狭間

何度目の決闘であったか。

男はしっかりと数えていたのである。

 

今まで999本の帯刀を奪った。

脳裏に閃いた時、これは良案だと思った。

男とは自分の実力を世に問うことなしには死ねないのだ。

もちろん、こんなことを企んだからには命はとうの昔に捨てていた。

 

逢魔の時。

 

現代では夕方18時頃を指すと言われるが、

文字通り妖怪や魔物の類に遭遇する時刻として、

昔の人々から恐れられていた時間である。

そんな人々が忌み嫌う時間に、わざわざこの男は街へ出かける。

そして、通りがかりの男に決闘を申し込むのである。

勝利の証しとして、彼は相手の帯刀を奪った。

それが999本も溜まっていたのである。

 

記念すべき1000本目は特別な相手を求めた。

弱い相手に勝っても意味がない、真の男とはそういうものであり、

命を賭ける決闘の勝利には緊張感がなければ意味がないと考えていた。

そして彼の獲物が今日、この京の街を出歩いているという噂を掴んでいた。

 

 

「待たれい!」

 

男の前には清水寺から産寧坂を下ってきた若者が見えた。

両手に笛を持って、先ほどまで涼やかな音色を響かせていた。

白い衣で頭をすっぽりと覆っているために顔は見えないが、

小柄な出で立ちとその艶やかな着物姿から察するに、

この若者は高貴な出自の女性だと思われた。

 

「名乗らせてもらおう。

 拙僧は熊野の別当湛増の子、武蔵坊弁慶と申すもの」

 

現代でいうと背丈が2mもあろうかという大男であった。

頭巾を被り、見てくれは僧侶の格好をしているものの、

どこか世捨て人のような怪しい雰囲気を兼ね備えていた。

ましてや逢魔の時に彼のような人物に出会うなら、

人々は妖怪か魔物の類とみなしても仕方ないような気さえする。

 

「女装をすれば拙僧の目をごまかせるとでも思うたか?

 源義朝の血をひく九郎義経とはそなたのことであろう?」

 

弁慶は若者に詰問するが、義経と呼ばれた若者は何も答えない。

 

「平氏であらずんば人であらず」

 

弁慶はぼそりと呟いた。

 

「そんな風に言われて悔しくはないのか?

 平氏の世になってからというもの、源氏は世に息を潜めるようにして生きている。

 誰もが諦めた顔つきで、ただ日々を細々と過ごすためだけに生きている」

 

「・・・・・」

 

弁慶は薙刀をかまえた。

義経と呼ばれた若者は微動だにしない。

 

「そんなに命が惜しいか。

 女装をしてまで自分を偽って生き延びていたいのか」

 

弁慶は相手を挑発し続ける。

本気を出して決闘しなければ面白くない。

しかし言葉を打てども打てども反応はなかった。

 

「やれやれつまらない相手を1000人目に選んでしまったものだ。

 もういい、とっとと引導を渡してくれるわ」

 

興ざめした弁慶は薙刀を持つ両手に力を込めた。

そして瞬時に義経に薙刀を振りかざしたのである。

これほどの巨体が飛びかかるように動いた。

その一閃をまともに受け止められる武者もそういないであろう。

 

だが義経は躱した。

弁慶が何度斬りかかっても義経には当たらなかった。

華奢で女人と見間違うような小柄な義経である。

その分だけ動きは素早かった。

 

「・・・もう、止めてくれ」

 

息を切らせていた弁慶を前にして、義経は静かにそう呟いた。

 

「・・・何のつもりだ?」

 

「そなたと争いたくなどない、もう止めてくれないか」

 

義経は頭を覆っていた衣を脱ぎ捨てた。

そこに現れた女化粧を施された義経は美しかった。

現代で言っても彼の背丈は150mほどであり、

なるほど世間が噂する美少年であった。

 

「決闘の最中に隙を見せるなど、笑止!」

 

弁慶は義経の言い分は聞かずに薙刀を振り回してきた。

紙一重で避け続けた義経であったが、気づけば背後には壁が迫っていた。

気づかないうちに逃げ場所を削られていたのだった。

 

「もう逃げられんぞ、覚悟!」

 

近距離から振り下ろされた薙刀に対して、

義経はついに腰に差していたものを抜刀した。

鮮やかに鞘からすべり出た義経の刀は、

弁慶の薙刀を受け止めて両者はにらみ合う形となった。

 

「・・・何!?お主、まさか・・・」

 

弁慶の気が緩んだ刹那、義経は持っていた笛を弁慶のすねに叩きつけた。 

気づいた時には、もう弁慶は天を仰いで倒れていたのであった。

 

 

・・・

 

  

源義経の生まれははっきりとしない。

 

世の中がまだ平氏のものになっていなかった頃、

源氏の大将として活躍していたのが義経の父である源義朝であった。

 

平安時代の末期、権力闘争が起こった。

世の中は源氏と平氏に分かれて戦があった。

その平治の乱に敗れた源義朝はその戦で命を落とすことになったが、

彼には残した子供達がいたのである。

そのうち有名なのが源氏の正当後継者である三男の源頼朝であり、

彼と腹違いの弟である源義経であった。

 

 

義経の母は常盤御前という九条院の雑仕女だった。

雑仕女とは、要するに貴族に仕える召使いである。

召使いの子であるため、兄の頼朝に比べると生まれは多少卑しい。

 

だが常盤御前は絶世の美女だった。

都に集められた千人の候補者から選ばれた雑仕女であり、

そうであるがゆえに源義朝の目に留まったのであろう。

 

義経は幼名を牛若丸という。

彼は他にも常盤御前が生んだ二人の兄がいたが、

父である源義朝が戦に負けた為に運命の行く末が変わった。

戦の勝者である平清盛は源氏の子息達の命を奪うかと思われたが、

理由はわからないが義経達は命まで取られることはなかった。

だが、常盤御前はその後、平清盛の子供を宿すことになり、

その後も一条長成というものの妻となるという激動の人生を歩んだ。

 

牛若丸と呼ばれていた義経は常盤御前と共に幼少期を過ごし、

もちろん新しい義理の父である一条長成の庇護の元で成長していった。

だが源氏の子を世に出すことは憚られたのであろう、

常盤御前は自分の子供達をすべてお寺へ送って出家させてしまった。

そうすることで平氏に反乱の意思がないことを示したのである。

 

 

牛若丸は京都の鞍馬寺へ預けられた。

そのまま行けば何事もなく僧侶になるはずであったが、

どういうわけか自らが源氏の血を引いていることを知り、

鞍馬寺を逃げ出して奥州へ向かうことになった。

奥州とは現在の東北地方であるが、

この時代の奥州は京の都からすれば田舎であった。

田舎というよりも恐ろしくて近寄らないと言っても過言ではない場所で、

自分たちとは違う人種が住んでいるというような印象すら抱いていた。

ひょっとすれば現代の日本人にとっては外国だというような感覚だったかもしれない。

 

だがこの時代の奥州は金が良く採れることで経済的には非常に豊かであり、

商人達は都と奥州を往来していたはずであり、義経もその伝手を頼ったのかもしれない。

 

一方で奥州では義経は歓迎された。

そもそも都から好んで奥州へ来るものはほとんどいない。

京の都の情報を得る為にも、また繋がりを濃くする為にも、

源氏の血を引いている義経は奥州の盟主、藤原秀衡に歓迎されたのである。

 

 

武蔵坊弁慶と京の都で出会ったのは、ちょうどこの頃だった。

奥州で過ごした日々がどのようであったのかは不明だが、

義経は度々、身を隠して京へ戻ることもあったのだろう。

そんな時に決闘を申し込まれることになったのである。

 

 

 

・・・

 

「・・・義経様」

 

奥州に戻っていた義経は部屋で休んでいた。

そこへやってきたのは京の都で出会った大男、武蔵坊弁慶である。

 

「・・・その名は嫌いだ、よしてくれ」

 

部屋で一人考え事をしていた義経はくるりと弁慶の方を振り向いてそう言った。

相変わらずの凛々しい顔は奥州でも女たちの話題の的になっている。

もう見慣れているはずの弁慶から見ても、やはり義経の容姿は美しかった。

 

「しかし、誰がどこで聞いているかわかりませぬ。

 そしてあなたは間違いなく源氏の血を引く源義経なのです。

 この呼び方以外にいったい何があるというのでしょう」

 

弁慶は部屋に上がり込んで丁重な姿勢で座り込んだ。

決闘で負けたあの日以来、弁慶は義経のお供になっていた。

 

「またそういう意地悪なことを言うのか」

 

義経はどこか寂しそうな表情を浮かべた。

身内の者にだけ見せるような気を許した顔であった。

 

「義経は自分でつけた名だ。

 奥州へ来るのに、遮那王では格好がつかんからな」

 

義経は鞍馬寺にいた時は遮那王という名であった。

しかしそれでは格好がつかないため、自分一人で元服して義経と名乗ったのである。

源氏の血を引いていても、一人の大人として見られなければならない。

これから行く先々で会う相手に侮られてはいけないと考えたからである。

 

「私には母がつけてくれた名前の方がいい。

 幼名を名乗り続けるのはおかしいかもしれないが」

 

義経は少し遠い目をして母の面影に想いを馳せているようだった。

数奇な運命に翻弄されたために、共に暮らすことのできなかった母を。

 

「・・・では、こう呼びましょう、牛若様」

 

弁慶は義経が好んだ牛若丸の名を使って呼びかけた。

 

「呼び名がどうであれ、あなたは源氏の血を継ぐ者です。

 今は平氏の世の中になっていますが、きっと時勢が変わる日が来るでしょう。

 その時に父義朝の無念を晴らすべく立ち上げらなければならないのです、たとえ・・・」

 

そこまで言ってから弁慶は周囲を気にするように見回した。

そして小声になってこう続けた。

 

「たとえ・・・女であったとしても」

 

 

産寧坂での決闘の時、つばぜり合いになった弁慶と義経の距離は縮まった。

その時、弁慶が瞬時に気を緩めてしまったのは義経の美貌のせいだった。

間近で見た義経の顔は間違いなく女性のそれであり、弁慶は一瞬自分の目を疑った。

義経が女化粧を施されていたからこそ、弁慶は間違いなく対峙する相手から女性の色気を感じとったのだった。

 

すねを強打された弁慶は立ち上がる力を奪われた。

だが、義経は彼の命を奪うことはなかった。

むしろその場に座り込んで弁慶のすねの手当てを始めたのだった。

それはまさしく乙女の持つ優しさだと弁慶は確信した。

 

 

「私は・・・男として生きねばならないのか?」

 

義経は弁慶にそう尋ねた。

寂しそうな声色だった。

 

「母上様がどうして『牛若丸』という男子の名をつけたのかお考えください。

 源氏再興を夢見て、最後の希望をあなたに託されたのに違いありません。

 そして女子であることを隠し通してまであなたを育て上げたのです」

 

弁慶は諭すようにそう言った。

決闘で義経に敗れた弁慶にとって、次の人生の目的はこの主人についていくことだけであった。

 

「しかし、私は父の仇を討つこと以外には興味はない。

 源氏の世を取り戻すなど、そんな大それたことは考えたこともないよ。

 仇討ちを果たした後は、皆が平和に暮らせる世の中さえあれば良いのだ」

 

義経には野望というものが全くと言っていいほどなかった。

それは男ではなく女であったからかもしれない。

自らの数奇な運命を知ることがなければ、

普通に女性として暮らして生涯を終えたかったに違いない。

 

「仇討ちを果たすためには、各地に散らばる源氏を結集させなければなりません。

 そのためには奥州藤原氏の力を今は借りなければならないでしょう。

 まさか源義経が女などということは、今は口が裂けても言えませぬ」

 

義経は弁慶がそう言うのを聞いて大きく肩で息をついた。

自身でもわかっていることを改めて述べられるといっそう悲しくなったのである。

 

「伊豆にいる源頼朝に近々、挙兵の動きがあると聞いております。

 彼が挙兵の動きを見せた時、牛若様も駆けつけられるべきです。

 その際に奥州藤原氏から兵を借りてでも立ち上がるのです」

 

奥州藤原氏の政治状況は微妙であった。

京の都から遠く離れている奥州にとっては、本音では挙兵などしたくはない。

無理に戦乱に巻き込まれるようなことをするよりも、

平氏と源氏の戦いを傍観している方が安全である。

それでいて何かあった時のために義経ともつながりを持っている。

 

「いや、秀衡殿にご迷惑をかけるわけにはいかない。

 だが兄者が挙兵の折には、私は一騎でも馳せ参じようと思っているよ」

 

弁慶からすれば義経は甘かった。

政治では恩を売ることが大切だったし、

様々な人間関係を利用して自身の利益を得なければならない。

そこはやはり女である義経の甘さだと弁慶は考えていた。

 

ただし、義経のこの潔さと義の心に惹かれる思いもあった。

自分自身にも世の中にも徹底的に公平無私なのである。

こうした潔癖な姿勢が民衆に指示されれば、

義経はやがて英雄にでもなれるのではないかと考えていた。

 

弁慶が義経のお供になることを決めたのは、

こうした彼女の数奇な運命と、その結末を見届けたかったのだろう。

弁慶は義経を、良くも悪くも時代と共に回転する大きな軸になると考えていた。

 

 

 

そんな風にして奥州の平泉で過ごしていた義経と弁慶であったが、

治承4年(1180年)8月に鎌倉の源頼朝の挙兵の知らせを耳にした。

時は来たと感じた義経は、宣言通り一騎でも駆けつける思いで奥州を後にした。

 

 

・・・

 

 

義経の兄である源頼朝は伊豆にいた。

父である源義朝が戦に破れた時、平清盛によって何とか命だけは助けられた。

しかし、世に出ることは憚られ、この地に流刑となっていた。

つまり京の都からは遠く離れたところでひっそりと生涯を終えることを求められたのである。

 

平氏の世が全盛となった時、多くの人たちは頼朝に力を貸そうとはしなかった。

しかし彼は幼き頃に全てを奪われたこの屈辱を忘れることはなかったのかもしれない。

やがて成長すると、かの有名な北条政子を嫁に迎えた。

 

これは政略のためである。

己一人では何もできないが、関東で力を持つ北条家の力を借りながら、

打倒平氏を模索していたのである。

北条の娘婿となることで、頼朝の後ろには強力な後ろ盾ができた。

 

頼朝というのは終始このような人物であったと思われる。

この物語を追っていけば明るみになってくるであろうが、

義経とは全く違った発想で世の中を見ていたと考えざるをえない。

ただ、歴史を少し先走って考えてみると、頼朝が鎌倉幕府を開いた後、

結局は北条家に権力を握られてしまったその事実を見ると、

頼朝の立場というのも北条家にうまく利用されていたとも見える。

彼が生きていたのは、そういう徹底的に政治的な環境であった。

 

 

 

義経が奥州を発った時、藤原秀衡は義経に佐藤継信、忠信という兄弟を同行させた。

彼らは後々まで義経の忠実な部下となって活躍することになるのであるが、

あまりに大軍をつけてはこの源氏と平氏の戦いに関与しすぎることになる。

かといって義経に何もしてやらないのはあまりにも酷いので、

この程度の恩を売ったということなのかもしれない。

 

 

やがて義経は奥州から関東まで下り、兄である頼朝と涙の対面を果たすことになった。

頼朝もこの時点では義経がやってきたことに感謝する思いだったかと思われる。

頼朝の挙兵に馳せ参ずる源氏は多ければ多いほど彼の利になった。

多くのものが彼を慕って集まってくるという世間への印象が何よりも大事である。

また、この頃の頼朝自身も何かと心細い思いだったのかもしれない。

 

 

やがて頼朝は東国の大将として義経を自分の代理として京へ派遣することになる。

だが歴史は二人が東国で再会を果たしていた間にも刻一刻と動き続けていた。

 

平氏が支配していた京の都は、すでに別の者の手に落ちていたのである。

義経・頼朝とは従兄弟の関係に当たる源義仲が二人より先に入京を果たしていた。

 

打倒平氏に立ち上がったのは頼朝達だけではなかったのである。

この騒乱に紛れて権力争いを行っていたのは単純に源氏と平氏の対立ではなかった。

権力を得るためには従兄弟同士であっても争いを行うのが源氏であった。

 

 

・・・

 

 

「嫌だ、戦いたくなどない」

 

伊勢、伊賀を回って宇治方面から京へ進行する義経軍であったが、

肝心の大将である義経には戦意がなかった。

 

「どうして義仲殿と戦わなければならないのだ」

 

昼間の行軍では大将として振舞っている義経も、

兵士達が寝静まった頃、弁慶にだけはつい本音をこぼしていた。

 

義仲に入京を先んじられてしまった頼朝は、

従兄弟であろうが容赦なく彼を討伐する意思を見せた。

 

 

日本の歴史には朝廷が重要な役割を占める。

つまりは天皇が日本の中心であり、そこに権力の所在がある。

いつの時代も人々は天皇を巡って対立を続けてきた。

 

この時代の権力は京の都にいる後白河法皇にあった。

朝廷もまた、様々に政治的な動きをする。

京の都へ乗り込んできた源義仲が気に食わない。

 

源義仲は別名「木曽義仲」と呼ばれていた。

現在で言う長野県の木曾から京の都へやってきたのである。

 

平氏に支配されていた京の都を解放に導くかと思いきや、

義仲の軍勢は京の都にとっては疫病神のような存在になった。

 

まず都のしきたりを何一つ知らない。

そういう相手とやりあうのは朝廷側からすればやりにくかった。

また義仲の軍勢は想像以上に賊軍であり、京の都で略奪の限りを尽くした。

これも義仲が朝廷側から嫌われる原因となった。

朝廷側としても、もっとやりやすい相手に権力を握って欲しい。

自分達をぞんざいに扱ってくる相手には京の都にいてほしくないのである。

 

そこで朝廷は頼朝を頼った。

頼朝からすれば願ってもない機会が到来したことになる。

朝廷の頼みを引き受けることで恩を売ることができるし、

大義を掲げて義仲を討つことができるからである。

 

頼朝はこのような政治状況の中を生きていた。

だが、直接義仲を討つ立場になる義経にとっては、

従兄弟である義仲と争いたくなどなかったのである。

 

 

「お父上の仇を討つための第一歩でございます。

 打倒平家の前に、京の都を抑えなければなりません」

 

京の義仲軍に見つからない為に、義経達は森に隠れて夜を過ごしていた。

武者達が寝静まった後、離れで焚き火をしながら弁慶と語らう。

義経が実は女であることは彼を除いて誰も知らない。

 

源氏の血を引くものでありながら、頼朝のように冷徹になりきれないのは、

義経が女であるからであると弁慶は思っていた。

もし男であればこの合戦は手柄を立てるまたとない機会であり、

先を争ってでも木曾義仲の首を取りに行くであろう。

 

「・・・世の中の全て人、皆が幸せにならないのかな」

 

対座する弁慶と義経の間には焚き火があった。

義経はその焚き火に細かな木の枝をくべる。

炎に照らされて明るくなった義経の顔は切なげで、

それでいて、えもいわれぬほどに美しかった。

 

 

義経は美しい。

 

何も知らない武者達は義経のことを美少年だと思っている。

唯一、彼が女だと知っている弁慶には、両方の顔が見える気がする。

小柄な体躯を考えれば、なるほどしなやかで細かな作りをしていた。

透き通るように繊細な指先や、乱暴に抱けば折れてしまいそうな華奢な肩、

全て女人のそれであると思われてしかるべきものなのであるが、

義経を男として見れば、それらは全て絶世の美少年の作りにも見えるのである。

 

その絶妙の均衡を保っている彼女の表情は、ある意味で才能であった。

玉虫色のように見る角度を変えれば色が変化する彼女の顔は、

非常に中性的で特殊な魅力を秘めたものではあったが、

本人にとっては幸福だったのか不幸だったのかわからない。

とにかくこの顔を持って生まれてしまったことで、

彼女は彼となり、牛若丸は義経として生きなければならなくなってしまった。

 

 

「義仲殿と兄者が和解する方法はないものだろうか?

 同じ血を分けた源氏が争うなど、私はそんな物語は見たくない」

 

弁慶は美しい義経の表情に、かすかに浮かぶ苦悩が見えた。

女性として静かに生きていれば感じることのないものだった。

 

「・・・お気持ちはわかりますが、ございません」

 

弁慶は丁重に、しかし冷徹にそう告げた。

今更ここまで来て大将に弱気になってもらっては困るのである。

 

「牛若様に義仲殿を討ってもらわねば、京の都の民が救われませぬ。

 このまま黙って見ていれば、救われるものも救われなくなりますぞ」

 

弁慶は諭すようにそう言った。

事実、京の都の義仲軍の横暴は凄まじかった。

 

「・・・兄者はなぜ祈っておるのだろうか?」

 

義経はそう呟いた。

信心深かった義経の兄の頼朝は、八幡大菩薩を源氏の神として尊んでいた。

後に鎌倉幕府を開いたとき、頼朝は八幡大菩薩を祀る鶴岡八幡宮を建てることになる。

 

「この戦で源氏が勝利を収めるように祈っておられるのでは?」

 

弁慶はそう言ったが義経は腑に落ちない様子だった。

 

「・・・神様は為にならない困難は与えないのかな」

 

自ら置かれた立場を自嘲するように、

しかし自己を奮い立たせるように、義経はそっと呟いた。

 

静寂の中で、二人が見つめる焚き火が弾ける音を立てた。

乾いた音は曇一つない空の暗闇に吸い込まれていく。

 

「わかっているよ」

 

義経の一言が二人の間にあった沈黙を切り裂いた。

 

「私は偶像にならなければいけないのだろう?

 神様とまではいかなくとも、人の憧れや見本となるものに」

 

義経の美しい瞳に眼前の燃える炎が映っていた。

それは自身の運命を受け入れる決意のようなものに弁慶には見えた。

 

「誰かに何かを与えたい。

 偶像とは形のないものだけれど、とても強く消えないものだ」

 

義経の顔が美少年のそれに見えた。

彼女が女である自分をどこかへ押し込めていくのが弁慶にもわかった。

 

「私の存在で誰かが強くなれるなら、

 私はその誰かの一生涯の偶像になれたらいいなと思っている。

 だから毎日何か糧をこの世の中に探しているよ」

 

先ほどまで見せていた弱気な表情はもうどこかへ行ってしまった。

弁慶はこれであれば戦は義経の勝利に終わると心の底で確信した。

 

「さあ、もう寝るとしよう。

 明日の朝も笑顔で行こうじゃないか。

 いつだってどんな時だって、朝は明るいのだから」

 

義経と弁慶が焚き火を消してしまうと、

何かが燃える音はなくなり、辺りはひっそりと静まり返ったようになった。

暗闇に包まれた夜は、獣の声だけが悲しそうに遠くで響いていたが、

やがて寝息を立て始めた義経と弁慶は、

それぞれ己の孤独な運命を抱いてしばしの眠りについた。

 

 

・・・

 

 

京の都に乗り入れた当時は盛んだった義仲の軍勢は、

義経達が宇治川近辺まで攻めてきた時には数を減らしていた。

元々が乱暴狼藉を行う賊の集まりだったこともあり、

そんな輩は京の都が危ないと知ると真っ先に逃げ出してしまった。

義仲は残された少ない軍勢を率いて死を覚悟して戦った。

 

 

京の雅やかな武者達と違い、関東の武者は荒くれ者である。

特に騎馬に優れており、馬を操らせれば一騎でも複数の相手を倒せるほどであったらしい。

 

義経達の軍勢はそんな騎馬武者を宇治川へ向けた。

矢が降り注ぐ中を馬に乗った武者達が川を乗り越えていった。

恩賞を得る為に我先にと争いながら一気に攻め上がったのである。

 

(・・・勝負は一気につけなければならない・・・)

 

義経もそのように考えていた。

混乱が長引けば死傷者が数多く出てしまう。

速やかに敵を倒し、京の都の治安を維持する。

全ての人達を救うことはできないが、

それでもできるだけ数多くの人々を救いたいという、

義経なりの戦への考え方であった。

 

 

戦場では義経は常に最前線を駆けていった。

大将はうしろに控えて指揮をとるのが戦の常識ではあったが、

義経の中の闘う魂は、その前のめりな姿勢のまま馬を走らせた。

転んでしまうのではないかと思われるほど勢いよく駆けて行くその姿に、

弁慶は義経のまっすぐさと不器用さを同時に見た思いがした。

だが、女を捨てて義経になった彼女の姿は周囲の武者からすれば非常に頼もしかった。

 

宇治川を突破した義経達は、その勢いのまま京の都へ乗り込んだ。

京の都では敗北を確信した義仲が、後白河法皇を連れて西国へ落ちようとしていた。

義仲は院御所へ向かい法皇を連れ出そうとしたが、法皇も義仲の思考は読めている。

おちおちと無様に連れ去られるようなことはしなかった。

そうして時間を稼いでいる間に、やがて義経達が義仲を追撃してきたのである。

 

 

「・・・義仲殿、もはや命を捨てることはあるまい、さがれ!」

 

院御所の門の前に義仲の姿を見つけた義経は馬を駆けさせながらそう叫んだ。

義経としては血の繋がった者と余計な争いはしたくないのである。

 

「そなたが義経か、戦の最中にそのような戯言など!」

 

義仲は追い詰められた状況でも武者らしく潔く刀を抜いた。

馬に乗った義経に斬りかかってくる刀に、義経も素早く抜刀して合わせた。

そして何度か刀と刀が打ち合う高い金属音を、義経は耳に聞いた。

 

義仲は小柄なはずの義経に押されていた。

義経の太刀筋は速く鋭く、鞍馬寺にいた時分に天狗と修行をしたという噂も、

あながち嘘ではないのではないかと義仲は思った。

それでいてこちらを斬り殺そうという殺気は感じなかった。

 

「・・・どうして本気でかかってこない」

 

義仲は義経を挑発するようにそう尋ねた。

こんな若者になめられているのは武者の誇りが許さなかった。

 

「・・・義仲殿、頼む逃げてくれ」

 

義経は祈るような気持ちをそう言った。

 

「何!?どういうことだ」

 

義仲は突然の事に真意を測りかねていた。

 

「源氏同士が争いあっても意味はない。

 ここはどうか逃げてくれないだろうか。

 もはや義仲殿の敗北は目に見えているはず。

 それであれば無駄に命まで落とす事はない。

 逃げる事は一概に悪い事というわけではないはずだ」

 

義経は刀を鞘に収めてそう言った。

これ以上戦う意思はないと宣言するかのように。

 

「・・・甘いな」

 

義仲は義経を見つめてそう言った。

 

「戦で敵に情けをかける奴は滅びるぜ。

 古今東西、そんな奴が生き延びた試しはない。

 世の中、正義が勝つんじゃない、勝った奴が正義なんだよ」

 

乱暴者達を率いて入京した義仲らしい意見だった。

そして、入京時に義仲についてきた郎等も今はどこかへ消え失せた。

人々は常に強い方に従おうとする、義のある者へ従うことはない。

 

「ましてや、味方でも欺いて蹴落とさなければ生き残れない時代だ。

 頼朝がまさにそうだろう、奴は従兄弟であろうと関係なく刃を向けてきた。

 そんな甘さを持てばきっとお前は後悔することになるぜ・・・」

 

義仲はそう言うと馬の腹を蹴り、義経の横を通り過ぎて去っていった。

 

(・・・後悔など、自分がそう思わなければ起きないさ・・・)

 

義経は自分に言い聞かせるようにして馬で走り去る義仲の背中を見つめていた。

 

 

 

京を脱出した義仲は、その後は北陸へ逃れようと健闘したが、

近江(今の石川県)へ出たところ、そこで源氏の勢力に討たれた。

こうして義仲の勢力は消滅し、義経は京の都を取り戻すことに成功したのであった。

 

 

・・・

 

 

「どこか懐かしい思いがする」

 

敷居をまたいでいくつもの部屋を巡っていた義経は、

時々、大きく深呼吸をして部屋の匂いを嗅いだ。

懐かしい父の香りがするような気がした。

 

義仲を追い払った京の都に入った義経は、

都を解放した英雄としてちょっとした有名人になっていた。

後白河法皇にも謁見し、平氏討伐の院宣を請うた。

いつの世も日本の中心は天皇にあり、

天皇を有するものが大義を掲げることができる。

院宣とはこの時代に法皇が出す公的な命令であり、

これを頂戴することによって義経は胸を張って父の仇を討ちたかった。

 

だが、個人的な思いは別のところにあった。

義経が今訪れているのは京の都にある堀川館であった。

 

「兄者・・・」

 

義経は部屋の中の古びた柱を撫でながら頼朝を想った。

幼き頃、頼朝もこの館で父と起居を共にしていたことがある。

堀川館は代々の源氏が使用していた館であった。

もちろん、父や兄とは離れて暮らしていた義経にとって、

堀川館を訪れるのは初めてであり、懐かしいというのは彼女の感慨である。

 

