翼の記憶

東京のビルの屋上に吹く風は、穏やかだ。
明日奈は目をつぶって両手を広げながら風を感じていた。


想像していた、10年後の自分。
どこにいるのだろう?何しているのだろう?
その頃ちゃんと幸せなのかな?


明日奈は靴を脱いで、それらをきちんと揃えようかと思って止めた。
揃える人の気持ちもなんとなくわかる気がしたが、
自分はその感傷に浸ることにすら抵抗を覚えたのだった。


ビルから下は絶対に見ないと決めていた。
下界の景色を見ると恐怖心が湧いてきて、余計なためらいが生まれるかもしれないからだ。
前だけを見て、そして重力に任せて落下する。
そのやり方であれば、先週物理の授業で習ったニュートンのりんごとなんら変わらない。
そもそも、全て人生は、万有引力の法則に従って地上に引かれていくりんごと
なんら大差ないのかもしれない。


(・・・お母さん・・・お父さん・・・)

余計な雑念が頭に飛び込んでしまった。
両親というストッパーを飛び越えてまでミッションを成し遂げる人は、
いったいどれほど孤独なんだろうと思った。
やはり自分には無理なのだ。


明日奈は涙が流れてくるのを感じ、広げていた両手を閉じて涙をぬぐった。
そして、やはりこのような自傷行為はいけないと結論し、
下を向かないままゆっくりと自分の足を後ろへ動かそうとした。


その時、強風が吹いた。


体の自由を奪われた明日奈は、気づいたらビルの屋上からは離れた宙に浮かんでいた。


落下する。

それは全くの静寂に包まれた後、地面が音もなく遠くに見えて、
そして風が自分の鼓膜に突然の嵐のように吹き荒れてきて、
抵抗すらできない重力が急速に自分の全身を縛り付けていく感覚だった。
そして鉛のように重たくなった頭に導かれるようにして、
その次に視界が景色を失って、重音が耳を突き刺すように響き始めた。


地面に、バタン。


気がついた時、明日奈は真っ白な部屋に一人で倒れていた。
ビルから落下したはずなのに、全くと言っていいほど体に痛みはなかった。

部屋は音もなく静謐で、天窓から自然光が淡く優しく差し込んでいるだけだった。
そこは広くて真っ白な空間だけが広がっているほぼ正方形の部屋であり、
よく見ると壁に何かを書き付けている男が目に止まった。
一心不乱に、ただただ何かを真っ白な壁に書き付けているようだった。


男はふと筆を止め、明日奈の存在に気づいて振り返った。
そしてなぜか悲しそうに、またはとても辛いという表情でこちらへ向けて歩いてきて、
冴えない笑顔を見せて言った。

「ようこそ、時空の部屋へ」


・・・


明日奈の背中には「あざ」があった。

生まれた時からそれはずっと彼女の背中にあったのだ。
そのあざはまるで浅黒い翼のような形をして見えたが、
明日奈はその背中を誰かに見られるのが嫌だった。

だから彼女は学校の修学旅行で温泉に入る時には仮病を使ったし、
更衣室で着替える時にも、絶対に他の同級生達と一緒に着替えることはなかった。

服を着て歩いている時であっても、誰かに後ろを見られるのが嫌だった。
誰かが服を透して視線を投げかけているような気がしていたのだ。

生まれながらにして消えないあざのせいで、色々と屈折した性格になったことを悩んでいたし、
何をしていても隠し続けている背中が重たく感じるばかりであり、
同級生達のように無邪気に青春を送ることなどできないと考えていた。

そんな彼女は軽音楽部に所属していた。
彼女が選んだ楽器は、誰にも背中を見られないドラムだった。
全体を見渡しながら、自分の生み出すリズムにみんなが音を合わせていく。
翻弄され続ける世界の中で、唯一彼女が世界を支配できる瞬間であり、
誰にも背中を見られない環境で、全ての嫌なことを忘れて没頭することができた。
それは、生きていると感じることもなく、生きているという行為そのものになれる、
彼女にとっての唯一の救いだった。


だが、それは過去形だった。

彼女は軽音楽部を辞めてしまった。
正確に言えば、辞めざるを得なくなった。

2人の兄と共に育った明日奈にとって、男性に甘えるという行為は、
意識をしなくても本能として身についていた。
それは男性にとっては良いが、女性にとっては嫉妬の対象になる。

軽音楽部の演奏会を通じて、明日奈は学校中で顔を知られるようになり、
その愛らしいルックスからたちまちにして男子生徒の人気の的になった。
そして、明日奈にとって男性から構ってもらえることは、
ずっと兄から受け続けてきた愛情を独占することとなんら変わることはなく、
それは何の意識をすることもなくそれを享受していたのだった。

そして嫉妬に狂った軽音楽部の女学生達は、
まず明日奈をジワジワと仲間外れにする作戦に出た。
意味がわからないまま突然周囲の態度が冷たくなったことで、
明日奈は不穏な空気が自分を支配していくことに気がついた。
そしてそのイジワルは露骨にエスカレートし、
私物を隠されたり、大切な連絡が回ってこないという風に、
明日奈の精神をゆっくりと静かに攻撃していった。


