ろしくなってくる思いもあった。

面接の最後で切り札として使ってしまったあの免許証の事だった。

 

そんな舜奈には気づかないように未代奈は「ちょっと待っとってな~」と言って、

先ほどまで舜奈を待っていたであろうビルの郵便受けが並んでいるあたりまで走っていき、

その足元に置いてあった何やら大きなビニール袋を取り上げてまた戻ってきた。

ニヤニヤと嬉しそうにビニール袋から取り出したのは綺麗にまとめられた花束だった。

 

「舜奈おめでとう~」

 

「えっ、何これ、マジで~!」

 

白、ピンク、黄色など明るい色をした様々な花から作られた花束は、

とても鮮やかに彼女の門出を祝福していたのだった。

 

「ほんとは別の花を贈ろうかと思っとったんやけど~、

 今はちょっと季節外れなんかそれは見つからんかったんよ~」

 

「へーそうなんだ、何の花?」

 

「え~、それはまだ秘密、また別の機会に贈るね」

 

そういって未代奈は悪戯な笑みを浮かべていた。

彼女は手渡す花の選択にも色々と計画があったようだが、

とにかく君に贈る花がないというような状態は避けたかったのもあり、

今回はどうやら妥協案を採用した様子であった。

 

一方、ただアルバイトの面接に合格しただけでこんな物を貰えると思っていなかった舜奈は、

この未代奈からのサプライズにいたく感動することになったのだった。

気持ちが弾んでいた彼女は、その花束のお礼に先ほど店長からもらった金平糖を差し出し、

そのまま水色の一粒を未代奈の口に放り込んであげた。

未代奈はそれを口に含むと「甘い」と言ってニコニコと嬉しそうに笑い、

その様子を見ていた舜奈も嬉しくなってお互いにしばらく微笑みあっていた。

そして、その空気感が舜奈にとってはまるで心に重たい蓋を乗せられたようになり、

今、頭の中に浮かんでいる懸念材料についての話題を振ることを遠慮させた。

 

二人は帰り道を途中まで一緒に帰ったのだったが、

その道程で舜奈は面接で知り合った店長がとても愉快そうな人であったこと、

Bar Kamakuraはどういうわけか常連さんには「スナック ルージュ」と呼ばれており、

誤解したお客さんが接客サービスを求めてくる危険性があるという説明を受けたことなどについて話をした。

そういった事実は少しばかり舜奈を不安にもさせたのであったが、

面接って最初は多少そういう脅しみたいな部分もあるからという風に未代奈が慰めたこともあり、

舜奈も友達からそういう噂を聞いたこともあったので話は次から次へと盛り上がっていった。

 

帰り道を歩いて話をするうちに、二人はお互いに居心地の良さを実感していった。

気さくで飾らない舜奈の人柄に未代奈は心から安心感を抱くことができたし、

少し天然でおっとりとした喋り方の未代奈に舜奈は癒されるような思いがした。

お互いに適度に甘えることができ、ふざけあう時にもなんとなく波長が合う気がした。

舜奈が見せてくれた変顔に未代奈はお腹を抱えて笑うこともあったし、

未代奈がどこか惚けた発言や態度をすると舜奈はそれが面白くてツッコミを入れずにはいられなかった。

舜奈は学校の友達といる時よりもリラックスした態度で彼女と接することができたし、

未代奈はこの街に来てから初めてこんなに砕けた自分を見せられる友人を持ったのだった。

 

やがて正面にバレッタの建物が見えてくると、二人は別れを意識し始めた。

舜奈は手前の交差点を左折して実家に帰ることになるからだ。

二人は先ほどまで続いてきた話題がなんだったのかも忘れてしまった。

そのお別れを意識することが、それらを雲散霧消させてしまったのだった。

 

そして、突然のように舜奈の頭には面接の時に使った運転免許証のことが浮かんだ。

先ほどまでの話題が途切れたことで、切り出すならここだという気がした。

舜奈は鞄の中に手をつっこんで財布から免許証を取り出そうとしていると、

未代奈はキョトンとした表情でそんな舜奈を見つめているようだった。

 

「・・・あのさぁ、これ、返しといたほうがいいかなって」

 

舜奈は財布から取り出した免許証を未代奈の前へ差し出した。

それを見た未代奈はまだよく意味がわかっていないのかキョトン顔を維持していた。

 

「えっ、別に返さんでええよ~」

 

「いや、だってさ・・・これ偽造じゃん・・・」

 

舜奈が先ほどから心に封じ込めてきた懸念を言い放った。

心の蓋を閉じていたとしても、やかんのお湯が沸騰したみたいにそれをカタカタと揺らしていたのだ。

それを一人で実家まで持ち帰ってしまえば良心の呵責に耐えられなくなる恐れがあった。

だからなんとしても舜奈はこの事実をもう一度未代奈と共有しておきたかった。

そして、これは可能であれば未代奈に返してしまいたかったのだ。

それが彼女の心に生まれた罪の意識を少しでも軽くしてくれると思ったからだった。

 

「・・・ギゾウ?」

 

「だってさ、舜、これ見たら今22歳ってことになってるし・・・。

 さすがに店長さんより年上設定はやばくない?

 舜、バレるかなって焦りすぎて咄嗟に金平糖好きとかわけわかんないこと言っちゃったしさー・・・」

 

未代奈は相変わらずキョトンとした表情で微動だにしなかった。

二人の間には免許証のカードがあり、舜奈がそれを手に持ちながらも、

その帰属を自己から解放したくて堪らないといった様子をあらわにしていた。

だがその免許証のおかげで面接を突破したという恩もあることから、

邪険に取り扱うことも憚られたし、それを未代奈にまた押し付けるのも気が引けた。

そういう葛藤から、まだ免許証のカードは二人の間で行き場所を失っていた。

 

「まあ言っちゃった手前もあるし、二週間くらいは頑張って好きになってみようと思うけどさー。

 そういうわけで、あの店長さんには金平糖好きってことで通そうと思ってるけど。

 それはそうと、とりあえずこの免許証は面接終わったらもういいかなって・・・」

  

あまり免許証自体に焦点を合わせないような口ぶりで、

舜奈は「ありがとう」と言って未代奈にその免許証を握らせた。

  

「えっ、だってまた見せてって言われるかもしれんよ~?」

 

「そんときは家に忘れましたって言ってごまかすから」

 

未代奈は相変わらずキョトンとした表情を続けていたが、

舜奈は免許証が未代奈の手に渡っている間にできるだけ早くこの場を離れたいと思った。

そして何かを思い出したようにスマホで時間を確認して家の方角へと走り去っていったのだった。

 

「・・・これ、本物やのに」

 

未代奈は寂しそうに免許証を見つめながらそう呟くと、

悲しみを肩に背負うような歩き方でゆっくりとバレッタへ帰っていった。

 

 

・・・

 

 

 

「そりゃまあ、返されちゃうよね」

 

バレッタに帰った未代奈が舜奈との間に交わされた経緯を説明すると、

カウンター席に座っていたソルティーヤくんがそう答えた。

彼の隣の席には白髪頭の店長が相変わらず微動だにせず読書中だ。

 

「でも、これは本物やのに・・・」

 

先ほど舜奈から返された免許証を両手で弄りながら悲しそうにそう言った。

自分が善意で示した好意が余計なお世話だったのかもしれないと感じるとき、

未代奈は勝手に色々とやるもんじゃないなと落ちこむ癖があるのだった。

 

「本物とか偽物とか、そういう次元じゃないんだよ、きっと。

 世の中にはそりゃ僕達が正しいと思っていることを正しいことではないと考える人達だっているんだよ」

 

ソルティーヤくんは椅子の上に立ち上がってその長い腕を伸ばして未代奈の肩を叩いた。

うつむき加減で悲しんでいた未代奈は周囲に聴こえるくらいに大きなため息をひとつついた。

 

「例えば」

 

ソルティーヤくんは人差し指を立てて学校の先生みたいに話をする。

 

「見てごらんよ、今君が当然だと考えていることの中にも、

 この街の人達が当然だと思わないことがもう隠れているんだ」

 

ソルティーヤくんは未代奈の顔をじっと見つめながら、

さあその答えを当ててごらんという表情を見せた。

未代奈が答えがわからないという風にじっと見つめ返していると、

彼は立てていた人差し指をゆっくりと動かして自分の鼻を指差した。

 

「・・・そっか、ゴリラは普通喋らんもんな」

 

「・・・おしい!

 でも、もう訂正するのも面倒になってきたよ・・・」

 

少しずっこける仕草をしてから少々あきれ顔になったソルティーヤくんは、

右手の人差指と中指をひたいにあてて、まるでTVドラマの名探偵のようになった。

 

「え~、まあそういうことだね。

 チンパンジーが人間の言葉を話しているのは普通はおかしいことなんだ。

 もちろん、僕のこの後ろにいる店長は例外だけどね。

 彼には僕の声が聴こえているのかいないのかわからないけれど、

 人間の言葉を喋ってみてもこちらに一瞥も向けることはないんだよね。

 ただ読書の邪魔をした場合にのみ僕の存在を認識するみたいだ」

 

ソルティーヤくんがそういって店長の読んでいる本をヒョイと取り上げると、

彼は不機嫌そうな表情のままでそれをぶっきらぼうに取り返してまた読書に戻った。

 

「まあいいや。

 君が言った通り、普通のチンパンジーは喋れないんだよ。

 だから僕らはいつも勝手に温泉に入らせてもらうしかないんだ。

 本当はね、ちゃんと断って入るくらいの礼儀は身につけているんだよ。

 猿界には猿界なりの礼儀ってもんがあるんだからね。

 だけど、どうせ人間には「ウキッ、キキーッ、キャーッ!」としか聴こえないから、

 僕らはいつも勝手に断りもせずに温泉に入っていることにされるんだよ。

 その上、あの欧米人観光客たちはいつも嬉しそうに僕らの写真を撮るだろう?

 だから僕らがいつも温泉に入ってるみたいなイメージを拡大されるけれど、

 本当はそういうの違うんだ、全部マスメディアの影響なんだよ」

 

話が長くなってきたのを悟って、未代奈はカウンターの上に置いてあった網かごの中から、

黄色いバナナを一本もぎ取って空中に放り投げた。

先ほどまで饒舌に話をしていたかに見えたソルティーヤくんは、

本能的にそのバナナの魅力に抗えずに「ウキャ!」と言いながら飛び跳ねてそれをキャッチした。

皮をむいてムシャムシャと食べ始めると未代奈はカウンター席に腰掛けて憂鬱そうな顔を浮かべていた。

 

「・・・ムシャムシャ、ちょっとどこまで話したか忘れちゃったね、ムシャムシャ。

 とにかく人間と猿でもこれだけの誤解が生じるわけなのさ。

 だから人間同士でもお互いに理解しあうことはなかなか難しいんだよ。

 言葉は便利なツールに思えるけど、お互いの持つイメージに引っ張られていくから、

 同じ言葉であっても決して同じ印象や効果を持つとは限らないからね、ムシャムシャ」

 

未代奈にはもはやソルティーヤくんの言葉は耳に届いておらず、

ただバナナを食べている彼の姿を見ながら何やら考えているようだった。

そして、何かを決意したようにカウンター席から立ち上がると、

鋭い眼光でソルティーヤくんを睨みつけるようにして口を開いた。

 

「バナナ食べてるの見とったらお腹すいてきた。

 スーパーに買い物行くからソルティーヤくんもはよ準備して」

 

先ほど憂鬱そうな表情を浮かべていたのはお腹が空いていたのだった。

未代奈の気分は空腹時には著しく下がることを忘れていたのである。

 

「えっ、だってさっきこれから一緒に映画観るって約束したのに・・・」

 

「『猿の惑星』ばっかはもういやや」

 

どうもソルティーヤくんも飼い主に似ているらしく、

お気に入りの同じ映画を何度も観るのが習慣らしかった。

 

「あれ面白いのに・・・」

 

未代奈がさっさと店を出て行ってしまったので、

ソルティーヤくんは仕方なく彼女の後を追いかけていった。

 

 

・・・

 

 

 

 

 

 

  

スーパーで大量の食材を買い込んだ一人と一匹は、

帰り道に漂ってくる焼き芋の香りに耐えきれずにそれも購入した。

 

「ん~!!おいひ~!」

 

帰り道の公園のベンチでホクホクの焼き芋をかじりながら、

未代奈の表情はみるみるうちに緩んで行った。

彼女はお腹が満たされる時、満たされない時ではまるで別人だった。

満たされない時、それはがっくりと肩を落として顔に暗い影がかかる。

そして数え切れないほどの食材の固有名詞を口にし始める。

やがて綺麗な女性であるためにはダイエットが必要であることを理性で知る。

それからスムージーだけで過ごして腰のくびれた己の姿を理想として描き、

また理性を崩壊させて先ほどのダイエットの夢想を撤回することになる。

こうして世の女性陣は日々己と戦い続けているのだから賛辞の言葉を持って迎えるべきだろう。

決して三時のおやつをもって迎えるべきではない。

 

だが、未代奈と一緒にいる時のソルティーヤくんは、

あまりにも空腹で耐えられない時にはこうして三時のおやつを許してあげるべきだと思っている。

なぜなら、一つには彼女の最大の魅力はその食べている時の幸せそうな表情にあり、

それを見る事が出来る幸福を自分も一番近くで味わうことが出来るからである。

もう一つには、徹底的に我慢した後で耐えきれなくなった結果として、

彼女が夜遅くに脂っこい食事を取ってしまう恐れがあることだった。

まだ若い未代奈には胃袋がもたれるということはないのだろうが、

若いからといって体に負担をかけるような食生活をさせるべきではない。

もう今年で35歳になるソルティーヤくんにはその辺の事情がよくわかっていたのだ。

もっとも彼は脂っこい食事よりもバナナを好むために至極健康体ではあったが・・・。

 

「やっと元気が出てきたみたいだね」

 

ベンチで未代奈の横に座りながらソルティーヤくんが言った。

先ほどあった憂鬱な出来事もすっかり忘れてしまったようだった。

彼女の特質は物を食べるか睡眠をとれば大抵のことを忘れてしまえることだった。

そして、いろいろなことを忘れることは社会的には問題もあるけれど、

健康的に過ごすにはもっとも優れた特質であった。

 

「ね~ね~ソルティーヤくん。

 最近ね、すっごい面白い言葉を覚えたの~」

 

未代奈が焼き芋を食べながらニヤニヤと笑っている。

何やら思い出し笑いを始めたようだった。

これは彼女にはもはや恒例となっている特質であり、

日に2、3回は何やら楽しいことを思い出すらしい。

それは彼女のとても幸福な長所だと言えるかもしれない。

 

「なにそれ、やな予感」

 

「も~なんでよ~、それはね、フフッ、あかん、ちょっと待って」

 

未代奈は何が面白いのやらわからないが一人で笑いをこらえ始めた。

何やら思い出している内容が爆笑必至であるらしかったが、

手で口を押さえながらニヤニヤして笑い声を漏らしている。

 

「あ~面白かった」

 

「えっ、いや、まだ言ってないよ」

 

どうやら笑いをこらえている間に面白さを十分堪能したらしかったが、

相手に伝える前に自己完結をしてしまったようだった。

 

「えっ、そんなに聴きたい~?」

 

「自分で言い出しといて、そんなのひどいよ」

 

未代奈は時々こうして意地悪なところを見せる。

出し惜しみをしてニヤニヤと嬉しそうに笑っているのは幸せそうではある。

 

「え~、じゃあ言うね。

 最近覚えた言葉なんやけど~『猿も木から落ちる』って」

 

そう言いながらソルティーヤくんを見てまた笑い始めた未代奈。

どうやら彼を小バカにしていることは明らかだった。

 

「アッハッハ、ソルティーヤくん、木から落ちたことある~?」

 

「・・・ミヨナ、それ言いたかっただけでしょ?」

 

どうやら「猿」を題材にしたことわざが気に入ったらしかった。

それも木から落ちるという失敗をしている点が秀逸であり、

ソルティーヤくんを小バカにするのにうってつけだと思ったようだ。

 

「なんだ、最近覚えたって嘘でしょ?