 

彼女の後ろを付いてきた弁慶も、感慨に耽る義経をそっとしておいた。

彼女にとって、家族と暮らす平穏な日々というものが、

小さい頃から当たり前のようには与えられていなかった。

打倒平氏や父の仇討ちというのは、彼女にとって人生の大きな目標であったが、

本当はその先にある家族と共に暮らす平和こそが彼女の宿願であったのだろう。

 

 

義経はまだ、頼朝に自分が女であることを告げていなかった。

 

涙の再会を果たした二人であったが、義経はその事実を露わにするのはためらった。

対面した時に周囲に他の人々がいたからというのが理由ではあるが、

義経の心の内にはそれ以外の理由もあっただろう。

それはおそらく、今の頼朝が必要としているのは武将としての義経であり、

妹としての牛若丸ではなかったからだった。

源氏を再興するためには、まず平氏を倒さなければならない。

頼朝にとって今必要なのは武士を率いて戦える屈強な男子だった。

 

義経は頼朝と再会した時、聡い義経はそういう微妙な彼の心情を察してしまった。

そして何よりも誰よりも頼朝の役に立ちたいと思っていた義経は、

自分が女であることを今は告げない方が良いと考えたのであった。

武将としての公的な自分を優先し、私的な感情は心の奥底へ沈めてしまった。

 

だが義経は夢見ている。

いつか、いつの日か平氏を滅ぼして源氏の世を取り戻した時、

彼女は頼朝に自分が女であることを告げようと。

そして兄と二人仲良く暮らしていければいいと考えていた。

 

この物語の中の義経にはそういう浪漫を大切にするようなところがあった。

そしてその浪漫のためには努力を惜しむことはしない性格だった。

一歩ずつでも着実に歩みを進め、いつか手の届かないと思われる夢にまで辿り着きたい。

 

彼女は現実を見つめる恵まれた頭脳を持ちながら、

それでいて精神世界の中に生きているような人間であった。

鯉が滝登りをして龍になるというような物語を信じたいという、

そういった想いを抱いて生きて行くことが彼女にとって何よりも生きがいであった。

 

 

いつまでも柱に触れながら想いを馳せている義経に、

申し訳ないと思いながらも弁慶は声をかけた。

 

「懐かしゅうございますか、お父上の過ごしたこの館が」

 

弁慶の声が聞こえた時、自分が柱に頬ずりしていることに気がついた義経は、

そんな感傷的な気持ちになっていた自分を少し恥じた。

 

「おかしいなら笑ってくれ」

 

そんな風に自虐的になりながらも、義経は冷静さを取り戻していった。

浪漫に浸りながらも、そんな自分を滑稽だと思う俯瞰した目を義経は持っていた。

 

「過去は美化されるものだ」

 

義経は後ろから声をかけた弁慶を振り返ることもなく言った。

 

「あの頃は良かったなんて振り返ることもある。

 だが、思い出というのは苦しいものであっても、

 今だから懐かしいと思って感じられるものだ」

 

部屋の中を歩き回りながら義経は語り続けた。

弁慶にはその姿はまるで舞台役者のように見えた。

 

「でも未来だってきっと楽しいものだ。

 過去を語って笑いあえるなら、私は未来を語って笑い合いたい。

 未来を美しく化かすのは過去を振り返っている今の自分なのだから」

 

動き回る義経の話を、弁慶は座りながらずっと聞いていた。

京の都を奪還した義経が、しばらく感慨に耽ってしまったことを気にしていたのであった。

弁慶からすれば、これは世直しのまだ第一章にすぎない。

ここで気をぬいてもらっては困るのである。

だが、義経の語る話を聞いてそんな不安は脳裏から消し飛んだ。

この大将はまだ道半ばであり、目標がまだ先にあることをしっかり理解していると思った。

 

「心強いお言葉が聞けて頼もしく存じまする。

 噂では、頼朝殿へ院宣が出るのももうじきかと。

 その時は、また牛若様にお声がかかるでしょう」

 

義経を京の都へ派遣したのは頼朝であり、

入京した義経が直接的に院宣を請うたとは言え、

公的には頼朝へ院宣が出されることになる。

 

これは組織として見れば当然の順序であった。

しかし頼朝と義経の感覚にずれがあったのは、

義経は頼朝と兄弟として一心同体だと考えていたことだった。

反対に頼朝は、義経を一人の部下としてしか考えていなかった。

 

 

梶原景時という男がいた。

 

彼は頼朝から命じられて京へ進軍する義経の軍についてきていた。

歴史的な資料を見ると、彼は義経達が戦を行うたびに詳細な報告を頼朝に入れている。

 

義経から見れば裏切り者であった。

梶原景時が頼朝へ報告している内容は義経の不利になるものばかりだったからだ。

例えば義経が堀川館を使用していたことも、梶原景時から見ればこう映ったかもしれない。

 

 

我が物顔で由緒正しき堀川館を独占している。

 

 

もし頼朝がそのように報告を受けるならば、

義経は自分の部下でありながら独断で物事を進めているように見えただろう。

もちろん、義経は自分が源氏の血を引くものであり、

頼朝の弟なのだからそれぐらいは当然のことだと思っていただろうし、

ただ父や兄のことを思いながら懐かしい家に住んでいただけに過ぎないかもしれない。

 

 

血の論理でいけば、義経は梶原景時など何とも思っていない。

自分は頼朝と同じ源氏の血を引く兄弟なのだから、

梶原景時に偉そうに命令される筋合いなどなかった。

 

だが人間関係は難しい。

血族を重視するか、組織の順序を優先するか、

そういうことでもつれ合うのが人間関係である。

梶原景時との関係は後々の義経に暗い影を落とすことになる。

 

 

だが、この時の義経には梶原景時のことなど頭の片隅にもなかった。

自分の思い描く未来へ向かって突き進む覚悟を固めていたところであった。

 

義経は部屋の中を歩きながら、ふと障子に溜まっていた埃に目が止まり、

それをおもむろに指ですくって弁慶に見せた。

 

「見よ、わずかに人間が手入れをせぬだけで、

 塵とはこんなに容易く積もってしまうのだな」

 

弁慶には義経の意図がわからなかった。

掃除を徹底しろと自分に言われているのかと思った。

 

「塵もつもれば山となり、その山を見たいが為に、

 私は今日も塵を集めようと思う」

 

それは彼女なりの決意の言葉だった。

懐かしい堀川館に辿りついた彼女の精神が高ぶってこのような言葉になっていたのだろう。

だが、それが次の戦への気持ちを高めているならそれで良いと弁慶は思った。

 

「いつか、飛べるかな」

 

そう言って義経は縁側から遠くの空を見つめていた。

おそらく、まだ鯉が龍になる夢を見ていたのだろう。

 

 

・・・

 

 

やがて頼朝の元に院宣がくだった。

 

義仲によって京の都を追い出された平氏であったが、

義仲と義経達が京で争いをしている間に勢力を盛り返してきていた。

 

平氏の軍勢は福原という、現在で言う神戸から須磨のあたりに陣取っており、

京の都から進軍する義経達は二手に分かれてここを攻めることになった。

 

主力軍を率いるのは源範頼という者で、彼は実は義仲討伐の際にも主力軍を率いていた。

範頼も源氏の血を引く者であり、頼朝からすれば異母弟、義経からすれば異母兄に当たる人物である。

彼は歴史上ではそれほど優秀な人物としては語られていない。

事実はわからないが、裏側から攻める役割であった義経の大活躍が、

彼の存在を必要以上に小さくしてしまったのかもしれない。

 

正面から攻める範頼に対して、義経は裏側から攻めることになった。

かなりの遠回りの険しい道を越えながら敵陣を目指した。

 

(・・・無駄な争いをしたくない・・・)

 

行軍する義経の脳裏にはそういう思いがあった。

父の仇はもちろん討ちたい、だがそれに巻き込まれる人々は増やしたくない。

戦は往々にして無関係の人々が巻き込まれて悲劇を生んでしまう。

それはこの物語の中の義経の望むところではなかった。

彼女はできる限り余計な戦闘は避けたいと考えていた。

 

 

そういう思考を持つ者の戦術は、必然的に奇襲になる。

 

現代から見れば少数精鋭での奇襲というのは理にかなった戦術であるが、

この時代ではそれは一般的ではなかったという。

むしろ武者達は各々の名を告げながらの一騎打ちが望ましいと考えていた。

それでなければ正々堂々と戦ったとは胸を張って言えず、

ひょっとすればここで行っていた義経の奇襲という戦術は、

当時の武者達にとってはとても卑怯で不可思議な行為に思えたかもしれない。

 

だが、義経はおそらくそんな周囲の反対には頓着しなかった。

 

この物語の中の義経は常に冷静である。

分析力に優れており、人を見る目も多分に優れていた。

気分によって行動するということはなく、

何をするにも計画を立てて細やかにそれを遂行する。

どんな場面で誰を起用すれば最も効果を上げるかもわかっていた。

 

女性にしては戦略がわかる性格だった。

むろん、周囲は義経が女だとは誰も知らない。

その女性ゆえの優しさが無駄な争いを避ける傾向を帯びるのだが、

聡明な義経が考え出した戦術は少数精鋭の奇襲だったのである。

それが彼女が真面目に考えぬいた最善の戦術だった。

 

 

敵陣へ行軍を続ける中、義経は突然、軍勢を二手に分けると言いだした。

弁慶もこれには絶句した、義経の軍勢は裏側から攻める為に主軍ほど数は多くない。

その戦力をさらに二手に分けるのは一般的には危険を伴う考え方である。

ひょっとすれば軍の中で反対意見も上がったかもしれない。

 

最終的に義経は、自分が選んだ少数精鋭の七十騎ほどを連れて分かれた。

部下達は一体どこへ連れて行かれるのかと思ったに違いない。

義経の進む道は獣道であり、普通なら誰も通るはずのない道である。

 

 

弁慶は義経に命ぜられ、平氏の一ノ谷陣営の裏側へ出る道を探させた。

何を考えているのかわからないが、主人に従うと決めた以上、

弁慶もその命令に逆らうことはなくやり遂げることにした。

そうして連れてきたのが地元の猟師の若者だったという。

 

地元の猟師しか知らない難所を、義経は案内させた。

そうすると次第に敵陣の裏側へ回りこめる道が見えてきて義経は喜んだ。

義経はこの名もなき猟師に鷲尾三郎義久という名を与えて褒美とした。

 

 

みるみるうちに義経軍には敵陣の姿が見えてきた。

しかし、それほどよく敵陣が見えるということは、

自分たちが高いところから見下ろしているという証拠である。

敵陣の手前までたどり着いた武者達は絶句した。

平氏の陣地と自分たちの前には断崖絶壁かと思われるような急斜面があったのである。

 

 

「さあ、ここを下れば一気に敵陣を叩ける」

 

義経は涼しい顔でそう皆に告げた。

だが、そこは思ったよりも急斜面であり、

そこにいた誰もが怖気付いてしまった。

 

「・・・お言葉ながら、これは無茶苦茶でございます。

 こんな作戦は我々に死ねと言うようなものではござらぬか?」

 

そんな声が次々と上がった。

義経はおそらく飴と鞭をうまく使い分けることができる性格だが、

あまり緩い統率を好むような人物ではないだろう。

彼女はおそらく自分と同じように熱い気持ちと真面目さで集団を統率するに違いなかった。

 

「・・・よし、馬を放してみよ」

 

義経は弁慶に命令させて馬を二頭ほど急斜面へ走らせてみせた。

皆が馬の行く末を見守っていると、一頭は足をくじいて倒れたが、

もう一頭は無事に駆け下りることができたようだった。

 

「見たか、心して下れば馬を損なうことはない。

 皆の者、あのようにして駆け下りるのだ」

 

怖気付いた者に例を示して説明したのはうまいと弁慶は思った。

だが、この主人の本当にすごいのはこの後だった。

 

黒い鎧に黄金の模様が付いていた派手ないでたちの義経が、

まず手本を見せようと自ら急斜面を下っていったのである。

こんな命知らずなことを率先して行うのは無茶であり、

これは彼女の闘う魂がそうさせたとしか言いようがなかった。

 

 

大将が降りていくのを見て、部下達が立ち止まっているわけにはいかず、

恐れながらも皆、義経の後に続いて急斜面をおりていった。

下りながら先を走る義経を見ると、思いのほか速度があった。

彼女には何を行うにも全力で行わなければ気が済まない真面目さがあったのだろう。

 

 

後に続いた弁慶が見たのは、降り立ったところで前向きに派手に転倒する義経の姿だった。

弁慶を始めほかの部下達もその光景を見て目を丸くしたのであるが、

転びながらも無事に急斜面を下り終えることができたので、本人は気にしていなかった。

むしろ立ち上がってすぐに転ぶ前の勢いを取り戻していた。

 

 

「私はよく転ぶのだ」と後に照れながら弁慶に告げた義経であったが、

ともかくも人がおりられないであろう傾斜を下った義経達は、

予想していない方向からの攻撃で平氏の軍勢を大混乱に陥れることに成功した。

 

これがかの有名な鵯越の逆落としであった。

 

だが歴史は義経が転んだ事実は記していない。

誰もが見て見ぬ振りをした為に歴史には残っていないのだろう。

 

 

こうして義経の奇襲作戦は成功に終わった。

福原から平氏を追い払った義経は、やがて京の都の英雄となっていった。

 

 

・・・

 

 

一ノ谷の合戦を終えて京の都へ凱旋した義経を待っていたのは複雑な政治事情であった。

良いことも悪いことも同時に彼女の身にまとわりついてきたと言ってよい。

 

まず、京の都では英雄となった。

一ノ谷での戦勝はすでに後白河法皇の元へ報告が届いている。

誰もが厳しい戦いを予想していた中、義経の大勝の知らせは誰もが耳を疑うような報告だったに違いない。

 

「まことであるか!?」

 

報告を受けた後白河法皇でさえ、そのように思った。

喜びよりも驚きが勝ったと言っていい。

それは義経の鵯越の逆落としが奇跡的な戦術だったからだ。

奇襲作戦がうまく成功した義経は、誰もが想像していた以上の戦果をおさめた。

 

京の都へ戻った義経を一目見ようと、民衆たちはこぞって街へ出た。

煌びやかな鎧を身にまとった美しい顔をした義経が街を行く。

女たちは馬に乗っていたその美少年の姿に魅了された。

絵描きが描いた義経の絵は飛ぶように売れたし、行く先々で皆から歓迎を受けた。

もし間近で一目見るようなことが叶うなら、そこには大行列ができたかもしれない。

京の都では、義経はそれくらいの人気者になった。

 

「今回のそなたの働き、見事であった」

 

法皇御所で後白河法皇の言葉を聞きながら、義経は喜びに震えていた。

法皇の前に小さくうずくまりながら、面こそあげられなかったが、

義経は一人で溢れてくる喜びと笑みが堪えきれなかったに違いない。

 

「京の都のことは、今後もそなたに任せようと思う、頼んだぞよ」

 

一ノ谷の合戦で共に軍を率いた源範頼は鎌倉へ引き上げた。

義経は京の都に残って周辺の治安維持に臨むことになった。

後白河法皇が義経にそれを望んだとも言え、民衆の人気を利用したとも言える。

 

 

だが、鎌倉にいる頼朝にとっては面白くなかったにちがいない。

 

戦に勝利したことは嬉しいことだった。

だが、想像していた以上に京での義経の人気が高くなった。

後白河法皇は義経を重用していくにちがいなかった。

これは頼朝の権力を脅かすことにつながっていくことになる。

 

後白河法皇としては頼朝の好きにはさせたくない。

もちろん、源氏の大将として頼朝にいてもらわなければ困るのだが、

全てを頼朝に任せてしまうと、やがては自分の言うことを聞かなくなるにちがいない。

権力が頼朝に集中してしまうのを避けるには、他に権力を分散させる必要がある。

 

そうして義経を重用することにつながった。

後白河法皇としては頼朝の弟である義経を可愛がることによって、

朝廷側は頼朝だけでなく、いざとなれば義経に頼ることもできるのだと、

そういう姿勢を示すことで頼朝の好きにはさせないという政治的な牽制を行ったのである。

 

 

歴史には色々な見方があり、義経自身がどのように思っていたかは定かではない。

だが、この物語の中の義経は女であり、政治などには興味がなかった。

この複雑な運命に、ただ思いがけず巻き込まれていったと言ってよかった。

義経の頭の中にあったのは、ただ兄弟共に活躍して源氏の世を取り戻すという事だけである。

 

 

後白河法皇が鎌倉を政治的に牽制したのだから、頼朝も同じように対抗してくるのが定石であった。

この局面で、頼朝は一ノ谷の合戦に参加した範頼を含む源氏の三人を国司に任命している。

国司とは地方を治める官僚みたいなもので、簡単に言えば出世したと言っていい。

 

だが、義経はそこには選ばれなかった。

 

合戦で活躍したのは義経であったが、頼朝から評価されていないのはおかしい。

おそらく、頼朝は朝廷との政治的な関係を考えて義経にこれ以上を権力を与えなかったか、

頼朝に報告を入れていた梶原景時などの嫌がらせによって正当に評価されなかったのかもしれない。

 

 

「どうしてだろう・・・」

 

そういう不安な思いが義経の頭をよぎった。

しかし、そもそも純粋であった義経には出世欲などはなかった。

兄が喜ぶように共に源氏の世を取り戻して父の仇を討てればそれで満足だった。

 

凱旋した京の都は、義経にとっては蜘蛛の巣のような場所であったかもしれない。

純粋で美しい蝶が、何も知らずに絡め取られていくその序章であった。

 

 

・・・

 

 

「お頼み申し上げましたぞ」

 

弁慶はその巨体を床に沈めていた。

畳に伏せてお辞儀をしているだけであるが、

2m近い巨漢がうずくまっているだけでも相当な迫力があった。

 

弁慶は屋敷を出た。

出てから振り返って鬼の形相で屋敷を睨みつけた。

それだけで屋敷が震え上がってしまうのではないかと思われる眼力である。

 

 

弁慶が長居していたのは彼の実家である。

そして本当は長居などしたくなかった。

しかし義経のため、私情は極力抑えることに決めた。

 

 

実際のところ、弁慶はほとんど歴史に残っていない。

伝説は数多く残っているが、後代の創作である可能性が極めて高い。

どのような活躍をしたのかもよく分からないことの方が多い。

だが、歴史から義経を理解するには彼の存在の意味は大きいかもしれない。

 

 

「俗物が・・・」

 

弁慶は実家の門を出ると、そこに唾を吐きかけてその場を去った。

実家に帰るのはもう数十年ぶりのことであった。

 

 

実家を出たのは三歳の頃だった。

自分の意思で出たというより、捨てられたに近い。

子供の頃から体が人一倍大きく生まれついていた彼は、

性格も荒かったために鬼子と家族から忌み嫌われた。

そうしてあやうく殺されるかというところで叔母にもらわれて京で育てられたのである。

 

そして比叡山に入れられたが、性格が跳ねっ返りであったためにまた嫌われた。

乱暴者で悪いことばかりしていたために、また居場所がなくなったのである。

弁慶は現代でいう典型的な不良少年であったと言える。

 

 

弁慶は僧侶の姿をしている為にお坊さんのような印象があるかもしれないが、

比叡山を現代の大学のような場所だとみなすのであれば、

彼は大学を中退しており、行き場のない社会の落ちこぼれであった。

みてくれだけ自分で僧侶の格好をしているに過ぎず、

世間から見ればこのような人物はごろつきと変わらない。

 

 

とにかく世の中を憎んでいる。

それは彼の生まれや環境を見れば仕方のないことだった。

 

そんな彼が実家に戻ったのには理由があった。

彼の実家は現在でいう和歌山県田辺市という場所であり、

京の都から下って遥か南へ向かったところであった。

 

 

一ノ谷の合戦で勝利した義経であったが、

次に攻略すべきは四国にある屋島、下関にある壇ノ浦であった。

平氏はここを強力な水軍で固めており、対抗するには義経も水軍が必要だった。

 

弁慶の実家は代々、熊野水軍を統括する役目を担っていた。

祖父の時代は平氏に味方して勝ち戦に乗ることができた。

現在、水軍を統括していたのは弁慶の父親であり、

ここを味方に引き入れるかどうかが大きな勝敗の分かれ目となる。

 

弁慶は自身の生い立ちの悲劇をぐっとこらえながら実家を訪れて父親を口説いた。

これからは源氏の世がやってくる、今味方をするべきは源氏であると。

案外簡単に話はまとまった、父親は義経に味方することを決めたのである。

時代の趨勢がもはや源氏に流れていることは利に聡い弁慶の父親にはわかっていたのだ。

 

だが、そんな父親を弁慶は憎んでいる。

祖父の代には平氏につき、今回は源氏につく。

利がある方に簡単に転ぶからである。

そこには義などない、世間体と身の保身しかない。

不吉であるだけで我が子を殺そうとするのと本質的には何も変わらない。

 

 

とにかくも熊野水軍を味方に引き入れる交渉に成功した弁慶は、

これで屋島決戦の大勢は決したと思われる吉報を持って京へ戻った。

 

 

・・・

 

 

弁慶が京の堀川館に戻った時、義経は庭先で剣術の修行をしていた。

一人で刀を振るいながら真剣な顔で汗を流していたのである。

両手でしっかりと握った刀で、まるで曲芸のようにあざやかに舞うように斬る。

その姿は演舞のように美しく、弁慶もそんな義経を見るのが好きだった。

 

「精が出ますな」

 

義経の姿を見かけた弁慶はそう声をかけた。

 

「弁慶、戻ったのか」

 

義経は振り回していた刀を鞘にしまった。

彼女の挙措は美しい、刀が吸い込まれるように鞘に収まった。

 

「ええ、これで勝負は決したようなものです。

 熊野水軍は今後、牛若様の手足となって命を惜しまず働くことでしょう」

 

その報告を聞いて義経は軽く頷いた。

内心は飛び上がるほど嬉しかっただろうが、彼女はあくまでも冷静であった。

 

義経は弁慶の家庭事情など知らない。

弁慶が何も語っていないからであった。

義経からすれば、彼の実家である熊野水軍が味方についてくれることは当然だと思っていた。

弁慶も自身の苦労は何一つ口にしなかったし、義経が喜んでいるならそれでよかったのである。

 

「よくやってくれた。

 これで平氏の水軍への対策は万全だな」

 

義経は攻める時は大胆に攻めるが、準備に関しては細心の注意を持って進める性格をしていた。

この時代には珍しく、武者というよりは大局を見る戦略家だった。

 

「長旅で疲れただろう。

 よし、何か美味しいものでも食べに行こう」

 

義経は自分の部下達に対して基本的には優しかったが、

自分のことを女だと知っている弁慶に対してはなおさらそうだった。

 

 

二人は京の街を散策することにした。

だが、義経が街へ出かけると実際には弁慶はさらに気苦労があるのだった。

 

 

「えっ、あれ見て、義経様よ!」

 

街で義経の姿を見つけるたびに、道行く女達が騒ぎ立てる。

時にはどさくさに紛れて義経に触れようとする者もいるため、

弁慶は彼の護衛にまた疲れることになるのである。

これほど有名になってしまった義経を疎ましく思う者がいても不思議ではなく、

そういう混乱に乗じた刺客が現れてもおかしくなかったからだった。

 

こういう女達に出会う時、決まっていつも義経は笑顔で対応した。

彼女はどんな事を言われても邪険に扱う事はなく希望に応ずる性格だったが、

弁慶は寄ってたかってくる女たちを剥がすのに必死であった。

 

店先にはまだ覗いている女達がいたが、義経と弁慶はやっと一軒の店屋に腰を落ち着けた。

 

「やれやれ、いつもすまないな」

 

義経は申し訳なさそうな苦笑いを見せる。

 

「まったく、ああいう女どもは恥じらいがなくて困りますな。

 自分たちの事しか考えておらず、他人に譲る遠慮もない」

 

おかげで弁慶も京の街ではちょっとした有名人になっていた。

とは言っても、義経を追いかける女達の間では「鬼の剥がし」と呼ばれていただけだったが。

 

「いつも損な役回りをさせてしまってすまない」

 

義経はまた頭を下げながら弁慶にそう言った。

 

「いや、もともと拙僧は誰にも好かれてなどおりませぬ。

 生まれた時分よりずっと嫌われ者ですから、こういう役割がちょうどよいのです」

 

弁慶はハッハッハッと声をあげて笑った。

辛い事も楽しそうに話すのが弁慶が身につけた愛想なのかもしれなかった。

 

「それよりも牛若様は真面目すぎますぞ。

 我々の大将なのですから、もっと大きく構えていてもらってちょうど良いのです」

 

弁慶は鵯越の逆落としで転んでいた義経を思い出していた。

この主人はまったく生きるのに不器用で、だからこそ支え甲斐があった。

 

「おい、いま鵯越の時の事を考えていたろう?