そしてある日、明日奈は自分のノートの片隅に「背中」と書かれているのに気がついた。
自分では誰にもあざを見られたつもりはなかったが、
とにかく誰かが何かを知っているのかもしれないという鬱屈した気分に支配された。
「あざ」ではなく「背中」と書かれていたために、
もしかするとあざのことを言っているのではないのかもしれなかったが、
その曖昧さが返って明日奈の不安を増大させ、心の葛藤を増やすことになった。


結局、誰もバンドを組んでくれない状況でも大好きなドラムだけは続けていたが、
自分を陰ながら追いつめてくる人達と同じ空間にいることすらも嫌になり、
彼女は軽音楽部を自ら辞めることにしたのだった。


そして、ある日思いつめた明日奈は軽い気持ちでビルの屋上へ向かった。
ふざけた気持ちで向かっただけだったのに、辿り着くとまんざらでもない気分になったのだ。

そして、彼女は謎の男のいる「時空の部屋」にたどり着いたのだった・・・。


・・・

 
時空の部屋は白い壁で囲まれていたけれど、
部屋の中央には小さな白いテーブルが置いてあり、
そのテーブルの上には真っ赤な薔薇が一輪だけ置いてあった。

男が身につけていた衣装までも白のシャツとズボンであり、
視界に入るものが全て真っ白であるために、
どうしてもその一輪の薔薇の鮮やかな紅に目が惹きつけられてしまう。

「これは、とてもいやらしいだろう。
 僕もこのいやらしさには辟易としているんだけれど、
 これが僕の本質なのだから仕方がないんだ」

男はその薔薇についてそのように述べた。

「さあ、何から話しをしようか。
 いざとなるとわからないものだな」

男は照れくさそうに笑って明日奈に告げた。

「・・・この部屋はどこなんですか?
 私はビルから風に吹かれて落ちて、それから・・・」

「そうだね、だが君はもうこの部屋がどこなのか、
 僕が誰なのかについては薄々気がついてるはずなんだ。
 そしてその直感は正しいし、それ以上述べる必要はないだろう」

男は明日奈の少し不安そうな問いに対してそう答えた。
明日奈は壁に書かれている文字をよく見つめてみた。
壁には多くの物語が乱雑に書きつけられていた。

「ほら、これを見てごらん」

男は筆をテーブルの上に置いて、シャツの腕をまくって、その右手を明日奈に向かって示した。
その右手には漆黒のあざが手のひらから肩にかけて炎のように広がっているのが見えた。

「それは突然だよ、僕は生まれた頃から右手には小さなあざがあった。
 けれど、それは特に何も気にせずに生きてきたんだ。
 だが、突然にしてそのあざは漆黒に色を変えて燃え上がるように右腕にまで広がった。
 そうしたら、あとはこの様だ、書くことを止められなくなった」

男は「やれやれだ」という表情を浮かべていた。

「大袈裟じゃないよ、本当に書くことを止められなくなったんだ。
 その他の全ての出来事は僕にとって全く価値を失って、
 生きる事はすなわち書く事と等しくなってしまった」

明日奈はだまってその話しを聞いていた。

「まだ名前も名乗っていなかったね。
 僕の名前なんてどうでもいい事なのだけれど、
 そうだね『溺れる魚』とでも呼んでもらえればいいかもしれない」

「・・・どういう意味ですか、それ?」

明日奈はきちんと言葉の意味を知りたい欲求からそう尋ねた。

「うん、君のその理性的な欲求はいつも正しいね。
 僕はずっと君の様な人間と話しがしたかったんだ」

溺れる魚は嬉しそうにそう答えた。

「ある日突然、海を泳いでいる魚が溺れてしまったらどうなるだろう?
 エラ呼吸をして水の中を泳いでいた存在が、理由もわからずに急に溺れ始めたら?
 陸に上がる事も出来ない、水の中で過ごしていく事も出来ない。  
 あとはそう、忘れていくしかないんだ、そうして止まらずに泳ぎ続けていくしかない」

「・・・忘れる?」

「そう、生物は何かを忘れている時には強くなれる。
 君のドラムだってそうだ、嫌な事を忘れている瞬間は、
 君の存在とは生きている活動そのものであって、 
 生きている意味などを問う事は決してないだろう?」

明日奈はドラムを叩いている時のあの熱中を思い出していた。
手がスティックを求めている様に疼いた気がした。

「生物は忘却の彼方で、そのまま存在が消える日まで過ごせれば良いのかもしれない。
 それが唯一の幸福なのかもしれないな。
 しかしまあ、それはそれでまた壁がやってくるんだろう。
 君にとってのドラムも、乗り越えなきゃいけない壁があるだろう?
 そして僕にとっても、書く事は決して楽な事ではない。
 いつも枯れた井戸を掘り返していくような孤独な作業を通じて、
 そこに何が湧き出てくる保証もないままに頭と手を動かし続けるんだ。
 この孤独と絶望は、きっと忘却の彼方で何かに熱を上げた人間にしかわからないだろう」

