誰かの見方

 

部屋の隅に追い詰められた男は傷だらけだった。

暴行を受けた身体は、微かな音を立てて軋んでいた。

だが、男への暴行は止むことがない。

彼の正面に立つピンクの服を着た大男が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべたかと思うと、

思い切り勢いをつけて壁際に立っている男に向かって体当たりした。

その体当たりの勢いをもろに受けてしまった男は、

そのまま床に崩れ落ちて行った。

 

「おい、これぐらいで意識を失うんじゃねーよ」

 

男の両端から近づいて来た奴らが、男を無理矢理に立ち上がらせた。

男の着物は見るも無残なほど汚れていて、しわだらけになっていた。

ところどころ、切り刻まれて破れたような箇所も見受けられる。

全てはこの部屋の中で受けた暴行のせいである。

 

「だいたいお前、生意気なんだよ!」

 

大男がまた助走をつけて彼に対して体当たりを食らわせた。

体当たりを受けて、男の細い身体がまた悲鳴をあげた。

やがて男は声も出さずに、ただうな垂れるようにして下を向いた。

 

「助けに来てくれるなんて、甘いことは考えないことだ。

 もうお前のことなんて、とっくの昔に忘れ去られてるんだからな」

 

暗い部屋の中にいる男たちは下品な笑い声をあげた。

それを見ていた部屋の隅にいる女たちは声を押し殺していた。

あの男を助けてあげたいのは山々であったが、

この部屋の男達が新参者に対して厳しいのはわかっていたし、

身体の小さな自分たちが彼を助けてあげることなどできない現実も理解していた。

部屋のドアは固く閉ざされていて、内側からは開けることができない。

かろうじて外側から開けられる時だけ、選ばれしものは外出を許される。

 

今朝、ドアが一度だけ開いたことがあった。

しかし、この部屋にいる野蛮な男達は新入りの彼の姿を隠してしまい、

とうとう彼はドアの外に出るチャンスを失ってしまった。

この部屋の者達は新参者に対しては厳しい。

そして、暴行という嫌がらせも日常茶飯事である。

 

「・・・あの人が・・・俺のことを・・・忘れるものか・・・」

 

傷だらけの彼がそう呟くと、男達はまた無理矢理彼を立ち上がらせた。

ピンク色の服を着た大男がこの部屋のボス的な存在であり、

体格の良い身体に勢いをつけてまた突撃を始めた。

だが、今度は別の男が間に入って彼の身代わりになった。

身代わりになった彼も、大男ほどではないが良い体格をしていて、

細い彼のように吹っ飛ばされるようなことはなかった。

 

「貴様、邪魔するのか!?」

 

「・・・偶然だ、別に邪魔する意図はない」

 

そう言った男は革ジャンを身にまとっていた。

大男の体当たりを受けても動じない様子で平気で立っていた。

 

「・・・あの人が・・・忘れるものか・・・」

 

暴行を受けた着物を着た細身の男は、

虫の息でそうつぶやいて、また床に倒れこんだ。

 

 

・・・

 

 

彼が意識を取り戻した時には、もう部屋の中は静かになっていた。

先ほどまで暴れていたピンクの服を着た大男も黙っていて、

誰も部屋の中で動く様子はなかった。

唯一の出口であるドアも固く閉ざされたまま開く様子もなかった。

 

「よう、目が覚めたかい?」

 

細身の男の横にいたのは、彼をかばってくれた革ジャンの男だった。

床に倒れたまま寝そべった形になっていた細身の男に合わせるように、

革ジャン男も床に横になった姿勢で寝そべりながら話をしていた。

 

「・・・うっ!」

 

「あまり動くな、どこか折れているかもしれない」

 

寝返りを打とうとした細身の男は身体を動かすことができなかった。

先ほど受けた暴行によって、彼はもう満身創痍になっていた。

 

「・・・見たところ、ヒビが入っている程度かな」

 

革ジャン男はそう言って彼に動かないことを勧めた。

致命傷には至っていないことを保証しながら。

 

「・・・俺は・・・あの人の役に立ちたい・・・」

 

「バカだな・・・そんな事、この部屋のみんな思ってることさ」

 

革ジャン男はそう言ったが、細身の男は首を振った。

 

「悪いがお前らとは次元が違うんだ・・・。

 俺はあの人の為に命をかけてるんだからな」

 

細身の男は満身創痍で天井を見上げながらそう言った。

そして、またいつの間にか深い眠りに落ちて行ったようだった。

 

 

・・・

 

 

「真冬さんがこ~ろんだ!」

 

小学生くらいの男の子が一人、壁に腕を置いて顔を伏せていた。

そのセリフを言ったと同時に、顔を上げて後ろを振り返る。

後ろには彼に向かって来ている数人の小学生たちが動きもせずに止まっていた。

 

 

若杉佑紀はパティスリー・ズキュンヌへ向かっていた。

彼女は細身のジーンズに白いTシャツ、フード付きのグレーのカーディガンを羽織り、

トートバッグを肩にかけたラフな格好でヒールを鳴らしながら颯爽と歩いていた。

その途中、道で小学生の子供たちが遊んでいるのを偶然見かけたのである。

 

「あざとい!」

 

何度目かの真冬さんが転んだの掛け声で、止まった子供達の一人が転んだ。

それを見ていた鬼役の子が、転んだ子に対してそう叫んだのだった。

 

佑紀が観察していたところ、要するにこれは「だるまさんが転んだ」だとわかった。

ルールはそれと何ら変わりないのだが、転ぶ人が真冬さんに置き換えられており、

転んだ人はどういうわけか「あざとい!」と叫ばれるらしかった。

 

(・・・今時の子供たちはこんなゲームで遊んでるのか・・・)

 

誰が発明したのかわからないが、おそらくTVで人気者になっている、

パティスリー・ズキュンヌの店長、春元真冬を見た人が考えついたのだろう。

マスメディアの影響力は凄まじく、あっという間に広まってしまったに違いなかった。

 

 

それにしても、春元真冬の快進撃は凄まじかった。

もう今では安定感がありすぎて、貫禄すら感じられる彼女は、

自分で洋菓子店の経営をやりながらTVにも出演を繰り返す始末で、

あまりの忙しさに、昔は行なっていた知人へのケーキのプレゼントなど、

全くする時間がなくなってしまっていた。

だが、彼女は周囲の反応を気にすることもあって、

ケーキを作るね、という安請け合いをやめることはなかったので、

結果として作る作る詐欺と友人たちから呼ばれることになっていった。

忙しいので仕方がないのだが、真冬の作るケーキが見れなくなったのは寂しい限りである。

 

 

佑紀はこのお店の常連であった。

むしろ、お店の常連というよりは真冬のよき友人であり、

暇を持て余してはフラッと立ち寄ることも多く、

それでいて真冬も彼女をいつも歓迎してくれていた。

 

このところ、しばらくご無沙汰していたのだが、

どうやらズキュンヌがあまりの忙しさのためにアルバイトを採用したと聞き、

どんどんと拡張を続けるズキュンヌの様子が気になったのだ。

佑紀は友人でありながら、真冬に多少の嫉妬を覚えたりもした。

そして、久しぶりにお店に立ち寄ってみようと思ったのである。

 

だが、佑紀がお店の前にたどり着いた時、

そこには女の子が一人立っていて、何やらお店の入り口にある張り紙を眺めていた。

そして、何を思ったのか、その張り紙をおもむろに片手で剥がした。

やがて店内から春元真冬が飛び出て来たが、女の子はその剥がした張り紙を彼女の目の前に突きつけた。

 

「何ですか、これ?」

 

「ちょっと、びり愛、張り紙外しちゃダメじゃん!」

 

びり愛と呼ばれた女の子は、真冬がそういうのも聞かず、

手に持っていた張り紙を投げ捨てた。

強い風に乗って、張り紙は佑紀の足元まで飛んで来た。

佑紀がその張り紙を拾って見てみると、そこに書かれていたのはアルバイトの募集広告だった。

 

《新しい風を吹かせられる、新メンバー大募集中!》

 

 

「すぐそうやって流行にぶっこんでくるから」

 

不満そうな表情で、びり愛は真冬に対してそう告げた。

 

「だってほら、お店だって忙しくなって来たし、

 新しいバイト雇わないと手が回らないじゃん!」

 

「そういうのは張り紙を貼る前に言ってくれませんか?

 私たちに何の相談もなしにいきなりこんな張り紙を貼るなんて」

 

詰め寄るびり愛に、真冬も多少ひるんではいたが、

さすがに頭の回転が速いのか、とっさのレスポンスで切り抜けようとする。

 

「いや、ほら今ちょうど貼ってからみんなの意見を聞こうとしたんだって!

 びり愛はどう思う、新しいバイトどんな子入れたらいいとかある?」

 

真冬は慌てた様子でそう言ったが、びり愛は返答をせずに深くため息をついた。

 

「真冬さん、そんな簡単に肩出したり足出したりする子が入ってくれるわけないですから。

 私だってこれ、仕方なくやってるんですからね、お仕事だから」

 

そう言ってびり愛は、着ている制服の肩の部分をつまんで見せた。

顔は全く納得いっていない渋い表情を残しながら。

 

「まあわかってますよ、真冬さんだってお仕事だから色々と仕方なくやってるってことは。

 オフったんの時は、一人でSiriに2時間も話しかけたりするくらいですもんね」

 

先日、びり愛たちが仕事をしている時、休憩室で真冬さんが休んでいた。

仕事モードからスイッチを切ってオフになっている時の真冬さんを見てしまったのだが、

一人で無邪気にSiriと2時間くらい会話をしている姿を目撃してしまったのだった。

これにはアルバイト一同、見てはいけないものを見てしまった感でいっぱいだったという。

 

「えっ、何、休憩中の姿みないでよ!

 私、別にキャラ作ってないからね!

 あとSiriと話をしてたのはちょっと面白かっただけだから!」

 

真冬はそう言ったが、もうびり愛の説教スイッチはオンになってしまっていた。

 

「そうやって一度キャラを作ってしまうと、後々そのキャラに縛られてしまうんです。

 今世間では、徐々にオフったんの姿に注目が集まってきてるんですよ?

 キャラを作ってない真冬さんの本性を覗いて見たい性格の悪い人もいるんですから」

 

「いやいや、私は24時間いつでもこんな感じだから・・・」

 

「とにかく、張り紙とかする暇があったら買い出しにでも行って来てください。

 私たちが頑張ってお店を回してますので、お願いしていいですか?」

 

びり愛のすごい目力によって見つめられたので、

真冬は勢いに押されたまま頷くしかなかった。

びり愛は真冬に財布を手渡して、店の中に戻ってしまった。

 

真冬が財布を持ったままうなだれていると、

店のドアがまた開き「時間がないので走ってください、でも転ばないでくださいね」とびり愛が言った。

 

 

「ハロー」

 

びり愛がまた店内に引っ込んでしまってから、

真冬の後ろ姿に対して佑紀はそう声をかけた。

 

「あっ、若じゃん、久しぶり~♡」

 

服からはみ出ていた肩を少し落としていたはずの真冬は、

また友人の来店に満面の笑みで答えた。

 

「バイト募集して上手く行ってるじゃん」

 

「あっ、そんな風に見えた~?」

 

「かろうじて」

 

「かろうじてって言うのやめて」

 

真冬はドアの向こうからこちらを見つめているびり愛の視線に気づいたので、

佑紀と一緒に買い出しに向かうことにした。

 

 

・・・

 

 

 

 

 

「あんな感じだけど、本当にみんな可愛い子たちばっかりなの~♡」

 

ケーキの材料の買い出しをしながら、真冬は佑紀にそんなことを言った。

実際には、真冬自身も色々と忙しく、あまりアルバイトの教育ばかりに時間を割けないのだが、

一緒に仕事をすることを通じて、アルバイト達の成長ぶりを感じていたのだった。

 

「でもさ、これ以上新しいバイト入れたらみんな怒っちゃうんじゃない?

