個々にある理由

遠くで鳴るテレホンの音に意識を釣り上げられて手を止めた。

この部屋を隔てた壁の向こう側で、誰かを呼び続ける寂しい音が鳴り続いていた。

蚊の泣くような寂しい音は、何度か繰り返し虚しく響いた後で鳴りを潜めた。

 

私はふと後ろを振り返って呼び出し音の鳴っていた方向を虚ろに見つめた。

パパかママが受話器を取ったのだろう、かすかな話し声が振動だけを耳に届かせていた。

白い壁の向こうの話には1ミリも興味はなかったけれど、

視界に飛び込んできた部屋の壁の白さに寒気を覚えてまた机に向き直した。

 

 

千切ったノートの切れ端に描きかけた虹色のカメレオンに意識を戻し、

紙上に色鉛筆を柔らかく滑らせた後で、最後に悲しそうな瞳を描き加えた。

描かれたカメレオンは、やがてモゾモゾとその手足を震わせながら、

ゆっくりと紙から身体を起こし、私の机を這いながら地面へ降りていった。

 

 

やがて彼は私が先ほど描いた緑色のバッタに狙いを定めた様子で、

その悲しそうな瞳をギョロリと二、三度獲物へ向けて見せた後、

おもむろに口から二ュルリと舌を出して、それが勢いよく放たれたかと思うと、

時計の秒針がわずか1秒を刻む間も無く、バッタはカメレオンの口の中へ消えていった。

こうして、一つの生命は刹那にその輝かしい活動を終えたのだ。

 

下顎の部分をグロテスクに波打たせるようにして捕食を続けた後、

何もなかったように彼は地面を這い、やがて私が先ほど見つめた白い壁に張り付いた。

 

そして、やがてみるみる内に白い壁と同化して見えなくなってしまった。

どうせ30分後に消えてしまう彼に、私はもう全く興味をなくし、

ただ先ほど寒気を覚えた白い壁をじっと見つめて思ったのだ。

 

 

頼りない壁、それが人生のすべて。

誰も見ていない間にそっと一部をくりぬいて向こう側を覗く。

漆黒の闇が宇宙の始まりみたいに滔々と流れている景色、素敵だ。

 

 

・・・

 

 

翌日、とても怖い夢を見て目が覚めた。

ここにいるのは今の自分であるはずなのに、

今、ここにはいないのだ。

 

 

・・・

 

 

ベッドから身を起こした私は、いつものようにむなしく虚空を見つめていた。

何度同じ夢を見たのだろう、あの奇妙な感覚は誰にもうまく伝えられない。

ただ、私は自分の存在をどうやっても肯定することができないのだ。

私の中の意識は、確かにそこにいる私の感覚をくれるのだけれど、

同時に、私は確かにそこにいない感覚を意識させられることになる。

 

 

何度も経験するこのような空虚な朝は、結局私をまた机に向かわせるのだった。

寝ている間に汗もかいていたし、もちろんお腹も空いているのだけれど、

それらを解決したところで、私の心の渇きを少しも潤すことはできない。

 

 

私は色鉛筆の丸くなっている先端をまたスケッチブックに走らせた。

紫陽花、パンジー、チューリップ、蝶々、ヤモリ、蛇、鳥。

思いつく限りの植物や生物をスケッチブックに描写して行くと、

それらは全て命を与えられて画用紙の中から飛び出し、

淋しさしか残っていなかった私の部屋中に次々とあふれていった。

 

そうして私の背後は見る見るうちに幻想的な光景で満たされていったのだが、

ただ私は、生み出したそれらに一瞥もくれてやることなく、

その後も、ただ夢中でスケッチブックに色鉛筆を滑らせ続けた。

 

虚妄だ、美学だ、うぬぼれだ、人はなんとでも言うが、

結局私にはこれしかないのだ、これしかないのだ。

 

 

 

・・・

 

翌日は朝から雨が降っていた。

私は部屋にある小さな窓に掛かっているカーテンを引いて、

淡色に煙っている景色を眺めていた。

 

物憂げなまま、それでも好奇心に引きずられて、そのまま小窓を開けてみた。

涼しい空気に含まれた水分の匂い、嫌いじゃない。

鼻で呼吸をして取り込む酸素は幾分かの悲しみを含んでいる気がした。

でも、それは鼻腔に雨の香りを冷たく残したあとで、

ひんやり肺まで吹き抜けていって身体の内部を洗浄してくれた。

 

しばらく外の景色を眺めていて、ベッドの上に置いていた携帯電話の振動音が響いた。

私の携帯電話は常にマナーモードで、決してうるさい音を出すことはない。

 

それはSNSサイトに登録されている友人の記事のアップデートの知らせだった。

開いて内容を確認すると、昨年引っ越してしまった親友の尾藤音々に関する通知だった。

大学でバンド活動を始めたらしい彼女は、新天地で活躍している写真と共に、

その充実して満たされていた生活に関する記事をアップしていたのだった。

 

 

私は彼女に関する記事にザッと目を通した後、最後にアップした私自身の記事が目に入った。

最後に更新したのはもう4ヶ月以上前で、そこには音々と一緒に笑っている写真や、

自分一人でおどけて変顔をしている写真が記録されていて、

そしていつの間にか誰かの「いいね!」が二桁以上にも溜まっていた。

 

けれど、その記事を最後に更新するのを止めてしまったのだった。

 

目に見えない蜘蛛の巣みたいな無神経な電波の繋がりに絡め取られていく人々。

刹那に途切れてしまうかもしれない命を限りなく透明になるまで薄めていって、

その果汁0%に近いまずいトマトジュースを永遠に飲み続ける人生。

いつの間にか自分の血液がそのトマトジュースにすり替わってしまっていて、

でも何も気づかない、血を流すまでわからない、知った時にはもう最後の瞬間。

 

だから、私が「いいね!」の意味を決して尋ねることはない。

 

 

・・・

 

 

両親と同じようにファッションデザイナーを目指していた私の最近の楽しみは、

自分で描いた衣服を具現化させて一人でファッションショーを行うことだった。

デザインを描くのは得意だったけれど、まだ母のように自分で作ったりできなかった私にとって、

たった30分間とは言え、紙の上で描いたものをそのまま試着できるのは何よりも嬉しかった。

 

 

古着みたいな個性的なシャツ、森ガールみたいなもこもこのニット、

リメイクしたようなテイストのダメージジーンズをロールアップして履いて、

Dr.Martens×万理奈を勝手にイメージしたチェリーレッドのお気に入りのブーツ、

隙間から覗くポップな可愛い靴下が映える、私だけのファッションショー。

 

 

全て私のデザインから生まれたハンドメイド達のぬくもりに包まれて、

ここ最近は至極ゆるい生活を過ごし続けていた。

もうしばらく下北や高円寺へ買い物にも行っていない。

古着を探しに行かなくても、私の頭の中にある洋服を着ればそれで楽しかった。

 

3ヶ月前まで通っていたデザインの専門学校もとうとう辞めてしまった。

でも学校を辞めたことは今でも別に後悔はしていない。

つまらない人間関係や組織に自由の感性を拘束されて生きて行くのは、

それは曇り空にかかる鬱屈した空気の層を一枚一枚剥ぎ取るような、

永遠にも思える退屈と倦怠を要求される作業だからだ。

私にはそんな生き方は向いていなかった。

だから今みたいに自分の部屋を自分の世界で埋め尽くして遊ぶ方が楽しい。

幼稚な男子のバカ笑いしか響いてこないつまらない教室よりも、

私の部屋に飾ってあるメキシコやモロッコの雑貨の方がたくさん刺激をくれる。

 

 

ただ、問題なのは、あまりに長い命の残り。

この部屋は私の好きなもので埋め尽くされていって、

それはとても幸福なことなのだけれど、

彼らが酸素を消費するせいで、私の呼吸が苦しくなる気がする。

このアンニュイな空間の中で生涯を終えたくないのは確かだった。

私は私の理想に近づいているのは確かなのだけれど、

同時に何か理想から遠のいているような苦痛すら感じていた。

またあの夢を見るのが怖かった。

 

 

胸につけている最近のお気に入りの蝶のブローチを左手でギュッと握りしめて、

またスケッチブックに向かって直感的に思いついた物を描こうとした。

眠れなくなって描きあげたのは虹色の髪を持つ少女の絵だった。

白いワンピースを纏った小さな少女は、スケッチブックからヒョイと軽く飛び出し、

私に向かって軽く照れくさそうにお辞儀をした。

 

 

私は机に置いた両手に突っ伏して気怠そうにその少女を見つめていた。

無意識から生まれた虹色の髪を持つ少女。

光に包まれた彼女は、私の机の上でなぜか一人踊り始めた。

クッペ、パッセ、サンジュマン・・・それはバレエだった。

子供の頃から続けていたバレエ、挫折して止めてしまったバレエ。

虹色の髪を持つ少女は、ドンキホーテの「キューピッド」を踊り続けている。

私がバレエを止める前、最後に踊ったことのあるものだった。

 

 

ノスタルジックな痛みが心臓を走り抜けるのがわかった。

涙がとめどなく溢れてきて、生きることの辛さを初めて思い知った気がした。

こんなちっぽけな痛みが、なぜ人に必要なのだろうか。

 

私私私私私・・・ああ私私私私私!

 

 

心臓の痛みを手で抑える時、胸についている蝶のブローチを握りしめて思う。

私はいつまでサナギなのだろう、もしかしてこのまま一生を終えるのかな?

蝶になる前に他の生物に捕食される幼虫がどれだけいるか、みんな知らないんだ。

 

滝のように流れる汗をかいて、存在の苦しみに独り耐えながら、

目の前で踊っていた少女がぺこりとお辞儀をして消えていくのを見た。

この部屋の中で私が創作した物が全てなくなってしまうと、

その殺されてしまった風景に嫌悪を感じ、私はまた無意識に何かを描き続けた。

部屋を私で埋めなければ、とにかく部屋を私で埋めなければならなかった。

 

 

 

・・・

 

「・・・もぅ、恥ずかしいから止めて」

 

飲みかけたコーヒーの手を止めて明日奈はそう告げた。

彼女の目の前では先ほど「夜露死苦~!」とポーズを決めながら叫んだ少女がいた。

 

スタジオ練習を終えた明日奈と、それを見学に来ていたきな子は、

その興奮冷めやらぬまま、カフェ・バレッタで談笑していた。

 

桜の蕾が開花を始める頃、まもなく本番に迫ったレイナが出演する復帰ライブに向けて、

明日奈はプロデューサーが集めたバックバンドと共にスタジオ練習を繰り返していた。

 

集められたメンバーは個性豊かな人達だった。

デュッセルドルフの演奏会から帰国したばかりのピアニストをはじめ、

様々な経歴を持つ人達が集められたことで、

人見知りだった明日奈はいくらか緊張した面持ちでスタジオ入りしたものの、

幸運な事に、バンドメンバー達は皆それぞれ良心的な人達ばかりだったので、

彼女は今までにないほど楽しく練習の日々を過ごす事が出来ていた。

 

やがてプロデューサーはこのバックバンドの名前を「児玉團」と勝手に名付けてしまい、

コンセプトはなぜか「不良」というピュアな彼女達に全くそぐわないものであったが、

そうであるがゆえに面白く、用意された黒い学ラン風の衣装を着てはしゃぎながら、

きな子が茶化した「夜露死苦!」という挨拶がみんなの合言葉となっていたのだ。

 

明日奈はきな子に茶化されている中で、

照れながらも本当は嬉しい気持ちを見透かされるのが嫌で、

冒頭のようなセリフを口にしたのだった。

 

「あすなちんいいなぁ、私も児玉團に入りたい!」

きな子は心に思った事をまっすぐ口に出す女の子だった。

その純粋さこそが彼女の武器であり、明日奈は時々羨ましく思う事もある。

 

「でもきなちゃん、何か楽器できたっけ?」

「・・・トライアングル!」

「そんなんじゃ入れないよ」

「できるもん!きな子はやればできる子なの!」

 

嬉しそうに楽器のトライアングルを叩く真似をしながら、

きな子ははしゃいでいたが、明日奈はその悲しい音色を想像すると笑えてくるので、

「ムリムリ」とこの出演要請をシャットアウトするのだった。

 

がっかりした態度をトライアングルにひっかけて、

「ち~ん、だよ」と悲しそうな顔色で言い放つきな子に、

明日奈は初めて心から楽しそうに笑った。

 

 

きな子は「じゃあ前座で瓦割りするから~」とどうしても出演したい意向をぶつけてくるが、

「そんなの誰も見たくないよ」と笑いながらあしらう明日奈であった。

しかし、そんなやりとりから微かに溢れてくる笑みが、

今の彼女がとても幸福だと物語っていた。

 

「すいませ~ん!」

 

突然のように爆音量で店員さんを呼んだきな子の声に、

明日奈は思わず両手で耳を塞いだ。

さっきまで「ち~ん」だった気持ちはどこへやら。

きな子はとても切り替えが早いのだった。

 

アルバイトの女の子がメニューを手に持って近づいてくると、

きな子はメニューを受け取る事もなくメロンソーダのお代わりを注文した。

 

「あすなちんは?」

「私はもういいよ」

 

コーヒーカップを両手で抱えて、まだ残っている事を示しながら、

明日奈はお代わりを注文する事はなかった。

彼女は砂糖もミルクも必要とせず、

ただブラックコーヒーがあれば十分と言わんばかりに微笑んでいた。

 

「・・・だって!」

 

きな子は店員の女の子に親しそうにそう告げた。

まるで昔から友達だったように話すきな子が不思議でもあったが、

特に明日奈はそれについては質問する事をしなかった。

 

「はい、ではメロンソーダおひとつですね」

 

店員の女の子はそう言って立ち去った。

去り際にシャツの胸のところについていた蝶の形をしたブローチがきな子の目に入った。

 

「あのブローチ可愛い、きな子も欲しいなぁ」

 

他人の物が何でも欲しいなんて、とても素直だなと明日奈はクスッと笑った。

けれど、彼女なりの愛情表現として、少しいじわるな返答をしてみた。

 

「きなちゃんはまだ幼虫だから似合わないよ」

「・・・わかってるもん、でもいつか似合う素敵な大人の女性になるから」

 

注文したメロンソーダを運んできた女の子と目があって、

きな子はニッコリと微笑んだ。

「一緒に大人への近道を探そうね」とでも訴えかけているように。

 

 

女の子が立ち去って、きな子は嬉しそうにメロンソーダを飲み始めた。

突然飲むのをやめて「いつかキスもするもん」と意味深に言い放ち、

すぐさまメロンソーダのストローへ唇を戻してニヤけている。

そういうのが子供なのよ、と明日奈は心の中で呟いていた。

 

 

二人に少しばかりの沈黙が訪れて、明日奈は先ほどの話に想いを巡らせていた。

一週間後に迫った明治野外スタジアムでのライブ演奏についてだった。

 

 

輝かしいステージの上でスポットライトを浴びる事。

それは明日奈にとって今まで経験した事のない初めての経験であり、

羨んでくるきな子のストレートな気持ちもわからなくもないが、

なんとも形容しがたい、とても複雑な想いも頭をかすめていた。

自分がステージに上がるという事は、代わりに誰かがステージの下で見ていると言う事。

輝かしい表面だけを見ていれば誰も気づく事がない世界の裏側を、

明日奈は繊細な感受性で誰よりもいち早く感じる事ができた。

そういう事が誰よりもクリアに見えている彼女にとっては、

素直に喜ぶという行為は、他の誰かがやっているよりも困難な作業なのだった。

 

 

少し冷めたコーヒーを飲み干しながら、舌に残る苦味を感じていた。

ブラックコーヒーを飲んでいる私は大人だろうか?

心から美味しいと感じている、別に背伸びをして選んでいるわけじゃない。

 

でも、私にとってはもう少し甘さを知る方が大人になる事なのかもしれない。

 

 

 

・・・

 

「緊急事態が起こったからきて欲しい。

 この話は誰にも話さないように気をつけてくれ」

 

百合子が受け取った電話の内容は以上のようなものだった。

いつも通り通販サイトのクチコミを読んでいた彼女は、

仕事とはわかっていたものの、面倒な事が起きる予感に腰が重かった。

 

そして読みかけていたクチコミを最後まで読ませてもらい、

気に入った三万円の小顔ローラーをポチっと購入した。

ヒーローたるものTV写りを気にするのが仕事だ、

と小顔を目指して奮闘していた百合子であったが、

以前にも似たようなグッズを買って放置していた事はすっかり忘れていたのだった。

それでも1日の大事な仕事を終えたような満足感とともに、

百合子は準備を整えて家を飛び出した。

この仕事が終わっている頃には、きっと小顔ローラーは届いているだろう。

ちょうど良いご褒美だと思ったのだ。

 

 

しかし、会社に辿り着いた百合子を待っていたのは、

呼び出した上司だけではなかった。

警視庁より派遣されてきたお偉いさん方を含め、

TVのニュースで見た事のある政治家も数人混ざっていた。

これはただ事ではなかったと、さすがに遅れてきた自分を少し後悔した。

 

 

百合子の事をよく知らない初老の政治家は、

その幼い百合子のルックスをじろじろと不審な目で見つめていた。

以前より彼女に仕事を依頼した事のある若い政治家たちからは、

いつも通り百合子に対して慇懃な態度で握手を求めてきた。

 

「それではよろしくお願いします」

 

大物政治家が丁寧に頭を下げている光景を見て、

他のお偉いさん方もそれに習ってお辞儀をした。

百合子は一体何が待っているのかもわからないままで、

さすがに返礼する姿勢も硬くなってしまっていた。

 

 

挨拶を終えた政治家たちは部屋を後にした。

そして会社の上司が百合子に事の詳細を説明しようとしたところ、

先ほどまで慇懃に頭を下げていた若い刑事風の男がそれを遮るように話始めた。

 

「よう、遅かったじゃないか、リリーナイト」

 

先ほどまで丁寧な姿勢を見せていたのとは打って変わった冷たい態度で、

その男は百合子に対してケンカ腰のような口調でそう告げた。

 

「・・・女の子は色々と時間がかかるものですから」

 

相手の言い方に少しムッとした百合子はそう言い返した。

女はポチッとするのに色々と忙しいのよ。

 

「どうせまたつまらない物でも購入してたんだろ?

 買っても使わないくせに」

 

心を読まれた百合子は胆が冷える気持ち悪さを覚えた。

どうしてこの男は私の事をこんなに詳しく知っているのだろう?

若い男の見た目は20代後半くらいであり、

態度とは裏腹に、身なりなどはきちんと整えている。

喋らなければ極めて優等生で清潔感のあるタイプだ。

 

「こっちは悪人を倒せばいいって単純な仕事じゃないんでね。

 お前の事は既に色々と調べさせてもらってるんだよ。

 頻繁に出入りする運送業社の姿を見張ってれば、

 お前が何をしているのかくらい筒抜けなんだよ。

 サイバーパトロールをすればネット上の情報も色々と集まるしな。

 電脳世界に足跡が残っているって事にも以後気をつける事だな。 

 まあ、俺はお前が何を買っているかなんて知らないし全く興味はないがな」

 

初対面の人間に対する態度じゃないと百合子は思った。

どうしてこんなに横柄な態度をとる事ができるのか。

それと同時に今まで感じた事のない恐怖感があった。

彼女の生活で使用する物は、ほぼ全てネット通販で揃えていた。

テーブルもカーペットもコスメも食材も、

あらゆる百合子の生活はその履歴を抑えられてしまえば筒抜だ。

こんな男はストーカーと紙一重ではないか。

 

「俺等はみんな巨大な世界に管理されてるんだよ。

 決して自由と人権があるなんて勘違いしない事だ。

 ましてや話せばわかるなんて甘い考えは通用しないぜ。

 おっと、余計な話が過ぎたようだ」

 

百合子には嫌悪感しかなかった。

今までこんなに自分と違う人種に出会った事はなかったし、

一体彼が何を言っているのか瞬時には意味がわからなかったくらいだ。

 

「俺は本当はお前の協力なんて必要としていないんだがな。

 上司の命令でお前の面倒を見させられることになっただけだ。

 まあいい、本題に入るぜリリーナイト・・・。

 まず、安心していい、この会社は盗聴などされていない」

 

男は自信に満ちた目で百合子を見つめて語り始めた。

 

「この話はまだ世界の誰も知らない話だ、絶対に口外するな。

 昨日、警視庁に脅迫状が寄せられた。

 差し出し人は不明だ、こういう場合は調査はするにしても、

 通常なら往々にしていたずらだとみなされる」

 

百合子は今まで関わってきた怪人の話とは大きく異なる事件の内容に、

さすがにゴクリと唾を飲み込んで聞いていた。

 

「脅迫の中身はこうだ。

 今後、東京都内でのステージを使った一切のパフォーマンスを取りやめる事。

 さもなければ、そのステージを爆破すると警告してきた」

 

男は恐ろしい内容を語っている事を知りながらも、

幾分の興奮が口外に漏れ出てきているのを自分でも感じていた。

こんな話は自分が職務を開始してから初めての事だったからに違いない。

 

「そして脅迫には今後の具体的なスケジュールまで指摘されていた。

 それはまさしく、近日行われるステージパフォーマンス全てを網羅していたよ。

 翌月に渋谷で行われる演劇「すべての猫は地獄へ行く」や、

 2ヶ月後に控えている「バカリボンの騎士」なども含めて、

 舞台、ライブ、学生の音楽発表会まであらゆるものが対象にされていたんだ」

 

百合子は事の大きさに身震いを感じていた。

自分がこの事件に対して何か役に立つ事が出来るのだろうか、

そんな不安で胸が締め付けられる思いすらあった。

 

「どうだ、かなり子供じみた脅迫内容だろう?

