君と私は会わないほうがよかったのかな

「高元木芽香の児玉坂1chラジオ~!」

 

エフェクトがかかった声で、木芽香がタイトルコールをして番組が始まった。

派手なBGMが流れ出して、しばらくの間が空いた後で木芽香が話を始めた。

 

「みなさんこんにちは~!

 はい、始まりました児玉坂1chラジオ!

 今日は天気も良くて、ポカポカ春らしい陽気で気持ちいいですね~」

 

ハキハキと明るい声で木芽香が一人喋りを続けていく。

甘くて可愛らしい声質を持つ木芽香は、

学生時代に放送部の部長をしていた事もあり、

ラジオDJとして親しみやすい声で人気を得ていた。

 

「さて、今日も児玉坂にちなんだスペシャルゲストをお呼びしております。

 児玉坂に住む皆さんなら誰もが知ってる方ですよ~。

 はい、もうおわかりですよね?

 国際的に知名度のある児玉坂出身のピアニストと言えばこの方、

 天才ピアニストの菊田絵里菜ちゃんで~す!」

 

 

木芽香がDJを担当する「児玉坂1chラジオ」は月曜日と土曜日を除き、

午後三時から1時間の番組として生放送されている。

毎回、児玉坂にちなんだゲストを呼んでみたり、

日曜日にはお笑い芸人達がゲスト出演してくれたりと、

近年リスナー離れが進んでいるラジオ業界を盛り上げようと企画されていた番組だった。

もちろん、今流行りの児玉坂46のメンバーなどが登場する事もあって、

老若男女を問わず好まれている人気番組だった。

 

「きめたん、やっほ~、久しぶり~。

 皆さんこんにちは、菊田絵里菜で~す」

 

木芽香は番組内では「きめたん」という愛称で呼ばれている。

この呼びかたがマスコットキャラ的な彼女の親しみやすさを生んでいた。

 

「久しぶり~、菊ちゃんはね、もうリスナーの皆さんにはおなじみですよね。

 以前から何度もゲストで来てもらっているので、

 リスナーの皆さんからも次はいつ来てくれるのかって声も多いんだよ~」

 

「えぇ~そうなの?

 嬉しいですね~、でもこれお昼の番組だからあんましテンション高くなくてごめんね~」

 

「うん、たぶんそのほうがいいかな~」

 

絵里菜は夜の番組になるとテンションが異常に高くなるというのはファンの間では有名だ。

放っておくと暴走気味になる菊ちゃんをうまく取り扱える人という事で、

リスナー達は木芽香と菊ちゃんのやり取りを楽しみに聴いているという。

 

「そういえば菊ちゃん、この間なんかデュッセルドルフで演奏会があったって聞いたけど、

 あれは結局どんな感じだったの~?」

 

「え~、なんか当時はまだ言えなかったんだけど、写真集の撮影も兼ねて行くことになってたのね。

 忙しくてあんまし自由時間は取れなかったけど、でも楽しかったよ~。

 でも疲れてたから帰りの飛行機の中で怖い夢見ちゃった」

 

「え~、どんな夢見たの?」

 

「ん~なんか、武装したゴリラが槍を持って立ってて、目の前全てを支配してたの」

 

「・・・菊ちゃん、きっと疲れてるんだよ、今日はもうよく寝な?」

 

「は~い、じゃあもう寝まーす、おやすみ~」

 

「・・・あの~、番組中は起きててくれると嬉しいな~・・・なんて」

 

 

番組はこんな感じで着々と進行していった。

絵里菜はデュッセルドルフでの演奏会から帰ってきた後、

人気歌手である桜木レイナの復帰ライブのバックバンドとして木芽香と再会していた。

木芽香は「児玉團」というバックバンドのコーラスとして参加していて、

その時の話なども番組中では色々と話題になっていた。

 

 

「あれも楽しかったよね~またやりたいね~」

 

「そうだね~」

 

木芽香は絵里菜をうまく御しながら番組を進行していった。

根っからの話好きであり、しっかり者の木芽香は会話のキャッチボールがうまい。

どんな話題が来ても分け隔てなく受け止めて盛り上げていける。

自分の好みに偏ることなく、相手に意見を押し付けることもなく、

そういう柔らかい物腰で場を和ませることができる素質を持っており、

そのキャラクターは声の可愛らしさとも相まってラジオDJにはうってつけだった。

 

 

「じゃあそろそろ、あのコーナーいっちゃおうかな~」

 

「おっ、いっとこ~」

 

 

 

「きめたんの、お悩み相談室~♡」

 

 

 

エフェクトのかかったきめたんの声とともに次のコーナーが始まった。

BGMが変わり、落ち着いた雰囲気の中できめたんがコーナーの紹介を始めた。

 

「はい、それでは1枚目のお便りです。

 ラジオネーム『ずっきゅん天使』さんからメールを頂いてます。

 きめたんこんにちは、きめたんの1chラジオ、毎回楽しく聞かせていただいています。

 私は今年から児玉坂で洋菓子店をオープンさせたのですが、

 まだ立ち上げたばかりでお客さんがあまり来てくれません。

 何かお客さんにたくさん来てもらう良いアイデアはありませんでしょうか、

 ・・・というお便りなんですけど、え~でも、お店立ち上げただけでもすごいよね~」

 

「ん~でも、なんだろう、この人ラジオネームがなんかさ~。

 自分で天使とか言っちゃうってどうなんだろう、けっこうあざとくない?」

 

「菊ちゃん、せっかくお便りくれたリスナーさんディスっちゃダメだよ。

 え~、なんかお店が流行る良いアイデアないかな~?」

 

「タルトを無料で配れば、私は毎日食べに行くよ~」

 

「そんなの、お店つぶれちゃうじゃんか~」

 

 

二人の掛け合いは漫才のように相性が良い。

妹を持つ木芽香と姉を持つ絵里菜の関係性は、

それぞれの立場の魅力を自由に発揮できるのかもしれない。

 

 

「あれじゃない、お店の前にマスコット的なのおけば目立つんじゃない?

 洋菓子店って大体そういうキャラクターみたいなの置いてるじゃん」

 

「あー、なるほどねー、それいいかも」

 

「なんか斬新なキャラクターがいいなぁ、インパクトあるやつ。

 ほら、タルトのお化けのタルトくんとかどう?」

 

絵里菜は手元にあったメモ帳になにやらキャラクターを描き始めた。

彼女が発案したキャラクターはファンの方には好評であったが、

作風はピカソ風であり、奇想天外な内容はさすが常人の発想ではない。

だが、意図しないピカソ風であるために、いろんな意味で「天才」とよばれている。

 

「描けた~こんな感じ」

 

「菊ちゃん・・・いいんだけど、ラジオだからリスナーさんには見えないかな~。

 ずっきゅん天使さん、菊ちゃんのキャラクターはお見せできませんが、

 何か斬新なキャラクターを考えてみてくださいね~」

 

ピカソ級の作風であるタルトくんへのコメントに困った木芽香は、

的確に流してこの話題にうまく終止符を打った。 

  

「はい、菊ちゃん次のお便りを紹介してください」

 

「は~い、次のお便りはですね・・・。

 え~と、ラジオネーム『見せかけ天使』さんからでーす。

 あれ~なんか今日は天使って名前の人ばっかだね~」

 

「そうだね~菊ちゃんお便りの内容は~?」

 

「は~い、えーと・・・。

 きめたんこんにちは、私の悩みを聞いてください。

 私はあまり人に言えない職業をしているのですが、

 その職業が社会的に立派なイメージがある為に、

 私は普段、仕事の愚痴を誰にも言うことができません。

 でも私だって寒い冬にはコタツに巻きついて過ごしたり、

 部屋でずっとゴロゴロしたり悪行三昧の時もあるんです。

 ATMと結婚したいくらいお金だって好きなんです。

 でもなんか周囲からの期待を演じなきゃって思うこともあって、

 だけどそんな自分にもなんだか疲れることがあって、

 もうたまには一人で温泉に行かせてくれって感じです。

 いいじゃねーかよ別に一人で温泉に行っても、いやもう行かせてくれ、

 今のところ作者の都合でしばらく登場の予定もねーんだよ、行かせてくれよー。

 ・・・というお便りなんですが・・・。

 何だろうね、すごく鬱憤溜まってるみたいだけど」

 

絵里菜はメールを読み上げながらも、

えらく荒ぶっているお便り内容に多少困惑した。

 

「社会的に立派な職業ってなんだろう?

 正義のヒーローとかかな?」

 

「なんだろうね~?

 わかんないけど、溜まってるなら吐き出したらいいんじゃないかな~?」

 

「うん、そうだよね、なんか色んな事情で自分を偽っても大変じゃない?

 私、自慢じゃないけど自分を偽ったこと一切ありません」

 

絵里菜のポリシーは「ありのままで」だった。

彼女くらいの天才になると何も偽る必要などないのだろう。

 

「まあ菊ちゃんはちょっと特別だと思うけどね~。

 みせかけ天使さん、登場の予定がないなら温泉に行ってもいいんじゃないかな?

 たぶん作者さんもねー、今までけっこう登場させすぎたからバランスをとりたいんだと思うよ。

 でも、気まぐれな都合でいつ呼ばれるかわからないだろうからあんまり荒ぶらないで落ち着いてくださいね。

 じゃあ曲かけよっかな、曲の間に落ち着いてもらおっかな」 

 

「あっそう?

 最近すごい気になってる曲があるんだけど。

 フィンランドの民謡なんだけどね」

 

「菊ちゃん・・・それは別のところで散々流れたからもういいかな~。

 多分、聴いても夜眠れなくなっちゃいそうだし・・・」

 

二人が話している間に次の曲のイントロが流れてきた。

 

「はい、それでは聞いてもらう曲はこちらです。

 児玉坂46で『開き直り中』」

 

木芽香が曲名を告げると、音楽のボリュームが大きくなり、

二人は曲が流れている間、一旦休憩となった。

 

「ふぅ~。

 まあこれもいい曲だよね~。

 疲れたからチョコ食ーべよ」

 

絵里菜は疲れたらチョコを食べて脳を潤す習慣があった。

しかし、持参してキープしておいたチョコが半分なかった。

 

「あれ~ちょっときめたんチョコ食べた~?」

 

「え~っ、ううん食べてないよ~」

 

「ぜったい嘘だ~食べたでしょ、私がお便り読んでた間に」

 

絵里菜は鋭い表情をして木芽香を睨んだ。

彼女に食べ物の恨みを抱かれるのはこの地上で最も恐ろしいことだ。

基本的にロケ弁などは一人で三箱程度は食べる習性があった。

 

「きめたんそういうとこよくないよ。

 欲しいなら欲しいって言えばいいのに、あげないけど」

 

木芽香は少しだけ下唇を噛みながら何かを堪えていた。

そして少し憂鬱な表情を浮かべた後、また元気な表情を繕い直した。

 

「えへへ、ごめんね。

 お腹が空いてたからどうしても欲しくなっちゃって」

 

「もぉ~」

 

「ごめんごめん、じゃあ私のチョコあげるから~」

 

木芽香はそう言って自分のカバンの中に手を入れた。

自分が食べるように持っていたチョコを絵里菜にあげて償うはずだったが、

カバンの中から取り出したチョコを見て大きくため息をついた。

チョコの箱は空いていて、中身が半分なかったからだった。

 

「・・・菊ちゃん、私のチョコ半分食べてないよね?」

 

木芽香は神妙な面持ちでそう尋ねた。

 

「私がきめたんのチョコ食べるわけないじゃん」

 

「・・・だよね~」

 

憂鬱そうな表情を浮かべていた木芽香だったが、

とりあえずその場は自分の残りのチョコを絵里菜に渡して償いをした。

そうこうしている間に「開き直り中」はフェードアウトしていった。

 

 

・・・

 

 

「高元木芽香の児玉坂1chラジオ~!」と使い回しの録音しておいた音声が流れ、

木芽香と絵里菜はまた番組再開のために姿勢を整えた。

 

「はい、聴いていただいたのは児玉坂46で『開き直り中』でした~。

 それでは続いてお悩み相談室のコーナーいきますか、菊ちゃん?」

 

「ほ~い、続いてのお便りです。

 ラジオネーム『もうコケは育てていません』さんからでーす。

 きめたんこんにちは、いつも楽しく聴かせてもらっています。

 最近、一人でずっと悩んでいたことがあったんですが、

 この前とても良い友人ができたことで気持ちが楽になりました。

 その友人と、こんど富山へ旅行に行こうという約束をしているのですが、

 なんだかこのまま行ってしまって良いのかわからずにきめたんに報告させてもらいました。

 この友人と二人で富山旅行に行っても良いでしょうか?

 ・・・というお便りなんですが」

 

「う~ん、なんでかわかんないけど切ない話だね」

 

「なんで~?きめたん関係ないじゃん」

 

「まあ、行ってもいいんじゃないですかね。

 二人の事だからきっと綿密に計画して行くんじゃないかと思いますけど」

 

「どうしてきめたんそんな寂しそうなの~?」

 

「う~ん、きっと作者さんがいじわるだからだと思うよー」

 

絵里菜はなんの事だかわからずに首を傾げて聞いていた。

 

「まあいいや、こっちのこと。

 みなさんお便りありがとうございました。

 それじゃ、みなさんの心に溜まったお悩みを洗い流すために、

 いつものあれ、やっちゃいますね~」

 

エフェクトをかけてもらう合図として、木芽香はブースの外のスタッフをチラ見した。

 

 

「いきますよ~、きめたんスプラッーシュ♡」

 

 

エコーの伸びのある甘い声が響いた。

これは木芽香の必殺技であった。

いつもリスナーの方にやっている恒例の持ちネタだ。

 

 

「いつも思うんだけどさぁ~、きめたんスプラッシュって何か出てるの~?

 私には何も見えないんだけど」

 

絵里菜が茶化す。

これはお決まりの言い方であり、絵里菜以外でもよく言う常套句だった。

 

「きめたんの目から水が出てるんだよ~。

 心のキレイな人にしか見えないの」

 

「え~っ、絶対嘘だぁ、わたし、心キレイだけどなんも見えないよ」

 

「もう!出てるったら出てるの!」

 

 

こんな調子で番組は進行していった。

ラジオ番組は始まりだけはいつも緊張するものであるが、

話を始めるといつの間にか時間が過ぎてしまうもので、

いつもあっという間にエンディングを迎えることとなる。

 

 

「・・・ということで、もうお別れの時間になっちゃいました。

 菊ちゃん、今日は来てくれてありがとうね~」

 

「ううん、こちらこそ楽しかったよ~また呼んでね~」

 

「そういえば菊ちゃん、何か宣伝があるんだよね?」

 

「そうなんです、ピアニストが本業である私なんですが、

 実は一ヶ月後に舞台をやらせていただく事になっております。

 『バカリボンの騎士』という舞台なんですが、

 私が主演でやらせていただきます。

 よかったらみなさん観に来てくださいね~」

 

「はい、リスナーのみなさんよかったら菊ちゃんの舞台を観に行ってあげてくださいね。

 それにしてもややこしいタイトルだよね~」

 

「えっ、どこが?」

 

「いや、こっちの話だから」

 

絵里菜はまた首を傾げて聞いていた。

 

「はい、それではお別れの時間となりました。

 リスナーの皆さん、また次回も聴いてくださいね~」

 

最後の締めのセリフを前に、木芽香はまたスタッフに視線を送った。

 

 

 

「また聴いてくれたら・・・チューしても・・・いいよ♡」

 

 

エコーがふんだんにかかった決めゼリフが終わり、

BGMのボリュームが上がり、やがてフェードアウトして消えていった。

こうして本日の番組は終了したのだった。

 

 

 

・・・

 

仕事を終えて帰宅した木芽香は、すぐにお風呂を沸かした。

暖かい湯船にゆっくりと浸かりながら1日の疲れを癒すのである。

 

ラジオDJだけでなく、声優や歌手としての活動も彼女の仕事だった。

小さな頃から地元の広島でもタレント養成所で頑張ってきた彼女は、

華やかな世界に憧れてやがて上京してくることになった。

ストイックで信念を貫く主義の木芽香は、仕事が安定するまで地元に帰らないと決め、

持ち前の真面目さで努力を続けた結果、その声の魅力を認められることになり、

やがて声優の仕事を幾つかもらえることになった。

近頃の声優はアニメの仕事だけでなくマルチタレントのように幅広く活躍する。

聞き取りやすい声を評価されてラジオDJの仕事が舞い込んできた後は、

声優仲間とグループを組んで舞台やライブの仕事にも関わるようになっていた。

 

そうして毎日を忙しく過ごしながら、1日の癒しの時間と言えばお風呂だった。

そしてお風呂上がりに食べるプリンもまた彼女にとって自分へのご褒美だ。

 

バスタオルで髪の毛を拭きながら、冷蔵庫のドアを開ける。

楽しみにとっておいたプリンは、なぜか食べかけられて半分になっていた。

 

「・・・もう、いい加減にしてよ!」

 

冷蔵庫のドアをバタンと閉めた木芽香は突然そう叫んだ。

癇癪を起こしたような叫びはご近所さんまで聞こえていたかもしれない。

 

「今日はチョコも食べたでしょ!?

 しかも菊ちゃんの分まで食べたじゃん!」

 

髪の毛を拭いていたバスタオルをソファーに投げつけた。

しかしこの部屋には木芽香の他に誰もいない。

 

「聞いてるんでしょ!?

