帰り道、鳩回りしたくなる

 

 

「さて、問題です。

 古池や 蛙飛び込む 水の音。

 この俳句を詠んだ人物は誰でしょう?」

 

出題者が問題を読み上げると、すぐさまボタンを押して飛び上がった女がいた。

先ほどまで真剣な表情で考えていた姿とは違って、すでに正解を確信した喜びを隠しきれていない顔をしていた。

 

「これはわかりました!

 正解は・・・鑑真!」

 

女は自信満々に答えたが、無情にもブーっと言う音が鳴り響いた。

不正解という結果に「なんでー!?」と声をあげ、彼女は腑に落ちない表情で頭を抱える。

 

「ピローン」と音が鳴ったのは、隣に立っていた女の子がボタンを押したからだった。

彼女もまた飛び上がるようにして、興奮した様子で回答を待っていた。

 

「・・・和尚さん?」

 

その答えは完全に鑑真に引きづられたものだった。

答えが抽象的すぎる時点で正解であるはずはないのだが、

女の子は「だって蛙飛び込むの古いお寺だから」と自説を貫いている。

 

「わかった!

 一休!一休さん!?」

 

「・・・あの、お坊さんからまず離れてください」

 

出題者が困り果てたようにそう告げた。

正解は松尾芭蕉でしたと出題者が告げると、

2人は全くピンとこない表情を浮かべていた。

 

「次の問題です。

 603年に聖徳太子が制定したと言われる、

 17条からなる法文を何というでしょう」

 

出題者が問題を読み上げたが、2人は難しい顔をしたままピクリとも動かない。

 

「・・・ホウブン?」

 

しばらく悩んでいたが、1人がとりあえずボタンを押した。

「ピローン」と音が鳴り、回答権が与えられる。

 

「・・・センター試験?」

 

ブーっという音で不正解が告げられると、

隣の黒髪の女の子の方がボタンを押した。

 

「・・・期末テスト!?」

 

またもや連想ゲームのようになってしまった流れで、

「あっ、わかった、社会のテストだ!」と発言するも不正解。

「聖徳太子さんという方がいらっしゃったことは知ってて・・・」と黒髪の女の子がいい、

ではその人が生み出したものはと尋ねると「・・・明太子?」と埒があかなかった。

 

「わかった、イクラだ!イクラ!」ともう1人の女性が身を乗り出して答えた。

こんな風にして、先ほどからクイズは一問も正解を出していなかった。

 

 

・・・

 

 

彼女たちを見下ろす高さには窓がある。

その窓から彼女たちを見つめているのは、身長はおよそ150センチくらい、

細身の体をしており、衣服を身にまとっておらず、性別もわからない生命体だった。

身体つきの割には頭が比較的大きく、目が顔の面積の多くを占めている。

だがその瞳には火が宿っていない、まるで冷たくて温度が感じられず、

しかし見つめられると全てを見透かされてしまうような嫌悪感を覚える。

大きな頭には毛髪はなく、鼻と口は進化の途中で何かの事情でその進行を止めてしまったのか、

まるで飾り物のように申し分程度に目の下に付随しているようだった。

 

「ドウダ、リサーチノセイカハ?」

 

窓を見つめいていたその生命体の背後から、

同種族と思われる生き物がそう話しかけた。

窓を見つめていた、ここでは仮に彼か彼女を「生命体A」と呼ぶことにする。

生命体Aは問いかけに何も答えずに、ただじっと窓から下を眺めていた。

 

「ハイ、ワタシニハナニガナニヤラマッタクワカリマセン」

 

淡々と答えた生命体Aの回答に、我々が仮にここで「生命体B」と呼ぶことにする、

背後からやって来た生き物の方も、同じように窓の下を眺めて彼女たちに視線を向けた。

 

「オマエハコノホシノセイメイタイヲミルノガハジメテナノダナ、マアムリハナイ」

 

生命体Bはゆっくりとした動作で右手を生命体Aの肩の上に置いた。

その動作が何を意味しているのか、どうしてこうした状況でこのような動作をするのか、

それもまたリサーチが求められるかもしれなかったが、それがある種の労いであることは我々にも見て取れるだろう。

 

「コノホシノセイメイタイヲリカイスルノハカンタンナコトデハナイ、キニスルナ、ワタシモカツテハソウダッタ」

 

窓の下では相変わらず女の子2人がクイズに取り組み、一問も正解しない状況が続いていた。

生命体Aは窓に両手を置いて覗き込みながら、大きくうな垂れるような姿勢をとった。

 

「ワタシニハワカリマセン、ドウシテコノホシノセイメイタイガコレホドノブンメイヲキズクコトガデキタノカ・・・」

 

窓の下には「あーここまで来てるのにー!早く来て来て来てー!」と悩ましげに叫ぶ女の子と、

「私の知ってるけんじさんはたまご好きが多くて・・・」と回答とは関係ないことを説明している女の子がクイズに奮闘していた。

 

「・・・シュトクシタサンプルニモンダイガアッタンジャナイノカ?」

 

「イエ、サンプルハムサベツ二エラビマシタ。

 シュトクチテンハ、コダマザカ、トイウマチデス。

 ヒトリハコノマチニスンデ、モウナナネンホドデ、モウヒトリハ、サイキンコノマチニヤッテキタ、ワカモノデス。

 サンプルノシュトクホウホウニモンダイガアッタトハオモエマセン」

 

生命体Aががっくりと項垂れていると、生命体Bはまた肩をポンと叩いてから、

窓から離れた向こう側に備え付けられてある椅子のところまで連れて行った。

そこには三角形をした機械が備え付けられており、生命体Bが乱暴に足で蹴りつけると、

中からパックに入った飲み物が出て来て、それを手にとって生命体Aにも渡した。

 

「マアトリアエズ、ココニスワレヨ、ソレカラ、ソロソロコノハナシカタヲヤメヨウジャナイカ、コレデハドクシャモヨミニクイダロウシナ」

 

「ダケド、イイノデスカ、ワレワレガフツウニカイワシテシマッテモ?」

 

生命体Aがそう尋ねたが、生命体Bはパックに入った液体をストローでチューチュー吸いながら答えた。

 

「いいんだよ、我々が未確認生物だという印象はもう十分伝わっただろう。

 読者が読みにくいのは良くないからな、ここからは日本語で話をすることにしよう」

 

生命体Aはパックの液体を飲み終えると、最後に口を大きく開けてそのパックを飲み込んでしまった。

生命体Bもその様子を見て、同じように液体とパックを摂取して右手で口元を拭った。

 

 

・・・

 

 

「やはり、私のサンプルの選び方が良くなかったのでしょうか?」

 

生命体Aは項垂れたままで生命体Bにそうこぼした。

男女の区別は不明なので、仮に我々はこの生命体のことを「彼か彼女」と扱うことにする。

 

「何かを選択するときに、我々はある種の好みに基づいて選んでしまう可能性がある。

 無意識的に選択したものが、一定の傾向を持ってしまうことは良くあることだよ」

 

生命体Bはそう解説しながら生命体Aの方へ顔を向けた。

見た所、彼か彼女らは常に無表情なので、感情というものを見抜くのは困難だった。

 

「生命体の中にも個性がある、文明を築いたのはまた別の個性を持った奴らだろう。

 だからと言って、このサンプル達が失敗だったと決めつけることはできない。

 なぜなら、このサンプル達は君に選ばれた、選ばれる何かを持っていたからだ」

 

生命体Bはそこまで言うと、先ほど飲み込んだパックを液状にして吐き出した。

床にこぼれた液体を、足でグシャグシャと踏みつけるようにして薄べったく引き伸ばして行く。

 

「クイズの正解率はほぼ0%なのですが、なぜか私は彼女達に好意を抱いています・・・」

 

そう言ってから、生命体Aも先ほどのパックを液状化して床に吐き出した。

また足で薄めるように床に引き伸ばして行くのを、今度は生命体Bも手伝うようにして足を貸す。

 

「それが答えかもしれないな、おバカというのは愛されるということと紙一重かもしれない」

 

「しかし、黒髪の女の子の方は、この現実をあまり受け入れたくないようにも見えます。

 悲観的に捉えてしまうようでは、彼女にとっては辛いことなのではないでしょうか?」

 

生命体Bは椅子から立ち上がり、また三角形の機械のところまで行ってから機械を蹴りつけた。

ガタンゴトンと中からパックに入った液体が二つ出て来て、それを持って椅子まで戻る。

彼か彼女らはストローをさしてはまた、同じようにチューチューと液体を飲み干して行く。

 

「それは彼女達の個々の未来についての関心であるから、本来的には我々の知るところではない。

 どうやらお前は彼女達に好意を抱き始めてしまったようだ、それがこのリサーチに伴う副産物というか、

 この星に来たものが初めて気づく不思議な感覚の一つなのだよ」

 

生命体Bはまた口を開けてパックを飲み込んだ。

先ほどよりも早い段階で、パックを液状化させて床に吐き出した。

それをまた足で引き伸ばして行くのだが、生命体Aはまだパックの液体を飲み干せないでいた。

 

「個々の生命体が生きて行くためには、様々な寄り道を経て行くにせよ、

 最終的には自己肯定をして進むしかない、彼女にそれができるなら未来は明るいだろう。

 おバカとは愛される魅力の一つだと、彼女自身が受け入れることができればな」

 

生命体Bが生命体Aの肩に手を置いた。

生命体Aもまたパックの液体を飲み干し、パックも飲み込んで、また液状化させてそれを床にぶちまけた。

足で床に塗りつけてから、彼か彼女らはまた椅子から立ち上がって窓の方へと歩みを向けた。

窓の下の部屋ではクイズ大会はまだ続いていたが、やはりまだ一問も正解は出ていなかった。

 

「そういえば、もう1体のサンプルはどうした?

 我々にそっくりな姿形をした生命体がこの星にもいたということで、

 特別にサンプルとして取得したと聞いたが?」

 

生命体Bがそう尋ねると、生命体Aはしばらく沈黙の後で口を開いた。

 

「あのサンプルは検証の結果、我々と同類の生命体ではないことが判明しました。

 姿形は我々に酷似していましたが、我々のように嘔吐の習慣はほぼありません。

 やはりこの星の生命体のようですが、おそらくすこぶるあざといタイプです。

 知能レベルは高いですが、どういうわけかすぐに肩を露出させる傾向があります。

 この星の生命体は恥じらいから衣類を身にまとうと聞きましたが、

 どうして肩の部分だけを露出させるのか、リサーチの結果はまだよくわかっていません」

 

生命体Aがそう答えると、生命体Bは少し残念そうに見えた。

表情からは何も読み取れないが、態度と少しの沈黙からそう読み取れた。

 

「そうか、もし我々と同種でないのなら、余計なリサーチは必要ない。

 近いうちにでもリリースするようにしたほうがいい。

 肩の露出についてリサーチをすることが我々の目的ではないのだしな」

 

そう言ってから生命体Bはフラフラとどこかへ歩き始めた。

どうやらまた三角形の機械を蹴り飛ばしに行ったらしく、

例のパックを2つ手にとって戻って来たようだった。

生命体Aはまだ窓の下のクイズ大会を眺めているようで、

頭を抱えながら頑張っている2人の女の子に視線を向けていた。

 

「この星の生命体は可愛いですね。

 私も機会があれば、ぜひこの星に住んでもっとリサーチを続けてみたい」

 

生命体Bはまた例のごとくパックから液体を摂取し、パックを飲み込んだ後、

今度は勢いよく嘔吐したせいで前面の窓に嘔吐物がかかってしまった。

彼か彼女はおもむろに椅子から立ち上がり、窓に近づいてはそれを足でまた窓に薄く引き伸ばして行く。

 

「お前も運が良ければインスペクターの順番が回ってくることもあるだろう」

 

「インスペクター?」

 

「そうだ、我々の星からインスペクターとして選ばれたものが、

 十数年おきにこの星にも赴任してこの星の生命体を監視することになっている。

 人間達はこの星を汚染しながら文明を築き、火星に移住する、月へ旅行に行くなどと、

 最近では宇宙にまで汚染を広めようと企んでいる様子なのだ。

 だから彼らの動向をリサーチし続ける監視役が必要だというわけだ」

 

その話を聞きながら、生命体Aもパックから液体を飲み干し、パックを飲み込み、

その嘔吐物を勢いよく今度は生命体Bの顔面にぶちまけた。

そして、彼か彼女に近づいては足で生命体Bの顔に薄く引き伸ばして行く。

 

「こんなに可愛い生命体が宇宙を汚すのでしょうか?」

 

右手で口の周りについた嘔吐物を拭いながら彼か彼女はそう言った。

少し残念な思いが頭をよぎったのかもしれない。

 

「この星の生命体には我々と違って衛生観念が欠落しているのだ。

 自分達がこの惑星を汚していることなどに何の罪悪感も持っていないよ」

 

生命体Bはそう言ってから大きなゲップをした。

生命体Aはまだ吐き足りなかったのか、残っていた嘔吐物をまた彼か彼女の顔にぶちまけた。

足で薄く引き伸ばしてから、彼もまた大きなゲップをした。

 

「さあ、リサーチが済んだら、もうサンプルはリリースするんだな。

 きちんと記憶を消去してからリリースをするのを忘れるな。

 我々の存在がこの星の生命体に気づかれると厄介だからな」

 

そう言い残して「ジャアナ」と手を振ってから、生命体Bはもうその場を離れてしまった。

生命体Aは自分もいつかインスペクターになって、

またこの星に来てリサーチを続けたいと思いながら、

窓に両手をついて部屋の中にいる彼女達の姿を眺めながら、

またひとつ大きなゲップをしてその場を立ち去った。

 

 

・・・

 

 

 

 

「それでは次のニュースです。

 皆さまは信じられるでしょうか?

 昨日未明、東京の児玉坂の街の上空で、

 UFOのような未確認飛行物体が目撃されたという声が相次いでいます」

 

TVの画面には午後のワイドショーが映し出されていた。

お昼のピーク時間を過ぎた頃は、従業員達も少しだけ気楽になれる。

店内にはいつも通りピザの焼ける匂いが充満していて、

電話やネットで注文が入ると、従業員達はチーズやサラミを乗せたりしながら、

オーブンにピザを放り込んでは取り出して行く。

もう長い間働いているのだろう、手慣れた風に仕事をこなしていき、

配達に出るものはピザの入った箱を袋に入れていつものように店を出て行く。

 

店の奥には休憩室があり、従業員が交代制で休憩を取ることになっていた。

そこには椅子と長机、いくつかの自動販売機と電子レンジなどが備え付けられていて、

TVは誰もいなくてもひたすら部屋の中に雑音を流すことで静寂を打破する役目を負っていた。

窓の外には店の裏にある公園の樹木が立ち並んでいるのが見えて、

そこから差し込む太陽光は、晴れた日にはとても心地よく感じられた。

アルバイト達は早めに休憩を回し、社員である店長はいつも遅めに休憩を取ることになっていた。

この時間の休憩室には、いつも店長が1人で休憩していることが多かった。

 

「・・・店長、何を描いてるんですか?」

 

誰かに呼びかけられたことで、休憩室で鉛筆を動かしていた手が止まった。

黒鉛が画用紙の表面を撫でる音が止み、店長は呼びかけられた方へ顔を向けた。

 

「・・・あっ、蘭々ちゃん、もう配達終わったん?」

 

女性の店長は人懐っこそうな笑みを浮かべてそう言った。

先ほど描いていた画用紙を少し手で隠すようにしていたので、

恥ずかしいのだろうと察したアルバイトの蘭々は、

その内容が気になりながらも、見て良いものかどうか迷った。

 

「はい、あの・・・もう終わりました。

 いえ、あの、私、見てないですよ、見ちゃダメかなって、思ってたし、

 でもやっぱり何描いてるか気になるし、でも聞いちゃダメかなって思うし・・・ああ」

 

どうにも描いていたものが気になったので問いかけてしまった蘭々だったが、

尋ねてしまってから、やはりこれは見てはいけないような気がしてしまい、

気になりながらも目を逸らしながらしどろもどろになってしまった。

そんな様子を見ていて、どうやら蘭々が気を使っていると悟った店長は画用紙から手をずらした。

その仕草に気づいた蘭々は、どうにも照れ臭くて少し申し訳なさそうなそぶりで、

それでもどうにか自分の好奇心を満たすために恐る恐る視線を動かしていく。

2人はお互いに気を使い合うタイプなので、いつも物事の展開がこのように細やかに進むのである。

 

「えっ、あっ、可愛い~!」

 

絵を見た途端、それが自分の好みに合うものだとわかったことで、

蘭々はなんだか許しを得たような気がして、パッと表情を明るくさせ、すぐに店長が描いていた画用紙に駆け寄った。

だが、そこに描かれていたのは、あまり一般的には可愛いと呼べるものではなかった。

その描かれていたキャラクターは硬い岩のような球体に瞼の重たそうなギョロリとした両目を持っていたが、

その代わりに鼻も口もなく、また強靭な両足を持っていたのだが、

その代わりなのか両腕はなく、一般的にあまり可愛いとは呼べない格好をしていた。

その一般的にはあまり美しい外見とは言えないキャラが可愛く見えたとするならば、

おそらく今日描いていたのは、それに猫の被り物を着せていたからだろう。

頑固そうで無表情の謎のキャラクターと、猫の被り物が不思議とマッチしていて、

その絵を眺めているだけで、素人でも彼女の画力の高さが理解できた。

 

