世界で一番孤独なババア

どうしてバレたんだろう。

こんなことは今までに一度もなかったのに。

 

左手で胸を押さえながら新渕眞木は自分の席へと戻った。

まだ心臓の鼓動は止まらない、あまりに強い刺激は寿命を縮めてしまいそうで、

こんなのはできることなら避けて生きていきたいものだった。

 

眞木は席に戻るといつも通りデスクに向かって仕事を再開した。

まだ今日までに終わらせなければならない事務処理がたくさん残っていた。

パソコンに向かい合ってエクセルの数字とにらめっこをしていく。

だが、いつものようには集中することができなかった。

それは先ほどのあの事件が、あまりにも衝撃的だったからだ。

 

「水泥棒」

 

いつも通りウォーターサーバーで水を汲んでいる時、

眞木は突然後ろを通りかかった男性からそういう声を浴びせられたのだ。

その声に思わず動揺して、汲みかけた水を多少こぼしてしまったほどだ。

デスクの上に置かれていたボトルの外側はこぼれた水が伝ってまだ少し濡れていた。

 

新渕眞木は管理部で働く普通のOLだった。

入社してもうすぐ2年目、後輩もできて仕事も順調に引き継ぎをしていた。

 

OLとして日々の小さな支出を切り詰めることは当然だと彼女は考えていた。

だから他の誰かが自販機でペットボトルのお茶を買っている時も、

彼女はそれを切り詰めてでも貯金をしていこうと決めたのだ。

 

ある日、自分の部署から少し離れた位置にウォーターサーバーがあることを発見した彼女は、

これ幸いとばかりに自分のボトルを持っていっては水を汲んでいくようになった。

これによって日々のペットボトル代160円は切り詰めることができ、

1ヶ月にして約4800円、1年に換算すると58400円を節約することができた。

これは彼女にとってはかなり大幅な支出の削減を図ることができた成功体験であり、

自分の中ではとても誇らしく、自分の有能さを密かに自画自賛していたのだった。

 

それがこのザマであった。

いったいどこの誰が私が水を汲んでいることに気づいたのだろう?

そんなに気付かれるような派手な行動はとっていないつもりだった。

例えば、そちらの部署に書類を届ける際に、偶然を装って立ち寄るようなやり方だったり、

同僚と話をしすぎて「なんだか喉が渇いちゃった」という体を装ったりもした。

上司がいない時間をきっちりと把握した上、その隙を狙ったこともあったし、

何よりも自分はなるべく地味に目立たないように日々行動をしているはずだった。

 

「プルルル」とデスク左側に置かれている電話が鳴った。

この音は内線なので社内向けの対応で受話器を取る。

直属の上司が席外しであることを伝えて電話を切った。

上司が席にいないことを確認する以外はパソコンの画面から視線を外していなかった。

 

OLには時間がない、限られた時間をいかに効率よく使うのかが求められた。

この「時短」こそが眞木の考える「デキる女」の一つの指標であり、

無駄な時間をダラダラと過ごしてしまうことは許されないと思っていた。

 

しかし、この日は仕事に集中できなかった。

水を汲んでいることがバレたのがあまりにショックだったのだ。

さっきからパソコンのタイピングミスをすることも多かったし、

どうやらまだ先ほどの動揺が収まっていないと思われた。

 

そのうち、真向かいのデスクに座っている上司が席を立った。

眞木はここぞとばかりに足元に置いてあるヒーターを「強」にして少しだけ角度を眞木の方へと向けた。

年末が近づくオフィスは年内に終わらせなければならない仕事が多く、

手足の寒さを解消することは死活問題となっていた。

心地よく仕事ができれば、仕事の効率も上がるというものだった。

 

「な~にやってんのよ!」

 

そう言う声が聞こえると同時に、眞木は何者かによって背中を「わっ!」と押された。

見つめていたパソコンの画面がどアップになって目に迫ってきた。

つまり、彼女の姿勢は押されたことによって前のめりになってしまったのだった。

 

「・・・ちょっと、りさ先輩、脅かさないでくださいよ~!」

 

眞木の後ろに立っていたのは、営業部の瀬藤りさだった。

 

 

 

・・・

 

先ほど上司が席を外してしまったので、この管理部の部屋には眞木以外は誰もいなかった。

ちょうどその隙を狙って瀬藤りさがやってきたのだった。

 

「ねえ、眞木ちゃん、余談になるんだけどいい?」

 

りさは少し不満そうな顔を覗かせてそう切り出した。

 

「どうしたんですか?」

 

忙しい仕事を中断されてしまって辛い事はおくびにも出さず、

眞木は同じ会社の先輩に対して丁寧に応対する。

OLとしての流儀がすっかり身についているのだ。

 

「私、このタイトルの物語に巻き込まれてるのがすっごい嫌なんだけど」

 

りさは、不満を持ってます、というのをあからさまにした表情でそう言い放った。

わざわざそんなことを言いに来たのではないことはわかっていたが、

どうしても我慢ならなかったのだろうと眞木は推測した。

 

「りさ先輩、きっと考えすぎですって。

 多分、そんなに気にしないでも大丈夫ですから」

 

眞木はそう言ってご不満なりさをなだめた。

それでもりさはほっぺたを膨らませて怒りをアピールしていた。

 

「りさ先輩がそんなこと言ったら、今回主役の私はどうなっちゃうんですか?

 きっと一番のターゲットになってるのは私ですから、りさ先輩は大丈夫ですって」

 

りさは唇を尖らせながらまだ納得していない表情をしていたが、

「まあいいわ」と諦めたように呟いて眞木の隣のデスクの椅子に座った。

 

「そんなことより、ちゃんと練習してるー?」

 

りさにそう尋ねられただけで、それが何を意味しているのか眞木にはすぐわかった。

先ほど汲んできた水を一口飲んで、少し含み笑いをしながら眞木は返答する。

 

「昨日の夜もちゃんとやりましたよ、もうちょいで完璧かなと思いますけど」

 

眞木が練習をしていると言ったのはりさと共に行う出し物についてだった。

年末が近づくと通常業務以外にも会社員たちの負担になるものとして忘年会というものがあるのだ。

忘年会ではただお酒を注いで回ったり気を使わなければならないだけでなく、

特に社歴が浅いものの間では何か出し物をすることが求められたりする。

いわゆる余興というものを上司達は楽しみにしているのであって、

そういう普段の仕事以外でのノリの良さも会社で生き抜いていくためには必要となるのである。

 

眞木とりさが今回用意している出し物は、児玉坂46の「制服を着てコンニチハを」だった。

OLになった二人が制服を着て若い子達の踊りを踊るという内容が恥ずかしくもあり、

そうであるがゆえにその羞恥心を見たい悪趣味な上司達が喜ぶのである。

 

「ほんとにー?夜な夜な飲み歩いてんじゃないの?」

 

りさは意地悪な表情で眞木を問い詰める。

眞木にはOL以外に副業をやっているのではないかという噂が立ったことがあった。

会社の就業規定では副業は禁止されているため、

余計な詮索を避けるために夜は飲み歩いているという話で眞木は返答していたのだ。

それによって、多少印象は悪くなってしまったが、副業の話はいつの間にかたち消えになった。

 

実際、眞木は以前は副業をしていたことがあった。

深夜にだけ空いているカフェなどをオープンさせたこともあったが、

そのコンセプト自体に集客がはかれないという致命的な欠陥があったため、

眞木は残念に思いながらもそのお店は閉めることになったのだ。

 

だが、そのカフェを開いていた当時、眞木はダブルワークで働いていた。

二足のわらじを履くようにして、彼女は安定した収入を得るためと、

自分の好きなことをやりたいという二つの欲望を同時に叶えようと奮闘していたのである。

やがてカフェは閉店してしまったが、その当時に副業をしていたことをバレないようにするため、

眞木は夜な夜な飲み歩いているキャラを演じながらその代償を払っていたのであった。

 

「いやー、さすがに毎日飲み歩くわけにはいきませんよー。

 だいたい週一くらいですからそんなに多くないです。

 それに、昨日は本当にちゃんと練習やりましたから」

 

眞木は「制服を着てコンニチハを」の振り付けを上半身だけで踊って見せた。

りさはその様子を見て嬉しそうに微笑んだ。

 

「なかなか様になってるじゃない」

 

「でも、こんなの忘年会でやったらなんかババアって言われません?

 もう24にもなって制服着るって相当勇気いるんですけど」

 

眞木は、これはやばいでしょ、ということを訴える表情をしていた。

高校を卒業して以来着ていない制服を、大勢の前で披露することになるなんて。

 

「私だって別に心から嬉しくてやってんじゃないわよ。

 これも仕事だって割り切ってやってんだから。

 でも、去年も児玉坂46やった時、社内ですっごい評判よかったのよー。

 どうやら今年も紅白出るみたいだし、絶対に盛り上がること間違いなしだから」

 

「まあ、りさ先輩がそこまで言うんなら」

 

眞木はもうすでに随分前から覚悟を決めていたようだ。

制服を着られるのもギリギリ今だけだし、30歳になってから着るならそれこそやばい。

児玉坂46でも24歳の子がいるらしいし、まあ自分だけじゃないし恥ずかしくもあるまい。

 

「じゃあ、本番までにどっかで一回音に合わせてやっとこっか。

 眞木ちゃんどっかで早めに仕事あがれる日ってありそう?」

 

りさはスケジュール帳を取り出してペンを握りしめていた。

それを見た眞木も同じようにスケジュール帳を取り出して眺めていた。

 

「いけそうなのは・・・もうギリですね、12月7日とかなら」

 

彼女達の忘年会の開催日は12月9日の金曜日だった。

会場などはもう別の部署の幹事が抑えているらしかった。

 

「そうなんだ、まあ私はだいたい合わせられるからそれでもいいけど。

 でも年末までお仕事忙しいの大変よね、クリスマスの予定とかどうなってるの?」

 

りさはそれとなく探りを入れる質問を投げかけた。

眞木に彼氏がいないのは知っていたが、何か変化はないか気になったのだ。

 

「も~、二推しの女にクリスマスなんて関係ないですから」

 

二推しの女とは眞木だけが使う特別な用語である。

要するに男にとって一推しではない女、ちょっと周囲よりも損をしている女の子を意味する。

つまり眞木は自分のことをカテゴライズしてこう呼ぶのだが、

そこには少し自虐的な匂いが感じ取れる気がする。

 

「じゃあ、私の家に来ない?」

 

りさはおそらく飲み友達が欲しかったのだろう。

お酒を飲むことが何より好きなりさにとって、一緒に飲んでくれる相手を探すことは何より重要なのだ。

眞木と同じようにりさも彼氏がいるわけではなく、女子会によって寂しさをうやむやにしたいのだった。

 

「あー行きたいな~、でもダメなんですよ、やらなきゃいけないお仕事が溜まっちゃってて・・・」

 

眞木はデスクの上に置かれていた書類を手でパンパンと叩きながらそう言った。

書類は束になってまとめられていて、厚さは10cmくらいになっていた。

 

「あーあ、残念、おいしいご飯でもご馳走しようと思ってたのに」

 

りさが少し恨めしそうに言った。

姉御肌であるりさは後輩を誘うことも多く、

一緒に飲んだり話をしたりしたいのだ。

だが、クリスマスには予定がある同僚も多く、

相手をしてくれそうな人があまり見当たらなかった。

眞木に彼氏がいないことを承知していたりさにとって、

眞木の名前は希望だったのだろう。

 

「すいません~、ほんっと行きたいんですけど、私って仕事の要領悪くって・・・」

 

申し訳なさそうな表情の眞木を見て、もうりさは諦めがついたようだった。

 

「別に気にしてないから、大丈夫よ。

 クリスマスだっていうのに大変よね。

 何もお手伝いしてあげられないけど、頑張ってね」

 

りさはそう言って立ち上がって「練習だけはちゃんとやっておいてね」と忘年会の出し物の件を念押しした。

眞木はデスクに肩肘をつきながら手をグーからパーに変えてさよならの仕草をした。

 

「あっ、そうそう」

 

去っていこうとしたりさが立ち止まって振り返った。

 

「ヒーターの角度、後でちゃんと戻しておきなさいよね」

 

眞木はデスクに向かってパソコンのキーボードに指を置きながらドキッとした。

りさは人差し指で眞木の方を指差しながらウインクをして去っていった。

 

(・・・見られてたんだ・・・こっそりやったつもりだったのに・・・)

 

誰にもバレていないと思っていただけに、眞木はりさに指摘されたことに驚きを隠せなかった。

今まで誰かにバレたことなんてなかっただけに、眞木はショックだったのだ。

 

やがて席を外していた上司が向かいの席に戻ってきたので、

眞木はまたこっそりとヒーターの角度を変えて「強」から「弱」に戻した。

デスクの下の足元で行われたことなので、どうやら上司は何も気づいていないようだった。

 

(・・・水泥棒、か・・・)

 

ヒーターの件がバレていたことで、眞木はこっそり行っていた水汲みがバレていたことも思い出した。

1日に2度もこっそりやっていたことがバレるなんて、こんなことは今までなかったのに。

 

余計なことを考えながら残りの仕事を進めていた眞木は、

もう少しで書類の作成が終わるという段階になってあることに気づいた。

 

日付が、間違っていた。

 

「・・・すいません、すごいことに気づいたんですけど・・・」

 

眞木は頭を抱えながら向かいに座っている上司に報告をする。

書類の日付を指定した日が土曜日だったので、休日では処理できないらしかった。

 

「全部やりなおしですよね・・・」

 

本当は金曜日に指定しなければならなかったようで、今まで作成した書類は全部やり直しのようだった。

 

「・・・ホントにもう絶望感しかない・・・」

 

眞木は己の失敗に打ちのめされながらも、

仕方なく印刷した全ての書類をシュレッダーにかけ、

パソコンのファイルに入力した全ての日付を変更していったのだった。

 

 

 

・・・

 

「・・・これ別に好きじゃないんだよな~」

 

眞木はキッチンのテーブルに置いてあったお菓子を物色してそう言った。

スナック菓子でもよかったが、もう少し甘いチョコレートとかが欲しかった。

 

「・・・何かもっといい物はないんですかね~」

 

一人でそう呟きながら眞木は冷蔵庫を開けた。

中には飲みかけの牛乳パック、オレンジジュース、分厚めのハム、

納豆3パックセット、キムチの瓶詰め、牛肉ロース、高級ヨーグルトが入っていた。

その他にも生卵が7個、サラダドレッシングの瓶2本、サランラップされたほうれん草のおひたしが目に入った。

 

「・・・まあこれかなー」

 

眞木は高級ヨーグルトを手にとって賞味期限を確認した。

割引特価の商品ではあったが、まだ賞味期限は切れていなかった。

いけると思った眞木はそれを手にとって冷蔵後をバタンと閉めた。

 

もう一度キッチンのテーブルに置いてあった袋を物色した眞木は、

お菓子類の下敷きになっていた貝ひもを発見した。

その時、彼女の眉毛がピクリと上に動いた、これは彼女の好物だったのだ。

 

素早い手の動きで貝ひもの袋を手にとった眞木は、

先ほどの高級ヨーグルトと合わせて自分で持ってきた小袋に入れた。

そして、そのまま足音を立てないようにして部屋を出ていくのだった。

 

 

・・・

 

 

夜道を歩きながら袋の中を覗き込んだ眞木はにっこりと微笑んだ。

明日買おうか迷っていたヨーグルトも手に入れたし、

大好物である貝ひもも手に入れたことで上機嫌だったのだ。

同僚や友人からおっさんくさいからやめなよと促されても、

この貝ひもだけはやめられないと思っていた。

 

やがて自宅にたどり着いた眞木は玄関の鍵を開けて中に入った。

本日の収穫であるヨーグルトを冷蔵庫に入れてしまい、

貝ひもの袋を開けて幾らかをつまんで取り出して口に運ぶ。

少し汗をかいてしまったので、浴室にいって軽くシャワーを浴びた。

バスタオルを使う主義ではないので、小さめのフェイスタオルで体を拭いた。

 

どういうわけかわからないが、彼女は大きなバスタオルを使わない。

その大きさが自分にふさわしくないと考えているらしい。

よくわからないが、習慣として自己を卑下して考える癖があるらしかった。

 

彼女はそういった部分からも見て取れるように、

自分が世の中に対して大きな存在であるとは思っていない。

身の丈にあった安定した生活を送れることが何よりも幸福らしいのである。

 

安定した仕事を得るために就職をした。

第一希望とはいかなかったが、そこそこ安定した生活を送れるようにもなった。

その身の丈にあった安定を手にするために、彼女は節約生活をモットーとして生きていた。

だが、そんな小市民であることを求める彼女の中に、矛盾するような大胆な葛藤があるのだろう。

それが彼女を単なるOLに留めておかず、二足のわらじを履かせるということにつながっているのだ。

 

眞木は、泥棒であった。

 

先ほど収穫したヨーグルトも貝ひもも、他人の家から拝借した物であった。

いや、彼女の人格を擁護するために幾らかを述べておく必要があるかもしれない。

 

彼女が泥棒を始めたのは深夜カフェを閉店した後からであった。

それまで、彼女は副業として始めた深夜カフェを楽しみながらまっとうに生きていた。

 

だが、昼はOL、夜はカフェの店長という生活で寝る間もなく働いた結果、

カフェを閉店してしまっても彼女には夜の時間を持て余すようになっていった。

それが結果として、昼はOL、夜は泥棒という二足のわらじを履くはめになったのだ。

 

いや、まだ彼女について弁解させてもらうとすれば、

初めから泥棒になど手を染めるつもりはなかったのだ。

だが、それは犯罪に手を染める人の常套の言い訳に過ぎないかもしれない。

 

眞木は節約家だった。

日々の生活の中で飲み水すら節約して暮らしていた。

それが会社のウォーターサーバーの水汲みである。

 

お昼ご飯も節約した。

お弁当を作ったり、コンビニで買ったとしてもサラダとおにぎりという質素なものだ。

ビタミン剤や薬も会社でタダでもらえる制度があり、それを徹底的に利用していた。

とにかく彼女は余念無く節約生活を送り続けることができたし、

その経済観念は、誰かの奥さんになるならば申し分ない才能だったかもしれない。

 

だがある日、コンビニのおでんの容器を見つけてしまったのだ。

それはおでんを買う人のために存在する器であるのだが、

節約をモットーとする眞木はこの容器を利用することを思いついてしまった。

そしてコンビニの店員さんに「これ、もらってもいいですか?」と尋ねたところ、

店員さんも断れるはずもなくOKを出してしまったのだ。

そして眞木は、そのおでんの容器を利用してサラダともずくを入れて食べた。

これで容器代が浮いたという成功体験を積んでしまったのである。

 

この成功体験があだとなった。

彼女はそれからというもの、コンビニでおでんの容器をもらうのが当たり前になった。

初めは店員さんに尋ねてからもらっていた容器であったが、

慣れてしまうと別に断りもなくタダで勝手にもらうようになった。

とはいえやはりどこか後ろめたいのか、容器を取る彼女の手つきは俊敏だった。

こっそりバレないように取るということを繰り返す結果、

その快感がエスカレートしていくことになる。

 

元々、おそらく気弱な性格があったためか、

例えば上司が使っているヒーターの角度をこっそり変えたりする癖があった。

エアコンの温度も、誰もいなくなった時にバレないように変更する。

堂々と行動できない彼女の体質が、彼女を泥棒に仕立て上げるのに一役買ってしまったのだ。

 

もちろん、初めからそんな大胆に他人の家に忍び込むようなことはしなかった。

初めはといえば、上司が置いていったお菓子をつまみ食いすることから始まったのだ。

眞木は自分でお金を払ってお寿司を食べるような贅沢をすることは滅多にないが、

上司におごってもらえるお寿司であれば30貫くらいは平らげるブラックホールのような胃袋があった。

ただ飯ほど美味いものはない、眞木の頭はいかにしてタダで美味しいものを手にいれるかを考えるようになった。

それが初めはデスクに置かれていたチョコレートだったし、上司が誰かに配ったお土産だったし、

仕事終わりにビールでも飲むために買い込んでいた同僚の貝ひもやチーズ鱈だった。

それらをちょいちょいと拝借しても別に誰にもバレることはなかったし、

やがてそれは眞木の中で節約術の一つとして捉えれるようになっていったのだ。

 

