裸足でざまぁ

これは僕が見た少女達のひと夏の物語である。

ギラギラとした太陽が照りつける、目眩がしそうな暑い夏だったことを今でも覚えている。

 

僕達は南国へやってきた。

それは僕達の生まれた島国の遥か南に浮かぶ天国のような島。

魚達やサンゴ礁が透き通った青い海の中で気持ちよさげに生きていた。

 

亜熱帯気候に属する真夏の沖縄の気温は高いように思われるが、

周囲が海に囲まれている島国であり、高い山もないために海からの風が吹き抜ける。

そのために熱気が溜まらないので比較的過ごし易い気候なのだ。

 

だが、僕がその少女達と共に過ごした夏はとびきり暑かった気がしている。

それはひょっとすると僕の身体の中の体温が上がっていたのかもしれない。

なんせあれだけの美少女達と僕がどうして南国旅行などに行ける事になったのか、

考えるたびに僕は神様に感謝をしなければいけないような気すらしている。

 

ただ、おそらく僕にその幸運をくれた神様は商売の神様だったのだと思う。

沖縄の太陽に照らされながら、火照る身体とは裏腹に、僕の財布の中身は寒かった。

そこだけが台風が通り過ぎてでもいるかのように極寒の風が吹き荒れていた。

確か当時の僕の財布には野口先生がお二人ほどいらっしゃっただけで、

数十名の福澤先生はこの旅行のための大いなる犠牲者であった。

 

では少女達はどうかというと、彼女達は懐を痛めずに沖縄へやってきていた。

そう、何を隠そう僕だけが福澤先生との悲しい別れを経験することになったのである。

これは一体全体どういう事なのであろうか、それはおいおい語っていこうと思うのだが、

とにかく、読者の皆さんは僕のお財布事情など、一向に考慮される必要などはない。

この物語は夏という美しい季節に生まれた、とても美しい少女達の物語なのである。

 

 

まず、僕が誰なのかと言う事を明かしておく必要がある。

興味はないかもしれないが一応耳を傾けてもらえると嬉しい。

僕は何の事はないしがない大学生であり、児玉坂の街に住んでいる健全な男子である。

あまりに健全すぎて彼女はいないのだが、誰も僕のピュアな心は認めてはくれない。

乙女というのはどうやら悪い男に弱いらしく、僕のような健全な男子は女子から好かれないようである。

 

やれやれ、世の中への不満はこのぐらいにして話を進めよう。

僕が彼女達の輪に加わったのは、父に言われてあの「よろず屋」を訪れた時である。

実際、この物語は僕が登場する前から既にスタートしていたのであり、

僕は僕が登場する以前の事を彼女達から又聞きをしたにすぎない。

本当のところは何も知らないのであるが、まるで実際に見てきたかのように語ろうと思う。

後は読者諸君の大いなる想像力の発露によって、僕が至らない箇所を埋めていただければ幸いである。

 

 

・・・

 

 

先に述べた通り、ここからの話は僕が彼女達から又聞きした内容である。

実際に現場を見ていない僕も想像力を駆使して語ろうと思うので、

読者諸君も情景を思い浮かべながら僕の健闘を讃えていただければ幸いである。

 

この物語にはたくさんの少女達が登場する。

少しずつ順を追って説明していこうと思うので慌てずに聞いてほしい。

 

僕が話を聞いたところによれば、彼女達は児玉坂のとあるお店に集まっていたという。

そこで何をしていたのかというと、どうやら久しぶりに集まって女子会を開いていたようなのだ。

こうした男子禁制の場に、僕が入り込んでいられようはずがないのである。

だからこそ又聞きをした話だと言ったのだ、僕の健全さがわかっていただけただろうか?

 

そのとあるお店と言うのは他でもない。

児玉坂にある有名なお店「Bar Kamakura」である。

常連さんには「ルージュ」と呼ばれてスナックと勘違いされる事も多いこのお店は、

まだ20歳を少し超えた程度の若い美人のママが切り盛りしている。

彼女の名前は北条真美と言い、あの歴史的に有名な北条家の子孫だという噂もある。

僕はとても健全な大学生なのでこういったお店に飲みに言った事などないが、

どうやらこのお店は僕が想像するようないかがわしさなど微塵もなく、

ただただ面白い愉快なママを慕って飲みに来るお客さんが多いらしい。

みんなで女子会をしたその日も、いつも通り楽しい話をしていたという。

 

そのママのお手伝いをしていたのが三藤舜奈である。

舜奈はもうこのお店にアルバイトとして働きに来てからしばらくになるという。

彼女はどうやらママよりも年上という事で世間には通っているらしいが、

どうやら実は年齢詐称の疑いがあるといわれているらしい。

セクシーな唇と落ち着いた声をしているために、

飲みに来るお客さん達にはママよりも年上だと言っても疑われていないらしい。

彼女はどうやら美人なのであるらしいが、お客さんから可愛がられているそうで、

この女子会でもママと「井上陽水ものまね対決」を行っていたという。

カツラとグラサンをつけられると、彼女は別人のようにノッてくれるらしい。

 

 

先ほどから、僕はしきりに「~らしい」という口調を用いているのであるが、

これはもちろん、僕がとても健全な男子であるためにこの女子会に参加していなかったという事があるのだが、

より正確に言えば、僕は未だにこの二人を実際に見た事はないのである。

次に登場するとても冷静な少女より、ただこういう人であったと又聞きをしただけだ。

 

その冷静な少女というのが、この物語の鍵を握る人物である内藤明日奈である。

僕が彼女を初めて見たのは、まだ先の方で語られる例の「よろず屋」なのであるが、

彼女はとにかく神に選ばれたかのように美しいスタイルをしている女の子であった。

それでいて性格は内向的であるのか、余計なことはあまり喋らないのだ。

彼女はもともと女子会のような集まりに参加するタイプには見えず、

普段は寡黙に読書などに勤しんで知識を蓄えていくことを生活の基本とする性格であった。

どうやら今回の集まりは「児玉団」という彼女も参加していたバンドの集まりらしく、

久しぶりの同窓会のような形だったので、友人を想う気持ちから参加を決意したようだった。

 

僕は読者諸君に今語っているお話を彼女から聞いた。

そしてその儚げな面影を見ているうちに、福澤先生との決別をすることになったのである。

それは悲しいお別れではあったのだが、彼女の顔を見るたびに何も間違いではなかったと確信する。

きっとこれはそういう運命だったのだと、美しさを帯びて心に語りかけてくる誰かが僕の中にいるのである。

 

さて、対照的にとても賑やかな少女もその輪の中に紛れ込んでいた。

その活発な性格である可愛らしい彼女の名前は南野きな子といった。

彼女は「児玉団」のメンバーではなかったのだが、

明日奈の友人ということもあって何度か面識があったようだ。

女子会ではひたすらメロンジュースしか水分を取っていなかったらしいが、

これには深いわけがあるというのだ、だが明日奈はそれを教えてくれることはなかった。

それは二人の間に結ばれた硬い絆だけが共有する秘密なのかもしれなかった。

僕が彼女を見た感想としては、やたら声がでかくて運動神経が人間離れしているように思えた。

外見からは明日奈と歳もそう変わらないかと思われたが、彼女の方が2つほど上らしかった。

 

その南野きな子とも仲が良く、元々は明日奈の友人であったというのが高元木芽香である。

愛くるしいルックスとお菓子のような甘い雰囲気を兼ね備えた木芽香は、

「児玉団」のバンドメンバーであり、普段はラジオや声優の仕事などもこなしているという。

そういえば、僕も彼女が話している声をラジオを通じて聴いたことがあった。

とても聴き取りやすい声質であり、本当にお菓子のような甘い声をしていた気がする。

だが残念なことに、先述した北条真美や三藤舜奈と同じように、

僕は高元木芽香と実際に会ったことはなかったのだ。

彼女の存在は、残念なことに僕の中では声だけでしか再生されないのである。

こういった方々については、僕は内藤明日奈より聞いた話しか語れない。

 

 

読者諸君はもしかすると興ざめしているかもしれない。

お前はほとんどの登場人物と会っていないではないか。

そのような感想をお持ちの方々もおおいにいると思われる。

しかし、それを問い詰めるのは野暮というものである。

どうしようもないことを嘆いても仕方がないではないか。

それよりも話を先に進めようと思う、ここから先に語る人物については、

僕も実際に会ったことのある方々なので少々詳しく語れるかと思う。

 

次に紹介するのは「児玉団」のバンドメンバーである坂田花沙である。

彼女はとても賑やかで楽しい女性で、「Bar Kamakura」にもよく一人で飲みに来るという。

スイーツなどにやたら詳しく、とても女の子らしい女の子と言えるのではないだろうか。

ただ、彼女にはどうやら二重人格の疑いがあるらしく、彼女自身にはその自覚がない。

だが仲の良い友人から言わせると、彼女は時々「彼」になるという。

それが彼女のユーモアなのか複数存在する人格なのかは誰にもわからない。

僕自身、まだ彼女以外の「彼」には会ったこともないし、

その「彼」がどのような性格をしているのかはさっぱりわからない。

ただ、彼女の性格については少しだけ語ることはできる。

とても頭がよくて、それでいて多少毒舌だということだ。

 

最後に語る人物は、おそらく読者諸君でもよくご存知のことだと思う。

彼女は児玉坂の街を訪れたことのある人なら誰でも知っていると言っても過言ではない。

児玉坂の街が誇る天才ピアニストであり、常識知らずの変人とは菊田絵理菜のことである。

彼女は正確には「児玉団」のメンバーではないが、過去に共演したことがあるらしく、

その時に今まで語ったメンバーと知り合いになったということらしい。

「菊ちゃん」の愛称でお茶の間にも親しまれている彼女と沖縄旅行に行けたことは、

おそらくこの街の誰に自慢しても羨ましがられることは間違いない。

だが、その自慢はこの物語を語り終わってからゆっくりどこかでやることにして、

こんな凄い人を近くで観察できるこの大いなる機会を大切にしようと思うのである。

許されるならばこの天才少女に聴いてみたいものである。

おお、菊ちゃん、あなたはどうして菊ちゃんなの?

 

 

とにかく、これが今回の物語に登場する少女達である。

「よろず屋」を含めるとまた人数が増えてしまうのであるが、

それは後で語るとして今はここまでにしておこうと思う。

 

僕が内藤明日奈から聞いた話では、彼女を含めこの7人が女子会に参加していたのである。

この物語の発端は他でもない、その女子会から始まるのだった。

 

 

 

・・・

 

さて、ここまで僕は比較的に明るい調子でこの物語を語ってきた。

しかし、実際にはこの物語はそれほど明るい調子で語れるものではない。

僕は努めて明るく振舞おうとしているのである。

それは他でもない、内藤明日奈の為である。

彼女の心境を考えると、僕は暗澹たる気持ちに苛まれそうになる。

 

そもそも、彼女が僕に語ってくれた口調はこんなにおバカな陽気さではなかった。

彼女は極めて冷静に、それでいて悲しみに打ちのめされたような口調でそれを語ったのだ。

けれど、それをそのまま伝えては読者諸君に悪かろうという僕なりの配慮から、

このような間抜けな調子で伝えているということをお忘れなく。

 

 

そうそろ物語の続きに戻ろう。

 

内藤明日奈を含めた7人の少女達は女子会を開いた。

「Bar Kamakura」は夜から開かれるお店であり、

北条真美は、お昼の時間を女子会の為に割いてくれたという。

場所を提供してくれるだけでもありがたいことであったので、

残りのメンバーは、食べ物や飲み物はできるだけ負担をかけないようにと考え、

女子会の開始前に各自が買い出しにいくなりして持ち寄ることにしたそうだ。

 

内藤明日奈は友人である高元木芽香、南野きな子と一緒に近くのコンビニへ行き、

きな子が飲むという大量のメロンソーダと色々なお菓子などを買い込んだという。

その様子は極めて無邪気であり、きな子などは飛び跳ねてスキップしていたらしいし、

木芽香も普段の仕事の疲れなども忘れてすっかりくつろいだ様子であったという。

もちろん明日奈も気を許せる友人達と楽しい時間を過ごしていたのだ。

 

買い出しを終えて帰ってきた三人は「Bar Kamakura」の扉を勢いよく開けた。

真っ先に中へ駆け込んで行ったのはきな子だった。

大声をあげて「いぇ~い!」と陽気な雰囲気で店の中へ入ると、

先に買い出しを終えて戻ってきていた坂田花沙が椅子に座っているのが見えた。

きな子は陽気に彼女の前へ行って買い出してきた戦利品を紹介し始めたらしい。

 

「これやばいよ、めっちゃおいしいから!」と戦利品の中身を吟味しながら批評する花沙。

買ってきたものを褒められて嬉しそうにピョンピョンと飛び跳ねるきな子をよそに、

ママである北条真美と三藤舜奈は女子会の準備を進めていたらしい。

買い出しのおかげで十分な食料は揃っていたのであったが、

やはり自分達のホームへ招待するという気持ちがあるのか、

二人はせっせと何やらお菓子や料理などを準備していたらしい。

 

「え~、なんか手伝おっか?」と気を使っていた木芽香をよそに、

明日奈は椅子の準備をしていた舜奈のところへ行って舜奈を椅子に座らせた。

そして自分はその上に座って仲良さげに過ごしていたという。

それを見たきな子が二人を引き剥がしにきたらしい。

南野きな子は少し嫉妬深い性格だということが伺えるエピソードである。

 

やがて少し遅れてドアが開いて「やっほ~」という声が響いた。

ドアの向こうから姿を現したのは笑顔の菊田絵理菜だった。

「遅くなっちゃった~」と言いながら両手には何やら袋を持っていた。

それはバレッタで買ったデザート「塩アイス」と、

パティスリー・ズキュンヌで買ったブルーベリータルトだったという。

 

「みんながどっち好きかわからないから~」という理由によって、

児玉坂の人気店であるバレッタとズキュンヌの両方で食料を調達してきたらしい。

バレッタで買った塩アイスは、なぜか店員の女の子がとても冷たい対応で手渡してきたもので、

ブルーベリータルトはズキュンヌの店長と前々から作ってもらう約束をしていたものだったらしい。

どちらも美味しそうで、少女達はみんな駆け寄って中身を覗いていたが、

デザートが好きな花沙が一番嬉しそうに雄叫びをあげていたという。

反対にきな子は少し寂しげに「あたしこーいうの食べれないから」と不満そうだった。

明日奈によれば、好き嫌いとかそういうことではなく、体質的な問題だという。

それ以上は「ふふふ」と笑って誤魔化されてしまったのでどんな体質なのか僕は知らない。

 

「とりあえず冷蔵庫に入れておくね」と言って舜奈はその二つのデザートを運んで行った。

「どっちが食べたい?」と木芽香が尋ねた時、明日奈は「えー、両方欲しい!」と言い放ったという。

木芽香は育ってきた環境からか、何かを得ると何かを我慢するという思考が身についていたようだ。

おいしいものには目がない明日奈は、妹キャラ全開で両方欲するという選択を無意識にしてしまったらしい。

 

「はいはい、デザートは後で食べれるんだから」と何やら涙を流しながら料理をしていた北条真美。

どうやら包丁で玉ねぎを切りながら何か料理を作ろうとしているらしかった。

「北条さ~ん!」とにやにやしながら駆け寄ったのは南野きな子だったという。

「ガムを噛みながら玉ねぎ切ったら涙出ないんですよ~!」と言いながら、

先ほど手に入れた戦利品の袋の中からガムを取り出して持ってきたらしい。

それを実証する為に真美から包丁を奪ってザクザクと切り始めたが、

そもそもいくら切ってもきな子の瞳から涙は出なかったらしく、

「・・・もうそのままあんたが切っちゃって」と真美は呆れて別の作業に移ってしまったという。

きな子は涙が出なかったが、とりあえずガムを噛みながら玉ねぎをみじん切りにし続けた。

明日奈いわく、きな子の眼球はちょっと特殊で、まあコンタクトレンズを入れてるみたいなもの、

だということで、僕にも真相はちんぷんかんぷんではあったが、とにかくコンタクトレンズ最強説を裏付けられた。

 

 

やがてすべての準備が整って女子会はスタートした。

「おつかれ~」という掛け声と共に誰もが乾杯し始めた。

乾杯とは言っても、この場にはお酒はなかったという。

未成年者が混じっている状況でお酒を飲むのはふさわしくないと判断され、

20歳を超えている子達もアルコールのない飲料に合わせたという。

こういうのは好ましい話だ、僕の好きな健全さである。

 

料理、お菓子、ジュースなどを囲んで女子トークは始まった。

大人数で集まった時、個を薄めながら共通した話題を手探りで探す。

そんな風にして自然と話題は児玉団の話に落ち着いていったと言う。

この中ではきな子と菊ちゃん以外が児玉団のバンドメンバーである。

菊ちゃんはピアノを生業としているので、音楽の話には加わっていける。

きな子は彼女達の練習風景を過去に見学したことがあったので、

この話題は誰も無理せずに参加できるうってつけのものだったのだろう。

 

とは言え、児玉団も参加メンバーは幾人か抜けてしまった。

この児玉坂の街を去るというのは各人の決意であるために誰も止められない。

輝かしい記憶がどんどんと遠い過去へ走り去っていくように思えて、

メンバー達は懐かしい思いやバンドへの愛を語りたかったのかもしれない。

形あるものはいつかは無くなってしまう、そういう現実を直視することで、

残された限りある現在をもっともっと濃く生きようと思えるのかもしれない。

 

その話の延長線上で年齢の話になった。

各々が自分の年齢を口にすると、過ぎ行く時の速さを一層生々しく感じる。

「もう20歳になっちゃった!」ときな子が大声で悲しそうに叫んだらしい。

彼女の誕生日は7月なので、つい先月過ぎ去ったところだったのだ。

「えー、そうなの、まだ若いじゃん、舜なんてもうすぐ23歳だよ」と三藤舜奈は言ったという。

 

その時、場に少しの沈黙が流れたらしい。

 

明日奈は北条真美を通じて三藤舜奈と知り合いになった。

彼女と仲良くなれた感覚は「同級生」というものであり、

だからここで舜奈が口にしていた年齢は腑に落ちなかったのだ。

ママである真美はそんな舜奈を少し冷たい視線で見つめていたと言う。

どこか訝しげな、疑惑の政治家を眺めるような目つきで。

 

僕も彼女を見たことはないので何とも言えないのだが、

23歳だと言われればそう見えるようなルックスをしているらしい。

だが、明日奈と同じ歳だと言われればそうも見えるという。

畢竟、年齢などというものはその程度のものなのだ。

 

「明日奈は何歳だっけ?」と真美がそう尋ねた時、

明日奈は今月で18歳になることを告げた。

「若いね~」という反応が女子の輪の中に反響する。

真美はそれから舜奈の顔をジロジロと見つめていたらしい。

おそらく、真美は舜奈の年齢を明日奈と同じだと疑っているらしかった。

だが、もしそれが本当だとすればバーで働かせるのはマズイことになる。

真美はお店の責任者としてそのあたりが気がかりだったのかもしれない。

 

「こんなかで10代って菊ちゃんと明日奈の二人だけってこと?」と花沙が言った。

「でも、別に年齢だけがフレッシュってことじゃないじゃん」と菊ちゃんが返した。

 

僕個人の意見などは読者諸君にはどうでも良いことかもしれないが、

女性にとっての年齢論には二つの見解を持っている。

菊ちゃんの言う通り、人の魅力は年齢では計れないとする意見。

もう一つは、そうは言っても世間様の視線は年齢という数字を一定の尺度として、

その本質とは無関係に判断材料として使用するという残酷な一面があるという意見。

おそらく女性陣は、年齢を重ねるごとに自分の周囲に吹く風が変化していく事を痛感すると思われる。

若いうちはその恩恵の部分しか吹いてこないので良くも悪くも気づかないかもしれない。

だが、年齢を重ねるごとに世間様の風当たりというのは強くなっていく。

願わくば、彼女達にはそんな世間と同じような風を吹かせる男性諸君には騙されないでほしい。

表面的な数値にとらわれず、その本質的な魅力を愛してもらえるように祈るばかりである。

願わくば、健全な男性諸君に・・・そんな人がどこにいるのかって?

いやいや、意外と近くにいるものだよ、例えば今君の眼の前にいるその健全な男子とかさぁ・・・。

 

 

ゴホンゴホン。

健全すぎる男子は彼女ができないものである。

さあ、話を戻そうと思う。

 

ある程度の時間が流れ、料理もお菓子も尽きてきたところで、

舜奈は冷蔵庫に入れておいた塩アイスとブルーベリータルトを取りに行った。

どれだけお腹が満たされても甘いものは別腹なのだろう、

彼女達は嬉しそうに声を上げながら舜奈を、もとい舜奈の持って来たデザートを歓迎した。

 

「えっ、これおいしい!」と感嘆の声を上げたのは花沙で、

花沙の手元にはスプーンと器に盛られた白いアイスが乗っていた。

バレッタの塩アイスは白色、黄色、水色の三色のアイスから構成されていて、

花沙が口にしたのは最もスタンダードに見える白色のアイスだった。

デザート好きの花沙でも驚くほどの味だということで、

一同はその変わった三色のアイスに興味を惹かれていった。

 

「うわっ!」と声を上げて左手で口元を押さえたのは木芽香だった。

すぐにグラスに残っていた冷たいお茶を上むきながら喉に流し込んだらしい。

グラスを口元から外し「あー、これおいしくな~い!」と苦々しい顔で言ったという。

木芽香が口にしていたのは三色ある内の黄色のアイスだった。

「なんかねー、うなぎみたいな味がする」とは木芽香の感想だ。

 

「えーっ、どんな味なんだろう?」ときな子はその黄色アイスの入った器を眺める。

じっと近くで眺めているうちになぜか寄り目になっていたとは明日奈の談。

 

「そんなに気になるなら食べてみたらいいじゃん」と冷たく言い放った舜奈は、

少し離れたところの椅子に座って一人で優雅に水色のアイスを自分の口に運んでいた。

実は、きな子と舜奈は実は以前からの知り合いだったらしい。

今回はたまたま児玉団のメンバーの繋がりでこんな風に会うことになったが、

二人だけでも以前からよく遊んだりすることがある仲だったという。

この舜奈の冷たいセリフは、逆に言えば二人の仲の良さを物語っていた。

 

「えー、無理!」ときな子はその申し出を拒んだらしい。

舜奈の横に駆け寄って行った明日奈は水色のアイスを一口もらった。

舜奈は銀色のスプーンで爽やかな水色の欠片を削って雛鳥の口へ運ぶように明日奈の口へ入れたのだ。

明日奈の感想では、水色のアイスはこんぺいとうみたいな味がしたらしい。

 

「きな子が一番びびってんじゃん」と舜奈は冗談ながらもきな子に挑発的な言葉を浴びせた。

「違うもん!」と反論したきな子に、隣で「はい、アーン」とスプーンで黄色の欠片を向ける木芽香。

たかがアイスを食べるのに目をつぶって大袈裟に体を萎縮させていたきな子だったが、

しばらくして両目を大きく見開いたきな子は両手で驚いたように口を押さえて「えっ、おいしい!」。

明日奈が言うには、彼女はこの手の物を普段は食べることはないので、

この黄色のアイスを食べられたことに少し驚いたということだ。

その話から想像するに、普段はよほど偏食なのかもしれなかった。

 

きな子は不思議そうに自分で黄色のアイスを食べ続けたという。

その時、花沙や菊ちゃんはパティスリー・ズキュンヌのブルーベリータルトのほうへ関心を向けていたらしい。

どうもそのタルトは菊ちゃんがズキュンヌの店長を急かして今回の為に作ってもらったらしく、

お店では普段販売していないレアな商品だということだった。

花沙はよくこのお店に通っている常連だったらしく、

この今まで見たことない新商品に誰よりも興味津々だったようだ。

「やばい、さすが真冬だわ」とは一口食べてみた後の花沙のセリフだ。

 

ちなみに、花沙の言った「真冬」とはこのズキュンヌの店長さんの名前であり、

児玉坂に住む僕にもこの有名な店長さんの名前は聞いたことがあった。

ケーキなどに疎い健全な僕ではあったが、女子達がこんなに喜ぶのであれば、

今後はこのお店をチェックしなければならないとこの話を聞いて思ったのだった。

明日奈もどうやらこのお店の店長と一応知り合いだということらしかったので、

店長さんがどんな人物であるのか聞いてみたところ「やばい人間」だと言うことらしい。

「嫌いではないけど好きではない、普通っていう一番嫌な奴だ」とのことで、

僕はますますこの店長さんがどんな人間であるのか理解できなくなっていった。

 

 

・・・

 

 

みんなのお腹も満足したところで、女子会はどうやら次の企画へ突入したという。

だが、この部分に関しての僕の語りは少し具体性を欠くことをお許し願いたい。

というのも、語り手である明日奈自身、この箇所に関しては語るのを大層渋ったからだ。

彼女にとってあまり良い思い出ではなかったということかもしれなかった。

 

彼女の証言から僕がわかったことは、この企画とはプレゼント交換会だったということだ。

それぞれが金額を決めて買って来た秘密のプレゼントを交換するという企画で、

だが普通に交換するだけでは面白くないので、自分がプレゼントをもらえると思う人は、

どうやら自ら名乗り出てその理由をみんなに説明しなければならないというものだったらしい。

 

そう、僕が内藤明日奈から聞き出すことができたのはたったこれだけだった。

僕は薄々感ずいていながらも禁断の質問を彼女へ投げかけざるを得なかった。

「君は・・・何かもらえたの?」という質問をした時に、彼女は少しふてた顔をあらわにした。

それが彼女の答えだとわかった僕は、もうそれ以上は追及することはできなかった。

 

だからこのプレゼント交換会について僕が語れることはここまでである。

大変恐縮ながら、後は読者諸君の想像力で情景を埋めてほしい。

 

やがてこの企画が終了した時、待ちきれずに次へ移行したのは菊ちゃんだったらしい。

後に一緒に行動してみてわかったが、彼女は楽しむ時に何も躊躇はしない性格のようで、

1分たりとも無駄にすることは彼女の中で許されないことのようだった。

 

「Bar Kamakura」にはカラオケ用の機械が据え付けられており、

この場所へやってきた時からそこに目をつけていた菊ちゃん。

おもむろに立ち上がってカラオケマシンのほうへ歩み寄りながら、

「なんか歌いたくなってきちゃった~」と無邪気にいい放ったという。

自分でマイクを取って機械を操作してさっさと曲を入れ始めた。

ここから女子会はしばしのカラオケ大会へと変貌を遂げていくことになる。

 

やがて音楽が流れ始め、第一声として「凍えそうな~季節に君は~」と、

もう夏がやってきているというのにもかかわらず、

菊ちゃんはなぜか冬の曲を熱唱し始めたということらしかった。

熱いのか冷たいのかよくわからないが、ノリノリで歌い続けていた菊ちゃん。

さすがのステージ度胸を披露しながら、やがて段々と曲が盛り上がってきたところで、

なぜか木芽香が立ち上がって小さな扇風機を持って歌い踊る菊ちゃんに風を送り始めた。

横から斜め下から、とにかく菊ちゃんの黒い艶のある髪は風に吹かれて躍動感を増した。

それをみた明日奈はなんだか不思議と心がざわざわするのを感じていたという。

だが、その具体的な理由はまだこの時にはよくわからなかったらしい。

 