「・・・えーっ、ありがとう、あんま褒められたことないけど」

 

店長はモジモジしながら恥ずかしそうにそう言った。

蘭々は画用紙を手に持って、右手で口を押さえながら嬉しそうに絵を見つめていた。

 

「ああ、店長相変わらずお上手ですよね。

 私もこれぐらい絵が上手くかけたら人生楽しいだろうなって、いつも思うんです」

 

そんなことを言われた店長は、なんだか照れ臭そうに歯を見せて笑いながら、

日差しが差し込む休憩室の中でまるで猫のように伸びをして見せた。

TVは相変わらずワイドショーが流れていて、司会者が驚いたような声をあげた。

「宇宙人が来たなんて、これまた嘘みたいな話ですけどね、どうなんでしょうね?」と話をふる。

お昼のワイドショーは実際のところ、どうでも良い話題に1時間も2時間もかけて話をする。

だが、話をしてもどうにも解決にもならないし、誰もそんな風に真剣に解決策を考えてもいない。

ただ空費された時間とエネルギーは、この街の空に音声として立ち上っては煙と消える。

 

「でも、いつも描いてるこのキャラクターってなんなんですか?」

 

蘭々がそう尋ねたとき、伸びをしていた店長は一瞬だけ表情を曇らせた気がした。

そのわずかな気配が、蘭々にも感じ取られて、この質問した時間を巻き戻したく思った。

 

「・・・えっ、特に何ってこともないけど」

 

店長はそう言って答えを返した。

それはワイドショーで空費されるコメントとなんら変わりなく、

中身があるわけでもない返答の一つだった。

 

「あっ、別に深い意味はないんです、ごめんなさい・・・。

 ただ店長がいつも描いていらっしゃったんで、何か深い意味があるのかなと、あわわ」

 

蘭々が画用紙を机の上に置いて、両手で口を押さえながらあわあわし始めたので、

店長もなんだか申し訳なく思えて、また答えを返すことになった。

 

「ううん、別にそんな気にせんでええよ。

 ただ、ほんまにそんななんも深い意味があるわけじゃないから・・・」

 

「・・・そうなんですか。

 なんか関西の方で流行ってるキャラクターかと思いました、店長、大阪出身ですよね?」

 

蘭々の問いかけに、店長は少し節目がちになりながら答える。

 

「そうやけど・・・別に関西で流行ってるわけでもないし、

 なんとなく描いてるオリジナルキャラやから、そんな何も語るほどのこともないかなって・・・」

 

左手で右手首を掴みながら、店長は照れ笑いを浮かべて長机に身体を預けた。

猫が伸びをしたような姿で小さく「にゃー」と言いながら彼女はまた笑って見せた。

その姿を見ている人をなんとなく和ませるような不思議な魅力が彼女にはあった。

 

「ええ、そんな、私、とてもいいと思います」

 

蘭々は手のひらを小刻みに振りながらそう言った。

そして、もう一度画用紙を手にとって、そこに描かれていた謎の生物を見つめた。

 

お店の方から誰かに呼ばれたので、蘭々は返事をして画用紙を置いて休憩室を出て行った。

それを見送った店長は、また部屋に1人になり、少しだけ息を吐いてから視線をTVの方へ向けた。

休憩中なので制服の上から羽織っていたグレーのパーカーの袖を引っ張って手首を隠すようにして、

長机の上に腕を伸ばしてはその上に体重を預けてもたれかかった。

 

「でも、もし本当に宇宙人が地球を侵略してきたら、みなさんどうしますか?」

 

最近、TVで引っ張りだこの芸能人司会者がそんな問いかけをした。

本当はそんなこと、全く興味なんかないに違いないと彼女は思っていた。

少し過激な発言や毒舌で人気が出たこの司会者は、好かれるのと同じくらい誰かに嫌われていて、

お仕事だからこんな自分には無関心な話題でも、それなりに興味を持っているふりをして喋っているのだ。

話を振られたTVの中の法律の専門家は、宇宙人に対抗する為にどのような法改正が必要かの話をさせられていた。

歴史の専門家は、宇宙人の来襲を江戸時代の黒船来航に例える人もいて、司会者は失笑しながら話を切り返していた。

江戸三百年の平和を享受していた人々には、まさか黒船がやって来るなんて想像もしていなかったように、

我々の未来には、時として日常を激変するほどの1日がいつの日かやって来るのだと歴史学者は力説していた。

「もうそうなったらみんな死んじゃうよね、俺なんかもう美味いもん食って愛犬と過ごせたらいいや」と司会者は投げやりなことを言い、

「嫁より愛犬ですか?」と芸人に突っ込まれ、「地球最後の日に嫁といることを選ぶ世の中のお父さんなんて何人いると思う?」と切り返す。

 

そこまでTVを観ていた店長は、自分のお腹が「ぐぅ」となったことに気づいた。

そういえば絵を描くのに夢中になって、まだご飯を食べていないことを思い出し、

カバンの中からお弁当を取り出して、その蓋を開けた。

いつもと変わらない、自分で作ったおかずを食べながら、

普通の日常の中にあるささやかな幸せに浸ってみた。

 

昨夜のとうもろこしご飯の残りで作ったおにぎりを齧りながら、

TVは相変わらず様々な意見を飛ばし続けた。

政治ジャーナリストは今までの国際政治の取材をしてきた経験から、

宇宙人はすでに地球にスパイを送り込んできていてもおかしくないと指摘した。

「じゃあ何、僕らの生活の中にはもう宇宙人が忍び込んでて、日夜監視されてるってことですか?」

と司会者が話を振ると、「なんか宇宙人ってうちの嫁みたいなことするんですね」と芸人さんが発言して笑いが生まれたところでCMに切り替わった。

 

「・・・店長、すみません、失礼します」

 

ふと気づいたら、いつの間にかウトウトしてしまっていた店長は、

蘭々が休憩室に入ってきて呼びかけてきたことに気づいた。

急いで身体を起こし、口元を拭いながら姿勢を整える。

 

「ああ、お疲れ様です、あの、北条さんがこられました。

 店長いますかって聞かれたので・・・」

 

「・・・あっ、そうなんや、ごめん、すぐ行くって言っといて」

 

店長は出しっぱなしになっていたお弁当箱をしまってから、

グレーのパーカーを脱いで制服だけになり、鏡の前で髪の毛を気にしていた。

 

「はい、わかりました、お伝えしておきます・・・」

 

蘭々はまた店先へと帰って行った。

両手で髪の毛を直してから、店長もすぐに後を追いかけた。

「じゃあ、この番組の結論として、宇宙人は俺らの嫁ってことでいい?」とCM明けに司会者が言った。

「そんなこと言ってたら視聴者に怒られますよ」と芸人さんがフォローしたが、

「だってこんな話、いくら議論したって答えなんかでないんだから」と本末転倒な事を司会者が言い、

もう番組は次の話題へと移って行き、多くの人々はもう宇宙人のことなどすぐに忘れてしまった。

 

 

・・・

 

 

 

「あっ、七絵、ちょっと、めっちゃ寝てたでしょ?」

 

店先に出てきた店長を見て、北条真未は遠慮なくそんな事を言った。

いくら髪の毛を整えても、顔を見れば寝起きかどうかなどすぐにわかる。

 

「えっ、バレた~」

 

店長の東野七絵も、変に誤魔化したりする性格ではなかった。

彼女がここまで自然体で飾らないでいられる理由は誰にもわからない。

彼女はただ両手を頬に当てながら照れ笑いを浮かべていた。

 

「今日はこれから出勤なん?」

 

七絵は店先に置いてあった椅子に座っている真未の横に座った。

真未はこの店の近くで「Bar Kamakura」というバーを経営していた。

 

「スナックのママも大変やな」

 

「ねぇ~スナックじゃないから、もう別にいいけどさー」

 

Bar Kamakura」は真未とバイトの舜奈が色っぽすぎることから、

いつもスナックと間違えられることはこの街の誰もが知っていた。

 

「今日は何のピザにしたん?」

 

七絵が出てくるまでの間、既に注文を済ませてしまった真未は、

もうピザを入れた箱を膝の上に乗せていた。

 

「別に普通のやつだよ」

 

「先に言っといてくれたら特別なん焼いとくのに」

 

「いやなんかさ、七絵が作ってくれるやつさ、

 具材でピザの上に絵を描いてくれるやつ、

 なんか勿体無くて誰も食べれなくなるのよね。

 お客さんとかに見せたら喜ぶんだけどさ、

 完成度が高すぎてもう芸術作品じゃないかって」

 

「え~、そんなことないよ、ただのピザやで」

 

謙遜しながらも、七絵は嬉しそうに微笑んだ。

いつも買いに来てくれる真未とはこうしてよく話をする。

自分がいる店に来てくれることは、自分が誰かに求められた気がして悪い気はしない。

 

「なあ、ピザって10回言ってみて~」

 

「なにそれ、よくやるやつじゃん。

 真未、よくそれ12回とか言っちゃうんだよね、数え間違えて」

 

適当なことを言いながら、実は言いたくなかった真未は誤魔化したのだが、

嬉しそうに微笑む七絵は、どうしても言わせたくて仕方ないらしい。

 

「数え間違えてもいいから、言ってみて~」

 

どんな企みがあるのかわからないが、子供みたいにお願いする彼女をみていると、

自分が求められていることは悪い気はしないので、真未は大体その手の話に乗ってしまう。

 

「えー、じゃあ、仕方ないから言うけど、1回だけだかんね」

 

「いや、10回やし」

 

「あっ、だからさ、10回言うのを1回だけだからね」

 

「なんかややこしい」

 

そんなことを言いながら、真未は真剣な顔になり、

両手を出して指折りながらピザと連呼し始めた。

なんだかニヤニヤしながら七絵はその様子を見守る。

なにが面白いのか知らないが、もう既に七絵は笑いを堪えきれていない。

 

「・・・ピザ、ピザ、ピザ、ピザ、はい終わり!」

 

「じゃあ、ここの筋肉の名前は~?」

 

そう言いながら、七絵は右手の肘を指した指を内側に滑らせ、

その内側から手首まで伸びるあたりを指差してそう言った。

 

「・・・膝でも肘でもないよね・・・?」

 

「・・・正解は橈側手根屈筋でした~。

 トウソクシュコンクッキンって、なんか必殺技の名前みたいじゃない?」

 

嬉しそうな七絵を見ながら呆れる真未の顔を見て、

それが一番見たかったと言わんばかりに七絵は楽しそうに笑った。

 

「なにそれ、そんなの誰も知らないよ?」

 

「うん、ななも最近知った」

 

「へー、じゃあお医者さんのお客さんが来たら、真未もドヤ顔でそれ言おっかな。

 あれでしょ、知ってますよ、ほらなんだっけ、豚足手刀クッキングだっけ?」

 

「なんかグロい」

 

2人はそんな話をして笑いながら楽しい時間を過ごした。

いつもこんな風にピザを買いに来てくれた時によく話をしていたが、

今日はなぜかいつもより長い時間、いろいろな昔話なんかもしてしまった。

その理由は、真未が立ち去る前になってようやくわかって来た。

 

「えっ、お店を辞める・・・?」

 

七絵がそう聞き返した時、真未はやけに清々しい表情をしていた。

もうずっと長い間考えてから出した結論なのだろうと思った。

 

「うん、真未もね、色々と考えるところがあってさ。

 それで、お店は舜奈に任せてまた舞台役者の夢を追いかけてみようかなって」

 

真未は以前、「新訳・牛若丸」と言う舞台のオーディションを受けて合格し、

北条政子役を演じたことで、諦めかけた舞台役者の夢を思い出したらしい。

昔、どこからかふらっとこの児玉坂の街に移って来てBarを始めたのだが、

新たな夢のために、もうすぐこの街を出ていくのだと言う。

 

「えー、なんかさみしい」

 

「そんなこと言われると真未も寂しくなっちゃう」

 

真未は涙もろい性格をしていることもあり、

特に誰かに自分のことを必要とされると胸が苦しくなる。

 

「なんか嬉しいね、舜奈なんか、そんなこと言ってくれないからさ」

 

「えー、舜奈も心の底では寂しいと思ってると思うで」

 

「そうかなー、真未さんいなくなるなら代わりに鳥でも飼いますって、

 この間なんか派手な色のインコ買って来てたけどね、しかも勝手に店で飼い始めたし。

 なんか元々うちの店を盗もうと思ってたドロボーだったんじゃないかって、最近思い始めたくらいだよ」

 

「えっ、インコ、ななも見てみたい」

 

七絵はインコの話になると突然のように目を輝かせた。

彼女は鳥が好きで、街でも鳩を見かけると追いかけてしまうほどだった。

 

「なんか派手な七色のインコだったよ。

 東京でしか観られないから、地方の方は残念だね」

 

「えっ、何の話?」

 

「・・・舞台・・・じゃなくて、七色のインコの話」

 

そんなことを言いながら真未は椅子から立ち上がった。

ピザの入った箱を持って、お店から出て行こうとした。

 

「・・・七絵も元気でね」

 

「うん、真未も」

 

二人はそれだけ言うと、今までお互いが好きだった気持ちが、

別れ際になってもっと好きになってしまったことに気がついた。

二人がなにも言えずに下を向いてしまって沈黙が訪れる。

やがて真未が恐る恐る口を開いて七絵に尋ねかけた。

 

「・・・ねえ、もしこの街を出て行ってから」

 

「・・・出て行ってから?」

 

「・・・寂しくなっちゃったら、また時々この街に帰って来てもいいのかな?」

 

真未は何だか自信なさそうにそんなことを言った。

旅立ちの前に帰れる場所をとっておくような行為は、

なんとなく前に向かう気持ちを損なう気がしていて好ましいとは思わなかったが、

不安な心が何かを彼女に呟かせたのかもしれなかった。

 

「・・・でも、ほら、私なんかが帰って来たら迷惑かなって・・・」

 

ちょっと冗談交じりの口調で真未がそう言った。

本当は誰かに否定してほしい時に口にする、人間の弱さを垣間見せるやり方で。

 

「・・・いいと思う、この街はいつでも帰って来られる場所やし」

 

七絵は少し伏し目がちになりながらもそう呟いた。

そして、何も答えない真未のかわりに、顔を上げてにっこり笑った。

 

「ほら、また帰って来たらいつでも会えるし、ななも待ってるから」

 

そう言ってから七絵は真未の背中にもたれ掛かった。

肩の上に顎を乗せて、髪の毛の匂いを嗅いで目を閉じた。

 

「また会おうな、約束」

 

「・・・うん、ありがとう」

 

真未は手で涙をぬぐいながら、手を振ってお店を後にした。

 

 

・・・

 

 

 

「では店長、寺屋はお先に失礼します」

 

アルバイトの蘭々がカバンを持ってぺこりと頭を下げてから先にお店を出て行った。

ピザ屋の仕事は夜のピーク時間を過ぎ、後片付けを終えればアルバイトは先に帰ることになる。

 

七絵はみんなを見送った後、残った仕事を片付けることになる。

その日の売り上げを計算し、帳簿をつけたりしてまた明日に備えることになる。

だから帰り道はいつも一人になるし、でもその方が彼女にとっては都合がよかった。

誰かと一緒に帰ることも悪くはないが、何かと気疲れしてしまうこともある。

彼女は一人でいる方が気楽に過ごせると考えていて、そうした自由を満喫するタイプだった。

 

辺りが暗くなった帰り道は、寄り道などせずにまっすぐに家に帰った。

遠回りしたいなどと考えたことは一度もなかった。

特に児玉坂の街で働き出してからは、さっさと家に帰ることを好んだ。

 

大阪に住んでいた学生時代、好きだった帰り道は田んぼ道だった。

家に帰るまでに幾つもの田んぼ道を抜けて自転車を漕いで帰った。

そんな時には友達と一緒だったし、ゆっくり日が暮れる空を楽しみながら眺めることもあった。

 

家にたどり着いて玄関を閉めるとガチャリと鍵をかけた。

この音が何かのスイッチのように彼女を気楽にさせてくれる。

ここからは自分の自由空間の始まりだ、誰かに干渉されることもない。

閉鎖的な空間での生活に対しては批判的な意見が寄せられることが多い世間の一般論とは裏腹に、

誰も声高に叫ばないだけで、本当は一人の時間が好きな人は多いはずだと彼女は思っていた。

世間という得体の知れない世界では、誰も本当のことなんか言うことはできないし、

誰もが本音と建前を使い分けて暮らしているものだと彼女は思っていた。

 

世間に触れ合っている時、七絵は余計なことは何も言わなかった。

なぜなら、何かを言ってしまえば嘘をつくことになるからだ。

世の中で暮らしていくには、嘘をつかずには生きていけない。

特にこの大都会の東京では、見知らぬ人同士がお互いを探り合いながら、

余計な干渉を拒みながらも笑顔を繕って生き続けていく。

だから何か言葉を発することは、すなわちほとんど嘘を言うことに等しくなる。

そして彼女は嘘をつくことが嫌いだった、だから嘘をつかない唯一の方法は、

ただ口を開かない、余計なことを言わない、それが彼女なりの正直さだったし、

何かを言ってしまって余計な誤解を生むことも好きではなかった。

 

部屋にカバンを置いて手を洗うと、冷蔵庫からおかずを取り出した。

昨日から漬けておいたサーモンを、新しく買った炊飯器で炊いたご飯の上に乗せた。

最後に刻み海苔を振りかけて完成、簡単なので自分でよく作るサーモン漬け丼だった。

 