 もう恥ずかしいから勘弁してくれ」

 

義経は恥ずかしそうな顔を見せてそう言った。

しかし、こんな顔を見せられるのも弁慶の前だけであった。

戦になれば、牛若丸の顔は潜めて、また義経に戻らなければならない。

他の部下もいない弁慶と二人きりの時間は、義経にとって素でいられる憩いの時だった。

 

「何をおっしゃいますか。

 あの逆落としはおそらく後代まで語られる伝説になりましょう。

 あのような急斜面を騎馬で行くとは誰も想像できますまい。

 拙僧は眼前に革命の馬を見た思いがしたものです」

 

弁慶がそう言うと、褒められる事がまんざら嫌いでもない義経は照れた。

その時の表情だけは、源氏の血を引く大将でもなんでもなく、

ただの年頃の可愛らしい女だったように弁慶には思えた。

 

「そんなに褒められるとどんな顔をして良いかわからぬ。

 私は笑顔が下手なのだから」

 

確かに街で女に声をかけられても義経は不器用に笑う。

そんなぎこちない笑顔を浮かべている自己を自虐的に笑う事が義経には多かった。

そういう自虐という防御は、実は他人に弱点をつかせないために行う、

義経なりの先手必勝の自己攻撃だったと思われる。

 

「もうよい、それよりもこれを見てくれ」

 

義経は嬉しそうに懐から巻物を取り出した。

無邪気な表情で机の上に巻物を広げると、弁慶にそれを見せた。

 

そこには人物などは何も描かれていなかった。

弁慶には絵心など毛頭わからないのだが、そこに書かれている絵は、

おそらくこの時代の誰が見ても理解する事が不可能だったに違いない。

物の形などは何も固まっておらず、ただ線や模様が宙に浮かんでいるような絵で、

しかし色使いは鮮やかで様々な印象を見るものに与えるように思えた。

 

「暇ができた時にさっと描いてみるのだ。

 よくわからないが形のある物を描くのは好きではない。

 だが、こういう絵を何も考えずに描くと気分が良くなるのだ」

 

義経はそう楽しそうに説明した。

だが、残念ながら弁慶には絵の良し悪しは判断ができなかった。

 

ただ、弁慶が感じた事は、義経が大きな戦を前に、抱えている不安が日々高まっているという事だった。

それを誰もいない部屋の奥でこんな風にして消化しているに違いないと考えた。

おそらくここに描かれているのは彼女の心の中の風景であり、

彼女は鬱屈した気分をこんな風に世に生み出すことで解消しているに違いなかった。

 

これは心の中を描いた物だから具体的な形がない。

そして、おそらくもっと言えばこの義経は精神主義者なのかもしれないと思った。

世の中の物質的な物への関心よりも、己の心への興味の方が比較的に高いのである。

そして、おそらく世の中を形あるように固定して見ている人ではないのかもしれない。

形を崩して色々な角度から見たり、自分なりに作り替えたりすることを、

彼女は絵を描くという作業を通じて無意識的に行っているのかもしれない。

 

 

店屋の主人が食事を運んできたので、義経はその巻物をくるくると巻き上げ、また懐にしまった。

誰も理解できないような物を、それでも弁慶だけには理解してもらいたかったのだろうか。

だが、おそらくこの巻物は後代まで語り継がれることはないだろうと思った。

理解をするには、時代が彼女にまだ追いついていなかった。

 

「本当はもっと描きたいのだが、暇がない。

 一日が倍くらいの時間であれば良いのだが」

 

そう言ってから、義経は箸をとって食事を始めた。

自由に使える時間があれば、彼女はそれを全て活用しようとする。

決して暇を持て余すようなことはしなかったに違いない。

 

(・・・なぜそうまで生き急ぐのか・・・)

 

弁慶はそう心の中で思った。

それが戦場でも怒涛の攻撃に現れているのかもしれなかった。

義経は行軍も攻撃も神風のように速かった。

 

「・・・どうした、私の顔に何かついているか?」

 

義経は不思議そうに顔を見つめている弁慶を見てそう言った。

 

「・・・牛若様は生真面目なお方だ」

 

弁慶はそう言って笑った。

 

「生まれ持ってそうなのだ、もう変われないよ。

 さあ、そんなことを言わずにお前も早く食え」

 

生真面目に休まず食べ続ける義経を見ながら、

弁慶も同じように箸をとった。

 

「・・・たまには箸を休めることも必要ですぞ」

 

そう言ってから弁慶も箸をつけた。

 

 

・・・

 

 

平氏討伐の為に水軍を集めるなど、着々と準備を進めていた義経だったが、

一方で後白河法皇から京の都の治安維持や畿内近国の軍政や民生にも関与させられた。

多忙な日々を過ごしながらも、まだ戦に赴く事はない。

 

義経は相変わらず暇ができれば絵を描いた。

誰もいない堀川館で、机に向かって筆を走らせている時が至福だった。

 

だが、時々筆が止まった。

塀の向こうから響いてくる賑やかな声が聞こえたからである。

京の街を行く人々は賑やかで華やかな物を好む。

それに引き換え、自分は本当に源氏の武士かと思われるほどに日々の生活は地味であった。

 

(・・・真面目すぎる・・・か・・・)

 

義経は弁慶に言われた言葉を思い出していた。

物事を俯瞰して見ることができる義経にとって、

自分自身の欠点は嫌というほどよくわかっていた。

しかし、それは欠点というよりは気質だった。

生真面目すぎる義経の性格が戦場で発揮されると、

確かに戸惑う武者達も多かったように思われた。

皆は戦場でも冗談などを言い合って場を和ませているが、

自分にはそんなことはできない、それが彼女の悩みでもあった。

 

 

結局、その時に描き上げた絵はひどい出来になった。

どこか悲しくて重たくて自分自身でも見るに堪えない哀愁があった。

 

(・・・これではいかん・・・)

 

そう思った義経は机に向かうのを止めた。

思い立ったように化粧を施し、女物の直垂を身に纏って街へ出た。

これであれば街で誰も彼女が義経だとわかることはない。

弁慶と出会った時も、義経はこうして清水寺へ参拝に出かけたのである。

 

久しぶりに自由の空気を吸った義経は気分がよかった。

それはもしかすると、義経としての重圧から解放されたからかもしれない。

義経を演じ続ける事に疲れ、本来の女性である自分を取り戻せたような気がした。

街には芸者や物売りなどが義経にも賑やかに声をかけてくる。

普段の義経にはこうして普通に街を歩く事もできなかった。

人間は抑圧されればされるほど、そこから解放されることを心のどこかで強く求めるようになる。

 

(・・・弁慶が言っていたのはこういうことか・・・たまには箸休めも必要だな・・・)

 

暖かな日光を浴び、鳥達のさえずりを聞き、深呼吸をするだけでも幸せを感じた。

若い頃にこんな風に過ごす機会がなかった義経にとって、まるで失われた時を取り戻しているような気分だった。

きっと今の義経なら箸が転んでもおかしかったにちがいない。

 

 

充分に京の街を堪能した義経は、そろそろ堀川館へ戻ろうと思った。

そうした帰り道、一軒の店先にたくさんの人だかりができているのを見つけた。

 

興味を惹かれた義経は歩みを止めて少し覗いてみることにした。

人だかりの隙間から覗いてみると、そこには箸を持った老人が立っていた。

 

「箸殿、箸殿、あの橋の上にさ、止まってる鳥はなんて鳥?」

 

手に持っていた箸袋から箸を抜いた老人はそう呟いた。

 

「ああ、あの鳥、あれはふくろうだよ」

 

今度は箸袋を見せながら老人がそう言った後、

周囲を取り囲んでいた人だかりが皆笑い転げた。

 

「あっはっはっは!おかしい!」

「いいぞー!もっとやれー!」

 

町人に尋ねたところ、これは最近流行っているらしく、

この老人が現れてからというもの、京の街では彼を知らぬものはないという。

 

(・・・これだ・・・)

 

たかが箸だけでこれほどの大人数を和ませるその腕前に、

義経は一瞬で惚れ込んでしまった。

気づいた時には、この老人の前に手をついて弟子入りを願っている義経がそこにいた。

 

 

・・・

 

 

「よい物を見せてやろう」

 

連れ添うように歩いていた義経が弁慶にそう言った。

弁慶は不思議そうに微笑む主人の顔を見て何事かと思った。

 

 

摂津国住吉郡とその当時は呼ばれていたらしい。

現在の大阪にある住吉大社の所在である。

 

義経と弁慶は平氏との決戦を前に、

はるばる京の都から摂津国まで下ってきていた。

 

現在ではそんな事はなくなっているが、

この時代、住吉大社のすぐ近くまで海があったらしい。

つまり神社は海に隣接するように存在していた。

 

古くから住吉大社があったこの土地は、

当時から多くの人に愛された賑やかな場所であった。

とりわけ海に近く、貿易の拠点ともなった。

また弁慶の故郷である熊野(現在の和歌山)へ通じる道でもあり、

多くの人が交流する場所として賑わったと考えられる。

 

義経がこの地を訪れるとすれば理由は幾つか考えられる。

一つは近々予定されている戦のために水軍を集める準備のためである。

熊野水軍との連携を図る中継地点にもなりうるし、

貿易の発達した海の要所として抑えておくべき場所であったとも言える。

 

もう一つは、義経のご先祖様にあたる河内源氏が、

この地に深く関わりがあるということだった。

源満仲は住吉大社で神託を受けたと言われているし、

住吉大社の宮司と源氏はこの当時には遠い婚族関係にあったとも言われる。

後には鎌倉幕府を開いた頼朝もこの地を訪れていることから、

義経が住吉大社に参拝していてもおかしくはなかった。

 

 

義経に連れられてやってきた弁慶が辿り着いたのは住吉大社であった。

大きな鳥居を眼前に控え、主人の言う「よい物」への期待が高まった。

 

立ち止まることなく鳥居をくぐって住吉大社へ足を踏み入れた義経は、

歩みを止めることなく、懐からおもむろに何かを取り出した。

それは箸袋に入った箸だった。

 

この当時、箸袋は庶民にはまだ珍しい物だった。

平安時代、宮中の女官達が着物の端布で箸袋を作ったのが始まりらしく、

そんな物が義経の時代に庶民の間に広まっていたとは言えない。

 

だが義経が弁慶に告げた「よい物」とは住吉大社でも箸袋でもなかった。

義経は嬉しさをこらえきれないような表情を浮かべながら、

その箸袋からまるで刀を抜くように勇ましく箸を抜いて言い放った。

 

「箸殿、箸殿、あの橋の上にさ、止まってる鳥はなんて鳥?」

 

弁慶は思わず足が止まった。

義経は構わず歩き続けた。

 

「ああ、あの鳥、あれはふくろうだよ」

 

箸袋に持ち替えて決め台詞を言った義経は不敵な笑みを浮かべて弁慶の方を見た。

 

(・・・主人が、壊れてしまわれた・・・)

 

弁慶は大きな口を閉じることもできない程、あっけにとられていた。

 

「どうした弁慶、笑いを堪えなくてもよいのだぞ」

 

義経は立ち止まっていた弁慶のところまで歩いてきて嬉しそうに肩を叩いた。

それでも弁慶は驚きのあまり何も言葉を発せなかった。

 

「仕方がない、私が作ったのを聞かせてやろう」

 

そう言って義経はもう一度姿勢を整えて箸に話しかけた。

 

「箸殿、箸殿、困ったときに絞るもの、あれは何だい?」

 

そう言って義経はまた箸袋に持ち替えた。

 

「ああ、それはね、知恵袋さ」

 

義経はそう言ってから不敵な笑みでまた弁慶を見つめた。

しかし黙って身体を震わせている弁慶がそこにはいた。

 

(・・・誰だ・・・我が主人をこんな風にしてしまったのは・・・)

 

弁慶は堪忍袋の緒が切れそうになっていた。

歴史を回転させる軸となるであろう源氏の血を引く未来ある若者を、

こんな風にしてしまった輩を見つけたら許さないと思っていた。

 

「・・・牛若様、そんな箸にも棒にもかからない事はお止め下さい」

 

弁慶は義経の両肩を持って揺さぶるようにして訴えた。

 

「何を言うか、箸休めが必要だと言ったのはお前だろう」

 

その言葉を聞いた弁慶は衝撃を受けた。

主人をこんな風にしてしまったのは自分だったのだと気付いた。

 

「どうだ、私も随分と成長したものだろう?」

 

二人が再び歩き出したとき、義経はそう自慢げに尋ねた。

 

「・・・心臓が強くなられましたな」

 

自分がけしかけてしまった事実を否定する事ができず、

弁慶は何とか言葉を胸のうちから絞りだしてそう答えた。

 

「・・・なんだそれは」

 

弁慶の言葉に不満を覚えた義経は、

持っていた箸で弁慶の脛を打った。

「うわぁ」と大声をあげて大男が道に倒れこんだ。

 

この様子を見ていた人々が、後に脛を「弁慶の泣きどころ」と呼ぶようになった、かもしれない。

 

 

 

・・・

 

 

義経と弁慶は住吉大社の中へ進んだ。

せめて主人が元に戻るように祈ろうと考えていた弁慶だったが、

やがてそんな事は忘れてしまう事になった。

 

立派な本殿の前に大勢の人だかりができているのを見た義経と弁慶は、

人々の隙間を縫うようにして中へ入っていった。

やがて人の群れを抜け出たところで二人が見たのは、

雨乞いの為に踊りを踊っている白拍子の姿だった。

 

白拍子とは歌を歌いながら舞を踊る芸人である。

主に男装した女性や子供が務める事が多いという。

 

義経の目の前で踊っていた女性の姿はとても優雅であった。

白い直垂に立烏帽子、紅の長袴といった出で立ちで、

華麗に舞いながら、その肢体は美しかった。

 

「ほぉ~これが噂に聞いた静御前か」

 

隣にいた男が感嘆するような声を出した。

義経はそうやって噂話をしている周囲の人々の声に耳を傾けていた。

 

「なんでも後白河法皇様が雨乞いをする為に舞わせたそうだ」

「おお、聞いた事ある、なんでも百人くらい舞わせたんだって?」

「ああ、そんで最後の一人である静御前が舞った時、見事に雨が降ったって話だ」

「なんでも法皇様は静御前を日本一だと褒めそやしたそうじゃないか」

「そうだよ、おまけにあの美貌だ、神の子だとしか思えんよ」

 

(・・・なんと、それほどのおなごか・・・)

 

義経が歌いながら踊っている静御前を見つめていると、

その舞の中で、ふと視線が交錯したような気がした。

その視線の交錯を、なぜか義経は忘れることができなかった。

 

 

やがて静御前の舞が終わり、彼女は建物の中へ引っ込んでしまった。

見物客たちもそれぞれ散り散りになってどこかへ行ってしまった。

 

 

「よいものを見ましたな」

 

弁慶は拝殿の前で鈴緒を揺らした後で手を合わせて祈り、

義経の方を振り向いてそう言った。

手を合わせて祈っていた義経は静かに目を開けた。

 

「なんだ、お前はあの女に惚れたのか?」

 

義経はゆっくりと目だけを動かしてそう尋ねた。

 

「いや、しかしあの舞を見れば、男であれば誰でも惚れるでしょうな」

 

弁慶の言葉に義経は特に反応を示さなかった。

無言のまま拝殿を後にしようとして振り返った時、

義経達の目の前には先ほどどこかへ引っ込んでしまったはずの彼女が立っていた。

 

「ふふふっ」

 

静御前は先ほどと変わらぬ衣装のままでそこに立っていて、

右手が隠れるほどの長い袖を口元に当てて可愛らしく笑っていた。

まるでいたずら好きの猫みたいな風に義経には見えた。

 

「何がおかしい」

 

義経はいたずらっぽく笑う静御前にそう返した。

 

「だってよくお似合いですもの、白拍子かと思いました」

 

その言葉を耳にした途端、弁慶はすぐさま腰に帯びた刀の柄に手をやって前へ踏み出た。

義経が女だということを見抜かれたと感じた弁慶は、すぐさま相手を斬ろうとしたのである。

 

「まて!」

 

義経は声をあげて静止した。

心の中では弁慶を頼もしくも思った。

先ほど褒めたばかりの異性を、必要とあらばすぐ斬って捨てる冷徹さがこの男にはあると。

 

弁慶は刀を半分まで抜きかけたところで静止した。

だが、まだ目は獲物を狙う虎のそれのように荒ぶっている。

 

「・・・どうしてわかった」

 

義経はむしろ好奇心からそのような尋ね方をしたように思えた。

女人の格好をしておらず、弁慶のように近距離に接近したわけでもないからだ。

 

「なんとなくそう思っただけです」

「なんとなく?」

 

弁慶はその答えに不満げにそう答えた。

 

「はい、でもたとえ狼が人に化けて出てきたとしても、

 私には誰が狼かすぐにわかるような気がします、そういうものです」

 

弁慶にはわからなかった。

理屈が通らないような女の直感というものを、

男である弁慶には理解できないのかもしれなかった。

 

「・・・それで、そなたは私をどうしたいのだ?」

 

義経は少し脅すような口調でそう返したが、

心の底では彼女を傷つけるような意思は皆無だった。

 

「なんだか仲良くなれそうな気がしませんか?」

 

弁慶にとっては拍子抜けする思いだった。

彼女の言葉には根拠や理由が全くないからだった。

 

しかし、義経にとっては意外な気もしていた。

先ほど舞を踊る彼女を見ていて視線が交錯した時に、

ふと義経も同じような思いを抱いていたからであった。

 

「どうしてだろうな」

 

義経はなんとなくおかしくなってそう理由を尋ねた。

とりあえず尋ねたというのが正しい言い方かもしれなかった。

 

「なぜかすごく気になるんです。

 惹かれ合う事に理由なんて必要でしょうか?」

 

それは義経も静御前の事が気になっているのを悟った言い方だった。

論理的に明快ではないが、彼女は色々と見抜いている、

そんな風に義経はこのやりとりの中から感じていた。

 

「・・・一緒に来るか?」

 

得体の知れない者を懐に取り込もうとする義経に弁慶は驚いてしまった。

だが、静御前はその言葉を受けて懐いた猫のように義経についてくることになった。

 

 

やがて京の都に帰った義経達は、街でも静御前と共に歩く姿を見られるようになり、

「義経は静御前を妾にした」という噂が世間に広がることになった。

それは静御前をよく知っていた後白河法皇を驚かせることにもなり、

同時にこの関係が女同士の関係である事が露呈する事を弁慶は何よりも恐れるようになった。

義経がもし女だと世間に知られれば、この二人の関係は尋常ではないと噂されるようになるだろう。

弁慶はこれまで以上に義経が女である事実を隠さなければならないと思うようになった。

 

一方で義経は、自分の本当の姿を知っていてくれる同性の友人の存在をありがたく思った。

そして、心の底ではどこかで彼女のような存在を求めていたのだという事を思い知ることになった。

 

そういった事と同時に、義経は自身の存在の中に一つの狭間が生まれつつある事を知るようになる。

それは押し込めていた何かが逆流していくかのような衝動を胸に宿しているように思えたし、

前に進みながらもその道から逸れていくもう一人の自分を見るような気もしていた。

 

 

・・・

 

 

京の都に戻った義経だが、この間も怒涛の如く時は進んだ。

 

まず伊賀・伊勢で平氏の反乱が起こった。

これに対して頼朝は義経に出動を命じた。

義経は忙しく過ごしているうちに西国へ逃れた平氏の討伐に出られず、

源氏方はとりあえず源範頼だけで一足先に西国へ攻め入ることになった。

 

そしてまた義経の身辺は急速に時を進める。

 

この時期、義経は後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。

これは宮廷守護とその権限を任せられたという事になり、

義経は急速に出世を遂げた事になる。

 

「私は出世になど興味はない」

 

そう言って義経は受けようとはしなかったが、

後白河法皇の好意を無下にすることもできず、

最終的にはこの出世の申し出を受けざるを得なかった。

 

しかし、それには頼朝は嫉妬した。

頼朝としては誰を出世させるかの権限は自分にあると思っており、

後白河法皇にその権限を自由にされたくはなかった。

また、義経は自分の部下でありながらなぜ勝手に法皇から位を授かるのか。

義経は二人の上司の狭間で生きづらい立場にあったと言える。

 

弁慶などは嬉しかった。

己の主人が出世して権力を握ってくれることを願った。

そうすればこの生きづらい世の中を変えうる力を得られると思っていたからだ。

 

そして、これによって義経は「判官」と呼ばれるようになった。

室町時代から江戸時代にかけて「判官贔屓」という言葉が生まれるようになる。

意味は不遇な身の上の人や弱いものに同情して肩を持つということだが、

この時期の義経にはそんなことになろうとは露ほども思わなかった。

 

 

また、この時期に義経は正室を迎えている。

相手は河越重頼という者の娘であり郷御前と呼ばれた。

これは頼朝の推薦によって選ばれた相手であり、

義経自身が望んだものではなかった。

 

頼朝としては義経の世話をすることで、

自分が義経の上司であることを示したかったのかもしれない。

義経は特に気が進まなかったかもしれないが、

兄がそこまでしてくれるならということで申し出を受けて正室を迎えた。

 

だが、この物語の中の義経は女である。

女である義経が兄の好意とは言え妻を娶るなど、

まさか考えたこともなかった。

 

しかし今は大事な戦が控えていることもあり、

まだ自分が女であることを明かす時ではないと考えた義経は、

仕方なくこの妻を京へ迎え入れることにした。

もちろん、これは現代でいう偽装結婚であった。

 

初めの頃、義経は郷御前に何も真実を告げなかった。

ただ夜になっても何をすることもない義経を密かに不思議に思っていた。

共に暮らしていればやがては秘密も明るみに出ることになる。

 

まず、弁慶は脅した。

この事実を世に露呈させればそなたの命はないと刃物を突きつけた。

 

だが義経がそれを制した。

自分が偶像として生きねばならぬこと、戦が終われば平和な世の中がやってくることを説き、

それまでは辛抱して生活をしてくれと懇願した。

幸い、郷御前も政治的に利用された婚姻であり、言われるままに従った。

もとより自由などないのだから、何があってもうろたえることはなかった。

そして彼女は、生涯その事実を世に露呈させることはなかった。

 

 

・・・

 

 

義経はいよいよ平氏討伐へ向けて進軍した。

平氏の本陣は現在で言う四国の香川県の屋島にあった。

 

先に進軍していた源範頼はここを攻めなかった。

それは水軍がなかったためである。

平氏は強力な水軍を持っており、源氏にはそれはなかった。

 

そうであれば水軍を用意したらいい。

義経はそういう冷静な分析をした。

敵軍の状況をくまなく知り尽くした上で作戦を立てた。

 

一方で渡辺津という今でいう大阪市から出航する予定だった船を出したのは、

誰もが尻込みするような暴風雨の夜であった。

これは彼女なりの奇襲作戦だったのかもしれない。

平氏軍もまさかかような暴風雨の夜に船を出してくるとは夢にも思わない。

 

出航を控えた直前、後白河法皇は義経に使いを出した。

大将でありながら先陣を勤めようとする義経に対し、

そのような必要はないと伝えたものであったが、

 

「私には存念があり、先陣となって討ち死にする覚悟があります」

 

という決意を持って返事とした。

 

 

・・・

 

 

結局、船に乗ってきたのは百五十騎でしかなかった。

このような暴風雨の中で船を出すという作戦に、

付き従うものは命を捨てた武者達だけだったのである。

 

暗闇の中で帆を立てて陸を離れていく船の中、

自分に従ってくれた部下達を前に義経は語った。

 

「もしこの船が風にながされて無人島に流れ着くなら、

 お前達はいったい何を持っていきたいか」

 

奥州からずっと従ってきた佐藤継信・忠信の兄弟が顔を見合わせた。

これまた忠実な部下の一人であった伊勢義盛は高らかに声をあげて笑った。

 

「そりゃ、女だな」

 

伊勢義盛はすこしばかり下品な笑い声をあげた。

義経が女だということを知らないのだから、

こうした発言ができるのだなと弁慶は思った。

 

「私は、この弓矢です」

 

背筋を正して真面目な顔して聞いていた那須与一がそう答えた。

彼も義経に従う古参であり、弓の腕に優れていた。

 

「義経殿、恐れながら今から戦に行くのですぞ。

 無人島に流れ着くとはなんと不吉な」

 

佐藤兄弟はそのように述べた。

風は強くなる一方で鈍い音を立てて帆柱が揺れる。

 

「まあ良いではないか。

 この問題には答えなどないのだ。

 だが私であればこう答えよう。

 無人島には夢を持っていくと」

 

その回答を聞いていた弁慶は、

やはりこの主人は徹底的な精神主義者だと思った。

 

「私は今まで父の仇討ちだけを思って生きてきた。

 全てを失ってしまったとしても、その想いさえあれば生きてこられた」

 

そばで聞いていた弁慶にとって、義経の言う「仇討ち」とは観念であると思った。

おそらくそれは実際に平氏の命を奪うことではなく、

父の無念を晴らすという精神的な目標であったに過ぎないと見抜いていた。

 

「だから私には失うものなど何もないのだ。

 戦に向かう私達には命がいつ果てるともわからない。

 だが、刹那的に行動せよと言っているのではない。

 永遠の命だと思って夢を持ち続けて、

 今日限りの命だと思って必死に生きよ」

 

那須与一や佐藤兄弟などは涙を流して聞き惚れていた。

伊勢義盛だけが「大将は真面目だねぇ」と茶化していた。

 

弁慶はなかなかの名演説だと思って聞いていた。

それは一つの人間の哲学だと思った。

この若さで、しかも女でありながら、

なかなか深い洞察を持っていると弁慶は感心した。

もはや弁慶には彼女が本当の男になっていたようにも思えた。

 

「何か他には大切なものはないんですかい?」

 

伊勢義盛が下衆な笑いを浮かべながらそう質問した。

質問というよりは義経をすこし揶揄しているようにも思えた。

弁慶と同じように出自がよくわからない彼は、

一説には昔は山賊だったとも噂されていた。

だが、どこの馬の骨ともわからぬ分、

弁慶と同じように世の中の酸いも甘いも知り尽くしていた。

 

 

「そうだな・・・夢以外であれば、箸かな」

 

「箸?」

 

伊勢義盛だけでなく皆が訝しげな表情を浮かべているのを見た弁慶は、

この辺りが潮時だと思って事態の収拾を図った。

 

「・・・ゴホッ、ゴホッ、さあ雨風が強くなってきたぞ。

 皆の衆、何をしておる、さっさと持ち場に戻らんか!

 船が沈んでしまっては、戦の前に無駄死にしてしまうぞ!」

 

義経は懐に右手を突っ込んだまま不満げな顔をしていた。

弁慶に促されるように皆は散り散りになって持ち場へ戻った。

 

「・・・箸殿、箸殿、弁慶の処罰はどのような方法がよかろうか?」

 

義経は懐から箸を音もなく取り出してそう呟いた。

 

「ああ、そうだな、あとで袋叩きだよ」

 

義経は恨めしそうにそう言った。

弁慶は青ざめた顔をしてその場を離れていった。

 

 

・・・

 

 

暴風雨の中を耐え凌ぎながら、船はやがて阿波国勝浦に到着した。

これは現在の徳島県にあたる場所である。

 

通常であれば三日かかるところを三時間でついたと言われる。

本当にそんなことがこの時代の船に可能かはわからないが、

ともかくも予想よりも早く到着したことは間違いない。

 

平氏もまさかこのような奇襲を仕掛けてくるとは夢にも思わなかったにちがいない。

屋島にあった本陣は手薄になっており、義経は徹夜で進撃して一気に攻めた。

 

自軍の数は少なかったが、少数と悟られないために火を放ちながら進んだ。

これによって大軍の襲来と誤解した平氏は慌てて陸地を捨てて海上へと逃げ出した。

義経の奇襲は大成功したのである。

 

「見よ、平氏が逃げていくぞ」

 

驚いて逃げ出した平氏軍の船を指して義経は叫んだ。

それによって自軍の士気は高まっていった。

だが、さすがに平氏の大軍もこれだけでは済まさなかった。

義経達が予想以上に少ない軍勢であることを確認した平氏軍は、

船を切り返して義経達に襲い掛かってきたのである。

 

「義経殿、下がってください!