やがて菊ちゃんは満足げな顔を残して歌い終わった。

木芽香がサポートした扇風機の演出効果は未知数ではあったが、

この話を聞いた僕には木芽香の健気さが何よりも印象的であり、

それが僕の心に清涼感のある風を吹かせたのは言うまでもない。

 

続いてマイクをとったのは木芽香だったらしい。

仕事でもステージに上がることが多いという彼女は、

場の空気を察してか、アップテンポで明るい曲を選んで歌い始めたという。

明日奈から聞いたところでは、少し前には歌に自信が持てない時期があった木芽香も、

この時ばかりは楽しそうに伸び伸びと歌っていたのが印象的だったそうだ。

彼女の楽しい雰囲気が影響してか、女子会はさらに盛り上がっていったらしい。

 

その盛り上がった場を引き継いだのは舜奈だった。

正確に言えば、花沙ときな子がお店の裏から見つけてきたサングラスとアフロのかつらが、

彼女たちのテンションを高めていく絶妙のアイテムになったらしかった。

「ちょっと~それお客さんからもらったやつだから触んないで」と嫌がっていた舜奈も、

ニヤニヤしていた花沙ときな子にかつらとサングラスをつけられた瞬間、

人が変わったようになってマイクを手にとってみんなの前にたった。

これが後に伝説として彼女達の間で語られることになった井上陽水対決であった。

 

舜奈はとてもノリが良く、これがお客さんに愛されている理由らしいが、

どんな無茶ぶりでも答えてくれるそうで、ものまねなどできもしないのに、

勇敢にも井上陽水の歌を真似しながら歌い始めたらしかった。

明日奈を始め、女子会のメンバー達は爆笑の渦に包まれながらテンションを高めていった。

 

そして、その流れを引き継いだのが北条真美だったという。

彼女も同じようにサングラスをかけて登場し、華麗なものまねを披露したという。

さすがにホームグラウンドであるお店だったからだろうか、

彼女達のパフォーマンスは女子会を盛り上げるのに多大な貢献を残したらしい。

彼女達は誰もが笑い転げながら楽しいひと時を過ごしていった。

だが、僕にとって遺憾なことは、ここから先の語りは場面が一気に飛ぶことである。

時にカラオケというものは、盛り上がった後は何を歌ったのか覚えていないものである。

ドーパミンが脳内に溢れ出した彼女達は、踊り狂いながら狂乱の宴を駆け抜けていった。

ただし、元来賑やかな場所が得意ではない内藤明日奈にとって、

自ら能動的にマイクを取ることはなく、ただ場の空気に合わせて手を叩いたりしながら、

その雰囲気に合わせるようにして盛り上がっていたということは確からしい。

 

 

次に僕が語れるのは、いつの間にか眠ってしまった明日奈が目を覚ました場面からである。

狂乱の宴の最中にいつの間にか睡魔に襲われてしまった明日奈は、

どうやら耐えきれずに眠ってしまったらしかった。

 

明日奈が目を覚ました時、女子会の空気はもうすっかり冷めきっていて、

先ほどの狂気的な熱気はすでに影を潜めていたという。

そして、まず自分の周りに色々と物が落ちていることに気がついたらしい。

リップクリーム、くし、文庫本・・・。

ふと前を見ると、そこには同じように眠っていたきな子が見えた。

彼女もまたくたびれて眠ってしまったようだった。

 

だが、明日奈が後ろを振り向いた時、そこにはレンズがあった。

レンズの後ろにはグレーに光る冷たい印象を放つ機械がくっ付いていた。

その横には誰かの手とその手を固定するバンドが認識できた。

 

「なに?こんなに難しい本読んでんの?」とビデオカメラを持つ人が言ったのが聞こえたという。

それはどうやら花沙だったらしく、文庫本をパラパラめくりながら明日奈の寝顔を撮影していたらしい。

明日奈はその文庫本が何だったのか、僕が尋ねた時にもなかなか教えてくれなかったのだが、

後でしぶしぶ教えてくれたところによると、それは貫井徳郎という作家さんの「乱反射」という本だったらしい。

人々の小さなモラル違反で、それがやがて大きな事件につながってしまうというミステリーの名作だという。

本のタイトルをなかなか教えてくれなかった理由は、ただ単純に恥ずかしかったかららしい。

 

ぼんやりと目が覚めた明日奈は周囲の状況を確認するのに時間がかかったらしい。

あたりを見回すと、もうカラオケはすっかり終わってしまったようでマイクはきちんと直されていた。

キッチンの方から水が流れる音が聞こえて来るのがわかったらしい。

そちらには北条真美と三藤舜奈が二人で片付けを行っているのがわかったという。

あれほど賑やかに歌っていた菊ちゃんの姿はお店の中には見つからず、

片付けを手伝っていたらしい木芽香が明日奈が起きたのに気づいてくれたそうだ。

 

「私って何してたんだっけ?」と今までの状況を確認するために木芽香に尋ねたところ、

木芽香は自分の携帯で撮った幾つかの写真を明日奈に見せてくれたという。

そこにはいつの間に撮影したのか、女子会のスタート時からカラオケの狂宴の姿まで、

乱痴気騒ぎの一部始終が収められていたということだった。

あまりよく覚えていないが、カラオケで盛り上がっている時分には、

椅子に座っている明日奈も一応は微笑む人としてそこに写り込んでいたようだった。

その写真を見ていると、自分はみんなと楽しいひと時を過ごしたのだということがわかったという。

 

花沙に聞いたところ、菊ちゃんは用事があって先に帰ったらしかった。

やがてお店の片付けも終わったようで、女子会はこれにて解散となったようだ。

明日奈は木芽香と一緒に眠っていたきな子の肩をゆすりながら起こしていて、

その一部始終を、また花沙はハンドカメラで撮影しているようだった。

 

こうして女子会は解散となり、明日奈たちは「Bar Kamakura」を後にした。

真美と舜奈はこの後も夜からお店の開店準備があるらしく、お店に残ることになっていたという。

明日奈たちは二人に手を振って別れを告げた後で大きなドアを閉めてその場を後にした。

 

そして、悲しいことに、これが明日奈が見た舜奈の最後の姿となった。

 

 

・・・

 

 

読者諸君は物語の急展開にさぞや驚かれたに違いない。

だが、最初に僕がきちんと断っていた通り、これはそんなに楽しいお話ではないのだ。

沖縄へ旅立つ前に、内藤明日奈が重い口を開きながら僕に語ってくれた物語なのだ。

 

 

異変が起きたのは次の日のことだったという。

三藤舜奈がお店を無断欠勤したということらしかった。

それを心配した北条真美はどうやらみんなに連絡を取っていたようで、

明日奈もその電話を受け取った一人だったということだった。

あの女子会の翌日に起こった異変だということもあって、

真美はどうやらあの時に何かあったのではないかと疑っていたらしいのだ。

それで参加していたメンバーに次々と電話をかけることになったという。

 

だが、明日奈はもちろん、他のメンバーも誰も舜奈のことは知らなかったという。

女子会の時にも特に奇妙な素振りを見せることもなく、

普通に楽しそうに盛り上がっていたのだから理由は誰にもわからなかった。

明日奈はふと、あの井上陽水のかつらとサングラスのことを思い出し、

もしかしてあれが彼女を傷つけたのではないかと真美に告げたが、

真美が言うには、あんなのはお店でいつもやっているから慣れっこであって、

彼女はそんなやわなハートをしていないはずだということだった。

 

明日奈は自ら舜奈の携帯に電話をかけてみたりLineでメッセージを送ってみたりしたのだが、

やはり予想通り彼女と連絡を取ることができなかったという。

明日奈は仲の良い友人が急にいなくなったりしたことを大変心配したのだが、

人間だから何か嫌なこともあるだろうと思い、彼女の方から連絡をくれるのを待ったという。

 

だが、2~3日ほど経っても一向に連絡をつけることができず、

この奇妙な状況にさすがに明日奈の不安は高まっていった。

これは普通の出来事じゃないと思った明日奈は仲間たちと連絡を取った。

やがて真美へ電話をした時に、少し不可解な問題にぶつかることになった。

お店の隅に奇妙な落書きがされていたというのだ・・・。

 

真美に呼び出された明日奈は木芽香を誘ってまた「Bar Kamakura」を訪れたという。

数日前には楽しい時間を過ごしたはずのお店の扉はとても重たく感じたらしい。

中に入ると腕組みをして難しい顔をしている真美がそこには立っていた。

明日奈と木芽香も一体どんな顔をして良いのかわからずに真顔で彼女と対面した。

「これなのよ」と明日奈たちを誘導するようにお店の奥へ入っていく真美。

そこにはカーテンが掛かっており、床上30cmくらいの高さまで垂れていた。

そのカーテンの前には椅子が並べており、その前にはテーブルもあった。

真美はまずテーブルを脇へ動かしてから、そのカーテンの前に並んでいた椅子を退けた。

すると、カーテンの横からはみ出すようにして赤い文字で書かれている「なぞの落書き」を見つけたという。

 

内藤明日奈

 

と汚い走り書きのような文字で書かれていたというのだ。

壁に書かれたその文字はなかなか消えないペンで書かれていたようで、

どうやら今まではこんなものはなかったはずだという話だった。

真美の話では、あの女子会の時に椅子を動かしていたはずなので、

この壁はその当時はむき出しになっていたはずだという。

その話から推測すると、この落書きはその時に書かれたのではないかということだった。

 

明日奈は毒々しいその自分の名前が書かれている壁を見て恐怖を覚えた。

普段からたくさんのミステリー小説を読んで殺人事件を覗き見してきた自負はあったのだが、

さすがに自分の名前が書かれている不気味な壁を見ているといい気持ちはしないらしかった。

僕がこの話を聞いた時の明日奈の顔は、本当に生気を失ったように落ち込んでいたものだった。

 

明日奈はこの時、女子会の最後に木芽香に見せてもらった写真を思い出したという。

あの時に撮影した写真にこの壁の落書きが写っていないかどうか、それを確認したいと思ったらしい。

このなぞの落書きが、まさか誰かの好意で書かれたとはどうしても思い難く、

それともただのいたずらなのか、とにかく誰か犯人が名乗りでて早く告白をしてほしかった。

 

木芽香が開いた携帯の写真フォルダから当時の写真を探した三人は、

覗き込むようにして当時の写真を舐めるようにして検証した。

やがて、その中に写っているみんなの集合写真がその壁を写していることに気がついた。

目を凝らして見つめてみたのだが、どうやらその写真の中にはその落書きはなかったらしい。

ということは、おそらくカラオケの当時はまだ落書きは書かれておらず、

落書きを残した犯人は、カラオケから現在までに至る時間のどこかで犯行に及んだことになる。

 

だが、三人が本当に恐怖したのはこの後だったという。

真美が落書きを眺めながら、どうやらカーテンの後ろまで何か文字が続いているのを発見したという。

唾を飲み込む音が静かな店内に響き渡るのを、明日奈は確実に聞いたらしい。

それくらいの緊張感の中で、真美はおそるおそるカーテンをめくった。

 

「・・・に粛清を

 

その言葉が見えた時、真美は思わずカーテンを離して後ずさりしてしまったらしい。

明日奈が気になっておそるおそるカーテンをめくると、そこに書かれていた言葉は、

内藤明日奈に粛清を」という表現でカーテンの裏まで続いていたのだという。

 

ここは僕の想像でしかないが、おそらく明日奈は相当恐ろしかったと思う。

そして側にいる木芽香に抱きつきながら恐怖を抑えようと努めたのではないだろうか。

明日奈がその時の状況を具体的に語ってくれることはなかったのだが、

おそらく、そういった恐るべき不安にとらわれていたことは想像に難くなかった。

 

だが、同時に彼女の冷静さは、その落書きの筆跡を探っていたという。

もし女子会の時に書かれた落書きであれば、参加者の誰かが書いたことになる。

だが、明日奈が見る限り、知っている誰の筆跡とも似ていないような気がしたという。

 

いったい何のいたずらかわからないが、その日の明日奈は相当にくたびれてしまったらしい。

一人で家まで帰るのが怖くなった明日奈は、木芽香に家まで送ってもらうことになったという。

楽しかった女子会の記憶も、知らないうちに黒く濁った思い出にすり替えられていきそうになったことだろう。

 

だが、彼女の心労はこれで止まるところではなかったのだ。

翌日、今度は北条真美が音信不通という事態に陥ってしまったのだ。

 

前日、多分これはきっと誰かのいたずらで、乱痴気騒ぎの興奮の中で、

わけもわからずに書いてしまったものかもしれないと真美は結論づけていた。

そんな風にして終止符を打とうとしていた真美までもが行方不明となってしまったのだ。

 

 

 

・・・

 

灼熱の太陽が熱い。

これは現在の僕が沖縄のビーチにいるからである。

僕はそこから読者諸君に対して物語っているのである。

読者諸君は冷や汗をかいているかもしれないが、

僕はもう溶けてしまいそうな、うだる暑さの夏の太陽の下にいるのだ。

汗で身体中が気持ち悪くなりそうで仕方ない。

Tシャツもすっかり体にへばりついてしまっているのだから。

 

ちなみに、今僕の目の前には内藤明日奈が座っている。

とても不安そうな表情を浮かべながら、なにやら思いつめた顔をしている。

南国の陽気さとは全く相容れないような冷たい顔をしている。

同じように、その隣には夏の暑さを感じさせない涼しい顔で菊ちゃんが座っている。

僕の頭上にはないが、彼女たちの頭上にはパラソルがあるため、

菊ちゃんは汗もかかずにかき氷を食している。

オレンジ色のノースリーブワンピースを身につけている明日奈は、

大好きなブラックコーヒーではなく、ルイボスティーを飲んでいた。

もちろん、南国の景色にはそちらの方が幾らか相応かった。

 

僕はと言えば、日傘をさして横に座っている女の子に影を作っている。

テーブルに突っ伏したまま動かないその女の子は、

とにかく意気消沈して泣いているのだが、そのまま太陽に晒されるのはかわいそうでもあり、

僕は自己犠牲をもって彼女のために日光を遮る環境を用意していた。

要するに多少文句を言わせてもらうと、僕だけがギラギラ輝く太陽に焼かれている。

これが男の辛いところだ、寅さんの気持ちがよくわかる気もする。

あの映画を全く見た事もない僕が言うのもなんだけれど。

 

 

さて、読者諸君にはまだ語らなければならない。

そうでなければ僕が今語った光景の意味が何一つわからないだろう。

とにかく、僕達が沖縄へやってくるまでにはまだ少々の経緯が残っている。

 

北条真美が音信不通になってしまった後、

明日奈は木芽香ときな子を誘って「Bar Kamakura」を目指した。

本当は花沙と菊ちゃんも誘いたかったところなのだが、

どうしても二人は予定が合わなかったらしい。

 

三人がお店の扉の前にたどり着いた時、そこには張り紙がされているのに気がついた。

そこに書かれていたのは「誠に勝手ながらしばらくお休みをいただきます」という内容だったという。

きな子は舜奈を通じてたまにこのお店に勝手に遊びに来たことがあったらしい。

その度に北条真美に「子供の遊び場じゃないんだよ」と怒られていたというのだが、

とにかくきな子が言うには、このお店が長期休暇を取ったことなどないということだった。

用事で真美か舜奈が出られない日でも、どちらか一人で店を開けられるのだし、

特別な理由もなく長期休暇を取ることなどありえなかったというのだ。

 

もちろん、舜奈が突然にして消えてしまったのだから、

真美が精神的に疲れてしまってもそれは誰にも咎めることなどできないのだが、

こんないたずらがあった後で、急に休みを取ると言って音信不通になる必要はないし、

女子会でも、いつかシンガポールに行きたいと語っていた事はあったが、

この夏に休みを取るというようなことは一言も発していなかったらしい。

それとも彼女の事だから、ドタバタした状況でも旅立ってしまったのだろうか?

 

お店の扉にはもちろん鍵がかかっていて開けられなかった。

怪力が自慢であるきな子が「扉を壊そうか?」と本気か冗談かわからないことを言ったというが、

アンドロイドか何かであれば可能だが、まさか普通の人間にそんなことができるはずもない。

彼女はおそらくアニメか漫画の見過ぎだったに違いないと僕は思う。

 

明日奈は一瞬、この事を警察に届け出るべきではないかと思ったという。

だが、二人が忽然と消えてしまった理由が何も見当たらなかった。

もしかすると、日々の仕事に疲れた事によって起きた問題かもしれず、

あるいは本当にただの休暇で海外旅行に出かけたのかもしれない。

それであればこのお店の私情でしかない、人騒がせもいいところになってしまう。

 

そんな話をしていると、きな子が明日奈の不安を掻き立てるような事を言ったらしい。

最近、児玉坂の街では謎の泥棒事件や失踪事件が相次いで起きているという。

頻発している泥棒事件に関しては、大した被害は出ていないらしいが、

とにかく誰かに侵入された痕跡があるというのが気分の悪いところだった。

失踪事件に関しては、これはきな子がある信用できる警察筋から聞いた情報らしいのだが、

あの有名店であるカフェ・バレッタが関与しているかもしれないという噂があるらしい。

きな子の話では、バレッタには悪趣味な女性の人形が飾られているのだが、

それが本当は人間の剥製であり、裏では人身売買が行われているかもしれないという。

もしそれが本当であれば、これは僕もこんな事を語っている場合ではなく、

バレッタで行われている事の真相を突き止めなければならないと思う。

だが、それらの話にも確たる証拠があるわけではないので、

あくまで空想にしか過ぎないお話を警察に届け出るわけにもいかなかった。

 

「塩アイスの呪いかな・・・」ときな子はポツリとつぶやいた。

菊ちゃんがバレッタで買ってきたあの美味しかった塩アイス。

もし失踪事件に関わってしまったとすれば、関連しているのはあの塩アイスしかなかった。

 

とにかく、何を言っても明日奈の不安は高まるばかりだった。

一人一人の小さな音信不通が、積み重なってやがて大変な事になってしまわないか、

明日奈がこの時に思い出していたのは読みかけの本だった貫井徳郎の「乱反射」だったという。

一つ、また一つと追い詰められていくこの感じがサスペンスを飛び越えてホラーになっていく・・・。

 

その時、木芽香はお店の扉に貼られている張り紙の異変に気付いたらしい。

よく見ると裏側にうっすらと色ペンで書かれたような跡が表面からも透けて見えた。

これはなんだろうと木芽香は張り紙を剥がして裏側を確認してみた。

 

失いたくないなら

 

木芽香は張り紙の裏に青い文字で書かれたその言葉を見て、

とっさに張り紙を持っていた手を離してしまった。

張り紙は三人の目の前の床に落ちて、その冷たい青い文字をこちらに向けていた。

 

「うわぁ!」と三人とも思わず奇声をあげてしまった。

裏側の青い文字を発見したという事実が、真美の音信不通が突然にして事件に思われてきた。

これを書いたのは果たして真美自身なのか、それとも別の第三者なのか・・・。

 

「・・・女子会に参加したメンバーが、失われていく・・・?」と木芽香はつぶやいた。

明日奈に取って不可解だったのは、こうして大切な仲間たちが失踪していく事が、

果たして最初のなぞの落書きで書かれたように自分への粛清なのかという疑問だった。

これは僕の想像に過ぎないが、おそらく明日奈は思った事だろう。

自分が何か悪い事をしてしまったのか、どうしてこんな粛清の対象に選ばれてしまったのか。

 

 

・・・

 

 

木芽香が消えてしまったのはその翌日のことだったらしい。

僕があまりにも淡々と語ってしまうことに嫌悪感を覚える読者もいるだろうか?

人間が一人消えてしまうなんて、そんな簡単に済ませられることではないだろうと。

 

僕も無論そんなことは百も千も万も承知である。

だが、人間というのは連続して起きる異常に対する感度は鈍っていくものなのだ。

もしこれが同じ程度の苦痛を毎回のように伴うものだとするならば、

それこそこの時点で明日奈の精神はメンタルがボロボロになってしまったことだろう。

もちろん、頼れる親友であった木芽香まで消えてしまったことは、

明日奈にとって恐るべきショックな出来事であったことは間違いない。

この場面を語ってくれた時の明日奈の、あのやりきれない悲しみの忘れ方を僕は知らない。

 

読者諸君が今気になっていることは、次の落書きはなんなのかということであろうと思う。

焦らなくとも僕は決して物語ることを逃げはしない。

 

それはラジオ局からの知らせだったという。

木芽香はラジオ番組のDJとしての仕事を務めているのだが、

その日は不在であったので、時々アシスタントをしてくれる芸能人、

オクシデンタルテレビの二人が木芽香に変わって番組を進行した。

木芽香については失踪などと正直に告げるわけにもいかないので、

夏休みを取らせてもらっているという風に説明することになったらしい。

 

ラジオ局から連絡があり、明日奈はそちらへ足を運ぶことになった。

だが、その日はあいにくきな子も予定が折り合わず、

さすがに一人で行くのは心細かった明日奈は、思い切って菊ちゃんに同行を頼んだ。

菊ちゃんを連れて行ったので、オクシデンタルテレビのチャラい方の機嫌が良かったのは語るまでもない。

本当はチャラい人ではないことも、全く語るまでもないことだった。

 

チャラくはない方、己を完璧人間と自負する方の男が明日奈に封筒を手渡してくれた。

明日奈はこの二人のうちで比較的に完璧人間の方を好ましく思っていたという。

彼女は頭の良い真面目な人間を好む習性があるようで、僕のような非完璧人間には辛い事実だ。

そもそも、僕は健全という長所以外はただの凡人であり、この物語を語るしか脳のない男だったから。

 

まあ、僕のことは良しとしよう。

明日奈は手渡された封筒を開けて中身を確認してみたところ、

なぜか中には航空券が数枚ほど同封されていることに気がついた。

その航空券の表記を確認してみると、それは成田空港から那覇空港までのチケットだった。

そして、同封してある折りたたまれていたメモには赤文字でこう書かれていたという。

 

太陽ノックの南国で

 

それを見た時の明日奈の感想を、残念ながら僕は語れない。

もはや意気消沈の域に達していた彼女の精神状態では、

大切な友人たちが失踪していくこの状況に全く適応できておらず、

何がどうなっているか、どういう気持ちであったのか、

それすら彼女は僕に思い出して語ることができなかったらしいのだ。

 

だが、事実としてこうして彼女は沖縄行きのチケットを手にいれた。

枚数を数えてみたところ、それは合計で4枚ほどだった。

それは女子会に参加したメンバーで残された人々、

つまり明日奈、きな子、花沙、菊ちゃんの人数とぴったりと一致した。

どういう意図かわからないが、このなぞの落書きを残し続けている犯人は、

あの女子会に参加したメンバーを一人ずつ明日奈から奪っているのだと思われる。

それが犯人なりの彼女への粛清のやり方なのかもしれなかった。

 

そして犯人は間違いなく残された4人を挑発していたのだろうと僕は思う。

僕にもこのあたりの理由は全く想像もつかないのだった。

児玉坂の街でも何の苦労もなくメンバーたちを消していけるのに、

犯人はどういうわけか、わざわざ航空券まで送りつけてきて南国へ招待している・・・。

 

ラジオ局を出た明日奈は同行してくれた菊ちゃんに全てを説明したという。

あの女子会以来、多忙を極める菊ちゃんは自身の仕事に大忙しであり、

彼女たちの失踪については電話連絡程度は取っていたものの、

明日奈たちの周辺に起こっていたことを詳細までは知らないのだった。

話を全て聞いた菊ちゃんが言ったことは「これは行っちゃダメなやつだよ」だったらしい。

 

もちろん、明日奈にもそれはわかっていただろう。

犯人がなんらかの意図を持って挑発してくる場所へ乗り込んでいくのは、

蜘蛛が張り巡らした巣の中へ自ら飛び込んでいく蝶々のようなものである。

だが、虎穴に入らずんば虎子を得ず、児玉坂の街にいたところで万事が良い方向へ流れることもない。

むしろ沖縄へ行けば犯人の意図がわかるのではないかと明日奈は思っていたのだ。

そして、何よりも自分の大切な仲間たちを自分のせいで失っていくのは耐えられなかったにちがいない。

自分に対して恨みがあるなら、その粛清を受けるのは自分一人で十分なはずだった。

沖縄へ行けば犯人と直接交渉のきっかけもつかめるかもしれないと思っていた。

とはいえ、明日奈にはなかなか決心のきっかけがつかめなかったのだ。

だからこそ、この平々凡々で無能の僕が、こうして彼女の物語を語ることになったのだから。

 

 

・・・

 

 

読者諸君、長らくお待たせしてしまってすまなかった。

いよいよ、ここで僕の登場である。

 

いや、わかっています、自己をわきまえておりますよ。

だが、僕のことを語らずしてこの物語は進まないのだから、

少々のあいだだけ、読者諸君にも僕に関する話を聞いてもらいたい。

何事も好きなことばかり続かないのが人生ではなかろうか、

学校の給食だって好きなおかずばかり食べてはいられないだろう。

最近の子供たちは嫌いな物を無理に食べることはないと言われる世代かもしれない。

だが嫌いな料理が出た時、僕なんかは涙目になりながら口に押し込んでいたものだ。

それは親や先生がそうさせたこともあるし、僕自身が世界の貧しい子供たちに対し、

唯一できる僕なりの貢献、感謝して食べるという方針だったからだ。

おかげで今では嫌いな食べ物が出ても、涙目にさえなれば全部食べられるようになった。

どうだろう、読者諸君も少しは僕のことを見直していただけただろうか?

このようにして、人生とは時には忍耐が必要とされることもあるのである。

だが、ここまで自己を卑下して語る必要が僕にあるのだろうか?