 こんなものは大抵社会に鬱屈した不満を持っている奴の憂さ晴らしのいたずらだ。

 俺だって初めはそう考えたさ、深追いする必要はないとな」

 

男はポケットから取り出したタバコにライターで火をつけて周囲に遠慮なく吸い始めた。

 

「・・・ここ喫煙エリアじゃないんですけど」

「うるせぇよ」

 

百合子の正義感は瞬時に踏み潰された。

こんな奴はきっと吸い殻だってポイ捨てに決まっている。

地面に捨てた後、足で踏みつぶしている映像が百合子の頭に浮かんで、

彼に対して一層の嫌悪感を抱いた。

 

「だがな、こいつはやりやがったんだよ。

 脅迫がただのいたずらでも脅しでもない事を示しやがった」

 

男はここまで語ってタバコの煙を口から吐き出した。

マイペースで勿体ぶったやり方も百合子には癪に触った。

 

「・・・何をしたの?」

「爆破だ。本当にやりやがったんだ」

 

百合子は瞬時に顔が青ざめた。

 

「安心しろ・・・まだ被害者は出ていない。

 爆弾は脅迫状と共に送られてきて、脅迫状と共に爆発した。

 幸いにして爆弾の周囲には誰もいなかったから怪我人はいない。

 警視庁の窓ガラスが少しばかり吹き飛んだだけだ。

 高いガラスだったらしいけどな 」

 

タバコを指に挟んだまま、男はヘラヘラと笑っていた。

男が百合子をからかっているのは間違いなかった。

百合子が今感じている怒りの対象は、この爆弾魔に対してなのか、

それともこのタバコ男に対してなのか全く分別がつかなかった。

 

「だがな、ここからは笑える話じゃあない・・・。

 政治家のお偉いさん方がわざわざここまで足を運んだんだ」

 

男は急に真顔になって携帯灰皿を取り出してタバコの火を消した。

その予想外の行動に、百合子は肩すかしをくらった気がした。

 

「これはテロリズムの可能性がある・・・。

 すでに政府は極秘で東京全域に厳戒態勢を敷いているんだ。

 お前さんに難しい話がわかるかどうかわからないが、

 この大事な時に東京で爆破事件なんて起こされてみろ、

 これは世界中を混沌に陥れる事に繋がるぜ」

 

百合子はバカにされている事にムッとしながら聞いていた。

ちょっとばかり教養があるからといって威張る奴は大嫌いだ。

先ほどの携帯灰皿の時点で少し彼を見直したことを後悔した。

 

「下手をすれば株価大暴落に端を発する世界大恐慌・・・。

 日本を訪れる旅行者も激減し、国内消費もガタ落ちになる。

 2020年の東京オリンピックだって開催が危ぶまれる。

 これはお前が思っているより多くの大人達が動いているんだ。

 アメリカだって、水面下では色々と動いているはずだぜ。

 東京が狙われるってのは、アメリカだって右腕を失うようなものだからな」

 

男は真面目な顔で説明を続けていた。

いけ好かないことは知りつつも、彼の視野の広さに対しては、

百合子も素直に認めないわけにはいかなかった。

 

「俺たち警察だってすでに色々と動いているのさ。

 インターネット経由での容疑者の洗い出しを始めているし、

 送られてきた脅迫状の足跡を追いかけている。 

 空港では極秘で外国人に対する荷物検査を強化しているし、

 都内のあらゆるところに私服警官が配備されている。

 俺たちのチームだって、昨日まで都内すべてのペットショップを洗った・・・」

 

「ペットショップ?」

 

百合子は延々と語られる説明の中で、

自分でも不思議に思うその単語に引っかかって話を止めた。

 

「ああ、脅迫状は・・・しゃべる虹色の九官鳥だ。

 そして、爆発したのも、その九官鳥だったんだよ」

 

 

 

・・・

 

錆び付いた記憶が動かない。

輝いていた銀色の表面が時間と共に剥げ落ち、

私の脳内に赤茶色にこびり付いて離れなくなってしまった。

 

音々と一緒に見た景色も、少しづつ忘却の彼方へ放り込まれていく。

完全に忘れているわけではないけれど、思い出は風化していくに連れて低体温になっていく。

 

同じ「尾藤」の名字を持つ女の子。

最初は嫌いだった、私のオリジナリティーを奪う同じ名字を持っていた。

 

でも違った。

それは双子のような相互扶助の関係だったのだ。

私の嫌なワガママも、音々はすべて受け入れてくれた。

 

連絡を取ろうと思えばいつでも取れる。

また一緒に遊ぶことだって難しいことではない。

でも私が言っているのはそういう物理的な関係性ではない。

私の中で失われてしまったのは、あの時間だけが持っていた二人の体温だった。

 

 

エスニック柄のボーダーニットを羽織ってジンジャーエールを飲みながら、

私は本屋で大量に買ってきた雑誌を読み始めた。

その中から気に入ったものをハサミで切り取りながら、

ノートにコラージュとして好きに貼り始めた。

 

 

さっきはアインシュタインの顔を持つロバが部屋にいた。

今度は顔が外人の可愛い女の子で、体が羊の動物を作ろう。

どうせなら飛び切り奇態で、この世界で忌み嫌われるものを生み出そう。

 

ふと、棚の上に飾っていた友人からもらったホソバオキナゴケが目に入った。

苔はいい、苔は素朴で誰にも注目されないところが愛しくてたまらない。

 

 

部屋のクローゼットから絵の具と筆の一式を取り出した。

ここ最近は使っていなかったので少し埃をかぶっていたが、

それも気にせずにパレットにどんどん色とりどりの絵の具を乗せて行った。

 

右手で持つ筆に絵の具を含ませてから描こうとして、

少し邪魔に思えた靴下を左手で子供みたいに脱ぎ捨てた。

私が筆を部屋の床に走らせると、ディープ・モスグリーンが私の世界を包み込んで行った。

 

この美しさ、この温もり。

 

部屋の床一面は私の描いた苔の生えた原始林に変わっていった。

数億年前、人間がまだいなかった頃は、こうした美しい森の中を、

ステゴザウルスやプテラノドンが徘徊していたのだ。

 

 

今、原始林の地面を徘徊しているのは私だ。

そして嫌悪する忌々しい白い壁には銀河を敷き詰めていった。

わざと乱雑に筆を動かして描くそれは私だけの銀河だ。

この宇宙に存在する銀河ではなく、私の心が生み出した銀河。

 

 

物置からくすねてきた脚立に飛び乗って、

私は余っている天井を星々で埋め尽くしていった。

太陽と月が同時に輝き、流星はとめどなく溢れ駆け巡る。

天井に浮かぶ宇宙はどんなプラネタリウムよりも美しくて神秘的だった。

 

 

部屋のすべてを私で埋め尽くした私は、絵筆とパレットを放り出して、

モスグリーンの苔が生えた地面に身体を投げ出した。

私の合図で、すべての銀河系達は活動を始める、流星は宇宙の時を刻み始める。

太陽と月はまるで堕ちてきそうなほどリアルで私の心をどんどん弾ませていった。

 

 

私の部屋は私の創り出した世界そのものになり、

部屋に寝転んでいるという気分をすべて忘れていった。

私の思念で描かれた宇宙は呼吸を始めた。

太陽のプロミネンスは紅色に燃え上がり、

紫の煙が隙間空間を駆け巡りながらほとばしっていった。

重力すら私の体から解き放たれて、私はすべてから自由になったように感じた。

 

 

無重力にふわふわと浮かぶ空間に抱かれて、

私は至福の時空に包まれていったのだ。

 

だが、やがて跳ね返ってきたものは想像もしなかった孤独だった。

目を開けた私は、身体を横たえて顔の横に溢れている苔を見つめていた。

 

私はいつからこんなに孤独になってしまったのだろう?

誰にも注目されない苔こそ、この私そのものではないかとも思った。

そして誰にも理解されない渋い魅力を大切に抱きしめているのは、

それは他ならぬ私自身だ。

 

 

音々と共にあった温もり。

それはこんな絶望の冷たさではなかった。

私は私率を50%に保つことで、残りの半分を流動的に扱うことができた。

誰かの色に染まってもよかった、影響を受けやすい自分を認めることもできた。

 

今は違う。

この世界は私率100%で確立されている。

ここは私の理想とするもので溢れているから、

私が求めてきた幸福感があるのは確かだ。

 

でも、同じくらい冷たい絶望がある。

もう自分自身を流動的に動かすことのできない無慈悲がある。

硬い鉱石みたいに、固まってしまった心を砕くことはできない。

錆び付いてしまった記憶を再び蘇らせることはできない。

 

壁にかかっていた時計の針が逆回転を始めたように思えた。

前に向かって進めてきた時間が、突然逆戻りし始めた。

しかし、それは過去に戻ることではない。

取り戻すことができるわけでもない。

ただ私の中に蓄積されてきた何かが失われていく感覚で、

とても孤独な旅に一人で出発するような哀切で、

それから、私の中の色彩がすべて剥げ落ちていくような意識で、

それから、手に入れたキッチュな雑貨が両手からこぼれて無くしてしまうような未来で、

それから、幼い頃に家族で行ったグァムで見たイルカが二度と手を振ってくれないような寂寞で、

 

 

それから、それから、それから・・・。

 

 

 

乱れた髪の毛が瞳を覆い隠していた。

瞳は池であり、心はダムであり、それはそれは脆く儚い人間だと思った。

 

何が足りないのだろう?

私は何をすれば人々の記憶に残るのか。

 

キ オ  ク

 

 

 

  き

 

 

 

      お

 

 

   く

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

 

どれくらいの時間が経ったのか、

気づいた時には床の原始林も壁の銀河も消えていた。

 

眠りこんでいた私の目の前には、

いつ描いたのかわからない虹色の髪を持つ少女がいて、

照れながらぺこりとお辞儀をしてドンキホーテの「キューピッド」を踊り始めた。

 

心臓が紙くずみたいにクシャクシャになっていく。

私は呻きながら落ちていた絵筆を手にとって虹色の髪を持つ少女に向かって投げた。

絵筆は回転して少女のみぞおちに当たり、少女は苦しくて醜い顔を残して消えた。

 

 

 

・・・

 

数日が経過して一つの小包が自宅に届いた。

百合子は配達人の言うことなどうわの空で荷物を受け取り、

あれほど楽しみにしていた小顔ローラーをそのまま開封もせずに机の上に放っておいた。

 

あの日以来、日課だった通販サイトを見ることも止めてしまった。

そこから自分の行動パターンがバレる可能性がある、という事を知った気持ち悪さもあったけれど、

それが主たる原因ではなかった。

 

若い男は名前を「中西」と名乗った。

名乗る前に「俺の名前なんてどうでもいいんだが」という枕詞をつけていた。

 

・・・

 

「とにかく、俺達はテロリズムに屈するわけにはいかないんだ。

 これは世界に対する日本政府の信用と面子がかかっている。

 だからお偉いさん達は、お前に捜査協力を依頼したんだ。

 そうでなければ俺もわざわざこんなところまで来てない」

 

いちいち一言多いやつだと百合子は思った。

でも、話を聞く限りでは想定される宗教関係のテロ組織ではない気がする。

九官鳥の言葉が脅迫状代わりであり、九官鳥自体が爆弾の役目も兼ねるなんて、

これまでに聞いたことのある普通の手口ではない。

 

「俺は先ほど九官鳥と言ったが、実際のところはよくわからない。

 だいたい、九官鳥に虹色の種類なんか生まれるのか、

 それすら俺みたいな素人には検討もつかないのが実情だ。

 目撃者の証言から詳しい筋に話を聞いたところでは、

 証言から推測して一番似通っているのが九官鳥だというだけのことだ」

 

この話についてはさすがの中西もくたびれた表情をしていた。

話をする鳥というだけで考えたら、インコだって話をするし、

しかし脅迫状に使うほどの鳥の調教を考えると九官鳥の線が濃厚なのだろうか。

百合子にもこの手の分野についてはそれほどの知識はなかった。

 

「俺達がペットショップを洗ったところ、

 この数年内に都内で虹色の九官鳥を販売した店はなかった。

 海外からの九官鳥の輸入申告を受けた履歴を調べて洗ったが

 特に有力な手がかりは見つからなかった。

 しかし国内で繁殖させた可能性も考えられるし、

 ひょっとすると羽に着色しただけなのかもしれない。

 しかし肝心の証拠である九官鳥は跡形も残っていない・・・。

 爆発の大きさから想定される火薬の量では、

 少なくとも鳥の肉片くらいは残っていてもいいはずだ。

 なのにその形跡も見つかっていない・・・ちっ」

 

中西にも手がかりがつかめていないのだと思った。

その事実は彼のプライドを傷つけているようではあったが、

その言葉尻を百合子が攻撃することはなかった。

ただ、百合子にここまで丁寧に状況説明をするという事実自体が、

彼の捜査に手詰まりをもたらしていることは百合子にも理解できた。

 

「九官鳥が爆発した時に現場で見ていたのは3人程度だった。

 しかし、証拠の九官鳥は警視庁の建物にどこかから入り込み、

 ただ脅迫状めいた内容を語って、最後には爆発して消えた。

 どこにも死骸の欠片も残っていない話をオフィシャルには公表できない。

 夢を見ていたのではないかと疑っている人も沢山いるくらいだ。

 だが、実際に警視庁の窓ガラスは爆発で破壊された。

 これは現場を調べた捜査官の調査では爆薬による損害だということは堅い。

 ただ、いま他国でも似たようなテロリストによる事件が乱発していて、

 政治家もこんないたずらめいた事件でも見て見ぬ振りはできないってわけだ・・・」

 

 

・・・

 

 

百合子はパソコンの画面を見つめながらサイト閲覧を続けていた。

ネット通販のサイトではなかった、明治野外スタジアムの地図を眺めていたのだ。

 

中西が百合子に説明した話では、小さな劇場の演目を取り下げさせることは可能だが、

1週間後に迫っている明治野外スタジアムのライブを中止にすることは難しいという。

これだけ大きなイベントになると関係者や準備費用が莫大な数字に昇っており、

さすがに裏から手を回したところですぐに対処できる規模ではなかったし、

何よりテロリストの脅迫に屈したという印象を相手に与える恐れもあった。

 

そして、小さな劇場程度であれば犯人も見過ごす可能性はあるが、

ここまで大規模のイベントであれば実行に移さない理由はないだろう。

様々な観点から考えるに、犯人が狙ってくるのはこの日になることはほぼ確実だった。

中西を始めとする警視庁はこの日をターゲット・デイとして警備を強化しており、

一般人の目にはわからないが、街中には網の目のように私服警官を張り巡らせていた。

ライブチケットを購入した人物の特定はすでに済んでおり、演者の身辺調査も終わっていた。

当日は鳥一羽足りともスタジアム内には侵入させないつもりだと中西は述べていた。

 

 

百合子には中西のように推理を働かせて犯人の特定などはできっこないと思っていた。

ただ、今まで正義のヒーローとして数々の敵を倒してきた自負はある。

そして、正義のヒーローをやっているからこそわかることだってあると思った。

 

このライブイベントの中止を目論む犯人の心理とはいかなるものだろうか?

自分が過去に経験した事を省みるに、悪には悪の理由があった。

根っから悪い人などこの世にはいないと百合子は信じていた。

それがたとえ中西のような嫌な奴であったとしても、

きっと背中には誰にも共有できない重たい荷物を背負っているのだ、

というふうに百合子は考えていた。

 

中西はこうも言っていた。

 

「犯人はもしかするとつまらないいたずらをしただけなのかもしれない。

 九官鳥の火薬の量を想定すると、本当にそれほど大きな爆薬を所持しているのかすら不明だ。

 ただ、一方でこれだけ大きなライブイベントを標的にしてきた以上、

 組織的な犯行に及ぶ力を秘めている可能性も否定はできない。

 ただ俺が仮定しているのは次の二点だ。

 一つ目は、犯人はあの規模の会場を狙う以上、ある程度近づかなければ爆破しきれない点だ。

 九官鳥や他の動物に爆薬を仕込ませること・・・最悪の場合は人間に仕込ませることもできるが、

 相当の数を送り込まなければならないだろう。

 それは動物で行うには相当難しいだろうし、人間で行うにもリスクがあまりに大きい気がする」

 

百合子は中西の推理はある程度参考にしていた。

さすがに経験で培った能力と生まれつきの才能を彼が持っているのは確かだった。

 

「二つ目は、犯人はどこかでこの犯行を見ているということだ。

 このように巧妙に足跡を残さずに人をバカにしたような犯行に及ぶ知能犯タイプは、

 必ずその結果を自分の目で見たいという欲求を持っているはずだ。

 そうでなければ、こんな意味のわからない事件を引き起こすはずがない。

 犯人は自分の実力を世間に知らしめたいんだよ。

 そういう人間は往々にして強烈なコンプレックスを抱えていることが多い。

 そいつの過去に何があったのかは知らないが、

 そのコンプレックスが今回の事件を引き起こしているのだとすれば、

 それがなんなのかを特定する事が解決の手がかりになるかもしれない」

 

この考え方は百合子が言う、悪には悪の理由があるという考え方に近かった。

戦隊ヒーローの敵役だって、こちらを襲ってくる理由を理解し、

説得を試みれば仲間になってくれるケースだってあるのだ。

 

「とにかく犯人は脅迫状の内容から見て少なくとも日本語に精通している人物が仲間にいて、

 動物を調教できる能力を持っている人物である可能性が高い。

 ただ、これだけの推測では単独犯なのか組織犯なのかもわからない。

 あらゆる可能性を考慮した上でターゲット・デイまでに調査を進め、

 考えられる他の可能性を潰していくしかないわけだ・・・」

 

百合子はここまでの意見は耳を傾けていたが、

最後に中西が言い放った言葉だけは認めたくなかった。

 

「子供のいたずら程度でした、という話で事件が解決するなら最も好ましいのだが、

 俺たちは常に最悪の事態を想定して動かなければならない。

 もし、今回の作戦で俺達が犯人を見つけ出した時、

 あまりに危険な状態である場合は・・・射殺も躊躇しない。

 これだけのやり方で国を相手に挑発してきている相手だ、

 こちらの身にもどれだけ危険が生じるかわからない。

 相手の出方によっては、そういう事も選択肢に入っている。

 今回の事件は、それだけ切迫している状態にあるってことだ」

 

どんな犯人かは百合子にも全く予想はつかなかった。

だが、今回の事件に対するリリーナイトの位置付けは、

情報共有の必要性は求められているものの、

警視庁との協力ではなく、あくまでも単独行動を許された形でのミッションだった。

リリーナイトの能力は普通の人間の力を超越しているので、

警察の組織的な動きに制限されず自由に行動できる方が好ましいというお偉方の配慮だった。

独立した行動を許されるほど期待されていると捉えることもできた。

その立場から百合子が考えていたことは、事件に対する自分なりの正義を貫くことだった。

どんな相手が犯人なのか、自分の目で確かめて、そして裁く。

自分なりの正しさを貫きながらも、絶対にテロリズムを止めてみせる。

 

