今、懺悔したい誰かがいる

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 深い川 我が故郷はヨルダン川の向こう岸

 深い川 おお我が主よ 

 私は この川を渡り 集いの地へ行きたい

 

                 ー黒人霊歌「深い川」ー

 

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「・・・爾時世尊。従三眛。安詳而起。告舎利弗・・・」

 

屋内から聴こえてきた懐かしい響きに、麻紀は心が落ち着いていくのがわかった。

それは小さい頃によく聴いたお経だったが、個人的な感覚で言えば家庭内の音楽に近かった。

これを耳にすると、自分は故郷に帰ってきたのだなと安らぎを感じることさえできた。

 

「・・・諸仏知恵。甚深無量。其智慧門。難解難入・・・」

 

住職はどうやら熱心に読経を進めていた。

お寺の縁側でボーッと遠くを見つめていた麻紀は、

小さい頃から何百回と聴かされたそのお経の意味はわからない。

ただすごく立派な意味を秘めているのだろうということだけは理解していた。

だが、むしろ自分にとって心地よい音楽であるという事実の方が、

今の彼女には何よりも価値があるように思えた。

騒がしい都会の雑踏を離れ、静かに心を落ち着ける場所へ辿り着けたのだ。

 

麻紀の故郷には自然の緑があった。

そして広大に続いていく海の青もあった。

それが小さい頃から所有してきた自分の全てだった。

その他には何も余計な物を持たずに彼女は生きてきたのだ。

 

その昔、自分は都会へ出ると心に決めた時、

彼女はこんなにも多くの物を背負うことになるとは思わなかった。

ただ淡い憧れと彼女なりの人生哲学をバッグに詰め込んで、

一歩一歩を深く噛み締めながら、ただ自分の信じる道を進もうと決めた。

 

 

今、目の前に浮かぶ景色は、お寺の入り口にある黒くて深みのある色をした立派な門と、

庭に植えられている樹々の、生命力に溢れて風に揺れる緑色の鮮やかさだった。

その微風は後ろで一つに結んだ麻紀の髪を共に揺らしていた。

顔の横に残された前髪が風に吹かれて悲しげな表情にまとわりつく。

やがて麻紀は緩やかに身体を縁側の床に倒した。

瞳に溜まった涙の雫が、目尻からこめかみを伝ってそっと床に落ちた。

落ちたその部分だけ床の色は少し濃くなって跡を残した。

 

先ほどまで見ていた景色が横に倒れた。

自分の身体が横になっているのだから無理もなかった。

今はただ、たとえ世界が傾斜して行ったとしても、

この穏やかな自然と懐かしい音楽に囲まれたままで、

静かに、ただ静かに一人になりたかった。

 

 

・・・

 

 

麻紀が一時帰郷してきたこのお話は、もう随分と前の話になる。

現在の麻紀は、すでに別の岐路にさしかかっているのだ。

そして、麻紀はこの物語の中で一時帰郷してくる前には児玉坂の町に暮らしていたのである。

 

東京都23区、そこにある児玉坂と呼ばれる街に彼女が引っ越してきたのは、実は随分と前の事である。

一念発起して故郷を離れた麻紀は、夢をたくさん詰め込んだボストンバッグを持って上京してきた。

そのボストンバッグの他に何も重要な物を持たなかった彼女は、

しばらくの間、都内でホテル住まいをしながら仕事を探す事にした。

 

実にたくさんの仕事を経験した。

10を超えるほど数々のアルバイトを経験し、

その中で知り合った友人とルームシェアをしたりもした。

出会った友人も、故郷を後にして上京してきた事もあり、

麻紀はその友人とすぐに仲良くなったし、今でも関係は続いている。

 

そのうち、麻紀にも安定した仕事が見つかるようになった。

児玉坂の街にあるアパート「めぞん児玉坂」で管理人を務める事になったのである。

知人の紹介で麻紀に向いているのではないかと推薦されたことでこの仕事にありつけた。

 

幸運なことに、アパートの管理人という仕事はそれほど難しくも忙しくもなかった。

朝起きて箒を持って庭の掃除をして職場へ出かけていく住人達を見送った後は、

一人でお茶を飲みながらTVを見て、みかんやお煎餅を食べてのんびりしていても構わなかった。

時々、住人達から何か要望がある時だけ、彼女はアパートの管理を行った。

それ以外は、定期的に部屋代を徴収したり、アパート内の設備をチェックしたりするだけで、

現代社会に属しながら、時間に追われるという悲劇に巻き込まれることなく過ごせていた。

 

「めぞん児玉坂」に住んでいた住人達はとてもユニークだった。

地方から上京してきた者達は、ひとまずここに部屋を借りることが多かった。

麻紀とタイミングを同じくして上京してきた住人達もまだ住み続けていたし、

しばらく経ってから追いかけるようにして入居してくる者達もいた。

住み込む人たちは若い子が多かったこともあり、麻紀は年長者として立派に振舞おうとした。

だが、兄のいる妹として育った麻紀には、あまりそういう威厳のある役割は似合わなかった。

お姉さんでありながら、あまりお姉さんらしく面倒を見てあげることはできなかったが、

やがて自然体で住人達と楽しく同じ屋根の下で暮らしていこうと心に決めた。

そうしてからは、このアパート暮らしも悪くはないと考えるようになり、

居座ろうと思えばいつまでもいられるほど居心地の良い場所となっていった。

ちなみに、この「めぞん児玉坂」は残念ながら男子禁制であった。

だからアパートの管理人と住人の間の恋愛などは生まれることはなかった。

 

 

こうして、暮らしていく分には何も不自由しない環境に恵まれた麻紀だったが、

アパートの管理人だけでは彼女の旺盛な好奇心を満たすことはできなかった。

余った時間をどうにか活用して充実感のある生活を送りたいと思った麻紀は、

高校生の時にかじったことのあるギターを練習してバンドを組んでみたり、

図書館に行って読書しながら気になることを調べてみたりもした。

お茶の効能を調べてみたり、小説の新刊をチェックしてみたりもした。

空いた時間には話題になっている映画も観たし、毎週やっている時代劇も密かな楽しみだった。

 

 

そんなある日、彼女にとって大きな転機となる出来事が起こった。

窓から外を見ると、黒い雲が向こう側からこちらに近づいてくるのがわかった。

それなのに、アパートの5号室の住人のベランダには洗濯物が干されていた。

 

さすがにそれを見た以上、麻紀は見て見ぬふりができる性格ではなかった。

全室の合鍵を持っていた彼女は、親心のような気持ちで5号室へ向かった。

女子しか住んでいないこのアパートで、同性の自分が洗濯物を取り込んだところで、

それほど嫌がられることはないと判断した結果、無断で部屋に入ることにしたのだ。

 

鍵穴に合鍵を差し込んで回すと、カチャリと音がして鍵が外れた。

ドアノブに手をやり、少し申し訳ない気持ちでゆっくりとドアを開けた。

 

そこで部屋の中の光景を見た麻紀は、あまりに驚いて両手で頬を押さえたムンクの叫びスタイルになった。

部屋の中には想像も絶するような光景が広がっていたからである。

 

まず、壁には大きく引き伸ばされた麻紀の写真が額縁に入れられて飾られていた。

しかもその写真の空白は、すべて黒文字で埋められており、それらはすべて麻紀を賛美したものだった。

 

「・・・皮膚が薄くて血管が見える所、手の華奢な感じ、口元のほくろ、まゆげすら可愛い・・・」

 

少し読み上げて見て背筋が凍りつく思いがした。

この住人は麻紀の身体の細部まで知り尽くしているようだった。

 

「・・・出会えてよかった、触れたい、胸が苦しくなる、いずれは俺の嫁・・・」

 

自分の写真の上に浴びせられた人間の歪んだ欲望の言葉の数々に、

麻紀はしばらくの間は何も反応することができずに立ち尽くしていた。

部屋を見回すと、他にも壁には麻紀のポスターや生写真などが無数に貼られている。

 

「・・・聖母?」

 

乱雑に敷き詰められた賛美の黒文字の中から、

ひときわ大きな文字で書かれたその言葉に目が止まった。

なぜか気になった麻紀は、手を伸ばしてその言葉を撫でてみた。

額縁の表面はアクリル板で覆われていて、

触ったら冷たくて頑丈で無機質な感じがした。

けれど、その言葉の意味はどこか重たくて息がつまる気がした。

 

やがて外からゴロゴロという大きな音が鳴り始めた。

黒い雲が太陽光を遮断して、5号室は窓から射し込む明るさを失っていった。

まもなく雨が降ってくるだろうと思われたが、麻紀はもうそんな事を忘れて立ちつくしていた。

 

ドタン、という大きな音が鳴って部屋のドアが勝手に閉まった。

驚いて振り返った麻紀の目の前には、黒い人影が立っているのが見えた。

その事実に驚いた麻紀は「わっ!」と声をあげて尻餅をついて倒れた。

そしてピカッと外が一瞬明るくなった、雷が空に閃光を放ったのだ。

その瞬間、部屋の中が瞬時に窓から射し込んだ光に照らされ、目の前の黒い人影の顔が浮かび上がった。

 

「あーあ、見ちゃったんだ」

 

ドシャーンという大きな音がしてどこか遠くに雷が落ちた。

雷の閃光を失った部屋の中は、またしても暗闇に包まれていた。

目の前の暗いシルエットがこちらを見下ろしている姿を見て、

麻紀は自分の姿が、まるで魔女に見つかって食べられてしまう少女みたいだと連想した。

踏み込んではならない魔女の館に、自分は足を踏み入れてしまったのだと。

 

やがて目の前のシルエットの右手が動き、ドアの横にあったスイッチを押した。

パッと部屋の電灯がついて、あたりは瞬時に明るくなった。

そしてドアの横に立っていたのは、5号室の住人である川戸魅菜だった。

 

「み、魅菜ちゃん!?」

 

驚いた麻紀はとっさに彼女の名前を呼んだ。

魅菜はおもむろにトートバックの中からケータイを取り出してこちらへ向けてきた。

 

「今日も可愛いね~♡」

 

身体中にまとわりつくような甘ったるい声でそう言うと、

戸惑う麻紀を無視して魅菜はどんどん麻紀を壁際に追い詰めていった。

魅菜はどうやらケータイで動画を撮影しているようだった。

 

「ちょっと、やめてってば!」

 

壁に追い詰められながらも麻紀は魅菜のケータイのカメラを両手で抑えた。

「あ~罪なくらい可愛い~♡」と言いながらしつこく迫った魅菜だったが、

やがて動画撮影を止めて、スマホの待ち受け画面を麻紀に見せた。

そこには庭で箒を持って掃除している麻紀の姿が映っていた。

 

「もう!こんなのいつ撮ったの?」

 

魅菜がロック画面に切り替えると、そこには洗濯物を干す麻紀の姿があった。

どれもこれも驚くほどさりげなく自然に撮影されていて、

麻紀の飾らない素顔がそこに記録されてあった。

 

「見られちゃったらしょうがないよね~」

 

悪びれる様子もなく、魅菜は嬉しそうにそう言った。

何がどうなっているのか理解するのに処理が追いつかず、

まるで魔法にでもかけられているかのように、

麻紀の頭は混乱して大きなノイズが耳の奥で鳴っているようだった。

 

「・・・あっ、雨!?」

 

ふと我に返って窓の外を見ると、空から地面を打つような雨が降り注いでいた。

さっき耳の奥で鳴っていた音は、物理的な雨音だったのだと気付いた。

 

麻紀は慌てて立ち上がって窓を開けて洗濯物を取り込んでいた。

その様子を見ながら、魅菜はまたケータイを麻紀に向けて写真を撮っていた。

 

「・・・もう!あなたの洗濯物でしょ!」

 

怒った顔もまた可愛い、と思いながら魅菜はモードを連写に切り替えてシャッターを切った。

呆れた顔をして、麻紀はただ魅菜を見つめて立ちつくしていた。

 

 

この出来事があってからというもの、魅菜はもう隠れることなく麻紀の写真を撮るようになった。

出かける時にパシャ、帰宅時にパシャ、何かを食べているとパシャ、笑っているとパシャ。

いつでもどこでも「超可愛い♡」と言いながら写真を撮ってくる魅菜に対して、

最初は少し抵抗感もあったのだが、やがて自分でも気づかない間に感覚は麻痺していった。

 

そして魅菜は自分の理想像としてのイメージをどんどんと作り上げていき、

麻紀はそれに付き合っているうちに彼女のプロデュースに身を委ねていった。

ある日、魅菜は「聖母」としての写真が撮りたいと言い始め、

麻紀はそれに付き合ってシスターのようなコスプレをして撮影をすることになった。

 

「早くしてね、ああっもう恥ずかしいよー」

 

と言いながらも撮影場所である児玉坂教会の前で指定されたポーズを取っていると、

魅菜はこの日のために準備した高画質の一眼レフカメラを颯爽と構えて写真を撮っていった。

彼女に言わせれば、恥ずかしがっている姿もまた可愛いということだった。

 

魅菜がパシャパシャとシャッターを切っていると、

教会の前を通過していく人達がひそひそと話をしながら通り過ぎていく。

おそらく今流行りのコスプレ写真を撮っている人達と思われているのだと感じ、

麻紀は通行人がこちらを見るたび、それが少し恥ずかしかった。

 

「やばい、まじ天使画像だわ~」などと画像を確認するたびに自画自賛をする魅菜。

「ねえ、これやばくない!」と言われて興奮しながら写真を見せられても、

麻紀には早く終わって欲しいという羞恥心以外には何もなかった。

こんな恥ずかしいことは、やっぱり初めから断ればよかったと思った。

聖母マリアのような純白のワンピースに白いヴェールを被っていた麻紀は、

その羞恥心からずっともじもじとヴェールを引っ張って顔を隠していた。

 

だが、隠されれば隠されるほど正体が見たくなるのが人の性なのだろう。

通りかかった人々は覗き込むようにして麻紀の表情を確かめようとした。

通行人から注目されて嬉しそうな魅菜は、わざとカメラを大げさに構えてそれを煽った。

やがて立ち止まった人々が出て、それに釣られる群集心理によって、

教会の前には見たことのないほどの人だかりができ始めていた。

どうやら外の異常に気付いたようで、教会の中から神父も出てきて事態を確認していた。

 

「ほら、もうダメだよ、いこう?」

 

恥ずかしそうな麻紀は魅菜の袖を引っ張って立ち去ろうとした。

「やばい、私って有能かよ」と言いながら撮影した画像を確認しつつ、

ニヤニヤしながら魅菜は麻紀に連れられて二人はその場を離れていった。

 

 

この出来事があってから、麻紀は街中で通行人に顔を見られるようになった。

初めのうち、麻紀はそれを自意識の過剰だと自分を戒めた。

ちょっとあんな風に撮影したくらいで、自分が有名人にでもなったみたいに、

そんな風にふわふわと考えてしまう自分をひどく恥じた。

もちろん、彼女にも見られて嬉しいという喜びはあるのだが、

良識的に考えて謙虚な自分でいるように努めたのだ。

麻紀は自制心がとても強く、それはさすがにお寺に生まれた娘だったのかもしれない。

 

だが、それはどうやら彼女の勘違いではなかった。

後日、麻紀がアパートの管理人室で休憩していると、

外から呼び鈴の鳴る音が聞こえてきたのだ。

「はーい、どなたですか?」とドアを開けてみたところ、

そこに立っていたのは見たところ初老と思われる神父だった。

 

麻紀は彼の姿を見た時、すぐにあの時のコスプレ撮影の事を思い出した。

そして、勝手にあんなところで写真を撮影してしまった事を叱られるのだと思った。

麻紀は「この間は、どうもすいませんでした!」と先手を取って謝罪をしたのだが、

初老の神父は優しそうに微笑んでから「違いますよ」と麻紀の頭を上げさせた。

 

そしてこの出来事が、麻紀の運命を大きく変えていく事になった・・・。

 

 

・・・

 

 

どこからともなくパイプオルガンの神聖な音が鳴り響き、

集会にやってきた人々が厳かな歌を口ずさみ始めた。

天井の高い教会の中に、その歌声がこだましていった。

 

部屋の中は余計な明かりをつけてはいないが、

自然光をうまく取り込むような作りに設計されているのか、

ステンドグラスから透過される光が神々しくて眩しい。

繊細な西洋風の建築様式で作られている教会は、

その贅沢な空間美によって人々の心を自然と安らかにさせる。

建築物を支えている柱や模様は微塵の狂いもなく精巧であり、

その完璧な作りは、まさに人々が神の存在を認めずにはいられないほどに美しい。

言い換えるならば、美しさには神が宿っていると言えるかもしれない。

 

 

始めてここを訪れた時、麻紀は実家のお寺を思い出した。

よく考えられた採光の様式は、実は仏教建築にも通じるところがある気がした。

早朝のお勤めでお経を読み上げるお坊さんがいたあのお寺の本堂も、

夜明け前の薄暗い堂内に美しく射し込む燃えるような朝日や、

目の前に広がる宇宙を想起させる金色の天蓋や仏像に目を奪われる。

それらはまるで命の始まりを思わせるような美しさがあり、

やはりその美しさには神がかったような印象が宿っていた。

 

 

やがて音楽が終わり、人々は祈りを捧げ始めた。

大勢の人が並んで座っている向かい斜め上には、

どこの教会でも大抵そうであるように十字架が掛けられていた。

そしてこの児玉坂教会の十字架には磔刑に処された男の姿があった。

人々は各々の心で何かに向き合いながら、その男に向かって祈りを捧げていた。

 

お祈りの時間が終わった後、初老の神父が登場してお話を始める。

神父は片手で抱え込んできた聖書を取り出してページをめくる。

長椅子に座っている人々は入り口で渡された紙を眺めてその話を聞く。

聖書に基づいた話をするにもかかわらず、日常生活の話題をうまく取り上げるため、

人々は難しい話を聞かなくとも身近な問題を説かれているように感じられるのである。

 

こうして、麻紀は日曜には礼拝に参加するようになった。

だが、麻紀がいるのは長椅子の方ではなく、神父の隣だったのだ。

 

あのコスプレ撮影以来、教会には問い合わせが殺到したらしい。

それは「以前見かけたあのシスターは誰か?」というものだった。

神父は数々の問い合わせに対し、この教会にはシスターはいないと説明したが、

具体的な日時を指摘されると、思い当たったのは麻紀のことだった。

 

そして鳴り止まない問い合わせに、ついに神父は麻紀を訪ねる事に決めた。

教会ではアルバイトという形で雇う事はできないのだが、

あくまでもボランティアというやり方でご協力願えませんかというのが趣旨だった。

 

麻紀はもちろん、最初は丁重にお断りした。

私にはシスターなんて務まりません、アパート管理人の仕事もありますし。

あくまでも謙虚な姿勢で、いい加減な気持ちで踏み出す事は麻紀の本意ではなかったからだ。

だが、日曜日の礼拝だけお手伝い願えませんかという依頼内容に妥協されたことや、

名目としては教会内の事務作業をメインに行っていただくだけですので、

という熱心な勧誘に、さすがに麻紀も「じゃあ少しだけなら」と譲歩した。

 

だが、麻紀が考えていた通りには世間が許さなかった。

教会に問い合わせをしていた人々が働いている麻紀を見かけた時、

彼らは麻紀に対して告解をさせてくれと願い出たのだ。

「告解」とは教会にある小さな仕切りのある部屋の中で、

誰にも秘密で聖職者に対して罪の告白をして神の赦しを得るという、

いわゆる懺悔と呼ばれる行為の事である。

 

さすがに神父もこの願いは受け付けなかった。

告解で神の赦しを与える事ができるのは洗礼を受けたものだけであり、

キリスト教徒になったわけでもない麻紀には本来ふさわしくなかったからだ。

しかし、あまりにもたくさんの人々が同じ願いを申し出た事で、

これは何か神の導きかもしれないと神父も思い始めた。

そしてそれは従来の信者達にとどまらず、まだ洗礼を受けていない始めて教会を訪れたような人達まで、

この同じ望みを抱いてやってくるようになった。

思った以上に、麻紀の存在は児玉坂の街中に広まっていたのだ。

 

そうして麻紀が告解のお手伝いを始めたのは去年のクリスマスだった。

十字架の上に磔にされているイエス・キリストの生誕祭とされるクリスマスは、

教会にとっても一年に数回しかない大きなパーティが開かれる日だ。

近所の家族連れや子供達も気楽に遊びにくるようなこの日に、

麻紀はあの撮影の時に身につけていた白いヴェール姿で登場した。

 

以前、麻紀を見かけたことがあった人々は歓喜した。

始めて麻紀を見た人達も、その神々しい姿に息を飲んだ。

それは人々が伽藍や教会の繊細な装飾の美しさに神が宿ると考えるように、

彼女の純粋無垢な透明な色に、神の姿を見たのかもしれなかった。

 

そして、麻紀は告解部屋に入った。

その日は本当に多くの人々が麻紀に罪の告白を行った。

 

告解部屋は教会の奥にあるとても小さな部屋であり、

三つある部屋の真ん中には神父が話を聞く為に入り、

その両脇にある二つの入り口からは信者が入って罪の告白を行う事になる。

その間は壁で仕切られており、仕切り壁の中央には小さな窓がある。

だが、その窓には向こう側がよく見えないように細かい網目の柵が設けられているため、

神父も信者も、お互いに顔が曖昧なままで話をする事になる。

神父は聞いた罪の告白を誰かに話す事は禁じられているし、

信者もあくまでも神の名において許しを得るのであり、

向かいの部屋に座っている相手に向かって個人的な感情を露呈する事はタブーである。

 

このルールを前提とすれば、信者達が麻紀を告解相手に求める事自体が邪道であった。

だが、神父はどういうわけか、こうしたルールにも寛容な姿勢を示した。

ルールを寛容にすれば新しく参加する人々が増えるのは世の習いであり、

やがて教会に足しげく通う信者は次々と増えていった。

 

麻紀はそれら新しくやってきた人々の受け皿となった。

人々の罪には様々な内容のものがあった。

友達とケンカしてしまった、恋人と別れてしまった、

親の言う事を聞けなかった、学校をサボってしまった、など。

中には知り合いの写真を勝手に撮影して引き伸ばして部屋に飾ってしまった、

なんてのも混じっていたが、よくよく声を聞けば、これは魅菜だった。

信者に紛れて告解にやってきたのだが、どうやら本人は全く悪気は感じていないようだったし、

ただ面白いから紛れ込んでやってきたのかもしれない、麻紀は途中まで全く気がつかなかった。

 

とにかく、麻紀は人々はこんなにも多くの罪を背負っていて、

こんなにも孤独を感じて辛い思いをしているものだと初めて知ったのだった。

この体験が彼女にこのボランティアを続けさせることになった。

そして彼女自身も、多くの人を支える事が出来るこの活動にやりがいを見出していった。

日曜日だけであれば本業のアパートの管理人の仕事に影響を与える事もないし、

苦しんでいる人々の役に立てているという気持ちが何よりも嬉しかったのだ。

 

 

・・・

 

 

初めは日曜日の礼拝にだけお手伝いをしていた麻紀だったが、

やがて平日にある聖書の勉強会にも顔を出すようになった。

これはシスターとしてではなく、アパートの管理人としての麻紀だった。

かしこまって威厳のある風を努めるでもなく、ただ自然体で参加できる場であり、

誠実な麻紀は、せっかくお手伝いをしているのだから無知ではいけない、

最低限の知識を得ることも必要だと思ってこうした機会を利用することにしたのだ。

 

シスターには厳格な掟がある。

麻紀がお手伝いしている児玉坂教会はカトリック系だった。

キリスト教には大きく分けてカトリックとプロテスタントという分派がある。

元々は一つの考え方であり、一つの神を信仰していた宗教に、

どうして派閥ができて分裂していくのかという問題は、

非常に俗世的な問題であり、これはキリスト教のみならず、

世界に散らばる全ての宗教にもすべて分派が存在することから、

人間が信仰するものである限り避けることのできない出来事であった。

 

そもそも、キリスト教も元をたどればユダヤ教から分離している。

キリスト教のバイブルと言われる聖書にも「旧約聖書」と「新約聖書」の二つがある。

前者の旧約聖書はイスラエルに住んでいたユダヤ人達の神と預言者達の物語であり、

神の天地創造やユダヤ人達が奴隷生活を脱出した出エジプト記など、

様々な世界の成り立ちや神との歴史的な物語が描かれている。

一方、後者の新約聖書はキリスト教徒達によって書かれたものであり、

イエス・キリストの生涯やその言葉などが書き記されているのである。

 

キリスト教徒達は、旧約聖書の中にメシア(救世主=イエス)の到来を予言しているとしており、

イエス・キリストを救世主として崇めるようになったことでユダヤ教から分離することになった。

ユダヤ教はキリストを認めていないが、キリスト教徒はユダヤの歴史である旧約聖書も、

キリストについて書かれている新約聖書も共に重要だと考えているのである。

 

細かに説明を始めれば各分派の人々にも様々な意見を頂戴することになるだろうが、

大雑把に説明すると以上のように考えられる。

 

そしてキリスト教の分派であるカトリックは掟に厳しい宗派だった。

そもそも、宗教とはある程度は掟に厳しいところからスタートする。

それは形のないものを人が尊ぶことがないからだろう。

一つの宗教が成り立つ時、それは時代を経て洗練された教義が中心に据えられる。

 

だがそこから人の数だけ分裂が始まる。

プロテスタントは新教とも呼ばれるが、教会に対してプロテスト(抗議)したことから由来する。

教会が権力を握っていたキリスト教の中で、純粋に聖書の教えに戻れと抗議した人達がいた。

彼らが宗教改革者となり、従来のカトリック(旧教)から分かれてプロテスタント(新教)を生み出した。

 

教会の権威が強くなり、その教えに従わなければいけないという規律に縛られたカトリックに対し、

プロテスタントは教会ではなく全ての人々が聖書を読むことができるようにしようと訴えた。

そしてカトリックにはキリスト像や聖母マリア像などがあるが、プロテスタントはこれを禁止した。

それはユダヤ教の時代に元からある「偶像崇拝禁止」という考え方に戻る事を意図した。

 

こうして見ると複雑に思えるかもしれないが、

とにかくグループの中に考え方の違う人間たちが現れて、

彼らが異なる主張によってAとBというチームに分かれたと考えればいい。

この物語の中で重要なことは、麻紀がいた教会はカトリックであり、

そこにはキリスト像もマリア像もある比較的厳格な掟があったということだ。

 

とにかく、カトリック教会であるシスターには厳格な掟があった。

神に仕える修道女なのだから、無論そこには婚姻などは許されない。

清く正しく誠実に神に仕えなければならないとされている。

 