それは、僕の物語を少しでも聞いて、今後の読者諸君の判断を仰ぎたいと思う。

 

 

僕は児玉坂の街に生まれた生粋の児玉坂っ子である。

児玉坂のことなら大抵はなんでも知っているつもりであるし、

この街をとても愛しているので、つまりはこの街の人々にも僕の愛は及ぶ事になる。

 

気持ちの悪い表現だと思った人は手をあげてほしい。

そして、その挙げた手を自己の胸に当て、その気持ちをグッと押し堪えて僕の話を聞いてほしい。

なぜならば、僕が児玉坂の街を好きでいるのはどうしようもない事実だからだ。

 

そして僕はあの「よろず屋」について語らねばならない。

あんなにとんでもない「よろず屋」でありながらも、僕が許してしまうのは、

ひとえに僕がこの児玉坂の街と人々を愛しているからだという説明しかできないのである。

 

あれはちょうど明日奈がラジオ局へ行ったのと同じ日だった。

僕は父に言いつけられた通りにあの「よろず屋」へ足を向けたのだ。

僕の父はこの街でちょっとした不動産業を営んで暮らしている。

何を隠そうこの街の有名なお店の土地を貸しているのは父なのだ。

街の真ん中にある有名店カフェ・バレッタもそうだし、

その向かいにある競合店パティスリー・ズキュンヌも実はそうなのだ。

事細かに話だせばキリがない、僕の父はとにかくたくさんの土地をこの街に持っていて、

それを貸し付けて僕を育ててくれたし、今でもそうして僕はご飯を食べることができている。

そう考えると、僕がこの街を愛するのは必然であるようにも思われないでもない。

 

ただし、自己に対する公平をモットーとしている僕であり、

健全な男子であることを誇りとしている僕であるから、

これらの父の偉業や財産などに関しては一切どうでもいい情報だと思っている。

それはまるで僕の肩の後ろに光り輝く何かに見えることがあるかもしれないが、

よくよく考えると、それは僕自身の重要な資質でもなんでもない。

それはあくまで僕の父がやったことであり、僕自身とは無関係だということで、

僕はそういう余計な肩書きからはフェアーに生きていきたいと思っている。

だからこそ、僕はこれほど自信を持って胸を張りながら自己を健全であると言えるのである。

 

まあいい、読者諸君がわかってくれるかどうかは知らないが、

僕が健全か不健全かという事実はこの物語には関係のないことである。

そろそろ本当に僕の語りに怒りを覚え始めた読者もいることだろう。

とにかく物語の核心部分を追っかけて進もうと思います。

 

 

僕が父に言われて「よろず屋」へやってきたのは他でもない。

このお店が払うべきである家賃を3ヶ月も滞納しているからなのだ。

児玉坂の街は基本的に善良な人々が住む穏やかな街であり、

近頃では少しばかり物騒な事件が街を騒がせるようになったのだが、

元々はこういう怪しい輩が住み込むような街ではなかったのだ。

だが、最近突然にしてこの物件を借りたいと申し出てきた人々がいて、

父は何も考えずにこの建物を彼女たちに貸し出してしまったのだ。

そう、なんとこの「よろず屋」に住んでいるのは何を隠そう女性なのである。

ひょっとすれば、父は彼女のいない僕のことをよく考えた上で、

この建物を貸し出したのかもしれない、そして彼女でも作らせようとして、

この日はこんな場所へわざわざ送り込んだのかもしれなかった。

 

 

僕がその「よろず屋」にたどり着いた時、建物の入り口から正面を見つめた。

お店の正面には木の看板で「よろず屋さゆみかん」と書かれている。

今日は父の代理で来たのだが、とにかく延滞している家賃を払ってもらわねばならない。

僕は心を鬼にしてでも、彼女達から福澤先生を救出しなければならないのである。

なぜなら、僕はそうやって父にご飯を食べさせてもらっているのだし、

こうして大学にまで通わせてもらっているのだから。

 

僕は勇気を持って大胆に、入り口の引き戸を少しだけ開けて中を覗いてみた。

まず敵を知らなければ戦に勝つことなどできないのである。

いきなり踏み込んでいくのは得策ではない、決して僕が臆病なのではないのだ。

 

「あかん、暑い、死ぬ」という微かな声が放たれるのを僕は聞いた。

それはこの建物の一番奥の大きな机から聞こえてきた。

まるで社長が座るような大きな机が部屋の奥に置かれており、

その椅子にもたれるようにして天井を仰ぎながら座っているのがその声を発した女性であった。

確かに室内はクーラーも付いておらず、この真夏日に耐えられる暑さではなかった。

その女性はどうやら、右手に持った扇子で自らを辛うじて扇いで暑さをやり過ごしているようだった。

 

「軍団長、もう8月ですよ」という声が聞こえてきた。

その大きな机の前には背の低いテーブルを挟むようにして長椅子が二つ置かれていた。

その片方にはジャージを着た女の子がちょこんと座っていたし、

反対側にもピザ屋の制服を着た女の子が座って向かいあっていた。

軍団長と呼びかけたセリフはそのジャージ姿の女の子のものであり、

低いテーブルの上に置かれた夏みかんを手に持って遊んでいた。

 

「5月病いつ終わるんですか?」と反対側のピザ屋の制服を着た子が尋ねた。

尋ねたというよりは呆れているという表現の方が正しかったかもしれない。

彼女はおそらくまだ仕事中であり、これからまたお店に戻るのかもしれなかった。

 

「あかん、トト子、アイス買ってきて」と軍団長と呼ばれる女の子が言った。

先ほど二人が問いかけた質問は全く気にしないように別の要件を口にしていたのに僕は驚いた。

これは敵はなかなかに手強いヤツだと僕は気を引き締めながら引き続き彼女達の様子を眺めていた。

 

「もうお金ないですよ」と夏みかんをお手玉のようにしながら澄ました顔でトト子と呼ばれた少女が答えた。

「みりんちゃんに言えばなんとかなるなる」と軍団長は天を仰ぎながらトト子に一瞥もくれずにそう言った。

「みりんは今は出かけてていませんけど」とピザ屋の女の子が困惑した様子で返答する。

「えー、そこにおるやんか」と軍団長は気怠そうに扇子をピシャリと閉じてテーブルの上を指し示した。

そこには将棋の駒で作られたヘアゴムが置かれていただけだった。

その香車と書かれた駒が軍団長の言うみりんちゃんなのだろうか?

それとも、その将棋の駒の形をしたヘアゴムだけで、彼女のアイデンティティーを表すには十分なのだろうか?

 

しかし、それはちょっとやりすぎだと僕は思った。

なんて恐ろしい軍団長なのだと僕は背筋が凍るような思いでその様子を覗いていた。

 

それにしても、どうやらここにいる彼女達はお金を持っていないようだと思った。

鍵を握るのはどうやら「みりんちゃん」と呼ばれている人物(もしくは将棋の駒)であり、

その人物と接触しないことには、どうやら僕のミッションはやり遂げることはできなさそうだ。

 

そういえば、僕はここへ来る前に父から聞いた話を思い出していた。

彼女達はどういう経緯でこうなったのかは知らないが、このご時世に珍しい「軍団」を設立したらしい。

そして、理念としては世界平和を掲げて活動を始めることにしたらしい。

だが、とりあえず何をしたらいいのかわからなかったのか、まず仕事を求めたという。

そこで考え出したのが「よろず屋」であり、要するになんでも屋だった。

頼まれればなんでもやる、それによって報酬を得て軍団を拡大する、

というのが軍団長である勝村さゆみが父に語った事業計画であったらしい。

父はとにかく酔狂な人物であり、児玉坂の土地を盛り上げてくれるのであれば方法は問わない。

面白いものが好きでたまらないのか、この勝村さゆみを高く評価していたという。

だが、結果としては家賃の3ヶ月滞納というものになってしまっている。

それでも父は何も悪ぶれる様子もなく、まあ最初のうちは仕方ないと笑い飛ばしていた。

僕は正直、彼女をどう評価すれば良いのかこの時はわからなかった。

だから僕はとにかく1ヶ月分だけでも家賃を払ってもらうまでは帰るつもりはなかった。

僕は決意を込めて引き戸をガラガラぴしゃりと開放し、その勇敢な一歩を踏み出したのである。

 

 

・・・

 

 

ガラガラぴしゃりの音が建物内に響き渡ると、

さすがの勝村さゆみも物音のする方へ視線を向けたようだった。

僕はその時、初めてこの軍団長の顔を見た。

想像していたよりも美人であった。

 

父から聞いた噂では大阪出身で頭が良くて弁が立つと言うことで、

それだけを頭の中でぐるぐると煮詰めていけば、僕の想像ではとんでもないモンスターになっていたのだ。

髪の毛は紫色に染めていて、大阪のおばちゃん予備軍、飴ちゃんをひたすら配り歩く・・・。

そういう極悪非道なイメージが先行していただけに、この肩透かしは大きなギャップとなった。

 

「蘭々、この人誰やっけ?」と勝村さゆみはピザ屋の女の子に尋ねた。

「勝村さん、忘れちゃダメですよ、ここの家主の不動さんの息子さんです」と蘭々は答えた。

 

そう、僕の苗字は「不動(ふどう)」であり名前は「三男(さんお)」である。

読者諸君には僕が不動家の三男であることがうっかりばれてしまったのであるが、

僕は決して父の会社を継ぐ可能性が低いから「財産などいらない」的な事をうんたら語ったのではないですよ。

あれは本当に僕のポリシーであり、兄達が会社を継ぐなら継げば良いと本気で思っている。

口すっぱくなるほど言うが、健全性だけが僕のアイデンティティーといっても過言ではないのだ。

 

「ああ、そうやった」とヘラヘラした笑みを浮かべながら勝村さゆみは言った。

「どないされましたか~?えらい暑い日にご苦労さんです~」と彼女は続けた。

 

トト子と蘭々にお茶とお菓子を出すように丁寧に告げた勝村さゆみは、

おそらく僕が先ほどから玄関先で状況を盗み聞きしていたとは夢にも思っていないようだった。

おそらく、お金がない事を悟られないように取り繕うに違いなかった。

 

あれは父が先月、こんな風に取り立てにいった時の事だった。

その時にもどうやらこんな感じで5月病を引きずっていたのだ。

勝村さゆみを筆頭とするさゆみかん軍団は、4月にこの建物を借りて看板を掛けた。

しかし、1ヶ月が経過した頃、軍団長はどうしようもない5月病にかかってしまったらしい。

父が取り立てに来た時は7月だったが、「7月病ってのはあれなんです、夏が来るのが寂しくなるんです」と、

「6月病ってのは、ほら梅雨で空が重たなって、なんか気分もどんよりするんです」と説明があったらしい。

父は変わり者なので、そんな説明を面白がって許してしまうのだが、

どうやら去り際に次は息子を寄越しますので、と言って帰っていったらしかった。

僕の顔がばれているのも、おそらく写真か何かを見せた事があるのに違いなかった。

 

やがて僕は部屋の中央の長椅子へ案内されてそこへ腰掛けた。

よく見ると社長の机の後ろには高いところに「世界平和」と習字で書かれた額縁があった。

どうやら理念を掲げているのは間違いないらしかったが、さて8月病とはいかなるものであろうか。

 

トト子と蘭々がお茶とお菓子を持ってテーブルに置いてくれた。

おそらく、なけなしのもてなしを僕にしてくれているのだと思うと、

僕はなんだか切なくなって心の奥底では涙を必死にこらえていた。

しかも、よく見るとこの二人も相当な美人の部類に入る女性であり、

一体この軍団はどうなっているのだろうかという疑問が僕の心に沸いてきていた。

家賃を滞納しても父が住まわせている理由がなんだかわかる気もしてきたが、

僕は健全をモットーとする人間である、心を鬼にしてルールはルールであると言わなければなるまい。

 

「8月病とはどういう病気なのでしょうね?」と僕は意地悪な質問を投げかけてみた。

ニコニコとした表情を浮かべながらも、勝村さゆみの脳内スイッチが入った音が僕には確かに聞こえた。

彼女の頭の中であれこれと小さい勝村さゆみがせっせと働いて情報を運んでいる光景が目に浮かんだ。

だが、何よりも僕が圧倒されたのは、彼女の目には見えないオーラのようなものだった。

彼女には何か、正しかろうか正しくなかろうが、押し通すパワーのようなものを感じざるを得なかった。

 

「あらー、なんのことかしら♡」とひとまず惚けて時間稼ぎに出たようだ。

その間に彼女はおそらく僕のことをじっくりと観察しているように思えた。

僕は頭の中で論理を組み立てていこうとしたが、何となく彼女の雰囲気に飲まれていくのがわかった。

おそらく彼女はあらゆる手を用いてでもこの窮地を脱するであろうことが予測され、

そこまでされたらもうしょうがないというような、不思議な諦念が僕の脳裏をよぎったのだ。

 

「8月病って言えば、夏やし南国でもパーっと遊びに行きたい気分になるやつです」と言う返答。

意外にも明るい話題で悪びれることなく返して来たことに僕は肩すかしをくらった気分になった。

 

「でも、うちらにはそんなお金がないから南国なんか行かれやんのです。

 ああ、かわいそうなトト子と蘭々、ごめんねえ、こんな軍団に入ったばっかりに・・・」

 

打って変わったような泣き落としに入った勝村さゆみはお涙頂戴の場面を展開していた。

顔全体をどんよりと曇らせて、よくもまあそこまで悲しそうな顔ができたものだと思った。

 

「ああ、なんやったら不動さんがうちらを旅行に連れて行ってくれはったらいいのに・・・。

 そしたらかわいそうなトト子と蘭々もやっと人並みの幸せを得ることができるのに・・・」

 

ここまで急スピードで論理が飛躍しているのに、どうして彼女にはNoと言えない雰囲気があるのだろう。

なんだったら僕の財布の中の福澤先生にご相談してみようかという気にすらさせられるようだ。

きっと僕がYesを返したら、今までが嘘だったように満面の笑みになって喜ぶのだろうと思う。

わかっているのだが、それを見てみたいような気持ちにさせられている僕は一体なんなのだろう?

 

だが、僕はそんなことでは負けなかった。

健全にすべし、すべて物事は健全に・・・。

 

「・・・すいませんが、滞納している家賃を1ヶ月分だけでもいいのでお支払いくださいませんか?」

 

僕は率直にそう告げてみた。

すると勝村さゆみは急に真顔になって「みりんちゃんに聞いてください」と言い放った。

僕が何か言おうとすると「お金のことはみりんちゃんに聞かないとわかりません」とさらに被せてきた。

 

「お~い、みりんちゃ~ん、不動さんが呼んでま~す」と言いながらも、

勝村さゆみが話しかけているのはテーブルに乗っている将棋の駒の形をしたヘアゴムだった。

やばいやつだ、間違いなくこれはやばいやつだと僕は確信した。

 

おそらく、こういう人を相手にしては勝利を得ることなどはできないのだろう。

僕が悟ったことは、こういう人間を前にしては敗北を喫するしか道はないのだ。

だが、あえて可愛らしく敗北を喫することで彼女との関係に勝利することはできるような気がする。

これこそまさしく給食に於ける忍耐精神の発揮が求められるのだろう。

耐えて、耐えて、耐え抜くことで敗北もやがて勝利を得ることにつながるのかもしれない。

 

「・・・あの、わかりました、もう結構です」と僕はもう白旗を揚げた。

 

その瞬間、さっきまで憂鬱な表情を浮かべていた勝村さゆみは一変して笑顔になった。

そして跳ねるような声で「なんや息子さんもええ人やったんか~ゆっくりしていってくださいね♡」との事。

 

もしかしたら、これが不動家の遺伝子なのかもしれない。

だがこれだけは言っておく、家賃滞納を許してくれる人が決していい人などではないことを。

 

その時、よろず屋の入り口の扉がガラガラぴしゃりと開いた。

そこに立っていたのは何を隠そう、内藤明日奈と菊田絵里菜、そして将棋盤を持った女の子だった。

 

 

・・・

 

 

ここからはまたしても僕の又聞き話しである。

なぜならば僕が同行していない場面の説明になるからである。

それは他でもない、先ほどガラガラぴしゃりで入ってきた内藤明日奈の事である。

 

ラジオ局を後にした明日奈と菊ちゃんは、

犯人から送られてきた沖縄行きの航空券を持って悩んでいた。

少しだけシェイクスピア風に気取って述べるならば、

行くべきか行かざるべきか、それが問題だった。

 

読者諸君はすっかり僕とよろず屋の話しに気分を変えられてしまっているかもしれないが、

そんな時にも内藤明日奈は一人ずっと苦しみに悩み続けていたのである。

どうか今一度、彼女のトーンに気分を調節してあげてもらいたい。

大切な友人達を次々に失い、彼女は今絶望の淵に佇んでいるのである。

 

菊ちゃんの意見は一貫して「行かないほうがいい」であったらしい。

行ってしまえば犯人の思う壺であり、慣れない土地で戦うよりも、

児玉坂の街で戦ったほうが安全だという考えからだったようだ。

しかし、そうなれば必然的に残された他のメンバーが狙われるのは間違いなかった。

犯人はどうやら明日奈に恨みを持っており、粛清と題して彼女の仲間達を失踪させていくのだ。

菊ちゃんが優しさからそう言ってくれたとしても、自分が行かなければ菊ちゃんだってターゲットにされかねない。

 

元来がそれほど決断力に優れているわけではない明日奈は、

これほど重たい決断を下さねばならない事にすでにクタクタにされていた。

脳は思考力を失い、どうすれば良いのか判断する事もできそうになかった。

そうして帰り道をふらふらと歩いている時に声をかけたのが次藤みりんだったという。

 

みりんはどうやら将棋道場からの帰りに二人を発見したらしい。

さゆみかん軍団の家賃と生活費を稼ぐ為に、みりんは一人でアルバイトをしていたのだ。

最近ではそれを見かねた蘭々もピザ屋のアルバイトを見つけてきたらしく、

二人の仕事が軍団のささやかな収入源となっていたらしい。

みりんが思うに、軍団長はああいう人なので自由にさせておくしかないらしい。

だが、その自由が軍団長に力を与えれば、軍団はひょっとすると大化けするかもしれないと思っていた。

その為には最初は苦労しても自分が支えなければならないと賢いみりんは理解していたのだ。

好きな将棋に関わるアルバイトであれば、まさに王手飛車取りの良案である。

後はまだ仕事をしていないトト子が覚醒してくれればと親心のように願っている。

そしてそれは、おそらく彼女だけではなく、児玉坂の街のみんなの願いであるかもしれなかった。

 

軍団の内部事情はともかくとして。

次藤みりんは内藤明日奈に声をかけたのである。

明日奈は街中で見知らぬ人に声をかけられるなどは基本的に嫌なのだが、

物腰柔らかなみりんの態度には敵意を抱かなかった。

もしかしたら、もはや敵意を抱く力すらないのかもしれなかった。

 

みりんはよろず屋の仕事内容を説明した。

なんでもやります、世界平和を目指してます、お悩み解決します。

そんな風に憂鬱な顔をしているあなたを見過ごすわけには行きませんでした。

もし嫌でなければ少しだけよろず屋に立ち寄ってみませんか。

お気楽な連中と接していれば、少なくとも気分くらいは晴れると思いますよ。

 

同行していた菊ちゃんはかりんの勧誘を何度も断ったらしい。

人の弱みに付け込んで怪しい軍団に関わられるのはごめんだし、

明日奈を守ってあげられるのは今は自分しかいないという責任感もあったのだろう。

 

それでも藁をもすがる気持ちだったのか、夏の熱い太陽が思考力を奪ってしまったのか、

彼女たちはみりんに連れられるままによろず屋までやってきたというわけらしい。

そして、僕が家賃の取り立てに失敗した頃、例のガラガラぴしゃりで入ってきたのである。

 

僕が彼女を初めて見たこの瞬間、何か運命の歯車が動き出した鈍い音を聴いたのだ。

そして同時に、勝村さゆみが何やら叫ぶ声も耳に飛び込んできたのである。

 

引き戸がガラガラぴしゃりと開いた途端、勝村さゆみは猛烈な勢いで玄関まで駆け寄った。

そしてヘラヘラしながらみりんの姿を隠しながら「あかんあかん、みりんちゃん今来たらあかん!」

と言いながらみりんの体を玄関から押し出すようにして何やら騒いでいる様子だった。

 

この軍団長・・・と思いながらも、この時の僕はもう家賃の取り立てなどは眼中になかったのである。

その玄関に佇む憂鬱な面影のある少女のことで何やら頭がいっぱいになってしまっていたのだ。

 

 

・・・

 

 

やがて内藤明日奈は玄関を上がってテーブル席まで通された。

僕が同行してきた菊ちゃんを見たのもこの時が初めてだった。

そして意外な事に、菊ちゃんは勝村さゆみと知り合いだったのである。

だが、彼女がこんなところで仕事をしているとは夢にも思わなかったらしい。

 

菊ちゃんの話によれば、勝村さゆみは以前はフードファイターとして生活していたらしい。

その昔、激辛うどんを食べる対決をした時に彼女と知り合ったという。

その後も何度か会うことはあったのだが、この頃は菊ちゃんも自分の仕事で忙しく、

勝村さゆみの消息などはすっかりよくわからなくなっていたらしい。

 

やがて真ん中のテーブルを挟むように対座する形になった。

片方には勝村さゆみ、トト子、蘭々、次藤みりんのよろず屋の面々で、

反対側には明日奈、菊ちゃん、そしてなぜか僕が腰を下ろす形になっていた。

 

当初、菊ちゃんは「失礼ですが、どちら様ですか?」と僕に尋ねてきて、

それは暗にこの場からの退場を希望していたのかもしれない。

重たい相談事を打ち明けるのに、見知らぬ男性が隣にいるのは確かに不自然であろう。

もちろん、僕もその場にいる必要などはすでになかったのだけれど、

何やら彼女たちに対する好奇心がその場を離れさせなかったのだろう。

勝村さゆみも家賃滞納が後ろめたいのか、それともちゃんと仕事をしてる場面を僕にアピールしたいのか、

「まあまあ、一人くらい増えても関係あらへんあらへん♡」とヘラヘラしながら僕に助け舟を出してくれた。

 

そのようにして、読者諸君に語ったような話の内容を僕は彼女から聞く事が出来たのである。

 

女子会から現在に至るまでの一通りの経緯を聞き終えた時、

僕は本当にそんな事がこの街で起こっているなんて信じられなかった。

父と僕の愛するこの児玉坂の街で次々と女の子達が失踪しているなんてことは。

 

確かに幾つか奇妙な噂はあった。

数年前に突然街の中心に現れたカフェ・バレッタなどは、

店長は全くやる気が無くてずっとヘミングウェイの本を読みふけっていて、

そのお店には何を考えているのか全く読めない女の子がアルバイトとして働いている。

誰に聞いても彼女達の素性を知っている者もいないし、裏で何をやっているのかもわからない。

 

どういうわけかこの頃では悪の怪人達が児玉坂の街を狙ってくるようになっている。

TVで放送されている正義のヒーロー番組では児玉坂の街を守るヒーローが日夜戦っているのだ。

噂によると東京の街の爆破を狙うテロリストが潜伏していたのが児玉坂の街だという話もあった。

 

こんな風に例をあげればキリがないのだが、とにかくこの街ではこの頃、奇妙な出来事が多発しているらしいのだ。

これらは全て僕が父から聴いた情報なのだが、父はこの街の有力者との繋がりがあるので、

その情報というのはかなり確実な情報である事は疑いようがなかった。

 

そして今回の失踪事件。

これも偶然であるとは考えにくかった。

何かしら大きな物が「粛清」という声を荒げながら、

彼女を飲み込もうとしているように僕には思えたのである。

 

話を聴いていたよろず屋の面々も、さすがに重たすぎる話に閉口してしまったらしい。

あの軍団長でさえ、今までに見せた事のないシリアスな表情をしている。

なんと彼女はこういう顔も出来たのかと僕の方が驚かされた。

 

「もう私どうしたらいいのかわからなくって・・・」と明日奈は肩を落としていた。

隣に座っていた菊ちゃんは明日奈の肩を抱いて「そんなに気にしなくても大丈夫だよ」と慰めている。

さすがに僕もかける言葉が見つからず、どうすべきか助言すらできなかった。

 

その時である。

内藤明日奈がなぜか僕に助言を求めてきたのだ。

「ねえ、私どうしたらいいと思いますか?」と彼女は哀願する様子で僕に尋ねたのだ。

 

見ず知らずの僕にどうして彼女が声をかけてきたのだろうか?

こんな健全だけが取り柄の平凡な僕にどうして意見などを求めたのか?

僕はかき乱されていく心でひたすらに考えた。

 

そう、物事というのはこういう単純さなのだ。

例えば街角で捨てられていた子猫を拾って帰ってしまった理由は、

ダンボールの中にいた子猫と目が合ってしまったからなのだ。

そこにペットを飼う為に必要な餌代とか場所とか時間とか、

そういう諸々の付随する本質は抜け落ちてしまうものなのだ。

そして人間とは、その無邪気な子猫の瞳だけが全てなのだ。

自分が必要とされるという事実、それが僕の存在意義を急速に形成し始めた。

人は自分の為に生きるよりも、誰かの為に生きていたいのだ。

そして、誰かの為に生きる事こそが、自分を生かす最大の良薬なのだ・・・。

 

「・・・一緒に・・・沖縄に・・・行こう!」

 

僕は明日奈の手を握りながらそれだけを呟いていた。

とても健全な瞳だけを彼女へまっすぐに向けながら僕は思っていた。

 

僕が行かなきゃ誰がいくんだ?

 

 

 

・・・

 

そうして僕達は沖縄へやってきた。

総勢9名の大所帯でこの南国の空の下へやってきた。

 

どうしてこれだけの大人数になったのか、

賢明な読者諸君にはもうお判りだと思われるが、

その一部始終を説明しておきたいと思う。

 

それは僕が明日奈の手を握って沖縄行きを訴えた直後だった。

間髪入れずに話を持ち上げてきたのは勝村さゆみだったのだ。

「ああ、不動さん、なんて心強いお言葉なんでしょう!」

 と言いながら勝村さゆみは両手を交差して祈るようなポーズをしていた。

「こうなったら乗りかかった船ですよね、このよろず屋もお力にならせてもらいます!」

 

その場にいた一同が目を丸くしながら勝村さゆみを見つめていた。

どうやらよろず屋のメンバーも彼女の真意を理解しかねているようだった。

 

後で塾考してわかったことだが、どうやら彼女はこの事件をよろず屋で解決して手柄にしたいようだった。

明日奈のような少女から多額の相談料を受け取れない事は彼女も理解していたのだが、

これはどうやらそんな小さな報酬を目当てにしているようではなかったのだ。

これほどの大事件を、よろず屋で解決したという噂が立てば、それは莫大な広告費の節約になる。

要するに今後、このよろず屋を訪ねて相談を持ちかけてくるお客が増えるだろうという算段なのである。

 

だが、これほど危険な事件に首をつっこむリスクは考えなかったのだろうか?

おそらく、勝村さゆみはよろず屋のメンバーが狙われるリスクは少ないと考えたのだ。

失踪の標的となっているのは女子会に参加したメンバーだけであり、

よろず屋のメンバーには粛清の対象となる理由などは何もなかったからだ。

彼女にとってこれは、大きな手柄を立てるチャンスであるとともに、

貧しい軍団の不満を解消するガス抜きの意味合いを含む南国ツアーを得る機会だったのである。

 

よろず屋のメンバーは何やら後ろを向いてヒソヒソと内緒話を済ませた後、

みんなしてこちらを振り向いて祈るようなポーズで哀願するようにこう言った。

 

「不動さん、この事件を解決できたら、きっと巨額のお金が手に入ります。

 そしたら溜まっている家賃を支払えるだけでなく、もっとどえらいことになります。

 よろず屋で豪邸を建てることだって夢やないはずです、その時は不動さんの土地をまた借ります。

 そんで、レジャー施設として『さゆみかんランド』という夢の国を一緒に作りましょう!