 

百合子は机の上に一枚の紙を広げて睨みつけた。

中西から受け取ったライブ当日の明治野外スタジアムの会場図面だった。

普段は野球場として使用されているスタジアムは、

ホームベース側から見てセンター付近の外野エリアにステージが設けられていた。

外野スタンドは客席として使用せず、内野席のみが当日の客席になる。

グラウンドはアリーナ席として解放され、当日はそこにも椅子が並べられる予定だった。

 

犯人は、その規模の大小に関わらずステージを爆破するという。

決して観客を襲うという表現は使用していないので、

観客やアーティスト達が巻き添えを食う可能性は否定できないけれど、

彼らの目的はあくまでもステージの爆破なのだろうと百合子は考えた。

当日の犯人の進行ルートは検討がつかないけれど、

最終的に守るべき地点はステージなのだと百合子は着眼した。

 

(中西達がこれだけ警備を固めているのならば、普通のやり方では絶対忍び込めないはずだ・・・)

 

 

 

・・・

 

雨上がりの空にまだ重厚な雲が残っていた。

 

もう雨は降っていないが、赤い傘を差したまま水たまりの上に立っている女性の元へ、

息を切らせて走りながら急いで駆け寄る一人の女性の姿があった。

 

「おせーぞ、ブス!」

 

万理奈は駆け寄ってきた桜木レイナにそう冷たく言い放った。

 

中華料理屋チンゲンサイの扉を開けて二人は着席した。

メニューは二人で適当に頼んだが、青椒肉絲とゴマ団子だけは外さなかった。

 

 

「あの・・・万理奈さん・・・」

「なんだよ・・・」

「最近どう・・ですか?」

 

しばらく会わない間に彼女の表情が曇りがちになっていることに気づいたレイナは、

気を使って万理奈にそう話しかけた。

 

「・・・何が?」

「いや・・・なんかこう・・・悩んでる事とか、あったりするのかなーって・・・」

 

家が近くて家族同士の仲が良かった二人は、高校まで友人関係だった。

歳はレイナの方が二つ上だったが、親同士の交流から発展し、

同じ高校だったという共通点から先輩後輩の垣根を感じさせず、

帰り道はよく二人で帰っていろいろと深い話しも交わした仲だった。

 

「・・・別に」

「そう・・・ならいいんだけど」

 

レイナはキャラに似合わない変顔なども披露して彼女を元気付けようとしたのだが、

今日の万理奈の表情は曇り空の天気と同じで、どんよりと重たかった。

 

「・・・今日は、何か用?」

 

万理奈は青椒肉絲のピーマンを咀嚼しながらぶっきらぼうに問いかけた。

青椒肉絲とゴマ団子が万理奈の好きな食べ物だと覚えていたレイナは、

気を利かせてこの二つの料理を注文したのだったが、

咀嚼している万理奈の顔は、好物を食している人の表情では全くなかった。

 

「私ね・・・今度、ライブに出演する事になったの」

 

万理奈はぶっきらぼうに進めていた箸の手を止めた。

 

「何のライブ?」

「1週間後の明治野外スタジアムのライブなんだけど」

 

万理奈は止まったままの姿勢と表情で視線だけをレイナの方向へ鋭く向けた。

そして何もなかったように食事へ視線を戻して箸を動かし始めた。

 

「高校を卒業してから、あたしたちあんまり会う機会なくなっちゃったけど、

 ほら、覚えてるかな、万理奈さ、一昨年のホイップのデビューライブ来てくれたよね?

 あれ私メッチャ嬉しかったんだよ」

 

万理奈は青椒肉絲のピーマンの緑を見つめながら黙っていた。

 

「でもさ・・・多分もう知ってると思うけど、

 私、上手く歌えなくなって・・・ずっと休業してたんだ・・・」

 

レイナは休業中の辛い思い出が脳裏を掠めて苦い顔をしてしまった。

それでも歯を食いしばって前を向くだけの強い気持ちが今のレイナにはあった。

 

「色々あったの・・・本当に色々あってね、とても辛かった・・・。

 でもね、私このままじゃダメだって気付けたの。

 私を応援してくれる誰かがいるんだって、見ててくれる人がいるんだって、

 私は一人ぼっちじゃないんだってこ」

 

「あんたも行っちゃうんだ!」

 

万理奈は持っていた箸をテーブルにバタンと叩きつけるようにして、

声を荒げてレイナの話しを強引に打ち切ってしまった。

 

気まずい空気が店内に流れていた。

お店の大将もハッとして二人の方を見ていたが、

あまりじろじろ見るのは失礼と思ったのか、すぐに元の仕事に戻った。

 

 

レイナは万理奈が音々の事を思い出しているのがすぐにわかった。

万理奈と同じ歳だった音々は、もちろん高校でも同級生だった。

レイナもそれを知っていたし、一緒に遊んだ事もあった。

バンド活動に忙しくなってしまったレイナと違って、

万理奈と音々は同級生でもあったし、高校を卒業してからも仲が良かった。

しかし、将来の夢を実現させるため、音々は自分の道を歩く事を決めた。

そして、その為に万理奈のそばを離れて引っ越してしまったのだった。

 

万理奈は音々の決断を応援していたのではあったが、

仲良くしていた親友が離れていってしまう寂しさには耐えきれなかった。

 

やがてパッタリとSNSも更新しなくなった事を知っていたレイナは、

先日ふと街で歩いていた万理奈を見つけて呼び止めたのだ。

そして、万理奈の好きな中華料理でも食べようと久しぶりにご飯に誘ったのだった。

レイナも自分がスランプだった時には自分の事で精一杯だったが、

上手く立ち直れた現在では、同じように打ちのめされている可能性があった万理奈を、

他人事のようには放って置けない思いがあった。

 

 

しかし、予想外に声を荒げる変わりはてた万理奈を見て、

レイナもさすがに繋ぐ言葉を失ってしまった。

 

「・・・止めなよ」

「えっ?」

 

寂しそうにポツリと言い放った万理奈の言葉がレイナは気になった。

 

「ううん、なんでもない」

 

万理奈は表情ひとつ変える事なく言葉を濁した。

この言葉を最後に、やがて二人の間を沈黙が支配した。

レイナは重たい空気感がもともと苦手なタイプなので、

激昂されてしまった万理奈との会話を続ける事はできなかった。

顔を見て話しを続けられなくなったレイナは、目線を下げた際に、

万理奈の着ていたシャツについていた蝶のブローチが目に入った。

たくさんのブローチを集めている事を知っていたレイナだったが、

今まで見た事のないデザインに、おそらく比較的新しいものだと思った。

 

やがてお店を出た二人は、無言のまましばらく歩き続けた。

レイナが気を使って色々と話しをしてみたけれど、

万理奈はずっと仏頂顔をして歩き続けているだけだった。

 

そして二人の家の方向が分かれる道へ差し当たった。

「じゃ」とだけ言って万理奈は淡々と歩いて行った。

そして、ふと立ち止まって下を向いてから、顔を上げながら振り返った。

 

「ねぇ・・・これ以上私と一緒にいても、損だよ」

 

万理奈はまた悲しそうな顔をして振り返って歩いて行った。

レイナはドキッとする万理奈の一言で身体に寒気が走り抜けた気がしたが、

眉間に少し皺を寄せ、決意を込めた表情で万理奈に呼びかけた。

 

 

「送るから・・・チケット」

 

万理奈は立ち止まる事なく去っていく。

レイナは続けて叫び続けた。

 

「楽屋に遊びに来てくれてもいいから。

 あたし待ってるから・・・万理奈の為にも歌うから!」

 

 

何度否定されても呼びかけ続けたレイナには、

もはや誰にもポンコツなんて呼ばせない、芯の強さを感じさせる何かがそこにはあった。

 

 

 

・・・

 

部屋で赤いトマトをかじりながら、20世紀梨の甘さが脳裏をよぎった。

夏にはいつも祖母が送ってくれるあの甘酸っぱい味が、今まさに恋しくなった。

 

昔は嫌いだったトマトの味、今は食べられるようになった。

努力は嘘をつかないことを証明している私の歴史の一ページ。

 

ガブリと噛み付いて、ゆっくりと咀嚼して、投げた。

齧られたトマトは私の目の前の壁に激突して出血多量で死亡した。

たかが好き嫌いを克服した経験ごときが私に対して偉そうに叫ぶからだ。

 

彼らは警告を無視した。

彼女も、また。

 

だから私は決めたのだ、全てを壊してしまおうと。

 

 

破壊することの美しさや喜びは芸術家にしかわからない。

創造することだけが美しいわけではないのに。

それに先立つ破壊がなければ創造もまた生まれないのに。

どうしてこんな簡単なことすら理解できないのだろう。

人々はどうして私をこんなに孤独に追いやるのだろう。

 

 

人々は何かをどこかへ括り付ける。

決められた枠組みの中で固定して安易に理解しようとする。

空は空、海は海、上は上、下は下、私は私、あなたはあなた。

 

私は空と海が溶け合った風景が好きだ。

霞がかった色彩で、濃淡だけがかすかに識別を残している景色。

でも、世界は鈍い水色に溶けあって輪郭線などない。

そこには上下もない、隔たりはない。

空と海をひっくり返しても、残るのはただ水色だけ。

視界に広がるパノラマのような均等。

 

 

でも人間は生まれつき上下を知っている。

重力があるからだろうか、物が上から下へ落ちるからいけないのだろうか。

上が偉くて下が貧しいって、そういう印象を持つのだろうか。

右と左にはそんな優劣はないはずなのに。

 

 

でも私だってそんな人間だ。

重力に逆らえない愚かな存在だ。

枠組みの中に閉じ込められて泣き叫ぶピエロだ。

私がやっているんじゃない、でも私がやっているんだ。

私が望んだことじゃない、でも私が引き受けなければならない責任だ。

 

 

昨夜、狂ったように色々と描きためたスケッチブックとペンを鞄に入れて、

私は部屋から抜け出した。

これだけが今の私の全て、かすかに呼吸ができる存在の証。

 

玄関を出た時、外の空気には出会いと別れの匂いが含まれていた。

今までの私の人生にこびりついてきた春の記憶。

それらが懐かしい喜びと痛みを引き起こしてきた。

 

桜の花びらが飛び交う東京の道を、私は真っ直ぐに進むのだ。

夏はもう来ないかもしれないけれど、鮮やかなピンク色に散るなら本望だ。

 

 

 

・・・

 

中西は多忙を極めていた。

各所からの情報収集と分析に明け暮れていたのだった。

 

犯人グループの下見が行われる可能性も考えられるので、

会場周辺に怪しい人物がいればその都度報告を入れさせたし、

ライブチケットの販売ルートにも捜査協力を呼びかけ、

来場者に関する調査にも余念がなかった。

 

ライブ前日からは24時間体制で明治野外スタジアム周辺の警備を強化した。

 

ライブ会場の入場にも規制を設けた。

複数ルートから入場されては把握が困難になるため、

多少の混雑を引き起こすことになったとしても、

来場者が使用できる入場口を減らし、

自分達の警備を最優先させる方法で当日に備えていた。

もちろん、荷物検査は極秘で強化していたし、

会場内にも来場者を装った私服警官を大量に送り込んでいた。

 

ライブステージは3日前から業者によって組み立てられていた。

何もない球場のグラウンドが、みるみるうちにステージに変わっていった。

照明機材や音響機材などが、組み立て業者の手によって備え付けられていく。

中西はその様子から入念にチェックを行っていた。

 

 

これだけの大型ライブイベントにもなれば、

小さな野外イベント程度で使用される低いステージではなく、

客席から見ると少なくとも2-3mの高さはあるような巨大ステージが組まれることになる。

通常のステージは演者の舞台としても、演出の多様性を広げるために、

ステージ袖から観客へつながる通路も組まなければならない。

舞台から見て階段を上がった二階部分とも言える高低差を設けた箇所も、

ステージ設営の職人達が慣れた手つきで器用に機材を動かして組み上げていく。

アーティスト達の衣装替えや登場の演出のためには、

観客から見えないステージ下部へ狭い通路なども設けられていた。

 

 

中西は犯人の「ステージを破壊する」という言葉を何度も繰り返していた。

言葉通りに受け取れば、この今目の前で組み上げられている巨大ステージを、

おそらく九官鳥と同じように爆薬で破壊するという意味になるが、

3万人規模の観客を無差別に襲撃することも、

ライブの中止につながれば「ステージを破壊する」という意味に達することになる。

 

中西は広義の意味で警備を進めなければならない立場であり、

3万人の観客は、言うなれば人質に取られた存在であった。

たとえ犯人が捨て身で攻撃してきたとしても、決して犠牲者を出すことは許されない。

ライブ当日が近づいてくる時間が、中西にとっては重たい一分一秒に感じた。

こんな圧倒的に不利な状況で全てを無事に守りきるなんてことは不可能にしか思えなかった。

 

 

 

ライブ前日の夜、最後の情報共有会議の時には百合子も参加した。

百合子が見た中西の顔は睡眠不足と過労であまりにやつれて見えた。

 

中西は分析した情報を全て百合子を含む会議メンバーに惜しげもなく共有した。

あらゆる場面を仮定した作戦パターンを披露し、

うまくいけば犯人を全て包囲できるというものではあったが、

百合子から見れば、それは絵に描いた餅にすぎないように思えた。

全てが希望的観測に沿って犯人の動きをシュミレーションしているようにしか思えなかったからだ。

 

 

会議が終わって参加者が重い腰を上げて部屋を去り、

中西は誰もいなくなった部屋で一人タバコを吸っていた。

そこへ立ち去ったはずの百合子がドアを開けて入ってきた。

 

「・・・ここ、喫煙スペースじゃないんだけど」

 

百合子は冷たい視線を中西に投げかけながら第一声を放った。

 

「相変わらずうるさいガキだな」

 

中西はやはりタバコを止める様子はなかった。

 

「仕事で疲れているのはわかるけど、それとこれとは話が違います」

 

百合子は凛とした態度を崩すつもりはなかった。

彼女の正義は他の人の意見や感情に流される類のものではなく、

たった一人でも貫き通す類の意志の塊だった。

 

「それがうるせぇってんだよ。

 頭の堅いやつの行動パターンだ」

 

中西は気分を害されてタバコを吸う気が失せたのか、

やがて携帯灰皿を取り出してまだ火をつけたばかりのタバコを指で力強く押し消した。

 

「何しに戻ってきたんだよ」

 

中西は目線を百合子に向けることなく言い放った。

 

「・・・本当に守れるつもりなの?」

 

百合子は真剣な眼差しをまっすぐ中西に向けて言った。

 

「お前はできると思ってるのか?」

 

中西は初めて視線を百合子へ向けた。

相変わらず冷たい目をしていた。

 

「・・・会議なんてのは、99%がムダなものなんだよ。

 形式だけ整えて、始まる前に結論が決まっているか、

 もしくは誰もが自分の身を守るために弁を振るうか、

 不条理な目標に合わせて粉飾した数字と論理の辻褄合わせなんだよ。

 大人達は死ぬまでそういう時間のムダをして命を削っている」

 

百合子はさっきまで熱弁をふるっていた中西が、

ただ会議というステージの上で演技をしていただけだと思うと、

そんな人生の無駄遣いを必要としている社会とは一体何の価値があるのかと思った。

 

「それが仕事だ」

 

中西は自分もその道化師の一人だと自己をあざ笑うように言った。

 

「はっきり言ってやろうか?

 俺は今回の事件で犠牲者が出るのはやむを得ないと考えている。

 お前が言う通り、3万人規模の観客を守る術などない。

 さっき俺が述べたのはただの机上の空論にすぎないさ。

 だが、大事なことは多少の犠牲を出してでも犯人を捕まえることだ。

 犯人さえ捕まえて奴らの組織を潰してしまえば、危険の芽は摘まれることになる。

 そうすれば国際社会に対して日本政府の対応には一定の評価を受けることになるだろう。

 多少の犠牲は、むしろ政治家達にとっては都合の良い結果につながることもあるさ。

 民衆と共通の敵を持つことは、武力の正当化を求めるには最も有効なやり方だ」

 

中西は饒舌に話を続けていたが、百合子は生理的に受け入れられない説明に、

歯を食いしばりながら心に浮かぶ怒りと悲しみに耐えていた。

 

「・・・どうして、そんなことになっちゃうの」

 

口を開くとともに感情を抑えきれなくなってしまった百合子は、

溢れてくる涙を指で拭いながら中西にそう尋ねた。

 

「それが現実だ」

「わかんない、わかるけどわかりたくない」

「感情で話をするな」

「じゃあどうしろって言うの!?」

 

中西はボロボロと涙をこぼしている百合子から目を背けた。

 

「だから女がヒーローなんてやるもんじゃないんだ・・・。

 目の前の現実も冷静に受け止められないんだからな」

 

中西は相変わらず冷たい言葉を浴びせていたが、

百合子を泣かせてしまった罪悪感に少しイライラしているようでもあった。

 

百合子は全く泣き止む様子はなく、黙ってひっくひっくと泣き続けていた。

中西は会話を続けられなくなった状況にバツの悪そうな表情を浮かべ、

そして、しばらく黙って上の空を見つめて考えながら、

背広の内ポケットから一つの折りたたまれた紙を取り出して百合子に投げつけた。

紙は泣いている百合子に当たってそのままポトリと地面に落ちた。

 

「会議で述べたように、ライブ当日俺はあらゆる状況に対応するようになる。

 よって俺は自由には動けない・・・だからお前に任せることにするぜ」

 

 

 

・・・

 

暖かな春の日が街路樹を照らし、その影を路面に残していた。

風が吹いて葉影が足元をさわさわと撫でるように揺れて、

万理奈は久しぶりに気持ちの良い散歩を堪能していた。

 

極力目立たない服装にした。

母のお下がりのジーンズとスニーカーに地味めのワンピースを着ただけのシンプルさで、

胸元には最近のお気に入りの蝶のブローチを付けていた。

足元は多少ロールアップして自分らしさをキープし、

スケッチブックやペンはリュックに入れて楽なスタイルにしていた。

 

明治野外スタジアムに続く道には屋台が幾つか出ており、

万理奈はまるで休日にお出かけを楽しむ気軽さで幾つか買って食べた。

彼女は自分でもこれほどの大事を企てておきながら、

なぜこれほど気楽に楽しくミッションを遂行できているのか不思議なくらいだった。

だが、むしろこの気楽さの方が怪しまれずに済むため、

万理奈は気の向くままに自然体でライブ会場へ向かったのだった。

 

 

スタジアムに到着すると、やけに長蛇の列ができていることに気がついた。

友人であるレイナの復活ライブであるということが人気を集めているのは知っていたが、

この混雑の様子は、おそらく自分の脅迫状が影響していると悟った万理奈は、

さすがに少し緊張感を帯びてくると同時に、不謹慎にも胸の奥から喜びが込み上げてきた。

ごった返した群衆の中を抜けていくとき、普段の自分なら感じるであろう、

自分の存在が群衆Aになってしまうという寂しさはなかった。

自分の存在は間違いなく尾藤万理奈だという自負が、この日の彼女の背中を力強く支えていた。

 

 

何も知らない観客達をアリの行列のように見送りながら、

万理奈はレイナが郵送してくれたチケットを渡してスタジアムの中へ入った。

荷物検査ではリュックを開けさせられ、必要以上に調べられたが、

スケッチブックを見て奇抜な動物や人間の臓器を描いた内容であっても、

この人達は誰も自分を問い詰めることができないと思うと笑いをこらえるのに必死だった。

 

本当は小心者の自分が、なぜここまで大胆な行動が取れたのか、

万理奈には自分でも理解できない不思議さが心を支配していたが、

いつでもやめて引き返すことができるという気持ちと、

でもここまで来たら絶対にやり遂げなければならないという思いが交錯し、

その葛藤が自分の心臓に負担をかけていることを万理奈は自認していた。

 

 