だが、児玉坂教会の神父は麻紀にそこまで強要することはなかった。

そもそも、事務仕事だけをやってくれたら良いとして勧誘したのだから、

告解のお手伝いをしていることは、あくまでも彼女のボランティアだと考えていた。

 

麻紀自身、実家がお寺であることもあり、

キリスト教にどっぷりと浸かってしまおうとは考えていなかった。

ただ、お仕事として勤める以上、全てのことに敬意を持って接するのが彼女の性格であり、

最低限度の知識やルールぐらいは理解しようと思って勉強会に参加することにしたのだ。

 

毎週平日の勉強会に参加しているうちに、

麻紀はどうやら告解に来てくれた人々が勉強会に参加しているのを見かけるようになった。

そして逆も然りであり、勉強会に来ていた人が告解に来てくれたこともあった。

その人数は日を重ねるごとに増加していき、児玉坂教会の信者の数は雪だるま式に増えていった。

 

 

・・・

 

 

「父と子と精霊の御名において、アーメン」

 

アーメンとは「まことにそうでありますように」という意味だという。

ヘブライ語というユダヤ人の言葉からきている。

 

「では、あなたが罪とお認めになることを、神様の前でおっしゃってください」

 

麻紀は告解部屋の中で慣れた口調でそう言った。

告解の主役はあくまでも懺悔する人々であり麻紀ではない。

 

「・・・昨日の夜、真剣に懺悔する内容を考えたんですけど」

 

麻紀がいる部屋の向かいから声が漏れてくる。

懺悔をする人々がこの小さな部屋の中で罪を告白するのだ。

お互いの顔がよく見えない空間で、信者は誰にも知られずに罪の内容を語るのである。

 

「麻紀さんの声を聴いた途端、頭が真っ白になって・・・」

 

「ゆっくりでいいですよ」

 

恥ずかしそうに話をする信者に対し、麻紀は優しく緊張をほぐしていく。

誰にも言えない罪を告白するというのは、初めての人はやはり戸惑うもので、

なかなか言い出せなかったり、言いたいことを忘れてしまったりする。

 

「・・・あっ、そうだ」

 

「思い出しましたか?」

 

「先日、ささいな事から親と口喧嘩になってしまって・・・。

 それでつい『産んでほしいって頼んだ覚えはねぇよ』なんて酷い事を言ってしまったんです。

 本当はそんなこと、言うつもりじゃなかったんです、物の弾みで・・・」

 

麻紀はその話を聞きながら両眉が下がる。

相手に顔が見えているわけでもないのだが、

相手の話をしっかりと受け止めようとする麻紀は、

心が同調するようにその感情を合わせようとするのだ。

 

「わかりました、それに対してあなたはどのような償いを行いますか?」

 

麻紀が相手の心を先導するように語りかける。

悩み相談室ではないので、麻紀の個人的見解を具体的に述べることはしない。

彼女はあくまでも神の代理として話を聞き、

懺悔する者が主体となって罪を悔い改めることを促すのだ。

 

「・・・今夜、夕食の時にきちんと謝ろうと思います。

 お詫びのしるしに夕食を作ってあげればよいでしょうか?」

 

「あなたがそう思うなら、それで良いと思いますよ」

 

懺悔する者が主体的に償いの行為を決断できる場合、

麻紀は余計な意見を挟むことも助言をすることもなかった。

ただ、その口調には多分の優しさが込められていた。

それは神のというより、麻紀の個人的な感情だった。

 

「私は父と子と精霊の御名によって、あなたの罪を許します。

 では、悔い改めの祈りをしてください」

 

懺悔を行った者は目を閉じて神に対して祈りを捧げる。

それが終わると告解は終了となる。

 

懺悔を終えた者は、罪を赦されて教会を去っていく。

人間とは不思議なもので、何か罪の意識を秘密にしているというだけで、

どういうわけかそれが心に重しとなってのしかかり苦しくなる。

その心に溜まった言葉をどこかに向かって吐き出すだけで、

心理的な作用として心が軽くなるという現象が起きる。

生きるというのは、目に見える物質的な事柄に縛られがちだが、

本当は目に見えないものによって多くを左右されているとも言える。

そういう目に見えない圧力は、言葉に昇華されることで霧消していくのである。

 

 

麻紀は休むことなく次の信者の告解に進んだ。

最近では随分と人数が増えてしまったが、麻紀は休むことなく仕事を続ける。

これほど多くの人々の罪の告白を一人で受け続けるなど、

本当は無茶な話なのだが、彼女はめげることなく邁進していた。

 

「では、あなたが罪とお認めになることを、神様の前でおっしゃってください」

 

告解部屋に麻紀のこもった声が響いた。

狭い部屋なので声は広い場所へ逃げていかない。

それがこの部屋の中にいる事を少し特別に感じさせる。

他の誰にも聞かれていない、秘密の空間に変化させるのだ。

 

「・・・またここへ来てしまいました」

 

部屋の向こうから聞こえてきたのは男の声だった。

麻紀と同じように声はこもってしまうが、

少々くたびれたような感じが口調から漏れ出る低い声だった。

 

「・・・あなたの罪はなんですか?」

 

しばらくの沈黙が流れて、麻紀は思わずそう聞き返した。

懺悔するものが罪の内容を具体的に露わにするまで、

麻紀はサポートを続けなければならないのだ。

 

「・・・だから、またここへ来てしまった事です」

 

ため息混じりで男はそう言った。

麻紀もこの声には聞き覚えがあった。

先週の日曜日にも、この男は懺悔にやってきた。

そして、確かその前の日曜日にもこの部屋の中にいたはずだ。

先週は確か、お酒を飲みすぎて暴れてしまった事を懺悔していて、

その前は確か、競馬に大金をつぎ込んでしまった事を懺悔していた。

このように何度も懺悔に来る人々も多く、麻紀は次第にその声を記憶していった。

もちろん神の前に懺悔を行うために来てくれているのであったが、

麻紀はまるで自分がお役に立てたような気がすることもあり、

何度も来てくれる人には次第に親近感を抱く事もあった。

 

「あなたの罪を具体的におっしゃってください」

 

このように罪を繰り返してしまう人々に対して、

何度目の懺悔かわからなくなるまで同じように告解を繰り返す事、

それが本当に彼らを救う事につながっているのか、麻紀は多少疑問でもあった。

また罪を犯してもここに来れば安易に許されるという風になってしまえば、

それは少し本末転倒な思いもしないわけではないからだ。

 

しかし、勉強会で学んだ事は、それでも神はすべての人を救うという教えだった。

むしろそういう人が救われるために告解部屋はあるとでも言うのだろうか。

そして、そんな神に仕えるシスターは奇妙な疑念など抱く事なく、

ただ黙って彼のような人々を救い続けなければならないし、それを続けるべきなのかもしれない。

 

「・・・もう何をしてしまったという罪はありません」

 

男はそのように答えた。

麻紀には男の言っている意味がよくわからなかった。

罪がなければ懺悔に来る必要などなかったからだ。

 

「ただ、罪もないのにここへ来てしまったのが私の罪です」

 

麻紀はただ混乱して何も返答できなかった。

このような懺悔は初めてだったし、

彼の言う罪にどれほどの悪が詰まっているのか、

そういう事が全く明瞭に受け止めることができなかったからだ。

だが、とにかく麻紀は告解を続けなければならないと思った。

 

「・・・わかりました、それに対してあなたはどのような償いを・・・」

 

そこまで言いかけて、麻紀は自分の発した言葉をかき消された。

男が勢い良く言葉をかぶせてきたからだった。

 

「シスター、こんな私を許してくださいますか!?」

 

シスターと呼ばれたのは初めてだった。

この告解部屋では麻紀は神の代理であって、

シスターとして個人の感情で話しをしているわけではなかったからだ。

それはある意味で告解の掟破りだと言えた。

 

「・・・あなたが心から償いをするなら、神はお赦しくださるでしょう」

 

麻紀はあくまでも教会で教わったやり方で返答した。

それが告解部屋のルールだったからだ。

 

「・・・わかりましたシスター。

 ですが、私はおそらく来週も、また再来週もここへ来てしまうでしょう。

 そんな愚かな私を、あなたは赦してくださいますか?」

 

彼がずっとシスターと呼び続けることが気になったが、

麻紀はとにかく定型文で答え続けるしかなかった。

自分の言葉で話してしまうことは、個人的な感情がそこに含まれてしまう恐れがあった。

 

「ええ、神はすべての人を救いたもうのです」

 

麻紀はそう述べたが、向かいの部屋ではどう受け取られているのかわからず、

流れた奇妙な沈黙から、なんとなく不穏な空気感を感じずにはいられなかった。

 

「私は父と子と精霊の御名によって、あなたの罪を許します。

 悔い改めの祈りをしてください」

 

部屋には沈黙が流れた。

麻紀は懺悔している相手の事を思って祈っていた。

だが、部屋の向かい側にいる相手が本当に祈っているのかは見えないので何もわからない。

お互いに相手が見えない以上、それは信頼関係で成り立つしかない空間だった。

 

「・・・シスター」

 

麻紀が手を合わせて祈っていると、低い声がぼそっと響いた。

 

「あなたは聖母マリアのように美しい」

 

相手の見えない顔が仕切られた壁の窓に迫っていたような気がした。

声を発する位置が動いたような気配がしたからだった。

それは神に届かせる声ではなく、全く麻紀個人へ向けられた呼びかけだった。

 

一瞬ドキッとして心臓が跳ねた麻紀だったが、

相手はいつの間にか向かいの部屋から出てしまったようで、

この場所を離れていく足音だけが徐々に遠ざかっていくのがわかった。

 

 

「塚川さん」

 

少し胸を押さえながら先ほどの驚きを慰めていた麻紀に、

部屋の外から初老の神父が呼びかけてきた。

 

「もう終わりましたね、こちらへ来てお茶でもどうぞ」

 

「あっ、はい」

 

麻紀は告解部屋を出てくると、右手にある扉から出て中庭を通って隣にある部屋へ移った。

そこには先に戻っていた神父がお茶とお菓子を用意して麻紀を待ってくれていた。

 

「いつもすみません」

 

麻紀は恐縮しながらお礼を述べる。

礼儀正しいその精神も挙措も美しかった。

 

「どうぞ、お座りください。

 お手伝いをしていただいているのはこちらなのですから。

 遠慮など無用です、どうぞゆっくり休んでください」

 

神父は人の良い笑顔で微笑みながら麻紀にそう告げた。

彼は性格に裏表の感じられない、信用に足る優しげな老人であった。

麻紀は椅子に腰掛けてテーブルに乗っていたティーカップをとって口をつけた。

当初はせんべいなどの渋いお菓子が多かったのだが、

麻紀が頻繁にお手伝いに来るようになってからと言うもの、

いつの間にかチョコレートなど、彼女の好きなお菓子が知らないうちに増えていった。

おそらく、神父が麻紀の好みに合わせて配慮してくれているのだった。

 

「これだけ人数が増えると一人では大変でしょう。

 できる事なら変わって差し上げたいところですが、

 どうもここへ来る人達は塚川さんに話を聞いてほしいようですね。

 私が相手だとわかると、どうも嬉しくない様子なのです」

 

眉をひそめながら少し自嘲気味に神父はそう言った。

お菓子を頬張りながらも「そんなことないですよ」と麻紀は口を押さえて言う。

 

「ははは、そうだと良いのですが。

 しかし困ったことですよ、これでは塚川さんに負担となってしまいますから」

 

微笑みはキープしているが、どこか申し訳なさそうな声を出してそう言った。

彼は麻紀のお菓子の好みを見抜いたように、その洞察力で信者達の心理も見抜いているのかもしれなかった。

 

「本当は神の前に懺悔する者が告解の相手を選ぶなど、

 そういうことはあってはならないことなのかもしれません。

 ですが、私はあまりそういう事にこだわりを持たないようにしています。

 どういう理由であれ、一人でも多くの人が救われる事を私は優先したいのです」

 

麻紀はこの話を以前にも神父の口から聞いた事があった。

この神父の考え方は厳粛なカトリック教会にとってはかなり異端であり、

その考え方を望ましくないと思っている人々も多くいるらしい。

だが、彼はそれでも自分の考えを貫いて布教を続けているという。

理由はどうあれ、一人でも多くの人が教会に足を運んでくれる事を望み、

そして神に祈りを捧げたり、聖書を読んだり、罪を告白したりしながら、

人間が背負っている苦しみを少しでも和らげる事ができるならそれが好ましいと考えていた。

そういう意味では、彼のようなタイプの人間が宗教に分派を作るのかもしれなかった。

 

「どうですか?何か困った事などありませんか?」

 

神父は相変わらず気を使って麻紀の事を気遣った。

麻紀は両手で口元へ運んだティーカップをソーサーに少し慌てて戻して返答した。

 

「はい、全然大丈夫です。

 私、皆さんのお話を聞くのが好きなんです。

 色々悩みごとがあるんだなって勉強になりますし、

 皆さんの心の支えになれるのが嬉しいんです」

 

麻紀も口元に笑みを浮かべながらそう言った。

先ほどの告解での出来事が少し頭の片隅をかすめたが、

神父に余計な心配をかけまいと思ってそれは言わなかった。

 

「そうですか、わかりました。

 特に何もないのであればそれに越した事はありません。

 これからもよろしくお願いしますね」

 

実家のお寺とは違う宗教ではあったのだが、

麻紀はこの神父の人柄に好意を抱いていたし、

その居心地の良さは不思議とお寺と近いものがある気がした。

とにかく、ここでお手伝いを始めてからというもの、

麻紀自身、とても充実した日々を過ごせるようになっていたのは間違いなかった。

 

 

・・・  

 

 

「ここに置いておきますね」

 

スラリと長い手を伸ばし、郵便物の封筒がデスクに置かれた。

部屋の外から携帯電話を片手に戻ってきたりさはその光景を見ていた。

 

「あっ、ありがとー」

 

他にもたくさんの郵便物を左手に抱えている後輩に向かってりさはそうねぎらった。

こうした郵便物を配る仕事を、りさも昔はよくやらされたものだった。

 

「ごめんねー、なんかこんな仕事ばっかりさせちゃって」

 

別にりさがこんな仕事を押し付けているわけでもないのだけれど、

雑務に近い仕事をさせられている後輩にはりさはこんな風に声をかける。

りさはとても面倒見のよいタイプであり、後輩に声をかけるのはとても上手かった。

そういう一言をかけてもらえるかどうかで、後輩もついていく先輩を決めたくなる。

組織というのはそういう心理的な葛藤が渦巻いていると言える。

 

「あ、いえ、全然大丈夫ですよ。

 だって私、他に何ができるわけでもないですし」

 

後輩も謙虚な姿勢で返すことで先輩を喜ばせなければならない。

気持ちよく接してくれる後輩を、先輩だって可愛がってあげたくなるものだ。

 

「眞木ちゃん、だっけ、管理部の?」

 

営業部に所属しているりさは外回りの仕事が多かった為、

内勤が多い部署と交流をする機会はそれほど多くはなかった。

こうして郵便物を届けてくれる場合か経費の事について相談するくらいしか、

りさが管理部の人間と話をする機会などはなかった。

だが、りさは人間関係を大切にするタイプなので、

会社の中にいる人の名前は一応なんとなく覚えるようにしていた。

また、女性でありながら可愛い子を見るのが好きだったりさは、

管理部に脚の綺麗な美人がいるという噂を聞いた事があり、

それが新渕眞木という名前であるということは聞いた事があったのだ。

 

「えっ、りさ先輩、私の名前覚えてくれてたんですかー!

 えーどうしよう、超嬉しいです、私」

 

持っていた郵便物で口元を隠しながら眞木は無邪気にそう言った。

外回りが多いりさは地味目のスーツを着るしかなかったが、

内勤の眞木の格好は比較的にカジュアルな服装をしており、

スカートから自慢の長い脚が床までしっかりと伸びていた。

りさはそれを見て少しだけ嫉妬したのかもしれない。

 

「夜な夜な飲み歩いてるって噂も聞いてるけどね。

 オールナイトだってはしゃいでるって、若いわねー」

 

実は眞木には副業をやっているのではないかという噂があった。

深夜にしか開店しないカフェをやっているという話もあり、

実はこっそりとパン屋の店長の名義を貸しているという噂もあった。

カフェについては、実はもう閉店してしまったのだが、

パン屋の店長の名義を貸しているのは事実だった。

だが、もちろん副業はあまり好ましいことではないので会社には秘密にしていた。

なのでパン屋は期間限定とは言え、いつもアルバイトの女の子に任せきりになっていた。

 

そういった諸々の噂を立てられるのが面倒くさい為に、

眞木は夜な夜な飲み歩いているというキャラを作り上げた。

そうすることで豪快な印象はついてしまうが、

こっそり行っている副業についてはバレることはなかったのだ。

どうも彼女は何かと二足のわらじを履くことが好きなようで、

OLだけに専念する様子はないようだった。

 

「ちょっとー、りさ先輩それどっから聞いたんですかー、もうやだー!」

 

こんなことを言いながらも、眞木は内心ホッとしていた。

副業のことがバレる方が面倒くさいのだから、これぐらいの犠牲はやむを得ない。

恥ずかしい振りをしてはしゃいでおけば、それで事は収まるのだ。

 

「またそうやって男を漁ってんでしょー」

 

美人でありながら恋愛には今の所ツキのなかったりさは、

そうやって眞木の事をからかった。

からかう事で少しはうっぷんを晴らすことにもなる。

 

「ちょっと、さすがにそれは止めてくださいよー、印象悪いですからー」

 

こんな事を言っているが、眞木はモテる女だった。

言い寄ってくる男は多かったが、そのあしらい方も手馴れていたのだ。

理想が高いのか、まだ彼氏はいないらしかったが。

 

「何言ってんの、言い寄ってくる男なんてたくさんいるんでしょ?

 少しは仕事ばっかりで恵まれない私にも紹介しなさいよね~」

 

自虐のような話し方をしているが、実はりさも上司からのウケはよかった。

特に年配の上司をうまく動かしたい時には、社内の後輩男子たちは必ずりさを頼った。

そんな風にして年上も年下も上手く転がせる人たらしの術を彼女は心得ていたのだ。

 

「そんなこと言って、りさ先輩だって隅に置けないですよねー。

 さっき給湯室で誰かと電話してたの、私はちゃんと見てましたよ。

 誰かと週末のデートの約束か何かですか?」

 

眞木はりさがまだ手に握りしめているケータイを見ながらそう冷やかした。

先ほど廊下ですれ違った時、営業部の部屋から走り去るりさの姿を目撃していたのだ。

あの様子はどうしても取らなければいけない大切な相手からの電話に違いなかった。

 

「ぶーっ、残念でしたー。

 男の人からかかってくるはずないでしょ。

 相手は猫よ、とっても手のかかる可愛い猫」

 

「猫?」

 

「ふふっ、歌を歌うのが好きな猫よ」

 

りさは不思議そうな顔をして戸惑う眞木の顔を見てから、

ちょっと暗示的な言い方はいじわるだったかと思い直して説明をし始めた。

りさが猫と言っていたのは有名な歌手の桜木レイナのことであり、

約一ヶ月後に迫った復活ライブのことで相談の電話がかかってきていたのであった。

スランプから復活し、ついにソロデビューをすることになるという話だった。

 

「えっ、りさ先輩ってあの桜木レイナと知り合いなんですか?

 それって超すごくないですか!?」

 

「知り合いっていうか、一緒にバンド組んでたのよ」という言葉が喉まで出かかったが、

そこまで説明するのは何となくやめておいた。

それは一見すごい自慢話のように思えるが、実は自分の今の惨めさが裏側に見え隠れすることになり、

ソロデビューが決まったレイナに対して、りさは嫉妬の萌芽のような恐怖を感じていたである。

本人はそのことに具体的には気づいていなかったものの、心の中で無意識的に抑制がかかっていたのだろう。

 

「・・・まっ、あたしには関係ないことよ」

 

レイナの事を考えても、今は何となく面白くなかった。

それよりも自分の幸せの事を考える方が建設的な気がしていた。

今、話したい誰かはレイナではなく他の誰かなのだ。

 

「じゃあ、りさ先輩も今は彼氏いないんですか?」

 

「残念ながらね」

 

「それだったら、これ行ってみません?」

 

そう言いながら眞木がポケットから取り出したのはチラシだった。

なにやら手作り感があるグラフィック加工が印象的なその宣伝チラシには、

「ガチでイケてるハイスペック・コンパ」と書かれていた。

 

「なにそれ?」

 

「なんかー、このあいだ児玉坂の駅前で配られてたんですよ。

 要するに合コンだと思うんですけど、相手はすごいハイスペックらしいですよ。

 なんかどんな感じなのかちょっと気になりません?」

 

椅子に座ってチラシを見つめていたが、りさは正直あまり興味はなかった。

りさはロマンチストなのでこういう出会い方は望ましくなかったし、

できることなら他の出会い方で運命的な人と出会いたいと思っていた。

だが、いつまでも仕事ばかりしていても運命は巡ってこない。

何か悪い流れを自分の意志で変える必要があるのではないかと彼女は思った。

決心のきっかけは理屈ではなくて、いつだってこうした胸の衝動から始まるものなのだ。

 

「じゃあ、行っちゃう?

 でもほら、これ3人組で来てくださいって書いてあるよー」

 

りさはチラシの詳細な説明を見ながら指差してそう言った。

3対3のコンパになるので、まずは人数が揃わなければ話にならない。

 

「そこはほら、顔の広いりさ先輩が誰か誘ってくれるってことで」

 

それだけ告げると、眞木はさっさと郵便物を持って去っていった。

会社では後輩だが、年齢ではりさは眞木の一つ下になる。

眞木はなかなかに社交上手な女性であった。

 

「ちょっと~!めんどくさいことだけ私に押し付けて~!」

 

部屋を出て行った眞木の方を見ながらりさは膨れて見せた。

だが、何となくこうして頼られることによって自分を取り戻せそうな気もした。

頼ってくれる人がいる間はありがたい事だとも思った。

 

(・・・う~ん、久しぶりのあの子を誘ってみようかな?)

 

机に向かってノートパソコンの操作をしながら、

りさはそう考えて懐かしい友人を思い出していた。

 

 

・・・

 

 

「えっ、今度の土曜日?」

 

クリスマスの日から始めた教会でのお手伝いも、

気がつけばもうかれこれ3ヶ月も続けることになっていた。

早いもので季節はまもなく春を迎えようとしていた。

 

「お待たせしました、こちらふんわり卵のケチャップオムライスです」

 

店員の女の子が先ほど注文した料理をテーブルに運んできた。

麻紀が好きなオムライスを頼んだので、りさも同じ物を注文したのだった。

 

「ありがとう、わーおいしそう」

 

くしゃっとした顔になる笑みを浮かべて麻紀はそう言った。

その言葉を聞いていた店員の女の子も目を細めて笑った。

二人ともおいしい物を食べるのが好きだという点に共鳴を覚えたようだ。

 

「はい、とってもおいしいですよ。

 あと、食後のデザートに塩アイスはいかがですか?」

 

カフェ・バレッタの店員の女の子がメニューを指差しながらそう言った。

そこには「塩アイス」と書かれたメニューが写真付きで載っており、

それはどうやら3つの色違いのアイスクリームが器に盛り付けられているものらしい。

真ん中に白い塩ミルクのアイス、その横に黄色と水色のアイスが添えられており、

水色はこんぺいとう味、そしてどういうわけか黄色はうなぎ味がするとのこと。

麻紀はうなぎ味でどうやって色を黄色にできるのか理由がわからなかったけれど、

今の技術ではそんなものはどうとでもなるのだろうと推測することにした。

 

「え~、じゃあ塩アイス一つ、食後にお願いします」

 

「えー、麻紀すっごいチャレンジャー!」

 

りさは今まで食べたことのない奇妙なデザートには手を出さなかった。

もちろん、今は仕事の昼休みだということもあったのだろう。

 

「はい、ありがとうございます」

 

店員の女の子は「やったー」っと小さな声を出して走り去ったが、

その嬉しそうな声は麻紀の耳にしっかりと届いていてなんだか微笑ましくなった。

あんなに喜んでくれるなら頼んであげてよかったなと麻紀は自然と笑顔になったのだ。

 

店員の女の子が去って、二人はスプーンを取ってオムライスを食べ始めた。

「おいひー」とオムライスを口に含んだまま麻紀が言った。

とてもしっかりしているように見える大人っぽい顔をしている麻紀も、

こういう時はあどけない少女のような顔をみせるから不思議だ。

 

「ねっ、このお店すっごいおいしいのよー」

 

りさはお気に入りのカフェ・バレッタの常連であった。

仕事で外回りをする時、ランチや休憩時にはよくここを利用していたのだ。

 

「それでさー、今度の土曜日の話なんだけど」

 

口を押さえながら咀嚼していたオムライスを飲み込んでから、

りさは先ほどしかけた話題へ戻そうと切り出した。

 

「会社の後輩の女の子がね、コンパに行こうって言ってるの。

 麻紀ってさ、今彼氏とかいなかったよね?

 もし暇だったらさ、一緒に行かない?

 これなんか3人組で参加しなきゃいけないらしいのよー」

 

麻紀はりさに渡されたコンパのチラシを見つめていた。

目立つように「ガチでイケてるハイスペック・コンパ」と書かれていた。

その書かれた文字を見ている内に、麻紀はなんだか奇妙な感覚が襲ってきた。

なんだか以前にも見たことあるような気がする既視感、デジャヴというやつだ。

 

「えー、なんかすごいねー」

 

麻紀とりさは古い友人だった。

二人とも上京してきたばかりの頃、麻紀はアパートの管理人として働き始め、

りさは麻紀のアパートに一時的に住んでいたことがあったのだ。

その後、りさはもう別の部屋を借りて移ってしまったが、

二人の関係は途切れることなく続いていて、たまにこうしてご飯に行ったりする仲だった。

 

「でしょ?

 どんなハイスペックの人が来るのって気にならない?」

 

初めはあまり乗り気ではなかったりさも、

新しい恋に踏み出すきっかけになると思ったために、

自分の心を前向きに動かし始めたのだった。

そう考えると「ハイスペック」という響きが途端に魅力的にも思えた。

 

「なんだろう、外資系金融に勤める人とかお医者さんとかかな?