 その折には、なんやどこぞのネズミのキャラクターとかには負けやん、

 可愛いみかんのキャラクターもデザイナーさん雇って描いてもらいます。

 そう考えたら、どうですか、沖縄へ行くのなんてはした金やと思いませんか!?」

 

先ほど、僕が菊ちゃんから退場をほのめかされた時に助け舟を出してくれたのはこういうことだったのだ。

彼女は何かあった時に僕をスポンサーとして利用しようと企んでいたに違いなかった。

そして、まんまと彼女が差し出した助け舟に乗ってしまった僕は、

彼女に言わせれば乗りかかった船でしょうという論法に巻き込まれてしまったのである。

こうして子猫を一匹拾った僕は、野良猫4匹も共に連れて帰る事になってしまったのだ。

 

そして僕の財布の中身は竜巻に巻き込まれたのである。

何十人もの福澤先生が、沖縄へ旅立つ僕を成田空港で見送ってくれるのを見た。

おそらくそれは僕以外には見えていない幻影であったに違いなかったが、

僕には間違いなく見えていたのだ、だから先生達に僕は涙を流しながら手を振ったのだ。

だが、その姿はどうやら坂田花沙によって見られていたようで、

かすかに後ろから「え~、なにあれ、気持ち悪い」という彼女の声が僕の耳に聴こえた気がした。

 

 

・・・

 

 

さて、ようやく沖縄に辿り着いたのだろう。

そしてここからは南国の空の下で物語は進むのだろう。

 

ところがどっこい、もう少しだけ語らなければならないことがある。

いや、僕的にはそろそろ語り疲れたのでもう省略したい気もするのだが、

この場面は読者目線で考えるとおそらく語らねばならない部分である気もする。

 

それは飛行機の中での僕の悪夢である。

いや、僕は眠っていたのではない、むしろ一睡もできなかったのだ。

 

沖縄へ向けて成田空港を飛び立った飛行機の中で、

僕達はまるで夏休みのツアー旅行であるように過ごしていた。

いや、正確に言えば明日奈はずっと憂鬱な表情を浮かべていたのだが、

隣に座っていた南野きな子が励まし続けたので多少はマシになっていた。

 

9人の座席順は2人席と3人席に振り分けられていて、

2人席にはそれぞれ内藤明日奈と南野きな子、勝村さゆみと次藤みりんが座っていた。

3人席には寺屋蘭々と坂木トト子、その横は空席になっていて、

もう一つの3人席には坂田花沙、菊田絵里菜、その横には僕が座っていた。

 

先ほども述べたように、明日奈はきな子に励まされていたし、

よろず屋のメンバーは旅行雑誌を見ながらすっかり夏休み気分であった。

僕は当初、女子ばかりの座席に割り込むことすら罪悪感を感じていたので、

さっさと窓際の席で寝てしまおうと考えていたのである。

その方が彼女達の邪魔をしなくて済むし、健全に過ごせるだろう。

 

僕の隣にはあの天才ピアニストの菊ちゃんが座り、

それはちょっとある意味でドキドキが半端ないものだった。

児玉坂で誰もが知ってる有名人と席が隣になるなんてことが、

僕の人生に起こったことが奇跡すぎて信じられなかったくらいだ。

 

だが、菊ちゃんもさすがに見知らぬ男の人の隣で落ち着かないだろうから、

僕はさっさと寝たフリをして気を使わせないように努めることにした。

まるでそこに存在しないかのように空気を消すのが僕の得意技なのである。

最初は僕に遠慮をしていた彼女も、反対側に座る花沙と楽しそうに会話を始めたので、

これで万事が平和に解決したと僕は一人で思い込んでいたのである。

 

だが、そうは問屋が卸さなかった。

菊ちゃんがうるさくて眠れないのである。

 

そういえば何かのTV番組で見たことがあった。

天才ピアニスト菊田絵里菜とバスで横の席になると眠れないと。

それを実際に体験することになったなんて、

彼女のファンからしたら「不動、そこ代われ」もいいとこである。

だが、残念ながら飛行機は飛び立ってしまっている。

僕は誰とも席を代わることもできないのであった。

 

菊ちゃんはやがて「沖縄の歌」を創作して歌い始めた。

反対側の花沙もそろそろうんざりし始めた頃のように思えた。

「青い海~白い砂浜~サトウキビ畑~」と何やら連想ゲームのような歌詞だが、

どうしたことだろう、歌声は澄み切っていてとても美しかった。

こんな近距離で賛美歌のような歌声を聞けるなんていうのは、

きっとこれも福澤先生達のお力添えのおかげであったに違いない。

この歌声も航空券代に含まれているのなら安いものかもしれなかった。

 

僕は窓際の席で目を瞑りながら、初めて天才の歌声を生で聴いた。

彼女は隣の席で声を上げながら、初めて凡人のつまらない寝顔を見ているのだろう。

だが、ある意味でこれはとても健全であった。

まるで小学生の遠足旅行くらい健全な風景であっただろう。

のびのびと自由に歌う女と、うるさくても文句を言えない小心者の男。

人間は大人になっても、子供の頃と本質的には何も変わらないのかもしれない。

 

やがて僕はどうしても眠れなくなった。

目を閉じて眠ったフリをするのに幾分疲れ果てた。

そこである名案が思いついたのである。

菊ちゃんの歌声を聴いていると、そういえばあの女子会の光景を思い出した。

明日奈から聴いたあの女子会の話しだが、そういえば彼女達はどう過ごしていたのだろうか?

明日奈があまり語りたがらない話しもあったのだし、複数人から話を聞いてみるのも悪くないと思った。

 

僕は思い切って気配を復活させ、眠ったフリを解いて菊ちゃんに話しかけた。

さっきまで空気のように存在を消していたのに、さすがに親しくない男の人が隣にいると意識したのか、

菊ちゃんも少し申し訳なさそうな顔をして謝罪の言葉を口にした。

こういうところは、やはり良識のあるお嬢様なのだなと思った。

 

僕は明日奈の話を聞いてから気になっていた点をいくつか確認してみた。

菊ちゃんがバレッタとズキュンヌで買い物をしていた時に何か不審な事はなかったか、

明日奈が語りたがらなかったプレゼント交換会はどのような様子だったのか、

カラオケ大会が終わって明日奈が眠っている間、彼女は何をしていたのかなどなど。

 

自分で買いにいくのは初めてだったというバレッタだが、

菊ちゃんが見る限り何も怪しい事はなかったという感想であった。

アルバイトの女の子が「塩アイス」を猛プッシュしてきたこと以外、

それほど奇妙な点は見られなかったということだった。

 

ズキュンヌでは約束していたタルトを受け取ったのだが、

そこの名物店長が「私も女子会参加したい♡」と訴えてきたのを軽く無視したくらいで、

その他には特に何も特筆すべき事などはなかったということだった。

 

明日奈が話してくれなかったプレゼント交換会については新しい発見があった。

どうやら彼女が進んで話してくれなかった理由は、やはり彼女がプレゼントをもらえなかったかららしい。

プレゼントが貰えそうな人を選んで名乗りでなければならないこの企画で、

明日奈はきな子と舜奈を選んで名乗りを上げたという事である。

だが、二人とも別の人にプレゼントをあげてしまったということらしく、

なんと明日奈はそれがあまりのショックで泣いてしまったということらしいのだ。

彼女は誰もが想像していた以上にメンタルがボロボロになってしまい、

後ろ姿も切ないほどに惨めな雰囲気を醸し出していたという事らしい。

涙を流すことは相当に疲労するので、それならば後に彼女が眠ってしまったのも合点が行く。

 

プレゼント交換会が終わった後、彼女は拗ねた様子で一人離れたカウンターで読書を始めたらしかった。

おそらく読んでいた本は、あの日持っていた貫井徳郎の「乱反射」だろうと思う。

この場面は明日奈の証言からは得る事ができなかったので貴重な情報だった。

 

やがて離れに行ってしまった明日奈をみんなでなだめながら、

いつの間にかカラオケ大会へと進んでしまったようだ。

もちろん、口火を切ったのは菊ちゃんであり、彼女自身も盛り上がってからは何を歌ったのか、

語ってはくれたがうろ覚えの部分もあったようで記憶は確かではなかった。

 

僕は思い切ってあの「なぞの落書き」について尋ねてみた。

カーテンの裏まで伸びた赤文字の落書きについて彼女は何か知らないだろうか?

だが、僕の努力もむなしく、彼女はどうやらカラオケが終わるとすぐにお店を離れたらしかった。

仕事のスケジュールを縫って参加した女子会だったようで、彼女は遅れてきて早めに帰ったのだ。

その申し訳無さもあって、彼女は手土産として塩アイスとタルトを差し入れたのだろう。

こういう風に考えると、菊ちゃんの行動は極めて真っ当であり納得できるものだった。

 

今回の沖縄の件も、当初は反対を表明したのも菊ちゃんだった。

おそらく、自分のスケジュールを合わせるのが難しい事も要因として考えられたが、

結局は行く事になれば何とか忙しい合間を縫って同行してくれたのだ。

そういう意味ではとても友達思いであり、僕には彼女を疑う余地など考えられないのだった。

 

 

・・・

 

 

那覇空港に到着した僕たちは、近くのレンタカー屋で予約してあった車を借りた。

またここで僕は福澤先生とのお別れを経験することになる。

いや、別に僕は吝嗇家なのでは決してない。

ただ、この福澤先生とのお別れは必然性のあるものなのか、

それだけがどうしても解せないのである。

 

本当は明日奈達だけであれば小さな車で十分だったのだが、

総勢9名になってしまった事で、僕はミニバスを借りなければならなくなった。

フォルクスワーゲンの白と水色のツートンカラーのタイプで、

少しレトロな雰囲気を感じさせる車輌であり、

大人数の荷物が多すぎて入りきれなくなったので車の上にくくりつける羽目になった。

 

フォルクスワーゲンのミニバスは、僕の運転でまず一同をホテルへ運んで行った。

天気は絵に描いたように快晴で、太陽の日差しを遮るものさえあれば、

風が優しく体を吹き抜けていくのは大変に心地良くて気分がよかった。

何より、これほど多数の女性と南国に旅行へ来ているのだ。

これ以上何を贅沢を言う事が僕に許されていただろうか?

 

ホテルに到着したバスを降りた彼女達は、

明日奈を除いてはとても楽しそうにホテルへと向かった。

おそらく、こんな清々しい南の島でまた自分が失踪に巻き込まれるなどと、

誰も夢にも思っていないのだろう、特によろず屋のメンバーはそうだった。

彼女達は棚から牡丹餅であるこの旅行を限界まで楽しんでやろうという気配が感じ取れた。

誰でも他人の金で遊ぶ旅行やご飯は愉快痛快、格別なものである。

 

チェックインを済ませた一行は、少しばかりホテルで休憩することにした。

手に入れた沖縄行きのチケットでやってきたのはよかったが、

よく考えると犯人を捜す手掛かりは何も得られていないのだ。

下手に捜索をするよりも、移動してきた疲れを取るほうが賢い選択である。

特に、僕は飛行機でも一睡もしていないし、ずっと車の運転をしてきたのであるから。

だが、そんな僕の苦労を誰一人わかってくれそうな人は見当たらなかった。

 

彼女達が部屋で荷物などをまとめている間、僕は一人で聞き込み調査を開始した。

ホテルの従業員と世間話をするように見せかけて、何かこの辺りで最近おかしな出来事はないか、

児玉坂の街との接点のようなものを探そうと考えたのである。

あるいはここでも失踪事件のような出来事が頻発しているようであれば、

おそらく沖縄が犯人達のアジトであるという可能性が高まってくる。

 

だが、僕は聞き込み調査から何一つ有力な情報を得ることはできなかった。

沖縄は今年も平和で、たくさんの観光客によって賑わっているだけだった。

児玉坂との関連を感じたニュースは、人気アイドルグループである児玉坂46の新曲MVが、

ここ沖縄の海で撮影されていたらしいという話だけだった。

「水着で撮影されている」などというデマがツイッターで出回ったらしいが、

蓋を開けてみればそんなことは全然なかったということらしい。

いかに人々の噂話がいい加減なものであるかということがわかる話だ。

ましてや水着など、不健全きわまりなくて僕は好かない。

児玉坂はいつまでも健全であってほしいというのが僕の切なる願いである。

 

まあとにかく、そんなことは今回の事件に関係あろうはずがない。

僕は何も得られなかったに等しく、がっくりと肩を落として聞き込みを終了した。

 

休憩を終えた後、これから僕たちがどこへ向かうのかはわからないが、

とにかく男の僕が地理を頭に入れておくべきだと考えつき、

ホテルのカウンターで観光用の地図を一枚入手しておいた。

それを広げながら有名な観光地や綺麗な砂浜などを一通り確認し、

どんな事態にも対応できるように備えておくことにした。

平凡な僕でもできる、男としての嗜みである。

 

ホテルのロビーで一通り眺めて見たものの、

実際の光景を眺めてみるのが一番だと考えた僕は、

百聞は一見に如かずと言いながらエレベーターで屋上を目指した。

たどり着いたホテルの屋上は、看板を後ろから支える骨組みや、

エアコンの室外機のような物がむき出しになって置かれている殺風景な場所で、

一般の宿泊客が景色を見るためにでも訪れるような場所ではなかった。

僕もあまり多くを期待せず、頭に入れた地図と景色を確認すれば、

それだけですぐに部屋に戻ろうと考えていた。

 

だが、僕は思わず建物の陰に身を隠してしまった。

屋上の真ん中にはなぜか椅子が置いてあり、

そこには内藤明日奈が座っていたからである。

 

サンダルかスニーカーかわからないが、とにかく履いていた靴を脱いで、

椅子にもたれながら何やら一人でボーッとしている様子だった。

だが、僕がその時に思わず身を隠してしまったのは他でもない、

彼女の背中に翼のような物が生えているのを見てしまったからであった。

その様子は、まるで鳥が羽を伸ばして休んでいるかのような光景であり、

しかし彼女は遠くから眺めていてもまるで天使のように美しかったのだ。

 

僕はよく晴れた空の真下で、悠々と流れていく雲を横目に、

喉を通り過ぎる音が鮮明に聴こえるほどに唾を飲み込んでいた。

ここまで彼女にまつわる失踪事件を追いかけてきたのであるが、

よくよく考えてみれば、僕は彼女自身のことをまるっきり知らなかった。

彼女は一体何者なのであろうか、粛清の対象になるような、

何かそういう過去を背負っているような人間なのだろうか。

いや、それよりもまず、彼女は本当に人間なのだろうか。

その眩しい翼を見ていると、まるで人間界に舞い降りた天使のようにすら思えてきた。

 

流れていく白い雲が太陽を隠してしまい、屋上には涼風が吹き付けてきた。

僕の頬を打つ柔らかい風は、同じように彼女の黒い髪と背中の翼を揺らしていた。

次の瞬間、また雲から顔を出した太陽に僕たちは照らされていった。

その眩しさに一瞬だけ目を伏せた後、また明日奈に視線を戻したのだが、

その時にはもう彼女の背中にあったはずの翼は跡形もなくなっていた。

いや、むしろ、今となっては僕が見た物が真実だったのか幻想だったのかすら確信が持てない。

 

僕は思い立って彼女の方を目指して歩いて行った。

彼女は僕が歩いてくるのに気がついた様子で、脱いでいた靴を履いて立ち上がった。

 

しばらくの間、僕と彼女は何も言わずに見つめ合っていた。

翼を見られてしまったのかと、彼女はきっと考えているに違いなかった。

僕もその翼の事について真実を彼女に問いただしたかったのだが、

どんな風に切り出して良いかわからず、僕はただ黙り込むしかなかった。

 

「海、好きじゃないんですよね」と明日奈は小さな声で切り出した。

どうやら暑いところは好みではないらしく、どうして自分をこんなところへ連れ出したのか、

犯人の意図が全くよくわからないといった様子だった。

 

「夏が絶望的に似合わないんです」と彼女は続けてそう言った。

おそらく僕も彼女も、どちらかというと内向的であって、

図書館なんかでひっそりと読書をして過ごすのが夏の在り方なのだろう。

 

「どうして私なんだろう・・・」と彼女は独り言のように言った。

それは沖縄へ来なければいけなかった自分のことを言っていたのか、

それとも別の意味があったのか、僕にはさっぱりわからなかった。

だが、彼女はなぜか僕にそう尋ねたのだ。

それが僕の存在意義であり、ここにやってきたすべてだった。

 

正直なところ、沖縄まで一緒にやってきた彼女達は誰もが素敵だった。

誰もが僕には眩しいほどで、花にそれぞれの美しさがあるように、

彼女達にはそれぞれ特有の美しさや魅力が咲き乱れていた。

明るい花もあれば、派手な花もあった。

静かな花もあれば、渋めな花もあった。

どの花も誰にも負けない個性を持っていたし、

花屋の店先に並べられたなら、きっと多くの人に愛される花になっただろう。

どの花を買って帰って窓辺に飾ってみても、

僕にはもったいないくらいに部屋を飾ってくれるだろう。

 

明日奈がいった「どうして私なんだろう・・・」への僕なりの返答としては、

それは何かご縁のようなものとしか言い表すことはできない。

細かく難しく考えれば、お互いの共通点などもあるかもしれないし、

見た目とか、性格とか、様々な要素が考えられもするのだが、

僕が思うに、僕が沖縄にやってきたのは結局のところ何かのご縁なのだと思う。

それは彼女がこれほど平凡な僕に助言を求めたという事実であり、

それによって何の刺激もない大学生活を送っていた僕に、

これ以上ない刺激的な夏をプレゼントしてくれた事実なのだ。

 

沖縄にやってきた誰も気づいてはいないけれど、

今年の夏はいつもの夏とはまるっきり違っていたのだ。

この日差しの強さだとか、花の色の鮮やかさとか、

どこかに忘れていたような甘さが僕の胸の中にあった。

 

「・・・大丈夫だよ、夏、似合うよ」と僕は思わずそう無意識に呟いた。

それから僕と彼女は視線が交錯するのがわかった。

彼女は僕の健全な瞳を見つめながらこちらに近づいてきた。

「・・・不動さん」と呼びかけられて、僕は思わず呼吸を忘れてしまった。

 

 

「・・・アイス食べたいです」と明日奈は僕にそう告げた。

僕は思わず耳を疑ったが、無意識に「・・・何アイス?」と尋ねていた。

「濃厚生クリームソフト食べたいです」と彼女は具体的に述べた。

 

僕はこの時、命の次に欲しいものが濃厚生クリームソフトだった。

先ほど見た翼がなんだったのかも忘れてしまい、

僕は気付いたら近くにあるコンビニへ向かって駆け出していた・・・。

 

 

・・・

 

 

近くのコンビニで無事に濃厚生クリームソフトを入手した僕は、

アイスが溶けないうちにホテルに戻って明日奈に渡そうと思った。

だが、彼女はもう屋上には見当たらず、部屋に戻ってしまったのかもしれなかった。

 

明日奈を訪ねて彼女達の部屋を当たってみたが、ドアを開けたら南野きな子に睨まれた。

「何か用ですか?」と野獣のような顔でこちらを警戒しているようだ。

確かに、女子の部屋に男が訪ねて行くのは、いかんせんこれは不健全だった。

 

そのうち、残念無念でアイスは南国の暑さに溶け始めてしまい、

僕は仕方なく健全な形で自分でそれを食べて処分することにした。

クリームソフトは確かに濃厚で、ぜひ彼女に食べて欲しかったのだが。

 

その後、僕も自分の部屋に戻ってしばし休息をとった。

とは言っても、男子が一人なので部屋はもちろん一人部屋であり、

窓から見える綺麗な景色も、一人で見る分には何も面白くなかった。

何より、せっかく沖縄に来たのに、休憩していても何も始まらない。

 

僕はもう一度、女性陣の部屋をノックしてみた。

ドアを開けてくれたのは坂田花沙であり、それ以外は誰もいないようだった。

「どうしたんですか?」と花沙は僕に訝しげに尋ねた。

僕も誰もいない部屋に押し入るわけにはいかないので、

そろそろみんなで集まって今後のことを話し会いたいと正直に告げた。

「それはいいんですけど、みんな今ちょっと買い物に出てるんですよ~」とは花沙の返答。

僕は彼女に頼んで、買い物が終わったらロビーに集まって話をしたいと伝えてもらった。

花沙はLineで僕の意思を伝えるようなメッセージを送ってくれたようだった。

 

花沙は特に用事もないようだったので、思い切って彼女を誘ってロビーに出た。

先に二人で話をして待っていても、部屋の中にいるわけではないので、

それは僕のポリシーが守られると考えたのであった。

何より、僕もこれ以上は退屈に耐えきれなくなってきていたし、

花沙もそろそろ、一人で携帯ゲームをするのにも飽きたらしい。

沖縄まで来て携帯ゲームをこれ以上極めても仕方ないので、

彼女も少し誰かと話しがしたかったのだろう、僕達は一緒にロビーへ出ることにした。

 

だが、正直なことを言うと、僕は花沙と二人きりになったことで若干の緊張があった。

それは成田空港で「え~、なにあれ、気持ち悪い」と言われたことを引きずっているわけではない。

もちろん、花沙は割と正直なタイプなので毒をまともに喰らうと僕のような小心者には致命傷を受けるのだが、

彼女はとても活発な女の子であり、会話を引っ張るのが上手なので気まずい空気にはなりにくい。

彼女達の様子を観察してきた僕としては、彼女は時に自虐的な姿を見せることはあるのだけれど、

それを除けば、彼女自身は普通に愛嬌のある美人というタイプである。

 

では僕が何にそんなに怯えているのか。

読者諸君にだけ正直に話しをしようと思う。

僕は今回の事件の犯人が彼女ではないかという疑いが脳裏に浮かんで離れないのだ。

 

僕が組み立てた論理はつまりこういう風である。

「Bar Kamakura」のなぞの落書きに端を発した今回の事件だが、

カーテンの裏に続く赤文字で挑発的なメッセージを送れるのは、

外部の犯行と考えるにはいささか難しい点が多い。

もちろん、女子会が終わった後、お店は通常営業を行ったのであるから、

その隙に誰かが客として侵入してあの落書きを残した可能性は否定できない。

しかし、明日奈の話しから推測するに、あの場所は普段は椅子の後ろに隠されており、

通常営業の時にはもう椅子の配置は元に戻されていた。

つまりあの場所に落書きを書くのは不可能ではないにしても難しいと思われるのだ。

 

そうなると、つまりこの事件は内部の犯行である可能性が高くなってくる。

女子会に参加したメンバーで、全てを知り尽くした人物がいて、

誰にもばれないようにあの落書きを壁に書いたのだと僕は睨んでいる。

そして、恨みがあるのか目的はよくわからないが、とにかく明日奈に粛清をしようとしているのだ。

そう考えた時、残された女子会のメンバーが犯人である可能性が高くなる。

 

飛行機の中で菊ちゃんに話しを聞いたのは偶然ではなかった。

僕はこういう事を考えながら暗に彼女のアリバイを探っていたのである。

なぜならば、彼女はアイスやタルトを持ってきた人であり、

その中に睡眠薬のような物を入れる事さえ自由にできる立場だったからだ。

だが、話を聞いている限り、菊ちゃんが犯人ではないと思えた。

それはあのなぞの落書きを書くタイミングが彼女にはなかった気がするのだ。

彼女はカラオケが終わると、次の仕事があったので早々にお店を後にした。

明日奈の話しでは、あの落書きがされたのはみんなで写真を撮った後であり、

おそらくは明日奈が眠ってしまっていた期間を狙って書かれた可能性が高い。

 

そこで行くと、明日奈が眠っていた間、南野きな子も眠っていたのである。

見たところ、彼女が犯人である可能性は僕にはほとんど考えられない。

きな子は明日奈と仲良しだったし、失踪した舜奈や木芽香とも仲が良かった。

そして何よりも、彼女がこんな手の込んだ事件を画策するはずがないと思えた。

犯人はおそらく知能犯である、そして隣にいる花沙からはインテリジェントな香りが匂ってくる・・・。

 

 

・・・

 

 

ロビーに出た僕と花沙は豪華なソファーに腰掛けて横並びに座った。

この位置からはホテルのカウンターや入り口も見渡せる事もあり、

周囲の状況に注意を払いながら話しをする事ができると思った。

 

僕はカウンターの従業員に頼んで飲み物とデザートを用意してもらった。

特に優れたホテルでもないので、それほど特別なデザートがあるわけではなかったが、

甘い物が好きな彼女の趣味に合わせることで油断させようと思ったのだ。

そして美味しい物に目が眩んだ時、ポロリと本音をこぼしてしまうかもしれない。

僕はそんな風に考えながら震える指先を抑えながらメニューを指差して注文した。

 

ソファーに戻って座って待っていると、やがて飲み物とデザートが運ばれてきた。

南国特有のフルーツ味のジェラートと紅茶が花沙の前に、

特に何の変哲もないブラックコーヒーが僕の前に差し出された。

彼女はあまり面識のない僕には気を許さなくても、

さすがに大好きなスイーツを目の前にしては幾分気が緩んだようだった。

僕は冷静さを保つためと、大人の男を演出するために無糖のコーヒーを選んだ。

別にブラックコーヒーの味が好きなわけではなかった。

大学生である僕には一緒にスイーツを食べることも確かに魅力的ではあったが、

この場面ではふさわしくない、健全に物事に対処するためにはここはコーヒーがマストアイテムだった。

ただ、カフェインが脳に作用してクリアな精神を保つことができるようにと思ったのだ。

 

しかし、この時ばかりはさすがに健全すぎた僕の人生を憎まずにはいられなかった。

僕は滅多にこんな風に女性とスイーツを選びながら話しをする機会を持ったことがなく、

しかもよりによって犯人はこんなに美人だときていた。

飛行機で無邪気に歌っている美人ならともかく、スイーツを食べながら語らう美人は少々苦手な部類に入る。

こんな緊張感を高めるようなシチュエーションにしてしまったことを我ながら少し愚かだったと思う。

 

僕はそんな照れを隠すようにコーヒーカップを口に近づける。

そしてちらりと横目で花沙の方を見つめると、偶然にも目が合ってしまった。

僕は思わずコーヒーを吹き出しそうになりながら、慌てて手で口元を抑えた。

まずい、さすがに知能犯なだけあって彼女には全身から余裕が溢れていた。

逆に僕はと言えば、自らの譲れないポリシーゆえに自らの首を絞めてしまっている。

このままではまずい、会話の主導権を握られるだけでなく、またキモいやつだと思われてしまう・・・。

 

「うちに何か聞きたいことあるんですか?」と意外にも花沙の方から切り出してきた。

僕は肩すかしをくらったように、とても無様にこくりと無言で頷いた。

そして「女子会の・・・」と言い出した時、彼女は僕の気持ちを推し量るようにして、

彼女自身の口でその当時のことを雄弁に喋ってくれたのである。

 

 

・・・

 

 

彼女の話してくれた内容を要約してみると、僕には益々わからなくなってきた。

まず、残念な事に今まで他の人に聞いた話し以上に新しい発見は見つからなかったのだ。

花沙は女子会の最中、特に目立った動きをしていたわけではない。

菊ちゃんの買ってきた塩アイスとブルーベリータルトに興味を向けた以外、

プレゼント交換では明日奈と違って他の人のプレゼントをちゃんと貰えたという。

カラオケでは中森明菜の「Desire」を歌ったという事で別におかしい点はなかった。

 