溺れる魚は虚空を見つめながら話しを続けた。

「・・・やれやれ、僕ばかり話しをしているなぁ。
 そして、それが真実だな、僕は君という話し相手が欲しかったんだ。
 それは僕の大いなるエゴイズムの塊でしかない。
 君に対する思いやりなんて、きっとそんなものはかりそめの姿だったのかもしれない。
 僕はずっとこの孤独な部屋で、話しを聞いてくれる理解者を探していた。
 そして、神が下界を眺めるような形で君を見つけたんだ。
 とても純粋で美しい、まだ羽根が生えたばかりの小鳥をね」

溺れる男は両手で頭を抑えて絶望に打ちのめされたかの様に思えた。
熱を帯びる口調とは裏腹に、心が苦しそうに見える。

「だが、幸いな事は、君も誰かからの愛情を欲していたことだ。
 それが僕の救いだったし、もしかしたら僕の錯覚かもしれないが、
 僕の話しを君は喜んで聞いてくれる様な気さえしたんだ。
 たとえこれが僕のエゴイズムの塊であったとしても、
 相手がそのエゴイズムを吸収してくれる存在であるならば、
 僕の心はやっと慰めを得る事が出来る。
 そうでなければ、僕はただの罪人だよ」

溺れる魚は自分の心と対話する様に、曖昧だった気持ちを一つずつ確かめているように見えた。

「だから今までずっと理性で僕は僕を抑え続けていたんだ。
 これはエゴイズムだってわかっていたから、その剣を誰にも振りかざせない。
 しっかりとした盾を持っていて、その太刀を見極めてくれる相手でなければ、
 相手を切り刻んで壊してしまうだけだ、だが君は本当に正しい盾を持っているのか?
 それは結局のところ僕にもわからない。
 だが、僕はこの抑えきれない両刃の剣を心の鞘には閉まっておけなくて、
 誰か受け止めてくれる人を探していた、それは僕の人生そのものなんだ。
 僕はこんな野獣をずっと心に一人で飼っておく事は到底できないし、
 それを共有してくれる相手が欲しかったんだ。
 そうすることで、この野獣を知っている人が僕以外にも出来ることになる。
 それが僕にとっての唯一の救いになるんだよ」

溺れる魚は明日奈と対話するように見えて、結局自分と対話しているようにも思えた。
ただ、その話しを聞いてくれる相手がそこに見えていればいいのかもしれない。
余計な意見は彼を激昂させるような気もしたし、ただし適当に相槌を打つことは許されそうにない。
こんな神経質で面倒な人間に対して、明日奈は自分が本当に慰め相手になれるのだろうかと、
そういった方面の心配を心の中で始めてしまったように思える。

「・・・私で大丈夫なんでしょうか?」

明日奈は心配そうにそう尋ねた。

「・・・僕が心配していることは、君が話し相手として不足だということではないよ。
 ただ、僕が君を切り刻んで壊してしまわないかという一点だけだ。
 それに君が耐えられるのか、それともやはり僕が剣を振るう斬撃に、
 わずかづつでも体力を奪われてしまうのであれば、
 僕は結局この話しを中断しなければならない・・・」

溺れる魚は寂しそうにそう答えた。

「・・・私には、自分が耐えられるのかどうかはわからないです。
 ただ、あなたの話しは私にとってとても有意義なものに思えることは確かです。
 そうでなければ聴きたくもないし、こうしてここまで来てないでしょうから・・・」

明日奈は少し目を細めて迷いながら答えた。

「そうだね、結局僕らは僕ら自身のことを全然よく知らないのだから、 
 耐えられるかどうかなんて、そんなことは考えても意味がないのかもしれない。
 じゃあこうしよう、僕は君に話しを続けるし、
 君はもしそれが不愉快ならいつでもここから離脱してくれていい。
 大体、この部屋で話しをしている本当の理由はそんなところだからな」

溺れる魚はおそるおそる歩みを進めるように話しを続けた。

「・・・さて、何から話しをしようか。
 じゃあまずは、僕らのあざについての話しをしよう」

溺れる魚は、まるで話しをしている時が生きている時そのもののように思えた。
彼は、話し相手がいないから、その人生をずっと窒息しているのだろう。

「そうだな、それは正しい考察だ。
 僕は話し相手に飢えているし、君は愛情に飢えている。
 君が愛情に飢えている本当の理由はわからないけれど、
 君の背中にあるあざが、僕はその理由かもしれないと見ている」

何も声に出していないのに心を読まれた明日奈は心がすくんだ。
しかし溺れる魚は何も気にせずにただ自分の右手を虚ろに見つめている。
彼は、自分が言い放った少し残酷な言葉を確かめて、
自分の醜さとエゴの重さを手で計りながら、
その喜びに震えて、かつその残酷さに恐怖しているように見えた。

「別にその真実を僕にさらす必要はない。
 けれども、君はこの先ずっと愛情に飢え続けることになる。
 それは僕が溺れ続けることに似ているような気がするね。
 だからこそ、僕が君に愛情を与えて、君が僕に酸素をくれれば、
 それが最も良い相互扶助になるような気もしているのだけれど」

溺れる魚は少し照れくさそうにそう続けた。

「その話しは置いておこう。
 僕が君のあざに気づいたのは、初めて君の顔を見た時からだった。
 むしろ、周囲のみんなは気づいているのかわからなかったし、
 ひょっとすると気づいていてもそれに触れないのがマナーなのかもしれない。
 世間の人間は、そうして人の痛みという真実から徹底的に逃げ通して、
 そしてこんな馬鹿げた見せかけの世界を作り出してしまったんだ。
 だから、彼らの生命は本質を剥ぎ取られて光を失ってしまった」

