その国の出口

この国のルールは、奈良未には少し厳しすぎた。


「もっと声を出してしっかりと笑いなさい、
 あなたのニヤニヤした笑い方は極めて下品です!」

教育係のおばさんは今日も声を荒げて奈良未を叱っていた。

(ニヤニヤしたくてしてんじゃねーよ、バカヤロー!)

奈良未は内心そう反抗した。
この国へやってきてからもう2ヶ月が経過していた。

平日は、ほぼ毎日みっちりと教育係のマナー講座が続いていた。
2ヶ月が過ぎてもまだ笑い方ひとつ上手くできないと教育係は呆れていたのだ。

この国のルールでは、人々は必ず声を出してしっかりと笑わなければならない。
そうでないと相手に感情が正しく伝わらない恐れがあるからだ。
だが、奈良未は感情表現が苦手で、どうしてもニヤニヤと笑う癖があった。

奈良未はゲッペリー王国のお姫様だった。
しかし、実際はこの国の人間ではなかった。


・・・


それは2ヶ月前の事だった。
奈良未が故郷から上京する為に飛行機を利用した時のことだ。

移動中、奈良未は座席に座ってアイマスクを着用して寝ていた。
そして熟睡してからゆっくりとアイマスクを外すと、
飛行機が着陸していたのは羽田空港ではなく、謎の空港だった。
気がついた時、乗客は自分を除いて一人も座っていなかったし、
客室乗務員さえもう機内には残っていなかった。

奇妙に思って飛行機から出てみると、
外にはおもちゃの兵隊達が整列して待っていた。
それを見た奈良未は思わず体がすくんだ。
「意味わかんない・・・」とつぶやいて再度機内へ戻ってみたが、
やはり機内には誰もおらず、奈良未は頭を抱えながら混乱と戦っていた。

(・・・いったい、これはどういうことだろう・・・?)

奈良未はその優秀な頭脳をフル回転させて現状を分析し始めた。
自分が眠ってしまっている間に、他の乗客は既に外に出てしまったに違いない。
そして、あのおもちゃの兵隊は、きっと催し物か何かの着ぐるみに違いない。

そう結論した奈良未は、おそるおそる出口へ向かって歩き出した。
そしてその時に聞こえた声に再度愕然とした。

(どうしたんだい?早く出るんだ、みんなあなたを待ってるよ)

初めは機内アナウンスかと思ったが、マイクを通したような声ではなかった。
それは不思議だが奈良未の頭に直接響いてきたような声に思えた。

「わっ!」とびっくりして尻餅をついて、奈良未は怯え出した。
生まれて初めて頭の中に響いた声の特殊な感覚に、
もしかすると、自分は超能力か何かに目覚めてしまったのかと想像したのだった。


奈良未は極めて冷静な現実主義者であり、このような非現実的な出来事は信じていない。
だが、自分の目と耳で実際に確認した出来事については受け入れる柔軟性は持っている。
そして、その新たな事実を自分の脳内に付け加えて、自分の中の現実を再構築するのだ。


恐怖感が心を支配していたが、とりあえずこの現実を自分なりに受け止めながら、
奈良未はおそるおそる出口から外を覗いてみた。
機外へ続く階段の下には、やはりおもちゃの兵隊達がずらりと整列をしているのが見えた。

(・・・ああ、怖い・・・)


奈良未は子供の頃から人形が大嫌いだった。
遊園地などで見かける着ぐるみでさえ、近寄って来られると怖くて逃げ出してしまう。
彼女には一般的な子供が喜ぶような、そういうファンタジーを楽しむ気持ちが欠落していた。

1体だけでも恐ろしいのに、階段の下にはずらりと整列をしている様を見て、
さすがに奈良未は座り込んで泣きそうな顔になってしまった。
生まれて初めて経験する不可思議な状況では無理もなかった。


そうしていると、向こう側から男性がゆっくりと歩いて来るのが目に入った。
男性は2m近くあるのではないかという長身で、
とても高貴な存在であるように思われる身なりをしていた。

やっと人間が現れてくれたという事が奈良未の安堵へと繋がった。
だが、次の瞬間にまた恐怖は戻って来た。

(おやおや、あなたが降りていかないから王子様が直々に迎えに来てくださった)

奈良未の頭に直接響きかけてくる声がまた聞こえた。
「わっ!」と再度びっくりして頭を抱えて縮こまってしまった。

「あなたは一体誰なんですか!?」

奈良未は思わず声の主へ対して叫んでしまった。

(僕はこの飛行機だよ、何も怖がることはない)

怖いに決まっていると奈良未は思った。
生まれてこのかた飛行機の声など聞いたこともない。
声の主がこの飛行機だとわかった瞬間、
この機内にいることすら不愉快になってしまった奈良未は、
荷物を抱えて急いで機内を飛び出した。
そして下へ降りるわけにもいかず、階段のところで座り込んでしまった。


そうしている間に、王子と呼ばれた男性が階段を上がってきた。
そして怯えている奈良未に対して優しい声で話かけた。

「姫、お待ちしておりました。
 さあこちらへどうぞ、みんなが待っております」

王子はニコっと奈良未に微笑みかけて手を差し出した。

・・・



王子に迎えられて、奈良未はこのゲッペリー城までやってきた。

王子はとても優しくて聡明な人物であったので、
奈良未は完全にではないが幾分信用した。

いちごの馬車に乗せられて城まで向かう道中、
王子はこの国について色々と教えてくれた。

この国には今、姫がいないこと。
そして、その姫に選ばれたのが奈良未であること。
国民は姫を待望しており、国を治めるためには姫が不可欠であること。

その話を聞いただけでは奈良未は全く納得できなかった。
そして、もちろん現代の日本に「姫」というような存在があるわけもなかった。
だが、ここはどうやらゲッペリー王国という日本ではない国であり、
ただし、王子の外見は明らかに黄色人種で、言語は日本語だった。