明日奈が眠っていた時、何をしていたのかという質問に対しては、

各々が好き勝手な事をしていた時間だったということで、

北条真美と三藤舜奈は片付けをしていたし、木芽香もそれを手伝っていたという。

菊ちゃんは仕事の為に先に帰ってしまっていたし、明日奈ときな子は眠っていた。

そして、肝心の花沙はビデオカメラを回して寝顔の撮影をしていたという。

その動画は手元にはないが、自宅にビデオカメラがあるのでそこに証拠があるという。

壁の落書きについては、自分は全くよくわからないし書くはずもないということだった。

 

僕は情報を整理すればするほど混乱してくる現状に多少イライラしていた。

彼女が犯人だと決めつけてこの機会に辿り着いただけに失望は大きかった。

何が何だかわからなくなった僕は、内藤明日奈に何か恨みはないかと、

今考えると恥ずかしいほどに直接的な疑惑の目を含んだ質問をしてしまった。

 

彼女の返答は、明日奈に恨みを持つほど会う機会はないということで、

確かに彼女は児玉団で明日奈とつながりを持っているものの、

バンド活動以外でそれほどいつも一緒にいるタイプではなかった。

彼女はおそらく別に帰属集団を持っていたし、それは話しに聞く所では、

パティスリー・ズキュンヌの店長やその友人達であったようだ。

 

恨みを持つという意味では、南野きな子の方が可能性はあるのではないかと花沙は言い出した。

一見仲良しに思える関係でも、女同士というのは目に見えないライバル関係もあるものだ、

男の子が思っているよりも、女子って色々と面倒なんだよと、花沙は優しく諭してくれた。

健全すぎて女子の気持ちなどわからない僕には、もうこれ以上は花沙に探りを入れる事に限界を感じた。

 

後はみんなが集まってくるまでの間の雑談になった。

せっかく沖縄に来たが、どこか行きたい場所はないか、食べたいものはないか。

花沙は肉や魚があまり好きでないらしく、こんな風に沖縄特有のスイーツが食べたいらしい。

そういう意味ではこうして喜んでくれたのだから良かったのかもしれないと僕は思った。

僕の財布はすっかり彼女達に握られてしまったような気もしたが、まあそれは良しとしよう。

 

花沙は行きたい場所として児玉坂46がMVを撮影した場所に行ってみたいと言った。

僕が先ほどホテルで聞き込みをしていた時に得た情報を、彼女はすでに知っていたのだ。

どうやら彼女はかなりのアイドルヲタクらしく、「オ」ではなく「ヲ」だと僕も注意されたほどだ。

新曲のMV撮影地として沖縄が使われ、花沙は是非ともその場所が見てみたいらしかった。

今回の旅行でそんな時間を取る余裕があるかどうか僕にはわからなかったのだが、

「行けるといいですね」と答えておいた、花沙も好きな事の話しだと無邪気に笑ってくれた。

 

 

やがて買い物から帰ってきたメンバー達がロビーに集まってきた。

勝村さゆみと一緒に戻ってきたトト子が「あれ、花沙さんどうしてここに?」と駆け寄ってきて尋ねた。

今回の旅行で初めて知り合ったはずなのに、もうこんなに仲良くなっている事に僕はいささか驚いた。

本当に女子の気持ちはわからないし、僕には推測しようもないものなのかと自信をなくしかけた。

よろず屋のメンバーの蘭々も明日奈と一緒に戻ってきた所を見ると、

ピュアの塊のように見える彼女達に、本当に恨みなど持つものがいるのかさえおぼつかなく思え始めた。

やがてきな子と菊ちゃんが戻ってきてほとんどのメンバーが揃ったところで異変に気がついた。

「あれっ、みりんちゃんは?」と勝村さゆみは何気なくトト子に尋ねた。

「菊田さんと一緒じゃなかったんですか?」とトト子は菊ちゃんへ視線を向ける。

「ううん、私はずっと一人で行動してたよー」と菊ちゃんは返答する。

僕はしまったと思った、バラバラに行動する事は何よりも危険な事だったのだ。

どういうトリックを使っているのかはわからないが、犯人は参加者を一人一人消していく・・・。

 

 

・・・

 

 

僕はずっと犯人を花沙だと断定してしまっていた。

それが今回の落とし穴になってしまったのだ。

集合したメンバー達は複数人で行動している事が多かったが、

どうやら菊ちゃんときな子は一人で行動していたらしいし、

結局、そのまま戻る事はなかったみりんも単独行動をとっていたみたいだ。

 

蘭々がみりんの携帯に電話をかけた時、電源が入っていないという録音メッセージが流れ、

顔色が変わってしまったのは意外な事に勝村さゆみだった。

焦点が定まらないような表情で、トト子に肩を揺すられてもいつもの陽気さはなかった。

 

同じようにショックだったのは僕も同じだった。

まさかここへきてよろず屋のメンバーが失踪のターゲットに組み込まれるとは思いもよらなかった。

しかも、おそらくよろず屋メンバーの頭脳派であり精神的な母であるみりんが最初に狙われた。

これは犯人がやはりかなりの知能犯である事を示していると僕は睨んだ。

よろず屋メンバーがみりんを失えば、それはゴールキーパーのいないサッカーチームに等しい。

もしくはキャッチャーのいない野球チームに等しい、もはやよろず屋に組織的な動きは期待できない。

あとは自動的に空中分解していくメンバーを各個撃破していくだけである。

これが犯人の作り上げたシナリオであり、やはりかなり知的に状況を判断していると思われた。

 

僕は混乱していく頭で必死に状況を整理して考えた。

失踪したみりんには悪いが、今までのルールを考えて見ると、これは次へのステップであるはずだった。

いつも誰かが失踪した時には、犯人からなんらかの謎の落書きが届くのが常だったのだ。

僕は興奮していく頭と体を落ち着かせながら、みんなに落書きを探すように伝えた。

同時に「必ず複数人で動く事、絶対に単独行動はしないで!」と忘れずに付け加えた。

 

最初からそうすべきだったのだ、ひょっとすると読者諸君の中からも、

なんでそうしないんだというお叱りの声を受けるかもしれない。

だが、これは物事が起きてから語っているという事を多めに見て欲しい。

僕だって事件と向き合っている時はいつも真剣なのであるけれども、

なかなか当事者としては、俯瞰しているように上手く状況を判断する事も難しい。

ましてや旅先でホテルに着いた直後なのである、多少の気の緩みもあっただろう。

 

とにかく、犯人は少しの隙間を大事にして犯行に及んだのだろう。

どの隙間かと言われると、網の目のように抜け落ちる部分が多すぎて特定できない。

僕がコンビニに濃厚生クリームソフトを買いに行っている間かもしれないし、

僕が花沙と話をしている間かもしれない、もしくはもっと僅かな隙をついたのかもしれず、

それであれば花沙、きな子、菊ちゃん全員に確実なアリバイなどはなかった。

 

そして、どうしてこんな簡単な事に気付かなかったのだろう。

どうして僕は誰もが本当の事を言っていると思い込んでいたのだろう・・・。

真正面から取材して、犯人が本当の事を言うとは限らないではないか。

そして、後から参加したよろず屋のメンバーであるみりんが消された今、

もし犯人がこの中にいるのならば、積極的に捜索をしている僕が目障りなはずだ。

次のターゲットとなるのは、もしかしたら僕である可能性だって捨てきれない。

この事実を胸に受け止めた時、僕は初めてとんでもない問題に首を突っ込んでしまったと気づいた。

 

心臓の音が高鳴るのを聞きながら、それぞれ複数人で走って落書きを探しにいくメンバー達。

しかし、彼女達がうまく群れになりながら走り去っていくのを見ていて、

逆に僕は一人で孤立して取り残されていく事に気がついた。

このままでは、単独行動していることになってしまい、僕がやられる可能性があった。

 

僕は男の恥を捨てて彼女達のグループへの同行を志願した。

そうでなければ僕自身がやられてしまうし、そうなるとこの物語も途中で尻切れてバッドエンドになってしまう。

読者諸君もそれではさすがに納得いかないだろうから、僕の延命を必死に願っていて欲しい。

これは冗談では済まない、心からの切なる願いである。

 

とにかくも、そうして僕達は部屋中を探し回った。

乗ってきたレンタカーの中も探したし、みんなの旅行鞄の中も探した。

ホテル宛に手紙が届いていないかも探したし、あらゆる考えられる場所をくまなく探した。

 

だが、犯人からの落書きはどこにも見つからなかった。

とにかくその日はそうして1日が終わってしまった。

僕はがっくりと肩を落としながら、明日の到来を待つ身となったのである・・・。

 

 

・・・

 

 

誤解である。

そして、僕は神に誓っても健全である。

 

僕は今、部屋のドア付近のところでミノムシのような格好をして寝ている。

布団を体にぐるぐる巻きにされ、自分では身動きが取れないのだ。

 

現在、深夜の3時である。

まだ眠れない、色々と考え込んでしまう。

一体犯人は誰なのだろう、そして何を企んでいるのだろう?

 

「みんなで一緒に寝よう」という僕の不用意な発言がいけなかったのだ。

そう言った直後、彼女達の冷たい視線を一身に受けた僕は背筋が凍る思いがした。

女子とはこういう圧力をかけるのが上手な生き物であり、男子とはそれに屈する生き物である。

 

冒頭に言ったように、誤解である。

僕は神に誓っても健全であるのだから。

 

まるでお通夜のような夕食を終えた僕達は、すでに闇が深くなってくるこの沖縄の夜を、

各々の単独行動でやり過ごすことはできないと僕は判断した。

そして、もっと言えば、複数人でいても2人や3人ともに失踪させられる危険もあった。

犯人はどういうやり方で僕達を葬り去ろうとするのかわからないのだから、

僕が考え出した最も安全な対策は「みんなで一緒にいること」だった。

集団で固まっていれば、犯人はきっと手を出すことができないはずで、

買い物に行く時も、トイレに行く時も、寝る時でさえ一緒にいる必要があった。

だが不幸にも、ここは女子の集団である、そして男子は僕一人だけだった。

 

今、彼女達は僕と同じ部屋でみんなで固まって眠っている、はずだ。

ドア付近でぐるぐる巻きにされている僕からは全く見えないけれど。

しかし、健全さを守るためにはこれは仕方のない処置だと僕は受け入れたのだ。

願わくば、僕が今襲われたとしても、誰か異変に気付いてくれることを。

 

僕は部屋の片隅でミノムシのようになりながらTVで見た人狼ゲームを思い出していた。

あれは確か、児玉坂46が46時間TVなる番組を放送した時にやっていたものだ。

市民の中に裏切り者がいて、さらにその中には人狼が隠れ潜んでいる。

市民側には役職があって、占い師や騎士など、市民を守る役目もあった。

 

視聴者として番組を見ている時は、なんとももどかしい思いをしていた。

ほら、人狼はそこにいるじゃないか、どうして市民を疑うのだ、ああ彼女は騎士なのに。

 

だが、こうしてリアルに犯人がわからない状況に放り込まれると、

もはや頭は冷静な判断などできなくなるものなのだと悟った。

一体誰が嘘をついているのか、見抜くことは容易ではなかった。

 

しかし、僕は彼女達を守りたいと思った。

こんな布団にぐるぐる巻きにされている状況でなんだけれど、

僕は彼女達にとっての騎士でありたいと願った。

でも、もう少しだけ僕を信じてくれてもよかったのに。

僕をこんなぐるぐる巻きにしなくとも、僕は彼女達に何もしないのに。

彼女達にとって、男なんてみんな狼なのだろうか?

人狼以上に、男なんて信用できない存在なのだろうか?

 

僕はそんなことを考えながらいつの間にか深い眠りに落ちていった。

遠くで犬が鳴く声が聞こえたが、まるで狼の遠吠えに思えて僕の体は震えた。

 

 

 

・・・

 

昨晩襲撃されたのは、誰もいませんでした。

僕の作戦は成功し、とにかくも彼女達が深夜に襲われることは防げたのだ。

 

僕は寝ぼけて起きてきたきな子に蹴飛ばされて目を覚ました。

「なんでこんなところで寝てるのー!?」という無邪気な声に、

昨夜寝る前にこの状態にしたのは君だっただろうと恨めしかった。

 

そして遠慮のない大爆音で叫んだために、眠っていた者達は次々と起きだしたのだった。

そうしてみんなが目覚めてくれたおかげで、僕はやっと解放されたのである。

 

ホテルの朝食はバイキング形式だった。

学校の修学旅行のように、みんなで一斉にレストランへ向かう。

一時も離れることはできない、僕らは運命共同体なのだから。

 

僕は朝からクロワッサンとハムとスクランブルエッグを少々食べた。

食後にはコーヒーを飲んだ、やはり砂糖は入れなかった。

カフェインで今日の脳をしっかりと働かせなければならなかった。

 

彼女達は見るからに憔悴した表情だった。

特に顕著だったのは内藤明日奈と勝村さゆみで、

明日奈は自分のせいでこんなことになっている責任を一身に背負っている感じだったし、

さゆみも、昨日みりんが失踪してしまったのをずっと心に引きずっている様子だった。

軍団の発展のためとは言え、こんな事件に首を突っ込んでいった自分の浅慮を嘆いているのかもしれなかった。

 

他のメンバー達も疲れているように見えたが、大半がマスクをしていたために表情はよくわからない。

すっぴんを見られたくないからだろうか、僕の視線を目障りに思っている人もいたにちがいない。

 

食事を終えると、またみんなで一緒に部屋に戻った。

彼女達が身だしなみを整える間、僕は誰かについていてもらって部屋の外に出た。

さすがに一人にされると襲われる可能性があるので、彼女達もそれは考慮してくれたようだ。

 

身支度が終わると、僕はホテルにある会議室のような場所を借りることにした。

パーティなどがある際に使用される部屋だと言うことだったが、

当日は誰も使用する予定のない部屋で、大人数で話し合うのには都合が良かった。

僕達はその会議室へ移動し、円形になっているテーブルを囲んで椅子に座り込んだ。

この部屋であれば一眼でみんなの表情が見渡せるのが利点だった。

 

まずは当日の予定をどうするのか、みんなの意見を募った。

犯人を見つけるなんの手がかりもないので、どこへ行くべきかもわからず、

ただホテルにじっとしていても安全かもしれないが、それでは事件は解決しない。

そうすると滞在費用だけが雪だるま式に増えて行くのでそれは僕が一番辛いのだった。

 

花沙は昨日にも話をしていた通り、児玉坂46のMV撮影場所が見たいと言い出した。

とにかくみんなで一緒に行動しなければならないのだから、ホテルに居てもどこにいても一緒で、

そうであれば積極的にどこかへ出て手がかりを探すべきだというのが彼女の意見だった。

 

その意見に反対を表明したのが意外にもトト子だった。

仲良くなった花沙だから言いやすいというのもあったのかもしれないが、

何も良い考えがないままイタズラに外出するのは最も危険だと指摘したのだ。

その口ぶりは極めて冷静で、トト子の覚醒が近いのかと僕も驚きを隠せなかった。

みりんがやられてしまった今、トト子も責任感が芽生えて来たのだろうか。

 

明日奈とさゆみはいつもの通り何も言わずに沈黙を守っていた。

この二人は特に憔悴しきっているので、それは仕方のないことかもしれなかった。

 

きな子と菊ちゃんは花沙の意見に賛同したようだった。

二人はどちらかと言えば明るくて活動的な性格をしているので、

その流れは僕にとっても意外なものとは思わなかった。

むしろ、菊ちゃんに至ってはスケジュールが詰まっていていつまでもここにいられないのだろう。

だが、責任感も強い彼女であるため、自分がいる間に何か進展が欲しかったのかもしれない。

 

蘭々はちょうどその二つの意見の間で揺れていた。

どちらのメリットも理解し、どちらのデメリットも把握していた。

色々な事を口にしたが、結局は決めきれずに口ごもってしまった。

しかし、それも無理もない事だと思った。

僕だって、こんな重い判断はなかなか容易に下せるものではなかったからだ。

 

このままでは煮詰まって話しが先に進まないと考えた僕は、

昨夜からずっと考え続けてきたアイデアを口にした。

「人狼ゲームって知っていますか?」と口火を切った。

 

そして僕の推理をみんなに説明した。

「犯人はこの中にいる可能性が高い・・・」

 

僕が発したセリフは、会議室に稲妻のような緊張感を走らせたのがわかった。

 

 

・・・

 

 

一晩考えて気付いた事があった。

みりんが失踪したのにも関わらず、どうしてなぞの落書きが見つからなかったのか?

 

僕の推理では、それはおそらく「よろず屋」の存在が計画外だったからに違いないと思った。

犯人はどうやらかなり用意周到にこの粛清を計画しているのは間違いない。

落書きに書くメッセージを考え、沖縄行きのチケットまで用意して送りつけた。

一人失踪すると、一枚のメッセージを送りつける。

これが犯人が今までに必ず守り続けてきた暗黙のルールだった。

 

だが、みりんが失踪したのにも関わらず落書きは見つからなかった。

これは「よろず屋」のメンバーが当初の計画から完全に想定外であった事を意味しないだろうか?

彼女達はどさくさに紛れて一緒に沖縄にやってきたのだ。

だから、犯人は当初から彼女達を失踪させようなどとは考えておらず、

ただ邪魔になったから消していっているに過ぎないのではないか?

 

そして、まず邪魔者である「よろず屋」からみりんが消されたのはなぜか?

それは圧倒的に優秀な存在だったからに違いない。

僕は彼女の事をそれほど詳しく知っているわけでもないが、

家賃を取り立てにいったあの日、みりんが財政を担っているのはよくわかった。

そして、むしろ4人の中でバランスに長けた彼女を狙うのは最も効率が良かった。

失踪させる目的が「邪魔だから」というものであればなおさらそうだった。

だが、犯人が外部から僕達を監視しているにしても、そんな関係性をうまく見抜けるだろうか?

ましてや「よろず屋」は今回の計画外の存在だったのだ、事前調査などしているはずもない。

 

そう考えると、僕は自分の背筋に冷や汗を感じずにはいられない。

だが、こう考えるしかない、犯人は内部の事情に詳しいものであり、

あの女子会に参加したメンバーである可能性が極めて高いということを・・・。

 

 

「この中に人狼がいるって事です」と僕は彼女達に告げた。

 

そしてこれはただのゲームではなかった。

生き残る為のサバイバルなのである。

誰もが息を飲む音が会議室に吸い込まれていくのがわかった・・・。

 

 

・・・

 

 

会議室は一瞬にして戦場へと変わった。

彼女達はすぐにお互いの顔色を伺い始めたのである。

信じたくもない事だが、この中で誰かが犯人の可能性がある・・・。

 

にわかには信じがたい現実が彼女達に突きつけられた。

そんな事は映画の中やゲームだけの事だと思っていた。

まさかこんな現実世界で身内を疑う事があるなんて想像もしなかったのだ。

 

そして、犯人はある程度絞られているのもまた緊張感をもたらした。

僕の推理が正しければ、よろず屋のメンバーと僕は犯人候補から外れる。

残されたのは坂田花沙、南野きな子、菊田絵里菜の三人しかいなかった。

 

彼女達はいっせいにこの三人の顔色を伺ったのである。

それはゲームでは決して感じることのない緊張感だった。

今まで親しくしてきた仲間の中に、裏切り者が潜んでいる。

そんなことが起きている現実を信じたくはなかったが、全ては事実だったのだ。

 

本当は僕もこんな風に問い詰めるやり方を採用したくはなかった。

だが、不用意に外出することも危険な今、最も良い方法は、

ホテルに残ってみんなで一緒に犯人を探り出すことだと思った。

これがどれだけ彼女達にとって辛いことかは承知している。

しかし、犯人がこの中にいる可能性が高いのは事実なのである。

 

読者諸君も、まさかこのような話しはもう聞きたくないかもしれない。

だが、これが目の前の現実なのである、そして目を背けてはいけないのだ。

これ以上、犠牲者を出さない為にも、内藤明日奈を救う為にも、

時には外科手術のように痛みを伴うメスを入れなければならないのである。

 

そして、僕は既にターゲットを絞っていた。

飛行機の中で菊ちゃんに、ホテルのロビーで花沙に既に話しを聞いた。

まだ詳細な話しを聞かせてもらっていないのは南野きな子だけである。

そして、花沙の言っていた言葉が気になっていた。

 

一見仲良しに思える関係でも、女同士というのは目に見えないライバル関係もあるものだ。

 

「きなちゃんは明日奈ちゃんの事をどう思っているの?」と僕は少し意地悪に聞いてしまった。

とてもひどい事を聞いているという自覚はあった、だが僕が踏み込まなければ、

彼女達自身がこの友情を壊す可能性のある話しへ突入することはないのだ。

僕はあえて嫌われてでもこういう質問を投げかけるより他はなかった。

 

そして僕は、南野きな子が一瞬ドキッとした表情を浮かべたのを見逃さなかった。

そういえば、僕はずっと気になっていたことがあったのだ。

菊ちゃんから聞いた話しでは、プレゼント交換会で彼女は仲良しである明日奈にプレゼントをあげなかったらしい。

もちろん、彼女なりに様々な理由があったのかもしれないが、明日奈はそれで泣いてしまったほどだ。

双方向の信頼関係は、ひょっとしたらそこには存在しなかったのではないか?

そうであれば、仲良しに見える関係の中にこそ、個人的な恨みが潜んではいないだろうか?

 

それから南野きな子は暫くの間、何も答えなかった。

時に沈黙とは何よりも雄弁である。

明日奈はきな子をまっすぐに見つめているが、きな子は視線を合わそうとしない。

僕は何か確かな手応えを感じていた、事件の何か核心に触れたという感触があった。

 

「それって、あたしを疑ってるってことですか?」ときな子はやっとこちらを見て返答した。

「その通りだ」と僕は心を鬼にして答えた。

花沙と菊ちゃんがきな子に視線を向けて困惑した表情を浮かべているのがわかった。

これはひょっとしたら、この事件に対して一気に王手をかけられるのではないかと僕は思った。

 

「あすなりんもそう思ってるの?」ときな子は明日奈に向かって寂しそうに尋ねた。

明日奈はどう答えてよいかわからず、ただ俯いたままで何も答えなかった。

 

そのあと、きな子は意味深な表情で花沙と菊ちゃんを見つめていた。

犯人だと疑われている者達のにらみ合いなのか、それとも何か追い詰められて覚悟を決めたのか・・・。

 

「・・・みんな、ひどいよ」と呟くと同時に、玉ねぎをいくら切っても変化のない彼女の瞳から涙がこぼれた。

ポロポロと大粒の涙をこぼしたきな子は、ガタンと椅子を引いて立ち上がり、

次の瞬間には子供のように手で涙をぬぐいながら会議室を飛び出して走り去った。

 

その瞬間、会議室では誰も動くことができなかった。

何が起こっているのかわからず、誰もどう行動してよいかわからなかったからだ。

おそらく、きな子は犯人だったのだろう、そして問い詰められてこの場を逃げ出した・・・。

そう考えるのが一番自然だった、それ以外は頭が回らなかった。

 

硬直した空気を破ったのは寺屋蘭々だった。

椅子から立ち上がり、心配そうにきな子を追いかけようとした。

 

「待ちなさい!」と僕は追いかけようとした彼女に声をかけた。

「だってこんなのひどいじゃないですか、あんまりじゃないですか」と蘭々は叫んだ。

「きなちゃんが犯人だったんだよ・・・信じたくないけれどもこれは事実だ」と僕は神妙に述べた。

「そうでしょうか、私にはそうは思いませんでした、きな子を追いかけます」と蘭々は僕の考えを否定した。

「蘭々!」と叫んだのは勝村さゆみだった、その声は哀切を感じさせた。

「軍団長・・・寺屋は大丈夫です、きっと戻ります」と言い残して彼女は会議室を出て行ってしまった。

 

 

だが、それが僕が二人を見た最後の姿になった。

 

 

・・・

 

 

きな子と蘭々が会議室から出て行った後、暫くは沈黙が場を支配した。

だが、やがてフッと緊張の糸が切れたような瞬間が訪れた。

誰がということでもなく、全員が何かしら事件の解決を予感したのだろう。

 

だが、なぜかとても嫌な感覚が僕の脳裏に残っていた。

きな子が犯人であり、追い詰められてその場を逃亡した。

この読みはあながち間違いではないはずなのだが、

蘭々が最後に言っていた事、私にはそうは思いませんでした、それが気になった。

 

そして残念ながら、きな子が犯人であればそれを追いかけて行った蘭々は助からないだろう。

だが、それを誰も助けに行く事などできなかった、行けば自分も巻き込まれるだけだからだ。

あの緊張感が漂っていたリアル人狼ゲームのような状況で、迂闊な行動をとれるものはいない。

 

とにかく、一同の緊張感は途切れてしまったのだ。

あまりにも辛い時間を過ごした彼女達は、その解放感に安堵した。

昨夜よく眠れなかったのか、トト子は大きなあくびをした。

菊ちゃんはその長い両手を思い切り上に伸ばしてから思い切り息を吐いた。

 

「ちょっとお手洗いに行ってきます」と言って立ち上がったのはトト子だった。

本当であれば全員でついていくべきだったのかもしれない。

だが、僕達はもはや犯人を見つけ出していた安堵感があったのだ。

少しばかり気を許してしまったのも仕方のないことだったかもしれない。

「一人で行くと危ないよ、うちがトト子ちゃん守ってあげる」と行って花沙も立ち上がった。

確かに全員で行く必要はないが、まだ単独行動はするべきではないと思ったので、

僕はこの花沙の申し出をありがたいと思って無言で承認した。

 

二人が会議室を出て行った後、菊ちゃんが明日奈の肩をポンと叩いているのが見えた。

「もう大丈夫だよ」と菊ちゃんは明日奈を気遣うようなセリフを吐いた。

だが、僕はその言葉を聞いて逆に不安がこみ上げてくるのがわかった。

何が大丈夫なのだろうか、よくよく考えれば、まだ何もわかってはいないのだ。

 

きな子が犯人であるという説で推理を続けよう。

彼女のドキッとしたあの態度を見ていれば、それは間違いないように思えた。

だが、彼女がどうやって様々な計画的犯行を遂行したのかについては、

いかんせんまだまだ謎に満ちている箇所が多いような気がする。

彼女が何か人に言えない明日奈への恨みを抱いていたと仮定して、

ではどうやって今回の失踪事件を計画する事になったのだろうか?

一体どのタイミングでなぞの落書きを残し、どのタイミングで彼女達を失踪させたのか?