 もうなんとかいってよ!」

 

木芽香はイライラしながら自分のカバンに手を入れてゴソゴソと探りだした。

カバンの中から取り出したのは折りたたみ式の手鏡だった。

 

 

・・・

 

 

木芽香がこの鏡を手に入れたのは約2週間前だった。

仕事が始まる前の空き時間、児玉坂駅前のカフェ・バレッタで一人休憩をしていた時の事だ。

 

お会計を済ませる時、レジにいた女の子に勧められて抽選をした。

特に何も期待する事なく無欲で回したガラガラから出てきたのは金の玉だった。

 

金の玉は一等賞に決まっている。

だから木芽香は出てきた瞬間思わず笑顔になった。

今までの人生、抽選で当てた一番豪華な景品は自転車だった。

だが、金の玉という事はそのレベルをおそらく超えているはずで、

ハワイ旅行だろうか、グアム旅行だろうか、少なくとも国内の温泉旅行か、

そんな事を考えているうちにジワジワと嬉しさがこみ上げてきた。

 

カランカランとベルを鳴らしたのはレジの女の子だった。

見るからにどこか不思議なオーラをまとっているその女の子は、

一等賞が当選した割には淡々とした口調で祝いの言葉を述べた。

 

その「おめでとうございます」というレジの女の子の冷静な賞賛に、

なぜかとても奇妙な感覚があったのは木芽香の思い過ごしではなかったのかもしれない。

店の奥から彼女が持ってきたのは袋に入っていたそれほど大きくない折りたたみ式の手鏡だった。

 

「なあんだ、手鏡か」と木芽香はがっかりした。

その落胆は素直な木芽香の表情に鮮明に現れていた。

先ほど海外旅行を期待した反動がそうさせてしまったのだ。

 

まあ貰えるものは貰おうと思い、木芽香はその手鏡をもらって店を後にした。

そして仕事場に向かったが、奇妙な事が起きたのはその後だった。

 

ラジオ番組の休憩中、その手鏡を袋から出してみた。

なんの変哲もない鏡の裏には蝶の模様が入っている。

そのワンポイントのデザインはまあまあ可愛いかと思った。

だが、鏡を覗き込んだ時、木芽香は驚いて思わず鏡を手から離してしまった。

 

 

・・・

 

 

木芽香はソファーに座り、先ほど開いた鏡を覗き込んだ。

そこには、映り込んでいる木芽香の影が動いているのが見えた。

 

「あなたはいったいどれだけ食べれば気が済むの?

 私のプリンを勝手に食べるのはもう止めてよ!」

 

木芽香が話掛けている相手は、その鏡の中の自分自身の影だった。

鏡を通して覗き込んだ景色には、独立して動いている自分の影が見えた。

 

木芽香がこの手鏡を通して影を見てからというもの、

彼女の周囲には奇妙な出来事が起きることになった。

いつも木芽香の食べ物が半分無くなっているのだ。

冷蔵庫に入れてあるプリンやカバンに入れておいたお菓子、

飲もうとして注いだお茶や自販機で買ったジュースまで、

それはいつも木芽香が飲食する前に必ず半分無くなってしまう。

自分は毎回半分なくなった物を飲食するはめになってしまうのだ。

 

鏡を通じて影を見つけた時、木芽香は気持ち悪く思った。

それは自分以外の人にはその影はどうやら見えていないようであり、

鏡を見ても特に何もおかしな事は映っていないというのだ。

影が見えているのは自分だけ、しかも食べ物がいつも無くなっていく。

 

気持ち悪く思った木芽香は鏡をバレッタに返しに行った事もあった。

しかし、あの日以来レジの女の子を見かけることはなくなり、

ヘミングウェイを読みふけっている店長は全く取り合ってくれない。

 

そんな様子だったので、イラっときた木芽香は鏡を捨てることにした。

だがどれだけ捨てても鏡はいつの間にか木芽香のカバンに戻ってきた。

さすがに怖くなって鏡を叩き割ろうと挑戦したものの、

鏡はいくら落としても叩いても割れることはなかった。

 

そういうことで、木芽香は影との共同生活を余儀なくされることとなった。

自分の家のプリンが半分なくなるのは当たり前のことになっていき、

でもそれにもいつの間にかもう慣れてしまった自分がいた。

 

だが、今日はさすがに食料の減り方がひどかった。

カバンのチョコも半分減っていたし、菊ちゃんのチョコにまで手を出す始末。

挙句の果てには冷蔵庫の中のプリンにまで手を出して歯止めがきかない。

さすがに堪忍袋の緒が切れたのが今日の木芽香だったのだ。

 

 

 

・・・

 

「おはようございま~す♡」

 

仕事現場に入る時の木芽香はいつも笑顔だった。

オンとオフをきちんと分けるタイプの木芽香は、

仕事に取り組む際に自分を鼓舞する癖があった。

それくらい彼女は頑張り屋でストイックだったのだ。

 

本日はラジオDJではなく声優の仕事だった。

最近巷で大流行しているアニメ「のぎ松ちゃん」の声優に選ばれた木芽香は、

豪華な声優陣が売りのこのアニメの人気にうまく乗ることができ、

その6人組声優でユニットを組むことにまで発展していたのだ。

今日はそのアニメのアフレコの仕事があって現場へやってきたのだった。

 

「のぎ松ちゃん」は顔が似ている六つ子が主人公のアニメであり、

それぞれ六つ子に違った名前とキャラクターがある。

木芽香が担当するのはツッコミ役である三女のチョコ松だ。

他にものぎ松、キャラ松、二松、十五松、トロ松など個性豊かな姉妹がおり、

声優陣を選ぶオーディションの倍率は1000倍以上にも達したという噂があった。

 

「きめたんおはようー!

 ちょっと周囲がうるさいけど気にしないでね」

 

現場のスタッフさんが木芽香を優しく誘導してくれた。

この現場は周囲がうるさくなるのはいつものことだった。

アフレコ現場にはいつも決まって声優陣のおっかけファンが集まってくる。

また同時に、どうしてもこのアニメの声優がやりたいという熱烈なファンも押しかけてくる。

今日もまた熱烈なファンが二人、現場まで押しかけて来たらしく、

スタッフが朝からその対応と説得に追われているらしかった。

 

「いやいや、おかしいでしょ!」

 

アフレコの部屋へ向かう途中、スタッフに直談判している人を木芽香は見つけた。

そこにはアニメが好きそうな女の子が二人立っており、

特に一人が饒舌に何かを語りながらスタッフに猛烈アピールをしている様子だった。

 

「このアニメはうちのほうが絶対に好きなはずやし、

 うちが声優できやんのはなんか間違ってると思うんです。

 ちょっと作者さん呼んでくださいよ」

 

大阪弁が印象的なその豪快な感じの女の子は、

何かの軍団長みたいな貫禄でふてぶてしく不満を述べていた。

 

「いや、もうほんま絶対おかしいと思います。

 なんやったらうちらの軍団で六人揃えますんで、

 それでのぎ松ちゃんやらせてくださいよ」

 

彼女は一歩も引き下がる姿勢を見せなかった。

隣にいる和風美人の子は、そんな様子にあたふたと焦っている様子だ。

 

「軍団長・・・」

 

か細い声でその和風美人の子が口を開いた。

 

「この軍団、まだ私たち二人しかいないですけど・・・」

 

軍団長はその忠告を全く意に介していないようだった。

この軍団長には、おそらく正論というものは通用しなかった。

 

その時、直談判していたこの二人の横をすり抜けるようにして走る影が見えた。

黒い影は忍者のような出で立ちで俊敏にスタッフをすり抜けてアフレコ現場へ向かおうとした。

 

しかし、その思いもむなしく、あともう少しのところでスタッフに取り押さえられてしまった。

忍者の格好をした女の子は泣き叫びながらスタッフに強制的に退場させられていく。

 

「頼む~やらせてくれ~この為にわざわざ秋田から来たんだこんちくしょー!」

 

彼女もまた声優をしたいと願っている熱烈なファンの一人だったのだろう。

 

「こんなにやりたい人がおるのにやらせてあげないなんてひどすぎるでしょ!

 わかりました、ほんならあそこにおるツインテールにリボンつけてる子は良しとして、

 さっきの忍者の格好した子もやらせてあげましょう!

 ほんで後はうちと副軍団長のトト子入れたら四人揃います。

 あとの二人くらいは軍団員を募集してなんとかしますから!」

 

退却するかと思われた軍団長は鮮やかな方向転換を見せた。

木芽香は自分を指差して「あたし?」という素振りを見せた。

知らない間にややこしい話に巻き込まれていきそうな気配だった。

 

「私の名前は坂木トト子でややこしいですけど、トロ松がやりたいです」

 

「えーっ、トト子ずるい、私もトロ松がやりたかったー!

 どうしよー、でも二松も好きやし迷う~♡」

 

軍団長とトト子がそんな話をしていると、

さすがに事態の収拾を図るべく監督が重い腰をあげたようだ。

 

「申し訳ないが、あんたら本編に全く関係ないからそろそろ引っ込んでくれ。

 今後軍団が活性化するようなら作者も別で登場させるからと言っているし」

 

説得の方法が奇妙ではあったが、一応偉い人が話に応じることになった。

だがこんなことで事態が収拾できるとは到底思えなかった。

 

「いやいや、のぎ松ちゃんやないと意味ないんですよ」

「私は二推しだったらキャラ松です」

「頼む~永遠の十五松推しなんだ~こんちくしょー」

 

案の定、ファンたちの声が大きくなって収拾がつかない。

 

「きめたん、ごめんね。

 気にしないでアフレコ現場へ行こうか。

 こんな暴動を起こさせる題材を取り上げた作者が悪いんだから」

 

「はぁ・・・」

 

スタッフは騒ぐファンたちを尻目に木芽香を奥の部屋へと連れて行った。

 

 

 

・・・

 

「のぎ松姉さんしっかりしてよ!」

 

木芽香が声を当てるチョコ松はツッコミ担当だった。

オーディションを受ける時、木芽香は六人の中で比較的に常識人だったチョコ松に惹かれた。

 

「大したこともしてないのに偉そうな態度ばっかりとって!」

 

アニメ「のぎ松ちゃん」は六人姉妹の物語となっているが、

姉妹のキャラクターがしっかりと分別されている。

長女は偉そうに、真ん中は常識人に、末っ子は甘えたに設定されている。

 

「トロ松ちゃんも末っ子だからってワガママばっかり言わないで!」

 

人は皆、自由に生きているように見えて何かに縛られている。

兄弟姉妹の間でこんな風にキャラクター形成がなされる点を見るとき、

そんな目に見えない拘束を痛烈に思い知らされることになる。

役割が人格を作っていくという事実に、自身が客観的に気づくことは難しいし、

気づいたとしても長年染み付いたその癖から抜け出すことは至難の技だからだ。

むしろ、無意識的に自分と似た習性を持つキャラクターに共感してしまうもので、

ひょっとするとチョコ松を選んだ木芽香もその例外ではなかったかもしれない。

 

 

「はいオッケーで~す!」

 

アフレコを全て終えた木芽香は、他の声優仲間達との打ち合わせに入った。

三ヶ月後に開催される「のぎ松ちゃん」のファン感謝祭イベントで、

声優ユニットである六人でパフォーマンスを行うことが決定していたのだ。

アニメが好評だったことで、ファンの人気は声優にまで及ぶことになり、

その六人がそのまま声優のユニットとしてデビューすることになった。

 

パフォーマンスは児玉坂公園の野外ステージで行われることになっていた。

内容としては「のぎ松ちゃん」の主題歌を披露することになるが、

その他の時間は各声優がそれぞれ好きな歌を披露して埋めることになった。

主題歌以外にまだ具体的な楽曲がないことがその理由であったが、

各自がそれぞれ自分の魅力を表現する場を設けても構わないという意図もあった。

 

小さい頃から地元のタレント養成所で活動をしていた木芽香にとっては、

こういったソロで表現の場を与えられることは素直に嬉しかった。

声優、ラジオDJ、歌手と幅広く活躍していく木芽香にとって、

こういったユニット活動は自分を売り出す機会にはなるのであるが、

アニメが人気を保っている期間だけの限定的な活動であることを意識していた。

こうした一定期間だけのグループ活動で知名度を上げながらも、

最終的には一人で活躍する未来を勝ち取らなければならないと思っていた。

 

 

打ち合わせ会議も順調に終わり、六人は休憩室へ向かった。

もうすぐお昼休憩の時間だったのだ。

 

「木芽香は何歌うの~?」

 

他の声優達が木芽香にそう尋ねる。

 

「え~っ、まだ決めてないよ~」

 

小さい頃から歌ってきた木芽香にはレパートリーが沢山ある。

また時間のあるときに一人でゆっくり決めればいいと思っていた。

 

「木芽香はいいよね、ステージの経験も豊富だろうし。

 私たちは声優業からスタートしてるからこういうのは緊張するよね」

 

そうそう、と他の声優仲間も相槌を打っている。

 

「え~っ、別にそんなにみんなと変わんないよ~。

 歌だって自信があるわけでもないし」

 

木芽香はそういったが、他の声優たちは「またまた~」と囃し立てる。

このユニットライブを計画したスタッフ達にとっても、

実際のところは経験者である木芽香が一番うまくやってくれるという期待を抱いていた。

他の五人がこけたとしても、木芽香が盛り返してくれるくらいに考えていたのだ。

 

木芽香も謙遜はしていたが、このメンバーであれば自分が比較的に経験豊富であることを、

実際には心の中できちんとわかっていたし引っ張らなければならないとも理解していた。

その自信がないわけでもなかったが、ただプレッシャーに感じたくない思いがあり、

その自信を周囲に撒き散らすような性格を木芽香はしていなかった。

 

そんな話をしながら六人は休憩室へ辿り着いた。

だが、そこで六人を待っていたのは予想もしなかった未来だった。

 

「あれっ?お弁当が足りないよ」

 

声優仲間達が用意されたお弁当を食べようと思った時、

その個数を数えていたのだが、どうやらお弁当は5つしかないことに気がついた。

 

「発注ミスかな?もうスタッフさんしっかりしてよ~。

 のぎ松ちゃんが6人姉妹だって設定も忘れちゃったの~?」

 

スタッフのうっかりを笑いながら、携帯電話でお弁当が足りない事実を告げた。

だがこの状況の中で、木芽香だけがそわそわして落ち着かなかった。

嫌な予感だけがぐるぐると頭を巡って消えてくれなかった。

 

やがて呼び出されたスタッフが部屋までやってきた。

不思議そうな顔をしてお弁当の個数を数えていたが5つしかない。

 

「あれ?おかしいですね、確かに6つ注文したんですけど」

 

みんなが躍起になってこの状況の解決を望んでいる中で、

なぜか木芽香だけは一人テンションが低かった。

もはやこの問題はうやむやになって雲散霧消して欲しかった。

 

「ねぇ、ちょっとこれ見てよ!」

 

声優仲間の一人が部屋のゴミ箱を覗き込んで叫んでいる。

そこにはなくなったはずのお弁当の空箱が捨てられてあった。

 

「な~に~?これって誰かがもう食べちゃったってこと?

 ちょっと誰よ~そんな食い意地はってるのは~」

 

木芽香の嫌な予感は募っていった。

そしてドライな目で自分の後ろにいる影を見つめた。

まさか・・・。

 

「誰かもうお弁当食べました~?」という声をあげてスタッフが誰かに電話で確認している。

お昼の時間も守れないなんて、そんな大人がこの現場にいるのだろうか。

 

「えっ、そうですか・・・はぁ」

 

携帯電話で誰かと話をしながら、スタッフは確実にちらりと木芽香を見た。

木芽香はもうどういう展開になるかを覚悟していた。

 

「あの・・・この部屋から走り去る影を見たという人がいるんですよね。

 それがどーも木芽香さんみたいだったと証言している人がいるんですが・・・」

 

スタッフがそう述べると、他の声優仲間達は一斉に木芽香を見つめた。

疑惑の目が一斉に向けられたことで、木芽香は苦しい思いに耐えきれなくなった。

 

「・・・えへへ、実はお腹空いてたからもう先に食べちゃいました」

 

木芽香は子供のような無邪気な笑顔を整えてそう言った。

「ちょっと木芽香~」「先に言ってよ人騒がせな~」という声が上がった。

「ごめん恥ずかしかったから言い出せなくて」と木芽香は笑ってごまかした。

 

 

「あ~もうお腹いっぱいだ~散歩してこよ~っと!」

 

そう言いながら木芽香はカバンを持って部屋のドアを開けて外へ飛び出した。

気づいた時にはどこかへ向かって走りだしていた。

走っている間、無情にもお腹は「ぐぅ」となった。

 

(・・・また勝手なことをしてあの子は・・・)

 

仕事場の外にあるコンビニの店先へ辿り着いて、木芽香はカバンから手鏡を取り出した。

覗き込んだ木芽香の目には、ケラケラと笑っている影の姿が目に入った。

 

「食べるんなら食べるって言ってよ!あんなの恥ずかしいじゃん!」

 

鏡に向かって話しかける木芽香に対し、周囲の人々は奇妙な視線を向ける。

それが携帯電話で話をしているわけでもないことがわかると、

失礼にならないよう、心持ち少しだけ距離を取るようになるのが木芽香にもわかった。

 

(・・・何言っても無駄か・・・)

 

肩で大きくため息をつき、木芽香は鏡をまたカバンにしまった。

そのままコンビニに入り、自分のお昼ご飯を買って食べた。

 

 

・・・

 

 

こんな事が起きたのは1度きりではなかった。

アフレコの仕事がある時も、ライブの練習がある時も、

木芽香の周辺からはお菓子がなくなったりお弁当がなくなったり、

こういう事件が日常的に起こるようになっていった。

その度に、木芽香は自分が食べたと誤魔化すはめになった。

 

影は何も悪びれることはなく、こんなイタズラを繰り返すのだった。

犯人はわかっていたが、影がいつの間にどうやって抜け出しているのかはわからず、

また他の人には鏡を通しても動く影の姿は見えないことで、

どう釈明しても影がやったなどとは理解してもらえそうにないのだった。

だから木芽香はお菓子が減ることも我慢しなければならなかったし、

お弁当がなくなっても、自分で買ってやり過ごすようになった。

 

不思議だったのは、木芽香はいつの間にかこの影の存在が不満だと思わなくなっていったことだ。

初めのうちは気持ち悪くも感じたが、普段は鏡を通さなければ見えることもないし、

被害はと言えば身の回りの食料が減るというイタズラだけだったからだ。

しかも時にはお弁当を半分残しておいてくれる時もあり、お菓子だって全く減っていないこともあった。

 

いつの間にか木芽香は、影が先に食べてしまってもほとんどの場合、自分には半分残してくれるし、

もしたくさん食べたい時は、いつもの倍ほど準備すれば良いと考えるようになった。

そうして奇妙なことに、知らず知らずのうちに影のいる生活にも慣れていったのだった。

 

 

・・・

 

「はいそれでは次のお便りで~す。

 ラジオネーム『将棋姫』さんからいただきました。

 きめたんこんにちは、どうか私の悩みを聞いてください。

 今朝、新聞の折り込み広告に『さゆみかん軍団』という謎の組織の団員募集を見つけました。

 私は『さゆみかん軍団なんてあるんだぁ』と思って見ていただけだったのですが、

 なぜかその翌日から自宅に勧誘の電話がひっきりなしにかかってくるようになりました。

 しかもどうやら、私はすでにこの組織に加入していることにされています。

 私はこのままこの組織に入団しても良いのでしょうか教えて下さい、とのことです」

 

ラジオ番組の本番中、一人の男がこのお便りを読み上げた。

そこから木芽香に呼びかけるが木芽香は気づかない。

 

「きめたん、お~い」

 

男の声が再び木芽香の名前を呼んだ。

だが木芽香は虚ろな目をしてやはり声に気づいていない。

 

「きーめたんってば!」

 

もう一人の男がさらに大きい声で呼んだ。

その声に気づいて木芽香はふと視線を上げた。

 

「あっ、えへへ、なんですか~?」

 

「どうしちゃったんだよきめたん~?