奈良未は大混乱で頭の整理がつかなくなっていたが、
とにかく現状は自分が得体の知れない場所に紛れ込んでおり、
彼らに逆らうことは得策ではないと考えたため、
様子を見ながら状況を見定めていくことにした。
幸い、この王子と呼ばれる人物は、それほど胡散臭い気はしなかった。

ただ、奈良未はこの甘ったるい匂いのする、
赤くて可愛らしいルックスの馬車に少し恥ずかしくなった。
そして、この自動車全盛の現代に馬車というものがあるとは、
一体ここはどういう場所なのかと、ますます混乱が生じてくるのだった。


だが、馬車がゲッペリー城に着いた時、奈良未はこんな状況にもかかわらず、
少しばかりの興奮を覚えてしまった。
彼女は建築デザインに興味があり、西洋風のお城が好きだったからだ。
そのお城は本当に西洋風の立派なデザインで、
この城のお姫様に自分がなれるのなら、それはそれで嬉しいことかもしれないと、
少しばかりの希望も湧いてくるのを感じた。


・・・


しかし、お城に入って教育係に紹介された時に、
すべての希望は甘い期待だったと知らされた。

教育係は50〜60歳と思われれる厳しそうなメガネをかけたおばさんで、
王子と違ってとても友好的な人物とは思えなかった。
やがて、奈良未は王子の手からこのおばさんへ委ねられた。
そしてここからは姫としてのマナー講座を連日受けることとなったのだ。


だが、とにかく奈良未はお城の一室を与えられ、
そこは壁紙や家具がピンクで甘ったるいのを除けば、
とりあえず風呂やトイレも付いていて、
生活するには不自由しない十分な環境であった。
部屋の掃除や食事の準備も、メイドが全てしてくれるという素晴らしい条件だった。


・・・


そして2ヶ月が過ぎた。

初めのうち、奈良未はもっと早い段階でここを脱出したいと考えていた。
しかし、色々と情報を集めてもこの国を去る方法が全くわからず、
ついに、奈良未は長期戦になる覚悟を決めて籠城戦をおこなっていたのだった。
幸いにして、生活環境は恵まれていた為に文句はなかった。


教育係やメイドとの交流を通じてわかってきた事は、
この国が日本とは相当異なるルールに基づいて構成されていることだった。

まず、奈良未がこの場所を脱出することが難しいと考えた理由として、
この国には地図というものが存在しなかった。
それは地図という概念が存在しないのではなく、
この国の環境的要因にいささか問題があった。

この国はとても自然災害が多く、地図を作れないのだった。
山が崩れることは日常茶飯時で、地震によって道路はあっさりとなくなる。
また、天気も極めて不安定で、朝から晩までの間に目まぐるしく変化する。
朝は晴れていたのに、午後は突然にして雪が降り、夜は台風がくることもある。
その荒れる天候が崖崩れを生み、洪水を生み、建物を破壊する。
この国はそうしてその姿を日々変える為、誰も地図を作ろうとはしなかった。
また、誰もその天気を予想できない為、この国には天気予報もなかったのだ。


また、この国は日本人と瓜二つの人間が大半を占めていたが、
中には奈良未が飛行場で見たおもちゃの兵隊も市民権を得ていたし、
背の低いドワーフや、空を飛ぶ妖精なども住んでいた。


この国はこのような多種多様な存在が入り混じっていて、
さらにこのような酷い環境条件にも関わらず、
それほど荒れることもなく国の治安は維持されていた。
それというのも、この国の民衆達は1日に3回ほど食後に眠り、
心地よい夢を見ることで彼らの不満は解消されていたからだった。
近くの商店には使い捨ての「夢を見る枕」が必ず売られていて、
それを使って眠りにつくと、必ず良い夢を見ることができるのだった。


こんな風であったから、その環境要因ゆえに国の将来の行く末など誰にもわからず、
よってこの国の民衆は誰も真剣に未来のことを考えることはないのだが、
このような酷い環境の中でも日々を幸福に生きていたのであった。


・・・


この国の事情は大体理解できた。

奈良未は集めた情報を寝る前にいつも思い起こして整理し、
すぐには信じられないような世界ではあったけれど、
その新しい真実を彼女の頭の中の現実につけ加えていった。

こうした客観的な事実をつぶさに観察するのには奈良未は長けていたし、
その冷静な思考とスポンジのような吸収力によって、
この受け入れがたい世界の処世術を身につけていった。


だが、奈良未が苦労したのは教育係のおばさんだった。

教育係のマナー講座が始まってから2ヶ月、
奈良未は要求される課題をクリアすることをとても困難に感じていた。

実際、奈良未はとても優秀な女性だった。
ゲッペリー王国に来る前の奈良未はと言えば、
すでに小学生の頃から常に成績優秀であり、
極めて合理的な考え方と、冷静な分析力によって、
学校で与えられた課題を難なくこなしていくタイプだった。
彼女は課題に対して、どうすれば効率的にアプローチできるのか、
自分で集めた情報を分析し、自分なりの攻略法を確立していける人であった。