 

その時だった。

「キャーーーーー!!」という声が会議室の外から聞こえてきたのである。

 

それはおそらく、トト子の叫び声だったように思えた。

彼女達はあまりの恐怖に会議室の中から一歩も動けなかったらしい。

僕はその声を聞いて無我夢中で一人会議室を飛び出した。

 

声がした方向と先ほどの話を合致させると、これは間違いなく女子トイレの中からだった。

彼女達はお手洗いに辿り着いた後、そこで何者かに襲われたのだと僕は咄嗟に判断した。

 

あまりにも突然の恐ろしい出来事に、会議室の中からは誰も僕の後を追ってくるものはなかった。

自分でもどうしてあんなに恐ろしい状況でこれほど勇敢に行動できたのか不思議で仕方ない。

口ではなんとでも言えるが、いざという時に人間の勇気が行動によって試されるのだとすれば、

おそらく僕は本当に命がけでも女の子を助けることができる類の男なのではないかと自分を褒めたくなった。

小心者の僕が、自分でもそんなことを夢にも思っていなかっただけに、この土壇場での自分の勇気に、

誰よりも驚かされたのは僕自身だったし、何よりも誇らしい気持ちで満たされていくのがわかった。

 

僕は走った、とにかく走ったのだ。

体全身をバネのように弾ませて、体育が苦手だった僕の過去など全部忘れてしまって、

とにかく体を一瞬でも前へ前へと動かした、もつれそうな足を限界まで速く動かして走った。

事件の決定的証拠を取り押さえるのは今しかなかった。

 

そして僕が勇敢にも女子トイレに飛び込んだ時、そこでまた中から悲鳴が聞こえてきたのだ。

「キャーーーー変態ーーーー!」と叫んだのはトト子ではなく見知らぬおばさんだった。

トイレの入り口付近でおばさんによって通路を防がれてしまった僕は焦った。

今はおばさんに事情を説明している余裕などなかったので、

僕は道をふさいでいるおばさんを通路から退かせようとして両肩に手を触れた。

「ちょっとーーー何するの、いやぁ変態、誰かーーー!」とおばさんは叫び続けた。

僕は暴れるおばさんを落ちつかせる為にちょっと力を込めて両肩を押さえつけたのだが、

おばさんの抵抗する力と拮抗してしまい、僕達は足がもつれてそのままトイレの床に倒れてしまった。

僕は不本意にもおばさんの上に倒れこむ形になってしまった。

まずい、こうしている間にも犯人はどうにかして逃走を図ってしまうかもしれない。

 

しかし、その時に後ろから誰かが走ってくる音が聞こえた。

おそらく会議室から誰かが駆けつけてくれたのだろうと思った。

ありがたい、いくら勇敢な僕でも一人では事を成し得ることなどできないのだ。

頼るべきは仲間、これこそが美しい友情だと思った、それこそが事件に終止符を打つ聖なる力なのだ。

 

だが、僕の後ろに立っていたのは黒いズボンにブルーのシャツを身につけていた50歳くらいの男で、

見るからにそれはこのホテルに雇われている警備員のおじさんだった。

昨日、すれ違った時にはにっこりと微笑んでくれたあの愛嬌のあるおじさんだった。

しまった、僕の頭をどこかの本で読んだあの言葉がよぎった。

 

「昨日の友は、今日の敵」

 

僕は警備員のおじさんに両肩を激しく掴まれて引き剥がされた。

僕はかつて友達と一緒に参加した児玉坂46の握手会を瞬時に思い出した。

どんなひどい鬼剥がしのアルバイト君でも、こんなに激しく僕を剥がしたことなどなかった。

「おじさん、離してください、これには訳が・・・」と抵抗する僕をよそに、

僕の体はどんどんと女子トイレから離されていき、やがて僕はホテルのロビーに連れ出された。

その時になって、会議室からぞろぞろと追ってくる彼女達の姿が見えた。

その中には若干の軽蔑を含んだ視線をこちらに送り続ける内藤明日奈の姿が見えた。

違う、これは誤解なんだ、話せばわかる、話せば・・・。

 

気づいた時には僕の身体は宙に浮いていた。

警備員のおじさんは柔道の黒帯だったらしい。

愛嬌のある微笑みは強者の余裕だったのだ。

僕もいつかあんな風に笑える人になりたいと思った。

 

 

 

・・・

 

気がついた時、僕はホテルの部屋のベッドで横になっていた。

警備員のおじさんに背負い投げをくらってそのまま気絶した僕は、

残念ながらこの間の記憶が全くないのである。

 

気づいた時にベッドの横にいてくれたのは、あのおばさんと警備員のおじさんだった。

「誤解してごめんね」というような言葉を述べてくれたが、あの状況であれば仕方がないかとも思った。

 

僕がベッドから身体を起こした時、全身に電撃が走ったように痛んだ。

おもわず苦痛に目をつぶって背中をさすっていると、僕の部屋に入ってきたのは菊ちゃんだった。

おばさんとおじさんに礼を言った菊ちゃんは、そのまま二人に代わって僕のベッドの横に座った。

そして「大丈夫ですか?」と声をかけてくれたのである。

 

菊ちゃんは僕に塗り薬を持ってきてくれたのだった。

ホテルの床に背中を強く打ちつけた僕の背中は赤く腫れ上がっていた。

それに効く薬を探して持ってきてくれたというのである。

しかも、どうやら僕の背中に自ら薬を塗ってくれようとしたのだが、

健全な僕はさすがに照れくさくなってそれは断ったのだ。

天才ピアニストの生命である彼女の指を、そんなことで汚す訳にはいかないからだ。

 

菊ちゃんにその時に聞いた話によると、僕が背負い投げで気を失った後、

これは誤解であるということを必死に説明してくれたのは菊ちゃんだったらしい。

その場にいて誤解をしていた明日奈もさゆみも、菊ちゃんがきちんと説明して誤解を解いてくれたという。

だが、僕の事に掛かりっきりになっている間に時間が過ぎていってしまい、

その後で女子トイレを探した時には、もうトト子と花沙の姿は見つからなかったというのだ。

僕はその話を聞いた時に、決定的な証拠を取り押さえることができなかった自分の無力を恥じた。

 

「女装をしてから飛び込むべきだった」と僕が悔しそうに述べると、

「そこ?」と菊ちゃんはナイスなツッコミを入れてくれた。

ボケもツッコミもできる、さすがにこの子は優秀だと思ったものだ。

 

だがこんな風に冗談を言っている場合ではなかったのだ。

菊ちゃんが教えてくれたもう一つの情報、それは次のなぞの落書きに関する話だった。

 

女子トイレを捜索した菊ちゃんは、トト子と花沙の姿を見つける事はできなかったが、

トイレの壁に貼られた貼り紙を見つけて驚いたというのだ。

それは誰かが失踪した時に見つかる、あのなぞの落書きだったのだ。

 

指望遠鏡を覗きながら

 

僕は菊ちゃんから実際にその貼り紙を見せてもらったが、

今度は青い文字で書かれていたのだった。

どうやら犯人が厳守するルールとして、赤と青の文字を交互に使うようにしているらしい。

赤、青、赤、青と今まで来ているので、おそらく次があるとすればまた赤色になるのだろうか。

そして、間違いなく続きがあるはずだと僕は思った。

今回の落書きは、「~しながら」という文で終わっているところを見ると、

間違いなく続きの文章で「何をする」という行動が示されないと意味が完結しないからだ。

 

そんな話をしていた時、ベッドのそばに座っていた菊ちゃんの携帯が鳴った。

流れてきたメロディは児玉坂46の「ひっかけ」だった。

アルバムに収録されている名曲の一つだ。

 

「もしもし~、あっ、お疲れ様です、菊田です~」と明るい声で電話に出た菊ちゃん。

ベッドの横から立ち上がり、気を使って部屋から出て行って話しを続けていた彼女を見て、

きっと仕事の予定が詰まっていて忙しいのだろうと僕は推測した。

 

それにしても「指望遠鏡」とはなんだろうと僕は天井を見上げながら考えていた。

指で望遠鏡を覗くようなポーズをしてみて、とにかく僕らは何かを見させられるのだと思った。

この事件の犯人は、僕らに何かを見せるために僕らを狡猾に誘導している。

いったいどんな残虐な光景が最後に待っているのだろうと想像して体が震えた。

 

しかし、いったい犯人とは誰なのだろうか?

犯人のルールに従えば、よろず屋のメンバーはさておき、

女子会に参加した花沙が失踪してしまったのだから、落書きが現れるのは当然だ。

だが、今回はきな子もほぼ同時に消えてしまっている。

その分の落書きはまだ見つかっていないようだ、これはどういうことか?

 

考えられる事は、今回の事件の犯人はきな子であり、

あの場所から逃亡して蘭々を消し去った挙句、隙をみて花沙とトト子を始末した。

犯人が逃亡した分の落書きはないのは当然で、これなら筋が通っている。

 

だが、これだけではどうにも腑に落ちなかった。

先ほど僕はおどけたふりをして菊ちゃんにボケをかました。

それにあんなに冷静にツッコミを入れてくる菊ちゃんをみて、

僕はやはり少し奇妙な思いが肌にべとついてくるのがわかった。

仲間達がこれほど失踪している状況で、どうして彼女はあんなにも冷静なのだろうか?

そう考えると、ひょっとすると真犯人は菊ちゃんなのではあるまいか?

そこまで考えたところで、向こう側から足音がして菊ちゃんが戻って来るのがわかった。

 

「すいません、私、ちょっと仕事の都合で明日の夕方の便で帰ることになりました」と菊ちゃんは告げた。

僕にはどうもそれが、菊ちゃんの完全犯罪への最後の一手に思えて奇妙な胸騒ぎが止まらなかった。

 

 

・・・

 

 

結局、夕方までベッドで休んでしまった僕は、

だるい体を起こしながら部屋を出てロビーまで降りた。

そこには菊ちゃん、明日奈、さゆみの三人が集まっていた。

たったこれだけかと寂しく感じてしまったせいで、

僕はもう随分と多くの仲間達を失ってしまった事に気がついた。

 

彼女達は当日、結局はどこへも出かけなかった。

出かけられなかった、という表現の方が正しいかもしれない。

今日だけで4人の仲間達が一斉に失踪してしまったのだ。

しかもちょっとした諍いや誤解の間にである。

 

勝村さゆみは、ここへ来る前とは別人のようになってしまっていた。

憂鬱そうな表情を浮かべ、何かをブツブツつぶやくだけで、

いったい何を考えているのかもさっぱりわからなかった。

蘭々とトト子を一気に失った悲しみは深いのだろう。

 

菊ちゃんは明日にも東京へ帰らなければいけない事を明日奈に告げたらしい。

その不安から明日奈はまた辛くてしばし泣いていたようだった。

それを抱きしめるようにして菊ちゃんが受け止めていたという。

 

僕はホテルのカウンターへ行き、無理を承知で部屋を変えてもらった。

当初は9人でやってきたこの沖縄旅行も、今では僕を含めて4人まで減り、

無駄な部屋を借りていると費用だけが膨らんでしかたなかったからだ。

そして、今はやはり個人で行動することが許される状況でもなかったので、

借りるべき部屋は一部屋だけでよく、だが少し大きめの部屋を借りることにした。

カウンターで話をつけた後、僕らは手分けしていなくなってしまった仲間達の荷物を移動させた。

 

 

・・・

 

 

やがて夕食の時間になり、僕たちは一緒にレストランへ向かった。

こういう時こそ美味しいものでも食べて元気を出してもらおうと思い、

僕はレストランのスタッフに奮発してチップを支払ったのだが、

出てきた豪華な料理を食べてくれたのは菊ちゃんだけで、

明日奈もさゆみもすっかり食欲など出ない様子だった。

 

「食べなきゃ元気でないよー」と言いながら菊ちゃんは一人で二人分以上も食べていた。

その姿を見て僕は確信していた、この人はこの事件の真犯人か、もしくは、よほどの食いしん坊かどちらかであると。

もっとも、この二択では当てることが相当難しいのであったが。

 

だが、菊ちゃんの様子は勝利を確信した人狼のそれに類似しているようにも思えた。

ご覧の通り、僕たちはもうすぐチェックメイトであり、ゲームは確実に敗北していた。

僕もすっかり自分の推理に自信をなくしてしまっていたし、体だってもはやボロボロだ。

明日奈とさゆみはメンタルが崩壊しているし、勝利を確信した彼女が遠慮することなど何もない、

真の姿をさらけ出してご馳走を平らげていても不思議ではなかったのだ。

 

だが、決め手がない。

彼女が犯人だという決定的な証拠がない。

目の前でここまで大胆に食物を貪られているのにもかかわらず、

僕には彼女を糾弾するだけの資格がないのであった。

 

僕は考えていた。

明日、何もしなければこのまま菊ちゃんは東京へ帰ってしまう。

もし彼女が犯人だとするならば、僕らに残された時間は少ない。

だが「指望遠鏡」のメッセージにあるように、犯人の目的はおそらくまだ達せられていない。

仮に菊ちゃんが犯人だとしても、まだ何か隠していることがあるはずなのだ。

 

突然、かちゃりと音がして僕はそちらの方へ視線を向けた。

それは明日奈が持っていたお箸と茶碗をテーブルに置いた音だった。

どうしたのか、もうお腹いっぱいになってしまったのだろうかと僕は心配したが、

そんな心配をよそに、意外にも彼女が久しぶりに口を開いた。

 

「明日、私を海に連れてってくれませんか?」と彼女は言った。

「海?またどうして・・・」と僕はさっぱり訳がわからなかったのだが、

「きっと犯人は海で私を待ってるんです」と明日奈が言い始めた。

 

隣でそれを聞いていた菊ちゃんが「いいよー、どこの海行くー?」と尋ねた。

この待ってましたと言わんばかりのテンポの良さ、極めて怪しかった。

そして明日奈が求めた海とは意外な場所であった。

 

「児玉坂46がMVを撮影した海?」と僕は聞き返した。

どうしてそんなところへ明日奈が行きたいのだろう。

彼女はあまりそういう場所に興味などなさそうなのに。

 

「紫です」と明日奈は言った。

「紫?」と僕は声が上ずる。

「はい、赤、青、赤、青で書かれた落書き」と明日奈が言ったところで僕もピーンときた。

「児玉坂46の紫か!」と僕は叫んだ。

 

さすが伊達にミステリー小説を読み漁っているだけのことはあると思った。

どうしてこんな簡単なことを僕は見落としてしまっていたのだろう。

犯人が残した落書きの赤色と青色を混ぜれば紫色になるではないか。

そしてそれは、児玉坂46のイメージカラーである紫色であり、

児玉坂の街と沖縄で唯一の繋がりがあるのは、そのMV撮影で使われた海しかない。

僕は最初から犯人の目的地の情報を掴んでいながら全く気づけなかったのだ。

 

「でも、その撮影場所はどこなの?」と僕が尋ねると「それは・・・」と明日奈は知らない様子だった。

「あっ、大丈夫です、私知ってます」といきなり菊ちゃんがこちらを見てそう言った。

僕はなぜ菊ちゃんがそんな場所を知っているのか、もはや疑惑しか浮かばなかった。

「花沙から場所を聞いたから」と菊ちゃんはこちらの目をまっすぐに見て答えた。

僕は何も答えずに菊ちゃんのその瞳をまっすぐに見返した。

しばらくの間、僕たちは見つめ合っていた。

見つめ合っていたというよりも、にらみ合っていたの方が正しいかもしれない。

まっすぐにこちらを見つめる菊ちゃんの瞳は、力強くてその視線に貫かれそうなほどの眼力だった。

 

そういえば僕は思い出していた。

彼女は天才ピアニストであると同時に、舞台役者でもあったのだ。

舞台「バカリボンの騎士」が公開された時、僕もわざわざ生でその舞台を観に行ったことがあった。

主役を演じた彼女は、男役も女役も見事に演じ分ける華麗な才能を披露したのだ。

 

だが今回ばかりは彼女は騎士などではなかった。

どういう訳か知らないが、おそらく菊ちゃんは狼だ、人狼だ。

どうしてこんなことをするのか、その動機はよくわからないが、

彼女はきっと自らの手で僕らを最後の粛清の場である海へ連れて行こうとしているに違いない。

 

とにかく僕は、もうこれ以上にらみ合っていても仕方ないので視線を外した。

そして明日の夕方には菊ちゃんが空港へ向かわなければいけないことを考慮して、

明日の朝、朝食を食べたらすぐに出かけようという予定を立てて三人に告げた。

菊ちゃんと明日奈はそのスケジュールで良いと承諾をもらった。

だが、憔悴しきっているさゆみには何も応答がなかった。

無理して連れていく必要はないとも思ったが、ホテルに一人残していくのも心配だ。

僕は反応のないさゆみに何度も何度も話しかけた。

それでも何やらブツブツと一人ごとを言っているだけで応答はなかった。

 

どうしたものかと考えた僕は、少しからかいを込めて財布から福澤先生を一人取り出した。

あとはもう野口先生が二人しか残っていない僕の財布の最後の希望の福澤先生だった。

「勝村さん、あとでコンビニ行きましょうか、これで好きなもの何でも買っていいですよ」と僕は言った。

お金に目がないはずの軍団長を、僕は少し冗談半分で元気づけようとしたのだが、

さゆみはその差し出された福澤先生を手に取ると、何を思ったのか突然それを破り捨て、

思い切りその辺りに投げ出して泣きながら走り去ってしまったのだ。

 

「さゆみん!」と叫んだ菊ちゃん。

明日奈も声は出さないが彼女の行方を見つめていた。

僕は呆気に取られて何の言葉も発せずにいた。

福澤先生は無残にも散り散りになってレストランの床にひらひらと桜の花びらのように舞い落ちた。

 

「一人にしておいたら危ないから行きましょう!」と菊ちゃんは言った。

僕も気が動転しながらも軽く頷き、三人で一緒に部屋に帰ってしまったさゆみを追いかけた。

 

 

・・・

 

 

夕食を終えたあと、僕達は部屋へ戻った。

部屋へ入ってみると、さゆみは机に向かって椅子に座っていた。

何をするでもなく、ただ座ってずっと窓から外を見つめていた。

 

僕は先ほどの大失敗に懲りて、ここはもう声をかけられなかった。

健全すぎる僕には乙女心など微塵もわからないに違いない。

ここは諦めて女性二人に任せて、僕は一人奥の小部屋へ入っていった。

その小部屋にはベッドはない、ただソファーだけが置いてあった。

 

大部屋の方には大きなベッドが二つあり、そこで眠ることができた。

さゆみが座っていた机と椅子も置いてあり、TVや冷蔵庫などはそちらに置いてあった。

シャワールームもそちらにあったが、僕は遠慮してホテルのトレーニングルームにある場所を使った。

僕が部屋に戻ってきた時には、さゆみはまだ机の前に座って窓の外を眺めており、

明日奈と菊ちゃんはパジャマに着替えてもう眠る準備をしていた。

 

そして僕もなんだかくたびれてソファーに横になるなり眠ってしまったのだ。

昼間は怪我をして夕方まで眠っていたというのに、すぐに眠れたのは自分でも少し驚いた。

 

だが、早く眠りすぎたせいか、夜中に目が覚めてしまったのだ。

時計を確認すると時刻はまだ早朝の4時を指していた。

海へ出発する時間まではまだ5時間近く残っていた。

 

僕はすっかり打ちのめされてしまっていたのだ。

今回の沖縄旅行で犯人にいいように弄ばれてしまったこと、

何一つ明日奈の役に立てていないこと、

そして夕食時のあの恥ずべき失態・・・。

僕は何となく、元々少ししか持っていなかったはずの男としての自信も失ってしまい、

明日はついに犯人が我々をおびき出したい場所へ連れて行かれることになる。

 

解けない謎は山ほどあり、もはや推理する自信もなくなっていた。

僕は考えれば考えるほど眠れなくなってしまい、

おもむろにソファーから起き上がると窓の外を眺めてみた。

柔らかい月が空に悠然と浮かび、窓の外は心地よい風が吹いていた。

 

僕はこうした夏の夜が好きだ。

昼間が暑いぶんだけ、夜の涼しさが際立って感じられる。

 

沖縄の夜は緑の自然に満ちていて好ましかった。

窓を開けてみると、都会では味わえない澄んだ風が吹き込んでくる。

海が近いところでは潮風の匂いも空気中に含まれている。

夏の夜にはロマンスの香りが漂っていると僕は思った。

 

そうして窓から外を眺めていると、ふと隣人はまだ起きているのだろうかと思った。

もし起きているとしたら、まだこんな風に窓の外を眺めているのだろうか?

僕はふと好奇心にとらわれ、不健全だと知りながらも、ゆっくりと小部屋のドアを開けてみた。

 

布団にぐるぐる巻きにされない今夜の状況を思うと、

この旅を通じて随分と僕も彼女達に信用されたのだなと嬉しくなった。

もしかすると、ただもうそんな気力もないだけなのかもしれなかったが、

僕は信用には信用で返さなければいけないという健全さがあるので、

もちろん彼女達に何かをするなどと言うことはありえない。

 

だが、その夜は彼女達が心配になったこともあり、

不健全だと思いながら彼女達の様子を伺ってみた。

大部屋へ目を向けると、どうやらベッドには明日奈と菊ちゃんが一緒に寝ているようだった。

やはり机にはさゆみが座っていて、だがさすがにこんな時間なのでそのまま寝てしまったようだった。

 

僕は起こさないように近づいて彼女達の寝顔を見た。

明日奈はやはり不安そうな顔をして眠っているようだった。

その明日奈を守るように、菊ちゃんは明日奈を柔らかく抱きしめているようだった。

僕にはもうわからない、人狼は月の出ている夜にも市民を襲っていない。

 

僕はため息をついてさゆみの眠っている机を見た。

彼女は疲れ果てた様子で、机に突っ伏したまま子供のように眠っていた。

泣き疲れたのか、かすかに頬に湿った涙の跡が見えた気がした。

軽はずみに考えた旅行で、こんなことになるとはまさか思いもしなかったのだろう。

 

ふと気づくと、机の上にノートが置いてあるのがわかった。

よく見ると、さゆみも右手にペンを握りしめたまま眠っていた。

ノートはまだ開いているし、眠る前に何かを書いていたのだろうと思った。

 

僕はこれは間違いなく不健全だと思いながらも、

置いてあるノートに書かれている内容が少し目に入ってしまった。

それはどうやら交換日記帳であるようだった。

よろず屋のメンバーと交わしていた秘密のノートなのだろうか。

 

断っておくが、僕は当初、本当に日記帳を覗くつもりはなかった。

他人のプライベートは彼女であっても覗かないが僕のポリシーなので(彼女はいないが)、

もちろん彼女でもない勝村さゆみのノートを覗く何てことは言語道断だった。

 

でも許してほしい、僕はこれをどうしても語るべきだと思ったのだ。

だからいけないとは知りながらも、つい目に入ってしまったのだ。

 

 

・・・

 

 

2016年8月◯日 天気 はれ

 

さゆみかん軍団長 勝村さゆみ

 

 

みなさん、お元気ですか~?

どうも最近暑い日が続いてるけど、夏といえばバカンスの季節\(^o^)/

ついに、つ、ついに!

軍団初の沖縄旅行が決まりました~(パチパチ)

 

実は軍団長もいろいろ悩んでおったのです・・・。

よろず屋を始めてからずいぶんと経ちましたが、

今まで引き受けた仕事はたった一件だけ。

しかもそれは旅行に出かける人の猫ちゃんを預かるというお仕事でした。

 

ああ、これじゃあかん、このままではと思いながらも、

私軍団長は5月病を引きづりながらついに8月に突入いたしました。

 

思えばあれは7月7日、四人でお星様に願ったのがやっぱり叶ったのでしょうか?

めっちゃ曇り空で、織姫さんと彦星さんが迷子になってはるわぁ~とか言ってしまったけど、

お二人さんはあんな曇り空の中でも、ちゃんと巡りあえてたんやろか?

 

それはさておき、えーどうしよう!何食べよう!

沖縄名物いっぱい調べよな~、あー時間足りへんわ~、トト子も蘭々もみりんちゃんも、

なんか食べたいもんあったら言ってね、不動さんは私たちの強い味方やから♡

ほんま、児玉坂はええ人しかいてやんな~、幸せです、うふ♡

 

 

・・・

 

 

2016年 8月△日 気温33度

 

さゆみかん軍団 副軍団長 坂木トト子

 

 

こんにちは、坂木トト子です。

 

軍団長が勘違いしているみたいなのですが、

7月7日はとっても良いお天気でした。

だから、実は軍団長以外の三人でお祈りしたんですが、

なぜか軍団長が1日勘違いしていたみたいなので、

かわいそうだと思って、黙ってみんなで翌日もお祈りしました。

その日の天気が曇りだったのはよく憶えています。

 

沖縄ですか、食べたいものですか・・・。

沖縄といえば・・・何だろう?

分からない。

 

とりあえず楽しみです。

 

 

 

・・・

 

 

2016.8.⬜︎ 天気:☀️

 

さゆみかん軍団 かんとく 寺屋蘭々

 

 

よろしくお願いたします。

 

軍団長、7月7日のこと、黙っていてごめんなさい。

だって軍団長、当日はどこかに行ってていなかったので、

もう間に合わないくらいなら三人でお祈りしようってなったんです。

 

あーなんかごめんなさい。

みかんさん、勝村さん、

テラヤはそれでも軍団長が好きですぞ。

 

7月8日はあいにくの曇り空でしたけど、

四人でお祈りできてよかったなーって思ってます。

 

沖縄ってみかんあるのかな?

最近、1日に1つはみかん食べるようにしてます。

私、意識高いと思いませんか?

 

沖縄でもみかんがあれば食べたいですね。

あれ、あと・・・なに書こうとしたかわすれました。

 

 

・・・

 

 

2016年8月◎日 in沖縄

 

さゆみかん軍団 大臣:次藤みりん⤴️

 

 

交換日記、私に回ってくる前にもう沖縄に来ちゃいましたね(笑)

何食べたいかとか、今日もう飛行機の中で全部話しちゃいましたけど。

 

そういえば、先日トト子がインターネットで「交換ノートの書き方」と調べて一生懸命書いていました(笑)

今までこういうの一度も書いたことがなかったらしいですよ。

 

軍団初の沖縄旅行!

本当はよろず屋として働いて貯めたお金で行きたかったんですけど、

偶然にもいい人と巡り会えて・・・って言っちゃっていいんですかね(笑)

不動さんに怒られそうな気もしますが、とにかくめでたいですね!

 

私は沖縄で南国風のお洋服とか着てみたいです。

なんかかわいいお洋服とか雑貨とか見つからないかな?

軍団でお揃いの服とか見つけられたら嬉しいですね。

 

到着初日のホテルで今書いてますけど、

今晩はどこに何を食べにいきましょうか?

それを探すのも私の仕事ですか?

大臣ってなんでも屋デスネ。

よろず屋みたい。

 

頑張るよ^ ^

 

 

・・・

 

 

2016年8月◎日 天気 はれ

 

軍団長 さゆみかん

 

 

お~い、みりんちゃ~ん、どこいってしもたんよー(T ^ T)

まだ沖縄着いたばっかりやのに、かっちゅんは寂しい限りです。

 

どういうことなんやろ?

なんで関係ないうちらが巻き込まれてんのやろ?

うちらなんか悪いことしたんやろか?

優しい不動さんのご厚意に甘えて沖縄来ただけやのに・・・。

 

飛行機でいっぱい食べ物の話ししたん、みりんちゃんはわすれてしもたん~?(T ^ T)

あま~い蜜たっぷりのフルーツジュースとかご賞味しようって言ったやんか~。

もう、なんでなんよー、みりんちゃんおらんかったら軍団どうすんのよ~。

うち一人じゃトト子も蘭々も一人前になるまで面倒みられへんわ~。

 

あっ、トト子と蘭々はおらんようになったりせんといてね(T ^ T)

かっちゅんを沖縄で一人にせんといてね。

軍団長とか偉そうに言ってるけど、本当は一人じゃ何もできやんねん。

 

犯人はいったい誰なんやろ?