 えー、そんな人とどんな話したらいいかわからないんだけど」

 

麻紀もりさの楽しそうな話ぶりに合わせて喋っていた。

彼女はどんな話題でもつれなく断るようなことはしない性格だった。

 

「えー、やばい私も全然わかんなーい」

 

まだ見ぬ恋の妄想話をする時ほど楽しいことはない。

普段の話声よりもトーンが知らず知らずのうちに高くなっていた。

こんな風においしいご飯を食べながらガールズトークに花を咲かせていると、

どんな嫌な仕事のストレスがあっても、次第に忘れていけるような気がした。

 

「あー、でもごめん、土曜日はちょっともう先に用事があるから」

 

麻紀は相手の気分を害することなく断ることができた。

その極意はシンプルで、ただ相手の気持ちを理解するという事だけなのだが、

こんな簡単な事も出来ないのが大半の人々なのだ。

 

「えー、そっかー、残念、それって何の用事?」

 

りさは別に嫌な顔をするわけでもなく、

純粋な好奇心から尋ねているようだった。

麻紀は今度の土曜日には教会で聖書の勉強会がある事を説明した。

誰でも気軽に参加できる無料の勉強会だという事で、

麻紀は他の曜日にある勉強会に以前からよく参加していたのだった。

それが今回はたまたま土曜日に振り替えになっていたのだ。

 

りさは麻紀がいつの間にか教会のお手伝いを始めていた事に驚いた。

普通の日本人にとって、何か特別なきっかけがなければ教会を訪れる事はまずない。

それにあの空気感は知り合いでもいなければ急に溶け込むことは難しい。

 

麻紀の実家がお寺だということを知っていたりさは、

彼女が突然何か思い立ってキリスト教徒にでも改宗したのかと思ったが、

話を聞いている内に、それは偶然から始まったストーリーだったと理解した。

 

「えー、すごいね、なんか面白そう」

 

「うん、すごく優しい神父さんだし、教会に来てくれる人達もみんないい人ばっかりで。

 なんだか私って本当に周りの人に恵まれてるなって思う」

 

「それは麻紀の人柄がいいからだよ」

 

「いやいやー」

 

実るほど頭の垂れる稲穂かな、という言葉は彼女のためにあるような気がする。

どこまでも謙虚な麻紀は、成熟すればするほど一層謙虚な姿勢を極めていく気がする。

 

「だって教会に懺悔しにくる人達にとって麻紀は聖母じゃない?

 みんな聖母の優しさに触れて癒されていくんだよー」

 

りさも麻紀も、きっといたわりを重んじるという部分では同じ気持ちだったろう。

困った人を放っておけない慈愛精神を持っているりさにも、

麻紀がやっているボランティアは素晴らしいことだと思っていたし、

それを純粋に賛美する気持ちからこういうことを言ったのだった。

二人が仲良くなったのは、こうした心を大切にする性格からに違いない。

 

「・・・うん、でもね」

 

「どうしたの?」

 

「私はぜんぜん聖母なんかじゃないの」

 

麻紀が何気なくポツリとそう言った言葉は、

会話の中の多くの言葉の中でひときわ大きな質量を伴って宙に消えていった気がした。

りさもその不穏な重たさを感じていたが、すぐに消えていったその感覚を、

掴み得ないままで二人の間の時間は容赦なく流れ去っていった。

 

 

「・・・じゃあ土曜日の件、どうしよっかなー」

 

「えっ、ごめんね」

 

「別に麻紀が悪いわけじゃないから心配しないでね」

 

話題を変えようと思ってりさがそう切り出しただけだったが、

麻紀は自分がコンパに出席できないことを申し訳なく思って謝罪した。

他の人々の思いに感じやすい、というのは長所でもあるのだが、

同時に自分の中で処理しきれないほどの人の思念を浴びせられた上で、

その激流に流されない自己を確立せねばならない。

それはある意味でとても孤独な苦痛を背負っているとも言えた。

 

だが、麻紀はそうやってこれまで生きてきたのだし、

物腰柔らかな表面の奥には、あまり他人には見えない強烈な信念があった。

彼女は言葉には出さないけれど、心の奥底にはそういう哲学のようなものを持っている。

そうでなければこうして自分のやりたいことを貫いてまで上京してくることはなかっただろう。

一度きりの人生の中で、何をどうすれば自分は幸福になれるのかということをわかっていたし、

それに向けて誰がなんと言おうと邁進し続ける強い志を持っていた。

 

「マイペース」という言葉にはいい加減で他人に合わさないという風に、

悪い意味で使われる事の方が多いような気がする。

だが、彼女の言うマイペースとは、おそらくその心の奥底の折れない強い気持ちの事を指すのだろう。

 

彼女は幕末の志士、坂本龍馬を尊敬していた。

坂本龍馬は江戸時代を終わらせて新しい明治の世を築くため、

自分の住んでいた地域を飛び出して江戸へ向かった。

これは「脱藩」と呼ばれたが、現代の家出とは全く異なる覚悟が求められた。

正しい未来のためなら死を覚悟しても江戸に向かったのである。

そんな男を尊敬している麻紀が、弱い人間であるはずがない。

彼女のマイペースとは、坂本龍馬のような志を伴った道を行く事なのである。

 

「2人でもどうにかなりませんかって電話で問い合わせしてみようかな」

 

チラシに載っていた電話番号を見ながらりさは明るくそう言った。

麻紀にあまり気を使わせたくもなかったのだ。

 

「もし2人でも行けたら、また感想を教えるね」

 

「うん」

 

 

そんな事を言っている間に二人はオムライスを食べ終わった。

先ほどの店員の女の子が食器を下げに来た後、

またもう一度戻って行って、次はデザートを持ってくるのが見えた。

だが、どうしたことか女の子の顔色は冴えなかった。

 

「・・・こちらが塩アイスです」

 

浮かない顔でそれだけ告げると、女の子はさっさと帰って行ってしまった。

テーブルの上に残された三色のアイスクリームのように冷たい態度だった。

 

「・・・えっ、どういう事、塩対応のアイスって事?」

 

今まであんな女の子の様子を見た事がなかったりさが驚いてそう言った。

このバレッタの接客態度はそんなに悪い事はなかったはずだった。

 

「・・・なんだろう、店長さんに怒られちゃったとか?

 でもほら、大丈夫、人間だしそういう時もあるよー」

 

りさは優しい人だが、いい加減な事をする人には厳しい。

そういう厳しさを持った母親のようなところがあった。

麻紀はこういう時、人の悪いところには目をつむって、

その人の良いところを率先して探して埋めようとする。

 

「うん、このアイスすっごいおいしいよ」

 

麻紀が楽しそうにそう言ったので、りさも少しだけチャレンジしてみる事にした。

真ん中の塩ミルク味のやつが一番安全な気がしたのでそれを少しスプーンですくった。

確かに甘みの中に絶妙な塩味が感じられてとても美味しかった。

 

「不思議な味ね、これどうやって作ってるんだろう・・・」

 

今まで食べた事のないような絶妙な味わいに、

りさはそう言って少し首をかしげた。

真っ白な塩ミルク味のアイスクリームと、

さっきのあの女の子の白い肌を重ねながら、

どうしてもわからない不可解な塩味を舌の上で確かめていた。

 

 

・・・

 

 

ランチ休憩が終わり、りさはまた仕事に戻って行った。

「冬場よりはましだから」と言っていた言葉が麻紀の頭に残っていた。

外回りの仕事は、寒い冬は本当に大変な仕事なのだろう。

そういえばもうすぐ春がくるのだなと思うと、

最近は少しずつ暖かい日が増えてきていた事を感じた。

 

アパートまでの帰り道、雑種犬を連れて散歩をしている女の子を見かけた。

茶色でいかにも雑種犬だと一目でわかるその雑種犬は、

そうであるがゆえに、その素朴さがたまらなく愛らしく思えた。

麻紀から言わせれば、別に血統書が付いているとか、

見た目が綺麗だからとか、そういう事が優れている理由でもなんでもなかった。

どんな犬にもその犬しか持っていない魅力があり、可愛らしさがある。

そんな事を考えていると、ふと女の子と雑種犬と目が合い、

麻紀は柔らかくて自然な笑みでにっこりと微笑みかけた。

 

するとその雑種犬は一目散に麻紀に向かって走り出した。

散歩ひもをうっかり離してしまった女の子は「あーっ!!」と大きな声をあげた。

雑種犬は勢いよく麻紀の方へ走ってきたので、麻紀もしゃがみこんでそれを受け止めた。

元気よくじゃれついてくるその姿を、麻紀はとても可愛らしいと思った。

「よしよし」と頭を撫でてやると、その雑種犬は嬉しそうに舌を出した。

 

「こらー!」と大きな声を出しながら女の子が追いかけてきた。

女の子はオーバーオールにニット帽をかぶったような元気ないでたちで、

少しだけ怒ったような表情でこちらに向かってくるのが見えた。

 

「もう、チョップ!

 綺麗なお姉さんを見るとすぐ走って行くんだから!」

 

「ガルル」と言いながら雑種犬の顔を見つめた女の子は、

もうどちらが獣なのかわからなくくらい野獣の空気感を出していた。

その威嚇顔で見つめられた雑種犬は、少し悲しげに「ワン!」と言った。

何か言いたい事でもあるのかもしれないと麻紀は思ったが、

それは犬の世界だけでしか通じない言語であり、残念ながら理解してあげる事はできなかった。

 

「えーっ、この子チョップって言うの?

 すっごく可愛い名前だね」

 

「うん!きな子がつけたの!」

 

その女の子は誇らしげにそう言ったが、チョップはなにやら「ワンワンワン!」と吠えた。

この名前に対して何か抗議の声をあげたのかもしれなかったが、

残念ながらその声はむなしく空の彼方へ吸い込まれていった。

 

「チョップはね、すっごい賢いの!」

 

そう言って自慢げにきな子はチョップの方を向いた。

なにやら一人と一匹は難しい顔をしてにらみ合っていた。

 

「チョップ、1+1は?」

 

「ワンワン!」

 

ねっ、という表情できな子は麻紀を見た。

麻紀から見れば、チョップの表情はどこか怒っているように見えた。

もしかすると犬の言葉では「バカにするな!!」と言っているのかもしれなかった。

 

「じゃあ、お姉さん、1+1は?」

 

「えっ、ちょっとそれは無理!」

 

「お姉さん、読者サービスの為だよ!」

 

「もう~なにそれ、どこでそんな言葉覚えたのー?」

 

麻紀はどうやら意地でも言う気はなかったようだ。

残念だが、麻紀の意思を尊重せねばなるまい。

 

「・・・オニ」

 

麻紀は誰にともなくそう呟いた。

これはどうやら彼女なりにちょっと怒っているようだった。

 

「ワンワン」

 

と声をあげたのはチョップだった。

麻紀にはチョップが自分の身代わりになってくれたように思えた。

ひょっとするとこのわんちゃんは、とっても勇敢なわんこなのかもしれないと思った。

 

ふときな子が油断した隙を見て、またチョップは走って向こう側へ行ってしまった。

「こらー!」と声をあげてきな子はそれを追いかけていく。

 

「お姉さん、またねー!」

 

チョップは犬の脚力で全速力で駆けて行ったのだが、

それを追いかけるきな子の速度も普通の女の子のそれではなかった。

それを見ていた麻紀はなんだか昔TVで見た「Dr.スランプアラレちゃん」を思い出した。

あの子はひょっとしたらロボットかアンドロイドなのかもしれないと思った。

 

一人と一匹の姿が見えなくなるまで見送った後、

麻紀は実家にいるわんこはどうしているかなと思った。

それは麻紀がチョップを見たからというより、

きな子自身が何となく実家のわんこを連想させたのだ。

そういえば、もうしばらく実家に帰っていない事を思い出した。

 

 

・・・

 

 

児玉坂の緩い坂道を登ると、アパートの建物が見えてきた。

ランチした帰りにスーパーに寄って夕食の材料を買い込んできた。

今夜は別に予定もないので、自分で料理でもしておいしいご飯を作ろうと思っていたのだ。

 

アパートの玄関を開けて中に入ると、そこで見かけたのは川戸魅菜だった。

ケータイで誰かと話をしているようで、少し揉めているような口調のようだった。

彼女はもう高校は卒業したようだが、いったいどのように生計を立てているのか、

そういった類の事は麻紀には全くわからなかった。

何かアルバイトをしているようで、時々出かけていくのを見かけるが、

いったいどこへ行っているのかを麻紀は尋ねた事もなかった。

だが、いつ見かけても飄々としていることだけは確かで、

あまり今のように深刻そうな表情を見かけたことはなかった。

 

麻紀が心配そうに見つめていることに気がついたのか、

魅菜は少しうつむき加減に顔を伏せ、そのまま階段を上っていった。

あまり人に聞かれたくない電話なのかと思った麻紀は、

そっとしておこうと思って買い物袋を抱えて自分の管理人室へ向かった。

 

管理人室とは言っても、そこは普通のアパートの一室だ。

一人暮らしをするのにちょうど良いくらいの広さのスペースは確保されており、

少し古い建物ではあったが、料理できるようにキッチンだけは十分な大きさがあった。

一人暮らしをする際、きちんと自炊がしたかった麻紀は、

それなりにキッチンを重視して部屋を選ぼうと思っていた。

ちょうどこの仕事を引き受けるときに管理人室を見せてもらったが、

希望していた通りの広さはあったので、贅沢を言わなければ何も問題ない空間だった。

そして麻紀は贅沢を言うような人ではなく、足るを知ることで幸せになれるタイプだった。

 

ドアを開けるとすぐ横にあるスイッチを押して部屋の明かりをつけた。

買い物袋を下ろすと、買って来た物を綺麗に冷蔵庫の中へしまい始めた。

同時に冷蔵庫の中を見回して古くなった食材はないかをチェックする。

自分が痛んだ物を食べてお腹を壊すのも嫌なのだが、

それ以上に使われずに捨てられる食材がかわいそうでもあり、もったいなくもあった。

 

冷蔵庫を閉じると買い物袋をしまい、朝から干していた洗濯物を取り込み始めた。

天気の良い日だったのでいい感じに日光をたくさん吸収していたようだ。

布団や衣類からひだまりの香りがしてくるのを嗅ぐのが麻紀は好きだった。

 

そんなことをしていると、テーブルの上に置いてあったケータイが鳴り出した。

ちょうど洗濯物を片付け終わり、麻紀はそのケータイを手にとってディスプレイを見た。

その着信は親友の樫本奈良未からだということがわかった。

 

「あっ、もしもーし、ねぇ今大丈夫?」

 

「うん、大丈夫だよー」

 

麻紀は奈良未とも長い付き合いがあった。

まだ麻紀がこのアパートにくる前、部屋と仕事を探しながらホテル住まいをしていた時、

同じように故郷から上京してきた奈良未とルームシェアをしていたことがあった。

二人とも安定した仕事もなく、共に不安な日々を過ごしていたのであり、

こうした特殊な友人というのは、その苦労した時期を一緒に駆け抜けたということで、

他の場合ではなかなか得ることのできない不思議な友情関係を築くことができた。

二人だけしか知らない苦労話などが、その絆をより強固な物にするのである。

 

「えっ、今週の土曜日?」

 

上京してきた奈良未はお弁当にありつけるという理由から、

音楽業界のプロデューサーに誘われて音楽評論家になった。

ロック音楽が好きだったので、よくライブを見に行っては音楽雑誌に評論を書いていた。

 

今回、奈良未が麻紀に声をかけてきたのはライブの出演依頼だった。

それも桜木レイナという有名歌手のバックバンドで演奏をするという内容で、

約1ヶ月後に明治野外スタジアムで行われる予定になっているという。

奈良未の知り合いのプロデューサーが演奏してくれるメンバーを探しており、

ギターが弾ける人が欲しいということで奈良未は麻紀を思い出したのだ。

麻紀は学生時代にバンドを組んでいたこともあり、ギターが弾ける。

もちろん奈良未も弾けるはずなので麻紀は奈良未に出演を薦めたが、

評論を書いている人間がこの腕でステージに上がるわけにはいかないと、

確かにまっとうな、冷静な意見を言って返されてしまった。

 

麻紀はそういうことであればと出演を承諾したのだが、

バンドメンバーの初顔合わせの日程が今週の土曜日となっているらしく、

それで先のような驚きの声で聞き返すことになった。

 

「う~ん、ごめん、土曜日はもう先に用事があるから。

 それって私だけ別の日にできないかなー?」

 

聖書の勉強会とバンドメンバーの顔合わせを天秤にかければ、

仕事である後者を優先したほうが良いかなとも一度は考えたが、

りさの誘いを断っていることもあり、それはなんだか不公平になる気がして、

麻紀は別の日程にずらしてもらえないか頼むことにしたのだった。

 

「あー、その日が無理なら、たぶん別の日でいけるかも。

 ちょっとまって、聞いてみるから後で折り返す」

 

「うん、わかった、ありがとう。

 あっ、でも申し訳ないけど日曜日もちょっと無理なの。

 その日もまた別の用事があって。

 なんかごめん、わがままばっかり言っちゃって・・・」

 

「ううん、全然いいよー。

 じゃあ後でまたかけるから」

 

そう言って奈良未は電話を切った。

落ち着かない状態で10分程度が経過した後、

またテーブルの上のケータイが鳴り出した。

 

「あっ、もしもし、さっきの話、あれぜんっぜん大丈夫だった。

 なんかその日は別に顔合わせだけだから、

 また後日、音合わせの日程が決まったら連絡するって。

 麻紀の番号、プロデューサーに教えちゃってもいい?

 この人、別に変な人じゃないから」

 

「うん、大丈夫だよ」

 

どうしても日程が動かせないのなら、

麻紀は勉強会を蹴ってでも行こうかと考えていたが、

なんとか調整がついてホッと胸をなでおろした。

初顔合わせに出られないのは申し訳ない気持ちもしたので、

閉まってあるギターを引っ張りだして早めに練習をしておこうと思った。

それが彼女なりの精一杯の誠意だった。

 

「うわー、なんか麻紀がステージ上がるの観れるとかすごい嬉しいんだけど!

 私も確かそのライブは観に行って記事を書くことになってるから。

 多分めっちゃテンション高い私が観客席に見えると思う」

 

「えー、ならみんに観られてると思うとすごい緊張してきちゃう。

 多分、当日めっちゃ変な汗かいてると思うからあんまし観ないでね」

 

「大丈夫、麻紀のことはいいようにしか書かないから!」

 

他の人にはいつもわりとツンツンしている性格の奈良未も、

麻紀と話をする時だけはどうしてかいつもデレデレしている。

おそらく、よほど麻紀のことが好きなのだろうと思われる。

この二人の間柄というのは、お互いに深い洞察力によって、

物事をきちんと正しく把握する能力を持っている事で築かれているのかもしれない。

お互いがお互いの事をよく理解していたし、そういう二人だからこそ笑いのツボも合った。

 

「そういえばさ、最近元気?」

 

「えー、うん元気だよ、また時間あったらご飯いこー?」

 

「わかった、じゃあまた誘うね」

 

そんな会話をした後で二人は電話を切った。

 

麻紀は早速クローゼットに閉まってあったギターを取り出した。

ギターケースから取り出すと、ちょっと布で拭いてから弦を張ることにした。

人気歌手のバックバンドで演奏するなんて、よく考えたらすごい事になってしまった。

どうして自分なんだろうと、そんな風な事が脳裏をかすめたが、

麻紀はとにかく与えられたチャンスを精一杯楽しもうと考えていた。

彼女はどんなに追い詰められても、最終的にはポジティブに切り替えていける。

すごく明るい人、すごく暗い人、どちらにも属さない気がする麻紀だが、

ただ柔らかくしなやかに、ただ気がつけば前に進んで行けるような人だった。

もちろん、様々な葛藤はあるのだろうが、外面から見るとそう感じるということだ。

 

弦を張り替えた後、日が暮れるまではギターの練習を続けた。

エレキギターをアンプに繋ぐと音が大きすぎてご近所さんに迷惑なので、

麻紀はアンプを使わず、音があまり出ないギターをとりあえず鳴らし続けた。

そして、これから毎日マイペースでいいから練習をしようと決めた。

音合わせの日がいつかわからないが、一ヶ月後にライブがあるのなら、

もう残された時間はそれほど多くない事は明らかだったからだ。

 

(・・・時は短し歩けよ塚川・・・)

 

以前読んでいた小説のタイトルをもじってうまいこと言えたので、

彼女は自分でちょっとおかしくなってふふっと笑った。

こういう小さなユーモアで幸せになれるのだから、

彼女の人生は幸福であることは間違いなかった。

 

 

・・・

 

 

外が少しずつ薄暗くなってきた頃、麻紀はまだギターの練習を続けていた。

仕事やボランティア活動を行いながら趣味の楽器を続ける、

それは時間も根気も必要とされることになるのだが、

麻紀は久しぶりに弾いたギターが楽しかったのだろう。

コードを弾いてみたり運指練習などをして、

少しでも早く昔の感覚に近づこうと努力していた。

 

アンプに繋いでいないので、ギターの生音しか鳴っていない。

だからジャカジャカという三味線のような音しか出てはいなかったが、

その音をかき消すような、何か物が落ちて来て割れるような、

そんな激しい音が麻紀は天井から響いてくるのを耳にした。

麻紀の部屋の天井から音がするということは、

すなわち上の階に住んでいる人の部屋で物音がしたことになる。

 

(・・・まさか、泥棒!?)

 

天井を見上げながら「えっ、怖い」と思わず呟いてしまった。

だが、もし泥棒が窓から入ってきたのなら住人の物が盗まれるかもしれないし、

もし部屋の中に住人がいたりすれば、ひょっとして事件に巻き込まれるかもしれない。

これは冗談では済まされず、管理人である自分の責任を問われてしまうことになる。

 

麻紀は恐怖心を押さえながら玄関まで行き、

掃除用具入れの中から長い箒を取り出した。

それを両手でギュッと握りしめてから、

彼女はおそるおそる上の方を覗きながら階段を上り始めた。

階段が終わりに近づくと、麻紀は注意深くあたりを見回した。

すでに泥棒が部屋から飛び出してどこかに潜んでいるかもしれないからだ。

 

麻紀はこれまで管理人の仕事を辛いと感じたことはなかったが、

さすがにこういう場面に遭遇すると、男の人がするべき仕事だったような気がしてきた。

女性である自分では、どうやっても泥棒に力ではかなわないし、

そうであれば、もっとセキュリティーを強化しておくべきだったのだ。

とにかく今となってはそんなことを考えても既に手遅れだった。

麻紀はただ、恐怖心と戦いながら音を立てずに上の階へ進んでいった。

 

二階まで上がってきたものの、あたりに人影がない事がわかると、

もしかすると泥棒ではなかったのかもしれないと、そういう期待が頭をかすめた。

部屋の中に住人がいて、ただ物が落ちただけなのかもしれない。

 

麻紀は二階の廊下を進むうちに、どうやら物音がしたのは魅菜の部屋だったことがわかった。

管理人室の真上に位置するのは魅菜の住む5号室に間違いはなかった。

それがわかると、麻紀は部屋に入る前にポケットからケータイを出して電話帳を開いた。

そして「川戸魅菜」を検索して出てきた電話番号に電話をかけてみた。

プルルルルという音を何度鳴らしても誰も出る様子がない。

 

そういえば、今日の午後にアパートに帰ってきた時、

魅菜がケータイを持ったまま二階へ上がっていったのを思い出した。

あれから数時間が経過しているにせよ、誰かが外に出た気配もなかったし、

おそらく部屋の中で眠ってしまっているのではないだろうか?