彼女は勉強ツールの効率的な使用法から、
記憶に最適な条件や復習方法、そして適切な脳の疲労回復方法まで、
徹底的に合理的に追及していくことができる優秀な人だったのだ。


だが、そんな彼女であっても教育係の要求に応えるのは厳しかった。
なぜなら、それは徹底的に奈良未の特性とは反対の性質を持つ事柄を求められるからだった。

例えば、笑い方。

先に述べたように、この国では声を出してしっかりと笑わなければならない。
そうしないと相手に適切な感情が伝わらないという風に考えられる。
この国の物差しでは、しっかりと声を出して笑う事が上品なマナーなのである。

しかし、奈良未は今まで笑い方まで強制されたことはなかった。
そんなものは個人の自由の領域である。
相手からどう思われるかはさておき、個人がどう笑おうが個人の責任である。
それをとやかく言われる事自体、彼女の好みではなかったし、
また彼女は自分の感情を表に出す事が苦手であったから、
どうしてもニヤニヤとした笑みを浮かべてしまうのであった。
ゲッペリー王国以外であれば、そのニヤニヤは彼女の可愛らしい人間性なのだが、
ここではそれが許されなかった。


他にも、奈良未がこの教育係と合わない点はいくつかあった。

まず、この教育係は奈良未の論理的な物言いを大変に嫌った。
頭で筋道を立てて合理的に説いていくのが奈良未のやり方であったが、
教育係は徹底的に感情的で感覚的な表現を好んだ。

例えば、「人はなぜ走り出したのか?」という問いに対し奈良未が、

「獲物に追い付きたかったんじゃない?」

と応えると、教育係は鞭で奈良未の手をピシャリと打った。

「そんな回答は夢がなさすぎです!」

教育係は「心の中が燃えてきて、きっと風を探したのね」という答えを模範回答とした。


他にも「どうして赤ちゃんを産むのはお母さんなのか?」に対しては、

「女の方が痛みに強いから、鼻からスイカを出すくらい痛いから・・・」

また「人は死んだらどうなるのか?」に対しては、

「日本では主に火葬なんですが・・・」


教育係の鞭が飛んだのは言うまでもない。


奈良未はとにかく教育係の言う模範回答には納得できなかったし、
教育係は奈良未の意見を「夢がない」と一蹴し続けた。


他にも相容れない点はいくつもあった。
奈良未は徹底的に「冷静」に対処し続けたし、
教育係はとにかく「情熱」的な対応を求め続けた。
パッションがなくては何も伝えることができないという理由だった。

また、奈良未は「熟考」を尊重したが、
教育係は何よりも「行動」を重視した。
考える前に俊敏に前に動かなければ生き抜いて行けないという説明だった。


そして、とても奇妙でバカらしいこの国のしきたりとして、
公の場で会話を行う際に、会話は歌でオペラ風に行わなければならなかったし、
ジェスチャーは全てダンスで行わなければならなかった。
王子や教育係とプライベートに話をしている分には良いが、
例えば街で人と会って会話を行うのであれば、
誰もがオペラ風にやり取りをしなければならないのだった。


奈良未は冷静にこの事実を受け止めはしたが、
どうしてもバカらしくて実行することはできなかった。
そして、仮にやっていても気持ちは入らず、教育係からは鞭が飛んだ。


また、これはもう悲しいかな慣れてしまいつつあったが、
お姫様の服装はいちご柄のワンピースに赤いリボンだった。
奈良未は始めこそ「死んでもいや」と抵抗したのだが、
毎日着ている内に、「お姫様とはこんなものなのだ・・・」としぶしぶ受け入れ始め、
もう今では感覚が麻痺して恥ずかしいとも思わなくなった。


こんな風にして、奈良未はゲッペリー王国の姫としての品格を身につけていった。
本能的には許せないものの、とりあえず表面的にはマナーとしてこなせるようになったのだった。


・・・
やがて時が過ぎ、姫のお披露目式がやってきた。

奈良未は国民に披露されるこの日の為に、ずっと教育係からマナー講座を受けてきた。
彼女も、初めのうちは抵抗を続けたものだったが、
基本的には好奇心の塊であり、さらにストイックで負けず嫌いであったため、
やがてはこの国のしきたりを自分なりに消化し始めた。
すると、得意というわけではないけれど、それなりにその面白さも理解できるようになった。
これはこれで、人生の良い経験かもしれないと思い始めたのだった。
いちご柄のワンピースと真っ赤なリボンを除いては。


人間、慣れてくると自分の意見が出てくるもので、
奈良未は時々、自分はこのやり方のほうが良いのではないか、
という自己主張をするようになった。
例えば、お披露目式のスピーチには別にアドリブを入れても良いと考えたし、
衣装だって、必ずしもいちご柄やリボンでなくても良いと提案した。
形式ばったものにせず、自分自身の良さを盛り込むこともできると考えた。
その意見に対し、教育係は「成長しましたね」という賛辞を述べたが、
お披露目式の幹事である大臣達はその提案を考慮はしなかった。

結局、慣習を覆すことができずにお披露目式を迎えることになった。


・・・


お披露目式には全国民が一同にお城に集まった。
大広間では豪華な食事が並んでいたし、
ここでも「夢を見る枕」は大量に売られていた。

そしてお披露目式のハイライトである、奈良未の登場の順番がやってきた。
天気は珍しく快晴であり、奈良未も気分良く晴れ舞台を迎えることができた。


「こ〜れから〜登場す〜るのは〜、ゲッペリ〜王国の〜新し〜いお姫様〜♪」

大臣達がしきたり通りにオペラ調でスピーチを始めた。
奈良未は緊張しやすいタイプでドキドキしていたが、
これまでの練習の成果を披露する機会に、幾分の興奮も覚えていた。