 俺たちのきめたんはラジオの本番中にボーッとするような子じゃないぜ~」

 

番組にゲスト出演してくれている芸人、オクシデンタルテレビの片方がそう言った。

彼らは隔週でゲスト出演してくれて、木芽香と一緒に番組を盛り上げてくれる。

 

「なんだ~浮かない顔してよぉ、恋でもしてるってのか~?」

 

「もう、そんなんじゃないですって~」

 

先ほどの虚ろな顔から一転、笑顔を整えて返答する木芽香。

だが、木芽香の笑顔には時々、ふと隠しきれない辛さが覗くことがある。

ずっと一緒に番組をやっているオクシデンタルテレビの二人にはそんな嘘は見破られてしまう。

 

「きめたん疲れてるんだったらさあ、休んだっていいんだぜ?

 辛いことを辛いって吐き出すのも大事なことだからな」

 

「はい、でも大丈夫ですから」

 

「いやいや、無理しちゃいけないよ~たまには休んだっていいんだぜぇ~。

 代わりに菊ちゃんに来てもらってMCやってもらっからよぉ~」

 

「おい!それが目的だったんだな藤林~!

 私絶対に休みませんから~」

 

茶化しながら番組を進行していくオクシデンタルテレビだったが、

こういう風にしながらも心の底では木芽香の事を心配していた。

ストイックで頑張り屋さんで、少しばかり頑固なところもある木芽香を、

人生の先輩として可愛がりながら遠回しに諭してくれる存在。

番組を通じて木芽香の新しい魅力を発掘しようとしてくれることもある。

こうして守ってあげたくなるところも木芽香の魅力なのかもしれない。

 

 

影のいる生活を続けて早二ヶ月が過ぎようとしていた。

当初あったような驚きもなく、ただ淡々と共に送る日々の中で、

慣れるという事実の恐ろしさが徐々に木芽香を蝕みつつあったのかもしれない。

お菓子がなくなる事もお弁当がなくなる事も大した事だと思わなくなっていた。

自分が用意した食べ物を先に食べるのは影であり、自分は絶対に2番目。

それは一見大したことには思えなかったし、木芽香自身もそれほど気にしていなかった。

 

だが、慣れるということの恐ろしさは、自分がその場所や役割に収まっている事が、

あたかも当然のように認識させられているというその事自体にあった。

流動性のある時はまだ良い、固定化され始めた時、人は無感覚に陥っていく。

嬉しくも悲しくも寂しくもない、変化のないその立場が自分の居場所になっていく。

 

 

 

「え~と、なんでしたっけ?」

 

木芽香が話を戻そうと努めた。

先ほどのお便りは全く耳に入っていなかった木芽香であった。

 

「おい『将棋姫』さんのお便り聞いてなかったな~。

 まあいいや似たようなお便りがもう一枚きてます。

 ラジオネーム『勢い止まらない系女子』さんからいただきました」

 

「おおー、止まらんぜってか」

 

「・・・おいそれもう言っちゃってるからね、ラジオネームの意味ねーだろ。

 まあいいや、『勢い止まらない系女子』さんからのお便りですが、

 きめたんさんこんにちは、いつも楽しく聞かせていただいてます。

 私は先日『さゆみかん軍団』という謎の組織から勧誘を受けました。

 軽い気持ちですぐに加入をOKしてしまったのですが、

 今のところ、まだ特に何も活動の実績もありません。

 このような組織に所属していることは何かメリットはありますでしょうか?」

 

オクシデンタルテレビの高田がお便りを読み上げた時、

やはりまたしても木芽香の視線は下を向いているのに高田は気がついた。

 

「藤林はこれどう思うー?」

 

「芸人としては軍団に入るってのはオイシイ話だと思うけどねー」

 

「いや、まあこの人達は芸人じゃないからね」

 

「あっそう、まあでもこういうのはいいんじゃないのー?

 ダメだと思ったら辞めたらいい話でしょ。

 組織だってやばいと思ったら自然になくなったりするもんだし。

 やれるだけやってみたらいいんじゃねーのー?」

 

藤林はいつも通りチャラい感じで質問に答えた。

高田はそれをカッコよく修正していく、いつものこのコンビのパターンだ。

 

「まあでも俺が思うに、色々と試みることはいいことだと思うんだよ。

 社会ってさ、何かと話題を作っていかないといけないみたいなとこあんじゃん?

 黙ってたら何もやってないみたいに思われて損することだってあるし、

 俺たちみたいな芸人でもそう、騒いでなんぼみたいなとこがあるからさ。

 一人で無理なら全員で騒げばいいし、メチャクチャでも走り出せばいいんだよ。

 それぐらいでやっと頑張ってるなーって何となく世間には伝わるんだし」

 

「ちょっと何カッコよくまとめてくれちゃってんの?

 なんか俺バカみたいじゃねーか?

 まあいいや、じゃあきめたんいつものアレでお悩み解決しとこっか。

 目から水が出てるんだろ、アレは」

 

藤林は木芽香が話を半分以上聞いていないのを知った上で最後のフリを出した。

 

「えっ、ああ、そうですね。

 いきますよ~きめた~んスプラーッシュ!」

 

エコーがかかった声で必殺技を叫び、なんとかコーナーはうまく体裁を保った。

 

「はい、それじゃここで一曲聞いてもらいましょう。

 児玉坂46で『踏まれたままで』です、どうぞ」

 

藤林が曲を紹介すると、曲のボリュームが上がっていき、

木芽香たちは一息つけることになる。

 

「きめたん~どうした~?

 なんか嫌なことでもあったか~?」

 

次の台本を準備しながら藤林が尋ねる。

チャラいように見えて、本当は真面目な男だった。

 

木芽香はただ下を向いて黙っていた。

優しくされると余計切なくなると思った。

本当は思っている事を言いたいのだが、どうせ影のことは自分以外は見えないのだから、

誰にそんなことを説明しても頭がおかしくなったと思われてしまうだけだとわかっていた。

だから誰にも相談できない、辛さをこらえようと頑張る、心にストレスが溜まる・・・。

 

「誰でも他人に言えないことの一つや二つはあるよな。

 だったらさ、思い切ってもう休め。

 そういう時は友達と遊ぶなりして嫌なことを忘れる時間を持ってもいいんだよ。

 頑張ることはいいことだよ、でも頑張っても結果が出ない時もある。

 そんな時に、自分をどう慰めてあげるのかも大切なことだぜ」

 

高田はそう言うと、木芽香の目の前にあったマイクの位置を動かした。

もう今日はこれ以上しゃべらなくてもいいという合図のようだった。

 

「曲終わりからオクシデンタルテレビの二人でつなぎますねー。

 きめたんのコーナーはお休みにして俺らのフリートークに切り替えて下さい。

 彼女は次の仕事があって移動することになったとでもしておきましょう。

 それでよろしくお願いしまーす!」

 

高田はブースの外のスタッフにそう告げて番組構成を変更した。

おそらく、これは大人たちが木芽香の様子が変だということに気づいていて、

本番が始まる前から検討していた流れだったのかもしれなかった。

 

木芽香は自分が仕事を全うできない悔しさで涙が出てきた。

負けず嫌いで自分に厳しい木芽香にとって、

自分の能力が足りないという事実ほど辛いことはなかった。

情けない気持ちでいっぱいになると、誰に声をかけられても悔しさしか溢れて来ない。

こんな自分が嫌だなと感じる時もあるが、生まれ持った性質を変えることは難しく、

ただ惨めに感じる自分を抱えて涙を流すしかなかった。

 

「ちょ、リアルきめたんスプラッシュしてんじゃねーかよー。

 大丈夫だって、そんな気にすんなー。

 調子いい時もありゃ悪い時もあるってだけだからよー。

 あとは俺たちに任せろって、なっ!」

 

藤林に促されるように木芽香はブースから退席していった。

木芽香は一人でお手洗いに行き、洗面台の鏡で自分の情けない姿を見て泣いた。

「わぁっ」っと泣き崩れた時、どうして自分がこんな風になってしまったのかと悔やんだ。

カフェの抽選で当たった鏡によって自分の影が動くのが見えるようになっただけ。

しかしそんな非日常の出来事がじわじわと心労となって木芽香にのしかかる。

 

 

その時、木芽香の携帯電話の音がなった。

誰かからメールが届いたようだ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

きめたん明日休みだよねー?

よかったら久しぶりに中三組で遊ばない?  

菊ちゃんも休みだって言ってたからさー。

渋谷で集まるのはどうかなー?

  

              皆藤みはる

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

メールは古い友人のみはるからだった。

菊ちゃんと同じで中学三年生の時分に知り合ったことから、

ずっと中三組と呼び合っている仲だった。

 

(・・・みーちゃんからか・・・)

 

自分が今こんなボロボロの状態の時に、

友達と遊んでも気分を合わせられるか不安だった。

一人だけノリが悪くなってしまうのも嫌だし、

普段であればこういう状況で進んで参加したくはなかった。

 

(・・・思い切って休め、か・・・)

 

木芽香はそのメールにすぐに返事を書いた。

午後1時に渋谷109の前に集合を提案する内容で・・・。

 

 

 

・・・

 

「私もう色々とスケジュール組んできました」

 

渋谷109前に集合した時、菊田絵里菜は本日の予定を紙に書いてまとめてきた。

そして分刻みのスケジュールを二人に向かって発表し始めたのだった。

 

「もうやりたいこといっぱいあるから」

 

世界的なピアニストとして仕事の忙しい絵里菜にとって、

久しぶりの休日を満喫するには、やりたいことを詰め込むスケジュールを組むしかなかった。

彼女は子供っぽく言えば欲張りだが、欲と言うのは人間を動かす原動力であることも間違いない。

健全な欲求は人類を進歩させてきたし、明日を生きるエネルギーを与えてくれる。

 

「ズントコ ズントコ ズントトン」

 

始めて109で買い物をするというお嬢様な絵里菜は、

アパレルショップの店内で流れるビートの効いた音楽につられて陽気に身体を揺らし始めた。

隣で付き添って歩いている友人のみはるも同じように身体を揺らし始めた。

彼女の職業は世にも珍しい「自動振付師」というものらしい。

音楽が聞こえると勝手に身体が動くのは彼女の職業病なのかもしれない。

 

そんな様子を見て、木芽香は苦笑いを浮かべて距離をとってしまった。

影のいる生活を続けている木芽香にとって、

二人のように明るく振る舞うような気分では元々なかったからかもしれない。

 

木芽香は時々このようにドライな気持ちになってしまうことがある。

別にそれが悪いというわけではない、人の個性とは様々であり、

特にそれが何かしら絶対的な欠点だと言うつもりもないし、

誰に非難されるような悪害をもたらしていることもないからだ。

 

ただ、見ている側としては彼女を放っては置けなくなる気がする。

こういう時、彼女は何かしら得体のしれない気持ちを一人で胸に抱えているように思えるからだ。

だがおそらく、それを詮索することは彼女にとって最もお節介な行為であることもまた事実だろう。

だからこそ彼女は、自動的に二人から距離を置いてしまっているのだし、

そっとして置いて欲しいという暗黙のシグナルを送ってきているからだ。

 

(・・・やっぱ来なきゃよかったかな・・・)

 

そんな思いがふと木芽香の頭をよぎった。

みんなのテンションが上がる時、自分のテンションは下がってしまう事がある。

周囲はそれを盛り上がれと急かしてくることがあるけれど、

本当のところを言えば大きなお世話なのだ。

なぜなら、そんなことは本人が一番よくわかっているのに、

そんな簡単に思えることがどうしてもできないからなのだ。

 

「何買っていいかわからんプー」

 

絵里菜はそんな事を言いながらどの服を買うのか迷っている。

だが気になるアイテムを見つけたようだった。

 

「うーん勇気が出ない」

 

「可愛いけどね」

 

「そう可愛いんだけどー、でもなんか買っていいのかなって思っちゃう」

 

そう言って手に取った服を戻す絵里菜。

洋服については今まであまり関心がなかった事もあり、

一人では決断を下す勇気が出ないのだった。

 

「ママに電話したいんでしょー?」

 

木芽香は人の心理を読むのにはわりと鋭いほうだった。

国語の勉強をしなくてもある程度点数が取れるタイプであり、

次女だった事もあって周囲の空気を読むバランス感覚には長けていた。

 

「いいよ、私がママだったら良いって言うよ」

 

そう言って絵里菜の気持ちを汲み取って優しい言葉をかける。

まるで姫とお世話係のような関係性で二人は成り立っていた。

 

 

木芽香の後押しもあり、絵里菜は気になった服を買って109を出た。

友達と牧場に行くくらいしか遊んで来なかった絵里菜にとって、

渋谷でこんな風に遊ぶのはさぞ楽しかったに違いなかった。

 

仲良くプリクラを撮った後、三人でカラオケに行った。

そこでは歌う曲にまで段取りを組み出す絵里菜がいた。

彼女は生まれ持ってのお姫様なので、こうした行為も許される。

木芽香とは全く違うタイプの行動パターンを取る女の子だった。

 

曲の冒頭部分がわからなくなっても豪快に歌い続ける絵里菜と、

それに合わせてノリよく合わせていく自動振付師のみはる。

二人が「ヘーイ!」と盛り上がる中、またしても木芽香は静かだった。

 

そもそも、彼女は一気にテンションを上げる性格ではなかった。

少しずつ少しずつ気分を盛り上げていくタイプだったし、

そんなに一気に二人のようにマックスまで高められない。

だがこの日の木芽香のテンションを下げさせていたのは他でもない、

まさしく影の存在が徐々に彼女の生気を奪っていたのだった。

 

それでも木芽香は歌うのが好きだった。

気持ちを持ち直して歌った曲は「翼の折れたエンジェル」だった。

 

彼女が本来持っている甘い声質を活かし、

張りがあってパンチのある伸びやかな歌声を響かせていく。

彼女の歌声は聴いていてどこか気持ち良い。

木芽香にとっては上手く歌えたか歌えなかったか、

そういう自己基準で判断しているところがあるだろうが、

聴いている側にとってはとても可愛らしくて耳に心地よい、

彼女の持つ雰囲気そのままで、どこか切なくて癒される思いがするのだった。

誰かの耳にとって心地よいと思わせる声質を、

木芽香は天性で持っていると言えるだろう。

 

 

大好きな歌を思いっきり歌って、木芽香は幾分か憂さ晴らしになった。

その後、絵里菜はなぜかイタリアのオペラを歌い、演歌も歌った。

見ている限り、彼女は歌うことで木芽香の何倍もストレスを発散していた。

演歌を歌う時は「みなさん本日はお集まりいただきまして~」と語り始めた程で、

絵里菜というのは自分が中心になるという星の元に生まれたお姫様のようだった。

彼女は根っから1番になりたいタイプだったし、その場所が最も居心地のよいことを知っていた。

 

もちろん、彼女にも彼女なりの挫折感などはある。

人生全てが順調にいっているわけでもなく、辛い気持ちを抱えることもある。

それでも彼女の強みは、自分が1番になりたい存在であるということを知っていて、

それに向かって迷いなく邁進していけることだった。

それは人生に立ち向かっていく精神的なポジション意識というものかもしれない。

自分が良いポジションに着くということに対して本質的には遠慮や罪悪感を持っていない。

かといって誰かを蹴落とすような意地汚いところは持たず、

ただ極上の努力と根性でそのポジションにふさわしい自分になろうとするだけだった。

 

 

絵里菜が歌う楽曲に合わせて自動的に振付をつけていくみはる。

音楽を聴いて自動的に身体が動くというのは、もはや一つの才能だった。

それは生来ずっと彼女が持っている根っからの明るさというものだ。

楽しい時に身体を動かす、身体を動かすからまた楽しくなる。

ポジティブな好循環が彼女には備わっているのだ。

もしかするとスポーツ選手などにもこういう素質があるのかもしれない。

 

また皆藤家には独自の歌が存在するらしく、

その事実がすでにみはるの家庭環境の明るさを物語っている。

そういう家族間を繋ぐ歌があるということは、無意識で家族の団結に作用しているはずだ。

姉であるみはるは、妹のお菓子を勝手に食べることもできる。

定期券入れを自分の物だと言い張って使えるジャイアンのような権力も持っている。

もちろん、それを告げ口する妹がいるという事実は、

二人の関係が極めて良好であることを示唆している。

 

 

「ねぇ、トイレ行かない?」

 

なんとなく気分転換を図りたくなった木芽香は席を外そうとした。

木芽香はお手洗いに行く時は誰かについてきて欲しいタイプだった。

 

「いいよ、いこっか?」とみはるは言う。

「えーっ、一人で歌うの寂しいじゃん」と絵里菜は言う。

 

結局あいだをとって「この曲が終わったら行こうか」とみはるが提案した。

しかし、気を使わせるのも嫌だった木芽香は結局一人で行くことにした。

 

 

トイレの鏡を見て木芽香は一人深い息をついた。

ちょっと無理して来てみた中三組での遊びは楽しかった。

オクシデンタルテレビの二人が言っていたように、

少し無理してでも休んでリフレッシュするのは大事だと思った。

 

カラオケも盛り上がってきたところで、木芽香のテンションも少しずつ高まってきていた。

このまま上手くいけば嫌なことも忘れて過ごせるかもしれないと思った。

鏡を見て自分の顔を確かめる、うん悪くない。

 

木芽香は少し明るい気分で二人が待つ部屋に戻った。

やっぱり持つべき物は友達だと、二人の顔を見てホッとしたものだった。

 

みはるの曲が終わり、次は木芽香の歌う番になった。

悩んだ挙句「卒業」を選んで画面に向かってリモコンで曲を送信した。

次はしっとりした雰囲気の曲を歌いたいと思っていたからだった。

 

「あれ~きめたんまたこの曲歌うの~?」

 

絵里菜が不思議そうな顔をして言った。

不思議に思ったのは誰よりも木芽香のほうだった。

 

「えっ、これ歌うの今日初めてだよ~」

 

きっと絵里菜は、前にカラオケに来た時に歌ったのと勘違いしていると思った木芽香はそう言った。

まったく菊ちゃんは天然さんなんだから。

 

「えー、きめたんどうしたの、だってついさっき歌ってたじゃん、ねぇみーちゃん?」

 

木芽香は妙な胸騒ぎを覚えてみはるを見た。

そんなはずはない、嘘だと言って欲しかった。

 

「うん、まあ別に同じ曲を連続で歌ってもいいけどねー」

 

みはるは寛容に受け入れてくれたが、木芽香の心は動揺していた。

自分は今日、全くこの歌を歌った覚えがなかったからだ。

だが、おそらくこの曲はもう既に誰かによって歌われていた。

それを察した木芽香はとっさに誤魔化そうと笑顔を繕った。

 

「・・・えへへ、なんかもう一回歌いたくなっちゃって」

 

そう言って木芽香は「卒業」を歌い始めた。

木芽香の甘いしっとりした歌声が部屋の中に流れる。

だが、曲の途中まで歌った後、「やっぱいいや」と言って中止ボタンを押した。

 

「えー、きめたんもういいの?