しかし、もしそうだとすれば、あれだけの物音が響いているのに、

全く無反応であるのはこれも奇妙なことだった。

 

「魅菜ちゃん、中にいるの?」

 

麻紀は思い切ってドアをノックしてそう呼びかけてみた。

だが、中からは何も返事がなかった。

麻紀は最悪の想定が脳にこびりつくのをブンブンと頭を振って払いながら、

ポケットの中に入れてきた5号室の合鍵を取り出して鍵穴に差し入れた。

ガチャリと鍵が開いたドアノブに手を掛け、ゆっくりと押していく。

 

目の前には向こう側を向いて床に座り込んでいる魅菜の姿があった。

床にはグラスが割れた破片が散乱しており、それを見つけた麻紀は、

慌てて座り込んでいる魅菜の元へ駆け寄って肩を揺さぶった。

 

「魅菜ちゃん、魅菜ちゃん、大丈夫!?」

 

力なく顔を上げた魅菜の瞳からは涙が溢れていた。

そして、そのまま身体を預けるようにして麻紀の胸に顔を埋めた。

麻紀は何がどうなっているのかさっぱりわからずに、

ただ強く魅菜を両手で強く抱きしめていた。

 

 

・・・

 

 

「もうすぐできるからね」

 

部屋の真ん中に置いてある木製のテーブルの前で、

魅菜は生気のない瞳で黙って座り込んでいた。

そちらを気遣って声をかけながら、

麻紀はキッチンで二人分の夕食を作っていた。

 

可愛い小型犬の刺繍の入った淡いピンクのエプロンを着ながら、

邪魔になる後ろ髪をお団子のようにまとめた麻紀だが、

それに対して何も反応を見せない魅菜が心配で気が気ではなかった。

普段であれば、おそらくしつこいほど写メを撮ってくるはずであり、

その撮影行為をやめさせるのにひと苦労するはずだったからだ。

 

熱したフライパンでひき肉とナスを炒めながらも、

麻紀はちらちらと魅菜の方を心配そうに確認した。

その生気のない目を見ていて、麻紀はスーパーで買うか迷った鯛を思い出した。

こんなことになるなら、今日はお魚料理にしなくてよかったと心底ホッとした。

今の魅菜の目の前にもし鯛の煮付けでも出そうものなら、

長年連れ添って倦怠期に陥ったままどちらも切り出せずにただ向かい合っている熟年夫婦のように、

ただ視線の交錯しない沈黙の晩餐が待ち受けているだけだったからだ。

そんなことが頭をよぎり、麻紀は少し身震いをして首を横に振った。

ああ、私ったら何を考えているんだろう、こんなこと考えちゃダメだってば。

 

フライパンでの作業が終わり、器に盛り付けたご飯の上に茄子とそぼろを乗せた。

真ん中に半熟卵を乗せて、その上から彩りとしてのネギを盛り付けた。

その完成した丼を両手ですくって胸の前に持ち上げ「ふぅ」と大きく深呼吸をした。

そして次の瞬間振り返った時には、麻紀は満面の笑みを浮かべて魅菜に向き合おうとした。

 

「はーい、おまたせー」

 

できるだけ明るく努めるようにそう言いながら小走りで駆け寄り、

テーブルに座っている魅菜の前に茄子とそぼろの半熟卵丼を置いた。

一緒に作った汁物と飲み物を続けてテーブルへと運んだ。

その提供された料理の上に視線を落としたまま、魅菜は動かない。

麻紀は魅菜の正面ではなく、四角いテーブルの横手に座り込んだ。

そして両手で魅菜の服の裾を掴むようにして話しかけた。

 

「とりあえず、先にご飯食べよ、そしたらきっと元気でてくるよ」

 

励ますようにしてそう告げた後、麻紀はお箸を手に取って魅菜に手渡した。

それから自分の箸を取り、両手を合わせて楽しそうに「いただきまーす」。

 

一口食べてみて、うん、おいしい。

味付けも失敗しなかったし、これなら喜んでくれるかと思った。

そして丼と箸を持ちながらも、視線はすぐに魅菜の方へ向けた。

心配でたまらない彼女の母性がそうさせるようだった。

 

魅菜もつられるようにして箸で一口すくって食べた。

だが、魅菜から返ってきたのは味の感想ではなく大粒の涙だった。

 

「えっ、大丈夫ー?」

 

テーブルに置いてあったティッシュボックスからサッと2枚ほどティッシュを抜き取り、

すぐに魅菜の顔の前に差し出した、麻紀の顔も瞬時に曇りがちになってしまった。

 

そのティッシュを受け取った魅菜は肩を揺らすほど泣きながら涙を拭き始めた。

すぐに次のティッシュを抜いてまた手渡そうとする麻紀がそこにいた。

 

「・・・なんか、ごめんね」

 

いつになく震わせた声で少し自虐的な笑みを浮かべながら魅菜が麻紀に謝った。

慰められて不甲斐ない自分が悔しかったのかもしれない。

 

「ううん、そんなことないよ」

 

麻紀は相手の感情に寄り添った声を出す。

こんな時に決して無神経な感情を込めたセリフを口にすることはない。

声のトーンまで優しさや思いやりで詰まっているように思える。

 

「今度ね、うちの両親が東京に来るの」

 

「えっ、ご両親が来るの!?」と言いそうになった麻紀だが、

せっかく魅菜が口を開いて話始めたのだから、

ここは軽く頷くだけで余計な邪魔をしなかった。

 

「魅菜ってさ、実はモデルになりたいと思って長崎から上京してきたの。

 それでね、今でも自称フリーモデルって言いながらオーディションとか受けてて、

 最初の頃はね、両親も仕送りとかしてくれてて応援してくれてたんだけど、

 もうあんまし迷惑をかけるわけにも行かないからさ、自分でバイトとか始めたりして。

 今はテーマパークでアルバイトしながら生活費も稼いでるんだけど、でも・・・」

 

「・・・でも?」

 

少し息を詰まらせるようにして間を置いて魅菜は続ける。

それでどうなるわけでもないとわかっているけれど、

麻紀は心配そうな表情を浮かべながら、精神的にはできる限り魅菜の心に寄り添おうとする。

 

「なんか魅菜、高望みしすぎたのかなぁって。

 目標を立てたところで、所詮は見た目だよって言われてる気がしたんだよね。

 やっぱりさ、ルックスが追いついていないのかなって」

 

麻紀は先ほど彼女の部屋に貼られていたおどろおどろしい川柳が書かれた紙を思い出した。

「目標を 立てたところで 見た目だよ」と書かれていたその川柳は、

彼女なりに考えた先に見えてきた冷酷な現実だったのだろうか。

 

しかし、こんなことを言っているが、実際に川戸魅菜は十分に可愛らしい女の子だった。

麻紀から見ても、彼女が何もそんな自虐的になる必要はないと心底から思っていた。

世間が何かにつけて絶対評価ではなく相対評価を重視する傾向であるために、

こんなに恵まれたルックスを持って生まれてきた彼女が自信を失ってしまったのかもしれない。

自信というのは置かれた環境によって容赦なく増減する目に見えない、

だが人間が生きるのにとても大事な精神エネルギーの源であるだけに、

何かが彼女をそんな風にしてしまったのなら、麻紀は何とかして自信を取り戻して欲しいと思った。

 

「そんなことないよ、魅菜ちゃんすごい可愛いから」

 

「・・・えーん、ありがとう、はぁ、麻紀って本当に聖母だと思う」

 

麻紀の言葉に魅菜は少し元気を取り戻したようだった。

麻紀のような人が持つ特殊能力があるとすれば、

きっとこうして言葉によって誰かを癒すことができる能力にちがいない。

それは目に見えない心理作用なので癒しを体験した事のある者にしかわからない。

だが、それは人間が本来誰でも発揮することができる能力なのであって、

これが彼女の特殊能力と呼ばざるを得ないのは世の中的には悲しいことだと言える。

しかし、とにかく麻紀にはそういう素晴らしい能力が備わっていた。

 

「ほら魅菜ね、まだ上京してきたばっかりの頃、

 麻紀が学校の校門までわざわざついてきてくれた事あったよね?

 あれ、今でも忘れないで覚えてるんだー、だってめちゃめちゃ嬉しかったから」

 

まだ東京に慣れていなかった魅菜を、麻紀は学校まで一緒に送った事があった。

若くして一人で上京してきた魅菜には麻紀の他に頼れる人もいなかったからだった。

自分はただのアパートの管理人かもしれないが、麻紀は少しでも彼女を守ってあげたいと思ったのだ。

なぜなら、麻紀もまた夢を抱きながら東京に出てきた若者の一人であったからだ。

 

まもなく、魅菜の両親が長崎から東京へやってくる。

それはこんな風に若くして頑張っている彼女を夢から遠ざけてしまうのだろうか。

もし両親が夢を追う事に反対するならと、自分で生活費を稼ぐ決意までしている魅菜。

麻紀は人生の一回性を常々から頭の片隅に置いている性格だった。

たった一度しかない人生、だったら自分の思うように好きなように生きてみたい。

 

 

 お前の道を進め、人には勝手な事を言わせておけ

 

 

イタリアの詩人、ダンテの格言だった。

麻紀はこうした自分を奮い立たせる格言が好きだった。

ダンテが発した言葉は強烈な響きを帯びているが、

これを麻紀流に翻訳すれば「マイペース」と柔らかい響きに変わる。

周りから見た誰もがその柔らかな殻を本当の彼女だと思ってしまう。

だが、彼女の中にある核の部分にはこのようなダンテの強烈な精神に似た物があった。

麻紀は実は内面は相当強い芯を持っているが、その強烈な自我を抑え込む自制心も持っている。

その外側を打ち破ろうとする内側の剛の強さと、それをエゴという形で絶対に外に出すことなく包み込む柔の強さ。

なかなか真似のできないその絶妙なバランスこそが麻紀の最大の魅力だったと言えるのかもしれない。

 

とにかく、麻紀にとっては人生はたった一度しかなく、

それを思うように生きるという事が何よりも大切だったのだ。

だからこそ、魅菜の辛さを誰よりも深く理解する事ができた。

若くして故郷を離れ一人暮らしをして頑張っている魅菜の事を、

ご両親はちゃんと理解してくれているのだろうか?

つまらない誤解などで、彼女の夢を諦めさせるようなことはしてあげたくない。

心理学的に言えば、麻紀のこの行為は魅菜を通じて自分自身を守る行為でもあった。

もちろん、彼女はそれ以上に本当に相手の事を真剣に考えられる人であったが。

 

「ご両親が来ちゃうけど、魅菜は夢を諦めたくないみたいな?」

 

「・・・うん」

 

小さな声で呟くと、魅菜の目からはまた涙が溢れ始めた。

思いつめていた心を麻紀にそっと撫でられたようで、

その優しさに触れる事で繋ぎ止めていたダムを決壊させられたかのようだった。

 

「・・・ごめんね、こんな話して重いよね」

 

「ううん、全然大丈夫だよ」

 

麻紀はまたティッシュを2枚くらいとって魅菜に手渡した。

魅菜はそのティッシュで顔を覆い隠すようにして涙をぬぐっている。

やがて麻紀もティッシュを1枚とって自分の目から溢れる涙を拭いた。

 

「若いのに、色々と抱えてたんだね・・・」

 

麻紀は片手を魅菜の頭の上に乗せて髪を撫でた。

人は頭を撫でられると心から安心感を抱くものだ。

そういう癒しの心理を引き起こさせる行為を、

麻紀は何も考えなくても自然に取ることができる。

 

「ご両親は次いつ来るの?」

 

「・・・今度の土曜日に来るって言ってた」

 

麻紀はもし可能であれば魅菜に一緒についていってご両親にきちんと説明してあげたかった。

たかがアパートの管理人ぐらいで出すぎた行為かもしれないと一瞬ためらいもあったが、

この東京で彼女の事を守ってあげられる人はそれほど多くはないと思った。

それであれば、同じ屋根の下に住む者として、これくらいのことはしてもいいかと思った。

 

(・・・土曜日か・・・)

 

私の今週の土曜日はどうしてこんなに人気があるのだろうと思った。

いや、平日にみんなは忙しく仕事をしていることを考慮すれば、

それはそれほど偶然が重なったとは言えないかもしれなかった。

教会の勉強会であれば、またいつでも行くことができると思った。

りさの誘いを断る事になってしまうことは多少心が痛かったけれど、

管理人として住人の問題を解決するのだし、何よりも人として、

困った人を放っておくことなど麻紀にはできないと思っていた。

りさだって麻紀のよき理解者であったし、これくらいのことであれば、

後できちんと説明すればきっとわかってもらえるという自信もあった。

 

「じゃあ、土曜日は私も一緒に行こっか?」

 

魅菜は申し訳なさそうに遠慮するそぶりを見せたが、

麻紀はそれを遮るようにして「大丈夫だから」と言った。

 

「気にしないでいいよ、それより早くご飯食べよ」

 

魅菜は指で目を抑えながら涙を拭いていたが、

やがて気をとりなおして箸を持ってご飯を食べ始めた。

箸で割った半熟卵から黄身がとろけてご飯に沁みていく。

その明るい黄色が何か優しい印象を魅菜の脳裏に残していった。

 

 

・・・

 

 

翌日、教会には勉強会を欠席するという連絡を入れた。

強制参加でもなかったし、そもそも基本的に何かを強要することのない神父は、

特に理由を尋ねることもなくすぐに欠席を了解してくれた。

 

りさとはその後、特に出会うこともなかった。

メールを入れて魅菜のことを説明するのも、

逆に物事を複雑にしてしまいそうだと思ったし、

魅菜のプライバシーを他人に話すのも良くないと思ったので、

特にりさに何か連絡を入れることはしなかった。

後日でもちゃんとわかってくれるという信頼関係もあった。

 

そんな風にしている間に、すぐに土曜日はやってきた。

魅菜が言っていた話によれば、ご両親と対面するのは夜になり、

レストランで食事をしながら話をするという予定になっているらしかった。

なんとなく落ち着かない気分で昼間を過ごしてしまった麻紀は、

一応、東京での魅菜の保護者であるという気負いもあったので、

夜着ていく服を少し真剣に鏡の前で選んでいた。

いい加減な人が管理人をやっていると思われてしまっては、

それこそ魅菜を東京で一人暮らしさせておくわけにはいかないとなる。

そんな風に悪く思われてしまっては逆効果になってしまうからだ。

麻紀はいつもどおり細やかな精神で身なりにまで配慮を行き届かせた。

 

夕方ごろ、アパートの玄関先に集合してレストランへ向かった。

魅菜はなぜか嬉しそうに麻紀の前に現れた。

 

「ねぇ、見て見てこの服、超可愛くない?」

 

そんな風にして麻紀の前でモデルのようにはしゃいで見せた。

くるっと一回転して見せた彼女の装いはとても洒落ていて、

全身をモノトーンで統一して、それでいて年相応に可愛い格好だった。

ショートブーツに足が綺麗に見えるスカートを履いて、

さらに雑誌モデルさんが持っていそうなおしゃれな帽子まで被っていて、

見るからにポップなティーンズと言ったような風貌をしていた。

 

そんな風にはしゃいで見せたのは、おそらく彼女なりの気遣いだった。

彼女が「フリーモデル」と自称していることには意味があった。

両親を心配させないように、ちゃんとモデルの仕事をしているように聞こえるからだ。

だから今日もこんな風にモデルさんみたいな服装をしてきて、

それを両親に見せて安心させようとしているのだと麻紀は解釈した。

そんな姿を見ていると、また魅菜なりの強がりが切なく感じてきて、

麻紀はすでに胸にこみ上げてくるものを抑えるのに必死だった。

 

「もっと可愛い格好してきてもよかったのにー」

 

そう言ったのは麻紀の姿を見た魅菜だった。

魅菜のご両親に会うことを意識した麻紀の服装は、

露出も控えめな清楚で地味めな服装を意識していた。

足元もスニーカーで襟のあるシャツを選び、

白いスカートとピンクのカーディガンで真面目さを強調した。

それはまるで戦後のヒロインみたいな控えめさであり、

とにかく今の魅菜が着ている服装とは真逆の感じになっていた。

 

「ああっ、ごめんね、今日はちょっと地味子さんなの」

 

予約しているらしいレストランは児玉坂ではなく渋谷だということで、

二人は駅から電車に乗り込んで渋谷駅へ向かった。

そんなおしゃれなスポットへ出かけるにも関わらず、

電車内で並んで立っている二人はまるで知り合いとは思えなかった。

そのちぐはぐな印象は、二人が同じ目的を持っているとは到底見えなかったし、

一体どうすればこの二人が知り合いになるのだろうと思わせるほどだった。

 

渋谷駅で降りて街へ飛び出すと、辺りはもう暗くなり始めていた。

だが都会の明かりは一斉につくという話もあるくらいで、

全てが寸分の狂いもなく時間通りに進行していく。

麻紀にはそれが時には息苦しく感じることもあった。

そんな時に、ふと故郷の景色を思い出して郷愁に襲われる。

 

大都会の人波をくぐり抜けていくにも関わらず、

麻紀はそんな風にして久しぶりの渋谷を歩いていたが、

やがてPARCO辺り歩いている時に知り合いとすれ違った。

「あれっ、麻紀!」と声をかけてきたのはりさだった。

その横には後輩だと思われる脚の長い美人の女の子も立っていた。

麻紀はりさに本日の詳細を話していなかった後ろめたさもあり、

心臓が止まるかと思うくらいに驚いて思わず両手で胸を押さえた。

 

「えーっ、りさどうしてここに!?」

 

胸を押さえていた両手でおもわず口元を隠した。

驚きと少しの後ろめたさを隠したかったのかもしれない。

麻紀はまず「ごめんね」と謝罪の言葉を枕詞にして、

隣を歩いている魅菜を紹介して本日の予定の説明を始めた。

それを聞いたりさは「私たちの合コンも渋谷のお店なの」と話し、

麻紀は「こんな偶然ってあるのかな?」と驚きを表現して見せたが、

なんとなく言い訳みたいになってしまった感があった。

まさかこんなところでバッタリなんて。

とにかく、りさは別に怒ることもなく全てを理解してくれた。

 

「じゃあね」と言って手を振ってから歩き出した時、

りさと麻紀を含む4人は同じ方向へ歩き始めた。

4人とも不思議そうに顔を見合わせたのだが、

やがて東急ハンズを抜けて井の頭通りに入った後、

これはまさかと思って行き先をお互いに確認した。

そしてそれを確認し終わる間も無く、細道を登ったところにあるお店に到着した。

そのまま4人は一緒にこのお店に入っていくことになった。

 

「FLAMINGO」という派手なピンク色をしたお店だった。

店の壁にはフラミンゴや女性の唇が大きく描かれていて、

それはまるで若者がオールナイトで飲み騒ぐようなお店だった。

麻紀の服装が浮いていたのは言うまでもない。

とりわけ真面目さを強調したかったはずの淡いピンクのカーディガンが、

切ないほどに店内のショッキングピンクに飲み込まれていた。

麻紀はさながら病気か何かで色素の薄くなったフラミンゴのようだった。

 

「魅菜ちゃん、お店間違えてない?」

 

麻紀は訝しく思ってそう確認した。

りさ達の用事ならともかく、魅菜のご両親と会うには場所的にふさわしくない気がしたからだ。

しかもこのままでは、楽しく盛り上がっているりさ達の隣でのご対面となってしまう。

これでは、どう考えても娘を東京に残しておこうという気にはならないように思えた。

 

「うん、両親が予約したらしいから」

 

麻紀は何かがおかしい雰囲気に納得できなかった。

それとも魅菜のご両親はフラミンゴのショッキングピンクを愛するほどにファンキーなのか。

確かに魅菜のご両親であればその可能性は多少はあり得るような気もした。

麻紀はもしかすると状況を読み間違えた服装をしてしまったかと少し後悔し始めた。

 

その時、魅菜の持っていたケータイの着うたが店内に鳴り響いた。

それは児玉坂46の「ロマンスのスタッカート」だった。

通話ボタンを押して軽い口調で話をし始めた魅菜は、

「迎えにいくから」とだけ言って電話を切ったみたいだった。

 

「なんか道に迷ってるらしいから迎えに行ってくるね」

 

魅菜はそう言ってお店を出て行ってしまった。

残された麻紀は仕方なくりさ達と同じ席に座って話を続けた。

彼女達の相手もどうやらまだ来ていないらしかった。

 

「あの子、魅菜ちゃんって言ったわよね?」

 

お店を出て行く姿を目で追いながら、りさが麻紀に聞いた。

それに対して「そうだよ」とすぐに麻紀が返答した。

 

「・・・私、あの子とどこかで会ったことあったかしら?

 なんだか前から知ってるような気がするのよね・・・」

 

なんとなく腑に落ちない表情をしていたりさだったが、

児玉坂は狭いのだから、もしかしたら友達の友達かもしれないよ、

そういう話をしながら、気づいたらその話題はもうどこかへ消え去ってしまった。

 

 

・・・

 

 

「まったく、レディを待たすなんて失礼しちゃうわよね」

 

化粧のノリを鏡で確認しながら、りさがご立腹の様子でそう言った。

麻紀にはりさのこの日のために用意して来たらしい綺麗な洋服が眩しかった。

隣に座っている眞木というりさの後輩の美人な女の子も、

セクシーな長い脚を強調するような素敵な格好でキメていた。

 

「りさ先輩、ここは一つ余裕のある女を演じないとダメですよ。

 遅れてきても別に怒ってないって感じを装うことで、

 あっ、面倒くさい女じゃないんだって思わせるんです。 

 そうじゃないと、先に来てそわそわしながら待ってるなんて、

 そんなことしてたら二推しの女って呼ばれちゃうのがオチですよ」

 

「えーっ、でも相手になめられてるのも癪にさわるじゃない?

 こういうのって最初にはっきりさせとかないとダメなのよー。

 そうじゃないと男ってすーぐ調子に乗っちゃう生き物なんだから。

 ねー、麻紀もそう思わない?」

 

「えっ、ああ、遅いねー、大丈夫かな?」

 

麻紀はお店の壁に掛かっている時計を見つめていた。

なんとなく落ち着かなかったのは、りさ達の相手が来たなら、

すぐに席を立って場所を譲らなければならなかったし、

魅菜のご両親が来た時も、さっと立ち上がって挨拶をしなければならない。

どちらにせよ宙ぶらりんで放置されているこの状況に心が定まらなかったのだ。

りさと眞木はなんだかんだでとても楽しそうに見えたし、

自分一人だけがなんだか渋谷でブルーな気分になっているように思えた。

 

「塚川さんもこっちに参加できたらよかったんですけどね」

 

多少気を使ったのか、眞木がそう言って話題を提供した。

さすがにOLをやっているだけあって、物腰が柔らかい気がした。

 

「そうよね、もし麻紀がこっちに参加してたなら、

 もう男達はこのコンパに参加できることに感謝しなさいって感じよね。

 だってこの三人よ、これだけ美人を揃えておいて、

 『誰を選ぶの、三者択一よ』なんて迫られるのよ」

 

「もうほんと、どんだけ贅沢なのって感じですよね」

 

椅子に座りながら脚を組み替えた眞木から大人の色気が感じられた。

この二人だったらさぞかしモテることだろうなと麻紀は思った。

そういえばこういう歌が児玉坂46であったような気がする。

確か楽曲のタイトルは「Three bold choices」だったっけ。

 

「いらっしゃいませー」

 

店員の声が聞こえ、三人は視線を入口へと向けた。

そこにはどうやら数人の男達の姿が見えたので、

これはどうやらりさ達の待ち合わせ相手らしかった。

そう気付いた麻紀は即座にすっくと立ち上がり、

別の席に移ろうとした所で、入口から歩いてきた一人の男に遮られた。

男は頭にキャップ帽子を深めにかぶっており、

さらに眼鏡にマスクという奇怪な姿をしていて顔が確認できない。

麻紀はその男に手を引かれて無理矢理に元の席に戻された。

どうやらコンパを目的としてきた3人組という認識で勘違いされているらしかった。

 

「あの、私は違うんです」

 

「ちょっと、この子は違うのよ!」

 

りさもそう言って援護してくれたのだが、

キャップ男はそんな話など聞いていないようだった。

彼の後ろから3人の男達が続いて歩いてきた。

先の2人が「こんばんは」と礼儀正しく挨拶をして順番を譲りあいながら、

その3人は最終的にりさ達の向かいの席に着席していった。

最後に座った男は挨拶もしなかったし、終始無言だった。

 

キャップ男は隣の席から椅子だけ持ってきて端っこに座った。

いわゆるお誕生日席みたいな形になっていたのだ。

だが、そのキャップ男だけ他の3人に比べて背が低く、

ずっと何も喋らずに俯いているのだから奇妙だった。

りさが言っていたのは確か3対3のコンパのはずだったので、

今回、相手が4人でやってきたことも人数的におかしかった。

ひょっとすると、このキャップ男は今回の幹事のような立場で、

コンパを取りまとめる役割なのかもしれないと麻紀は考えた。

 

だが、いずれにせよ麻紀にはまずい状況だった。

勘違いされてコンパに巻き込まれるのも嫌だったし、

こんな姿を魅菜のご両親に見られるのも不本意だった。

不真面目な管理人だというレッテルを貼られてしまえば、

その第一印象を挽回するのはなかなかに難しいものだ。

麻紀がそんなふうにあたふたと一人で考えている間に、

今までずっと黙っていたあのキャップ男がついに口を開いた。

 

「おつぽ~!」

 

何語かわからないチャラい感じの言葉で挨拶したキャップ男は、

右手でそのかぶっていたキャップ帽を掴んで脱いだ。

キャップ帽の中に収まっていた長い茶髪がふわっと重力に引かれて落ちた。

 

「あーっ、その声は!」

 

そう叫んだのはりさだった。

キャップ帽を取る前に、すでに何かインスピレーションがあったらしい。

麻紀はその顔を見るまで全くと言っていいほど気がつかなかった。

続いて眼鏡とマスクを外して現れたのは先ほど両親を迎えに行ったはずの川戸魅菜だった。

 

何が起きたのか全くよくわからなかった麻紀は、

ただ両手で口を隠しながら目を大きく見開いていた。

さっきまで着ていたモデルっぽい服装をやめて男性の服を着こんで、

さらに3人の男達をつれてお店に戻ってきた・・・。

だが、彼女のご両親は一緒には来ていない。

この3人のうちの誰かが魅菜の親族なのか?

もうわけがわからなくなって大混乱に陥った麻紀は声も出なかった。

 

 

「えー、正直、ぶっちゃけここまでうまく行くとは思いませんでしたー」

 

そう言うと魅菜はポケットの中からケータイを取り出した。

片手で何やらスマホを操作しながら、魅菜は何やら嬉しそうだ。

 

「はーい、じゃあ今からコンパ始めまーす。

 ぶっちゃけ何もルールとかないんでー、あとは適当にやってくださーい」

 

麻紀はさっきまでの魅菜といまそこにいる魅菜が同一人物だとはとても思えなかった。

放心状態に近い中で、かすかに脳は情報の処理を続けていたのだろう。

だが、すべての点と点がつながっていく答えを麻紀は信じたくなかった。

そこに辿りついた答えをどうしても受け入れることができずに放心していたのだ。

まさか、自分が魅菜に騙されてここへやってきたなんてことは。

 

「あっ、記念の写メだけ撮りまーす」

 

そう言うと魅菜は慣れた手つきで6人をうまくスクリーンに収めてシャッターを切った。

麻紀は全くの放心状態であり、おそらく写真に写っている顔には表情などなかっただろう。

 

「はーい、写メはあとでみんなに送りまーす。

 参加費はここで集めまーす」

 

魅菜はこれも慣れた手つきで男性陣から参加費を集めていった。

続いてりさと眞木からも3000円ずつ手渡された。

男性に比べると、女性の参加費はかなり安かったようだ。

麻紀は呆然として財布も何も出せないでいた。

魅菜はそれに気づいて麻紀に声をかけた。

 

「ごめんねー、だって麻紀は普通に誘っても絶対にこないのわかってたからさー」

 

その言葉を聞いて、先ほどまでの想像が確信に変わった。

自分は彼女に騙されたのだということを受け入れざるを得なくなった。

 

「・・・じゃあ、ご両親は?」

 

麻紀はあれは全て嘘だったかもしれないと知っていながらも、

信じたくない一心からそう尋ねてしまった。

 

「・・・ほんとごめん、いま東京には来てるよ。

 普通に観光してるだけだけど・・・」

 

魅菜も少し良心が痛んだのか、言葉の歯切れが悪かった。

麻紀がここまでショックを受けるとは思わなかったのかもしれない。

 

「もうほんと、聖母を騙すなんて私はひどい女かもしれないけど、

 でも麻紀にも彼氏とかできたほうがいいって思ったからさー。

 だって麻紀ってほっといたら恋愛とかしなさそうじゃん?

 無理矢理でもこういう場に出たほうがいいかなって思ったから・・・」

 

もう魅菜が何を言っているのかわからなすぎて、

麻紀はとにかく身体の中の血が冷たくなっていくのを感じた。

どうしてこんなひどいことをするのだろう?