 もっと難しい言葉を言ってくると思ってたのに。

 そんなの『弘法も筆の誤り』でも『河童の川流れ』でもいいじゃない。

 ただ僕をバカにしたかったからそれチョイスしただけでしょ!?」

 

「へ~、ソルティーヤくん色んな言葉知っとるね、チンパンジーのくせに」

 

「あっ、やっとチンパンジーって認めてくれたね。

 ・・・いや、微妙な言い回しに気をつけて、それ全然褒めてくれてないから!」

 

「あっ、間違えた~」と未代奈はまた嬉しそうに笑った。

 一人と一匹はそんな風に楽しそうにおやつの時間を過ごしていた。

未代奈は何を思ったのか突然「猿に小判」などと言い出し、

これを新しいことわざにしたらどうかと提案し始めたので即却下した。

猫が先にそのポジションを占めているからそれはまずいと告げると、

彼女はまた新しいのを考え出して「猿に真珠」はどうかと言い始めた。

これもまた豚が抗議をしてくることが容易に予想されることもあり再却下。

ソルティーヤくんの姿を眺めた後で「猿にバンダナ」と言い出したので、

その心を聞いてみると、ソルティーヤくんのつけているバンダナを触りながら、

「それ気に入っとるかもしれんけどぜんぜん似合っとらんよ」と笑いながら告白した。

ソルティーヤくんは「猿の耳に未代奈の声」と言って多少拗ねてしまったようだった。

 

 

そんな風に自分達の世界に浸りきっていたのが仇になった。

いつの間にか座っているベンチの背後に何者かの気配を感じた未代奈は、

ふっと冷静さを取り戻してとっさに後ろを振り返った。

だが、時はすでに遅しであり、そこにいた少女の両手によって、

ソルティーヤくんの顔はしっかりと掴まれていたのだ。

 

「・・・これ、猿だよね!

 えっ、なんで~、なんで猿がしゃべってんの~!!

 え~、めっちゃかわいい~!」

 

そこには未代奈がまだ出会ったことのない少女が立っていて、

ソルティーヤくんの顔を両手で掴みながらうりゃうりゃと撫で回し始めていた。

そして、これが森 未代奈と南野きな子の初めての出会いであった。

 

 

 

・・・

 

きな子に強引に撫で回されていたソルティーヤくんは、

驚きのあまりに呆然としてしまっていた。

そして、突然かわいいなどと褒められてしまったこともあり、

彼の頬は真っ赤になりながら、きな子にされるがままになっていた。

 

「あれ~、なんか急にしゃべんなくなっちゃった。

 さっきまであんなにしゃべってたのに」

 

「ウキッ?」

 

きな子に手を離されてやっと冷静さを取り戻したソルティーヤくんは、

この状況はさすがにまずいことを瞬時に判断してとぼけてみせた。

 

「ウッキー、ウキッ、キッキー、キャー、キキッ!」

 

彼はとっさに普通の猿を演じながら、少しおバカな演技まで交えるように、

勝手にスーパーの袋に手を突っ込んでは食材を取り出して食べ始めたのだった。

 

「・・・んっ?変なの! 」

 

突然にして人間の言葉を話さなくなった猿が奇妙でもあり、

きな子は不思議そうに首を傾げて見せた。

 

一方の未代奈は、ソルティーヤくんのとっさの機転に助けられたのだが、

そのおバカな演技があまりにも面白くて堪えきれなくなったようで、

真顔でいなければならないと頭では理解しながらも半笑いになってしまっていた。

 

「ねぇねぇ、何歳!?」

 

彼女の興味は突然猿から未代奈に移されたようで、

未代奈はそんな風に屈託なく距離を詰めるようにしてきな子に話しかけられた。

そんな距離の近い声かけに慣れていない未代奈はソルティーヤくんと同じように照れてしまった。

かろうじて自分の年齢を返答すると「えっ、同い歳だ!」ときな子は驚いたようにそう叫んだ。

 

「このお猿さん飼ってるの?」

 

「・・・うん」

 

「えーすごい、きな子、猿を飼ってる人初めて見たかも!」

 

そんな風に無邪気に次々と話しかけてくるきな子とは逆に、

未代奈は人見知りをする性格もあって緊張からか瞬きが多くなっていた。

それはもはや緊張してするレベルを超えており、高速瞬きと呼べる類のものだった。

 

「まあ世話するのが大変やしね~」

 

「えっ、でも猿って賢いって聞くけど、どうなの?」

 

そばで二人の会話を聞いていたソルティーヤくんは、

未代奈の態度には時々ムッとした表情をして見せたし、

きな子が猿を賞賛してくれた時には胸を張ってみせたりした。

 

「え~、そうでもないよ」

 

「でも、テレビで観るお猿さんはなんかいろんな芸とかするじゃん」

 

「まあね、ああいうのは一部のエリート猿だけやと思う」

 

未代奈のその言葉を受けてソルティーヤくんの虚栄心は刺激され、

彼は何も言わずにお得意の反省ポーズをきな子に披露してみせた。

彼女は未代奈と違って、いたくそれに良い反応を見せてくれたこともあり、

ソルティーヤくんは心がパッと晴れるような思いがした。

 

「えっ、すごいすごい、面白い!

 じゃあこの子はエリートなお猿さんじゃん!」

 

ソルティーヤくんの思惑通りに事が運んでいるのを見て、

彼は少し鼻息が荒くなったように両手を挙げて「キャッキャ」と鳴いた。

できれば人間の言葉を喋ってもっとアピールしたいところだが、

この場ではそれはできないので、彼なりに考えた精一杯のアピールだったのだ。

 

「まあ無職やけど」

 

「なにそれ~、だって猿が仕事するわけないし。

 でもなんか想像したらちょっと面白くなってきた!

 猿がスーツとか着て電話出てる姿とか」

 

こんな風に未代奈はソルティーヤくんを貶め続けたが、

きな子はとにかくポジティブに受け止めてくれる会話が続いた。

お互いに動物好きだった事もあり、色々な動物の話をしたりしながら、

やがて二人は動物愛護センターの話題に共通の着地点を見出していった。

世の中には恵まれない動物達がたくさんいるという話をきな子が真剣に語り始め、

未代奈も相槌を打ちながらその熱弁に共感を示していったのだった。

もちろん動物代表であるソルティーヤくんもきな子の動物への優しい気持ちを知り、

世の中にはこんなに動物の事を思ってくれている人間もいるのかと胸を熱くさせていた。

時間を忘れながら語り続けて育まれていった二人の高揚した気持ちは、

やがて話の終着点をいつか動物愛護センターを二人で設立するというところまでもっていった。

二人はすっかり意気投合してしまい、その話の中心であるはずの動物代表は置いてけぼりをくらい、

少し寂しくなってしまったソルティーヤくんは自分の存在に気づいて欲しくてそっときな子の服の袖を引っ張った。

きな子がそれに気づいて先ほどまでの話を止めて彼の方へ体を向けてくれた。

 

「なに、どうしたの?相手してくれないから寂しかったの?

 服とか引っ張っちゃって、この子めっちゃかわいいじゃん、よしよし、はいお手!」

 

きな子に頭を撫でられたソルティーヤくんはまた赤くなり、

その謎のリクエストにも答えてプライドを捨てた「お手」を披露することになった。

一見みたところでは何も問題がないように見えるこの行為であるが、

実は猿の世界では彼はタブーを犯してしまっていたのである。

猿の世界では誇り高い猿らしさを保つことが求められており、

このような犬のような仕草をすることは誰からも忌み嫌われていたのだ。

 

だが彼は理性を失ってしまっていた。

ソルティーヤくんはこの街に来てからまだ未代奈以外の人と接する機会はなかったし、

未代奈が彼を可愛がるやり方は大体にしてあのような意地悪な態度だったので、

ここまで素直な態度で体毛をむちゃくちゃに撫で回されたのは生まれて初めてだったのだ。

未代奈とは違ったやり方で愛情を受けたのが初めてだった彼は、

その純粋な恋する気持ちを揺り動かされてしまったのである。

 

「グルゥゥゥゥ、ワンワン!」

 

お手をした右手をおかわりの為に左手に変えようと思っていた時、

ソルティーヤくんはベンチの下からそんな野獣の咆哮が聞こえてくるのに気づいた。

ベンチの上から後ろを振り返ると、そこには白と茶色の体毛が入り混じった雑種犬が見えた。

 

「こら!チョップ!吠えちゃダメ!」

 

きな子がそう告げると、その犬は少しの間おとなしくなった。

「え~めっちゃかわいい」と言いながら今度は未代奈がその犬の頭を撫でた。

 

「えへへ、かわいいでしょ!

 この子はきな子が飼ってる子だよ、チョップっていうの!」

 

きな子がベンチの裏側から表へ回り込んでチョップを撫でた。

未代奈も嬉しそうにチョップの頭を撫で続けていた。

 

「え~ほんとかわいい、私ほんとは猿より犬派やから~」

 

未代奈は社交辞令でそう言ったのかも知れなかった。

いや、ひょっとすると心の中の本音がポロっと溢れてしまったのだろうか。

ベンチの上に一匹取り残されたソルティーヤくんは切なさが込み上げてきていた。

彼はこの喋れない状況で何をどう弁明することもできず、

ただ心の中で思いを一人で咬み殺すしかなかったのだ。

そして彼は心の中ではこのようにつぶやいていた。

 

(・・・これが犬のやり方だ、奴らの非道なやり方なんだ・・・!)

 

怒りを表現するには重力に逆らうのがわかりやすいと思う。

ソルティーヤくんも例外ではなく、彼の体毛という体毛は全て逆さに立ち上がった。

そして、笑う時と同じ宿命は彼の怒りの行為にも潜んでいたのである。

牙をむき出しにして大きく口を開けたソルティーヤくんは、

何やら「キャッキャー!」という凶暴な声を上げてチョップに向かって戦闘態勢を取っていた。

 

それを見たチョップがそのままでやり過ごしたわけもなかった。

彼は先ほどのようにまた「ガルル」と唸り始めた後、

ソルティーヤくんに向かって何やら抗議でもするように叫び始めた。

どうやら彼らには未代奈やきな子たちの持っているガールズルールとは異なる、

オス同士のプライドをかけたメンズルールがあるらしかった。

 

未代奈やきな子が止めようとしても、そんな風な啀み合いは止まる様子もなかったので、

仕方なく未代奈はソルティーヤくんのお尻を叩いて啀み合いをやめさせた。

 

「もう!これ以上いがみあったらあかん!

 二匹とも『犬猿の仲』やねんから仲良くせなあかんやろ~」

 

ソルティーヤくんはその言葉を聴いて悲しい表情を浮かべながらも争いをやめた。

その言葉を聴いていたきな子でも、さすがにその言葉の意味がまちがっていることはわかった。

「犬猿の仲」は仲が悪いことの例えであり、先ほどの未代奈の使い方は正しくなかったのである。

 

「てっきり『犬猿の仲』って言うから猿と犬は気が合うやろうと思っとったけど、

 やっぱり実際にはそんなうまくいかんもんなんかな~?

 でもどうやら私達二人はもう『犬猿の仲』になっとると思う~。

 こんな初対面でもすぐに『犬猿の仲』になれるもんなんやね~」

 

未代奈がきな子との関係に対してそのような事を言ったのだった。

ソルティーヤくんはどうやら未代奈の悪い癖が出てしまったとがっかりした。

彼女は覚えたてのかっこいい言葉を使うのが大好きなのだが、

そんなふうに頭いいぶる傾向があるのにもかかわらず、

使う言葉の意味を間違えていることが多いのだった。

 

チョップが勝ち誇ったような雄叫びを上げて「ワォー」と鳴いた。

ソルティーヤくんが意気消沈しながら未代奈の肩に手を置くと、

「どうしたん、何を反省しよるん?」と尋ねられた。

未代奈の言葉の用法の誤りに気付いていたきな子はクスクスと笑っていたのだった。

 

 

 

・・・

 

公園で偶然にも知り合った未代奈ときな子だったが、

そのベンチで話しているとソルティーヤくんとチョップが啀み合いを続けるため、

仕方なく二人はそれぞれのペットがいない後日にまた再会する事になった。

ラインを交換したあと、また具体的な日時については連絡すると言って二人は別れた。

 

きな子と別れてお店に帰ってきた未代奈とソルティーヤくんは、

やっと言葉を喋れない不自由さから解放された事もあり、

特にソルティーヤくんが不満をぶちまけ始めていた。

 

「やなやつ!やなやつだよ!」

 

バレッタのドアを開けて店に戻ってきたソルティーヤくんは、

そんな風に怒りを撒き散らしながら勝手に棚からコップを取ってきて水を入れて飲んだ。

 

「なんでよ~かわいいやん」

 

「何がかわいいもんか、犬なんて」

 

飲み干したマグカップをカウンターに勢いよく打ち付けると、

置いてあった水挿しからまた自分で水を注いで飲み干した。

 

「ミヨナ、僕は君に騙されて欲しくないんだ。

 さっきだって見ただろう?

 あれが犬の奴らの手口なんだよ。

 そして人間達はその演技にいつだってころっと騙されてしまうんだ」

 

「別に演技なんてしとらんやん」

 

なだめるような口調のまま未代奈はカウンターの隣に席に座った。

さっきうっかり犬派である事を明かしてしまった事が、

多少なりとも彼女の罪悪感につながっていたのは間違いなかった。

 

「いや、あいつら触ってもらったら気持ちよさそうに目を閉じたり、

 命令をされれば素直なふりして座ったり前足を上げたりするんだよ。

 それが演技じゃなかったらなんだっていうのさ?

 大体、あいつらったらプライドがないんだよね。

 飼い主に軽々しく尻尾を振ったりなんかしちゃったりして」

 

「猿だってそんなに変わらんよ」

 

未代奈がそう言ったが、ソルティーヤくんは断じて認めない様子で首を振った。

 

「ミヨナはまだ何もわかってないんだよ。

 猿は犬とは全然違う生き物なんだ。

 君たちだって知ってる通り、人間の祖先は猿だ、犬じゃないでしょ?」

 

未代奈はその質問に対しては素直に頷くしかなかった。

 

「そうなんだ、猿は人間の祖先なんだよ。

 僕たち猿がいなければ人間だって生まれなかったんだから。

 それがまず犬とは決定的な違いなんだ。

 そしてね、猿は人間の祖先であるがゆえに賢い。

 あいつらみたいにただ座ったり手を上げたりするのとはわけが違うんだよ。

 だから人間と一番仲良くできる生き物は間違いなく犬ではなく猿なんだ」

 

「みんな一緒に仲良くすればいいやんか~」

 

未代奈は先ほど買ってきたスーパーの袋の中からバナナを一本取り出し、

それをおもむろにソルティーヤくんに手渡した。

ソルティーヤくんもバナナに関しては黙って受け取り、

何も言わずにそそくさと皮をむきながら話を続けた。

 

「いや、ダメだよ、ここははっきりさせとかないとダメなんだ。

 なぜならね、犬達は気を許しておけばすぐに猿の立場を奪っていくんだから。

 あいつら何かって言うとさ、すぐに桃太郎の話を持ち出してくるんだよ。

 『桃太郎から一番最初にきびだんごをもらったのは犬だ』なんていうのさ。

 奴らはその話を持ち出してはすぐに人間の一番の友は犬だと主張する。

 だけどね、あんなのは媚びてるだけなんだよ、恥ずかしくないのかな?