 じゃあ私歌おっかな」

 

絵里菜は次々と自分の好きな曲を歌っていく。

みはるはそれに合わせて振付をつけていく。

 

木芽香はドライな瞳をして自分の影を見つめていた。

こんなことができるのはこの子しかいないと思った。

 

 

(・・・いったいどこまで私の邪魔をしたら気がすむの・・・)

 

 

・・・

 

 

カラオケを出た後、占いの館、タイ古式マッサージへ行った。

どこへ行っても絵里菜とみはるの二人は楽しそうだった。

 

最後の締めに、高級焼き肉店へ行ってご飯を食べた。

みはるは「ギューシーで」と言いながらお肉を食べていたが、

木芽香は相変わらずのように、いつの間にか焼けたお肉を口に運ぶ前に、

そのお肉が半分食べかけられているのに気がついた。

 

最後に頼んだシャトーブリアンに関しては、木芽香は一口も食べられなかった。

口に運んだはずが、いつの間にかお肉は全てなくなっていた。

 

高級お肉に感動している二人をよそに、木芽香はいつものようにおいしいねと嘘をつくしかなかった。

 

 

 

・・・

 

「どうしちゃったんだろうなぁ」

 

児玉坂公園のステージ上で歌っている木芽香を見たスタッフの言葉だった。

歌声に精彩を欠く木芽香にやきもきしていたのだ。

 

もう1週間後に迫った声優ユニットのライブに向けて、

スタッフは着々と準備を進めていたのだった。

その中で、リハーサルを繰り返すうちに気づいてきたのだ、

木芽香の様子がどんどんとおかしくなっていくことに。

 

「以前のほうが自信を持って歌ってた気がするのに・・・」

 

スタッフ達は頭を痛めていた。

実際のところ六人グループとは言っても、

ステージで歌った経験が豊富なのは木芽香だけだった。

彼女は小さい頃からずっと広島のステージで歌を続けてきた。

その彼女が不調とあってはライブ自体が不成功に終わりかねない。

「のぎ松ちゃん」は昭和の偉大なアニメのリメイク作品であり、

その制作にも相当のお金をかけて行われていた。 

声優ユニットのライブとは言え、失敗だと噂が立ってしまえば、

最終的にはアニメの方にも悪い影響が出かねない。

 

「やる気ないんやったらうちらを出せ~」

 

児玉坂公園までリハーサルを見に来ていた観客がヤジを入れる。

あれはいつかアフレコ現場まで押しかけてきた豪快な女の子だった。

メガホンを持って叫ぶ彼女の横には大きなみかんが描かれた旗を持つ和風美人の少女がいた。

旗には「さゆみかん軍団」と派手な文字で描かれていた。

旗を持つのはどうやら副軍団長のトト子だった。

 

「ほら、蘭々もなんか言ったれ~」

 

「えっ、私もですか!?」

 

軍団長の女の子が新入りの女の子に向けてカツを入れた。

今まで見たことのない新入りの女の子はあたふたしながらうろたえていた。

 

(・・・どうしよう、初めての活動なのにいきなりどうしたらいいのかわからない・・・)

 

見たところ、彼女はいままで公園で遊んだこともなさそうに思えた。

軍団の内容もよく分からないし、どう対応して良いのかもわからなかったようだ。

 

「・・・勝村さん、寺屋はどうしたらいいですか・・・?」

 

寺屋蘭々はたまらずに軍団長に質問を投げかけた。

彼女は自分のことをなぜか苗字で呼ぶ。

 

「えー、んーとね、じゃあ蘭々はさゆみかん軍団の監督にしよう!

 色々とみんなを監督してくれる人!

 あと、勝村さんとか呼ばんでいい呼ばんでいい!

 これからはみかんって呼んでー!」

 

「・・・じゃあ、みかんさんからはじめていきたいと思います」

 

そう言いながら彼女は丁寧にお辞儀をしていた。

横ではトト子が「やる気ないならうちらを出せ~」と軍団長の真似をしておっとりと叫んでいた。

 

そうしていると、ヤジばかり投げかけるさゆみかん軍団にたまらずライブイベントの責任者が出てきた。

 

「おい、君たち頼むからもう余計なことをしないでくれないか?

 前にも言ったように、あんたら本編に全然関係ないんだわ。

 これ以上出しゃばるのはやめてくれる?」

 

そう告げると、軍団に加入したばかりの蘭々はびっくりしたようだった。

 

「・・・すみませんでした」

 

悪いことをしてしまったと思った蘭々はすぐに謝罪した。

それを見た男は少し首を傾げて考え込んでいた。

 

(・・・この子を木芽香の代わりにスカウトしようか・・・)

 

「君可愛いね、名前は?」と男は尋ねてみた。

「いえ、ゲロブスです」と蘭々は否定して答えた。

 

「君・・・それ謙遜通り越して変な事になっちゃってるよ・・・」

 

男が呆れていると、蘭々がちやほやされているのに気付いた軍団長が、

嫉妬の権利を駆使してこちらへ向かって突進してきた。

 

「ちょっと~うちら悪いことしてないのに謝ったらアカン!

 しかも可愛いと言えばうちやろ~おこ!」

 

ウザい感じに軍団長が乱入してきて辺りは収拾がつかなくなっていった。

彼女の反対によって男が蘭々を起用する案はうやむやになったようだ。

遠くからその光景を見ていた木芽香はため息をついてステージを降りていった。

 

休憩室に戻ってきた木芽香は、自分の席に置かれていたお弁当箱を見つけた。

中身は案の定、半分食べかけになっていて、ところどころご飯粒がこぼれていた。

もちろん、これらは自分が食べたわけではなかった。

 

カバンからティッシュを取り出して影の代わりに自分が机を掃除する。

ご飯粒を拾って丸めたティッシュを、木芽香はえいっとゴミ箱へ投げた。

ゴミは無情にもゴミ箱へ入らずにポトリと地面に落ちた。

 

(・・・はぁ~あたしなにやってんだろ・・・)

 

イラっとしながら木芽香は立ち上がってそのゴミを拾ってゴミ箱へ入れた。

ほんの些細な出来事から生活のリズムが崩され、

木芽香はすっかり意気消沈した日々を過ごすようになっていった。

最近ではイライラする機会も増え、行動にも雑さが目立つようになってきた。

 

「あれっ、木芽香いつからここにいたの?」

 

声優ユニットの仲間の一人がそう木芽香に話しかけた。

 

「さっき戻ってきてからずっといたよ、なんで?」

 

10分前に戻ってきたばかりの木芽香はお弁当の残りを食べていたのだった。

 

「嘘だぁ、5分前くらいにステージで歌ってたじゃん。

 でも今回のパフォーマンスは良かったね。

 これで本番も大丈夫なんじゃない、もう心配したんだからー」

 

木芽香はお弁当を食べる箸を一瞬止めたが、

また何も気にしなかったように箸を進めて食べ始めた。

 

「ああ、それあたしじゃないよ、あたしっぽかったー?」

 

言葉にもいつもの木芽香らしい優しさがこもっていない。

投げやりな雰囲気が彼女の全身から漂っていた。

 

「何いってんのよ、ステージ立ってたくせに」

 

「まあ、もうどうでもいいんだけどさー」

 

手に持っていたスマホをテーブルに投げるように置いた。

明らかにイライラしている素振りに友人も眉をひそめた。

 

「木芽香・・・一体どうしたの?

 なんかこの頃ずっと変だよ」

 

「見えるー?」

 

木芽香はカバンの中から手鏡を取り出して友人に見せつけた。

突然顔の前に鏡を突きつけられた友人は驚いた表情を浮かべた。

 

「見えるって、何が?」

 

「いや、その反応じゃもう見えてないってことなんだなー。

 あっ、別にいいよ、見えなくて当たり前だから」

 

木芽香はぶっきらぼうな言い方でそう言って鏡をカバンにしまった。

 

「・・・あんたなんなの、気持ち悪っ!」

 

友人は怪訝そうな目で木芽香を見つめてそう言ってから走り去った。

わかってはいたが友人の悲しい反応に木芽香は泣きたくなった。

友人に見せた手鏡を覗き込むと、そこにはクスクスと木芽香をあざ笑う影の姿が見えた。

 

 

 

・・・

 

「久しぶりだよね~」

 

木芽香はせっせと夕食の準備をしながらそう言った。

そう言った先にいたのは友人の内藤明日奈だった。

 

しばらく会っていなかった彼女が急に連絡をくれた。

しかもお泊まりに行ってもいいかという申し出に、

寂しがり屋の木芽香はすぐにOKを出した。

 

「じゃ~ん、できたよ~!」

 

明日奈がTVを見ていた隙に、木芽香はテキパキと夕食を作り上げた。

世話を焼くのが好きな木芽香は女子力も比較的に高い。

 

「すっごいおいしい!」とたくさん食べる明日奈。

「まだいっぱいあるよ~食べな」と木芽香は促した。

 

二人分の食事を作るのは慣れていた。

いつも影に半分取られる木芽香は、普通に食べたい時は二人前作る。

たくさん食べる明日奈に比べて、木芽香はそれほど食欲も無くなっていた。

この日も、どうせ自分の分を用意しても先に影が食い散らかすのだ。

そしてその様子はどうせ明日奈からは見えていない。

木芽香が一人で食べているようにしか他の人からは見えないのだ。

 

木芽香と明日奈はご飯を食べながらたくさん話をした。

お互いの近況報告をしあって話しは弾んだ。

 

「お互いに色々とあるよね~」

 

「そうだね~」

 

そんな感じでくつろぎながら時間は過ぎていった。

久しぶりに会った仲良しの友人と過ごす時間は心を慰めてくれる。

特に明日奈とは六時間くらい話しをしていて、気づいたら朝だったということもある。

それくらい話しが合う珍しい友人だった。

 

ご飯を食べ終えた後、二人して片付けをした。

テキパキと片付けを終えた時、明日奈はふと床に服が落ちているのに気がついた。

 

「ねぇきめたん、服が床に落ちてるよ」

 

明日奈はひょいと服を拾いあげて木芽香にそう告げた。

さっきまでは落ちていなかったことを不審に思いながらも。

 

「えっ、あっ、これずっと探してたお洋服だ~!

 なんで、どこにあったの?」

 

「そこの床に落ちてたよ」

 

木芽香が服を眺めながら不思議そうにしていると、

明日奈はまた別の服を拾って木芽香に見せてきた。

 

「ほら、ここにも落ちてるよ。

 きめたん片付けくらいしたら~?」

 

笑いながらそう言った明日奈の持っていた服は、

またしても木芽香がずっと探していたお気に入りの服だった。

先日着ようと思ってクローゼットを探しても見つからなかったものだ。

 

「・・・」

 

木芽香は明日奈から服を受け取って神妙な面持ちで見つめていた。

これは本当にただ自分が見つけられずに落ちていただけなのか、それとも・・・。

 

「きめたんどうしたのー?

 なんか暗い影でも背負ってるみたいな顔だよ」

 

明日奈は特に深い意味もなく言い放ったが、

そのセリフを聞いた木芽香の顔色は変わった。

そして思いつめたようにカバンのところまで走りだし、

カバンからあの手鏡を取り出して中を見つめた。

そこには澄ました顔をしている影が映りこんでいた。

 

「・・・私のお洋服かってに着ないでー!」

 

急に大声で叫んだ木芽香は、くたびれたように床にぺたんと座り込んでしまった。

 

 

・・・

 

 

「見えないでしょ?」

 

手鏡を明日奈に向けて見せながら木芽香はそう言った。

 

「・・・うん」

 

ジロジロと見つめていても明日奈は鏡の中に何か異常を見つけることはできない。

 

「でもね、私には見えるんだ・・・信じられる?」

 

木芽香はじっと明日奈の目を見つめている。

誰にも言えなかった事を、この子にだけはちゃんと話したのだから。

 

「う~ん、やっぱり信じられない・・・」

 

明日奈はそう言った後、間髪入れずに言葉をつないだ。

 

「影が動くって事実は信じられないけど、

 きめたんが嘘をついてないことは信じたいと思う」

 

木芽香はふぅと息をついた。

 

「まあそうだよね、信じろって言うほうが無理だよね。

 でもありがとう、ちゃんと聞いてくれて」

 

木芽香は手鏡をテーブルに伏せた。

もうこれ以上は見たくないと言うように。

 

「ちゃんと説明して手鏡をバレッタに返しに行ったほうがいいよ。

 そのレジの女の子が働いてる日に行って説明すれば、

 あそこの店長だってとぼけてられないと思うし」

 

明日奈はこの影の原因はよくわからないと思っていた。

正直、木芽香を病院へ連れていくべきなのかとも迷っていたが、

そんなことをすれば彼女は傷つくだろうと思ったし、

自分自身も奇妙な体験を数多くしていた明日奈にとって、

木芽香の話しがまんざら嘘だとも思えなかった。

 

「・・・そうしてみよっかな」

 

「そうだよ、もしあれだったら明日一緒に行こっか?」

 

「えっ、うん、ありがとう・・・。

 じゃあお言葉に甘えちゃっおっかな?」

 

こうして明日、木芽香のラジオ番組が終わった時刻に集合と決まった。

明日、あの女の子がいるとは限らなかったが、とにかく行ってみようと木芽香は思った。

 

 

・・・

 

 

翌日、ラジオ番組の仕事が終わった後、

木芽香は明日奈と合流してカフェ・バレッタを訪ねてみた。

 

しかし、やはりあの日レジで見かけた女の子を見つけることはできなかった。

ヘミングウェイが好きな店長は無口で何も喋らないし、

あの女の子のシフトを尋ねてみても全く教えてくれなかった。

 

「・・・もういいよ」

 

バレッタを出た時、木芽香は諦めた表情で明日奈にそう言った。

表情は昨日以上に落胆したもので、明日奈はこのまま放ってはおけなかった。

 

「あすなりん、一緒に来てくれてありがとう。

 私はもう大丈夫だから・・・」

 

経験上、この「大丈夫」は大丈夫でないことを明日奈はわかっていた。

木芽香は他人に迷惑をかけまいとして気を使うところがある。

本当はもっとワガママを言ってもいいはずなのだが、

木芽香はとても遠慮がちな女の子だった。

 

「いいよ、もうちょっといるよ、せっかく会ったんだから」

 

明日奈はそう言って木芽香と一緒に歩き出した。

せめて散歩でもして気分が晴れてからお別れしても悪くないと思ったのだ。

 

「あれ、何これ?」

 

バレッタのある道沿いを歩いたところに新しいお店の看板が出ていた。

このビルには以前は別のお店が入っていたように思えたが、

そのお店は移転してしまったようで、新しいお店が出ていた。

 

「なんだろう、占いの館?」

 

木芽香はビルの入り口に貼られていたチラシを見つめた。

チラシにはキャッチコピーが載せられていた。

 

・・・・・・・・・・・・・

・           ・

・   Look at the sky!  ・ 

・ It’s in the 12 signs   ・

・             ・

・・・・・・・・・・・・・

 

木芽香はつい先日、中三組で遊んだ時に占いの館へ行った事を思い出した。

だが、他の二人がそばにいたため、実は一番聞きたいことは聞けなかった。

それは影のことだった、本当はこの影について占ってもらいたかったのに。

 

「あすなりん、ここ入ってもいいかな?」

 

明日奈はあまり占いを信じるほうではなかったが、

木芽香は占いが好きなのは知っていたので、

ちょうどいいかもしれないと思った。

 

 

・・・

 

 

「アリエス、トーラス、ジェミニ、キャンサー・・・」

 

占いの館の中で順番を待っている時、明日奈はポスターに貼られていた12星座を数えていた。

そういえば児玉坂46の曲に「あらためて語られるロマンス」というのがあった。

それもこんな風に12星座が歌詞の中に盛り込まれていたのを思い出した。

 

「次の方、どうぞー」

 

まるで病院みたいなシステムだなと不思議に思いながらも木芽香は席を立った。

隣に座っている明日奈も一緒に付き添って中まで入ってくれた。

 

「こんにちは、どうぞ座ってください」

 

そこにいたのは頭がすっぽりと隠れる黒いローブをまとった老人だった。

顎髭は白くて長く伸びており20cmはあるかと思われる。

いかにも占い師といった容貌の人物が出てきたので木芽香は安心した。

 

「影について占って欲しいのかな?」

 

いきなり核心を突いた質問に木芽香と明日奈は絶句した。

こちらが切り出す前に、すでにこの人には何かが見えているのだろうか。

 

「あの・・・影の事を知っているんですか?」

 

木芽香は思わず身を乗り出して質問した。

今まで誰に聞いても見えなかったはずなのだ。

 

「手鏡の事も知っておるよ。

 どうじゃ、わしを信じるか?」

 

「どうして手鏡の事も知っていらっしゃるんですか!?