一人でご飯を作ってそれを食べて、食器も片付けて洗ってしまった。

エプロンを外してしまって、洗濯物をまとめたりなんかして、

やがて自分の着ていた衣服も脱いでお風呂に入った。

いつの間にか慣れてしまった一人暮らしの生活は、

自分が子供だった頃の記憶を忘れさせてしまうような気がした。

浴室にいると頭がボーッとして来て、自分が一体何者であったか忘れることもある。

でも時にはこうして色々なことを忘れてしまわなければならない気もする。

全てのことを詳細に記憶している人は、その記憶に引っ張られてしまい、

きっと前に進むことなんてできなくなってしまうに違いないと思った。

 

お風呂から上がり、タオルで頭を拭いて乾かしながら、

コップにお水を入れてテーブルの上に置いた。

カバンから画用紙を取り出して、またお昼の続きを描いた。

あの少し不気味な丸くて目の大きい妖怪みたいなキャラクターを、

いくつも描いたりしながら、4コマ漫画にしてみたりもした。

でもこのキャラクターはどのコマでも同じ表情をしていて、

まるで感情がないみたいにブスッとしている。

もっと見てくれている人に対して上手に笑ったりすればいいのに、

大きな目だけでじっと何かを見つめながら、不器用だから両手もなくて、

ただ強靭な両足だけでずっと頑固そうに地面に立っている。

 

鉛筆を画用紙に走らせていて、時間が過ぎるのを忘れていた。

やがてスマホが音を鳴らしたので、七絵はそれを手に取った。

お父さんから連絡が来ていたので、それに返信をした。

いつも一日の終わりにはこちらから連絡を入れるのだが、

この日だけはうっかり忘れてしまっていたのだった。

 

「本日も、異常なし」

 

それだけ送信すると、スマホをしまってまた絵を描き始めた。

いつの間にかあのキャラクターだけではなく、

得体の知れないキャラクターを多数描いたりもした。

とても非現実的で誰にも見せられないような生き物達で画用紙は溢れ、

一人でそれを見ながらニヤニヤし、満足してからスケッチブックをしまった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「七絵さん、あまり無理しないでね」

 

トートバッグを持った五十代くらいの女性が、

受付のカウンター越しに七絵に声をかけた。

七絵は顔を上げて微笑みを返した後で、

その女性はカバンを肩にかけて外へ出て行った。

 

女性が出て行ってしまった後、そこには誰もいなくなった。

時計の針は夜の11時を指していて、秒針の音まで耳は取りこぼさずに拾う。

部屋の白い壁のそばには観賞用の樹木の鉢が置かれていて、

目の止めどころがない人に鮮やかな緑色を提供してくれる。

受付のある待機場所は灯りがついているのだが、

ここから少しでも離れると暗闇が幕を下ろしていて、

その幕を抜けた先に入院患者達の部屋が備え付けられていた。

 

時々、その暗闇の幕を潜り抜けて誰かがやってくることがある。

七絵以外の人も、もちろん病院内では勤務を続けていて、

患者達の様子を確認しながら暗闇の幕を開けたり閉めたりするのだ。

七絵はその受付の後ろにある机に座りながら事務作業を続ける。

暗闇の幕が開いて誰かが通り過ぎて行くときだけ、

彼女は世界とつながるような錯覚に陥る。

それ以外の時間は、ただ一人で秒針の音を聴いて仕事をする。

 

この場所ではスイッチのオンとオフが外的要因によってもたらされる。

自分の家の部屋では、自分の意思でスイッチのオンオフを変えられるのと違い、

ここでは突然の闖入者によって、彼女は世界と繋がりを持つことになる。

それにはいつも慣れなくて、彼女は時々その切り替えがよくわからなくなる。

混乱が発生している時には、自分がオフのままで誰かと接してしまったり、

オンのままで一人で秒針の音を聴き続けることになったりもする。

 

七絵はここから朝方までずっとこんな不思議な部屋で過ごすことになる。

夜勤で病院に勤めていたとしても、大抵の場合は何も起こらない。

何も起こらないことは良いことではあったが、何かが起きることもあり、

その確率が極めて低いために、起きた瞬間には対応しきれない時もある。

物事はある程度連続的に同じことが続いたほうが対応が楽な気がする。

逆に何も起きないことの連続性を断絶するような緊急事件が発生しても、

とっさに態勢を整えてそれに向き合うことは容易ではない気もする。

だが、それが七絵がここにいる理由であり彼女の仕事であった。

だから多少のスイッチの切り替え不良は仕方ないのかも知れなかった。

 

そうして女性が出て行ってから三十分程度が経過した時、

とても静かに備え付けの電話の音が鳴り響いた。

電話機の音量はこの環境を考慮して最低まで下げられていて、

まるで昆虫か何かが鳴いているみたいに電話は優しく音を立てた。

そのまま聴き流してしまいそうな心地よい音を止めるために、

七絵は受話器をとって「もしもし」と話しかける。

 

「あっ、いた、よかった!」

 

声を聴いただけでこちらが七絵であることを悟られた。

電話の相手は声を聴いただけでこちらもすぐにわかった。

昔、この病院に入院していてお世話したことのある患者さんで、

今は小説家になってTVにも出るようになった中山蓮実だった。

 

「あっ、蓮実さん、お久しぶりです」

 

電話に出るときはいつもスイッチの切り替えを意識する。

だが、緊急患者の対応でなかったことに安堵した七絵は、

ふぅーと息を吐いて蓮実の声に耳を傾けた。

 

「声の調子はどうですか?

 何も起きてませんか?」

 

職場で受けた電話でありながら、蓮実とはもうややプライベートに近い距離であり、

その線引きの難しさに多少翻弄されながら仕事の口調を優先させてしまった。

蓮実は以前、声が出なくなった時にこの児玉坂病院に入院していて、

七絵は彼女の近くでずっと励まし続けていたことがあった。

 

「えー、もう、そんなの大丈夫大丈夫!

 この通りピンピンしてるよ、まあ時々あれだけどね、元々のど弱いからさー」

 

「そうですか、あまり無理しないでくださいね」

 

蓮実は親しい人と接する時には距離が近くなる。

電話越しとは言え、仕事というフィルターを一つかけようとしている七絵をよそに、

蓮実はあまり躊躇せずにこちら側へ踏み込んできてくれる気がした。

それは元々の蓮実の性格なのだが、七絵にはありがたくもあった。

自分には面倒な重たいスイッチの切り替えが求めらえるのに、

蓮実はそんなことを忘れさせてくれるくらいのフットワークの軽さを持っていたからだ。

 

「うん、ねーそれよりさー、看護師さん辞めちゃうんでしょ?」

 

受話器の向こう側から蓮実がそう言う声が聴こえ、

七絵はまたどうやって答えようか一瞬迷ってしまった。

スイッチの切り替えが、そもそも重たい口を開くことにも、

七絵は長けていたわけでもないのに、電話と言うのは見えない分、

どうしても口を開いて他人と関わるしかないのだから。

 

「・・・うん、誰か言ってました?」

 

「うん、こないだ電話した時に別の看護師さんから聞いた」

 

蓮実はいつもこの時間くらいを狙って病院に電話をかけてくることがあった。

七絵が一人で仕事をしていることが多いのも把握していたし、

何かと愚痴を言ったり世間話をしたりしたかったのだ。

声が出ない時には落ち込んでいた蓮実も、声が出るように回復すると、

七絵の何倍も口を動かしてしゃべることが多かった。

小説を徹夜で原稿書き上げたやら、外国人の友達が欲しいんだよねやら、

七絵は電話越しに相槌を打ちながらそんな話を聴いていたことがあった。

彼女の声が戻った後でも、定期的にこうして電話を受けながら、

彼女のやりどころのない感情の処理を引き受けていたと言える。

 

「うん、まあ、いつかこう言う時がくるってわかってはいたけどねー」

 

受話器の向こうから聞こえてくる声が時計の秒針の音をかき消してくれる。

この病院の静かな部屋の中で、ただ灯りと知人の声だけがここにある。

 

「でもさ、やっぱさ、どうしてもさみしいよね」

 

その言葉をもらえるのはありがたいことだとは思った。

だが、七絵はそれにどう答えればいいのかわからなかった。

もうこの病院を辞めてしまうことはすでに決まっていたし、

ここで働いている人みんなが知っている事実を今更変えられない。

感情をぶつけてくれることはなんとなくありがたいことだと思いながらも、

それに対してどうしたら報いることができるのかよくわからなかった。

 

「・・・あっ、ごめん、やっぱ今のなかったことにして!」

 

何も答えない七絵の無言を聴いて、とっさに蓮実はそうして前言撤回を申し出た。

だが、一度口に出した言葉は消えない、それに伴う感情も打ち消すことはできない。

二人はなんだか気まずい感じになって、しばらくの間また沈黙が支配したために、

七絵の耳には壁にかけた時計の秒針の音が聴こえてきた。

思わずそちらへ目をやると、時刻は間も無く深夜0時になるところだった。

 

「・・・ごめんねー、なんかこんな遅くに電話しちゃってー」

 

何も言い出せないまま時が流れていくのを気遣ったのか、

蓮実がまた口火を切って話を再開し始めた。

 

「えー、大丈夫ですよ、いつもだいたい一人ですし」

 

「看護師さん仕事辞めたらさ、実家に帰っちゃったりするの?」

 

「えー、うん、一応家族と会う予定はあるかな」

 

「じゃあさ、またあのお父さんと会うの?」

 

「あー、いつか話ししましたね、何を言っても『お』しか言わない父の話」

 

蓮実が声を出せないで入院していた時、彼女を元気付けようとして話をしたのが七絵の父親の話だった。

少し変わり者のお父さんで、何を言っても「お」しか言わないという話が面白かったので、

蓮実は声が出ない中でもお腹を抱えて笑ったことがあったのだ。

 

「でも確か、手紙とかだとちゃんと色々と書いてくれてたよね?」

 

「うん、まあ話をするのが苦手なんでしょうね、喋ってるといつも『お』しか言わないんです」

 

「やっぱその話って鉄板だよね、ウケるわ、でも絶対いいお父さんだと思うけど」

 

「うん、まあ、だから普段はメールとかでのやりとりが多いですね」

 

「へー、そうなんだ」

 

「ところで、蓮実さんも小説書けましたか?

 なんか前に、書いてる途中のやつがあるって言ってたから」

 

「あー、そうなのよ、こないだも徹夜で原稿書いててさー、

 やっぱ書き上げた瞬間の達成感はやばいよねー。

 でもさ、後で読み返してみると全然面白くなかったりもすんの。

 もうさ、よくこんなクソな小説書いたなって思うときもあるしねー」

 

そう言いながらも蓮実は大きな声で笑っていた。

それに釣られたのか、七絵も自分の口角が上がっていることに気がついた。

そして、そんな自分に驚いて空いてる方の手で頬を抑えた。

 

「でもまあ、いいの書けるときもあるし、クソみたいなのの時もあるけど、

 それでもなんか頭に浮かんでくるものは書いておきたいしねー。

 頭に浮かんだだけで消えていくの勿体無いじゃん?

 実は人間ってすごい勿体無いことしてるのかもね、

 だってさあ、頭に浮かぶいろんなことって、明日になったら忘れちゃうしさ、

 何かの形になって残るものってほんの一握りだと思うわけー。

 だけどなんか形になって残ってたら、私が生きた証みたいにもなるしさー、

 それを見て昔を思い出すこともできるから、なんもないよりあったほうがいいのかなって」

 

七絵は受話器の向こうから聴こえてくる声をずっと聞いていた。

自分は話をするのが下手なので、こうして喋ってくれる蓮実はありがたかった。

でもだからと言って、相手の話を全部集中して聴いてしまうほど、

自分は他人の話に絶大な興味があるわけでもなく、

申し訳ないなと思いながらも、時には右から左に受け流してることもある。

だけどそれでも、何かを聴きながら何かを考える方が楽ではあると思った。

 

「・・・っていう私のクソな小説を正当化するっていうどうでもいい話なんだけどさ。

 えっ、今の話聞いてたー、まあ聞いてなくてもいいけどね、全然なんの役にも立たない話だしー」

 

「あっ、ごめんなさい、半分聴いてて、半分は聴いてなかった」

 

七絵は笑いながらそう言った。

これは嘘ではないし、蓮実はこの正直な意見を受け入れてくれるから口を開けると思った。

他の人だったらこうはいかない、正直に言ったら怒られるかもしれないし、

でも嘘をつくのは嫌だから、どうしても口ごもってしまい、それで終わる。

頭の中に浮んだ考え事は、誰の元にも届かないで明日になれば忘れられてしまう。

 

「あっ、全然いいよ、そのくらいでちょうどいいくらいだよー。

 全部聴いてたら頭おかしくなるよ、どうでもいい話だからさー」

 

「どうでも良くはないですよ」

 

それも七絵の心からの本音だった。

やがてまた少しの沈黙が流れ、それが時計の秒針を意識させた。

もうかれこれ一時間半くらいは電話をしてしまっていた。

 

「あっ、ごめん、仕事中だったのに」

 

蓮実は気をつかってそんな風に言った。

確かに仕事中に電話をするのはあまり良いことではなかったので、

七絵も「ううん、別にいいよ」とは言えずに「いや・・・」とだけ答えることになった。

 

「じゃあ・・・さみしいけど我慢する!

 辞めちゃってもまたどっかで会えるかな?」

 

蓮実は連絡先を交換したがっているのだと七絵は気づいた。

昔、同じようにそれとなく連絡先を聞かれたことがあったが、

看護師と患者の関係だったこともあって、職場で連絡先の交換をすることはしなかった。

 

「・・・うん、また会えると思います」

 

七絵はそれだけ返答すると、蓮実が多少がっかりしたのが何となくわかった。

連絡先を教える気はなかったのだと、暗に伝わってしまったからだった。

重たい空気が嫌になって、珍しく七絵が言葉を繋いで沈黙を消した。

 

「蓮実さんも、あんまりお腹とか出した服着てたら風邪ひきますよ」

 

「・・・えっ、どうして私がお腹出した服を着てるのわかったの!?」

 

「だって蓮実さん、すぐくびれを見せたがるじゃないですか」

 

「えー、だってダイエットしたから誰かに褒めて欲しいんだもん!」

 

「気持ちはわかりますけど、蓮実さんが綺麗なことはみんなわかってますから大丈夫ですよ」

 

「えー絶対嘘だー、だって誰も褒めてくれないよー?」

 

「でもあんまり露出してたらあざとい人だと思われますよ」

 

「えー、それは嫌だから、じゃあさりげなくアピールする!」

 

そんな話をしながら、七絵はいつしか声をあげて笑っていた。

そして、深夜の病院だったことを思い出して手で口を塞いだ。

そんな風に口を塞いだ手を見て、なんだか自分がおかしくなり、

また一人で声を押し殺しながら自然と口角を上げて微笑んだ。

 

「じゃあ、もう遅いから蓮実さんも寝てくださいね」

 

「・・・うん、わかった、あー、なんでもない、あー、寝たくない」

 

蓮実が寂しいという言葉を使わないようにしているのを七絵はわかっていた。

電話を切りたくないのはわかっていたが、それでもサヨナラはいつかやってくる。

 

「・・・ありがとう」

 

七絵は受話器にそっとつぶやいた。

それくらいしか言えないのが悔しかった。

 

「・・・いや、こちらこそ、あー、じゃあ寝るね、おやすみなさい・・・」

 

電話が切れた音がして、ツーツーと音が受話器から聞こえてきた。

その受話器を電話機に戻すと、また部屋は静寂に包まれ、

壁掛け時計の秒針の音が時間を刻み始めたような気がした。

 

 

・・・

 

 

 

 

明け方頃になると、また七絵の代わりの女性がやって来た。

深夜のうちに済ませた仕事の引き継ぎを済ませて、

七絵は白衣から私服に着替えて児玉坂病院を出て行った。

 

時刻はまだ早朝の4時前後であり、街には人の姿はない。

七絵はいつものように遠回りなどせずにまっすぐに家へと向かった。

 

玄関の鍵を開けて部屋に入ると、ガチャリと鍵を閉めた。

手を洗ってうがいをして、服を脱いでからお風呂に入った。

 

本日の勤務を持って病院での仕事を辞めることになった。

もう明日からはあの職場へ向かう必要はなかった。

それによって夜まで起きている必要もなくなり、

一日を24時間で考えて生活をしなくても構わない。

七絵はそんなことを考えながら頭を洗い、体を洗った。

さっぱりとリフレッシュして浴室から出ると、

寝巻きに着替えて寝室へと向かった。

 

寝室のドアを開けて中に入ると、

そこには布団に横になって眠っている人がいた。

七絵はその横に敷いてある布団に潜り込んだ。

そして、そのまますぐに目を閉じて眠りについた。

 

七絵が眠りについてすぐ、七絵の横で眠っていた人が目を覚ました。

彼女は布団から這い出て洗面所に行って顔を洗って歯を磨いた。

 

先ほど七絵が充電器につないだスマホで時間を確認する。

時刻は朝5時前、外はまだ暗いままで人の姿も見えない。

 

彼女はようやくしっかり目を覚ますと、

とりあえずパジャマの上からグレーのパーカーを羽織った。

そして、ベランダの鍵を開けて外に出ると、

そこに置いてあった椅子の周囲を片付け始めた。

人一人が十分に座れるほどに整頓をすませると、

また部屋の中に戻り、寝室のドアを開けて中に入った。

そこには眠っている七絵の姿があり、彼女は両手で七絵の身体を抱きかかえた。

そして、そのままゆっくりとベランダまで運んで、

先ほどの椅子の上に七絵の体を座らせてから部屋に戻った。

ベランダの鍵を閉めて、カーテンを引いた。

 