 大体、一番最初にきびだんごをもらったからなんだっていうのさ、

 僕は鬼退治に一番役だったのは間違いなく猿だと思うね。

 犬なんて噛み付くくらいしか脳がないじゃないか。  

 奴らは人間と一緒に狩りができるとか偉そうに言ったりするけど、

 あいつらがそんな風に媚びて人間と仲良くしてるのに引き換え、猿は全然違うんだよ。

 何より猿は人間の祖先なんだから、あいつらダーウィンの進化論も知らないんだよ!

 長々と説明させてもらったけれど、さすがにこれでよくわかったでしょ?

 さあ、もうあんな奴らのことは忘れて一緒に『西遊記』でも観ようよ!」

 

バナナをすぐに食べてしまうと咀嚼をしながら椅子から降りて未代奈の服の裾を引っ張った。

ソルティーヤくんは未代奈が犬派へと完全に傾いてしまう前に、

猿の本当の勇敢さとか偉大さを映画を通じて伝えたかったのだろう。

オスはどうしたってプライドがあって、敗北は許されないのである。

未代奈やきな子にとって自分が一番か二番か、それが闘争の火種となる。

 

「ケンカはいやや」

 

怖い顔をして未代奈がそう呟くと、ソルティーヤくんは大きなため息をついた。

そして両手を挙げて肩をすくめるような仕草をした。

 

「・・・わかったよ、もうあの犬に会わなけりゃ済む話だしね。

 だけど僕はただわかってほしかっただけなんだよ。

 君にもあのきな子ちゃんにも、猿の魅力についてね・・・」

 

「・・・チンパンジーとアンドロイドの恋なんてシュールすぎるやん」

 

「えっ、アンドロイドって・・・どういうこと?」

 

ソルティーヤくんは未代奈がボソッと呟いた言葉に驚いて反応した。

 

「あの子は人間じゃなくて多分アンドロイド。

 さっき見たときに私にはもうわかっとったでさ。

 やでなんか、あんなに純粋な心を持っとるんやと思う」

 

「叶わぬ恋やお」と言いながら未代奈はソルティーヤくんを両手で持ち上げて優しく抱きしめた。

ソルティーヤくんは生まれて初めて恋をしたと同時に失恋してしまった無情な切なさに打ちひしがれた。

だが、そもそもチンパンジーと人間でも叶わぬ恋であることは同じだったろうに・・・。

 

 

 

・・・

 

後日、約束していた日時にきな子はバレッタへやってきた。

バレッタの入り口のドアに入る前、きな子は笑顔でお店の中を見回した。

誰が見ても健全な好奇心で満ち溢れているのがわかる彼女の顔を見て、

未代奈はきな子が入ってこれるように手を振って居場所をきな子に知らせた。

未代奈の姿を見つけた彼女は何となく低姿勢になりながら入り口のドアを押し開けた。

 

初めての場所に緊張する気持ちと、ワクワクする冒険心に満たされながら、

きな子は無邪気に未代奈のいるテーブル席まで駆け足で近づいていった。

ソルティーヤくんは幾分緊張しているのか、いつものように前かがみの姿勢ではなく、

背筋を伸ばして起立していたのが何だか曲芸猿を思わせて哀れであった。

 

「お待たせ~!」と言いながらにこやかに駆け寄ってきたきな子は、

「すごい!未代奈ってこんなとこで働いてんの!?」と無邪気に感動をあらわにしていた。

きな子は未代奈のそばに立っていたソルティーヤくんにも手を振ってくれたが、

彼は固まったままで動いてはいけない兵士みたいに立ち尽くしたままだった。

 

先日はソルティーヤくんとチョップがケンカしてしまったせいで、

ゆっくりと話をすることができなかったこともあって、

未代奈はきな子をテーブル席に座らせてメニューを差し出した。

営業時間中だが他のお客さんは誰もいないので話をするのは自由だった。

 

「何飲む? 好きなの頼んでいいよ、私のおごりやから」

 

「えー、じゃあメロンジュース!」

 

「えっ、それだけ?

 別に食べ物頼んでもええよ」

 

「・・・うん、メロンジュースだけで大丈夫!」

 

きな子はそう言うと、もう何も言わなくなったので、

未代奈はそれを了解してお店の奥へと引っ込んでいった。

ソルティーヤくんはきな子の座っているテーブル席から少し離れたところに立ったまま、

好きな女の子に話しかけに行けないシャイな小学生の男の子みたいになっていた。

 

やがて未代奈は両手で持ったトレーの上にメロンジュースとフルーツジュースを乗せて戻ってきた。

メロンジュースをきな子の前に差し出し、テーブルの反対側にフルーツジュースを置いてそちら側に座った。

 

「おごりおごり~♫」とウキウキした様子でストローに口をつけたきな子は、

未代奈が運んできたメロンジュースを一気に半分くらいまで飲み干した。

はしゃいだ様子で嬉しそうに飲む彼女を見ていた未代奈も満足そうに微笑んでいた。

 

「すごい勢いやね、なくなったら他の物を頼んでもええよ?」

 

「うん!じゃあなくなったらまたメロンジュースもらおっと!」

 

未代奈もまたストローに口をつけた。

彼女は果汁100%のジュースしか飲まなかった。

薄まっているジュースがどうも苦手らしい。

 

「炭酸飲料が好きなん?」

 

「ううん、っていうかメロンジュースが好きなの!」

 

「普段は何を食べるん?」

 

未代奈にとって食に対する関心は最も重要なことであり、

自分自身が異常なほどに興味を持っていることであるから、

他人が何を食べているのか、何が好きなのかを知ることは自然なことだった。

そうした興味から何気なく尋ねた問いかけだったのだが、

どういうわけかきな子の表情は少しずつ曇っていくのだった。

 

「・・・わたがしとペロペロキャンディだよ」

 

「えーっ、そんなお菓子ばっか食べとったらあかんやん」

 

「でも、きな子はこうして生きてきたもん」

 

少しふくれっ面になりながらきな子はストローにまた口をつけた。

褒められると飛び上がるように喜ぶきな子の性格は、

貶されたり批判されると、それは怒りに転化されて蓄積される。

それが多少の反抗心となって表面に現れてしまうのだった。

本人もわかっているがなかなか性質を変えることは難しかった。

 

「あったかいお茶とか飲まんの?

 抹茶とかほうじ茶とかもおいしいし、

 和菓子とかもめっちゃ合うのに~」

 

「だって飲もうとしたらきな子の舌が痺れちゃうし。

 きな子にはメロンジュースが一番おいしいから」

 

「口が欧米人なのかな?」

 

そばで聞いていたソルティーヤくんには未代奈が導き出した公式である、

《メロンジュース=欧米人》の意味がよく理解できなかったのだが、

「ごめん、適当に言った」とすぐに謝罪したのでその疑問はすぐに流れて消えた。

 

未代奈はお茶に対して強い関心を持っており、このお店でも色々とメニューに加えていた。

抹茶ティーラテ、抹茶フラペチーノなどの若い女子に人気のある飲み物から、

ほうじ茶やそば茶など、年配の方が好みそうな渋いセレクトまで幅広くあった。

そういった自分の好みの物がきな子は全く好きではないという話を聞いた未代奈にとって、

それはとても絶望的な答えであり、人生を半分以上損していると考えるに匹敵した。

人間は誰しも自分の価値観で物事を図ってしまう癖があり、そこから逃れることはできない。

もちろん未代奈は無理に好みを押し付けるような事をする人ではなかったけれど、

きな子がおいしい物を食べられないという事実は彼女の心を悲しくさせるのには十分だった。

 

「え~、でももったいないよ~。

 人生めっちゃ損してると思う」

 

「別に損してないし。

 きな子は省エネ設計されてるからだもん」

 

そう言ってからきな子はしばらく気まずい表情をして黙り込んだ。

この頃の彼女は自分自身がアンドロイドである事を必要以上に言いふらす事はまだなかった。

自分と似たような経験を持っていたり、気持ちを理解してくれると信じた人にだけ、

その秘密を告げるという生き方を貫いていた時期だったのだ。

だからメロンジュースしか飲めない、わたがしやペロペロキャンディしか食べられないのは、

彼女を造り出したウナギ博士による省エネ設計に由来することらしかった。

両親から聞いたその事実をうっかり口を滑らせてしまった事もあり、

きな子は少しばかり気まずい表情をする事になってしまったのだった。

 

「えっ、なにそれ、びっくりした!」

 

黙っていたきな子が大きな声でいつもの様子に戻ったのは、

ふと顔を上げて未代奈の表情を伺った時だった。

 

「ああ、これは私の特技の高速瞬きだよ」

 

そう言うと未代奈はまた物凄いスピードで瞼を開けたり閉じたりしてみせた。

きな子はそれを見て「すごい!」と笑い始めたので二人の間に気まずい空気は消え去ったのだった。

 

「ねえ、ちょっとあっち向いとって~」

 

未代奈はすぐに立ち上がってソファー椅子のきな子の隣にやってきた。

そしてきな子にいきなりそう告げたが「何?なんで?」ときな子が訝しそうに尋ねた。

「いいから~」とニヤニヤしたままで未代奈がまたそれを促すと、

きな子はよくわからないながら渋々窓側の方へ体を向けて座った。

次の瞬間、未代奈の両手がきな子の頭に触れたので彼女は驚いた。

ソルティーヤくんも一体何をするつもりなのかと遠くから見守っていた。

 

「体質改善のツボがあるから」

 

そう言って未代奈はきな子の頭から順々に両手でマッサージを始めた。

きな子の皮膚はどういうわけか人間と同じように柔らかく作られており、

触れてみたところ全くアンドロイドらしさは感じられなかった。

 

「くすぐったいよ~」と言ってきな子は多少抵抗したのだが、

抵抗すればするほど彼女のいじわる心が刺激されてもっとしたくなった。

マッサージを続けながら、未代奈はそのまったく人間と同じように感じられる感覚器官に感動を覚えており、

きな子がものすごく精巧に造られている事をその指先でひしひしと感じていた。

いったい彼女の体はどういう構造になっているのだろうという関心を抱きながらも、

未代奈は時々ツボを押しながら体質改善のマッサージを続けていった。

 

「はい、これで終わり~」

 

未代奈は最後に背中をポンと叩くとマッサージを終えた。

きな子はなんとなく体が軽くなった気もしたのだが、

今まで家族の誰も彼女をマッサージしようなどと考えたことはなく、

彼女も生まれて初めてこんなことをされたのであった。

「肩が凝ってる」と家族に言っても気のせいだで済まされ、

そのあたりはとても精巧に造られているはずなのだが、

彼女がアンドロイドだと知っている家族はその肩こりを信じてくれなかった。

 

「うわっ、なんか体が軽くなった気がする!」

 

きな子は肩こりが取れたのか、両腕をブンブンと振り回した。

未代奈がそれを見てうれしそうにニコニコと微笑んでいた。

 

「これでなんでも食べられるようになったよ」

 

未代奈はそうきな子に告げると「ちょっと待っとって~」と続けて、

またお店の奥へと走って行ってしまった。

しばらくすると店の奥からお肉を焼くような「ジュ~!」という音が聞こえてきた。

どうやら未代奈が何かを作っているらしかった。

 

一人残されたきな子は不思議そうな顔をして待っていたが、

先ほどまでの楽しそうな表情とは打って変わって、

なんだかとてもシリアスな顔をしてボーッとしていた。

未代奈がまだ戻って来る様子を見せなかったので、

ソルティーヤくんは彼女を退屈させるわけにはいかないと思い、

おそるおそる近寄ってみると、彼に気づいたきな子もニコッと微笑んでくれたので、

ソルティーヤくんは少し照れながら歩いて行ってきな子の隣の席に座った。

 

「ウキッ?」

 

ソルティーヤくんは持っていたバナナをきな子に差し出した。

喋れない彼なりの配慮であったが、きな子はそんなものは食べられない。

 

「いいよ、ごめん、食べれないから」

 

きな子はソルティーヤくんにそう告げて一人窓の外を見つめた。

左手に顎を乗せながら頬杖をついて寂しそうな表情を浮かべていた。

 

ソルティーヤくんは猿界ではエリートなので(無職だが)、

言葉を発しなくても人間が態度で語っていることをある程度理解できた。

人が頬杖をつく時、それは何か不安を感じている時だった。

そして、何かに対して居心地の悪さを感じていたりする場合であって、

そういう人間が例え言葉で「大丈夫」と言ったりしても、

それが態度との矛盾から嘘をついていることがわかるのである。

そういう時に、彼は人間の言葉の無用さを感じるのだった。

猿は人間へ進化する過程で、どうして言葉を身につけたのだろうか?

少なくとも猿にはそんなものは不必要だった。

ボス猿は高いところに登れば周囲を圧倒することができたし、

声を出せば威嚇、肌に触れれば好意を示すなど、

誰が見てもそんなことは一目瞭然にわかることなのに。

 

「・・・きな子ね、あんまり友達いないんだ・・・」

 

先ほどのバナナを自分で食べていたソルティーヤくんは、

窓の外を見つめていたきな子がそんな風につぶやくのを聴いてしまった。

おそらく彼女は家でもこんな風にあの犬に語りかけているのだろうとソルティーヤくんは思った。

動物は人間よりも優れた話相手であることは間違いないのである。

なぜなら、彼らは何を言い返すこともなく黙って話を聞いてくれるのだから。

人間にはそんな簡単なこともできやしない、誰もが無用な自分の意見を持っているために、

その意見を自分の立場から主張して相手をやり込めようとしてしまう。

人間は話をただ聴いてほしいだけだということをペットは理解できても、

どうやら人間には理解することができないらしいのだ。

 

「不器用だからかな・・・自分でもよくわからないけど」

 

自分で自分をコントロールするというのは誰にとっても難しいことだが、

おそらく彼女はとりわけそういう部分で悩みを感じているのかもしれなかった。

自由に心のままに生きれば誰かを傷つけてしまうことになったり、

かといって遠慮し始めればどう振る舞っていいかもわからなくなる。

しかしそれは心を持つ人間に特有の悩み事であり、

葛藤しながらも、ゆっくりとバランスを取っていく。

そしてそれが大人になることだと後になってわかってくるのだ。

だから解決策としては、精一杯生きる、という事の他にはない。

もちろん生きる事は痛みを伴う事であり、一人で歩き出しては転ぶ事である。

だからこそ人生において大切な事は、互いに助け合う事、いたわりあう事だと、

こうした猿でもわかる理屈をわからない人間をソルティーヤくんは不思議に思うのだった。

 

「でもね、未代奈といると安心するの。

 理由はわかんないけど、とっても気が合うの。

 もちろん、ずっと一緒にいたら時々はケンカしちゃうかもしれないけど、

 でもなんとなくすぐに仲直りできそうな気もするし・・・。

 なんか不思議、まだ出会ったばっかりなのにね!」

 

またお店の奥から「ジュ~!」という大きな音が聞こえてきた。

それと同時に香ばしいお肉の香りが漂ってきて、

ソルティーヤくんは自分が食べられるわけではないのにお腹がすいてきた。

そういえば未代奈だってこんなに一生懸命になって彼女の為に料理までして、

その必死さは今までこの街に友人も作らずに孤独に頑張ってきた、

そういう彼女の寂しさからだったのではないかと思えてきた。

二人とも友達がいないなら丁度いい、二人は良い友人になれるかもしれない、

ソルティーヤくんはそんな風に思っていた。

 

「あっ、これ未代奈には内緒だよ!