 あれってなんなんですか、私はどうすればいいんですか?」

 

木芽香は息つく間も無く質問を浴びせる。

一方で明日奈は疑わしそうに占い師の事を見つめていた。

影に苦しめられている当事者である木芽香には喫緊の問題だったし、

付き添いで来た明日奈にとっては客観的に疑い深く見るのが自然だっただろう。

 

「まあ焦らずに、まずタロットで占ってからにしよう」

 

老人はそういって12星座のタロットを並べ始めた。

木芽香にも明日奈にもルールはわからないが、

老人は真剣な眼差しでカードを色々とひっくり返していく。

 

「出た、ふむなるほどなぁ」

 

「何が出たんですか!?」

 

老人は頭をすっぽり隠しているローブからギョロリと瞳をのぞかせた。

強い眼光で木芽香をまっすぐに見つめてくる。

それが何か彼にとって未来を見通すのに必要な行為であるように。

 

「お前さんはなかなか大変な人生を歩んできたようじゃな。

 まっすぐな思いとは裏腹に、挫折感を覚える事も多かったじゃろう。

 一見物腰が柔らかく見えるが実は芯はしっかりしていて、

 ものすごくストイックで自分の能力向上に対して厳しい。

 見た目は穏やかなのに子供のように負けず嫌いなところもある。

 だから目標に対して到達できなかったりすると人一倍大きなストレスを抱える事になる」

 

老人はタロットカードを一つ一つ見ながら解説を続けていく。

 

「・・・影についてはどうなんですか?」

 

「まあそう焦るな。

 影についてはのう、見えるようになったのは最近じゃろ?

 だがな、影はずっと昔からお主のそばにおったんじゃよ。

 ただ今まで気がついておらんかっただけじゃな」

 

木芽香は姿勢を正してじっと老人の言葉に耳を傾けている。

 

「そして残念なお知らせじゃがな、

 影は今後もずっとお主のそばに居続けることになる。

 それがお主の背負ってた宿命じゃからの」

 

木芽香はハッと顔色が変わった。

 

「・・・影はこのまま消えないってことですか?」

 

「消えるも何も、元々ずっとお主のそばにおったのじゃ。

 ただ影が動きだすかどうかはお主の心がけ次第じゃろうなあ。

 影を動かしておるのはお主自身かもしれんよ」

 

木芽香は困惑の表情を見せた。

老人の言っている意味がいまひとつよく分からない。

 

「どうすれば元に戻れるんですか・・・?』

 

木芽香は自分が知りたい答えを考えてみた。

その場合、この聞き方のほうが正しいと思った。

 

「今のお主の心的ストレスの原因は何か?

 それは影に習慣を作られておることじゃ。

 何があっても影は1番、お主は2番。

 そうしてお主は次第にその序列から抜け出せなくなった。

 自分がどうしても1番にはなれないという精神的な刷り込みを施されているのじゃ」

 

お菓子は先に食べられる、歌は先に歌われる、服は先に着て行かれる。

これらが影による些細な、しかし大きな木芽香への仕打ちだった。

影は自分の後ろからついてきている存在であるはずなのに、

ひょいと自分より前に出て、全てを先取りされていく。

いつの日からか木芽香はその事実に慣れて怒りさえ忘れていた。

 

「そんな小さな事かもしれんが、刷り込みが施されていくと、

 人はその場所が自分の居場所であると思い込まされていく事になる。

 1番であった人は1番でなければ気が済まなくなるだろうし、

 2番であった人は自分は1番にふさわしくないと思い始めるだろう。

 あるいは順位もつかない場所に押しやられてしまった人には、

 諦観という人生のみが未来にぶら下がっていくことになるのじゃな」

 

こんな話は木芽香の苦手な格差社会の内容に近いと思った。

贔屓や差別のある社会は木芽香の望むところではなかった。

もっと平和でみんながハッピーな未来こそが彼女の望むものだった。

 

「序列なんてものはわしだって好きではないよ。

 じゃがこの世にあるものは2つ以上ある限り人はそれを比べる。

 じゃから序列ができていくというのもこの世の残酷な真実の一つじゃ。

 大抵の人々はこの序列にはまっていき、そこから抜け出せなくなる。

 序列をつけられているうちに感覚が麻痺してくるんじゃよ。

 本当はいくらでも巻き返して1番になる可能性があるとしても、

 自分自身がそれを信じられんようになって可能性を潰していく。

 そして、無意識で序列に麻痺させられていることも大抵の場合は気付かない。

 感覚があった時は辛さに涙した者も、やがて無感覚になり涙も出なくなる。

 わしが思うには、これが何よりも恐ろしい事じゃな」

 

老人はじっと木芽香の目を見つめている。

目力が強すぎて、木芽香は思わず目を逸らしてしまいそうだった。

 

「これが良いという絶対的な方法などないかもしれん。

 じゃがわしが思うには影の呪縛から逃れる方法は2つじゃ。

 1つ目は影よりも先ん出て1番になることじゃ。

 そうすればお主にストレスがたまることはなくなるじゃろう。

 だが、これは競争を続けることになるゆえに疲れるがの。

 もう1つはあえて影の存在を気にせんことじゃ。

 影の存在はお主以外には誰も見えてはいない。

 それを過度に気にしすぎることによってイライラしているのはお主だけじゃ。

 1番になることを諦観するわけではないが、あまり気にしすぎないことじゃな。

 周囲の人はお主の影を見ておるわけではない、お主を見ているのじゃから。

 そうしなければ、お主の中にある良さまで全て失われてしまうことになる」

 

老人の話はとても具体的であり、木芽香にはこの老人は間違いなく影の事を知っているとわかった。

自分が苦しんでいる現在の状況を、おそらく一番親身になって理解してくれているはずだと感じていた。

 

「運命はいつでも残酷なものじゃ・・・そう思うようにはならない。

 お主は影と会わないほうがよかったのかななんて思うかもしれんな。

 しかしそれは運命じゃ、これ以外の可能性などない。

 人間は現状以外の可能性を考えるから目の前の出来事を肯定できなくなる。

 わしらは宇宙の星々から見ればちっぽけな生命体にすぎない。

 少し残酷な言い方で言えば、人間一人一人に意味などないのじゃ。

 わしもお主も宇宙の塵みたいな価値しか持っていないのかもしれん。

 じゃが逆に言えば自分自身でいかようにも価値を創造する事が出来る。

 しかし・・・実は我々は生まれた日からどういう人生を送るか決まっておるのかもしれんな。

 わしら人間は科学なんぞに自惚れて思い上がっているかもしれんが、

 本当はまだこの世界の事など何にもわかっておらんのだ」

 

老人の語りは言葉を発するたびに段々と熱を帯びていき、

ただ職業として淡々と人生の行く先を指し示す占い師のようには見えなくなっていた。

宇宙にまで広がる大きな話に木芽香は、いったいこのあらためて語られるロマンスは何だろうと不思議に思った。

 

「とにかくじゃ、お主の運命の辛さはお主にしかわからん。

 わしら他人がわかると言えば嘘になってしまうよ。

 お主はまだ影を憎みきれているとは言えんじゃろう。

 そりゃそうじゃ、自分の影を憎むなんておかしな話じゃからの。

 だが、そんな我慢をしているとより心労が溜まる事になる。

 たまには全てに正直になって楽になってもかまわんのじゃぞ。

 辛い時は辛いでええわい、じゃがのう、忘れるなよ。

 お主を応援してくれる人はお主の影など見えてはおらん。

 自分自身で過剰に影の存在を意識しすぎるな」

 

影の事にずっと悩んでいたせいか、親身になってくれたこの老人の言葉に、

木芽香は大粒の涙を流さずにはいられなかった。

老人が言っている意味は抽象的で全てを理解していたとは言えなかったが、

何よりも孤独な木芽香に道を示してくれた事は確かだったからだ。

 

「ありがとうございます・・・なんか前より少し楽になりました」

 

木芽香は人差し指で目頭の涙を拭いた。

一生懸命に努力して生きている人生だからだろうか、

葛藤しながらも流す木芽香の涙は美しかった。

人はそんな木芽香を見た時に放っておけないような気持ちにさせられる。

こんな子が報われなければいけないと、そんな風にこの無情な世界を説得したくなってくる。

 

「・・・あの、また来てもいいですか?」

 

木芽香は少しだけ明るさを含んだ言い方で尋ねた。

この人に話を聞いてもらえれば、一人で悩む事なくいられる。

 

「・・・ああ、またいつでも来なさい」

 

木芽香の表情がばあっと明るくなった。

心とは孤独を感じれば縮まり、孤独が去ればまた伸びる。

誰かがわかってくれるというそれだけで心は溺れる事なく救出される。

 

「じゃがのう、わしから最後に一つ助言じゃ」

 

老人は優しい顔で木芽香を見つめていった。

 

「あまり占いなんぞを軽々と信用なされるな。

 もし仮にわしがお主に、明日から最悪な事が次々と起きるとでも言えば、

 お主はそんな運命に流されて悲しい人生を送る事を受け入れるのか?」

 

横で聞いていた明日奈が訝しげに老人を見つめた。

この人は占い師のくせに占いを信じるなと言ってくる。

この矛盾した存在はいったい何を考えているのだろうか。

 

「仮にもしこの世の運命が何かによって定められていたとしても、

 わしはそんな風に悲しい人生を受け入れようとは思わんよ。

 それが幸福か不幸かは事実では決まらんからじゃ。

 いつの時も目の前に事実は一つ、考え方は二つある。

 目の前にりんごが2個しかないと考えるか、なんと2個もあると考えるか。

 自分を応援してくれる人が100人しかいないと考えるか、

 もしくは100人もいてくれると考えるか・・・」

 

老人は部屋の後ろに置いてあった2つのりんごを右手と左手で手にとって木芽香の目の前に置いてそう言った。

 

「もちろん、良いことを言われたら信じていれば良いぞ。

 じゃが、悪いことを言われたなら、それを嘘にしてやるくらい頑張ってやれ。

 そして悪い事を言われた占いは当たらなかったじゃないかと証明してやればいい。

 そんな悪いことを信じるくらいなら、お主を応援してくれる人の言葉を信じなされ」

 

「・・・わかりました」

 

「ありがとうございました」と頭を下げてお礼を言い、

木芽香は代金を支払おうとして財布を取り出した。

だが、占い料金は壁にもポスターにもどこにも書いていない。

 

「おいくらですか?」と木芽香は尋ねた。

「実は料金設定などない」と老人は笑って答えた。

まだ開業したてなのかもしれず、決まっていなかったようだ。

 

「じゃあそれを貰おうか」と老人が指差したのは木芽香のリボンだった。

木芽香はお気に入りのリボンをお金の代わりに示されたことに驚いたが、

影について相談に乗ってもらえたことを考えれば安いものかと思った。

リボンはまた買えば新しいものが手に入ることだし・・・。

 

 

木芽香は手で片方ずつ髪を止めていたリボンを解いた。

ツインテールがふわっと崩れ落ちて、長い髪の毛が背中までついた。

 

木芽香は髪を止めていたリボンを2つともテーブルの上に置いた。

老人はすぐにそれを手に取る素振りは見せなかったが、

代金としてはそれで問題ないと態度で示しているようだった。

 

「よいか、変化を恐れるなよ。

 時代は流れていく、時間も流れておる、だから自分だけ現状維持では、それは実は後退している。

 常に積極的に変化を追い求めるくらいでやっと時代に追いつくことになるのじゃ」

 

老人はそう言ってタロットカードを片付け始めた。

占いが終わったことを感じた木芽香は空気を読んでその場を離れた。

 

 

 

・・・

 

「あすなりん、ありがとうね」

 

占いの館を出た二人はそう言って別れた。

明日奈が見る限り、占ってもらった事で木芽香の表情は想像以上に明るくなっていた。

この分であれば一人になってもきっと大丈夫だろうと明日奈も安心した。

 

 

家に帰った木芽香は、さっそく部屋に散乱していた洋服を見つけた。

いつの間にか影が勝手に着て脱ぎ散らかしたのだろう。

普段であればそれを見てイラッとしていた木芽香だったが、

精神状態が回復していた今は、それをただ冷静に拾ってきちんと片付けた。

占い師に言われた通り、過度に意識しなければ心を乱される事はなかった。

 

相変わらず食事やお菓子も先に影に食べられてしまう現状は止まらない。

だがそれも、たかが食事じゃないかと割り切れた。

その程度のわがままないたずらで私を2番だと思い込ませようとするなんて、

そんな事は許されるはずがないと思った。

この程度で全ての事をネガティブにとらえてしまう事は愚かしいと気がついた。

 

 

こうして生活上の痛苦は乗り越えることができた。

心の平静を意識することで、まるで禅に励む修行僧の気持ちがわかった気がした。

周囲からの影響よりも、その事実に向き合う自分自身が乱されていなければ、

どんな事が起こっても冷静でいられた、嫌な事も許す事ができた。

 

翌日、1週間を切ったライブイベントの練習に参加した。

あの日喧嘩してしまった仲間には自分から頭を下げて謝罪した。

するとお互いに感情的になっていたと相手も謝ってくれた。

どうしてあんなにイライラしていたのか自分でも忘れていくほどだった。

 

 

だが、木芽香にとって最も難関だったのは歌に対する影の横暴だ。

影はもし木芽香が少しでも歌に対して弱みを見せようものなら、

すぐにその地位を奪って代わりに歌おうとしてくるのだった。

最初の頃は自分がステージから離れた時だけ現れた影は、

やがて木芽香がステージ上にいる時まで現れることになった。

 

どういう仕組みかわからないが、周囲の人間には影の声が聴こえるらしく、

木芽香がうまく歌えなかった場合でも、周囲の人間は「さっきのよかったよ」と声をかけてくる。

周りの人間は誤解しているに違いないが、代わりに影が歌ってくれることで、

木芽香は何もしなくてもステージパフォーマンスをけなされることはなくなった。

しかし、ただ失われていくのは自尊心、まさしく自分自身が存在している理由だった。

その歌はよかったと褒められても私が歌ったものではない。

もちろん、占い師が言ったように弱気にならずに歌っている時には、

木芽香は影の支配から逃れることができた、おそらく自分が1番であり影を2番に追いやることができた。

 

 

本番まで残り数日となった時、木芽香の脳裏をよぎったのはあの占いの館だった。

以前よりは楽になったものの、心の安定を持続させるのは難しい。

少しずつ自分に負けそうになってきた時、木芽香はTVで栄養ドリンクのCMを見た。

重要な仕事を控えて体力の限界にぶつかった時、そのドリンクを飲めば目がシャキッとするのだ。

それを目にした木芽香は、ライブの本番前にもう一度占いの館へ行こうと決めた。

今回はどうしても頑張らなければならないのだ、もう一度心の薬を貰いたかった。

 

 

・・・

 

 

「だって、公園で遊んだことなかったから・・・」

 

涙を流しながら帰ってきたのは蘭々だった。

それを見ていた彼女は思った。

この組織に加入して本当に間違っていなかったのか?

 

初めてさゆみかん軍団の活動に参加することにした次藤みりんは、

児玉坂公園にやってきた時、なぜかアスレチック活動に参加させられた。

広大な敷地を持つ児玉坂公園にはたくさんのアスレチック遊具があった。

 

「はい、じゃあ次はトト子!」

 

軍団長の掛け声によってトト子が遊具を登っていく。

ロープや木で作られた立派な遊具は思っているよりも高さがあり、

大人でもクリアするのは難しいものもあった。

 

通りかかったOL風のお姉さんが「金具!」と叫んだ。

遊具の金具を掴めば進みやすいとアドバイスをしてくれたのだ。

トト子はそのアドバイスに従いながらアスレチック遊具をクリアしていった。

しかし、決してクリアタイムが速いほうではなかった。

 

児玉坂公園は休日になるとたくさんの人が集まってくる。

児玉坂に住む者にとっては憩いの場になっており、

このように仕事に疲れたOLが散歩にやってくることもあれば、

犬の散歩のためにやってくる人たちも多かった。

 

「はい、じゃあ次はみりんちゃん!」

 

軍団長から掛け声が飛ぶ、次は自分の番だ。

みりんは高いところが苦手だったが、とにかく遊具のロープをとって進んだ。

 

もう20歳を超えている自分がこんな遊具を使用するなんて想像もできなかった。

これは本日加入したばかりのさゆみかん軍団のトレーニングメニューだったのだ。

「後で活動記録をつけるから真剣にやってね~♡」という軍団長の指令により、

軍団員は次々と参加させられることになった。

 

先ほどトト子にアドバイスをしていたOL風のお姉さんがアドバイスを叫ぶ。

近所から犬の散歩にやってきた子供みたいな少女も何か叫んでいる。

少女の声は音量が壊れたスピーカーみたいで耳をつんざく感じだった。

 

みりんは苦労しながらなんとかロープを渡りながらも、

成人した自分がこんなことをしていて大丈夫かと自分の将来が少し不安になってきた。

こんなことならやっぱり家で将棋の勉強でもしていればよかったのかもしれない。

コツコツ努力を続けていればやがて金になれるかもしれないが、

この得体のしれない組織に所属してしまえば、

ひょっとすると自分はいつか社会的に手詰まりになってしまわないか、

そんな心配をしていたみりんには、あのOL風のお姉さんの声も、

スピーカー少女の声も、真の意味では耳に届いていなかったのかもしれない。

 

「ちょっと~みんな真剣にやってよ~♡」

 

みりんが遊具から戻ってきた時、タイムを計っていた軍団長はヘラヘラしながらそう言った。

初めに取り組んだ蘭々は泣きながら帰ってくる始末だった。

公園で遊ぶことのメリットがないと思った彼女は、

今まで公園でまともに遊んだことすらなかったのだった。

トト子は美人だが非常にマイペースでタイムを気にしていない。

新しく加入したみりんは頭脳派で気も使える常識人だが、

運動に関してはそれほど得意な方ではなかったようだ。

 

さっきまで近くで見ていたスピーカー少女は、

「身体が重いから」と言いながらも人間とは思えないほどの驚異的なスピードでアスレチックをクリアした。

それを見ていたみりんもトト子も蘭々も、彼女はまるでアンドロイドのようだと思った。

おそらく身体は機械でできているから重たいのだが、身体能力はずば抜けて高い。

これは並の人間ではないと、三人は驚きながら彼女を見つめていた。

もちろん、うちの軍団長もある意味で並の人間ではないと思っていたのだが・・・。

 

 

・・・

 

 

今日、こうしてたくさんの人が児玉坂公園に集まっていたのは、

午後から行われるライブイベントを見に来たからだった。

開始時間までまだ少しあったので、みんなそれぞれの方法で時間をつぶしていたのだ。

 

さゆみかん軍団もまた、このライブイベントの為に公園までやってきた。

着々と軍団員を増やしていった勝村さゆみは嬉しそうだった。

 

「軍団長からの挨拶です」と副軍団長のトト子が言った。

それを聞いて蘭々とみりんは一応背筋を伸ばした。

 

「コホン、あーあー。

 えー今日はみなさん私の為に集まっていただいてありがとう」

 

別にマイクを使っているわけではないのだが、

さゆみはなぜか声のチェックを行った。 

 

「みなさん今日は待ちに待ったのぎ松ちゃんのイベントです!