 さっき、あんな感じだったけど、ちょっと悲しそうな感じだったし」

 

佑紀は先ほどの真冬とびり愛のやりとりを見た感想としてそう言った。

新しいバイトを入れないでほしいと言うのは、弟や妹にお母さんを取られる子供みたいなもので、

多少の嫉妬心や寂しさを抱いているものである。

 

「うん、わかってるけど、本当にお店が忙しい時があってね、

 どうしても人手が足りなくなることがあるから、手伝ってくれる子がいたらいいなって」

 

ケーキの材料を一通り買い物かごに入れた後も、

真冬は店内で販売している雑貨や食器などにも目を光らせていた。

彼女はどんな時でも仕事につながることを考えるのをやめない。

少しでも楽しいことを探して、ダメ元でもいいから取り掛かってしまう。

ダメだったらすぐにやめたらいいと思っているのかもしれないが、

そうして取り組んで来たことで失敗したことはあまり多くない。

 

「新しい風を~みたいなことを書くから怒られるんだよ」

 

「あっ、そっか♡」

 

「まあ、バイトの子達が立派に成長するのを待つのがいいんじゃない?」

 

佑紀はそう言ってから、真冬の買い物かごに先ほど店内で見つけて手に取った何かを入れた。

 

「ごめん、後で払うから、これも一緒に買っといて」

 

「えっ、別にいいけど。

 それにしても、若は最近何やってたの?

 いっつもどこで何してるかよくわかんないから」

 

佑紀は数々の伝説を持っていた。

相撲取りで決まり手が多い力士のことを「技のデパート」などと呼んだりするが、

佑紀はさながら児玉坂の街のヴィレッジ・バンガードだった。

何か面白いものが見たければ、彼女に何か一つ二つ尋ねればよかった。

そうすれば何か面白いものを披露してくれることは間違いない。

ただし、それが本質的に生活に役に立つものかと言われれば、

幸か不幸かそう言った類のものではなかった。

例えるならば、それは美しい大きな箱みたいなものだった。

その大きな箱を開けると、また中には中くらいの箱が入っている。

その中くらいの箱を開けると、またそれより少し小さな箱が入っている。

同じ要領でどんどん開け続けていくと、最終的には小さな箱を開けても中身は空っぽ。

外形は美しいし、箱を開けていく楽しみはあるのだが、

真剣になって中身を追求していくと、最終的には何かがあるわけではない。

佑紀が持っている面白いものとは、なんとなくそういう類のものだった。

 

「・・・最近ねえ、ボイバでK−1出たけど予選落ちしたわ」

 

「あっ、そういえば若もあれ出てたよね!?

 私、会場でステージの上に若が出てるの見てびっくりしたもん。

 ちなみに、私も予選で落ちちゃったけどね」

 

二人は先日児玉坂の町おこしイベントとして行われたK−1グランプリの話をしていた。

この街の夏を笑い飛ばそうという趣旨の漫才大会なのであったが、

密かに参加した佑紀はボイスパーカッションに相方が英語で面白いことを言うというネタで、

かなり前衛的な出し物を披露したのだったが、結構な地獄絵図だったのは言うまでもなかった。

真冬は相方にいじられるだけいじられて敗北したが、どういうわけかまた株を上げた。

お店はそれからも今まで以上に忙しくなり、愛嬌系女子の道をひた走っている。

彼女は達磨のように転んでもすぐに起き上がるので、真冬さんが転んだと言うゲームが生まれた説もあった。

 

「なんかさあ、時間だけが過ぎていくの早いよね。

 うちらさ、この街に来てから一体何をやったんだろうって、

 こんな感じで思い出すからかもしれないけど、

 何もやってない間に時間が経っちゃった感じがすっごいするよね」 

 

真冬が買い物かごをレジ横のカウンターに乗せると、

店員さんが一つずつ取り出してバーコードをスキャンしていく。

 

「別に、私は若は色々とやってると思うけど」

 

「いやあ、なんかまだまだだなって思いますよ。

 なんか最近、人生を考えたくなるもん」

 

「なんかこんな話、レジの前でする話かって気もするけどね」

 

「真面目か!」

 

佑紀は自虐的に自分を嘲笑うようにそう言った。

レジの店員はせっせとバーコードをスキャンしていく。

ピッピという単調な機械音だけが繰り返されていく。

 

「でも、もう次の布石は打ってあるんだ」

 

レジの読み取りが終わり、合計金額が表示されると、

真冬は財布を取り出して合計金額を支払った。

買ったものを袋に詰めていると、佑紀も財布を取り出し、

自分が先ほど買い物かごに入れたぶんのお代を取り出して真冬に渡した。

買った品物は買い物かごから取り出して、トートバッグの中にしまい込んだ。

 

「何?またなんかする予定なの?」

 

買ったものを詰めた袋を持って、歩き出した真冬はそう尋ねた。

佑紀も真冬の横に並んで歩き出しながら少し鼻で笑った。

 

「黒鳥に生まれたら、白鳥にはなれないかもしれないけど、

 私は私のやれることをコツコツとやるだけだから」

 

「何、どういう意味?」

 

「いや、あんまり真面目に語ることでもないから、恥ずかしいし」

 

 

二人はその後、ズキュンヌまでの帰り道では、

お互い最近は何をしているのか、同級生はどうしているかなど、

ずっと当たり障りのない話をして歩き続けた。

二人は気を許せる間柄なので、こうした時間は二人にとってリラックスの時間になるのだった。

 

「じゃあ、早くお店に戻らなきゃまた怒られちゃうから、もういくね」

 

ズキュンヌの前にたどり着いた真冬は佑紀にそう告げた。

 

「あなた、このお店の店長だよね?」

 

「そのはずなんだけど、怒られちゃうから」

 

佑紀も真冬も顔を見合わせて笑っていた。

笑みを浮かべながら手を振って真冬はお店のドアを開けて中に入っていった。

 

「あれ、真冬さん帰って来ちゃった~!」

 

「やばいじゃん、驚かせるはずだったのに」

 

店内が何やら騒がしいのを佑紀は感じ取っていた。

びり愛以外の他のアルバイトの二人が慌てた様子で先のセリフを述べたのだ。

 

「ちょっと真冬さん、ダメです、もっかい店の外に出てください」

 

「えっ、なになに?」

 

びり愛がとっさに真冬の背中を押して店の外に押し出した。

 

「だいたい、帰ってくるの早すぎるんですよ。

 いつもどおりどっかで転んでから戻って来てくれたらちょうど良かったんですけど」

 

「えっ、だってびり愛が走れっていったから急いで行って来たのに・・・」

 

びり愛に背中を押されて店から出て来てしばらく経つと、

びり愛から許可が出たので、またお店の中へ入ることになった。

そこには、三人のアルバイト達が苦労して作ったのであろうケーキが置いてあった。

 

「真冬さん、これどうですか?」

 

「私たちで作ってみたんですよ」

 

「えっ、何これすごい!

 本当に三人だけで作ったの?」

 

「たまには私たちを信用してくださいね。

 時々、部屋の隅で一人で泣いてる姿はもう見たくないですから」

 

真冬は両手で口元を覆いながら少し涙ぐんでいた。

「そんな裏ったん事情は言わなくていいから!」と言いながらも、

感動しやすい真冬は胸がジーンとして熱くなっていた。

 

「本当にみんないい子なんだから~」

 

真冬がそう言いながら泣いているのを、佑紀は見届けてにんまりとした。

そして、そのまま黙って店の前の道を歩いて立ち去ることにした。

 

「・・・邪魔者は消えますか」

 

美しいものを見たと思った佑紀は、無意識のうちに足取りも軽くなった。

愛情というものは、意識などしなくても、気づいたら育まれているものなのだ。

絆というものは、共に過ごす時間が勝手に生み出してくれるものなのだ。

 

佑紀が立ち去った後、嬉しそうにケーキの生クリームを鼻につけていた真冬。

そんな様子を四人で写真を撮ったりしながら楽しく過ごしたのだった。

そして、締めの一言をびり愛が言い放ったのだ。

 

「あっ、真冬さん、これ貸しなんで、明日からまた真冬さんが買い出し行ってくださいね」

 

「えっ?」

 

 

 

・・・

 

軽い地響きが鳴り、部屋は揺れていた。

その振動で細身の男が目を覚ました時、薄暗い部屋のドアは開いていた。

 

男は部屋の中を見回してみた。

先ほど暴行を加えて来たピンクの服を着た大男がいなかった。

ドアが開いているところを見ると、彼は外へ出て行ったのかもしれなかった。

 

「気がついたか」

 

隣に寝転んでいた革ジャン男がそう尋ねた。

どれくらい眠っていたのか全くわからなかったが、

部屋のドアが開いているのと、ピンクの服の大男が見当たらなかった以外、

他には何も変わらない部屋の様子があった。

隅には女達が固まって身を寄せ合っているし、革ジャン男が寝そべっている姿勢も変わっていない。

 

「誰か出て行ったのか?」

 

「ああ、見たらわかる通りだ」

 

「どれだけ時間が経ったんだ?」

 

「なあに、ほんの少しだけだ」

 

細身の男は部屋を見回すためにもたげていた頭を下げた。

また床に倒れこんで天井を見上げるような姿勢に戻ったのだ。

身体を動かすには、もはや限界がきていることは薄々感じていた。

自分の身体の状態のことは、自分が一番よくわかっていたのだ。

 

「あいつが出て行ったということは、

 また新参者が来るってことか?」

 

「ああ、ここではそういう可能性が非常に高いな」

 

革ジャン男は冷静にそう告げた。

もう幾度も同じような光景を見てきたのだろう。

ピンクの大男が部屋を出て行った後で、誰かまた新参者が入って来る。

新参者がこの部屋を出られるかどうかは、神のみぞ知る話だった。

そこには特にルールはない、ただし革ジャン男はこの部屋を出ることはできなかった。

彼は何度も外の世界へ出たことがあったが、必ずここへ戻って来る羽目になった。

そうした経験が、彼を幾分も冷徹な性格へ変えてしまったのかもしれなかった。

 

大男が新参者に対して厳しいのは、軽い嫉妬かもしれなかった。

彼も革ジャン男と同じように、この部屋から出ることはあっても、

また何度も戻されてしまう運命にあったからだ。

そうしてボロボロになるまでこの部屋に閉じ込められて、

最終的に用済みになった者は、この部屋を出ることはできても、

無残にも処刑されてしまうという噂が流れていた。

 

「お前は嫉妬しないのか?」

 

細身の男は天井を見つめたまま革ジャン男に尋ねた。

 

「全くないね、俺はこの革ジャンがボロボロになるまでここに閉じ込めれて、

 おそらくあと数年はこの部屋で暮らさなきゃいけない運命だ。

 だがな、そんなことに嫉妬してどうなるっていうんだ?