落ち着いたので冷蔵庫の中の余り物で朝食を作って食べた。

とりあえずTVをつけると朝のニュース番組が流れる。

ニュースではまだUFOの話題が引き続き語られていた。

何の進展もないニュースを解説者だけ替えてずっと流しているのかもしれなかった。

 

ご飯を食べ終わったので、食器を洗って片付けた。

冷蔵庫から取り出したジュースをコップに注いで口をつけた。

そのコップを持ってテーブルの上においてからリモコンでTVを消した。

そして、無音になった状態でゆっくりとベランダへ近づいてカーテンを引いてみた。

先ほどまで椅子に座っていた七絵の姿はもうどこにもなかった。

 

充電器からスマホを外してベランダへ出た。

時刻はもう朝6時になろうとしていた。

それでも外にはまだ人の気配は感じられない。

彼女はスマホを使って電話をかけた。

しばらく呼び出してから相手が電話に出た。

 

「あっ、もしもし、お父さん?」

 

「おっ」

 

その反応から電話の相手が自分の父であることがわかった。

いつもはメールのやり取りだけなので珍しいと思われたかもしれなかった。

 

「昨日な、病院の仕事辞めてん」

 

「おっ」

 

父親の反応は何を言ってもこれだけであることはわかっていた。

だから相手が何かを話すのを待つこともなくまたこちらが話をつなぐ。

 

「ほんでな、もう一個の仕事も近いうちに辞めると思う」

 

「おっ」

 

同じ反応しか返ってこなかったけれど、

なんとなく父は喜んでくれているような気がしていた。

だから七絵はついに核心的なセリフを口にすることにした。

 

「近いうちに帰ると思う、お母さんにも言っといてな」

 

「おっ」

 

「じゃあ」

 

そう言って七絵は電話を切った。

そしてベランダから部屋に戻り、部屋の棚から漫画を取り出してページを開いた。

 

 

・・・

 

 

 

「そうですか、わかりました、では契約は今月までと言うことで・・・」

 

父に電話したあの日、午後の休憩時間にピザ屋の建物を貸してくれている不動産屋に電話した。

このピザ屋を始めることになった時、七絵は自分で恐る恐る不動産屋さんを訪ねたものだったが、

今回は電話をしただけで従業員の方がわざわざお店まで足を運んでくれた。

 

店を借りた当時に話をしたのは、確かもっとご年配の方だった記憶があった。

そんなことを考えながら不思議そうに相手の顔を見ていると、

その男性は名刺を差し出してくれた、そこには「不動 三男」と書かれていた。

 

「社長の息子なんです、会社のお手伝いをしてる程度ですが」

 

大学を卒業してから家業のお手伝いを始めたと言う青年は、

店を借りた当時に話をした社長に比べると穏やかで話しやすい人だった。

社長さんは確か、ものすごく豪快な方で、それでいて少し大雑把な人だった。

目の前に座っている社長の息子さんは、母親に似たのか穏やかでおとなしいタイプで、

七絵にとっては彼のほうが話をしていて気が楽だった。

 

「それにしても惜しいですね、このピザ屋は児玉坂の街でも大変人気でしたので・・・」

 

「いえ、こじんまりしたお店でしたから・・・」

 

「少しだけ裏通りにあるのが残念なんですけどね、

 でもその割には口コミで広まっていつの間にか人気店になってしまって」

 

そこまで話をしていた彼は、何かまずいことを言ってしまったのか、

一人で少し気まずそうな表情を浮かべていた。

七絵には彼が何を思っていたのかわからなかったが、

彼は根が正直なのか、一人でわざわざ話を始めた。

 

「そういえば、こんなことを言ってしまってすみません。

 元はと言えば、父が表通りの店を七絵さんに貸すとお約束したことがあったのに・・・」

 

七絵は彼が口にした話を聞いて思い出した。

もともと、ピザ屋を始めるときに不動産屋を尋ねたとき、

彼のお父さんは気前よく表通りの店を七絵に貸すと約束してくれたことがあったのだ。

 

「あっ、いえ、別に・・・」

 

「元はと言えば、酔狂な父が適当なお約束をしてしまったのが悪かったんです。

 今となっては何もできませんが、父の代わりに僕に謝らせてください。

 あの時は本当にすみませんでした」

 

彼は深々と頭を下げてくれたが、七絵も彼が言い出さなければもうこのことはすっかり忘れていた。

それでも当時、この出来事は七絵にとってとても辛い体験の一つだった。

 

「父はああ言う人ですから・・・七絵さんとお約束したことをすっかり忘れてしまって、

 別の方ともまたお店を貸す約束をしてしまって、結局は七絵さんに不愉快な思いをさせてしまいました。

 代わりにご紹介したのがこの裏通りのお店で、今となっては商売繁盛だったから良かったものの、

 口コミで人気が出てくれなかったら、僕は合わせる顔がないと思っていたんですよ」

 

彼がわざわざ律儀に語ってくれたおかげで、七絵は当時の気持ちを少し思い出していた。

そんなこともあったなと、今なら笑えるような思い出になっているけれど、

当時の自分にとっては必死にピザ屋を始めたのだったと、

過去の記憶も少しずつ鮮明に蘇ってきた。

 

「いえ、もう今では何も気にしてませんから」

 

「・・・そうですか、そう言っていただけると助かります。

 今となっては、このお店も、表通りのお店も、両方とも商売繁盛ですから、

 父は無責任に喜んでいましたが・・・でもそれだけにこのお店がなくなるのは惜しいですね」

 

そんな話をしてから書類上の手続きや今後の説明などを受け、

全てのやりとりが終わった後で、彼はどうしても聞いておきたいことがあったのか、

それともただの好奇心なのかわからないが、七絵に対して質問をした。

 

「そういえば、どうして七絵さんはこのお店を辞めようと思ったんですか?

 どうして、こんなに人気のあるお店を手放す気になったんだろうなって・・・」

 

その質問を受けて、七絵は微動だにせずにボーッとした表情でしばらく何も答えなかった。

やがて、何かを思いついたのか、重たい口を開いてこう言った。

 

「・・・帰らないとあかんなあって思ったから?」

 

「えっ?」

 

「・・・多分、ここにいてたらあかん、帰らないとって思ったからやと思います」

 

七絵が言った言葉は、彼にはよく理解できなかったようだった。

だが、彼女がとても強い意思で決意をしているのだと言うことは、

その様子から見て取れたし、もはや誰が止めようとしても、

きっと誰も彼女を誰も引き止めることなどできないのだと、

そういった印象を彼女の態度や言葉から受けたのは間違いなかった。

 

 

・・・

 

 

 

わざわざピザ屋まで来てくれた不動さんは、

どうやら次はまた寄るところがあるらしく、

それがどうやら表通りのお店だと言うことで、

七絵はなんとなくそこまで見送ろうと思って彼について店を出た。

 

だが、店を出た時に鳩が群がって集まって来た。

いつも、七絵がピザの耳を鳩にやっていたせいだった。

沢山の鳩が集まって来て、七絵は「ごめんなぁ、今日はちゃうねん」と鳩に謝罪した。

 

「また今度あげるからな」と鳩の群れに告げると、

鳩たちも了承したのか、また店から離れていった。

 

「鳩に餌をあげるなんて、優しいですね」と彼は褒めてくれた。

七絵は照れてしまって何も言えず、飛んでいった太った鳩を見て「めちゃ可愛い」と呟いた。

 

そんな感じで表通りまで歩くと、どうやら彼が立ち寄るお店は表通りにあるパティスリー・ズキュンヌだとわかった。

七絵はズキュンヌが見えてくると、その手前で足を止めた。

 

「あっ、もうこの辺でいいですよ」

 

不動さんがそう言ったので、七絵も「あっ」とだけ言って見送った。

彼は何も気にせずにズキュンヌへ入って行ったのだが、

「あっ」しか言えなかった自分が、流石に「おっ」しか言えない父親の娘だと思った。

 

彼がズキュンヌへ入ってしまった後、七絵は遠くからお店を眺めていた。

ただボーッと見続けてしまったのは、その場所に関する過去の記憶のせいだった。

なんとなく不用意に近づくのは憚られる、だけど決して忘れることはできない掛け替えのない思い出。

それらが彼女の心を揺さぶり続けながら、前にも後ろにも進めなくさせてしまっていた。

先ほど離れて行ったはずの鳩達が、また戻って来て七絵の周囲をぐるぐると遊びまわっていた。

七絵は両手を胸の前で結んだまま、いつの間にか呼吸をするのさえ忘れてしまっていた。

 

そんな止まってしまった七絵の時を動かしたのは不動さんだった。

彼はズキュンヌの扉をあけてまたお店から出て来たのだ。

まだ遠く離れたところに立っていた七絵に気がつくと、

遠く離れた場所から「店長がいなかったんです、また来ます!」と叫んだ。

彼はそんな風に笑顔を浮かべたまま何処かへと立ち去ってしまった。

 

彼が立ち去ってしまった後、七絵にはなんとなく、

ズキュンヌのお店の前に真空地帯ができたような気がして、

そのまま吸い込まれるようにしてお店の前まで引き寄せられた。

彼がいなくなった空間が、その隙間を埋めるのを欲していたかのように、

七絵の身体をズキュンヌのお店の前へと運んで行ったような感覚だった。

そうでなければ、自分の足でここへ来たとは信じ難かったからだ。

 

それでも、彼女はお店の中に入るでもなく、ただ入口の前で立ち止まっていた。

ズキュンヌのお店の入り口には、ここの店長そっくりのマネキンが飾られていて、

相変わらず不必要なほど短いショートパンツにダボダボのスウェットという、

街頭に立つ人形としては見たことのないような服装をさせられていた。

 

自分が今、この店の前に立っていること。

冷静な自分を保ったまま、懐かしい風景を見ていること。

それらの感覚全てが、七絵に過ぎ去った時間を想起させた。

そして、自分が歳を重ねていつの間にか大人になったことを、

身体の中から沁みてくるような感覚で思い知らされる。

まだ子供だった頃、自分の身に降りかかる全ては、

未熟な皮膚に刺さる棘のような新鮮な痛みを持っていた。

大人になった今では、全ては肌を撫でる風のようにしか感じられない。

 

あの頃の七絵は何もわからなかった。

何もかもが怖かったし、何もかもが残酷に思えた。

今と同じ目の前にあるこのお店の風景を見たあの頃、

七絵はいても立ってもいられずに母に電話したこともあった。

 

「なな、もう星に帰る!」

 

そんなわがままを言ったこともあった。

 

 

・・・

 

 

「こら、何突っ立ってんの!?」

 

突然、横からそんな声が聞こえたので、

七絵は驚いて思わず両手で耳を抑えた。

声のする方を見ると、そこには知り合いの女性がいた。

 

「ドアの前に立ってたら迷惑でしょ?

 ほら、私も入るから一緒に入ろっか?」

 

そう言って手を引いてくれたのは若杉佑紀だった。

 

ズキュンヌに入ると「いらっしゃいませー」と声が聞こえて来た。

この店は洋菓子のテイクアウトがメインなのだが、

やがて喫茶スペースができて、座ってお茶をすることもできた。

何かイベントでもあったのか、それとも平時からこんな飾り付けなのか、

店内には風船を使った装飾がふんだんに施されていた。

カラフルな風船は普通の丸い形のものもあればハート形のものもあり、

凝ったものでは動物の形を表現しているものまであった。

七絵のピザ屋があまりにも質素に見えてしまうくらい、

このお店は派手でいつでもアピール態勢が万全に整っている。

 

二人が椅子に座ると、女の子がおしぼりとお冷やを持って来てくれた。

差し出されたメニューを見ていると、一番下に「店長のピアノ生演奏+ドリンク」というのがあった。

何やら色々な趣向を凝らして相変わらず頑張っているらしかったが、

「ごめんなさい、今店長いないのでこれは・・・」と女の子は申し訳なさそうに謝った。

七絵も佑紀も別にそれを注文する気は特になかったのだが、

「でも、思ってる以上に感動しますよ、まあ店長が一番泣くんですけど」と女の子はそう言って笑った。

 

二人は適当に飲み物を注文し、七絵は少し嬉しそうにそばにあった鳥の形をした風船の頭を撫でた。

「気をつけてくださいね、この風船は生きてますから」と女の子は冗談交じりにそう言った。

「えー、これ可愛い」と七絵が言い、「いつも凝ってるねぇ、ありがと、びり愛」と佑紀が言った。

注文をとったびり愛はニコニコとしながら店の奥へと下がって行った。

 

「それでは次のニュースです。

 今朝未明、児玉坂の街の上空で光を放つ謎の飛行物体を見たという目撃情報が相次いでいます」

 

七絵が備え付けられていたTVの方へ少し視線を向けると、

それに気づいた佑紀も釣られてそちらへ目をやった。

マイクを持った人が目撃者にインタビューをしている画面が映し出されている。

目撃者は「大空芋子(19)」とテロップで紹介されていた。

 

「なんか外が眩しいなって思ってたら、すっごい光が溢れてたんですよ。

 それでベランダから外に出てみたら、UFOみたいなのが空にフワフワ浮かんでたんです。

 もしかしてこれ、宇宙人かなって芋子思ったんですけど、なんか急に眠たくなっちゃって、

 そのままベランダで寝ちゃったんですよ、だから芋子あれは夢だったのかなって。

 えへへ、なんかこんな話じゃよくわかんないですよね、でもベランダで寝てたわりに、

 全然風邪ひいてないから、UFOの光がお日様みたいに暖かかったせいかなー?

 なんかもう芋子に聞いてもこれ以上わかんないから、早く次の人に行っちゃった方がいいですよ」

 

インタビューを受けていた女の子は、そう言ってからは、もうマイクを向けられてもマイクを拒んでいた。

「なんでそこで寝ちゃったんですか?」と言われて「芋子もわかんないです、だって人は眠かったら寝るでしょう?」と女の子は答えた。

「でも、せっかくそこまで来て・・・」とインタビュアーも残念がったが、「だって寝なかったらさ、不眠症なっちゃうじゃん」と彼女は平然と答えた。

「いやそれはちょっと論理が飛躍してませんか?」と尋ねると「もうわかんないって言ってんのに、芋子になんて言わせたいの?わかんないって言ってるじゃん」との返答。

見た所、前半は可愛い回答だったのに、どうやらこれ以上問い詰めたら怒られそうだったので、

インタビューは次の人物の映像へと切り替わった、テロップには「天下詩月(19)」と紹介されていた。

 

「私みたんです、今日の朝5時ごろ、ちょうどお腹が空いたから焼きそばでも食べようかなと思ってて、

 私いつもお腹すいた時の為に食べ物とかたくさん家に買い置きしてるんですけど、

 ちょうどカップ焼きそばのUFOがあったので、これ食べようと思ってカップ開けてお湯入れて、

 ウキウキしながら三分待ってたんですけど、あれおかしいなと思ってよく見たら、

 私これソースも加薬も全部袋に入れたままお湯を注いでしまっていて、全部なんか中でプカプカ浮かんでたんですよ。

 そしたら、そのタイミングで急に外が明るくなってきて、もしかしてこれは最近巷で噂のUFOかって思ったんですけど、

 UFOを食べながらUFOを見られる機会なんて一生に一度しかないと思って、まず目の前にある焼きそばのUFOを完成させたくて、

 それでなんとかプカプカ浮いてる袋を全部取り出してからお湯を捨ててたら、なんかその間に外がまた暗くなって来て、

 加薬とかソース入れたら、失敗したわりに思ったよりちゃんとできたんで、カップ焼きそばすっごい美味しかったんです」

 

マイクを向けていた人は一瞬困惑した様子で時が止まっていたが、

「外の様子は見なかったんですか、UFOを見たって言う特集なんですけど」と尋ねてみた。

「あ、だからソースの袋がUFOの中にプカプカ浮かんでるのを見たそうっす」と彼女はドヤ顔で答えた。

 

また困惑した時間が多少流れた後「えーっと、これやってんな?」と尋ねられたので「いえ、やってないです」と彼女はそれを否定した。

「いや、話も盛ってるでしょ?」と問い詰められて「私すっごいそそっかしいので、よくこういうことあるんですよ」と彼女は平然と答えた。

彼女がやってんのか盛ってんのかはよくわからなかったが、インタビューはそこで終了し、スタジオの映像が映し出された。

 

「・・・あっ、良かった、これバラエティーチャンネルじゃん。

 これ真面目なニュースだったら放送事故もいいところだよね」

 

冷静な佑紀がTVのチャンネルを確認してからそう言った。

七絵はそんな様子を見ながらホッと胸をなで下ろして笑っていた。

 

 

「あーここまで来てる、来てる、来てるー!!」

 

びり愛が飲み物を運んで来た時、七絵と佑紀の後ろからそう話す声が聞こえて来た。

「あのお客さん達、今日、もうかれこれ3時間くらい同じようなこと話してるんですよ」と去り際にびり愛がこっそり教えてくれた。

二人は見つめるのも悪いので、平静を装いながら耳だけはそちらの方へと意識を向けていた。

 

「なんだろー、さっきのニュース見てて、もうここまで来てるのにー!」

 

頭の横を指差しながら、女の子がもどかしそうにそう言っていた。

何かを思い出したいのだが、思うように行かない様子だった。

 

「えー、まあなさん、頑張ってください!