レイナが用意してくれたのはもちろん特等席で、

そこはステージとそれほど離れていない場所に特別なスペースを設けられていた。

招待されたVIPしか座れないエリアであり、座席数も数えるほどしかなかった。

万理奈が到着したとき、彼女の隣の席は空席であり、

その隣の席には年齢のそう変わらない大人っぽい綺麗な女性が緊張した面持ちで座っていた。

万理奈と同じようにアーティストの関係者である可能性を考えると、

あまり足跡が残るような関係を持つことはしたくないと万理奈は考えて、

自分の身体を半身にして反対側に向いて座るように努めた。

幸いにして、万理奈の反対側も空席だった。

招待された関係者などは、忙しいのか無料チケットにありがたみを感じないのか、

もしくは後でゆっくりとやってきて鑑賞するものなのかもしれない。

 

 

万理奈はまだ誰もいないステージを座席からゆっくりと眺めた。

規模に見合った立派で華やかなステージだった。

このステージがやがて爆破されてしまう、自分の手によって。

 

万理奈は出かける前にトマトを死亡させた右手の感触を思い出した。

人は何かを壊すときには快楽を覚えるもの、それは事実だ。

道徳的には異議を申し立てられても仕方ない行為ではあるが、

ストレスの捌け口に物を壊す人は、誰か人間を壊さないだけマシではないか。

 

そして、自分の本質は創ることだ。

破壊は創造の必要悪であり、より良い物を生み出す為の痛みである。

 

万理奈はリュックの中からスケッチブックを取り出した。

そしてページをめくり、昨夜書き上げた絵を自分で見つめ、

眼前に既にあるステージとそれを見比べていた。

 

万理奈のスケッチブックに描かれていたのは虹色のステージだった。

そのステージは奇抜であり、今まで誰も見たことがないようなデザインだ。

似通った素材や形状は一切見受けられず、すべてが独創的でオリジナリティーに溢れていた。

こんな物は低コストや利益率を追求する現代社会ではデザインの段階でボツにされてしまうだろうが、

そこにはどこにも見たことがないハンドメイドの温もりと豊かさがあった。

そして、そのステージの上で踊っているのは、やはりあの虹色の髪を持つ女の子であった。

 

(・・・ステージはなくなっても、私が私の為のステージを創る・・・)

 

その時、万理奈の頭にはステージ上で歌っているレイナの映像が浮かんだ。

彼女にとって、このライブにレイナが参加しているのは誤算だった。

 

別に彼女に恨みはない。

むしろ仲の良い友人の復帰の大事な舞台なのだ。

万理奈は特定のライブを破壊したいわけではないので、

レイナの気持ちを考えると気分が重たくなるばかりだった。

しかし、今の自分にとってはステージに上がる者はすべてが敵だった。

 

 

人を巻き込むつもりはない、ただ邪魔なステージには消えてもらうだけ。

少なくともレイナの出番が来るまでに実行しなければと思った。

 

万理奈は決意して席を立ち上がった。

 

 

(・・・私が伝えたいのは、自分の存在、私はこうなんだ、口で言わなくてもわかるように・・・)

 

 

 

 

・・・

 

 

席を立った万理奈は、レイナからチケットと共に送られたきたバックステージパスを服に貼り、

楽屋へ遊びに行くふりを装いながらステージへの接近を試みていた。

 

ステージの設計上、内野席は観客席となっていたため、

封鎖されている外野席側、もしくはバックスタンド周辺が楽屋であることは間違いなかった。

パスを持っている限り、出入りに苦労することはないが、

あまり怪しい行動を見られると後で疑いをかけられて面倒なことになる。

万理奈はできるだけ無駄な遭遇を避けてステージ下へ潜りこみたかった。

 

数年前にホイップのライブを観に来た時、万理奈はレイナの楽屋へ遊びに行ったことがあった。

何も変わっていなければ、その時の記憶をたどりながら歩けば楽屋の位置も、

そこからアーティストが移動するステージ周辺の通路も万理奈の頭には入っていた。

 

時限爆弾はもう準備していた。

もちろん、スケッチブックの中に描いてあるのである。

九官鳥のように動物型にして接近させる方法もあったが、

意志を持つ生物はある程度コントロールできるものの、

やはり彼らの独立した意志によって勝手に動いてしまうのでやりづらい。

万理奈はそうした理由から自ら直接手を下す方法を選んだ。

憎悪を込めて描いた時限爆弾は、その思念の強さだけ爆発の威力が増す。

 

準備万端で挑んだ万理奈が行うべき事は、

ただステージの下に張り巡らされている通路へ忍び込み、

適切な場所へ爆弾をセットして現場を離れることだけだった。

 

もし誰かに姿を見られてしまったなら、楽屋に遊びに行ってごまかせばいい。

特に必要がなければさっさと自分の特等席に戻ってステージが爆発するのを眺めればよかった。

 

 

万理奈は記憶を辿りながら楽屋へ通じる道を進んでいった。

内野席側から外野席側へ抜ける通路は関係者以外通れないように封鎖されていたが、

そこに立っていた警備員は、万理奈のバックステージパスを見ると、

特に何も気にする様子はなく、万理奈は通路を抜けることができた。

 

封鎖を突破した後、バックスタンド側へ向かう通路には誰もいなかった。

その長い通路を抜けた後、ステージ付近に楽屋が設けられていて、

そこから遠くない場所からステージ下へ通じる道があるはずだった。

 

 

だが、万理奈は嫌な気配を感じて後ろを振り返った。

誰かが自分を見ているような不愉快さを感じたのだ。

 

しかし振り向いた先には誰もいないことを確かめると、

自意識過剰になりすぎていた自分を冷まそうと一呼吸してまた前を向いた。

 

「すいません・・・どちらに行かれますか?」

 

振り向いた目の前には大男が立って万理奈を見下ろしていた。

見た目は一般の観客となんら変わらない身なりだったが、

関係者しか入れない場所にそんな人がいること自体に違和感があった。

さてはずっと後をつけられてきていたと万理奈は思った。

しかも、彼は自分が関係者しか通れなかった場所を通過するのを見ていたはずで、

そして一見普通の身なりに見える彼が、その場所をすんなり通過できたのもおかしい。

 

 

万理奈は無意識のうちに頬を引きつらせて不愉快な顔をしていた。

ワンピースのポケットに両手を突っ込んでぶっきらぼうな姿勢を見せたまま、

どこで感づかれたのかと、それだけをずっと考え続けていた。

脅迫状の九官鳥は爆発して跡形も残っておらず、

自分のことを感づかせる証拠は何も残っていなかったはずだ。

スタジアムの入場口でも何も怪しいそぶりは見せていなかった。

ただバックステージパスを持って外野席側へ通過したから目をつけられたのか?

それにしては目の前の大男の態度はあからさまに自分を疑っているのがわかった。

同じ手を使って楽屋へ遊びに行くVIP客は他にもいるはずだ。

 

「質問に答えてください、どちらに行かれますか?」

 

楽屋へ遊びに行くといえば、この男には自分を呼び止めておく理由はあるだろうか?

だが、おそらくめんどくさいことになると万理奈は直覚した。

この男は、万理奈こそが犯人だと8割程度は確信を持っていると感じたからだった。

そこまで考えて、もうムダな演技をするのは止めようと思った。

 

 

そして万理奈は男に向かってニコッと笑いかけた。

男は訝しげな表情を浮かべたが、すぐに青ざめた顔になって後ずさりを始めた。

 

男の目に映ったのは万理奈の背中から無数に湧き出てくるてんとう虫だった。

てんとう虫の大群はなぜか万理奈の背後から次々と現れて男に向かって襲いかかってきた。

 

初めのうちは叫びながらも手で振り払っていた男であったが、

さすがの大群で身体が赤と黒に見えるほどまとわりついてくると、

これは昆虫と言えども凶器である。

男は狂ったように叫びながら万理奈から走り去っていった。

しかしてんとう虫はどこまでも彼を追いかけていった。

 

「アッハッハ!」と楽しそうな笑い声を上げた万理奈だったが、

自分が疑われている事実が判明した以上、余裕はないと思った。

すぐに表情を整えて通路を走り出したのだったが、

突然向かいから飛びかかってくる人影に気づいて後ろへバックステップを踏んだ。

 

次の瞬間、前髪の一部がハラハラと地面に落下していった。

前から飛びかかってきた奴の刃物によって切られたのだ。

 

 

「・・・あんた誰よ?」と万理奈は髪型を直しながら尋ねた。

「あなたこそ何者なの?」とリリーナイトは聞き返した。

 

 

 

・・・

 

 

「極秘情報だ、絶対に漏らすなよ」

 

中西は自分の顎に置いた口元を隠している右手で、

人差指だけを動かし百合子を指差してそう告げた。

 

「俺たちは既に様々なルートから来場者に関する情報を調べ上げた。

 調査結果からの判断で怪しい奴には既に極秘で見張りをつけている。

 だが、ギリギリになってまだ調べられていない来場者の情報が入った」

 

百合子は中西が投げつけてきた、折りたたまれた紙を拾って広げた。

そこには数人の名前と関連情報が書き綴られていた。

 

「出演アーティスト達が招待したVIP客だよ。

 俺たちはもちろん既に演者の招待客にまで調査を進めていたんだが、

 ギリギリになって個人的にどうしても招待をしたいという彼らの希望を叶えたらしく、

 昨日になって新しい来場者の情報がまた入ってきたんだよ」

 

百合子は紙に載っていたリストの名簿をじっと見つめていた。

 

「全く、俺たちの苦労も知らないで勝手な事をしてくれたもんだ。

 だが、もしかするとこれが犯人を特定する重要な手掛かりになるかも知れない。

 俺たちは既に多数の来場者を洗ったが、特段怪しい奴を発見する事はできなかった。

 あとは当日になんらかの方法で襲ってくる武装集団なりを摘発すればいいかと思っていたが、

 ひょっとするとこのリストの中に犯人グループの実行犯が潜んでいるのかも知れないぜ」

 

中西は少し不敵な笑みを浮かべながら話を続けている。

百合子は名簿を見つめながら、そこに発見した名前を見て驚きの表情を浮かべていた。

 

「ターゲットは5人だ」

 

中西は立ち上がり、百合子の周囲を歩きながら話を続けていった。

 

「1人目は白岸芽衣、歌手を目指しながらアルバイトを続けている女で、

 調べたところでは最近少し情緒不安定のきらいが見受けられる。

 交際関係があった男性と別れた後、なぜか一人で奇妙な行動を繰り返しているんだ。

 その真意は明らかではないが、何かしらのスパイ行為を行っていた可能性も考えられる。

 そして、全く腑に落ちないのが、彼女はなぜか出演者の一人である桜木レイナに対し、

 突然個人的な手紙を送り、この度のライブへの参加を脅迫じみた奇妙さで求めている」

 

百合子は真剣な表情で中西の話を聞き続けていた。

実行犯が同じ女性である可能性が信じられない気持ちもあった。

 

「個人的な怨恨があるのであれば、桜木レイナをわざわざステージに復帰させ、

 その復帰ライブを狙って犯行に及ぶのは考えられなくもない。

 だが、彼女一人で今回のような事件を思いつくとは考え難い。

 裏で彼女を操作している人間がいて、彼女が踊らされて実行犯になっているなら理解できる。

 そうなると、ライブの中止を求めていた脅しは彼女を操っている人間の仕業だったということになる」 

 

中西はまたタバコに火をつけ始めた。

フゥーと煙を吐き出してから話を続けた。

 

「2人目は中山蓮実、雑誌記者として働いていたが、なぜか突然退社し、

 体調不良という事で児玉坂病院に入院している。

 こちらもなぜか桜木レイナに対して手紙を送っていて、

 今回のライブに突然の招待を受けている。

 だが、どうも当日はライブに赴く様子が見受けられない。

 本当に体調不良なのか、それともカモフラージュとしてそう言っているのか、

 正直、この女がステージを爆破する理由はあまり思い浮かばないのだが、

 仕事を失って環境の変化があった事で、精神的に不安定である可能性は否定できない。

 そういう人間は、なぜか突然過激な事をやってみたくなるものだ」

 

中西は腕を組みながら自分の推理を飄々と述べ続けている。

その調査力と推理力には、百合子も関心せざるを得なかった。

 

「3人目は瀬藤りさ、現在は保険会社で普通のOLをやっているようだが、

 学生時代には桜木レイナと一緒に音楽をやっていた仲らしい。

 こちらも桜木レイナから招待状を受けているようだが、

 当日は仕事があって不参加を表明しているらしい。

 調べたところ、2人の仲は良好であり、彼女の職種を考えると、

 わりと自由に行動することができるはずだ、なのになぜか彼女はライブに来ない。

 少々気になるのは学生時代に桜木レイナと同じ男性を取り合ったという噂がある。

 何か個人的な恨みがあるかもしれないが・・・まあ正直犯人である可能性は高くはないだろう」

 

百合子はリストに載っているのが女性ばかりであることに驚いていたが、

彼女達と同性である強みを活かして考えていけば、

中西の見落としている箇所を自分が埋めることができるかもしれないとも思った。

 

「4人目は尾藤万理奈、こちらも桜木レイナの通っていた高校の後輩にあたる。

 高校卒業後はファッションデザイナーを目指して専門学校に通っていたようだが、

 どうも数ヶ月前に突然辞めてしまったらしい・・・理由はよく分からない。

 彼女のSNSの更新もそこからパッタリと止まってしまっている。

 俺は・・・個人的にこいつが一番怪しいと睨んでいる」

 

「どうして?」

 

百合子は率直に尋ねた。

 

「人間というのは一定のリズムで生きているものだ。

 鈍感な奴には分からないだろうが、人には皆各自のリズムがあって、

 そのリズムに合わせて生活をしていると俺は考えている。

 例えばSNSの更新だよ、月に10回も20回も更新していた奴が、

 突然月に2~3回に激減したとする・・・こんなのは変化のシグナルだ。

 間違いなくそいつは生活のリズムを崩したんだよ。

 もしくは生活環境の変化によって更新できなくなったか、

 そうだとしても、そいつの生活のリズムは変えられたことになる」

 

百合子は今までに聞いたことのない類の話を必死で消化しようとしていた。

おそらく中西の独自理論なのだろうが、少し突飛な発想だと思った。

 

「逆もまた然りだよ、月に2~3回だったやつが急に10回も20回も更新しだしたら、

 そいつには何かいいことでもあったか、環境が変わったか心境の変化が考えられる。

 人間は各自、自分にとって心地よいリズムで生きている。

 寝食の時間や回数、趣味に費やす時間、友人と交流する時間など、

 無意識に自分なりのバランスをとって生活をしているものだ。

 だからそのリズムに注視していれば、そいつがどういう人物であるか、

 特定していく手がかりになるのさ」

 

百合子はぞっとする思いで自分の生活の中にあるリズムを考えてみた。

ネットショッピング生活を続けている自分、自炊をして食生活に気をつけている自分、

ヒーロー番組のDVDを見ている自分、確かに全て決められた時間で行なっていたと気づいた。

 

「人間は嘘つくのが下手な生き物なんだよ。

 言葉でいくら嘘をついても、そいつの挙動を見ていれば態度では嘘をつけていない。

 食べ方に育ちが出るし、喋り方に品性が見える。

 聴いている音楽でも性格を予想できる、立ち方や歩き方でも見えて来るものがある。

 洋服の趣味や見ているTV番組、読んでいる本、なんにでも滲み出る真実がある。

 つぶさに見ていけば、目の前にはいつもヒントがあるんだよ」

 

百合子の目には、中西の口元から溢れている笑みが映った。

なるほど、冷静を装っている彼でも、口元の笑みからは喜びを隠しきれていない。

 

「そして紛れもない過去の答えがある・・・。

 話が少し脱線してしまったが、尾藤万理奈のSNSは彼女の趣味が色濃く反映されている。

 こいつの趣味は絵描きだ、ペン画や水彩画など、かなり本格的に取り組んでいる。

 抽象的な画風やグロテスクで奇抜な、シュールレアリスムやダダイズムの作品もある。

 才能はあるが、そうであるがゆえに奇抜すぎてあまり世間からは理解されないタイプだよ。

 そして芸術家タイプに特有の自意識の高さが垣間見える」

 

中西は視線を百合子に向けてきたが、百合子には寒気すら覚えた。

そんな目を向けられては、自分の挙動からも何かを読み取られている気がして、

すぐに彼の目の前から隠れてしまいたいとすら思った。

 

「そして俺が着目したのはこいつの色彩だよ。

 どの絵にも鮮やかな複数の色使いが施されている。

 デザインしている洋服にも、奇抜なデザインや派手な印象を受ける。

 部屋にはガラクタにも思える小物がたくさん転がっている。

 こいつの部屋の乱雑さは、そのままこいつの頭の中を象徴しているのさ。

 彼女の頭はいつも混沌とした状態で、それでいて絶妙のバランスを保っている」

 

中西は椅子に座ってパソコンのキーボードを叩きながら、

尾藤万理奈のSNSのページを開いて百合子に見せた。

百合子は中西の肩越しから覗き込んだパソコンの画面に、

色鮮やかな彼女の残した作品が並んでいるのが目に入った。

 

 

「色彩にはその人の無意識が文字通り色濃く表れる。

 神経衰弱の患者に自由に絵を描かせたとする。

 覇気がない人間が描く絵には色彩が反映されていないことが多い。

 モノトーンの絵を描いたり、自信を失っていれば極端に小さな絵を描いたりする。

 逆に自己主張の強い人間は色彩を色濃く反映させる。

 例えばな・・・お前は赤が好きじゃないだろう?」

 

百合子は確かに赤はそんなに好きではなかった。

戦隊もののレッドは自己主張の強いキャラクター設定が多い。

だから百合子自身、リリーナイトのコスチュームには白を選んだ。

そう考えて、その色が自分を一番正しく表してくれていると無意識に感じていた事に気がついた。

 

「フェラーリはなぜ赤いのか、ちゃんと理由があるんだよ。

 自己主張の強い人間は鮮やかな原色の服を着たりする傾向がある。

 また、デザインにもシンプルなものよりも複雑な模様を好む。

 誰とも同じではない、オンリーワンの物を手にしたくなる」

 

黙々と話を続ける中西を見つめながら、

百合子は中西が敵ではなくて本当に良かったと思った。

味方でいてくれれば、恐ろしいが頼りになる事は間違いない。

 

「尾藤は見る限り、以前は比較的に緑を好んでいたようだな。

 緑を好む人間は自然を愛してわりと穏やかなところがある。

 だが・・・こいつはきっとカメレオンみたいなやつだよ、

 何色にでも自分を変える事ができる天才肌の役者みたいなやつだ。

 おそらく自分でも自分の色が何色かよくわかっていない。

 こいつは七色に自分を変化させる、それくらいカオスな感性をしている」

 

百合子はそこまで聞いて、さすがにピンときた。

 

「・・・あっ、虹色の九官鳥!」

「そうだ」

 

中西は少し嬉しそうにも見えた。

自分が説明してきた内容が百合子に正しく届いた時、

彼自身も何か満たされる思いがあったのかもしれない。

 

「どういう手を使ったのかわからないが、

 あの虹色の九官鳥は、こいつが塗ったのではないかと俺は考えている。

 彼女には鳥を好んでいるという傾向はあまり見受けられないが、

 愛鳥家の仲間と組んで犯行に及んだのかもしれない。

 なぜわざわざそんな事をしたのかはよく分からないが、

 自己顕示欲を抑えきれなかったのかもしれない。

 自分の好みを脅迫状に反映させるのは、少し子供じみているがな。

 だが、SNSを更新しなくなった事で生活のリズムを崩し、

 彼女の性格上、理解されない孤独に陥ってしまったとしたら、

 わりと合点が行く推理ではないかと俺は思うんだが、どうだ?」

 

百合子は中西の説明にただただ感心していた。

そう言われるとそんな風に感じてしまう。

もちろん、あくまでも推測であり、その他の可能性もあるのだろうが、

一つの仮説として筋が通るような推理をしてみせたのではないかと思った。

 

 

「さて、5人目の話は余計かもしれないが・・・南野きな子」

 

「・・・この子は違うんじゃないかな」

 

百合子はすぐに口を挟んだ。

 

「・・・こいつを知っているのか?」

 

中西にも知らない事はちゃんとあるのかと百合子は思った。

逆に言えば、彼は本当にきちんと調査をしているのだ。

パズルのピースのような破片を拾い集めて、

自分なりに無謀にも思える難解なパズルを組み立てている。

 

「この子は・・・ただの子供だからこんな事件を起こさないと思う」

 

「お前、知らないのか、こいつはただの人間じゃないぜ」

 

百合子は、中西は南野きな子がアンドロイドである事を知っているのだと思った。

 