 あまりにも前に出すぎです!」

 

佐藤兄弟の弟である佐藤忠信が叫んだ。

自分が前に出て全軍の士気をあげようと気合いを見せていた義経だったが、

さすがに今回ばかりはその熱い気持ちが裏目に出た。

 

「危ない!」

 

佐藤兄弟の兄である佐藤継信が騎馬の姿で義経の前に立ちふさがった。

そして次の瞬間、矢に射られて落馬し、そのまま地面に倒れこんだ。

 

「継信!」

 

倒れて動かなくなった佐藤継信に駆け寄ろうとする義経を、

弁慶は必死になって説き伏せて後退させた。

 

(・・・真の男であれば部下の屍など踏み越えねばならぬ・・・)

 

弁慶は義経に女としての甘さが出ることを恐れた。

だがこの時はそんなことを考えている暇もなかった。

義経と弁慶の周囲には雨のような矢が降り注いでくる。

佐藤兄弟の弟である佐藤忠信達がその矢を払いながら義経を守った。

 

「・・・誰か早く継信を助けよ!」

 

後退しながらも義経は狂ったように叫び続けた。

やがて佐藤継信は抱えられて陣の後ろへ運ばれてきた。

義経は急いで馬から飛び降りて彼の手を取った。

 

「・・・この世に思い残すことはないか」

 

義経はそう静かに尋ねた。

声は涙で幾分か震えていた。

 

「特に何もございません・・・。

 ただ、義経様が栄達するお姿を見ずに死ぬのだけが惜しく存じまする・・・」

 

そう言って佐藤継信は息を引き取った。

義経は彼の顔を両手で掴みながら何度も何度も呼びかけた。

 

義経は大声をあげて恥も外聞もなくひたすら泣いた。

戦では誰かの命を失うということは覚悟していたとは言え、

実際に目の前でこのような現実に直面にすると、

それは今まで全て観念で決着をつけてきたということに気がついた。

人間は悲劇を前に観念ではどうすることもできないと知った。

ただ諦めるようにその悲劇を受け止めて涙を流すしかなかった。

 

「・・・どこかに僧はおらぬか・・・供養させたい・・・」

 

義経の願いを叶えるために皆は近くに僧はいないか探し始めた。

やがて伊勢義盛がどこからか僧を連れてきて義経に会わせた。

 

「・・・すまぬ、佐藤継信を供養してやってはくれまいか。

 私の大切な友人なのだ、この馬をそなたにやろう」

 

そう言って鵯越の逆落としでも義経が乗っていた大夫黒という名馬をその僧にくれてやった。

自分の大切にしていた馬を惜しげもなくくれてやるその姿を見た部下達は皆涙を流していた。

 

(・・・これは本当に男だろうか・・・)

 

近くで見ていた伊勢義盛は男にしては優しすぎる義経を訝しく思った。

同時に、今まで見たことがない種類の大将の姿に奇妙な感動すら覚えていた。

その感覚は、伊勢義盛に京の都に残してきた自分の女を連想させた。

 

(・・・こいつになら命を預けても惜しくない・・・)

 

伊勢義盛は心の中で密かにそう思った。

彼のような男にとっては、部下の死をなんとも思わない冷徹な大将よりも、

この女人のように思えるどこか儚い大将の方が好ましく思えた。

まるで好きな女のために命を投げ出すのにどこか似ている気すらしていた。

 

座り込んで手を合わせていた義経を囲むようにして皆は泣いていた。

そしてそれを見ていた弁慶は、この時点でこの戦の勝利を確信した。

男と女の狭間で揺れていた主人を、この時ばかりはなぜか肯定する気持ちがあった。

 

(・・・不思議なお方だ・・・)

 

 

・・・

 

 

やがて夕刻になり休戦状態になった。

源氏も平氏共にしばし休息をとっていたのだが、

しばらくすると平氏軍から美女の乗った小舟がこちらへ向かってくるのが見えた。

小舟の上には長く天に伸びた竿と、その先に扇がついていた。

 

義経はその様子をしばし見つめていたが、

どうやらその女の仕草から読み取るには、

竿の先についている扇の的を射るように挑発しているようだった。

 

これがあの有名な平家物語の名場面である。

劇的な場面こそ歴史に残って後代まで伝えられていく。

 

 

義経はその扇を見て距離を測った。

かなり遠くにあることは間違いなく、あれを射落とすのは至難の技だと思った。

 

「よし、誰かあの扇を射抜いてみよ」

 

義経は休息をとって座り込んでいる部下達にそう言った。

しかし、誰もそんなことには関わりたくなかった。

的を狙って外せば笑い者にされる恐れもあったし、

人によっては戦の最中にそのような遊戯などするべきではないとすら考えている者もいた。

 

(・・・どうしたことだろう・・・)

 

弁慶は不思議に思っていた。

あの真面目な主人がこのような遊戯に便乗するなどとは。

 

義経は次々と声をかけたが引き受けるものはいなかった。

そして最後に目に留まったのが那須与一だった。

 

「どうだ与一、扇を射抜いてみせよ」

 

義経は那須与一の肩を叩いてそう言った。

 

「・・・しかし義経殿、戦の最中にこのようなお遊びなど・・・」

 

誰もが思っていたが憚られていた言葉を口にした。

那須与一は弓だけが取り柄の真面目な男だったのである。

 

「良いではないか、男は真面目だけが取り柄ではダメだ。

 遊び心というものがあってこそ面白いのではないか」

 

そんな風に諭されると、根が誠実で真面目な那須与一だけに断れなかった。

それは彼の遊び心と言うよりも、上司の勧誘に逆らいきれない部下という印象だった。

 

(・・・かわいそうに・・・)

 

それを見ていた誰もがそう思った。

扇を射損ねて皆の笑い者になるのに決まっていると思っていた。

 

弓矢を背負って馬に乗り込んだ那須与一は、

そのまま威勢良く砂浜を駆けて海へと飛び込んでいった。

馬が半分まで海水に浸かるところまできた那須与一だったが、

それでも平氏の船に揺れる扇は遥か彼方であるように思えた。

 

失敗したら潔く腹を切ろうと思っていた。

それくらい那須与一は誠実で謹直な男だった。

そして彼にとってこのような大舞台は生まれて初めてであった。

皆の前で上手く話そうとするだけで緊張する自分が、

なぜかこのような大舞台で歴史に残る場面に登場しなければならなくなった。

 

寄せる波が馬と自分の体を揺らす。

平氏の小舟も緩い波に揺らされて扇も定まらない。

確かにこれを射落とすのは至難の技だと思った。

背中から弓を取り、鏑矢をつがえて思い切り後ろへ引いた。

距離を届かせるだけでも難しい場面で、さらに小さい的を狙う。

死と隣り合わせの恐怖が矢を引く右腕を震えさせた。

考えれば考えるほど、体全身が震え始める気がした。

 

(・・・あれだ、あれしかない・・・)

 

那須与一が馬に乗る前、義経は彼の耳元でそっと囁いたおまじないの言葉があった。

もはやそれを口にするしか彼にすがるものなどないと思った。

彼は実直であり、上司の言いつけを素直に守る誠実さがあった。

 

「・・・弓殿、弓殿、あの扇を射抜くにはどうすれば良いのか」

 

極限まで引かれた弓弦が緊張感を高めた。

そして目を瞑りながらおまじないを唱え続ける。

 

「ああ、それはね、『やー』と叫びながら射ればいいのさ」

 

那須与一は不思議と体から力が抜けていくのを感じた。

そして息を吸うと同時に両目を開き「やー!」と大声をあげて鏑矢を放った。

 

鏑矢は放つと音がなる。

独特の「ぽーん」という音を屋島の空に響かせながら那須与一の手を離れた。

そしてまるで何かの術にでもかかったように、鏑矢はまっしぐらに小舟の上の扇を捉えた。

扇は短い衝撃音を残して華麗に空中へ舞った。

そして春風にひらひらと舞いながらやがて海に落ちた。

 

「おおーっ!」という大歓声が源平両方から上がった。

しばし戦を忘れてこのような遊戯に挑んだことに、

源平両軍共に誇らしいような気持ちになっていた。

 

海から騎馬で戻ってきた那須与一は仲間達に祝福されていた。

「どうやってやったんだ!?」という質問に那須与一は圧倒された。

 

彼はちらりと義経の方を見たが、誰にもおまじないの秘密を言わなかった。

「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱えたのだと周囲にはそう言っておいた。

だが、義経と目があった那須与一は深々とお辞儀をした。

 

こういった功績を認められ、那須与一は戦が終わった後で頼朝より褒美を与えられた。

そしてこの大舞台を乗り越えた那須与一は、その性格も少し変わったようで、

その後は何かにつけて遊び心を大切にするようになったらしい。

 

(・・・箸殿、彼もまた真面目を乗り越えたよ・・・)

 

義経は誰も見ていないところで懐に手を置いてそう心の中で思った。

実直に自分の言いつけを守ったのだと義経は那須与一を見てわかったのだ。

 

「やはり『男と箸は固きが良し』だな」

 

義経はそばに立っていた弁慶にしか聞こえない声でそう呟いた。

これは男は丈夫で実直なのが良いという諺であった。

 

 

・・・

 

 

屋島を襲われた平氏軍は志度へ逃げた。

志度は屋島からそう離れていない土地である。

 

平氏軍はここで再起を図り義経を攻撃する算段であった。

しかし、義経は機を逃さずこれを追撃した。

 

だが義経の兵力は少なかった。

百騎にも満たない兵力で正面から合戦をするわけにもいかず、

ここは良案があるという伊勢義盛に任せることにした。

 

彼はわずか十六騎だけを率いて平家方に味方していた田内左衛門尉教能に会いに行った。

彼は軍勢をみな白装束にして戦う意思のないことを相手に示しながら、

言葉巧みに相手を説得することに努めたという。

 

「先の合戦でお前さんの親族は多くが死んじまったそうだ・・・。

 平家だってそうだぜ、この合戦でもう幾人も残っていまい。

 悪いがあんたの親父さんも、この義盛が預かっているんだ。

 あんたが何も知らずに戦って死にゆく姿を想像して毎日泣いてるよ。

 悪いことは言わねぇ、もうここいらで止めにしようや。

 もちろん、最後まで戦って潔く散ろうってなら止めやしねぇがな・・・」

 

実はこれは虚言だった。

教能の父親を伊勢義盛は捕らえてなどいなかったのである。

 

だが教能はこれを信じた。

彼の軍勢三千人は戦意を喪失して義経に降ったという。

 

 

「やりましたぜ」

 

鼻高々で帰ってきた伊勢義盛は義経にそう告げた。

 

「やり方が綺麗だとは言えないが、余計な被害者を出さずに済んだ、礼を言う」

 

義経はそんなふうに答えた。

こんな風な山賊上がりのやり方は、義経には到底思いつかなかった。

 

「へっへっへ」

 

自分が女であることを伊勢義盛が知っているはずはなかったが、

この男が自分の何かを嗅ぎつけているような気がしていた。

まるで野良犬のような男だと義経は彼を見て思った。

 

 

「『大飯食らい箸を選ばず』ですな」

 

伊勢義盛が去ってから弁慶は義経にそう言った。

ある目的を果たすためには手段を問わないという意味の諺であった。

 

「牛若様、お気をつけなされ」

 

義経の様子を伺いながら弁慶は続けてそう言った。

弁慶は伊勢義盛の腕を誰よりも買っているが、

誰よりも鼻がきく人間であることを警戒していたと言える。

 

「気づかれてはいないさ・・・だが」

 

「だが?」

 

義経は少しため息をついて言った。

 

「彼が私に仕えている理由が、男としての私ではない気がするのだ」

 

そう言った義経を見て、弁慶はそこに女を感じざるを得なかった。

それは今までどこかに封じ込めてきた淡い感情だったように思えた。

 

「・・・弁慶、私はいつまで義経でいなければならないのだろう」

 

捨てられた子犬が主人を見るような眼差しで義経は弁慶を見た。

こんな義経を見るのは弁慶は初めてだった。

 

「・・・まだ戦が終わっておりませぬ。

 天下泰平の世が来る時までしばしの我慢でござる」

 

弁慶はそう言ってこの目の前の女性を殻に押し込めようとした。

その残酷さも自分の汚さも感じながら顔には出さなかった。

 

「・・・天下泰平の世か、それは兄者がやってくれる。

 平氏が滅んで鎌倉に幕府を開けば、新しい世が来るよ」

 

「・・・」

 

弁慶はただ黙っていた。

苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながら。

 

「平氏を滅ぼして父の仇を討った時、私は兄者に真実を告げようと思う」

 

その言葉に対しても弁慶は特に何も返答しなかった。

ただこの感傷が過ぎ去るのを冷静に待っていた。

 

「・・・あともう少しの辛抱ですぞ」

 

弁慶はただそう言った。

 

 

・・・

 

 

屋島と志度の戦が終わった後、梶原景時が率いる援軍がやってきた。

その数は百四十艘とも言われ、圧倒的な源氏の大軍を前に平氏は退却を余儀なくされた。

こうして退却した平氏軍を追う戦いは壇ノ浦の戦いへ続いていくことになる。

 

 

・・・

 

 

「大将が先陣など聞いたことがない!」

 

梶原景時は激怒した。

義経は涼しい顔をしてそれを見つめていた。

 

源平の戦いは最終決戦の壇ノ浦の戦いを迎えようとしていた。

その軍議の際、義経と梶原景時は多少の口論となった。

義経が先陣を譲らないからであった。

 

壇ノ浦とは現在の山口県下関市周辺の海域である。

屋島から退却した平氏の海軍は遥々ここまで退却してきた。

ここが最終決戦になることを義経も梶原景時もわかっていた。

だから梶原景時は先陣を切って功名を立てたかった。

 

義経が反対した理由は二つあった。

一つは梶原景時が頼朝への報告の際に義経を褒めていないことだった。

そういう噂を聞くたび、頼朝が義経を嫌っている理由はそこにあると義経は考えていた。

だからこそ父の仇を自分の手で討ち取り、兄への印象を回復したかったのだ。

 

もう一つの理由はこの物語の中の義経らしいものだった。

追い詰められた平氏が自ら命を捨てることを恐れたのである。

源氏にやられるくらいならと考えて海に命を投げ出すものが出るに違いない。

壇ノ浦の海流は大きな口を開けて人間達の命を欲していた。

それを食い止めるためには自分が先陣でなければならない。

梶原景時に譲れば、彼は容赦なく平氏を皆殺しにするだろう。

それだけは何としても避けたかったのである。

 

結局、梶原景時とは喧嘩別れに終わった。

だがそれも仕方ないと義経は割り切っていた。

 

 

義経は多くの水軍を既に味方につけており、

源氏方の総数は八百四十艘とも言われていた。

対して平氏方の総数は千艘ほどもあった。

 

また、定説であるように平氏は水軍に強い。

源氏方は数こそ集まったが、船での戦いに慣れているとは言えなかった。

 

いつもは怒涛のように攻め入る義経だったが、

今回ばかりはゆっくりと下調べに時間をかけた。

無論、この研究心と分析力は元来の義経の気質であった。

 

 

「潮流が戦いの勝敗を分けることになる」

 

気心が知れた仲間だけを集めて義経は軍議を開いた。

ここには無論、梶原景時などは参加していない。

 

義経は懐からなにやら巻物を取り出して広げた。

そこには壇ノ浦の潮流の様子が絵でびっしりと描かれていた。

そしておもむろに懐から箸を取り出すと、

それを使って絵を指し示しながら潮流を解説し始めた。

 

(・・・箸・・・?)

 

佐藤忠信や伊勢義盛などは首をかしげた。

那須与一はにやりと笑みを浮かべていて、

弁慶は半ば呆れたようにそれを見つめていた。

 

「梶原景時などはすぐにでも開戦せよとうるさいが」

 

義経は多少の皮肉を込めてそう言った。

先日の喧嘩がまだ尾を引いていたのだろう。

 

「『膳部揃うて箸を取れ』という言葉がある。

 物事は準備万端になってから始めねばならない」

 

なるほど、それで箸を取り出したのかと皆は納得した。

那須与一はもう義経に心酔していた様子だった。

弁慶だけが呆れ顔でそれを見つめていた。

 

だが、潮流を研究し尽くした義経の説明は圧巻だった。

潮の流れをしっかりと頭に叩き込んだ義経は、

今回の戦をどのように戦うべきかを滔々と説き続けた。

弁慶もさすがにその分析力には舌を巻いた。

真面目で研究熱心な義経だからこそなせる技だった。

 

 

「よいか、生きることは荒い波を超えることに等しい」

 

ひと通り説明を終えたあとで義経はそう語った。

 

「潮の流れが良くないときもある、そんな時はひたすら耐えよ。

 やがて潮の流れが変わる転機が訪れる、その時に機を逃さずに前に出よ」

 

それはまるで自分自身に言い聞かせているように弁慶には見えた。

義経はこの戦が終われば偶像である己を捨てようと考えているのだろうと思った。

 

「以上だ、さあ皆で京の都へ生きて帰ろうではないか・・・」

 

佐藤継信のような犠牲者を出さないためにも、

皆で生きて帰りたいというのが義経の願いであった。

 

 

・・・

 

 

壇ノ浦の戦いは平氏軍の優勢で幕を開けた。

さすがにここに陣を敷いていただけのことはあり、

平氏は潮の流れを良く理解していた。

 

源氏方には陸から退路を断つようにして源範頼の軍勢がいた。

これによって平氏は退却することが難しくなった。

あとは正面衝突で戦うことになっている義経達が押し負けなければよかった。

 

だが、潮流に乗った平氏の船は速度を上げて源氏方に押し寄せた。

開戦当初は防戦一方に陥り、さすがに義経も苦戦を強いられた。

だが、先に軍議で潮流を解説したように、義経には勝算があった。

 

義経は戦いの最中、伊勢義盛の方を幾度となく見つめた。

平氏方にいる阿波重能という者がいた。

これは屋島の戦いで伊勢義盛が虚言を言って降伏させた田内教能の父親であり、

ここへきて源氏方に息子が先に降伏したという事実が効果を発揮した。

伊勢義盛は既に様々に工夫を凝らし、今度は阿波重能が源氏方へ裏切るように話をつけていた。

その数は三百艘であった、上手くいけば源平の数の優劣がそのままひっくり返ることになった。

 

案の定、その作戦は成功した。

結局、伊勢義盛はこの親子共々、戦わずして降参させた事になる。

そうとう狡猾で弁の立つ男だという事がこの事実からわかる。

 

とにかく阿波重能が裏切ることで情報が義経側へもたらされた。

結局のところ戦いとは情報の良し悪しが全てを決すると言っても過言ではない。

義経が得た情報は、平氏方の部隊の詳細であった。

源氏方がもっとも知りたかったのは、いくら探しても見つからない平氏達の姿である。

実は大きな唐船には平氏の誰もが乗っておらず、本当は小さな船に分散させて乗っていたのである。

その情報を掴んだ義経は、大きな船は無視して小舟を各個撃破することを狙った。

また開戦当初から耐えに耐えてきた努力が実り、やがて潮流が変わった。

潮の流れは源氏方に有利な流れとなり、平氏は自然と追い詰められる形になった。

 

 

(・・・勝敗はついた・・・)

 

潮流が変わった時点で義経は勝利を確信した。

あとは平氏が奪ったという三種の神器と天皇を取り戻すだけであった。

それはこの船のどこかにいるはずで、義経はそれを探そうと決めた。

 

目立たない鎧を身にまとい、忍ぶようにして義経は自分の船を抜け出した。

混戦状態になっている船を飛び移りながら三種の神器と天皇を探し求めたのである。

 

途中、義経は平教経という者に命を狙われた。

破れるならせめても敵の大将を討ち取らんという平教経の思いを無視するように、

義経は戦いを避けて船を飛び移っては逃げていった、有名な義経の八艘飛びである。

 

(・・・争っている暇などない・・・)

 

ここへきて無駄な争いをする気はなかった。

義経に追いつけないと覚悟を決めた平教経は源氏方の数人を道ずれにして海へ飛び込んだ。

そして二度と浮かび上がってくることはなかったという。

 

 

・・・

 

 

平氏の頭領である平教盛は愚鈍な男ではなかった。

だが天は平氏に味方しなかった。

潮流が変わり始めた頃、聡明な男だったからこそ早々と敗北を悟った。

 

やがて彼は天皇と女達の乗る船へ乗り移った。

戦の状況を尋ねられた彼はこう答えたという。

 

「これから珍しい東男を御目にかけましょう」

 

東男とは京を住処としていた平氏に対し、関東を支配していた源氏を指していた。

つまり戦は敗北し、これから源氏達が乗り込んでくる、最後の時を覚悟せよということであった。

 

 

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。

 奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。

 たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

 

 

かの有名な読み物である平家物語の冒頭はこのようにして始まっている。

日本人は海外の人に比べるとその性格は決して陽気ではないが、

桜の花びらと同じように、散り際の美学を知っている。

だが実際には散ることは何も美しいことはない。

ただその現実の儚さに、人々はせめて美の面影を重ねるのである。

 

 

平氏の世を築いた平清盛の正室であったニ位尼は、

遠い船の上で暴れまわる東男達を見ながら死を決意した。

彼らに捕まって好きにされるくらいならば死を選ぶと覚悟したのである。

 

平氏はまだ幼い天皇を共に連れていた。

京の都を落ちる時、天皇を連れて行かなければ賊軍になってしまう。

そう考えた平氏は幼帝を連れて都を落ちたのである。

だが、残念なことに京には他の天皇がすでに擁立されており、

彼にはもはや死の国以外に居場所がなかった。

 

船の上で忙しく身支度をし始めた二位尼を見て彼は尋ねた。

 

「おい、これからどこへ行くのだ?」

 

幼帝はまだこの頃で八歳であった。

二位尼は涙をぐっと堪えて言葉を紡いだ。

 

「・・・波の下にも都があるのです、そこへ向かいましょう」

 

そう告げると幼帝は不思議そうに首をかしげた。

二位尼は嗚咽が喉まで上がってきて涙で視界が覆われて前が霞んだ。

彼女は三種の神器の一つである剣を腰に帯びたまま、

勢いよく幼帝を抱きかかえてから船を蹴ってそのまま海へ飛び込んだ。

 

 

・・・

 

 

(・・・遅かった・・・)

 

隣の船からその様子を見ていた義経は思わず目を背けた。

そして続いて次々と女たちが飛び込んでいくのが見えた。

別の船では平氏の血を引く者たちも次々と海の藻屑と消えていった。

 

「・・・弁慶!急いでくれ!」

 

部下を連れてきた弁慶は救助に向かったが、助かった者は多くはなかった。

ほとんどの者が海の暗闇へ沈んだままそのまま明日を見ることはなかった。

 

目を覆うような悲劇に直面した義経は、ふと我に返って周囲を見回した。

勝敗がついた戦ではあるが、平氏の船に乗り込んだ源氏方の武者たちは、

そんなことには構わずにほとんど抵抗できない相手を次々と斬り殺していた。

 

「やめろ!もう勝負はついている、無益な殺生はよせ!」

 

そう叫ぶ義経であったが、戦場で血がたぎっている武者たちを止める術はなかった。

 

(・・・私はこんな光景が見たいがために義経になったのではない・・・)

 

義経は船の上で揺られながら、真っ赤な夕日を見て涙を流していた。

時代は変わろうと人間は変わらない、何度も同じ過ちを繰り返してきた。

そして、これから先の未来でも、人は変われないのだろうか。

 

「海流の島よ、潮の変わり目に、迷うことが何回あっただろう」

 

戦いが終わりゆっくりと引き上げていく船の中で壇ノ浦の海を見て義経はそう呟いた。

そばで聞いていた部下達は、それは義経のただの勝利宣言だと思っていた。

 

(・・・海の色が深くなり、私の愛は流れ着くのか・・・)

 

多くの命が失われた海を見つめて、義経は密かにそう祈った。

こうして平氏一門の多くが死ぬか捕らえられて源平の合戦は幕を閉じたのだった。

 

 

・・・

 

 

京の都に凱旋した義経はまたもや英雄となった。

この度の戦の結果に喜んだのは後白河法皇や兄の頼朝であったが、

巷でも義経の人気はうなぎのぼりだったに違いない。

 

「会いたくて、会いたくて、震えておりました」

 

静御前はそのように義経の不在を寂しがった思いを表現した。

堀川館に戻った義経に対して、静御前は屋敷から門前まで走り出て来て義経に抱きついた。

女性同士の友情表現にしては少し過激であったように弁慶からは見えた。

 

「長い間待たせたな、すまなかった」

 

義経はそう言って静御前の頭を撫でてやった。

主人の帰りに対して全身で喜びを表す飼い猫のように、

静御前はひたすら義経に甘えていた。

義経はこんなに距離感の近い女の友人を今まで持った事はなかった。

無論、今までの人生で義経に近づこうとする女性はいたが、

それは全て男性としての義経を求めていた為、義経側が全く相手にしなかった。

静御前の存在は、義経に自分がやはり女である事を徐々に意識させていく事になった。

 

「もうどこにも行かないでくださいね」

 

静御前は義経の胴回りに両手を回して甘えながらそう言った。

これほど密着していながら、静御前は男としての義経を求めていない。

それはそれで今後の事を考えると厄介になると思った。

 

「少し距離を保ってはくれまいか、皆に誤解されてしまう」

 

義経は静御前の肩を両手で押し出すようにして距離を置いた。

世間では義経の妾という事で通っている静御前との仲は、

彼女が男だと思われている間は良いが、義経はもう自分が女に戻る事を決意していた。

 

「どうしてそんな事を言うのです、寂しいではありませんか」

 

寂しそうに眉をひそめながら駄々をこねるようにして静御前は言った。

普段、歌や舞を見せてもらっている時には決して見せない表情だった。

この落差が彼女の魅力でもあり、義経も彼女を可愛らしいと思っていた。

 

「父の仇は討ったのだ、これで私のお役はごめんだよ。

 兄者に真実を打ち明ける時が来た、私はもうすぐ女に戻るのだ。

 だからこんな風に女同士、肌を触れ合っていては世間に顔向けできなくなる」

 

世間には義経と静御前の仲睦まじい事は随分と知られてしまっている。

これ以上認知されてしまうと、真実を告げた後であらぬ噂を立てられかねないと思った。

 

「女に戻ったら、その時は女同士で仲良くしようじゃないか。

 そうだ、そなたの歌と舞を私にも教えてくれないか」

 

門のそばに静御前を残して堀川館の方へ歩いて行った義経を追うようにして、

静御前は走って義経の後をついてきた。

 

「これからもずっと一緒にいてくださいね」

 

義経の腕を引っ張りながら静御前はそう言った。

 

 

・・・

 

 

だが凱旋した義経を待っていたのは悲劇の始まりだった。

 

義経が京の都に凱旋する少し前、頼朝は勝手に朝廷から任官を受けた武士達に対し、

京の都に残る事を命じ、東国へ戻ってくる事を禁止するよう通達した。

 

判官と呼ばれるようになっていた義経も例外なくこれに該当した。

平氏を滅ぼすほどの大活躍を見せた義経に対して、

頼朝はまだ凱旋すら果たしていないにもかかわらず政治的な一手を打った。

 

義経は頼朝の一手に対して、非情な匂いを感じつつも、

心のどこかで自分だけは例外扱いだと思っていたのかもしれない。

 

とても不思議な事に、この時期に義経は壇ノ浦の戦いで捕虜となった平時忠の娘を娶っている。

この大切な時期に事態はまさかの急展開を見せたと言っていい。

どういう力が働いたらこういう事になるのか誠に不可思議ではある。

ひょっとすれば後白河法皇がこの婚姻を勧めたのかもしれない。

源氏と平氏の両家がこの機会に婚姻関係を持つ事で、

源平両方の抗争を終わらせる象徴的な出来事にしたかったのかもしれない。

あるいは、義経に平氏が築いた世の継承を求めたのかもしれない。

 

 

だが他がどうあれ、この物語の義経にとっては答えは明白であった。

壇ノ浦の戦いで多くの悲劇を目の当たりにした彼女は、

これ以上の犠牲者を出す事を望まなかったのである。

かつて父が滅ぼされた時にも、平氏は自分と兄の命までは取らなかった。

義経はこの恩を今こそ返す時だと思ったのである。

捕虜である平時忠の娘を娶る事、すなわち偽装結婚によって、

自分の親族となった平氏の捕虜達の命を助ける魂胆だったのである。

 

しかしそのやり方は頼朝には納得できなかった。

京の都でどんどんと権力を握っていく義経を払い落とさなければ、

近い将来、鎌倉に政権を打ち立てる時の障害になると頼朝は考えた。

 

 

・・・

 

 

「納得できぬ、なぜだ」

 

鎌倉郊外の腰越という所の満福寺に残された義経は床を拳で打ちながら訝った。

寺には客人を泊める部屋が用意されており、義経はそこにいた。

 

向かいに座っていた弁慶は周囲に目を配りながら考えていた。

この部屋の中には旅人を泊めるような粋な物は何も目に入らない。

おそらく、この度の宿泊も急ごしらえで用意されたのだろうと思った。

 

「・・・何を納得なされないのでしょうか?」

 

弁慶は義経とはうってかわって沈着冷静にそう尋ねた。

姿勢を正してまっすぐに居座る弁慶は、まるで目の前にそびえる山のようである。

その姿は頼もしくもあり、いささか恐ろしくもあった。

 

「どうして兄者は私を鎌倉へ迎え入れてはくれぬのだ?」

 

壇ノ浦の合戦で捉えた平氏の捕虜を護送する為、

義経は京の都を立ち、はるばる鎌倉を目指して来た。

大功を立てたはずの義経に待っていたのは兄である頼朝の拒絶であった。

 

「・・・噂によると、梶原景時殿が讒言を申されているそうな。

 それを頼朝殿が信用なさっておるのでしょうな」

 

先の戦いに参加していた梶原景時と義経は仲が大変悪かった。

したたかな梶原景時は、戦の報告を頼朝の耳に入れていたし、

それを自己が有利になるように誇張しながら伝達していた。

逆に、義経の評価が悪くなるように狡猾に報告を述べていた。

 

「まったくの誤解だ!」

 

義経はいきり立って今一度、床を拳で強く打った。

鈍くて重い音が部屋に短く響き渡った。

だが弁慶はわずかも動じることはしなかった。

 

「私はただ、兄者に一目あって父の仇を討った事を伝えたいだけだ。

 そして源義経はもうここで歴史から消えて女に戻るのだ。

 そんな簡単なことがどうして叶わぬ!?」

 

義経が述べていた言葉は義にあふれていた。

民衆がこの熱い思いを耳にすれば、必ずや多くの支持を集めたことだろう。

 

だが、歴史は常に民衆の同情では動かない。

動かすことができるのは、闇の中でうごめく政治の首長だけである。

そこには常に民衆の意見と対立するおぞましい人間の本質があった。

やましい利益を求める人々の綱引きによって義は無情にも踏み潰されていく。

 

義経は女でありながら、それに薄々感づいていた。

だが、心のどこかで認めたくなかったのである。

彼女は人は正しい道を行かなければならないと考えていた。

倫理に背くような行為は恥ずべきことだと思っていたのである。

 

一方、弁慶はこの結果を重々理解していた。

それはまず彼が男であったことと、彼の生い立ちがそれを確信させてくれたおかげであった。

親に捨てられた弁慶にとって、人は正しい道など歩まぬことは身にしみてわかっていた。

だから弁慶は人間達の行為はある領域においては倫理的に進まないと考える思想があった。

 

だが、彼も心のどこかでそういう行為を許していなかったのは義経と同じである。

そうでなければ、弁慶は最初から義経のそばにはいない。

 

「・・・牛若様が立ち上がらねばなりませぬ」

 

弁慶は恭しく低頭しながら義経にそう呟いた。

わずかに伺える両眼は虎のように鋭く光っていた。

 

「・・・頼朝殿を斬りなされ」

 

「何!?」

 

義経は今まで弁慶の口からは聞いたことのない過激な言葉に心臓が跳ねて痛んだ。

突然のように部屋の中の空気が重たくなり、呼吸が苦しくなったように思えた。

 

「ここ腰越から鎌倉までは目と鼻の先でございます。

 まさか頼朝殿も牛若様が踏み込んでくるとは思いもよりますまい」

 

弁慶は前代未聞の内容を事務的に淡々と語った。

それはむしろ余計な感情を込めることを遠慮したようだった。

 

「・・・なぜ私が兄者を斬らねばならぬのか!」

 

義経は無意識のうちに声を荒げていた。

弁慶の冷淡さに引きずられぬよう、感情が抵抗したのかもしれなかった。

 

「もう頼朝殿の答えは出ております。

 あのお方は牛若様を弟君であるなどとは夢にも思っておりませぬ。

 平氏が滅んだ今、勇猛果敢な武者であった源義経はもう用済みになられたのです。

 頼朝殿が天下を取るために次の脅威となるのは、同じ源氏の血を引くあなたなのですから」

 