「雪〜のような〜白い〜肌〜、水の〜ような〜澄んだ〜心〜♪」
「花〜のような〜甘い〜唇〜、夢の〜ような〜美しい〜姿〜♪」

全く大げさな、と現実主義な奈良未は苦笑して呆れていたが、
内心、ちょっと嬉しい乙女心も潜んでいるような気もした。

コービー王子が奈良未より先に観衆の前に躍り出た。
ステップがバスケットボールとはまた異なる軽やかさを呈していた。

「その〜瞳を〜見た〜時に〜、私の〜心に〜雷が〜落ちた〜♪
 そなたの〜美しい〜姿を〜、皆の〜前に〜見せて〜おくれ〜♪」

コービー王子が軽やかに舞いながら歌でスピーチを始めると、
シナリオでは、次は奈良未が登場する場面だった。

「おお〜私の〜コ〜ビ〜王子〜、あなたの〜声は〜なんて〜美しい〜♪」

奈良未は数ヶ月前とは別人のような完璧さで観衆の前に現れた。
教育係のおばさんは、決して奈良未には見せないけれど、
舞台袖で彼女の成長ぶりに感動し、静かに涙を流していた。

「私が〜あなたの〜花に〜なれるなら〜、この国の〜為に〜咲き〜ましょう〜♪」

奈良未とコービー王子は手を取り合って踊り出した。
そして二人のユニゾンパートがやってきた。

「ゲッペリ〜王国の〜民よ〜、我らと〜共に〜未来を〜歩まん〜♪
 美しい〜夢のある〜国へ〜、希望を〜胸に〜明日を〜夢見て〜♪」


二人の息はピッタリ合い、まるで鮮やかなパスワークで相手を抜き去り、
フェイントで敵を完全に翻弄して華麗なシュートを決めたコンビプレイのようだった。


お城に集まった民衆達は歓喜に震え、盛大な拍手を持って二人を祝福した。
お膳立てをした大臣達も式の成功に満足げであったし、
奈良未にとっても、練習の成果が発揮できたお披露目式は、
自分が予想していた以上に達成感を感じるものとなったのだった。


だが、そこからがまずかった。

大きな満足感を得た奈良未は、そこで自分が考えたアドリブスピーチを試したくなった。
そして彼女の持論として、スピーチをするものが自分の言葉で語ることを、
民衆達は心の底から欲していると考えていた。

そして、一人で一歩踏み出してスピーチを続けた。


「お集まり〜いただいた〜多くの〜皆様〜、私は〜皆様に〜聞いて〜みたい〜♪
 いちごの〜ワンピ〜スと〜真っ赤な〜リボン〜、本当に〜私に〜似合ってる〜?♪」

観衆はざわつき始めた。
今までに姫がアドリプでスピーチをすることなど例にないことだったからだ。

「私〜本当は〜他の〜服も〜、色々と〜試して〜みた〜いの〜♪」

奈良未は自分は正しいことを行っているガリレオ・ガリレイの気分だった。
ダンスのステップは自由にアレンジを加えたものだったし、
歌の調子も、しきたりの通り荘厳なものではなく、もっと明るい朗らかなものだった。

大臣達は、これはまずいとばかりにお互いに目配せをし、
姫の勝手な振る舞いを止めるように部下に命令を出した。

だが、大臣達にとって、次の行動が完全に誤算だった。

「おお〜姫の〜願いで〜あれば〜、誰が〜叶えずで〜おく〜ものか〜♪
 色とりどりの〜洋服を〜身に〜纏い〜、我らの〜目を〜喜ばせて〜おくれ〜♪」

王子は、おそらくここが大臣達に抵抗する良い機会だと捉えたのだった。
自分たち二人が国の象徴として民衆の支持を得て主導権を握り、
もっと風通しの良い国造りを実現させたかったのだ。

そして、観衆達もこんな新しい二人のアドリブに心から喜びを感じ、
先ほどの形式ばったスピーチよりも、さらに大きな拍手を浴びる事となった。


こうして奈良未のお披露目式は幕を閉じた。
だが、この日が奈津未にとって姫としての最後の1日となったのであった。



・・・

奈良未は逃亡していた。

お披露目式の後、観衆からは評判が良かったものの、
大臣達から相当に絞られてしまったのだった。
あのような重要な行事で勝手なアドリブをするなど前例がない、ということだった。


奈良未は大臣達に対して、観衆は喜んでいたと反論したのだが、
観衆が喜ぶポピュリズムなどが正しいわけはないと、
大臣達は持論を展開して奈良未を封じ込めた。


(好きなものを好きと胸を張って言える。
 そしてそれを素直に受け入れる。
 そんな世の中ならもっとやりやすいだろうに、
 なんでこう複雑になっていくんですか・・・)


奈良未はそれ以上もう余計な事は言わなかったが、
もう二度と大臣達の要求に応えて公の場に出ないと決意した。
意地を張ってしまった奈良未を動かすのは至難の技だ。
彼女はガリレオ・ガリレイ並みに意志が固い。
正しいと思っている自説を撤回して頭を下げることはまずない。


そして、そうなればもうこの国にいる必要もなかった。
元々、脱出するために色々と情報を集め出したのが発端だったのだ。
それが思いの外、長く居座ってしまったのだった。