「わかってる、わかってて言ってるの、この子はそんな事しないって」

 

中西はかすかに口元が笑っていた。

この場合はこちらをバカにしている笑みだと百合子は悟った。

 

「なるほど・・・相変わらずバカみたいに信じやすいやつだな。

 いつか悪い男に騙されても俺は知らないぜ。

 世の中には本当に救えないほどの悪人だっているんだからな・・・。

 まあいい、こいつの事をわかっているなら余計な事は言わないぜ。

 だいたい、俺だってこんなガキが事件を起こせるとは思っていない。

 ただ、わかっていると思うが、南野きな子は存在自体が文字通り爆弾娘だ。

 こいつを下手に刺激すれば、ステージどころか児玉坂の街自体が全部消えて無くなる」

 

百合子はかつて公園で出会った南野きな子の事を思い出していた。

腕にミサイルを隠し持っている爆弾娘。

彼女と知り合った後で調べてわかった事だが、彼女はなんとアンドロイドだった。

原子力エネルギーで動いている彼女が暴走してしまえば、

原子力発電所が放射能汚染を引き起こすような、

原子力爆弾が街を粉々に吹き飛ばすような、

そんな大惨事が児玉坂の街に降りかかる事になってしまう。

 

「まったく、どうしてこんな時にこんな厄介なやつが紛れ込んでるんだか・・・。

 桜木レイナのバックバンドを務めるドラムの内藤明日奈というやつが招待したらしい。

 黙って席に座っていてくれればいいが・・・近頃のガキは落ち着きがないからな」

 

百合子も、きな子が多分にトラブルメーカーである事は承知していた。

ただ、この子を疑う必要は微塵もない事を過去の経験から理解していたのだった。

 

 

「まあこんなところだ。

 この5人のターゲットに対してはすでに見張りをつけている。

 彼女らの行動は逐一見張っていて報告が入るようになっているのさ。

 見張りは変装しているから彼女達に見抜かれる事はないだろう。

 親切な顔をして落し物を渡してくれたり、

 会場に向かって走ってくれるタクシー運転手がいたりすれば、

 それは全部俺が送り込んだ刺客だってことだ。

 それくらいピッタリと見張りをつけている。

 まして会場内で怪しい行動を取ろうものなら、

 すぐに取り押さえる準備はできているさ」

 

 

 

・・・

 

百合子は中西の説明を思い出していた。

 

百合子は当日の5人の行動をそれとなく監視してみたが、

やはり本命は尾藤万理奈だと思った。

 

そして、外野席に向かって進むのを見張りながら、

中西が送り込んだ刺客を、どういうトリックか分からないが、

リュックの中からてんとう虫の大群を出現させる事で追い払ってしまったのを見て、

中西が話をしてくれた推測が確信に変わったのだった。

尾藤万理奈は只者ではない、ステージ爆破を狙う犯人である可能性が極めて高い。

 

 

「あなた、何処へ行くつもりなの?」

 

リリーナイトは万理奈に問いただした。

 

「あんたに答える筋合いはないんだけど」

 

ムッとした表情で万理奈は返答した。

もうわかっているくせに言葉にしてわざわざ尋ねる意味はないでしょうと思った。

 

「もう知ってるんでしょ? 私が何者なのか?」

 

万理奈は憮然とした態度でそう言い放った。

自分の計画がバレてしまっても、まったく悪ぶれるそぶりも見えない。

相当の覚悟を決めてこの日に臨んだ事が彼女の態度から見て取れた。

 

「・・・じゃあ質問を変えるね、どうしてこんな事をするの?」

 

リリーナイトは少し柔らかい口調でそう尋ねた。

話せばわかるという信条をまずは貫きたかった。

 

「それも、あんたに答える義務はないんだけど」

 

万理奈は小賢しい説得など受けるつもりはなかった。

 

「思い出した、あんた、あれだ。

 TVに出て正義の味方ぶってるやつだ」

 

「ぶってるって・・・どうしてそんな酷いこと言うの?」

 

百合子には、どうしても万理奈が悪いことをする人には見えなかった。

 

「ちょっとTV出てるからって人気者だって勘違いしてるんだ。

 大丈夫、私あなたの出てる番組一度もちゃんと観たことないから」

 

「勘違いなんてしてないよ・・・」

 

リリーナイトは正義のために戦っている自負をけなされて、

怒りよりも悲しみが先行して湧き出てきた。

百合子は誤解される事が何よりも辛くて嫌いだった。

 

「もういいでしょ、そこどいてくんないかな。

 私には私なりの理由があるんだから」

 

万理奈は相変わらず冷たく言い放った。

自分の計画がばれている以上、黙って見逃すことはできないとも思ったが、

特に無関係の人々を巻き添えにしようという思いは万理奈にもなかった。

 

「・・・今からでも遅くないよ、こんなことは止めようよ」

 

リリーナイトは先ほど万理奈の前髪を切り裂いたリーフソードをただの植物に戻して捨てた。

自分にはあなたを傷つける意思はないと態度で示して見せたのだった。

 

「・・・あんたさ、誰も見てないよ」

「えっ?」

 

万理奈はつぶやくような声を漏らした。

悲しみに満ちた、憂いを帯びた音だった。

 

「あんたの番組、今日はこのライブの生放送があるから、きっと誰も観てないよ。

 ついてないよね、こんな視聴率の高い番組とバッティングするなんて」

 

万理奈は自分の背後からカメラを持った男がこちらに向かってくるのを察知していた。

リリーナイトが戦う時、それは生放送のTVカメラマンがどこまでも追いかけてくる。

児玉坂の危機が訪れていることもあり、一部の予定された番組は変更になってでも、

リリーナイトの戦いを生放送するのが決まりになっていた。

だが、本日はあいにくレイナ達のライブが視聴率を期待されていることもあり、

そのチャンネルだけはリリーナイトの番組が放送されることはなかった。

 

 

そしてリリーナイトは万理奈のリュックから大量の黒い影が現れたのに気がついた。

無数の黒い影は俊敏な動作でいつの間にかリュックから洪水のように溢れ出てきていた。

そして、万理奈の足元はその黒い影で埋め尽くされていった。

 

リリーナイトが気づいた時には、その黒い影の大群は万理奈の背後へなだれるように一斉に動き、

彼女の背後から迫っていたカメラマンの機材に次々とへばりついていった。

カメラのレンズにへばりついた気持ち悪い爬虫類の姿態がどアップで全国に放送されていた。

その黒い影の正体はヤモリの大群だった。

 

「うわぁー!」と叫んでカメラマンはヤモリを体から振り払おうとしたが、

もはや身体中がヤモリに覆われて黒く染まっていった。

 

カメラマンは担いでいた撮影カメラを耐えきれずに地面に落とした。

カメラにもヤモリが群がっていて、もはや黒い塊にしか見えなかった。

カメラマンは落とした機材を拾う事も忘れて元来た道を走って逃げていってしまった。

 

「・・・悪いけど、これで本当に誰も観てないよ」

 

おそらく今頃、生放送は中断されてしばらくお待ち下さいのテロップが流れているのだろう。

そして、リリーナイトが視線をカメラマンから万理奈へ戻した時、

自分の身体の異変にも気がついた。

ヤモリの大群は、いつの間にかリリーナイトの両足にも群がっていて身動きが取れなくなっていた。

 

「邪魔するんなら、あんたも私の敵だ」

 

リリーナイトにはさっきまで可愛く見えていた万理奈の胸元の蝶のブローチが、

なんだか妖艶な光を纏って怪しく輝いて見えた。

悲しみの声を響かせていた彼女とは違い、今の万理奈には憎悪の色がにじんでいた。

 

万理奈はリュックの中からスケッチブックを取り出した。

パラパラとページをめくると、そこには幾つもの奇妙な絵が描かれていた。

めくりすぎたページをパラリと戻し、万理奈はめぼしい物を見つけた様子だった。

 

次の瞬間、動けなくなったリリーナイトに向かってスケッチブックを見せつけた。

そこには黒い柄の部分にグロテスクな目玉がデザインされたナイフが描かれていた。

万理奈が左手をゆっくりと挙げて、おもむろにスケッチブックの中に手を突っ込むと、

次の瞬間、ナイフはスケッチブックの中から取り出されて万理奈の手に握られていた。

 

 

「・・・刺された事ある?」

 

万理奈は怪しくつぶやいた。

 

「咄嗟になんていうんだろうね?

 よくある台本とかには『やっ、やられたー』って」

 

抑揚のない声を発しながら万理奈はリリーナイトに話続けていた。

 

「・・・なんて言うと思う?うわーとかかな?」

 

リリーナイトは万理奈の中にある狂気を初めて感じていた。

今の彼女にはまともな話をしても通じそうにないと思った。

ドス黒い何かに心を支配されて、まるで操られている人形のようにも思えた。

 

リリーナイトが恐怖を感じてすくんでしまった次の瞬間、

万理奈はヤモリにへばりつかれて動けなくなったリリーナイトの膝にナイフを素早く突き刺した。

 

「ううっ、ああーっ!!!」

 

「あっははは!!全然違う!!」

 

リリーナイトが声にならない苦痛の叫び声を挙げた時、

万理奈は一人楽しそうに足をバタバタさせて無邪気に騒いでいた。

 

リリーナイトは苦痛に顔を歪めながら、咄嗟に腰につけていた銃のトリガーを引いた。

地面に向いていた銃口から光線が放たれてリリーナイトの足元の地面を吹っ飛ばした。

その勢いで自分の身体も後ろへ吹き飛ばされる形になったが、

足元に絡みついていたヤモリ達も吹き飛ばされてどこかへ消えていった。

万理奈もその地面の爆発の影響を受けて少しばかり後ろへ身体を投げ出された形になった。

 

「うっ!ああっ!」

 

リリーナイトは膝に刺されたナイフを右手で抜き去って、

応急処置のための包帯を取り出して膝に巻きつけて縛った。

何かあった時のために持っていた物だったが、

今までの戦いで、ここまでの痛みを味わった事はなかった。

 

「・・・あんた、そんな力がありながら何でこんなところにいるんだよ」

 

尻餅をついた状態から半身を起こして万理奈はそうつぶやいた。

 

「それだけの力があれば、もっと大舞台で活躍できるはずだ!

 なのに、あんたどうしてこんな事で私の相手なんてしてるんだよ!

 どうしてこんな誰も見てないところでくすぶってんだよ!」

 

万理奈は倒れた身体を起こし、次は前のめりになって叫んでいた。

リリーナイトは傷ついた足をかばいながら痛みをこらえて立ち上がった。

 

「・・・私だって、そんな簡単じゃないよ。

 TV番組を録画して何度見直したかわかんない・・・。

 ヒーローとしていつも主役で立たせてもらってるけど、

 全然カッコよく戦えてない自分がそこに映ってたりするんだよ。    

 気にしないようにしてるつもりだけど、視聴率だってやっぱり怖い」

 

リリーナイトの膝の包帯は血で赤くにじんでいた。

無理をして立つべきではないのは万理奈から見てもよくわかった。

 

「自分が何もできないって、イヤっていうほどわかってるよ。

 でも、任されている以上は死ぬ気でやろうと思ってる。

 自信もないし、申し訳ないなって思うこともあるよ。

 それでも、私にはへこんでる暇なんてないから」

 

リリーナイトは足の痛みをこらえて立っていた。

右手にリーフソードを呼び出し、両手で剣を握りしめて戦う構えを見せた。

 

 

「・・・あーーー!!!」

 

立ち上がった万理奈はムシャクシャする思いを叫びにぶつけた。

彼女の長い髪は乱れて揺れて、万理奈の顔を半分覆い隠していた。

 

「なんかあんたムカつくんだよ!

 そんなに死にたいんなら死ねば!」

 

万理奈はスケッチブックを開いた。

そこには黒い柄の部分に赤い血管が細かに表現されているグロテスクな槍がたくさん描かれてあり、

槍の先端はヤリイカのように鋭利に研ぎ澄まされて銀色に光っていた。

 

万理奈は手を使って槍を取り出すわけではなく、

その意志の力だけで槍をスケッチブックの中から具現化させた。

4本の槍が空中に浮かんで、その次の瞬間にはリリーナイトを目掛けて勢いよく突き進んでいった。

 

1本、2本、3本とリーフソードで弾き飛ばしたリリーナイトだったが、

踏ん張った際の足の激痛に耐えられず、ついに姿勢を崩して後ろへ倒れそうになった。

そこへ4本目の槍がリリーナイトの胸部を目指して襲いかかってきた。

 

万事休すに思えたその時。

 

カーンという甲高い音が鳴り響き、槍は上空へ弾き飛ばされた。

後ろへ倒れかけたリリーナイトは、何者かの手によって背中を支えられていた。

槍を弾き飛ばしたのは、硬そうな黒色のフライパンだった。

 

「満塁ホームラ〜ン!」

 

耳元にも関わらず遠慮なしに大声で楽しそうにそう叫ぶ者がいた。

リリーナイトの背中を支えていたのは、いつか見たあのアンドロイド少女だった。

 

 

 

・・・

 

 

「紀上さん、大丈夫ですか~!」

 

百合子は耳元で叫ばれる大音量に思わず両手で耳を覆った。

このアンドロイド少女には声量の調節機能がないのだった。

 

「・・・きなちゃん、鼓膜が破れちゃうよ」

 

足の痛みも忘れてリリーナイトは呆れていた。

この子はどんな状況でもパワー全開で抑えることをしない。

 

だが、背中を支えられている安心感に瞬間的に気を許してしまったリリーナイトは、

先ほどまで気合でなんとか持ちこたえていた足に堪えられないほどの激痛が走るのを感じた。

そして、思わず体重を支えられている手に預けて倒れかかってしまった。

 

「ヨボヨボじゃないですか~! 」

 

自分が何とか万理奈を止めなければという使命感だけが、

先ほどまでの自分の身体を支えてくれていたことにリリーナイトは気がついた。

忘れていた痛みが膝に戻ってきたことで、一人で立ち上がることすら困難な事実を痛感した。

 

「・・・倒れてる場合じゃ・・・ないから」

「無理ですよ~!」

 

きな子は声量を調節する事はできないものの、

その声色からリリーナイトを心配している事は十分伝わってきた。

 

きな子はリリーナイトの肩を担ぐ形に支え、

近くにあるベンチまで連れて行った。

その様子を見ていた万理奈は、二人を相手にするのを止めて、

一人でステージの方向に向かって駆け出していった。

計画通り進めるはずが、随分と時間を食ってしまった今、

もはやここにいる理由は何もなかった。

 

 

「あの子を・・・逃しちゃだめ!」

 

リリーナイトはきな子に焦りながらそう叫んだ。

 

「あの人、誰ですか?」

「このライブの・・・ステージを爆破しようとしてるの」

「えっ!?」

 

きな子はどうして二人が戦っていたのか、理由はわからなかったが、

以前、野良犬の里親を探してくれたリリーナイトを信じる気持ちから、

何が正しくて何が間違っているのか、そういう動物的な勘は働いていた。

 

「ごめんね・・・今は詳しく説明している時間はないの。

 でも・・・あの子を止めないと大変な事になってしまう・・・」

 

きな子はリリーナイトの悲壮な声を聞いて、これはただ事ではない事を悟った。

そして、今リリーナイトを助けられるのは自分しかいないという現状に、

自分がやらなければならないという使命感に燃えてくるのを感じた。

 

「・・・はい、わかりました、きな子が代わりに追いかけます!」

「・・・ごめん」

 

きな子はベンチにリリーナイトを横たえた後、

万理奈が走って行った方向を見つめて走り出そうとした。

 

「まって・・・きなちゃん」

「何ですか?」

 

リリーナイトは痛みに耐えながら声を絞りだしていた。

 

「自分の身体の事・・・わかってるよね?

 もしあなたが・・・暴走しちゃったら・・・もっと悲惨な事に・・・なっちゃうんだからね」

 

きな子は以前、公園で暴走してしまった事を思い出していた。

リリーナイトとチョップに止めてもらえなかったら、児玉坂の街は吹き飛んでいたはずだった。

きな子はあの事件の後、初めて自分の身体の仕組みを知ったのだった。

 

「・・・もうあんな事にはなりません、信じてください!」

 

リリーナイトにそう告げると、きな子は全速力で駆け出していった。

そのスピードはリリーナイトでもかなわないほどの圧倒的な速さだった。

今まできな子のヘラヘラした笑顔しか見た事がなかったリリーナイトであったが、

幾分キリッとした顔で心強い返事をするのを見て、彼女にも何か心境の変化があったかと思った。

 

 

きな子が走り去ってしまった後で、リリーナイトは一人でベンチに横になりながら深いため息をついた。

以前、助ける側だった自分がまさか助けられる側に回るとは思いもよらなかったが、

このギリギリの状況で自分を支えてくれる誰かがいた事に、

リリーナイトはなんとも言えない有り難さを感じていた。

頼れる仲間がいた、戦っているのは自分一人じゃなかった。

そう感じると同時に、きな子の前では我慢して見せなかった悔しさがこみ上げてきた。

 

正義のヒーローとして、自分の活躍を楽しみにしていた子供達もいただろう。

でもカメラマンを守ることはできなかったし、今頃TV放送はどうなっているだろうか?

自分が万理奈を止めなければ、ライブにチャンネルを切り替えた視聴者まで、

悲惨な結末を目にしてしまうことになりかねない。

色々と考えれば考えるほど、百合子には重たい責任を感じざるを得ず、

悔しさと不甲斐なさで涙が溢れてくるのを止められなかった。

 

 

 

・・・

 

 

リリーナイトを振り切って、万理奈は一人走っていた。

ステージから外野席まで伝わって来る音楽を聴きながら、

出演アーティストの順番を頭の中で思い出していた。

思わぬ誤算で随分と時間を食ってしまった事で、

ライブはもう中盤から後半に差し掛かろうとしているのに気がついた。

 

 

ただ、走りながら何か得体の知れない気持ちが心臓から突き上げてくるのを感じていた。

リリーナイトのあの純粋さが、自分にとって非常に不愉快に感じて、

得体の知れない劣等感に苛まれて、喉の奥から悲しみが登ってくるのを覚えた。

リリーナイトの強い意志に触れた瞬間、自分の存在がまるで羽虫のように小さく感じ、

身体から滝のような汗が噴き出してきたのをまだ湿った皮膚が記憶していた。

どんな風に考えても理由のわからないもどかしい苦しさから、

思いを言葉にすることさえ忘れてしまったように、ただただ空白だけが頭を支配していた。

そして、その焼け付いた脳を再び動かすには、瞳から熱い涙を溢れさせるより他に術を知らなかった。

 

万理奈は走りながら、一人泣いていた。

こういう苦しみから逃れるために、自分はここへやってきたはずだった。

行き場のない中途半端な自分から目をそらしたくて、

でも周りの友達を羨むこともしたくなくて、ただ残された無駄なプライドと強がりで、

言うことを聞かなくなった暴走機関車のように自分はただ猛烈に駆け抜けてきた。

 

未完成を信じたい、まだ自分は完成されていない、まだ先に行ける、登っていける。

そう信じて貫いてきたプライドと、でも先の見えない真っ暗闇のトンネルと。

光の見えない闇の中を手探りで進みながら、ただ自分の可能性だけを信じながら、

でも長いトンネルはいつ開けるかも知れない、永遠に続く可能性だってある。

 

あの子みたいになれたらな、と思うたびに私は私だと言い聞かせてきた。

やがて部屋の片隅で自分だけの世界を築いてしまった。

本当に壊さなければならなかったのは、ステージではなく自分の小さな世界なのではないか?