義経は知らず知らずの間に唾をごくりと飲み込んでいた。

信じたくない未来の足音が、刻一刻と彼女の耳に迫ってくるような気がした。

 

「あのお方は孤独なのです。

 源氏の大将として関東の武士団を従えているように見えますが、

 その実のところ、結局は誰もが利に転ぶ者達なのですから。

 そんな輩を信じる事はできないが故にあの方は孤独なのです。

 そのようなお方は、血族であっても敵対する事を恐れませぬ」

 

弁慶に言わせれば、頼朝が木曽義仲を義経に討たせた時からそれはもう明白だった。

頼朝は決して家族や兄弟などという血族を重んじている人ではないことを。

そして時が来れば、必ず用済みになった義経を葬り去りに来る事を理解していた。

 

「だから次に刃を向けられるのは、牛若様、あなたなのです。

 そうとわかっている以上、心を鬼にしてでも斬らねばなりませぬ!」

 

弁慶は腰に帯びていた刀をとって義経の前に置いた。

もし願いが叶わないのであれば、己が腹を切って果てる覚悟すら見える気がした。

弁慶自身、義経に支えている最も忠実な家来を自負する者として、

ここが進言すべき歴史の転換点である事を意識していたのである。

 

「そして牛若様が・・・源氏の大将となるのです。

 この国の民達も、かのような頼朝殿より源義経を望むはず」

 

自己の背中にまた重たい荷物が預けられる音を義経は聞いた気がした。

弁慶は暗に偽りの偶像の延長戦を義経に求めていたからだった。

 

「・・・私は・・・」

 

「さあ、斬るのです!」

 

弁慶は勢いよく立ち上がって義経に迫った。

座っていた義経は、弁慶の気迫に押されて後ずさりをした。

今の弁慶はいつもの気の良い家来などではなく、

この世の悪を誇大化したような鬼にしか見えなかった。

 

その鬼は無言の圧力をかけながら義経を追い詰めた。

義経は知らず知らずの内に後ろへ追いやられ、

やがて背中に壁が当たってそれ以上は退がれなくなった。

鬼の形相をした弁慶は、左手を義経の背後の壁に突き立て、

刀を持った右手を義経の胸のあたりに突きつけていた。

そして、その鬼のような顔を義経の前に出して睨みつけていた。

 

「・・・さあ!」

 

弁慶の心の中には修羅が渦巻いていた。

そして彼はそれを知りながら流れに任せた。

人の上に立つ者には清濁併せ呑む器量が必要であるが、

義経にはそのような器量はないと弁慶はわかっていた。

ならばその汚れた部分を自分が引き受けようと思っていたのである。

歴史を動かすには、誰かが多少は手を汚さねばならない。

 

義経はその女の脆さを見抜かれていた。

重大な決断を下す時、迷いという隙が出て、その脆さは浮き彫りになった。

 

だが弁慶は決して容赦してくれなかった。

むしろその女の弱さを利用してこの場を押し切ろうとすら思っていた。

もし神がこの場面をはるか天から見下ろしているとして、

この世を去った後は間違いなく地獄への旅路が用意されていたとしても、

弁慶はその罰すらも受ける覚悟ができていた。

地獄の鬼など、睨み返してやろうと思っていた。

 

 

だがその時、弁慶は眩しい物を見た。

忍耐を重ねながら必死に耐えてはいたが、

義経の瞳は堪えきれぬ涙で溢れんばかりだったのである。

その表情は、弁慶が今まで一度の見たことのないものだった。

それはまさしく女の表情であった。

 

 

その時、弁慶は右手に持っていた刀の鞘を左手で支え、

瞬時に右手で刀を抜いて背後へなぎ払った。

その刀は弁慶の背後から斬りかかってきたもう一つの刀と打ち合って音が響いた。

 

弁慶は勢いよく振り返ってその刀の主を確かめた。

そこに刀を振りかざしていたのは伊勢義盛だった。

 

「・・・へっへっへ、鬼が降臨してやがるな」

 

薄ら笑いを浮かべながら伊勢義盛はそう言った。

弁慶は相変わらず鬼気迫る表情が解けていない。

 

「お前さんが何をしたいのかしらねぇが、主人の手を汚させるまでもねぇ・・・。

 頼朝を斬る必要があるなら俺がいくらでも斬って捨ててやるよ」

 

狼が今にも飛びかかるような風に身構えながら伊勢義盛はそう吐き捨てた。

 

「だが、俺を動かせるのは主人の命令だけだ。

 お前さんみたいな修羅のなりそこないには用はない」

 

伊勢義盛は弁慶に向かって続けてそう言った。

弁慶は微動だにせず真っ直ぐ伊勢義盛を見つめていたが、

やがて黙って刀を鞘に収めて直立した。

 

「・・・頼む、最後の機会をくれ」

 

座って足を前に投げ出した姿勢で壁にもたれかかっていた義経が口を開いた。

下を向いているので二人からは表情がよく読み取れなかった。

 

「・・・兄者に手紙を書きたい」

 

弁慶はそれを耳にしてから黙って目を閉じた。

万感の思いが胸中を駆け巡っていた。

歴史が大きく軋む音を立てて旋回を始めた気がした。

 

「・・・甘いと言うのなら、笑ってくれ」

 

 

そうして義経は弁慶に手紙の下書きをさせた。

これがかの有名な「腰越状」である。

 

内容を要約すると大体、次のようになる。

 

 

・・・

 

自分は平氏を滅ぼしたにも関わらず、讒言によってこうして鎌倉に入れてもらえていない。

こうして思いを伝えることができず、自分は涙にくれて日々を過ごしている。

ここまで自分がやってこれたのは、父の無念を果たすという宿願の為であり、

それを果たしたのみならず、源氏として官位をいただくという名誉にも預かった。

しかしどうしてそんな私が兄に会うことすら叶えられないのか。

私には誓って野心などありません、どうか兄にこのことをお伝えください。

 

・・・

 

 

このような手紙を大江広元という頼朝の側近に宛てて書いた。

しかし結局、義経の思いが届くことはなかった。

頼朝は義経を鎌倉へ招き入れることがないまま京へ帰ることを命じた。

 

 

・・・

 

 

京の都へ引き上げた義経は憔悴していった。

もはや義経には生きる希望が何も見つからなかった。

 

偶像を背負って源氏の武者として父の仇を討った。

それにも関わらず、兄に認めてもらえずに対面すら許されない。

必死の思いで届けた手紙の返事もなかった。

不本意な気持ちだけが心を支配していくばかりであり、

義経は鬱屈した気持ちに苛まれて体調すら崩していった。

 

この時期、義経の周りにはまたもや変化が起きた。

叔父にあたる源行家が義経を頼ってきたことであった。

 

行家という男は、平氏がまだ生き延びていた頃は頼朝を頼った。

だが、相手にされないことがわかると次は木曽義仲の元へ走った。

やがて木曽義仲が頼朝と義経によって討たれると目立たぬように身を隠した。

だが平氏が滅んだことをきっかけに、彼はまた歴史に顔を出すのである。

それは頼朝が目障りな源氏の血を引く者を始末したかったからである。

 

そしてこの男は義経にすがりついた。

頼朝に対抗できる可能性を持つのは義経しかおらず、

また義経は源氏の血を引く者には仲間意識が強かった。

 

だがむしろ、義行は疫病神だったと言っていい。

義経にとって彼が周囲に現れるということは、

頼朝にとって義経を討つ口実を与えることになってしまった。

 

やがて頼朝は、義経の元へ使いを出した。

そして行家を討てという命令を伝えたのであったが、

義経は体の具合が悪いということと、行家が同じ源氏であるという理由でやんわりと拒絶した。

 

これによって頼朝の疑心暗鬼を煽った。

義経はすでに行家と通じており、逆心を抱いていると感じた頼朝は、

京の朝廷へ働きかけながら、大義を持って義経を成敗する動きを進めた。

 

 

・・・

 

 

夜が更けた頃、堀川館の一室で弁慶は思案に暮れていた。

この主人の窮地を脱する方法を考えていたのである。

藁でできた敷物の上に胡座をかいて座り、

腕を組んで渋い顔をしながらまるで眠っているようだった。

 

後ろで足音が聞こえた気がした。

だが弁慶は微動だにせず目を閉じて座っていた。

背後を取った者が敵でないことを了解していたからだった。

 

その足音は静寂にかすかに床が軋む音を立て、

やがて次第に大きくなり、そっと弁慶の背中に触れた。

柔らかくて温かい、久しく忘れていた人肌だった。

 

「・・・抱いてはくれぬか?」

 

弁慶の背中に両手と頬をつけたのは義経だった。

大きな布切れ一枚で体を覆うように包み込み、

ただそこから顔と両手を出して弁慶の背中に寄り添っていた。

 

「・・・いけませぬ、牛若様」

 

弁慶は心を乱すことなく突き放した。

薄々勘づいていたが、それでも内心は幾分か驚きもあった。

 

「・・・恋をするのはいけないことか?」

 

背中から哀しい声が聞こえてきた。

涙も枯れ果てたような、助けを呼ぶような哀切だった。

 

「・・・牛若様を嫌ってはおりませぬ。

 ただ、今は牛若様を抱くことなどできないのです・・・」

 

「・・・偶像である私には恋すら許されぬと言うのか?」

 

弁慶はしばらく返答に迷った。

感情的な雑念が沸き起こる度に、それを噛み潰すようにして黙った。

そうしてあくまで冷静で冷徹な自己を貫くよう努めた。

 

「・・・はい、その通りです。

 人々はそのような事は望んでおりませぬ」

 

義経の顔はただ哀しくゆがんだ。

普段は冷静でいられる彼女が、熱い涙を堪えきれずに頬を伝わせた時、

凍りつかせていた心が氷解し始める音を聞いた。

 

「・・・私は・・・男では・・・ない」

 

喉を引きつらせながらその言葉を必死で紡いだ。

目の前にいる男の耳へ届いてくれる事だけを願った。

 

「・・・怖いのだ、このままでは男になってしまうようで・・・」

 

偶像を演じ続ける事に疲れた義経の心は限界に達していた。

この際限のない誰かに期待された役割を、いったい自分はいつまで続けなければならないのか。

それは世の中から必要とされていることはわかる。

だが、このままではいつか皆が自分が女であることを忘れてしまうのではないか。

そのような恐怖感が突如として義経の心を襲った。

 

多くの視線を集める偶像になった時、人は何を思うのだろうか。

周囲の期待を理解し、その理想像に近づく努力をするのかもしれない。

だが、やがてその期待で膨らんだ理想像に近づけば近づくほど、

どこかで本当の自分を見失っていくような気もする。

そしてふと後ろを振り返って本当の自分の位置を再確認する時、

想像以上に遠くへやってきてしまったことに改めて気がつくのかもしれない。

 

そして偶像は際限なくぶれていく、人々の期待を一身に背負うあまりに、

右へいけば右へ、左へいけば左へと、その期待の焦点に合わせて身を合わせていく。

そうして身を揺らしながらも、ふとここまでやってきた軌跡が目に入った時、

人は本当の自分と偶像の狭間にある断絶に気がついてしまうのかもしれない。

 

他人が本当の自分を理解することなど多くはない。

だが、これほど多くの誤解の上に成り立っている偶像は、

やがていつの間にか人々が作り出した虚像こそが実像だと唱えられていくことになる。

そうなった時に、不本意である本当の自分が悲鳴をあげるのかもしれない。

そしてその声は、必要以上に大きな叫び声になってしまう可能性がある。

自分が自分を忘れないために、自分の耳へもきちんと届くように。

 

 

やがて目の前の大きな山が動いた。

無言で立ち上がった弁慶は、後ろを振り返ることもなくその場を立ち去った。

突然頼りにしていた背中に置いて行かれた義経は、

そのまま前に倒れこみ、立ち去る弁慶を眺めながら一人声をあげて泣いた。

 

 

・・・

 

 

堀川館を出て行った弁慶はそのまま戻らなかった。

 

静御前は義経の看病をしながら寄り添っていたが、

義経は日々ますます憔悴していった。

時々、叔父である源行家が様子を見に訪ねて来たが、

義経は礼儀として顔を出すだけで、以前のような覇気はなくなっていた。

 

失いたくないから、人は踏み出さない。

 

義経は偶像を演じることを口実に、女としての自分を押し殺していた。

そしてそれは臆病な自分を閉じ込める最良の方法だった。

やがて女に戻れれば、その時はいつか素直になろうと考えていた。

 

だが、歴史はまだ義経を求め続けた。

その男の殻に押し込められた義経はその負担に耐えきれなくなった。

そしてあんな風に不器用で愚かな方法で踏み出すことになってしまった。

だが弁慶もまた残酷にも彼女に源義経を求め続けた。

やがてそうなることを恐れていたように、

義経はこの世で一番頼りになる背中を失ってしまうこととなった。

 

そんな男女の問題を行家が理解できるはずもなかった。

そもそも世間は義経が女であることを知らない。

すべての事情を知っているのは静御前だけになり、

同性であることもあり、彼女の痛みを理解することができた静御前は、

せめて傷が癒えるようにと、ずっと義経に寄り添い続けていた。

 

 

・・・

 

 

五条大橋のかかっている鴨川の河原に弁慶の姿があった。

少し大きめの石に腰を下ろし、先ほど釣り上げた魚を焼いて食べていた。

 

五条大橋の上を行き交う人々を目にしながら、

河原には人影はまばらであり、数人の子供がじゃれあっている程度だった。

 

この時代の町人達の暮らしは決して豊かではなかったが、

源氏と平氏の争いに巻き込まれる形で被害を被ったことに比べれば、

義経が平氏を滅ぼしてからの京の都は比較的に穏やかだった。

 

河原には魚の皮が焼けて弾ける音が響いていた。

弁慶は微動だにせずその焚き火を見つめていると、

やがてその巨漢を恐れもせずに小鳥達が食料を求めて集まってきた。

弁慶は魚肉を齧りながら、欠片を小鳥達に放ってやった。

そうして一羽、また一羽と弁慶は小鳥に囲まれる形になった。

 

(・・・この平和があとどのくらい続くのか・・・)

 

鴨川の向こう側から大きな黒いあひるが水面に波紋を起こしながらやってくるのが見えた。

赤い眼で睨みながら羽を大きく広げて威嚇し、やがて小鳥達は恐れるようにして飛び去った。

赤い嘴を激しく動かしながら、黒いあひるは落ちていた魚の肉片をつまんでは喰らった。

 

(・・・雄鳥にちがいない、雌鳥はそんなに野蛮ではない・・・)

 

弁慶はそんなことを考えながら黒いあひるを眺めていた。

しかし、あひるが近づいてきて魚をねだってきても、

弁慶はもう一片も与えず、醜い声を上げる黒いあひるを無視し続けた。

 

 

(・・・天下を治めることが肝心だ・・・おなごとしての一生など・・・)

 

この時代、貴族は優雅に自分たちの私腹を肥やし続けた。

それを奪おうとした武士達もまた、己の名誉と権力に溺れていくのは目に見えていた。

その被害を受けるのは、何も与えられず搾取され続ける残された町人達である。

 

(・・・世直しには源義経が必要なのだ・・・)

 

だが彼の書いた台本は、もはや役者が芝居を投げ出そうとしていた。

そして弁慶は、その台本自体に無理があったのではないかと、

自問自答を繰り返している間に、いつの間にか気付いたら眠りに落ちていた。

 

 

 

夕風に吹かれながら心地よくなっている間に、気づけば夜の帳が下りていた。

弁慶はいつの間にか横になっていた自分の大きな体を起こした。

すると空には幾つか星が輝いているのが見えた。

 

ぼんやりした記憶をたどりながら、弁慶は視線を周囲へ向けた。

目に入ってきたものは、河原に散り散りになっていた食い荒らされた数匹の魚の骨だった。

あの黒いあひるが盗み食いを働いたのだと弁慶は思った。

 

肩を揺らすほどの大きなため息をつき、弁慶は両目を閉じた。

刻一刻と、浮世の夢はこの魚のように食い散らかされていく。

惰眠をむさぼる事すなわち罪であると弁慶は思った。

 

(・・・堀川館へ帰ろう・・・そして今一度、希望に賭けてみよう・・・)

 

弁慶は立ち上がった。

そして同時に静寂が包む夜の京へ忍び込む雑踏の音を聞いた。

五条大橋の上を多数の騎馬が物凄い勢いで西へ駆けて行くのが見えた。

こんな夜更けに騒がしく暗闇を切り裂いて走るのは悪党と相場が決まっていた。

 

(・・・しまった、堀川館の方向か・・・)

 

弁慶は側に置いてあった幾つかの武器を掴むと、

一目散にその夜賊の群れを追いかけていった。

 

 

・・・

 

土佐坊昌俊という者がいる。

彼はわずか八十数騎の軍勢を連れて鎌倉から京へ登ってきた。

表向きの理由は熊野詣でという体を装っていた。

 

熊野というのは現在の和歌山県にある神社群の事で、

この時代から人々は修行の地としても有名であった。

後白河法皇も何度も参詣するほどであり、

熊野詣でをするというのは、いわばこの時代の流行りであった。

 

土佐坊昌俊が熊野詣でをすると述べたのは、

この時代の流行りを考えれば自然な口実だったと言える。

だが、義経達の周囲はにわかにどよめき立った。

どう考えても頼朝の刺客だとしか考えられなかったからである。

 

義経はよもや兄者が弟を殺そうと企んでいるとは信じ難く、

彼の行動を見過ごしていたのだが、部下達がそれを許さなかった。

何度も義経に進言して土佐坊昌俊との面会を実現させた。

 

義経と相対した土佐坊昌俊は、この度の目的を何度も問いただされた。

初めはやや疑惑の目を向けていた義経も、神に誓ってもそのような事はない、

というように弁解を続ける土佐坊昌俊につい気を許してしまったのである。

 

一方、土佐坊昌俊は相対する義経を見て思った事は、

噂に聞いていた百戦錬磨の大将軍である義経が、

このような女に似た相貌である事に驚いた。

まるで失恋したての少女のような可憐な有様に、

土佐坊昌俊は自軍の勝利を確信した。

 

頼朝からの刺客であると疑っていた義経達は土佐坊昌俊の弁解を聞いて安堵を浮かべ、

その夜は今までの緊張感が解けたように街へ出かけてしまった。

堀川館には義経と静御前くらいしか残っていなかったのである。

 

 

・・・

 

 

「今の私はどのように見えるだろうか?」

 

堀川館で過ごしていた義経は唐突にそう言った。

側にいた静御前に尋ねたのである。

 

「・・・どういう意味でしょう?」

 

質問の意味がよくわからなかった静御前は素直にそう返答した。

 

「私の世界に私はいないのだ」

 

感傷的な態度で義経はそう答えたが、

静御前にはますます理解できず閉口した。

義経は珍しく晩酌をしていて酒の入った杯をおもむろに口へ運んだ。

苦そうに飲み干す様を見ていると、

これは無理をして飲んでいると静御前は思った。

 

「人間は自分の肉眼で自分を見ることはできぬ。

 自分がどのように生きているのかは想像でしかわからぬのだ。

 だからそなたの目に映る私はどう見えているのか尋ねている」

 

そう言ってから自分で酒を注いでまた飲み干した。

そして反動で勢いよく杯を床に落とし、杯は音を立てて割れた。

義経は顔を赤くし、そのまま静御前の肩にもたれかかった。

目を閉じている義経を静御前は両手で支えるようにして受け止めていた。

 

「・・・可愛い人に見えます」

 

静御前には義経の強がりが透けて見えるような気がした。

必死に自分が求められる役割を演じ続ける真面目な性格が、

その反動として心の奥底に本当の自分らしさを秘めてしまう。

だが、それが隠しきれずに表面に漏れ出てしまうような時、

普段から無邪気に振舞っている人よりも魅力的に見える気がした。

 

「・・・もう義経で・・・男でいることに疲れたのだ」

 

義経は悲しそうにそう口にした。

そういう弱音を吐くのを聞くのは静御前にとっては初めてだった。

 

「そなたと一緒にいると女に戻れる気がする・・・。

 何も考えずに気楽に笑って過ごせるのだ」

 

義経の話を静御前がずっと聞くというのが二人の関係だったが、

さすがにこの日は義経が静御前に甘えていたと言える。

義経は酔いに任せて心のほころびを少しばかり女友達に見せたのである。

 

「・・・本当でしょうか?」

 

静御前は切ない表情を浮かべながらそう言った。

 

「・・・どういうことだ?」

 

義経はうっすらと瞼を開いて静御前を見つめて反問した。

 

「牛若様は男でいることに疲れたのではなく、

 女でいることに疲れたのではないですか?」

 

義経が見つめる静御前の表情は澄み切っていた。

彼女は物事の本質を神がかったように鋭く見抜くことがある。

だが、それを義経のように論理的に説明することはできない。

彼女は心の奥底でただ静かに感じているのみである。

 

「・・・なるほど・・・私はずっと女だったのだな・・・」

 

静御前の肩越しから広がる部屋の床を流し目でぼんやりと見つめながら、

義経の脳裏を幾たびも去来するものは弁慶の姿だった。

 

弁慶が堀川館を去ってからというもの、義経は魂を抜かれたように腑抜けた。

まるで脚本家を失った役者のように進むべき場所がわからなくなったかに思えた。

舞台の上で、次の台詞が全くわからずに右往左往するしかなかった。

 

静御前は酔ってしまった義経を解放しながら水を飲ませた。

義経は虚ろな表情を浮かべながら子供のように寝かしつけられた。

その両目にうっすらと涙を浮かべながら眠りについた。

 

義経が眠ってしまったのを見届けた後、静御前は何やら奇妙な胸騒ぎがするのを感じた。

その日はいつもより用心深く戸締りをして、義経の側に布団を敷いて眠ることにした。

 

すぐには眠れずに外へ出て月を見た。

静かな暗闇を奇妙なほど明るく照らす満月が浮かんでいた。

やがて布団へ戻り、心を落ち着けてゆっくりと眠りに落ちた後、

どこからか遠吠えが聞こえ、静御前は目が覚めて体を震わせた。

 

飛び起きた静御前は隣で静かに眠っている義経の姿を見た。

自分はひどく嫌な寝汗をかいていた。

湿った肌の感覚が生々しくて、得体の知れない直感が彼女にまとわりついていた。

それはまるで、人に化けた狼が襲ってくる前触れを感じているかのようだった。

 

 

・・・

 

 

遠くから蹄の音がしだいに高く響いてきて、静御前はまた飛び起きた。

何事も直感的に動く彼女は、起きてからが不思議なほど冷静だった。

考える間も無く、彼女は即座に全てを行動に移した。

 

「牛若様!牛若様!起きてください!」

 

寝衣のまま飛び起きた彼女は横で寝ていた義経を揺さぶり起こした。

義経は、ふと猫でもじゃれかかってきたのかと思った。

 

「・・・どうしたのだ?」

 

少しばかりの頭痛を引きづりながら義経は目を覚ました。

慣れない酒などを飲んだせいでやけに体は重かった。

 

「この音が聞こえませんか、狼達が来たのです!」

 

その主観的な比喩に義経は戸惑ったのだが、

騎馬が駆ける蹄の音が堀川館を取り囲むように鳴っているのを知ると、

これは敵襲だとすぐに理解した、そしてそれは土佐坊昌俊だとわかった。

 

「・・・夜襲などとは、なんて悲しいやり方だ」

 

静御前が用意した鎧を身につけながら義経はそう呟いた。

こんな人の道に外れたやり方を選ぶ者は、義経から言わせれば悲しい人だった。

誰かに牙を剥いてかみつくよりも、本当はやるべきことがあるだろうにと思った。

 

「やり方が派手すぎる、すぐに都中に知れ渡ろう」

 

義経はやがて部下達が敵襲に気づいて駆けつけてくれると思った。

それまでただひたすらに時間を稼がなければならなかった。

 

義経はただ火を放たれることだけを恐れた。

そんなことをされれば一緒にいる静御前が逃げ遅れることになる。

かといって彼女をこの館から出すのも危険すぎた。

自然と義経は静御前を館内に残し、自分だけで早々に飛び出すことにした。

 

静御前に手渡された刀を腰に帯びて、義経は馬に飛び乗って走り出した。

門を開けさせて勢いよく飛び出ると、敵は思い切りの良い義経の出現にかえって混乱した。

 

義経は馬で逃げながら戦った。

堀川館に火を放たれないように、自分が囮になって外へ出た。

逃げながら敵を観察し、数はざっと八十騎程度だとわかった。

 

時間を稼ぎながら味方の援軍を待ち続けた。

やがて外出していた部下達の軍勢が一人また一人と駆けつけてきた。

敵を引きつけるようにして逃げ回りながら、数が減っていくことに気づいた義経は、

味方がどこからか援護に駆けつけてくれたと悟った。

 

(・・・このまま逃げ切れば・・・)

 

そんな義経の考えを読んでいたかのように土佐坊昌俊も焦っていた。

とにかく義経だけを討ち取れば即撤退すればよい。

残っている部隊を二手に分けて義経を包囲することを命じた。

 

駿馬を駆って逃げていた義経もやがて追い詰められた。

前後から挟撃される形になった義経は、やがて観念して腰の刀を抜いた。

囲まれながらも、遠方からいくつもの矢が飛んでくる。

義経は高い位置にいることが不利になると考えて矢をかわしながら転がるようにして馬を降りた。

 

そこへ土佐坊昌俊の郎等が斬りつけてきた。

義経は抜いた刀を合わせるようにして防いだ。

だが、背後からまた一人斬りつけてくる輩があった。

さすがに義経も万事休すかと思われた時、

その斬りかかったきた刀を防いだ者がいた。

白装束をまとった武蔵坊弁慶であった。

 

「弁慶!」

 

弁慶は斬りかかってきた相手の太刀に薙刀を合わせていた。

義経と弁慶は背中を合わせるようにして敵と鍔迫り合いを続けていた。

だが防戦一方ではやがて押されて動けなくなっていく。

 

「義経殿、拙僧の腰の小太刀を!」

 

そのかけ声に義経は一瞬戸惑いながらも、

瞬時に視線を弁慶の腰の小太刀に向けて左手を伸ばした。

まず右手の刀で受け止めていた相手を左手の小太刀でなぎ払い、

続いて弁慶に斬りつけていた相手を自由になった右手の刀で斬り倒した。

 

「二つの太刀!?」

 

土佐坊昌俊は目を疑った。

この時代、まだ二刀流という戦法は確立されていなかった。

やがて江戸時代になると宮本武蔵が二刀流を世に広めることになるが、

義経の時代にこのようなやり方をとった者がいたかは定かではない。

 

だがこの物語の中の義経はとっさの判断でその技を編み出した。

それはおそらく追い詰められた状況が生み出した偶然の産物だったにちがいない。

 

「このようなやり方を取るなどとは、恥を知れ!」

 

弁慶は土佐坊昌俊に向かって怒号を発した。

その気合いに土佐坊昌俊は瞬時に怯んだ。

 

「観念するのだな、もはや二千の軍勢が京の都を取り囲んだわ!」

 

弁慶は鬼のような形相で高らかとそう告げた。

どう考えてもそんな大軍がいるはずはなかったが、

もはやこの大男の気概に飲まれてしまった土佐坊昌俊の軍勢は恐れをなして崩れ去った。

 

逃げていく軍勢を追うことなく、義経と弁慶は立ち尽くしていた。

やがて薙刀を地面に投げ出し、義経に向き合った弁慶は膝をついて座り込んだ。

 

「・・・主人をこのような危険な目に合わせてしまうとは、この弁慶、一生の不覚」

 

義経は先日の無様な失態を思い出していた。

どのような顔をして彼に向き合えば良いかわからなかった。

 

「・・・もはや顔を合わせたくないと言うのなら、拙僧はこれにて」

 

弁慶が立ち上がって去ろうとした時、義経は弁慶を呼び止めた。

 

「戻ってきてくれたのだろう、それだけで十分だ」

 

引き止めねばならない、ということだけは義経にもわかった。

どういう形であれ、彼に側にいてもらわなければ困ると思った。

 

「・・・私は女だ」

 

義経は左手の小太刀を見つめながらそう言った。

弁慶は瞬時に目線を下にそらした。

 

「・・・だが、男にだってなれる」

 

右手の刀を強く握りしめながらそう言った。

弁慶は驚いて視線を上げて義経を見つめた。

 

「・・・お前という理解者が側にいてくれるなら」

 

義経は真っ直ぐに弁慶の顔を見つめながらそう言った。

そう言いながら、胸が熱くなる自身の想いに気づいていた。

 

 