溺れる魚にとって、ここが世間への憤りなのだろうと思えた。
彼の口調はどんどんと熱を帯びていったからだ。
それは、ゲッペリー王国の大臣への憤りのようであり、
善人を困らせる悪の怪人を憎む気持ちに近かった。
誰かを傷つける雑誌記事を強要する上司への嫌悪感や、
ピアノの曲を強制するゴリラ達の横暴を非難する気持ちであり、
野良犬を穴に落として喜んでいるあの人間達への怒りに似ていた。

「僕は結局、この世界のあり方が許せないんだな。
 世界は絶望で溢れているし、平和など一生来るはずもない。
 理想を掲げたって、それは結局は綺麗事の域を出るものではないし、
 本当のことを言えば、芸術だって一時の慰めにしか過ぎない。
 こんなものでは世界を変えることなんてできやしないんだ」

明日奈は冷静な頭脳で考え続けているように見えた。

「弱肉強食、自分勝手、これが人間の本質だよな。
 世間様は自分の思った通りに感傷的になってはくれないし、
 隙を見せたらこっちがやられる、それでゲームオーバーだ。
 だから一度きりの命を大事にして皆ガードを固めてしまう。
 そうすると、誰かを抱きしめるはずの両手を自己防衛に費やしてしまう」

溺れる魚は呪われた右手を震わしながら話しを続けた。

「僕はこの先の人生を溺れ続けるだけなのか?
 何が僕を慰めてくれるだろうか?
 それは芸術を追求し続けることだろうか?
 しかし、さっき説明したように芸術では世界を変えることはできない」

溺れる魚はこれが苦悩だというばかりであった。
ずっと黙っていた明日奈が初めて口を開いた。

「・・・じゃあなぜあなたは私にそんな話しをするの?」

溺れる魚は照れくさそうに考えて口を開いた。

「・・・そうだ、結局はそれが答えなのだろうな。
 僕はただ理解を欲している、それは結局は愛情そのものなのだろう。
 この満たされない世界で、残された限りある時間で、
 そしてそんな儚いかもしれない不安定な愛情というものに、
 僕は何か淡い希望をずっと抱き続けているのだ・・・」

明日奈は同じように照れくさそうに口を開いた。

「・・・私にはまだわかりません。
 私はまだ10代だし、まだ色々な経験も足りない。
 何が正しくて何が間違っているのかも、
 まだ探している途中なんです。
 だから、その気持ちを理解することはできません」

溺れる魚は心を砕かれたように沈んだ。
またこの世界を溺れ続ける恐怖に怯えているようだった。

「でも、それはあなたが嫌いだということではないです。
 拒絶だと考えないでください。
 それは私自身がまだ未熟だというだけの話しです」

明日奈は相手を思う優しさか、自分が嫌われることの恐怖なのかわからないが、
必ず相手を拒絶することはなかった。

「わかっているよ・・・。
 僕はここで君と出会っているし、君はここへ来てくれた。
 でも、僕たちは結局はまた遠ざかる運命にあるということはね。
 ただ不思議な縁があるとすればね、僕が君を見つけ出したのは、
 結局は僕があざを持つ人間だったからなんだよ。
 だから僕は君の背中を見ていなくても、その顔を見ているだけでわかった。
 そして・・・」

溺れる魚は着ているシャツをめくって上半身を見せた。
そこには心臓の形をくっきりと残した漆黒のあざが付いているのが見えた。

「僕のあざの本質は右腕ではないんだ。
 むしろ、この心臓のあざは生まれた時からこの形をしている。
 そしてそれが僕の心臓を鷲掴みにして締め付けるんだ。
 こんなところにあざを持っている人間を、僕はまだ見たことがない。
 あるとすれば書物の中だけだろう、だが彼らはもうすでにこの世にいない。
 多くのものが漆黒のあざに苦しめられてこの世を去ったよ」

溺れる魚はとても苦しそうに語り続けた。

「そして、こんなあざを持つ人間を受け入れてくれる人はいないだろう。
 だから僕は君に目をつけたんだ、背中にあざを持つ君であれば、
 もしかしたら僕を受け入れてくれるかもしれないってね。
 そうだよ、僕は君が弱っている小鳥だということを知っていてここへ招いた。
 僕は徹頭徹尾、とても卑怯な人間なんだよ。
 そしてそんな自分が大嫌いで、だから僕はこの部屋に閉じこもったんだ。
 ここに閉じこもっていれば誰かを傷つけることもないし、
 誰からも無神経に傷つけられることもない。
 あざを持たない人間には、結局はこの苦しみはわからないのだからね」 