地図のない国で動き回るのは極めて困難ではあったが、
もう奈良未に迷いはなかった。
みんなが寝静まった頃を見計らって、奈良未はお城を抜け出した。


奈良未がこの国の出口として当てにしていたのは、
来るときに乗ってきたあの飛行機だった。
もうこの国になれてしまった奈良未にとっては、
別に話をする飛行機だって何も怖いことはなかった。
もしかすると、頼み込めば日本に戻してもらえるかもしれないと考えた。


では、そこまで辿り着く道はどうするのか?
奈良未には実はこちらも一つ当てがあった。


奈良未はお城でダンスを学んでいたとき、
とあるダンスの先生と知り合う機会に恵まれた。
そのダンサーは、実は日本からやってきた人だった。

彼女とは一度会っただけだったし、
その時には近くに教育係のおばさん達もいたので、
あまり深い話はできなかった。
だが、奈良未と同じように日本から来た境遇だということで、
これは日本に戻る方法を知っているかもしれないと思い、
密かに文通を続けるようになったのだった。


「・・・お久しぶりです」

城外のとある民家で落ち合う約束をしていた奈良未は、
そこに現れたダンサーに静かな声で呼びかけた。

お互いに改まって頭を下げあって挨拶を交わした。

「なんて呼べばいい?」

ダンサーは奈良未に問いかけた。

「あっ、もう何でも呼びやすい形で・・・」

奈良未は気を使って返答した。

「じゃあ、ならみんにしとく」

ダンサーは悪戯っぽく答えた。

「私は何て呼べばいいですか・・・?」

奈良未も同じように問いかけた。

「・・・松井って呼んでもいいんだよ」

ダンサーの悪戯な回答に対し、
奈良未は口を手で押さえて「止めてください!」と恥ずかしそうに言った。


奈良未に怒られそうなので、この辺りにしておこう。


ダンサーの名は黎菜と言った。
このゲッペリー王国に先に来た先輩でもあるので、
奈良未は敬意を込めて黎菜さんと呼ぶことにした。


・・・


二人は黎菜の手配した馬車に乗ってあの飛行場へ向かって出発した。
地形は常に変わり続けるために地図はないのだが、
この世界に来て日が長い黎菜であれば、大体の方向感覚は勘でわかった。


「私はこの世界に来てもう数年になるけど、
 ならみんと同じようにあの飛行機に乗ってきたの」

黎菜はそう奈良未に教えてくれた。

「あの飛行機にお願いすれば、日本に戻れますか?」

奈良未はその重要なポイントを確認したかった。

「おそらく大丈夫だと思う、ゲッペリー王国と日本の往来は、
 結局のところは本人の意思しだいだから」

黎菜は確証はないという風ではあったが、
その言葉には何とも頼もしい雰囲気があった。

「・・・ならみんはどうしてゲッペリー王国に来たの?」

黎菜は素朴な質問という風で奈良未に尋ねた。

「・・・いや、気づいたら飛行機がこの国に着陸していて、
 それでコービー王子に迎えられてあのお城に行っただけです」

奈良未は淡々とそう答えたが、
黎菜は不服そうな顔をしていた。

「そんなものかなぁ・・・。
 この国にはね、望んだ者しか来れないんだよ」
 
黎菜は少し意地悪そうに奈良未にそう告げた。

「・・・導かれたんですよね・・・多分運命だったと思います・・・」

奈良未は自分でもわからないという風にそう答えた。


そんなやりとりを続けている間に、二人は飛行場へたどり着いた。
向こう側には奈良未が乗ってきた当時の飛行機が止まっている。

「じゃあ、私が送っていけるのはここまでね」

黎菜は何か悪戯な感じで奈良未にそう告げた。
奈良未は黎菜の手助けに心から感謝を表した。

「またね」

黎菜はニコッと笑って去っていった。

黎菜は本当に頼りになる存在だった。
何も知らないこの国で、本当に色々な事を教えてくれた。
このまま去っていってしまうのを引き止めたいくらいの気持ちだったが、
きっと彼女には彼女の舞台があるのだと思った。

(・・・ご活躍をお祈りします・・・)

それは、簡単には言葉で表せない感謝と敬意の気持ちであった。


・・・

そこにはコービー王子が待っていた。

奈良未が飛行場で馬車を降りてから飛行機へ向かって歩いて行った時、
飛行場は突然ライトラップされ、奈良未はスポットライトの中心になっていた。

奈良未はその突然の眩しさに目が眩んだ。
手を目の前にかざして光を遮断した時、
目の前にコービー王子が立っているのが目に入った。


「・・・行ってしまうのか?」

コービー王子は寂しそうに奈良未に尋ねた。
手にはバスケットボールを抱えていた。

「・・・コービー王子・・・」

奈良未はここで彼には会いたくなかったと思った。
この国を名残惜しいと思うならば、
自分に優しくしてくれた彼の存在があったからだ。


「・・・ゲッペリー王国から出て行くのは確かに君の自由意思だ。
 そしてこの国の出口は、君の想像通り、あの飛行機だ」

コービー王子は立てた親指で飛行機を指差しながらそう奈良未に告げた。

「・・・だが、君はどうしてここへ来た?」

コービー王子は黎菜と同じ質問を奈良未に浴びせた。
奈良未は直感的に、二人はきっと何か繋がりがあると感じた。
そして、この質問にはやはり答えられないと思った。


コービー王子は持っていたバスケットボールを「ダムダム」とバウンドさせ始めた。

「・・・バスケットボールをしよう。
 僕はずっと君のプレーが見たかった。
 君はマネージャーだけでなく、プレーヤーでもあるだろう?」


コービー王子は持っていたボールを奈良未に投げた。
奈良未は両手を出してそのパスを受け取った。
それはただのボールではない、ずっしりと重たい鉛球を受け取った気がした。
まるで人生の重みがそのまま詰まっているかのような。


コービー王子の後ろにはバスケットゴールが見えた。
一体誰がバスケをするのかわからないこんな場所に、
なぜバスケットゴールがあるのだろう?
コービー王子が従者に用意させたのだろうか?