その行きすぎた節約術が眞木を泥棒へと変えた。

初めは同僚の部屋に遊びに行った際に何かを物色するようになったが、

そのうち、同僚が眠っている部屋にも侵入して何かを漁るようになっていった。

やがては知らない人の家でも構わなくなり、それが彼女のストレス解消にもつながってしまった。

 

 

シャワーを浴びて浴室を出た後、濡れた髪を乾かしながら、

彼女は戦利品の貝ひもを見て、ふと会社での出来事を思い出していた。

 

「・・・水泥棒か・・・」

 

誰かが悪気なく言った冗談だったのかもしれない。

だが、眞木には忘れていた後ろめたい気持ちが蘇ってきた気がした。

今まで誰にもバレなかったおかげで、罪の意識などはなかったのだが、

ひょっとすると誰かにこの日々の泥棒行為もバレているのではないかと不安になったのだ。

しかも同じ日に、りさ先輩によってヒーターの角度を変えていたことも見破られてしまった。

今まで完全犯罪だと思っていたのに、少しのほころびによって彼女の心には不安の種が芽を出してしまったのだ。

 

「・・・まっ、偶然よね・・・」

 

眞木は寝間着に着替えてベッドに横になった。

オーダーメイドで作った枕に頭を乗せると、その心地よさに引っ張られて悩むことなくすぐに眠ることができた。

 

 

 

・・・

 

翌日、眞木は出勤すると同時に栄養ドリンクを飲んだ。

寝不足に陥る日、OLには栄養ドリンクが良いお供になるのだ。

 

眞木が出社する時、会社のエントランスに大きなクリスマスツリーが準備されていた。

そういえばもう12月なのであり、逆にどうして今までこのツリーに気づかなかったのか。

眞木はそれくらい仕事に忙しく過ごしており、疲労もストレスも溜まっていると言えた。

 

前日に盗んだあのヨーグルトを鞄から取り出して会社の冷蔵庫に入れた。

お昼休みにでも食べようと思ってとっておいたのだ。

そして、まず何より初めにパソコンの電源を起動させてから仕事に取り掛かった。

パソコンが起動している間に他の作業をすることで時間短縮になる。

彼女がOLとして身につけた誇らしい知恵の一つだった。

 

前日に失敗した書類はもう訂正を終えたのだが、

新しく処理しなければならない書類が山ほど溜まっている。

眞木はそれらを一つ一つ確実に丁寧に処理を続けていった。

だが、疲れとストレスから思うように仕事もはかどらなかった。

それにはもう一つ原因がある、それは水をまだ汲みに行っていなかったことだ。

 

眞木は昨日の事件以来、心の奥底で水汲みに行くのを恐れていたのだ。

また誰かに「水泥棒」なんて言われるんじゃないかと思うと、

それはただ単に水を盗んでいる以上の意味で彼女の心に負荷がかかっていく。

 

だが、朝に飲んだ栄養ドリンクだけでは渇きを潤せなくなった眞木は、

昨夜の貝ひものようになる前に水を調達に行くことに決めたのだった。

カラカラになってはそれこそ動けなくなるし、お肌に水分の足りない女子なんてのは、

それこそ潤いのない二推しの女になってしまう。

 

眞木は覚悟を決めて立ち上がった。

周囲の目の隙をついて素早くボトルを右手に掴む。

どうしても命の飲み水を手に入れなければならない。

そうでなければペットボトルのお水を買うことになってしまう。

それは節約術に長けているOLにとって最大限の屈辱である。

将来の安定のためにも、余計な支出は避けねばならない。

 

 

眞木は管理部の部屋を出た。

周囲にはお手洗いに行くように見せかけながら、

違う部署の部屋にあるウォーターサーバーへと向かったのだ。

 

こういった時の移動手段として、眞木はエレベーターを嫌った。

個人的にはエレベーターの中の匂いが好きな眞木であったが、

一定時間、小さな箱に閉じ込められてしまうというのはまずいのだ。

誰かと一緒になってしまえば、自らの行動に足がつくことになる。

何かあった時に目撃者を生んでしまうかもしれない。

それに、エレベーターの電力がもったいないという思いもあった。

階段で移動する方が節約面においても、泥棒家業においてもメリットが多かった。

 

眞木がウォーターサーバーのある部署にたどり着いた時、

どうやら他の社員達はパーティションの向こう側に集まって会議をしているようだった。

これはチャンスとばかりに眞木は俊敏にウォーターサーバーに駆け寄った。

そのポジション取りは完璧で、周囲には誰も見当たらないし、

これなら誰にも見られることなく水を確保できると思った。

眞木は素早くボトルの蓋を開けてサーバーの水が出る箇所にボトルを向ける。

レバーを押すと水がボトルへ溜まっていくジョロジョロという音が耳に心地よかった。

今日こそは大成功だ、これで160円の節約が完了することになる。

眞木の心の貯金箱にはチャリーンとコインが落ちていく音が聞こえた気がした。

 

だが、次の瞬間に悲劇が襲った。

水が止まったのだ。

 

どうやらウォーターサーバーの中に水がなくなってしまったらしい。

眞木はボトルの蓋を閉めて素早く近くのテーブルに置くと、

サーバー横に置かれている四角いダンボールに手をやった。

細い体をしている眞木にはこれでも重労働なのだったが、

ぎっくり腰にならないようにだけ注意をしながらその水の入った容器を持ち上げる。

 

幸いなことに、眞木はサーバーの水がどこにあるかもリサーチ済みだった。

彼女は面倒臭がりな一面もあるのだが、わりと最悪の場面を想定して行動するタイプだ。

会社でも地震や火事があった時の避難場所などはきちんと頭に入れていたし、

自宅にも防災グッズのようなものはちゃんと用意して置いてあるという。

だから泥棒家業であっても、衝動的な犯行ではない限り、

彼女は自分の行動に足をつかせない自信があった。

 

手慣れたやり方でサーバーの水を補充した眞木は、

またボトルをとって蓋を素早く開けると、レバーを引いて水を入れ始めた。

先ほどより勢いよく水が出てくることに安堵した彼女は、

ホッと一息つきながらその心地よい水の音色に癒されていた。

彼女が気を抜いて目をつぶっていたその時。

 

「水泥棒」

 

突然かけられた声によって、彼女の動揺はボトルにも伝わった。

レバーから出てくる水がボトルからはみ出て彼女の右手を濡らした。

それに驚いて動かした左手がサーバーにぶつかってガタッと大きな音を出してしまう。

慌ててぶつけて強打してしまった手も相当痛かった。

 

「・・・いったー」

 

口を歪めながら左手をかばっていた眞木に、

本当に驚いたのは何気なく声をかけただけのりさだった。

 

「ちょっと、眞木ちゃん大丈夫!?」

 

「・・・あっ、りさ先輩、いや、なんでもないですから」

 

本当は猛烈に痛かった左手を隠すようにして、ついでにやましい気持ちからか、

右手に持っていたボトルも体の後ろに隠してしまった。

 

「ごめんね、驚かせるつもりはなかったんだけど」

 

りさはそう言ったが、眞木は気が動転して何がなんだかわからなかった。

ヒーターの角度の件といい、りさ先輩には何か感づかれているのかもしれないと思っていた。

 

「あっ、別にそんなに驚いてませんから、ちょっと居眠りしちゃってただけで・・・」

 

そう言いながらも、眞木は後ろめたさからか、りさとの距離をどんどん開けていく。

後ろに下がりながら、そのまま何もなかったかのようにその場を離れたかった。

 

「えっ、ちょっと、水を汲みに来たんじゃなかったの?」

 

後ずさりしている姿を見られて、りさに痛いところを突かれる。

もはや後退することもできない窮地に追い込まれてしまった。

 

「えっ、いや、その・・・」と眞木がしどろもどろになっていると、

 

「ごめんごめん、ちょっと茶化してみただけだから、はい貸して」

 

りさは眞木に近づいていって手に持っていたボトルを受け取ると、

眞木の代わりにウォーターサーバーへボトルを近づけてレバーを押した。

あれほど汲むのに苦労した命の飲み水が、眞木のボトルへと溜まっていく。

 

「水泥棒ってね、この部署の人達が言ってるのよ。

 眞木ちゃんは会ったこともない人達だろうけど、

 いつもここに水汲みに来るのを見てたんだって」

 

そう言いながらボトルに水が満タンになるのを見届けると、

りさはレバーを押すのをやめてボトルの蓋を閉めた。

 

「多分、眞木ちゃんが綺麗だから見られてるんだと思うけど。

 やっぱり美人は得よねー、私なんか誰も見てくれてないわよ」

 

また少し茶化しながらりさはボトルを眞木に差し出した。

眞木は思った、りさだって美人だから絶対見られてるはずだと。

 

「そんなことより、もうお昼休みだし、ご飯いかない?

 今月は厳しいっていうなら、たまには先輩が奢ってあげるわよ。

 いつもコンビニばっかりじゃ体にもよくないだろうし」

 

眞木はとりあえず安堵した。

りさには特に何もバレてはいなかったみたいだし、

ご飯を奢ってもらえるのは経済的にもとても助かることだ。

この部署の人達が自分のことをそれほど認知していたことには驚いたが、

まあそれならそれで、今後はもう堂々と水を汲みに来れると思った。

 

 

 

・・・

 

会社を出た眞木とりさがやってきたのは児玉坂にあるカフェ・バレッタであり、

二人が店内に入った時、カウンターでマスターが読んでいた小説はヘミングウェイの「老人と海」だった。

 

眞木は同僚と食事をする際、何度かこの店を訪れたことはあったものの、

正直それほど数多く来たことがあるわけではなかった。

一方、りさはこのお店の常連であり、彼女にとっては思い入れのある場所だったのだ。

 

いつも座る左奥から2番目の席に辿り着くと、コートを脱いでメニューを広げた。

わりと後ろの方にありながら、なぜこの位置が落ち着くのかは、りさ本人にしかわからないことだ。

本人いわく、なにやらこの場所が彼女の原点となっているらしかった。

 

ただ飯にありついたとは言え、さすがに先輩に遠慮しなければならなかった眞木は、

それほど高いものを注文しようとは思わなかった。

りさはハンバーグランチを注文すると決めた様子だったので、

眞木はメニューを素早く見てから納豆パスタを注文することに決めた。

 

「えっ、そんなのでいいの?」

 

りさのその言葉には、それほど安い物を頼んで遠慮しないでもいいという意味と、

仕事中なのに納豆を食べようとする眞木の大胆さへの皮肉もこめられていた。

 

「いやー、私、納豆が大好きなんですよー」

 

安くて健康にも良い納豆を眞木は毎日のように摂取しているのだった。

もちろん、部長クラスに奢ってもらえるのなら、

「おいしいです~♡」と可愛く振る舞いながらお寿司などを食べたいものだが、

同性の先輩に奢ってもらうのなら、あまり出しゃばるのもよくないと眞木は思った。

 

「ここにデザートとかもあるよー、この塩アイスっていうのが有名なんだけどね」

 

メニューを指差しながらりさが説明する。

塩アイスは新商品だった頃はあまり知られていなかったが、

今となってはバレッタの名物デザートとなっていた。

3色のアイスクリームで構成されていて、

一つは塩ミルク味、もう一つはうなぎ味、もう一つはこんぺいとう味だった。

 

「へぇ~、そうなんですね、でもうなぎ味とか昼間っから贅沢すぎません?

 ほら、うなぎってすっごい贅沢品じゃないですかー?」

 

たかがアイスの味がうなぎであっただけで、うなぎそのものを食べるわけでもないのだが、

眞木がそう言ったので、りさはもうそれ以上勧めることはなかった。

 

 

結局、ハンバーグランチと納豆パスタが運ばれてきて、

二人はそれを食べながらランチタイムを過ごすことになった。

 

今週の金曜日、仕事終わりに会社の忘年会が迫っていた二人は、

数日後に音に合わせて最後の振り練習をする予定になっていたが、

ここでは各自の練習状況を報告しながら確認を進めていった。

最後の練習日にはもう合わせるだけで完成という風にしたかったのである。

二人は細かな振りのミスなどを指摘しあいながらランチタイムにも改善作業を行う。

忘年会の出し物とは言え、これも大事な仕事の一つなのである。

会社という組織では、顔を知られているということが大切なのだ。

それによって思わぬところで助けられたりすることがある。

 

食事をしながらも細かな部分まで確認できたところで、

おそらくこの調子でいけばダンスは問題ないことがわかった。

後は音合わせの練習日を経て本番に臨むだけである。

 

「りさ先輩も大変ですよねー」

 

「何が?」

 

「だって、学生時代にバンド組んでたんですから、

 その美声を発揮してまともな歌を歌っても絶対喜ばれるじゃないですか?

 なのに、こんな風に制服着て踊る出し物にチャレンジするなんて」

 

りさは歌声を褒められたことで少し嬉しくなって笑った。

彼女はプロになってもおかしくないほどの歌唱力を持っていたし、

実際に身近には歌手になった桜木レイナという友人もいた。

 

「忘年会ってこんな風にちょっとお笑い系じゃないとダメなのよ。

 結局、OLってなんでもやらないといけない仕事なのよねー」

 

「ですよねー」

 

二人してそんなOLあるあるを話していたが、

話がひと段落ついたところで眞木が大きなあくびを一つした。

 

「・・・あぁー、すいません、昨日も遅かったんで」

 

眞木が目の前であくびをしてしまったことを詫びた。

本当は泥棒家業をやっているせいで夜更かしが過ぎるのだが、

そんな事情は決して言えないシークレットなのである。

 

「大丈夫ー?夜遅くまで飲み歩いたりするからよー」

 

りさにそう言われて、眞木はごまかすように笑った。

「ちょっと二日酔いもあるんですよねー」と嘘までつきながら。

 

「あんまり夜出歩いてると危ないわよ。

 ねぇ、知ってる?最近、児玉坂の町に泥棒事件が多発してるって話?」

 

りさが何気なくそう言った時、眞木は飲んでいた水が気管に入ってしまってむせた。

 

「ちょっと、大丈夫ー?」

 

「・・・ゴホッ、ゴホッ、すいません・・・大丈夫です・・・ちょっとむせただけで・・・」

 

お手拭きで口元を押さえながら咳き込んでいる眞木は、

本当は心臓が高鳴るのを手で押さえたいほどだった。

りさの言う泥棒事件とは、おそらく彼女のことを指しているのは間違いなかった。

 

「・・・すいません、話の続きをどうぞ」

 

顔を真っ赤にしてむせながらも、眞木は右手を差し出して話を進めるように促した。

聞くのが怖かったものの、同時にその話の続きを聞いてみたいという興味もあった。

 

「・・・そう、泥棒事件ってのが最近話題になってるらしいのよ。

 なんでも、犯人はどうやら夜中に誰かのうちに忍び込んでいるらしくて、

 でも高価な物は盗らないらしいのよ、盗むのは決まってキッチン周りの食材だけ」

 

りさは正義感に燃えているらしく、まっすぐな瞳で眞木を見つめていた。

そのビー玉みたいな茶色の瞳に見つめられると、なんだか吸い込まれそうにも思う。

だが、眞木はその瞳をまっすぐに見つめ返すことができなかった。

視線の置きどころに困りながら、そわそわと紙ナプキンをとって触ったりしていた。

 

「今の所、大した被害は出ていないらしいから、警察とかもあんまり積極的に動かないみたいだけど、

 でもほら、あの『中西さん』って眞木ちゃん覚えてる?」

 

りさが言及した中西とは、かつてこの児玉坂の町に塚川真紀という女性がいたころ、

彼女とりさと眞木の3人でコンパに行った時に出会ったことのある男だった。

それが一体どうしたというのだろう?

 

「あっ、あのいけ好かない男ですよねー?」

 

「そうなんだけど、実は私、真紀からこっそり話を聞いたことがあるんだけど、

 どうやらあの人って刑事らしいのよ、しかも秘密捜査をしてるタイプの刑事らしくて、

 どうもこの事件、その中西さんが捜査をしていたらしいの」

 

眞木はもう青ざめた顔をしながら話が半分頭に入ってこなかった。

カバンから取り出したハンカチで口元を押さえながら、

何か難しい顔をしながら考え事をしているように見えた。

 

「それでね、真紀から聞いた所によると、もう盗まれてる物の傾向とかまで明らかになってるらしいのよ。

 犯人が盗む傾向にあるのは、どうやらお酒のつまみになりそうな食べ物なんだって。

 特に乾物系が犯人の好みらしくって、これ私、絶対犯人はおっさんだと思うのよ」

 

眞木が思い出していたのは、コンパの席で中西と会った場面だった。

何をしていてもジロジロと自分の手元を見られていたことを思い出したのだ。

眞木がテーブルの上から何かを取るたび、彼はなぜか鋭い視線を眞木の手元へ向けていた・・・。

 

「きっと犯人はすごく意地汚いおっさんで、食べ物に困って夜な夜な誰かの家に入ってるのよ。

 それで冷蔵庫とか漁られてるって、ほんとネズミみたいですっごい気持ち悪くない?