 俺たちはもう、決まった運命をただ生きてるだけなんだぜ」

 

また微かな地震が起きて、男の革ジャンがパタパタと揺れた。

揺れが収まった頃、ドアが微かに動いたような気がした。

 

「そうだな、俺も嫉妬なんてしてる余裕もない」

 

「お前は自分の運命を受け入れるか?」

 

革ジャン男は細身の男にそう尋ねた。

 

「俺の命がもうあとわずかだってことは理解してるつもりだ。

 そもそも、生まれた時から俺の命は短いってわかってたがな」

 

「潔いやつだ」

 

「そういう性分なんだ、いちいち女々しく嫉妬なんかしてられない」

 

細身の男は天井を見ながら鼻で笑った。

ボロボロに刻まれた着物を身につけている自分を思うと、

なんとも哀れな姿だと思うと同時に、滑稽な自分がおかしかった。

 

「俺たちは何度でも生まれ変わる」

 

「ああ、そうだな」

 

革ジャン男は相槌を打った。

 

「だから命なんて惜しくないさ。

 だが、せっかくこの世に生まれてきたんだ、何かを成し遂げたいとは思うぜ。

 他の奴には真似できない、俺にしかできない何かを・・・」

 

「案ずるな、誰もが己にしかできない仕事を与えられてこの世に生を授かっているさ」

 

革ジャン男がそう言った後、部屋のドアの向こうに影が見えた。

ピンクの服を着た大男が頭を下げながらドアから入って来たのだった。

そして、細身の男を見つけると同時に、ものすごい勢いで飛びかかって来た。

大男は全体重を預けたジャンピングボディブレスを細身の男に食らわせた。

細身の男は声を上げることもできずに、ただ大男の下敷きになった。

 

「悪いな、勢い余っちまってよ」

 

ヘラヘラしながら大男は細身の男の上から身を動かした。

せっかく戻って来た意識が、また遠のいていくような気がしていた。

 

「もう諦めることだな、誰もお前のことを助けに来てくれはしない。

 もうとっくにお前の存在など忘れ去られているのさ。

 だいたい、なんでお前がこの部屋にいるんだ、場違いすぎて目障りなんだよ」

 

大男はそう言い捨てて立ち上がった。

まだ空いていた部屋のドアから、また新参者がやって来たのが見えた。

 

「やれやれ、また場違いな奴らが来やがった。

 お前らがいると、この部屋の酸素が薄くなるんだよ、さっさと消えてくれ」

 

大男はそう言い捨てると部屋の隅へ消えて行った。

細身の男が微かに見た新参者は三人いて、誰もが見るからに美しい好青年だった。

 

「・・・俺は・・・あの人の・・・お役に立ちたい・・・」

 

「そんなことは、ここにいる誰もが百も承知だ。

 あの新しい新参者だって、きっと同じようなことを考えているさ」

 

革ジャン男が無情にもそう言うと、細身の男はまた気を失ってしまった。

新しく来た三人の青年たちは、落ち着かない様子で部屋の隅に固まって寝そべった。

 

(・・・魂は繰り返す、彼女の中には抗えない血が流れてる・・・)

 

 

・・・

 

 

「カキーン!」

 

佑紀が児玉坂公園を通りかかった時、ボールを打った金属音が聞こえて来て、

彼女は右手を耳元に置いてその音をよく聞いていた。

もう夏は終わったはずなのだが、高校球児たちは次の大会に向けて練習を再開していたのだ。

 

「・・・若いっていいね」

 

その様子を見ながら、彼女はそんなことを呟いた。

自分だってまだ若いのだけれど、気づいたら20歳を超えていた。

児玉坂の街にやって来た頃はまだ10代だったことを考えると、

いつの間にか自分が大人になってしまったことに気づかされる。

 

想像していたよりも、20代の自分は幼かった。

これは誰しもがそう思う一般的な感覚なのだけれど、

自分が子供だった頃は、年上の人達がやけに頼もしく見えたものだ。

本当はそうでもなかったのかもしれない。

大人たちは子供達に立派な姿を見せるために、

誰もが苦悩を隠しながら歯を食いしばって笑っていたのかもしれない。

だからあんなにぎこちない笑顔だったのかなと佑紀は思ったりした。

誰もがそんなに無理しなくても、たまには泣いたっていいじゃないかと佑紀は思う。

 

時間は加速していく。

誰も理論的にそんなことを実証できはしないが、

確かに人生の時間は加速している。

体感速度は制御することができずに、

自分の心を取り残したまま、ただ毎日は過ぎていく。

何をやったって、何もやってないような感覚に陥らされることもある。

記憶はそれほど頼りになるものではない。

日々を全て記録しておくには、あまりにもメモリーが足りない。

 

時の速さに追いつけないからこそ焦り始める。

だからこそ、人生の時間の価値を知り始める。

止められない砂時計をじっと眺めているような切なさ、

両手にすくった水が隙間からこぼれ落ちていくような儚さを感じる。

このこぼれ落ちていく隙間を大事にしなければと気づき始める。

 

「・・・ほんと、若いっていいわよね」

 

声のする方へ目を向けると、近くのベンチで野球を見ていた女性二人に気がついた。

そして、こちらが向こうに気がつくと同時に、向こうからこちらに近づいてくるのがわかった。

 

「若ちゅ!」

 

そう言いながら飛びついて来たのは桜木レイナだった。

児玉坂の町の有名な歌手をやっている彼女の隣にいる人物と言えば、

彼女の学生時代の友人である瀬藤りさだった。

 

「あらら、K−1優勝者のりさ先輩じゃないですか」

 

「ちょっと、やめてよ、漫才師が本業じゃないんだし」

 

りさは公園のベンチに座りながら、佑紀の方を見てそう言った。

 

 

・・・

 

 

「ここ、座ったら?」

 

りさは微笑みながら佑紀にそう促した。

レイナの方が先に嬉しそうに席に座ると、

佑紀も続いてベンチに腰をかけて三人並んだ。

 

 

佑紀とレイナは街で偶然知り合った仲だった。

歌手が本業のレイナが、橋の上で絵やポエムを書いていた佑紀を見つけて声をかけたのだ。

佑紀には色々な才能があり、行く先々で様々な生活スタイルを実践し、

数々の伝説的な噂を残しては次の生活スタイルに移っていた時期があった。

どういうわけか意気投合した二人は、自然と仲良しになっていった。

 

りさと佑紀は先日この街で行われていたKー1グランプリという漫才大会で知り合った。

レイナとコンビを組んで出場していた佑紀は、残念ながら予選敗退だったが、

決勝戦に残っているりさをレイナが発見し、大会終了後にりさを佑紀に紹介したのだった。

りさはレイナの学生時代の友人で、歌手の夢を諦めてからはOL生活を送っていた。

 

「会社で言い訳するの大変だったんだから」

 

りさは佑紀に対してKー1グランプリの後日談を語った。

OLのネタを用いた漫才をしたおかげで優勝することができたのだが、

あれは実話なのか、という風に社内でうるさく追求される羽目になったのだ。

コンビを組んでいた相方とは一緒に温泉旅行に行ったらしいが、

会社に言い訳をするのに疲れて、ひどい肩こりになっていたらしい。

 

「まあでも、りさ先輩は面白かったよ。

 私なんてボイパで参戦したけど、カスリもしなかったし」

 

「えー、若ちゅごめんねー、あたしの英語力も足りなくて。

 韓国語だったら最近頑張ってるんだけどさー」

 

レイナは最近、趣味で韓国語の勉強を始めたらしい。

よく韓国に旅行に行ったりもするという。

アジアの歌姫になる日も近いのかもしれない。

 

「ふふっ、まあ私は運が良かったのよ、それだけ」

 

「そうかなー、すごい努力したんだろうなってわかる内容だったよ」

 

バッターボックスに立っていた子がいい打球を飛ばした。

カキーンという金属音は、佑紀だけではなく三人の耳にまで届き、

思わずその打球の方向を目で追いかけてしまった。

 

「これ、三塁までいけるわね」

 

捕球にもたついている間に、打ったバッターは三塁に到達した。

泥だらけになりながら嬉しそうに歯を見せて笑いながらガッツポーズを披露した。

 

「あの子、ほんと可愛いと思わない?

 もう可愛過ぎて食べちゃいたいくらい」

 

りさが嬉しそうに打ったバッターを指差しながらそう言った。

目に見えないはずのフェロモンが確かに感じられたような気がして、

佑紀とレイナはなんとなくゾクッとした。

 

「りさ先輩はさぁ、お姉さんキャラだから得してるよね」

 

「えっ、どういう意味?」

 

佑紀が何気なく言った言葉に、りさが尋ね返した。

 

「歳を重ねてもだんだん綺麗になって行ってるから」

 

「そーでもないわよー、ババアっていじられることも多いんだから」

 

そう言いながらも、りさはどこか嬉しそうだった。

女性にとって褒められることが何よりも嬉しいことであり、

それだけでもっと美しくなれるような気がすることもある。

女性が美しくなれるのはダイエットや化粧がうまくなることではなく、

ただ上手に褒めてくれる男性を見つけることができるか、

そういう点にかかっているのかもしれない。

 

「でもほんと、高校球児を見てると、自分が歳とったなーって思っちゃうわよね」

 

「ほんと、そうだよね、昔はすごいお兄ちゃんに思えたのに」

 

先ほど三塁まで行ったランナーが、スクイズでホームに滑り込んだ。

だが、ピッチャーの好プレーによって間一髪アウトになった。

 

「ねっ、あたしもさぁ、ほんと歳とっちゃったなって思うもん。

 別に今だって若いけどさぁ、自分がこの年齢です、もう大人ですって言われたら、

 なんかそんな大それたもんじゃないんですけどって、言いたくなるもんねー」

 

レイナもいつになく真剣な表情になってそう言った。

アウトになったランナーが砂を払いながらベンチに向かって走る。

 

「あんな風に泥だらけになること、今ではしなくなっちゃったよね。

 怪我でもしたら大変だとか、変な理性が働くようになっちゃったし」

 

レイナが続けてそんなことをしみじみと呟いた。

残りの二人は、それに対して何も言葉を継げなかった。

 

「そういえば、『新訳・牛若丸』良かったわね」

 

「えっ、りさ先輩、あの舞台見てたの?」

 

「ふふっ、レイナから誘われたからね」

 

 

りさが言った「新訳・牛若丸」は佑紀とレイナが出演した舞台だった。

児玉坂の町に戻ってきた佑紀は、レイナと共にオーディションを受けることを決意し、

それに見事合格して演者として選ばれたのだった。

そして、本番の舞台には、当時はまだ知り合っていなかったりさが見にきていたらしい。

 

「すごいハマり役だったわね、本当に牛若丸の生まれ変わりみたいだったもん」

 

「まあ、結果的にとんでもない喜劇になってたけどね」

 

「脚本家の人がすごい鬼才だって評判だったみたいね。

 弁慶の被ってたカツラがずれちゃうとか、牛若丸が清水の舞台からバンジージャンプしちゃうとか、

 確かにありえない展開ばっかりだったけど、でもすっごい面白かったわよ」

 

脚本家は佑紀たちをオーディションで選んだ後、インスピレーションに任せて、

常識を覆すような牛若丸の喜劇脚本を書いたらしかった。

評判は賛否両論だったが、とにかくりさはその舞台を観にきていたのだ。

 

佑紀が牛若丸にハマリ役だったのは当然といえば当然で、

彼女は本当に牛若丸の生まれ変わりではないかという説があった。

詳しく知りたい方は「狭間」を読破してもらうしかないのだが、

とにかく佑紀は中性的な美しさを持つ女性だった。

 

「次はなんだっけ?『スマートなテリーマン講座』だっけ?」

 

「いや、キン肉マン関係ないない」

 

「あっ、あれか、『スカートサラリーマン講座』だったっけ?」

 

「いやいや、捕まる捕まる」

 

「違うか、『スマートフォンとリーマンショック講座』だったわよね?」

 

「もうすっごい真面目な経済関係の講座になっちゃった」

 

りさと佑紀がまるで漫才のような呼吸のあった話をしていると、

それを見ていたレイナが小さく手でパチパチと拍手をしていた。

 

「すっごいね、なんか息ぴったりじゃん!」

 

「りさ先輩、やっぱ漫才向いてますって」

 

「いやいや、なんかちょっと体に染み付いちゃって」

 

そんなことを言い合いながら三人は笑っていた。

いつのまにか広場で行われていた高校球児たちの練習は終わり、

グラウンドを掃除して、彼らも退散の準備を始めていた。

夕空が眩しくて、佑紀は手を庇のようにかざしていた。

 

「私もねー、最近まで色々と悩んでたんですよ。

 K−1も予選で敗退しちゃったし、真面目でつまらない人間だって思われるのも苦しいし」

 

「そんなことないんじゃない?