奈良未は受け取ったボールを「ダムダム」と弾ませてみた。
誰もいない夜の飛行場に、ボールの乾いた音だけが空に響いた。
奈良未は久しぶりのボールの感触に「身体がついてこれるかな」と一瞬不安がよぎったが、
こんな場面であるのに不思議と心は弾む思いがした。


「勝負をしよう。
 君が僕からワンゴールでも奪うことができたなら、
 君はこの国から出ていっても構わない。
 だが、もしゴールを奪えないのであれば、
 君は僕と一緒に城へ戻ってもらう」

コービー王子はゆっくりと大きく手を広げながらディフェンスの構えをとった。

奈良未は「やれやれ」と思った。
せっかくここまで逃げてきたのに、もはやここまでなのだ。
自分がこんな長身の男に勝てるわけがないと思った。


しかし、この弾むような気持ちはいったい何だろう?
奈良未はボールを突く瞬間に弾ける命の鼓動を感じていた。
その瞬間、この世界に生きている自身の存在を再確認できるような、
この奇妙な熱い感覚はいったい何なのか?

奈良未は目の前に立ちはだかるコービー王子に向かってドリブルを始めた。


・・・


どれくらいワンオンワンを続けていただろうか。
奈良未は結局、まだゴールを奪えていない。

「どうした、もっと攻めてこないとゴールは奪えないぞ」

コービー王子は奈良未を挑発し続けている。

奈良未は遠距離からのロングシュートばかり狙っていた。
体格も技量もあるコービー王子をドリブルで抜くのは至難の技であり、
それであればフェイントで一瞬の隙を作ってのロングシュートの方が、
距離は遠いがゴールを奪うチャンスはあると考えていた。


しかし、コービー王子もそんな奈良未の作戦はお見通しで、
奈良未にシュートを打つ隙を作らせない。

「もっと気持ちの入ったプレーをしようぜ。
 一体この国で何を学んだんだ?」

コービー王子は相変わらず挑発を続けていた。

(・・・私の事、何も知らないで偉そうに・・・!)


奈良未は自分のやり方を否定された事で、
自分が積み上げてきた人生全てを否定されたような気さえしていた。

奈良未は自分自身よくわかっていたが、
余計な感情を周囲に表現するのが怖かった。

奈良未の子供の頃の夢は公務員になることだった。
それは夢と呼べるほどロマンスが漂っている職業なのか、
一般的にはおそらく夢としては否定されやすい考え方だろう。

それでもその結論は、彼女が彼女なりに生きて行く術を必死に考えた結果だった。
この不安定な世界で安定を得て、堅実な幸福感のある生活を過ごしていく。
それは別に誰からも否定されるべきものでもないし、
世間からは誤解される可能性は高いかもしれないが、
立派な一つの夢として体をなすものだと思う。

だが、驚くべき事は、彼女自身がその安定した生活目標を放棄して、
デザイナーを目指して上京をしてきたのだった。
それはもしかすると自分なりに考えた次の安定した生活目標だったのかもしれないし、
これほどまでのリアリストが気まぐれに燃やした夢への情熱だったのかもしれない。
真実は誰にもわからない、ひょっとしたら奈良未にもわからないのかもしれない。


彼女は小学生の頃から偉人の伝記を読みあさっていた。
この世界にすでに名を残した偉大な人々の生き方を学ぶ事で、
自分の存在はこの世界にどうありたいのかを、
幼い頃から誰よりも真剣に考え続けてきたのだろう。
一度しかない人生で、いい加減になんとなく生きることは、
奈良未には許せない堕落した考え方だったにちがいない。
彼女はそれほどまでに自分に対してストイックだったし、
偉人達が共通して持っていた強い「意志の力」を信じていた。


それほどまでに、彼女は自分の「存在の確立」を望んでいた。
自分が生きている人生で、自分が何者かでありたい。
だが、これだけのリアリストであったために、
奈良未は自分の力量をを誰よりもよくわかっていたし、
自分が何者にもなれないかもしれないという恐怖を誰よりも感じていた。


そして今、彼女はゲッペリー王国にいる。



・・・

コービー王子はずっと奈良未のドリブルの音を聴き続けていた。


とても乾いた音がした。

この世界に甘い期待など一片も持っていないような、
悲しくて寂しくて、しかし冷静で聡明な音だった。


それは自分が何者かになったとしても、
結局のところ何者にもなれないような、
人生の儚さや人間の愚かしさなどを、
すべて理解している人の寂しい音だった気がした。


そして、それはゲッペリー王国の姫になったとしても、
結局は民衆達と何も変わらないような親しみを生み出していたし、
それが人間的な深い彼女の魅力を生み出しているとも言えた。


だが、時々とても無邪気な音がした。

10回に1回程度の割合くらいで、
なぜか奈良未のドリブルからはそういう無邪気な音がした。
それは、子供が持つようなとても純粋な気持ちに似ていて、
この世界に対してまだ希望を捨てていないというような、
そして、誰かにその存在を預けたいとでも言うような、
若々しくて甘い恋愛小説のような水々しい音だった気がした。