こうして義経は頼朝の刺客による堀川夜討を切り抜けた。

命からがら逃げ出した土佐坊昌俊達は鞍馬山まで逃亡を図ったが、

やがて捕らえられて京の都で最期を迎えることになった。

義経の二刀流を見たものはこの世に残っておらず、歴史にも残っていない。

 

 

・・・

 

「京の都を出る以外ありますまい」

 

堀川館に残された義経とその部下達が話し合った結果、

誰しもがこの結論にたどり着かざるを得なかった。

 

土佐坊昌俊が頼朝の刺客だということが判明したのち、

義経の周囲は打倒頼朝の旗を掲げざるを得なくなった。

先に行動しなければ、いつどんな手段を用いて襲われるかわからない。

そういった思いが義経の周囲で急速に高まっていったのであった。

 

しかし、一方でそれは頼朝の思惑通りだったのかもしれない。

義経が謀反を企んでいるという噂が頼朝の耳に入るようになると、

頼朝はしめたとばかりに義経を討つ準備に取り掛かった。

公に義経を討つ大義を得たのである。

 

一方、義経は兄を討つことに戸惑いはあるものの、

とにかく現状維持では黙って死を待つのみだと理解していた。

彼女の周囲から旗揚げの要請が高まっていったものの、

義経もなかば諦めながらその期待を背負っていった。

後白河法皇からの正式な頼朝追討の院宣も得た。

 

 

だが、想像以上に義経に賛同する者は少なかった。

世間は義経に同情するが、実際に力を貸す者はいなかった。

世の中は今後、頼朝が治めることになるという事実は明白であり、

鎌倉に武家政権を着々と構えていった頼朝に比べ、

義経は後白河法皇にかわいがられている以外は何もなかった。

人間的には好かれているが、権力は持たなかった。

 

人は目に見えぬ、だが確実に世に影響を及ぼすこの権力という魔物に対し、

どうやっても抵抗することができない事実を歴史は証明していた。

いつかその事実が覆される日がくるのかもしれなかったが、

義経の時代においてはまだそれは夢物語に過ぎなかった。

 

 

・・・

 

 

「九州へ向かおう」

 

部下達からそういった意見が出た。

西国へ落ちて再起を図る事が必要だと意見が一致したのである。

 

かつて平氏が屋島や壇ノ浦へ逃げて体制を整えたように、

義経も京を離れ、鎌倉から遠い九州で時を稼ぎ態勢を整える事を検討した。

 

そして、義経達は静かに慣れ親しんだ都を離れた。

 

都の物言わぬ多数派達は、無言でその別れを惜しんだ。

義経の境遇に同情しながらも時勢に逆らう事などできず、

人々は無言を貫く以外に処世の術はなかったのである。

 

義経は京の都を愛していた。

他の誰かのように略奪もせず、ひたすら真面目に勤めを全うしてこの都を支え続けた。

報われなかったと言えば、確かにそうかもしれなかった。

だが、人々は物言わぬだけで、本当は彼女の存在意義を確かに認めていたことだと思う。

 

義経達は静かに去ろうとした。

だが、天運に恵まれず船は暴風により難破して再び押し戻された。

九州へ落ち延びる予定は覆されてしまったのだった。

 

そして予想していた不幸な出来事が現実となった。

後白河法皇は鎌倉の頼朝に対して義経を討つという院宣を与えたのである。

 

先日は義経に対して院宣を与えた後白河法皇であった。

どうしてここへきてすぐに掌を返すことになったのか。

それは結局のところ後白河法皇の身の保身であったと思われる。

義経を失った京の都を守ってくれるものはもはや誰もおらず、

後白河法皇とて今後の身の振り方を考えねばならなかった。

強いものにつかねば権力に潰されてしまう可能性がある。

鎌倉という肥大化していく権力の真下にいては踏みつぶされる。

後白河法皇は仕方なく頼朝の権力に媚びを売ることに決めたのである。

 

やがて義経は後白河法皇から授けられた官位も剥奪された。

今の義経は何も持たないただの賊軍に成り果てた。

 

九州へ逃れることのできなかった義経達は、

山伏のような格好に身をやつしていた。

 

山伏とは山中で修行をする者達のことである。

彼らは山で修行をすることで悟りを得る事をめざす一種の宗教者であった。

 

熊野詣でに通じる険しい道として吉野という場所があった。

ここは代々、修行者が山にこもって修行を行う場所であり、

自然はたくさん残っているが人の姿は少ない。

義経達はそういうところに隠れ潜むしかなかったのである。

 

 

・・・

 

乾いた青空に雪を踏む音が響いた。

音は何かが擦れるように短く何度も高い空を打ち、

やがて吸い込まれて消えていく様子は言葉にならない冷たい悲しみを帯びていた。

 

わずか数人で吉野の雪道を行くのは義経達であった。

やがて冬の寒さが厳しさを増していくであろう季節に、

彼女達はただ無言で吉野の山へ足を踏み入れていく。

 

「見よ、あれが蔵王堂である」

 

義経が先の道を指差してそう言った。

一行はその指し示す方を見上げて息を飲んだ。

天を衝くような荘厳な建物がそこに見えた。

それは蔵王堂と呼ばれる金峰山寺の本堂であった。

 

目標地点を見つけた一行の足取りは自然と速くなった。

だが、義経に付き従う者はもう数えるほどしかいなくなった。

主なる者は屋島の合戦で兄を失った佐藤忠信、武蔵坊弁慶、静御前くらいであった。

九州へ向かう船が難破した後、希望を断たれた者達は義経の元を去った。

あるいは伊勢義盛のようにはぐれてしまい別行動をとるものもあった。

いずれにせよ、義経の元にはもうほとんど従う者は残っていなかった。

 

「大丈夫か」

 

義経は歩みを進めながらも静御前を気遣っていた。

京の都を落ちるとき、一緒に来る事を望んだ彼女も連れてきたのだが、

船旅であればまだしも、このような山旅になるとは想像もしていなかった。

自然と進む速度はどうしても彼女に合わせなければならなくなった。

 

静御前は義経の声に返答せず、ただ無言で歩き続けていた。

普通の女にはこのような修験路は厳しい事は誰もが理解していたが、

それでも彼女は義経のそばにいたいが為に付き添ってきたのだった。

 

やがて義経達は重たい体を引きづりながらも蔵王堂へたどり着いた。

そこまで来た一行は、ひとまずここでしばしの休息をとる事にした。

 

義経は静御前の事を気にしながらお湯を飲ませたりして休ませている間、

弁慶は一人、蔵王堂の奥へと足を踏み入れていた。

 

本堂の中へ足を踏み入れた弁慶は一人静かに目前に立つ蔵王権現の像を見つめた。

三体の像はいずれも鬼のような形相をして怒りをあらわにしていた。

 

「まるでお前みたいな顔をしているな」

 

いつの間にか後ろに立っていた義経が弁慶にそう言った。

気配に全く気がつかなかった弁慶は驚いて目を開いた。

 

「似ておりますか」

「ああ、似ているよ」

 

義経は間髪入れずに返答した。

 

「とても悲しい顔をしているではないか」

 

二人の眼前に浮かぶ権現を見つめながら義経はそう感想を述べた。

怒りの形相を悲しい顔だとみなすのは、なかなかに変わった感性だと弁慶は思った。

 

「まあ、私の感想などあまり気にしないでくれ。

 こういう物を見るといつも人とは違った感想になってしまうのだから」

 

そう言って少し照れたように義経は笑った。

弁慶は表情ひとつ変えずにそれを聞いていた。

 

「・・・いや、その通りかもしれませんな」

 

義経は部屋の大きな柱に背中を持たれるようにして腕組みをして聞いていた。

弁慶は真っ直ぐに蔵王権現を見つめながら話を続けていく。

 

「権現とは仮に現れるという意味なのです。

 三体の像はそれぞれ過去、現在、未来を表しております。

 御仏が仮の姿をとって世に現れたのがこの像と言うわけなのです」

 

「なるほど、お前詳しいじゃないか」

 

義経が後ろからそう言って弁慶を褒めた。

 

「伊達に僧くずれではありませんからな」

 

弁慶は自己を嘲るようにしてそう言った。

 

「それで、続きは?」

 

「はい、これら三体の像が過去、現在、未来の三世に渡る衆生の救済を願っていると言われています。

 だが、拙僧はいつも疑問に思っておりました、なぜ権現様の顔は怒っておられるのかと」

 

「平和を願うにもかかわらず、どうして笑っていないのかと?」

 

義経がそう尋ねた質問に、弁慶は無言で首を縦に振った。

 

「所詮僧くずれの拙僧の解釈など無用かもしれませぬ。

 しかし、一切衆生を救うためには御仏は怒らねばならなかったのかもしれません。

 そしてその表情の奥には、おそらく牛若様のおっしゃられたように、

 御仏の悲しみが潜んでいるのかもしれませぬ」

 

そこまで言って、弁慶は両手を合わせて目をつぶり権現を拝んだ。

義経もその姿を見て自分も手を合わせることにした。

 

「・・・拙僧も人の子ですな」

 

目を開いた弁慶はそう呟いた。

 

「どういう意味だ?」

 

「・・・ここへきて御仏にすがりたくなるとは」

 

弁慶はそう言い残して本堂を出て行った。

取り残された義経はため息をつきながら目の前の権現を眺めていた。

 

 

・・・

 

 

蔵王堂を後にした義経達は吉水院というところに隠れることになった。

吉水院は蔵王堂から少し離れたところへ歩いた場所にあった。

 

とにかくも宿を見つけた義経達は安堵しながら休息を得た。

何より静御前を休ませてあげられる場所を見つけたことが義経には救いだった。

 

「牛若様!」

 

吉水院の畳部屋に静御前の声が響いた。

部屋の隅に藁座布団を敷いてそこに座り込んで何やら考えていた弁慶は目を開いた。

 

弁慶の瞳に映ったのは義経に抱擁している静御前の姿だった。

ここに宿をとるようになってからというもの、

静御前は毎日のように義経に甘えるようになっていた。

 

(・・・女同士で何をしているのだ・・・)

 

弁慶は内心そんな風に思っていたが、

義経に遠慮して何も言わずに黙っていた。

彼は彼なりに藁座布団の上で今後の打開策を必死に練っていたのである。

 

「牛若様、ああ牛若様、ずっと一緒にいてくださいね」

 

そう言いながら静御前は絡みつくようにして義経にまとわりついていた。

二人が仲睦まじい事は義経の部下達の誰にも周知の事実であったが、

弁慶が見る限り、ここへきて静御前の態度は以前にも増して激しくなっていた。

 

「牛若様、この吉野の千本桜、ご覧になったことありますか?」

「いや、まだない」

 

静御前は顔を近づけながらそう尋ねた。

吉野は古来より歌に詠まれることも多い桜の名所である。

義経は京の都を離れる時は戦と決まっており、

ゆっくりと桜の季節に吉野を訪れたこともなかった。

 

「私は一度だけ見たことがあります。

 母が吉野を訪れた時、付き添ったことがあるのです。

 それはそれは夢心地のような景色でございました。

 千本の桜が一斉に浮世に咲き乱れるのですから」

 

静御前は嬉々として話を続けた。

今は雪の降り積もる吉野も、やがて雪解けを経て春が来る。

春が来れば幻想的な桜の風景を愛でることができるというのだ。

 

「夜空に浮かんだ月と桜、想像してみてください。

 こんなに相性の良い組み合わせが他にあるでしょうか?」 

 

それを聞いた義経は少し相好を崩した。

 

「それはさぞかし綺麗だろうな」

「そうでしょう!」

 

静御前は飛び跳ねるようにして喜んだ。

この吉水院で新たな年を迎えることができれば、

春が来るのもそう遠い話ではないと静御前は思っていた。

 

だが一方、義経の態度は少しずつ変化が見られた。

まとわりつく静御前に対し、義経は以前ほどまともに相手をしなくなっていた。

 

突然、動きを止めた静御前は猫のように素早く義経から離れた。

表情は少し不満げで眉間に皺がよっている。

 

「・・・どうしたのだ?」

 

部屋の隅で一部始終を眺めていた弁慶が静御前にそう尋ねた。

 

「・・・だって牛若様が冷たいんですもの」

 

恨めしそうに義経を指差しながら静御前はそう答えた。

わざと義経に聞こえるような声量だった。

 

「・・・冷たいか」

 

それを聞いていた義経はそう呟いた。

そう言ってから何かを決意するようにおもむろに立ち上がった。

 

「・・・今までひたすら支えてきたつもりだったが」

 

突然の予期せぬ流れに弁慶も目を見張った。

そして呼吸を忘れて事のなり行きを見守っていた。

 

「今日・・・ここで・・・終止符を」

 

その予期しなかった発言を耳にした静御前は、

みるみるうちに表情を曇らせて袖を濡らしながら泣き崩れた。

 

「弁慶、お前の考えを聞かせてくれ。

 この先、我々はどこへ向かうべきか」

 

藁座布団の上で腕組みをしていた弁慶に向かって、

義経は凛々しい声でそう問いかけた。

弁慶は腕組みをしたまましばらく黙っていたが、

やがてその姿勢のままゆっくりと口を開いた。

 

「奥州の藤原秀衡殿を頼るべきでしょう」

 

かつて義経がまだ頼朝を訪ねる前、

お世話になった藤原秀衡を頼るべきだと弁慶は説いた。

京の都からも鎌倉からも遠く離れた北国であれば、

頼朝と言えどもさすがにすぐには手出しができないはずであった。

そこで再起を図り、頼朝を牽制すべきだと言うのである。

そして、それはおそらくこの時点では最良の案であった。

 

「まず大峰山を越えねばなりますまい」

 

噂によれば頼朝の刺客はこの吉野へも向けられていた。

そうであれば、なおのこと人気のない道を行かねばならない。

大峰山は修行者にとっては神聖な山であり険しい道のりだった。

そして、何よりもここは女人禁制の場所として知られていたのである。

 

「そなたが大峰山へ立ち入ることはできぬ。

 ここまでだ、ここから先はそなたを連れては行けぬ」

 

義経は静御前に京の都へ帰ることを命じた。

畳に伏せって泣き崩れていた静御前は恨めしそうにこう反論した。

 

「・・・牛若様も女ではありませぬか」

 

義経はそれに関しては沈黙を貫いた。

冷たいと思われても、静御前の為を思えば仕方ないと思っていた。

 

「もし牛若様がここで大峰山を避けて行くことが世間に知れれば、

 源義経に対する世間の印象に疑念が持たれるかもしれぬ。

 あくまでも源義経は男であらねばならぬのだ」

 

弁慶はすかさずそう告げて後押しをした。

静御前は何も言えずに黙ってしまった。

 

「そうだ、牛若丸が義経である限り、まだ世間の誰かは味方をしてくれる」

 

義経は静御前に向けてそう言った。

あるいは、自分自身に対して言い放った言葉だったかもしれない。

 

「瞳を閉じてみよ」

 

義経は泣き崩れていた静御前を抱き寄せてそう言った。

静御前は言われるままに目を閉じた。

 

「どうだ、きっと落ち着いて来るだろう。

 余計なものなど見る必要はないのだ。

 そうすれば新しい明日の兆しを感じるはずだ」

 

静御前は義経の背中に両手を回してしがみついた。

自分の全てを受け入れてくれる義経を本当は離したくはなかった。

 

「・・・人はいつでもやり直せるのだ、どこへも行ける」

 

奥州と京、離れてしまうかもしれないが、

二人はまたきっと再開することができる。

心の中で義経は静御前にそう告げていた。

 

やがて抱擁を解き、涙に濡れる静御前の顔を見ながら、

諭すようにして義経がこう言ったのを弁慶は聞き逃さなかった。

 

「やさしさを求めるだけではだめだ。

 自分がそう与えなければ」

 

どこまでも真面目で厳しい人だと弁慶は思った。

義経という人の愛情は、このように厳しさを持って現れるのかもしれない。

本当に仲のよい間がらだからこそ、自己に対して厳しくあって欲しいと願うのだ。

それを冷たいと取られても、自分に厳しい義経にとっては、

友に対して厳しく接することが彼女なりの愛情表現なのかもしれない。

 

(・・・強く生き抜いてくれ・・・)

 

義経はまた静御前を強く抱擁した。

 

 

・・・

 

 

翌朝、義経は静御前に幾らかの財宝を与えた。

そして家来を幾人かつけ、無事に京へ送り届けることを命じた。

 

自分がいることで義経の足手まといになることを悟った静御前は、

悔しい気持ちを抱えながらも義経と共に行くのを諦めざるを得なかった。

 

義経達が大峰山方面へ向かって出発したのを見送ると、

静御前は家来達と共に京の都へ向かうことにした。

 

だが、予想もしていなかった裏切りに遭遇した。

家来達は静御前に与えられた財宝を奪って逃走してしまったのである。

世間はもはや義経や弁慶が想像していた以上に冷たかった。

 

途方にくれた静御前は、先日までの記憶をたどりながら、

なんとか蔵王堂までたどり着くことができたが、やがてそこで捕らえられた。

 

そしてこれが、義経と静御前の今生の別れとなったのである。

 

 

・・・

 

 

吉水院を後にした義経達は、ひとまず吉野を離れる前に別の場所に移った。

それが金峯山寺蔵王堂の奥宮に当たる金峯神社の辺りであった。

 

義経が吉野に潜伏しているという情報を頼朝はすでに掴んでいた。

吉野ではまだ義経達に味方をしてくれる人々もいたのだが、

どこでいつ裏切りに合うかもわからず、より人里離れた場所へ逃れねばならなかった。

 

長くて細い吉野の雪山道を延々と進んで行くとやがて人影もまばらになっていく。

奥まったところにある吉野杉に囲まれた金峯神社の付近は日の光が遮られてとても薄暗く、

ただひんやりと冷たい澄んだ空気が辺りを包み込むようにして神々しく漂っている。

そこにはなぜか高い樹々に囲まれた隠れ家のような五重の大塔がひっそりと建っており、

義経達はそこへ隠れ潜んで出発の時期を探っていたのである。

 

だが吉野山には、もはや義経の居場所はなかった。

鳥のさえずり以外に物音のしない塔の周辺がにわかに騒がしくなった。

義経を追ってきたのは金峯山寺の僧侶達であった、裏切りである。

 

「やはり坊主どもは信用ならなかった」

 

弁慶は悔しそうにそう呟いた。

神や仏を崇めている人間ほど俗世間にまみれていると弁慶は思った。

多くの僧侶達は世襲制であり、本当の意味で神や仏がなんであるか、

その本質を真剣に考えるものは少ないのかもしれない。

 

「義経様、その鎧を私めに」

 

佐藤忠信が義経にそう願い出た。

義経の代わりに自分を囮にして危機を脱せよと言うのである。

 

義経は拒否したが弁慶がそれを推薦した。

佐藤忠信は義経の鎧を身にまとい、決死の覚悟で逃げ道を作る算段だった。

 

義経が鎧を脱いで佐藤忠信に渡そうとした時、

懐に忍ばせておいた箸袋が引っかかって床に落ちた。

佐藤忠信が鎧を身につけている間、義経はその箸袋を拾って一人見つめていた。

 

その時、外側から激しく戸を叩くような音がした。

追ってが塔の周りを取り囲んでいることは明白であった。

さすがの義経もこれには万事休すと命を天に返す決意を固めた時、

おもむろに箸袋から箸を取り出して一人語り始めた。

 

「・・・箸殿、箸殿、こんな状況をなんて言うのだろう」

 

義経は左手に持っていた箸袋に目をやって悲しくこう言った。

 

「ああ、それはね、袋の鼠って言うんだよ」

 

こんなに悲しげな義経を見たことがあるものは誰もいなかった。

弁慶はもはや悲しみに言葉を失って立ち尽くしていた。

ただ一人、佐藤忠信は命に代えても主人を死なせはしないと心に誓った。

 

「義経様、私が突破口を作ります。

 その隙間を縫うようにしてお逃げください」

 

佐藤忠信はそう言って激しく打たれている戸へ向かって歩いて行った。

その時、箸の先端をぼんやり見つめていた義経が急に佐藤忠信を制した。

 

「いや、待て、箸殿が教えてくれた」

 

佐藤忠信が振り返ると、箸先が指し示す天井を義経は見つめていた。

義経は弁慶と佐藤忠信を呼び寄せ、箸と箸袋を懐へしまってから天井へ届くところまで移動した。

 

「弁慶、私を高く持ち上げてくれ」

 

弁慶は言われた通り義経を高く持ち上げた。

義経はその足で何度も何度も天井を蹴り続けた。

老朽化が進んで朽ちていた天井はやがて蹴り破られ、

そこに人が通れるほどの僅かな隙間ができた。

 

「私を先に行かせてください」

 

佐藤忠信の願いを聞き入れた義経は彼を先に通した。

やがて弁慶もその隙間を広げてから通り抜けた。

最後に義経自らがその穴から出ようとした時、

身体を傾けたために懐から箸袋が滑り落ちてしまった。

 

「あっ!」

 

思わず義経は声を上げた。

箸袋は床に落ち、箸は袋から抜けて転がった。

だが、もはや義経には床へ戻っている時間はなかった。

天井の穴から下を見ると、戸を破られて僧侶達が侵入してくるのが見えた。

 

「・・・義経が消えた!」

 

僧侶達は狐に化かされたように慌てながら急いで建物の中を見回したが、

そこで見つかったのは箸と箸袋だけで義経は見当たらなかった。

 

「・・・ちっ、逃したか!」

 

怒り狂った僧侶達は地面に落ちていた箸を拾ってへし折ってしまった。

箸袋は踏みつけられてやがて建物の外へ放り投げられた。

 

「おい!義経はこっちだ!」

 

塔の外から僧侶達が叫ぶ声が聞こえた。

中にいた僧侶達はその声のする方へ走り去ってしまった。

囮になってくれた佐藤忠信が追っ手を引きつけてくれたのである。

 

やりきれない思いで天井を抜けて塔の外へ出た義経は、

吉野杉の隙間から僅かに望む日の光が見えた。

義経と弁慶はその光を頼りに暗闇に閉ざされた塔を抜け出した。

 

 

敵を引きつけた佐藤忠信は勇敢にも一人で戦い、

命を落とすこともなく後に義経達と合流することができた。

義経達は無事にこの塔を抜け出して宮滝の方向へ向かって逃げ延びた。

この塔は現在でも「蹴抜塔」という名前で名残をとどめている。

 

 

「九死に一生を得ましたな」

 

もう追手が来ないことを確認して安堵の表情を浮かべた弁慶はそう言った。

だがそう言ってから義経が浮かない表情を浮かべているのに気がついた。

 

「どうなされた?」

 

「箸殿が身代わりになってくれたのだ」

 

うっすらと瞳に涙を浮かべながら義経はそう言った。

弁慶にはそこまで箸に入れ込んでいる気持ちが理解できなかったが、

きっと義経だけにしかわからない特別な想いがあるのだろうと思った。

 

 

そして、これが箸殿との今生の別れとなったのである。

 

 

・・・

 

 

どこからか春風が吹き抜けて、静御前は不意に後ろを振り返った。

 

だが、あんなに待ち焦がれていた春が訪れたのにもかかわらず、

彼女が慕っていた義経はどこにも見当たらなかった。

 

静御前は風が吹き抜けた先に見えた気がした義経の幻影が消え去るのを確認し、

目を閉じて静かに振り返って前に向かって再び歩き出した。

先ほど吹き抜けた風が、かすかに桜の花びらを宙に舞わせていた。

 

「早く舞わぬか」

 

鶴岡八幡宮の社殿の回廊を歩いている静御前を見ながら、

なかなか舞を踊らない様子に耐え切れずに頼朝は愚痴をこぼした。

妻の北条政子が静御前の舞が見たいと言いださなければ、

頼朝にとっては静御前など義経の居場所を見つけ出すための道具にすぎなかった。

だが、彼女はこれ以上義経の居場所を知らず、もはや利用価値もなかった。

 

「そんなに焦ってはなりませぬ」

 

頼朝の隣にいた北条政子がそう諌めた。

天下に名高い静御前の舞を見ぬのは惜しい。

そう思った彼女は頼朝に頼んで静御前を鶴岡八幡宮まで連れて来させたのである。

 

だが静御前は義経を殺そうと企んでいる頼朝の命令などで踊りたくはなかった。

踊れと言う命令を受けるたびに病気と偽って何度も固辞した。

だがそれでも北条政子に頼まれて断りきれない頼朝は静御前に命令を続けた。

 

当日になっても気が滅入って踊りたくないと言い張っていた静御前であったが、

「八幡大菩薩に供えるのだから」と頼朝は説得を続けていた。

しぶしぶ重い腰を上げた静御前であったが、又しても煮え切らない様子を見せていたことに、

頼朝もさすがに苛立ちを隠せずに心の声が漏れ出てしまったのであった。

 

(・・・さっさと殺してしまえば良いものを・・・)

 

頼朝はそう思っていた。

彼は静御前の舞などに全く興味はなかった。

それよりも一刻も早く義経を見つけ出して殺してしまい、

鎌倉に政権を打ち立てて権力を手中に収めたいと思っていたのである。

そうしなければ、いつまでたっても妻の政子にも頭が上がらない。

北条家の力などを借りずとも自立できる力を早く得たかった。

 

一方、北条政子は静御前の舞を楽しみにしていた。

彼女はこの時代にしては珍しく強い女性であり、頼朝の浮気も許さない嫉妬深さがあった。

夫である頼朝を支えながら、自分の意見を堂々と主張する力強さもあり、

おそらく好奇心も旺盛で、静御前の舞にも強い興味があったことだろう。

 

何度も躊躇しながら舞を踊ろうとしない静御前の様子に頼朝はしびれを切らしていたが、

北条政子は抵抗する静御前の目を見つめながら何度も舞を踊るよう視線で促した。

 

そして、やがて観念して踊り始めた静御前を見て頼朝は絶句することになった。

 

 

・・・

 

 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 

・・・

 

舞を踊り始めた静御前の姿はあまりに美しく、

見ていたものは誰もがその舞姿に酔いしれた。

踊る前は煮え切らない様子で気弱そうに見えたものだが、

舞を始めた途端、その様子は何かが憑依したかのように変化した。

静御前は白拍子としての天賦の才を備えていたのである。

 

だが、その歌の内容には頼朝は激怒した。

明らかに義経を恋い慕う内容だったからである。

まるで頼朝を挑発するように静御前は美しく舞っていた。

頼朝は怒りに狂い、舞が終われば即座に斬り捨てるつもりだった。

 

「・・・愚かなことをしてはなりませぬ」

 

隣で舞を見ていた政子の発言に頼朝は驚きを隠せなかった。

心を見透かされたように、またしても諌められたからである。

 

「もし私が静御前の立場であっても、きっとあのように舞うでしょう」

 

政子は頼朝の目を見つめながらそう言った。

政子の意向に逆らうわけにもいかず、頼朝は背中を丸めて舞の鑑賞を続けた。

 

 

・・・

 

 

「お見事でした」

 

北条政子は舞を終えて戻って来た静御前に対してそう述べた。

頼朝は舞が終わるとよほど腹立たしかったのか、用事があると言ってすぐにその場を去った。

 

「言った通りでしょう、あの方は私には逆らえません」

 

舞を踊る前、静御前は頼朝の命令で踊ることはないと意地を張っていたが、

それを知った政子が静御前に対してどんな舞でも構わないと譲歩を見せていた。

頼朝の知らないところで、実は女同士の密談があったのである。

 

「・・・どうして許していただけたのですか?」

 

静御前は政子の隣に腰を下ろし、恐る恐る政子にそう尋ねた。

この場所でこの時期に義経の事を想起させる舞を踊るなど、

普通であればすぐに斬られてもおかしくないと思っていたからだった。

 

「女には嫉妬の権利があるのです」

 

幾分暗示的に政子はまず返答した。

その答え方だけでは静御前には意味がわからなかった。

 

「どうして男にだけ妻をたくさん持つ権利があるのでしょうか?

 そのような世の中を、私はおかしいと思っているからです」

 

その返答も、静御前の質問に対する直接的な回答ではなかった。

静御前はただ黙って政子の意図を考え続けた。

 

「男が作った世の中では、きっとこんな考え方は笑われるのでしょうね。

 でもいつか、女が男と等しい権利を持つ事ができる世の中になれば、

 私の考えの正しさが理解される日が来ると信じています」

 

それは女同士の共鳴だったのかもしれなかった。

この時代に強く生きる二人の女性が、立場も魅力も異なりながら、

ただ黙って男に支配されずに抵抗しようとする魂の共鳴だったのかもしれない。

 

「・・・恋をするのは正しい事だと?」

 

静御前は政子の意図が分かり始めてそう尋ねた。

 

「どうして好きな相手を慕ってはいけないのでしょう?