 きな子がこんな事言ってたっていっちゃダメだからね!」

 

きな子はソルティーヤくんの方を向いて口元に人差し指を当てながらそう言った。

ソルティーヤくんもそのポーズを一緒に真似る事できな子はとても喜んでくれた。

彼女のリアクションの良さは、ソルティーヤくんをさらに調子づかせた。

おそらく、オスの本能としてメスが喜んでくれるというのは、

どうしても抗いがたいこの上もない喜びの一つであり、

それによって引きずり回される事もオスの悲しい宿命なのだろう。

 

ソルティーヤくんはバレッタの店内にある観葉植物まで走っていき、

「ウキッ!」ときな子の注意を引きつけておいてからその植物に引っ付いた。

植物を上へ登り始めるように見せてから「ウキッ!」と言って地面に落ちて見せた。

彼は「猿も木から落ちる」を実践して彼女を喜ばせようとしたのだ。

そして、それを見たきな子は楽しそうに笑い始めたのだから、

彼はおどけたピエロみたいになって何度も何度も実演して見せたのだった。

 

テーブル席の方から何やら楽しそうな笑い声が聞こえてくるのに気づいた未代奈は、

先ほど調理し終えたチキンステーキをトレーに乗せて戻ってきた。

そのとき、丁度ソルティーヤくんがまた植物から地面に落ちて見せたところであり、

きな子は「未代奈、あれ見て、面白い!」とお腹を抱えながら笑っているところだった。

 

未代奈は彼に冷たい表情を浮かべたまま「きな子、座ろ」と言って彼女を着席させた。

きな子はまだしばらく面白がっていたのだが、未代奈はソルティーヤくんを睨みつけていた。

彼女に怒られたと思ったソルティーヤくんは気まずそうな表情を浮かべて床に座り込んでしまった。

 

「あれ、落ちたのは猿やないよ」

 

「えっ、どういう意味?」

 

きな子がよくわからないと言った風に問い返すと未代奈は冷たく言い放った。

 

「地に落ちたのは彼のプライドやから」

 

ソルティーヤくんはしょげて肩を落としてしまった。

オスのバカバカしい本能を理解してくれるメスは少ないのである。

 

 

・・・

 

 

テーブルの上には白い湯気が立ち昇っていた。

それは、チキンステーキの熱を伝えてはゆらゆらと宙に消えていった。

 

「はい、召し上がれ」

 

未代奈はそう言ってカトラリーケースからナイフとフォークを取り出した。

きな子はしぶしぶそれを受け取ってみたものの、どうやら食欲は湧いていないようだった。

 

にんにくで味付けされたチキンステーキは香ばしい匂いがしており、

表面の鶏皮をこんがり焼かれていて、表面にまぶされた刻みパセリも鮮やかだった。

フライドガーリックがチキンのところどころに乗せられており、

添えられたトマトやキャベツも瑞々しくてとても新鮮だった。

 

こんな美味しいものを目の前にして食欲がわかないなんて、

未代奈にとっては信じられない出来事だった。

むしろ持ってきた自分のお腹が「ぐぅ」となってしまい、

自らがそのステーキを食べたくなってしまった。

 

未代奈はその欲望を感じてから、いい事を思いついた。

まず自分が食べて見せれば彼女も食べてくれると思ったのだ。

それでカトラリーケースから自分もナイフとフォークを取り出して、

それを慣れた手つきで切り分けていった。

一番端には骨がついていたが、未代奈はそれを器用に取り外した。

 

そして、ステーキをフォークで刺して一口食べて見せた。

これは美味しいという事を示そうと思ったのか、

彼女の本能的な動作なのかわからなかったが、

とにかく満面の笑みを浮かべてそれを咀嚼して「おいひい」と言った。

未代奈の糸みたいに細くなった両目を見ていると、

きな子も釣られたようにおそるおそるステーキにフォークを刺した。

そしてそれを多少ビビりながらゆっくりと口元に運んだ。

口に入れてフォークを抜いた瞬間まで顔は歪んだままだった。

 

「・・・えっ、おいしい!」

 

きな子はびっくりした顔をして咀嚼を続けていた。

目を大きく見開いて、何度もチキンステーキを角度を変えて眺めるその仕草は、

まるで彼女の飼っている犬を連想させる動作だった。

 

「なんでー!?

 昔食べた時はすっごいまずかったのに!」

 

「食の好みは変わるからね」

 

きな子が食べてくれた事に気をよくした未代奈は、

また骨つきの部分をうまく外しながらきな子が食べやすいようにしてやった。

きな子はまたそのステーキの一切れをぱくっと口の中に放り込んだ。

その味は、やはりおいしいかった。

 

「もうこれで何でも食べられるよ。

 多少の好き嫌いは残るかもしれんけど、

 体質が改善されたら大抵の物は食べられるはずやから」

 

未代奈はそう言いながらチキンステーキを器用に切っていく。

きな子は生まれて初めてこんな物を食べられたのが余程嬉しかったのか、

その手つきを見ながらえらく感動したように未代奈へ呼びかけた。

 

「じゃあこれから未代奈の事をチキン先生って呼ぶね!」

 

「え~っ、なにそれ~?」

 

「だって、骨つきチキンをこんなに上手に食べられるから!」

 

そう言ってきな子は嬉しそうにパクパクとチキンステーキを食べ、

時々合いの手のように未代奈の事を「チキン先生、チキン先生」と呼び続けた。

 

「なんか臆病者みたいやからいやや~」

 

「じゃあ今度一緒にお化け屋敷行こうよ~?

 未代奈がビビらなかったら呼ぶの止めるから」

 

「もう~きな子のいじわる!」

 

 

そんな風にしてきな子は未代奈の作ったチキンステーキをペロリと平らげてしまった。

もしかすると今まで食べられなかった他の物も食べれるのではないかと考えたきな子は、

その好奇心に背中を押されるようにメニューを見るのが楽しくなったらしく、

そこに書かれている料理を未代奈に尋ねてはどんな料理なのかを理解していった。

未代奈と別れた後で家に帰ったきな子は、どうやらお母さんに晩御飯をおねだりしたらしく、

今まで食べた事のなかった料理を次々と食べ比べしていったという事らしい。

それからというもの、毎日のように新しいものを食べる事が楽しくなったきな子は、

少しずつ買い食いをするようにもなり、食べた事のないチョコレートやケーキなどにも手を出し始めた。

 

そんな風にしてきな子は好奇心に任せて好き嫌いを克服していったのだった。

後日、また未代奈に会った時には嬉しそうに「うなぎが一番おいしい!」と語っていたという。

ただし、その一番はわりとすぐに変わるところがあり、要するにある程度何でもおいしいらしい。

だが、とにかく未代奈はきな子の好きな食べ物がわかると、それをバレッタで作ることにした。

そしてまたきな子が食べに来た時には無料で提供してあげる事にしたのだった。

大好物の食べ物をお腹いっぱいに食べる喜びを教えてあげる事ができて、

未代奈自身も大満足していたというわけなのである。

 

 

チキンステーキをふるまった日、バレッタから帰るきな子を見送った後、

やっと言語的制約から解き放たれたソルティーヤくんが口を開いた。

 

「やれやれ、やっとバカな真似から解放されたよ」

 

「結構楽しそうにやっとったように見えたけど?」

 

未代奈はテーブルの後片付けをしながらそう言った。

ソルティーヤくんはあの観葉植物事件を目撃された事を思い出して少し恥じた。

 

「もう、あんまり僕をいじめないでよ。

 それより、あれはどうやったの?」

 

「あれって?」

 

キョトンとした表情をして未代奈が言った。

とぼけた顔をさせたら児玉坂で彼女の右に出るものはいなかった。

 

「体質改善とか言ってたやつ。

 ただマッサージしたわけじゃないのは僕にはわかってるんだから」

 

ソルティーヤくんは少し皮肉交じりにそう言った。

先ほど引き上げた食器を洗い場に運びながら未代奈は答えた。

 

「あれは省エネモードを解除しただけやで。

 なんでかはわからんけど、生まれつきあまり食べなくてもいいように設定されとったから、

 そのスイッチを探してツボを押すフリして解除しただけ」

 

「そんな事、勝手にやっちゃっていいの?」

 

「だって、いろんな美味しい物を食べられた方がいいに決まっとるやん」

 

食器を洗剤をつけたスポンジで洗いながら、

未代奈はそんな事を喋りながら何か美味しい物でも思い出したのか、

どうやら唾を飲み込んだ音がソルティーヤくんには聞こえた。

猿は人間と比べると聴力は優れていたのである。

 

「間違ってるとは言わないけど、

 あんまりやりすぎない方がいいと思うよ。

 そうでないと僕がバカな猿を演じてる甲斐もなくなっちゃうし」

 

ソルティーヤくんは未代奈を諭すように述べたつもりだったが、

食器を水で洗い流していく未代奈は相変わらずキョトン顏をしており、

自分は何も間違っていないという、強い信念を持っている表情を浮かべていた。

 

ソルティーヤくんが思っている未代奈らしさとはそういう一面だった。

彼女は誰よりも強い自信と信念を持っている女の子だったのだ。

その要素がどのように彼女の内部で作用しているのかはわからない。

ただ、彼女は自分のやっている事が最も正しいと思っている事が多い。

だからこそ、他の人々が恥ずかしいと思ってしまう事も自信を持ってやりきる事が出来る。

この狂信的とまで言える信念が、彼女を普通の女の子よりも幾分タフにしていたし、

折れない強い精神を保つ事が出来ていたと言える。

 

また、彼女は興味のある物事とそうでない事の分け方がわりと明快であり、

興味のある物事には全てを忘れて没頭するほどの興味と集中力を発揮する事がある。

そして、そこから自分が生きて行く上で糧となる栄養素を吸い上げていき、

自分の頭の中で描いている世界観をどこまでも強化していくのである。

その彼女の中で成長していく世界観はどこまでも幻想的であり、

彼女がどれだけ生きるのにくたびれたとしても、そこに帰って浸る事でまた蘇る事ができた。

未代奈はそうやって自分の夢や目標をどんどんと強化していく事が出来る才能を持っていた。

 

こうした人間の長所は、その才能を発揮して誰も思いつかない事を実行したり、

その幻想世界があたかも実在するかのように力強く前へ進みながら夢や目標を叶えていく事だろう。

自分が正しいと心の底から信じている以上、その夢や目標が揺らぐ事は少ないし、

生きて行く上での経験から自分なりの哲学を作り上げてそれをどんどんと強固な物にしていくのだった。

ただし、人間の長所と短所は表裏一体であり、おそらくそれは治せるものでもないのだが、

例えば一度嫌な経験をしてしまうと、それを二度とやりたくないという頑固さにもつながる。

もしくは他人の意見を聴いているようで聴いていないという風にもなってしまうだろう。

もちろんそれは、彼女には彼女の強烈な信念があり、それを信じているからなのだ。

そうであるがゆえに、時には集団から外れた異質な行動を取ってしまう事もあるだろうが、

根が純粋な未代奈であるために、おそらくそれを非難する事は難しかった。

そうして彼女は許されてしまう事になる、責めても仕方ないのだから。

 

「なあ、猿の脳みそって美味しいんかな~?」

 

洗い物を終えてタオルで手を拭きながら未代奈はそう尋ねた。

食器を洗っている間に彼女の思考がどういうルートを辿ったのかは、

我々がどれだけ考えても知る事が出来ない謎なのである。

推測するには、おそらく何の配慮もなく美食の対象としてそれに関心を持っただけなのだろう。

 

だが、それを耳にしたソルティーヤくんは震え上がってその場を離れた。

未代奈の事をよく理解しているだけに、その考えを真剣に取り込んでしまったら、

彼女はそれに没頭してしまうという事がわかるからだった。

 

「中国人は猿の脳みそを食べるって聞いた事があるけど、

 西遊記では猿を活躍させとるのに、なんで食べるんやろ?

 活躍してる姿を見ながら、それと同時に、ああ美味しそうって思っとるんやろか?

 なんかそれってすっごい『矛盾』してると思わん?

 でもそうか『矛盾』って言葉が中国から生まれとるんやから、

 中国人が『矛盾』してるのは、それはそれで正しいんかな~?

 でもそれにしても『矛盾』ってさ~・・・」

 

未代奈は覚えたての言葉を嬉しそうに話続けたが、

やがて周囲にはもうソルティーヤくんがいない事に気付いた。

 

「・・・もう!

 ぜんぜん人の話を最後まで聴かんのやから~!」

 

常時、こんな風であるからして、

我々が彼女を責める事は永久に不可能なのである。

 

 

・・・

 

 

「ズルズル」という音が部屋に響き渡っていた。

同時にTVからは「キャー」という悲鳴も聞こえて来る。

続いてポップな機械音が鳴り響いて未代奈はスマホを手に取って見つめた。

 

バレッタがお休みの日、未代奈とソルティーヤくんは映画が見たくなったので、

一人と一匹は午前中から駅近くにあるレンタルDVD屋を訪れることになった。

そこでソルティーヤくんはタイトルを見て興味を持った「海猿」を借りたいと主張したのであるが、

「それは猿はでてこやんよ」と未代奈に絶望的な真実を告げられてしまい、

結局はなにやら人肉でラーメンを作るという不思議なホラー映画を借りることになった。

 

そして未代奈は自分で昼食のラーメンを作ってからその映画の鑑賞を始めた。

画面にはなにやらグロテスクな場面がたくさん映し出されていて、

これはさすがに猿でも食欲をなくすような描写ばかりだったのだが、

未代奈はどういうわけか映画に見入りながら時々爆笑の声をあげた。

そして、何も気にする事なく自分で作ったラーメンをズルズルとすすっていたのである。

そんな時にラインの呼び出し音が鳴ったのである。

 

「ねえミヨナ、僕、とってもホラーな物語を見つけたよ」

 

そのホラー映画には興味を示せずに退屈そうにパソコンでネットサーフィンをしていたソルティーヤくんは、

映画への集中力が途切れたその瞬間を狙って未代奈に話しかけたのだった。

 

「なにそれ、洋画?邦画?」

 

「いや、さっきネットで見つけたんだけどね、『猿の婿入』って昔話があるらしいんだよ。

 人間の娘と結婚しようとした猿が、畑の耕作を手伝ってあげたにもかかわらず、

 二人の娘には結婚を断られ、三人目の娘は婿入を認めてくれたかと思ったら、

 うまいこといって猿は騙されて川に飛び込まされて殺されちゃうんだよ。

 僕、いままでこんなに悲しくて怖い話を聞いた事がないよ・・・」

 

ソルティーヤくんはぶるぶる震えながらその話をしていた。

そして自分の心を奮い立たせるようにして次の言葉を継いだ。

 