最初から正直に言ってくれたら無下に断ることはなかったかもしれないのに。

ただこんな嘘はついちゃいけないよ、誰かを傷つける嘘は絶対にダメだってば。

 

麻紀はこの事実を受け入れなければならなかった時、

さすがに自分の心が穏やかでないことを感じた。

嘘をつかれるというのは誰だって嬉しいものではないし、

彼女だって人間だから怒ることだって不愉快になることもある。

何と言っても彼女の内部にはそもそも熱い気持ちがあるのだし、

人並み以上に強い正義感だってあるのだから。

 

「・・・あっ、じゃあ麻紀は払わなくていいから。

 その分はこのあいだの夕食代ってことで・・・」

 

そういうことじゃないよ、と麻紀は悲しくなってきた。

怒っていたのはお金の問題ではなかった。

それよりももっと大事な心の問題だったのだし、

たぶん、そんなに深い意味もなく軽い弾みでしたことだろうけれど、

何よりも彼女に対してこういう行為を見て見ぬふりをしてしまえば、

それは何よりも彼女の為に良くないと麻紀は思っていた。

それこそ東京にいる彼女の保護者としてきちんと叱るべきではないか。

 

「・・・ちょっと、あなたねぇ」とりさが魅菜に対して切り出した時、それを制したのは麻紀だった。

魅菜の問題については自分がきちんと話をつけようと思っていたし、

この場で叱ってしまっては目の前にいる男性達に失礼かと思ったからだった。

もちろん、りさが麻紀を庇ってくれようとした優しさも理解できたけれど。

 

「・・・もういいよ、あとで話すから」

 

悲しげな声で麻紀はりさにそう告げた。

それを聞いていた魅菜も、さすがにやりすぎたかと幾分気まずそうだった。

 

そうしている間に、店内の音楽が切り替わった。

偶然にも流れてきたのは児玉坂46の「Three bold choices」だった。

 

 

 誰を愛しているの? この3人の中で

 恨みっこはなしで はっきりさせよう

 選ばれなかった者は すぐに手を引くから

 ホントのその気持ち 打ち明けなさい

 

 

児玉坂46のメンバーでも特に若い3人組のユニット曲だった。

可愛らしい声が店内に響いてさっきまでの気まずい空気は幾分か晴れていった。

 

「あっ、さっき言ってたのこの曲のことですかー?」

 

眞木は明るい流れに乗ろうと思ってりさにそう言った。

 

「うん、そうそう、ちょっと影響されちゃった♡」

 

りさはそんな風に楽しそうにはしゃいで見せると、

麻紀にも目配せをして「もうこの場を楽しもうよ」というようなサインを送った。

嫌なことを考えていても仕方がない、せっかくきたんだから、と。

 

「児玉坂46がお好きなんですか?」

 

目の前に座っていた男性が話題に釣られて食いついてきた。

見た目は清潔感があって爽やかで、身なりもきちんとしている。

ハイスペックなのだと推測するなら、おそらく国家公務員か何かだろうとりさは思った。

 

「はい、私たちの会社の中でも結構流行ってますよ。

 去年の忘年会の時も、私も児玉坂46の曲を踊ったりしましたし」

 

「私それ覚えてます、りさ先輩の『会いたかったにちがいない』の振り付け!」

 

「ねぇ~、ちょっと恥ずかしいからあんまし言わないで~!」

 

りさと眞木はもうすっかりコンパモードに切り替えたようで、

キャピキャピしながらも暗に色々とアピールしていたのかもしれない。

「へぇー、すごいですね」と相手の男も上々の食いつきだった。

 

場が盛り上がってきた様子を見て、魅菜が椅子から立ち上がった。

椅子を隣の席に戻し、そのまま立ち去ろうという仕草を見せていた。

 

「ではそういうわけで、私はそろそろモデルの友達と遊びにいくからこの辺で。

 じゃあ、ババァばっかりで申し訳ないですけどよろしくお願いしまーす、ばいぴち!」

 

「誰がババァだぁ!!」

 

怒りに任せて声を揃えて反応したのはりさと眞木だった。

麻紀は全く反応を見せず、ただ去っていく魅菜の姿を悲しげに見つめていた。

 

 

・・・

 

 

2時間という時間はあっという間に過ぎ去った。

コンパに参加するつもりではなかった麻紀も、

その場の空気を乱すことなくそれなりに楽しんだ。

 

魅菜の立ち去り際のセリフに過剰反応したのがまずかったのか、

りさと眞木は食いつきかけていた魚たちを逃してしまうはめになった。

対照的に麻紀はただ黙ってやり過ごしていたために逆に好印象だった。

服装も全く浮かれた様子もなく、地味なくらいで逆に落ち着いて見えた。

 

コンパの中で麻紀がひときわ人気を集めていったのは、

ひょっとしたら魅菜のせいなのではないかと皆は思った。

あれだけひどい役をわざわざ買って出た魅菜の印象は悪くなったが、

逆に騙されてやってきたという麻紀の人柄が際立って良く見えたのだ。

「聖母ってどういうこと?」と麻紀のあだ名についても質問が出た。

麻紀はボランティアで教会で働いていることなどについても話をして、

それがさらに好印象を生む結果となったのだった。

 

「あっ、来たきた」

 

Lineの返事が来たのを見てりさと眞木はそれを確認した。

「今日は楽しかったです~」的な定型文が来ただけで、

これはどうやら脈なしだということがわかった。

だが、麻紀へのメッセージだけは少し異なるものであり、

「また今度食事でもしませんか」というような内容であり、

これはどうやら脈ありだということで3人は盛り上がっていた。

 

「いいなぁ~麻紀は」

 

「えっ、たまたまだよ~」

 

異性からモテていても謙虚な姿勢を崩さない麻紀は、

帰り道でハイスペック・コンパのチラシを眺めていた。

やっぱりそのチラシに書かれていた文字は魅菜の文字だったのだ。

いつか部屋に入った時に壁に貼られていたあのポスターの「聖母」という文字と、

これらのチラシの文字はとても良く似ていたのだった。

 

「それにしても、あの男はありえないわよね」

 

りさが言及していたのは、おそらくコンパに来た男の一人についてだった。

やってきた時に挨拶もしなかったその男は、終始不機嫌そうな顔をしていたし、

周囲のことを何も気にせずにタバコを吸い始める始末だった。

副流煙が周辺に漂うのが嫌だったりさは、それとなくタバコを止めてほしいと告げたのだが、

その男はあろうことか軽く舌打ちをしてから火を消したのだった。

りさは正直カチンときていたのだが、その場の空気を読んでグッと堪えたのだ。

 

「私、何回殴ってやろうかと思ったか」

 

「そのくせさぁ、私が料理とか取り分けてたらじろじろと見てくるんですよね。

 なんかすっごい冷たい目をしてるっていうか、つーかマジ怖いんですけどって感じでしたよ」

 

麻紀は何も言わなかったが、その男に対しては好印象は持たなかった。

その男が何かを話していたという印象は全くと言っていいほどなかったが、

ただ罰ゲームは何がいいかという話題で盛り上がった時に、

「でこぴんがいいんじゃないか」とだけボソッとつぶやいたのを今でも覚えていた。

みんなは大反対して、結局その流れはなくなってしまったのだったが、

できればあまり関わり合いになりたくないタイプの男性だったという印象で、

幸いにして麻紀にLineをしてきたのは彼を除いた他の2人だった。

というよりもその男は場の空気を読んでLineを交換することもなかったし、

いったい何しに来たのかもよくわからなかったくらいだった。

 

「しっかし3000円かぁ、今月もキツイわ・・・」

 

成果のなかったコンパに対し、眞木は痛い出費について考えていた。

いつもサラダと手作りのおにぎりで昼食をやり過ごしているというのに、

これだけの投資に対してリターンがなかったのは眞木にとっては非常に悔やまれた。

 

「ねぇ、それより麻紀はそのLineなんて返すの?」

 

りさが少し茶化すようにして尋ねた。

営業職をしているりさにとって、コンパの成功確率など初めから低いとわかっていた。

営業の仕事はとにかく数をアプローチしなければ契約が取れない。

100人にアピールしたって成約は数人という事もある。

プロ野球の首位打者だって3割とちょっとしか打てないのだし、

今回は失敗したからといって、いちいち落ち込んでなどいられない。

また次の打席に立つまでに失敗した原因を反省すれば良いことだった。

 

「えー、どうしようかなー」

 

麻紀は極めて曖昧な返事しかしなかった。

彼女にとって、今は魅菜のことで頭がいっぱいであり、特にコンパの成否には興味がなかったのだ。

そもそもハイスペックと言ったところで、お金や地位が麻紀にとってはさほど重要でもなかったし、

恋愛などは気が合う人と巡り会えれば自然とロマンスがスタートするものだと考えていた。

 

「麻紀、全然興味ないでしょ」

 

りさには心を見抜かれて「えへへ」と笑った。

仲が良い友達は、やっぱりよく見ているんだなぁと思った。

 

「魅菜ちゃんのこと、やっぱり私から言おうか?」

 

「ううん、ありがとう。

 もう大丈夫だから、私が自分でいうから、ね」

 

麻紀にはりさの気持ちが嬉しかった。

それだけで十分に心が満たされる思いがしていたし、

そういう意味ではりさはとてもハイスペックな友人だった。

 

「私ね、麻紀が来れないってなった時、一度チラシに載ってる番号にかけたの。

 その時ね、電話に出たのが若い女の子の声だったからびっくりしたんだけど、

 最初はちょっともめかけて、でもなんとか交渉したら最後は2人でも別にいいって言ってくれたのよ。

 でもあれはきっと、自分で何とかして麻紀を連れてくるつもりだったのね」

 

だからりさは魅菜の声を聞いてすぐにわかったのだろう。

どこかで出会った気がするというのも、その時に電話していたからだ。

麻紀がアパートで見かけた魅菜が電話していた姿も、

ひょっとしたらその電話だったのかもしれなかった。

 

「大丈夫、一人でなんとかする」

 

麻紀は心配をかけないようにりさにそう告げた。

 

「辛い時はもっと頼ってくれてもいいんだからね」

 

「うん、ありがとう」

 

渋谷から児玉坂の駅に戻ってきた3人は、

坂道を歩きながらも、やがて別れの帰路に立った。

 

「塚川さん、またご飯とか行きませんか?」

 

眞木がそう言ってくれた。

彼女はどうやら麻紀の事を気に入ってくれたようで、

彼女もまたハイスペックな友人になってくれそうだった。

麻紀にとってはとても有意義なコンパだったのかもしれなかった。

 

「えー、全然行こう、また連絡するね」

 

そんな事を言いながら3人はそれぞれの帰路についた。

アパートの前まで帰ってきた麻紀は外側から5号室を見てみたが、

部屋に灯りはついておらず、魅菜はまだ帰ってきていないのかもしれなかった。

 

麻紀は管理人室に入って一休みしながら魅菜の帰宅を待った。

彼女のために心をオニにして怒ったふりをしようと決意したのだ。

それが大人の役割だし、誰かがやらねばならないことだ。

かわいいかわいいと甘やかしてばかりではいけない。

今は良くても、その子の将来のためには良くない。

長い目で見ていけば、これは絶対に正しい行動だと自分に言い聞かせる。

 

やがて玄関の方で音がして誰かが帰ってくるのがわかった。

立ち上がって管理人室のドアを開けると、玄関にいるのは魅菜だとわかった。

麻紀は深呼吸をして「よし」と心を定めると玄関に向かって歩き出した。

 

「ちょっと、魅菜ちゃんに話しがあるんだけど」

 

郵便受けをチェックしながら魅菜はその声を聞いていた。

真剣にこちらを振り向かせて話をしなければならないと麻紀は思った。

 

「あっ、麻紀、コンパどうだった~?

 結構いい感じの人を揃えたと思うんだよね~。

 一人だけ変な人が混じってたと思うけど気にしないでね。

 ああやって人数揃えるのだって結構大変なんだからさ」

 

魅菜はあまり悪気を感じていないように見えた。

この雰囲気を崩してきちんと叱る空気を出さなければいけない。

 

「うん、まあいい人達だったから楽しかったよ。

 でもね魅菜ちゃん、ああいうのはちょっとよくないと思うの」

 

麻紀は頑張って眉間にしわを寄せて怒った表情を演出した。

普段使っていない筋肉を使ったために結構辛かった。

人間は喜怒哀楽を表すにも筋肉の発達の影響を受ける。

いつも笑っている人には笑顔を作りやすい筋肉がつくし、

怒っている人には怖い顔を作りやすい筋肉がつく。

いつも怒らない麻紀には怒った顔の筋肉が全く発達していなかった。

 

「ああ、去り際にババァって言っちゃったやつ?

 でもほら、あれがあったから麻紀は人気でたでしょ?

 だって麻紀は聖母だから怒らないってわかってたし、

 だからああやって言えば怒らない聖母キャラが絶対に有利だと思ったの」

 

その時、麻紀は何か得体の知れない肌のべとつきを感じざるを得なかった。

それは空気中に漂う湿度とか、そういう類のものではなかった。

同じように目に見えないものではあるにしても、もっと不快な感じの、

強いて言うならお菓子に貼られた商品のバーコードのシールが剥がれた後で、

破れてしまってなんとなく粘着質な成分が残っているのを触る時のような、

ああいう類のやりきれないような気分に似ているような気がした。

 

「あーあ、私的には麻紀は今日、帰ってこないと思ってたのになー。

 聖母も今日だけは悪い子になっちゃうのかなって期待してたのにー」

 

なんだか肩透かしを受けたような気分に麻紀は陥った。

さっきまで無理やりにでも高めていた気分はいつの間にか消えてしまった。

 

「じゃあね~ばいぴちー!」

 

そう言いながら魅菜は2階への階段を上っていった。

取り残された麻紀はもやもやを抱えたまま管理人室に戻っていった。

 

 

・・・

 

 

 

翌日、日曜日だったので麻紀はまたいつも通り朝から教会へ出かけた。

9時頃からいつも通りの礼拝が始まり、教会に集まった信者達はお祈りを捧げる。

麻紀は神父さんの近くに立ってその儀式のサポートを行うのだった。

 

こうした礼拝の中で、とりわけ麻紀が好きだったのはパイプオルガンの演奏による合唱だった。

澄みきった清らかな音色が教会中に響き渡り、天井からは暖かな日差しが降り注ぐ。

集まった信者達が配られた歌詞を見ながらその聖歌を歌うのである。

礼拝の中の細かな部分は教会によって違いがあるようで、

ここ児玉坂教会では神父さんが音楽に愛好を持っているということらしく、

礼拝では毎週違った歌を歌うようにしているらしかった。

中にはTVや映画など、どこかで聴いた事のある曲もあったし、

この間は確か「フランダースの犬」のアニメの中で聴いた事のある曲が流れていた。

そんな風にして繰り返しの中にも新しい発見があることから

麻紀は毎週違う色々な歌を聴けるのが密かな楽しみでもあった。

 

 

 Ave Maria! Jungfrau mild,

   Erhöre einer Jungfrau Flehen,

   Aus diesem Felsen starr und wild 

   Soll mein Gebet zu dir hinwehen.

 

   アヴェマリア 慈悲深き乙女よ

 おお 聞き給え 乙女の祈り

 荒んだ者にも汝は耳を傾け

 絶望の底からも救い給う

 

 

今日の曲もどこかで聴いた事があったので、

礼拝の後で神父さんに質問して見たところ、

これは「シューベルトのアヴェ・マリア」という有名な曲だった。

イエス・キリストの母である聖母マリアを尊ぶ内容であり、

プロテスタントと違って、カトリック教会では聖母マリアも重要な役割を持っていた。

聖堂の中央には磔刑のキリストが高々と掛かっているのだが、

その横の少し低い場所に聖母マリアの像も飾ってあった。

お手伝いとして神父の横に立つ麻紀は、いつもちょうどそのマリア像の近くに立っていた。

 

勉強会に出るうちにわかった事だが、宗派の違うプロテスタントでは聖母マリア崇拝はないという。

キリスト教では神について「三位一体」という説明がなされているのだが、

父と子(キリスト)と精霊の3つが一体となって神とされる。

どれか一つが神でもなく、三位一体で神と捉えられるということらしい。

見てわかる通り、そこにはキリストを生んだマリアの名前はなく、

マリアは厳密に言うと神様ではないのだろうと思われる。

 

もちろんカトリックでもマリアを崇拝する事は禁じられているという。

聖書を辿って見ても、マリアとは処女のままでキリストを生んだ女性であるが、

それ以上には神聖があるように描かれていないというし、

もし仮にそこを拡大解釈して神聖を付与してしまうと辻褄が合わなくなってくる。

キリストを生んだ源を崇拝する事に正しさを見出してしまうと、

三位一体という説明自体に矛盾が生じてくるような気もしてしまう。

 

このような流れがあるにもかかわらず、世界中のカトリック教会から聖母マリア像は無くならない。

それはひょっとすればシスターのあるべき模範の姿であるからかもしれないし、

信者の中にある無意識の母性への崇拝心がマリアを失わせないのかもしれなかった。

色々と考え方はあるものの、現状はそうであり、だが真実は誰にもわからない。

 

 

いつも通り礼拝を終え、麻紀は昼食会の準備を始めた。

この教会では信者の皆さんの交流の場を設ける目的で、

礼拝の後に短い時間の食事会を催すことにしていた。

これは信者が自分達でお手伝いしながら料理を作ったりするもので、

その費用も自分達で出し合いながら行っているという。

麻紀はそういう交流の場を持つことはとても良いことだと思っていたし、

この昼食を通じてみんなとお話をしたりするのが好きだった。

別に話題はキリスト教の事だけでもなかったし、

なんでもない話題を持ち出しては楽しく笑ったりすることが多く、

そういう場が失われつつある地域社会の実情を考えると、

とても有益な場所になっていると考えていたのだった。

 

 

昼食が終わると、麻紀は告解の準備をしなければならなかった。

片付けを別の信者さん達に任せて、麻紀は先に告解部屋に向かった。

部屋の中にある加湿器のスイッチを入れて部屋の湿度を調整する。

この加湿器は麻紀がここで告解の仕事を始めた昨年末に購入したものだ。

空気が乾燥して喉を痛めたりしないよう、これを使うのが日課になっていた。

ブルーの外装をしていたので、麻紀はこれに「かしおくん」と名付けた。

静かで音もなく、麻紀にとってはかなりハイスペックな相棒だったのだ。

 

部屋の中の椅子に腰をかけて、麻紀は信者がくるのを待つことになる。

始まる前に神父さんから予約が入っている人数だけは教えられることになるが、

麻紀にはギリギリまで当日の人数はわからなかった。

だが、礼拝に来る人数に比例して告解の人数も増減することが多く、

経験則から麻紀にもだいたいの人数を予測はすることができた。

本日の礼拝はどういうわけか人数がいつもよりも少なく、

特に男性信者の数が普段よりも格段に少なかった気がした。

昼食会でも麻紀に声をかけてくる男性信者はおらず、

手伝ってくれたのは全て女性信者だったように思えた。

 

「・・・お2人だけですか?」

 

麻紀は神父から本日の人数を知らされた時、

思わずそう問い返してしまった。

今までは少ない日でも10人を下回ったことはなかった。

それがたった2人だけだというのだから麻紀は少し驚いた。

理由を考えてもよくわからなかったけれど、

もうすぐ春がやってくる3月中旬だということもあって、

ぽかぽか陽気に誘われて家族や友達と出かけているのかもしれないと思った。

むしろ、罪の意識を感じている人が少ないという事なのだから、

告解部屋を訪れる人数は多くないほうが平和だということにもなる。

 

麻紀は人数が少ないからといっていい加減に済ませるような人ではなかった。

しっかりといつも通り心構えをして信者が入ってくるのを待った。

反対側の部屋に誰かが入ってくる足音が聞こえ、信者が椅子に座ったのがわかった。

 

「父と子と精霊の御名において、アーメン」

 

麻紀はいつも通りの定型文を述べて告解を始めた。

言葉は同じでも真剣に心を込める事が大切だと考えていた。

 

「では、あなたが罪とお認めになることを、神様の前でおっしゃってください」

 

麻紀がそう述べたにもかかわらず、部屋は沈黙に包まれていた。

空気が振動している感じもしない、相手は微動だにしていないのかもしれなかった。

相手の見えない空間での沈黙は得体のしれない緊張感を高めることになる。

 

「どうしましたか?

 罪の内容を神様の前でどうぞ告白してください」

 

麻紀は改めて告白を促すと、かすかに向こう側から物音が聞こえた。

相手は体をわずかに動かして話をする気になったものと思われた。

 

「・・・あれは昨夜の事でした」

 

壁の向こう側から低い声が響いた、男性の声だった。

麻紀はこの仕事を始めてからかなり耳がよくなっていた。

それは聴力が向上したわけでも、何か特別な能力的な事でもなく、

ただ慣れによって声だけで相手を聞き分けられるようになっていたのだ。

そしてこの低い声は、先日も来た事があるあの男性の声だった。

「あなたは聖母マリアのように美しい」と呟いて去っていったあの人だ。

 

「いつも通り聖書の勉強会に行った私は、ある異変に気がつきました。

 そして勉強会が退屈に感じてしまい、さっさとその場を去ってしまったのです」

 

男性の罪の告白は「怠惰」という問題かと麻紀は思った。

これについては他の信者も同じような悩みを抱えていた。

むしろ、これは人間であれば誰でも持ちうる普遍的な悩みである。

これだけ多くの人が抱えている問題なのであるから、

もうそれは人間の当然の行為として受け止めるべきだと、

麻紀はこの仕事を通じて思うようになっていった。

それでも真面目な人ほどそれを罪だと思い悩んでしまう。

麻紀自身、そういった経験から助言をする事が出来る気もした。

自分の言葉で語ったとしても、神様も怒りはしないだろうと思っていた。

 

「・・・それから私はむしゃくしゃする思いで教会を出ました。

 そのまま家に帰って酒でも飲んで眠ろうかと思いましたが、

 どうも嫌な事を思い出して酒もうまくありませんでした」

 

男は話を続けていった。

どうやら「怠惰」だけが問題ではなさそうだった。

麻紀は静かに耳を傾けながら男の話の続きを聞くことにした。

 

「考えてしまうということは罪なのでしょうか?

 私は何も考えたくもないのに、私は勝手に色々と考えてしまいます。

 それによってある事ない事、次々と脳裏に浮かんでは私を苦しめていきます。

 考えるという行為は、もはや私の人格を通り超した出来事であるようにすら感じます。

 私の意志とは無関係に暴れまわり、そして私を破滅へと導いていくのです」

 

複雑な話の内容に移っていったので、麻紀は少し困惑してしまった。

もちろん、麻紀はただ神の代理として話を聴くだけでよかったので、

それについて答えを探す必要も、もっと言えば理解する必要もなかった。

ただ、誠実な心を持つ麻紀であったために、彼女は真剣に信者の思考に寄り添おうとする。

 

「私はやがて酔いに任せて街へ飛び出しました。

 その先に破滅が待っているとわかっていたとしても、

 私にはそれを実行する以外に他に手段などなかったのです。

 なぜなら、それが私にとっての全てであったからです。

 いったい誰がそんな私を責める事ができたのでしょうか?

 罪というものの所在を、人はいったいどこに見いだすのでしょうか?」

 

何か重たくて拭い去れない悲しみを麻紀は感じていた。

壁の向こう側にいる人は、理由はわからないにせよ、

とても苦しんでいる哀れな子羊である事は間違いなかった。

 

「そして私は見つけてしまったのです・・・。

 私の愛する聖母マリアが、お店の中で楽しそうに何やら語らっている姿を。

 これはいったいどういう事でしょうか?何が起こっていたのでしょうか?

 どうして神に仕える神聖な存在であるあなたが、

 あのような場所で汚らわしい俗物どもと戯れていたのでしょうか・・・?」

 

その言葉とともに、壁の向こう側の男が仕切り窓に寄りかかってきたのがわかった。

細かい網目のように作られた仕切り窓は、顔こそよく見えないものの、

それほど近づけば誰かがそこにいる、という認識程度は出来るものだった。

麻紀の目の前には、はっきりしない男の顔が見えた気がした。

 

「確かシスターは恋愛禁止だと伺った事がありましたが、

 これは私の認識が間違っていたのでしょうか?

 昨夜見たあの光景は、私が間違っていたのか、

 それともあなたの神への冒涜であるのかよくわかりませんが、

 とにかく私を絶望させるには十分な効果を持っていました・・・。

 そしてこの胸の苦しみを、あなたはいったいどうしてくれるというのでしょうか?」

 

麻紀は思わず自分の言葉で誤解を解こうとして両手で口を塞いだ。

告解部屋ではあくまでも神の代理としての務めである。

また、そもそも麻紀自身として話を聞いているのではないのだ。

これは極めて一般的な問題として解決されなければならなかった。

個人の私情を挟んで展開する事は許されなかったのだ。

 

「わかりますか、あなたは私を裏切ったのです。

 私は明日からいったい何を信じて生きていけばいいのでしょうか。

 わかった事はただ一つです、もう女なんてこりごりだという事です。 

 これだけ一途に純粋な思いで愛を信じ続けていた私を、

 あなたはこうして簡単に裏切って踏みにじってみせたのですから!」

 

部屋の仕切り窓に男の手が這いずりまわっているのが見えた。

何か堪えきれない憎悪のようなものがその手にまとわりついているように見えた。

得体の知れない、黒くて救い難い悲しみの感情が蛇のように這い回っていた。

 

「あなたは罰を受けなければなりません・・・。

 いや、もはやあなた自身で気づいているでしょう?

 今日の礼拝に来ている信者の数が激減している事を。

 今頃、ツイッターで信者の間にあなたの写真が拡散されていますよ。

 そこには汚らわしい最後の晩餐に参加したあなたの顔が写っています」

 

麻紀は告解部屋の酸素が薄くなったような気がして目眩がした。

「かしおくん」の潤いすら敵わない淀んだ空気が麻紀の周囲を取り巻いていた気がした。

 

「どういう事だと思いますか?

 そうです、ユダがいたんですよ、最後の晩餐にはユダがいたんです!」

 

聖書の勉強会で聞いた事があった。

最後の晩餐というのはキリストが十字架に磔にされる前、

弟子たちと一緒にとった最後の食事の機会であった。

キリストはその弟子達の中に裏切りものがいると言った。

キリストはその裏切り者の存在を知りながらも、

その者を捕らえる事もなく、その後は彼の裏切りにあい、

捕縛されてゴルゴタの丘へと連れて行かれて処刑された。

その裏切り者の名はイスカリオテのユダと言った。

 

麻紀は狭くて苦しい部屋の中で昨夜の出来事を思い出していた。

自分の写真が写っているとすれば、それは魅菜が撮ったあの写真しか思い当たらなかった。

告解部屋の中の男が言及しているユダというのは魅菜の事を指しているのだろうか?

もしそれが確かならば、どうして彼女が私を裏切る必要があったのだろうか?

そして私はキリストと同じように十字架に磔にされてしまうのだろうか?

 

「何がシスターだ、何が聖母マリアだ、嘘ばっかりだ!!

 あんたこそ罪の告白をするべきじゃないのか!? 

 誰も見てないと思って隠れてこそこそしたりして、

 神はちゃんとあんたの罪を見ているんだぞ!

 こんなところに隠れやがって、さっさと出てこい!」

 

麻紀はもうルールを破ってでも事情を説明して誤解を解こうと考えたが、

目の前の仕切り窓を叩く男の姿を見ていると恐ろしくなった。

 

「出てこないというのなら、聖母の化けの皮を剥いでやる!」

 

そういうと男は仕切り窓から下がったようで、

そのままカーテンを引いて部屋から出たように思えた。

次はおそらく麻紀のいる部屋へ侵入してくるかもしれなかった。

どうしてこんな事になってしまったのかと麻紀は恐ろしくなった。

 

「・・・おい、誰だ放せ、おい放せよ!」

 

外に出たはずの男が自分ではなく別の誰かと話をしているのがわかった。

もしかすると不審な物音を聞きつけた神父が助けに来てくれたのかと思った。

 

「・・・適当な事ばかりいいやがって焦れったいから俺が教えてやろう。

 お前の罪状はな、ストーカー行為って言うんだよ」

 

さっきの男とは違う誰かの声が聞こえた。

神父ではない、神父はこのような話し口調ではなかった。

 

「・・・お前は誰だ、神のつもりか?