 ついにこの日がやってきてしまいました。

 しかし、残念なことにのぎ松ちゃんをこれほど愛する我々が、

 なんでかわかりませんがステージに上がることができてません。

 多分、これは全部作者が悪く、全て作者の陰謀なのですが、

 我々はこの事態を黙って見過ごすわけにはいきません」

 

みりんの不安はさらに高まっていった。

活動初日からとんでもないことになりそうな予感がしていた。

軍団長はあろうことか絶対者である作者に反抗しようとしていたし、

それにしては軍団員は少しへっぽこ過ぎないだろうか?

もちろん、皆個人的には感じの良さそうな子たちだし、

人間的にはとても愛すべき子達なのであったが、

こんなクーデターを企てるには明らかに手駒が足りなすぎるとみりんは思った。

しかもこの軍団長は、王であるはずなのに縦横無尽に動き回ろうとする。

みりんは客観的に考えて、自分はこの中だと金か銀だとおもっていた。

しかし飛車も角もない状態で、自分だけでこんな王を守れる気もしない。

 

「前回リハーサルを見ていた時、私はなんか物足りなさを感じました。

 そして確信しました、絶対にうちらの方がのぎ松ちゃん好きやと!」

 

副軍団長のトト子が笑顔で「お~」と右手を挙げた。

それを隣で見ていた蘭々も空気を読んで同じように続く。

 

「だから今日、もしステージ上でやる気ない人がいるんやったら、

 もううちらが代わりにステージに上がったったらええと思います。

 うちらののぎ松ちゃんへの愛を作者に見せつけてやりましょう!」

 

その時に軍団長が掲げたのはのぎ松ちゃんパーカーだった。

あれは以前発売された際、人気がありすぎて売り切れたものだ。

再販が決定したという噂はあるものの、現時点では手に入らない代物だ。

よく見ると、隣でトト子も同じパーカーを掲げていた。

 

「これはさゆみかん軍団の必須アイテムなので、

 蘭々とみりんちゃんも後日ちゃんと買っといてください」

 

軍団長は誇らしげにそう言った。

もっと大事なことがあるんじゃないか、とみりんは心の中で密かに思っていたが。

 

そんな話をしている間に、気づけば側に立つ黒い影がいた。

いつの間にかみりんの隣に立ち、両手にはのぎ松ちゃんパーカーを高々と掲げている。

 

「私もお供させてください、命を捧げる覚悟はできています・・・」

 

そういった黒い影は膝をついて軍団長に懇願した。

黒く見えたのは彼女の忍者風のコスプレが黒い服だったからだ。

 

「おう、お主は先日も秋田から来たと言っとった者か?

 お主いったい何者じゃ?」

 

なぜかさゆみは急に殿様口調になりそう言った。

 

「飛駒里火と申します・・・ただのしがない永遠の十五松推しです。

 今回のミッション、必ずお役に立ちましょう」

 

そう名乗った彼女の目はキラキラと輝いていた。

おそらく、よほどのぎ松ちゃんが好きなのだろう。

 

「うむ、そちの働き、期待しておるぞよ」

 

飛駒里火が何者かはわからないが、みりんはこの二人は相当二次元が好きなのだと思った。

見たところ真っ直ぐそうな里火を、みりんは香車のようなタイプだろうと推測した。

「飛駒」と名乗っているが飛車のように横に動ける駒のタイプではないだろう。

彼女は敵陣を突破してくれる槍となるか、はたまた猪突猛進の蛮勇となるか・・・。

 

 

「あっ!!」

 

突然、さゆみが叫んだ。

軍団員一同が驚いた顔で見つめている。

 

「忘れとった!」

 

ここへきて何のアクシデントかとみんなの身体が一気に硬くなった。

 

「みりんちゃんの役職は大臣やからよろしく~♡」

 

軍団長と副軍団長と監督に続くのが大臣。

これでは軍団内の上下関係がよくわからないが、

とにかく苦労しそうなポジションだと言うことはみりんにもよくわかった。

 

 

 

・・・

 

「いや、いいんだよ、私は別に」

 

ライブ直前、控え室を出たところで木芽香は立っていた。

携帯電話を持って誰かと話をしている。

 

「引っ越してしまっても私は別に構わなかった」

 

木芽香は電話の相手に切実に何かを話している。

この思いをどうしてもわかってほしい様子で。

 

「ただ、一言報告が欲しかったの」

 

 

まもなくライブ本番を迎えるにあたり、

昨日、木芽香はもう一度あの占いの館へ行くことを決意した。

最後のリハーサルを終えて児玉坂駅前を抜けて占いの館へたどり着いた時、

木芽香はもうすでにあの占いの館がなくなっていたことに気がついたのだった。

 

事情は全くわからなかった。

「移転しました」という張り紙だけが寂しくドアに貼り付いて風に揺れていた。

開業したばかりに思えた新しい店舗が、こんな短期間で移転するなんて。

しかも、前回別れ際にまた来てもいいかと約束まで交わしたはずだったのに。

 

「・・・私ってめんどくさい女かな?」

 

木芽香のショックは隠しきれなかった。

携帯電話で話をしながらも、涙がこぼれ落ちないように上を向いていた。

こんなことになるのならせめてライブが終わってから来ればよかったと思った。

これではまるで詐欺にでもあったような気すらしていたし、

あれだけ心の拠り所としていたがために裏切られた反動が大きすぎたのだった。

 

「そんなことないよ」と電話の向こう側から聞こえた。

電話の相手は明日奈だった。

 

「正直言うとね、あの時なんだか胡散臭いなとは思ってたんだよ」

 

明日奈は顔の見えない電話越しで少し躊躇したが、

親友の相談であるために心からの本音で話をした。

 

「まず開業したてって時点でちょっと怪しいし、話もちょっと普通の占い師っぽくなかったし。

 しかも最後に占い師のくせに占いを信じるな、みたいなこと言ってたでしょ?

 話しがめちゃくちゃ矛盾してるんだよ、なんかおかしいなと思ってたんだけど」

 

その話しを聞いた木芽香は落胆した。

自分は素直すぎたのか、別に相手を疑うこともしなかった。

真っ直ぐアドバイスを聞いて、しかもそれを真に受けていたし、

代わりにお気に入りのリボンまで差し出してしまった結果が詐欺だったなんて。

 

木芽香はめんどくさい女などではなかった。

むしろ真っ直ぐで素直でとても女の子らしい純粋なタイプだ。

きっと恋愛の場合などでも同じように、真っ直ぐ相手を信じる良い子なのだろう。

 

だが、その真っ直ぐさ故に悪い人に騙される可能性も否定できなかった。

ちゃんと報告をしてくれる間柄であればよかっただろうが、

気持ちを無視されたような今回の事件は、木芽香にとっては辛いものだった。

 

「私ってバカみたいだね・・・」

 

木芽香は思わずそう呟いた。

ライブ直前という最も大事な場面で、信じていた望みを断ち切られた。

それも自分がバカ正直に信じすぎたという愚かさによって・・・。

 

「そんなことないよ」

 

明日奈はすぐさまフォローした。

 

「きめたんは優しいからきめたんなんだし。

 それに、あの占い師は嘘を言ってたわけじゃないと思う。

 言ってたことはすごく真っ当なことばっかりだったと思うし」

 

自分のように相手を疑ってかかることがない木芽香を、

明日奈はとても優しくて良い友人だと思っていた。

おっとりとして素直に自分を受け入れてくれる木芽香の包容力は、

明日奈だけでなく多くの人にとって癒しだったのは間違いない。

 

「引っ越しちゃったのは何か理由があるんだと思うよ。

 それに、最後に変なこといってたじゃん。

 あまり占いに頼るなって、占いってありがたいけど、

 それに依存しちゃいけないって言う意味だったんじゃないかなー?」

 

そう言われてみるとそんな気がしてきた。

もしかすると、また自分がこうしてやってくるのをわかっていて、

それでわざと移転してしまったのかもしれない。

自分一人のためにそんなことをするとは思えなかったが、

そんな風に考えなければやり過ごせない気もしていた。

 

「あすなりん、ありがとう」と木芽香は返事をした。

 

「ううん、きめたんライブ頑張ってね。

 もうすぐ公園に着くからライブ見るよ」

 

そう言って二人は電話を切った。

ツー、ツーと鳴り響く音が木芽香にはとても寂しく聴こえた。

 

 

控え室に戻る前にトイレに行き、カバンから手鏡を取り出した。

木芽香が覗いた影は手鏡の中でストレッチをしていた。

ライブの前に準備運動をしているのかもしれなかった。

影は私が出演するライブを乗っ取るつもりに違いなかった。

 

木芽香は今日、リボンをしていなかった。

占い師にリボンを渡してしまってから、

普段はあまりしなかったストレートな髪型を明日奈に褒められ、

同じように仕事先でも次々と褒められるという事態になった。

それからと言うもの、木芽香はツインテールを封印することにした。

変化を恐れるなという占い師の言葉を信じて新しい髪型にチャレンジしたのだ。

そして今日はその髪型を初めてステージの上で披露する機会だった。

 

木芽香はトイレにある洗面所の前の鏡で自分の顔を見つめた。

まだ慣れないストレートヘアーの自分がそこには立っていた。

「騙されたかもしれない」という思いは胸中をかき乱していたが、

もうそんなことはこの時点では考えないと決意した。

あの老人の言うことを信じて今日まではうまくいっていた。

ならばこのまま、それを信じることにしよう。

移転したという事実は一つ、それをどう捉えるかは二つ以上の答えがあった。

私にはりんごが2つもある、応援してくれる人は100人もいる・・・。

 

 

 

・・・

 

午後になり太陽が西に傾き始めた頃、ライブはいよいよ幕を開けた。

児玉坂公園には早くから多くの人たちが集まっていた。

その人の多さが「のぎ松ちゃん」の人気を物語っていた。

 

児玉坂公園には野外ステージがあり、そこに簡単な照明や音響を組み立ててあった。

ライブイベントとは言え通りかかった誰もが見ることのできるものであり、

たまたま通りかかった家族連れもいれば、のぎ松ちゃんのアニメが好きな人、

もしくはこの声優さんの熱狂的なファンなど様々な人達が足を運んでいた。

もちろん、中には木芽香のラジオ番組を通してライブに参加した者もいたことだろう。

 

観客席には持参したレジャーシートを敷いて場所取りをしている人も見受けられた。

会場にはライブ本番が始まるまで適当なBGMが流れ続けていた。

 

賑わいながらも比較的穏やかだった会場が盛り上がったのは、

オクシデンタルテレビの二人が会場に現れた時だった。

ラジオ番組で共演していた二人は、木芽香を応援するためにわざわざ来てくれたのだ。

TVでも大人気だった二人の登場に、会場では黄色い声を上げる女性もいたようだ。

 

会場にはやがて明日奈も到着し、公園でアスレチック遊戯をしていたあのアンドロイド少女と合流した。

観客席まで進んでいき、適当に自分たちの場所を確保してライブが始まるのを待っていた。

 

会場でもひときわ目立っていたのはさゆみかん軍団だった。

副軍団長のトト子はみかんの描かれた軍団旗をブンブンと振り回しており、

軍団長のさゆみは腕組みをして真剣な表情でステージを見つめている、

というよりむしろ本人は睨みつけているという表現を求めただろう。

 

家族連れの子供が「でっけぇみかん!」と旗を指さして叫んだ。

そばにいたお母さんが子供の口を慌てて塞いで子供の姿を隠した。

それを見たみりんは、私たちやばい人達だと思われてないですかと心配になった。

やはりこのステージに乗り込む計画は止めなければならないのではないか。

 

「皆の衆、準備はいいか~!」

 

軍団長のさゆみが叫ぶ、それに答えて「お~」と叫ぶゆるい軍団員達。

 

「軍団長殿、先鋒は私めにお任せください」

 

そう言ったのはあの謎の忍者コスプレガール、飛駒里火だ。

 

「うむ、行ってくれるか飛駒ちゃん」

「はい、この命に代えても・・・」

 

二人が喋ると場が急に二次元になる。

セリフがなんだか現実離れした響きを帯びる。

おそらく二人とも尋常じゃない数のアニメを見ているのだろう。

 

みりんは二人を見つめてこの状況を憂慮しながらも、

頭の中で将棋を指しているが如く考えていた。

香車が一気に前に進むとすれば、軍団内には誰もそれを止められる駒がない。

手駒のバランスがとにかく悪すぎる、もし飛駒ちゃんがステージに飛び込めば、

もう誰も続いて援軍に駆けつけられないし、自分が捨て駒になって出ていくしかない。

しかし、自分がいなくなった場合、「蘭」と「ト」だけで「王」を守れるだろうか?

もちろん、誰も守る必要がないくらいこの「王」はすでに最強だという説もあるが・・・。

 

みりんは空気を読める優等生であり、気遣いもできる優しい子なので、

いつも基本的に自ら捨て駒になってでも全体の勝負を勝ちに行く傾向があった。

全体を俯瞰できる玄人から見れば、こういう臨機応変な駒こそが優秀なのだ。

彼女がブレーキになれなければ、さゆみかん軍団はまさしく暴走族であり妄想族だ。

 

(・・・私が捨て駒になってでも・・・)

 

まったく、活動初日からとんでもない抗争に巻き込まれてしまった。

そう思いながら軍団長と飛駒ちゃんの様子を伺い続ける。

二人が飛び出していこうものなら、自分もそれに続いていこう。

そしてこんなバカげたことは止めさせなければならない。

飛駒ちゃんを止めて軍団長を守りながらこの場を離脱するのだ。

それしかさゆみかん軍団が生き残る術はない。

みりんはそんな風に考えながら時を待っていた。

人生で経験したことのない緊張感が身体中を走り抜ける。

そしてやがて会場に流れていた音楽がゆっくりとフェードアウトしていった・・・。

 

 

切り替わって大きなボリュームで新しい音楽が流れ始めた。

この曲はのぎ松ちゃんの主題歌である「はなみずぴっぴはわるいこだけ」だった。

 

木芽香が参加する6人組声優ユニット「N応P」が颯爽とステージに現れた。

6人とも色とりどりの衣装を着てダンスを踊り始めた時、

みりんはついに飛駒ちゃんの異変を感じたのだった。

いよいよだ、いよいよ始まる・・・。

みりんは覚悟を決めて身体中に力を入れた。

 

「キャーーーーーーーーー!!」

 

大声で奇声をあげたのは飛駒ちゃんだった。

なんだこれは、新手の忍術かと思われたその時。

 

「小野Tーーーー!!可愛すぎーーーー!!」

 

十五松役の声優さん、小野泰子さんのあだ名「小野T」を叫びながら、

狂ったように飛駒ちゃんは暴れ始めた。

 

「きゃーーーーーーーーーー!!」

 

続いて軍団長も雄叫びを上げ始めた。

いつもの通り、両手をほっぺにつけているポーズだ。

 

「どうしましょーーーーーーーいやーーーーーー♡」

 

登場した「N応P」のメンバーを見つめながら二人の奇声が止まらない。

ふと気がつくと、そばに座り込んでいるトト子が号泣していた。

 

「うぇぇ~ん、ありがとうございます、ありがとうございます・・・」

 

さゆみかん軍団は誰一人ステージに飛び込んでいくことなく、

ただ狂ったように奇声をあげているもの、涙腺を崩壊させるもの、様々だが、

とにかく「N応P」の登場に感動してその場は騒然となっていた。

 

その光景を見た子供が「みかんこわい~」と言って号泣し始めた。

それを見た親が慌てて子供の目を塞いで隠してしまった。

がっくりうなだれていたみりんにとってわかったことは、

さゆみかん軍団はとても大変な組織だということだった・・・。

 

 

 

・・・

 

「N応P」として登場した木芽香は、他の5人と息を合わせるようにして踊っていた。

子供の頃から幾度となくステージパフォーマンスを続けてきた木芽香は、

自分を信じることである程度の自信を取り戻していたせいもあり、

他の5人と比べても格段に優れた歌とダンスを披露していた。

それを見ていたスタッフも、やっと戻った木芽香の本来の姿に安堵の表情を浮かべていた。

 

ステージで歌い踊る木芽香は、久しぶりのライブを精一杯楽しみたかった。

オクシデンタルテレビの二人が見にきてくれていたことは知っていたし、

明日奈ももちろん会場のどこかで見守ってくれていた。

自分の運命がどう転ぼうと、応援してくれている人を信じたいと今は思っていた。

 

一方で木芽香の影は、この日もいつもどおり木芽香の昼食を半分食べていた。

木芽香はそれについては冷静に対処した、たかがご飯で序列をつけられないと。

 