もうこんな悲しいことはやめてさっさと自首してください!

世界平和が一番いいんよ~。

 

 

・・・

 

 

8月◇日 はれ

 

副軍団長 坂木トト子

 

 

みりんちゃん、本当にどこへいってしまったんでしょうね?

今回の旅行も、みりんちゃんが全部仕切ってくれそうだからとすっかり安心してました。

 

今はまだ朝の9時です、さっき朝ごはんを食べたところです。

えーっと蘭々は今お菓子を食べています。

軍団長は食欲ないみたいですけど大丈夫ですかね?

 

今日は何をするんでしょうか?

お昼から出かけたりするんでしょうか?

関係ないのに巻き込まれるのはいやですね。

 

えーっと、書くことがない。

みりんちゃん早く帰ってきてー。

トト子はいなくならないので安心してください。

 

 

・・・

 

 

8.◇ 天気:☀️

 

かんとく 寺屋蘭々

 

 

おつかれさまです。

ほんと、みりんはどこへ行ってしまったんでしょうか・・・?

軍団でお揃いのお洋服を探しに行くのをテラヤは楽しみにしておりました。

 

でも別にそんなんじゃなくても、4人でフワ~とおでかけするだけでもよかったんです。

せっかく初めての旅行に来てるのに、巻き込まれちゃったんですかね?

 

軍団長、朝ごはん食べてなかったですけど、大丈夫ですか?

もしみりんが戻ってきても、ご飯食べてないとおでかけできませんよ。

ああ、なんだか偉そうなことを言ってごめんなさい。

 

だって沖縄のみかんだってまだ探しにいってないじゃないですか!

早くみりんちゃんが帰ってくるようにテレパシー送っておきますね。

 

あっ、テラヤもどこにも行かないので心配しないでくださいね。

 

 

・・・

 

 

8月◇日 天気 はれ

 

軍団長 さゆみかん

 

 

みんなのあほ~嘘つき~(T ^ T)

どこにもいかへんってゆうたやんか~(T ^ T)

 

みりんちゃんも戻ってこやんし、蘭々も走って出て行くし、トト子もトイレから戻らんし、

いったい何がどうなってんのよ~(T ^ T)

かっちゅんが何したっていうんよ~(T ^ T)

 

軍団初めての沖縄旅行、めっちゃ楽しむって約束したやんか~!

みんな軍団長の命令も聞かれやんの?

軍団のルールも忘れてしもたん?

みんなで一緒に世界平和を目指すってゆうたやんか~!

 

ああ、ちゃうねん、こんなこと書きたいんちゃうねん。

ほんまはかっちゅんからみんなに謝らなあかんとおもてたんよ。

 

だって、こんなことになると思わんかった(T ^ T)

なんやかんや上手くいって、みんなハッピーエンドって、

だいたい今までそういう感じの物語ばっかりやったやんか~。

やのになんでうちらが初めての旅行でこんな目にあわんといかんのよ~!

 

ああ、ごめんなさい、ごめんなさい。

ううっ、全部かっちゅんの責任です・・・。

 

やっぱりあかんな~よく考えて物事を決めないとな~。

でも作者がこんないじわるするなんて思わへんやん?

なんやかんやでうちらのこと愛してくれてたと思うやん?

黙っててもうちらの気持ちを察して書いてくれると信じてたやん?

 

それが、この仕打ち!

ああ、もうなんでなんよ~!

かっちゅんは作者が大嫌いです。

 

ああ、もう何かいてるかわからへんようになってきた。

今、かっちゅんは一人で目の前の窓から外を見てます。

もう綺麗なお月さまがすっかり空に昇ってきたみたいです。

沖縄の夜ってこんなに綺麗やったとは知りませんでした。

 

そうそう、そういえばさっき、晩御飯の時、

かっちゅんはぜんぜん食べる気がしませんでした。

もうこのままやとドンドン痩せていく一方やと思います。

でもその方が夏やしええんかなぁ?

モデルのお仕事とかも来たりするんかなぁ?

いつかみんなでモデルのお仕事もできたらええなぁ(^ ^)

 

話しそれてしまいました。

それで、明日はなんや海を見に行くみたいになったんやけどな~、

そこ行ったらみりんちゃんおるんかなぁ?

トト子もそこで待ってるん?

蘭々も帰ってくるって言ってたから信じてるけど・・・。

 

ちゃうねん、言いたいのはこれちゃうちゃう!

なんやさっき不動さんが一万円くれはってんけどな、

かっちゅんそれ見てたらなんかすごい寂しなってきてな、

よくわからんうちに気づいたらビリビリに破いてしもててん。

あんなん人生で初めてやったわぁ、なんや言うたらちょっと綺麗かったし。

 

ああ、こんなん書いてんの見られたら怒られるわ(>_<)

人様のお金を勝手に破ってしもたんやからね。

でもな、みんな聞いてほしいことやねんけどな、

うちが欲しいのは一万円なんかじゃなかったんよ~。

 

だって一万円あったらみりんちゃん戻ってくるん?

一万円あったらトト子の代わりになるん?

一万円があれば蘭々は買えるんですか?

 

ああ、人間ってなんでこんな簡単な事もわからへんのやろ(T ^ T)

「さゆみかんランド」とか、そんなんもうどうでもええねん。

夢の国とかゆうてるけど、じゃあ現実は悲しい場所なんって!?

ああ、うちはもう三人がいてくれるだけで幸せでした。

三人がかわいくってかわいくって仕方がありませんでした。

 

うちは元々「先輩」みたいなんが苦手で、

極力みんなと関わらんようにして生きてきたからさ~。

軍団ってゆっても、ほとんど私のわがままにつき合わせてる気がするけど、

そんな私のわがままにつき合ってくれてた三人が大好きです。

 

ああ、もう遅いんかなぁ(T ^ T)

大事な事って、おるうちに言わんと伝わらんのかなぁ?

おらんようなるってわかってたら、頑張ってこの口でゆってたんかなぁ?

でも、こう見えて私も恥ずかしがりややし、直接言うのはあれなんかなぁって。

そんな風におもてたけど、でもこうしておらんようになったら、

うちはもうお月さんに話しかけるより他ありません。

せめてみりんちゃんがヘアゴム置いてってくれてたらなぁ。

あっ、みりんちゃんおらんとき、たまにうちらあれを「みりんちゃん」って呼んでます。

えーっ、怒らんといてー、ちゃうねんちゃうねん、だってうちらほんまにみりんちゃんのことが好

 

 

 

・・・

 

読者諸君には、僕が不健全にも彼女の日記を覗いてしまった事を謝ろう。

だが、僕は読んでいる時、うっかり涙がノートに溢れてしまわないように、

こぼれ落ちる滴を手で拭うので必死だった事もお伝えしておこう。

 

読者諸君も見たように日記は書いている途中で途切れていた。

書いている間に眠ってしまったのだろうと思われる。

なんだろう、とても不器用な女の子なのだなと思った。

そして、乙女心なんて僕にはわからなかったなと気づいた。

 

明日、謝らなければならないのは僕の方かもしれなかった。

一万円を破られたとか、そういう事はどうでもよかった。

冗談でもあんな風に言ってしまった事を悔やんでいた。

 

だが、僕が謝罪してしまえば、日記を読んだ事がバレやしないだろうか?

本当の事をいえば、日記を読んでしまった事を謝罪しなければならないのではないか?

でも、こういう事はそっと胸にしまっておく方が良いのかもしれない。

知らなければわからないし、読まれたと思うと彼女もまた恥ずかしくていたたまれないだろう。

 

僕はそんな事を考えながら、余っていたもう一つのベッドから布団を取り、

そっとさゆみの肩からかけてやった。

風邪をひいてもいけないのだし。

 

 

 

・・・

 

翌朝、朝食を食べてから僕達は出発した。

 

相変わらず菊ちゃんはもりもり食べていたのだが、

明日奈とさゆみはほんの少ししか食べなかった。

菊ちゃんと僕が「食べないとダメだよ」と薦めながら何とか食べた程度だ。

 

すっかり僕の愛車となってしまったフォルクスワーゲンバスは、

3日間でほとんど乗らないままにレンタル料だけが加算されていった。

レンタル業者に延長の電話をした時に「そんなに気に入りましたか」と言われたのだ。

僕はお支払いにVISA先生を当てることにした。

VISA先生は怖いのだ、後でガツンとやってくるから、あまり頼りたくなかった。

 

僕の財布の中は寒くなっても、沖縄の空は相変わらずの快晴で、

窓から差し込む日差しだけでも日焼けしそうなくらいだった。

フォルクスワーゲンバスの後部座席には明日奈とさゆみが乗り込み、

目的地へのナビ代わりとして菊ちゃんが助手席に座っていた。

 

後ろにいる二人がまるで覇気がなかったのに引き換え、

助手席に座っている菊ちゃんは陽気に歌っていた。

時々、踊りながら振付をつけてくるのだが、

その手振りが大きすぎて右手が僕に何度も激突した。

もう僕には彼女が何者なのかわからなかった。

僕はただ、児玉坂46が撮影に使用した海を目指してただ走るだけだ。

そこで何が待っているのか、何が起こるのかを考える力も残ってはいなかった。

 

フォルクスワーゲンバスは緑の木々が植えられている歩道を横目に駆けて行った。

沖縄の道路には車が少なく、ドライブを楽しむ分には快適な事はこの上なかった。

僕はどこをどう走ったのかよく分からないが、菊ちゃんの案内に従っているうちに、

やがて児玉坂46に関連する目的地の海が目の前に広がってきた。

 

しかし、そこには見渡す限り僕ら以外に人影は見られなかった。

しかもそこは僕達が一般的に想像するような沖縄の青い海や砂浜ではなく、

海水のあるところは地面が茶色になっていて、水が綺麗な分だけその茶色が際立って見えた。

いわゆるこれは干潟という場所のようで、水流が運んできた土砂が堆積されて形成されたものらしく、

その水流が激しくないために、流されてしまわずにそこに残っていくのだという。

それによって砂浜のような場所にもならず、だが潮の満ち引きによって陸地になったり海水に覆われたりするらしい。

 

こんな沖縄でも珍しい場所に、僕らを呼び寄せる意図とは一体何なのだろうか?

 

 

・・・

 

 

そして僕らはここに持ってきた簡易のテーブルと椅子を置いた。

太陽光を防ぐためにパラソルを設置してみたりもした。

この場所で何かが起こるのを待つほかなく、

僕は菊ちゃんの要求通り、持ってきたかき氷機を取り出し、

クーラーボックスの中から大きな氷を取り出してかき氷を作った。

 

随分前に説明したように、パラソルは菊ちゃんと明日奈を太陽光から防いでおり、

その向かいでテーブルに臥せっているさゆみには物理的に大きさが足りていない。

僕はそれではあまりにもかわいそうなので、日傘を用意して彼女を太陽光から守っていた。

その片手間で一人でせっせとかき氷を作りながら彼女たちに無償で提供しているのだ。

ああ、暑くてこのかき氷のように溶けてしまいそうだった。

一人でこの灼熱の太陽に晒されながらの奴隷制度、かき氷は切なすぎる。

 

やがて僕も椅子に座って何かが起こるのを待っていた。

菊ちゃんは僕が作ったかき氷を食べているし、明日奈はやがてカバンから本を取り出して読み始めた。

さゆみは相変わらず机に臥せったまま「ううっ、ああっ」という声が時々聞こえるくらいだった。

 

あまりに退屈な時間だけが流れて行ったので、僕は何か退屈を凌ぐためにキョロキョロしていた。

ふと明日奈が熱心に読んでいる本のタイトルが気になり、僕は彼女にばれないようにそっと横目で盗み見た。

本にはブックカバーがかかっていたので、わざわざ彼女の側に回って何か用事をするふりまでして。

 

明日奈が熱心に読んでいたのは安部公房の「砂の女」だった。

こんな茶色い海でそんな本を読むなんて、運命とは不思議なものだなと思った。

「その本、面白い?」と僕は彼女に尋ねた。

「えー、面白いよ」と彼女はそっけなく答えた。

「そう、いつから読んでるの?」と僕はとりあえず会話をつないだ。

「女子会の頃くらいかな」と彼女はまたそっけなく答えた。

どうやら読書に集中したいらしく、話かけてほしくなかったらしい。

 

それにしても、僕達はいつまで待てば良いのか皆目検討もつかなかった。

ここの干潟は時間帯によって潮の満ち引きが起こるようで、

時間が経てばたつほど、ここから見えている海水は引いていってしまう。

つまりさっきまで海だったところが湿った陸地になって現れてくる。

しかし、砂浜のように決してサラサラで歩きやすい場所でもない。

小石や大石が混ざったような少々荒い感じの海辺である。

 

僕は退屈になって少し海の向こう側を見渡してみた。

どこまでも広がる海は、茶色い色をずっと向こうまで広げていた。

手前の浅瀬はまだ水が透き通っているので海底が見えるのだが、

遥か向こう側の海はまるで砂漠であるように一面が茶色に埋め尽くされている。

ずっと見渡してみても特に何か面白い物が見つかるわけでもなかった。

だがしばらく観察していると、先ほどより少しずつ海水が引いているのがわかった。

このまま待ち続けていると、海は僕らからどんどんと遠ざかってしまう。

一体こんな場所へ犯人が現れるとでもいうのだろうか、バカバカしくて僕もくたびれてきた。

 

さっきから菊ちゃんが腕時計を気にしているのがわかった。

夕方には帰らないといけないこともあり、時間を気にしているのだろう。

明日奈は読書を続けるも落ち着かない様子で、時々ため息を混じらせる。

さゆみは時々突っ伏していた顔を上げるが、涙が頬をぐしゃぐしゃにしてしまい、

もう僕は昨夜の日記を読んでしまった人間なので彼女の姿を見てはいられなかった。

僕はただ、太陽光から少しでも守ってあげるように日傘をさし続けたのだった。

 

菊ちゃんがかき氷を食べ終わり、またちらりと腕時計を見たとき、

隣に座っていた明日奈がパタリと本を閉じておもむろに立ち上がった。

そして、それが気になったのか、さゆみも伏せていた顔を上げて明日奈を見た。

 

明日奈は何を思ったのか、突然何も言わずに無言で海の方へ向かって歩き始めた。

そして僕が驚いたのは、彼女が裸足で歩いていくのが見えたことだ。

彼女が履いていたサンダルは、テーブルの下に脱ぎ捨ててあったのだ。

 

 

・・・

 

 

僕にはもう彼女が理解不可能だった。

思えば、ホテルの屋上で翼の生えた姿を見たときから、

彼女が少し普通とは違った人間だとは気づいていた。

気まぐれにお願いしてきた濃厚生クリームソフトは食べさせてあげられなかったが、

後日そんなことはすっかり忘れていたようだし、とにかく気まぐれ子猫なのだ。

 

こうして今、彼女が何を思ってか裸足で海まで歩いていくのを見たとき、

ああ、僕は結局のところ、彼女に振りまわされっぱなしなのだと悟った。

どういうわけかこんな南の島までやってきて、仲間達の失踪事件に巻き込まれて、

福澤先生とのお別れ、布団ミノムシ事件、トイレ事件の背負い投げ、

かき氷の奴隷制度、フォルクスワーゲンの維持費、

もうたくさんだと思った、太陽光で僕の肌はもう真っ黒焦げになっている。

 

裸足になってどうするつもりだ?

そのままどこかへ歩いていくのか?

いったい何がしたいんだ?

もう僕には行動が予測できないんだ・・・。

 

太陽は激しさを増し、海水に降り注ぐ光は波へ差し込んで乱反射していた。

明日奈はその海水の方へ黙って裸足で歩き続けていく。

 

そのとき、ずっと動かなかったさゆみが立ち上がった。

亡霊のようになってしまった体を起こし「行ったらあかん~」と叫び出した。

もうこれ以上親しい人がどこかへ行ってしまうのが耐えられないらしかった。

さゆみは「行ったらあかん~」と泣き叫びながらまるでゾンビのように頼りない足取りで明日奈を追いかける。

 

そのとき、菊ちゃんもついに動いた。

追いかけていったさゆみを連れ戻すようにして「さゆみん、邪魔しちゃだめだよー!」と言う。

彼女に羽交い締めをされた人間は基本的に動けなくなるが、さゆみはワーワーと抵抗し続けた。

 

もう僕にも何が起こるのか理解不能だった。

だが、僕はテーブルの上に残っていた「砂の女」のしおりに目が止まった。

それはしおりというよりも一片の紙で、何かに似ていると思った。

僕は文庫本をパラパラとめくり、そのしおりが挟まれているページにたどり着いた。

そして、その紙を取り上げると折りたたまれた部分を開いて中身を見た。

 

午後1時に裸足でSummerの海へ歩け

 

それは紫文字で書かれた犯人からのなぞの落書きだったのだ。

そういえば思い出した、花沙が失踪したときの分はトイレで見つかったが、

結局、きな子が失踪したときの分はまだ見つかっていなかった。

おそらく、これは明日奈がどこかでそれを見つけて秘密にしておいたのだ。

だから彼女は犯人が海辺で待っていることを知っていたのだし、

おそらく彼女は誰にも迷惑をかけずに一人で犠牲になるつもりをしていたのだ。

僕達に知られれば、きっと彼女の代わりになろうとするに違いないと知って。

 

「明日奈ー!!」と僕はそこから彼女の背中へ叫んだ。

 

彼女は両手を目の高さまで上げて、あれはおそらく指望遠鏡を作っているらしかった。

視界を防がれた状態で、彼女は孤独に海へと、粛清の渦へと歩みを進めていたのだ。

転ばないように、彼女の指望遠鏡は少し先の足元を見つめているようだった。

あんな態勢では周囲から襲われればひとたまりもないものだった。

それが犯人の狙いであることは外部から見れば一目瞭然だった。

 

「明日奈ー!指望遠鏡は罠だー!」と僕は叫んだが明日奈には聞こえていない。

彼女は知らないうちにずんずん遠くへ行ってしまったようだし、

この海も知らないうちにどんどん潮が引いてしまっていたようだ。

 

これは僕の勇気が試される場面だと思った。

女子トイレ事件では災難だったが、あの時に踏み出した勇気は今も僕の左の胸にある。

彼女を助けなければならない、そうでなければ何のために沖縄まで来たのかわからない。

 

僕が行かなきゃ誰がいくんだ!

 

僕はそう叫んで明日奈の方へ向かって走り始めた。

そして、少し行ったところで僕の足元に横からスラッと長い足が伸びてくるのがわかった。

僕は勢い余って止まれない、その伸びてきた足に引っかかって「ぬおっ」と声をあげて足がもつれた。

その足はさゆみを捕まえていた菊ちゃんのものだった。

 

やられた、やはり彼女が犯人だったのだ・・・。

 

僕は盛大に転び、履いていたサンダルがどこかへ飛んで行ってしまい、そして顔から地面に突っ込んだ。

そのあとに胸から落ちて体全身を強打し、背負い投げで痛めた背中と合わせて完全に一本負けだった。

 

 

 

・・・

 

不動さん、ごめんなさい。

でももういいんです、粛清を受けるのは私一人で十分です。

 

私は今、両手で指望遠鏡を作りながら両目に当て、この茶色い干潟を歩いています。

指望遠鏡なんてオシャレな呼び方をしてるけど、こんなのただ視界が狭いだけ。

やってみたらわかると思うけど、自分の掌が左右の視界を妨げてくるの。

だからこんなの、危なっかしくて歩けたもんじゃないんだけど。

 

でも、これも犯人の要求なんです。

 

私が一体、何をしたって言うんだろう。

誰かの恨みを買うようなこと、知らないうちにしちゃってたってことかな?

もしそうだったら謝ります、ごめんなさい。

たぶん、私ってすごい性格悪いから、

きっと無神経に誰かを傷つけちゃったんだと思う。

 

不動さんが思ってるように、犯人は菊ちゃんなんでしょうか?

でも、私はどうしてもそんな風に思えない。

だって彼女が私を恨む理由もあまり思いつかないし、

みんなが失踪していく時、彼女が犯人だとしたら説明がつかないし。

 

私は自分の事を素直に話す方じゃないから何も言わなかったけど、

私だって今回の事件に関しては自分でも色々と考えてみたんです。

 

でも、わかんないの、もうわかんない。

だけど人間関係って知らないうちに誰かを傷つけたりもするし、

生きてるだけでみんなが平等に幸せになることなんてないから、

きっと私が生きてるだけで目障りだと思う人だっていると思う。

私は私が万人受けするような性格でもないってちゃんとわかってるし、

別にこの世界に期待なんてしてないから、誰かに恨まれないようになんて、

そんな風に清く正しく生きていこうなんてつもりもさらさらない。

 

でも、なんで私なんだろう?

どうして私が今ここで犯人の要求通りに海へ向かわなきゃいけないんだろう?

わざわざこんな手の込んだことまで企画して、私を陥れようとするなんて、

いったいどんな暇人が考えたことなんだろうって私思うんです。

それだけが気がかりです、理由がわかんないから。

 

だけど、人生ってそういうものかもしれないし、

世の中って理由が曖昧で納得できるものなんてないんだし、

そういう風に私の好きな小説みたいにもやもやして進んで行くのが正しいのかもしれない。

もうすぐやってくる私の結末だって、別にこの世界にとっては何てことのない悲劇の一ページに過ぎなくて、

私が失踪したって誰の記憶にも残らないし、私だって別に残ってほしいなんて思わないし。

 

だけど、お母さんには申し訳ないかも。

私のことを宝物のように一生懸命に育ててくれて、

結局、こんな風に誰かの恨みを買うだけに人生を費やしてしまって、

お母さんには何も報いることができなかった。

親孝行なんてちょっと恥ずかしいし、面と向かって感謝なんて言いにくいけど、

でも、こうなってからでは遅かったんだろうなって今ならわかる気もする。

ああ、死ぬ前ってこんな風に思うんだな、なんだろう、感謝しかない。

 

 

なーんて思ってました。

この時は。

 

ここから先は、私が見た光景と、私があとでみんなから聞いた話の内容です。

私が見た光景に関しては、きっと不動さんもさゆみんも遠くからだけど見てたと思う。

 

だけど、私が今から話す内容は、不動さんもさゆみんも知らないことです。

二人にはいちいち話をするのも面倒だし、機会があれば話すかもしれないし、話さないかもしれない。

でも、読者の皆さんはそんなことは気にしないでください、

だってそんなこと、あなたたちにとって全然関係ない事なんだし。

 

さて、準備はいいですか?

じゃあこの物語の続きを皆さんにお伝えしますね。

 

 

・・・

 

 

この時、私は指望遠鏡から見える狭い視界を足元に向けていました。

だってそうしないと、荒い石とか踏んでしまって足を怪我しちゃうと思ってたから。

もうすぐ死ぬかもって思ってたのに、足の怪我を気にするなんて、人間ってバカバカしいですよね。

 

でもそれも犯人の思惑なのかなって思ってました。

裸足でこんなところを歩けば、そりゃあ間違いなく怪我しますよ。

だから狭くなった視界を足元に向けるのは、たぶんそれは一般的な考え方なんだと思います。

 

想像してみてくださいね。

そうやって歩いていくと、どうしたってフラフラ歩いちゃうし、

歩きやすそうな部分を通るように気をつけるから、結果的に真っ直ぐは歩けないんです。

だから私はたぶん、後ろから見てたら疲れ果ててフラフラしてたように見えてたと思います。

 

「砂の女」の本に挟んであったあの紙には、午後一時にって時間の指定がありましたけど、

もっと早い時間だったら、きっとこんなに潮が引けないうちに海に辿り着いてたと思います。

結構時間が過ぎてしまってたので、海はまだまだ先にあるように感じてました。

でも、私には足元しか見えてなかったんですけどね。

 

そうやって一歩一歩、少しずつドキドキしながら進んでいくと、

だんだん地面が湿っているのが足の裏の感触からわかりました。

それって、海が近づいてきてるってことを意味してると思ったので、

ああ、もうすぐなんだなあ、もうすぐ私はすごく嫌なものを見せられるんだなあって思っていました。

不動さんも考えてたと思いますけど、指望遠鏡って、きっと「見る」ってことに特化させてるんだと思います。

五感のうちの視覚の部分に焦点を絞って、私の全存在を「見る」って機能に集約させて、

その感覚がもたらす効果を最大限に引き出して、その狭められた視界に映りこむ嫌なものを、

きっとその時の私の感覚の全てにさせたかったんだと思います。

 

そして、犯人のその思惑は成功したのです。

私は覚悟を決めて、いよいよもうすぐ海が見えるところまで来ていました。

初めて私の足に海水が触れました、海水は透明で、だからこそ余計に海底の茶色が際立って見えました。

遠くから眺めただけでは、さすがに何も見えませんでしたが、ここまで近づけばわかります。

潮が引いていったせいで、朝には深くて近寄れなかったこの辺りも、今では浅瀬に変わっていたんですね。

 

本当にバカバカしい話ですが、この茶色い海を見ている時、私は自分が読んでいた「砂の女」を思い出していました。

青い海ではなく、こんな茶色い海を選んだことは、きっと犯人の皮肉だったんじゃないかと思いました。

私の好きなものをちゃんと理解して、それでいて犯行に及んだことが見て取れましたよ。

そう考えると、こんなバカバカしくて酷いやり方の犯人に、嬉しくさせられてる愚かしい自分も発見しました。

人間の気持ちってひとつではないですもんね、色々とないまぜになって、様々な顔を覗かせますもんね。

 

そんな風にして私は歩き続けていました。

8月の暑い夏の沖縄で、足に触れた海水は冷たくて心地よくも感じちゃいました。

私って基本的に海は嫌いなんですけど、ここ数日間はずっと憂鬱だったからですかね、

なんだかもうどうでもいいような一種の開放感みたいなものってあるんですね。

私そういうの、この時に初めて知ったような気がします、これが夏の魅力なんでしょうか。

 

ところで、私はどこまで歩いていけば良いのでしょうか、

海水に足を浸しながらチャプチャプ音がして、まだ海水は足首までしか到達していませんが、

こんな感じで続けていけば、やがては膝まで達するし、そのうち腰まで達するし、

なんてそんなことを考えていた頃、犯人の思惑の方が先に達せられたのでした。

私はついに、犯人の罠にかかって、とても嫌なものを見せられてしまったのですよ。

 

私の狭い視界、指望遠鏡の先に見えたもの、それは大きな白い石で形作られた文字でした。

この水流に決して流されないような、とてもしっかりした大きさの石が海底に敷き詰められていて、

その文字を指望遠鏡で眺めてみようとしたのですが、太陽光が水面に反射して光ってよく見えません。

私はもう少し近づいてよく見てみることにしました、そしてその文字が英語であることがわかりました。

そしてそのアルファベットの文字で、こんなふうに書かれていることが分かったのです。

 

HAPPY BIRTHDAY

 

その時でした。

私は視覚に全ての神経を集中させられていたので、おそらく聴覚については油断させられていたんですね。

背後から聞こえてきた音に、私は一瞬、自分の耳を疑いました。

 

「HAPPY BIRTHDAY TO YOU~♪HAPPY BIRTHDAY TO YOU~♪」という声を発していたのは菊ちゃんでした。

私は驚きのあまり指望遠鏡の姿勢のまま後ろを振り返ったんです、そこにはいつの間に近づいていたのか、

オペラのように伸びやかに歌を歌っている顔をした菊ちゃんがこちらに歩いてくるのが見えました。

 

「HAPPY BIRTHDAY DEAR ASUNA~♪」と伸びやかに歌いながら菊ちゃんの腕も沖縄の空へ伸び上がりました。

指望遠鏡の効果は絶大です、私の視界の中は、まるでオペラを覗いているように眩しい菊ちゃんでいっぱいでした。

 

「HAPPY BIRTHDAY TO YOU~~~~♪」と最後の部分をビブラートでいっぱいに伸ばしながら、

そこで彼女の澄んだ歌声はこの太陽の島、沖縄の空へ吸い込まれていったのでした。

 

そして私は、指望遠鏡によって遮られていた周囲からパチパチという音が鳴るのを聴きました。

焚き火の火花ではありませんよ、もっと人間味のある、私のすっごく苦手な音です。

 

音のする方をぐるりと見渡しながら、私はまた海の方へと振り返りました。

三藤舜奈、北条真美・・・女子会に参加したみんなの姿が見えました。

そして、そこには途中から参加したあの「よろず屋」のメンバーもいたように思います。

ぐるりと振り向いた先に私が見たのは、白いクリームに赤いイチゴの乗ったケーキを持った高元木芽香でした。

 

ふぅ、もうこれで十分にお判りですよね?