 早く捕まって欲しいんだけど、中西さんも大きな事件を抱えてるらしくって、

 もうあんまりこんな事件に本腰を入れていられないらしいのよね・・・。

 だからまあ、眞木ちゃんも、あんまり夜に出歩いてると変な人に襲われちゃうかもよ。

 悪いことは言わないから、あんまり出歩かないでおとなしくしてるほうがいいと思うな」

 

ここまで話を聞いた所で、眞木は口元を押さえていたハンカチを外した。

状況を冷静に理解できたことで、なんとか焦りを抑えることに成功したのだ。

 

どうやら中西がコンパに来ていたのは、おそらく眞木に疑いの目を向けていたからであり、

なんらかの秘密捜査の可能性は考えられた。

だが、あれからはもう随分と月日が経っているにもかかわらず、

眞木の泥棒家業になんの影響も与えていない所を見ると、

おそらく眞木が犯人だとはバレていないと推測できた。

そして、りさはりさで、架空のおっさんを犯人像として持っているようで、

これは少しかわいそうだが、その架空のおっさんに罪をかぶせてしまうことで、

自分へ向けられるかもしれない疑いを完全にそらすことができるようにも思えた。

それによく考えれば、そんな架空のおっさんに同情する必要もないと思ったし。

 

「・・・へぇー、そうなんですかー、えーやだー、怖ーい♡」

 

眞木はなるべくその架空のおっさん像とは懸け離れたキャピキャピ感を演じて見せた。

本当のことを言えば、その意地汚い架空のおっさんとは眞木自身のことなのだが、

架空のおっさん像が自分と重ね合わされると厄介なことになりかねないので、

ここはもう、自分の中の乙女成分を全開にしてやり過ごすしかなかった。

 

そんな話をしていると、やがて店員が通りかかって追加注文はないか尋ねた。

これはチャンスと思った眞木は、りさにこんな風に言うのだった。

 

「あのー、りさ先輩、私なんか急に甘いものが欲しくなっちゃいましたー。

 ケーキとか頼んじゃってもいいですかね、私甘いもの大好きなんですよー」

 

さっきは遠慮して納豆パスタだけしか注文しなかった眞木だが、

突然、気が変わったようにデザートを追加注文したいと言い出した。

眞木は自分は渋いものなんて食べない、甘いものが好きだとアピールしたかったらしく、

それによって架空のおっさんとは距離を取りたかったようだ。

 

「どうしちゃったの、急に意地汚くなっちゃって?」

 

りさがちょっといたずらな風にそう返答した。

眞木はその言葉を聞いて「しまった、意地汚い方に取られたか」と焦った。

意地汚い架空のおっさんと距離を置くつもりが、逆に距離が近くなってしまったのだ。

 

「ち、違いますよ、冗談ですよ、冗談・・・」

 

何が冗談なのかよくわからなかったが、眞木は逆方向にハンドルを切るほかなかった。

だが、甘えられること自体、りさは嫌いじゃない。

後輩の頼みとあっては、生粋の先輩肌であるりさはお金に頓着しなくなる。

ある意味で太っ腹だが、りさは眞木と違ってお金が貯まる方ではなかったかもしれない。

 

「じゃあ、このチョコケーキ2つください」

 

りさはメニューを指差しながら店員の女の子にそう告げた。

女の子の名札には「未代奈」と書かれているのがわかった。

いつも注文を聞きに来てくれるこの店のアルバイトの子だった。

 

「はい、ありがとうございます。

 今、ケーキを注文されたお客様だけに特別なサービスをご用意しています」

 

「特別なサービス?」

 

りさは今までそんなサービスについては聞いたこともなかった。

これまでデザートを注文してもそんな話はなかったのだが、

確かにこの店は向かいにパティスリー・ズキュンヌというケーキ屋ができてからというもの、

お互いにライバル心をむき出しにして新しい試みに挑戦するようにはなっていたのだ。

今回の特別なサービスも、その新しい試みの一つなのかもしれないと思った。

 

「はい、注文していただいた方の似顔絵をサービスで描かせていただいています。

 注文していただければ描くのは無料ですのでいかがですか?」

 

未代奈という女の子はそう言ったあと「3分くらいです」と即座に付け加えた。

時間はかからないということを伝えて安心させようと思ったのだろうが、

りさと眞木は、3分で描けるってどんな絵になるのだろうと逆に怪しんだ。

 

「・・・眞木ちゃん、どうする?」

 

「あー、私は遠慮しておきます。

 注文するのはりさ先輩だから、りさ先輩だけ描いてもらったらどうですか?」

 

できるだけ地味にひっそりと生きていきたい眞木は、その泥棒稼業もあって、

顔バレするような危険性のあることはできるだけ避けたかった。

 

「・・・じゃあ、お願いしようかしら」

 

りさはバレッタの常連であることもあり、未代奈とも面識があったので、

断ることも印象が悪いと思ってお願いすることにした。

それを聞いた未代奈はニッコリと笑って「ありがとうございます、少々お待ち下さい」

と言って店の裏の方に入っていった。

きっと絵を描く道具を取りに行ったのだとりさは思った。

 

しばらくすると、注文しておいたケーキとコーヒーを持ってきた。

そして、脇に挟んできたスケッチブックを構えると、

ポケットからペンを取り出してすぐに似顔絵描きを始めたようだった。

 

なんだかどこにも見たことのないサービスに、眞木はちょっと半笑いになって手で口を押さえていた。

りさは動いてはいけないと思ってキリッとしながら未代奈の方を向いていたが、

「あっ、別に動いても大丈夫です」と未代奈から冷静に告げられてしまうと、

なんだか動かないようにしていた自分がバカみたいに思えて恥ずかしくなった。

それからはケーキを食べたりコーヒーを飲んだりしながら自然体にしていたが、

やがて3分も経たずに「できました」と未代奈が言ってペンをしまった。

 

書き終えたスケッチブックをくるりとりさと眞木の方へ向けると、

そこに描かれていたのはりさではなく、謎の年増の女だった。

 

いや、正直年増の女かどうかすらよくわからなかったのだが、

そこに描かれているのはどうやら女性であることは間違いないと思われた。

だが、推測できるのは髪の毛が長く描かれているというくらいであり、

他の顔のパーツは、何一つりさの特徴を捉えてはいなかったのだ。

 

りさはその絵に対してどう感想を言って良いのかもわからず、

ただあっけにとられて瞬きが多くなっていた。

だが、自慢げに絵を掲げている未代奈もドライアイなのか瞬きが多かった。

 

眞木は一人笑いをこらえながら右手で口を押さえていたが、

両目はどう見ても爆笑していたので、りさは眞木を睨みつけて怒った顔をしてお手拭きを投げつけた。

 

「どうぞ」と冷静な口調で未代奈は描き上げた画用紙を破ってりさに差し出した。

「あ、ありがとう」と少しどもりながらりさはそれを受け取ったのだった。

 

「・・・あっ、お皿を引きますね」

 

ふと仕事を思い出したように未代奈はテーブルの上に残っていたお皿や箸を片付け始めた。

先ほどまでは無我夢中で描いていたので空いている食器類に気づかなかったのだ。

 

一方、りさは似顔絵を見つめながら何か感想を言わなければ失礼かと思っていたが、

とっさに口から出てきたのは自分でもよく分からないことだった。

 

「あっ、これあれかな、もしかして先日一緒に食べに来た社長夫人の顔かな?

 あの人ね、私の会社の社長の奥さんなの、もう結構お年を召していらっしゃるんだけど、

 しばらく入院されていらっしゃって、退院祝いにって会社に来てくださったの。

 だから社長たちに連れられてこのあいだここに一緒に食べにきたんだけど・・・」

 

りさはこの年増の女を自分の顔とは認めたくなかったのだろう。

とっさに口にしたのは辻褄の合わない話だったのだが、

片付けの最中に箸を握りながらそれを聞いていた未代奈の表情はキョトンとしていたようだった。

 

「・・・こないだ一緒にいた?」

 

未代奈の口調はまるで、私には見えませんでしたけど、その社長夫人は幽霊じゃないんですか、

とでも告げるような言い方であり、りさはもうなんだか色々と怖くなってきた。

 

結局、未代奈は腑に落ちない表情のまま食器を片付けて去っていった。

 

「・・・社長夫人、確かまだご健在よね・・・?」

 

りさは眞木に対してそう尋ねた。

眞木は爆笑が堪えなれなくなり、ついに「アッハッハ!」と笑い声を漏らした。

 

「大丈夫ですよりさ先輩、社長夫人はちゃんとまだ生きてますし、

 あの子があんなことを言ったのは、りさ先輩がその絵を自分だと認めないからですよ」

 

まだ20代なのに、絵に描かれた年増の女はまるで50歳から60歳くらいに見えた。

私はこんなババアじゃないと、りさは膨れて見せたのであった。

 

「それにしても、このサービス要ります?

 絶対にやめた方がいいと思いますけど」

 

眞木は爆笑しながらそう言い放った。

 

「しっ!聞こえちゃうでしょ?」

 

りさは未代奈を気遣って声のボリュームを落としてそう告げた。

確かに似顔絵は似ていなかったけれど、一生懸命やってくれたあの子に悪いと思ったのだ。

 

「これだったら私の描いた絵の方が上手くないですか?」

 

眞木はそう言って紙ナプキンにいつの間にか描いていた絵をりさに差し出した。

そこに描かれていたのも、りさとは全く分からない謎の落書きに近かった。

 

「あなたが言うことじゃないわよ・・・」

 

その絵を見たりさは呆れて何も言えなくなった。

児玉坂には画伯と呼ばれるべき人間が多いことがわかった。

 

 

お会計を済ませてバレッタを出た眞木は、

「ゴチになりやした!」とぺこりと頭を下げた。

眞木が見たりさの顔は、ちょっと膨れているようだった。

 

「ほら~、やっぱりこんな展開になったじゃない~!」

 

ババアの絵を描かれたことがよっぽど腹立たしかったのだろう。

だからこんな物語に参加するんじゃなかったと言いたげな表情をした。

 

「りさ先輩、クレームは私じゃなくて作者に言っちゃってくださいね」

 

眞木はお腹いっぱいでご機嫌になりながら会社へと戻ったのだった。

 

 

 

・・・

 

りさとのランチを終えた眞木は、

管理部の部屋に戻ってからは仕事に集中できた。

とりあえず、今後は水を汲みに行くことにこそこそしなくても良いとわかったからだ。

 

もちろん、以前会ったことのある中西が刑事だったことや、

彼に泥棒事件の容疑者として疑われていた事実は多少ショックだったのだが、

結局、あれから彼に後をつけられたり疑われたりしたこともなく、

りさが抱いた疑惑も架空のおっさんの仕業にうやむやのうちに収まってしまった。

ひとまず、彼女にとって窮地は脱したと考えたのであった。

 

多少は残業をすることになったが、

集中して仕事をすることができたおかげで、

溜まっていた仕事は予定よりも早めに進めることができていた。

眞木は充実感を抱いて帰路につくことができたし、

イライラすることもなかったので泥棒稼業もしばらくはお休みにしたのだった。

 

 

・・・

 

 

数日後、眞木は早めに仕事を終え、りさと忘年会の出し物の最終練習を行った。

仕事終わりに会社の玄関口で落ち合ってから二人でカラオケへ行き、

「制服を着てコンニチハを」を流しながら、それに合わせて二人で振り付けを踊るのだ。

 

この日、二人はレンタルした衣装を初めて着用して踊ってみた。

久しぶりに着た制服姿を見て、お互いに「まだイケるじゃん!」と盛り上がったのだ。

 

自己練の成果もあって、二人の最終練習はほとんど問題もなく終了した。

予想より早めに終わったので、二人で居酒屋に行ってお酒を飲んで前夜祭も行った。

 

二人は楽しい夜を過ごし、後は忘年会を待つばかりとなった。

 

 

・・・

 

 

そして忘年会の日がやってきた。

 

児玉坂ホテルの一室を貸し切って行われる会社の忘年会は、

全社員が参加できるように円卓テーブルがたくさん並べられていた。

テーブルの上には白い布が被せられており、正装したホテルのスタッフ達によってたくさんのご馳走が運ばれてくる。

 

部屋の奥には少し高くなっているステージが用意されており、

その両脇には贅沢にもTVモニターが用意されていた。

部屋の中央にはセットされたビデオカメラとカメラマンがスタンバイしており、

この忘年会の様子をすべて録画してもらえるようだった。

会社にとって忘年会は、社員へ一年の労苦を報いるパーティでもあり、

社長は大盤振る舞いで毎年この忘年会を用意するのだった。

昨年、りさは同僚達と児玉坂46の「会いたかったにちがいない」を披露したものだ。

それを覚えている社員もいることで、今年の彼女のパフォーマンスへの期待も高かった。

 

やがて忘年会は社長のスピーチによって始まろうとしていた。

円卓テーブルの一席に着席していたりさは、スピーチしている社長の横に立つ社長夫人を認めた。

やっぱり幽霊なんかじゃなかったとホッとしながら管理部のテーブルに座っている眞木を見ると、

眞木はその時のことを覚えていたのか、右手で口を押さえながらりさを見て笑っていた。

 

社長が乾杯の音頭を取り、社員一同はお酒を注がれたグラスを持ち上げる。

同じテーブルの同僚達と乾杯でグラスを合わせた後、一年の疲れを洗い流すようにアルコールを体へ流し込んだ。

 

一杯目のお酒ほど美味いものはない。

眞木もりさも「ああっ~!」と唸るようにグラスをあけていった。

二人のパフォーマンスは中盤から後半くらいにかけて行われる予定になっており、

全くのしらふで臨むよりも、多少アルコールを入れていた方が気持ちが楽になるのだった。

 

眞木とりさは別々のテーブルだったので、初めのうちは各所属部署の上司達に気を使っていた。

グラスが空になっているのを見つけると「何か飲みますか?」と声をかけるのがOLのマナーだ。

優しい上司であれば、そんな気遣いをしなくても「自分で注いで飲むよ」なんて言ってもくれるが、

それでも日本社会では「いやいやそんな」と言いながらお酒を注いだ方がよかった。

面倒な上司であれば、グラスが空になっても気づかれないと怒り出す人もいるくらいなのだ。

もちろん、一人で飲むのが寂しい上司であれば、一緒に乾杯して付き合う必要も出てくる。

 

こういう気遣いのマナーなどは、誰が教えてくれるでもない。

ただ、社会人になれば先輩の行動などを見ながら自然と学んでいくものだ。

若いうちは幹事を任されたり、お店の予約をさせられたり、会費の計算をさせられたりする。

忘年会の司会を任されれば運営をしなければならなくもなる。

自分がそんなことは向いていないから、という理由で断りでもすれば、

出世のチャンスを逃してしまうことにもなるし、気の利かない奴なんてレッテルを貼られることにもなる。

 

もちろん、こんなことは日本社会を飛び出せばバカげた習慣だとも気づく。

だが、結局我々はこの日本社会に生きている以上、バカげた習慣でも取り組むしかない。

そういう面倒や汚いことに慣れてしまうのは良いか悪いかはわからないが、

社会人になって会社組織を1年も2年も経験すれば、それが自然と身についてくる。

 

りさや眞木は、そういうことが身についている大人である。

嫌なことがあっても、それに幾らかは耐えることもできる。

耐えることが美徳の日本社会にとっては、それはとても役に立つ能力である。

社会人1年目の新入社員とりさや眞木のような大人とは、

そういう部分が圧倒的に大きな差になってくる。

自分のわがままを通す機会は圧倒的に減ってくるし、

それによって周囲を見るという余裕が生まれてくるようにもなる。

自分の感情よりも他者への気遣いを優先しなければならないことに気がつくし、

そういうことを通じて大人になっていくのかもしれなかった。

 

 

新入社員女子達のグループが踊る「世界には貝しかない」が終了し、

次はいよいよ眞木とりさの出番となっていた。

会場からは「センターの子かわいいー!」「カリスマー!」と絶賛する黄色い声援が飛び交う中、

眞木とりさもほろ酔いの様子で控え室に集まり、衣装である制服に着替えてスタンバイしていたのだ。

 

眞木とりさはお互いにほろ酔いになっていたので、お互いの制服姿を絶賛しあった。

「眞木ちゃんめっちゃイケてるやん!」「りさ先輩もガチJKじゃないですか!」なんて言いながら、

二人はお互いに肩を組合ながら気合いを入れてステージへと上がっていった。

 

昨年は大人気だったりさのパフォーマンスということもあり、前評判は高かった。

管理部にいる美脚女子と噂のある眞木とのユニットということもあり、

会社の男性社員達は期待を込めてこのパフォーマンスを待っていたようだった。

 

「ヨッ、待ってました~!」「セクシーお姉さ~ん!」と声援が飛び交う中、

二人のパフォーマンス「制服を着てコンニチハを」が始まったのだ。

 

久しぶりに短いスカートを履いた二人は、なんだかスースーする感覚が懐かしくも感じ、

ほろ酔いながらも学生時代からもうすでに何年もの時が経過してしまったんだなと感じたのだった。

児玉坂46でも比較的若い二人が踊るこの楽曲を、20歳を超えた二人が踊るというのが大ウケで、

やがてダンスのパフォーマンスとともに、会場は爆笑と賞賛の熱気に包まれていったのだった。

 

二人は練習の成果を120%発揮しながらダンスを踊りきったのだった。

会場からは拍手が上がったし、「眞木ちゃ~ん!」「りさせんぱーい!」と掛け声も飛んだ。

 

だが、二人が会場に向かって手を振って拍手に応えている時、

会場内から「ババアー無理すんなー!」「賞味期限が切れてるよー!」という心無いヤジも飛んだ。

そんな心無いヤジだったが、会場内には幾分か笑い声も生まれ、

やがて二人に対して「B・B・A! B・B・A!」というコールが巻き起こったのだ。

 

二人はそんなコールに見送られながら苦笑いでステージを降りて行ったのだった。

 

やがて次の出し物である太った上司達が女装をして踊る「裸でSummer」が始まり、

この曲も児玉坂46の今年の大ヒット曲であったのだが、さすがに演者が悪すぎるため、

会場からは「汚ねえもん見せんなー」「早く帰れー」と無礼講なヤジが早速飛び交っていた。

 

「これ、出し物の順番逆だったらよかったんじゃね?」という声が上がり始め、

忘年会の幹事を務めていた2年目の若い男性社員が部長クラスに呼び出されてお叱りを受けているようだった。

たかが、忘年会のプログラム順かもしれない、だがこれしきうまく運営できなければ、

大きな仕事を任せてもきっと彼はヘマをやらかすだろう、部長達はそう考えるのだった。

そう思えば、この2年目の社員の失敗も、やがては将来の大きな仕事のための糧となるかもしれない。

 

若い男性社員が部長に必死に頭を下げているのをよそに、

太った上司達のグループは、曲の途中で衣装を脱ぎ捨てるという暴挙に出た。

実際のところ、過激なタイトルとは裏腹に、児玉坂46はあくまでも清楚な制服を貫いたのだが、

上司達のうち後列3人で目立つために「制服脱ぎ捨て隊」というのを密かに結成していたらしい。

だがこれが「裸になってどうするつもり?」「何がしたいんだ?行動が予測できねぇよ」という非難を生む結果となった。

 

 

こんな風にして、今年の忘年会は幕を閉じて行ったのだった。

 

 

 

・・・

 

「お疲れ様でーす」

 

りさがデスクに座ってパソコンで会議資料を作成している時、

郵便物を持ってきたのは眞木だった。

 

忘年会では二次会、三次会まで参加することになった二人は、

遅くまでかなり飲まされたものの、翌日は普通に出社していた。

りさはお酒に強かったため特に問題ない様子だったが、

色々と脂っこい物も食べた眞木は、多少胃もたれを起こしているようで、

朝一番に会社で胃薬をもらって早速飲んだらしかった。

もちろん、薬代は会社が出してくれるから無料だった。

 

「あっ、ありがとー、体調大丈夫?」

 

りさは眞木がだるそうにしているのを見抜いていたが、

どんなに飲まされても翌日は普通に仕事をしなければならないのがOLの宿命だった。

こんな風に気遣いの声はかけられても、結局は本人が堪えながら頑張るしかないのだった。

 

「もう胃もたれハンパないっす」と眞木は自虐的に笑って答えた。

りさもその様子を見て苦笑いをしながら、資料作成の手を休めた。

 

昨夜の振り返りもしていなかった二人は、仕事の手を休めて会社のビルの屋上へやってきた。

12月にもなっており、外は寒かったのだが、暖房の効いている社内では、

疲れている体にとっては眠気を催すこともあり、外の風に当たることも大事なのだ。

 

「私、正直ちょっとショックでした」

 

ホットコーヒーの缶を両手で持ち、屋上の手すりにもたれて空を見ながら眞木がそう言った。

昨夜の「B・B・Aコール」についてのことだった。

 

この出し物の順番を決めた若手社員は朝一番に二人に謝罪にやって来ていた。

最初に太った上司達を出し、次に眞木とりさ、最後に新入社員女性グループを出していれば、

こんな悲劇を生むことはなかったのだと謝罪の言葉を口にしたのだが、

眞木もりさも、上司達を前座に回すことの難しさや、新入社員をトリに出演させることの過酷さを理解していたし、

この順番を決めた彼の判断には同情せざるをえなかった。

 

だが、結果として若い女性社員達と比較されることになった眞木とりさは、

まだ20代前半という若さでありながら「ババア」呼ばわりされることになってしまったし、

去年はあれほど好評だったはずのパフォーマンスが、たった1年でこれほど逆風にさらされるとは想像もできなかった。

 

女性の年齢というのは残酷なものだとりさは思った。

たった数年で天国から地獄へ突き落とされるような屈辱を味わう危険性もあるのだ。

男性社員は、むしろ社歴を重ねるごとに階段を上るように出世を続けていくが、

まだ女性社員の待遇が改善されてこない日本社会では、

OLの行く末は歳を重ねて部署のお局さんへと進化するほかない。

そうなると、各部署で権力を手に入れることができるかもしれないが、

恋にも見捨てられ、若い男性社員にも煙たがられ、上司からは触らぬお局に祟りなし状態にされる。

 

「・・・彼女達だって、数年後は私たちみたいになるのよ・・・」

 

屋上でしゃがみながら、りさはホットコーヒーの缶で両手を温める。

コーヒーをすすり飲みながら、今宵はOLブルースでも作曲したい気分になった。

 

「だけど、盛り上がってたじゃない?」

 

りさは眞木の方を向いてそう言った。

当初の目的は、この若い子が踊る楽曲を20代の自分たちが踊るというギャップの笑いだった。

もちろん、ダンスの完成度が高まるに連れて、二人にはもうちょっとちやほやされるんじゃないかという欲が出た。

その期待感が二人を知らない間に高いところへ連れて行ってしまい、理想と現実の落差にやられてしまったのである。

 

「・・・でも、ババァはひどくないですか?」

 

眞木の投げかけた質問に、りさは何も答えることができなかった。

 

「大人の魅力ってなんなんですかねー?