しかし影は虎視眈々と木芽香を狙っていることは間違いなかった。

本番前にトイレで見たあのストレッチを繰り返す様子。

影はいつものように無邪気に、悪びれることもなく木芽香を押しやろうとする。

影は影で、自分の存在を主張することに必死なのだろう。

木芽香に押しやられてしまえば、自分の存在意義はただ木芽香の背後にいるだけだ。

この先ずっと木芽香の後ろをついて回るだけで生涯を終えることになる。

 

木芽香にとっても同様だった。

食事を勝手に食べられても、洋服を勝手に着られてもいいが、

大好きな歌とダンスだけは絶対に負けなくなかった。

もし負けてしまえば、木芽香はこの先ずっと影の後ろをついて回ることになってしまう。

それだけはプライドが許さなかった、ここは何としても1番になり、

影を2番に押しやらなければならない、ここだけは絶対に譲れないと思っていた。

 

西から差し込む日光は、木芽香の足元から影を作っていた。

ぴったりと寄り添うようにして踊っている影に、

木芽香は自然とライバル意識を芽生えさせていった。

負けたくない、絶対に負けたくない。

観客から見れば6人ユニットに見えるかもしれないが、

木芽香にとっては7人で歌い踊っているようなものだと思った。

影の存在が常にぴったりくっついて離れなかった。

 

 

時々、木芽香は子供のようになってしまうことがある。

それは誰かに負けてしまった時だった。

みんなと同じようにテンションを上げられない、

少し拗ねたように涙を流したり落ち込んでしまうこともある。

 

もしかすると、客観的に見れば子供っぽいと思われるかもしれない。

しかし、それは木芽香が穏やかな外見からは想像もできないほど自分にストイックだからだ。

負けるという事は何よりも悔しい、彼女にとって自分の感情が抑えきれないほど悔しいのだ。

みんなが盛り上がっている時に一歩引いてしまうのは、輪に入れない悔しさかもしれなかったし、

そこでまた一歩踏み出していけないのは、生来の優しくて控えめな気質かもしれなかったし、

ひょっとすると後天的に備わってしまった序列意識なのかもしれなかった。

自分が菊ちゃんのようにお姫様として振舞うことは、どこかで似合わないと無意識的に思っていた。

 

もちろん、それが悪いと言うわけではない。

ただ様々な要素が絡まり合って今の彼女というキャラクターを構成している。

そしてそのキャラクターが、なぜか自分の歌に自信を持てない結果を生み出していた。

理想主義でありまたストイックすぎて自分の思っているレベルに辿り着いていないのかもしれない。

本来的に性格が謙虚すぎてそれが知らない間に感情に染み付いているのかもしれない。

もしくは序列意識によって知らない間に2番手にさせられているのかもしれない。

 

本当のところはわからない。

だが、今の木芽香のそばには影がいる。

とにかくここはその行方を見守るしかなかった。

 

 

・・・

 

 

声優ユニット「N応P」でのパフォーマンスが無事終わり、

木芽香は控え室に戻ってきていた。

ここからは個人でのパフォーマンスを予定しており、

木芽香の出番は6人の中で最後だった。

 

ステージに上がっているメンバーへの声援が聴こえた。

熱狂的なファン達が会場を盛り上げてくれているようだった。

 

これから先は個人戦となる。

会場には自分以外の声優さんのファンも多数いるだろう。

自分のファンでない人達にも届くパフォーマンスをしなければならない。

果たして自分には熱狂的なファンなどいるのだろうか?

そう考えるたびに木芽香の不安は増えていくばかりだった。

 

だが、何よりも木芽香はもう影を抑え続ける事に限界を感じていた。

影がずっと昔から側にいて踊っていた事を感じた時から、

木芽香の脳内には嫌な感覚が充満していくのがわかった。

私は影をずっと知っていたし、影も私をずっと知っていたはずだ。

今に始まった事ではない、影はずっと自分のライバルだった。

 

そして次は誰にも助けを求められないソロパフォーマンス。

真っ向から影と向き合わなければならないのは明白だったし、

夏の炎天下でのステージは徐々に木芽香から体力と精神力を奪っていった。

 

このギリギリの緊張感に苛まれた木芽香は、まだ始まっていないにもかかわらず、

その大きな瞳から大粒の涙が溢れて来るのを止められなかった。

涙を拭いながらもその手が震えているのが自分でもよくわかった。

本番になると緊張しやすい自分を変えるのは難しい。

何度ステージに上がり続けてきても、やはり毎回こんな風になるのだった。

 

(・・・お願いだから出てこないでね、これは私のステージなの・・・)

 

 

 

・・・

 

太陽が少しずつ西へ傾いて沈んで行く頃、木芽香の出番はやってきた。

ステージへ登場するとたくさんの声援が木芽香を迎えた。

 

観客達は夏の暑さにも負けず団扇で応援してくれる者や、

中には軍団旗のような物を振り回している者も見えた。

照りつける太陽の中、誰もくたびれる事なくラストの木芽香の出番を待ってくれていた。

 

「みなさ~んこんにちはー!」

 

レスポンスで「こんにちはー」という声や「きめたんー」という声援が上がる。

太陽は向かい側から木芽香を斜めに照らし出していて、

木芽香の後ろにはユニットで歌った頃よりも影が長く伸びていた。

 

斜めに伸びる影は木芽香の2倍くらい大きくステージ後方に映し出された。

ちらりと振り向いた木芽香は、その巨大な自分の影に圧倒されそうなプレッシャーを感じた。

今日の影は普段の何倍も濃厚で、まるで妖艶な女狐のようにすら見える。

 

「・・・えへへ、こんなに暑い中で応援してくださってありがとうございます。

 私で最後になりますが、この暑い夏をもっと熱くして終わりたいと思います」

 

MCでそう告げると、曲のイントロが流れ始めた。

歌う曲は小さい頃から何度も歌ってきた「世界でいちばん熱い夏」だった。

 

しかし、木芽香は突然、金縛りにあったように動けなくなった。

楽曲は無情にもどんどんと流れていく、冒頭のフレーズを歌うタイミングを逃した。

だが、観客達は別にどうということもなく驚いた様子もない。

木芽香は背後を意識した、あの影が自分の代わりに歌っているに違いなかった。

 

 

・・・

 

 

勝てないかもしれない。

 

ただわずかにその思いが脳裏をかすめたにすぎない。

だが、そのわずかな気後れが致命的な差を生むことになる。

弱気になればなるほど、メーターは振り切って止まらなくなる。

 

木芽香は気を確かにステージに上がったつもりだった。

しかし、無意識的に心のどこかに自分を疑う気持ちがあった。

影と自分を比較すれば、勝てないかもしれない。

 

それはもう長いあいだ身体に染み付いてしまったせいで、

表面的にいくら擦っても落ちない汚れみたいなものかもしれなかった。

自分の気持ちで制御しきれるものではなく、気を抜けばフッと持って行かれる。

それぐらい強力で抗いがたい序列意識なのかもしれなかった。

 

きっと心のどこかで思ってしまったのだ。

「観客が見たいのは本当は私ではなく影が歌う姿なのではないか」と。

 

私が歌えなくなっても、影は勝手に私よりも良い歌を歌い上げるだろう。

そしてみんなから褒められていつの間にか私の立場も奪っていって。

実は影と私の関係は逆さまなのかもしれなかった、影こそが私の前に立っていて、

私はずっとその影の影として生きてきたのかもしれない。

 

そんな時、無意識的にふと沸き起こる憎しみの心に駆られ、

「この影さえいなかったら」という思いが頭をよぎった瞬間、

もう枯れ果てていたと思った涙がまた溢れてくるのを木芽香は感じた。

それはどこかで心の底へ沈めて見ないようにしていた感情だったかもしれない。

とても醜くて嫌な気持ち、でも実は本当はずっと秘めていた本当の感情。

自分の一部である影を憎むなんて、周囲の誰もが理解してくれないだろうし、

自分自身でも愚かしくて滑稽で、さらに不道徳な気持ちでいっぱいになった。

 

それでも思ってしまった。

 

もし私がこの影と出会わなければ、私の運命はどう変わっていたのだろうと。

何も我慢する事なく1番になれて、もっと気楽に生きられたかもしれない。

そうすれば今よりも明るい性格になって周囲からもチヤホヤされたかもしれない。

誰よりもお姫様のような人生を送れたのかもしれない・・・。

 

 

 

影を追いかけて、追い抜いて、また追い抜かれて。

 

こんなにボロボロになっても歌を止めないのはなぜだろう。

ふと木芽香はそんなことが心に浮かんだ。

すっかり自信を失ってしまっても、木芽香には歌を捨てることはできなかった。

小さい頃から何度も何度もステージに上がり続けた。

その度に緊張で手足が震えた、それに伴って声も震えた。

うまく歌えないことも何度もあったし挫折を感じたことも多かった。

 

それでも華やかな街、東京に憧れた。

上京してきた時、結果を出すまで広島には帰らないと意地を張った。

ダイエットするって公言して自分をとことんまで追い込んだりもした。

ボロボロになりながらも木芽香はステージを降りることはできなかった。

 

負けたくない。

 

自信がないように見える柔らかな愛くるしいルックス。

誰からもいじられるふわふわしたキャラクター。

その内側に潜んでいる強い気持ちだけが自分をここまで連れてきた。

彼女は昔から何も変わらなかった、いつも精一杯にステージで歌って踊って、

大好きなことを諦める事なく一途に光を追いかけてきた。

 

今日は影に負けてしまったかもしれない。

この先も勝てるかどうかもわからない。

それでも自分は諦めることはしないだろうと思った。

いつか、いつの日か、そしてこれからも一緒に。

 

「きめたーん!」

 

どこからか自分のことを呼ぶ声がした。

動けない自分を呼び続けているのは誰だろう?

自分はその声の方へ顔を向けることもできない。

 

「きめたーん!」

 

足が動かないんだ。

音楽だけが後ろで流れていくんだ。

観客のみんなが見ているのは私の背後の影なんだ。

 

でも確かに私を呼ぶ声が聴こえた。

 

涙が溢れる両目を閉じて耳を澄ませてみた。

目に見えるものになんかとらわれないで確かなものを聴きたかった。

 

「きめたーん!がんばれ~!」

 

この声は明日奈かもしれない。

普段から恥ずかしがり屋で大声を出すような子じゃないはずなのに、

どうして私なんかのためにこんなに大声をあげて・・・。

 

「きめたーん、負けんじゃねーぞー!」

「きめたん負けたら菊ちゃんに来てMCしてもらっからよー!」

 

この声はオクシデンタルテレビの二人かな。

まったく藤林はいつも通りこんな風に私をいじってくるんだから。

 

「キャーーーーーーーーーーーーーー超絶可愛いーきめたーん!」

「ああもうどうしましょうーーーきめたん私の次に可愛いかもーーー♡」

 

ちょっと変わった歓声だけど、確かに私の名前を呼んでくれている。

知らない人達の中にも私のことを観に来てくれてる人もいたのか。

 

 

そっかぁ。

 

私の事を見てくれてる人達が、こんなにもいたんだ。

 

 

 

・・・

 

「はい、ど~ぞ」

 

子供は小さな旗を受け取って嬉しそうに母親の元へ走っていった。

その小さな旗にはみかんの絵が描かれていた。

 

会場で狂喜乱舞していた軍団長と飛駒ちゃんであったが、

熱狂的に応援するファンだとわかった事で会場では少しばかり有名人になっていた。

ここぞとばかりにイメージ回復を狙った頭脳派であるみりんのアイデアで、

トト子と蘭々を巻き込んで爪楊枝と紙で小さな軍団旗を作ったのだ。

それを会場にいた子供達に無料で配ることにしてさゆみかん軍団のイメージは急回復した。

 

「え~っ、みりんちゃんなにそれ~♡」

 

軍団長が無邪気にこちらへ寄ってきた。

また作戦が台無しにならないかと多少ひやひやしていたみりんだったが、

今取り組んでいる活動内容をしっかりと軍団長に報告した。

 

「はぅー!めっちゃかわいい、キュン♡」

 

軍団長は擬音語をそのまま喋る癖があった。

きっとこの人はいくつになっても精神年齢13歳のみかん姫なのだ。

 

「今日はたくさん色んな事をしましたから、

 これで活動記録がたくさんつけられますね」

 

蘭々が軍団長にそう言った。

監督の役割を全うすべく、今日はたくさん写真撮影もできた。

 

「活動記録、なんて書けばいいですかね?」

 

トト子が嬉しそうにそう尋ねた。

さゆみかん軍団の活動をしている時のトト子はとても明るい。

なんだかんだでこういうところが軍団長のカリスマ性なのかもしれない。

 

「え~なんやろ~でも噂によると作者は書いてる間にうちらの事が大好きになったらしい!

 のぎ松ちゃん好きをアピールしてきた爪痕はがっつり残せました、うふっ♡」

 

両手を頬において満面の笑みでそう話していた軍団長を見て、

みりんは今後も苦労していく事は承知の上で、まあさゆみかん軍団も悪くないなと思った。

 

「そんなことよりも、まだ大事な活動が残ってるやろ~!

 一同すみやかに裏口へダッシュ~♡」

 

出待ちかな、と思ったみりんは重い腰を上げた。

そのわずかな間に、忍者ガール飛駒は超高速で裏口へ消えていった。

さすが忍者の格好をしているだけあって動きは俊敏だと思った。

 

「わぁ~い」

 

一方、次々と無邪気に走っていくトト子と蘭々を見送りながらも、

裏口へ向かう軍団員一同のダッシュには、今後ももう少しトレーニングが必要かもしれないと思った。

 

 

 

・・・

 

「きめたんお疲れ様ー、いやーよかったよ」

 

オクシデンタルテレビの高田が控え室までやって来ていた。

ライブ終わりにわざわざ立ち寄ってくれたのだ。

 

「いやーでもよー、俺的には小野Tのほうが可愛かったかなー。

 きめたん惨敗って感じだよねー」

 

チャラくてメガネをかけているほうがそう言った。

本当はチャラくもないくせにと木芽香は思った。

ストイックにマラソンとか走るくせに。

 

「うるせー藤林って言わねぇんだな」と高田が突っ込んだ。

木芽香がいつもとは違って何も答えなかったからだ。

 

「まあでもよー、惨敗ってもまた次があるからなー。

 いつかリベンジしちゃえばいいんじゃないのー?」

 

藤林が木芽香の肩にポンと手を置いた。

冗談っぽく言いながらも彼なりの優しさなのだろう。

 

「じゃあまた来週な」と言って二人は控え室を去った。

 

 

・・・

 

 

今の木芽香には、もう何も話をする気力も残っていなかった。

失礼な態度で帰してしまった二人にはまた来週謝ろうと思った。

 

控え室の椅子に腰掛けながら、周囲のスタッフは「おつかれー」と声をかけていく。

イベントが終わったことでせっせと片付けを始めているスタッフも多かった。

仲間の声優さん達も次々と退室していく中、木芽香は一人でまだ残っていた。

 

ふぅと深い息を吐いてカバンからあの手鏡を取り出してみた。

手鏡にはヒビが入って割れていて、もう鏡としての役割は果たせそうもなかった。

 

(・・・でも、私は惨敗だよね・・・)

 

ステージ上で自分を見てくれていた人達の声援が聴こえた時、

木芽香は呪縛から解き放たれたように身体が動くようになった。

そして、途中からではあったが「世界でいちばん熱い夏」を精一杯に歌い上げたのだった。

 

観客からすれば、木芽香が歌っていようが影が歌っていようが、

おそらく誰も違いなどわかるはずもなかった。

だからオクシデンタルテレビの藤林が言っていた「惨敗」とは彼なりのジョークなのだろう。

木芽香は影に乗っ取られることなく自ら立派にステージをこなしたのだから。

 

それでも木芽香が惨敗だと考えていたのは、これが影に完全勝利したとは思えなかったからだ。

影に乗っ取られる寸前で自分を救ってくれたのは自分を観ていてくれた人の声だった。

 

ステージパフォーマンスを終えた時、もう自分は影の存在など忘れていた。

ただ好きな歌を観ていてくれる人のために精一杯歌っただけだった。

それはもう技術や上手いか下手かを問うようなものではなく、

ただ自分の歌を良いと褒めてくれる人のために歌いたいという想いだった。

例え影に勝利していても惨敗していても、関係なく自分を観てくれる人に向けてのパフォーマンスだった。

 

木芽香は目の前のテーブルに目をやった。

そこにはオクシデンタルテレビの二人が持ってきてくれた差し入れのお菓子があった。

木芽香はそっと箱を開けて中身を確認してみた、やはりお菓子は全く減っていなかった。

 

 

影はいつまでも私のそばにいる、だけどもう二度と動き出すことはないのだ。

 

 

木芽香はあの占い師の言葉を思い出していた。

これは自分の運命であり、変えることはできないことを。

 

木芽香はヒビ割れた鏡を大事そうにティッシュで包んでゴミ箱へ捨てた。

捨てるものなのに丁重に扱うのは不思議ではあったが、

なんとなく木芽香にはそうするべきだと思ったのだった。

 

 

その時、テーブルに置いていた携帯電話にメールが届いた。

明日奈が控え室の外に到着したという合図だった。

待ち合わせをして一緒に帰る約束をしていたのだ。

 

差し入れのお菓子を含め、荷物をまとめて木芽香は控え室を後にした。

 

 

 

・・・

 

 

外へ出た木芽香を最初に迎えたのは夕日だった。

すっかり時間が経過して、陽はもう暮れようとしていた。

 

ステージ裏口から出た木芽香は、少し離れたところに立っている明日奈を見つけた。

隣には明日奈の友人だろうか、ニタニタ笑う女の子が一緒に待っていた。

 

「あーっ、きめちゃ~ん!」

 

嬉しそうにその女の子はこちらへ手を振ってきた。

あの子は確か、桜木レイナのバックバンドで演奏した時、

明日奈を訪ねて楽屋へ挨拶にきたことがある子だった。

名前は確か、南野きな子。

 

駆け寄った木芽香に対し、きな子は明るく話しかけてきた。

 

「きめちゃんかっこよかった~!もう惚れちゃいそうだった!」

 

きな子は嬉しそうにピョンピョン飛び跳ねていた。

明日奈とは対照的なタイプの女の子だと思った。

 

「えへへ、ありがとう」

 

「きめたん、おつかれ」

 

明日奈も木芽香に静かにそう言った。

木芽香は明日奈にステージまで名前を叫んでくれたお礼を言おうと思ったが、

先にきな子が興奮して話しかけてきた。

 

「きめちゃん、こんどあすなちんと一緒にお泊まり行ってもいいですか?」

「えーっ、いつでもいいよー」

 

「いぇ~い!」ときな子は飛び跳ねて喜んでいたので、

木芽香はもう明日奈にお礼を言うタイミングを失った。

でも、明日奈とはまたいつでも話せるからいいやと思った。

そんなに気を使う必要もない間柄だったし。

 

「きめたん、あっち側には行かないほうがいいよ」

 

明日奈は二股に分かれている道の片方を指差してそう言った。

児玉坂公園内にあるこの二股の道は、別にどっちを通っても家に帰れた。

 

「どうしてー?」

「危ない人たちがいるから」

 

木芽香の頭の上に「?」のマークが浮かんでいた。

 

「きめちゃんはきな子が守るから大丈夫だよ!」

 

木芽香は一人で首を傾げて不思議そうな顔をしていたが、

やがて遠くに何か黒い影がうごめいているのを見つけた。

 

「あぁーーーーーー私のきめたん見っけーーー!」

 

声は明日奈が指し示した道の方角からだった。

黒い忍者服を着た少女が叫び声をあげていた。

 

「ちょっとーーー飛駒ちゃんずるいーーーー!