溺れる魚の苦しさはその呼吸スピードを上げていく。
それが彼の窒息の初期段階なのだろうと思えた。

「そして僕は卑怯にも君をこんなところへ一方的に招いて、
 僕は君を傷つけるかもしれない剣を振りかざしている。
 そして残酷にも僕は君の心を切り刻んでいるんだ。
 僕に酸素をくれってせがんでいて、僕の絶望を埋めてくれって叫んでいて、
 本当は世界平和なんて望んでいないのかもしれないな。 
 僕はただ僕に酸素をくれる存在を探し続けているだけかもしれない。
 そしてそれが他の小さな魚であるのであれば、
 僕は僕の存在を続けるために剣を振りかざすのかもしれない」

明日奈は慎重に熟慮しながら返答した。

「・・・でも、それは生物が生きるためには当然の行為だと思うし、
 自分の存在が保てないなら、周囲の誰かを助けることなんてできない。
 だから、あなたがそうして生きようとすることは正しいことだし、
 それで誰かを傷つけてしまったとしても、仕方ないと思う。
 だいたい、あなた以外の誰かだって無神経に周囲を傷つけているし、  
 それはあなたよりももっと残酷な方法でやっているのだし。
 あなたは自分でこの部屋に自分を閉じ込めて・・・それは、
 少なくとも周囲に迷惑をかけなくない優しさからそうしてるんじゃないかな?
 だとすれば、私にはあなたが悪い人だなんてとても思えないの」

溺れる魚は少し救われたようで、さらに苦しくなったようにも見えた。

「・・・でも、君は僕と一緒にはいてくれない」

「それは・・・」

明日奈は困った表情で泣きそうになった。

「わかってるよ、君をいじめたくはないんだ。
 君はとても優しい人間だから、だから僕は君を選んだんだし。 
 そして、今回君を招いた時点で、そんなことは求められないことを理解していた。
 ただ、僕の本心は君がここに残ってくれる事を求めていたという事実だけが誤算だったけれど」

溺れる魚は滑稽な自分を軽く笑って続けた。

「だが、僕は幾分救われたよ。
 なぜなら君が僕を正しく理解してくれる人間であると、
 僕が推測したことは間違っていなかったと確認できたからだ。 
 それだけでもう十分だ、君の想いは十分に僕に伝わったよ」

明日奈はボロボロと涙をこぼしていた。

「・・・ごめんなさい」

「君が謝る必要はないよ。
 そして、その優しさを持っているから僕は君が好きだ」

溺れる魚は少し照れてあさっての方を向きながらそう告げた。

「よし、話題を変えよう。 
 君のあざの話しだ」

溺れる魚は感傷的な態度から一転して、冷静さを取り戻したように見えた。

「僕もあざを持つ人間として意見があるね。
 それは、君のあざは一生消えることはないという確信だ。 
 これは残酷な意見かもしれないが、君にもそれはわかっているはずだし、
 君は上辺を撫でるような意見などを求めていないはずだ」

明日奈は体の中から湧いてくる悲しみに本能的に顔を歪めたけれど、
溺れる魚の意見に対しては理性的な共鳴をあらわにしていた。

「結局、僕らは強くならなければいけないのかもしれないね。
 そして、僕らはあざがあったからこそ自分の内面を見つめる努力をしたし、
 傷つきながらも壁を乗り越えていこうと努めてきたんだ。
 それは君だって十分に肌で感じている事実だろう?」

明日奈は無言でこくりと頷いた。

「自分自身で言うとただの驕りになってしまうから言えないけれど、
 僕らのような人間は強くなれる素質を秘めていると思うよ。 
 もしかすると、僕は心臓を食い破られるよりも前に、
 この右腕の紅蓮の炎が燃え上がって、白い壁を焼き尽くすかもしれない。
 君だって、その背中から生えてくるのは、ひょっとすると金色の翼かもしれない」

溺れる魚は自分の右手を見つめながら言った。

「もちろん、僕の右手のあざは本質的なものではない気もするし、
 ある日突然にして消えてしまうかもしれないけれどもね。
 そうなると、僕は生まれながらの心臓のあざと共に苦しみ生きるだけだ。
 ただし、幾分強い心臓になってしぶとく生き続けるかもしれないけれどね」

溺れる魚は悲しそうにそう言った。

「君の背中にある翼について僕は言及したけれども、
 僕はそれを必ずしも保証するものではないよ。
 ただ、同じあざを持つものとしてそれを望んでいるし、
 君にはそれを信じて努力をして欲しいと僕は思う。
 そして、それはやはりあざを持つものの特権だと思うから」

溺れる魚はテーブルの上の薔薇を手で拾い上げて見つめている。

「僕自身だってこんな移ろいやすい人生の先がわかるわけもない。
 努力が必ず報われるとは思わないし、世界はずっと苦しみに叫び続けてる。
 だけど、あざを持たない人間にはわからない苦しみを知っているからこそ、
 誰かに対して優しくなれる自分がいるし、それだけは確かだよ。
 僕は君のそのあざを持つが故の優しさに惹かれたし、
 そして、君の強さは、あざを持たなければ決して得られることはなかっただろう」

明日奈は自分の背中のあざがざわざわと疼くような気がした。

「もちろん、君が全く欠点のない人間だなんて言うつもりもない。
 この先は挫折も経験するだろうし、今まで以上に葛藤することもあるだろう。
 それはあざを持つが故の葛藤でもあるし、普通に生きてる人生の挫折かもしれない。
 でも君の持つ深い愛情、冷静な感性に僕は輝く羽根を感じるんだよ。
 君は大空を飛ぶためにそのあざを付けられたんじゃないかってね」