「これってさ、絶対に猿を蔑視してると思うんだよね。

 まあ今より昔の話だから、今はもう随分と猿への偏見も減っただろうけど、

 僕これ、もっと猿の権利、つまり猿権を世の中に訴えてもいいと思うんだよ。

 だって声をあげなきゃ社会は何も変わろうとしないもの。

 そうでないと猿はただ搾取されて終わる存在になっちゃうよ、ね、怖い話でしょ?」 

 

ソルティーヤくんは熱弁して猿の権利を訴えようとしたのだが、

その物語は未代奈の好きなホラー系とは少し違ったようであり、

それほど興味関心を持ってもらう事はできなかったようだった。

 

「ふ~ん、なんか怖いね」

 

「ねえ、本当にそう思ってる?」

 

「え~、思っとるよ~」と言いながら未代奈はラインの返事を打っていた。

これは絶対に話をちゃんと聞いてくれていないと思ったソルティーヤくんは少し拗ねた。

 

返事を打ち終えた未代奈はニヤニヤと思い出し笑いを始め、

嬉しそうにソルティーヤくんに対して話しかけた。

 

「ねえ、この前すっごい面白いもの見つけたんやけど、

 ソルティーヤくん、それが何かわかる~?」

 

「いや、わからないけど」

 

未代奈は手で口を押さえて笑いを堪えながら喋っていた。

 

「ふふふ、世の中にはサルスベリって名前の木があるんやって。

 なんか、猿でも滑りそうなくらい枝がつるつるしとるらしくってさ~、

 いったいどんな木なんやろ~、ソルティーヤくん機会があれば登ってみて~」

 

ソルティーヤくんが膨れて黙っていると「どんな風に滑るんやろ~」と言い始めて、

やがてゆっくりと吹き出しながら、それは「アーハッハッハッ!」という爆笑に変わっていった。

結局ソルティーヤくんにとって、一番ホラーだったのはその狂気を含んだ笑い声だったかもしれない。

 

その時にまたラインの呼び出し音が鳴り、未代奈はまたスマホの画面を見つめた。

そして、次の瞬間には右手で口元を押さえながら驚いた様子で突然涙をボロボロとこぼし始めた。

この急展開にソルティーヤくんでさえ、時々ついていけなくなることがある。

彼女の感情の振れ幅や心の揺れ動きは常人にはなかなか掴めないので時にはこんなことになるのだ。

 

「・・・ミヨナ、まず気を確かに持つんだ。

 どうしたんだい、いったい何があったんだい?」

 

ソルティーヤくんは未代奈の両肩をゆすりながら問いかけたのだが、

未代奈はスマホを床の上に置いてしまって両手で口元を押さえ始めた。

 

「・・・申し訳ないことを・・・」

 

涙声のままで取り乱したように、未代奈はそう口走った。

その様子に何があったのかとソルティーヤくんも動揺が隠しきれない。

 

「いったいどうしたって言うのさ?」

 

「・・・勝手に押すもんじゃないなって思って・・・」

 

そう言いながら気が動転してしまった未代奈は、

突然立ち上がって走りながら部屋を飛び出していった。

ホラー映画も食べかけのラーメンも忘れて飛び出していくなんて、

よほどのことがあったのかと、ソルティーヤくんは心配になってきた。

そして、未代奈が置き忘れてしまったスマホだけが寂しく床の上に残されていた。

 

ソルティーヤくんは恐る恐るスマホを取り上げてその画面をチェックした。

未代奈が泣きながら飛び出していった理由がわかるかもしれない。

 

 

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未代奈、大変なことになっちゃったよ・・・

 

 

                      何?どうしたん?

                      大変なことってなに?

 

 

体質改善したのは良かったんだけど、

それからずっと体がおかしいの・・・

なんだか体がすっごい重たいし、

時々息が苦しくなっちゃったり・・・

 

 

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どうやら未代奈がラインをしていた相手はきな子だったとわかった。

そして、彼がこのラインのやり取りを見る限り、

未代奈が体質改善のマッサージと言いながら彼女の省エネ機能を外したことが、

彼女の体に何らかの異変を招くきっかけとなってしまったらしかった。

それで未代奈はあんなに正しいと信じていた自分の行いが間違っていたと気づき、

とんでもないことをしでかしてしまったと思って泣いていたのだろう。

きっと心配になってきな子のところへ向かったのかも知れなかった。

 

(・・・なんともまあ、やれやれだね・・・)

 

ソルティーヤくんは未代奈の感情の変化に振り回されながらも、

純粋で友達思いな未代奈を責めるわけにもいかなかったので、

またどうにか彼女をサポートする作戦を練らなければいけないと覚悟した。

いったい何が起こってしまったのか、どうすれば彼女の体調は良くなるのか、

そんなことを考えている間に、またラインの呼び出し音がなったのだ。

 

 

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それでなんでだろうってお母さんに聞いたら、

「きな子食べ過ぎだから太ったのよ」だって

ダイエットしなきゃいけないんだって、

どうしよう、大変なことになっちゃったよー!!

 

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そのメッセージがきな子から届いた後で、

彼女は続いて「反省ザル」のスタンプを送ってきた。

それがとても愛らしかったのでソルティーヤくんはますますきな子が好きになった。

彼女が太ってしまおうが、そんなことは関係ない、たとえ川に沈められてしまっても・・・。

 

 

ソルティーヤくんはそのスタンプへの返事として、

「君を愛さザルを得ない」という文字と猿の絵が入ったスタンプを送った。

送った後でニヤニヤしてしまったが、やがて送られてきたのは「?」が強調されたスタンプだった。

 

そして、未代奈のことは、考えないことに決めた。

 

 

 

・・・

 

「もぉ~、きな子びっくりさせんとってよ~」

 

家族が出かけてしまって一人で留守番をしていたきな子は、

呼び鈴が鳴るのを聴いて誰かが訪ねてきたのを知った。

食べ過ぎていて体が重かったのか、玄関まで歩いていくのを億劫に思っていると、

呼び鈴はまた鳴り、やがて短い間隔で連続して鳴るようになっていった。

少し狂気的な鳴り方に、きな子は恐怖心さえ覚えたのだったが、

おそるおそる玄関のドアを開けてみると、そこには涙をボロボロとこぼした未代奈が立っていたのである。

 

「いやいや、未代奈の早とちりじゃん!」

 

玄関を開けた途端、きな子は未代奈に熱烈な抱擁を受けた。

泣きながら「ごめんなさいごめんなさい!」と連呼し続ける彼女に、

きな子はすぐには状況を飲み込めなかったのだが、

どうやら何か勘違いされていると思ったきな子は未代奈に「携帯は?」と尋ねた。

きな子から離れて両手で身体中に触れて探したあげく「家に忘れた」と返事をした未代奈。

きな子はすぐに自分の服のポケットからスマホを取り出してラインのアプリを起動させて未代奈に渡した。

片手で涙をぬぐいながらスマホの画面を確認していた未代奈は、やがてゆっくりと顔を上げて、

「よかった~!」と涙声になりながらまたきな子に熱い抱擁を浴びせかけるのだった。

 

 

実際、少し意味深な感じの文章の送り方をしたのは、きな子のイタズラ心からだった。

しかし、まさか未代奈がここまで真に受けると思わなかったので、

予想以上の展開になってしまったことに自分自身も驚いてしまったのだった。

 

きな子はせっかくなので未代奈を自分の部屋まで招待した。

彼女の部屋は階段を上がった二階にあり、きな子は一階からお茶とお菓子を持って部屋に戻ってきた。

しかし、未代奈の前に出されたお菓子の量は普通の客人に出す程度ではなく、

見たところ、そして先ほど抱擁したところ、きな子は明らかに少し肉付いた様子だった。

実際のところ、彼女はアンドロイドなので体脂肪がつくはずはないのであるが、

あまりに人間と同じように精巧に作られているために、体重の増減まで正確に再現されているのだった。

彼女はおそらくお腹が空いているわけではなかったのだろうが、満腹中枢がおかしくなっているのか、

持ってきたお菓子を次々と平らげ始めたのである、その食欲は未代奈でも少し驚くほどだった。

 

「そんなに食べたら太るに決まっとるやん」

 

茶飲みを両手で抱えながら未代奈は呆れてそう言った。

そんなことを言われたきな子はスナック菓子を持つ手を一瞬止めた。

そして、少し膨れたような表情を見せたが、やがてまた手を動かしてやけ喰いを続けた。

 

「そんなのわかってるけど、止められないの!」

 

未代奈は大食いキャラではあるが、自制心は働くのだろう。

彼女はある程度きちんと自分をコントロールして体重管理をしていた。

逆にきな子は、暴走し始めると自分を制御することが難しい。

良い方向にも悪い方向にも、一度ギアが入るとまっしぐらに進む。

もしかすると、こうしたきな子の特性を理解していたからこそ、

彼女は生まれつき省エネモードに設定されていたのかもしれなかった。

 

「じゃあ、また体質を前みたいに戻そっか?」

 

「やだ!」

 

きな子はお菓子を両手で抱えながら駄々をこねるようにしてそう言った。

一度知ってしまった悦楽を手放すのは人間でもアンドロイドでも難しいことだ。

欲望は人間を動かす原動力になるが、それに引きずられると地獄への片道切符となってしまう。

 

「でも食べ続けとったらジッパー閉まらんようになるよ」

 

「それは嫌だからちゃんとダイエットするもん」

 

そう言いながらも、とにかくきな子は食べ続けた。

色々な味を覚えてしまったからかもしれないが、

それにしても彼女は暴食を止められる気配がなかった。

欲望を制御するには、何か外部的な要因によって、

半ば強制的に自分を縛られるしかないのかもしれない。

人間は欲望の誘惑に一人で勝てるほど強くはないのだから。

 

その時、一階で犬が吠える声が聞こえてきた。

それはおそらく南野家で飼われている愛犬のチョップの声だった。

未代奈も以前公園で見かけたことのある雑種系の犬だ。

何を言っているのかはわからないが、もしかすると犬もきな子の暴食を心配しているのかもしれなかった。

 

「もう!チョップうるさい!静かにして!」

 

きな子は部屋のドアを開けて一階に向けて叫んだ。

その叫び声が聞こえたのか、チョップは吠えるのを止めた。

きな子は部屋のドアを乱暴に閉めて戻ってきてはまた食べ始める。

未代奈はお茶を飲みながら冷静にその様子をじっと眺めていた。

そして茶飲みをテーブルの上に置いて口を開いた。

 

「そういえば、食べ過ぎるのってストレスが原因やったりするって聞いたことあるけど、

 きな子、もしかしてなんか嫌なこととかあるんやないん?」

 

きな子はお菓子を口に放り込んで咀嚼しながらも悲しそうな表情になった。

しばらくの間、部屋には沈黙が流れたが、それが未代奈の問いかけが図星だったことを証明しているようだった。

 

「・・・最近ね、チョップが冷たいの」

 

「あのワンちゃんが?」

 

「うん、きな子が帰ってきても前ほど喜んでくれなくなったし、

 何怒ってるのかわかんないけど、きな子に向かってすっごい吠えてくるの。

 きな子は別に、前から何も変わったこともしてないし、

 だからチョップが何を怒ってんのか全然わかんないの」

 

きな子はテーブルの上に乗っていたコーラを飲んだ。

未代奈はお茶が好きだと知っていたからお茶を出したのだが、

自分はご飯を食べようが、お菓子を食べようが、炭酸飲料を飲んだりするのだった。

おそらく、まだ色々な味を覚えたばかりで味覚が発達していないのだ。

 

「怒っとるように見えとるだけやないん?」

 

「ううん、あれは絶対きな子に対して怒ってると思う!

 だってお兄ちゃんとかお母さんにはいつも通りになついてるし。

 どう考えてもきな子にだけいじわるしてるとしか思えない」

 

「え~、きな子がなんか先にいじわるしたんやないん?」

 

「してないよ!きな子は普通にしてるもん!」

 

きな子が自分の正しさを主張すると、

また階段の下からチョップが吠える声が聞こえてきた。

きな子は呆れた顔で「ほらまた!」と怒って見せた。

 

またきな子がドアを開けて静かにするように叫んだ。

今度は鳴き声が止まないので、未代奈も一緒に廊下へ出てみた。

階段の下には二階を見ながら吠えているチョップの姿があった。

 

未代奈が姿を表すと、チョップは少し驚いたのか、

先ほどまで吠えていた声を出さなくなった。

きな子が階段を下りながら「静かにしなさい!」と言うと、

捕まえられて怒られると思ったのか、チョップは急いでどこかへ逃げて行ってしまった。

 

「ほんまにどうしたんやろうね?」

 

二人は部屋に戻ってきてまた座った。

きな子はまたムシャクシャするからか自然とお菓子を手に取った。

 

「もうきな子にもわかんない。最近はずっとあんな調子だから、

 きな子もこの前は怒ってつい『このバカ犬!』って言っちゃって、それでずっと怒ってるのかな?」

 

「そんなこと言ったらかわいそうやん。

 犬はちゃんと人間の言葉がわかるんやから」

 

「じゃあ『うざい!ちね!』って言っちゃったことも覚えてるのかな?」

 

「なにそれ?」

 

「死ねとまでは言えないから」

 

きな子は冗談っぽく笑いながらそう言ったが、

どうも飼い犬と仲良くできていないことがストレスになっている様子で、

またお菓子をどんどんと口に運ぶことで解消しているようだった。

 

「未代奈はソルティーヤくんとケンカしないの?」

 

「えっ、めっちゃケンカするよ」

 

「じゃあ、どうやって仲直りするの?」

 

きな子にそう尋ねられて、未代奈は少しばかり考えた。

普段は人間の言葉を交わしながらやりとりをして、

だいたい未代奈が強引に彼を押し切ってしまうのだが、

そんなことを正直に言うわけにもいかなかったので、

どういう風に答えればいいのかを悩んだのだった。

 

「バナナをあげとけばだいたいは機嫌がなおるかも」

 

「ふ~ん、やっぱご飯で釣るしかないのかな?」

 

「だって、動物は基本喋れんやんか」

 

未代奈は後ろめたい気持ちもあったからか、

ソルティーヤくんは喋らないということを暗に強調するために、

動物は喋れないということを告げたのだった。

 

「うん、きな子はチョップにいつも話しかけてるけど、

 きな子はチョップが言ってることは全然わかんないから、

 それでこんなことになっちゃうんだと思う・・・。

 ちゃんとチョップと会話ができて気持ちをわかってあげられたら、

 もっと仲良くなれるかもしれないのにって、きな子時々思うもん」

 

きな子がそう言うのを聞いて、未代奈はまた少し考えてみた。

普段ソルティーヤくんと会話をしているけれど、

別に彼女は彼の気持ちをわかってあげていることもないし、

喋れないのと比較して特別仲良くなれている気もしなかった。

だが、それは彼と喋れることが当たり前になりすぎていて、

ただそのありがたみがわかっていないだけなのだろうかとも思った。

 

「う~ん、そうなのかなー」

 

「絶対そうだよ。

 喋れたほうが楽だよ」

 

きな子はため息をついてまたお菓子に手を伸ばす。

 

「はぁ、もしきな子がこのまま太っていって、

 おデブちゃんになったらどうしよう。

 そうなったら、きっとみんなに嫌われちゃうんだろうな・・・」

 

そう言いながらもお菓子がやめられないきな子。

未代奈はその様子をただ黙って見ているわけにはいかなかった。

 

「わかった」

 

「なにが?」

 

「良いものがあるから、今度きな子にあげるね」

 

きな子は「えっ、なになに?」と好奇心いっぱいで質問し続けたが、

未代奈はお茶を飲みながらずっと微笑んでいるばかりだった。

 