 きめたんは私が直々に軍団員にスカウトするんやからーーー!」

 

危ない人たちの群れが木芽香に向かって走ってくるのが見えた。

「きめちゃんは渡さなーい!」と言って戦闘態勢でそれに対して向かっていくきな子も見えた。

 

「きめたん、あっちから帰ろー」

 

明日奈がそう言ったので、木芽香もクスッと笑いながらそっちの道から帰ることにした。

背後がなにやら賑やかでドタバタしていたが、まぁいっかと思った。

 

先に歩いていく明日奈に追いつこうと小走りで駆け出して、

木芽香は向かい側の夕日が眩しいことに気がついた。

そしてふと後ろを振り向くと、そこには長く伸びた自分の影が見えた。

 

 

昔からずっと一緒にいた影を憎んでしまったこと、

それは自分の心の奥底に眠っていた密かな感情だったのかもしれない。

でも、君と私は会わないほうがよかったのかな、なんて今は言わない。

あなたがいてくれたからこそ、今の私がいるんだから。

 

 

木芽香はまた前を見て歩き出した。

自分達の後ろがなにやら騒がしかったけれど、

明日奈は全く気にせず、退屈そうにあくびをしながら歩いているのが見えた。

 

 

 

・・・ 

 

閑古鳥が鳴いていた。

これは店内の様子を形容したものだ。

 

ドアを開けて店内に入ったが店員が出てこない。

「いらっしゃいませ」の一言も出てこないお店などは、

個人経営の頑固オヤジのこだわり珈琲店くらいのものだ。

しかしバレッタはそんなお店ではないはずだった。

 

店内から一人、老人が出てきた。

無口なマスターだけで経営しているお店でコーヒーを飲むのは、

大抵はこういう老人だけであり、若者はもっと流行りのカフェへ行くだろう。

しかし、こんな老人でも愛想をつかしてすぐに店を出てしまった。

無粋な接客が通用する時代はもう終わりを告げていたのだ。

 

老人が出てきた後、店内には誰も客がいなくなったようだ。

マスターは何を気にすることもなく読書を続けている。

お店の繁盛など気にもしないようにヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」を読み続けていた。

 

 

・・・

 

 

先ほどバレッタを出た老人が、児玉坂公園へ入っていった。

今日はイベントがあったらしく、公園内は比較的に若者で賑わっていた。

まだ名残が残っているのか、周辺はガヤガヤと女の子達が騒がしくはしゃぐ声がした。

 

遠くからそれを見つめている一人の女の子がいた。

ベンチに座っているその子は、ショートカットがとてもよく似合って美しい。

けれど、なぜかどこか寂しそうな表情を浮かべている。

それは神秘的にも見えれば、何か重たい責任を背負っているようにも見える。

例えて言うならば、なんとなく孤独が似合う不思議な転校生のようでもある。

 

「ここにおったのか」

 

公園へヨロヨロと歩いてきた老人は女の子にそう話しかけた。

女の子は微動だにせず、公園内ではしゃいでいる人達を見つめていた。

 

「・・・ふふっ、森ちゃん、僕だよわかるかい?」

 

突然背筋が伸びてシャキッとした老人は、くるっと素早く一回転した。

すると今まで老人に見えていた姿が一瞬にして20代の若者に変化した。

 

男のほうを振り返ってちらりと見つめた後、森ちゃんはまた元の姿勢に戻った。

切ない顔で遠くを見つめる彼女の瞳は、彼のことをほとんど気にしていないような素振りに見えた。

 

「つれないねぇ、まったく。

 僕は君の尻拭いをするためにいるんじゃないんだよ。

 君はやっちゃいけないことがわからないのか?

 全く勝手なことばかりしてもらっては困るんだ」

 

男は一人でペラペラと語りを続けている。

見たところ爽やかな青年で、女性からはモテるタイプのように思える。

 

「・・・手鏡だよ、勝手に人に渡したりして」

 

男は腕組みをして少し怒っているようにも見えた。

森ちゃんと呼ばれる女の子は少しも気にしていない。

 

「人の深層心理を象徴的に映し出す手鏡・・・あんなものをどうして渡したんだ?

 もらったほうはビックリするに決まっているだろう?」

 

森ちゃんは何も答えない。

しかし、何も答えなくてもなぜか様になっている。

彼女はそういう特殊な女の子だった。

 

「案の定、あの子は数ヶ月間ずっと苦しみ続けることになったんだぞ。

 君がほんのイタズラ心からした行為が、彼女をあんなに辛い目にあわせたんだ。

 少しは反省する顔を見せたらどうだよ、聞こえてるんだろ?」

 

それでも彼女は涼しい目をして遠くを見つめていた。

見た所、彼女が何を考えているのか誰にもわからない。

そんな姿が彼女を益々ミステリアスにしていく。

 

「僕がフォローしなかったら大変なことになってたんだ。

 君はもっと僕に感謝するべきじゃないのか?

 僕がいなかったら、君は今頃もうここには残っていられなかったかもしれないよ?

 間違いなく、実家から呼び出しがかかって強制送還だっただろうね」

 

男は恩着せがましいセリフを吐いているが、

彼が何を喋ろうとも主導権は森ちゃんのほうにあるように思えた。

むしろ喋れば喋るほど軽く見られていくような雰囲気だ。

彼女の気を惹くことは容易ではなかった。

 

「まったく僕が役者志望の学生でよかったね。

 それにしても見せたかったなぁ、あんなに年齢の離れた老人を、

 僕は見事に演じて見せたんだから、全然ばれなかったんだよ。

 どう、すごいだろう?」

 

自慢げに胸を張る男に森ちゃんは一瞥もくれない。

今の彼よりも何か興味のあることを考えていたのかもしれない。

それとも、ボーッと見つめていた児玉坂公園内ではしゃいでいる、

あの女の子達の輪の中に自分も入りたかったのかもしれない。

 

「しかも占い師の役なんて演じたんだぜ。

 どうだおかしいだろ、そんなこと一度もやったことがない僕がね。

 だけどこういうのは意外と得意なんだよ。 

 学校で習った心理学の応用みたいなものかな。

 おかげであの子、すっかり自分を取り戻して元気になったよ」

 

自分のことを自慢したい人は、大抵追い詰められた人である。

自分を大きく見せることで何とか場をひっくり返そうとするのだ。

しかし、大抵の場合それが上手くいくことはない。  

喋れば喋るほど、自分の器の小ささを相手に伝えることになる。 

 

「人間は一人では生きられないなんて言うけど、

 社会システムとか生活上の共同作業の必要性じゃなくて、

 僕はそれは精神衛生的な方面で最も痛感する言葉だと思うな。

 人は自分と同じことを考えている、もしくは同じ経験をしたことがある、

 あるいはそれを客観視して理解することができる誰かに出会うだけで、

 心という目に見えない機関の負担を軽減することができる。

 数値化することができない心の領域を、人はやがて科学によって数値化していくのだけれど、

 物質的な繁栄を求めるだけじゃなく、もっと精神的な豊かさを追求すべきじゃないかな?

 この時代の人々は、まるで環境汚染を顧みずに発展を続けた経済至上主義となんら変わらないよ。

 こんな風に心を置き去りにして物質的な発展を成し遂げた時代の後で、

 やっと人間達は自分達の心がそれと引き換えに真っ黒に汚染されてしまったことに気付くんだ」

 

彼は饒舌に話しを続けたが、おそらく森ちゃんはほとんど聞いていなかったに違いない。

彼はおそらく彼女に好意を抱いているがために気を惹きたかったのかもしれないが、

それであれば彼女の視線の先にもう少し注意を向けるべきだったのかもしれない。

森ちゃんの関心は彼の饒舌にではなく、その視線の先に注がれていたことを、

彼はまったく気がつかないでいた、それが後述されるような悲劇を生むことになる。

 

「おい、聴いてるのか?

 まったく僕を無視するのも大概にしてくれないか。

 僕は君を探しにわざわざバレッタに立ち寄ってきたんだぜ?

 手鏡を渡してからというもの、いつ行ってもバイトには出てないし。

 あの無口な店長にわざわざ君のシフトまで聞いてきたんだ。

 もちろん、無口だから全然教えてくれなかったけどさ。

 バイトさぼったらお店の人に迷惑がかかるって、そんな簡単なこともわからないのか?

 君がいなくなってから、あのお店がどれだけ寂れてしまったかわかってる?

 実質的には君がお店を回していたようなもんだろう、看板娘がいなくて、

 いったいどうやってバレッタがやっていけるってんだよ」

 

彼は何を言っても振り向いてくれない彼女に対してついに怒り始めた。

それでも森ちゃんは相手にする様子を見せない。

彼が喋り始めてから一つも表情を変えない彼女に、

焦りを感じていたのは彼のほうだった。

 

「おい頼むよ、何とか言ってくれよ!

 僕のことをどう思ってるんだよ、なあ答えろ、答えてくれ森 未代奈!」

 

男は彼女の目の前に回り込み、ついには両手で肩を揺さぶりながらそう言った。

哀願するような彼に同情を覚えたのか、ついに森ちゃんは重たい口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「・・・シフトって何ですか?」

 

 

 

 

 

ー終幕ー

 

 

 

君と私は会わないほうがよかったのかな ー自惚れのあとがきー

 

 

総勢15名。

これは本編に登場したメンバーのキャラ数だ(オクシデンタルテレビなどは除く)

 

お便りや通りすがり程度までカウントするとそうなった。

これは作者にとって予想外に大人数での展開となった。

 

前作「聖服を脱いでサヨナラを」では登場数が少なかったことから、

今作は増やそうとは考えていたが歯止めがきかないくらい増えてしまった。

これには理由があるのだが後述することにする。

 

木芽香の物語は、元々は随分前から書き始めたものだった。

最終的にこの形になるまで二転三転を繰り返して遅くなってしまった。

実は当初は3つの案が出て、その中からどれを書こうか迷ったものだった。

書いてみてどうもしっくりこなかったので書き直すことにした。

はじめに書いていたのは恋愛要素の絡んでくる内容だった。

それはどうも筆者の恋愛観が絡んできて嫌気がさした。

 

3つの案を全てボツにしてから、この影の出ている話を思いついた。

そして書き始めたが、途中で作風に納得がいかずにほとんど全部書き直した。

書き直す前の話はもっと影が暗くて描写も陰湿な感じだった。

ホラーな物語を書いたこともなかったので、個人的にはその方面でもよかったが、

途中まで書いて木芽香の物語にはふさわしくないと思った。

そんな陰湿なものを書いても夜中にトイレに行けなくなるだけだと思った筆者は、

もっと明るい作風にしようと思って修正をすることにしたのだ。

 

原案を思いついた頃、筆者は木芽香に声優っぽいイメージを感じた。

筆者はあまりアニメなどは見ないタイプだが、偶然にも声優さんのラジオを聞いていたことがあった。

それは随分と昔だが、はじめは別に声優さんだとは知らずに偶然聞き始めたものだった。

しかし声も魅力的な人だったし、パーソナリティも素敵な人だったので、

筆者はかなり長い間その人のファンだったし、いまでもその人の事は忘れられない。

 

木芽香にはそういう印象を持った。

声が圧倒的に聴きやすい、声質も特徴があるし、演技もどこか声優さんっぽい気がした。

なのでそういう職業で活躍する人として描く事に決めた。

 

正直なところ、この物語のテーマに当たる部分はすべて筆者の仮説に過ぎない。

だから書いていくのはとても勇気のいるものだったし、

余計なお節介だなと思いながら書き進めていった。

執筆期間が長引いたこともあり、結果的に木芽香を追いかけていた期間は相当長くなったが、

研究すればするほど応援したくなる不思議な魅力を秘めている子だと思った。

こういう子が報われなければならないと、そう思わされるのだ。

 

ネタを集めて研究していた当初、木芽香の昔の映像を見つけた事があった。

その映像は若い頃の木芽香がステージで歌っていたものだったが、

不思議とそれを見ていた筆者は涙が出てきたのだった。

それを見たとき、この物語を書けると確信したのだ。

本編にも書いたが、筆者は木芽香の歌が好きである。

それは技術的な事や選曲などは関係なく、ただ彼女の歌が聴きたいという思いであり、

そういう人もいるのだという事を作品を通して示したかった。

基本的には応援する気持ちから書いているが、それが変に誤解されたくないと思い、

しかし非常にお節介なテーマを書いているので、その辺がやはり書いていて難しかった点だ。

 

 

本作は登場人物が多すぎるので全員に言及することはできない。

だが何人かについてはここで触れておきたいと思う。

 

作中に「のぎ松ちゃん」を入れたのは一定の意味があるのだが、

思わぬ副作用が出た、筆者の心の中でクレームが上がったのだ。

それが勝村さゆみが自分を出せとひたすら要求してくる結果になった。

 

書いていてわかったが、やはり勝村さゆみはとんでもない存在感だった。

作品の枠を破壊しながら作者にあれこれ要求を突き付けてくる。

筆者は書いているのだが、キャラが勝手に動く部分については、

もうそれを止めることはできないように思っている。

さゆみの場合、もう勝手に物語の中で暴れ出すというイメージに近い。

 

だが彼女を見ていて気付いたのは、本作のようなバカっぽいキャラの裏側に、

ふと突然シリアスな表情をのぞかせる瞬間があり、その振れ幅が不思議な魅力を持っていることだ。

ただのおバカキャラではない事が、彼女がとんでもない存在感を持つキャラになっている理由だろう。

ただし彼女の心の奥底に眠っているシリアスな部分を研究することはかなり難しく、

彼女もあまりそこまで見せない人なので、そこを書くのはまだまだ難しいかもしれない。

だがとにかく、彼女が絶対的に欠くことのできない必要な存在だというのは間違いないと思う。

 

軍団の中でみりんの優秀さが書いていてありがたかった。

客観的に動いてくれるので万能に使えるし、いろんな役割を担ってくれる。

場がとっちらかった時、テキパキと片付けをしてくれるイメージで動いてくれるのだ。

さゆみのような暴れるキャラは強いが、みりんのようなキャラがいるから生きてくる。

軌道修正をしてくれなければ暴走して着地点を見失うからだ。

みりんを書いている場面は筆者は知らず知らずホッとしていた気がする。

彼女に任せれば大丈夫だという奇妙な安心感もあった。

本当はもっと苦労しない役割にもなりたいだろうが、

自己犠牲を厭わずに色々とやってくれるこういう人がもっと報われなければならないと筆者は思う。

 

飛駒里火については、もともとはこんな風に出す予定ではなかった。

まだ先で他の構想で準備していたキャラクターだったのに、

さゆみを登場させることにした時、自分も出してくれと筆者の心の中で懇願してきた。

今後の構想が崩れるから遠慮してもらいたかった気もしたが、

「のぎ松ちゃん」への思いが強い彼女だから、もう止められなかった。

今後の構想は、また筆者が悩みながら考えることにしよう。

 

さゆみかん軍団と飛駒ちゃんは本当に本編に関係ないし、

当初は全く登場の予定もなかったのだが、

「ちょっとだけだぞ」と言って登場させたらもう退場してくれなくなった。

でも、作品を明るくしてくれるならもういいかと放っておいた結果がこの物語である。

 

ちなみに、筆者はこれを機会に「おそ松さん」を見ることになった。

その影響が作品に反映してしまっているかもしれない。

ところで筆者の推し松は一松である、あのヤバくて放っておけない感じが愛しい。

筆者も自分自身をヤバい奴だという認識が多少はあるので、そこに共感して見捨てておけないのかもしれない。

だが、実際のところ性格が一番近いのはチョロ松だと思っている。

筆者はその常識的な部分とクレイジーな部分で揺れている存在なのかもしれない。

ちなみに、このあとがきを書きながら聴いている曲は「はなまるぴっぴはよいこだけ」である。

 

またこの曲を歌っている歌手は「A応P」という方々のようだが、

その意味は「アイドル 応援 プロジェクト」の略らしい。

だから筆者は本編のユニット名を「N応P」とした。

そういう小さなところも見てもらえてれば嬉しい。

 

 

木芽香が去ってからの最後の部分はネタばらしと次回への布石でありおまけみたいなものだが、

ようやく登場してくれた未代奈が一言だけ喋ってくれた。

 

この子もおそらくかなり優秀なキャラクターになるのは間違いない気もするが、

どうなるかは筆者にもまだわからない、書いている本人だってわからないこともある。

早く活躍させたいのは山々だが、どうなるのかは神のみぞ知ることである。

 

 

この作品は書いていて楽しかったけれど、同時にとても苦しかった。

何かが伝わっているのかはわからないが、読んでくれた方には感謝を伝えたい。

 

 

どうも、おそまつさまでした。

 

 

 

ー終わりー