 もしあなたがすぐに義経殿を忘れてしまうようであれば、

 それこそ私はあなたを薄情で憎むべき相手だと思ったでしょうね」

 

政子の目はとても力強く、その瞳をじっと見つめているうちに、

やがて静御前は彼女に何か惹きつけられる魅力を感じていく気がした。

 

「女が世の中を動かせる時代が早く来なければなりませんね。

 そして自分達で早く女達の規則を作る必要があります。

 私もできる限りの力を尽くしてみたいと思っていますが、

 そんな時代が来るには、おそらくあと千年はかかるかもしれません・・・」

 

やがて政子は音もなく立ち上がり、色鮮やかな十二単の裾を引きづりながら去っていった。

静御前はその後ろ姿を見送りながら、彼女の言った話の意味を考え続けていた。

 

 

・・・

 

 

 

平泉に辿り着いてから、約二年の歳月が流れた。

源義経はまだ歴史の隅で生きながらえていたのである。

 

吉野を脱してから紆余曲折を経て奥州の平泉に辿り着いた義経達は、

かつて世話になった事のある藤原秀衡を頼った。

弁慶が考えた通り、今の義経を拾ってくれるのは彼以外になかったであろう。

 

頼朝から追われる身となっている義経を引き取ったのは、

やはり都のように人間関係が冷え切っていない土地柄であったからだろうか。

それとも藤原秀衡の義経に対する情け深さゆえだったのか。

何度も何度も生死の狭間をくぐり抜けながら、

最後に思い出して頼って来てくれた若者への親心のようなものだろうか。

 

とにかくも義経は生き延びた。

だが、不幸な出来事が義経を追い詰める。

義経が平泉に辿り着いたその年、藤原秀衡は病気で亡くなってしまった。

 

彼は遺言を残し、息子達に義経を大将軍として鎌倉に対抗せよと説いた。

これは破格の待遇だったようにも思えるが、義経の功績を買ったものか、

残した息子達が仲間割れをしないように計らったものか真の意図はわからない。

とにかくも義経は藤原秀衡の死後も奥州にとどまり続ける事ができたのである。

 

だが鎌倉の頼朝は義経を許すことはなかった。

何度も政治的に平泉に対して政治的な圧力を加え続けた。

やがて、藤原秀衡の後を継いだ息子の泰衡はその圧力に屈した。

数百騎の兵を従えて義経のいた衣川館を襲撃したのである。

これによって義経は歴史から退場させられることとなったのだった。

 

 

・・・

 

 

「誰か!誰かいないか!」

 

衣川館の中で義経は叫び続けた。

義経を除くと十人にも満たない部下達は、

襲撃を受けた直後に命を捨てて飛び出して応戦した。

隙を見て脱出をするように言われた義経は、

一人で館の中で機会をうかがっていたのであった。

だが、どうもそのような機会はやってくる気配がなかった。

義経は命を張って戦っていた部下達を思っていたたまれずに叫んだのである。

 

「生きてるものはいないのか!」

 

吉野では命を懸けて義経を守った佐藤忠信は館を飛び出したきり二度と戻らなかった。

数百騎の大群にわずか十騎にも満たない数で立ち向かうのは自殺行為以外のなにものでもなかった。

それでも義経の部下達は命を惜しまずに次々と勇敢に戦って散っていったのである。

 

衣川館の中からは誰の返事もなかった。

義経は狂いそうな精神を抱えて両手で床を乱打した。

もはや生き続ける自分が最も苦しいとすら思っていた。

 

「・・・へっへっへ」

 

部屋の中から微かな笑い声を聞いた義経は、

ふと顔を上げて必死に辺りを見回した。

やがて視界に入ってきたのは部屋の隅に立っていた伊勢義盛だった。

 

「・・・お呼びでしょうか」

 

不気味な笑みを浮かべながら伊勢義盛は義経の方へ向かって歩いてきた。

九州行きの船が難破した後、彼は別行動を取っていたのであるが、

義経達が吉野を脱した後で合流し、ともに平泉までやってきていたのだった。

 

「おお、義盛か」

 

義経は生き残っていた部下に会えた喜びで目に涙を浮かべた。

すがりつくような思いで、義経は義盛を抱擁した。

 

「・・・義盛頼む、私を殺してくれ」

 

義経が必死に絞り出した声は震えていた。

自分が何を言っているのかもよくわからなかった。

周囲で起こっている現実を受け止めることができず、

そこから逃避する手段としての死しか考えつかなかった。

 

伊勢義盛は義経に抱きつかれたまま息を吸い込んだ。

そして大きく吸い込んだ息をゆっくりと大きく吐いた。

 

「・・・女の匂いがする」

 

義経は自分が女であることや、男を装っていることなど、

もう何一つ重要な事として頭で考えてはいなかった。

だが義盛が女の匂いがすると言った瞬間だけは、

突如として冷静になり、何か罪悪感のようなものに胸を突かれた気がした。

偶像としての義経は決して嘘をついていたわけではなかったが、

決してありのままの自分ではなかったからかもしれなかった。

 

「・・・最後に教えてくれよ、あんた女だろ」

 

義経はその問いには直ぐに答えることはできなかった。

今まで黙っていた事がどこかで心の重荷になっていたのだ。

 

何も答えずに義経が黙っていると、

伊勢義盛は突然力づくで義経の手首を取って壁に押さえつけた。

そして義経が纏っていた鎧を無理やりに剥ぎ取り始めた。

 

鎧を無理やり剥ぎ取った伊勢義盛は、

次に自分の鎧を脱いで義経の鎧を身につけ始めた。

彼は自分の脱いだ鎧を義経に手渡した。

 

「・・・俺はいい女の為なら死ぬのは惜しくねえ」

 

伊勢義盛は腰に帯びていた刀を取って丁重に義経に差し出した。

そして自分の手を使って首をはねてくれという仕草をして見せた。

 

「男ってのはだめだね、ろくなもんじゃねえよ。

 悪いことしか考えねぇ生きもんだ、好きじゃねぇな」

 

義経は伊勢義盛が差し出した刀を一度は手に取ったが、

無言で首を左右に振りながらその刀を抱きしめていた。

 

「早くやってくれよ、俺だって怖いんだぜ。

 だけどな、惚れた女の為に死ねるなら本望なんだ。

 これで源義経は死ぬ、歴史から消え去るんだ。

 何も怖いことはねぇぜ、もともとそんなやつはいなかったんだからよ」

 

ここで伊勢義盛の首をはねれば、やがてこの屍を見つけた頼朝の部下達は、

これで義経が死んだと勘違いしてくれるのだろうか。

だが、牛若丸にはその決断ができずにいた。

義経という偶像をここまで引き受けてきたのは自分自身だった。

これを無責任に部下に押し付けて終わるのは彼女には耐えられなかった。

 

「・・・ためらうことなんてねえんだ。

 お前さんはさっき俺を抱きしめてくれただろ?

 それだけで十分なんだ、男って奴はそれだけでよ・・・」

 

伊勢義盛は牛若丸の手を取って鞘から刀を抜かせた。

体が震える、涙が止まらない、精神は興奮状態で麻痺していく。

自分が何者であるかわからなくなっていくのを牛若丸は感じていた。

 

「さあ、早くしてくれよ。

 さもなきゃ誰か野郎がこの館に踏み込んでくるだろ?

 男に殺されるのだけはごめんなんだよ、そんなのは死んでも死にきれねぇ」

 

牛若丸は理由も分からずに刀を振り上げていた。

これを振り落とせば全てが終わる、歴史に決着がつく。

 

「そうだよ・・・その感じだ・・・いいぞ・・・そのま」

 

牛若丸にとって瞬時にわかったのは、自分がまだ刀を振り下ろしていないにもかかわらず、

目の前には首のない屍が床に倒れているという事実だった。

 

「・・・義盛の好意を無駄にしてはなりませぬ」

 

牛若丸の代わりに長刀を振り下ろしたのは弁慶だった。

いつの間にか義盛の背後に現れて瞬時に首を討った。

 

そして弁慶は呆然として動けなくなっていた牛若丸の手を取って、

振りかざしていた刀を元どおり鞘に収めて床に投げ捨てた。

 

「・・・だが、牛若様が手を汚す必要もございませぬ」

 

弁慶は手に付いた血を頭の白頭巾で拭った。

真っ白だった頭巾には赤い線の模様がつけ加えられた。

 

「・・・これで源義経は歴史から姿を消した。

 残された時間をどう生き抜くのかは牛若様の自由でございます」

 

弁慶はそう言うと、おもむろに懐から手紙を取り出した。

牛若丸は目の前に差し出された手紙を受け取って読んでみると、

それは北条家の者からの便りであることがわかった。

 

「こちらの手紙については今まで秘密にしておりました。

 今となってお伝えすることをお許しくだされ」

 

弁慶はそう言って深々と頭を下げた。

 

手紙の内容を読んだ牛若丸は、頼朝の本意とは裏腹に、

北条家は義経を恨む気持ちは全くないこと、

平泉を去って世に隠れ住むのであれば命までは取らないことなどが記されていた。

 

「頼朝の妻、北条政子による計らいのようです。

 詳しいことはわかりませぬが、静御前がかのように懇願したという話です」

 

手紙の中には藤原泰衡に謀反の疑いがあること、

衣川館を襲撃する予定になっている話などが語られていて、

北条家は義経の逃亡を支援するので、とある場所まで義経を送り届けることなどが含まれていた。

 

「・・・私にここから逃げろと言うのか?」

 

牛若丸は手紙を片手で握り潰してそう弁慶に告げた。

優しい口調の中に怒気が含まれているのがわかった。

 

「・・・もうこれ以上、台本はありませぬ」

 

弁慶は今までに見せたことがないほど優しい様子を見せてそう言った。

牛若丸はその様子を見ていると、怒気は影を潜め始め、やがて悲しみが内側から溢れてきた。

 

「もうこれ以上、義経を演じ続ける必要はないのです。

 恋をすることもできない誰かの偶像であり続けるなど、元々無理な話なのですから」

 

牛若丸はここに来てやっとの事で本来の自分に戻った。

だが、今まで背負ってきた全てを失ってしまったような喪失感にも囚われた。

一体、自分とは何者なのか、疑問が次々と噴出し、心の戸惑いを処理しきれなかった。

 

「・・・拙僧は、女の一生を奪ってしまうところでした」

 

弁慶は悔いるような様子でそう呟いた。

御仏にすがる時のような、弱い人間の顔をしていた。

 

「拙僧はただ、この浮世の儚い夢を見ていたのでしょう。

 この醜い世を憎みながら、もしや女が世を治めれば何かが変わるのではないかと、

 そんな風に夢を見ながら下手な筆を取り出鱈目な台本を書いていたに過ぎないのかもしれませぬ。

 あの日、素晴らしい役者に出会ってしまった事が拙僧の幸福だったのでしょうな」

 

弁慶が柄にもなく感傷的に過去を振り返る様を見て、

牛若丸は弁慶と過ごした日々が走馬灯のように頭に駆け巡るのを感じた。

 

「だが、牛若様にとってはそれは不幸の始まりだったのです。

 下手な台本を演じ続ける事は、たいそう骨折りであった事ではないでしょうか」

 

弁慶は背中に負っていた弓矢を下ろして左手でつかんだ。

そしてそれを牛若丸に向かってゆっくりと差し出した。

 

「拙僧が差し上げられる物など何もございませぬが、

 この弓矢を拙僧の形見と思ってお持ちくだされ。

 そしてこの弓のように柔らかな美しい名でもつけて、

 牛若丸としての生涯を終え、女としての余生を生きるのです」

 

牛若丸は弓矢を受け取る素振りを見せなかったので、

弁慶は牛若丸の右手を取って無理やりに弓矢を持たせる形になった。

 

「・・・そなたはどうするのだ」

 

震えるような声を喉から絞り出すようにして牛若丸はそう尋ねた。

そう尋ねてから、答えはもうほとんど明白であることにも気づいた。

 

「拙僧は男ですから、男らしく戦場で散るのが花でしょう」

 

そう言って弁慶は牛若丸の腰に帯びていた刀を奪った。

彼女の腰には二刀ほど帯びていて、二刀流の為に長刀と小太刀があったが、

その長刀の方を取り上げる形になった。

 

「・・・牛若様には、刀はもう二本も必要ないのです」

 

弁慶は優しく笑みをこぼしながらそう言って立ち去ろうとした。

館の戸口に向かって歩いていく弁慶の背中を見ながら激情して叫んだ。

 

「・・・ふざけるな!」

 

弁慶はその叫び声を聞いて足を止めた。

激しい足音を立てて近づいてくる牛若丸の存在を感じた。

 

「そなたは何もわかっていない!

 一人で勝手に決めて、それで全てわかったつもりか!」

 

牛若丸は弁慶の後ろまで近づき、

その大きな背中に両手を添えて頬を寄せた。

弁慶は瞬時にしおらしくなってゆく乙女の姿を背後に感じた。

 

「・・・私には、私にはそなたがいなければ意味がない・・・」

 

震える声で赤裸々な告白を終えてから、むしろ男はこんなことはわかっているのだと彼女は思った。

男は女の気持ちになど気づいている、それでいて独断で物事を進めて行ってしまう。

それが優しさであることは頭では理解できるが、別れの寂しさは胸に沁みて苦しくなってしまう。

 

「・・・頼む、行かないでくれ」

 

牛若丸はそう言ったが、少しの間を置いて弁慶は前に一歩進んだ。

目の前から背中が離れ、このまま行ってしまうと思った牛若丸はとっさに叫んだ。

 

「・・・源九郎義経の命令である!勝手な行動は・・・」

 

彼女がそこまで言った時、振り向いた弁慶に突然唇を塞がれた。

瞬時に呼吸が止まった牛若丸は瞳から宝石のような大粒の涙を宙に舞わせた。

そしてゆっくりと唇が離れた時、弁慶は黙ったまま牛若丸の顔を見つめた後で、

そのたくましい両腕でしっかりと華奢な牛若丸の体を抱きしめた。

 

「・・・拙僧が地獄に落ちるのを免れることができたなら、来世でまたお会いしましょう」

 

さよならの言葉を耳にした牛若丸の胸は込み上げてくるもので膨らんでいっぱいになった。

それはいつか別れがくることはわかっていても苦しくて、切なくて、耐え難いものだった。

牛若丸は別れがもたらす甘美さと共に、この世に永遠はないという時間の残酷さを同時に思い知った。

 

「・・・生きぬいてくだされ」

 

そう呟くと、弁慶は走って戸口を出て行った。

弁慶がいなくなって一人取り残されると、

牛若丸は堪えていた寂しさが溢れてきて泣き崩れた。

頼るべき背中を、生きてきた意味を失った悲しみに苛まれ、

生きるとは生命活動ではなく、精神活動なのだということを思い知らされた。

 

「・・・ああっ・・・ううっ・・・」

 

彼女はしばらくの間、全身で泣き続けた。

泣くという行為にただひたすら全力で没頭したのは赤子の頃以来だったと思われた。

だが、そんな記憶のなかった彼女にとっては、これは生まれて初めての感覚だった。

これほど体力を奪われて、迷いなくまっすぐに、ただ誰かの存在を思って狂おしく震える。

今まで積み上げてきた義経としての功績も、惜しみながらなんとか逃げ延びてきた生命も、

一人の人間としての誇りも、男と女の狭間で苦しんだ過去も、全てが遠い彼方に置き去りにされた。

彼女の存在は悲しみそのものであり、滴り落ちる涙の雫と一体となっていた。

 

泣く以外に何もできずにただ座り込んでいた牛若丸であったが、

やがて衣川館の外に敵が近づいてきたのが物音からわかった。

そして時を同じくして遠くの方から叫び声が聞こえてきた。

 

「拙僧は熊野の別当湛増の子、武蔵坊弁慶と申す!

 命を惜しまぬ者から順にかかってこい!」

 

それが牛若丸が聴いた弁慶の最後の言葉だった。

やがて目の前の戸口にぶつかるような物音がしてそちらへ目を向けた。

大男の背中がぶつかってはまた前に向かっていく、そしてまた背中を戸口に打ち付けられる。

多勢に無勢の状況で、まるで山に現れた熊を射止めるように無数の矢が彼を襲ったのである。

だが、弁慶は決して膝をつくことはなかった、やがて抵抗する音が消えた時、

彼は立ったままで絶命したが、無情にも絶命して抜け殻となった彼にまだ次々と矢が突き刺さった。

もはや外からは叫び声もなく、ただ矢が突き刺さる単調で生気のない乾いた音だけが響いていた。

 

牛若丸は、気づいた時には叫び声を上げながら裏口へ向けて走っていた。

ただ無心で足だけが動いていた、生命を保存させる本能のままにただ逃げた。

人間とは考える足ではないかと思えるほどに、むしろ牛若丸の意識は走る足そのものになっていた。

やがて裏口の戸を開けると、衣川館を囲んでいた数人の武者達の姿が見えた。

 

「生き残りがまだいたぞ」という声が空に響きわたり、

近くにいた武者達の中でわずかに駆け寄ってくる者もあった。

しかし、牛若丸が来ていた鎧は義盛の物であったこともあり、

武者達はこれはどうやら本命の義経ではないと思った。

むしろこれは義経の逃げ道を確保するための囮であるという可能性を考えたのか、

林の中へ逃げ込んだ牛若丸を追ってくる者は誰もいなかった。

 

誰も追っ手が来なくなってからも、牛若丸はひたすら走り続けた。

樹々の間を勢いよく駆け抜けていきながら、勢い余って時には転びそうになった。

それでも立ち止まることなく、ひたすらに彼女は走っていた、生きるために。

 

 

・・・

 

 

目を開けた時、牛若丸はどこかの林の中に倒れて空を見上げていた。

すっかり降りた夜の帳に、まだ満ちていない若い月と星が瞬いていた。

 

頬に涙が乾いた痕があるのがわかった。

体を起こすのが面倒で、彼女はただぼんやりと空を眺めていた。

 

柔らかい月の光が樹々の間に差し込み、側に立つ大樹を照らしていた。

木の葉が月光を反射するように輝きながらその命を揺らしていた。

 

息を吹きかければ落ちてしまいそうなその木の葉を見つめているうちに、

牛若丸は枯れ果てていた涙が再び溢れてくるのがわかった。

風に揺れながら、木の葉は牛若丸の眼前にまだゆらゆらと垂れ下がっている。

 

(・・・まだ私は生きている・・・)

 

頬を伝う涙が温かいことに気がついた。

生死の狭間を彷徨い、今まで抱えていた物、ずっと求めていた物、それら全てを失ってもまだ生きていた。

 

牛若丸はそっと目を閉じてみた。

瞼の裏側には長身で頼もしい弁慶の姿が鮮やかに映った。

その姿が鮮明であればあるほど、彼のいない事実を強く意識させられた。

また目をそっと開いた、牛若丸は夢から覚めるようにして空を見つめた。

 

どんな時でも後悔などしない。

後悔は自分が認めなければ起こらない現象だ。

そんな風に思ってきた牛若丸であったが、

その観念がいかに脆く儚いものであったかを思い知った。

想像もしなかった辛い現実がのしかかってきた時、

人はひたすら黙って歯を食いしばって耐えるほかないのかもしれなかった。

 

ひっそりと静まり帰った山林の中で、耳に飛び込んでくるのは鳥の声だけだった。

その鳴き声は遠くから悲しみを伝えるような響きを帯びていた、ふくろうだ。

虚しく空になった牛若丸の胸を満たしたのは、又しても中身のない空虚な音だけだった。

詰まっても詰まっても空っぽで、胸に秘めた夢さえも中身は空洞だったように思えた。

 

(・・・なぜまだ生きているのだろう・・・)

 

牛若丸は、生きるという日々の中には意味がたくさん詰まっていたことを静かに悟った。

何も考えずに生きていた時、そこには中身が詰まっているなどとは考えたこともなかった。

だが、今の牛若丸からは生きるための意義が全て剥ぎ取られてしまった。

それによって、今までの生活の中で何となく積み上げてきた無意識の欠片達が、

静かに心の中に堆積して、それが自分を形成してくれていたことに気がついたように思えた。

それは誰も気づかない日々の小さな喜びや悲しみであったり、

側にいる誰かとの些細なやりとりや絆であった気がした。

もし無人島へ行くなら持っていきたい夢というものは、

たくさんのそういった断片が詰まっているものだった。

決して自分一人で思い描いた空想的な産物ではなかった。

 

 

牛若丸は考えるのをやめて、ふと寝返りをうった。

そこに花が咲いているのを見つけた。

名前も知らない、この世にひっそりと咲く花だった。

それでもその独特な形や鮮明な色はとても美しく、

どうして誰にも見つかることがないのかと不思議に思えるほどだった。

 

牛若丸は再度寝返りを打ち、その勢いで体を起こした。

肉体に生命の感覚が戻り、手足を自由に動かせるという自信に満ちた。

 

そうして名もなき花をしばらく見つめていると、

向こう側の林から物音が聞こえた。

追っ手かと訝しく思い、牛若丸は木の後ろに隠れて様子を伺った。

 

「・・・牛若様でございますね、北条家の者です」

 

暗闇の向こうからそのような声がするのを聞いた。

まだ半信半疑で木の後ろから出てこずに黙っていると、

暗闇から歩いてくる人影が見えた、怪しい者ではなかった。

 

「約束の場所にいつまで経っても現れず、

 衣川館が襲われたという知らせがありまして、

 それであたりを捜索させて頂いておりました。

 見たところお怪我はないようで、ご無事でなによりでございます」

 

まさか心の中身は激しい傷を負っているなどとは夢にも思うまい。

人は外見からは精神の働きなど何も観察することはできないのだと牛若丸は思った。

そして、今回に限ってはそれで好都合だと思った、何も知らないでくれた方が楽だった。

 

「・・・わざわざ迎えに来てくれたのか、かたじけない」

 

木の後ろから姿を見せて、牛若丸は丁寧に礼を述べた。

追っ手を逃れたとはいえ、仲間達を全て失った彼女にとって、

今後は北条家に頼らなければやっていけないことは明らかだった。

どんな未来が待っているのかは、牛若丸にも全くわからなかったけれど。

 

「そのような男の口調をしなくとも大丈夫でございますよ。

 政子様より伺っております、牛若様は女であると。

 女であるからこそ、政子様もあなた様をお許しになられたのですから」

 

自分が女であることを知られているのは気持ち悪く感じたが、

弁慶の言ったことを信用すれば、おそらく静御前が北条政子に話したのだろうと思った。

 

「・・・この話し方はすぐには改められない、もう慣れてしまっているからな」

 

少し照れくさそうに牛若丸は言った。

自分の演じ続けてきた義経の名残は、すぐに消えるものでもなかった。

それこそが何よりも確かな今日までの現実だったのだから。

 

「それよりも、静御前は今どうしている?」

 

「・・・どこで何をしているとは言えませぬ。

 政子様はお命こそ救いになられましたが、静御前も牛若様も夫である頼朝様の敵なのです。

 あなた様にとって確かなことは、もうあのお方と再びお会いする事はできないということでございます」

 

牛若丸はそれを聞いて静かに目を閉じた。

瞼の裏に浮かぶ静御前の姿にも心の中で密やかに別れを告げた。

もう人生で再び交わることのない事実こそ明らかだったが、

死別ではないという事実が、まだ牛若丸の頭の中で祈りとなって微かに残った。

共に生きているという事実だけが、まだ胸に温かなぬくもりをくれた。

 

「悲しい事実かもしれませぬが、ご辛抱くだされ。

 ただ、それ以外にまだあなた様にとって確かなことは何一つございません。

 今夜はもうこのあたりでゆっくりとお休みになられますか?

 何しろ、明日からどこへ向かうのか、我々もまだ決めかねているのです。

 ここまでやってくるのに精一杯で、お恥ずかしながら何も台本は準備できておりませぬ」

 

北条家の従者は申し訳なさそうにそう言った。

京の都へ戻れば見つかってしまうかもしれない。

だが、鎌倉へ近づくのも危険であった。

彼女に残された道は、誰も踏み入れない未開の地、

遥か北の大地に茫漠と広がる蝦夷地くらいのものであった。

追っ手から逃げるにも、新しい地を行くにも、

綿密な計画がなければ明日はどうなるかもわからない。

 

「・・・いや、すぐにでも出発しよう」

 

牛若丸は辺りに落ちていた弓矢を拾ってそう呟いた。

逃げていた時の記憶はよく覚えていないけれど、

弁慶から預かった弓矢は失くさずにずっと握り締めていたのだ。

 

「今すぐでございますか!?

 しかし、さきほど申し上げたように、

 これから先のことはまだ何も準備はできておりませぬ・・・」

 

「・・・今、さっき、これから・・・」

 

牛若丸はそう呟いて微かに笑った。

 

「・・・これらの言葉の境界線はとても曖昧ではないか。

 儚いものだ、気づいたら今なんてすぐになくなってしまうよ」

 

牛若丸の身体にはまた何か力が湧いてくるのがわかった。

それはどこからやってきたのか、出処は確かではなかった。

だが、空っぽになったはずの心に、確かに生きる意味が詰まっていくような、

そんな温かな希望みたいなものがふわふわと浮かんでいるような気がした。

 

「・・・何をおっしゃられているのでしょうか?」

 

従者には牛若丸が経験してきた詩的な感情を理解することはできなかった。

そう言ったものは、基本的には本人以外わかりようもないものであるが、

他人であっても見える人には見えるが、見えない人には永久に見えないものだ。

 

「台本。

 それはもう、置いてきた。

 今から始まる物語は台本なんてないのだから」

 

牛若丸は弓を強く握りしめ、空に浮かぶ月を見上げた。

その月の明るさに牛若丸が見たものは微かな祈りと約束だった。

それだけが、それこそが今の牛若丸を前に進ませる生きる力だった。

 

 

・・・

 

 

文治5年(1189年)、世間を騒がせた源義経の名が歴史から消えた。

衣川館で発見された義経の屍は彼の物であると断定され、

頼朝はそれをもって義経の捜索を終えることになった。

 

やがて頼朝は義経を長く匿った罪を問う形で、

義経を裏切った藤原泰衡を討つことになった。

結局、藤原泰衡は頼朝によって滅ぼされることとなる。

 

こうして奥州の脅威を取り除いた頼朝は、

やがて歴史的に有名な鎌倉幕府を開くことになった。

良い国を創ろうと世間には聞こえのいい噂を幕府は流したが、

そこに埋もれた数々の悲劇の影があることは誰の目にも明らかだった。

 

源義経を演じていた牛若丸の行方は誰も知らない。

だが、京の都で判官を務めていた彼を名残惜しむ声は止まず、

後の時代には義経は蝦夷地(北海道)へ逃げたのではないかと噂が立つようになる。

そして「判官贔屓」という言葉までが現代まで語り継がれるようになった。

理不尽な弱い立場に置かれやがて敗れ去っていく者に対して、

民衆の期待と同情の視線はいつも向けられている。

だが、民衆がその期待と同情を力に変えて立ち上がるには、

まだ長い年月が必要とされるのかもしれない・・・。

 

 

・・・

 

 

 

 

 

「ぬわぁぁぁぁぁ!!」

 

落下するあの感覚はジェットコースターに特有ではなかった。

宙に浮かぶ感覚を瞬間的に味わい、真未の身体は重力に逆らう術をなくした。

 

さらに厄介なことに、落下してから身体を床に打ち付けた。

お尻を強く打ち、さらに腰も強打した。

 

「あいたたた・・・」

 

床に打ち付けた箇所を手でさすりながら、

重たい瞼を開けると、目の前の鏡に自分の姿が映っていた。

そこには髪の毛がボサボサで、手で痛めた腰をさすっている自分がいて、

その後ろにはベッドがあり、どうやら真未は寝返りを打ってそこから落下したらしかった。

 

「・・・やばっ、なんか目がしばしばする」

 

寝ぼけながら両手で重たく疲労した目を抑えながらマッサージをしていると、

部屋の隅からガタガタという音が聞こえてきた。

物音のする方を見ると、そこにはケージが置いてあり、

飼っていたペットのジャンガリアンハムスターがこちらを見つめていた。

 

「・・・義経」

 

彼女のペットであるジャンガリアンハムスターの名前は義経だった。

一人暮らしで「Bar Kamakura」の店長をしている北条真未にとって、

寂しさを埋めてくれる義経の存在は家族に等しいものだった。

 

真未はボサボサの頭を手で掻きながら、

四つん這いで這いながら義経のケージへ向かった。

 

「・・・ちょっと、あんたのせいで変な夢見ちゃったじゃない、どうしてくれんのよ」

 

ケージを開けた真未は中に手を入れて義経に触れようとしたが、

義経は真未の手を怖がるようにして逃げ回り「ジィジィ」と鳴いた。

 

「なーにー、怒ってんの?