そうです、こうして私はまんまと嫌なものを見せられてしまったのでした。

 

 

・・・

 

 

女子会で私が眠ってしまった後、こんなやりとりがあったそうなんです。

 

プレゼント交換会で私が誰にもプレゼントを貰えなかったのは思い出したくもない、恥ずべき失態でした。

だけど、それを舜奈ときな子が気にしてくれてたらしくって。

ひどいことしちゃったなぁって思ったみたいで、ああ、もう本当におせっかい。

 

そういえば女子会で誕生日の話をしたから、みんなは私の誕生日がもうすぐ来るって知ってて、

私が18歳になるってことも知ってたんですよね、私は自分自身、こんなことがあったのですっかり忘れてました。

 

私が眠っている間、みんなは私が読んでた本を見つけたらしいんです。

「乱反射」と「砂の女」の二冊が確か鞄の中に入っていたから、見られたのはそれだと思います。

私はあまりこういうの恥ずかしくて誰にも見せないのでびっくりさせちゃったみたいです。

なんかこういうミステリーみたいな本を読んでるのを外見から想像するのが難しいんですって。

 

みんなで話をして、じゃあ私が好きそうな感じで誕生日を祝おうって決まったらしくって、

それ以外にも色々と雑多な話が混ざりに混ざって、夏休みに旅行に行きたいねってなったらしいです。

じゃあどうせなら私が好きなミステリーの要素を旅行に混ぜたらって、こんなの一体誰が言い出したんでしょうね。

 

もうほんとに嫌。

 

言い出したのが誰か知らないけど、菊ちゃんではないことは確かなんです。

だって菊ちゃんはこの話には参加してなくて、お仕事があるから先に帰っちゃってたんで。

 

とにかく、その時に沖縄旅行に行くことと、何かサプライズをしようって決まったらしいです。

ああ、もう私本当にサプライズとか嫌いなんです、なんでもっとさりげなく祝ってくれないのかな。

そもそも、私ってハッピーエンドとか苦手なんですよね、そういうの別に見たくなくって、

もっともやもやした感じで終わる小説とかの方が好きだったんですけど。

 

それでとにかく女子会は解散になったらしくって、それでその日の「Bar Kamakura」ですよね、

通常通り営業してたら、よく来る常連さんの小説家さんが飲みに来たらしいんです。

なんか北条真美の友達らしいんですけど、中山蓮実さんとその担当の人なんですって。

 

真美と舜奈がおせっかいな事に、その旅行の計画を二人に話したらしいんですよ。

そしたら職業柄、そういうの好きな方達なんでしょうね、すごい盛り上がっちゃったらしいです。

特にその担当の方が酔うと饒舌になるらしくて、その勢いで最近の蓮実さんの小説はいいって言い出して、

初めての長編に取りかかってるらしいんですけど、それがとってもいい感じに書けてるみたいで、

書けば書くほど素晴らしい、僕なんかもう必要ないんですよ、担当として失格ですとかなんとか言い出す始末、

そのままどこをどう間違えたのか、私のサプライズのストーリーを蓮実さんが考えるなんて言い出して、

蓮実さんは最初はお断りしたらしいんですけど、酔いに任せてあれこれ話が出たらしいんです。

やっぱりそういう業界の方だから詳しいんでしょうね、「乱反射」も「砂の女」も読んだ事あるらしくて、

私の好みを分析して、アドバイスして、それを蓮実さんがその場で構築していったんですって。

 

そのうちにストーリーが出来上がったらしくて、酔っ払った担当さんは椅子を動かし始めて、

勝手に壁に落書きを始めちゃったらしいです、もう本当に酔っ払いって迷惑ですよね、

自分で飲むだけならいいですけど、他人に迷惑かけちゃう人って私本当に嫌いです。

まあ、私の好き嫌いはどうでもいいんですけど、さすがに壁の落書きは真美も怒ったみたいです。

でもまあ仕方ないので、それを使って今回のサプライズを決行しようって事になったそうです。

だから、あの落書きは全部その担当さんが書いたんですって、はぁ、どうりで見た事ない筆跡だと思いました。

 

 

・・・

 

 

それで結局、その蓮実さんが考えたプランを実行に移したんだそうです。

でも先に沖縄に行って準備する必要があるからって、抜ける人と残る人をじゃんけんで決めたらしいです。

それで舜奈が一抜けで、それなら真美も一緒にしないとお店の都合もあるからって、

二人は先に沖縄へ行ってせっせと石を集めてたんですって、何の石ってあれですよね、

この海の水流に流されない大きさの綺麗な石です、準備も大変だったらしいですよ。

 

酔っ払いの考える事って、本当にくだらないことだと思うんですけど、

HAPPY BIRTHDAYの文字を海底に隠すっていう、本当にバカじゃないのっていう話です。

蓮実さんが「児玉坂46がMVで撮影した海がある」って話をした時に、

時間によって潮が引いていくのを利用して、海の中に文字を隠せると思ったんですって。

行き過ぎたロマンチストっていうか、ただのバカですよね、もうほんとバカ。

 

次にじゃんけんに負けた木芽香は、私ときな子と一緒に「Bar Kamakura」に行ったとき、

舜奈が買って郵便受けに入れておいた沖縄行きのチケットをこっそり引き上げたらしくって、

それをラジオ局まで持って行って、オクシデンタルテレビの二人にも協力してもらって秘密にして。

沖縄についてからは美味しいケーキ屋さんを探してたらしいです、もうきめたんかわいいかよ。

 

でも、偶然にも私が「よろず屋」なんか入っちゃったせいで、菊ちゃんは焦ったみたいです。

だけど最初から菊ちゃんはこのサプライズには賛成しなかったらしいですよ。

たぶん、お仕事で先に帰っちゃった時の話だし、自分のいない場所で決まった事だったからってのもあるし、

最後に歌を歌うっていう演出を求められたのが、ちょっと引き受けるかどうか悩んでたみたいです。

だから私に「行っちゃダメなやつだよ」なんて言ったんだと思う、あれは結構本心だったのかも。

 

 

まあとにかく、私のせいで不動さんとよろず屋を巻き込んでしまいました。

予定外に人数が増えてしまって、彼女たちは焦ってたらしいです。

よろず屋の人達に計画がバレてもまずいし、とにかく邪魔だったみたいだから。

 

ホテルに到着した後、まずは一人で行動していたみりんちゃんを菊ちゃんが口説いたらしいです。

来ちゃったからにはやるしかないって事になった菊ちゃんはやっぱり凄い人で、

よろず屋で一番忠誠心が低そうな、それでいて物分かりの良さそうなみりんちゃんをまず説得したみたい。

それで先にホテルから外れてもらって、石集めのお手伝いに参加したらしいです。

でも予定外の人達だから落書きも用意してなくて、それはもう仕方ないってなったそうで。

 

面倒な事になったのはその後らしくて、不動さんがついてきてしまった事でした。

なにやらどんどん物事を推理していくので、菊ちゃんも花沙も疑われてるのをわかってたみたいです。

しかも、みんなで一緒に行動する事を求められてから、抜け出すタイミングを見つけられなかったみたいで、

きな子なんかは相当焦ってたらしくて、元々じゃんけんでギリギリまで残ることになったきな子は、

「騙す演技とか無理だよ~!」って言って木芽香と代わってもらいたかったらしいんですけど、

じゃんけんで決めたんだからってことで、仕方なくホテルに残り続けていたみたいです。

邪魔なよろず屋を説得してから最後に抜け出してってことになってたらしいんです。

でもきな子って正直な子だから、疑われてドキッてなっちゃったんですよね。

だから一緒の場にいた菊ちゃんと花沙が一番焦ってたらしいですよ。

 

結局、きな子は私に疑われてるって場面を想像することで悲しくなって涙を流せたらしくって、

その流れで会議室を飛び出して、ちょうど良いことに蘭々が追いかけてきてくれたから一緒に離脱。

あらかじめ決めておいた順番は逆になっちゃったみたいなんですけど、

場の空気が緩くなったのを察知してすぐに花沙がトト子を連れて抜け出したってことらしいです。

 

だけどそこで問題が起きたみたいです。

誰にも言ってなかったんだけど、花沙にはちょっと悪い癖みたいなものがあって・・・。

これ、言っちゃっていいやつかな?

別にいっか。

 

女子トイレにトト子ちゃんと一緒に辿り着いた時、花沙にスイッチが入っちゃったらしいんです。

花沙って実はちょっとした二重人格で・・・二重人格にちょっとしたもなんもないか、

そう、二重人格で、もう一人の人格はヲタクで変態なんですよー。

なんか可愛い女の子と一緒にいる時に、抑えきれなくなって発動しちゃうらしくて、

本人は人格が入れ替わってることに全然気づいていないんですけど、

うっかり「トト子ちゃん可愛いね~」って後ろから声をかけちゃったんだって。

それで、どうやらトト子ちゃんは乱暴な男性が怖いっていうか嫌いみたいで、

トイレの中で悲鳴をあげられちゃって、説得するのに小一時間かかったみたいです。

どうやらトト子ちゃんは今でも「花沙さん近寄らないでください」ってトラウマになったらしいですよ。

 

あと、これはきな子が完全に悪いんですけど、あの子どうやら抜ける予定の順番が花沙と入れ替わっちゃったからか、

一番重要な最後の謎の落書きを自分の鞄に入れたままにしてたみたいで、

失踪したはいいけど見つかるところに置くことができなかったらしいんですよ。

それで、あとで隠れて菊ちゃんに電話してお願いしたみたいです。

菊ちゃんはお仕事の電話のふりをして電話をとって・・・やっぱり女優さんだなーって思いません?

それで、部屋を移動させる時にきな子の鞄から落書きを取り出して、私の本の間に挟んだって流れです。

菊ちゃんは結局、こうやって尻拭いさせられるのがわかってたから、サプライズに乗り気じゃなかったのかも。

 

すべてやることを終えた菊ちゃんはやっと肩の荷が下りたらしくて、

だから最後の晩餐はもりもり食べて、海までの道中はリラックスして楽しんでたんだって。

あとは時間が来れば、海の潮が引いて隠された文字が浅瀬になって文字が見えるようになる。

その時に私をおびき出してから、後ろからサプライズの歌を歌う・・・そりゃさゆみんと不動さんは邪魔ですよね。

 

えっ、さゆみんが襲われなかった理由ですか?

だってあの子を説得するのは骨が折れそうだし、サプライズをばらしちゃう危険性もあるし、

まあ女子会のメンバーからすると狙いにくかったんですよね、かわいそうな事になりましたけどね。

 

はい、あっ、不動さんが邪魔なのに襲われなかった理由ですか?

だってあの人がいなくなったら誰が車を運転するんですか?

誰がホテル代を支払うんですか?

誰が諸々の経費を負担してくださるんですか?

福澤諭吉さんは「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なんて言ったらしいですけど、

やっぱりちゃんと優先順位はあるんですよね、不動さんはラッキーでしたよね。

 

 

はい!

もうこれ以上は面倒くさいのでおしま~い!

読者の皆さんはだいたいわかりました?

 

こうしてこの物語は終わっていくわけなのです。

えっ、まだ終わらないの、あっそう・・・。

 

 

・・・

 

 

おい、読者諸君はいったいどこに行っていたんだい?

こんな物語の大事なところで席を外すなんて・・・。

まあ戻ってきてくれたから良しとしようか。

では今からこの物語のクライマックスとなる場面を・・・。

 

えっ、HAPPY BIRTHDAYだろって?

どうして皆様ご存知なんでしょうか?

僕がこれまで語ってきたのはその為だったのですが・・・。

 

じゃあ仕方ない、その場面は省きましょう。

ええと、どこから話せばいいのやら。

 

そう、僕が菊ちゃんの長くて綺麗な足のせいで盛大にすっ転んだあと、

僕はしばらく立ち上がることができなかった。

遠くには指望遠鏡をしたままフラフラと海へ向かう明日奈が見えていた。

 

だが彼女が海へ近づいた頃、彼女の前に群がってくる人影が見えたのである。

それは皆さんがもう知っているように、彼女の誕生日をお祝いする人達だったのである。

 

ゾンビのようにあわあわしていた勝村さゆみは陸地に捨てられ、

いつの間にか菊ちゃんは明日奈を追いかけて海の方へ行ってしまった。

明日奈が指望遠鏡のままこちらを振り向き、菊ちゃんが何やら歌っている美声が聞こえる。

 

それを見た僕は瞬時にすべてを理解した。

どうして犯人が一人だと考えていたのだろう?

そう、この事件の犯人は女子会に参加していた全員であり、

明日奈を驚かせる為にこんな計画を練っていたのである。

 

そして、僕は明日奈の向こう側にいる人の群れの中によろず屋のメンバーを見つけた。

それを見た僕は、うなだれているさゆみに這ったまま近づき声をかけた。

「おい!しっかりしろ!あれを見ろ、みんなが待ってる!」と僕はさゆみを励ました。

陸地に倒れ込んでいたさゆみは顔を上げたが、砂と土で顔も体も泥々に汚れてしまっている。

だが僕にはその彼女の姿がとても美しいものであるように見えたのだ。

もういいんだ、苦しまなくていいんだ、あそこにみんなが待ってる。

 

「あー!」と叫びながらも立ち上がる元気もないさゆみ。

それはそうだ、この頃はほとんどご飯だって食べていないのだから。

僕はなんとか立ち上がり、彼女の前に出て彼女を背中におぶった。

モデルさんかと思うくらいに軽かった、いつの間にこんなに痩せたんだ?

 

そして裸足で走った。

あの光の乱反射する眩しい海に向けて真っ直ぐに走ったのだ。

やがて僕が辿り着く頃には菊ちゃんのお祝いの歌は終わっていて、

明日奈が指望遠鏡のままもう一度海の方を振り向いた頃だった。

 

僕は辿りついた時、力尽きて足がもつれて海の中に倒れ込んだ。

背中に乗っていたさゆみは、僕が倒れたことなど気にしないで、

這いながらよろず屋のメンバーに呼びかけたのだ。

そして、その変わり果てた軍団長の姿に気付いた三人が駆け寄ってきた。

砂と土で泥々になっていた軍団長を彼女達は「砂の女」と呼んだ。

 

「会いたかったー!」とボロボロに泣きながら三人に抱きつくさゆみ。

僕は力尽きながらも、目の前に広がる美しいハッピーエンドを見る思いだった。

もうそこには幸福しかなかった、みんなで集まる海、お祝いの歌、目の前のケーキ、浮き輪。

 

浮き輪?

 

僕はそこに集まっていた女子会のメンバー達が手に大きな浮き輪を持っているのに気がついた。

明日奈は指望遠鏡をまだ解いていないので、それが見えていないのかもしれなかった。

 

「あすなりん、ハッピーエンドは嫌いなんだよね?」と唐突に木芽香が言った。

「えっ?」と言ったのは僕よりも明日奈だったのかもしれない。

女子会のメンバー達は手に持っていた浮き輪を次々と明日奈の頭の上から通し、

明日奈は頭だけが見えるような姿で複数の浮き輪に封じ込められて身動きが取れなくなった。

 

「せーの!」の掛け声とともにみんなが一斉に明日奈を取り囲み、

次の瞬間に明日奈はみんなに投げ飛ばされて海の中へ放り込まれた。

バシャーンと海水が大きく弾けると同時に、明日奈は海の中でずぶ濡れになっていた。

 

「どう?もやもやしてきた?」と尋ねたのは花沙だった。

明日奈はずぶ濡れになりながら浮き輪を外して立ち上がり、

「もうほんとムカつく」と周囲に聞こえるように叫んだ。

 

だが、僕は見逃さなかったのだ。

彼女がそう言いながらも、顔には満面の笑みを浮かべていたことを。

 

読者諸君、ここまで聞いてくれてありがとう。

こうして僕達の夏の物語はもうすぐ幕を閉じることになる。

同時に、それは僕の淡い恋が終わりを告げることを意味する。

 

この夏が終われば、もう内藤明日奈は僕に何か助言を求めることはないだろう。

それは彼女が今回の事件に不安を感じていて、どうしようもなくなって僕に尋ねただけに違いない。

それを僕が勘違いして、どうやらこんな南の島まで来てしまっただけなのだ。

 

拾ってきた子猫はただ偶然にもお腹を空かせていただけで、

無事に餌にありついた後は、もう僕に懐いてはくれないのだろう。

子猫を拾う時はいつだってそうだ、家に連れて帰ってからかかる費用も、

家族を説得する術も、かまってあげる時間も、何も考えることはない。

そしてその子猫が、拾ってきた僕ではなく母や兄に懐いてしまうという未来も。

 

ああ、でももうそんなことはどうでも良いのかもしれない。

僕はこの夏の記憶を読者の皆さんとともに分かち合うことで、

それをもって僕なりの幸福と呼ぶことに決めたいと思う。

 

だって、僕の目の前には今、多くの仲間達に祝福されて、

みんなのセンターに立っている、彼女の姿があるのだから。

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

 

 

裸足でざまぁ  ー自惚れのあとがきー

 

 

本作は楽に書けたとも言えるし、苦労したとも言える。

センターになったお祝いと誕生日祝いと言うこともあって、

この楽曲から書くという事を先に決めてしまった事が首を絞めることになった。

 

正直、やっぱり想像していたよりも明日奈らしくない明るい曲調だし、

彼女の嫌いな海がMVにも出てくるし、さてどうしようと悩んだのは事実である。

しかも明日奈を主役に据えるのはこれで3作目であり、ネタも使いはたしてきていた。

 

筆者にとってチャレンジだったのは、もう明日奈が好むミステリーを書こうと決めた事だ。

しかし、これもまた自分の首をさらに絞めることになった。

筆者は普段からあまりミステリー小説は読まないし、そんなの書いた事もなかった。

だから正直、今作もうまく書けたような気は一切していない。

明日奈の好きな作家の作品を読んで研究もしてみたが、読めば読むほど難しいと思った。

書いてみてわかったのは、ミステリー小説は数学みたいなもので、

かなり緻密に積み上げていかないとすぐにボロが見つかる。

筆者は数学が得意ではないので、これはとんでもない物にチャレンジしてしまったと思った。

 

そして、児玉坂の世界観で殺人なんて起こせないし、暗い感じにはできないので、

やっぱりこの程度のオチが限界だと思った、バッドエンドだってこの程度が限度である。

 

今回、書いてみて気に入っている箇所は幾つかある。

それはさゆみかん軍団の日記と明日奈の独白調の部分である。

それぞれの人物になりきって再現してみたが、何とも難しかった。

 

特にお気に入りは、軍団日記の7月7日のお祈りのくだりである。

あれは結局のところ、軍団長だけ知らずに7月8日にお祈りしていたという冗談だが、

他の3人だけが真実を知っているという、本作のラストを暗示しているくだりだったのである。

 

あと、細かいところで言えば、菊ちゃんが電話を受け取る時に流れる着うたが「ひっかけ」であり、

あの電話はきな子からの電話だったという疑わしさを暗示しているところなどである。

でもまあ、あのあたりの場面は菊ちゃんがいてこそ成り立っているのであるが。

 

そう、物語が進んで行くに連れて人数が減っていくわけだが、

気づいてみると無意識的に残してしまったのがこのさゆみと菊ちゃんだった。

筆者にとって、やはりこの二人はお笑い物を書く上では欠かせない存在だと言える。

 

二人の共通点は「めちゃくちゃ」だという事である。

常識的な枠から外れてくれるので、物語をひっかき回してくれるには絶妙なキャラなのだ。

今回のシングルでも二人はカップリング曲をもらっているが、

それもなんとなく頷けるというのは、創作者から見てこの二人が創りがいがあるからだ。

それは飛び抜けた個性というか、それは多分、ちょっと真似できない天才性だと思う。

 

話がそれるが、春元真冬もお笑いには欠かせないが、

彼女は本当は極めて常識人なのであり、そうでありながらあそこまでお笑いを極めている。

だからこそ、彼女の評価は「頑張り屋」や「努力家」になってしまうのだ。

むしろ、周囲が手本とするのは真冬かもしれない、彼女みたいになら努力でなれる。

とはいえ、真冬は真冬で天性の勘の良さを備えているからとも言えるのだが、

ともかく、菊ちゃんとさゆみには、多分この二人しかなれない、真似しようがない。

 

今回のような役でも、菊ちゃんはなんでもこなしてくれる。

正義でも悪でも、シリアスでもおちゃらけでも、幅が広い人である。

この子が犯人なのか?・・・と思わせるにも菊ちゃんのミステリアスさなら受け止めてくれる。

 

一方で、勝村さゆみに関しては、筆者個人としては頑張ってもらいたい人である。

本人も色々あるし、悩むこともあるだろうが、本作では「秘密」みたいな部分を、

あの日記のくだりで表現してみようと試みた(大阪弁は書いていて楽しい)。

この子の心のトンネルは、入り口は広いが奥はとても狭くなっていて、

誰にも開けない心の奥底があるのだと思われるからだ。

 

本作でも彼女にはドロドロのボロボロになってもらってしまった。

でも、筆者はそんな状態になってもさゆみには頑張って欲しいと思ったし、

そういう孤独からの解放をエンディング部分に設けさせてもらった。

一切合切を含めてこんな表現しかできなかったけれど、

それが筆者なりの彼女への応援メッセージでもある。

何かの雑誌で彼女自身が自分を「漫画のキャラ」だと思っていると言っていたが、

本当に彼女の存在自体が面白いのだから、その連載を楽しみにしている人のために頑張ってもらいたい。

菊ちゃんとさゆみは、お笑いの風神雷神みたいなもので、双璧をなすキャラなのだから。

 

さて、最後の明日奈の独白調の部分だが、あのちょっと冷めたツンデレ感を出すのに苦労した。

うまく書けているとも思わないが、彼女になりきって書いたのは本作で一番面白かったし、

普段から彼女を研究している成果の見せ所だと思ったものだった。

 

この独白調を取り入れようと思いついたきっかけは、彼女が表紙を飾ったヤングジャンプだった。

ブログのタイトル調に加工された本誌の試みがどうやらお好みだったらしいので、

では、こちらでも彼女の語り口を再現してやろうではないかと思ったのだ。

だが、どうしても筆者が書くと意地悪な要素が混入してしまうらしく、

本人よりも性格が悪くなってしまったかもしれない。

 

また、今回は不動さんというキャラから見た視点で書いてみた。

この手の書き方は久しぶりで、実際にすごく書きやすい。

それもあって苦労しながらも本作はかなり短時間で一気に書き上げることができた。

いつもの書き方は客観的な目線で書くのでキャラを動かしながらセリフを吐かせるが、

今回はセリフよりは勢いと不動さんの目線に巻き込むことを重視した。

また、不動さんは本楽曲のイメージから生まれたキャラであり、

彼女たちに振り回されてボロボロになってしまう役割である。

最後にオチを語るところまで明日奈に取られてしまい、本当に散々な人であった。

ところで「健全」というなんとなく書いた言葉がやけに気に入ってしまった筆者は、

それを推し進めたヘンテコなキャラに仕立て上げてしまった。

だが、筆者もある意味で健全をモットーとしている人なので、

共通点がないといえば嘘になる、まあ筆者は別に不動産屋の息子ではないが。

 

 

さて、握手会で明日奈に「これで書きますよ」と宣言した作品は書き終えた。

正直、まだ児玉坂には描きたいキャラや活躍できるキャラが多くいる。

この軍団なんて、それぞれにフィーチャーした物語だけでもあと4本は書けるし、

ぼんやりとであるが筆者の頭にはもう浮かんでいる。

なんというか、おそ松さんのショートストーリーみたいな感じで、

それぞれのキャラにスポットを当てれば面白く書けそうな予感もするし、

なんだったらコントじみた作風でもこの軍団は書けそうに思う。

なんてったって、この軍団はキャラのバランスが最高に良いのだ。

どれも想像するだけで筆者はすでに独りでニヤニヤしている(気持ち悪い大人だねー)。

 

だが、正直な所、それは書けるかどうかわからない。

いつもそうだが、作品は「書く」というよりも「生まれる」に近い。

では何が肝心なのかといえば、それは筆者が書きたいと思う情熱である。

それがなければ、筆者は本当に抜け殻のように一言も書くことができない。

だが、それがあれば、寝食を忘れてでものめり込んでしまう。

筆者はいつもそうやってこういう作品群を書いている。

 

ではどうすれば筆者が書きたいと思えるのか?

それは結局、読んでくれる人がいて、その人が喜んでくれるかどうかである。

もっと嫌な感じに言えば、筆者の充足感が満たされるかどうかだ。

筆者がなぜこんな物語を書くのか、率直に言ってしまえば児玉坂の輪に加わりたいからだ。

可能であれば、筆者は彼女たちともっと話がしたいくらいだ。

でもそれは叶わないので、自分への慰めとしてこういう物を書いてしまうのかもしれない。

だけど独りで書いてても虚しい、モチベーションの源泉は喜んでもらいたい心と、

頑張って欲しいという応援と、何かを伝えたいという情熱と、現実に影響を及ぼしたいという夢と、

筆者に気づいて欲しいというエゴと、児玉坂を動かすという・・・。

 

まあ、そういう複合的な物です。

今回の作品は明日奈との約束(極めて一方的だが・・・)だったし、以前の作品で軍団とも筆者は勝手に約束をしてしまっていたので、

現実世界でも頑張っていることだし、こんな風に物語に差し込んでみた。

どうやら現実世界でも神曲をもらったようなので、ブレイクの日も近いでしょう!

 

まあ明日奈さん、この作品が読まれるかはわかりませんが、

とにかく筆者は約束を守りましたので、どうもこれにてお疲れSummerでした。

 

 

~終わり~