 

・・・

 

 

日当たりの心地良いウッドデッキが彼の寝床だった。

チョップはお昼になるといつも一匹でここでゆっくりと寝そべっていた。

 

ここなら誰の邪魔にもならないと彼は思っていた。

家族が時々様子を見に来たり、彼の体を触っていったりすることはあるが、

ここにいる限り、特段誰にも迷惑をかけることもなく過ごせるし、

何よりも日差しが気持ちよくて眠るには最高の場所だったのだ。

 

しかし、この日はチョップにとってそんな普通の日とは少し違っていた。

何が違うのかと言うと、彼の毛を包み込んでいる衣服である。

これは昨夜、きな子が買ってきたものであった。

 

「チョップ!仲直りのしるし!」と言いながら、

彼女は袋から新しい衣服を取り出して彼に着せたのだった。

それは人間が着る黒いタキシードのような衣服であり、

特別に犬用に作られたものだった。

首元には紳士のような赤い蝶ネクタイがついており、

まるで貴族のパーティにでも参加するような出で立ちであった。

 

きな子は嬉しそうにその服を取り出して彼に着せようとしたのだが、

チョップは初めはそれに抵抗の意思を示した。

どこかに出かけるのならまだしも、家で寝ているだけなのに、

そんな立派な服を着る必要などはないからだった。

そして、着せる方の人間は犬の事情などお構いなしだが、

余計な衣服を身につけて過ごすのは、犬には時に息苦しくもある。

散歩に出かける時は立派な身なりをするのも悪くはない。

時々、すれ違う他の犬への見栄もあるのだし、

可愛らしいメス犬と公園で出会う可能性だってあるのだから。

だが、家で寝ている時にまでそんな服を着たくなかったのである。

きな子だって家にいる時はグレーのスウェットやパーカーを着ているし、

その普段着の動きやすさや飾らない魅力などもあった。

もちろん、きな子はきな子なりに気を使って立派な服をあてがってくれたのだろうが、

着たくない時に着せられるのはチョップにとってはいい迷惑だったのである。

 

そして彼は反抗した。

服を着せようとするきな子に対して吠えたし、軽く噛み付いたりもした。

だが、きな子はひるむこともなく押さえつけてきて服を着せたのだった。

この頃は体重が増えてきているからか、力も以前よりも強くなっている気がして、

アンドロイドに逆らうと、その怪力によって無茶苦茶にされてしまうこともあり、

最終的にはチョップは抵抗することをやめた。

だが、服を着せられた彼は別の形での反抗は続けることにした。

それは、もう一言も口をきいてやらないことに決めたのであった。

昨夜、きな子が何を話しかけてきても彼は無視を決め込んだ。

どんなに美味しい骨の形をしたガムを用意してくれたとしても、

そこは男の意地を貫いた、彼は固く口を閉ざしたままきな子を無視し続けたのだった。

きな子は初めは不思議そうな顔をして首を傾げていたのだが、

彼が無視していることに気づくと、悲しそうな顔をしてもう諦めて部屋に帰ってしまった。

いつもは夜になるときな子のベッドで一緒に寝ることにしていたチョップも、

昨夜ばかりは他の場所で一匹で眠ることに決めたのだった。

 

 

そんな調子で翌日になった。

 

一匹で目覚めた朝はどことなく寂しかった。

目覚めたときにきな子のぬくもりが感じられないからだった。

きな子と一緒にベッドで寝ている時に感じる、

あの温かくて幸せな安心感もなかった。

チョップは思い切り身体を振って毛をブルブルとさせた。

そして前後に伸びをして体をほぐしていったのだが、

どれだけ身体を動かそうとしてもなんだか気怠かった。

身体の疲れが芯からとれているとは思えなかったのである。

きな子のそばで眠るあのリラックスした環境でなければ、

こんなにも疲れが取れないものなのかと彼は嘆いた。

 

チョップがまたウッドデッキに出て朝の太陽を浴びていると、

きな子も起きたのかドタドタと階段を降りてきて、

慌ただしい様子で準備を済ませてから外へ出かけて行ってしまった。

そのせいで一匹の朝に感じた寂しさを忘れることもできないままになってしまった。

どこかのタイミングでせめてきな子の顔だけでも見たいと思っていた自分がいた。

 

だが、きな子が出て行ってしまうと、

チョップはまた憎たらしい感情が再び蘇ってくるのがわかった。

彼はきな子がどこへ行ってしまったのかと想像した途端、

あのいつか公園で出会った猿の場所へ行ったのではないかと思い当たったのである。

そしてこれが、彼ときな子を気まずい雰囲気にさせてしまった原因であった。

 

あの日以来、チョップはどうやらきな子が不定期ながらも、

あの猿と度々会っていることが分かったのである。

なぜなら、動物番組を見ている時にやけに「お猿さんかわいい!」と言い出したり、

ラインで前よりも頻繁に猿のスタンプを使い始めたからであった。

以前なら犬のスタンプを常用していたことをチョップは度々見かけていて知っていた。

確かに動物番組を見て猿をかわいいと言うことはあったのだが、

今となってみると、それはあの公園で出会った猿を想起させることになる。

彼を思い出しながら猿を褒めているのならば許せることではないとチョップは思っていた。

 

公園で初めてきな子が猿を撫でているのを見かけた時、

チョップは自分が我を忘れたように走って行って吠えてしまった。

どうしてあんなにカッとなってしまったのか、

なぜあんなに突然にして胸が苦しくなってしまったのか、

その時のチョップには全く理解ができなかったのだった。

後になって冷静になってみると分かってきたことは、

これが嫉妬という感情なのだという事実だった。

 

チョップは当初、その感情を認めたくはなかった。

立派な成犬のオスが醜い嫉妬心に振り回されるなんて、

そんな器の小さい自分を認めるのが嫌だったのである。

だが、きな子が猿の話題を持ち出していない時でも、

猿の姿がどこにも見えない時であっても、

きな子の姿が見えなくなるとチョップは不安に駆られるのだった。

自分のいないどこかであの猿と密会しているのではないか、

嬉しそうにバナナをお土産に持参したりなんかして、

それを優しく食べさせてあげているのではないかと想像すると、

チョップはやがてきな子の顔を見るだけで憎しみが湧いてくるようになってしまった。

本当はそんなことをしたいんじゃない、前みたいに仲良く散歩に行ったりして、

夜は一緒に暖かいベッドで引っ付きながら眠りたいだけだったのに。

チョップは自分の気持ちを制御することができなくなった時に、

初めて動物にも嫉妬の権利があることを悟ったのだった。

 

彼はしばらくの間は自己嫌悪を続けた。

別にきな子の恋人でもないただの犬の自分が何を嫉妬しているのか。

こんな器の小さい自分がうざくて惨めで大嫌いになった。

だがもう嫉妬を止めることはできないと分かってしまった。

以前、あの猿を飼っているきな子の友人が家を尋ねて来た時、

あの女の子ときな子が何を話しているのかと想像すると、

彼は部屋の中に入りたくていてもたってもたまらなくなっていた。

そして、胸の苦しさをこらえきれずに吠えてしまったのだが、

こんな気持ちを理解してもらえないきな子にまた叱られてしまった。

彼女たちが部屋から出てきた時には、なんとも言えない安堵感と、

同時にあの猿の存在をあまりにリアルに感じてしまったためか、

あの未代奈という女の子の顔を見るだけで嫉妬心の嵐が心に吹き荒れた。

結局、部屋に入れてもらうことも、その場に立っていることもできなくなり、

彼は惨めな気持ちを抱いたまま逃げ出してしまったのだった。

 

 

・・・

 

 

ウッドデッキから見える景色が夕焼けで赤く染まった頃、

玄関のドアが勢いよく開いてきな子が家に帰ってきた。

お昼の間はお母さんが時々ウッドデッキに覗きに来て、

チョップが謎のタキシード姿でいることを同情してくれた。

だが、服を脱がせるときな子が怒るとでも思ったのか、

お母さんは彼の窮屈な服を脱がせることもなく洗濯物を干しに行ってしまった。

そういうわけで、彼は1日ずっとタキシード姿で寝そべっていたのである。

これは全くジェントルマンな光景ではなかった。

 

廊下をドタドタと走る音が聞こえてくると、

チョップは自分の心が弾んでいくのがわかった。

どこへ行っていたのかわからず、あの猿と会っていたかもしれないが、

とにかくきな子が帰ってきてくれたことが嬉しかったのだ。

自分の器の小ささが嫌になったが、しかし感情には逆らえなかった。

彼の尻尾は自然と左右にフリフリと動き始めていたのである。

 

チョップはウッドデッキから立ち上がって部屋の中に入っていった。

あまりにも露骨に彼女に会いに行くわけにもいかず、

彼は偶然通りかかるかもしれない廊下にとり合えず寝そべった。

あくまでも自然に、何も知らないふりを装いながら、

きな子が通りかかるのを待っていたのである。

もし素直に呼びかけてくれたなら、顔でも舐めてやろうと思っていたのである。

 

だが、物事はそう思い通りにいかないものだった。

チョップはきな子が通りかかったときに彼女の鞄についているキーボルダーが目に入った。

それは猿のキャラクターがデザインされたものであり、あの猿ではなかったのだが、

チョップの純真を傷つけるには十分すぎるアイテムだった。

また忘れていた憎しみが心から湧き上がって溢れ出すのがわかった。

憎悪とは赤色だとチョップは思った、そして黒色と混じって炎のように燃え上がる。

 

きな子は通りかかったときに「チョップ~!」と笑顔で呼びかけてくれた。

それはもちろん嬉しかったのだが、先ほどのキーホルダーのせいで彼は素直になれない。

燃え上がる嫉妬の炎には水をかけてもすぐには消えることはないのだった。

チョップは苦しい心の中で感情を二転三転させた後で決着をつけた。

それは尻尾を振って笑顔ながらも彼女をバカにすることだった。

 

実は犬の世界ではこういうことはよくあるのだ。

幸いにして人間は犬の言葉がわからないのであるから、

尻尾を振って笑顔を振りまいていれば彼らには悪口を言っていることがばれない。

どうせ人間達には全部「ワンワン!」とだけ変換されて耳に届くことになるのだ。

だから犬達は機嫌の悪いときによくこういう風に感情を処理したりする。

良好な関係を維持するように波風を立てない彼らの知恵の一つだった。

 

そうしてチョップはそれを実行に移した。

尻尾を思い切り振りながらきな子に向かって「ば~か!」と言ってやった。

もちろん、声は「ワンワン」と変換されているので何を言ったのかはわからない。

チョップは何度も「ば~かば~か!」と言いながら思い切り尻尾を振ってやった。

こうすればきな子は何もわからずにこちらが喜んでいると解釈してしまうのだ。

 

だが、どういうわけかこの時ばかりはきな子の表情が一瞬にして曇った。

とても驚いた表情を浮かべて目を見開いたままこちらをじっと見つめてくるのだ。

そして、どういうわけかチョップの方へずんずんと歩いて行って彼のお尻にチョップを食らわせた。

 

「痛い!」と声を上げたチョップだったが、

この世界には「キャイン!」と変換されたはずだった。

きな子は少し力を入れすぎたかと申し訳なさそうな顔をした。

だが、予想外の打撃を受けたチョップは頭が混乱していた。

いつも通りであれば彼女は何も気づかずに行ってしまうだけなのに。

チョップは不気味に思えて彼女から少し距離をとった。

そしてお尻に残っている痛みを思うとムカッ腹が立ってきて、

「このバカきな子!何をするんだ!」と吠えてやった。

もちろん「ワンワンワン!ワンワン!」と聞こえるはずなのだが。

 

「だってチョップがひどいこと言うからでしょ!」

 

普段のきな子に言われている「ちね!」に比べれば、彼は何もひどいことを言ったわけでもなかったが、

それよりもあの尻尾振りながら暴言を吐く戦術を見抜かれたのが意外に思った。

今日のきな子はどうしたのだろうと不気味な思いをしたものだったが、

とにかく彼女の顔を見ているとあの猿を思い出してしまい、

チョップはまた我を忘れて怒りが言葉に乗せられてしまった。

 

「きな子だって、どうせあの猿と会ってきたくせに!」

 

チョップが犬語でそう言うと、きな子はキョトンとした表情になった。

どうせ彼が何を言っているのかわかっていないだろうと思ったのだが。

 

「あの猿って、もしかして未代奈のところのお猿さんのこと?」

 

こればかりは疑いようがなかった。

チョップは茫然自失の状態できな子の顔を見つめていた。

自分が犬語で叫んだ言葉が彼女にはどうやら伝わっているとしか考えられなかった。

 

「な~んだ、チョップず~っと焼きもちやいてたんだ!」

 

そう言いながら笑顔になったきな子は走って行って、

嬉しそうにチョップの顔を両手で思い切り掴んで撫で回した。

チョップもきな子に撫で回されて本当は嬉しくてたまらなかったが、

それよりも今一人と一匹の間で起こっている事の方が一大事だと思った。

 

「き、きな子、もしかして我輩の言葉がわかるのか?」

 

「うん、わかるよ!

 でも『我輩』ってなに?

 チョップ自分の事をそんな風に呼んでるの!?」

 

きな子はチョップがヘンテコな一人称を使う事に驚いていたようだったが、

チョップは自分が人間の言葉を話せている事に愕然としていた。

これは彼にとっては前代未聞の大事件であった。

 

「きな子、これは大変な事になったぞ」

 

「大変な事?」

 

いつになく真剣な顔をしていたチョップをきな子はじっと見つめていた。

ゴクリと唾液を飲み込んだ後、彼はゆっくりとその口を開いた。

 

「CMのオファーが、来てしまうかもしれん」

 

 

・・・

 

 

「ディガディ~ガディ~ガディ~ガー、ディ~ガ~学割ちゅ~♫」

 

チョップがリビングのフローリングに寝そべっていると、

TVから児玉坂46が出演している携帯電話のCMが流れてきた。

児玉坂で人気のアイドルである児玉坂46のメンバーが、

犬の格好に扮装してダンスを踊る巷で噂の人気CMだった。

 

きな子は寝そべっているチョップのそばへやってきて、

耳元で彼に向かっていじわるそうにこうつぶやいた。

 

「あれっ?チョップのCMはいつ来るの~?」

 

そしてきな子はクスクスと笑いながら彼の元を離れていった。

チョップはもうこれが何度目のいじわるか数えてはいなかった。

ただ黙って何も言わずにフローリングに寝そべってやり過ごすしかなかったのだ。

こうしてきな子に弱みを握られてしまうと孫の代までいびられてしまうのだから。

 

やがてTV画面には犬界の大御所であるお父さん犬が登場した。

彼は犬の世界では知らない者はないほどの有名犬であり、

人間の言葉をしゃべる事でCMに出演することになった芸能犬である。

どれくらい大御所かと言うと、人間界で言えば紅白歌合戦でトリを飾る演歌歌手くらい大御所だった。

犬達の間ではカリスマ的であって、誰も彼にケチをつけられる犬などいないのである。

 

やがてCMが終わりに近づく頃、画面には可愛い一匹の小さい白い犬が登場した。

彼女こそ犬界では彗星のごとく現れた千年に一度の美少女犬であって、名前をディガちゃんと言った。

 

「よろぴくぴくぴく~!」

 

今や巷でそのセリフを知らないオス犬などいなかった。

さすがに落ち込んでいるチョップでさえ、その声が聞こえると無意識のうちに尻尾を振ってしまう。

そして、そんな自分をまた嫌いになって自己嫌悪のため息をつくのであった。

 