溢れる涙を手でぬぐいながら、そんな思いがふと万理奈の脳裏をよぎっていった。

 

 

猛ダッシュで走りながら自分の足音を聞いていた万理奈は、

いつの間にかその足音が2つ以上の音を発していることに気がついた。

それは自分の足音ではなく、後ろから猛烈な勢いで走ってくる一人の少女から発せられる音だった。

 

 

万理奈は目を疑った。

それは尋常なスピードではなかった。

自分だって短距離は不得意ではなかったが、

そんなレベルの速度ではない、今まで見たことのない景色、

人間がこんな速度で走ってくるなんて考えたこともなかった。

あの少女も、自分と同じで並みの人間ではないことを瞬時に悟った。

 

リュックにしまったスケッチブックに念じて、

残っていた数本の槍をすべて呼び出した。

中から勢いよく飛び出し、リュックを突き破るようにして、

切っ先がヤリイカに酷似した槍は次々と現れてはきな子を目掛けて飛んで行った。

 

 

「目標は~ろっぴき~!!」

 

猛烈な勢いで走りながらも、きな子はおもむろに背中からフライパンを取り出し、

自分を目掛けて次々と飛んでくる槍をフライパンで叩き落としていった。

まるで獰猛な生き物のように飛びかかってきた6本の槍は、

きな子によって次々と叩き落とされて絶命し、地面にバラバラとイカの死骸のように転がっていった。

 

 

「や~り~!!」

 

満面の笑みでそう叫んだきな子は、持っていたフライパンを万理奈へ投げつけた。

万理奈は後ろから飛んでくるフライパンを間一髪で頭を沈めて避けたものの、

その動作が走るスピードを遅める結果となり、気づいたときには後ろから羽交い締めにされていた。

 

万理奈はまったく動けなくなった。

とんでもないきな子の怪力によって身体を締め付けられていた。

それは締め付けるというよりも、あまりの怪力によって身体がバラバラにされそうなほどだった。

 

「きな子の勝ちですね、東京湾に沈んでもらいます」

 

冗談か本気かわからない言葉を、きな子は勝ち誇って万理奈に告げた。

万理奈はその言葉を聞いて、この子は自分よりもタチの悪い狂気を秘めていると思った。

 

「・・・元気だなぁ」

 

羽交い締めにされながらも、万理奈は呆れた声でそう言い放ち、

あまりにも碧くて冷たい視線をきな子に振り向けた。

 

冷たい視線を避けるように、ふと目線を下に落としたきな子は、

動けなくなったはずの万理奈の胸元で怪しく光る物が目に止まった。

それはいつか明日奈と一緒にバレッタで語りあっていたときに、

店員の女の子が身につけていた物とまったく同じ蝶のブローチだった。

 

「えっ、そのブローチ!」

 

きな子がそう言い終わらない内に、蝶のブローチは奇妙な輝きを増していき、

次に、羽交い締めにされていたためにきな子に圧迫されていたリュックが光を放ち出し、

身体をうねらせながら2ー3mほどの巨大な緑のワニがリュックを破って姿を現した。

ワニは口を大きく開けてきな子の頭部を目掛けて襲いかかってきた。

 

「きゃ~!おとなしくして~!」

 

きな子は噛み付いてくるワニの口を両手で押さえながら、

間一髪で食べられるのを防いでいた。

 

「きな子はアンドロイドだから食べても美味しくないよ~!」

 

腕をプルプルさせながらワニの口を必死に抑えて抵抗していると、

万理奈はニヤリと不敵な笑みを浮かべて前方へ走り去っていった。

 

「待って~!こんな大きいペットを勝手に捨てちゃダメ~!」

 

万理奈はきな子の叫びを無視して消えていった。

 

 

 

・・・

 

 

外野席側の廊下を走り抜けて、やがてステージ下に通じている通路を発見した。

 

ライトスタンド側からステージの中央を貫いて、

おそらくレフトスタンド側の出口まで続いている通路は、

主にアーティストのサプライズ演出などに使われるため、

多少わかりにくい迷路のような作りになっている。

 

ステージ下は舞台板を持ち上げるための鉄脚が備え付けられており、

その鉄脚がないところだけが人が通れる道になっていた。

足元には蛇のような音響配線が張り巡らされているし、

ところどころに余った機材や演出に使われる小道具なども無造作に置いてあり、

照明や小道具などを担当する裏方スタッフが使用することもあった。

 

万理奈がたどり着いたとき、近くに次の出番を待っている児玉坂46のメンバーがいた。

大所帯のグループメンバーが付近をウロウロしているのは非常にやりにくく、

万理奈は腕時計をちらりと盗み見ながら、

彼女達が一刻も早くステージに上がってくれることを願った。

 

 

やがて彼女達がその場をはけて階段からステージへ上がっていったのを見計らって、

万理奈は静かに一人ステージ下の通路を歩いていった。

ステージを一撃で沈めるために、万理奈は中央部分に爆弾を仕掛けると決めていた。

距離を測りながら薄暗い通路を手探りで進む内に、

やがてステージの中心と思われるあたりにたどり着いた。

会場の歓声や舞台上の音楽が幾分薄められた音量で万理奈の耳に届いてきた。

児玉坂46の出番が終わると、次はレイナの出番であった。

レイナを巻き添えにしたくないので、児玉坂46の出番が終わった時点で、

仕掛けた時限爆弾が爆発するようにするのが丁度いいと目論んでいた。

 

 

万理奈は槍やワニを呼び出したことでもうボロボロになっていたお気に入りのリュックから、

いつものスケッチブックを取り出してパラパラとページをめくった。

やがて開かれたページには、燃えるような赤色の心臓の形をした時限爆弾が描かれていた。

 

万理奈はゆっくりとページに手を突っ込み、右手で鷲掴みにするように、

その燃えるような赤い心臓をスケッチブックから引っ張り出した。

まるで生きているようにドクンドクンと鼓動を打つ心臓型の時限爆弾は、

絵から飛び出してきたはずなのに赤い血がポタポタと生々しく滴り落ちていて、

万理奈自身の憎悪の塊であるかのように赤く燃えているように見えた。

 

「動くなよ」

 

冷たい鉄がこめかみに当たるのを万理奈は感じた。

ステージの中央部分で爆弾を仕掛けるため頭上の舞台板を見つめていた万理奈は、

その鉄の冷たさに、さすがの恐怖を覚えた。

 

「撃つわけないと思っているだろう?

 こんなところで発砲すれば、観客の誰もが銃声を聞くことになるからな。

 会場は大混乱に陥って、明日のニュースはテロの話題で埋め尽くされることになる。 

 『東京事変』なんて世界に報道されてしまったら面倒なことになるのは明白だからな、

 だからお前は俺が面倒を避けるためにも撃たないと思っているんだろう? 

 だが、残念だが俺は撃つ、撃てるだけの権利を持っている存在だからな」

 

物陰から突然姿を現した中西は、万理奈の背後から近づいて銃口をこめかみに突きつけたのだった。

 

「好都合な事に、ここでは誰も見ていない。

 ただ一発、小さな破裂音が高く鳴り響くだけだ。

 下手をすると誰かの風船が割れる音だと勘違いしてくれるかもしれないな。

 観客はステージに夢中で、俺たちがこうして下にいる事なんか知りもしない。

 平和ボケしたこんな国では、まさか国内でテロが起こるなんて誰も夢にも思っていないのさ」

 

万理奈はさすがにゴクリと唾を飲み込んだ。

今日出会う奴らは、どいつもこいつもクレイジーなやつばかりだと万理奈は思った。

 

「・・・残念ながら運が悪かったな」

 

中西は首を傾げながら悲しげに呟いた。

 

「・・・何それ、どういう意味?」

 

万理奈は自分の身体の鼓動が手に持っている爆弾の鼓動より速くなっている事に気がついた。

彼女は、いま二つの心臓が異なるリズムを刻む音を聴いていた。

 

「俺から最後に贈る言葉だよ。

 つまり、お前が悪いんじゃないってことさ」

 

中西の声には多少の憐れみの気持ちが混じっていた。

 

「いや、結局はお前が悪いことになるんだがな。

 この世界では生まれ持った不平等に合わせて、

 その個体に生まれついた責任を背負わされることになる。

 俺は俺、お前はお前、嫌でもそのツラ下げて生きていかなきゃいけない」

 

中西は一つ大きなため息をついて話を続けた。

 

「俺だってもっと才能溢れるミュージシャンにでも生まれたかったぜ。

 そうすればこんな危ない橋を渡る仕事なんてしなくても、

 今頃この上の輝かしいステージで黄色い歓声を浴びているさ。

 だが、残念ながら俺にはそんな音楽の才能はない。

 俺は持たざる者だったんだよ」

 

万理奈は中西の馴れ馴れしい饒舌さを不思議に思った。

これから死んでいく人間に何をゴチャゴチャ話をしているのだろう。

 

 

「この世界には奪い合いの論理がある」

 

中西はカッと瞳孔を開き、語気を強めて話を続けた。

 

「世界の光の分量には限度があって、数少ないパイを分け合うだけだ。

 それがなくなってしまったら、残りは誰も歓迎しない闇を押しつけ合うことになる。

 それは食料事情と似ている、富める者の夕食のテーブルには美味しいご馳走が溢れている。

 しかし、貧しい者には一切れのパンも与えられない。

 もし、富める者が貧しい者に自分達に不要な食料を分け与えるだけでも、

 この世界の飢餓をどれだけ減らすことができるだろうな」

 

銃口を突きつけられている万理奈にとって、

リアルに死と隣り合わせに聴く彼の饒舌は苦しかった。

耳から入った声が恐怖感と融合した後で脳に直撃しているようだった。

 

「だが、人間にはそんな簡単なこともできない。

 だから持たざる者は、持つ者から奪いに行かざるを得なくなる。

 光と闇は食料ほど物質的ではないが、この世界には確実に存在している。

 お前は長い孤独な生活の中で光を失い、闇を多く取り込んでしまった。

 光と闇を流動的に交換する友人関係も失ったことで、

 引き受けた闇がただ自分の中で膨らんでしまったんだよ」

 

銃口の重圧に耐えながら、まさにこれは洗脳に似ていた。

万理奈には中西の言葉を聴くしか選択肢はない、

しかも、この世で最も苦しい恐怖にさらされながら。

 

「しかし、頭で理解しても問題は解決しない。

 鬱屈した気持ちは何らかの形で世界に現出されてしまう。

 自分の存在が、ただ闇に隠されて誰にも見えなくなってしまうことで、

 たったそれだけのことで生きるということは時に苦しくなる」

 

万理奈は気づいたときには目から涙をこぼしていた。

恐怖心からなのか、それともこんな極限の状況下で、

今まで自分でもよくわからなかった複雑な思いを、

恐ろしい程に的確に述べられ、誰もわかってくれなかった苦しみを、

最後に理解してくれたのがこんな最悪な男だったというような、

あまりに残酷な悲劇の結末に対してだったのかもしれない。

 

 

「お前はただ、この世界の不平等に対して、

 生き延びる為に光を奪いにいっただけだ。

 持たざる者にとって、それは仕方のない行為だからな。

 だが、光を持つ者が作ったこの世界の法律に則って裁かれるなら、

 お前は社会悪という責任を背負わなければならないんだよ」

 

「ううっ・・・うっ」

 

万理奈は目をつぶり歯を食いしばって、苦しくなる程に涙を流していた。

どうして自分がこんなことになってしまったのか、

自分でもよくわかっていなかった。

ただ、わからないままにこの世界の大きな流れに巻き込まれ、

その意志に振り回されてここへやってきたような思いさえしていた。

 

「・・・お前は才能を持つ者だったと思うぜ。

 だが、環境には恵まれなかったのかもしれないな。

 俺はお前には同情してやれるが、残念ながら消えてもらう。

 お前の持つその謎の能力は、野に放っておくには危険すぎる」

 

中西が銃の引き金を引こうとしたかに見えたその時、

万理奈の胸についていた蝶のブローチが怪しく光りを放ち、

彼女の足から素早く駆け上がってくる物があった。

それは中西の腕に俊敏に絡みつき、人差し指にがぶりと噛みついた。

 

その正体は赤い蛇だった。

心臓の爆弾から滴る血が地面に落ち、万理奈が器用に足で描いたものだった。

 

一瞬のためらいで銃口をこめかみから離してしまった中西は、

次の瞬間には目の前に出現した虹色のカメレオンと目があった。

氷のような冷たい瞳をギョロリと動かした後、カメレオンは大きく口を開けた。

口内に見えた舌先は、鋭利なナイフの形をしていた。

 

一秒数える間もなく、カメレオンの舌は中西の腹部を突き刺した。

たまらず拳銃を落としてしまった中西は、両手で腹部を抑えて崩れ落ちた。

 

「残念だけど、ここでは誰も見てないよ。

 あんたが死んでいっても、誰もそんなこと気付かない」

 

カメレオンは中西の腹部から舌を引き戻した。

獲物を食べられなかったカメレオンは不満げに万理奈を見つめていた。

 

「私のことをコケにした罰だ」

 

 

 

・・・

 

 

「そこまでよ」

 

万理奈が振り向くと、そこにはリリーナイトが立っていた。

足にはもちろん包帯を巻いたままだった。

 

「あれ?あんたが先に来たのか」

 

きな子はこないのか、という疑問が頭に浮かんでいた。

たかがワニ程度であの暴走娘を長く足止めできるとは万理奈も思っていなかった。

だから足を痛めたリリーナイトが先に来るのは意外だったのだ。

 

「もうこんな事は止めよう?」

 

リリーナイトは悲しみを帯びた声で説得を試みていた。

 

「しつこいんだよ!」

 

万理奈はイライラしたように怒声を発した。

 

「さっきもこいつに散々説教されたんだよ!

 あんたら全部おせっかいなんだ!

 さっさと撃てばよかったのに!」

 

倒れている中西を指差しながら万理奈は叫んでいた。

しかしステージ上では児玉坂46の「行ってらっしゃいコンディショナー」が流れている。

ステージ下の緊張感など微塵も気にしていない光りの世界がそこにはあった。

 

「・・・あんたもさっさと私を撃てばいい。

 早く腰につけてる銃を取りなよ。

 でないと私、あんたを殺す凶器なんていくらでも取り出せるから」

 

万理奈はスケッチブックをパラパラとめくっている。

自分が描いたお気に入りの作品がたくさん詰まっている。

紙に閉じ込めたガラクタのような生き物たち。

でも自分にとっては眩しいばかりの宝物たち。

 

「・・・あなたは観てないから知らないかもしれないけど、

 私はこの構えの状態からでもいつでもあなたを撃てるのよ。

 ファンの方からは早打ちリリーナイトなんて呼ばれてるんだから」

 

中西は強烈な腹部の痛みに声も出せずにうずくまっていた。

争いの種は男が蒔いている、彼は今までそう思っていた。

だが、男がいなくなった世界でも、女たちは争いを始める。

結局、人間がいる限り、この世界から戦争は無くならないと彼は思った。

 

「それなら、なおさら早く撃ちなよ。

 私たちはどうせ、みんな持たざる者なんでしょ。

 こいつがさっき偉そうに言ってたよ。 

 何も持たない私達が消えたって、どうせ誰も気づかないんだから!」

 

万理奈は右手を上に掲げた。

持っていた心臓型の時限爆弾が万理奈の手を離れて上に浮かんでいき、

ステージの中央部の舞台板の直下にピタリと貼りついた。

そこで爆弾はゆっくりと怪しげに鼓動を打ち続けていた。

 

「もういいよ・・・こんな世界は壊してしまえばいい・・・。

 そして光を取り戻そう、なんならあんたにも少し分けてあげるよ?」

 

万理奈の胸についていた蝶のブローチが今まで見た事のない赤さで光っていた。

そして、その輝きが増す度に、万理奈は自分の理性が一層失われていくような気がしていた。

しかし胸に宿る力はその度に増していく気もしていた。

この世界の真実として、憎しみは一つの生きるエネルギー源であることは嫌というほどわかった。

 

 

「誰も気づかないわけない・・・」

 

リリーナイトの拳は震えていた。

傷ついた足を引きづりながらも、一歩ずつ万理奈に向かって歩みを進めていく。

 

「私たちは世界の吹き溜まりなんかじゃない!

 光を奪われた、闇に埋もれた存在なんかでもない!」

 

万理奈はリリーナイトの表情に鬼気迫るものを感じていた。

それは今までに見たことないほどの気迫がこもっていた。

 

「・・・私たちは誰の下で生きてるわけでもない!

 たとえちっぽけだって、自分が主役の人生を生きてる! 

 誰も代わりができない、かけがえのない存在として生きてる!」

 

万理奈は痛みをものともせずに歩いてくるリリーナイトが信じられなかった。

自分が膝に突き刺したナイフは、間違いなく彼女の靭帯を損傷させたはずだった。

 

「きなちゃん!今よ!」

 

リリーナイトがそう叫ぶと、万理奈の背後から突然きな子が現れた。

そしてリリーナイトに気を取られていた万理奈の胸のブローチを右手で掴むと、

その自慢の怪力で力任せに服の上から思いっきり引っ張った。

 

蝶のブローチは怪しく真っ赤に輝き、予想以上の抵抗を見せたが、

きな子の怪力によって服の布ごと引きちぎられる形で万理奈の身体を離れた。

 

そしてきな子はその勢いのまま大きく振りかぶって、そのブローチを遠くへ放り投げてしまった。

高校で知り合いの野球部のコーチから投球練習を教わったこともあったきな子は、

その怪力であるがゆえに肩も相当強かった。

きな子によって投げられた蝶のブローチは、

ライトスタンド側のステージ下の通路の入り口あたりまで飛んで行ってしまった。

 

 

ブローチを失った万理奈は、何かから解放されたように棒立ちになっていた。

そして彼女の頭上に浮かんでいた心臓型の時限爆弾はみるみる内にその姿を消してしまった。

また、周囲を歩き回っていたあの虹色のカメレオンも、いつの間にか居なくなっていた。

 

 

「きな子はちゃ~んと来ましたよ。

 私のこと、バカだと思ってたでしょ?

 きな子バカじゃないもん」

 

きな子は、両手の甲を腰につけて憮然とした態度で万理奈にそう告げた。

 

「あんな大きなペットを捨てるなんてダメですよ!

 ちょっと可哀想だけど、フライパンで眠ってもらいました。

 飼うなら最後まで責任を持たないとダメですからね!

 きな子、ちゃ~んと見てますから」

 

 

「・・・なんで邪魔すんだよ」

 

万理奈は涙声になりながらそう呟いた。

 

「あんたらも日陰者だよ、この誰も見てないステージの下の日陰者だ」

 

 

 

・・・

 

 

「・・・あれっ?」

 

楽屋に遊びに来てくれたきな子と別れた後、

明日奈はいよいよ迎える本番を前に、ステージ脇で何度もドラム演奏のイメトレをしていた。

児玉坂46がパフォーマンスを行っている間、

明日奈は初めてこんな大きなステージに上がる緊張感と戦いながら、

なんだかもやもやした気持ちで順番を待っていたのだった。

 

そして、偶然にもステージ下に繋がる通路に差し掛かった時、

突然、暗闇の向こうから何かが飛んできて地面に落ちたのが見えた。

落ちていた物は蝶の形をしたブローチだった。

 

ブローチを拾い上げて見てみると、

それはいつかきな子と一緒にバレッタで見たことのあるブローチにそっくりだと気がついた。

どうして向こう側から飛んできたのかと不思議に思いながら、

ステージ下へ続いている暗闇の通路をぼんやりと見つめていた。

 

「わっ!」

 

ビクッと驚いた明日奈の目の前には、おどけた顔をしたレイナがいた。

 

「ねぇ、何してるの?」

 

レイナは本番前の緊張感もあるだろうが、それを見せない明るさで接してくる。

自分が甘えたいという性質もあるだろうが、誰かを気遣うという余裕も、

立ち直るリハビリ期間を通じて学んできたのかもしれない。

 

「・・・あれっ、これ万理奈がこないだつけてたやつだ!」

 

レイナはブローチを見て、一緒にご飯を食べた日の記憶に思い当たった。

あの日に万理奈がつけていた蝶のブローチにそっくりだったからだ。

 

「これ、さっきそこに落ちてたよ」

 

「えっ、なんで?」

 

レイナは明日奈からブローチを手渡されてよく見てみたが、

やはりあの日、万理奈が身につけていたものと同じに見えた。

こんなところに落ちている不思議さと、

ブローチの止め具部分に布切れが付いている不気味さで、

レイナは不可解な状況に混乱を隠せなかった。

 

「そっか・・・きっと楽屋まできてくれたのかも。

 でも照れくさいから顔も見せずに帰っちゃったんだな。

 絶対そうだ、万理奈はそういうとこあるからな」

 

レイナはそう一人で納得するように呟いた。

 

「これ、あたしがもらっていいかな?」

 

「えっ、別に落ちてただけだからいいよ」

 

明日奈はそっけなくそう答えて気前よくレイナにブローチをあげた。

レイナは嬉しそうに両手で抱えたあと、せっかくだからとワンピースの胸のところにつけてみた。

 

(・・・これで万理奈の分も・・・)

 

レイナは心の底から勇気が湧いてくるような気がした。

楽屋には遊びに来てくれなかったけど、きっとどこかで歌を聴いてくれていると信じて頑張ろうと思った。

 

「・・・はぁ」

 

無邪気なレイナを見ていた明日奈は対照的に悲しそうにため息をついた。

 

「どうしたの?」

 

レイナは心配そうに明日奈に話しかけた。

 

「なんだろう、こんな大きなステージに上がるっていう緊張感もあるんだけど・・・」

 

明日奈はどこか吹っ切れない憂いを帯びた表情で答える。

 

「なんか申し訳ないような気もするっていうか、どうして私なんだろうっていうか・・・」

 

レイナはまだ明日奈の意図がわからずに不思議そうな顔をして覗き込んでいる。

 

「バンドメンバーのみんなの演奏もすごいし、応援してくれる友達も色々と頑張ってるのに、

 あぁ、わたし何もしてないなって・・・」

 

レイナは明日奈が少し涙声になっている事に気がついた。

 

「私達がステージに上がるって事は、きっとその分上がれない誰かがいるって事で、

 そういうものを背負ってるって事、私達は本当の意味で理解できてるのかなって。

 もちろん、世の中はみんなが幸せになるようにはできてなんかなくって、

 誰かが笑ってる時、他の誰かが泣いてる事も事実だと思うんだけど、

 笑ってる人が泣いてる人の痛みを本当の意味でわかる事はできない気がして・・・」

 

明日奈はそのまま言葉をとぎらせた。

黙ったまま視線だけ暗闇のステージ下のほうへ向けている。

レイナもその視線の先を追うようにして見つめてみたけれど暗くて何も見えない。

 

「多分、本当の意味でわかるってのは無理だと思う」

 

レイナは神妙な面持ちでそう呟いた。

 

「でも人間ってみんなそうだよ、みんな個々にそれぞれの理由を持ってるじゃん?