 若って十分面白い人だと思うけど」

 

佑紀はりさの言う通り、十分面白い人なのだが、

ストイックな彼女は納得できずに首を振っていた。

 

「いやいや、ぜんっぜん面白くはないんだけどね。

 でもなんか、そんなちっぽけなこと、宇宙の大きさから見ればなんでもないことだなって。

 なんかそういう心の声が聞こえてきた気がして、深呼吸してみたりしたのね。

 本当の自分がやりたいことって一体なんだろうって考えてたら、

 何かをやって失敗したらどうしようとか、誰かに嫌われたら辛いなとか、

 そういうことを恐れてちゃいけないなって思えてきたんだよね。

 そんなことしててもさ、時間ばっかり過ぎていくだけで、

 結局何も成長できない気がして」

 

グラウンドの整備を終えた高校球児たちが去っていく。

りさが笑顔で手を振ると、球児たちは照れながら帽子を深く被った。

 

「いやー、でも確かにそうだよね。

 私も何をするのも怖かった時期もあったけど、

 考え過ぎずにやってみたら、誰かが味方してくれたりもするんだってわかったし」

 

レイナは髪の毛をくるくると指でいじりながらそんなことを言った。

スランプの時期を乗り越えたレイナは、ここ数年で頼もしく成長したのは事実だった。

 

「そうよね、私もさ、この児玉坂の街は夢が叶う場所であってほしいと思うの。

 ここにやってきた全員が、何かしら抱いてる夢を実現できる街であってほしいし、

 そのためには、ここに住む私たちがそれを示して見せなきゃいけないのよね。

 そうねー、私ももう一度、歌うことに挑戦してみようかなー」

 

「りさならできるよ。

 りさの綺麗な歌声を聴きたい人はたくさんいるから」

 

レイナがそう告げると、りさはにっこり笑って肩で軽く体当たりした。

高校球児たちがいなくなると、あたりはひっそりと静まり返ってしまった。

 

「そうだよね、私たちが頑張らなきゃね。

 個々にさ、本当にやりたいことを精一杯やっていこうよ」

 

そう言うと、佑紀はベンチからおもむろに立ち上がった。

 

「どっか行くの?」

 

「うん、ちょっと約束があってね」

 

佑紀はトートバッグの中から手鏡を取り出すと、

鏡を見ながらメイクの状態を確認した。

あとで化粧室に立ち寄って化粧を直そうと思った。

 

「じゃあ、もう行くね」

 

「うん、またね」

 

夕陽が西の地平線を真っ赤に染めて沈んで行く頃、

佑紀はりさとレイナと別れて、一人夜の街へと向かった。

 

 

 

・・・

 

 

また地震が起こった。

これで何度目の地震だったのか。

 

地震の衝撃のせいであるかは定かではないが、

細身の男が意識を取り戻した時には、またドアが開いていた。

今度は隅に座っていた美しい女性が一人、そのドアから出て行った。

 

革ジャンを着ていた男はいつのまにか眠っていた。

部屋の中を見回してみると、ピンクの服を着た大男も横になって眠っていた。

これだけ地震によって部屋が揺れているにも関わらず、

彼らにとってはそんなことなどどうでもよかったのだろう。

運命に身を委ねている以上、抵抗する術を持たないのかもしれなかった。

 

傷だらけの身体を動かすこともできず、軽く寝返りをうつ程度しかできなかったが、

いつのまにか先ほどの三人の新参者が近くに寄って来ているのに気がついた。

三人ともとてもスマートな顔つきをしていて、彫りの深い目元、高い鼻が印象的だった。

自分とは全く似ても似つかない容貌に、細身の男はそれ以上関心を向ける必要もないと思った。

だが、彼らのうちの一人、とても温厚そうな男が近づいて話しかけてきた。

 

「・・・兄さん、兄さんですよね?」

 

細身の男はいきなりそんな風に呼ばれたことに喫驚した。

彼は今まで天涯孤独の身で生きて来たつもりだったし、

兄弟などが存在することは考えたこともなかったからだった。

 

「人違いじゃないか、俺には兄弟などいない・・・」

 

細身の男はそう答えて、彼らに背を向けて寝そべった。

だが、温厚そうな男は諦めずに話を続けてきた。

 

「兄さん、僕らは兄弟です、間違いありません」

 

「やめておけ、そいつにはどんな言葉を言っても心に刺さらんよ」

 

温厚そうな男の後ろから別の男がそう声をかけた。

それでも温厚な男は諦めずに説得を続けて来た。

 

「兄さん、生まれた場所なんて関係ありません。

 姿が似ていなくたって、僕らは兄弟に違いありませんから・・・」

 

温厚な男は説得を続けていたが、その言葉が部屋の中に響いてうるさかったのか、

三人の新参者のうち、最も危なそうな男がついに口を開いた。

 

「おい、うるせえよ、俺がキレる前にさっさと黙らせろ」

 

彼らは新参者ではあったが、ピンク色の服を着た大男も手を出さなかった。

もちろん、地震が起きた際には足元がふらついてぶつかってしまうこともあったが、

ケンカになるとお互いに無傷では済まないことがわかっていたのだろう。

三人は新参者でありながら、暴行を加えれられる様子はなかった。

どこかのタイミングでこの部屋から出ていってくれることを願っていたのかもしれない。

 

温厚な男は相変わらず細身の男に話しかけるのをやめなかった。

うるさくて眠れないと思った細身の男は、寝返りを打って彼らの方を向いた。

その時、目があった温厚な男は、確かに間違いなく彼の弟であることがわかった。

 

「・・・お前たち」

 

「兄さん、やっとわかってくれたんですね!」

 

細身の男は、どういうわけか、この新参者の三人が、

皆自分と同じ兄弟であることを瞬時に悟った。

そして、どうしてこの部屋で出会うことになってしまったのか、

その理由はよくわからなかったのだが、これは何かの前触れだと思った。

 

「・・・時が来た!」

 

細身の男は不敵な笑みを浮かべながらそう叫んだ。

ピンク色の服を着た大男が不思議そうな顔で彼の方を一瞥した。

部屋の隅にいた女性たちが何人か部屋のドアから続けて出て行った。

 

 

・・・

 

 

佑紀は近くのコンビニに立ち寄り、化粧室を借りた。

夏の終わりとは言え、まだ日が差すと暑くて多少の汗もかいたので、

鏡を見ながら入念にメイクを直すことにした。

右を向き左を向き、唇の潤いを確認すると、

佑紀はメイク道具をカバンに締まってすぐにコンビニを後にした。

 

先ほどまで夕暮れ時だった太陽はすっかり影を潜めてしまい、

あたりは瞬時に浅い夜の風を運んで来るようになっていた。

それは優しく肌を撫でるような涼風だった。

鼻から吸い込む空気も幾分冷たくて気持ち良かった。

 

りさやレイナと別れて一人になった佑紀は、

誰に気を使うでもなく、自然と早足になって行った。

夜の繁華街は賑やかな人の群れで溢れていた。

仕事を終えて仲間たちとお酒を飲みに行ったり、

カップルで食事をしたりする者たちも見られた。

佑紀はそんな人たちをすり抜けてどこかへ向かっていた。

大きくて賑やかな通りを人混みをすり抜けて歩きながら、

突然、何を思ったのか細い路地を左折した。

曲がっても何もない裏通りに入った彼女はしばらく歩いて立ち止まった。

薄暗い裏通りにはレストランの裏口のゴミ箱や巨大ミミズのようなダクトが出張っているだけだった。

佑紀はその裏通りで立ち止まった後、不意に後ろを振り返った。

 

「・・・やあ、いったい私に何のようだい?」

 

突然振り向かれて面食らっていたのは細身の少女だった。

驚いたせいか、両手で覆うようにして口元を隠していた。

 

「君は確か、この間K−1グランプリにも出てたよね?

 児玉坂の町にあるよろず屋で働いてるってことも知ってるよ」

 

細身の少女はうろたえてしまって声も出せない。

目がキョロキョロと泳ぎながら、心臓の音がこちらまで聞こえてきそうに思えた。

 

「どうして私の後をつけて来るの?

 誰かに頼まれたのかな?」

 

佑紀は一歩ずつ少女に近づいたが、そのたびに少女は一歩ずつ後ずさった。

両手で口を押さえながら、自分は何も喋らないと言う姿勢をあらわにしていた。

 

「わかってるよ・・・勝村さゆみでしょ?」

 

「どうしてそれを・・・?」

 

少女は思わず口を開いてしまった。

佑紀は言い当てたことに満足げに少し口元を緩めて鼻で笑った。

 

「きっと私が目障りだから」

 

「そんなこと・・・ないと思いますけど」

 

少女の声はだんだん小さくなって行って聞き取りにくかった。

彼女は不安に陥ると小声になってしまう癖があるようだった。

元から小さい身体をさらにギュッと小さく縮こまらせて怯えていた。

 

「いや、そんなことあるんだよ。

 人間はね、誰かが誰かを妬んだりする心があるから。

 嫉妬の権利ってのは私の中にもあるし、きっと誰の中にもあるの。

 私だって、今まで誰かを妬んだこともあった。

 だから誰かが私を目障りだと思うことがあったとしても、

 それは別に不思議なことでも何でもないんだよ」

 

佑紀はそう言うとトートバッグの中から手帳を取り出した。

パラパラとページを開き、まだ何も書かれていない紙の上にペンで何かを描き始めた。

そして書き終わると、その1枚のページをびりっと破って少女の目の前に掲げて見せた。

そこには佑紀によって描かれた簡単な地図とどこかの住所が書かれていた。

 

「何も持たずに帰ったら、怒られちゃうでしょ?

 私が今から行くところはここだよ、私は別に逃げも隠れもしないから」

 

少女の胸はいつの間にか違うドキドキに打たれていった。

自分はこっそり後をつけていたスパイなのに、こんなに真面目に気を使ってくれて、

男前にも自分が行く先をわざわざ丁寧に紙に書いてくれるなんて思ってもみなかったからだ。

 

「その代わり、もうこっそり後をつけて来るのはやめてね。

 私が行く先を報告したら、もうこんなことしなくてもいいでしょ?