 

チョップはきな子と始めて会話した日、

自分は人間の言葉が喋れるようになったのだと思った。

そうなれば、あのカリスマ的なお父さん犬と共演する事も夢ではなくなり、

したがって自動的にあの愛しのディガちゃんとも共演できるわけである。

チョップはそんな夢に溺れて「CMのオファーがきてしまう」と言ってしまったわけである。

 

だが現実はそう甘くはなかった。

やがてきな子がクスクスと笑い始めたかと思うと、

彼女は耳元に入れている無線イヤホンを指差したのだった。

どうやらそれがチョップが彼女と会話できるようになった秘密らしかった。

 

それはこういうからくりであった。

チョップがあの日に着ていたタキシードはきな子が買ってきたものなのだが、

一緒にセットでついてきたように思えたあの蝶ネクタイが翻訳機だと言うのだ。

(蝶ネクタイだけだと格好が悪いと思ったきな子がわざわざタキシードを買ってきてくれたのだった)。

その蝶ネクタイが拾った犬語の音声を自動的に翻訳してきな子がつけているイヤホンに届く。

つまりこれはチョップが人間の言葉を話せるようになったわけではなくて、

この蝶ネクタイをつけている犬の言葉をきな子がわかるようになっただけであった。

それを自分が人間の言葉を喋れると勘違いしたチョップが「CMのオファーが来る」などと大言壮語してしまったので、

きな子がずっとその弱みを握ってからかい続けているのだった。

 

だからチョップはあのCMを見るたびに辛い思いがした。

カリスマ犬になる夢は破れ、愛しのディガちゃんに会える希望もなくなった。

これは人間にはわからないだろうが、チョップにとっては天国から地獄へ真っ逆さまに落とされる気持ちだった。

 

リビングから出て行ったきな子は、そんなチョップの気持ちを知ってか知らずか、

「ディガディ~ガディ~ガディ~ガー♫」と歌を口ずさみながら階段を上がって行った。

おそらく、チョップをからかいたくて仕方ないのだろうと言うことはわかった。

 

さすがに自分にもきな子にも嫌気がさしたチョップはフローリングから立ち上がり、

毅然とした表情で階段を駆け上がりながらきな子の後を追いかけて行った。

そして部屋のドアをきな子が閉じてしまう前に、その隙間をすり抜けて部屋に入り込んだ。

 

「きな子、我輩、今日はもうはっきり言っておこうと思うのだ」

 

「どうしたの?そんなにかしこまって」

 

チョップと話せるようになった日から、きな子はチョップが機嫌悪くしていた原因が猿だとわかり、

きちんと話し合うことで一人と一匹は和解することができていた。

ストレスの原因がなくなったからか、きな子は前みたいに暴飲暴食をすることがなくなり、

体重もすぐに以前と変わりない程度まで戻ったのだった。

 

「身の丈に合わない夢に溺れてしまったことは我輩の落ち度であった。

 スター犬になれると少しでも思ってしまったことがそもそも自惚れだったのだ。

 もちろん我輩だって普通のオス犬だから、ディガちゃんみたいな美少女犬に会いたかったのかもしれない」

 

チョップはきちんとお座りをしながら淡々とした口調で話し始めた。

きな子は耳からイヤホンが抜けないように両手でしっかりと抑え込んで聞いていた。

 

「だがな、きな子、そんなことはどうだっていいのだ。

 問題はそんなことではない、我輩達がこうして会話している事実の方だ」

 

話が長くなると思ったチョップは前足を投げ出して伏せの姿勢になった。

きな子は自分の机の前の椅子に座ってこちらを向いて聞いていた。

 

「きな子はチョップのそのジジ臭い喋り方のほうが問題だと思うけど」

 

「茶化すんじゃない!」

 

思わず伏せの姿勢からまた立ち上がってしまったチョップ。

取り乱したことを恥じながら彼はまた伏せの姿勢に戻って話を続けた。

 

「見た目は可愛くとも、犬だって年をとるのだ。

 喋り方だって少しずつ変化しているのだが、人間はただ気づかないだけなのだ」

 

チョップもきな子が子供の頃から飼われている犬なので、

実際、人間の年で考えるとそれ相応の年齢になっているはずなのだった。

もちろん普段は喋れないので可愛い見てくれだけでいつまでも若いように思えるのだが。

 

「この翻訳機をどこから手にいれた?

 犬の我輩だってわかることは、こんな物はドンキホーテでも売ってないぞ」

 

実際のところ、チョップはドンキホーテに入ったことはなかったが、

きな子と時々散歩道で見かけることがあるあの楽しそうなお店を例に挙げたのだった。

 

「ただのおもちゃだよ」

 

「これほど正確な翻訳機がか?

 こんな物があったら世界中で飛ぶように売れていてもおかしくはないぞ。

 犬達だって人間と普通に会話できる世の中になっていれば、

 あのCMのお父さん犬があれほどカリスマ扱いされることもないだろう」

 

きな子は椅子を回転させて机のほうを向いてしまった。

聴きたくない話しには体を向けないのがいつもの彼女の抵抗なのだ。

 

「あの女だな?」

 

「『あの女』じゃないよ、未代奈って名前だし」

 

きな子はふてくされるようにして話を聴いていた。

大切な友達である未代奈のことを何か言われるのは嫌だったし、

チョップがいつかこの話をし始めるだろうことはきな子も薄々感づいていた。

だからむしろ、きな子はうまくチョップがこの話をすることを避けてきたとも言えた。

 

「きな子、お前は何もわかっちゃいないと思うから言っておくが、

 まず、猿を飼っているやつにろくなやつはいないんだ。

 そういうところからきちんと説明する必要があるだろうな」

 

チョップは立ち上がって部屋の隅に置いてあった犬用の水飲みボトルから水を飲んで口を潤した。

おそらく長話になるだろうと覚悟をしての、彼なりの話の準備だった。

 

「こんな風に言うと不思議に思われるかもしれないが、

 本当は猿を飼っている奴が悪いと言っているんじゃないんだ。

 猿を飼っている奴は、残念ながら猿に騙されているんだよ。

 だから結局、そいつはろくな奴ではないという結論が出てしまう」

 

チョップはまた部屋の隅から戻ってきて伏せの姿勢で目を閉じた。

人間でいうと説教する頑固おじいさんみたいな態度だった。

 

「猿は狡猾な生き物だ。

 あいつらは人間と仲良くできるペットは犬ではなく猿だと主張するが、

 実際のところ、普通の感性を持っている人々はみんな犬を飼う。

 だが、それをあいつら猿は決して認めることはないんだ。

 統計をとってみれば一目瞭然の事実が突きつけられたとしても、

 あいつら猿はその事実から目を背けて認めようとはしない。

 だが『桃太郎』の話に書かれているように、きびだんごを一番にもらったのは犬だ。

 しかしこれも、奴ら猿から言わせれば何も真実ではないと言い出す始末だ。

 あいつらがずる賢いことは『さるかに合戦』に人間がきちんと記載しているが、

 猿どもはこの話をディスカッションに持ち出すことは決してない。

 あいつらは都合の悪い黒歴史を決して認めようとはしないのだ。

 そして自分たちのプライドが高いことを悪いこととは考えず、

 逆に我輩たち犬が人間たちに媚びているという説を流布し始めた。

 そして困ったらいつも猿は人間たちの祖先だという話をし始めることになる。

 だがそれがなんだというのだ?

 あいつらは盲導犬がどれだけ人間の役に立っているかを知らないのだ。

 ソリを引かせたって、狩りをさせたって、猿より犬のほうが優れているのは明らかだ。

 あいつらに一度『ハチ公物語』や『クイール』の映画でも見せてやりたいものだ!」

 

いつもこんなに吠えることはないにも関わらず、

ずっと饒舌に喋り続けたチョップはまたもや喉が乾いてしまった。

また立ち上がって部屋の隅へ行って水のボトルから水分を補給した。

顎の毛を湿らせて床にポトポトと垂らしながらチョップは舌をペロリと出した。

 

「まあ猿のことはこのくらいにしておこう。

 きな子に言いたいことはな、猿に騙されている女、

 その女がおそらくこの翻訳機をお前に渡したのだと思うが、

 どう考えても普通の女ではない、ということだ。

 どうしてきな子を友人に選んだのかはわからないが、

 そういう友人を持つと苦労するのはきな子、お前だよ。

 悪いことは言わないから友達は選んだほうがいい。

 ましてや猿を飼っている女なんてのは本当にワンワンワワン、ワンワンワワン!」

 

きな子は耳に飛び込んでくる説教が嫌になってイヤホンを外したのだった。

途中からチョップの声はもう「ワンワン」としか聞こえなくなったが、

それでもチョップはまだ話が尽きることがないのか喋り続けていた。

犬と話しができれば楽しいことばかりだと考えていたきな子だったが、

現実には楽しいことばかりではなく、嫌な話しも聴かなくてはならないのだった。

 

きな子が未代奈からこの蝶ネクタイ型の翻訳機を渡された時、

初めは自分を慰めるためにおもちゃを用意してくれたのだと思った。

まずその辺を散歩していた野良犬を使って実験してみたが、

本当に犬がしゃべっている言葉が聞こえた時は驚いた。

そして実際にチョップに蝶ネクタイをつけてみると、

同じように言葉がわかるようになった。

 

しかし翻訳機は想定以上に正確であり、

初めは数種類の感情を表すくらいだと思っていたきな子だったが、

これはそんなおもちゃとは比べものにならない性能を持っていることに気がついてきた。

だが、きな子はこの翻訳機が一体なんなのか、どこでどうやって手に入れたのか、

そんなことを未代奈に問いただす勇気は持っていなかった。

それはせっかくできた友達を失うことはしたくないという臆病な心からであり、

また、たとえどんな事実が彼女の背後に隠れ潜んでいたとしても、

未代奈が自分の友達であることは変わらないという風に信じる心からでもあった。

人は誰にも触れられたくない事実や記憶があるものであり、

きな子も心の底にはそういうものを隠していたこともあったので、

未代奈に対して余計なことを考えるつもりも、問いただす気もなかった。

 

途中からイヤホンを外していたことに気がついたチョップは、

いつの間にかきな子の足元にきて何やらワンワンと抗議をしていたが、

きな子はもうかまってほしくなくて、椅子から立ち上がって逃げるようにその場を離れてしまった。

 

 

・・・

 

 

その日以来、きな子はイヤホンを上手く使い始めた。

 

何のことはないのだが、チョップが余計なことを言おうとすると、

彼女はイヤホンを耳から外してしまうのである。

チョップはいつも翻訳機を首につけているのだから、

彼と話しがしたい時だけイヤホンを耳に装着した。

 

チョップはそれから、もうあまり余計なことを言わなくなった。

きな子とチョップの関係はいつも基本的にこうだったし、

何かきな子に逆らおうとすると、彼女はあらゆる手段を用いて自分を上に立たせた。

結局は飼い主に逆らうことはできないのだし、

きな子はどうしたって子供っぽいやり方でわがままに振る舞うのだから、

チョップにはもうどうすることもできないのだった。

 

 

だが、あの日チョップに言われた話を、

きな子はふとした時に思い出すことが多くなった。

猿の悪口はともかくとして、未代奈が普通の女の子ではないという話。

そして、そんな友人を持てば苦労をするのはお前だという箇所。

そうした彼の警告がきな子の頭にこびりついて離れなくなってしまった。

それらがふとしたきっかけで蘇ってきて彼女を不安にさせるのだった。

 

 

・・・

 

 

穏やかな春の日がすっかり終わりに近づき、

もうすぐ太陽の眩しい夏がやってくる頃、

きな子はチョップの散歩を終えて一人で家を出かけた。

 

きな子が向かっていたのはカフェ・バレッタであった。

だが、この日はいつものように未代奈と遊ぶ約束をしていたわけではなかった。

それはきな子のようないたずら好きな人間なら必ず思いつく類の、

突撃訪問によるサプライズというアイデアなのだった。

 

きな子は未代奈の好きな明太子パンをスーパーで買い込み、

楽しい気分でスキップをしながらバレッタの道を急いだ。

彼女は白っぽい色のTシャツにデニムのサロペットを着て、

暖かな太陽と吹き抜ける夏の風に体を泳がせていた。

その全てが彼女のキャラクターである元気良さを一層際立たせた。

 

きな子は今までに何度もバレッタを訪れていたこともあり、

このお店が暇になっている時間をだいたい知り尽くしていた。

お昼はOLで混み、夕方からは授業を終えた学生で混み合うことが多く、

そのちょうど合間を狙えば未代奈は一人でいることが多いので話し相手をしてくれた。

時刻はすでにお昼を過ぎていて、もうすぐしたら学生で混み合うおそれもあったが、

予定ではそれよりは少し早めの時間に到着すると思われた。

誰もいないバレッタに乗り込んで、いきなり明太子パンを差し出したら、

きっと未代奈は感動して喜ぶに違いないときな子は考えていたのである。

 

そうしてバレッタにやってきたきな子だったのだが、

向かいの道からバレッタの道路側に面した大きなガラス窓を通して中を見ると、

どうやら未代奈は窓際のテーブル席に座って誰かと話をしているのが目に入ってきた。

てっきり一人でいると思っていたきな子は肩透かしを食らった形になった。

自分より先に先客があって、その相手をしていたのかもしれない。

それは少しばかりきな子の心をかき乱すことになり、

いつかチョップがあの猿に嫉妬していた気持ちもわからないではない気もした。

 

先を越されていたのがなんだか恥ずかしくもあって、

きな子はとっさに建物の陰に隠れて遠くから未代奈の様子を観察した。

テーブル席の向かいには女子高生と思われる女の子が座っており、

二人はとても楽しそうに話をしながら笑いあっていた。

休憩中はお店の制服を着なくてよかったのか、

未代奈は夏の景色にぴったりなかんかん帽をかぶっていて、

服装は彼女の清純さを表したような白いワンピースだった。

向かいに座っている女の子は学校の帰りなのか制服で、

長い黒髪を後ろでくくってポニーテールにしているようだった。

色気を帯びた唇が印象的であり、未代奈やきな子に比べると幾分大人びて見えた。

 

きな子はその様子を見ながら嫉妬心でうずうずとしていた。

先客が帰ってしまうのを待つべきか、日を改めるべきか。

そんなことを考えながら明太子パンを持っていることを思い出す。

待っていればやがて他の学生客たちで混み合ってしまうだろうし、

日を改めればせっかく買った明太子パンが無駄になってしまう。

それならば、別に先客がいたってサプライズでこのパンだけ渡せばいいやときな子は思った。

そして、どうせなら二人にばれないように近づいて驚かせようと思った。

きな子はどこまでも悪戯っ子であり、支配型の性格をしていた。

 

二人にばれないように建物の陰から移動し、道路を渡った。

姿勢を低くしたままバレッタのドアに張り付いて中を見渡した。

二人はずっと楽しそうに喋っているので何も気がついていなかった。

カウンター席には本を読んでいる老人が座っていたのだが、

これも読書に没頭しているためにこちらに気づくようには思えなかった。

きな子は派手にドアを開けると音がなることを知っていたので、

できる限りこっそりとドアを押して中に体を滑り込ませた。

作戦は成功し、音は鳴らずにドアの中に入ることができた。

そして、中に入る三人の誰もきな子の存在には気づかなかった。

 