 告解部屋の告白を勝手に盗み聞きしやがって、おい放せよ!」

 

どういう状態なのかはわからない。

だがもう一人の男はさっきの男を捕まえて離さないようだった。

 

「俺は別に神のつもりでもなんでもないが、お前を現行犯逮捕することは容易い。

 お前らの信仰している神よりも優しくはないんだ、残念だがな」

 

「・・・お前、刑事か!?

 勝手に教会まで踏み込んできて、こんなことをしていいと思ってるのか!」

 

もう何がなんだかわからず、麻紀は怖くて部屋から出られなかった。

警察が来てくれたなら安心ではあるが、彼を逮捕するなんて、それもあんまりだ。

 

「じゃあなんだ、勝手にストーカーして写真を撮るのは許されるのか?

 しかもそれをネット上にばらまきやがって、名誉棄損って手もあるんだぜ。

 こんなことをしても許されるなんて、お前らの神様は甘すぎるんだよ!」

 

「うわぁ!」という声が聞こえた。

刑事と思われる男は、ストーカー男の手首でも締め上げているのか、

悲鳴に似た声が麻紀の耳に飛び込んできた。

麻紀は思わずとっさに耳を塞いでしまった。

誰かの苦しみも自分のことのように感じてしまう麻紀には、

もう耐えることができない苦痛に思えて叫んだ。

 

「もう止めてください!帰ってください!」

 

そう叫んだ後、外は静かになった。

突然叫んだために二人も驚いたのかもしれない。

とにかくあの悲鳴は止まったのだ。

 

「・・・そういうことらしいぜ。

 マリア様が許してくださるってんだから運が良かったな」

 

刑事はそう言って男を解放しようとした。

悲惨な結末だけはどうやら免れることができたようだった。

 

「仕方がないからこれだけで許してやろう。

 でこぴん一つで罪を免れるなんざ、俺も優しいな」

 

そう言ってからおでこを弾く音が聞こえた。

だが、その音は通常のでこぴん程度では鳴り得ない強烈な音だった。

おそらく、男のおでこはかなり赤く腫れてしまったのではないかと思われた。

「うがっ」という声がしてから、男が走り去っていく足音が聞こえた。

 

「しばらく消えないその罪の刻印に苦しむんだな。

 次はこの程度では済まされんことを覚えておくがいい」

 

麻紀はこの一部始終を聞いて思い出した。

この男の声、そしてこの罰ゲームのやり方。

彼は間違いなく昨夜のコンパで知り合ったあの男だった。

 

 

・・・

 

 

男が走り去っていく足音が聞こえていた時、

麻紀は勇気を出して告解部屋のカーテンから外を覗いてみた。

一人の男が慌ててその場を走り去る様子が見て取れたのと、

その様子を眺めるようにしている男の背中が見えた。

男はどうやら黒の背広を着ているようで、やはり刑事のように見える。

顔はわからないが、どうやら昨日の男であるのは間違いないと思った。

 

「さて、これで邪魔者はいなくなった」

 

そう言いながらあの男はくるりと振り返った。

少し怖かったのか、反射的に麻紀はカーテンの奥にまた隠れてしまった。

助けてくれた人に失礼だとは思ったが、あまり好印象ではないこの男も、

麻紀にとっては得体のしれない存在だったことは否定できなかった。

 

「怖かったら出てこなくていいぜ」

 

そう言うと、その男は向かいの告解部屋に入ったようだった。

どうして向かいの部屋に入ったのか、麻紀には一瞬わからなかったが、

最初に神父から聞かされた2人という数字を思い出してハッとなった。

 

「・・・壁を通じても緊張感が伝わって来る。

 あんた、俺のことが怖いか?」

 

麻紀は何も答えなかった。

この男が告解という形式でやってきたのなら、

麻紀は何も余計なことに答える必要はなかったし、

だがそれよりも先ほどの出来事でかなり心が疲弊していた。

正直言うと、この男のことが麻紀は怖かった。

 

「ちっ、むしろ感謝してほしいくらいだ、

 最近の警察はストーカーくらいでは頼んでも動かないんだぜ」

 

麻紀は助けてくれたことに感謝はしていたが、

彼のやり方を見れば、それは普通の刑事のやり方ではないことは明白だった。

そこに異常性が感じられる以上、恐怖は拭い去れなかった。 

 

「安心してくれていい、俺は最低な男かもしれないが、

 今からあんたに危害を加えようなんてつもりは全くない」

 

冷たい声を出す男だったが、少しだけ声質が和らいだ気がした。

何かこの男なりに誠実になろうとしている気配は伝わって来る気がした。

 

「信じられないのなら、まずこの形式にならってやろうか?

 昨夜あんたらに告げた職業と名前、あれは真っ赤な嘘だ。

 なんて言ったかも忘れちまったが、俺の本名は中西、刑事だ」

 

麻紀は昨夜のことをきちんと覚えていた。

彼は確か黒田と名乗り、職業は大手広告会社勤務だと言った。

彼からはどこにも広告会社に勤務している雰囲気は感じなかったが、

麻紀の最初のその直感こそが正しかったのだった。

 

「なぜあの場所にいたのかは職務上の秘密だ。

 それは言えないが、あんたと出会ったのは偶然だ。

 だが今日ここへやってきたのは必然的な行為だった」

 

その内容から推測すると、

彼はあの男が告解に来るのを知っていたということになる。

そしてどういうことが起こるのかまで予測できていたということのようだった。

 

「あいつは嬉しそうにユダがいると言いふらしていやがったが、

 なんのことはない、あんたの写真を撮っていたのはあいつだよ。

 昨夜、あの店の外からカメラを構えてこっちを見ていやがったんだ。

 どうやら俺以外は誰も気づいていない様子だったがな」

 

その言葉を聞いて、麻紀は裏切り者が魅菜ではなかったことに胸をなでおろした。

それよりも一瞬でも魅菜を疑ってしまった自分を恥ずかしく思った。

 

「だがな、SNSを通じて拡散されてしまった奴の写真はもう手遅れだ。

 奴のツイッターを抑えても、もはや人々の憎悪の連鎖は消せやしない。

 やはり昨夜のうちに店を飛び出してでも取り押さえておくんだった。

 仲間にはすぐ連絡を入れたんだが、行方を見失ってしまったらしい」

 

中西は何かを考えていたのか、奇妙な間を一瞬置いた後でまた話を続けた。

 

「それでとにかくあんたの身が一番危ないと考えた。

 そして奴もここへ現れるんじゃないかと、それは正解だったよ。

 だが、こうして写真が拡散されてしまった以上、

 他の信者達も奴のように成り果ててしまう可能性が出てきた。

 これでもう安全になったとは考えないほうがいいぜ。

 人間の愛と憎悪なんてのは紙一重なんだ、こういうのが一番タチが悪い」

 

中西がそう言っているのは自分のような最低なクズ野郎のほうが逆に安全だという意味だが、

麻紀はそんな風に言う彼の自虐的な態度の意味など理解してはいなかった。

そもそも、二人の思考パターンは全く似ておらず、そんなことは理解できるはずもなかった。

 

「俺が言いたいのはこういうことだよ。

 もうこんな仕事はさっさと辞めて故郷にでも帰ることだ。

 そうすれば奴らはまたあんたの行為を裏切りだと罵ることになるだろうが、

 そんなことを言う奴らには好きに言わせておけばいいんだ。

 あんたがあの十字架の上にいる男のようになっていいわけがない」

 

中西が言う十字架の上にいる男とはキリストのことだった。

麻紀は教会の中心にかけられていたあの男のくたびれた様子を思い出した。

 

「初めてこの世にキリストが現れた時、人々は歓喜したらしい。

 彼は神の子だと言われて数々の奇跡を起こしたと言われるが、

 そんなのは後世の人々が考え出したことにすぎないだろう。

 とにかく彼を賛美した人間達はその理想的な姿に神を見たんだ。

 キリストと共にいれば自分達は救われると、そんな風に思ったんだろうな」

 

麻紀もその話は勉強会で聞いたことがあった。

ただし教会の話はもっとキリストを尊ぶような内容であり、

決して中西のように独善的な話ぶりでは語られていなかった。

 

「だが、結局キリストは人間達の裏切りにあって死ぬことになる。

 弟子の中に裏切り者が現れ、自己の保身のために彼に味方しなくなるものもいた。

 キリストは人間達がそうした罪深い存在であることを知っていながら、

 全てを承知した上、その人間達の罪を背負って死んでいったと言われている。

 わざわざ他人の罪をその身に背負って死んでいったんだ、そんなことが誰にできる?」

 

後世の人々は、そうして罪深い人々の代わりに犠牲となったイエス・キリストを、

まさしく神の子だと崇めてキリスト教の信仰を深めていくことになった。

やられたらやり返すではなく、右の頬を打たれたら左の頬も差し出すという話を、

麻紀は教会内では非常に美しい物語だとして神父より聞いていた。

 

「そんなバカな話があるわけがない。

 わざわざ相手の罪を代わりに受けて死ぬなんてのはバカのやることだ。

 何が神の愛だ、自己犠牲が何になるっていうんだ。

 この世はそんなキリスト一人では背負えきれない罪で溢れてる。

 それで何が変わった?後世の人々がキリストを崇め始めたところで、

 この世の人々が救われることにでもなったのか、ならねぇよ」

 

中西は吐き捨てるようにそんなセリフを言った。

麻紀にはどう答えていいのかわからない、彼なりの解釈だと思った。

 

「じゃあなぜキリストは聖人のように静かに死んでいったのか。

 俺が思うに、彼を殺したのは十字架でもなんでもない。

 ただ人々が彼に理想の姿を重ね合わせて神に仕立て上げたからだ。

 そうして理想のレッテルを貼られたキリストはおかしくなった。

 彼は人々の期待を裏切ることができずに聖人のふりを続けざるを得なくなった。

 自分は皆と変わらない人間だ、そう言えたなら誰も彼を殺さなかっただろうぜ。

 だがそのレッテルを拭えなかったことが、最終的に彼の命を奪う羽目になったんだ」

 

中西の話は教会の解説とは相容れない話だったので、

麻紀にとっては理解に苦しむような内容だった。

だが、この話を聞いていた時、麻紀はあの奇妙な肌のべとつきを思い出した。

魅菜に聖母と言われた時、麻紀は一切彼女を叱れなくなった。

それはひょっとすると、聖母というレッテルが麻紀を縛りつけてしまったのかもしれなかった。

 

「先ほど逃げていったあの男の話だがな・・・。

 あんなやつが本当にキリストを信じていると思うか?  

 俺は思わないね、だいたい神なんてこの現代にもう時代遅れなんだ。

 じゃあ人々は代わりに何に理想を重ねようとしているのか。

 それは例えばあんただよ、ただの若い乙女に無責任に神の理想を重ねているんだ」

 

麻紀は最近急速に増えた信者達を思った。

彼らは何を求めてこの教会に来ていたのだろう?

彼らが祈っていたのは、もしかしたら中央の十字架ではなく、

その十字架に架けられている男でもなく、

その脇に立っている聖母マリア像でもなんでもなく、

その横に立っていた自分に向けられていたのかもしれない・・・。

 

「近代までの人類の救いは神だった。

 これは疑うまでもないことだ。

 人間はなぜか理想というものを抱かずには生きられない生物だ。

 その人間を超越した理想的な存在を引き受けていたのは神だった。

 だが、近代人は神を殺してしまった、科学の発展だ。

 超自然的な出来事を、科学によって解き明かしてしまった後、

 人々は神の存在を急速に信じなくなっていった」

 

中西はこんなことを話ながらも、

実家がお寺である彼女にはわからないかもしれないと思った。

彼女の近くにはいつも仏があり、信仰は死んでなどいないからだ。

しかしそれには構わずに彼は話を続けていった。

 

「だが殺伐として合理主義が世の中に蔓延すると、

 人間はどうやらそれだけでは生きられないことを悟った。

 圧倒的な理想がもたらす心の安定を求めるために、

 人々は神に投げかけていた理想の姿をあらゆるものに投げかけ始めた。

 それがアニメや漫画、映画なんかに向けられている間はまだよかった。

 だが、同じ人間に理想像を重ねて救いの希望を見出そうとした時、

 そのエゴイズムはあんたの上に投げかけられることになったんだよ」

 

そういえば、アニメが好きな友人はアニメのキャラクターに心酔しており、

そこから元気をもらっていれば生きていけると言っていたのを麻紀は思い出した。

自分だっておもちゃが主役で出てくる映画を見ている時には、

理想的で平和な光景がそこにあり、とても幸せな気分に浸れていた。

なぜならそこには自分が嫌いなものは何一つないのだから。

そして今、その人間の理想が自分に対して向けられているのか?

 

「わかっただろう、あんたは聖母なんかじゃない。

 あんたが人々の罪を代わりに引き受ける必要などないんだ。

 愛は憎悪と紙一重なんだ、あの十字架の上の男を見ろ。

 くたびれ果てて、それで自分自身を見失った顔をしている。

 別に嘘をついたって構わない、逃げ出したって構わない。

 この世はあんた一人が背負いきれないほどの罪で溢れてる」

 

中西がそう言い終わった後、しばらくの沈黙が二人を支配した。

うまく消化しきれない彼の話、全てを話し尽くした中西。

よくわからなかったが、麻紀には一つだけ確かめたいことがあった。

それを口にするしか沈黙を破る手はなかったと言えた。

 

「一つだけ、聞いてもいいですか?」

 

「・・・なんだ?」

 

「どうして中西さんはそんなことを私に言いに来たんでしょうか?」

 

その問いを耳にした中西は、答えに窮してまたしても沈黙を生んだ。

やがて何か一つの答えに辿り着いたようで、

向こう側の部屋から少し自嘲的に鼻で笑う声が聞こえた。

 

「・・・それが俺の告白するべき罪なのかもしれないな」

 

だが中西はそういった後、特に何も告白する様子はなかった。

ただ「できるなら安全のためにどこかに身を隠せ」とだけ言って、

やがて告解部屋のカーテンを引いて立ち去ってしまった。

麻紀は閉じていた告解部屋のカーテンを引いて、教会から立ち去っていく中西を見送った。

 

 

・・・

 

 

麻紀は中西が立ち去ったあと、休憩室に戻って神父と会った。

告解の後、いつものように神父に内容を報告をするのだが、

先ほど起こった2人の出来事を、麻紀は正直に神父に告げたのだった。

 

「そうですか、それは怖い思いをされましたね。

 私が教会にいながら力が及びませんでした」

 

神父は申し訳なさそうにそう言って深々と頭を下げた。

麻紀は逆にそんなことは申し訳ないと思っていた。

せっかく順調に増えていた信者をたくさん失ったのは教会側であり、

それは麻紀の個人的な事情によって誤解を生んでしまったからなのだ。

 

「そんな、謝らないでください」

 

麻紀は神父に顔をあげてもらいたくてそう言った。

こんな事は神父には何の落ち度もなかったからだ。

 

「警察の方がそばにいてくれた事が幸いでした。

 その方が来てくれたのであれば、おそらく通報する必要はないと思いますが、

 彼が言ったように、もし必要であればしばらく児玉坂を離れられても結構です。

 警察の方々は麻紀さんを守ってくれるとは信じていますが、

 どこでどのような事が起こるかもわかりませんので」

 

神父はそんな風にして麻紀に気を使ってくれた。

気持ちはありがたかったが、麻紀はどうすればいいのか、

現時点では全く気持ちの整理がついていなかった。

ただひどく疲れていて、今は少し休みたかったのは事実だった。

 

「しかし偶然とは言え、麻紀さんがその中西さんと出会えたのが幸いでした。

 どんな形で現れるかわかりませんが、神は見ているのだと私は信じています」

 

そう言って神父は右手で胸の上に十字を切ってから両手を合わせて祈った。

お寺の娘である麻紀には、神父さんの祈り方にはいつまでたっても慣れなかったけれど、

自分のために祈ってくれたという事実は素直にありがたいと思えた。

 

「ですが、中西さんというその方。

 なんだかユニコーンみたいな方ですね。

 私はお話を聞いていてそんな風に思いました」

 

「ユニコーン?」

 

「ええ、キリスト教の絵画などに度々登場する一角獣です。

 馬に角が生えたような絵を見た事がありませんか?」

 

麻紀はユニコーンを知っていた。

とは言っても詳しく生態を知っていたわけでもない。

むしろそれは空想上の動物だと思っていたし、

実際に見た事があったわけでもないので、

神父の形容する「ユニコーンみたいな方」という表現は、

麻紀には全く何を意味しているのかはわからなかった。

 

「ユニコーンはとても獰猛で強い生き物です。

 その脚力は馬や鹿よりも優れているといわれています。

 とても誇り高い生き物ですので、決して人間の力で捕まえる事が出来ません。

 もし捕まえたとしても、ユニコーンは断崖から身投げしてでも逃げ出そうとするそうです。

 もしくは誰かに従うくらいなら、逆上して自殺を図ると言われています」

 

麻紀はその話を聞いて、なるほど中西に似ていると思った。

あの人もきっと、誰かに服従するような性格ではないだろうと思った。

 

「ユニコーンはその聖なる姿から貞潔とも評されますが、

 一方で悪魔であるとも言われています。

 とても有名なお話があるのですが、

 麻紀さんはノアの方舟の話をご存じですか?」

 

その話はなんとなくではあるが聞いたことはあった。

確か聖書に載っている有名な話で、世界が洪水になった時、

ノアという人は神様から指示された通りに方舟を作って生き長らえたのだ。

なんとなくそんな話であることは知っていた。

 

「そうですね、実はノアの方舟には動物のつがいを乗せたのです。

 それは一度洪水で滅んだ世界をもう一度やり直させるために、

 神が選ばれたノアと動物たちの種を残したというわけです。

 実はそこにユニコーンも選ばれたのですが、ユニコーンは方舟に乗れませんでした。

 一説にはユニコーンを乗せた後、他の動物たちを攻撃し始めたために、

 ノアによって洪水の中へ捨てられたという話が残っています。

 もう一説には、ユニコーンはノアに従わずに泳いでみせると言ったそうです。

 初めのうちは泳ぎ続けていたユニコーンでしたが、やがて鳥たちが角に止まり、

 ユニコーンは水の中へ沈んでしまったと言われています。

 よってこの世には今、ユニコーンは存在しないと言われています」

 

その話もなんとなく中西に重なって見えるような気がした。

彼はきっと何者にも従わずに他者を攻撃して生きて行くだろうし、

けれどそれが理由でノアの方舟には乗れないだろうという気もする。

その誇り高さゆえに、誰からも助けてもらえずに消えていくのかもしれない。

 

「ですが、ユニコーンにも弱点はあったのです」

 

「・・・弱点?」

 

「ええ、ユニコーンはなぜか処女の乙女に思いを寄せているのです。

 狩人がユニコーンを捕まえたければ、まず美しい処女を森に連れていくといいます。

 そうすればやがて彼女の香りを嗅ぎつけたユニコーンがふらふらと現れて、

 なぜかその処女の膝の上に頭を置いて眠り込んでしまうという話です。

 あれだけ獰猛な生き物が、こうもあっさり捕まってしまうのですから不思議です」

 

その話を聞いて、麻紀は少し恥ずかしくなった。

神父が中西をユニコーンのような方だと言ったのは、

そういう意味があったのかと今ようやくわかったからだった。

 

「ですが、もしこの処女が偽物であるとわかったとき、

 ユニコーンは激しく怒り狂い、その女性を殺してしまうと言います。

 ユニコーンは非常に気難しい生き物ですが、おそらくとても純粋なのです」

 

麻紀はユニコーンこそ純粋に理想を追いかけている存在だと思った。

そして期待を裏切られた時の獰猛さも人並み以上なのかもしれない。

 

「・・・どうですか、ユニコーンは怖いですか?」

 

神父が麻紀にそう尋ねた時、麻紀はしばらく考えてから返答した。

 

「・・・いいえ、私はユニコーン好きですよ」

 

そう言ってから麻紀は微笑んだ。

 

 

麻紀は結局、神父に休暇願を出すことにした。

中西の言ってくれた通り、少し児玉坂を離れたほうが良いと思った。

そのほうが誰にも迷惑をかけることもなかったし、

自分自身ゆっくりと考える時間を得られると思ったからだった。

 

その日、教会を立ち去る時、入り口の前にタバコの吸殻が落ちているのを見つけた。

麻紀は黙ってそれを拾い、中西のことを思い出しながらゴミ箱にそれを捨てた。

 

こうしてその日はアパートに帰ったのだが、

その翌日、麻紀は新幹線のチケットを買って故郷に帰郷することにした。

 

 

・・・ 

 

 

静寂を切り裂くような音が鳴った。

麻紀は横たえていた身体を驚いて起こしながら電話を取った。

着歌は児玉坂46の「リコピン」だった。

 

「・・・もしもし?」

 

知らない番号からの着信だったので、麻紀は用心深く電話に出た。

故郷に帰ってきてから一度も鳴っていなかった携帯が鳴った。

止まっていたような時間を前に進める為のアラームだったような気がした。

 

「もしもし、失礼ですが塚川さんの携帯でしょうか?

 私は樫本奈良未さんの知り合いで音楽プロデューサーをやっている者です。

 今、少々お時間は大丈夫でしょうか?」

 

そういえば、いつか奈良未がプロデューサーさんに電話番号を教えると言っていたのを思い出した。

この電話がかかってきたということだけで、麻紀には何を告げられるのかは予想できたし、

それよりも限られた時間が刻一刻と迫ってくるという現実を思い出させられることになった。

 

「来週中には一度、音合わせをしたいと思っているのですが、塚川さんのご都合は如何でしょうか?

 他のメンバーも仕事を掛け持ちしている人が多いので、時間を合わせるのが難しいですが、

 夜遅くでも構わなければスケジュールを抑えてしまいたいと思っていますので」

 

事務的に淡々と語るプロデューサーの話を聞いていると、

他人はこちらの状況などは考慮してはくれないなと思った。

しかし、それが世の中であり社会であるという認識は麻紀には強くある。

ただ、自分が弱気になっていたということを意識させられたことになっただけだ。

 

麻紀の都合の良いスケジュールを告げて、来週のスタジオ入りの時間が決まった。

それまでには児玉坂に帰らなければいけない事情ができたことは、

今の麻紀にはありがたかったのかもしれないと思えた。

何か自分を縛ってくれるものがなければ、このままここから動くことができなかったかもしれないからだ。

 

 

麻紀が故郷に帰ってきてからもう1週間が経過していた。

中西の助言に従い、児玉坂を離れたことは麻紀には随分とリフレッシュになった。

懐かしい道を歩いたり、愛犬と一緒にじゃれあって遊んだりもした。

昔よく行ったレストランにも足を運んで好きなご飯も食べた。

こうした一つ一つのことが、彼女に児玉坂にくる前の彼女を取り戻させていった。

それは逆に、児玉坂に来てから知らない間に自分は多くの事を背負ってきた事を思い知らされたと言えた。

もちろん、それは彼女にとって大切なものなのだが、

山の上から自由に流れていた小川の水が堰き止められて、

海に辿り着く前に行き場を失ってしまうような感覚にも似ていた気がした。

 

そうだ、最後に海を見に行こう、と彼女は思った。

 

小さい頃から釣りが好きだった父に連れて行ってもらった事のある海が麻紀は好きだった。

幸いな事に彼女の故郷のそばにはいつも海があり、少し足を伸ばせばすぐに青い海を見る事ができた。

 

遠くに広がる青色が見えてくると、麻紀は少し心を弾ませながら砂浜を踏んだ。

硬いアスファルトではない感触は、とても不安定だけれど優しい気がした。

東京と違って刺激は少なく、とても地味で人々の目を楽しませるものは何もないが、

それでもこの砂浜を踏みしめる感覚こそが温かさを思い出させてくれた。

 

久しぶりに訪れた麻紀が感じた海の良さは、昔と何も変わらないことだった。

小さい頃に歩いた道や建物は、大人になった自分にはとても小さく感じたけれど、

海はそうではない、海はいつまでたっても広くて大きくて、人間を包み込んでくれる。

自分の身体がいくら大きくなっても、海にはかなわないという懐かしい感動を与えてくれる。

子供の頃、きっと誰もがこの世界に対してそう感じていたそういう当たり前の感じ方を、

海はいつまでたっても人間に思い知らせてくれるような気がした。

 

ふと、麻紀は海には神様がいるように思えた。

それは目に見えるものではないが、今ここにある心の安らぎをくれるという意味だ。

絶対的な存在感を持つ海は、変わる事なく誰しもの理想を真っ向から受け止めてくれて決してなくならない。

 

その景色を眺めていた麻紀は、自分が自然と涙を流している事に気がついた。

その涙の理由は自分にもわからなかったが、この海がくれる安心感なのかもしれないと思った。

そんな風に考えると、ここへ来るまでに辿った数々の自分にとっての懐かしい場所や光景も、

ひょっとすると子供の頃に見た何かの理想の姿を求めていたのかもしれないと思った。

決して掴めない、ふわふわとした淡い郷愁の中には、絶対的な幸福が潜んでいると思える。

過ぎ去った日々はセピア色に色褪せながら様々な感情を濾過し続けていって、

最終的には底に沈殿した美しい記憶だけが残ってキラキラと輝いていく。

どうしてかわからないけれど、そこには現実にある嫌なものはひとかけらも含まれていなくて、

自分の心の中で誰にも邪魔されずに眺めていられる宝物になっていく。

 

麻紀の目からまた涙がこぼれ落ちた。

人はどうしてこんなにも弱い生き物なのだろうと思った。

自分一人で強くなろうとするけれど、大人になった今だって、

結局は誰かに甘えたいと思うし、誰かがいてくれなければ立っていられない。

 

教会のボランティアを通じて何かを受け取っていたのは自分自身だったのかもしれない。

たくさんの信者たちが毎週のように自分を頼って訪れてきてくれたことを、

麻紀はいままでだって何度も感謝の気持ちを持って考えてはきたけれど、

この時、また改めてそれはとてもありがたい事だったと思った。

 

自分は聖母でもなんでもない。

この海のような大きな理想にはなれっこない。

だけど信じてくれる人達の期待を裏切りたくもない。

どうするべきなのか、答えは一向に見つからなかったけれど、

ただ失いたくないから、怖いのかもしれないと思った。

 

麻紀は執着とか煩悩とか、そういう事を思った。

小さい頃からお寺で聞かされてきたことはそういう事だった。

人は何かを欲しいと思うからそこに心をとらわれていく。

自然体であるがままを受け止める事ができれば、そこに苦痛はない。

 

元々、キャラを作るわけでもない麻紀はそういう人だった。

だから他人に何かを求めすぎることもなかったし、

ただ自分を律しながら足るを知る生活を送る事ができていた。

 

そんな事を考えている間に、いつの間にかあたりは少しずつ暗くなってきた。

太陽が水平線の彼方に沈んでいく時、空は薄紫色にぼんやりと浮かびあがり、

夕日は空と海の境界で最後の輝きを今日の世界に放ってくれていた。

麻紀はそれをぼんやりと見つめながらただ時間に身を委ねていた。

 

その時、また携帯電話の音がなった。

ディスプレイに表示されたのは瀬藤りさの名前だった。

麻紀は慌ててその電話を受けた。

 

「もしもし、麻紀?」

 

久しぶりに聞いたりさの声は暖かい気がした。

麻紀は急いで頬を伝う涙を手でぬぐいながら返答した。

 

「りさ、どうしたの?」

 

「どうしたのじゃないわよ、突然実家に帰ったって聞いたから・・・」

 

「ああ、ごめん」

 

心配をさせたくなかった一心で、麻紀は実家に帰る事を神父以外には告げていなかった。

2、3日も滞在すれればまたすぐに戻ってこられると思っていたのに、

気づけば1週間も居続けることになってしまったのだった。

 

「別に謝らなくてもいいけど、魅菜ちゃんが心配してたわよ。

 管理人室にも教会にも、どこを探してもいないからって、

 彼女、今日私にわざわざ電話をかけてきたんだから」

 

そういえばアパート管理の仕事をそのままにしてきてしまったのだった。

特に1週間くらい留守にしても仕事に支障が出るようなものでもないが、

ひょっとしたら廊下の電灯が切れてしまったりしたのかもしれない。

魅菜には申し訳ないことをしたなと麻紀は反省する気持ちになっていた。

 

「ねぇ麻紀、最近何かあったの?