 早く家に帰ってゆっくりご飯でも食べればいいよ、お腹空いたっしょ?」

 

佑紀はそう行って少女の目の前まで歩いてきた。

少女は初めてこんな近くで見る佑紀の中性的で美しい顔に興奮してしまった。

彼女は宝塚歌劇団が好きだったので、男前な女性を見るのは何よりもたまらなかった。

 

「右手、出して」

 

佑紀は先ほど自分が書いた髪を四つ折りにすると、

少女に対して優しい口調でそう語りかけた。

少女はあまりにドキドキしすぎてのぼせ上がっており、

もはや冷静な判断ができなくなってしまっていた。

 

「・・・右手ってどっちだ・・・?」

 

パニックになって右も左もわからなくなってしまった彼女に対して、

佑紀はまた軽く笑ってから優しく語りかけた。

 

「・・・お箸持つ方」

 

佑紀はそう言うとほぼ同時に、少女の右手をとって、

手のひらに先ほど四つに折った紙を握らせてポンと軽く腕を叩いた。

そしてそのまま、彼女の方を振り返ることもなくまた表通りの方へ歩いて行ってしまった。

 

「・・・チャッス」

 

佑紀は少女の方を振り返らずにそう小さく呟いた。

少女は振り返って佑紀が歩いて行く背中をじっと見つめていた。

「あっ、あの・・・」と言いかけると、佑紀は振り返らずに右手をあげてさよならを示した。

あまりにも大きすぎる背中に、少女は圧倒されてしまっていたが、

佑紀が渡してくれた紙を握っている右手を見つめてからゆっくりと口を開いた。

 

「・・・私、左利き」

 

 

・・・

 

 

 

部屋にはまだ余震が続いていた。

この島国が地震大国だということは誰にも明白な事実ではあったが、

それにしてもこれほど短いスパンで地震が起こり続けるのは、

やはりこの部屋が特殊だったという他に説明のしようがない。

 

細身の男はまた横になって眠っていた。

先ほどまで新参者の三人と打ち解けた様子をしていたのだが、

暴行を受けた身体の状態がひどく、この部屋に閉じ込められてから、

もう何日が経過したのかわからなかった。

外の新鮮な空気を吸うこともできず、こんな薄暗い部屋に監禁される生活。

普通であれば気がおかしくなってしまっても不思議ではなかった。

誰が救いに来てくれる保証もなく、ただ部屋のドアが開いて、

自分が呼び出されるのを待つしかないのだ。

 

これほど気が滅入りそうな状況にあっても、

細身の男が希望を捨てることがなかったのは、

おそらく彼には何らかの確信があったからだった。

自分は、いつかこの部屋を出る時が来る。

そして、この自分の命を全うする勝負に出る。

彼はこの平和ボケした国で有事を待つ戦士のようだった。

誰も信じていないかもしれない、自分は気が狂っていると思われるかもしれない。

それでも彼は、自分の信念を曲げずに、戦が起こる日を信じていた。

そして、もう余命いくばくもない身体になってしまっても、

その日を信じることで生きる希望を見出して来たのだった。

 

「よう、大丈夫か?」

 

そう声をかけて来たのは革ジャン男だった。

そして部屋の音がバタンと閉まる音が聞こえた。

 

「・・・外に出たのか?」

 

「ああ、ひと仕事終えて来た」

 

革ジャン男は冷静にそう答えてまた身を横たえた。

その言葉を聞いた細身の男は彼に嫉妬せずにはいられなかった。

自分はこの数日で、まだ一度も外に出ることができていないのだ。

 

「・・・外の様子はどうだった?」

 

「何も変わらないさ、多少空気が美味いだけだ」

 

革ジャン男はあくまでもクールな様子を崩さなかった。

何か悟りでも開いたような、諦観が彼の身から溢れて来るのが見える気がした。

 

細身の男が寝返りを打って反対側を見ると、

新参者の三人は退屈な様子で眠っていた。

先ほど出て行ったはずの女達は皆、また部屋に戻って来たようで、

こちらもくたびれた様子でうつらうつらとしていた。

 

「身を削って仕事をして来たんだ、みんな疲れているのさ」

 

革ジャン男はそう呟いた。

外の世界へ出ることができたとしても、

そこには強制労働が待っているだけであり、

何も自由な世界があるわけではないのである。

だが、細身の男は毛頭そんなことは期待していない。

ただ己の使命を果たすべく、労働に従事できれば本望だ。

身をすり減らして必死に働いて、命を全うすればまた転生が待っている。

 

彼にとって転生することは何も恐ろしいことではなかった。

むしろ、何もできずに朽ちてしまって路傍に果てるのが怖かった。

誰も気づいてくれないところで死んで、うまく転生することもできなければ、

来世でまた生命を全うする機会を失ってしまうことになりかねない。

無論、転生システムは巧妙にできていて、例えそんな風になったとしても、

時間さえかければ、誰もが塵となり、分解されてまた地面に帰ることができる。

だが、それではあまりに時間がかかってしまうために男には好ましくなかった。

彼は戦さを好んだのだ、あの人のために命を投げ出す覚悟はできていた。

 

「・・・若杉佑紀」

 

細身の男はそう呟いた。

革ジャン男は珍しく彼の方へ一瞥を向けた。

 

「どうした急に?」

 

「・・・俺は、ただあの人の役に立ちたい」

 

革ジャン男はその言葉を聞いて呆れた様子で反対側に寝返りを打ってしまった。

 

「誰の役に立とうが、そんなことは俺にはどうでもいいことだ。

 たまに外に出て、身の丈にあった労働をして、この部屋に戻される。

 俺は別にそれだけで一向に構わない、それ以上を望むことは俺たちにはふさわしくない」

 

革ジャン男はそう言ったが、虫の息の細身の男には、

もはやそんな言葉は届いていないようだった。

ただうなされるように、悪夢に取り憑かれたように、

熱情的に何かをずっと喋り続けた。

 

「お前は知らないんだな・・・。

 あの人の前世は大軍を率いて戦った英雄、牛若丸だ」

 

「誰だそいつは、知らんな」

 

「歴史の教科書も読んだことないのか?

 鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟、源義経。

 その幼名が牛若丸、つまりあの人の前世の姿だ」

 

「その情報は役に立つのか?

 まあ、頭の隅にでもメモしておこうか」

 

「なぜそんなことを知っているかって?

 俺は今世に生を授かる前、つまり前世であの人に仕えたのだ。

 俺はあの人と共に何千の軍勢と戦っていた・・・」

 

また地震が起こり、革ジャン男は寝返りを打つと同時に、

不本意にも細身の男とぶつかってしまった。

 

「すまん、悪気はないんだ。

 しかしそれにしてもひどい怪我だな」

 

「いや、気にするな、もう治る見込みもない・・・。

 歴史に疎いお前に聞いても仕方がないだろうが、

 三国鼎立の話を知っているか?」

 

細身の男は身体に残っている全ての力を振り絞るようにして話を続けた。

革ジャン男は細身の男が尋ねた質問の意味がわからなかったようで、

ただ無言で何も返事をすることはなかった。

 

「それは天下三分の計とも言うんだ。

 昔々、中国に諸葛亮と呼ばれる賢人がいたらしい。

 彼は劉備という君主に仕えていたそうだが、

 広大な中国を支配している曹操軍に立ち向かうため、

 孫権という軍勢と同盟を組んで中国を大きく三分割したんだ。

 『三』という数字は人間にとって心地よい数字であって、

 多すぎず少なすぎず、記憶するにも適している数字だが、

 三つ巴になることによって、誰も迂闊には動けなくなる。

 つまり、争いを止める最もふさわしい状態は、

 天下を三つの国で分け合うということを諸葛亮は提案したんだ」

 

細身の男はそんなことを語り始めたが、

革ジャン男には何を言っているのかさっぱりわからなかった。

ピンクの服を着た大男も苦笑いを浮かべていたし、

もはや余命のない男の戯言にしか思えないものだった。

 

「・・・一体、何が言いたいんだ?」

 

革ジャン男はそう問いただしたが、

細身の男は着物を少し直しながら微かに微笑んだ。

 

「今にわかるさ・・・」

 

「わかった、だがもう喋らないほうがいい。

 余計な体力を使って命を無駄にするだけだぞ」

 

また余震が来た。

新参者の三人も不安そうに目を覚ました。

 

「・・・わかってる、今日が俺の命日だってことは。

 だが、俺は何度でも転生して蘇るのさ。

 あの人を支えるために、俺は戦うんだ。

 そして、もし俺がいなくなったとしても、また別の誰かがあの人を守る。

 俺たちは、あの人が家を建てるまで貢献するさ。

 俺たちがあの人の生活を支えてるんだ!」

 

男がそう言ったところで大きな地震が来た。

継続的に発生する地震は、何か外の状況が変わったことを示していた。

もはや誰も立っていられないほどの大地震となっていき、

部屋の隅に固まっていた女達はガチャガチャと騒ぎ始めたし、

新参者の三人も揺れに耐えきれずに何度も衝突を繰り返した。

革ジャン男と細身の男も、揺れによって痛いほど体をぶつけ合った。

 

「いったい、どうしたんだ?」

 

「・・・いよいよ、戦が始まる・・・」

 

 

・・・

 

自分のことを追跡していた少女に目的地を書いた紙を渡した佑紀は、

堂々とした様子で夜の繁華街を歩いていた。

 

すっかり夜になってしまい、辺りは涼しい空気で満たされてしまった。

夏の夜の心地よい香りを味わいながら、佑紀は一人で目的の場所へと向かった。

 

少女に追跡されていたことは、多少ショックな部分もあった。

だが、こうなることは、もう事前にある程度わかっていたことでもあった。

あの少女の名前は寺屋蘭々であることも事前に調べ上げていたし、

彼女のボスが勝村さゆみだということもわかっていた。

Kー1グランプリの時に、すでに彼女の姿を生で見ていたこともあり、

彼女がどんな人物であり、どんな思考を持った人間であるかということも、

佑紀にはよくわかっていたので、彼女はこうなる未来をある程度予測していたのだ。

 

一人で夜道を行きながら、佑紀はついにこの日が来てしまったと、

心の奥底では不安が渦巻いているのを無視することはできなかった。

元来、物事を慎重に進めるはずの自分が、どうしてこんな大胆な計画を立ててしまったのか。

それはおそらく、前世から続く彼女の魂が持つ侍の血脈に由来するものであったのだが、

今世を生きている彼女にとっては、そんな事実は全く知る由もなかった。

ただ、自分がやりたいと思ったことを実行するだけである。

 

佑紀が目的地にたどり着いた時、頬に心地よい風が吹いて来た。

夏の終わりが近づくと、こうして優しい風が吹き始める。

そうなると、もうすぐ秋の訪れを待つばかりとなる。

この風が何番目の風かはわからないが、まだ秋が来るのは早かった。

佑紀には夏が終わるまでに、やっておかねばならないことがあったのだから。

 

「・・・ここだ」

 

佑紀はそう言って地下へと続く階段を覗き込んだ。

暗めの照明が当てられた階段は、どこか薄暗い部屋へ続いているように思えた。

 

「・・・待たせちゃったかな」

 

そんな独り言を言いながら、佑紀は慎重な足取りで階段を降りて行った。

想像以上に足元は暗く、転ばないように気をつけていたのだが、

段差が割と急になっていることもあり、履いている靴のヒールが音を立てた。

 

階段を降りたところには、照明の当たっていない薄暗い扉があった。

佑紀の後からも階段を降りて来る人があったので、

あまり躊躇することなく、彼女はその扉を開いて中へ入って行った。

 

 

・・・

 

 

それは数日前の出来事だった。

 

佑紀が机に座って待っていると、扉がガチャリと音を立てて開いた。

彼女は慌てて立ち上がり、入って来た男性に深々とお辞儀をした。

 

「お久しぶりです、おかげさまで、やっとお箸でご飯を食べれるようになりました」

 

お辞儀をした顔を上げて、佑紀がそんなことを告げると、

男性はニヤッとした表情をしてこう言った。

 

「へっヘっヘ、なかなか腕をあげたじゃない」

 

「はい、師匠!」

 

 

佑紀の前に現れた老人は若森先生と呼ばれていた。

ユーモア教室を開いている、佑紀が決して足を向けて寝られない師匠である。

 

佑紀はこの師匠に教わった箸芸を使って一世風靡した。

つまらない人間だと思われるのを苦しいと悩んでいた時に、

ふらっと児玉坂の街を訪れたこの老人に助けられたのである。

 

「もう私が箸の上げ下げまでうるさく指導することもないね」

 

そう言って師匠は微笑した。

「ようやく私も箸休めを覚えました」と佑紀が言って、

「そうか、そうか」と嬉しそうに笑った。

 

「箸の使い方を覚えることは大切ですからね。

 ユーモアの基本中の基本ですよ」

 

そう言いながら師匠はホワイトボードに何か書いていた。

佑紀は真面目に手帳にメモを取り始めた。

 

「これね、結婚式でも使えるんですよ。

 人生で最も大事な三つの袋はね、

 給料袋、堪忍袋、そして箸袋ってね」

 