きな子は入り口付近の観葉植物の陰に隠れていたのだが、

テーブル席に座っている未代奈からは入り口付近はよく見えた。

彼女はお客さんが入ってきた場合のことを想定してその位置に座っていたのだろう。

きな子はこれでは近づけないと思い、しばらく潜んでチャンスをうかがっていた。

予想通り、やがて未代奈が立ち上がって一度店の奥へと姿を消した。

その隙にきな子は音も立てずにテーブル席の方向へと進んでいき、

未代奈と先客が座っているテーブル席の隣のテーブルの下に隠れた。

やがて未代奈が戻ってきたがきな子には気づかなかったようだった。

きな子はうまくいったとばかり笑いを押し殺しながら二人の話に聞き耳を立てていた。

 

 

 

・・・

 

やがて未代奈がお店の奥から戻ってきて元の席に座った。

どうやらきな子の存在には全く気がついていない様子であり、

きな子はうまくいきすぎている作戦に笑いを堪えるのに必死だった。

彼女が隠れている場所からは二人の姿は見えないのだが、

どうやら何かを話している声が聞こえてきた。

 

「何にやにやしてんの?」

 

席に戻ってきた未代奈の顔を見て舜奈がそう言った。

彼女は未代奈のほっぺをグイッとつまんでいた。

 

「えっ、別に何もにやにやしとらんよ?」

 

「してるじゃん、こうして」

 

舜奈はいたずらにもっと未代奈のほっぺをグイッと引っ張った。

 

「もう~やめてよ」

 

未代奈はそう言って舜奈の手を振り払ったのだが、

舜奈は払われた手をもう一度未代奈のほっぺへと運ぶ。

 

「未代奈の顔をみているとこうやりたくなる」

 

そう言ってまた舜奈は軽く未代奈のほっぺをつまんだ。

「もぉ!」と言いながらも未代奈もまんざら嫌でもなさそうだった。

未代奈からすれば、これは舜奈に甘えらえていると捉えていたのだ。

そして、それは確かに真実であり、舜奈も確かに未代奈に甘えていたのだった。

 

また手を振り払ってから二人は楽しそうに微笑むと、

先程お店の奥から取ってきたカバンの中から未代奈は何やら取り出した。

 

「これ、おいしいよ、食べる~?」

 

そう言って未代奈が取り出したのは焼きめざしだった。

焼かれた小さな魚達が綺麗に袋に詰め込まれていた。

 

「えっ、何それ!?」

 

未代奈が袋から取り出して一つ食べて見せると、

舜奈は眉をひそめて片手で鼻をつまんだ。

 

「めざし!?ちょっとなんでカバンからそんなん取り出すの?

 えっ、めっちゃ魚臭いじゃ~ん!」

 

「え~っ、そんなに臭くないよ~」

 

未代奈はポリポリと食べながらにこにこしていたが、

舜奈は未代奈からカバンを受け取って中の臭いを嗅ぐと、

「臭っ!」と言ってカバンを乱暴に未代奈に返した。

 

「そんなん言ったら、焼きめざしがかわいそうやん・・・」

 

「いや、さすがにそれをカバンに入れてたらマジやばいって!」

 

未代奈は口に焼きめざしを一匹くわえながらしょげて見せた。

「何、どうしたの?」と舜奈が言うと「なんか悲しい」と未代奈は返した。

「も~!」と言いながら舜奈は未代奈の頭をよしよしと子供みたいに撫でた。

そうするとまた未代奈は「ふふふっ」と笑って笑顔になった。

二人してそんな風にして楽しそうに笑い合っていたのであった。

 

 

それを隣の席のテーブルの下で盗み聴きしていたきな子は怒っていた。

燃えるような嫉妬心が、まるで火山がマグマを上昇させるように、

心の底から湧き上がってくるのがわかって、きな子は不機嫌になっていた。

どうしてこんなところに隠れているのだろうと後悔する気分になり、

サプライズしようと思ってきた自分がまるでバカみたいだと思った。

しかめっ面になり、口は尖らせて、きな子はまるで怒ったペンギンみたいな顔をしていた。

 

そうしてきな子は完全に出るタイミングを失ってしまったが、

ここから気づかれずに退却する手段も見つからず、

怒った感情も随分と変化を遂げ、なんだかだんだんと一人寂しい気持ちに沈んでいった。

自分にとって未代奈はかけがえのない友達だと思っていたけれど、

未代奈には別に仲の良い友人は他にもたくさんいて、

きな子もたくさんの友人の一人に過ぎないのではないかと思えてきたのだ。

こんな片思いの気持ちを引きずって生きていくと、人はやがて全ての努力も徒労に思えてくる。

 

 

そんなきな子のことは露知らず、二人は楽しそうにおしゃべりを続けていた。

少しの間会話が途切れ、二人はそれぞれ携帯をいじりながらまったりしていた様子だった。

やがて舜奈に誰かからラインで連絡が来たらしく、彼女はそれに返信していた。

 

「友達から?」

 

「うん、別に大した用事じゃないよ。

 舜はクリスマスの予定なんかあるの、だって。

 まだ夏なのに気が早すぎじゃない?」

 

「え~っ、いいやん、デートのお誘いかな~?」

 

未代奈は茶化してそう言ったが、連絡してきたのが女友達であることはわかっていた。

 

「ちがうよ、ただ何となく聞いてきてるだけだって」

 

「ふ~ん、舜奈はクリスマス本当に予定あるん~?」

 

「別に何もないよ、未代奈とイルミネーション見に行きたい」

 

「え~、めっちゃいい、行きたい行きたい!」

 

未代奈がとても嬉しそうにそう返事をすると、

明太子パンの入った袋を両手で抱えながら、

きな子はその二人の会話を聴きながらどんどんと切なくなっていった。

やがて悲しみの怪力でパンは潰れてしまうのではないかと思われたが、

これは完全に二人の仲はできていると思い込んでしまったことで、

噴火寸前の火山は怒りのやり場もなく冷え切って沈んでいった。

 

きな子が座り込んでいたテーブルの下から、

ソファー型の椅子を一つ隔てたところに舜奈が座っていて、

その向こうには未代奈がいるというのにもかかわらず、

きな子はその椅子が二人と自分を隔てている、とてつもない分厚い壁に感じるのだった。

 

ただ、きな子は未代奈がその話の中で自分の事を話題にしてくれるのを期待していた。

「そういえば仲の良い友達がおるんやけど、その子も誘っていい~?」とかなんとか言って欲しかったのだ。

しかし、未代奈はそんな事を言い出すこともなく、二人で楽しそうにイルミネーションの話を続けていた。

きな子はまたイライラしてきて、座っている場所から肘で軽くソファー型の椅子を突いた。

衝撃が舜奈の座っている椅子に伝わって、話が中断すればいいと思ったのだ。

そして、会話に一瞬でも間が生まれることで、未代奈がきな子のことを思い出してくれるかもしれなかった。

 

舜奈は自分が座っていた椅子に軽い衝撃があり、不思議に思って確かにすぐに会話を止めた。

「んっ?」と言って不思議そうに椅子を触ってみたが、別に特に何があるわけでもない。

舜奈の不思議そうな様子に気づき「どうしたの?」と未代奈が尋ねた。

だが特に異変が見つかったわけでもなかったので「別になんでもない」と舜奈は答えておいた。

こんな風ではあったが、とにかく二人の会話のペースを乱すことに成功したきな子は、

これで期待した通りに未代奈がきな子の事を思い出してくれる事を願った。

 

「クリスマスの日はきっとフィンランドと同じくらい寒い日やと思うから~・・・」

 

だが期待に反して未代奈は明るい調子でイルミネーションを見に行く想定で話を続けた。

フィンランドに行った事なんかないくせに、そんな大げさなたとえ話を持ち出した未代奈に、

きな子はさすがに堪忍袋の緒が切れてしまった。

火山はついに大爆発を起こし、きな子はテーブルの下から立ち上がって二人の前に姿を現した。

 

「・・・あれっ、きな子?」

 

突然のきな子の出現に驚いて目を丸くしていた未代奈。

見知らぬ人が後ろに立っていて舜奈もビックリしてそちらを振り向いた。

 

「ひどいよー!!ふざけんなよー!!」

 

きな子は胸に抱えていた袋から明太子パンを取り出して未代奈に投げつけた。

未代奈はそれを器用に両手でキャッチしたのだが、パンはすっかり変形してしまっていた。

 

「きな子、どうしたん?

 来とるんやったら一言いってくれたらよかったのに・・・」

 

きな子は続いて空になった袋を地面に投げつけてしまった。

その様子を見て未代奈は、どうやらさっきの話をきな子に聴かれてしまっていて、

それに嫉妬して怒っているらしい事を瞬時に読み取った。

舜奈もいきなりの出来事に多少戸惑っていたが、落ち着いて未代奈ときな子の様子を見ているうちに、

この修羅場へ流れ着いた意味がだんだんと飲み込めてきたのだった。

そして、二人の争いを止めなければならないと思ったのだろう。

舜奈が率先して誤解を解こうと身を乗り出したのだった。

 

「・・・そんなつもりじゃなかったんだ」

 

舜奈が椅子から立ち上がってきな子の前に出てそう言った。

誤解が二人を争わせているだけだという事を証明しなければならなかった。

しかし、舜奈の選んだこの言葉が思わぬ方向へと事態を進展させる事となった。

 

「・・・単なる好奇心だったんだ」

 

舜奈のセリフに続いて未代奈はそんな風にかぶせてきた。

一緒に誤解を解こうとしている様にも思えた言い回しだったのだが、

舜奈はその偶然か必然かわからないセリフの流れに戸惑いながらも、

彼女の生来のノリの良さは、その流れに逆らう事などできなかったのだ。

 

「・・・二人で行くなんて『そんなアホな』ことはしないよ」

 

「・・・うまい!」

 

未代奈がそう言ってケラケラと笑い始めてしまった。

これは巷で流行している児玉坂46の楽曲「そんなアホな」の歌詞のフレーズだったのだ。

舜奈が言ってしまった言葉が歌詞の一部とかぶっていたために、

未代奈がその歌詞の続きのフレーズを茶化して言ってしまった。

舜奈もそのノリに逆らえずに洒落た言い方をつないでしまったがために、

未代奈は耐え切れずに吹き出してしまったというわけだった。

 

未代奈が笑い続けるので、舜奈もやがておかしくなってとうとう笑い出してしまった。

そんな二人の前に呆然と一人で立ち尽くしていたきな子は、この気まずい状況にあって、

「きな子もイルミネーション興味あるな~」なんて間違っても言い出せなくなってしまった。

本当に結構傷ついて暴走してこのお店を飛び出してしまおうかと思った時、

未代奈はやっとなんとか笑い声を堪えてからきな子に謝罪をした。

 

「ごめんごめん、じゃあ三人でもいこうね」

 

「・・・三人『でも』いこうね?」

 

未代奈の言った言葉に引っかかったきな子は、

小さな言い回しが醸し出すニュアンスを逃すことはなかった。

 

「それは『二人でも』行くってこと?」

 

嫉妬深いきな子を怒らせるとこうして手がつけられなくなる。

未代奈は小さな言い回しのミスに気がついて「ごめんごめん、じゃあ三人でいこ!」と訂正した。

 

「・・・うん、行く!」

 

きな子はふてくされながらもそう答えた。

そして、ふてくされた表情のまま未代奈の椅子の隣に座った。

 

 

こうして、三藤舜奈と南野きな子は知り合うことになった。

未代奈を交えて色々と話をするうちに、二人は何とも息が合うことに気がついた。

きな子も先ほどまで嫉妬していたのが嘘の様にすぐに舜奈と仲良くなっていった。

 

きな子がかなりの毒舌で話しても、未代奈と舜奈は受け入れてくれたし、

舜奈は年下だから多少甘えたりもしながら、会話に的確なツッコミを入れたりもした。

未代奈はそんな二人を見てニヤニヤと笑っていると、

二人から「何笑ってんの、気持ち悪いよ」といじられることになる。

舜奈は変顔をし、きな子はわがままを言い、未代奈は食べ物の話ばかりしたが、

どういうわけかそんなまとまりのない行動をする三人のバランスは最高に良かった。

きな子が騒げば、舜奈がツッコミ、そして未代奈は笑い続けた。

 

楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、未代奈は夕方からはバイトを休ませてもらうことにあらかじめ決めており、

三人で出かける事が決定すると、きな子は嬉しそうに先に店の外に飛び出して行ってしまった。

まだお店に残っていた未代奈はカウンターに座っていた店長に出かけてきますと告げた。

店長は未代奈に言われるがままにただこっくりと頷くばかりで、

とにかくそんな風にして夕方からは出かけることに決定した。

舜奈はこんな風に本を読み続けるだけで何も言わない店長だったら、

未代奈が勝手に言いくるめてしまったらいつでも休みにできるようにしか思えなくて笑った。

それでも「なんとか休ませてもらったから、いこ~」と言った未代奈に腕を取られてしまい、

舜奈も未代奈に続いてバレッタを飛び出して行った。

腕を組みながら店を出てきた二人を見て、またもきな子は嫉妬の権利を行使することになった。

 

 

夜ご飯は三人で焼肉へ出かけた。

仲の良い三人が出会ったことを祝しながら楽しい晩餐会が始まったのだ。

若い三人は限界のないブラックホールのような胃袋へ肉をたらふく詰め込んだ。

未代奈はいちいち牛肉の固有名詞を強調して「やっぱりタン塩はおいしい」やら「センマイ刺しはたまらん」やら、

焼肉が大好きであることを全身から醸し出しているのを見て他の二人は呆れて笑っていた。

舜奈も割としっかり食べていたが、何よりきな子が爆食いするのを見て驚きを隠せないようだった。

きな子はお肉を食べながらご飯を注文し、ドリンクはコーラやメロンソーダを飲んでいた。

その食い合わせの悪さ、それでも無頓着な様子に舜奈は何か恐ろしいものを感じた。

舜奈は途中から携帯で何やら父親に車で迎えにきてくれるように頼んでいたようだったが、

どうも迎えに来てくれないことが判明すると舌打ちをして「使えねえな」と吐き捨てて携帯を置いた。

未代奈ときな子は何も言わずに黙って見つめ合い、舜奈の親への毒舌ぶりにただただ恐怖した。

 

とにかく、そんな調子でお肉を異次元へ葬り去ってしまった三人は、

科学でも解けない不思議な女子の謎、デザートは別腹理論を持ち出しては店員さんを呼んだ。

「何かオススメはありますか?」と未代奈が尋ねると、店員さんは少し考えてからオススメを告げた。

 

「えっ、塩アイス?」

 

未代奈はキョトンとしてそう店員さんに尋ねた。

「塩アイスって何?」ときな子が言い「そんなんあるっけ?」と舜奈がメニューを見た。

 

「・・・お客様、シューアイスです」

 

店員さんが滑舌良くもう一度告げると、

やっと意味がわかった三人が恥ずかしそうに笑い始めた。

「もー未代奈ー!」ときな子が言い、「どんな聞き違えだよ」と舜奈がツッコミを入れ、

「ごめんごめん、はっはっは!」と未代奈がひとしきり笑った後で「じゃあそれで」と三人は注文した。

 

だが、後になって振り返っても、三人はこの日に食べたシューアイスの味をほとんど覚えていなかった。

逆に、聞きちがえた方のデザート名の方を後々までずっと記憶していたことになる。

それは、この日が三人にとって奇跡のような仲良しグループ「塩アイス」の結成日となったからであった。

 

 

 

・・・