 分かり合える事もあるけど、きっと分かり合えない辛い経験も背負ってる・・・」

 

明日奈はレイナの顔を見つめていた。

こんな風にシリアスな顔もできる人なんだなと思った。

 

「全部わかりあえるなんて綺麗事は言えないけど、

 それでも誰かのために何かをするって気持ちも嘘じゃない気がする。

 分かり合えない時はぶつかってもいいんじゃないかなぁ?

 そっから何かもっといい方に向かえるかもしれないし・・・。

 それにステージに出る私たちが暗い顔して出ていくわけにもいかないでしょ?」

 

そう言ってレイナはにっこりと微笑みかけた。

 

「レイナさん、間もなく出番で~す」

 

そこまで話をして、レイナはスタッフから出番が来た事を告げられた。

 

「出番だね、頑張ろう!

 大丈夫、あたしがメッチャひっぱっていくから!」

 

そう言ってレイナはステージ脇へ戻っていった。

児玉坂46のメンバー達がパフォーマンスを終えてこちらへ戻ってきていた。

 

レイナが言った「ひっぱっていく」という言葉は緩い響きではあったが、

決して軽い気持ちではないことは明日奈も感じ取ることができた。

深刻に捉えすぎるよりは、それくらいが逆に良いのかもしれないとも思った。

そしてステージに上がる以上、自分もできることを精一杯頑張ろうと決意した。

 

レイナの登場より前にスタンバイをする予定の明日奈は、

彼女の横をすり抜けるようにして先にステージへ出ていった。

その時、ちらりと明日奈の視界に入ったレイナが身につけたブローチは、

微かに怪しげな紫色を帯びていったように見えた・・・。

 

 

・・・

 

 

ステージ下の万理奈は、児玉坂46の楽曲が終わりを告げた事に気がついた。

次はレイナがステージに上がる番だと知り、自分の計画が完全に失敗した事を改めて悟った。

 

静かになった会場と、同じく静寂に包まれてしまったステージ下で、

万理奈は自分の頭上で光輝くスポットライトを浴びているレイナが脳裏をよぎった。

そして、彼女の足元の下、誰も見ていない暗闇の世界で惨めな自分が今、立っていた。

 

蝶のブローチが外れた万理奈からは今まで感じられた危険なオーラは影を潜めていた。

ワンピースの胸の部分が破れ、そのほつれた部分がただただみすぼらしさを際立たせていた。

 

ステージ上でレイナが何かを話し始めた。

万理奈たちの場所では、レイナの話し声ははっきりと聞こえてこない。

ただ、歌を歌う前に何かを客席に向かって話している事だけが微かにわかった。

 

 

「・・・日陰者だっていいじゃん」

 

リリーナイトは静寂を切り開くように語り始めた。

 

「日陰に咲く花だってあるんだよ。

 もちろん、太陽が当たらない場所で芽を出したって、

 高層ビルは動いてくれないし、日差しは届かない」

 

リリーナイトはゆっくりと静かに腰の拳銃に手を伸ばした。

 

「砂漠に生まれたサボテンだって、乾燥しすぎて水に飢えてる。

 だから、そんな辛い場所で辛い生き方をするよりかは、

 みんな向日葵のように咲きたいと思ってるのかもしれない。

 でも、私は別に向日葵だけが素晴らしいとは思わないから」

 

やがて銃把をしっかりと掴み、ゆっくりと右手を上げていく。

 

「与えられた姿で一生懸命に自分の命を輝かせること。

 それができれば、どこで芽を出したって素晴らしいんだよ。

 そして砂漠だって旅人を乗せたラクダが通りかかる。

 ビルの影だって、日陰で休む人の目には留まる」

 

万理奈はリリーナイトが銃口をゆっくりとこちらに向けるのを見つめていた。

同時に、自分の背後から焦りながら近づいてくる足音の存在を耳で捉えていた。

 

「はあっ、はあっ」

 

汗だくになりながら暗い通路を抜けて背後から近づいて来たのはカメラマンだった。

肩には大きな撮影カメラを担いで、万理奈の背後からリリーナイトの姿を捉えていた。

自分が追い払った後で、また懲りずにカメラを修理して戻ってきたのだ。

おそらく、中断された生放送が再開されたのだと万理奈は思った。

 

そして、もしこの状況で振り向いて自分の顔が全国放送の電波に乗ってしまえば、

もはやステージ爆破未遂事件の犯人としての実刑は免れ得ないだろうと思った。

前方のリリーナイト、後方のカメラマン、もはや自分の命運は尽きたと万理奈は覚悟を決めた。

 

 

「・・・今日ね、実は私、レイナちゃんの出番がくるまでに終わらせろって、

 会社からそういう指示が出てたんだよ」

 

リリーナイトは銃口を万理奈に向けながら打って変わった寂しそうな声でそう語った。

 

「視聴率がね、絶対に勝てなくなるから、早めに終わらせろって。

 絶対にレイナちゃんと番組の放送時間を被らせるなって言われてたんだ」

 

万理奈はその当然の説明をリリーナイトが今更語り出す意味がよくわからなかった。

自分の置かれた絶体絶命の状況下に、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

「帰ったらまたこっぴどく叱られちゃうね。

 でもね、私が戦い続けている限り、どこまでもカメラマンさんは追ってくるんだよ。

 初めのうちはね、この人たち本当にしつこくて苦手だったの。

 私の無様な負けっぷりまで、全部電波に乗せちゃうんだもん」

 

きな子は二人の様子を少し離れた場所から見守っていた。

テレビカメラが戻ってきた事で、主役でない自分が映り込むのは遠慮しているのか、

場所をこっそりと移動しながらカメラマンの背後に回りこんで立っていた。

 

「でもね・・・それは見てくれてる人がいるからなの。

 視聴率なんか関係ない、カッコ悪くても、私が主役の番組を観てくれてる人がいる。

 たとえそれが光の届かないステージの下であったとしても」

 

万理奈の肩が微かに揺れた。

声を押し殺しているけれど、目をつぶってこらえているけれど、

喉まで上がってきている嗚咽を堪えられないのがわかった。

 

「あなたの事だって、ちゃんと見てくれてる人はいたはずよ。

 少なくとも、今回の事件を通じて、私はあなたの事をずっと見てきた。

 それだけは・・・どうか忘れないでね」

 

会場の客席からレイナに対する「ワーッ!」という歓声が上がったと同時に、

リリーナイトは構えていた銃の引き金を引いた。

発砲音は歓声に巻き込まれてうやむやの内に葬りさられてしまった。

銃口から放たれた光線は万理奈の顔の横を微かにすり抜け、

彼女の後方にいたカメラマンの撮影カメラを直撃した。

衝撃に耐え切れずにカメラは吹っ飛び、カメラマンは後ろへ倒れこんだ。

 

そして、倒れたカメラマンの頭の上に、黒いフライパンが打ち込まれた。

強いショックを受けたカメラマンは、健闘むなしく意識を失って倒れこんでしまった。

 

「・・・記憶喪失にな~れ!」

 

きな子はえへへと笑いながらそう言った。

 

万理奈は振り返って倒れているカメラマンときな子を見つめた。

自分が撃たれると思っていた万理奈には、頭の中の混乱を収拾できずにいた。

 

そして、突然自分の背中に触れる温かさを感じた。

リリーナイトは変身を解いて、百合子に戻った姿で万理奈の背中に寄り添っていた。

 

 

会場は静かになり、ステージの上から神々しいピアノが流れてきた。

いよいよレイナの歌が始まったのだった。

 

 

その第一声を耳にした万理奈が感じていたものは、

最も親しかった友人が煌びやかなステージで活躍している事への嫉妬心と、

自分がステージを破壊しなくてよかったという安堵感だった。

うまく分別できない対立するような感情が一気に万理奈に押し寄せていた。

 

 

 人の影はどこにも見えないかもしれない

 傷ついた者は 息殺し怯えてるんだ

 呼んだりせず 確かめたりもしないで

 目を閉じてそっと静かに歌いかけて

 

 ああ

 心と心が共鳴して

 生きる痛みを忘れられるでしょう

 

 

静寂に包まれているステージ下には、レイナの歌が響いていた。

今までのレイナからは想像もできなかったような優しい歌声で、

普通の人間がどうやったらこんな風に歌えるのかと思えるほど神々しかった。

 

ステージ下にいる者も皆、自分の耳を疑った。

耳ではなく心に響いてくるような温かさと優しさが歌にはこもっていた。

そして、その響きは万理奈の背中に触れるぬくもりを全身に拡げていった。

ずっと忘れていた、自分以外の誰かがくれる、生命の温度だった。

 

その体温は、誰も分かり合えないという世界に巣食う孤独をぬぐい去る、

全てを忘れられる安心感であり、ただ繰り返す呼吸の循環に意味を与えるような、

最もシンプルで、それでいて得難い、この世界の希望みたいなものだった。

 

 

百合子がゆっくりと慰めるように肩を叩いてくれる優しいリズムに、

思わず目をつぶって肩を震わせた。

 

閉じた世界の扉、まぶたの裏に映るのは、ステージで踊る虹色の髪を持つ少女の姿。

 

「un・deux・trois・・・un・deux・trois(アン・ドゥー・トロワ)」

 

一心不乱に汗を流しながら、遠くにある夢を掴むために、

ひたすら無邪気に、ただ美しく、ただ健気に、虹色の髪を持つ少女は踊っていた。

 

 

「・・・レイナ、見に行ってあげなきゃ・・・」

 

「・・・うん」

 

「・・・手を振って、応援してあげなきゃ・・・」

 

「・・・うん」

 

 

 

 

 

 

「・・・私も踊りたかったな・・・このステージの上で・・・」

 

万理奈はそう本音をこぼすと、こらえきれなくなった感情が溢れ出して止まらなくなった。

頬を伝う滴の色は透明で、それは何よりも純粋な美しさを放っていた。

 

誰も見ていない薄暗い世界で、声を押し殺して泣いていた万理奈を、

本当に知っているのは限られた人でしかなかったけれど、

それはこの世界の日陰に咲く、オンリーワンの美しさを秘めた華だった。

 

 

 

・・・

 

 

レイナの復帰ライブから1週間がたった。

よく晴れた気持ち良い春の日に、児玉坂病院の一室を面会するものがあった。

 

「こ~んにちわ~!」

 

突然のように勢いよく開いた病室の扉から、

スキップしながらいつも通りの爆音声を響かせるのはきな子だった。

そして、ここへ来るまでにどこかで買った果物が入った袋を下げて、

後ろから控えめについてきたのは百合子だった。

 

「・・・うるせぇな」

 

カメレオンのナイフで腹部を刺された中西は、

レイナのステージが終わった後で、百合子ときな子に支えられて会場を去った。

幸いにして致命傷には至らず、医者の忠告を守って入院して大事を取っていた。

 

百合子ときな子が病室にたどり着いたとき、

中西はベッドの上にいながらも、テーブルにパソコンを置いて何やら忙しそうにしていた。

 

「もう~きなちゃん!病院には他の患者さんもいるんだから、

 ちょっとくらい声のボリューム絞れないの!?」

 

百合子が公共の場でのマナーを注意すると、

きな子は渋い顔をしてお口チャックの仕草をした。

彼女には音量調節の機能はついていないので、

静かにするには、もう話をしないようにするしか方法はなかった。

 

「・・・お前の声もうるせぇんだよ、リリーナイト」

 

パソコンの画面から目だけを百合子にちらっと向けて、

冷たいセリフを残して、中西はまたパソコンの画面に視線を戻し、

何やらキーボードをカタカタと叩き続けていた。

 

せっかくお見舞いに来たのに、その態度は何よ、という言葉が聞こえそうなくらい、

百合子はわかりやすくムッとした表情をした。

 

「・・・もう大丈夫なの?」

 

百合子はイライラをできるだけ我慢して中西に尋ねた。

 

「・・・見ての通りだよ」

 

こんどはきな子が鼻根に皺を寄せてムッとした表情をした。

二人のようなまっすぐな性格をしている人間には、

中西のような神経を逆撫でする話し方にいちいちストレスを感じざるを得なかった。

 

「・・・お前の足はどうなんだよ」

 

百合子に一瞥もくれずに、中西は静かにそう尋ねた。

 

「うん、もう大丈夫、まだテーピングは取れないけど」

 

その返答に対しては中西は軽く鼻を鳴らしただけで何も答えなかった。

 

「見ての通り、俺はお前らと違って忙しいんだ。

 ここにいても仕事は山ほどある。

 お前みたいに敵が現れたときだけ戦えばいいわけじゃないからな。

 そこのガキみたいに、犬の散歩が唯一の仕事なのとはわけが違う」

 

「クーッ!!」

 

きな子は耐え切れずに喉の奥から音を鳴らした。

それでも百合子に静かにしてと言われた事を忠実に守っているのを見ると、

こいつは結局は飼い主によく懐く犬タイプなのだなと中西は思った。

 

「・・・何か用か?」

 

中西は冷たくそう告げた。

 

「・・・お見舞いは用事にならないの?」

 

その言葉を聞いて中西はタイピングの手を止めた。

 

「用もないのに来るなんて、相変わらず暇なやつらだ。

 男はな、女みたいに顔を見たら嬉しくなるなんて、

 そういう風にはできていないんだよ。

 何か問題があって、それを解決するために来た、

 そういう具体性がなければ用事にはならない。

 お見舞いなんてのは、形式的に済ませる挨拶か、

 もしくはただの落ち着かない感情の処理だろう?」

 

中西は忙しそうにタイピングを再開した。

百合子はとても悲しそうに下を向いてしまった。

 

「・・・冗談だよ」

 

「今更もういい」

 

百合子は少し膨れてしまい、きな子は相変わらず威嚇の表情で見つめていた。

これだから女子供は面倒くさいんだと中西は心の中でつぶやいていた。

 

「・・・じゃあ俺からの用事だ。

 少し事件当時の話を聞かせてくれないか」

 

きな子は中西の話を聞いて、自分の口をチャックする仕草を見せた。

百合子の許しがないと自分は話ができないというアピールに見えた。

 

「お前には聞いてないから大丈夫だ。

 声がでかすぎて病院側に迷惑がかかる。

 黙っていてくれたほうが好都合だ」

 

きな子は再度「クーッ!」と喉を鳴らしていた。

まるで野獣のような性格をしていると中西は思ったが、

あまり刺激して暴走されても困るので、

これ以上は刺激をしないようにしようと思った。

しかし同時に、話に聞いていたよりも彼女の自己抑制力は上がっているという事実を、

しっかりと見抜いて自分の頭のデータには記録していた。

 

(・・・ガキも少しは大人になってるのか・・・)

 

きな子は拗ねたそぶりを見せながらも、

百合子が持ってきた果物袋からりんごを取り出して、

右手にナイフを持って皮をむき始めた。

 

 

「それでだ、リリーナイト、俺が聞きたいのは何かわかるか?

 俺が知りたいのはな、お前達がどうやってあのブローチの事を知り得たのかだ」

 

中西は初めてちゃんと百合子の目を見ながら話かけた。

 

「・・・私が聞きたいのは、あなたがどうしてあの場所にいたかなんだけど。

 当日、自分は動けないからって、私に言ったの、あれは嘘だったの?」

 

百合子は少し寂しそうに尋ねた。

嘘をついたりつかれたりする事は、百合子にとって悲しい事だった。

自分を信用してもらえていないという事実が何より辛かった。

 

「また感情論で話をややこしくするなよ・・・。

 お前みたいなバカ正直なやつに何でも真実を話したら、

 それこそ何も上手くいかなくなりかねないんだよ。

 大人は嘘をつく生き物だ、だがすべての嘘が酷い嘘じゃない」

 

「どういうこと?」

 

「お前に先にすべてを話していたら、あの場所であのタイミングは取れなかった。

 どうしても知っているという事実が行為に現れてしまうからだ。

 それが心の油断につながるし、足元をすくわれかねない。

 

「・・・・」

 

百合子は、それ自体が結局信用していないということだと、

心の中で悔しく思いながらも返す言葉が見つからなかった。

 

「・・・まあ結局、俺の甘さがやつにトドメをさせなかったわけだが・・・」

 

中西は目線をそらしながら、忌々しそうにその事実を述べた。

 

「・・・それは、あなたに撃つ気がなかったからでしょ?」

 

百合子がボソッとつぶやいた一言に、中西は少し焦ったが、

ニヤリと不敵な笑みを浮かべて話を続けた。

 

「なかなか優秀だな・・・そこまでわかっているなら何も言わないぜ。

 射殺した事実はいくらでも揉み消せるが、

 その後でお前に一生小言を言われ続けるのはまっぴらだからな」

 

「・・・悪い人じゃないくせに」

 

百合子は手に持っていた果物袋を棚に置きながらつぶやいた。

口元からわずかな笑みがこぼれていた。

 

「・・・お前といると調子が狂うんだよ。

 知らず知らずのうちにお前の甘さが移ってくる。

 いつかこれが致命傷になってしまうかもしれない。

 だからあまり俺に干渉してくれるな」

 

中西はまた視線をパソコンの画面に戻してそう告げた。

 

「それで、そろそろ俺の質問に答えてくれよ。

 どうやってお前達はブローチの事を見抜いたんだ?」

 

百合子はベッドの前にあった椅子に腰をかけて話を始めた。

自分が足を引きずりながらステージ下へ向かうと、

フライパンでワニと格闘しているきな子を見つけた事。

やがてワニを気絶させたきな子と合流して、

支えてもらいながらステージ下へ向かった事。

そこで中西と万理奈の姿を見つけ、チャンスをうかがっていた事。

 

「万理奈がワニを呼び出した時、きなちゃんがブローチを見ていたの。

 普通のブローチではあり得ないくらい奇妙に光っていたって。

 そして次の瞬間にはリュックの中からワニが出てきたんだって」

 

中西は話を聞きながらパソコンのタイピングを続けている。

捜査に関するレポートでもまとめているのかと百合子は思った。

 

「私も、あの子がスケッチブックから何かを呼び出す時、

 あのブローチが怪しく光っているのを何度か見ていたの。

 私、どうしてもあの子がこんな事件を起こす子には思えなくて、

 それで、ひょっとすると私の変身グッズと同じように、

 あのブローチが彼女の能力を引き出しているんじゃないかと考えたの」

 

中西はタイピングの速度を上げていった。

そして手を止めて「ふぅ」と一息をついた。

 

「なるほどな、変身グッズを持っていたお前だからこそわかったと言うわけだ」

 