 私も何か大切なことを忘れてるってことは知ってて・・・」

 

頑張って思い出そうとしている羽田まあなを応援しながら、

向かいに座っている天然系フワフワ黒髪少女も、

ずっと思い悩んだ表情で何かを思い出そうと努めていた。

 

「あー、麗音(れのん)ちゃんももうちょっとだよ!

 うちらこれ思い出さないと、なんかもやもやして前に進めない気がする!」

 

まあなはとにかく騒ぐことで自分の中から何かを思い出そうとしている。

向かいの席の高村麗音は、ちゃんと深い事も考えているような表情をしているのだが、

どうしても肝心なことは思い出せず、ずっと終始首をひねっていた。

 

「えー、なんだろう、そう言えば私達どうやって知り合ったんでしたっけ?

 この間までお知り合いではなかったような気がするんですけど」

 

「あー、そう言われると、なんでだっけ?

 やばい、もう色々と思い出せないことが増えていく!」

 

「私が覚えてるのは、私が道で寝てたらまあなさんも一緒に隣で寝てて・・・」

 

「あー、そうだ!

 うちら道で一緒に寝てて、起きてすぐ仲良くなったんじゃん!」

 

「えー、でもなんででしたっけ?

 そもそも、なんで道で寝てたんでしたっけ?」

 

「あー、そこが全然思い出せないー!

 来てる来てる、ここまで来てるんだけど!」

 

まあなはとにかく全身全霊で思い出そうとしていたのだが、

声が大きくなっていくだけで、全く進展はなかった。

 

「さっきのニュースが関係あるとすれば・・・?

 なんだろう、UFOが関係あるんですかね?」

 

「あー!それ!

 絶対にそれ!

 UFOがうちらと関係してる!

 でもなんだっけ、うち焼きそば最近食べてないしなー!」

 

「私も最近食べてないです。

 焼きそば?焼きそばが私達となんの関係があるんでしょうか?」

 

「わかった!」

 

「えっ、まあなさん、何がわかったんですか?」

 

「焼きそば、でしょ?

 だからうちら一緒にそばに寝てたんだよ!」

 

「あー、そうか!

 それで私達はそばで寝てて知り合ったんですね!

 でも、それだけですかね?」

 

「わかった!」

 

「えっ、わかったんですか!?」

 

「焼きそばにマヨネーズかけるじゃん?

 うちなんか昔、四次元から来たマヨラー星人の話を聞いたことがあって、

 宇宙人って焼きそばにマヨネーズかけるんだって思ってたことあってさ!」

 

「はい、おおっ、それでどうなるんですか?」

 

「でもよく考えたら、宇宙人なんてこの世にいないよねって思ったの!」

 

「確かに、宇宙人にさらわれてる人とか見たことないですもんね」

 

「そうなの!

 だからマヨラー星人の話はきっと、誰かの作り話じゃない!?

 きっと誰かがさ、無理やり考えたんだけど、やっぱ無理があってさ、だからマヨラー星人は、

 多分この世のどこかに封印されて誰にも開かれない扉の奥に押し込められてるんだよ!」

 

「確かに、それだったら下手に封印とかないほうがいいですよね!

 そんなもの、初めからなかったことにしたら平和に過ごせますもんね!」

 

「そうなの!

 でもいつかさ、うらめしやーって出て来そうで怖いよね!」

 

「えーっ、確かに人間が勝手に生み出しといて、

 勝手に捨てられたんだったら、可哀想だし恨んでる可能性はありますね」

 

「そうだよ、だから麗音ちゃんもマヨネーズは残さずに使わなきゃダメだよ!」

 

「そうですね、あれっ、それで私達どうやって知り合ったんでしたっけ?」

 

「あー、来て来て来て!

 ここまで来てるのにー!」

 

 

・・・ 

 

 

 

「これはあと3時間くらい続きそうだね」

 

佑紀が七絵の耳元でそう呟いた。

それを聞いた七絵はクスッと笑って少し下を向いた。

 

「うちらはうちらの話をしよっか」

 

「うん」

 

佑紀は紅茶を、七絵はウーロン茶をそれぞれ飲んだ。

何から話そうか、二人はそれぞれの飲み物を見ているふりをして考えていた。

 

「結構いろんなことがあったね」

 

「何それ、ざっくり話すなぁ」

 

とりあえず切り出した佑紀も、確かにあまりに大雑把な語りだしで、

それを遠慮なく突っ込むのも、飾らない七絵なりのやり方だった。

 

「確かに、ざっくりすぎたね」

 

佑紀は自虐的な笑みを浮かべた。

でも、常に自分に責任を持っていく佑紀の存在は、

七絵にとっては嫌いではなく、むしろありがたかった。

 

「七絵、この店入ったの久しぶりじゃない?」

 

「うん、全然来てへんかった」

 

「自分の店からこんなに近いのに、まあこういうのは距離じゃないか」

 

「うん、いつでも来れる距離やけど、だからまた今度でいっかってなる」

 

「そうだよね」

 

佑紀はまた下を向いて少し微笑んだ。

七絵は佑紀が何か話すことを考えてくれているのだと思っていた。

自分は割と受け身で、そんなに話をリードしたりしない。

佑紀は常にリードしてくれる、だからそれに甘えている自分がいるのはわかっていた。

 

「真冬とは会ってる?」

 

「あー・・・あんまし会ってへんかも」

 

「寂しがってたよ、ああ見えても結構繊細だからさ、あの子」

 

「うん」

 

七絵が下を向いてしまったので、また話が止まった。

間を持たせるために、佑紀はまた紅茶を一口飲んだ。

 

 

若杉佑紀が目の前にいること、

そして自分がズキュンヌにいること、

この二つの事実がどうしても七絵を一つの特定の記憶に結びつける。

それは昔、このお店を真冬に取られてしまった時に、

彼女が自暴自棄になって彷徨ったあの堪え難い日々の、

若さゆえの過ちを想起させることに他ならなかった。

 

「なな、もう星に帰る!」と母に電話してしまった後、

彼女はもう荷物をまとめてこの街を出てしまおうかと考えたことがあった。

それは真っ直ぐに一生懸命にこの街の坂を上っていたからこそ、

誰か大人達が用意した理不尽で割り切れない結果に納得がいかなかったからだった。

自分の方が先に来て、この場所で店を開くと約束をしたのに、

それがどういうわけか、後から来た真冬にこの店を奪われてしまった。

 

当時の自分には、その頃一体何が起きたのか、

冷静に判断することはできなかった。

ただ残酷な結果だけがどこからともなく差し出され、

やり直しも言い訳もできずに無理やり飲み込まされた苦い薬みたいで、

それはやがて心まで侵食して溶かしてしまおうとしていた。

 

その時、七絵は何度かズキュンヌの前を通りかかった。

少しずつ真冬色に染まっていくお店の様子を見ながら、

その止まってくれない時間の残酷さに涙したこともあった。

当時、真冬のことはほとんど知らなかった。

噂でこのお店の店長となる人だと聞いていたくらいで、

七絵の憎しみの対象は実像としての真冬ではなかった。

だが、当時の七絵にはその分別をつけることはできず、

自分が何と向き合っているのかもよくわからなかった。

 

ある日、七絵がズキュンヌの前でじっと立っていると、

このお店に帰って来た真冬が声をかけて来たことがあった。

七絵は驚いて真冬の方を見たが、何も言えずにそのまま立ち去ってしまった。

その自分の逃げているという行為が腹立たしいという感情はあったが、

ぐちゃぐちゃになっている感情を整理することがどうしてもできず、

彼女になんて返事をすれば良いのかわからなくなっていた。

やがて児玉坂の街にいることにも嫌気がさした七絵は、

どこをどう歩いたのか海の見える場所へたどり着いた。

そこで一人でぼんやりとしていた時に出会ったのが若杉佑紀だった。

 

二人はその海の見える場所でしばらく語り合った。

まだお互いに若かったので、制服を着たままで海ではしゃいだりもした。

靴下を脱いで裸足で走り回りながら波止場で寝転んだりもした。

七絵はまだ今以上にあまり喋ることが得意ではなかったが、

佑紀はそんな七絵を気遣ってくれて、二人してよく遊んだものだった。

海辺には二人の秘密の隠れ家のような場所まであった。

その場所はまるで時間が止まっているかのようで、

二人は児玉坂の街を抜けて永遠の時を楽しんでいるかのようだった。

 

 

・・・

 

 

「七絵にはまだちゃんと言えてなかったんだけど」

 

「えっ、どうしたん?」

 

佑紀は一呼吸置いてから精一杯無理して微笑みを作った。

 

「私さ、この街を出ていくことに決めた」

 

「・・・えっ、ほんまに?」

 

「うん、もう決めたんだ」

 

そう言ってから佑紀はもう一度微笑んだ。

辛い時に辛さを見せないのが彼女らしかった。

 

「また帰ってきたりせえへんの?」

 

「この街が帰ってこられる場所であるとは思ってるけど、

 でも、しばらくは武者修行の旅に出る感じかな」

 

七絵が何も言わずに黙ってしまったので、

「また最後に今度ピザ買いに行くよ」と佑紀は言葉をつないだ。

 

「私はね、おっきな目標立てたの、ちょっと恥ずかしいんだけどさ」

 

「えっ、若でもまだ恥ずかしいことってあるんやなー」

 

「恥の多い生涯を送ってきました・・・って太宰治かい!」

 

そこで初めて二人は嬉しそうに笑いあった。

七絵も嬉しそうに飲み物に口をつけた。

 

「まあ大抵の恥ずかしいことを経験してきた私ではありますが、

 今回はねぇ、この街を有名にするために出て行く、という目標を立てておりまして」

 

「へー、そうなんや」

 

「うんまあ、私が街の外で活躍することで、ああこの児玉坂の街の出身者かとわかってもらう。

 その街はどんな街なんだ、ちょっと行ってみようじゃないか、それでみんなこの街のことを知ってくれる。

 そんな感じがこの街への貢献や恩返しになるっていう感じかな」

 

佑紀はそう語った後で七絵が反応をくれないので不安になった。

これはまた滑ったか、いやいや滑ることにはもう慣れている。

 

「・・・どうかな?」

 

「・・・目標がまた真面目やな」

 

七絵が笑いながらそう言って、ようやく安堵できた佑紀も笑った。

 

「どうもこの性分からは抜けられないみたいでね。

 まあ、これも運命ならば受け入れますよ。

 だけどね、街を出る日だけは気合い入れて行くからね。

 今日から私はって感じでツッパって行くからよろしく!」

 

佑紀はまたそんなことを言って照れ隠しをしていたが、

いつも目標を掲げて突き進んで行く彼女のことを、

七絵はいつも背中で語ってかっこいいなと思っていた。

彼女の中には本当は弱い一面もあるのだろうが、

自分がそんなものを見せていいキャラではないと思っているのかもしれない。

その点については、まだカッコつけているのかもしれないとも思った。

もっと感情を丸裸にして泣いたっていいじゃないかと七絵は思ったりもする。

 

そんな話をしている間に、もうかれこれ一時間くらい経っていた。

佑紀は真冬が帰ってくるのを待っているらしく、

この街を離れる挨拶もしたいのだと言っていたが、

真冬はどうやらまだ帰ってこないらしかった。

会話が途切れた間に、七絵は何やらノートに絵を描いていた。

そして、書き終わってから壁にかかっている時計に目をやった。

 

「もう1時間経ってる」

 

「時間が過ぎるのは早いねぇー」

 

「なんかあっという間に10年くらい過ぎそうで怖い」

 

「10年も経ったら今の事とかいくつか忘れちゃうかもね」

 

佑紀は七絵の後ろの二人組の方をちらりと見てそう言った。

二人はまだ堂々巡りの議論を繰り返していて、

「もうすぐだから、ここまで来てるから!」とまだ叫んでいる。

 

「まあ、悪いけどあんな風にはなりたくないな」と佑紀が笑いながら言った。

 

「そう言えば、あの秘密の隠れ家のことまだ覚えてる?」

 

七絵が切り出したのは二人で遊んだ海辺の場所のことだった。

もちろん、佑紀があの場所のことを忘れるはずがなかった。

 

「覚えてるよ、二人で遊んだ場所だったしさ。

 なんかそう言えば、あの中だけだったね、時間が止まってたのは」

 

佑紀がしみじみとそう言うと、七絵は嬉しそうにクスクスと笑った。

 

「何、どうしたの?」

 

「実はな、あん時の動画まだ残ってんねん」

 

「えっ、あの時に動画とか撮ってたの!?」

 

七絵がスマホを取り出して動画を再生すると、

そこには制服を着た二人が裸足で波止場に寝そべっている姿が見えた。

 

「えっ、これ俯瞰のアングルだけど、どうやって撮ったの?」

 

その問いには七絵は何も答えなかった。

ただそこにはまだ若くて未熟であるがゆえに美しい二人の姿が記録されていた。

しばらく動画を眺めていた佑紀だったが、七絵は途中で動画を停止させた。

佑紀が最後までもっと見たそうにしていると、

その代わりに、七絵は折りたたんだノートの用紙を佑紀に手渡した。

 

「これで10年後も20年後も、忘れないね」

 

そう言って微笑みかけた七絵は席を立った。

呆然と眺める佑紀を置いて、「またね」と言って店を出て行った。

 

残された佑紀は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。

わけもわからず、とりあえず手渡されたノートの用紙を開いてみると、

そこには頑固そうなライオンが口を閉じながら「CHU♡」とキスをしている絵が描かれていた。

 

「・・・照れるだろうが」

 

 

・・・

 

 

七絵はズキュンヌを出てから、しばらく店の前にいた。

店の前に立っている真冬そっくりの人形「まふったん」を触って遊んでいた。

どこでどうやって作ってもらったのかわからないが、

本当に真冬に瓜二つに制作されていて、まるで彼女がそこにいるみたいだった。

 

(・・・真冬、あん時はごめんな、ななも自分のことがよくわからんかってん)

 

七絵はまふったんの腕を触ったりしながらポーズを変えてみた。

まるでフィギュアみたいに精巧にできていてどんなポーズも取れた。

 

(・・・私がおらんくなっても、このお店がいつまでも繁盛しますように・・・)

 

七絵は両手を合わせてまふったんに向かって拝んでみた。

相変わらずの猫目で、まふったんはずっと微笑んでいるように見えた。

 

「・・・さて、いこかな」

 

七絵が一人でそう呟くと、向こう側から歩いてくる人がいることに気がついた。

そこには、買い物袋を抱えてお店まで帰って来た真冬の姿が見えた。

 

「・・・あっ、なーちゃーん!」

 

こちらの姿に気づいた真冬は必死の大声で叫んだ。

手を振ろうとして重たい荷物を落としてしまった。

そのドジな姿を見て、七絵も思わず笑ってしまった。

 

そして七絵は、真冬に背を向けた。

立ち去ってしまおうかと思ったけど、足が前に動かなかった。

自分がどうしてここに来たのか、その理由はよくわからなかったが、

頭でいくら考えてもわからない心のメカニズムのせいだと思った。

そのメカニズムがかつて七絵を自暴自棄に追いやり、そしてまたこの店に連れて来た。

 

七絵が足を踏み出せないでいるうちに、真冬は必死に走って店の前までやって来た。

重たい荷物を持っていたし、決して足が早いわけでもなかったけれど、

一生懸命走って、七絵が行ってしまう前に辿り着きたかった。

そして、真冬がたどり着いた時、七絵もまたこちらを振り向いて笑ってくれた。

 

「・・・あの時は言えなかったけど、真冬、おかえり」

 

真冬は持っていた荷物を地面に落として抱きついて来た。

「ごめんね、なーちゃん」と、自分は何も悪いことなどしていないのに、

彼女は謝りながら七絵のことを何度も抱きしめて来た。

 

「・・・真冬、どこいっとったん?

 さっきまでお店の中で若と待っとったのに」 

 

七絵は泣いている真冬の頭を撫でながら笑ってそう言った。

真冬も必死に冷静になろうとして話し始めた。

 

「えー、ごめーん!