溺れる魚は一輪の薔薇を明日奈に向かってかざし、片目をつぶって何かを図った後、
その薔薇を遠くへポイッと投げ捨てた。

「だから君には負けないで欲しい。
 自分の背中にある金色の翼を信じて欲しい。
 もちろん、今は夢はないかもしれないし、
 夢を持つことだけが人生の絶対の指標なんかでもないけれど、
 君の葛藤は無駄じゃないんだ、そしてその分だけ高く飛べる気がする」

溺れる魚はまっすぐに明日奈を見つめていた。

「もちろん、これはこんな部屋で呪われたように書き続けている、
 ただの得体の知れない男の譫言に過ぎないのかもしれない。
 それでも、何かしらの応援だと思ってもらえれば嬉しい限りだ・・・」

「・・・ありがとう」

明日奈は子犬のような表情を浮かべてそう言った。


「さあ、もう君は行かなければいけないね。
 僕ももっと話したいことがあったはずなんだけれど、
 もう君にたくさん聴いてもらえて満たされた気がするよ。
 お互いに、それぞれの場所へ戻ろうか。
 僕は壁の前に、君は児玉坂へ・・・」

「・・・えっ、なんか寂しいです」

明日奈は少し泣きそうになりながら目を指でぬぐっていた。

「・・・ありがとう。
 僕らは簡単には会える関係ではないけれど、
 僕は君と出会えたことを神様に感謝しているよ。 
 そして、君は人の心は移ろいやすいって言うかもしれないけど、
 僕は君の事を一生忘れないよ、ある意味でずっと友人だ。
 人の心が移ろいやすいように、移ろわない人の心だってあるんだよ。
 だから、僕は君の事を、この先忘れることは絶対にない。
 僕は大切な人のことは忘れられないタイプなんだ。
 変な人なんだよ」

溺れる魚はニコッと笑顔で明日奈にそう告げた。

「・・・うん、私は信じるね」

指で涙を拭いながら明日奈はそう返答した。

「さあ、児玉坂で君を待っている人がいるよ。
 だからこれでサヨナラだ。
 でも、僕はずっと君を応援しているよ。
 じゃあね、また会う日まで・・・」

溺れる魚は壁の前に歩みを進めていき、
そして右手に持っていた筆で壁に向かって書き始めた。
明日奈はその後ろ姿を見ながら、ゆっくりと意識を失っていった・・・。


・・・






「あっ!気が付いた!」

明日奈が目を開けると、ビルの下の地面に倒れていた。
体は全く無事であり、目の前には自分と見た目は年齢の変わらない少女がこちらを見つめていた。

「・・・ここは・・・私はどうしてここにいるの・・・?」

目の前の少女は安堵の表情を浮かべながらいった。

「空の上から降ってきたんだよ。
 初めはきな子もびっくりしたんだけど、
 よく見たら人間だってなって、それで受け止めたの!」

「・・・受け止めた・・・?・・・あなたが・・・?」

「うん!私、実は人間じゃないんだ、アンドロイドなの!」

少女は無邪気にそう答えた。
自分は人間ではないから、空から降ってくる人間を受け止めることくらい、
そんなことは朝飯前だと言わんばかりの表情であった。


とにかく、明日奈は無傷であった。
あの溺れる魚は夢だったのかと思った。
しかし、やけに鮮明すぎて夢だとも思えない気もした。

なんにせよ自分はビルの屋上から落ちて助かったのだ。
それはあり得ないはずの事実であったが、
自分は九死に一生を得たのだ、命は大切にしなければと思った。


・・・


偶然がもたらしてくれた出会いではあったが、
明日奈ときな子はすぐに打ち解けて仲良くなれた。
きな子がアンドロイドなどという話も最初はびっくりしたが、
冷静に見ていると人間よりも純粋な心を持っている気がして納得できた。


何より、自分が割と用心深い性格なのに比べて、
きな子の様子はとても快活でなんとも自分には羨ましかった。
そして、一緒にいると自分も彼女の明るさに照らされる思いがして、嫌なことを全て忘れられた。
また、彼女もアンドロイドとして人間と少し違うというコンプレックスを抱いており、
ただ明るいだけはない、孤独で理解されにくい悲しみも隠し持っていた。
だから、そんな繊細な理解者を必要とする彼女にとっては、
明日奈の冷静さがちょうど心地よかったのかもしれない。

・・・

ある日、カフェ「バレッタ」で二人がメロンソーダを飲んで語らっていると、
突然、明日奈の携帯電話が鳴った。
電話をかけてきた相手は、以前、軽音楽部で演奏会をしたときに、
偶然にも明日奈のドラム演奏を聴いて、名刺を渡してきた男だった。

「もしもし、明日奈ちゃんですか?お久しぶりです」

「・・・はい、あの時に名刺を下さった方ですか?」

「そうそう、覚えていてくれてありがとうね。
 実はいきなりでなんだけれど、こんど会えないかな?
 名刺を見てもらえば分かる通り、俺は音楽業界のプロデューサーをやってるんだけど、
 実はこんどレイナという歌手の復活ライブが明治野外スタジアムであってね、
 しかしドラムメンバーがいないんだよ。
 それで、君に白羽の矢がたったってわけだ」