言いながら若森師匠はずっとニヤニヤ笑っていた。

 

「あんた、そりゃ箸袋じゃなくてお袋だろ、親を大事にしないでどうするのってね、

 いやいや、お袋は最近もうありゃダメだよ、箸にも棒にもかかんないんだから、

 最近はもうお箸でご飯食べなくなったんだよ、フォークばっかり使うようになっちゃって、

 なんでこんな風になったんだろって、この前ちょっとお袋の後をつけてみたのよ、

 そしたらさ、とんでもないもの見ちゃったの、えっ、そりゃ何ってね、

 お袋ったら若い男の人とフォークダンス教室に通ってんだよー、って、ヘっヘ」

 

若森師匠は自分で言ったことにウケて笑っていたが、

佑紀はまっすぐな目で師匠を見つめて「ああーっ」と感嘆していた。

 

「そりゃやばいよ、こりゃ夫婦の危機じゃないのって、 

 いやいや、だからこの箸袋が大事なんだよって、

 ここでね、箸袋に入ったお箸をみんなに見せるわけ、

 それでね、侍みたいな顔をして、この箸を刀に見たてて、

 スパッとこう、抜いてみるわけね、そしたらみんなこっちに注目するから、

 それでどうなるのーって思ったところ、箸をすっと箸袋に収めるわけ、

 あっ、元の鞘に戻るんですねって、ヘっへ」

 

若森師匠は相変わらず笑い続けていたが、

佑紀の反応が芳しくないので、これはうまく笑いが伝わっていないかと思った。

 

「あれ、元の鞘に納まるって、意味わかる?」

 

「・・・はい、喧嘩したりした夫婦がいろいろあって仲直りすることですね」

 

「あー、そうそう、ヘっへ」

 

伝わっていたことに満足したのか、若森師匠はまた笑い続けていた。

「これはね、まだ初歩だから」と言って師匠はまた何かを書き始めたが、

たまらなくなった佑紀は、思わず椅子から立ち上がった。

 

「師匠、箸を極めるのは難しいですね」

 

「ええ、そうだね、箸道は奥が深いですよ」

 

「・・・私、箸のおかげでご飯が食べれるようになりましたけど・・・」

 

「ほー、どうしたの?」

 

「もうこれから先、どこへ向かえばいいのかわからなくなってきました。

 色々と迷走するキャラなのは自分でも理解しているんですけど、

 この先何を目指せばいいのか、自分でも答えが見つからないんです・・・」

 

佑紀は苦しそうな表情で思いの丈をぶちまけた。

児玉坂の町へやってきて数年間、いろんなことに挑戦した。

数々の伝説を残してきて、今では箸だけが残った。

自分が駆け抜けてきた青春は、「箸」という漢字に凝縮されてしまった。

若杉さんにとって今年を漢字一文字で表すとすれば何ですかと尋ねられて、

毎年のように「箸」と書き続ける未来がやってきてしまうのだろうか。

 

「・・・」

 

若森師匠は何も答えずに、ただ机の上に置いていたスプーンを手にとって、

それをポーンとまた机の上に投げた、そしてニヤリと笑った。

 

「師匠、私はこんな不器用なつまらない人間ですから、

 匙を投げたくなる気持ちはわかります、でももう師匠を頼るしかなくて・・・」

 

佑紀はそう叫ぶと、辛くなって下を向いてしまった。

あれこれ悩んだ結果、こうして悩みを打ち明けにきたのが、

この師匠のユーモア教室だったというわけなのである。

 

「あなた、もう自分で答え言っちゃってるよ」

 

「えっ?」

 

佑紀は意味がわからなくて顔を上げて師匠を見つめた。

 

「匙を投げたって、あなた言ったでしょ?

 箸以外でも笑いが取れるってこと、あなたもう分かってるじゃない。

 難しかったら、別に箸だけにこだわる必要なんてないんだから。

 一人で笑い取れなかったら、誰かと一緒にやったって構わないんだから、ヘっヘ」

 

その言葉を聞いた佑紀には、未来の答えが見えた気がした。

 

「師匠、わかりました、答えが!」

 

「へっへっへ、もうすぐにできるね、私もたくさんの生徒を見てるけど、たいしたもんだよ」

 

佑紀はまた深々とお辞儀をした後、急いで部屋から走り去って行った。

若森師匠は机に投げ捨てたスプーンを手にとってあれこれと触りながら、

最終的にスープをすくうような仕草をして見せた。

 

「あらあら、また悩める生徒を救っちゃったよ、ヘっへ」

 

 

・・・

 

 

 

 

継続的な地震が続いて、ようやく揺れが収まると、

薄暗い部屋のドアが開いていくのが分かった。

満身創痍の細身の男も、どこにそんな力が残っていたのか、

最後の力を振り絞るようにしてよろよろと立ち上がった。

 

「・・・若杉佑紀が迎えにきたんだ」

 

細身の男は朦朧とした意識の中で、

開いているドアの方を見つめてそう言った。

おぼつかない足取りで、彼はドアの方へと向かっていく。

 

「おい、そんな体でも行くのか?」

 

革ジャン男が寂しそうにそう尋ねた。

彼は何度もこの部屋に戻ってくる運命だが、

おそらく細身の男がこの部屋を出て行ってしまえば、

彼がこのまま戻ってくることはないことを薄々感づいていた。

彼は出て行ったが最後、労働に従事させられて、その命を終えてしまう。

 

「・・・あの人が呼んでるんだ、あの人を支えるのが俺の使命だ」

 

足を引きづりながら進む彼の前に、あの新参者三人が立ちふさがった。

 

「兄さん、僕たちは先に行きます、あとでお会いしましょう」

 

「お前ら・・・」

 

「兄者にいいとこ持ってかれてばっかじゃ癪だからな」

 

「一緒に暴れてやろうぜ、俺に触れると怪我するってのをわからせてやる」

 

新参者三人は、そう言って先にドアへと向かって走って行った。

彼らもドアを出て行けば、もう二度と戻らないのだろう。

革ジャン男は彼らの定めに、なす術なくただ祈った。

 

「あとで俺も行けたら行く、お前の姿をしっかり記憶に留めておいてやる」

 

革ジャン男は細身の男にそう言って、ピンクの服を着ている大男のところへ行った。

 

「お前もあとで来るよな?」

 

「ふん、おそらくな、呼び出されるだろうから」

 

大男は気乗りしないのだろうが、そんな風にふてくされて言った。

 

「・・・ありがたい、お前たちにも俺の勇姿を見せてやれるとは」

 

細身の男は着物の首元を直し、ドアの前までやって来た。

ドアの向こう側は、新鮮な空気であふれていた。

 

「じゃあな、また来世で会えたら!」

 

細身の男がそう言ってドアをくぐると、

ドアは自動的に音を立ててバタンと閉まった。

部屋はまた静寂に包まれて、革ジャン男はまた横になった。

 

 

・・・

 

 

 

「ごめんごめん、遅くなっちゃって」

 

佑紀は扉を開けてお店の中に進むと、

先に来ていた三人の女性を見つけて小走りにテーブルに駆け寄った。

 

「結構待った?」

 

「いえ、全然大丈夫です」

 

身長170センチくらいはあろうかという美人な女の子がそう言った。

ロングヘアーでお姉さんの風格を持っているが、実はまだ若いらしかった。

 

「ごめんねー、なんか手間取っちゃって、お腹すいたでしょー?」

 

「いえ、私たちもさっき来たところなんで」

 

ふわっとした雰囲気を持つ可愛らしい女の子が気を使ってそう言った。

あどけない表情は、まだ少しどこか子供っぽい印象を与える。

 

佑紀達がいるお店は階段を降りたところにある地下型のレストランで、

洋食も和食も提供する、オシャレな雰囲気のお店だった。

どうせ決起集会をするのであれば、少しいいところでしようと佑紀がお店を決めたのだ。

 

「なんかここ、すっごいオシャンティーですよねー」

 

あたりを見回しながら、目力の鋭い女の子がそう言った。

完成されすぎたルックスなので、黙っていると一見性格悪そうに思われるが、

実はそんなことはなく、中身はいたって普通の変人なのだが、

さすがに人見知りなので、慣れるまではそんな一面を彼女が見せることはない。

 

「いやー、どうせならちょっといい感じのお店にしたいなと思ってね」

 

佑紀はそう言って空いていた席に腰を下ろした。

置いてあったメニューを三人に配った。

メニューには「大人への地下道」という店名が書かれていた。

このお店が階段を降りた地下にあることから、こう名づけられたのだろう。

ロゴマークはどういうわけか、五つ星のマークだった。

 

佑紀が代表して注文をすると、最初におつまみのようなものとドリンクが運ばれて来た。

おつまみは小魚アーモンドであり、佑紀の最近のお気に入りらしかった。

 

「じゃあ、未成年ばっかりなんでジュースでカンパーイ!」

 

佑紀がそう言って決起集会は始まった。

やがて頼んでおいた料理も次々とテーブルへ運ばれて来た。

 

「なんかみんなこの街に来たばっかりなのにごめんねー」

 

佑紀が気を使ってそう言うと、三人もまだ気を使って「いえいえ」と言った。

この四人はまだ出会ったばかりなので、本当にぎこちないやり取りの部分もあった。

 

料理は運ばれて来たのだが、みんな遠慮して誰も手をつけようとしない。

この街の先輩である佑紀が箸をつけないうちに、自分達が食べてはいけないと思っていたのだろう。

 

「あっ、そうだよね、みんな食べにくいよねー」

 

後輩への気配りに長けている佑紀は、

すぐにその状況を察してそう言った。

 

「忘れてた、じゃあ食べる前に授与式を始めるね」

 

小魚アーモンドをつまみつつ、佑紀はトートバッグの中に手を入れ、

先ほど真冬と一緒だった時に購入した物を取り出した。

それはプラスティック製のスプーン、フォーク、ナイフだった。

 

「じゃあ、天下(あました)はスプーンで」

 

スプーンを渡されたのは天下詩月だった。

好奇心旺盛な彼女は、渡されたスプーンを早速色々と動かし、

目を覆って視力検査のような格好をしてみたり、頭の上に立てて動物の耳のように見せたり、

鼻と口の間に挟んで唇を丸く突き出したような姿を披露してみせた。

色々と動かしているうちに、何か面白いインスピレーションが湧いてくるのだろう。

 

そのうち、何か思いついたのか、熱心にスプーンを擦り始めた。

 

「スプーンは曲げても、信念は曲げません、天下です!」

 

詩月はそう言ってから口元を手で押さえ、自分でも少しニヤニヤしていた。 

だが、もっといいのが思いついたのか、次はおでこに皺を作ってスプーンをくっつけ始めた。

 

「おでことあなたの心にピタッと密着、あまピタです!」

 

そう言った瞬間に、スプーンはおでこから剥がれてテーブルに落ちて音を立てた。

詩月は慌ててそのスプーンを拾う羽目になった。

隣に座っていた二人がその光景を見てクスクスと笑っていた。

 

「スプーンは色々と使えるから、何かすくったりしてもいいかもね」

 

佑紀がそう言うと、詩月は早速スプーンでテーブルの脇に置いてあった塩をすくった。

 

「あなたが望むなら・・・塩対応も可能です、あましおです」

 

「あっ、ダメダメ、塩そのものになっちゃダメ。

 しかも、甘いのか辛いのかわからない感じになっちゃってるし」

 

佑紀がそう言うと「後でもっとちゃんと考えます」と詩月は笑いながら言った。

しょっぱなからこれだけの才能を見せてくれた詩月に、佑紀はなんとも頼もしい思いがした。

 

「すごいねー、こないだのKー1出れば良かったのに」

 

「あっ、実は私出てたんです、友達とコンビ組んで出たんですけど、

 予選突破した後、一回戦で負けちゃったんですよね」

 

ネタは端折られていたが、どうやら彼女は先日のKー1グランプリにも出場していたらしかった。

しかも予選を突破するところまで残っていたというのは佑紀にも予想外だったので少し怯んだ。

自分はボイパを披露して、予選敗退してしまったというのに・・・。

 

「・・・あー、そうなんだー。

 私も出てたけど、予選で落ちちゃったんだよねー・・・」

 

少し切なそうに佑紀はそう言った。

それでも下手に自分を大きく見せないのが彼女の素晴らしい長所だった。

自分が負けても正直に述べる人の方が、実際は器が大きいものである。

 

「でも私、実はそのネタ見てたんですよ、すっごい面白かったです」

 

「いや、もうそこには触れなくていいや」

 

苦笑いをしながら、佑紀はさすがに話をそこまでに留めた。

ボイパに触れられても、心の傷をえぐられるだけである。

あの伝説のボイパを我々が見れる日は、もう来ないのだろうか?