 なんかわかんないんだけど、ここ数日何してたのかわかんなくて・・・」

 

「えっ、そうなん?」

 

「うん、数日前にちょっとだけすっぴんで買い物に出かけたのを最後に、

 気づいたら今日、さっき道で倒れてて、その間の記憶がなくって・・・」

 

七絵がチラリとお店の中を覗くと、窓越しにあの二人の姿が見えた。

声は聞こえないが「ここまで来てるんだけど!」というジェスチャーをまだ繰り返していた。

 

「多分、勘違いされたんやと思うけど、

 あんましすっぴんで外には出やんほうがいいかも。

 最低でも眉毛くらいはかいたほうがいいと思う」

 

「えっ、なーちゃんなんか知ってるの?」

 

「いや、別に」

 

七絵は手で口を押さえながらそう言った。

そして、そろそろ立ち去ろうと思って「ほな」と言って手を振った。

 

「あっ、うん、ごめんね、また来てね!」

 

真冬がまた手を振って荷物を落とした。

わざとなのかドジなのかわからなかったけれど、

真冬らしいなと思って七絵は笑っていた。

 

「そうそう、まふったんのポーズ変えといたからー」

 

七絵が遠くからそう叫んだので、

真冬が店前に立っているまふったんの方をみると、

まふったんは片方の腕の肘を張って服の上の方を掴むようなポーズをしていた。

 

「うわー、何これー、おもしろーい!」

 

「それなー、第五部のジョルノ・ジョバーナの立ち方やでー、イタリア編ー!」

 

七絵は嬉しそうにそう叫んだ後「アリーヴェデルチ!」と続けて叫んだ。

真冬は七絵に向かって嬉しそうに手を振って見送った。

 

「・・・あーあ、行っちゃった。

 なんか最後イタリア語言ってたのかな・・・アリーヴェデルチってなんだろう?」

 

真冬はまふったんのポーズを嬉しそうに眺めながらお店に戻って行った。

七絵は真冬と別れてから、一人で歩いてピザ屋に帰って行った。

 

「・・・アリーヴェデルチ(さよならだ)」

 

 

・・・

 

 

 

それから、数週間が過ぎた。

 

若杉佑紀は口約束の通り、最後にまたピザを買いに来た。

まふったんのポーズは、よほど嬉しかったのだろうか、

まだずっとあの時のジョルノ・ジョバーナのままだった。

服装だけは変わっていたので、時には肩を出しているジョバーナ、

時には足を出しているジョバーナという風になってはいたけれど。

 

「店長お疲れ様でした」

 

最終日まで何も言ってないのに働きたいと言ってくれた蘭々が挨拶にきた。

また他のバイトを探さなければいけないはずなのに、

本人はそんな事を感じさせないくらい寂しいと言ってくれて、

ずっとここで働いていたかったと、嬉しい言葉も残してくれた。

 

「私、東野店長のことは忘れません、絶対に」

 

涙を浮かべながら、彼女はそう言って店を去って行った。

 

 

七絵は最終日を終えてピザ屋を閉めた。

最後に外から店を眺めるとき、閉じられたシャッターが寂しく感じ、

お店というのも、なんだか生きていたんだなと思わせられた。

人々がここに集まって、そこで活動して、また戻って行って、

それがまるで身体中の血液が巡るみたいにこのお店を活性化させてくれた。

だから灯りがついて電気が通って、そんな風にお店は生きていた。

誰も来なくなったこの店は、また誰か借り手が現れてくれて、

誰かがまた新しく命を吹き込んでくれるのだろう。

そんな期待を持って、七絵は店の前を離れた。

 

 

最終日は片付けだけだったので、まだ時刻は午後2時だった。

この後の約束の時間までは、まだ随分あったので、

七絵は一人でブラブラと散歩に出てみることにした。

 

七絵がこの街へやってきたのは7年ほど前だった。

家族と別れて一人で暮らし始めた七絵だったが、

同時に仕事を始めてしまったので、日々は常に忙しく、

ゆっくりと街を眺めたことなどなかったかもしれない。

児玉坂の街はすっかり見慣れてしまったようで、

いざ離れるとなると、まだ見落としていた景色もたくさんあることに気づく。

 

この街へやって来る前、七絵は大阪に住んでいた。

家族と一緒に暮らし、大阪の学校に通って大きくなった。

地元にはいまだに沢山の友人たちもいる。

大阪に帰った時には、連絡も取り合うし会ったりもする。

仕事とは関係のない友人も多いので、打算のない付き合いもできる。

 

大阪に来る前、という風に遡ればキリがないのだが、

七絵は今よりも口数が少なかった。

と言うよりも、全く喋らなかった。

喋らなくても良い環境で暮らしていたし、

あまり深くまで心を揺さぶられることもなかった。

ここではないどこかで暮らしていた時には、

この星の人々のような暮らしはする必要もなかったし、

望んだこともなかった、想像したこともなかった。

根本的な生活様式が異なっていたのだから無理もない。

 

 

七絵はブラブラと歩き続けて、やがて釣り堀に辿り着いた。

ここへ来たことは今までになかった。

ここへ来ようと思ったこともなかった。

たまたま先ほど見つけて、こんな場所もあったのかと、

その生活の中の選択肢の一つを発見したに過ぎない。

この星の人々には多種多様な生活の選択肢がある。

その一つを選んで時間を消費できるのが醍醐味である。

 

入り口でおじさんに1200円を支払って中に入る。

釣竿と餌をもらって適当な位置に陣取って座った。

周りにいるのはおじさんばかりで七絵のような若い女子はいなかった。

 

街の喧騒を離れて、ようやく落ち着いた七絵は釣り糸を垂らした。

どうやって釣ればいいのか、そんなに詳しいわけではなかったが、

大阪にいた時に父に何度か釣りに連れて行ってもらったことがあり、

それを見よう見まねでやってみたら、意外と様になったので笑った。

それにここにいる人達は、街で生きている人達ほど干渉してこない。

ただ静かに心落ち着けて糸の先を見つめているだけで良いのだ。

 

 

・・・

 

 

七絵はこの星に来てから始めて「心」と言うものを知った。

それはこの星の人々だけが持っている特殊な性質のもので、

ひどく定義が曖昧なのだが、確かにどこかに存在しているものだ。

 

そしてそれは、人々を時に苦しくも愛おしくもさせる。

人々を観察していて気づいたのは、この性質によって、

大抵の人々は真っ直ぐに生きて行くことが困難になる。

物事の最短距離を行くことが不可能になってしまい、

遠回りをしたり、壊滅的な打撃を自身に浴びせることもある。

弱くなることもある、誰かに甘えてしまうこともある。

時にはどうしようもないほど誰かを妬ましく思ったり、

狂おしいほど愛してしまったり、憎らしくなったりもする。

 

そういうことを、七星はこの星に来てから幾たびも目撃した。

人々を観察しながら、愚かしくも自らも同じ罠にハマって行った。

何一つ理想通りにうまく生きて行くことなどできずに、

でもその非合理的な愚かしい遠回りにこそ抗いがたい魅力があり、

それがこの星の人々を愛おしい存在にしていることもまた事実だ。

 

 

七絵は釣り糸を垂らしながら、水面の波紋を眺めていた。

ふわふわと波打ちながら水面を広がり続けてやがて消えて行った。

ずっと同じ姿勢で真面目に考え事なんかしていたからだろうか、

気づいたら肩が重い、なんだか疲れてしまったので、

七絵は人目を気にせずに敷いていたマットに横になった。

ここでこうしていると誰も自分に無関心でいてくれるので、

比較的に心が安定するような気がしていた。

 

人々に囲まれると「心」はこうはいかない。

誰かよりも良く見られたい気持ちが優先し始めてしまう。

誰か他の人を蹴落としてでも前に行きたい気持ちになる。

でも時間が経って冷静になると、その気持ちは一過性のもので、

本当は争いなんて望まない自分がいることにも気がつく。

それでもこの星の人々は、誰かを陥れるために嘘をつき、

誰かを騙したり罵ったり傷つけたりを繰り返して生きて行く。

 

七絵だって例に漏れず、人々の輪に加わると心がおかしくなった。

誰かに負けることで自分の居心地が悪くなってしまったり、

それで見知らぬ誰かに甘えて心を預けたくなったり、

でも満たされたらもう自由にどこかへ逃れたくなったり。

そしてまた、悲しくなる、泣いてしまいたくなる、

逃げ出したくもなる、やりきれない思いだけが募って行く。

愛を信じたくなったり、愛を信じれなくなったりもする。

誰かを壊してしまったり、壊されてしまったりもする。

 

だから七絵は比較的に一人でいることを好んだ。

一人でいる時間に絵を描いたり漫画を読んだり、

動物と触れ合ったりした方がよっぽど心が安定する。

お気に入りは街を歩いている鳩で、人々に囲まれる街で、

それは唯一の癒しだったのかもしれない、手軽さが特にありがたかった。

特に太っているやつは平和の象徴そのものだった。

ちょっと欲張りなのかもしれないけれど、

餌に有り付けないような悲惨な有り様でもないし、

丸々としている姿は愛らしくて目の保養にもなる。

こんなにたくさん歩いているのにもかかわらず、

人々が目に止めないのもまた七絵にはよかった。

おそらく、この星の人々にとっては鳩ではなくて、

鷹のような多少凶暴なくらい個性的でなければ目に止まらず、

こんな風に誰かを傷つけたり傷つけられたりすることが、

あまりにも当然の日常になっているからかもしれなかった。

誰もがそういうことに無感覚になってしまっていて、

心の作用に振り回されているとは思いも寄らないのかもしれない。

 

 

七絵がインスペクターとしてこの星にやって来てから24年が経った。

この星の人々を観察し続け、理解することが彼女の使命だった。

だが、あと数時間でこの星を離れる今になっても、

その使命を果たすことはできなかったような気がしていた。

日々の報告等に問題はなかったし、監視役としてはそれで十分だった。

人間たちはこの星を汚しながらその数を増やして行って、

やがて科学技術を発展させて月に行ったり火星に移住したりするかもしれない。

それはそんなに遠い未来ではないような気もするし、

相変わらず地球を汚染したように宇宙の他の星も汚して行くのかもしれない。

そうなればどこかの時点でインスペクターがしびれを切らしてしまい、

人間達の行動を戒めさせるような処置を施す時がくるかもしれない。

 

だが、七絵が望んでいるのはそういうことではなかった。

この星の人々は、そんな性質を持っていながらも妙に愛らしく、

言葉では表しにくいような深みのある生活様式を持っていて、

簡単に行ってしまえば、他人を愛することができる性質を持っていた。

それは時に狂おしいほどに心を揺さぶる出来事でありながら、

今まで全宇宙で体験したこともないほどの喜びに満ちているものだった。

そうした良い性質は保存し、残しておきたいように彼女は思っていた。

宇宙を汚染するから簡単に排除するというような結論は出したくなかった。

 

 

こんなことを考えていた時、「まだ何も釣れないか?」と、

入り口で話をしたおじさんが気を使って話しかけてくれた。

確かに釣り堀に漂う糸にはなんの変化の兆しも見られず、

七絵自身が考えていた先ほどの思考にも着地点は見つからない。

そういう意味では確かにここへ来て何も釣れてはいないのだ。

 

七絵はそれでもおじさんに笑みを返した。

魚達にもいろんな事情があるんだと思います。

気が向いたら私のことを構ってくれるのかも。

そんなことを言ったら、おじさんも笑っていた。

 

この星にやって来たばかりの頃、

七絵は話をすることが苦手だったけれど、

この街での生活を通じて、それにもようやく慣れてきた。

だけど、この星の人々は口を開けば嘘が混じる。

七絵はそれだけは注意して生きてきたつもりだった。

話をすることが苦手ではなくなっても、

うっかり口を滑らせて嘘は言わないように。

それで誰かを傷つけたりするのは嫌で、

でももしかしたら、知らないうちに誰かを傷つけたり、

無意識のうちにそんなこともあったかもしれない。

自分もそうやって人々の間で生きていることで、

たくさん傷つけられたことも実際にはあった。

 

インスペクターは交代制で引き継がれていく。

七絵はいつかこの星を去らなければならないし、

この星で人々と共に生きてきて得た喜びも悲しみも、

全てを償って精算するにはちょうど良い機会かもしれなかった。

彼女が去ってしまう時、彼女に関わった人々の記憶は全て消される。

彼女に関する部分だけがすっぽり抜け落ちたようにして、

この星の人々はこれからも生きて行くのだろう。

 

2時間が経過して、七絵は釣り堀を後にした。

心を落ち着けたことで、彼女が本来持っていた、

まっすぐな気持ちを取り戻すことができたような気がした。

 

弱さもある、狡さもある、甘えもある、汚さもある。

それら全部には心を支配されたくはなかった。

 

弱虫、だからペダルを漕ぐ、前に見える坂道を登る。

自分に正直に、思うままに、意志を持って。

 

 

・・・

 

 

 

釣り堀からの帰り道、七絵は街中で怪しい女の子を見かけた。

このくらいの時間に出会えると聞いていたので、それは間違いなかった。

 

女の子はスマホを見ながら必死で街中をうろついているようだった。

それもそのはずで、どうやらポケモンのゲームに熱中しているようで、

なんとなく今時の若者みたいだなと七絵は感じていた。

見たところ、容姿も今の自分より少し若いだけで歳もそんなに変わらない。

 

「アッ、コンニチハ」

 

その女の子は七絵の方を見るとそう挨拶をした。

彼女がおそらく七絵と交代で赴任するインスペクターだった。

まだ地球の日本語に慣れていないのか、片言のようだ。

 

「ハジメマシテ、ワタシノナマエハ、カトウカエレ、トモウシマス」

 

「あっ、どうも、東野七絵です」

 

「ナナエサンッテ、チョットオオサカベンナンデスネ?」

 

「あっ、うん、昔大阪に住んでたから。

 大阪弁を喋る宇宙人って珍しいからよくおもろいって言われるけど」

 

そんな立ち話をしていると、彼女は嬉しそうに自分のスマホを見せてきた。

 

「あっ、ポケモンやってるんや?」

 

「ソウナンデス、ポケモンッテ、ナンカウチュウセイブツミタイデカワイイデスヨネ?」

 

「そうやろー?

 人間って宇宙生物見たことないのに、なんでこんな可愛い生き物を思いつくんやろうな」

 

加藤帰(カトウカエレ)は、地球に来たあとですぐにポケモンにはまってしまったらしい。

そして、まだ日本語に不慣れなために多少棒読みであるが、これは仕方なかった。

七絵だってこの星にきたばかりの頃は、まだ日本語もおぼつかない事があったのだ。

ただし、七絵の場合はそれをカモフラージュするために両親と一緒に住んでいた。

父親は日本語の勉強はほとんどしなかったので、今だに「おっ」以外の言葉は喋れないが。

 

「なんか棒読みやけど大丈夫?」

 

「ナンデスカネ、ソンナツモリハナインデスケド」

 

「前にこの星に来た事あるん?」

 

「ソウデスネ、チキュウハロクオクネンブリクライデスケド」

 

六億年前には人類はいなかったので、ほぼ初めてと同じようなものだった。

七絵はこの星のオススメは鳥という可愛い動物であることを告げたが、

加藤帰はまだ鳥をよく知らず、足は四本であると思っていたらしい。

その辺はまだ不慣れなようだが、どうやら犬語は得意らしく、

犬みたいに吠えると、犬は彼女の元に寄ってくるらしかった。

 

「・・・じゃあ、ななはもう行くけど、バレへんように頑張ってな」

 

「ハイ、ヤラカサナイヨウニガンバリマス」

 

そんな引き継ぎの言葉を交わし、

七絵は児玉坂の街を去ることにした。

 

 

 

・・・

 

児玉坂の街を出た七絵は、メトロに乗って飯田橋へ向かった。

自分を迎えに来てくれる仲間とは、神楽坂で待ち合わせの約束となっていたからだ。

電車が到着した後、七絵は多くの人と一緒に車両を降りて地上へ向かう。

 

駅から出てすぐ、七絵は異変に気がついた。

いつもと同じ景色を見ているのだけど、なんだか何かが違っている。

駅前を通り過ぎるサラリーマンも、女子高生も老人も、

みんなどういうわけか仮面を被っているみたいに表情がない。

昨日までとは違って、この街も作り物のジオラマみたいに見える。

 

人間の姿をしているけれど、おそらく彼らは人間でなかった。

時々、生身の人間も混じっていたのだと思うのは、

集団の中で一人だけ明らかに焦った表情をしている人を見つけたからだ。

彼には心があるせいで、他の大勢みたいに無機質な顔はできっこなかった。

 

七絵が腕時計で時間を確認すると、約束の時間よりまだ30分早かった。

駅の周辺を散策していると、神楽坂へ向かう道が封鎖されているのがわかった。

工事現場を封鎖するみたいに、ヘルメットをかぶって赤い棒を持ったおじさんが、

人々を違う方向へと導いて誘導して行くのが見えた。

だが、そのおじさんも表情が見当たらなかったのをみると、

きっと七絵達の仲間がこの道をわざと封鎖しているのだと思った。

 

ここまで用意周到に準備されているのを見ていると、

もしかしたら、約束の時間より早く着いてしまっても、

七絵の仲間達は彼女を受け入れてくれたかもしれない。

だが、人間の心を知ってしまった七絵には、

この残された時間を躊躇してしまう気持ちが良くわかる。

そんなに割り切った気持ちでただ帰路につくことはできっこない。

七絵はこの星の最後の記念に神楽坂にある紀の善に入ることにした。

店の中にいた店員のおばちゃんはまだ温かみのある人達で、

ここはまだ人間の自然さが残っている場所だった。

 

七絵は二階へ上がり、奥の部屋に入った。

窓から外を見渡すこともできる場所だった。

七絵はあんみつを注文し、両手を交差させて足に挟んで座った。

何となくこうするのが今の彼女にとって落ち着くのだった。

 

知らない人達と喋ることに口を開くのが得意ではない七絵も、

この星で何かを食べるときに口を開くのは大好きだった。

そういう意味では、人間には口があってくれて本当によかったと思った。

人間はちゃんと幸福を得る術を各器官に与えられているのだ。

そう言えば夏にスイカを食べた時には人生が変わったものだ。

美味しいものを食べることは誰も不幸にはしないのだ。

美味しいプリンを食べて死者が出ますかって、むかし誰かが言ってた気がした。

そんなことを考えている間に、机の上にはあんみつが運ばれて来た。

 