コービー王子は、奈良未がゲッペリー王国へやってきたのは、
結局はこの無邪気な音が彼女を連れてきたのではないかと考えていた。
本当のところは誰にもわからない、奈良未の心の底にあることだ。
だが、コービー王子は奈良未のそういう無邪気な音が好きだったし、
だからこそ、このワンオンワンの中で彼女からその音を聞かせて欲しかったのだ。
そして奈良未からその音を引き出すには、バスケが何よりも有効だと考えていた。


奈良未は少し意地になり、そこまで挑発するならと、
ドリブルで真っ向からコービー王子に向き合い始めた。
そして彼を抜き去ってシュートを決めてやると誓った。


コービー王子は奈良未のドリブルの音の中に、
その熱い無邪気な音が増えて行くのを感じていた。
10回の中に2回、3回、彼女の情熱はバスケを通じて高まりを見せていった。


このような砂漠で泉を掘るような試みを、
コービー王子が続けていた理由は、
おそらく、奈良未に対する人間的な尊敬であったし、
それは非常に余計なお節介であるとも言えた。
ただそれは、奈良未とゲッペリー王国で出会えたことの喜びと、
叶うのであればずっと友人関係を続けていたいような、
彼女の美しい聡明な生き方への敬意と愛情であった。


結局、奈良未のドリブルに無邪気な音がそれ以上増えることはなかった。
一瞬の隙をついてコービー王子を抜き去った奈良未は華麗にレイアップシュートを決め、
息を切らしながら振り返ってコービー王子をまっすぐに見つめていた。


「やっと、攻めてくれたな」

コービー王子は嬉しそうに微笑みを奈良未へ投げた。

「君がゲッペリー王国に来てくれた理由は、
 それは君だけが知っていればいいことだ。
 誰にも言う必要はない」

コービー王子は少し寂しそうにそう言った。

「ここから帰るも、そしてしばらくしたらまた来るも、それは君の自由だ。
 だが、君がどこでどうしていようと、僕はずっと君の人生を応援しているよ」

奈良未は息を切らしながらずっとコービー王子を見つめていた。

「もう立ち止まるなよ、そして振り返るな。
 必要以上に傷つくことを恐れなくてもいいんだ。
 君はきっと、何かがあったからゲッペリー王国へ来た。
 だったらもう、後戻りできないことは君自身がよくわかってるはずだ」

コービー王子はゴールを通過したまま転がっていたボールを拾った。

「人生とは暗闇の向こうに恐る恐る手を伸ばし続けるようなものだな。
 誰もがみんな同じことを経験しているはずなのに、
 自分の人生に置き換えてみるとこれほど恐ろしいことはない」

コービー王子はボールを「ダムダム」と地面に突いた。

「生きるとは勇気、出口があると信じて踏み出す行為だ。
 ドアを開ければ絶対に光が待っているなんて僕は言わないよ。
 だけど、僕はどんな結果になっても君をずっと応援している」

コービー王子はボールをシュッと奈良未に向かって投げた。
奈良未は両手を出してボールを受け止めた。

「・・・相変わらず大げさなセリフね・・・」

奈良未はそう呟いて飛行機の方へ歩き出した。
コービー王子は奈良未の乗った飛行機が飛び立つ最後まで見送っていた。


・・・

奈良未は部屋の掃除をしていた。

ゲッペリー王国から児玉坂にある自宅へ帰国した翌朝、
ベッドで目を覚ました奈良未は天気が快晴であることを知り、
すぐに窓を全開にして部屋の空気の入れ替えを始めた。

天気がコロコロと変わらない日本の良さを改めて感じ、
奈良未は部屋の大掃除を始めることに決めた。
クローゼットの整理、網戸の掃除、カーテンの洗濯まで、
割と大掛かりなところまで一気に取り組むことにした。


奈良未は部屋が片付いていく度に小さな幸福感で満たされていった。
自身の心の余裕は、その部屋の綺麗さに比例している気がすると考えていたのだ。

気持ちが乗ってきた奈良未は、そのまま玄関を掃除して靴も磨いた。
台所とお風呂を除菌して、これでほとんど完璧になったのではないかと少し惚れ惚れした。


掃除が済んだ後、奈良未は自転車に乗って街へ出かけた。
郵便局に立ち寄った時、手紙を郵送する手続きをして微笑んでいる看護師を見かけた。
そういえば自分も、また暇を見つけて病院へ定期検診に行かなければと思った。

その後、奈良未は支払い期日の来たものをすべて順序よく効率よく済ませてスッキリし、
本屋で新しい雑誌と、カフェで熱いコーヒーを買って帰宅した。

澄み切った空気で健康的な気分を取り戻した奈良未は、
ソファーに座って買って来たコーヒーを飲みながら雑誌を読んだ。

そして暖かい日光と風が柔らかく奈良未の頬を撫でていき、
こういう小さな幸せと達成感を噛みしめることこそが、
自分にとっての心地よい人生だと切実に感じた。


その日の夜、TV番組を見て久しぶりに声をあげて笑った後、
その面白さをどうしても伝えたくなって仲の良い友人にメールをし、
早々に返事をくれた友人のありがたさに感謝した。
そして、自分ももう少しちゃんと友人のメールに返信をしようと思った。

ふと、友人から借りっぱなしでまだ見ていないDVDがあることを思い出した。
早く観てから返さないといけない義務感に葛藤を覚えたものの、
結局、また仲の良い友人の優しさに甘えさせてもらおうと思って無理して観るのは止めた。