 魅菜ちゃんの様子がちょっと普通じゃなかった気がしたけど。

 ずっと『私のせいだ』って悲しそうに繰り返してばっかりで」

 

その話を聞いて、魅菜は今回の事件に何か気づいてしまったのかもしれないと麻紀は思った。

ひょっとするとSNSで拡散しているあのコンパの写真のことを知ってしまったか、

教会まで探しにきたみたいなので、神父から何か話を聞いたのかもしれなかった。

 

「りさ、今時間、大丈夫?」

 

麻紀はそう確認した後で、自分の身に起きた一切をりさに話した。

思えば同じ写真に写り込んでいる可能性のあるりさも、

全く無関係でいられるという保証もなかったのだ。

何かの誤解で巻き込まれて被害を被らないとも限らない。

そう考えると、洗いざらい正直に全てを話しておく必要を麻紀は感じたのだった。

 

「・・・ごめんね」

 

全ての話を聞いたりさはそう呟いた。

麻紀はこうして話をしてしまえば、りさのことだから責任を感じることもわかっていた。

それは嫌だったけれど、話をしないことも悪いことだと思っていたし、

やり場のない思いに挟まれてしまうよりは、ありのままを受け止めようと思った。

 

「ううん、りさが謝ることじゃないから」

 

「私って、何か麻紀の力になれてるのかな?」

 

りさは無神経に麻紀をコンパに巻き込んでしまったことを悔やんでいた。

これは魅菜にとっても同じことだと麻紀は思った。

彼女たちには直接の責任はないのに、巻き込んでしまったのは、むしろ私のせいなのに。

 

「ありがとう、もう大丈夫だよ」

 

先ほどとは違った種類の涙が溢れてきて、麻紀はまた頬をぬぐった。

余計なたくさんの物を背負ってしまった児玉坂だったけれど、

そこにはかけがえのない仲間たちがいてくれることもわかった。

麻紀には帰らなければならないことだけはわかった。

こうして話したい誰かがいることが幸せだと思った。

 

そうして電話を切った。

麻紀は遠くに沈んでいく最後の夕日の光を見ながら、

もう一度自分はこれからどうするべきなのか必死に考えてみた。

考えて考えて、またやめて、また考えて。

 

「わからん」

 

そう言って麻紀は立ち上がった。

だがその表情には何か吹っ切れたものがあった気がした。

久しぶりにとても自然体で「ふふっ」と笑みがこぼれた。

 

海の向こうを眺めていると遠くから風が吹いてきた。

柔らかい風は優しく麻紀の頬を撫でて去って行く。

風はどうやって生まれて、どうやって消えていくのだろう?

誰の邪魔をすることもなく、ただ優しく人々を癒して消えていく。

 

麻紀は大きく息を吸い込んだ。

そして消えていく今日に向かって大声で叫んだ。

 

「変わらずに、生まれ変わるぞー!!」

 

麻紀は海に背を向けて砂浜を歩いて帰っていった。

夕日もまた、麻紀の言葉を受け止めてから海の底へ帰って行った。

 

 

 

・・・

 

翌日、児玉坂の町に戻った麻紀はすぐに教会へ行った。

神父は平日にも関わらず麻紀を迎え入れてくれた。

 

麻紀が不在だった1週間。

その間にどうやら魅菜は神父に話を聞きにきたらしかった。

そこで聞いた話で、自分が軽い気持ちで連れて行ったあのコンパが引き金となり、

麻紀が大変なことに巻き込まれてしまったという事実を知ることになったらしい。

 

麻紀も実家に帰ってから2、3日は携帯の電源を切っていた。

全てを忘れて一人になりたかったという理由からだったが、

おそらくその間に魅菜は麻紀の携帯を鳴らしたに違いなかった。

だが繋がらないこともあって、彼女は周囲を捜索して色々と事情を探っていったのだろう。

 

それから、神父の話によれば魅菜は教会のボランティアを志願したらしかった。

そして離れて行ってしまった信者の住所を神父から聞き出し、

一つ一つを訪ね歩いているということらしかった。

 

次の日曜日、教会ではイースターという祝祭があった。

イースターはキリスト教で最も大切な祝祭とされているが、

移動祝日とされており、一年で決まった日付に行うものではない。

ただ毎年3月末から4月初め頃に行われることが最も多く、

今年のイースターはちょうど次の日曜日になっていたのだった。

 

クリスマスと同じように、イースターも教会ではちょっとしたお祭りのようになる。

そのイベントを宣伝しながら離れて行った信者に戻ってきてもらえるようにと、

魅菜は自分でイースターのチラシを作成して配り歩いているということだった。

 

麻紀はもうその話を聞いただけで涙が出てきた。

魅菜は毒舌なところもあるし、素直じゃないところもあるけれど、

根底には深い愛のある子なんだなと改めて思った。

照れ屋なので面と向かっては何も言わないけれど、

こんな風にしてちゃんと思いやりの持っている子なのだ。

 

その話を聞いてから、麻紀は偶然にも町で魅菜の姿を見つけた。

手に持ったリストを見ながら、必死に信者の自宅を訪問しているようだった。

呼び鈴を押しては出てくる人にイースターの宣伝をしていた。

時には全く相手にされないこともあったし、犬に吠えられたこともあった。

やっと出てきてくれても相手がお年寄りで話が通じにくいこともあった。

 

「えっ、もう一度いっとくれ」

 

「イースター!教会のお祭り!」

 

魅菜は大きな声で短く正確に発音しながらおばあちゃんの耳元で話かけていた。

なんどもなんども、めげることなく話続けていれば、

何度目の話かで通じることもあったのだ。

 

「ああ、教会のお祭りかい。

 そういえば、あんた去年も出てたねー」

 

「出てません!」

 

魅菜は非常に強い口調でそう答えた。

誤解されるのが嫌だったのかもしれない。

 

「いやー、去年のクリスマスのお祭り?

 魅菜ちゃん出てたねー、あれよかったよー」

 

「一切、出ません!」

 

おばあちゃんと何度も同じことを言いあいながら、

それでもなんとかイースターの宣伝をしてくれる魅菜に、

遠くから眺めていた麻紀は涙をこらえきれなかった。

 

おばあちゃんとの論戦を終えて、がっくりと肩を落としながら出てきた魅菜に、

麻紀はそそくさと駆け寄ってそのまま抱きしめた。

魅菜は驚いた顔で「麻紀!」と言った後、安心したのだろうか、

突然人目もはばからずに号泣し始めた。

 

「麻紀、ごめんねー!」

 

「うん、いいよ、大丈夫だよ」

 

ずっと泣き続ける魅菜を麻紀は優しく介抱し続けた。

麻紀に頭を撫でられながら、魅菜は罪の意識から解放されていったようだった。

 

「イースター、私もまた教会に出るから」

 

麻紀は魅菜にそう告げると、魅菜は一緒に出たいと言った。

「いいよ」と麻紀が言って二人は嬉しそうに笑った。

 

麻紀は先に教会に帰って日曜日のイースター祭りの準備に取り掛かった。

魅菜は一人で信者の家の訪問を続けて宣伝をしていった。

 

日も暮れてきた頃、麻紀が教会で準備作業をしていると、

訪問を終えた魅菜が教会へ戻って来るのが見えた。

「お疲れ様ー!」と遠くから手を振って呼びかける麻紀に、

ゆっくりと遠くから歩いて近づいてきた魅菜はこう尋ねた。

 

「あの・・・イースターって何をする行事なんだろ。

 卵投げつけ合う祭りだったっけ?」

 

遠くでカラスが悲しそうに鳴いた声がして、

こんな風にしてその日は暮れていったのだった。

 

 

・・・

 

 

そんな風に過ごしている間に、すぐに日曜日はやってきた。

土曜日には会社が休みだったりさも宣伝に参加してくれた。

仕事で営業職をしているりさが加わってくれたので、

魅菜と一緒に信者を訪問する効率も上がったし、

説得力のある話し方で、ある時は魅菜と漫才のようなやりとりで、

多くの信者達にもう一度教会へ足を運んでくれるようにお願いした。

 

イースターの礼拝は朝の9時から始まった。

その日はりさと魅菜の協力のおかげもあり、

離れて行った多くの信者達がまた教会へ来てくれた。

麻紀は少しドキドキしながらも礼拝に顔を出した。

神父さんの儀式のお手伝いをしながら、麻紀は教会内を見渡した。

そこには懐かしい顔もあれば、新しい人々の顔もあった。

全ての信者達が戻ってきてくれたかと聞かれれば、答えはNOだった。

一度失った信頼を取り戻すには、従来の何倍もの努力と時間が必要とされたし、

もしそんな風に努力したからといって必ず報われるものでもなかった。

現実はそんなに甘くはなかったのだ。

 

だが、そこには一定数の新しい人々の顔もあった。

それが麻紀にとっては新しい希望でもある。

去る人がいれば来る人もいる、そんな風に入れ替わっていくことは、

少しさみしい気もするが仕方のない一つの事実であった。

麻紀はただ、どんな人にも一生懸命に奉仕したいという思いで、

このイースターを頑張り抜こうと思っていたのである。

 

教会内の長椅子に座っている人々の中にはりさと魅菜の姿もあった。

ここまで関わったのだから参加者として見届けたいという思いと、

戻ってきた麻紀の勇姿を見守りたいという気持ちがあった。

麻紀にとっても見える位置に彼女達がいてくれるのはとても心強かった。

 

「主に感謝」

 

そんなことを言いながら神父はイースターの儀式を進めていった。

時には聖書を持ち出して何かありがたい話をしていた。

大勢の集まった人々がその話を真面目に聞いている姿を見ていると、

魅菜とりさが協力してくれたイースター祭りは成功に終わる予感がした。

合唱の時、起立した魅菜の姿を見ていると微笑ましくなった。

まるでモデルのように綺麗な姿勢で立っていたからだ。

麻紀はそれを見て彼女のモデルの仕事がうまくいって欲しいと祈った。

土曜日に一緒に行動しただけで、すでにりさと魅菜はすっかり仲良くなっていたようで、

何やら二人でひそひそと話をしながら楽しそうに笑っていた。

りさが「もう!」という感じで魅菜の体を叩いた。

その距離感がすでに彼女達の良好な関係を象徴していたと言えた。

 

万事は無事にうまくいき、儀式が終わりに近づいた。

神父は話を全て終え、聖書をパタリと閉じて祭壇を降りようとした。

 

「ちょっと待ってくださいよ!」

 

大きな声が教会の後ろの方向から上がった。

柱の後ろから姿を現したのは、前に告解部屋で麻紀を追い詰めたあの男だった。

その声を聞いた時、麻紀はまた胸がぐっと痛くなって思わず両手で押さえてしまった。

 

「それだけですか?

 こうしてわざわざ多くの人が集まったっていうのに?」

 

男は教会内の全ての視線を一身に浴びながら独演をしていた。

まるで自分こそが悪の告発者であり唯一の正義であるかのように。

 

「形式なんて必要ないんですよ、シスター。

 誰も形式なんて求めていないんだ。

 そんなことあなたでもわかってることでしょう?

 なのにどうしてそんな風に物事を処理しようとするんです?

 どうして我々をバカにするやり方しか取れないんですか!」

 

りさが今にも拳を握りしめながら立ち上がろうとした。

弱いものをいじめようとする人間を、りさは絶対に許すことはない。

それを横から身体を抑えて止めたのは魅菜だった。

魅菜は黙って首を振った、これは自分達が出て行くべきでないことを、

前に失敗した経験から魅菜は気づいていたのだろう。

 

「結局、あんたらは我々を搾取の対象としてしか見ていないわけだ。

 さまよえる子羊に哀れみの視線を向ける振りをしてるだけで、

 本当の意味で我々を救おうなんて考えちゃいないんだからな!」

 

椅子に座っていた信者達は男の言葉を聞いてざわめき始めた。

一度ざわつきが広がると、それは連鎖して止まらなくなっていく。

 

「みなさん、いま聖母マリア像の前に立っているあの女は嘘つき女です!

 先日、彼女が夜にこそこそと男達と楽しそうに食事をしているのを私は見ました。

 シスター、あなたは神に奉仕する身ではありませんでしたか?

 それがどうして汚らわしい男達と楽しそうに戯れていたのでしょう?

 貞潔を守るのがシスターとしてのルールではありませんか。

 どうしてそんな基本的なことも守ることができないのでしょうか!?」

 

信者達の私語はさらに大きくなっていって抑えがきかなくなった。

広がった動揺は真実を確かめるよりも先に憎悪に向けられる。

どんな人間だって一生懸命に生きているという誇りがある。

そんな人間の尊厳を傷つけられることは怒りや憎しみとなって反発を生む。

 

「シスター、もううんざりだ。

 頼むからもうここにその顔を見せないでくれませんか?

 あなたに聖母マリア像の前に立つ資格なんてないんだ。

 さっさと裏口のドアから出て行ってください。

 あなたに一瞬でも聖母の姿を重ねた自分がバカでしたよ!」

 

りさはもう我慢ならなかった。

魅菜が抑えるのも聞かず、立ち上がって叫んだ。

 

「あんた達が勝手に理想を押し付けといて何言ってんのよ!

 誰のせいで麻紀がこんなに苦しんだと思ってんの!」

 

その言葉を聞いた麻紀は右手で口をおさえた。

涙が溢れてくるのをこらえることはできなかった。

ポロポロと涙をこぼしている麻紀を見ている信者達は、

もう何がなんだかわからずにただ混乱した場にうろたえるばかりだった。

 

「あなたの顔、忘れていませんよ。

 そうか、あなた達がシスターをたぶらかしたんですね?

 お願いですから、そんな汚らわしい気持ちで教会に来ないでくれませんか?

 信仰とは心の問題です、あなたのような人にはそんな事はおわかりにならないようだ!」

 

男の言葉が傷つけたのは魅菜の心だった。

彼女の中の薄らいでいた罪の意識がまた頭をもたげてくる。

軽はずみの行為が引き起こしてしまった問題に、

罪とは永遠につきまとうものなのだろうか?

 

「待ってください!」

 

教会の後ろの方にいた男を見ていた信者達は、

一斉に声のする方へ振り向いた。

その言葉を放ったのは聖母マリア像の横に立つ麻紀だった。

 

「私からきちんと説明させてください」

 

りさと魅菜にこれ以上迷惑をかけたくなかった麻紀は、

そう言って神父さんに頭を下げてから祭壇に登った。

その位置の麻紀の後ろに見えたのは、十字架に磔になったキリストの姿だった。

 

「まず、今日ここに集まってくださった皆さんに心から感謝します。

 もう一度、教会を信じてみようという皆さんの温かい気持ちが私には何よりも嬉しかったんです」

 

麻紀が語り始めた時、あれほど騒いでいた信者達の声がぴたりと止んだ。

白いマリアヴェールをまとっている彼女の美しさに目を奪われたのかもしれない。

 

「私は皆さんに謝らなければいけないと思います。

 それは私が正式なシスターではなく、ボランティアでこのお仕事をさせていただいていた事です。

 本当はきちんと洗礼を受けた形でこのお仕事を務めるのが正しいやり方だと思いますが、

 私は偶然にもこの教会に辿り着き、何か運命的にこのお仕事を任せてもらえるようになりました」

 

麻紀が正式なシスターではなかったという事に、信者達はまたざわめいた。

それは洗礼を受けていないという事実の良否を問うものであったかもしれないし、

ボランティアであればシスターとしての戒律を厳守する必要などないではないかという、

今までの見方を覆すような新しい真実への驚きであったのかもしれない。

 

「そのような形でこのお仕事をさせてもらっていたことに関して、

 本当に皆さんには申し訳ない気持ちでいっぱいです、本当にすみませんでした」

 

麻紀は壇上で深々と頭を下げた。

その姿を見たものは、あまりの美しさに声を上げるのも忘れていた。

 

「ただ、厚かましいお願いに聞こえるかもしれませんが、

 私がここで働かせてもらっていた短い間、

 私が感じていた皆さんへの感謝の気持ちについて、

 嘘偽りのない気持ちだという事は信じていただきたいです。

 決していい加減な気持ちでお仕事をしていたわけではありませんでした」

 

麻紀の目からまたポロリと涙がこぼれた。

その涙の美しさを疑うものは誰もいなかった。

 

話を聞いていたりさは、おそらく麻紀はもうこの仕事を辞める覚悟をしていると思った。

彼女の口ぶりからそう取れるような表現があったのに加えて、

長い付き合いであるりさだからわかる麻紀の誠実さと決意を感じていたからだった。

 

「先ほどあちらの方がおっしゃられた男性との会食についてですが、

 それは本当にあった事です、私の軽率な行動が誤解を招くような結果になってしまい、

 信者の皆さんにもご心配をかける形になってしまって本当にすみません」

 

麻紀は会食に行ったのは自分の本意ではないという事実は言わなかった。

言えば魅菜が傷つくだけだとわかっていたからだった。

また、どのみち洗礼を受けた正式なシスターではないのだし、

シスターが厳守するべき規律を守る義務もないのだから、

その部分はわざわざ謝罪をする必要もないのかもしれなかった。

それでも心配をかけたという点について麻紀はきちんと謝罪したのだった。

 

教会内の空気は先ほどとは一変していた。

あの男が糾弾していた時の重苦しさなど微塵もなく、

全ては麻紀の清らかさによって洗い流されてしまったようだった。

信者達はもうすっかりあの男の事など信じていない様子で、

視線をまっすぐに麻紀に向けて放っていた。

ある者はすでに両手を合わせてなにやら祈りを捧げていた。 

 

真っ白なヴェールに包まれた彼女の聖母マリアのような美しさと、

その自分の言葉でしっかりと話をする頼もしさに、

信者達は自分達の全てを預けても構わないというような想いを抱いていった。

それはいつか麻紀が故郷の海に抱いたあの感情に似たものであり、

一言で言い表すならば「神」と呼び表すにふさわしい聖なる存在の希求だった。

何かさまよえる自分達を正しい方向へ導いて欲しいというような、

人間の心の根底を流れる弱さの集積みたいなものだった。

 

「最後に、もう一つだけ聴いていただきたい事があります」

 

麻紀が静かにそう言うと、信者達はみなその真剣な顔を見上げていた。

聖母マリア様の言葉を一言も聞き逃すまいとした佇まいで。

 

「・・・私は、聖母なんかじゃないんです」

 

魅菜はその言葉を耳にして驚きを隠せなかった。

せっかく信者達の信仰をとり戻す事ができたのに、

それを全て壊してしまうような言葉を麻紀が口にしたからだった。

 

「・・・私は、聖母なんてそんな偉い人間なんかじゃないんです。

 私だって皆さんと何も変わらないんです。

 普通の女の子みたいに恋愛だってするだろうし、

 いつか誰か素敵な方と出会えれば結婚だってするかもしれません」

 

信者達も麻紀が放つ言葉の意味に戸惑っていた。

そんな信者達の顔を眺めていた麻紀もまた目から涙をこぼした。

 

「でもそれで残念だなんて思わないで欲しいんです。

 私は皆さんが思ってるようないい人間じゃないかもしれませんが、

 皆さんと一緒に笑っていられるこの児玉坂教会が大好きです。

 いつまでも、いつまでもこうしていられたらいいなって思うんです」

 

確実に何かが壊れていく音が聞こえた気がした。

信者達から麻紀へそそがれていた視線の中に込められていた、

淡い期待や希望、それら諸々を含んだ信仰の中にある救い。

先ほどまで聖母マリアと重なっていた麻紀の姿から聖なるオーラは剥ぎ取られ、

ただの一人の弱い人間としての麻紀だけがそこに残された。

 

信者達はどうすれば良いのかわからなかった。

この世から救いが失われ、残されたのは重たい罪の意識だけ。

その十字架を背負って、人々は一体どこへ向かえと言うのだろうか?

多くの人々は、さまよえる哀れな子羊に過ぎないのだ。

ただどこへ行けと、誰かに指図して導いて欲しい弱い存在なのだ。

 

その時、どこからか清らかな音楽が流れてくるのがわかった。

響きわたるその音楽は、教会内に設置された音響設備から流れてきたのだった。

 

 

 Deep river, my home is over Jordan,

   Deep river, Lord,

   I want to cross over into campground.

 

   Oh don’t you want to go to that gospel feast,

   That promised land where all is peace?

   Oh deep river, Load,

   I want to cross over into campground.

 

   

 深い川 我が故郷はヨルダン川の向こう岸

 深い川 おお我が主よ 

 私は この川を渡り 集いの地へ行きたい

 

 おお あの福音の饗宴へ行きたくはないか?

 すべてが平穏である その約束の地へ

 深い川 おお我が主よ

 私は この川を渡り 集いの地へ行きたい

 

 

麻紀にはこの歌がどういう歌であるのか、全くわからなかった。

だが、麻紀の目の前に座っている信者達は、

この歌を聴いてから一人残らず涙を流し始めた。

 

 

麻紀はこの歌の意味をあとで神父から聴いた。

ヨルダン川とはイエス・キリストが洗礼を受けた聖なる川だという。

それはキリスト教徒達の聖地であるエルサレムを隔てて縦に流れている。

 

昔々、エジプトでの辛い奴隷生活を抜け出した神を信じるユダヤの人々は、

かつて自分達が神と出会った約束の地である聖地エルサレムを目指していた。

彼らは長い旅路の果てに、その聖地に辿り着くことだけをただ夢見て、

そこへ行けばすべての平穏が約束されていると信じていたのだという。

 

そんな人々の希望を乗せた歌がこの「Deep river(深い川)」だった。

 

ユダヤ人にとって聖地エルサレムに帰るということは、

当時の時代背景を鑑みれば、それはそれほど簡単な事ではなかった。

  

だが、人々はただ一心に故郷への想いを募らせていったのだ。

彼らにとってはヨルダン川の向こうにある聖地エルサレムは平穏の地であり、

そこへ辿り着く事ができればすべてがうまくいくとすら考えていたのだ。

そしてヨルダン川は彼らの罪をすべて洗い流してくれると信じられていたのだろう。

 

おそらく彼らが聖地エルサレムに見たものとは、

限りなく夢に近い永遠を想起させるような理想郷だった。

 

そして先ほど、この教会内の信者達が麻紀に見ていたものとは、

その聖地エルサレムと同じ類のものではなかったか。

 

そして誰もがこの深い川を渡って約束の地へ行きたいと願った。

この清らかな川は、その汚れた匂いを全て洗い流してくれるのだから。

 

 

・・・  

 

 

 

嗚咽に近いむせび泣きが続いていたが、

麻紀は深々とお辞儀をして祭壇から降りていった。

そして、またドアの前でお辞儀をして奥へと引っ込んだ。

 

裏口から教会を立ち去ろうとした麻紀だったが、

そのドアを出た時、教会の外壁にもたれていた中西に呼び止められた。

麻紀は中西に背中を向けたままで立っていた。

 

「人間ってのは、救われねぇな」

 

そう言って高い空を見ながらタバコを指で挟んだ。

青い空にゆらゆらと煙が立ち上っていった。

 

「イースター、別名は復活祭。

 十字架にかけられて死んだキリストが蘇った日だ。

 おそらく信者達はあんたの復活を期待して集まったんだろうぜ」

 

麻紀は神父から聞いた言葉を思い出していた。

キリストは磔刑にされて死んだ後にまた復活したらしい。

それはキリスト教徒にとっては罪と死に対する勝利を意味するという。

 

「あんたは見事に復活した。

 だが自ら神のヴェールを脱ぎ捨ててまた人間に戻った。

 聖地エルサレムに続くと思われた聖なるヨルダン川は、

 信者達の目の前に現れて、また突然姿を消してしまった」

 

指に挟んでいたタバコをまた口元へ運ぶ。

タバコの先端部が火で赤く輝いて、彼は大きく息を吐き出した。

 

「あいつらは自分達の弱さを痛感した事だろうぜ。

 だからと言って何が変わるわけでもないがな。

 人々は理想にすがる事なしに生きてはいけないのさ。

 神なき世界を生きるには、人は弱すぎる存在だ」

 

中西がそう言ったが、麻紀は微動だにしない。

ただ二人の間を柔らかい風が吹き抜けていった。

 

「しかし残念だったな。

 あんたが余計な事をしなければ、

 もう少しで奴らを現行犯逮捕できたんだが。

 俺がここに張り付いていた意味がなくなっちまった」

 

中西は鼻で小さく笑い、親指と人差し指でつまんでいたタバコを地面に落とした。

そして足を動かして踏みつぶしながら火を消した。

 

「それで、これからどうするつもりだ?