七絵は回転させるようにして蜜を上からかけると、

まるで地球みたいに見えるお餅をスプーンですくって食べた。

結局のところ、人間として暮らしている日々の中で、

美味しいものを食べること以上の贅沢などない気がした。

こうしている間は、生きている間の有象無象を忘れていられる。

生きるという行為には必然的に色々なものが付随してくる。

それは本質的に幸福なものばかり含まれてはいない。

人は幸福に浸る時には必然的にこうして様々な事を忘却している。

もしかすると人並み以上に記憶力の良い人は不幸なのかもしれない。

 

 

・・・

 

 

紀の善を出た時に赤い棒を振っているおじさんと目があった。

表情は乏しかったけれど、そろそろ時間だよと告げているような気がした。

 

七絵は神楽坂の方を向いて坂を登り始めた。

先ほどの赤い棒で通せんぼをしているおじさんも、

きっと自分を迎えに来てくれるためにそこに立っている。

約束の時間に遅れるわけにはいかないと思った。

 

だが、七絵が神楽坂を登っていると、向こうから何かが歩いて来た。

それは七絵がいつもピザ屋の前で餌を上げていた太った鳩だった。

 

「えっ、もしかして見送りに来てくれたん?」

 

七絵は道端にしゃがみこんで太った鳩を見つめた。

その周りに飛んでいた他の鳩も七絵の周りに集まってくる。

 

「ごめんね、ずっと待ってたんかなぁ?」

 

こんなことならピザの切れ端でも持ってくればよかったと思った。

最後のお別れを惜しんで見送りに来てくれたのに、

何も鳩達に報いることができなくて残念だった。

 

やがて鳩達は七絵の周りで羽をバタバタさせた後、

一羽、また一羽と空に向かって飛び立って行った。

やがて七絵の頭の上の方で群れになってくるくると旋回し始めた。

鳩は同じところを群れになってぐるぐると旋回する習性がある。

人間が調べたことであり、鳩に聞いたわけではないので、

本当のところはよくわからないのだが、一説によると、

鳩はどこかへ向かう前に同じ場所をくるくると回りながら飛ぶことで、

方位を定めているのだという事らしい。

自分が今いる場所を明確にし、これから向かう目的地を探す。

そんな風にして同じ空をくるくると何度か旋回した後、

何度目かの旋回で何処かへ向かって一斉に飛び立って行った。

きっと鳩達もこれから行く目的地が明確になったのだろう。

 

七絵はふと、自分はどこにいて、どこへ向かっているのだろうと考えた。

飯田橋から神楽坂を登っていると言うようなことではなく、

好きだったこの場所を離れ、目の前の坂の上には何があるのか。

鳩みたいに自分の位置を知りながら目的地を探せたらどんなに楽だろう。

できることなら鳩みたいに、ぐるぐる旋回して目的地を知りたい。

だが、七絵はそんな風に簡単に物事を真っ直ぐ進むのは「心」が許さないから、

きっとこの先もつまづいたり転んだりしながらも、

その先に何があるのかわからない坂の上を目指して歩いて行くのだろうと思った。

人間は鳩みたいに自由に生きることはできないのだ。

 

(・・・覚悟とは、暗闇の荒野に進むべき道を切り開くことだ、ってジョバーナも言ってたな・・・)

 

こんな真面目に考えて辿り着いたのが最終的に漫画のセリフだったことで、

七絵はなんだかおかしくて、一人でクスクスと思い出し笑いをしながら歩き出した。

考えてもよくわからないこともある、とにかく行こう。

自分が思っているよりも、自分の「心」には大胆な覚悟がある・・・。

 

「・・・やれやれだぜ」

 

七絵がそう呟いたのは、神楽坂を登ったところに大きなUFOが浮かんでいたからだった。

こんなところに隠れもせずに堂々と浮かんでいるなんて、全くどうかしてると思う。

漫画ではないのだから、もうちょっと隠れてもいいのではないだろうか。

 

そんなことを考えていても、UFOは七絵を待ってはくれなかった。

眩しい光が放たれて目がくらんだかと思うと、

次の瞬間には自分の体がすっと宙に浮かんで行くのがわかった。

上を向いたまま垂直に何かに引っ張られるみたいに空に昇って行く。

やがてUFOから放たれた光の中で衣服が溶けて無くなって行った。

裸になった彼女の肉体は宙に浮かんだまま光に包まれていて、

やがてその肉体の中からたくましい脚が生えて来たと思うと、

肉体から分離するように、球体をした胴体が抜け出て来た。

その球体には重たい瞼を持った目が二つついており、

たくましい二本の強靭な脚を使い、七絵の肉体から飛び上がるように、

UFOの中へと飛び込んでそのまま消えてしまった。

残された七絵の体は、光に吸い込まれるようにしてUFOに飲み込まれて行った。

 

 

・・・

 

 

 

 

「ヨウ、ヒサシブリジャナイカ」

 

我々が生命体Bと呼ぶ、性別不明の彼か彼女がそう声をかけた。

その声が聞こえているのか聞こえていないのか、

呼ぶかけられた対象は微動だにせず反応がなかった。

 

「アイカワラズダナ、ソウダオマエニハミミガナカッタナ」

 

本当に耳がなかったのかは定かではない。

退化してしまったことで存在していても機能を十分に果たさないこともある。

もちろん、呼びかけられた性別不明の彼か彼女には見たところ耳は見当たらない。

ただそれを補う意味からか、目は大きくて立派なものを持っていた。

そして、手がないことに引き換え、強靭な脚を備えていた。

七絵から抜け出た彼か彼女を、我々は便宜上、生命体Cと呼ぶことにする。

 

生命体CUFOへ帰還してから、何も言わずに操縦席に座っていた。

そして、強靭な脚を使って休むことなくペダルを漕いでいた。

人間から見れば、どうしてこんな原始的な仕組みで推進力を得ているのか、

そう訝るのも無理はないのだが、全てを自動化することに価値を見出す人間と、

脚という自らの身体を鍛え上げて能力を高め、それによってエネルギーを生み出すという彼か彼女らと、

一体どちらが真っ当な道を歩んでいるのかは、おそらく誰にもわからなかっただろう。

停電すれば全てのデータが消し飛んでしまう可能性があるのと、

自らの体が無事である限りエネルギーを生み出し続けられる彼か彼女らと、

リスクの捉え方と物事の処理方法の違いをそこに見ることができるだろう。

 

「コノホシハドウダッタ?

 マア、スウジュウネンテイドデハナニモワカルハズモナイガ」

 

何十億年と生き続ける彼らにとっては、人間の寿命などは、人間から見たセミのそれに等しい。

ただひと夏を鳴いて過ごして樹から落下する彼らの命の抜け殻と、

今、このUFOの中でカプセルに入れられて保存されている七絵の身体とは、

彼か彼女達から見れば同等の感覚を持って捉えられていた。

 

「アアソウカ、オマエニハクチモナインダッタナ。

 コレデハイッポウツウコウニナッテシマウダケダ。

 アトデレポートニシテチャントカンソウハキカセテモラウヨ」

 

生命体Bはそう言って三角形の機械を蹴り飛ばして液体の入ったパックを二つ出した。

手に取ってから、口のないやつに渡しても摂取できないことを思い出した。

一つにストローをさしてチューチュー吸いながら生命体Bは話を続けた。

 

「オマエニモヤロウトオモッタガ、ノメナイヨウジャイミガナイナ」

 

生命体BUFOのペダルを漕ぎ続ける生命体Cにそう言って、

手に持っていたパックを後ろに放り投げた。

そこにいた生命体Aがそれをキャッチしてストローを刺した。

 

「そろそろ日本語で喋りませんか、読者が読むのに疲れて来た頃でしょうし」

 

生命体Aは読者の事を気遣ってそう告げた。

そろそろ未確認生物らしさを強調する意図は果たせたので、

生命体Bも日本語を使って話をすることに了承した。

 

「せっかく任務を終えて戻って来たって言うのに、

 こうして一杯やれないなんてのは、なんだか寂しい限りだな。

 口がない奴ってのは苦手だね、何考えているのかよくわからないからな」

 

生命体Bはそんな事を言ってから先ほどのパックを飲み込んだ。

そして、今度は嘔吐するかと思いきや、それを全て飲み込んでしまった。

 

「これは失礼、きちんと嘔吐するべきだったな、お恥ずかしい」

 

「久しぶりに帰って来た同僚の前で、その態度はいかがなものでしょうか?」

 

生命体Aは、流石にそのひどすぎる態度を見て意見をしたくなった。

飲み込んだものはきちんと嘔吐するのがマナーなのである。

それを飲み込んでしまうなんてのは、あまりにも下劣極まりないやり方で、

見ている人に不快感を与えるものであったのだ。

だが、これを読んでいる読者には何のことやらさっぱりわからない。

これが文化的背景が異なる存在を側から見たときの不理解である。

 

「いや、そんなつもりではないんだ。

 ただ、久しぶりに戻って来ても一杯やれない同僚を見てるとな、

 何だか腹立たしくなって来てついやってしまった、許せ」

 

生命体Bがそう言っている間に、生命体Aは液体を飲み干した後、

パックを飲み込んでから、今度はきちんと嘔吐して床にぶちまけた。

それをあえて生命体Bの足で踏ませて床になじませるのだった。

これが彼か彼女らなりの仲直りのやり方であった。

 

「私はこの星の話をもっと聞いてみたいと思っています。

 たかが数十年と言いますが、この星は随分と魅力的ですし、

 あんな風に今はただ寡黙にペダルを漕いでいるように見えますが、

 おそらくこの星での生活の色々を思い出しているのではないでしょうか?」

 

生命体Aは胸を期待で膨らませながらそう言った。

彼か彼女は、すっかりこの星の可愛い生き物に魅せられてしまったらしい。

インスペクターの順番がいつ回ってくるのかは定かではないが、

いつかこの星にまた戻ってくる未来を期待していた。

 

「お前はまだこの星の表面しか見ていないよ」

 

そう言って生命体Bは先ほど飲み込んでしまったものを、

ここへ来て嘔吐して床に思い切りぶちまけた。

溜めていた分の勢いからか、ペダルを漕いでいる生命体Cの椅子にも少し飛び散った。

生命体Bは腕で口を拭いながら、ペタペタと音を立てながら椅子の方まで歩いていき、

生命体Cの丸い体の上に肘をおきながら床のそれを足で丁寧に伸ばし始める。

 

「こいつはもううんざりしてるかもしれない。

 数十年もこの星にいるとな、人間たちの汚さを思い知ることになる。

 彼らは口を開けば嘘をつき、匿名性を利用しては誰かの悪口を言う。

 つまらないことで敵を作り、相手を攻撃することで自分を優位に見せたがる。

 そのくせに我が身を振り返って考えてみることはない。

 鏡を見ても自分の容姿のことばかり気にしている。

 自らの欠点には目を向けず、だれかの欠点を蔑んでは悦に浸る。

 こんな生き物だからこそ、地球を汚染しても罪の意識はなく、

 ただむやみやたらと生活圏を拡大してさらに宇宙を汚そうとする。

 ひょっとしたら、もうこの星には二度と戻りたくないと思っているんじゃないか?」

 

生命体Bは好き勝手なことを言ったが、生命体Cは動じることなくペダルを漕いでいた。

彼か彼女の強靭な脚のおかげで、UFOは快調に光を超越する速度で宇宙を進んでいく。

最近の草食系の宇宙人と違って、生命体Cはガッツと根性と背中で語るタイプだった。

 

「おっと、失礼、少し言いすぎたかな。

 お前が過ごしたこの期間が無駄になると言いたいわけではないんだ。

 ただあまりにこの星の生物に期待を持ちすぎるのは良くないと思ったんだよ。

 でもまあ、まだ未開拓の星だったおかげでリサーチに興味を持つ輩も多い。

 帰還したら幹部に昇進するんだって聞いたよ、おめでたいことだな」

 

生命体Bは多少の皮肉を込めてそう言った。

自分がこの星の価値を甘く見てしまっていたせいで、

インスペクターにはならなかったことで昇進のチャンスを逃してしまった。

それがここ数十年で人類が本気で月や火星に進出を考えていることがわかり、

地球を研究する意義が大きく膨らんで来たと言うわけだった。

 

寡黙な生命体Cは何も喋らない。

いや、喋ることができないのかも知れない。

彼か彼女は無口なライオンなのではなくて、

ひょっとすると口を持たないライオンなのかも知れない。

なぜなら生命体Cには見たところ口はないからだ。

強靭な脚とぼんやりとした両目を持つ以外、

生命体Cには特徴らしい特徴はなかった。

ただじっと何かを見つめるか、その脚でペダルを漕ぐか、

その二つの選択肢しか選べなかったのかも知れない。

そんな風にして威風堂々と気高い心意気で、

沈黙を守りながらUFOをただ前に進めていくのだ。

 

「さあ、まあこいつは飲めない口らしいから、

 運転手の任務を果たしてもらうとして、

 俺らは少し一息いれようじゃないか。

 今回もこんな辺鄙な星までやって来て、

 何か面白い土産が見つかったわけでもない。

 持ち帰ったのはあの抜け殻の人形一つだけなんてな。

 先に回収した人形はもう送り返しといたぜ。

 24時間活動するために人形が二つ必要なんて、

 人間というのは不便な容器に入ってるもんだ」

 

そんなことを言いながら生命体Bは椅子から離れて歩いていき、

カプセルの中にしまわれていたあの七絵の肉体を見つめた。

七絵の肉体は目を閉じたままピクリとも動かない。

彼か彼女達から見れば、これはただの抜け殻にすぎない。

ソフトとしての魂があり、ハードとしての肉体がある。

ソフトの機能はハードによって制限されてしまう。

だが、人間達は肉体と魂をそんな風に解釈したとしても、

科学技術がまだハードとソフトの分離に成功していない以上、

肉体すなわち魂、魂すなわち肉体の一体関係が崩れない。

もし肉体が魂を選んだり、魂が肉体を変更したりできるようになれば、

我々が自分自身に対する認識を分解して捉えることの初期段階に達するきっかけになり、

やがて個はさらに細分化され、我々が個体と認識している己自身が、

ただの宇宙の塵の集合体の一形態であることに気づくかも知れない。

しかしながら、人間とはもしかすると肉体と魂が一致しているがゆえに、

これほどに自己愛を持ちながら主体的に生きていけるのかも知れない。

彼か彼女達にも、まだ人間がどのような生命体であるのかについてはよくわかっていない。

 

「こんな人形なんて見ながら飲んでたら辛気臭くなる。

 せっかく気持ちよく嘔吐したいのに、なんだか薄気味悪いんだよ。

 これだから抜け殻は良くない、勝手に髪の毛が伸びて来そうで嫌だ。

 中身が空だということは、何かが足りないと連想させられる。

 なあ、この感覚も、こんな星に長くいたもんだから、

 人間達の考え方に影響されてしまったのかも知れないな。

 もうよそう、さっさと飲んでさっさと嘔吐する方がいいよ。

 なんなら俺がこの人形、処分しておいてやるからさ」

 

そう言って生命体Bはカプセルのボタンを押してケースを開いた。

カプセルの中で眠っているように動かない七絵の人形を担ぎ上げ、

彼か彼女はそのまま三角形の機械を乱暴に蹴ってパックを取り出した。

その様子を見ていた生命体Aは、やがて自分の横を通り抜けていく、

生命体Cの白くて丸い岩のような身体に目を奪われた。

 

 

・・・

 

 

 

「いらっしゃいませ~♡

 お一人様ですか?」

 

「・・・ハイ、オヒトリデス」

 

席に案内された加藤帰は緊張していた。

テーブルの上に置かれたメニューを立てて読むふりをして、

すぐにスマホを取り出して何やら文字を打ち始めた。

 

「・・・コノホシニモウチュウジンヲハッケンシマシタ」

 

店員が笑顔で注文を取りに来たので、加藤帰は慌ててスマホを隠した。

目の前でぶりっ子して微笑む宇宙人をジロジロと見つめてしまう。

 

「この店は初めてですか~♡」と尋ねられて加藤帰はコクリと頷く。

 

「それでしたらオススメは店長のピアノ生演奏とドリンクのセットです♡」

 

初めての来店者に容赦無く変なオリジナルメニューを薦めてくるのに驚いたが、

この星のしきたりがまだわからない加藤帰はそれに従うことにした。

注文をとった店員は嬉しそうに自らが店内に置かれていたピアノへ向かう。

なんと、あの宇宙人はこの店の店長だったのだと加藤帰は気付かされた。

 

「マユゲヲカイテニンゲンニナリスマシテイルヨウデス」

 

加藤帰は先ほどの文章の続きを書きあげ、隠れて写メを撮ってから送信した。

この星で見つけたことを逐一漏らさずに報告をしなければならない。

それがインスペクターに与えられたミッションだったからだ。

 

先ほど注文を取り付けたこの店の店長、春元真冬はピアノの椅子に座った。

自分で注文を取っておきながら、なんだか緊張している様子で、

ゆっくりと間違えないように慎重な様子でイントロを弾き始めた。

その時、加藤帰のスマホに返信が来たようだった。

 

「ソレハウチュウジンニソックリノニンゲンダ、スデニリサーチズミ」

 

なんと今ピアノを弾いているのは、どうやら人間だったらしい。

しかし、この星の人間でなければ、誰もが宇宙人と間違えても仕方なかった。

頭が大きくて手足が細長いその格好は宇宙人のそれと瓜二つだったからだ。

加藤帰は自分の認識を改め直し、ピアノを弾いていた人間を見つめていた。

演奏されていたのは児玉坂46の「ソナタの為に弾きたい」だったのだが、

無論、この星の音楽など聴いたことのない加藤帰には知る由もなかった。

 

「・・・幼いこ~ろ~、近くにあ~る~、ピアノ~教室に~通いはじめ~た~♬」

 

店内には春元真冬の歌声が流れていた。

観察していると、他の従業員が目を閉じて苦虫を噛み潰したような顔をしているのに気がつく。

だが加藤帰が何よりも驚いたのは、この星の生命体はどうやら音痴らしいということだった。

そして、それを従業員は我慢して耐えなければならないのだ。

全く奇妙な文化が存在しているものだと加藤帰は感じていた。

 

やがてピアノの演奏が終わり、従業員もようやく目を開けた。

演奏者の真冬は両手を顔に当てながら涙を流しているようだった。

他の従業員達も店長の元へ駆け寄り慰めている様子。

店長とはこの組織で一番偉い存在のはずではあったが、

従業員の女の子が小さい子を慰めるように店長の頭を撫でていた。

この星ではピアノを演奏すると立場が逆転するのだろうか?