 私にはそういうの身についてないのかなー」

 

しゃがんでいるりさは隣で立っている眞木を見上げた。

そこには東京スカイツリーのように長い美脚がそびえ立っていた。

彼女には十分大人の魅力も兼ね備えている気もしたのだが・・・。

 

「来年はもうこういうの卒業ですかね?」

 

眞木は少し自虐的に笑いながら屋上の手すりから離れた。

 

「寒くなってきたのでお先に戻らせてもらいますね。

 りさ先輩も、風邪引かないうちに戻ってくださいよ」

 

そう言ってからヒールの音をコツコツと鳴らしながら、

眞木は屋内へ通じる扉を開けて階段を降りて行った。

 

一人残されたりさは「ふぅ」とため息をついてから立ち上がり、

どこからか風の吹いてくる12月の寒空を見上げてみた。

肌を刺すような冷たい風にやられてブルッと震えた。

 

「おー、瀬藤さん、ここにいたのか」

 

声のする方を振り返ると、そこには営業部の部長がいた。

彼はりさの所属する部署の上司であり、よく話をすることもあった。

 

「昨日はお疲れさん、今日ぐらい外回りだって言ってサボってもいいんだぞ」

 

そんな風に声をかけられても、「じゃあそうさせてもらいまーす」なんて言えない。

本音と建前を見分けながら「いえ、お気遣いありがとうございます」というのが大人のやり方だ。

 

だが、この部長はあまり建前を言わないことで有名だった。

部下達には決して嫌なことは強要せず、だが部下達の失敗については必ず責任を取ってくれた。

りさも営業職をしていると色々と気苦労も絶えないのだが、

この人の下で働いているからこそ、嫌なことにも耐えることができたのだ。

 

「昨日、よかったな」

 

部長は笑顔でそう告げた。

先ほどの眞木の悲しみが忘れられず、りさも素直に喜べなかった。

そんな表情も見抜かれてしまったのか、部長は言葉を続けた。

 

「あれが大人の魅力だよな。

 かっこ悪いのが一番かっこいいんだよ」

 

部長が12月の寒空に向けて言い放ったセリフの意味はとても深くて、

りさにはわかったような、まだわからないような複雑な気持ちが去来した。

だが、寒かった身体がなんとなく温まっていくような不思議な感覚があったのだ。

 

「風邪、引くなよ」

 

そう言って部長は屋内へと戻って行った。

りさはもう一度「ふぅ」とため息をつきながらも、

なんだか心が軽くなったような気がして頬が緩んだ。

 

 

 

・・・

 

屋上から管理部の部屋に戻ってきた眞木は、

胃もたれに耐えながらも書類の処理を進めていった。

どんなに苦しくとも、言い訳をしても、涙を流しても、

与えられた仕事をクリアしなければ帰れないのが大人である。

 

(・・・与えられた仕事は手を抜かずに全力でやらなきゃ・・・)

 

そう思って気合を入れ直し、眞木はデータ入力を開始した。

 

黙々とデータを入力していくと、気づいたら間も無くお昼の時間である。

だが、キリのよいところまで進めてしまいたかった眞木は、

向かいに座っている上司が「休憩行っていいよ」と言ってくれていたのにもかかわらず、

まだ黙々とデータの入力作業を続けていたのだった。

 

眞木がそうしている時、上司は先に立ち上がって給湯室へ向かった。

上司もお茶を入れたりしてお昼ご飯を食べようとしていたのだ。

そして、管理部の部屋に戻ってきた時、眞木に対してこう言い放った。

 

「賞味期限、切れてるよ」

 

眞木は飲みかけていたボトルの水をまた気管へ流し込んでしまいむせていた。

昨日のステージで浴びせられたヤジを思い出した眞木は、

「何がよ!」と思いながら後ろを振り向くと、

先ほど向かいに座っていた上司がヨーグルトを眞木に渡してきた。

先日、泥棒してから会社の冷蔵庫に入れておいた高級ヨーグルトだった。

よく見てみると、すでに賞味期限が3日ほど切れてしまっている。

もともと、割引セールのシールが付いている商品だったのだから、

盗み出した時点で賞味期限は迫っていたはずだった。

眞木はあの日、りさとランチに出かけた事でヨーグルトの事を忘れてしまっていたのである。

 

まだ仕事はキリのよいところまで達していなかったが、

集中力がなくなってしまった眞木は、もうデスクを離れることにした。

そして、給湯室へ行ってゴミ箱の前でヨーグルトをじっと見つめていた。

 

(・・・まるで私みたい・・・)

 

賞味期限が切れてしまったヨーグルトを見つめながら、

捨てる事がためらわれた眞木は「3日くらい大丈夫よね」と自分に言い聞かせた。

そして、午後からは見事に腹痛止めの薬を調達に向かわねばならなくなったのだった。

 

 

 

・・・

 

ヨーグルトでお腹を壊した日、眞木は安静にしていたのだが、

もうすっかりよくなった翌日から、眞木はまた泥棒稼業を再開したのだった。

 

忘年会での出し物のせいで余計なストレスを抱えた眞木は、

年末にもかかわらず大量に残っている仕事にも嫌気がさしていた。

そういう時、普通の人はパーっとお金を使って買い物でもしてストレスを発散するのだが、

節約家の眞木はそうはいかない、彼女の場合は逆にもっと節約する事でストレスを解消するのだ。

これだけ節約できた、という確かな手応えだけが彼女の慰めになるのである。

これからやってくる超高齢化社会に向けて、老後の資金は多ければ多いほど良い。

毎日の節約は、彼女に安定という喜びをもたらしてくれるのだ。

 

連日のように他人の家に忍び込んだ眞木は、様々なものを盗んだ。

まだ蓋の開いていないサラダのドレッシングにはキャップの部分に「新」と書いて会社の冷蔵庫に閉まってある。

見た所まだ新鮮だと思われたきゅうりは、小腹が空いた時の為にカバンの中に入れてある。

探していたこだわりのチョコレートを見つけた時はかなりテンションが上がったものだった。

そんな風にして、世の中的には犯罪率が高まるという物騒な年末に向けて、

児玉坂の町も例外なく泥棒事件のニュースで持ちきりになっていった。

みんなが幸せになる頃、満たされない人々はその他人の幸せを羨んで犯罪に手を染める。

これがこの不平等な世の中からまだ無くすことのできない悲しい現実なのである。

 

泥棒行為によってストレスは解消されて行ったのだが、

連日のように夜更かしが続いていた眞木は目の下にクマを作って行った。

毎朝のように栄養ドリンクに頼りきりの生活になり、

疲れがピークに達するとデスクで綺麗な姿勢を保つのも困難になってくる。

自然とデスクの下で靴を脱いだり、少々ズボラな行動も顕在化してくるようになった。

寝不足によって仕事上でもつまらない凡ミスを繰り返すようになり、

それがまたストレスとなって泥棒稼業に転化される悪循環となっていき、

眞木はまるで何かに取り憑かれてやめられなくなった中毒者のようになっていた。

 

ある日、ランチに誘ったりさは眞木があまりにもやつれているのを見て心配になった。

これは間違いなく夜更かしが続いているのだということを見抜いたりさは、

どうやら眞木がただ夜な夜な飲み歩いているだけではないと気づいたのだった。

おそらくこれはお金に困って副業でもやっているに違いないと思ったりさは、

「大丈夫、なんか困ってない?」と優しく声をかけたりもした。

眞木は別に大丈夫ですよと否定したが、そうであればなぜこれほど寝不足になるのか説明がつかなかった。

これはおそらく、何か秘密の副業をしているなとりさは勘づいていったのだった。

 

 

 

・・・

 

それから時は流れて、街はイルミネーションに包まれて行った。

会社に向かう途中、眞木は幾人ものカップル達を見送った。

駅でずっとおでこだけをくっつけ合っている恋人達や、

手をつなぎながら幸せそうにショッピングをしている男女。

例年のようにケーキ屋は予約でてんてこ舞いの忙しさになっていて、

眞木は時々食べにいくことがあるパティスリー・ズキュンヌのクリスマスケーキも、

どうやら今年はすでに予約完売になったようで買えなかった。

店長である春本真冬とは顔見知りの仲ではあったが、

「ごめんねー、また来てね」とだけ慰められたのだが、

彼女も忙しいのか、すぐに店の奥に引っ込んでしまった。

数年前までこのお店もこんなに忙しくはなかったはずなのに。

不断の経営努力を続けているのだろうが、ケーキを買えなかった眞木は悲しくもなった。

 

仕方なくコンビニで安いケーキを買ってお昼休みにでも食べようと思っていた所、

コンビニの店員さんにスプーンを入れるのを忘れられていたらしい。

お昼休みになってそれに気づくと、そんな日に限って社内で余ったスプーンひとつ見つけられず、

もうどうでもよくなった眞木は割り箸を使ってそのケーキを食べた。

 

そうして、クリスマスイブの夜はもう夜の9時を回っていった。

眞木のデスクには食べ終わったカップラーメンの容器が置いてあり、

中には冷え切ったスープに油が浮かんでいるのが見える。

 

社内にはもう誰もいない。

まだ残っていた直属の上司も先ほど帰ってしまった。

携帯にはりさから「早く終われたら一緒に飲もうね」と連絡が来ていたが、

「すいません、今日はちょっと終わりそうにないので」と悲しい返事をしておいた。

 

眞木は時々、仕事の手を止めて妄想に耽った。

こんな時、私の仕事が終わるのを待ってくれている彼氏がいたらどれだけいいだろうか。

「仕事がまだ終わらないの」なんてメールを打っても「了解」とだけ冷たく突き放されて、

でもいざ仕事が終わって会社を出る時になると、そこで待っていてくれて、

「えっ、どうして?」なんて言って「クリスマスは好きな人と一緒にいたいだろ?」なんて言われて、

「えっ、なんて言ったの、もっかい言って」「嫌だよ」「お願い!」「やーだ」「えー!」なんて言っちゃって・・・。

 

気づいたら時計は11時を回っており、眞木は一人でニヤニヤしながら笑っていた。

ハッと我に返った時、これは完全に二推し女の負けパターンだと気づいた眞木は、

もはやこんな悲しみの忘れ方も知らず、世の中のカップル達に嫉妬の権利を行使することもできず、

さっき買っておいた炭酸水の蓋を閉め忘れていたことですっかり気がぬけてしまっている現実だけに打ちのめされた。

こんな風にして人生で限りあるクリスマスの夜を消化してしまうことに嫌気がさしたのだ。

 

そして、眞木はパソコンの電源を落として立ち上がったのである。

今夜の眞木を止められる者はもはや誰もいなかった。

 

 

 

・・・

 

会社を後にした眞木は、街が寝静まるのを待った。

こんな夜、きっと良い子達は早めに眠りについている事だろうし、

おそらく悪い子達は遅くまで起きて色々としているだろうし、

とにかくどいつもこいつも早く眠りやがれ、と眞木は思った。

この静寂の夜だけが眞木に慰めをくれるのだ。

街をうろつきながら、家の灯りがひとつまたひとつと消えていくのを見送り、

みんなが寝静まった頃、眞木の本領は発揮されるのである。

あなたも静かな夜に耳をすませば、もしかしたら眞木の声が聞こえて来るかもしれない。

 

眞木が腕時計を見ると、すでに時間は午前3時を過ぎていた。

さすがにみんな寝静まった頃だろうと思い、眞木は泥棒稼業を開始する。

 

侵入する手段は色々とあった。

まず、無用心にドアに鍵をかけていない家は格好のターゲットだった。

眞木はもう慣れっこになっていて、無用心な家は見ているだけでわかった。

次に、留守になっていそうな家も感覚で見抜けるようになっていた。

誰かが帰ってくる時に入れるように郵便受けに鍵を入れていたりする家庭は、

残念ながら鍵の置き場所を考えたほうがいいと眞木は時々思うのだ。

もちろん、ドアに鍵がかかっていようと、眞木くらいになれば窓からでも幾らでも侵入する事はできた。

元来、こそこそと行動する事は得意なのである、余計な証拠も残さないし足跡も残さない。

 

ムシャクシャしていた今夜は、特にターゲットを決めていたわけでもなかった。

それこそ衝動的に、適当に、盗みに入りたいところに入るだけだ。

むしろそのほうが冷蔵庫の中にレア物が入っているケースも多く、

眞木はそういう偶然がもたらす幸運に興奮するのだ。

何気なくコンビニに入って、割引のヨーグルトが置いてあるあの感覚、

スーパーのタイムセールが始まったあのワクワク感、売れ残り品を片っ端から持って帰るあの喜び・・・。

 

 

とにかく、眞木は狙いを定めて一軒の家に忍び込んだ。

玄関前には「南野」と表札がかかっていた。

だが、そんなことには眞木は一向に興味はない。

冷蔵庫の中に何が入っているか、中身が重要なのだ。

 

この家には一応の戸締りはされていたが、眞木くらいになると忍び込むのに苦労はしない。

ちょちょいと鍵をこじ開けて抜き足差し足忍び足。

これだけ長い美脚をモデル業ではなくこんな使いかたをするなんてある意味で贅沢だった。

 

一階にあるキッチンに無事辿り着いた眞木は、どうやらこの家庭はクリスマスパーティをしていたことに気づいた。

部屋にはクリスマス用の飾り付けをしていた痕跡があり、クリスマスツリーも部屋の片隅に出ている。

おそらくここは家族構成として子供のいる家庭だと思った。

こんな風にパーティをするという事は家族同士が大変仲がよいはずだ。

おそらく枕元には靴下なんか置いて、子供は幸せそうに眠っているにちがいない。

 

2階へ続く階段のある家であることがわかると、おそらくそちらに寝室があり、子供がいる可能性が高いと推測する。

そうすると、親たちも2階の部屋に寝室があるか、もしくは1階にも別部屋があって、

子供達と離れた場所に寝ている可能性もある、その場合はキッチンと近いから気をつけねばならない。

眞木は家具や家の間取り図を見ることが好きで、泥棒として忍び込んでもついそんなことを考えてしまう。

 

とにかく冷蔵庫まで辿り着いた眞木は、物音を立てないようにしてそれを開けた。

灯りの落ちた部屋に、冷蔵庫の中だけが明るくて、まるで宝石箱のように輝きを増していく。

眞木にとってはそこは幻想の世界なのだ、安くて美味いものを手に入れた人が勝者なのだ。

 

眞木は興奮する衝動を抑えながら物色を開始する。

クリスマスパーティが行われたためか、その残り物と思われるものが多かった。

切り分けられてラップに包まれていたケーキ、真空パックして売られてある七面鳥の肉、

ラップされたクリームシチュー、ピザのかけら2ピース、うなぎの蒲焼・・・。

 

さすがにクリスマスイブだけあって、普段よりも豪華なものが冷蔵庫に入っていた。

眞木は一人でテンションが上がって嬉しそうに賞味期限などを確認する。

持っていくのは面倒なのでケーキはここで食べてしまおうかと思った。

うなぎの蒲焼と七面鳥の肉は、発泡スチロールの入れ物にパックされていたり、

プラスチックの袋に入れられて真空パックで密封されているので持ち運べると思った。

 

そうと決めればまず、うなぎの蒲焼と七面鳥の肉を取り出して持っていたカバンに入れた。

これだけでも普段に比べれば豪華も豪華である。

貝ひもやサバの缶詰に比べれば、はるかに美食を手に入れた。

もちろん、眞木はそういった渋い物も大変好みなのだが。

だがとにかく眞木はうなぎと七面鳥という獲物を得たことで、

これが贅沢品であり、大いに節約になったと思っているのだ。

それが彼女の満たされない心を少しずつ溶かしていくのだった。

 

最後の締めにケーキをいただこうと思った。

ラップを外して切れ端を素手で掴むと、

豪快にそのまま口に放り込んだ。

お箸やフォークなどを使うと、それを洗うのが面倒になる。

できるだけ作業を省略するのが眞木のスタイルだ。

何か無駄な物を削れば削るほど、彼女の喜びはさらに高まっていくのだ。

 

だが、ケーキを口に放り込んだ時、眞木は突然どこかから音が鳴り始めたのに気づいた。

ケーキの味をゆっくり堪能する暇もなく、眞木は体をビクつかせて冷蔵庫の扉に身を隠した。

音が鳴っているのはどうやら2階からで、それはどうも携帯のアラーム音であることがわかった。

 

「まずい」と思った眞木は、とにかくしばらくは物音を立てないようにして様子を伺っていた。

そのうち、どういうわけかアラーム音は消えてしまったようだった。

この種のアラーム音が消えるという事は、おそらく誰かが起きてアラームを止めたという事になる。

 

もしかすると、誰かが起きて階段を降りてくるかもしれない、と眞木は思った。

そうして用心しなければと思ったのだが、どういうわけかそれ以降何も物音はしなくなった。

どうしてこんな時間にアラームをセットしたのかはわからないのだが、

おそらく、アラームをセットした人は、そのアラームを止めて二度寝してしまったと思われた。

こういう人はきっと、電話をかけたとしても起きる事はないタイプだと眞木は思った。

 

経験上、もうこれ以上その人は起きる事はないと思った眞木は、

先ほど食べかけていたケーキの残りを口に放り込んだ。

今度こそちゃんと咀嚼して甘さを舌に感じる事ができたのである。

やっとクリスマスの夜に人並みの幸せを得ることができたのだった。

 

そうして冷蔵庫を閉めてそろそろ失礼しようかと思っていたところ、

眞木は予想外にもまたアラーム音が鳴り始めたことに気がついた。

まだ数分しか経っていないのに2度目のアラームをセットしていた事になる。

眞木の経験上、これはやばいパターンだった。

なぜなら、この人はおそらく1度のアラームでは起きれない体質であることを自分で了解していて、

それでいて2度目のアラームをセットしている可能性が考えられたからだ。

なぜこういう風に考えることができたのかというと、眞木自身が3つの目覚まし時計を仕掛ける人だからだ。

朝に弱い人間が自分を縛るには、こうしてアラームを複数回セットしておかねばならないのだ。

 

そして案の定、2度目のアラームが止まった時、2階からは誰かが起きたような物音が聞こえた。

眞木はこれはまずいと思い、即座に椅子を避けてテーブルの下にもぐり混み、

また椅子を盾にしてその身を隠すことに努めたのだった。

心臓の鼓動はドンドン高鳴っていったが、キッチン周辺は真っ暗なので、

もし誰かがこちらに起きてやってきたとしても、

電灯さえつけられなければバレないでやり過ごせるかと眞木は祈った。

 

長い脚をテーブルの下に入れておくのがかなり窮屈ではあったが、

眞木は身体をできるだけ小さくしてテーブルの下に隠れていた。

やがて誰かが階段を降りてくる足音が聞こえてきた。

足音は夜中だというのにあまり気にするような様子もなく、

おそらくこの家に住む子供である可能性が高いと眞木は推測した。

大人であれば、誰かを起こしてしまってはいけないと気を使うから、

足音も自然とミュートするように忍び足になるものだ。

だが、この大胆な足音から推測するに、この子供の性格もわりと大胆である可能性が高い。

 

眞木はテーブルの下で息を殺してその様子を見ていた。

長い脚がどうしても邪魔になり、伏せている自分の身体よりも膝の位置が高くなる。

眞木はまるで蜘蛛のような格好で床に伏せていたのだった。

 

やがて階段を降りてきた子供は、かなり寝ぼけた様子でトイレへと向かったようだった。

その隙にここを脱出しようかとも迷ったが、あの子がトイレを出て部屋に戻ってから動いた方が安全かもしれない。

眞木はじっと息を殺しながらこの状況を耐え忍ぶことにした。

生まれてからこのかた、二推しの女として色々と耐え忍ぶ生き方をしてきた眞木にとって、

この数秒くらいは何でもないと思っていた。

だが実際はわずか数秒が永遠のように長くも感じるのだった。

 

トイレから音が聞こえてきて、子供がドアをばたりと締める音が聞こえた。

そしてこちらの方へ歩いてきて、また階段を登り始める音が聞こえてきた。

「よしよし」と拳を固めてガッツポーズを取っていた眞木であったが、

階段の途中で急にその足音が止まったことに気がついた。

 

そして足音は逆流を始めた。

また階段を下り始めたのだった。

あまりの緊張感に息がつまるような気がした眞木は、

呼吸の音すら悟られないように右手で自分の口を押さえた。

 

その子供はどうやら女の子らしいとわかった。

見た目は高校生ぐらいで、パジャマ姿で眠そうに目をこすっている。

階段を降りてきたところでしばらくボーッとしていたが、

やがて寝ぼけた顔をしながらこちらへ向かってくるのがわかった。

 

眞木は勝手に身体が後ずさりしそうな衝動を感じた。

どうにかして一刻も早くこの場を去りたいと本能が思っているのだ。

だから身体が勝手に反応してしまうのであるが、

ここは身動きをすると逆に居場所を教えることになってしまう。

眞木は破れそうな鼓動が自分の耳まで響いてくるのを必死に堪えていた。

 

そして、女の子は冷蔵庫の前に立ち、その扉を開いた。

中から明かりが漏れて眞木の目の前まで明るく照らされている。

今、振り返られたら眞木の存在が彼女にバレるのは間違いなかった。

願わくば、そのまま冷蔵庫を閉めて、また立ち去って欲しかった。

 

だが、眞木の祈りは届かなかった。

冷蔵庫の中身を見た女の子は一気に目がさめた様子で、

 

「あれっ!ない!ケーキがない!」

 

と大声で叫んだ後、続けざまに言うのだ。

 

「うなぎもない!七面鳥もない!