「・・・私なんかがですか?」

「そうだよ、レイナって知ってるだろ?
 あの昨年ホイップってバンドを解散してから休業中の」

「・・・突然のことすぎてよくわからないので、
 少し頭を整理する時間をもらえませんでしょうか?」

「いいよ、もちろんだよ。
 君は謙遜するけれど、見込みのない奴に俺は声をかけないよ。
 じゃあまた考えてみてくれ、連絡を待ってるよ」

電話はそれで切れた。

きな子は嬉しそうにメロンソーダを飲んでいた。
彼女はアンドロイドなので、メロンソーダ以外は飲めないのだが、
これが彼女の飲食に関する数少ない楽しみなのだった。

「ねぇ!何の電話だったの!?」

きな子が身を乗り出して明日奈に尋ねた。
明日奈はレイナという歌手の復活ライブのドラムメンバーとしてのオファーだったと説明した。

「えっ!すごいじゃん!なんで断っちゃうの〜!?」

「・・・いきなり電話かけてきて、こんな話は本当なのかなって思わない?
 ちょっと会ったことあるだけの人が、どうして私なんかにこんな大事な話を持ちかけるのか、
 なんか怪しいし意味わかんないし・・・」

明日奈は不安そうな顔を浮かべてそう説明した。

「でも、明治野外スタジアムで演奏できるってすごくない?
 きな子ライブとかまだ見たことないんだけど、
 明日奈が出演するなら絶対に観に行く〜!」

きな子はキラキラした笑顔を浮かべてそう言った。

「・・・まだわかんないんだから、もうその話は終わり!
 メロンソーダもう飲んだでしょ、そろそろ行こっか!」

明日奈ときな子は立ち上がってレジに向かった。

「えへへ、今日はきな子のおごりだよ〜!
 そのかわり、ライブに招待してくれるの期待してるからね!」

きな子はそう言って一人でレジへお会計を済ませに行った。
レジ担当の女の子が期間限定のデザート「塩アイス」を薦めてきたが、
きな子は「今度一緒に食べよう、もう一人別の子も誘って!」と返答しておいた。
レジの女の子もその返答に満足して、にっこりと微笑みを返した。


お会計を済ませてカフェ「バレッタ」を出た時、
明日奈ときな子は空から「バサバサッ」と鳴る音が聞こえて、
その後で白い羽根が空から降ってきたのに気がついた。

きな子はその白い羽根を拾って明日奈に見せた。
明日奈は「白い鳩」の羽根じゃないかときな子に告げた。

「ねぇ、とっても綺麗じゃない!?」

きな子は何事に対しても純粋でまっすぐだ。

「きなちゃん、鳩のばい菌知らないの?それすごい汚いよ!」

それを聞いたきな子は慌てて羽根を捨てたけれど、
「ばい菌は嫌だけど、白い羽根は綺麗なの!」と笑って答えた。


明日奈が羽根を見て思い出したのは溺れる魚のことだった。
あの人は今どうしているだろうか?
まだ右手のあざに悩まされて相変わらず書き続けているのだろうか?
それとも、もうあざは消えてしまって、心臓のあざと戦い続けているのか?
あの人が言ったように、一生忘れないかはわからないけれど、
こんな風に羽根を見るたびに、彼の存在は嫌でも思い出すだろうと思った。


「羽根を見てるとね、明日奈を思い出すの!」

きな子は突然のようにそう告げた。

「どういう意味?なんで私を思い出すの?」

明日奈はいぶかしそうにそう尋ねた。

「明日奈が空から降ってきた時ね、背中に翼が生えてたの!」

「えっ、それどういうこと?」

「金色の翼が生えていて、それでゆっくりと降りてきたんだよ!
 それできな子が見つけて明日奈を受け止めたの!」

明日奈は驚いてしばらく声も出なくなったが、冷静さを取り戻して尋ねた。

「・・・きなちゃん、どうしてそんな大事な事を今まで言ってくれなかったの?」

「・・・言うのを忘れてた!」

きな子は少し恥ずかしそうにそう告げてすぐに「私バカじゃないもん!」と続けた。
「たまたまだもん!」となんども弁解している姿を見て、
なんだか明日奈ももうそんな事はどうでもよくなってしまった。

きな子は無邪気に明日奈の背中を見つめていたが、
なんだかこの子にだけは背中を見られても気にしないでいられるのだった。

「きなちゃん、本当にバカだよね〜!」

明日奈はうふふと笑いながらきな子にそう告げると、
きな子はまた「バカじゃないもん!天才だもん!」と反論を続けた。


明日奈は10年後の自分を想像してみた。
今は夢もないし、今後どうなるかなんてわからないけれど、
その遠い将来で、またきな子と2人で、
今日のように友達のままで冗談を言いながら生きていられたらいいなと思った。


その時、先ほどの白い鳩がまた空中を舞った。
明日奈はその姿を見て眩しいなと感じたけれど、
でも自分だって飛べないことはないのではとも少し思った。
服の下に眠っている翼のあざが、また少し疼いた気がした。