この星の仕組みは複雑怪奇すぎて加藤帰が理解するにはまだ時間が必要だった。

 

やがて従業員がドリンクを持って来てくれた。

「すいません、あんなんで」とボソッと謝罪をされたが、

加藤帰には何のことだかさっぱりわからなかった。

そんなことを言うくらいなら初めからやめさせればいいのに。

 

加藤帰はとりあえずドリンクを飲んでみた。

おいしい、フルーツジュースか何かのようだが、

この星の飲み物はとても美味しいと言うことを発見した。

ドリンクの入っているグラスを横から眺めたり下から眺めたりしてから、

とりあえずテーブルの上に置いてリラックスしていると、

後ろの席から他のお客さんの声が聞こえて来た。

 

 

「そう言えば、まあなさん、私達さっきまでなんのお話をしてたんでしたっけ?」

 

「あーなんだっけ、真冬のピアノ聴いてたらなんか全部忘れちゃった!」

 

「確か、何かを思い出せないってお話をしてたような気がするんですけど」

 

「あー、そうそれ!

 うちらなんか大事なこと忘れてて、それが思い出せないってことをいま忘れてたんだ!」

 

 

二人がそんな話をしていたのを聴いた後、加藤帰は店内のTVにも目をやった。

そこには最近巷で人気沸騰中のキモカワイイキャラクターが人気の漫画家の話題が語られていた。

 

「高校生時代になんとなくノートに描いたキャラクターだと言うことですが、

 世の中何がヒットするかわからないものですね、一昔前だったら気持ち悪いで終わってたのが、

 今ではキモカワイイと言うことで人気が出たりするものですからね」

 

「そうですね、ではここで問題なのですが、作者は今後この宇宙人みたいな気持ち悪いキャラクターがどうなるのかはわからないと言っているそうですが、

 一つだけ明言していることがあります、それはなんでしょう」

 

TVではクイズ形式で作者に関する問題が出題されていた。

それを見ていると後ろの席から「あー!!!」と叫ぶ声が聞こえて来た。

 

「来てる来てる、ここまで来てる!

 なんか思い出せそうな気がするんだけど!」

 

「私もなんだか思い出せそうな気がして来ました。

 なんかクイズを通じて私たちお知り合いになった気がするんですよね」

 

「そうそれ!

 うちらなんかクイズをいっぱい答えさせられてて、

 なんかその前にどっかでブワーって光に飲み込まれた気がするんだよね!」

 

「あっ、そうです、私も!

 なんか空の上から明るい光がブワーって射し込んできてて、

 気づいたらなんかここではないどこかにいたような気がするんです」

 

「あーやっぱそうだよね!

 うちらさ、多分なんか変な人達に連れ去られたっぽくない!?」

 

「あー、そうかもしれないです!

 それでクイズをさせられて、それでいつの間にかなんか道で寝てて」

 

「わかった!」

 

「えっ、わかっちゃったんですか!?」

 

「あれだよ、日射病だよ!

 うちら日射病にかかってうなされて道に倒れたっぽくない!?」

 

「あっ、そうか!

 でもクイズはなんだったんですかね?」

 

「倒れて誰かに運ばれて連れていかれて、それでうなされてる時になんか尋ねられてさ、

 多分うちらそれに無意識のうちに答えてたらクイズと思ったんじゃない!?」

 

「ああ、確かに人ってうなされてると何尋ねられてもクイズと思うことありますもんね!」

 

「そうそれ!

 だってさ、考えてみ?

 世の中に宇宙人とかいるわけないからね!」

 

「そうですよね。

 UFOが来てさらわれるとかありえないですし」

 

「あーやっと謎が解けたー、スッキリするわー!」

 

 

二人はどうやら巧妙に記憶を操作されているようで、

どうしても宇宙人に関する部分だけは認められないらしく、

そんな話を聴いていた加藤帰は思わずズッコケてしまい、

テーブルの上に置いていたドリンクをこぼしてしまった。

店員さんがびっくりして片付けに来てくれたが、

「ヤラカシタ、ヤラカシタ」とあたふたとしてしまった。

 

「クイズの正解ですが、はっきりと明言されていることは、

 漫画の連載はこれからもつづく、と言うことでした。

 どんな風に漫画が続いていくのか、みなさんも期待して待ちましょう」

 

 

TVはそんなことを告げてCMに切り替わった。

加藤帰のリサーチもこんな風にしてこれからもつづくのかもしれない。

 

 

ピアノを弾き終えて緊張から解放された真冬はほうきとちりとりを持って表に出た。

日差しは今日も眩しくて良い天気で、先ほどまで長居していたお客さん二人が帰って行き、

「やばい、また日射病になっちゃうよ~」と日差しの強さを心配していた。

 

店の前に落ちていた枯葉を掃除しながら、真冬は表に立っている人形のまふったんを見つめた。

そろそろ寒くなって来たので、暖かいお洋服を着せてあげなきゃと思っていたのだが、

もちろん肩を隠すことはなく、足を隠すこともないのであった。

彼女はまふったんのポーズを変えることにしてみた。

この間までは肘を突き出したポーズを取っていたのだが、

誰が好んでそんなポーズにしたのか、真冬はもう忘れてしまっていた。

なんだか大切なことを忘れているような気もしていたし、

そのポーズに対してすごく喜んでいた自分がいたような気もするのだが、

どれだけ首をひねっても思い出せない自分がそこにいた。

細かいことにこだわっても仕方ないので、真冬はポーズを変更したし、

猫みたいなもこもこの服を着せては頭の上に猫耳をつけた。

両手は猫みたいにグーで、手首を内側に折りたたんでいる。

 

「にゃんにゃん♡」

 

ポーズを変更してご機嫌な様子で真冬はそう言った。

近くを通り過ぎた野良猫が、その猫ポーズを見て冷めた目をしていた。

猫の印象が悪くなるからやめてほしいと訴えているように。

 

「しかしなんだろ、最近色々と忘れっぽいな~」

 

そう言いながらほうきとちりとりを持ってお店の中へ戻ろうとした時、

真冬はお店から少し離れたところに立っている女の子が目に入った。

赤いベレー帽をかぶってなんだか内気そうにもじもじしていたが、

こちらが見ていることに気づいたようで、勇気を出してこちらに話しかけて来た。

 

「・・・あの、初めまして。

 今度この街に引っ越して来ました東野八絵です。

 真冬さんのこと、TVでいつも観てました」

 

そんなことを言われて、普段なら飛び上がって喜ぶ真冬であったが、

なんだか頭に引っ掛かりがあって腑に落ちない何かが残っている。

頭の隅っこに違和感を感じて、その部分だけ空白が生じているような、

スッキリしない感覚を引きずっていたが、彼女を無視するわけにはいかず、

何か返事をしようと思って真冬は笑顔を作って返事を返した。

 

「・・・おかえり」

 

思わずそんな言葉が口から出て来て驚いた。

初対面の相手に対して自分は何を言ってるんだろう。

言われたその子もびっくりした顔をしていたのだが、

やがてニッコリと微笑みを返してくれた。

 

「・・・ただいま」

 

 

・・・

 

 

 

 

「生物の進化とは不思議ですね。

 我々宇宙生命体でも、その原理からは逃れられません」

 

生命体Aはペダルを漕ぎながらそんなことを言った。

生命体Cはその横でまた寡黙にペダルを漕いでいた。

その速度は生命体Aの10倍くらいである。

脚力が圧倒的に違いすぎるのだ。

 

「使わなければ退化する、使い続ければ進化する。

 人間の脳もやがて進化して肉体を凌駕して行くなら、

 未来には今の形とは違ったあり方をしているでしょうね」

 

生命体Aはペダルを漕ぎながら汗を流していた。

あまり脚力が強くない彼か彼女は、

普段はこんな仕事をする役割ではないのだろう。

だが、隣に座っている生命体Cの心に寄り添うように、

同じ作業をして連帯感を強めたがっているようだった。

 

「どうして彼女を返してあげたんですか?

 しかも抜け殻だけ返したはずなのに、

 いつの間にか魂まで宿ってしまって・・・」

 

生命体Aはペダルを漕ぐのを止めてそう尋ねたが、

隣の生命体Cはその眠たげな目でギョロリと睨みつけた。

ペダルを漕ぐことは止めるなと言いたげだったので、

生命体Aはまたペダルを漕ぐのを再開した。

 

「オレハタダシイトオモッタカラヤッタンダ」

 

生命体Cはペダルを漕ぎながら初めて口を開いた。

口などなかったはずの彼か彼女が喋れたのは、

地球で喋るトレーニングを積んだからかもしれなかった。

 

「ツヅイテイクミライヲオワラセルコトハユルサレナイ」

 

かつて東野七絵と呼ばれていた生命体Cは、

日本語ではなく、彼か彼女らの言葉でそう話した。

 

「ソレガアナタノコタエデスカ?

 コノホシデクラシテマナンダ」

 

生命体Aも同じ言葉で話しかけた。

汗をかいて水分が足りなくなって来たのか、

ペダルを漕ぎながら手にはパックを持ってストローを刺した。

 

「ワタシハコノホシノセイメイタイニキョウミヲモッテイマス。

 エタイノシレナイココロトイウモノノナゾヲトキアカシタイノデス」

 

生命体Aがそう懇願すると、生命体Cはまたギョロリとした目でチラ見した。

大きくため息をひとつついた後、彼は脚を使って床に置いてあった本を渡した。

 

「コノホシニハオモシロイマンガガアルカラヨンダホウガイイ。

 コミックスハモッテキタ、ゼンブデロクジュッカンチカクアル」

 

生命体Aはペダルを漕ぐのをやめてそのコミックスを手に取った。

この星に関する資料が得られたことで、彼は大変満足した様子だった。

ストローで液体をチューチュー吸いながら本のページをペラペラとめくる。

 

「ニンムハスイコウスル、ブカモマモル。

 リョウホウヤラナクチャアナラナイッテノガカンブノツライトコロダナ。 

 カクゴハイイカ、オレハデキテル」

 

生命体Cが大きな目で睨みつけながらそんなことを言ったが、

生命体Aはコミックスに夢中になって嬉しそうに微笑んでいた。

彼か彼女は、まだ人間の表面的な部分しか知らないのだろう。

 

「コレハキョウミブカイデス、オモシロイカラエキタイモウマイ」

 

生命体Aは液体とパックを飲み込んだ後、とても嬉しそうに嘔吐した。

UFOのフロントガラスに飛び散ったが、彼か彼女は足で引き延ばすのも忘れてコミックスに夢中になっていた。

 

「・・・ヤレヤレダゼ」

 

生命体Cは何億光年の彼方へ向かってまだペダルを漕いでいた。

相変わらず寡黙で余計なことは喋らない。

それでも大きな目は真っ直ぐに宇宙の果てを見つめていた。

彼か彼女の後ろには空になったままのカプセルが置かれている。

生命体Cはそれをちらりと見つめた後、また前に向かって寡黙にペダルを漕ぎ続けた。

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

 

 

 

 


帰り道、鳩回りしたくなる ー自惚れのあとがきー

 

 

いつもは書き終えてからすぐにあとがきを書くことが多い。

だが、今回は何となく書くのが遅れてしまった、帰り道は遠回りをしたくなってしまったのだ。

 

正直、この作品と向き合うのはいまでも辛い。

お恥ずかしながら、書きながら何回も泣きそうになった。

過去の様々な出来事が物語に紐づいて全部思い出してしまうからだ。

東野七絵にまつわる全ては、筆者の感情に深く関連づいてしまっている。

 

初めて彼女を知った時、彼女はいつも端っこの方で静かにしている人だった。

筆者はひねくれものなので、そういう端っこにいる人の方が気になって応援したくなる。

作られたキャラではなくて、自然体でいる人が接していて楽なので好きでもある。

誰もが人と接する時に仮面をかぶる人が多いし、その方がある程度楽でもある。

自分を守れるし、社会的な仮面をつけて人前に出る人が多い中で、

彼女はそういうタイプではなかったのも好印象だったのかもしれない。

 

前に出るようになってから彼女はあまり余計な自分を見せなくなった気がする。

単に大人になったからかもしれないが、本当はとても面白い人でもある。

いつも誰とも違うユニークな感性で生きていて、弱そうに見えてとても強い内面を持っている。

 

 

この作品の原案は「他の星から」の頃からあったのは読んでいたらわかると思う。

冒頭の宇宙人が人間をサンプルにして捕まえるのもずっとネタとしてあったのだが、

結構ひどすぎる内容だと自覚していて、書くのは何度もためらっていたし、

今でも書いてしまってなんだか申し訳ないような気もしている。

愛ある冗談なのだが、通じない人には通じないかもしれないし、どうなのかわからない。

 

ずっと前の作品に出てきた看護師の部分も伏線という形に切り替えて回収したが、

児玉坂の街の設定はかなり膨張気味で処理が難しいところも多くなってきた。

連載漫画家もこうしたパッチワークみたいな作業が嫌になって連載をやめたくなるのかもしれないと思ったりもした。

 

 

昔からあった原案では、もう少し綺麗な物語に収まると思っていたけれど、

書いて出てきたものは、結構暗くてなんだか申し訳ない気もした。

東野七絵がこの街での生活を通じて体験してきたことの全てが多すぎて、

心が様々な形に変化して来たというのがテーマとなっていることもあり、

確かに数年前の案とは大きく変わってしまった予想外な結末になった。

 

ただずっと前から思っていたのは、彼女が描くキャラクターは彼女自身の本質ではないかという点で、

口がなくて目が大きく何かをじっと観察していて、強靭な足で立っているあのキャラクターは、

彼女自身の性格を表しているように筆者はずっと思って来た。

だから、そのキャラの方が本体だという結末で終えることになった。

これも意外だったのだけど、綺麗に終われない筆者のひねくれなのか、

やはり彼女自身の中に見える強靭な精神力があのキャラだと思えたからなのか。

 

七絵自身もいろんな経験をして傷ついたこともあっただろうし、

思い通りに行かなかったり、思いがけない未来に進んでしまったりしたこともあったかもしれない。

でも、彼女の中にいるあのキャラクターのように、彼女自身はとても強い人であり、

生きていくためには人はどんな過去も一切を肯定して前に進まなければならないとするならば、

彼女はしっかりと強靭な足で地面に立って前を向けるだけの強さと明るさを持っていると思う。

 

あと、謎の嘔吐する異星人のシュールな姿は、なんとなくギャグ漫画日和を思い出した感じで、

昔、あの漫画を初めて知った時はこんな面白い漫画があるのかと笑いながら読んだものだ。

だからこういうキャラでもいいかなと、シュールな展開をさせてしまった。

細かいところで、冒頭のクイズ問題は芭蕉と聖徳太子なのも、実はギャグ漫画日和に繋がっている。

 

若杉とは無口なライオンを連想させる文章を書いた。

あの頃の若い二人が永遠に映像として残されているというのは、

これはとても美しいことだと個人的には思う。

筆者は10年後も20年後も、あの映像はまた見るのではないかと思う。

 

釣り堀のシーンでは「波紋」なんてジョジョを連想させるワードも使っているし、

そうした一つ一つが、書いているうちに筆者を悲しくさせて泣きそうになった。

本当に色々なことを思い出すし、充実していた数年間だったと思う。

 

 

ファンなら当然見たい、あの真冬ちゃんとのシーンも書きました。

どれもこれも胸が痛くなって、筆者は本当に「心」を意識させられた。

最近、筆者は「エモい」ということについて考えることが多い。

経済や合理性の追求は便利さを生むが、エモいものはあまり生まない。

でも、人間の幸福感はエモいを求めているはずで、

どうやら近代の人間は何か間違ったものを追求しているような気がしてならない。

 

そう、人間はエモいを求めるから帰り道を遠回りしてしまうのだ。

でもこの遠回りにこそ、人間の求める何かがあるような気がして、

筆者は何かを書き続けているのかもしれないと思うのです。

 

 

それでも、もちろん大したことは書けないし、

思っていたように綺麗にも書けやしなかったのですが、

この数年間、色々とエモい体験を数々もらったことと、

今後も続いていく彼女の人生の幸せを心から願うことと、

「ありがとう」という言葉では伝えきれない気持ちを、

何か書くことしかできない自分の感謝の証として、

何かを記せたことは大変な喜びであると言わざるを得ない。

 

もし、また児玉坂の街で東野八絵とすれ違うことがあるとするならば、

筆者は「ありがとう、そしてこれからも頑張ってね」と心から伝えたいと思っている。

 

 

ー終わりー