 なんで~!?どうしてないの~!?きな子が明日食べようと思ってたのに、なんで~!?」

 

その女の子は焦った様子で冷蔵庫の中に顔を突っ込んで食料を探し始めた。

だが、何よりも深夜にもかかわらず彼女の声のボリュームは大きすぎた。

このままでは家中の人が皆起きてしまう、もしかしたらご近所さんまで聞こえてしまう、

そう思った眞木は瞬時にテーブルの下を飛び出して後ろから右手で女の子の口を塞いだ。

 

「うぐぅ~ぐぅぐぅ~!」と何かを喋りながらも声にならない。

眞木はそのまま彼女をテーブルの下まで引きずりこんで後ろから抱きかかえた。

蜘蛛の餌食になった虫のように、女の子はテーブルの下へ飲み込まれていった。

 

だが、彼女の大声に気がついたのか、

奥の方の部屋から誰かがこちらに向かって歩いてくるのがわかった。

かすかな足音だが眞木にはわかる、わざと足音を消しているような忍び足だ。

気づかれてしまって万事休すかと眞木は目を瞑りながら女の子の口を塞いでいた。

 

すると、どういうわけか足音の方向が変わった。

おそらく足音は、そのまま階段を登り始めて上に向かっているようだった。

彼女の声がしたのは明らかにキッチンからだったにもかかわらず、

あの足音は彼女を探すことなく、なぜか彼女の部屋に向かったように思われた。

どういう理由かはわからないが、眞木はここしか逃げ出すチャンスはないと思った。

 

「うぐぅ~ぐぅ」と抵抗を続ける女の子に対して眞木は仕方なく恫喝する。

 

「・・・これ以上声を出したらうなぎも七面鳥も永久に帰ってこないからね」

 

耳元で囁かれた声に恐怖を感じたのか、女の子は声を出すのを止めた。

眞木自身、いったい何をやっているのかと思っていた。

これでは泥棒では済まず、まるで誘拐犯にでもなってしまっている。

こんなはずではなかったのだ、私はただ日々の節約がしたかっただけなのに。

 

階段を上る足音が2階の部屋の中に消えたとき、

眞木は決意をして女の子を連れたままでキッチンを飛び出した。

多少物音がしても構わないと思った。

ひたすら彼女の口を押さえながら誘拐するようにして玄関を飛び出して、

そのまま夜の暗闇の中へ消えていった。

 

 

 

・・・

 

暗闇の道をどれだけ走っただろうか。

眞木は南野きな子の口を塞ぎながら夜道を駆け抜けた。

 

やがて向こう側から車のヘッドライトの明かりが見えると、

まずいと思った眞木は細い路地裏へ続く道へと身を隠した。

車が通過するとき、ヘッドライトの明かりが一瞬だけ眞木ときな子の表情を照らした。

きな子は一瞬だけ相手の顔が見えたが、少し年上の綺麗なお姉さんだったことに驚いた。

 

車が通過していってしまうと、きな子は瞬時に身をよじらせて眞木の手に噛み付いた。

「いたっ!」と言って思わず眞木はきな子から手を離してしまった。

だがそこできな子が眞木に向かって何かを言おうとした途端、

眞木は勢いよく指を口の前に置いて「しっ!」と黙れの合図をした。

その勢いに押されて、きな子は思わず黙ってしまったのだった。

 

「とにかく、余計なことは喋んないで。

 私はあんたを誘拐したいわけじゃないから。

 あと、うなぎと七面鳥の在り処を知ってるのは私だけだからね」

 

うなぎと七面鳥は眞木が持っているカバンに入っているだけなのだが、

眞木はまるで人質を取っているかのような口ぶりできな子を脅しつけた。

 

「でも・・・お姉さんいったい誰なの!?

 勝手にきな子のお家に入り込んで何してたの!?」

 

きな子は当然だと思われる質問を眞木に浴びせた。

眞木は少し斜め上を見ながら必死に理由を考えていた。

考えろ私、この問題のソリューション(解決策)はいったいどこに?

 

「・・・お姉さんはね、特命刑事なのよ」

 

「特命刑事?」

 

「そう、そうなのよ、近頃児玉坂の町も物騒になってきたっしょ?

 だから悪いやつを捕まえるために秘密の指令を受けてる刑事ってわけよ ・・・」

 

きな子は疑り深そうな目でジロジロと眞木を眺めた。

見るからに普通のOLさんにしか見えないのだろうが、

眞木はふと、りさが言っていた中西という男の肩書きを思い出してこじつけたのだ。

 

「・・・それより、あんたもこんな時間に何してたのよ?

 アラームの時間、設定間違っちゃったの?」

 

眞木は話題を自分の身の上からきな子へと逸らした。

これで自分の事に関する説明は終わったといわんばかりに。

 

「サンタさんを捕まえようとしてたの」

 

「はぁ?」

 

「毎年枕元にプレゼントがあるんだけど、

 いっつもサンタさんを見る事ができないから、

 今年は絶対捕まえようと思って待ってたの。

 でも、起きたときにはまだサンタさん来てなかった」

 

バカめ、この子はどこまでもピュアらしいと眞木は思った。

どうやらこの世に本当にサンタがいると信じているらしい。

この調子なら適当な嘘をついても信じてくれるのではないかと思い、

自分は特命刑事である自説を通そうと決意した。

 

「・・・あっ、そうなんだ、今年はサンタのおじいさん遅刻してるのかなー?。

 なんかごめんね、せっかく見つけたのがサンタじゃなくて刑事だなんてさー」

 

眞木はおどけるような仕草をしながら刑事の役を演じ続けた。

刑事が冷蔵庫を開けて物を盗んでいた矛盾についてはどうしようかと考えながら。

 

「えー、そうなの!?

 サンタさんって本当にいたんだ!?

 きな子、サンタさんってお父さんだとばっかり思ってた!

 えー、すごいすごい!面白い!」

 

きな子はピョンピョン跳ねながら喜んでいるようだった。

眞木はきな子が本当にバカなのかどうか逆によくわからなくなってきた。

という事はあれか、この子がアラームをセットしていたのは、

お父さんがサンタに扮装してプレゼントを持ってくるのを捕獲しようとしていたのか。

そう考えると合点が行くのは、なぜきな子が冷蔵庫の前にいるときに、

近づいてきた足音が2階へ向かっていったかということであった。

おそらく、あれはきっとサンタに扮したお父さんであり、

きな子が寝室を離れた隙をついてプレゼントを置きに行ったのかもしれない。

 

やれやれ、ここの親子はきっと仲良しなのだろうなと眞木は思った。

こんなクリスマスの夜にまで、親子でサンタゲームをやっているようなものだ。

 

「えー、じゃあサンタのおじいさんいつ来るのかな!?」

 

きな子は無邪気にそう尋ねてきた。

とにかく騙されやすい子のようだから、

今までついた嘘にまた嘘を重ね塗りしていこうと眞木は決めた。

 

「いやー残念、たぶん今頃枕元にプレゼント置いてる頃じゃない?」

 

きっと今頃、お父さんがプレゼントを枕元に置き終えている頃だから、

この説は後々まで矛盾しない、我ながら完璧なロジックだと眞木は自惚れた。

 

「えーっ!いつの間に!?何を置いたんだろ!?」

 

「それは後で自分で確認しなきゃ、サンタのそういうのはいっちゃいけないルールだから」

 

サンタのルールなんて知らねーけどな、と眞木は心の中でほくそ笑んでいた。

こういうもんは何かしらルール的な事を言っておけばそれらしくなるのだ。

どこの世界もOLと同じで、ルールによって色々とがんじがらめなのだから。

 

「うん、わかった!

 ところで、きな子のうなぎと七面鳥はどこなの?」

 

ついに聞いてきやがったか、と眞木は顔が一瞬引きつった。

この矛盾はどうすればいい、どうすれば・・・。

 

「あと、ケーキも!」

 

ケーキに至ってはもう私の胃袋が消化中だよと眞木は思う。

けれどそれを言ってしまったらこの子はきっと純粋なだけに怒ってしまうだろう。

そうだ、こんなときに罪をなすりつけられる人がいたではないか。

我が心の友、というか実はもう一人の私、意地汚い架空のおっさんが・・・。

 

「・・・私がこの家の外を見張ってた時、どうも変なおっさんが家の前に突っ立ってたのよ。

 そんで、何してんだろうと思って後をつけて家に入ったら、どうやら冷蔵庫を漁ってたのね。

 多分、そん時にケーキとうなぎと七面鳥はそのおっさんが盗んでたんだと思うの」

 

「えーっ!」と驚きの声を上げたきな子。

眞木はしめしめと話を続ける。

 

「それで私がテーブルの下に隠れて監視してたら、

 その意地汚いおっさんがどうやら私に気づいたらしくって、

 そのままどっかに逃げて行っちゃったんだけど、

 そうしてたらあんたが冷蔵庫までやってきたってわけ」

 

眞木は思った。

サンキュー架空のおっさん、あんたの善意は無駄にはしないよ。

 

「えーっ、じゃあどこに行ったらその人に会えるの?」

 

きな子は心配そうな表情でそう尋ねてきた。

食べ物を取り返したくて仕方ないのだろう。

 

「あのね、刑事は犯人を捕まえなきゃいけないっしょ?

 だから私達はこの街の住人の身元がわかるリストを持ってんのよ。

 それ見ればあのおっさんの住んでるところもわかるってこと。

 大丈夫、あとで私が取り返しに行ってあげるから」

 

こういう言い方をすれば、きな子は自分を頼らざるを得なくなる。

それなしでは楽しみにしていた食料を取り返すことができないからだ。

もはや何があっても私に逆らう事は出来無くなると眞木は考えた。

ちょろいもんよ、大人の頭脳をなめんなってね。

 

路地裏で色々と説明しているうちに、

きな子はパジャマだけで外にいることに気づいた。

寒かろうと思った眞木は、自分が着ていたコートを貸してやった。

自分に優しくしてくれる人が悪い人ではないと考えたきな子は、

そんなこんなで、すっかり眞木を信じてしまった。

 

「じゃあ眞木ちゅんって呼ぶね!」

 

まるで人懐っこい犬みたいに、きな子は眞木に接してくる。

名前くらい好きに呼んでくれたらいいと眞木は特に気にしなかった。

さて、ここからが問題なのだから・・・。

 

眞木は先ほど駆け込んだこの路地裏が、以前りさと食べに来たあのカフェ・バレッタに近いことに気がついたのだ。

どうしてこの考えに行き着かなかったのだろう、この時間のカフェには誰もいないに決まっているから、

誰かに見つかるというリスクも全くないのだ、それでいて美味しい食料はたんまりあるはずだ。

 

「ねえ、おっさんとこ行く前に、ちょっとここ寄ってかない?」

 

眞木は路地裏を歩きながらバレッタの裏口を見つけてきな子にそう呼びかけた。

きな子は「寄っていく」という意味がわからずに首を傾げて眞木を見つめていた。

 

「簡単に説明すると、この店は警察と秘密の契約を結んでんのね。

 刑事って色々と秘密捜査をしなきゃいけないっしょ?

 でも張り込みとかって食料を調達するの結構大変なのよ。

 だから、何軒かのお店とこういう契約を結ぶことによって、

 ただで食料を譲ってもらうことができるようになってんの」

 

眞木は全くの口から出まかせを言っただけだったが、

信じやすいきな子のことだからもう何を言っても大丈夫だと思っていた。

 

「えー!そうなの!?

 刑事さんの秘密捜査ってそういう風になってるの!?

 眞木ちゅんすごい!物知り!」

 

眞木は腰に手を当ててドヤ顔をして見せた。

そのドヤ顔の本当の意味は「ちょろいもんね」だったのだが。

 

「そうなのよ、そんでね、捜査特権ってのがあってね、

 犯人を追ってる途中だったらタダで色々と食料を調達してもいいの」

 

きな子は世の中には素晴らしい制度があるもんだと、

目をキラキラさせながら眞木の話を鵜呑みにしていた。

ここまで純粋だと、そんな事は余計な事だと知りながら、

眞木はきな子の事を「可愛いやつだな」とすら思った。

 

「ねぇ、ここの塩アイスって知ってる?

 なんか噂じゃすっごい美味しいらしいからさ。

 あんた食べてみたくない?

 私と一緒にいたら別にタダで食べてもいいんだよ」

 

きな子はもう既にこの夢のような設定にメロメロになっていた。

元気いっぱいに「うん!!」と答えたことで「声がでけぇって」と眞木に諌められたほどだ。

 

そうして眞木ときな子はバレッタの裏口のドアをこじ開けて中に入っていったのだった。

 

 

 

・・・

 

眞木はカフェ・バレッタの裏口から鍵をこじ開けて中へ侵入すると、

そのプロの泥棒の勘を働かせて頭の中に間取り図を描いていた。

そして俊敏な動作で手際よくどんどんと中へ進んで行く。

そのあまりにも手際の良すぎる様に、きな子は少しずつ不安になっていった。

 

「・・・ねえねえ、本当に勝手に入っても怒られないの~?」

 

きな子は眞木の服の裾を引っ張りながら心配そうに尋ねるが、

眞木は普段からあまりにも手馴れているために特に罪悪感もない。

 

「さっき説明したっしょ?大丈夫だって」

 

きな子から見た眞木は、なんだかさっきよりも少し怖かった。

獲物を探すような鋭い嗅覚を働かせることに必死になっていて、

さっきまでのようにこちらの話を真剣に聞いてくれてない気がした。

 

照明のついていない店内は薄暗くてなんだか不気味だったのだが、

眞木はそんなことには頓着せずにどんどんと侵入していく。

先日、ランチで利用した時点で、すでにだいたいの間取り図は掴んでいたし、

以前深夜のカフェを開業したこともあった眞木にはカフェの作りなど勘でだいたいわかる。

キッチンと思われる場所に辿り着いた時、眞木は勘によって照明のスイッチなどを探り当てた。

 

眞木が照明のスイッチを入れたことで、キッチン周辺がパッと明るくなった。

そこには大型の銀色の冷蔵庫があり、ドリンクを入れる機械やアイスを保存しておく冷凍庫など、

カフェに必要な設備が全てきちんと網羅されていたのだった。

 

(・・・やばい、こりゃ宝の山だわ・・・)

 

眞木は一人そんな風に心の中でつぶやいた。

ここ数日はついてなかったけど、クリスマスの夜になってとうとうツキが回ってきやがった。

 

「ほら、さっさと行くよ!」

 

眞木は嬉しそうにきな子に声をかけると、冷蔵庫を開けて片っ端からチェックを始めた。

そのあまりの手際の良さにきな子は驚きを隠しきれなかった。

 

「・・・ねえねえ、なんでそんなに慣れてんの!?」

 

きな子はひょっとするとこれはやばいことをしているのではないかと、

彼女の心の中には罪悪感が芽生えてきていたのだろう。

眞木の言う通りに従って冷蔵庫を開けながらも、

さすがに彼女の俊敏すぎる動きに不安になってきた。

 

「張り込み中は食料の調達なんかに時間かけてらんないのよ。

 犯人が逃げる前に腹一杯にならなきゃいけないんだから、

 こんくらいの速さでやって当然なの。

 スーパーのタイムセールだって、躊躇してたら欲しいもんなくなるでしょ!?」

 

そう言いながらも眞木は全く手を止める事はなかった。

冷蔵庫を開けてはどこになにがあるかを全部記憶していくようだった。

 

きな子は張り込み捜査とスーパーのタイムセールの比較の落差に、

なんだか腑に落ちない感覚を持たずにはいられなかった。

眞木のスピードについていけないきな子は罪悪感もあって、

もう頭がパニック状態に陥っていたのである。

 

そんな事は気にもとめず、眞木はひたすら食料を物色していく。

そのうち、冷蔵庫の隅の方に奇妙なゾーンがある事を発見した。

 

眞木が発見した奇妙なものとはマカロンの詰め合わせだった。

なぜそれを眞木が奇妙だと思ったのかと言うと、

この店にはマカロンが使用されたメニューなど存在しなかったからだ。

そうなると、これは新メニューに使われる予定の食材かもしれなかった。

確かめようとして、眞木はそのマカロンを取り出して調べてみると、

どうもおかしい、眞木はマカロンを一つとって匂いを嗅いでみた。

 

(・・・何これ?どうしてこんなもんあるんだろう・・・?)

 

その詰め合わせマカロンの他の種類も匂いを嗅いでみたのだが、

どうも中身は普通の甘い成分が入っているわけではなさそうだった。

むしろ、その中身は激辛素材がふんだんに使われている形跡があり、

こんなものは罰ゲームでもなければ食べるものではなかった。

 

おかしいと言えば、その冷蔵庫に入っていた飲料も奇妙であり、

水に見えるが酸っぱいクエン酸水であったり、

お茶に見えても苦いセンブリ茶であったりすることから、

眞木はこの一角は罰ゲーム用に開発されているメニューだと推測した。

おそらく、ロシアンたこ焼き、的なメニューが今後バレッタで予定されているのかもしれない。

 

ただ、どうしてマカロンなのか?