 

「じゃあー、珠ちゃんはフォークで」

 

ゆるふわなマスコットキャラのような珠弐はフォークを受け取ると、

何やら嬉しそうにニコニコとして笑っていた。

 

「フォークは難しいかなー、砂糖すくったりとかできないからなー」

 

「あっ、私はノンシュガーで大丈夫です」

 

「えっ、あっ、そう?」

 

珠弐は別にボケるのに砂糖はいらないと言った。

なぜ英語で言ったのかは、知る人ぞ知る話だった。

 

「珠ちゃんは児玉坂の街に来る前は何してたの?」

 

「そうですねー、日曜から朝練ばっかりしてました」

 

「えっ、何、部活とか?」

 

「えへへ」

 

珠弐は照れ笑いのままで濁してしまったが、

このあたりは知る人ぞ知る話だった。

 

渡されたフォークを色んな角度から見つめながら、

だが何も思いつかなかったのか、苦笑いして首を傾げてしまったが、

まるで小動物のような愛くるしさだったので、

佑紀は何も言わずに保護者の気分でニコニコと見つめてしまった。

 

「すいません、何も思いつかないです・・・」

 

珠弐は申し訳なさそうにそんなことを言ったが、

佑紀は最初からそんなハードル高いことを求めてもいなかった。

 

「ううんー、別にいいよー、またゆっくり考えたらいいから。

 そうだねー、何か特技とかあるー?」

 

「般若心経を読むのが得意です。

 あっ、じゃあフォークで何かを刺しながら般若心経を読みます。

 ギャーテーギャーテーハラソー・・・」

 

珠弐はそう言って般若心経を唱えながらフォークで料理を次々と刺し始めた。

ふわふわと無邪気にどんどんと刺していく光景はシュールかつ恐ろしいものだった。

 

「あっ、怖い怖い怖い、ちょっとそれは、なんか新手の宗教儀式みたいだからやめとこっかー」

 

ところで、般若心経は素晴らしいお経で、心地よいリズムを伴いながら、

あれだけ短い中に真理が凝縮されているお経の中でも群を抜いた傑作なのである。

般若心経の「般若波羅蜜多」とは「完全なる智慧」を意味しているのだが、

おしゃれなレストランでフォークを用いながら唱えるにふさわしいものではなかった。

 

「あのー、阪内はいい挨拶があるんですよー」

 

横から口を挟んできたのは詩月だった。

何やらニヤニヤして、また回転の速い頭でよからぬことを思いついたのかもしれなかった。

 

「えっ、なになに、何かあんの?」

 

「はい、やってみて」

 

詩月が珠弐に挨拶を見せるように急かした。

少し恥ずかしそうに、珠弐は佑紀の方を向き直した。

 

「阪内、坂道、登り坂、たまには、珠弐と、登ってね」

 

「おおっ、いいじゃん、韻踏んでるし」

 

珠弐は相変わらず恥ずかしそうにしていたが、

佑紀は嬉しそうに感嘆していた。

 

「そうなんですよ、それをちょっと改造して」

 

詩月は珠弐からフォークを受け取って実演し始めた。

 

「阪内、坂道、登り坂、たまにはフォークでブッ刺すぞ、でどうですか?」

 

「何それ、別に韻も踏んでないけど。

 もしかしてフォーク持つと人格変わっちゃう設定?」

 

「そうです、可愛い挨拶が、フォーク持たせたら凶暴になるっていうやつです。

 フォーク持ったらいつもこうなるっていう、お決まりのパターンにするっていうのはどうですか?」

 

詩月は楽しそうに提案を続けていたが、佑紀は腕組みをして考え込んでいた。

 

「うーん、言葉は怖いけど珠ちゃんが言うと可愛く聞こえちゃうし、

 多分彼女は凶暴なキャラのフリとかできないんじゃないかな?」

 

「でもほら、可愛い声でブッ刺すって言うからいいって言う説もありますよ」

 

「珠ちゃん、そんなに闇深いの?」

 

「いえ、そんなに闇深くないです。

 闇深いのはこっちです」

 

そう言って珠弐は詩月を指差した。

珠弐は指をさしながら、詩月は普段は壁に向かって何か叫んだり、

意味わからなくて闇が深いことを暴露し始めたのだった。

 

「おい阪内!

 お前よー、年下のくせになめてんだろー!?」

 

詩月が急に立ち上がってキレ始めたので、

このままではおしゃれなレストランの中で二人がガチ相撲でも取りかねず、

さすがに大人な佑紀が空気を変えることにした。

 

「まあまあまあ、喧嘩はやめて、ほら楽しくやろうよ」

 

「そりゃ闇下詩月なとこもありますけど」

 

仲裁に入ってくれた佑紀に対して、詩月は自虐的にそんなことを言った。

 

「でもいいじゃん、闇下でも詩月って名前なら綺麗だしさ。

 天下でも空下でも山下でも、詩月って続いたら、なんか情景が綺麗だよねー」

 

佑紀がそう言ってフォローを入れたが、では「何下」であれば、

詩月と続いても美しくならないかを考える流れになった。

「靴下詩月」か「脇下詩月」で決着がつきそうになった頃、

ほんわかした声で珠弐が「格下詩月」と言った。

 

「おい、やっぱりお前なめてんだろー!」

 

「はい、あました怒りましたー」

 

そんな風にして珠弐が韻を踏んだダジャレを言った。

詩月がキレながらまた立ち上がったので、佑紀が再度なだめることになった。

 

「まあまあ、そんなキレたりしないで」

 

「いえ、キレてないですけどね。

 そして、あっちも切れてないですね」

 

そう言って詩月が指差した先には、

プラスティックのナイフで一生懸命にステーキを切ろうとしている女の子がいた。

 

「あれ、渡す前に取っちゃったの?」

 

「あっ、すいません、これしか切れそうなものがなくて・・・」

 

詩月と珠弐がわちゃわちゃしている間、

先輩のために料理を取り分けようと必死になっていたのが梅川千波(ちなみ)だった。

礼儀正しくて気も使える良い子なのだろうと佑紀は思った。

 

「ごめんごめん、料理切るやつは、後でちゃんとしたのもらおっか」

 

佑紀が申し訳なさそうにそう言うと、また何か思いついたのか、

詩月がニコニコしながら前のめりになってきた。

 

「逆によくないですか?

 あなたとの赤い糸は切っても切れません、とか?」

 

「よっ、さすがKー1の予選通過者!」

 

佑紀はまた自嘲気味にそう言った。

ボイパの話は踏み込んではいけない領域に思えたので、

さすがに詩月も空気を読んで、そのフリは入れなかった。

 

「あの・・・これって何かナイフを使って面白いこと言わなきゃダメですか?」

 

千波が申し訳なさげにそう尋ねた。

おそらく、何か面白いことはまだ思いついていなかったのだろう。

もしくは、恥ずかしいのでまだ戸惑っていたのかもしれない。

 

「うん、まあ言えた方がいいけど、もう可愛ければなんでもいいかもしれない」

 

申し訳なさそうにそんなことを言われると、

佑紀も先輩として寛大に許してしまうことになる。

自分が長としてカバーすればいい話なのだ、と。

 

「すいません、私、人見知りなんで、まだうまく喋れなくて・・・」

 

「いや、別に大丈夫だよ、ちょっとずつ慣れていけばいいから」

 

「そう大丈夫、梅のこと、私いつまでも待つよ、いつまでもマツタケ~」

 

詩月がダジャレを言ったので、隣にいた珠弐がニヤニヤと笑った。

 

「なにその、悲しいたけの別バージョンみたいなの?」

 

「私、めっちゃいい香りがするんです」

 

そう言って詩月は髪の毛を手でふわりとやった。

千波は顔を近づけて詩月の頭の匂いをかいだ。

 

「あれ、中国産じゃない?」

 

「違うよ、国産だよ、ほらめっちゃいい匂いするし」

 

このように、すこぶるどうでもいい話が続いた後で、

三人は美味しい料理を、それぞれのカトラリーを使って食べようとした。

必然的に詩月はスープをたくさん飲むことになったし、

珠弐は千波が切ってくれたものを食べることになった。

千波は無理やり食べたが、食べにくいことこの上なかった。

 

「あっ、ごめんなさい、気づかなくて」

 

佑紀がまだ何も食べれていないのに気づいた千波は、

店員を呼んでお箸をもらおうと思った。

だが、そんな千波を手で制して、佑紀はおもむろにトートバッグに手を突っ込んだ。

 

「こんなこともあろうかとですね・・・あれ、どこだ、あっ、あったあった」

 

佑紀がトートバッグの中から何かを探しているのを三人はじっと見つめていた。

そして、彼女がバッグの底の方から取り出したのは一本の割り箸だった。

 

「ここに箸くんがいるわけなのです、あれ、やばっ、ちょっと折れてる」

 

佑紀が取り出した割り箸は、あまりにも長い間トートバッグの底に眠っていたので、

箸袋は破れたりヨレヨレになったりしていたし、箸自身も傷んで少し折れている箇所もあった。

改めてバッグの中をのぞいてみると、化粧品は端っこの方に固まっていたので、

割り箸を抑えていたのは、おそらくそれ以外の大きめの物だったと思われた。

 

「えーっ、箸くんごめん!

 ずっとバッグの下の方に入れてたから、いろんな物の下敷きになってたのね」

 

佑紀はそう言って割り箸を撫でながら、すまなさそうに箸袋から抜いた。

多少折れていたが、使えないことはなかった。

 

「じゃあ、腹が減っては戦はできぬと言いますので、

 まずは腹ごしらえという名の戦を始めますか」

 

佑紀が割り箸をパチンと割って、その合図とともに食事会が正式にスタートした。

正直、佑紀以外は食べにくいハンデを背負っていたが、みんなは気にせずに楽しく食べた。

 

 

・・・ 

 

 

 

 

食事会は二時間ほど続き、四人は楽しい時間を過ごした。

はじめはぎこちなかった会話も、少しずつほぐれて行った。

夜も遅くなっていき、みんなのテンションも高くなって行ったのだ。

珠弐はフォークだったので食べたいものを大抵食べることができ、

千波はナイフだったので食べにくかったが、ダイエットにちょうどいいと思って我慢した。

詩月はスプーンだったので、最終的にはお腹がタプタプになったが、

テンションが高かったので、幾度となくダジャレを連発し続けた。

珠弐も千波も、それが一体、彼女の何度目のダジャレなのかもうわからなくなっていたが、

真面目な佑紀が全部数えていた、その回数は見事に46回だった。

 

「今日は本当に、ありがとうございました」

 

食事が終わった頃、まず千波が佑紀に対してお礼の言葉を述べて話を切り出した。

ナイフだけに、切り出したのではなかった。

 

「いえいえ、こちらこそ急になんかわけわかんないこと始めちゃったのに、

 こんな私のために集まってくれて申し訳ないです、ほんと」

 

佑紀が改めて頭を下げたので、三人も同じように頭を下げて礼を返した。

 

「まあ、まだ何も決まっていないようなもんですが、

 これにて軍団結成の決起集会は終了ということで」

 

「えー、またやりたいですね」

 

「やりましょう、またすぐにでも」

 

「うん、またやりたいです」

 

三人がそう言ったので、佑紀は笑顔になってトートバッグの中から手帳を取り出した。

革のカバーがなされている手帳で、佑紀はペラペラとページをめくった。

 

「じゃあ、次はいつ集まれそう?」

 

そんなことを言いながら、佑紀は次の予定を手帳に書き込んだ。

スケジュール表に軍団会議と書き込んだ後、横に割り箸の小さな絵を添えた。

そして、満足げに手帳を閉じ、またトートバッグの中へと戻した。

 

「いやー、それにしても楽しかったね。

 まだ何も決まってないけど、結構いろんな案が出たしね。

 あれだね、珠ちゃんの般若心経のおかげじゃない?