中西は少し悔しそうな顔をして、しかしこれで合点がいったという表情に戻った。

 

「俺達はあれからブローチについて色々と調べてみたんだ。

 お前の言う通り、あのブローチは普通のブローチじゃなかった。

 色々な研究機関に調査を依頼したが、よくわからない謎も多い。

 わかった事は、間違いなくお前の変身グッズと同じ技術が用いられているという事だ。

 ただし、お前もわかっていると思うが、その技術は日本政府がアメリカの協力を得て、

 極秘で作り出したものだ、その技術の事を知っているのは、

 この世界でも限られた人物だけだ、同じような変身グッズを持っているのも、

 選ばれた日本の戦隊ヒーローだけで、アメリカのヒーローだって持っていない。

 最も、アメリカでは変身というやり方が感情的にしっくりこないのが理由らしいが」

 

百合子は中西が様々なヒーローの事情にも精通しているのに驚いた。

 

「だがな、奇妙な事は、あのブローチに使われている技術は、

 アメリカの研究機関でも詳細はわからなかったという点だ。

 わかった事は、装着した者の心のエネルギーを増大させて、

 その人物の長所に見合ったような能力を開花させるという事だ。

 しかも、非科学的な能力ばかりでまだ解明できていない。

 格闘家は化け物みたいな怪力を身につけるし、

 音楽家は誰をも感動させるような演奏をする。

 だが、なぜか女性にしか効果を発揮しないんだ」

 

百合子は、あのブローチが発見されたのがレイナの胸元だったのを後で知った。

そしてあの日に聴いた奇跡のような歌の原因が少しわかったような気がした。

あの音楽の女神のような歌声は、あのブローチがレイナの潜在能力を引き出したのだろう。

 

「また、あのブローチは心のエネルギーを倍増させて能力に変換するらしい。

 だから、あの女みたいに少しでも孤独に苛まれた心で身につけると、

 想像以上にその歪んだ精神を増幅させるんだよ。

 かわいそうだが、あの女はブローチの力に引きづり回されていたんだ」

 

百合子は万理奈の事を思い出していた。

ステージ下で泣いていた彼女は、やがて駆けつけた中西の部下達に連行されていった。

 

「あの女が自白したところによると、ブローチを拾ったのは児玉坂駅前らしい。

 あんなガラクタみたいな物を見つけて拾うなんて、俺には理解できないが、

 そういうガラクタみたいな物を集めるのがあいつの趣味らしい。

 ブローチを身につけてから、どうやら少しずつ精神を侵されていったみたいだな。

 やがて趣味で描いていた絵を具現化させる能力が身についた事を知り、

 そのブローチを肌身離さず身につけるようになったらしい」

 

その話を聞いていたきな子が、りんごを剥く包丁の手を止めて、

口を膨らませて「んー!んー!」と言いながら、

まるで口についているジッパーを開けていいかと言うように中西と百合子を見つめていた。

 

「・・・何か知っているのか?」

 

中西はきな子に問いかけると、

きな子はまるで息を止め続けて苦しかったかのように「プハァー」と息を吐いた。

 

「きな子ね、あのブローチ見た事あるよ!」

 

「きなちゃん、どこで見かけたの?」

 

百合子は身を乗り出してきな子に訊ねた。

 

「バレッタのお店の女の子が同じブローチを付けてたの!

 綺麗だったからきな子も欲しくなって、それで覚えてたんだ!」

 

中西はその言葉を聞いて瞬時に表情が変わった。

 

「・・・またバレッタか」

 

中西は指でこめかみを押さえて頭が痛いという仕草をした。

 

「どういう事?」

 

百合子は興味から訪ねた。

駅前にある人気のカフェ・バレッタには百合子も行った事があった。

 

「あの店は普通の店じゃない。

 表向きは洒落たカフェを装っているが、あまりいい噂は聞かないんだ。

 店長はいつもカウンターでヘミングウェイを黙って読み耽っていて、

 いったい何を考えているのかさっぱりわからない。

 店内には制服を着せたリアルな女性の人形を飾っていて、

 俺から見れば、どっからどう見ても悪趣味にしか思えない。

 証拠はないが、裏で人身売買をしてるって噂もあるくらいだぜ」

 

「人身売買・・・!」

 

百合子は行った事のある普通のカフェにそんな秘密があり、

なおかつそんな恐ろしい噂が立っているなんて今まで知らなかった。

本当の悪は、偽善の仮面を被って潜んでいるのだと痛感した。

 

「・・・きな子にはそんな風には感じなかったけどなー」

 

再びりんごの皮むきを続けながらきな子はつぶやいた。

あの時見かけた女の子が、そんな怪しいお店で働いているとは思えなかったのだろう。

 

「まあ、あくまでも噂レベルの話だがな。

 だが、火のないところに煙は立たないっていうからな。

 命が惜しかったらあまりあの店には深入りしないことだ」

 

中西は胸ポケットからタバコを取り出して口にくわえた。

そして手で風を遮りながらライターで火を点けようとした。

 

「・・・病院内は禁煙です」

 

百合子はひょいと中西の口からタバコを取り上げた。

 

「うるせえガキだ・・・。

 もう邪魔だ、さっさと帰れよ。

 お前を必要としてるのは俺じゃないだろ」

 

「・・・どういう意味?」

 

百合子が尋ねると、中西は口元に笑みを浮かべた。

 

「事情聴取が終わって、今日くらいに釈放だよ。

 あいつ家に帰ってるんじゃないか?

 ブローチはもうないから、余計なことはできないだろうが、

 お前にケアは任せた、得意だろ?」

 

中西はすでに視線をパソコンの画面に戻して百合子に一瞥も向けない。

 

「えっ、じゃあ・・・」

 

「凶器は見当たらないし、カメラの映像にも残っていない。

 誰もあいつが犯人だという事を立証できないんだよ。

 犯人は彼女を人質にとって逃走した、幸いにして彼女は助け出された。

 そういう話だろ、俺は何も見てないからよく知らねぇなぁ」

 

中西はまた忙しくタイピングを始めた。

 

「・・・素直じゃないんだから」

「うるせぇよ」

 

百合子は「果物、置いておくから」とだけ中西に告げて、

急いで立ち上がって病室を出て行った。

りんごの皮をちょうど向き終わったきな子は、

百合子が急いで駆け出していくのを見て、

慌てて手に持っていたりんごを中西に手渡して、

 

「1個目よりね、3個目のほうがうまくいったの!」

 

と、上達した事を自慢げにアピールして百合子の後を追って出て行った。

 

確かに手渡されたりんごは比較的にうまくむけていたが、

テーブルの上にはガタガタのりんごがさらに2つ置いてあった。

 

「・・・まあ、その調子で頑張れや」

 

中西はしばらく見つめた後、ニヤリと笑いながらりんごにかじりついた。

 

 

 

・・・

 

 

友人宅へ長いあいだ家出をしていた、ことになっている。

私が家族についた優しい嘘だ。

 

とても冷たい部屋で心細くなりながら事情聴取を待っていた時、

幼い頃に飼っていた二匹のハムスターを思い出した。

飼育用ケージの中で金網をかじっていた二匹。

ずっと嬉しそうに回し車の中で走っていた二匹。

あの子達がとても羨ましかった。

私には、冷たい床から立ち上がる気力さえなかったのだから。

 

自分で描いた世界に我を忘れて、

まるでドンキホーテみたいに無謀な冒険に出かけた私。

アラームをセットし忘れた朝みたいに、ずっと目覚めることはなかった。

 

釈放されて出てきた時、外の太陽が眩しかった。

あんなに太陽の下に憧れていたのに、

私はすっかり日陰が似合うようになっていたのかもしれない。

 

帰宅した私はひとまずシャワーを浴びた。

身体中にこびりついた嫌な記憶を全部洗い流したかった。

浴室から出た後、ドライヤーで髪を乾かして、

楽なジーンズとスウェットを身につけて自分の部屋に戻った。

 

私が出かける前に投げつけたトマトはすっかり綺麗に跡形もない。

パパかママが心配して片付けたのかもしれない。

私がついた優しい嘘なんて、本当はバレていて、

二人こそ私に気を使って知らないふりをしているのかもしれない。

この世界はそういう優しい嘘の重ね塗りでできている。

 

私の部屋の頼りない壁は、トマトの赤など微塵もなくて、

相変わらず真っ白くて痩せこけているように思えた。

安心してもたれかかったら、そのまま崩れて向こう側に吸い込まれる。

そして壁の向こうの世界は漆黒の闇であることを私は知っている。

 

私はこの世界にあるかりそめの光に目が眩んだのだ。

それは壁の向こうが闇だと知っていたからこそ、

全てを忘れることができるような一瞬の光を求めたのかもしれない。

ステージの上でライトを浴びながら、完璧な私を誰かに見て欲しかったのかもしれない。

 

釈放された時に返却されたスケッチブックを机に置いて広げた。

描かれた作品集から抜け落ちたてんとう虫、ヤモリ、ナイフ、槍、ワニ、時限爆弾。

そこのページは空白になっていて、まるで何事もなかったかのようにすら思える。

 

私があの女の子達と繰り広げた戦いは、結局はほとんど放送されなかったらしい。

カメラマンが撮影していたのは遠い距離から見た私の後ろ姿までで、

私が犯人だと視聴者から特定されることはついになかった。

 

だから、誰も私達が命をかけて戦った事実を知らない。

みんなが知っているのは華やかなレイナ達のライブ中継だけだ。

カメラマンを誤射したことになったリリーナイトはかなり叱られたらしいけど、

結局は誰も私が犯人であることを口外することはなかった。

 

 

パラパラと懐かしいページをめくる。

本当に私が描いたのかと思えるほどタッチに憎しみがこもっている。

ギリギリまで命を燃やして、自分と向き合って戦っていたのだ。

順風満帆に全てがうまくいっている人には絶対に描けない。

そういう魂のこもったタッチで描かれた作品、私のかけがえのない宝物。

 

ふとあるページに目が留まった。

私がかつて描いたステージに虹色の髪を持つ女の子が踊っている作品だった。

あの会場の座席から実際のステージと見比べた絵。

自分が目指していた究極の理想の姿。

 

でも、もうどれだけ願ってもこの虹色の髪を持つ少女は出てこない。

ブローチがくれた夢みたいな話はもう終わり。

 

私は衝動に駆られてそのページを破り捨てた。

華やかなステージは「ビリッ」と軽い音を立てて一瞬で破壊されてしまった。

 

そして思い立って色ペンを手に取った。

いつもどおり直感に任せて腕を動かしていく。

何が生まれてくるかなんて、自分にも描いてみるまでわからない。

そこに命を宿らせるのは私の心そのものなのだ。

生まれてから呼吸を始める作品は私の生命に他ならない。

 

ペンを動かす度に自分の脈動を感じる。

生きている、私は今、生きている。

 

 

そうだ。

私は私だ、より極めようとしている私だ!

 

 

・・・

 

 

絵を描き終えてペンを置いた時、部屋の小さな窓に「コツリ」と音がした。

小石が当たったような音だと思って私は立ち上がって窓を開けてみた。

 

「万理奈さ~ん!」

 

窓から見下ろした家の前にはきな子と百合子が立っていた。

 

「万理奈~!気持ちいい天気だね~!」

 

あの二人は微笑みを浮かべながら何事もなかったかのように手を振っていた。

 

「一緒に出かけない?散歩でもしようよ~!」

 

私はとても申し訳なくて、照れくさくて、俯いてしまった。

ただ私の背中に残っている体温は、彼女達を忘れることはない。

歴史には残らない、誰も見ていない、覚えてもいない、

あのギリギリの戦いを通じて私達だけが得た物は、

この生涯忘れることのできない体温だった。

 

 

「・・・うん、今行くね」

 

窓を閉めた私の頬には温かい涙が伝っていた。

そして、棚の上のホソバオキナゴケが目に入った。

誰にも理解されない緑色の可愛い存在。

でも、私はちゃんと見てるよ、お前の良さをわかってるよ。

 

 

私は部屋を飛び出していった。

机の上で描き上げた、華やかなステージの下で満面の笑みで踊る、

虹色の髪を持つ少女の絵のことも忘れて。

 

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

 

個々にある理由 ー自惚れのあとがきー

 

 

この作品は筆者が日本に帰ってきてから書いた二作目であり、

「転がった玉ねぎを渡せ!」と「やさしさから尼になってる」のちょうど間に書き上げている。

 

執筆のきっかけは昨年11月にパリで起こったテロ事件だった。

あまりにも凄惨な事件が起こり、その事件への関心が筆者の無意識にあったのだろう。

 

また、実は「あなたのために誰かのために」のあとがきでも兆しはすでにあった。

「リリーナイトはライブを中止させようとする怪人と戦っているだろう」

というような文章を無意識的に書いていたが、これは本当に書けると思ったのだ。

 

わざわざ語るまでもないが、この物語は「あなたのために誰かのために」の裏側の物語である。

物事には複数の視点があり、表と裏があるという表現方法によって、

今回のテーマに沿った「光と影」みたいな物を書けるのではないかと思ったのだ。

そうして表の物語の隙間を縫うようにして、今回の物語を書き進めていった。

 

こうして昨年の段階ですでにほぼ書き終えていた本作であるが、

実は納得のいかなかった箇所があり、しばらくお蔵入りになっていた。

それを修正・加筆してやっと発表するに至ったのであった。

 

納得がいかなかったのは2点ある。

 

1つは中西の所属する警察組織の設定が甘い事である。

筆者は一応、警察組織の組織図や出世コース、テロが起こった場合の対策など、

調べる事は調べてみたのだが、結局はその部分を加筆する事を断念した。

 

おそらく東京でテロ事件が想定される場合、警視庁の公安部と刑事部が混合になり、

特別捜査本部を設置して警視総監の指揮下で様々な捜査が行われるはずだ。

そして中西の年齢からするとキャリアのエリートコースを歩いてきた人物になり、

それでもこの捜査本部の指揮は取れないはずで、だから中西には上司がいて、

さらに同僚達とも一緒に捜査をしているはずである。

なので、彼はただリリーナイトに協力を依頼する窓口の役割にすぎず、

ここまで独善的に物事を進めるのは本当は法律的にも倫理的にもよろしくない。

あくまでも小説だから書けるだけで、絶対に真似をしてはいけない話だ。

(もちろん、警察の公安部はかなり秘密主義らしく、見えないところで何しているかは定かではないが・・・)

 

話がずれたが、結局、そういう細部を突き詰めていけば警視庁で働いた人物でないと内部事情はわからない。

もしくは大量の書物を読んで調べつくす必要がでてくるので、もうそこは勘弁してもらいたかった。

当初はその辺をもっとリアルに描きたかったが、キリがないので諦めた。

 

だいたい、一般庶民である筆者が警察の内部や捜査方法などが書けるはずはなく、

キャリア組である中西のような秀才の頭の良さが書けるはずもないのだ。

構想を思い立ってから、こんな無茶な挑戦はないなと思い知らされたものである。

矛盾やツッコミどころはたくさんあるだろうが、娯楽物なので色々とご容赦いただきたい。

 

もう1つは単純に頭の中の想像に文章表現が及ばなかったという筆者の実力不足であった。

主人公である万理奈は筆者からすれば特上の素材であって、

彼女を使うのだからもっともっとカッコよく書きたかったのが本音だった。

この作品では筆者の理想の3割くらいしか表現できていない。

これらの点が書き上げた当初は不満足だったのである。

 

 

この作品は万理奈のパートだけ文体が異なる。

内面の感情世界を描きたかったのでああいう文体にしたが、

そうすると他のパートと何度も文体が変わって読みづらくなるのが一般的だと思う。

音楽で言えば「転調」を何度もする楽曲であり、深みが出ると言えばそうだが、

一歩間違うとすごくチグハグな印象を与えかねない筆者なりの挑戦だった。

 

読み直してみると、書き上げた当初ほど嫌気はしなかったが、

本当はもっと「転調」の部分をスムーズかつ劇的に仕上げたかった。

だが、それには力量が足りるものではなく、この作品をしばらくお蔵入りにしてしまった。

 

ただし、読み直してみた感想としては、

個人的には1、2を争う自分好みの作品になったと感じている。

これは個人の好みになるが、筆者はやはりこの時期の万理奈のエネルギーがとても好きだったからだ。

 

作品内でも示したように、万理奈とリリーナイトはギリギリの死闘を繰り広げた。

そういう魂を燃やすような崖っぷちの戦いをしてきた2人を描きたかったのだ。

もちろん、このテーマの元は「あの日僕は咄嗟に嘘をついた」のMVである。

あのMVもまた、筆者の好みになるが、1番好きなMVである。

 

それは何度見ても泣けるからだ。

泣きたい時に筆者はあれを見ると絶対に泣ける。

最後の屋上のシーンで魂を揺さぶられてボロボロになってしまう。

なんであんなすごい演技ができるのだろう、不思議である。

 

 

万理奈を主人公にした作品はずっと前から書きたかった。

しかし、素材が良いだけに取りかかるのが怖かった。

案の定、思い描いたほどうまくはかけなかった。

でも仕方ないと思っている、自分の力量の問題だからだ。

 

迷ったのはこんな悪役にしてしまったことだ。

これも葛藤があり、だがみんなを善人にしては物語の幅を狭めてしまう。

だからあえて「芸術的なテロリスト」という役を彼女には引き受けてもらった。

また、演技派である万理奈だからこそやってもらいやすかった。

 

概念をぶっ壊そうと頑張っていた当時の彼女は、

その通過点でしか見られない独特の魅力を放っていたと思う。

だからと言って今が悪いというわけではない。

人生は進むうちに自分自身も変化していくので、

そこに存在する一時期の自分はその時にしか表現できない。

色々な葛藤や、鬱屈した(一見、不健康な、しかし真っ当な)気分があり、

苦しみや悩みとなって現れたとしても、それはその時期だけしか味わえない自分であると思う。

 

筆者の想像だが、おそらくあの時の彼女は鬱屈していた部分もあったし、

物語のように(あれは誇張だが)鬱屈ゆえのエネルギーもあったと思う。

でも例えば「壊す」という行為だって、道徳・倫理的にはよくないが、

万理奈のような人を通すと、それすらアートになってしまう。

逆に言えば、そういう鬱屈した気分こそ、芸術そのものである。

芸術とは人間のあらゆる感情や思考を多種多様に表したものなのだから、

正解もないし無数に存在するし、少々逸脱した行為も道徳や倫理を超越した芸術としてなら昇華されうる。

 

だから万理奈を通じて表現された感情はすべて芸術になるのである。

あらゆる感情が芸術化されるのは彼女が持っている魅力なのだろう。

 

 

個人的には万理奈とリリーナイトが初めて会う場面が一番好きかもしれない。

長々と書いてきて、やっとこの二人が初めて会うというのが面白い。

リリーナイトは相変わらず動かしやすい、万能キャラであった。

中西は口が悪いので暴言ばかり言ってしまったのが百合子には申し訳ない。

 

また、きな子と万理奈が絡む場面も個人的には描きたかった。

あの釣りサークルが好きだった人は筆者だけではないはずだ。

きな子は本当に漫画みたいなキャラだから使いやすいのだ。

 

レイナと明日奈の場面は最後に書き直して加筆した箇所である。

この物語は、もちろんステージ下の万理奈達が主役なのであるが、

ステージ上の人達にも何かメッセージを伝えたかったし、

明日奈がうまく語り出してくれてスラスラと書いていけた。

 

 

あと、筆者的に念のために書いておこう。

万理奈と百合子が二人でメインで活躍する話となってしまったが、

これは温泉旅行よりも前に書いていた話だから仕方ない。

だから・・・・ギクシャクしないでほしい。

報告しておくと、あのビーム打つ子の物語も今後発表する予定である(まだ未完だが)。

 

また、この作品を書き上げてから一番衝撃だったのはあのラジオ番組だった。

万理奈のコケを育ててない発言は、この作品を9割書き上げていた筆者にはもう笑うしかなかった。

 

まあ、好奇心の旺盛な万理奈のことだから仕方ない。

これはこれで万理奈のコケ時代として削除せずに残しておいた、削除したら成り立たないのもあったので。

 

また新しく面白いキャラ付けをしてくれたら、そんな万理奈もいつか登場するかもしれない。

筆者は彼女の流行が終わらないうちに早く書かなければならないが・・・。

 

 

ー終わりー