眞木はマカロンを見たときに、このお店の向かいにあるパティスリー・ズキュンヌを思い出した。

バレッタとズキュンヌはライバル店であり、特にバレッタはズキュンヌにかなり敵意を抱いているらしい。

それは以前、眞木がズキュンヌの店長、春元真冬と会ったときに小耳にはさんだ情報なのだが、

かつてハロウィン商戦でお客を取り合っていた頃、バレッタのアルバイトの女の子がお店にやってきて、

ゾンビメイクで真冬を驚かせたり営業妨害をしていったと聞いた事があった。

そしてなぜか営業妨害をしながら、焼肉をおごってくれと意味不明な言葉を残して去ったらしい。

 

春元真冬の最大の弱点はマカロンだった。

彼女は道にマカロンが落ちていたとしてもその魅力には抗えない。

それを知り尽くしていたバレッタ側が、真冬を潰すためにこんなマカロンを開発していたとしても、

それはそんなに難しい想像ではなかった。

どうもこのバレッタは普通のお店ではないらしいと眞木は感じたのだった。

 

「眞木ちゅん、何か美味しいものあったの~?」

 

眞木がマカロンを物色していると、きな子が興味津々で覗き込んできた。

ちなみに眞木はそんな事は知る由もないのだが、

南野きな子は実は人間ではなくアンドロイドである。

 

きな子は小さい頃からメロンソーダとペロペロキャンディとわたがししか食べなかった。

なぜなら、両親が言う所によると、きな子を創り出した博士の説明で、

きな子はその三種類だけで十分に活動できるエネルギーを生み出せるという事らしかったからだ。

その言葉を信じていた事もあり、実際に彼女は若い頃にはその三種類以外は摂取できなかった。

それ以外の食べ物は、どんな味もその身体には受け付けなかったのだ。

 

だが、そんなきな子を変えてしまったのがバレッタの塩アイスだった。

以前、偶然にもこのお店の塩アイスを食べた事があったきな子は、

メロンソーダとペロペロキャンディとわたがし以外の食べ物でも美味しいと感じられるという事に気づいた。

それからというもの、きな子はどんな食べ物でも美味しく食べられるようになったのだ。

これがどういうカラクリなのかはよく分からない。

人間のように成長するアンドロイドであるきな子は、

まるで人間のように大人になる事で身体の作りも変わっていくのかもしれなかった。

 

だが、一旦食欲に目覚めてしまうと、きな子はその欲を止める事が出来なくなってきた。

余計な食材をどんどん摂取できる事を悟ったきな子は色んな食べ物に手を出し始めた。

うなぎ、スイカ、チキン南蛮、甘いお菓子やフルーツなどなど、

南野家のエンゲル係数は飛躍的に高まっていったのだ。

そして、きな子はダイエットという敵と戦う苦労を覚えてしまった。

今まではそんな事もなかったのに、食べれば太るという当たり前のサイクルに苦しめられ始めた。

だが、結局は目覚めた食欲には勝てず、今では目新しいものはとにかく食べてみたいという好奇心が勝っている。

 

 

そんなきな子にマカロンを見せたのだから、彼女のテンションが高まったのは言うまでもない。

 

「きな子、絶対ピスタチオがいい~!!」

 

眞木が持っていたマカロンの詰め合わせを見ながら欲しい味を主張する。

眞木はこんなものを食べようとも思っていなかったのだが、

大いに興味を示すきな子に対して、心の奥底でいたずら心が芽生えてきてしまった。

どうせなら、バレッタが開発した「対春元真冬決戦兵器」の威力を試してみたかったのだ。

 

眞木は先ほど匂いを嗅ぎ別けていたので、その中には普通のマカロンが混じっていた事を知っていた。

だから眞木は普通のマカロンを手にとって先にパクリと食べて見せたのだ。

それを見たきな子は、自分も食べたくなったので、同じようにマカロンを手にとって口に入れた。

 

「あ”ーーーー!!」

 

きな子は齧ったマカロンをすぐに投げ捨てて大声をあげて動き回りはじめた。

辛さのあまり膝から崩れ落ちるようにして苦しんでいるきな子を見て、

眞木は「大丈夫!?ねえ大丈夫!?」と言いながら笑いを抑えることができなかった。

予想以上にこのマカロンの威力はすさまじかったようだ。

 

「水飲めるっけ!?」

 

眞木は続いて冷蔵庫の中からクエン酸水を取り出してコップに注いだ。

親切に助けるフリをしながら、こちらの威力も試してみようと思ったのだ。

 

きな子は注いでもらったコップを受け取って水を口にしてマカロンの味を洗い流そうとした。

 

「ひ”ぃや”ーーー!!」

 

クエン酸水を口にしたきな子はまた悶絶して床に転がってしまった。

足をバタバタさせながら苦しんで転げ回っているきな子に、

「大丈夫!?」と笑いをこらえながら心配するフリを見せる眞木は、

もう心の中では爆笑しているので笑みを堪えられない。

半笑いの状態で「お茶にしとく?」と次はセンブリ茶をコップに注ぎ始めた。

 

もはや疑心暗鬼の塊となってしまったきな子は、

それでも恐る恐るお茶が入ったコップに口をつけた。

 

「うわ”ーーー!!」と崩れ落ちるようにしてきな子はしゃがみこんでしまった。

 

その様子を見て眞木は心の中で笑いが止まらなかった。

久しぶりに自分以外の人が不幸になるのを見るのは愉快だった。

 

そのうち、きな子はやっと立ち上がったのだが、

眞木から渡されたティッシュで口を押さえて「ひーーーん!」と声にならない泣き声を上げ始めた。

 

「眞木ちゅんがつぐとマズくなるんだけどーーー!!」

 

その言葉を聞いて、こいつまだわかってねぇのか、と眞木はおかしくなった。

全くどんだけ純粋にできてるんだと思うと、面白いと同時に可愛いやつだと思った。

ただ泥棒に入って偶然連れてきてしまっただけの間柄だったけれど、

この子のおかげでなかなか愉快なクリスマスの夜を過ごせていると思ったのだ。

 

「・・・ごめんごめん、まずかった?

 こっちはたぶん大丈夫だから」

 

眞木はちょっとかわいそうになってしまい、

先ほど見つけておいた冷凍庫からアイスクリームを取り出した。

おそらくこれがこのお店の名物デザートである塩アイスに違いなかった。

3色のアイスがそれぞれ詰められているアルミ容器があり、

それをくり抜いて丸めれば立派なデザートの登場である。

眞木は悲しそうな顔をしているきな子の代わりにアイスを用意してやった。

 

眞木がお皿にアイスを入れてやったけれど、もはや疑心暗鬼の塊となったきな子は、

「まず眞木ちゅんが食べてみて」と素直には信用してくれなくなっていた。

それもそれで可笑しくなった眞木は「大丈夫だって」と半笑いになりながら毒味をしてやった。

別におかしいところのない様子を見たきな子は、またおそるおそるアイスをスプーンですくって口に運ぶ。

まるで可愛いペットの子犬を飼っているような気分だなと眞木は思った。

 

今度は別に悶絶することなく無事にアイスを食べ終えたきな子は、

「今度はちゃんと美味しい!」と安心したように言った。

 

「でも、これは塩アイスじゃないと思う。

 なんか、きな子が前に食べたことのあるのと味が少し違うもん」

 

「美味しいけど」と言ってパクパク食べながらも、

きな子はこのアイスは塩アイスではないと言い張った。

眞木はすべての冷蔵庫をチェックし終えたはずだし、

この3色のアイス以外に塩アイスである可能性は考えられなかったので、

「これが塩アイスだって、味音痴なの?」と言い張ったのだが、きな子は断固として認めなかった。

この子は自分の信念が違うと感じたものに対しては非常に頑固な一面もあったようだ。

 

眞木はそれでもこのアイスを食べて「別に美味しいじゃん」と言っていたし、

これが別に塩アイスでもいいと思ったが、強いて言えば塩味がちょっと足りない気はした。

 

まあこれがこのお店の名物だし、と思った眞木は、

このお店から盗み出すのはこのアイスにしようと決めた。

さっき見つけておいたコーンの上に3色のアイスを作って乗せ始めた。

 

眞木がその作業をしている間に、きな子はもうすでにアイスを食べ終えていた。

そして、何を思ったのか何やら色々と食材を取り出して作業を始めたようだった。

「眞木ちゅんの為にスムージー作ってあげる!」と言いだしたきな子は、

見つけてきたミキサーの中に何やらいろいろな具材をぶち込み始めた。

バナナ、ヨーグルト、レモン、牛乳、納豆。

 

「・・・納豆はいらなくない・・・?」

 

眞木はその様子を見ていてかなり焦った。

確かに納豆は毎日食べるくらい好きだけど、こんなミキサーにぶち込む食材ではない。

 

「だって眞木ちゅん納豆好きでしょ?

 さっきからずっと眞木ちゅんから納豆の匂いがするもん!」

 

「ちょっとそれは語弊があるって!」

 

確かに毎日納豆は食べているけれど、

そんなに周囲に匂いを撒き散らしているつもりはなかった。

食べているときは部屋の隅っこにいって遠慮をしているし、

そんな食べていないときまで発酵した匂いを放っている女ではないはずだった。

 

ともかく眞木には構わずにミキサーを回し始めたきな子。

「ヴィーン」と音を立てながら回転を始めたミキサー。

混ぜながら食材を粉々にしていく・・・はずだったのだが。

 

「ゴゴー!」と音を発してからどういうわけかすぐにミキサーは止まってしまった。

 

「えっ、あらごし!?」

 

ミキサーは止まってしまったので、きな子はもう諦めてスムージーをグラスに注ぎ始めた。

楽しそうに「オーマイガー」などと笑っているが、眞木には笑い事ではなかった。

 

「ねえ嘘でしょ!?誰か電源抜いたでしょ!?」

 

誰もいるはずのないバレッタのキッチンで眞木がそう叫んだ。

眞木ときな子しかいるはずはないのだから、誰も電源を抜くものはいないはずだ。

 

とにかくそれを持ってスムージーの完成とみなしたきな子は、

満面の笑みでそのあらごしスムージーを眞木へと差し出した。

彼女なりに一生懸命作ってくれたものを断ることもできず、

もしかしたらさっきのマカロンの件がばれていて、

それに対する報復かと訝ったが、きな子にそんな様子は見えず、

ただ無邪気にお礼をしてくれているのだろうと眞木は解釈せざるを得なかった。

 

だが、案の定、そのスムージーは圧倒的に臭く、

あらごしすぎてドロッとして口の中に入ってこようとしない。

これは無理だと思った眞木は、なんだかさっきから力関係が逆転してるなと思い、

どうして自分がこんな風にいじられなきゃいけないのよ、

大人の怖さを思い知らせてやると、きな子を壁に追い詰めて無理やりあらごしスムージーを飲ませた。

 

ビビりながらスムージーを口に流し込まれたきな子だったが、

「んっ?」と味に首を傾げては「えっ、おいしいよ」と言ってのけた。

しまった、こいつは味音痴だったんだと眞木は悔しがった。

 

そんなこんなで、もう十分バレッタで遊んだ眞木は、

塩アイスという収穫を持ってこの場を立ち去ろうと思った。

だが、そのとき、自分たちがキッチンへ侵入してきた通路から誰かが入ってきたのだった。

 

ドアを開けて姿を現したのは、以前眞木がバレッタに来たときに注文を取りに来たあの子だった。

名前は確か「未代奈」と名札に書かれていたのを覚えていた。

あの謎の似顔絵描きサービスを提供してくれた彼女だった。

 

きな子は未代奈の事を以前から何度か見ていたし、

バレッタに食べに来る事も度々あったので存在は知っている。

ただ、別にまだ友人と呼ぶほどの間柄でもなかったし、

仲良くなろうと思っても、人見知りの彼女の方がきな子を避けていたのだ。

 

未代奈はドアを開けて入ってきてからしばらく何も言わずに状況を見ていたのだが、

眞木がコーンに乗せたアイスを持っているのを確認し、きな子と一緒にいる姿を目撃し、

それからどういうわけかボロボロと涙を流し始めたのだった。

 

眞木もきな子も呆気にとられていた。

この未代奈という女の子はやる事なす事、全部ちょっと変わっているし、

行為の意味自体が全くつかみどころのない存在だと思った。

この状況でドアを開けて入ってきて、真っ先にする事が声をあげるでもなく、

ただボロボロと涙を流すなんて、一体どういう事か意味がわからなかった。

 

「・・・泥棒」

 

しばらくの沈黙の後、未代奈は眞木に向かってそう言い放った。

その言葉を発する態度は、この状況でまだ正しいと思った。

そんなに涙を流しながら言うような言葉ではなかったのだが。

 

未代奈の言葉を聞いてハッとしたのはきな子だった。

特命刑事だと思っていた眞木は、未代奈から泥棒呼ばわりされている。

一体何が正しいのかわからなくなって、きな子は眞木の方を見た。

 

「えっ、眞木ちゅんは特命刑事だよね!?」

 

悲しそうな声を出してきな子は眞木にそう尋ねた。

眞木は少し怖い顔をして下唇を噛んでいるようで、

その質問に対してすぐには返答してこなかった。

 

「・・・泥棒おんな!」

 

未代奈はボロボロと涙をこぼしながら眞木に対してそう叫んだ。

どうしてそこまでヒステリックな態度でそんな言葉を叫ぶのか、

眞木にはまったく意味がわからなかったが、きな子に疑われているのはまずいと思った。

 

「・・・何を根拠にそう言ってんのか知らないけど、私は特命刑事だから。

 それに、もし仮に私が泥棒だったとしたら、この子だって同じ泥棒だからね!」

 

眞木はきな子を指差しながら幾分興奮しながらそう言った。

一番驚いたのはきな子だった、なんで私が泥棒になるの!?

 

「・・・きな子はそんな事をする子じゃありません」

 

未代奈がそう言ったのもきな子には驚きだった。

まだほとんど面識もないのに、なぜか確信めいた言い方で自分を擁護してくれた。

 

「あなたが巻き込んだからでしょ?」

 

強い断定口調で未代奈は眞木の罪を主張した。

ここまではっきりした意思を示されてしまうと、

きな子はもう眞木を疑いの目で見るしかなくなってしまったし、

眞木もこれ以上きな子を騙し通せるとは思っていなかった。

 

「・・・警察に通報します」

 

それだけ言い残すと、未代奈は走ってどこか奥の方へと引っ込んでしまった。

おそらく電話で警察へ連絡をしようとしていると思った眞木は、

もうこれ以上はここにいてはまずいと思った。

 

「ねえねえ、眞木ちゅんは泥棒じゃないよね!?」

 

眞木の服の裾を引っ張りながらきな子はそう尋ねていたが、

眞木はもう今後のプランを頭の中で考えていたので聴いていなかった。

ただしつこく何度もきな子は服を引っ張りながら答えを求めてくる。

 

「・・・あーもう、うるっさい!」

 

ついに眞木は本性を露わにしてしまった。

考え事をしているときに子供みたいなピーピーうるさい泣き声を出して欲しくなかったのだ。

ただでさえこんな追い詰められた状況にあるのだし。

 

「こっから逃げるよ!」

 

「えっ、でも、きな子何も悪い事してないし・・・」

 

「あんたも塩アイス、食べたでしょ?」

 

眞木は先ほどコーンに乗せた塩アイスを手に掴みながらそう言った。

 

「だってそれは知らなかったから・・・」

 

「知らねえで済んだら警察いらねーんだよ」

 

それは眞木のような泥棒の立場で言うセリフではないと思ったが、

ともかく眞木はきな子を同罪にする事で仲間に取り込むことにした。

そもそも、このバレッタに忍び込んだ目的が始めからこれだったのだ。

自分の事を目撃してしまったきな子の口を封じるには、

同罪にしてしまって運命を共にするしかないと思ったのだ。

 

眞木は手に持っていたコーンに乗った塩アイスをきな子の口元へ押し付けた。

まるでこれで口封じをするといったように・・・。

 

「あんたと私はもう運命共同体なんだからね。

 ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと逃げるよ!」

 

そう言うと、眞木は塩アイスをきな子の口元から外し、

自分の口元に持って行って一口齧った。

そして、毅然とした態度でバレッタの裏口に向かっていった。

 

きな子は呆然としながらはめられてしまった事に気付き、

口元にべっとりと付いたアイスをとりあえずティッシュで拭うようにして眞木の後を追いかけていった・・・。

 

 

 

・・・

 

未代奈の様子を伺いながらバレッタの裏口に向かった眞木は、

結局、どこへ行ってしまったかわからなくなってしまった彼女を追うのを諦め、

さっさとバレッタから出てどこか遠くへ逃亡しようと思った。

 

しかし、誤算だったのは顔を見られてしまった事だった。

できれば未代奈もきな子と同じように騙して同罪に取り込みたかったが、

あの子の様子を見る限りでは他人の意見に惑わされるタイプではないと感じた。

そうでなければ、あれほど強い口調で「泥棒」なんて断定できっこない。

あの子の鋼鉄の意志を曲げる事は容易ではないのだから、

もう眞木はとにかく逃げて知らんぷりを決め込むしかなかった。

 

出口へ向かいながら、後ろをついてきたきな子は眞木に話しかけた。

 

「・・・眞木ちゅん、もしかしてきな子のうなぎと七面鳥って・・・」

 

あまり信じたくなかったようだが、さすがにきな子も勘付いたようだった。

 

「・・・うるっさいなぁ、ここにあるってば!」

 

眞木は持っていたカバンの中からうなぎと七面鳥を取り出してみせた。

きな子は予想が当たっていたショックと食材を見つけた嬉しさの両方の間で感情が揺れていた。

 

「・・・じゃあ、ケーキは?」

 

きな子が問い詰めてきたので、眞木は無言で自分の胃袋を指差した。

それを見たきな子はショックを受けた様子で瞬時に眉間にしわを寄せた。

 

「・・・眞木ちゅんの嘘つき!!」

 

「・・・大人はみんな大抵嘘つきだから」

 

眞木は責任逃れをするような口調でそう言った。

自分だって子供の頃はあんたみたいに無邪気だったわよ。

だけど、社会に揉まれるとね、あんたみたいに真っ直ぐさだけじゃ生きていけないのよ。

行きたい進路を塞がれた場合、打ちのめされながら迂回しなきゃいけなくなるの。

わかるかなー、まだわかんねぇだろうなー、肌にハリツヤが無くなるなんて事、

まだまだあんたには夢物語くらい遠い話でしょうからねー、なんて事を内心考えながら。

 

「・・・ひどいよ」

 

きな子は俯いたまま悲しそうに眞木の腕を掴んできた。

 

(・・・泣き落としなんて通じないわよ、泣きたいのはこっちも同じなんだから・・・)

 

眞木はきな子を無視してさっさと出口へ歩いていこうとした。

だが、歩いて行こうという意志とは裏腹に身体が動かない。

 

眞木はやっとその原因に気がついた。

きな子に掴まれている腕が全く振り払えないのだ。

彼女に掴まれているせいで、眞木は一歩も動く事ができなかった。

 

「・・・ちょっと、手を離しなさい!」

 

眞木はそう叫んだが、きな子は俯いたまま動かない。

 

(・・・なんて馬鹿力なの・・・!?)

 

動けないどころか、きな子がヒックヒックと泣きそうになるたび、

彼女が掴んでいる手の握力が増していく気がしていた。

このままいけば、動けないどころか腕の骨を粉砕骨折されてしまう気がした。

 

「ちょっと待った!

 私が悪かった、ごめん、謝るから許して!!」

 

さすがにこれはやばいと思ったため、

眞木は一転してすぐに謝って見せたのだった。

このあたりが自分のヘタレ具合だなと意気消沈してしまったけれど、

さすがに骨を折られてしまうと入院費やら何やらがかさんでしまうし、

それを補うには一体今後どれだけ節約をしなければならないかと考えると、

変なプライドなんて一瞬で捨てるべきだと判断したのだった。

 

「ケーキぐらいでよければまた買ってあげるから!

 あとでうなぎも七面鳥も返すから、ね、お願い許してー!?」

 

せっかく手に入れた収穫も、これでパーになったのかと残念に思ったが、

とにかく今はここを逃げなければならなかった。

 

「・・・何ケーキ?」

 

「あんたの好きなケーキでいいよ、チーズケーキとか?」

 

「・・・メロンパンは?」

 

「・・・あんた一体何個食べる気?」

 

そこまで言うと、また握力が増してきたのがわかったので、

イテテ、となりながら「メロンパンもチョコもクッキーもあげるから!」。

 

「・・・海鮮丼は?」

 

この悪党が!!