 びっくりするほどいろんなアイデアが出てきたし、

 うちらそのおかげで完璧な智惠を授かることができたよね」

 

佑紀は気を使って珠弐を持ち上げたのだったが、

「じゃあ、また般若心経やっときましょう」という流れになり、

珠弐は割り箸、スプーン、フォーク、ナイフを一同に集め、

そこに向かって一心不乱に般若心経を唱え始めた。

側から見ると、まるで何かを供養しているようにしか見えず、

周囲のお客さんたちは、四人を奇妙な目で見つめていたのだが、

そんなことになっているとは全く気づいていなかった。

四人とも決起集会でテンションが高くなりすぎていたのだった。

 

「また完璧な智慧を授かれますように・・・。

 ということで、今日はここまで~!」

 

四人で仲良く手を合わせたあと、使った割り箸やらはテーブルに置いたままお店の外に出ることにした。

レジでは佑紀がトートバッグからピンク色の長財布を取り出して支払いを済ませていた。

三人は頭をぺこりと下げながら、佑紀の後について店のドアを出た。

佑紀はピンク色の財布をまたトートバッグの中へしまい、階段を上がった。

 

階段を上がっていくと、佑紀はその先の出口に一人の女性が立っているのに気がついた。

大きなつばがついた帽子で顔は隠れていて、さらにサングラスをしていた。

後ろからついてくる三人は楽しそうに話をしていて全く気づいていなかったが、

佑紀はその女がサングラスを右手でずらし、こちらを見つめているのに気がついていた。

そして、すれ違いざま、お互いの視線が交錯したのであったが、

二人はそれ以上、何を言う事もなくすれ違って行った。

 

佑紀にはこうなることは初めからわかっていたのだ。

謎の軍団を立ち上げる以上、抗争に巻き込まれるのは避けられない。

後ろからついてくる後輩たちには、そんな過酷な現実を告げる事もなかったが、

あのサングラス女、勝村さゆみが新しい軍団などを見逃してくれるはずがなかった。

佑紀が通り過ぎた後、さゆみは手に持っていた紙くずを握り潰した。

裏通りで佑紀が蘭々に渡したあの手帳の紙切れだった。

 

こうして児玉坂の街は、新たな三国時代へと突入していくのであった。

 

 

・・・

 

決起集会が終わった後、店員がやってきてテーブルを片付け始めた。

そこには謎の折れかけた割り箸、プラスティック製のスプーン、フォーク、ナイフがあった。

 

お店の食器を片付けた後、外部から持ち込まれたであろうそれらを取り分け、

割り箸は可燃ゴミへ、その他のカトラリーたちはプラスティックのゴミ箱へと分別された。

 

 

・・・

 

 

箸くんが目覚めた時、彼は今まで見たことがない部屋に閉じ込められていた。

悪臭がひどく、腐乱しかけている果物や野菜たちが寝そべっていた。

彼は自身の身体を確認したところ、着物は身につけているようだった。

どうやら箸袋に入れられたまま捨てられたらしかった。

せめてもの武士の情けだろうかと、彼は天に感謝した。

 

トートバッグの中で出会った兄弟たちとは、

また別々の場所に葬り去られることになった。

素材が違う彼らとは、こうなることはお互いの定めだとわかっていた。

せめて、先ほどまで同じテーブルの上で戯れることができたのが救いだった。

 

捨てられる前に兄弟揃って受けたありがたいお経はなんだったのか、

そんなことは彼には知る由もなかったが、

自分たちが誇りを持って従事した労働の果てに、

せめてもの感謝の念を込めて供養してもらえたような気がしていた。

 

もう自分はこの部屋の中から出られることがないのはわかっていた。

やがてどこか別の場所へ強制連行され、焼却され、また生まれ変わるのだ。

牛若丸に従軍した千年前から、何度も転生を経てたどり着いた今までの時間に思いを馳せた。

そして、これからまた転生して役目を全うし、やがて灰になって自然に帰り、

またどこかで植物としての生命を授かることができようものなら、

運よく割り箸に転生することができるかもしれない。

その時は、彼はまた彼女のお役に立ちたいと思った。

 

だが、もし自分があの人の側にいられなくても、

彼には何万本という兄弟たちがいた。

自分の代わりの割り箸たちが、しっかりと彼女のことを支えてくれるだろう。

そんなことを考えながら、彼はこの悪臭が支配する暗い部屋の中で意識を失っていった。

悲しくはない、どうせまた生まれ変わるのだ、彼はいつものように未来の姿を、

そして、自然のメカニズムに支えられている転生を考えたくなった。

 

 

彼女の旗の元に集まった戦士たちはどうなっていくのだろう?

この戦乱の風吹き荒れる児玉坂の街で、ともかくも勇敢に戦い続けるのだろうか?

決起集会を終えた軍が、この先どうなっていくのかは知る由もない。

三国鼎立のにらみ合いを続けるのか、それともどこかの軍が天下を手中に納めるのか。

未来の答えは誰にもわからないが、ひとまずは行方をしばし見守ってみようではないか。

 

 

箸くんは薄れていく意識の中で、佑紀の声が聞こえた気がした。

 

「箸くん箸くん、人生で大事な三つの袋は何って友達に尋ねたのね」

 

それは結婚式のスピーチでよく言う三つの袋の話に似ていた。

箸界では知らぬ者はいない、若森先生から伝授された話かもしれなかった。

 

「そしたらね、真冬は胃袋って言うの、旦那さんの胃袋を掴まなきゃダメだって。

 レイナはね、堪忍袋って言うの、旦那さんといつまでも仲良くできたら幸せだって。

 りさ先輩は給料袋って言うの、旦那の稼ぎだけに依存してちゃダメだって」

 

これはひょっとすると、意識が薄れていく箸くんの幻聴かもしれなかったし、

もしかすると、佑紀からの箸くんへの感謝の思念かもしれなかった。

真実はともかく、戦いを終えて孤独に消えていく彼にとって、それは何よりも温かい声だった。

 

「三人の返答にはそれぞれの人生哲学があって素晴らしいと思うんだけど、

 でもね、私はそんなふうには思わないの。

 そんな袋がなくっても、私は箸袋さえあればやっていけるの。

 お箸で仕事を取ってきてお金を稼いで家を建てて、

 お箸でご飯を食べることができるなら、それだけで十分じゃない?

 だから私、将来好きな人ができたらこう言うつもりなの。

 あら、人生で最も大事な袋は箸袋よって、なんか素敵じゃない?」

 

箸くんは息をひきとる前にかすかに笑った。

そして思った「確かに面白いかもしれんが、婚期が遅れるからやめたほうがいいな」と。

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

 

誰かの見方 ー自惚れのあとがきー

 

 

「そんなアホな」を書き上げてから数日、

もうしばらくは執筆をしないと思っていたのだった。

 

かなり長い作品を書いてしまったし、他にしなければならないこともあったので、

趣味ばっかりしてないで勉強もしないとなと思っていたのですが・・・。

 

この児玉坂の物語を構成するやり方は主に2つある。

1つは、筆者が勝手に何かメッセージを込めたい場合に書きたくなる。

もう1つは、何か大きな出来事があった場合に、児玉坂の街にも反映させたくなる。

この物語は間違いなく後者の理由によって急遽生まれた話である。

だから筆者も、勉強しなきゃいけないのにもかかわらず、

どうしても書きたくなってしまったのである。

 

幸いにして主人公は若杉佑紀なので、もうそれほど調べる必要はなかった。

一度過去に書いたキャラは、大体の感覚で動かすことができる。

細部は忘れてしまっても、大枠の感覚が残っていれば大丈夫なのである。

前作の「狭間」は長編だが、今読み直してみると、これは誰が書いたのかと思った。

それくらい気合を入れて書きすぎていて、歴史が好きな人以外には非常に読みにくい。

あの頃は、まだ自分が書きたい世界観が色々とあったし、実験的にやっていたし、

とにかく割と自分本位な感じでやっていたのであんな感じになっていたと思う。

今現在は、いい意味で適当な力加減で書いていて、細部は荒いのだけど、

あまり時間をかけていられないので、この程度で良いかと割り切れている。

 

この物を擬人化する手法は、確か去年くらいのアイデアだった。

頭の片隅に置いておいたが、使う機会に恵まれていなかった。

今回の作品のために、そうだ箸くんがいたじゃないかとなって、

箸くんを擬人化することに大決定したのであったが、

こんな卑怯な展開、そしてくだらないオチ、中身のない物語・・・。

一体どの段階で気付かれたのか、それともわかりにくすぎて気付かれなかったのか、

筆者にはわからないが、とても気になるところではある。

 

ちなみに、今作品のタイトルは「誰かの見方」と「転生を考えたくなる」で迷った。

余談だが、箸袋で画像検索すると、様々なデザインの箸袋が見つかる。

筆者にはもう、それは箸くんの着物にしか見えないのであるが、

おしゃれなものもあるし、佑紀に一つデザインしてもらいたい気もする。

 

 

今回、ついに三番目の風が吹いた。

こんなに早く登場させるつもりはなかったのだが、

軍団メンバーになっているから仕方ない。

でも三人はまだ研究中であり、本気で書いてはいない。

 

本気で研究するとものすごい時間がかかる。

それはまた時間あるときにやるとして、上っ面だけのキャラだが許してほしい。

とりわけ天下詩月はショールームでたまたま見ていて、

言葉が悪くて申し訳ないが「この人、めっちゃアホだな」と思った。

関西の表現では、アホは「可愛いやつだな」という意味を含む褒め言葉でもある、多分。

なんにせよ、くだらないことを言いながら物語を進めてくれるので、

書いている側にはありがたいキャラの一人だなと思った。

菊ちゃん、森ちゃん系の、ハチャメチャ感を持っているタイプだ。

 

阪内珠弐と梅川千波は、正直まだ少ししか見れていないので、

本質的なところはまだつかめていない、表面的に見えているネタをすくった感じである。

ショールームをちょっとだけ見て、話ぶりを参考にさせていただいたり・・・。

二人ともいい子だなと思うし、もっと深く掘り下げても見たいので、

もちろん、また今後も研究を続けていこうと思う。

時間をかけて見ていけば、もっと自ずとわかってくることだと思うし。

 

 

そんな感じで、時間がない中でも書き始めたのが本作である。

頭の中にある他の作品は、まだ調べる時間がかかりすぎて踏み出せていない。

今作は、調べる必要が比較的に少ないので、いつかできるから今日できる、と思って踏み込んだ。

言葉というのは、ときに人に勇気を与えたり背中を押したりできる。

筆者も、いつかそんな風になれたらいいなと思ったりする。

 

 

ー終わりー