そして部屋を見回していると、コービー王子から受け取ったバスケットボールが目に止まった。
奈良未はソファーから身を起こしてそのボールを拾い上げておもむろに匂いを嗅いだ。
コービー王子の匂いが彼女の嗅覚を刺激して、
あのゲッペリー王国での懐かしい記憶が全身に蘇ってきた。


あの時、コービー王子はわざと負けたのだ。

そもそも、初めから奈良未を帰さないなんてつもりはなかったのだ。
ただお節介に彼女を挑発して、彼女の中にある泉を探そうとして。


「・・・お節介だけど、ありがたいのかもしれないわね・・・」

ボールを元の位置に戻し、奈良未はベッドの上にごろりと横になった。

(現実は小説よりも奇なりや?それとも小説は現実よりも奇なりや?)

枕を見つめて「私は夢なんて見ないけれど」と小さく呟いた。

そして、ふと今日洗った枕カバーからすごく良い香りがすることに気がついた。
おそらく柔軟剤の配分が最高にうまくいったのだろうなと思った。

奈良未は幸福そうに枕に顔をうずめ、
あの国で弾んだ「ダムダム」という音を思い出し、一人でニヤニヤと笑った。


ー終幕ー



その国の出口 ー自惚れのあとがきー



この主人公を選ぶのは勇気が必要だった。

正直、書き終えた今でも奈良未の事はまだよくわからない。
筆者に似ている部分がありながら、全く異なる部分もある。
わかるようでわからない奈良未というキャラクターに対し、
真っ向から勝負を挑んだのがこの5作目の作品だった。

「あの日私は咄嗟に嘘をついた」くらいから傾向が見られるのだが、
筆者はこの頃、キャラクターを深堀する事に凝っていた。
「Gute Reize」までは楽曲を中心とした音楽モノを書いていた事もあり、
劇中に歌詞を登場させる事も多かったのだけれど、
以後は歌詞の意味になぞらえるよりは登場人物が持つテーマに合わせて書くようになっていった。

奈良未は難しいキャラクターだったけれど、
敢えてそれを取り上げる事が筆者なりの挑戦だった。

そして「Gute Reize」くらいから似た傾向にあるのは、
そのキャラが最もしなさそうな事をさせたら面白いのではないかという試みだった。
奈良未の場合、かなりの現実主義者だという事が判明したために、
筆者の嫌がらせにあってファンタジー世界へ飛ばされたのである。
また、そうでもしないとこのキャラクターは強いので困難にぶつからない。
それは物語として面白くならない事を意味してしまう。


さて、結局ゲッペリー王国は何かの類似世界である。
だから後半部分からは黎菜が問いかけたように「なぜこの世界へ来たか」が物語の焦点になる。
これは結局のところ、筆者にとっても謎であり、一番知りたい部分であった。
だからコービー王子を立ちはだからせて、その問いへ立ち向かわせたのである。


この物語は実は読者にとっての物語というよりは、
筆者である自分の為の作品である傾向が強い。
正直なところ、コービー王子とのワンオンワンの箇所では、
最後の結末を考えずにインスピレーションに任せながら書いていった。
さながらこれは音楽で言うとジャズのような作品なのである。
おおよそのコード進行だけは決めながら、細かな音選びは全くと言っていいほど決めていなかった。
アドリブソロに任せながら、その着地するところが結末だというくらい割り切って書いていた。


だから、本当はもっと劇的な結末を期待したのだったが、
最終的にはあのように奈良未に全てをさらけ出してもらうことは不可能だった。
しかし、これこそが最もリアルな結末だと筆者は考えている。
奈良未は徹底的にガードの固い人間であり、筆者程度では本音がわかるはずもないのである。


ただ、彼女がバスケットボールをしている時に見せる奇妙な情熱は、
筆者が最も彼女に対して気になった部分でもあり、とても好きな部分でもあった。
それをもっと引き出す事が出来れば面白いとも思うのだが、それは不成功に終わった。
この物語は徹底的に不完全なのだけれど、筆者はそれを完成だと捉えた。
読者からすれば何とも言えない奇妙な結末かもしれないのだけれど、
筆者にとってかなり実験的な挑戦だったという事を汲み取ってもらえるとありがたい。
奈良未を書きたくて、結末が見えないにも関わらず着手してしまったのだから。


余談だが、最後に児玉坂に戻って来た際、郵便局で手紙を郵送する看護師とすれ違う。
これは、この物語が「私のために誰かのために」の世界とつながっている事を暗示している。
奈良未はあの物語の中に登場するわけではないものの、
音楽好きな奈良未があのレイナのライブを見に行っている可能性は十分に考えられるのである。


(追記)

本作は2015年6月、筆者が日本に帰国する前に書いた作品である。
当時の情報源は海外であったために非常に限られていたし、
帰国後に様々なメディアに目を通すうちに、少しばかり修正したい気持ちも生まれてきた。
しかし、今更手を加えると全体の雰囲気を壊してしまう恐れもあるし、
当時の不満足な点も含めて、これはこれで納得しようと思った。

結局のところ、少しばかり修正したところで奈良未のことがもっとよくわかるわけでもないし、
本質的な内容と解釈は、自分の中でここから変わることはないと思われたからだ。

奈良未を理解することと表現することは難しかったし、
もしかすると的外れな表現に終わっているかもしれない。
だが、結局これは小説でありフィクションなのだから、
これはこれで筆者としては満足である。


ー終わりー