と眞木は思ったが仕方がなかった。

自分も泥棒という小悪党だったのだし。

 

「・・・海鮮丼も担々麺もシュークリームも、お付けいたします・・・」

 

そこまで言うと、きな子は「いぇ~い!」とご機嫌になってやっと手を離した。

眞木は先ほどまで掴まれていた腕をさすりながら思っていた。

 

(・・・やばい奴と一緒になっちゃったな・・・)

 

 

眞木ときな子はそうしてバレッタを後にした。

 

 

 

・・・

 

眞木ときな子がバレッタを出ると、

遠くからパトカーのサイレンが聞こえて来るのがわかった。

こんなクリスマスの夜に物騒だわね、と近所の人々も窓から覗いたりしている。

このままでは逃げ場所を失ってしまう、早く逃げなければと眞木は思った。

 

電信柱の陰に隠れながら向こうから通過して来る車をやり過ごした。

その車のカーステレオから流れていたのはビートルズの「Whatever gets you through the night」だった。

 

「とにかく逃げるよ!」

 

眞木はきな子にそう言うと猛ダッシュで走り出した。

今まで泥棒家業をやってきて、これほど追い詰められた事はなかった。

とにかく命懸けで逃げなければ平和な明日がやって来なくなる。

眞木はサイレンのする方角から遠ざかるように全速力で逃げていった。

 

逃げながらも眞木は先ほど盗んだ塩アイスを食べていた。

これだけが今日のわずかな収穫だったのだ。

これ以外は、きな子のせいで節約どころかマイナス収支になっていた。

どうしてこんなことになってしまったのだろう。

私はただ節約がしたかっただけなのに・・・。

 

しばらく順調に逃げ続けると、やがて息が切れてきた。

「はぁはぁ」と肉体年齢の衰えを痛感していると、

横を並走しているきな子は余裕の表情をしているのがわかった。

 

これが若さ、か。

 

そんなことが脳裏をよぎった瞬間、

余計な邪念が入り込んでしまったせいで、

眞木はその長くて美しい脚が仇となり、絡まって転んでしまったのだった。

 

きな子がそれに気づいて急ブレーキをかけ、

眞木が倒れているところへ戻ってきた。

 

「眞木ちゅん!大丈夫!?」

 

きな子が声をかけると、眞木はヨロヨロと体を起こしていた。

そしてなんのこれしきと思って顔を上げた時、

目の前の地面には塩アイスの最後の一口がベチャリと落ちてしまっているのに気がついた。

 

「あぁ。。。。」

 

それを見ていたきな子は、眞木のダメージは相当深いと思った。

この「あぁ。。。。」のテンションは皆さんの想像よりももっと深い「あぁ。。。。」だと。

 

なんとかヨロヨロと四つん這いにまで起き上がった眞木は、

「あぁつらい。。。」と言いながら鞄からティッシュを取り出してそれを拾った。

 

「・・・眞木ちゅん」

 

「・・・美味しかった・・・」

 

とても切なげに眞木はそう言ったのをきな子は聞いてしまったのだった。

それは人間のとても深い身体の奥底から出るため息のような、

何か真っ黒に汚染された肺から絞り出されたようなセリフだった。

 

だが眞木は失意の底から立ち上がろうと決めた。

心の中で「よいしょ」と言って身体を起こそうとした。

 

あれっ、身体が動かない。

 

次は仕方なく声に出して「よいしょ」と言ってみた。

だが、やはり身体が動かない。

眞木がようやくわかったことは、どうやら腰のあたりに激痛を感じており、

自分一人では立ち上がれない状態になってしまっていたことだった。

 

「眞木ちゅん・・・」

 

きな子はその様子を見ながら何て声をかければいいかわからなかった。

だがとにかくきな子がその姿を見ていても悲しくなったのは事実だった。

 

「眞木ちゅん、あしたはきっといいことあるよ!」

 

きな子がそんな風に慰めの言葉をかけたことで、

眞木は自身の心のダムが決壊したような音を聞いた。

 

(・・・そんなに優しい言葉を口にしないで・・・)

 

眞木はほっといてくれればいいと思った。

今の慰めは惨めになるだけだったからだ。

そんなに悲しい笑顔で見つめないで欲しかった。

もっと冷たい孤独をくれればよかったのに・・・。

 

こんなクリスマスの夜にさえ、神様は少しの幸せも自分には与えてくれない。

私が何したっていうの?ただ人並みに安定した生活がしたかっただけ。

そのためには一生懸命に働いて、一生懸命に頭を下げ続けて、

日々の生活費を切り詰めて、給料日がやってきたらちょっとプチ贅沢を楽しむだけ。

 

そう、私はただ節約がしたかっただけ。

 

なのにどうしてこんなことにならなきゃいけないのよ。

こんな暗い道の真ん中で倒れて、動けなくなって無様な姿で警察に捕まって、

やっと手に入れたOLの慎ましやかな生活も奪われてしまうの?

 

ああ、どうしてこんなことになってしまったんだろう。

今の私はあまりに惨めすぎて、これじゃあ世界で一番孤独なババアだ。

若者であれば孤独も格好がつくけど、ババアじゃみすぼらしすぎて話にもならない。

 

眞木はもう堪えきれずに「グスッ、グスッ」と音を立ててしまった。

大人なのにこんな風に泣いてしまうなんて情けないと思いながらも、

人間は大人になったってどうしようとも拭えない寂しさが誰にもあると思った。

大人になって覚えたことは、ただプライドを守るためにやせ我慢が強くなっただけ・・・。

そのやせ我慢が決壊すれば、あとはただの子供が顔をのぞかせるだけなのだ。

 

遠くからサイレンの音がだんだん近づいてくるのが聞こえてきた。

きな子はその音のする方をじっと見つめながら立ち尽くしていたが、

やがて眞木の前に座り込み、背中を彼女の前に差し出した。

眞木はきな子におぶられるようにして体を預けると、

きな子はサイレンの音とは反対方向へ猛烈なスピードで走り出した。

それはまるで、オートバイにでも乗っているかのような速度に思えた。

この子は一体何者なんだと思いながら、身体を預けられる背中があることに感謝するしかなかった。

 

 

 

・・・

 

サイレンと反対の方向へ走り続けたきな子だったが、

ふと気づくと、どうやら向かい側からもサイレンの音が聞こえてくるのがわかった。

 

「やばい、このままじゃ挟みうちにされるって!」

 

きな子の背中にしがみつきながら眞木は叫んだ。

そして気づいた頃には走っていた道は一本道であり、

向かい側にはたくさんのパトカーが止まって待ち構えているのが見えた。

 

きな子は立ち止まって逆方向に向かってまた走りだした。

だが、もちろんのこと、先ほどまで追ってきていたパトカーが向かいからやってくる。

眞木が言っていた通りに挟み撃ちにされてしまったのだった。

 

「・・・もういいよ」

 

動けない身体で眞木がきな子の肩越しにそう言った。

 

「・・・ありがとうね、今まで走ってくれて」

 

眞木はどうやら観念したようだった。

OL生活を長く続けている眞木にはわかっていた。

この世の中にはどうしても変えられないことが沢山あると。

どうしようもない出来事にぶつかった時、

会社員という職業は諦観と共に頭をさげるしかない。

 

やりたい企画が上司に反対される時。

生活が苦しくても給料を上げてもらえない時。

景気が悪いという誰のせいでもない理由でボーナスがカットされる時。

頑張っているのに出世競争のせいで同僚に足を引っ張られる時。 

 

そういう時は諦めるが勝ちなのだ。

諦めが悪いと同僚からもバカにされてしまうし、

バカにされればさらに敵対視されて攻撃されてしまうし、

攻撃されてしまえば守るべきささやかな生活さえも失ってしまうことになる。

 

そうして人は、諦める方が損失は少ないと考えるようになる。

損失が少ない方が賢く生きて行くことだと悟って行くことになる。

 

「・・・運命共同体だなんて言ったけどさ」

 

眞木はボソボソと覇気のない言葉できな子の耳に囁きかけた。

 

「・・・あんたは関係ないから、あんただけでも逃げな」

 

「眞木ちゅんはどうするの!?」

 

「私はもう諦めるよ、人生なんてこんなもんだったって。

 どーせ人はいつまで長生きできるかわからないんだしさ。

 だけど私は私のやり方で信念を貫いて生きてきたから、 

 今まで過ごしてきた人生に後悔はしてないよ・・・」

 

きな子を逃してしまったら、あとはパトカーに囲まれるのだろう。

そうして明日の新聞の一面を賑わすのも悪くはないかもしれないな。

だけど、貝ひもとかを盗んでたことは頼むから報道しないでくれないかな。

どうせ泥棒として捕まるなら、ルパン三世の峰不二子みたいなのがいいよなぁ。

「児玉坂に現れた泥棒はとんでもない美女でした」なんつってさ。

 

眞木は力なく「へへへっ・・・」と笑っていた。

だが、きな子の背中には眞木が震えているのが伝わってきた。

彼女は強がりを言っているけれど、身体は小刻みに震えている。

本当は怖いんだ、大人だとか子供だとか、人は区別をしたがるけれど、

誰もが逃れられない孤独を心の中に宿しているのだし、

誰もが平等に目の前に襲いかかってくる恐怖と戦っているのだ。

 

「・・・やだ、きな子は諦めたくない!!」

 

きな子は眞木が降ろしてくれというのに逆らってそう言った。

 

「言うことききなよバカ!このままじゃあんたまで捕まっちゃうでしょ!?」

 

「嫌だ!あと、きな子はバカじゃないもん!」

 

ポカポカと両拳できな子の頭を叩く眞木だったが、

きな子は依然として諦めない鋭い目を崩さなかった。

アンドロイドとして彼女の中に渦巻いているエネルギーは、

どうしようもなくて変えられない現実だって、

いつか変えてみせると信じながら身体中に力をみなぎらせる。

 

前後から聴こえてくるサイレンの音が近づいてきた時、

きな子は眞木に対して「しっかり掴まっててね!」と叫んだ。

 

そして、きな子は前でも後ろでもなく、右を向いた。

正面には誰かの家の高い壁が左右とも見えなくなるくらい遠くまで延々と続いていた。

眞木はきな子が何をするのかよくわからなかったが、

とんでもないスピードでダッシュをし始めた時、

初めてきな子が壁に向かって体当たりをしようとしていることがわかった。

 

「うわっ!」と声をあげてから顔を伏せている間、

きな子は壁を破壊して隣の家の庭に入ったのだった。

それから、また方向を変えてその家の反対側の壁をぶち破って向こう側へ抜けた。

 

それからいくつの壁をぶち破ったのか、眞木は覚えていない。

きな子も無我夢中で駆け抜けたせいで、どこに向かって走ったかも覚えていなかった。

行くあてのない彼女たちは、気づいた時にはどこかの路地裏に二人して座り込んでいた。

サイレンの音はもうどこにも聴こえなくなっていた・・・。

 

 

 

・・・

 

眞木が意識を取り戻した時、辺りは少しだけ明るくなりかけていた。

二人はどこか薄汚れた家の壁にもたれかかりながら座り込んでいて、

着ていた服がかなり汚れているのがわかった。

 

きな子は疲れ果てて静かに眠っているようだった。

顔じゅうが煤だらけになりながら、彼女は子供のようにあどけない顔をしていた。

 

眞木は腰の痛みに耐えながら身体を起こしてみた。

先ほどの立ち上がれなかったほどの痛みは身体から消えていて、

なんとか一人でも歩けるくらいには回復していたのだった。

 

とにかく、眞木は助かったと思った。

 

身体はボロボロになってしまったし、

服ももう買い換えなければならないほどみすぼらしくなってしまったけれど、

とにかく警察の追跡からは免れることができたらしい。

もうやって来ないと思っていた明日も、どうやらまたやってくるらしい。

会社が休みだった眞木は、もう家に帰ってゆっくり休もうと思った。

 

よいしょ、と声をかけながら「あいたたた・・・」と立ち上がると、

眞木は家の壁伝いに歩いて行こうとした。

それにしてもどこまでやって来たのだろう。

この壁の向こうの建物はかなり寂れた家であることは間違いなかった。

 

「・・・きな子は絶対に諦めないもん・・・」

 

そういう声が聞こえて振り返ると、まだきな子は眠っているようだった。

どうやら夢でも見ているのか、寝ぼけて寝言をつぶやいたらしかった。

 

「ふぅ」とため息をついてから眞木はまた歩き出した。

続いていた壁がなくなったところで、その中に建っていた家が見えた。

 

(・・・私だって、まだ人生諦めてないっつーの!)

 

身体が動くようになった眞木にはまた元気が少し戻ってきた。

今夜はとんだ目に遭ってしまったけど、自分はプロの泥棒なのだ。

きな子のせいで収支はトントンどころかかなりのマイナスである。

帳尻を合わせるためには、またかなりの節約をしなければならない。

眞木は心の底から湧き上がる小さなプライドに気がついた。

 

節約は、行き過ぎれば泥棒になる。

 

眞木は別に泥棒をしている意識はなかったのだ。

ただちょっとだけ他人の物を分けてもらうだけ。

それが彼女なりの節約だったのだが、

周りからどう見えているのかについてはあまり意識せず、

眞木は自分の節約という正義しか眼中になかった。

そして、節約というのは極めて自己完結の行為である。

もちろん、経済的に賢くなることは悪いことではない。

だが他者からは奪うという事実を残しながら、

自分は何かを得るという結果を得ることになる。

自己犠牲の範疇でやっていれば問題ないのだが、

他者を巻き込む公の場でそれをやるとなると、

それはちょっと問題となるのである。

 

だが、眞木に染み付いた泥棒魂はちょっとやそっとでは消えなかった。

むしろ、彼女のプライドに火がついてしまうと、

それは何としても節約を実行したくなるのであった。

 

眞木は目の前に立ちはだかる家の玄関の鍵をこじ開けた。

私はまだまだやれる、腰抜けなんかじゃない。

 

 

 

・・・

 

きな子が目覚めた時、辺りには眞木の姿はなかった。

なんだか近くで眞木の匂いがするなと思ったら、

きな子はまだパジャマの上に眞木から貸してもらったコートを着ていた。

一応、眞木の名誉のために述べておくと、眞木の匂いとは納豆の匂いではない。

 

だがそのコートもところどころ破けてしまっていたし、

埃をかぶってボロボロになってしまっていた。

もうこれは今年の冬は着れないだろうと思われるボロさだ。

どうしてこんなことになったのか、どこをどう走ってここまでやってきたのか、

きな子は無我夢中だったので全く覚えていなかった。

 

ぼんやりする頭が徐々に意識を取り戻してくると、

きな子はまだ眞木からうなぎと七面鳥を取り返していないことに気がついた。

あれは明日にまた食べようと思って残しておいたとっておきだから、

取り返さないことには明日を迎えられないときな子は思った。

 

きな子は起き上がってキョロキョロと辺りを見回した。

眞木の姿は見当たらず、どこに行ってしまったのかもわからない。

これはまずいと思ったきな子は、焦って辺りを走り周って捜索をした。

返してもらう約束をしたのだから、せめてあの二つは返してもらわないといけない。

 

どこにも見つからないと半べそをかき始めた頃、

きな子は一軒の家の玄関から出てきた眞木の姿を発見した。

きな子は走っていた身体に急ブレーキをかけて止まり、

方向を変えて眞木の方向へとまた駆け出した。

 

「眞木ちゅん!」

 

きな子が呼びかけると、眞木はぼんやりとした表情で顔を上げてきな子を見た。

 

「眞木ちゅん、うなぎと七面鳥を返して!

 あれはきな子のだよ!?」  

 

きな子は断固とした表情でそう言った。

きな子のおかげでピンチを脱したのだし、

約束通りあの食材は返してもらってもおかしくないはずだった。

 

「・・・ああ、ごめん、あれ返せないわ」

 

少ししょぼくれた言い方で、眞木はそう言ったのだが、

きな子は眉間にしわを寄せて強引にカバンの中を覗き込んだ。

そこにはあったはずのうなぎと七面鳥はもうなくなっていた。

 

「・・・えっ!眞木ちゅんきな子のうなぎと七面鳥、勝手に食べたでしょ!

 ひどい、ひどいよー!!あれは返してくれるって言ったのに~!!」

 

きな子は眞木の二の腕辺りを両拳でバシバシと叩いた。

かなり痛かったが、このまま感情が高ぶっていけば、

おそらくまた骨を折られそうになると思った眞木は、

仕方なく出てきた家の方を指さして言ったのだ。

 

「じゃあ、あの家の中にあるから、自分でとってきな」

 

また罪をかぶせる気だなときな子は警戒したのだが、

思ったよりも眞木の表情には悪意が感じられない。

むしろボーッとしてなんだか変な感じだ。

 

眞木に対して威嚇顔をしながらも、きな子は仕方なく眞木が指さした家の方へ向かった。

眞木がいないでどうやって玄関の鍵を開けようかと悩んでいたが、

きな子が扉を開けようとしたところ、スッと何の抵抗もなく扉は開いた。

どうやら眞木が鍵をかけるのを忘れていたようだ。

 

扉を開けて中に入ると、きな子は靴を脱いで部屋に上がり込んだ。

きな子の家と比べると、この家の造りはシンプルで、

というよりもとても小さい部屋とガスコンロが二つしかないキッチンと冷蔵庫、

それについているお風呂とトイレくらいしかなかった。

 

きな子が音を立てずに忍び込んでドアを少し開けて中を覗くと、

部屋の中には誰かまだ眠っているのがわかった。

辺りを見回しても、この部屋には余計な家具などは置いてないため、

うなぎと七面鳥を隠せるような場所はないように思った。

そうなると、隠せるのはキッチンのところにある冷蔵庫しかない。

 

きな子がそっとドアを閉めて冷蔵庫のところへと向かった。

音を立てないようにしてそっと冷蔵庫のドアを開けると、

そこには眞木の言った通り、うなぎと七面鳥が入っていたのだった。

 

(・・・もう!こんなところに隠してイジワルして!)

 

きな子はそう思いながらうなぎと七面鳥を取り出して冷蔵庫をゆっくり閉めた。

これで目的を果たしたきな子はこの家を出て行こうかと思ったが、

あまりにすんなりと成功しすぎたので、またこれも眞木の罠かもしれないと思った。

このまま玄関を出ると、写真でも撮られて「あんたも泥棒だよ!」とか言われるのかもしれない。

 

そうは行くものかと思い、きな子は玄関から出るのをやめて、

少し危険だが、眠っている人のいる部屋の窓から出て行こうと決めた。

ここから出ることはさすがに眞木もわからないだろうから、

待ち伏せをされて罠にはめられることもないと思ったのだ。

 

(・・・ふん、きな子をバカにして!)

 

そう思いながら扉を開けて中にこっそりと入っていくと、

そこには布団が二つ敷かれていて、一人ずつ眠っているのがわかった。

 

きな子は絶対に足音がしないように静かに静かに歩いた。

窓のところまで来たとき、ゆっくりと窓の鍵を外していると、

どうやら寝ている人のうち、片方は子供であることがわかった。

なぜなら、枕元に小さな赤い靴下が置いてあったからだ。

そういえば、今日はクリスマスイブの夜だった。

 

きな子は自分の枕元に置いておいた靴下のことを思い出した。

きっと家に帰ったら、サンタさんがプレゼントを入れてくれているだろう。

もうこの時間だから、おそらくサンタさんはこの子にもプレゼントを残していったはずだ。

そんなことを考えると、きな子はこの子の靴下の中にはどんなプレゼントが入っているのかが気になってきた。

 

好奇心にとらわれてしまうと、人はそれを満たさずにはいられなくなる。

きな子は悪いことしてるなという気持ちも少しはあったのだが、

中身を少し見るだけだから、と自分に言い聞かせながら靴下の中を覗いてみた。

 

そこには、プレゼントらしきものは何もなく、ただ手紙のようなものが入っていた。

きな子はどうしても気になってしまい、その手紙を読んでしまった。

 

 

・・・

 

 

サンタのおじいさん、こんばんは。

こんな手紙を書いてしまってごめんなさい。

本当はよい子にしてプレゼントを待ってなきゃいけないってわかってるんだけど・・・。

 

サンタのおじいさんは、いつ頃きてくれるのかなぁ?