何もかも全てを自惚れて信じることはできない。
それでも、溺れる魚の言うことを少しは信じてみてもいい気がした。
自分の背中には、まだ使っていない金色の翼がある。
その記憶を信じることを。


明日奈はきな子と交差点で別れた後、
携帯電話の着信記録を確認し、プロデューサーの電話番号を鳴らした。

「・・・ありがとう」

着信コールが鳴っている間、明日奈は一人で空を見上げてそう呟いた。


ー終幕ー



翼の記憶 ー自惚れのあとがきー



読み直してみて、やはりこれは問題作だなと感じた。

正直、物語としてはとても短い。
展開も少なくて読者が楽しむような物語構成を成していない。
これは特定の読者に向けてだけ書かれた特別な小作品なのである。

物語を楽しむ作品はここまで幾つか書いてきた。
だからここではそれはもう不要だと思った。
これは「溺れる魚」の文学的独白に全ての重点が置かれている。
彼がいかにして嘘偽りのない独白を述べるのかに意味があるのだ。

そして、彼の独白にはあまり理路整然としたものはない。
筆者自身「その国の出口」のワンオンワンと同じ手法を取っていたからだ。
完全なるインスピレーションに任せて、ただ嘘偽りなく書き連ねるだけ。
筆者自身も何を書くのかわかっていなかったし、
自分で何が深層心理から飛び出してくるかわからなかった。
ただ直感的に思うままに書くことが文学的独白であり価値があった。

結局、その独白が全てなのだ。
ここまで幾つかの小説を書いてきた全ての意味がそこにある。
乱文であり支離滅裂に聞こえるかもしれないが魂はある。
そういう芸術家の爆発的な一筆書きのような作品を狙ったのがこれである。

この作品を面白いと思えるかどうかは、文学的独白の価値を認められるかにかかっている。
綺麗なものも汚いものも全て含めて独白するという行為の中にこそ芸術性があり、
ある意味で余分な作品であり、ある意味で全てを総括する作品でもあった。

筆者自身、そういう芸術性を最も尊んでいるのであるから、
結局全て他の物を犠牲にしてでもこの独白という形を選んだことになる。
その価値が理解できない人からすれば愚かで奇妙で狂気的な作品であり、
その意味を分かってくれる人か、もしくは筆者自身には魂の入った作品であると言える。

畢竟、筆者の本質には狂気が眠っている。
いや、芸術を求める人間は、少なからずその誰もが持っている狂気を悟ることになるし、
それを掘り起こさなければ何も生み出せないことに気がつくのではないだろうか?
ここまでの作品は娯楽作品だったのでその狂気を用いてこなかったのだが、
最後の作品では全力で書くために、それを用いたという事である。
(とても控えめではあるけれども)

そしてこの清濁合わせた文学的独白を最後の作品に選んだのは、
この想定される特定読者がそれを理解してくれるであろう、
それを最も面白いと受け取ってくれるのではないかという推測からである。
だから、普通の作品もかける筆者があえて突っ込んだこんな作品を書いたのである。


少しだけ物語にも触れると、明日奈はきな子と出会う。
ここできな子を登場させたのは「私、起動する。」のリリーナイトで味をしめたからであるが、
明日奈に友人を作ってあげる必要があり、きな子がちょうどよかったのである。

そして、明日奈はこの物語の続きで「あなたのために誰かのために」の世界へ続いていく。
ここできな子が明日奈と繋がったことで、リリーナイトも明日奈と繋がったことになる。
あの作品内には描かれていないが、きっときな子は会場で明日奈を見ているだろうし、
リリーナイトはあのライブを中止させようと目論む怪人と戦っているかもしれない。

そうして、この児玉坂に住んでいる登場人物は、皆何かしらあのライブ会場に繋がっていく。
そこで歌っている自分達のキャプテンを支える為に集まっていくのである。
「あなたのために誰かのために」で何度か語られたことであるが、
この登場人物達がレイナを助けるのはやはり当然のことなのだ。


また、「翼の記憶」を読んだ後の「あなたのために誰かのために」に登場するドラマーの、
「今日のライブが成功してもしなくても、これ書いてる奴の人生たいして変わんねーよ!」
というセリフの意味も変わってくるのではないだろうか?
あれは単なるメタ表現ではなく「溺れる魚」を知っている彼女だけに言えるセリフだったのだ。


勿論、結果論による後付けでこうなったのであるが、
筆者にはまるでそうなるようにできていたような気がする。
なぜなら、こんな作品群を書いてみて分かったことではあるが、
小説は往々にしてこのような偶然から発展して物語は出来上がっていくからだ。
点と点は増やせば増やすほど勝手に繋がっていく。

人生でも同じように、人間が残した点と点はいつか繋がっていく。
筆者には「繋がる」というのが作品群を通してのテーマだったのかもしれない。
それは循環思想であり、和の思想であり、温もりの思想だったとも言える。
児玉坂に住む人々は繋がりあって構成されているのであろう。

さてこれで今回の作品群のあとがきを全て終える。
見返せば見返すほどひどい文章であったが、
最低限、物語の体裁は保っていると思える。
喜んでもらえたかはわからないが、もしここまで読んでいただいていれば筆者は感無量である。


ー終わりー