 教会を去るも残るもあんたの自由だが、

 信者達があんたに危害を加えないとも限らない。

 まあ、この街に残るというのなら・・・ん?」

 

麻紀は振り向いて中西の方へ歩いてくると、

突然ポケットから何かを取り出して彼の前に差し出した。

それは丸いシンプルな携帯灰皿だった。

 

「タバコはポイ捨てしちゃだめですよ。

 神様が見ていなくても、私が見ていますから」

 

そう言って麻紀は地面に落ちていた吸い殻を拾い、

それを携帯灰皿の中に入れて中西に手渡した。

 

麻紀はにっこりと優しく微笑みながら、

後ろへ2、3歩下がると勢い良く振り向いてそのまま歩いて行った。

 

 

・・・

 

 

「モナリザー、スイカ割って~!」

 

まだ小学生くらいの男の子が大きなスイカを抱えてやってきた。

夏が来るにはまだ早いというのに、どこからそれを手にいれたのか、

嬉しそうに魅菜の目の前においていたずらっぽく笑っている。

 

「チョップで割れよー、いんちきすんなよー!」

 

男の子はそんな風に囃し立てる。

どこかで魅菜がスイカをチョップで割っているのを見たと言い張っているのだ。

 

「素手で割れるわけねぇだろ」

 

そう言いながら魅菜は男の子の頭にチョップをした。

それを遠くから見ていた麻紀はおかしくて笑った。

 

「なんだよー、割れよモナリザー」

 

チョップされた男の子はそれでも囃し立てた。

モナリザというのは礼拝の時に変なモデル立ちをしていたので、

子供達が学校の教科書で見たモナリザに似てたと騒ぎ出したのだった。

チョップを受けたはずの男の子が平気だったのは、

実は魅菜のチョップは実はとても優しくて痛くなかったからだった。

口は悪いが根は優しいのが魅菜だったのだ。

 

「あーもう、うるっさい!

 あっちのセクシー姉さんに頼みなさい」

 

魅菜が指差したのはりさの事だった。

隣に立っていたりさは嬉しそうに微笑んだ。

りさは何もしていなくても男性に好かれる蠱惑のオーラがある。

 

「あら、何その呼び方ー」

 

りさは少し照れたようにまんざらでもなかったが、

子供達にはいまいちピンとこなかったのが不満だったらしい。

 

「えー、じゃあ、ビー玉ババァでいい?」

 

魅菜がそのあだ名を口にした時、周囲にいる子供達は大爆笑していた。

どうやら子供にも覚えやすいキャッチーなフレーズだったようだ。

 

「はい、あのビー玉みたいなオバさんに頼ってね」

 

「お前ー!!」

 

りさは子供達に笑われながら魅菜をグーで軽く殴っていた。

その仲睦まじい様子を、麻紀は遠くから見て微笑んでいた。

 

 

・・・

 

 

礼拝が終わって裏口から出た後、麻紀は教会を立ち去ろうとした。

表に回ってそのまま出て行こうとした時、後ろからりさと魅菜に呼び止められた。

 

後ろを振り向いた麻紀は、二人が走って駆け寄ってくるのを見た。

そして、りさは何も言わずに麻紀を抱きしめて泣き始めた。

 

「麻紀、よく頑張ったね」

 

「ううん、りさもそばにいてくれてありがとう」

 

魅菜は照れくさいのか、そこまで露骨に感情を表すことはなかった。

だが、りさが麻紀から離れた時に魅菜も麻紀に言葉をかけた。

 

「私は聖母としての塚川麻紀じゃなくて、塚川麻紀を見て好きになったから・・・」

 

そう言って少し黙った後、顔を上げて麻紀の目をまっすぐ見つめながら言った。

 

「だから、どこに行っても、ずっと幸せだったらいいなと思う」

 

麻紀はそんな風に言ってくれた魅菜が大好きだった。

たとえ聖母じゃなくなったとしても、この子達は自分をちゃんと見てくれると思った。

 

「ああ、ここにいたんですか」

 

そう言って声をかけてきたのは神父だった。

教会の裏口から出て行く麻紀を追いかけてきたようだった。

 

「あっ、神父さん、本当にすみませんでした。

 あんな風に勝手にめちゃめちゃにしちゃって・・・」

 

麻紀は先ほど勝手に礼拝を謝罪の場に変えてしまったことを詫びたつもりだった。

 

「いえ、こちらこそ自分の教会なのに何の手も差し伸べることができませんでした。

 麻紀さんに辛い思いばかりさせてしまったのは全て私の責任です」

 

神父は麻紀にこの仕事を引き受けさせた責任を感じていたのだ。

だが、麻紀はもう誰のせいでもないと思っていたし、そうしたかった。

誰かが罪の意識を背負い続けていくのはもう終わりにしたかった。

 

「いえ、神父さんは何も悪くありませんから・・・。

 それでは、もうここで失礼します」

 

麻紀はまた神父に頭を下げてその場を立ち去ろうとした。

それをまた呼び止めたのは神父だった。

 

「麻紀さん、もしよろしければ最後に私のわがままを聞いていただけませんか?」

 

 

・・・

 

 

「モナリザー、もうちょっと右!」

 

結局、魅菜がすいかをチョップで割れないと知った子供達は、

しぶしぶながら棒と鉢巻を持って戻ってきた。

 

魅菜は剣道を習っていた腕前を披露して子供達の尊敬を集めるべく、

仕方なしに鉢巻を頭に巻いて棒を掲げてすいかを割ろうとしたのだ。

だが、いつの間にか鉢巻は額からずれ落ちてきて目隠しの形になってしまった。

 

目隠しをしたまますいか割りをすることになった魅菜を子供達は囃し立てたが、

それを見ていた大人たちはそれを「独眼竜のすいか割り」と呼んでいた。

いずれにせよ、その場ではりさが嫉妬するほどの注目を魅菜は集めていたのだ。

片目で平常の感覚を失ってしまった魅菜は見事にすいかではなく地面を叩いてしまった。

 

やがて子供達は麻紀の元へと集まっていった。

今から始まるのはエッグハントと呼ばれるイースター祭で行われる遊びで、

子供達は周辺に隠されているイースターエッグを探し回るのだ。

それはちょっとした宝探しゲームだったが、見つけた卵は食べられるということで、

子供達のテンションは高まっていったようだった。

 

麻紀は礼拝が始まる前からイースターエッグをせっせと準備していた。

イースターエッグは中身は結局のところゆで卵なのだが、

その卵にはカラフルな色が塗られていたり綺麗な絵が描かれていたりするものだ。

このイースターエッグの由来は諸説あって詳しいことはわからないのだが、

古くからキリスト教に伝わるものであり、それを探すエッグハントも大変人気があった。

 

「さあ、みんなにはこれから教会の中に隠れているイースターエッグという卵を探してもらいます」

 

麻紀はイースターエッグを一つ手に持ちながら子供達にルールの説明を始めた。

その様子は、さながら優しい保育園の先生を思わせた。

 

「卵を隠しちゃったのはイースターバニーと言ううさぎです。

 この教会のどこかに一つだけ、そのイースターバニーの絵が描かれた卵が隠されています。

 そのイースターバニーが描かれた卵を持ってきた子には、なんとお菓子をプレゼントしちゃいます!」

 

子供達は今までにない興奮を見せてはしゃいでいた。

向こうのほうでは大人たちに囲まれながら魅菜がまだ独眼竜のすいか割りを続けていた。

 

「じゃあ、イースターエッグを見つけた人はお姉さんのところへ持ってきてください。

 それでは行きますよ、よーいスタート!」

 

麻紀の掛け声を合図に子供達は散らばっていった。

教会内のあちこちを探して早く卵を見つけたい様子だった。

 

一人だけなぜか勢い良くりさのところへ走っていく男の子がいた。

「えっ、お姉ちゃんはイースターエッグじゃないよー」とりさは言ったが、

その男の子はイースターエッグなど関心がないようでりさのそばを離れなかった。

 

そんなりさの様子を見て麻紀はまた微笑んだ。

独眼竜がまた地面を叩く音が聞こえた、それも幸福な響きだと麻紀は思った。

 

 

 

「大人の信者さん達がどう考えるかはわかりません。

 ですが、イースター祭を楽しみにしていた子供達がたくさんいます。

 どうか、イースター祭のあいだだけでも子供達の相手になってあげてくれませんか?」

 

 

神父さんのその言葉に、麻紀は教会を去るのを踏みとどまったのだった。

エッグハントをしているあいだも、大人の信者達は麻紀に何も声をかけなかった。

あんなことがあったので、どう声をかけて良いかもわからなかったのかもしれない。

ひょっとしたら、もう麻紀を教会にいる資格がないと思っていたのかもしれない。

真実は何もわからなかったけれど、とにかく子供達には罪はないと思った。

麻紀はとにかくエッグハントを楽しんでやりきろうと決めたのだった。

 

先ほど散らばっていった子供達が次々と見つけた卵を持って帰ってきた。

麻紀がデザインした絵柄や色で飾られたイースターエッグはどれも可愛かった。

もちろん、絵も上手な麻紀であるが、何よりもその絵には彼女の愛情が溢れていた。

どれも見るものの心を和ませるような、そんな優しい模様ばかりが描かれていたのだ。

 

しばらくすると、まだ小学生くらいの小さい女の子がイースターエッグを持ってきた。

麻紀がそれを確認すると、表面には麻紀が描いた2重あごでずん胴な体をしたうさぎが描かれていた。

卵の裏側には「わー、見つかってしもうたー!!」という遊び心のあるセリフが書かれてあった。

 

「あっ、おめでとー、これがイースターバニーの卵だよー!」

 

女の子は想像していたうさぎよりもでっぷりと太っていたのが腑に落ちなかったようだったが、

麻紀がイースターエッグ型の包み紙に入っているチョコレートを渡すと、

その子はにっこりと微笑んで飛び跳ねるようにして親の元へ帰って行った。

 

ちょうどその時、遠くから独眼竜がやっとすいかを叩き割った音が聞こえてきて、

どうやら魅菜の周辺は大人たちの歓声で包まれていたようだった。

 

 

麻紀はエッグハントが終わると、キッチンへ行って余った卵で料理を始めた。

子供達が見つけてきたカラフルなイースターエッグは一度回収し、

それぞれ殻をむいてサラダに添えて子供達に提供することにした。

ゆで卵にしなかった余った卵は、オムライスにして消費することにした。

麻紀が卵を割って料理をする様子を子供達が覗いていた。

 

「カラザは栄養満点、捨てちゃだめよ!」

 

子供達にそうレクチャーしながら、麻紀はおいしそうなオムライスを作り上げた。

表面にはケチャップでそれぞれの子供達の名前を書いてあげた。

 

子供達は椅子に座ってテーブルに乗せられたオムライスを美味しそうに食べていた。

その満足そうな顔を見つめた後、麻紀はキッチンで手を洗ってタオルで拭いた。

 

そして誰にも気づかれないようにその場を離れた。

神父との約束を果たした麻紀には、もうここにいる理由はなかったのだ。

子供達にばれないように、音を立てずに建物を出て行った。

 

「・・・麻紀さん」

 

ドキッとして後ろを振り返ると、そこには男の人が立っていた。

こっそりと出て行こうとしたのがどうしてバレたのだろうか。

 

男は何も言わずに麻紀の手首を掴んだ。

痛いと思いながらも麻紀は抵抗できず、男は麻紀をムリやりに教会まで連れて行った。

教会の扉を開けて中に連れ込まれてから、麻紀はその男の手首を振り払った。

お互いに息が上がってはぁはぁという二つの荒い呼吸音が聞こえる。

 

「・・・麻紀さん、行かないでください」

 

男は哀願するような口調で麻紀に対してそう言った。

麻紀はわけがわからず、その男の方へ顔を向けた。

 

麻紀がそこで見たものは、告解部屋へ続く人々の長い行列だった。

 

「・・・麻紀さん、みんなあなたを待っていました」

 

老若男女を問わず、そこには麻紀を待っている信者達の姿があった。

そこで行列を作っていた人々は、みんな麻紀の告解を求めていたのだ。

なぜならそこには、今、懺悔したい誰かがいるのだから。

 

「・・・聖母なんかじゃなくても構いません」

 

行列に並んでいた女の信者がそう叫んだ。

みんな黙って麻紀の方を見つめていた。

 

「・・・私たちはあなたに話を聞いて欲しいんです!」

 

麻紀は右手で口を押さえながら両目から涙が流れたのがわかった。

その女信者は行列から飛びでて麻紀の方へ走ってきてその手を取った。

彼女に手を引かれながら、麻紀は行列の横をすり抜けて告解部屋の中へ入った。

 

カーテンを閉めて両手で涙を拭って、その両手で口を押さえて目を閉じた。

まだ次々と溢れ出てくる涙を止めることができずにいたが、

麻紀はそばにあった加湿器の「かしおくん」のスイッチを押した。

その起動音はほんのわずかでしかなかったけれど、

麻紀にはそれすら幸福の響きであったように感じた。

 

 

・・・

 

 

数週間後、麻紀はまだ教会でのボランティアの仕事を続けていた。

 

あの事件を通じて変わったこともあった。

以前ほどみんなは麻紀のことを聖母と呼ぶことはなくなった。

だが、やはり同じように自分に理想の姿を投げかけてくる人々もいた。

中西の言ったように、人間はそう劇的に変わることはなかったのだ。

 

それでも麻紀は告解の仕事を続けることに決めた。

自分のことを求めてくれる人々がいる限り、自分から仕事を投げ出すことはしなかった。

 

りさはまた忙しいOLの仕事に戻ったようだ。

魅菜も相変わらずよくわからないが、どこかへ出かけたり麻紀を追いかけまわしたりしながら過ごしていた。

先日、部屋へ遊びに行った時には新しいポスターが壁に貼られていた。

「鎖骨まで可愛い」と書かれていた言葉にはさすがの麻紀も少し引いた。

それでも魅菜は相変わらず麻紀のかわいらしいアパートの住人だった。

 

ある日、麻紀がアパートの庭を箒で掃除していると、

中西と思われる人物がその前を通りかかったので麻紀は声をかけた。

久しぶりに会った中西はなぜか目の下に尋常ではないほどのクマを作っており、

頬も随分とこけていたように麻紀には見えた。

おそらくよほど忙しくて睡眠をとる暇もないのだろうと思えた。

 

麻紀は中西を呼び止めて、急いで管理人室へ入っていった。

そして部屋から飛び出してくると、何やら中西に手渡そうとした。

 

「今度、明治野外スタジアムで桜木レイナちゃんのバックバンドで演奏するんです。

 もし忙しくなかったら、このチケットで見に来てくれませんか?」

 

麻紀が中西に渡そうとしたのは出演アーティストだけが配れるVIPチケットだった。

このチケットを持っていれば招待客ということで特別席でライブが観られるし、

楽屋裏に遊びにくることだって容易いはずだった。

 

後で神父に話しを聞いたところによれば、あの「Deep river(深い川)」の音楽を流したのは中西だったらしい。

彼は裏口から様子を伺いながら、あのタイミングであの曲を流すように手配したようだった。

あの音楽が信者達にどういう影響を与えるのかを理解した上での行動だったのだろう。

 

麻紀はいつか自分を助けてくれた中西に恩返しをしなければと思っていた。

そこでライブに招待する機会を、その恩返しに当てようと思ったのだ。

 

(・・・ちっ、よりにもよってこのライブに出演するとはな・・・)

 

中西は麻紀が手渡したVIPチケットを確認してそう心の中で密かに思った。

これは今、彼が睡眠時間を削られてまで追いかけている事件に関わるライブだった。

 

「・・・悪いが、その日はどうしても外せない大事な仕事が入っている。

 残念だが俺はこのチケットを受け取ることはできない」

 

中西は指で掴んでいたチケットをひょいと麻紀に返した。

麻紀は少し残念そうな顔を見せたが、仕事であれば仕方がないと納得した。

 

「・・・ライブは観れないかもしれないが、おそらく近くで演奏を聴くことはできるだろうな。

 いや、それはあんたには関係のないことだ、せいぜい演奏を頑張ってくれや」

 

中西はそう言ってその場を立ち去っていった。

だが、実は電信柱の後ろに隠れて麻紀が建物の中へ入っていく姿を見守っていたのだった。

 

中西はポケットからタバコを取り出してライターで火をつけた。

大きく息を吐いて煙が空に吸い込まれるのを見つめた。

 

「やれやれ、命懸けの仕事になりそうだ、あんたのおかげでな」

 

この神に見捨てられたユニコーンは、おそらく世界の終わりが来てもノアの方舟には乗れないだろう。

だが、そんな見捨てられた男にも手を差し伸べてくれた乙女の命だけは死んでも守らなければならないと思っていた。

 

(・・・VIP客か、なるほど、その方法があったか・・・)

 

中西はまた大きく息を吐いて煙を吐いた後、

ポケットから携帯灰皿を取り出して、吸い終わったタバコの火を消して蓋を閉じた。

もう一度だけアパートの方向をじっと見つめた後で、

彼はゆっくりと振り返ってまたどこかへ向かって歩き出した。

 

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

今、懺悔したい誰かがいる ー自惚れのあとがきー

 

 

この作品の構想はさかのぼると去年からずっとあった。

「個々にある理由」で中西というキャラクターが登場するが、

その段階でもう携帯灰皿を使っているのが読み返してみるとわかるが、

これはもうその当時から筆者の頭の中にほぼ完璧に近い形で今回の物語があった事を意味している。

 

この作品を閃いたきっかけは、アニメかアイドルか何かについて、

ネットで検索していた時に見つけた誰かの言葉だった。

今探してみても同じ言葉は見つける事ができず、正確な表現は忘れてしまったのだが、

「それは神と同じ文脈の中にある記号である」というような表現だったかと思う。

筆者はこのような表現の言葉にインスピレーションを受けてこの物語が勝手に生まれてきた。

 

この物語の主題となっているのがその言葉の意味であり、

筆者の解釈で言えば、偶像に向けられる理想というのは、

それは古代に神へと向けられていた気持ちに近いものである、というような感覚である。

 

もしかするとこの感覚は難しすぎて伝わっていないかもしれない。

あとがきで説明するのは小説にした意味がない気もするが、

少しだけ書いておきたいように思った。

 

簡単に言えば、人間は何か完璧に近い理想を求めてしまう生き物であり、

それに触れている時に安らぎを得る事が出来る。

その感覚はひと昔前は神に投げかけられていたのだが、

科学が発達した現代ではアニメやアイドルに向けられているのではないか、

というような意味合いである。

 

もっと簡単に言えば、例えば筆者も塚川麻紀のように怒らない聖母みたいにな人に、

その完璧な女性像を求める事で「女性は美しいものだ」という幻想として持っていたいし、

それがエスカレートすればトイレに行って欲しくない、恋もして欲しくないとなる。

その理想と一致する形で存在して欲しいと思ってしまう心が誰しもにあるのではないか。

なぜならそういう完璧な人といると安らぎを得る事が出来るし安心だからだ。

普通の恋人同士であれば喧嘩別れするかもしれないし、夫婦だったら離婚するかもしれない。

だがアニメやアイドルであればそうはならない、ずっと理想の姿を見ていられるので楽だ。

 

ただし漫画やアニメは二次元であって創造物であるという偽物感がどうしても拭えない。

アイドルはそれらの理想的な姿を具現化した三次元の存在であるからよりリアリティーがある。

だが、リアリティーがありすぎると人間臭さが見えすぎてしまう嫌いがある。

だから「恋愛禁止」という無茶なルールを用いてその人間臭さを剥ぎ取っていく。

そうすれば彼女たちは少し幻想性を帯びた神セブンや七福神となっていく。

 

ちなみに、宗教というテーマは現代人には少し遠い話のように思われる気がする。

以前のオウム心理教の事件などで宗教に対するいかがわしさのような思いが高められ、

宗教とは危険であるというイメージが現代人には根付いてしまったように思う。

だが、本来的に宗教というのは科学のなかった時代には人間にはなくてはならないものだった。

筆者はそういう意味で宗教を一つの思想と捉えているし、個人的には無神論者である。

特になんの宗教を信仰している事もない、だが信仰を悪い物だと非難する気もない。

 

なぜなら、合理主義と経済至上主義が浸透してしまった現代社会では、

「心」という物を取り扱う場所が宗教以外になくなってしまっているからだ。

西欧諸国にとっては宗教とは道徳を兼ね備えているものであり、

宗教があるから思いやりや助け合いの精神が保たれているとも言える。

だからこんな殺伐とした心を忘れた現代社会に疲れたエリート達が、

(聡明なエリート達だからこそ)オウムのような宗教に心を求めたのも理解できない事はない。

だが、オウムがああいう事件を起こしてしまったがために宗教はさらに現代人から遠い存在になってしまったが。

 

塚川麻紀がなぜこれほど慈愛に溢れた性格を持っているのかは、

ひょっとすれば祖父が住職をしている事に関係しているのかもしれないと筆者は思った。

「心」を大切にする宗教が、信仰の程度は知らないが、小さい頃から彼女のそばにあったのだと思われる。

そういう精神が知らず知らずのうちに彼女の中に染み付いていったのではないだろうか。

 

強調しておきたいが、宗教というものは決していかがわしいものではない。

筆者は宗教を信仰しているわけではないが、今回の執筆の為に初めて教会を訪れた。

そんな筆者を教会の人々はとても優しく迎えてくれたし話を聞かせてくれた。

そしてやはり、こういう人々は現代人が無くしてしまった「心」を尊ぶ世界に生きていると感じた。

 

もう少し補足しておくと、合理主義とは感情を無視するようにして、

ただ論理的に物事を進めていくあり方のことであって、

それは筆者も含めて我々が小さい頃から当たり前のようにそばにあった考え方だ。

簡単に言えば120円払えばジュースがもらえるという事実であり、

そこには感情がない、どれほど喉が渇いている人であっても、

120円がなければジュースを飲むことができない。

 

合理的に考えることが全部悪いわけではない。

それがなければ我々は突き詰めるとお金でジュースが買えなくなる。

人々が皆感情的に動いては、誰も合理的に缶ジュースを生産しなくなる。

それもおかしい。

 

だが、喉が渇いている人がいれば飲み物をあげたい、

という考え方は素直な感情として人間の中にはあるものだ。

それを合理主義だけを突き詰めていくと無視してしまうことになる。

アイドルで言えばCDさえ売れればどんな方法を使っても、

極論を言えば騙しても良いということにつながる。

嘘をついてお金だけを稼げれば騙される人の心は無視されることになる。

 

だが、なぜ塚川麻紀に人々は癒されるのか?

それは人間の素直な優しさと思いやりという感情を彼女は持っているからだ。

こんなことを考えているうちに、筆者は麻紀を通じてまだ書きたいことが残っている気がした。

そこで「春、シオンが泣く頃」で少しだけまだ書いてみようと思うようになった。

 

 

Deep river(深い川)という黒人霊歌を知ったのは、

筆者が情報収集の為にグーグルに「深川」とか「深い川」とか打ち込みすぎたからだ。

これは黒人の歌なので、もともとはアメリカで生まれた歌である。

 

ただ、この歌を聴いた時に筆者は歌詞を見て体が震えた。

もう一度解説の為に少し歌詞を引用してみよう。

 

 

 深い川 我が故郷はヨルダン川の向こう岸

 深い川 おお我が主よ 

 私は この川を渡り 集いの地へ行きたい

 

 

ここで筆者が感じたインスピレーションと感覚が物語の核心であると言っても良い。

この曲の歌詞は、聖地エルサレムへ帰りたい強い願望を歌っているのだが、

「川」という媒体を通じて聖なるものへ繋がるという流れが見える。

 

そこで筆者が感じたのは、「塚川」さんという人を通じて、

人々は何か聖なるものへとつながりたいと思う気持ちと重なって見えたことだ。

彼女を「聖母」という理想に仕立て上げることで、癒されたいと願う人々の気持ちは、

理想の地である聖地エルサレムに「ヨルダン川」を通じて向かいたいという気持ちと似ていないだろうか?

どちらも聖なる「川」であり、人々の心を浄化してくれるのだから。

これは決して言葉遊びではなくて、人間の行為が構造的に似ているということだ。

 

ただ、人を媒介として理想を投げかけるのは偶像にされる側に葛藤が生まれる。

彼女のドキュメンタリー映像を見て、筆者の仮説はなんとなく確信に変わった。

聖母というレッテルを貼られることに恐怖を感じることは当然で、

彼女はヨルダン川でなく人間なのだから、そこに葛藤が生まれるのだ。

 

しかし、一方で彼女に理想を投げかけたい人々の気持ちも自然なものだ。

それを咎めることができないのは彼女自身にもわかっているから、

そこにドラマが生まれる、解決しきれない人間の問題が生まれる。

どちらが悪いとも言えないし、何が正しいとも言い切れない。

 

だが、こういう結末を用意したのは、

そういう葛藤があっても、人間としての麻紀が美しい人であり、

許されるべき資質を持っていると筆者が思うからである。

イースター祭で描かれているのは小さな幸福の場面である。

理想的な聖母ではないが、些細なことで微笑むことができる生き方である。

そういう部分を大切にできる麻紀には、

やはり聖母でなくても人としての美しさを感じずにはいられない。

(もちろん、人間なのだから完璧でなくて汚い部分があってもいいのだが)

 

 

久しぶりに登場したりさは、やはり安定感のある人だった。

ちょっと滑稽な場面も引き受けてくれるし、危機に陥った時は極めて心強い。

麻紀は終始控えめになりがちなキャラなので、りさの存在はありがたかった。

 

眞木はそれほど全面には出なかったが、構想としては前からずっとあった。

まだ今作では披露していない設定も実はたくさんあって、

今後活躍する可能性は大いに秘めているキャラだと思っている。

 

魅菜は個人的には書いていてとても楽しいキャラだった。

性格の悪い筆者の代弁者として色々と毒を吐いて活躍してくれた。

前半は少し悪い風に描きすぎた、この子は本当はとてもいい子である。

物語の展開的にああするしかなかったのだから許してほしい。

だが、個人的に魅菜にはもっと「いたずらな悪ガキ」であってほしいと思っている。

本当はもっともっとポテンシャルを秘めていると感じているし、

かわいいキャラでいたいかもしれないが、もっともっとめちゃくちゃしてほしい。

そうしたほうが絶対にこの子は伸びると思っている、可能性は無限大にある。

 

ちなみに、この作品には長くなるので入れなかったが、

魅菜はテーマパークでアルバイトをしている設定になっていて、

みんなから可愛いと呼ばれる猫の着ぐるみを被っているバイトをしている設定がある。

筆者は本当はそのバイトを辞めて次の新しい職業へ移っている魅菜が書きたい気もしている。

 

 

今回、麻紀の卒業に間に合わせるように書かなければいけないこともあり、

短期間でボロボロになりながら書いたので、かなり荒削りで納得いっていない箇所もあるのだが、

全体的には筆者らしい作品になったと感じてもいる。

 

いじわるな筆者のため、麻紀を物語の中で色々と追い詰めてしまったことは申し訳ないと感じている。

「春、シオンが泣く頃」ではそんなことはない、はずである。

 

 

ー終わりー