去年も、おととしもずっと待っていたんだけど、

来てくれなかったのは、きっと僕がよい子にしていなかったからかなぁ。

 

だから今年はずっといい子にしてようって思ったんだ。

お母さんにはわがままを言わなかったし、家を出て行ったお父さんには、

お仕事が忙しいからって戻ってきてほしいなんてわがままは言わなかったんだよ。

もう3年も戻ってきてないけど、お父さんはどこに行っちゃったのかなぁ?

 

そういえば、サンタのおじいさんが来なくなっちゃったのも、

ちょうど3年前からだよね、きっとお父さんがお仕事で戻ってこなくなっちゃって、

僕がお母さんにわがままを言うようになっちゃったからかな?

 

サンタのおじいさんはみんなにプレゼントを配り回るなんて大変だね。

今年はうちに来てくれるかわからないけど、もし来てくれるならお願いがあります。

 

僕へのプレゼントはいらないから、どうかお母さんにプレゼントをあげてください。

 

お父さんがお仕事でいなくなっちゃってから、

お母さんも同じように仕事で朝から晩まで戻ってこなくなっちゃって、

なんだかゆっくりとご飯を食べる時間もないみたいなんだ。

 

だから、たまには美味しいものをお母さんにも食べてもらいたいなぁって。

お父さんが帰って来たら、またお母さんはお父さんのためにご飯を作らなきゃいけないし、

それまでずっと元気でいてもらわなきゃ困るし。

 

あと、わがままばっかり言ってごめんなさい。

もし美味しいものをプレゼントしてくれるなら、靴下の中に入れるのは止めてください。

だって腐っちゃったりしたらいけないし、できれば冷蔵庫に入れておいてください。

 

これ以上わがまま書いたら、もうサンタのおじいさん来てくれなくなっちゃうから、

もうこれ以上は書かないようにします。

 

サンタのおじいさん、いつもありがとう。

 

 

 

・・・

 

きな子がその家の玄関から出てきた時、眞木がこちらを向いて立っていた。

 

「・・・うなぎと七面鳥、もってないじゃん」

 

眞木がそう言ってきな子をバカにした。

きな子は一気に威嚇顔になって眞木に飛びかかった。

飛びかかった後、そのまま眞木に思い切り抱きついた。

 

「悪かったね、あんたの大好物だったのに・・・」

 

眞木はきな子を抱きしめながらそう呟いた。

きな子は何も言わずにブンブンと首を横に振った。

 

「・・・きな子は眞木ちゅんにメロンパンをもらうから平気なの」

 

「あれ?それまだ忘れてなかったの・・・」

 

「うん、チーズケーキもチョコもクッキーも海鮮丼も担々麺もシュークリームも忘れてないよ」

 

眞木ときな子はニコッと笑いあって、それから並んで歩き始めた。

これ以上は行くあてもなかったが、もうそれぞれの家に帰ろうと思ったのだった。

 

「・・・あーあ、今月も厳しいわ、明日からまた節約生活かー」

 

「そういえば、明日はスーパーでヨーグルトが半額だってお母さんが言ってたよ!」

 

きな子がそう言うと「マジで!?」と眞木のテンションが上がった。

 

「そりゃ行くっきゃないっしょ、ねえそれってどこのスーパー?」

 

「・・・教えなーい!」

 

きな子は走って逃げたので眞木はそれを追いかけた。

もちろん、眞木はきな子に追いつけるはずもなかったのだが。

 

バテバテになった眞木はゆっくりと立ち止まり、

両手を膝について下を向いてはぁはぁと息を切らしていた。

 

「・・・ちょっと、誰よ、今ババアって言ったの!」

 

読者諸君、どうも眞木が怒るので、

できることなら彼女のくたびれた姿を見てみないふりをしてあげてほしい。

あなたの心の中で囁く声も、どうやら彼女には聴こえるらしいのだから・・・。

 

 

 

・・・

 

朝帰りすることになってしまった二人は、とりあえず午後まで眠った。

クリスマス当日は休日だったので、二人はまた夕方に落ち合って出かけることになった。

 

「・・・アンドロイドねぇ、それガチで言ってんの?」

 

白いビニール袋を腕にぶら下げながら眞木がそう言った。

袋の中にはタイムセールで半額になったヨーグルトが入っていた。

 

「うん、きな子は人間じゃないの!」

 

眞木よりも大きな紙袋をぶら下げていたきな子は、

メロンパンを齧りながらそう答えた。

紙袋の中には眞木と約束した食料がたくさん入っていた。

チーズケーキ、海鮮丼、担々麺、シュークリーム、チョコレートにクッキーなどなど・・・。

 

「まあでも、壁をぶっ壊すとこ見ちゃったからねー。

 信じないわけにもいかないよなー」

 

おまけにあの怪力だしな、と眞木は考えていた。

決して嘘をつく子じゃないし、これはきな子を信じないわけにはいかなかった。

 

二人が並んで歩いていると、どうやら向こう側から眞木を見ている人がいたようだった。

それはどうやらりさのようで、手を振ってこちらに向かってきた。

 

「眞木ちゃんじゃない、お休みの日に会うなんて奇遇ねー。

 あれっ、こちらの可愛い子はどなた?」

 

りさは横に並んで歩いていたきな子に微笑みかけてそう言った。

 

「あっ、この子はちょっとした知り合いで・・・」

 

そこまで言って眞木はどう説明しようかと迷った。

まさか泥棒に入った家で誘拐して知り合ったなんて口が裂けても言えない。

 

「偶然知り合っただけというか・・・」

 

歯切れの悪い眞木をよそに、りさは勝手にきな子に話掛けた。

 

「あなたお名前は?」

 

「南野きな子です!!」

 

「きな子ちゃんって言うの?可愛い子ね~。

 そうだ、ちょうど今日は暇してるし、

 よかったら今日お姉さんのお家に来ない?

 眞木ちゃんの知り合いなら歓迎するわよー。

 腕によりをかけて美味しい料理でも作っちゃおうかしら」

 

りさはそう言ったが「いきなりだから、ちょっと・・・」ときな子は遠慮したようだった。

眞木はと言えば、勝手にりさと知り合ってしまったきな子が恐ろしくなり、

慌てた様子できな子の口を封じて「りさ先輩、ちょっとすいません」と言って距離をとった。

 

「ちょっと、わかってんの?

 あんたと私は・・・」

 

眞木は余計な事を言わないように釘を刺そうとしたのだが。

 

「運命共同体でしょ!?えへへ!」

 

きな子はアンドロイドとして声のボリュームを調整する事はできない。

だからヒソヒソ話などできない事を眞木は忘れていたのだ。

 

「ちょっと、声がでけーから!」

 

「運命共同体って何?」

 

きな子の声が大きすぎて、結局はりさにまで聞こえてしまったヒソヒソ話は、

どうやらりさの好奇心に火をつけてしまったらしかった。

眞木の心配をよそに、きな子は相変わらず無邪気に振舞っていた。

 

「えへへ、きな子と眞木ちゅんの事だよ~!」

 

あまりにも素直に全てを話していくきな子に、

眞木は、やはりこの子に秘密を知られたのはまずかったと思った。

こんなバカ正直に色々と話をされたら、いつか自分が泥棒だとうっかりバラされてしまうかもしれない。

 

「それってどういう意味・・・あっ、わかっちゃった!」

 

りさがそう言ったので、眞木は心臓が飛び出そうになった。

たったひとつの物語の主役を飾っただけで、

すぐにブタ箱入りして出てこれなくなってしまうキャラクターなんて児玉坂の世界には前例がなさすぎる。

眞木はただただ作者に対しても祈った、どうか見逃してください・・・。

 

「もうこれ自信しかありません。

 それって、眞木ちゃんが夜にやってるって噂の副業の事でしょ!」

 

ある意味正解で、ある意味不正解なこの解答に、

眞木は気まずい表情のまま何もうまく答える事ができなかった。

そんな眞木をよそに、きな子は「えへへ」と笑いながら・・・。

 

「眞木ちゅんはね・・・世界で一番素敵なサンタクロースなの!」

 

そう言いながら、きな子はピョンピョン飛び跳ねながらどこかへ行ってしまった。

残された眞木とりさは呆気にとられてその場に立ち尽くしていた。

 

(・・・余計な事を言いやがって、バーカ・・・)

 

眞木は少し切なくなって持っていたビニールの袋をギュっと握り締めた。

今日、目が覚めて冷蔵庫を覗いたあの子がどうしているかなと想像しながら。

 

驚いたように目を丸くして唖然としていたりさは、

眞木のそばまで近寄り、耳元へ囁くようにこう言った。

 

「サンタクロースって何?キャバクラのコスプレ?」

 

「いや・・・夜の蝶じゃないですから・・・」

 

 

 

・・・

 

りさにはバレなかったものの、眞木がブタ箱に入る可能性はまだ残されていた。

眞木の知らないところで、それは着々と進行していたのだ。

 

児玉坂にある交番では、交代制で留守番をしている刑事がいた。

時々あくびをしては、居眠りしないようになんとか堪えているようだった。

 

昨夜、泥棒騒動があって、ほとんどの刑事達はろくに眠っていなかった。

夜を徹して捜査をしたものの、結局は犯人を捕まえる事はできなかったのだ。

 

自分の頬を叩きながら、刑事は交番の椅子に座っていた。

交番の外を眺めながら、今日も1日が平和である事を願った。

そして、日誌を書こうと思って机にふと視線を落とした後、

なんとなく奇妙な感覚があって、彼はまたふと視線を上げた。

 

すると、交番の外には、先ほど誰もいなかったはずなのに、

いつの間にか女の子が一人立っているのが見えたのだ。

刑事は驚いて一瞬呼吸をするのを忘れそうになったが、

その色白の女の子がにっこりと微笑みかけて交番の扉を開けて中に入ってきた。

 

「昨日、110番通報をした者ですが」

 

その色白の女の子は淡々とそう言った。

 

「ああ、君が森 未代奈さん?」

 

未代奈は無言でこくりと頷いた。

彼女はとても冷静な表情をしていた。

 

「そうですか・・・もう話には聞いているかもしれないが、

 残念ながら犯人を捕まえる事はできなかったんだよ。

 我々が駆けつけた時、どういうわけか家の壁には穴が空いていてね。

 どうやったかわからんが、犯人は壁をぶち破って逃げたようなんだよ」

 

その話を耳にしても、未代奈は表情ひとつ変えなかった。

おそらくそうなるでしょうね、とでも言わんばかりに冷たい顔をしていた。

 

「今日も引き続き捜査を続けてくださいませんか?」

 

未代奈は冷静にそう告げたが、刑事は困ったような表情を浮かべた。

 

「そうしたいのは山々なんだがね・・・何しろみんなほとんど寝ていないもので。

 あとね、こういう言い方をすれば怒られるかもしれないが、

 泥棒と言ってもね、君のお店で被害があったのはマカロン数個やアイスクリームだけ。

 そりゃあ食材はいくらかは食べられてしまったりしてるようだけれど、

 その、言いにくいんだが、そんなに大切な物を盗まれたとは言えないだろう・・・?」

 

刑事がそう言った時、さすがに未代奈は怖い顔をした。

彼はまずい事を言ったかと、慌てた様子で言葉をつないだ。

 

「いや、そりゃどんな物でも君にとっては大切な物だろうけどね・・・。

 だけどね、人命が奪われたわけでもなし、実は警察側は壊れた壁の方を調査するので忙しいんだよ。

 どうやらかなり派手に多くの家の壁を壊して逃げたみたいで、

 近隣住民からの苦情の対応に追われているのが我々の実情なんだ」

 

刑事はそういう理由を述べてどうか勘弁してほしいという様子だった。

 

「・・・あの女は泥棒です」

 

「女?」

 

未代奈は厳しい調子でそう言った。

まるで自分から大切な物を奪った仇を許せないと言った様子で。

 

「女って、君は犯人の性別を知ってるのかい?」

 

「はい、だってこの目で見ましたから」

 

その言葉を聞いた警官は驚いた様子をしていた。

昨日の時点では通報があったが、犯人を目撃したという情報はなかった。

未代奈は電話で通報してきたのだが、それ以上は何も語らなかったからだ。

 

「君、どうしてそれを早く言わなかったんだ!」

 

刑事は興奮した様子で交番の奥のドアを開けて入っていった。

奥では数人の刑事達が交代で休んでいたらしく、

眠い目をこすりながら刑事達がぞろぞろと出てきたのだった。

 

「この子が通報者の森 未代奈さんです。

 先ほどの話では、犯人を目撃したという事のようです」

 

先ほどの刑事が上司と思われる人にそう説明した。

それを聞いた上司は、未代奈の顔をジロジロと見た。

 

「犯人を目撃したなら、どうしてもっと早く言わなかったんだ?」

 

上司は先ほどの若い刑事と同じ質問をした。

 

「どれくらいで捕まえてもらえるか見てみたかったからです」

 

まるで警察を試しているかのような発言内容に、

一人の刑事は短気なのか、今にも未代奈に飛びかかりそうになった。

それを先ほどの若い刑事が身体を抑えて静止し、

上司は「ふぅ」と大きくため息をついて話を続けた。

 

「情報を持っているなら、積極的に協力してもらわねば我々も困るんだ。

 今回、被害にあったのは君のお店だけだが、取り逃がせば他にも被害が広がる可能性があった。

 決して君一人だけの問題ではない事を考えてもらいたいね」

 

上司は少し皮肉交じりの口調でそう言った。

 

「まあなんにせよ、犯人の顔をみたのならありがたい話だ。

 それだけの情報があれば、大抵の場合は捜査が一気に進む」

 

上司がそう言うと、未代奈もニヤリと笑った。

決定的な情報を持っている限り、勝負はこちらの勝ちだったと言わんばかりに。

 

「それじゃあ、犯人の特徴を聞かせてくれるかな?」

 

上司はそう言って椅子に座った。

ゆっくり話を聞こうというスタンスで。

 

「まどろっこしいことは止めませんか?」

 

未代奈はそう言って刑事のやり方を批判した。

彼女にはもっと良い方法があると言うのだろうか。

 

「私に3分だけ時間をくだされば、それで全ては解決です」

 

未代奈は自信に満ち溢れた顔でそう言った。

その表情には一点の曇りもなく透き通った意志が見える。

 

「ほう、面白いな、では3分待ってみるか。

 この砂時計はちょうど3分計測できるようになっているんだ」

 

そう言って刑事は机の上にあった砂時計をひっくり返した。

未代奈はカバンの中から何やら取り出して作業を始めたようだ。

 

刑事達が砂時計を見守りながら、最後の砂が落下しようとしていた時、

未代奈が作業を終えて「終わりました」と刑事達に告げた。

 

「犯人の顔は、こういう感じです」

 

未代奈は先ほどペンを使って書き上げたスケッチブックを刑事に向かって見せつけた。

そこには未代奈が見たという犯人の似顔絵が描かれていたのだ。

 

 

こうして、この事件は迷宮入りとなった。

 

 

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

世界で一番孤独なババア ー自惚れのあとがきー

 

 

まず、謝罪の言葉から口にさせていただきます。

大変申し訳ございませんでした。

 

本作はタイトルから攻めすぎている。

アップする際に他のタイトルと並べてみて、

またあとがきのために物語を読み直してみて、

本作がかなりエッジの効いた内容であることを再認識した。

 

だが、理解してくれるかどうかはわからないが、

筆者がこんな風に書いてしまうのはキャラクターへの愛ゆえである。

もちろん屈折した愛情であることは理解しているのだが、

眞木も、りさも、きな子も筆者はとても好きなキャラクターなので、

少しいじわるな表現が作中に顔をのぞかせてしまう。

様々なことを書いているが、悪口は一つもないというのが筆者の認識である。

しかし、念のために冒頭から謝罪させていただきました。

 

 

本作の構想は実はもう1年以上前からあった。

ずっと昔から筆者の頭の中にはこの物語の8割程度は存在していて、

それを頭の中でイメージとして再生をすることは何度もあった。

作品にする時間だけがなく、今回やっとこうして形になったのである。

 

実際に作品にしてみてわかったことも多かった。

書いているうちにテーマとして「大人」を書きたいのだと気づいた。

筆者にももちろん子供の頃はあり、それでもこうして大人になってしまった。

その過程で失ってしまったもの、良い意味で変わってしまったもの、

変わらないけれど内に隠してしまったもの、そうしても隠しきれないもの、

そういう事が書いている内にどんどんと溢れてくるのがわかった。

 

眞木とりさは大人である。

物語を進める時、子供っぽいキャラがいてくれると助かる事が実際には多い。

無茶をしてくれるので、予想外の方へ物語を引っ張って行ってくれる(きな子のように)。

眞木とりさで話を進めると、大人であるがゆえに冷静さの範疇を飛び抜けてはくれないのだが、

それでも比較的コミカルに進める事が出来たのは二人にバラエティ要素がある事と、

いい意味で隙を見せてくれる大人なのかもしれないと思った。

後輩からいじられても笑って許してくれる余裕があるのかなとも思う。

そういうところが「かっこ悪いのが一番かっこいい」とりさに告げた理由でもある。

 

 

子供にはこういう余裕はない。

自分の事でいっぱいいっぱいになってしまうからだ。

表面的な華やかさやかっこよさを求め、自分が一番出なくては気が済まない。

もちろん、そういう子供っぽいキャラだけがもつ魅力もあるし、

どちらが良い悪いで筆者は語っているのではない。

今回は「大人」の魅力を少しばかり書きたかったというだけである。

 

 

眞木を主役にする上で研究を始めた頃、

初めの印象からはもっとセクシーな怪盗にしようと思っていた。

第一印象から引っ張ってくるイメージはそうだった。

 

だが、どうも中身をしっかり見ていくと違った。

この人は徹頭徹尾「こそこそ」動くタイプの人らしく、

それでいて少しうぬぼれやで、少しばかりドジでもある。

小さく堅実に生きていきたいはずなのに、

どういうわけか大胆に生きていきたい欲も秘めている。

 

それを統合していくと「コソドロ」という結論にたどり着いた。

泥棒がドジであれば致命的なのだが、それが彼女の魅力でもある。

本作の中の節約に関する記述は今回の設定のための誇張である。

「節約観念がいきすぎて泥棒になる」という設定が筆者的に面白かったからだ。

 

これは別に眞木をどうこう言っているわけではないが、

筆者が常々思っていた事なのである。

とてもお金に細かい友人が一人いる。

節約してお金を貯めているのは偉いと思うのだが、

1円単位で割り勘を求めたり、友人にまでケチな行為を繰り返すのを見て、

「この人は何かを奪っているな」と筆者は感じた事があるのだ。

お金を大切にしすぎて目に見えない友情を損なったり、

周りからどう見られているか気づかずに他人の物を取ったりする。

それは別に些細な事だが、彼はそれを悪い事だと思っていない。

そこまで行くと、もう自己中心的としか思えない。

 

まあ筆者の友人に対する愚痴はこのへんにして。

 

個人的には眞木の隙がある性格は好ましい。

その隙にツッコミを入れたりいじりを入れたり、

そういう相手が寄ってきてくれる性格をしていると思う。

もちろん、実はしっかりした事も考えている大人でもある。

自分の信念を貫いて限りある人生を精一杯生きようとしていて、

そういう部分には筆者も大いに共感するのである。

 

きな子を登場させる事になったのは、

先述したように物語を変化させる必要があるからで、

子供っぽい魅力でかき回してもらいたかったからだ。

また、眞木ときな子の組み合わせで一つ書きたいと思っていたし、

割と仲良しな凸凹コンビという印象もある。

 

偶然にもクリスマスに向けて作品を書く時期であったので、

その部分をクリスマスバージョンにアレンジしてみた。

最後のオチに未代奈を使っているのは申し訳ないが、

ネタが豊富で非常に優秀なキャラなのでこういう使いかたになってしまう。

もちろん、悪口ではなく、愛情ゆえだという事をご理解いただきたい。

 

念のために書いておきますが本作はフィクションです。

泥棒は犯罪行為です、決して真似はしないでください。

小説だから許される、ちょっと不思議な物語なのですから。

 

 

ー終わりー