 怒りたいのはこっちだっつーのよ。

 朝からめっちゃブルーな夢見ちゃったんだから」

 

真未はそばに置いてあったハムスター用の餌であるチーズの欠片を手に取った。

それを手の平にのせて右手を義経の前に差し出すと、義経は喜んで手に乗ってきてチーズを食べた。

 

「何、お腹空いてたから怒ってたの?

 全く可愛げのないやつなんだから。

 ちょっとは飼い主を見習って可愛らしくなったらどーお?」

 

そんなことを言いながら、しばらく義経を手に乗せて遊んでいたが、

そうしている間に、真未はだんだんと昨夜のことを思い出して腹が立ってきた。

彼女の視線が向けられたのは、ベッドの上に乗っていた枕だった。

 

機嫌よくチーズを齧っている義経を刺激することなく、

ゆっくりと立ち上がった真未はベッドまで歩いて行った。

そして片手で枕を取り上げると、床に置いていた枕を入れる袋も手に取って、

また義経のケージの近くまで戻って床に腰を下ろした。

 

枕を膝の上に置いて柔らかさを確かめてみた。

手に確かな弾力があり、そんなに悪くない感触だった。

だが、昨夜見たあの悪夢を思うと、真未は原因をこの枕のせいにしたくなった。

 

この枕は先日、Bar Kamakuraの近所にあるカフェ・バレッタで友人とランチを食べた時、

お会計の時に何の気なしに回したガラガラで当たった景品だった。

カランカランというハンドベルみたいな音が店内に鳴り響いた時、

真未の友人はとても羨ましそうに真未を見たような気がした。

そして、店内の視線を一身に集めた真未は、まんざら悪い気もしなかった。

 

店員の女の子から渡された景品は予想に反してなんと枕だった。

グァム旅行でも当たったら豪華なプールの前でおへそなんか出しちゃうような、

ちょっと大胆な格好でもして友達と写真でも撮ってやろうと、

そんなバカンス野郎な妄想を浮かべていただけに枕という結果は、

真未にとって期待を裏切られた失望だったのは間違いなかった。

 

だが、店内の注目を集め、友人も羨ましそうにその枕を見つめていたので、

真未は「なんだ枕かぁ」と言いながらも悪い気はしていなかった。

最近、大人気アイドルである児玉坂46も何やら枕の宣伝を行っていたし、

店員の女の子に手渡された枕の袋も、なかなか豪華な枕らしい様相をしていたからだ。

 

「やばい、真未これでお姫様になる夢見ちゃうかも~」と言いながら友人とはしゃぎ、

期待に胸を膨らませて眠った結果が今朝の悪夢であった。

 

真未は枕を膝の上に置いたまま、枕が入っていた袋を手に取った。

そこには枕のブランド名である「ZENSE」と書かれた文字の入った紙が付いていて、

枕の性能やコンセプトなどが事細かに表記されていたので真未はそれを熱心に読んでみた。

 

 

 眠りの世界に革命を

 The revolutionary sleep

   

 眠りの世界に、最高の革命を届けるために

 

 

その時「ジィジィ」という義経の声が聞こえ、真未は袋の中からもう一つチーズを取り出した。

義経にそのチーズの欠片を与えていると、その鳴き声はやんで静かになった。

真未は枕の上に義経を置いてその柔らかな毛を撫で続けていた。

 

 

 「最高」の睡眠革命をサイエンスに基づき実現すること

  それがZENSEの設計思想であり、不変の理念です。

 

 

キャッチコピーを読んでいる途中で携帯電話のアラームが鳴り、

真未は手探りで音のする方を探して掴んだ携帯のアラームを切った。

この枕のせいで予定よりも早く起きてしまったのだなと気づいた。

携帯を床に置いて、手はまた義経の柔らかい背中に戻した。

 

 

 「ZENSE」は最高の睡眠をお届けする製品の追求のため、様々な実証実験を続けてきました。

  今回は多くの人々が関心を寄せる「夢」に着目。

  朝起きた時に夢の内容を忘れてしまった、という残念な結果を防ぐため、

  枕を研究しながら夢を鮮明に覚えていられる最高の寝心地を追求いたしました。

 

 

「どこがだよ、ベッドから落ちただろうが」と鼻息を荒くしながらも、

真未はその説明書きが書かれた紙を持ってとにかく読み進めた。

反対の手で触れている義経の柔らかな毛並みによって幾分の癒しをもらい、

その怒りをなんとか抑えることができたのだった。

 

 

 「ZENSE」の枕は頭の高さをキープする弾力性に富んだ設計を行なっており、

  それによって眠っている時にまるで長い夢を見ているような状態を引き起こす力があります。

  そして、そこで見た夢はまるで現実世界で起こったことであるかのように非常に鮮明で、

  あなたはまるで素晴らしい演劇を見たかのような感動を覚えることは間違いありません。

  起きてからもその興奮は冷めることなく持続し、きっとあなたをワクワクさせるでしょう。

 

 

やばい、この悪夢は冷めることなく持続してしまうのか。

真未は説明書きを読んだことを少し後悔したが、

非常によく考えられて作りこまれた上質の寝具であることはよくわかった。

だが、どうして自分はこのような悪夢を見たのかは全く腑に落ちなかった。

義経はまた「ジィジィ」と鳴き、静かにさせるために手探りでチーズを掴み、

また義経の近くに置いてやった、真未はまだ続きが残っていた説明書に没頭している。

チーズを食べている義経を撫でる、毛並みはやはりふわふわでこの枕なんかより断然心地よい。

 

 

 「ZENSE」は多くの利用者様からのリクエストにお答えするべく、

  様々な独自の技術の開発を進めております。

  これまでにも様々なシリーズを開発してきましたが、

  今回の枕には特別な技術を応用し、利用者様の前世の姿が見られる工夫を施しました。

  人は何度も生まれ変わってこの世に姿を現しますので、

  これまでに無数の生命を生きてきたことになります。   

  そんな誰もが気になるあなたの前世の姿を、少しだけ覗けるのがこの枕の特徴です。

 

 

真未は袋から取り出してつまんでいたチーズの欠片を枕の上に落としてしまった。

チーズの欠片を求めて、義経は真未の手を離れてもぞもぞと動き始めた。

やがてチーズの欠片を見つけた義経は満足げにそれを齧り始めた。

真未は視線を落としていた説明書きを見つめて目が点になってしまった。

 

「・・・ええっ~!」

 

真未は思い出していた。

夢の中で見た北条政子の顔が自分にとてもよく似ていたことを。

もしこの説明書に書かれていることが真実であるならば、

真未はお姫様になる夢は見れなかったが、将軍の嫁である夢は見たことになる。

そしてそれが自分の前世の姿であるならば、もっと続きが見たいと思うのが人の性である。

 

「・・・ていうか、本当に少しよね」

 

説明書に書いてあった「最高の睡眠」やら「最高の寝心地」などは嘘ばっかりなのに、

最後の箇所の「少しだけ覗ける」がやけに正確すぎて可笑しかった。

自分の前世である北条政子が登場したのは少しだけで、

あとはほとんど義経の物語だったじゃないか。

そういえば、美人だったあの静御前も、TVで見た女優さんか誰かに似ていた気がした。

もしかすると、その女優さんの前世の姿があの静御前だったのかもしれないと思った。

 

(・・・あの夢の中の義経は誰の前世だったんだろう・・・)

 

長い夢に登場したあの女版の義経とは一体誰だったのか。

その疑問がひょいと湧いてきた真未は、ハッとして自分のペットのジャンガリアンハムスターが頭をよぎった。

 

「義経・・・お前・・・まさか・・・」

 

説明書に夢中になっていた真未は、ふと反対の手で義経の毛並みを触ろうとしたところ、

なぜか湿った感触が指先に付着したことに気がついた。

ふと指の先を見ると、枕カバーが黄色く変色していることに気がついた。

 

「義経・・・お前」

 

枕の上におしっこしたのにもかかわらず悪気のない可愛い表情で、

義経は鼻先をフンフンさせながらチーズの欠片を探して床を歩いていた。

 

真未はとりあえず、義経を捕まえて叱りつけた。

そしてお腹のあたりから下を確認し、性別は間違っていなかったことを確認した。

 

 

・・・

 

「売ってません」

 

バレッタの看板娘、未代奈は強い口調でそう答えた。

真未があの枕の販売している店を尋ねた時のことだ。

 

「もうガラガラは終わりました」

 

こちらも断言するような強い語気で答えた未代奈のセリフだ。

真未がまたガラガラをしたいんだけど、と尋ねた時の返答だ。

 

時々、舌足らずな可愛さを覗かせる喋りかたであるものの、

彼女の言葉の強さは、常人のそれを遥かに超えていた。

それが彼女を幾分ミステリアスにしていたし、

不思議な魅力にも繋がっていたのだと思う。

 

「教えられません」

 

真未がめげずに枕のメーカーに問い合わせたいから連絡先を教えてくれと尋ねた時。

たかが景品の仕入れ先をそこまで秘密にする必要などあるだろうか?

とにかく、真未は彼女の背骨は鋼鉄でできていると思った。

何かどうしても折れない超合金のような一本筋が彼女の体には通っている気がした。

 

「もうガラガラはしません」

 

何度目の問いかけだったろうか?

真未はいちいち数えてはいなかった。

数えてはいられないくらいに興奮していたのかもしれない。

だが、こちらの熱量を冷ますように、同じトーンの非常に丁寧な口調の、

それでいて激しくて突き刺さるような返答を彼女は幾度も返してきた。

 

さすがにもう真未の心の方が先に折れた。

とんでもない若者が児玉坂の町に住んでいるのだと思った。

さすがに児玉坂の町のセンターに構えているお店だと思った。

町の中心に立つ不思議な魅力を備えているお店だからこそ、

すぐにこれほどの人気店になったのだろう。

もちろん、Bar Kamakuraだって常連さんは多く、

ジャンルは違えど負けてはいなかったのだが。

 

 

真未はカフェ・バレッタを出た。

 

 

・・・

 

 

義経は一夜でいったいどれだけの水分を取ったのだろう?

真未は義経のケージに取り付けている水飲みボトルを確認したが、

そんなにたくさん飲んでいたようには見られなかった。

 

だが、あの枕は水分をたくさん吸収する成分で作られていたのか、

義経がしたおしっこはまたたく間に全体に広がってしまい、

黄色い大きなシミになって取れなくなってしまった。

 

真未は激しく後悔した。

義経にチーズをやる時にうっかり目を離した自分を。

どうしてあんなレアな枕の上を自由に這わせておいたのだろう。

 

彼女の葛藤は、この枕を再び使うかどうかだった。

おしっこが染み込んだ枕は悪臭がこびりついてしまったし、

どこから見ても不自然な黄色いシミが取れなくなってしまった。

ひっくり返せば使えるのではないかとも考えたが、

寝ている時の頭の高さを適切に調節させるためには、

逆にしては使えないという商品の欠陥に気づいた。

また、枕カバーも専用の物を使わなければなぜか効果を発揮しないらしく、

せめてカバーを変えようにも、その専用枕カバーの購入先がよくわからなかった。

だからこそ、彼女はバレッタに寄って未代奈に販売店などを尋ねたのである。

 

結局、枕メーカー「ZENSE」はどこにも見つからなかったし、

インターネットで検索してもヒットしなかった。

真未は諦めて枕を使いつづけるかどうかに思考を戻したが、

悪臭を放つ枕に顔や髪の毛を埋めて眠るのはやはりどうかと思った。

起きた時に髪に臭いがこびりついていたりでもしたらシャレにならない。

そこはレディである自分自身のプライドがさすがに勝った。

 

バレッタを出た後も、真未は一人で枕のことを考え続けていた。

昨夜見た夢の鮮明な映像は今も脳裏に焼き付いて離れない。

義経の役割を終えた牛若丸は、その後どうなったのだろうか?

北条政子である自分の前世は、あの牛若丸に救いの手を差し伸べたのだけれど、

牛若丸の激動の生涯の一部始終を見てしまった真未にとって、

悲劇のヒーローとなって消えていった牛若丸への強い同情心がぬぐいされなかった。

 

(・・・やっぱりあの枕、また使ってみようかな、あの夢の続きが見れるかな・・・)

 

ぼんやりとそんなことを考えながら、真未がやってきたのは児玉坂の人気のお店、

洋菓子店パティスリー・ズキュンヌだった。

 

「いらっしゃいませ~♡」

 

店内から甘ったるい声が響いてきた。

このお店に入ると店員さんはいつもこんな感じの声を出す。

それは店長の方針であってスタッフをきちんと教育している結果だった。

 

「あっ、真未~♡」

 

その中でもひときわ明るい声が聞こえてきたのは喫茶スペースからだった。

少し前にはテイクアウトの販売店だったこのお店は、以前はまだ喫茶スペースはなかったのだが、

この明るい声の主である店長の春元真冬がTVに出演するようになってからというもの、

売り上げはうなぎのぼりになり、お店は思惑通りに拡大を続けていったのだ。

 

お店の入り口に立っていた真未に駆け寄ってきたのは店長の真冬だった。

彼女はその名前とは裏腹に、四季を問わずいつも賑やかで元気だ。

 

「嬉しい、また来てくれたの♡」

 

「あんたさぁ、そんな接客態度、女子には逆効果だからね」

 

枕の件で少しイライラしていたのか、真未は少しツンの態度をとった。

それでもこのお店に立ち寄ったのだから用事があるのだ。

 

去年のクリスマスに食べたケーキが予想に反して美味しかった。

やがて真未はTVに頻繁に出るようになった真冬を見てこのお店のことを知ることになった。

Bar Kamakuraから目と鼻の先にあるお店だと気づいた真未は、

それからというもの時々このお店でケーキを買うようになったのだった。

 

「えっ、そんなつもりじゃ・・・」

 

あざとい計算が得意な真冬も、時々心の底から天然で喜びを表すのだが、

普段が普段だけになかなか理解してもらえない。

イソップ童話の「オオカミ少年」のような立場になってしまっていた。

 

「まあでもそれはさぁ、真冬があざといからしょうがないよね」

 

二人の間に割り込むように喫茶スペースの方から声がした。

椅子に座ってこちらを見ていたのは坂田花沙という女の子だった。

 

「あれ、あんたたち知り合いなの?」

 

真未は驚いた声をあげて二人を見ながらそう言った。

 

上から読んでも下から読んでも同じ読みになる坂田花沙は、

時々、真未のお店に飲みに来てくれる常連さんだった。

そういえば花沙はいつもデザートにやたら詳しく、

来るたびにどこそこのケーキが美味しかったとか、

あそこのデパートで売ってるやつはレアだとか、

そういう類の話を無差別テロのように残していく。

おかげで彼女がそういう話をした後には無性にお腹が空くのだ。

 

「花沙はよくお店にケーキを食べに来てくれるのね。

 それから同じ女子校出身だったから仲良くなったの♡」

 

そういうことかと真未は思った。

 

「そうなんだ~真未も真冬のケーキ食べに来てたんだね」

 

花沙も真未と真冬が知り合いであることに驚いたようでそんなことを言った。

児玉坂の町は狭いのだから、こういうことはしばしば起こりうることだった。

 

「いや、まあ立ち寄ったのは偶然だけどね」

 

真未は照れ隠しのためか偶然を言い訳にした。

「もう~なんでよ~」と真冬は不満を述べた。

 

「まあケーキには罪はないしね、店長はアレだけどさ」

 

真未のその言葉に花沙は「わかる~」とはしゃぎ、

真冬は「もう!」っと怒ったふりをしたが全然怖くなかった。

 

 

・・・

 

 

出勤前に立ち寄ったズキュンヌで、真未はケーキを買うつもりでいた。

お店で働く女の子やお客さんに大人気のズキュンヌのケーキはハズレがない。

お土産として持参するにはぴったりだったからだ。

 

冷蔵ショーケースに並んだケーキの中からいちごの乗った生クリームのショートケーキを選び、

真未はその支払いを済ませてケーキが箱に入れられてラッピングされるのを待っていた。

「生ものですのでお早めにお召し上がりください」と言った店員の女の子に、

「店長の生写真とかは入れないでね」と真未は念を押した。

ちょっと困ったような表情を浮かべながらも店員は手に持っていた生写真を引っ込めた。

このお店は教育というか、洗脳が隅々まで行き届いているなと真未は思った。

 

「邪魔するよ~」

 

真未がレジの前でケーキを待っている時、お店の入り口のドアが開いた。

入ってきた女性の姿を見た真未は口を開けたままで絶句した。

 

(・・・牛若丸!)

 

時が止まったように立ちすくんでいた真未を尻目に、

入ってきた女性に駆け寄っていったのは真冬だった。

 

「あー!久しぶりー♡」

 

お客さんが来るたびに駆け寄るこのスナックかキャバクラみたいなやり方はどうにかならないのかと真未は思った。

スナックとよく勘違いされる真未のお店でもこんなことはやっていない。

 

「あれっ、若じゃん、久しぶり」

 

そう声をあげたのはテーブルでケーキを食べていた花沙だった。

真冬と花沙は共に入ってきたあの女性に対して声をかけたことになった。

 

「えっ、花沙も若杉と知り合いなの?」

 

「嘘っ、なに真冬も若のこと知ってんの?」

 

世間は狭いんだなと真未は思った。

児玉坂に住んでいる住人はみんなどこかでつながっているのだろう。

 

 

・・・

 

 

「あれっ、なんだ君たち二人は知り合いだったのか」とその女性は言った。

とても中性的なルックスをしているそのショートカットの女性は、

まさしく真未が夢の中で見た牛若丸の姿に瓜二つだった。

 

「あっ、いいよ、さっき一人でティラミスパンケーキ食べてきたから」

 

真冬が直々に飲み物とケーキを用意しようとした時、

この女性はそう言って丁重に断った。

一人で食べてきたティラミスパンケーキは寂しかったけれど、

ある意味ではとても美味しかったよ、ということらしい。

 

どうやら若杉佑紀という名前らしいその中性的なルックスを備えた美人は、

真冬や花沙とは古い友人であるらしく、とても近い距離でフレンドリーに話していた。

 

「変わったねー、お店少しおっきくなったんじゃない?」

 

椅子に座ってから辺りを見回しながら佑紀はそう言った。

側からその様子をチラ見していた真未はやましい思いに心臓の鼓動が速くなるのを感じた。

 

「えっ、なに、若ってこのお店に来たことあったのー?」

 

花沙が持ち前の旺盛な好奇心でそう尋ねた。

その口調から二人が出会ったのは久しぶりであったことが読み取れた。

 

「あるよー、あれはまだ開店したての頃だったかな?

 あの頃はこんな喫茶スペースも表に立ってるマスコット人形みたいなのもなかったよね。

 すごいじゃん真冬、短期間でこれだけ拡大させるなんて」

 

「えっ、若ってテレビ観てないの?」

 

花沙は驚いた様子でそう尋ねた。

最近は知的なクイズ番組や教養番組にまで出演するようになった真冬の活躍を佑紀は全く知らないようだった。

児玉坂の町の住人であれば誰もが知っていて当然の常識であったはずなのに。

 

「ごめん、全然観てなかった」

 

佑紀は申し訳なさそうに右手でごめんのポーズをとってそう言った。

その仕草を見ていた真未は、それが少しばかり男性のような仕草にも思えた。

なんだか男前な雰囲気を漂わせていることは間違いないと思った。

 

「若杉は忙しいからきっと観てないと思ってた。

 だってあれ以来どこで何してるか全然わかんなかったから。

 噂ではブロードウェイに行ってきたとか、橋の上で絵やポエムを書いてたとか、

 2LDKの部屋で誰かと共同生活をしていたとか、蛇を首に巻いてボイパしてたとか、

 もうみんな言ってることバラバラで何が本当か全然わかんないんだもん」

 

真冬は友人やお客さんから聞いたことのある噂を全部並べたてた。

まるで一貫性の感じられない風の噂に、真冬は戸惑いを隠しきれなかったのだ。

 

「嘘っ、マジで、えっ、めっちゃすごいんだけど!

 それってどこまで本当なのー?」

 

花沙のテンションが上がってきたのが見ていてわかった。

女子校のテンションというのはこういうものなのかと真未は黙って観察を続けていた。

 

「え~とね、一応は全部本当だよね」

 

佑紀は照れ臭そうに少しはにかみながらそう答えた。

「えーっ!!」と声をそろえて花沙と真冬は驚いていた。

 

「あとね、ロボットダンスってのもあったかなー」

 

笑いながら佑紀はさりげなく言ったが、二人は「えーっ!」と声を出して驚いていた。

もちろん、二人の反応の方が正常であったのは言うまでもない。

 

「一応ね、こういう新作もあるんだよ」

 

そういうと佑紀は嬉しそうにおもむろに懐から何やら取り出した。

それを横目で見ていた真未は自分の目を疑った。

佑紀が懐から取り出したのが割り箸と箸袋だったからだった。

 

「・・・あっ!」

 

とおもわず大きな声を上げてしまい、真未は右手で自分の口を塞いだ。

その声を聞いていた佑紀と真冬と花沙はそちらの方を振り返った。

 

「・・・あっ、しょ、ショートケーキのいちごは抜いてください!

 ほら、お客さんでいちごアレルギーの人がいるんだよね、だから・・・」

 

準備をしていた店員さんに対して、真未はとっさに意味不明なことを口走ってしまった。

そして店員さんはとても不思議そうな顔をしてケーキの上のいちごを全て撤去し始めた。

それだったら初めからいちごの乗っていない別のケーキを買えばよかったのに。

ケーキのラッピングも終わりかけていたはずが、店員さんは全てを初めからやり直すことになった。

 

うまく三人を観察する時間を稼いだ真未は、さらに口笛でも吹いてごまかしかねない勢いだったが、

そこまで行くと不自然きわまりないので、ひたすらに髪をくるくると指でいじりながらごまかした。

こちらを向いていた三人は特に何も気にしなかったようにまた話を続けたようだった。

 

「ゴホン、じゃあ行きますね」

 

そう言って佑紀はおもむろに箸袋から割り箸を抜いた。

その姿はまるで鞘から刀を抜く牛若丸に瓜二つだったのを真未は見逃さなかった。

 

「箸くん、箸くん、こないだ一緒にいたあの粋な女は誰だい?」

 

これが悲劇の始まりだと言うことがわかっていたのはその中で真未だけだった。

真未は自分だけが知っている未来予想図を誰かに告げたくて仕方なかったけれど、

まさか前世を見たなんて不思議ちゃんな展開を上手く説明できるはずもなく、

とにかく見て見ぬ振りをしながら右手で自分の口を必死に抑えていた。

 

「いやいや、粋な女となんて一緒にいないよー」

 

真冬と花沙は奇妙な佑紀の割り箸芸を真剣に見つめていた。

ここからどんなすごいことが起こるのだろうと期待に胸を膨らませながら。

 

「いやいや、いただろうあの年増の女」

 

その時、真未の目の前でいちごを撤去していた店員さんの足がもつれて転びそうになっていた。

真未は前後共にとんでもない状況になっていく様を見てはいられなかった。

 

「ああ、あれね、あれは・・・お袋さ」

 

割り箸を箸袋に持ち替えて、佑紀はその決め台詞を言い放った。

その時、レジの横では転んだ店員さんの腕が準備していたホールのショートケーキに当たった。

ケーキはつるりと作業台の上から滑り落ちた後、床に衝突して哀れにもぺしゃんこに潰れてしまった。

 

「・・・大丈夫!?」

 

喫茶スペースに座っていた真冬は店員を心配してすぐにレジの方まで駆けつけた。

「すみません、すぐに片付けます」と何が起こったのかわからなかった真面目そうな店員は、

真冬と真未に謝罪をしながら床に滑り落ちたケーキを片付け始めたのだった。

これで真未がケーキを買って帰る時間がまた遅れたことになる。

 

レジの方から戻ってきた真冬がまた席に着いた。

決め台詞を言った瞬間の惨事だったので、佑紀は面白さが伝わっていないかと心配になった。

 

「・・・ごめんごめん、なんかバイトの子がケーキ落としちゃったみたいで」

 

真冬はお店側のミスのせいで割り箸芸を台無しにしてしまったというニュアンスを伝えた。

しかし、実は本当は何が起きたのか、賢い真冬には全部わかっていた。

わかっていてあえてこういう風に言えるのだからさすが真冬だったと言える。

 

「・・・もっかいやった方がいいかな?」

 

佑紀はいまいちユーモアが伝わらなかったかと真面目に再演を提案したが、

真冬も花沙も、さっきから食べていたケーキのせいか、もういろんな意味でお腹いっぱいだと思った。

 

「・・・あー、なんだろう、ほら、あんなところに粋な女がいるよー」

 

花沙はごまかすために真未を指差してそんなことを言った。

花沙も敏い子なのだが、幾分そのやり方に真冬よりも毒があった。

真未は巻き込まれたくないためにその言葉が聴こえていないふりを貫いた。

しかし、夢の中で見たあの箸芸と同じこの割り箸芸を見た真未は、

この若杉佑紀があの夢の中で見た牛若丸の生まれ変わりではないかという疑念が、

まさしく疑いようのない事実であるという思いにすり変わっていくのを感じて震えていた。

 

 

・・・

 

 

「なんか平安時代くらいからありそうだよね」

 

上手く場を和ませながら真冬がそう言った。

先ほど見た割り箸芸に対する感想だった。

それを盗み聞きしていた真未はなかなか鋭い感想だと思った。

 

「いや、それはないよ」

 

その感想に対して否定をして見せたのは佑紀だった。

おろっと不思議に感じたのは真未だった。

そんなはずはない、あたしゃ平安時代にその芸があるのをこの目で見たのさ。

 

「おふくろという言葉がそもそもその時代にはないよ。

 この言葉は室町時代くらいに生まれた言葉だからね」

 

なるほどそっちかと真未は一人で納得して頷いた。

どうやら佑紀はとても知的で聡明な女性のようだった。

またしても牛若丸の性格と合致していくように思えた。

 

「へぇー、じゃああれか、少なくとも室町時代より後にできたのかな?」

 

「まあ、この芸自体がいつできたのかはわかんないけどね」

 

この割り箸芸が平安時代にあったなんて、そんなことは誰にもわからない。

ただし、とにかく真未には夢の中で見た鮮明な映像と記憶があった。

まだ会って一言も言葉を交わしていないこの佑紀という女性が、

なんだか真未にはとても懐かしい友人であったようなそんな錯覚が起こり始めていた。

 

「ふーん、ってちょっと、あれ誰!?」

 

そう叫んだのは花沙だった。

彼女が指差していた方向へ視線を向けると、

そこにはズキュンヌの入り口のガラス窓に張り付いてこちらを見ていた女性の姿があった。

女性はどこかで見たような顔のパーツのはっきりとした美人で、

スタッズの着いた派手な革ジャンを身にまとっていた。

 

佑紀がそちらの方を振り向くと、目が会ったその女性はニヤニヤと笑い始めた。

始めてこの光景を見た人は、少し奇妙な女性だと思ったかもしれない。

だが、幸いなことに彼女はTVにもよく顔を出す有名人であり、

その正体が誰かわかった瞬間、誰もが変人ではないことを理解した。

 

「わかしゅ~~~~!!」

 

お店の入り口から飛び込んで来たその女性は、

一目散に佑紀をめがけて走り寄ってきた。

そして後ろから両手で抱きついて佑紀を困らせた。

 

「わかしゅ~会いたかったよ~」

 

その女性の顔を見た途端、真未は息がつまりそうになった。

どこかで見た女優にそっくりだと思っていたのは勘違いで、

それはどこかの歌手にそっくりだと思っていたのだ。

その時、真未が見た女性の顔はあの夢の中の静御前に瓜二つだった。

 

「ねえっ、わかしゅもきっと私に会いたくてバイブレーションだったよね♡」

 

猫のように無邪気に佑紀にまとわりついて困らせていたのは、

今やTVで見ない日はない人気歌手の桜木レイナだった。

彼女はソロ活動を行うようになってから再ブレイクを果たし、

その後は仕事の幅を広げて舞台「バカリボンの騎士」などにも出演を果たしていた。

真未が女優だと間違えたのは、そうした方面で彼女を見かけたことがあったからだった。

 

そんな超有名人のレイナに抱きつかれている佑紀を見て花沙と真冬は驚いていた。

どういう接点でこんな有名人に好かれることになったのだろう。

だが、それを見ていた真未だけは理由など説明を受けるまでもないと思っていた。

惹かれ合うものは、ただ時代を超えて惹かれ合うのだという事実に一人感極まっていたのだ。

 

 

・・・

 

 

レイナが佑紀と出会ったのは随分と前のことだった。

佑紀が橋の上で絵やポエムを書いて生活をしてた頃、レイナは偶然そこを通り抜けた。

 

佑紀を初めてみたレイナは、佑紀のことを可愛い女の子だと思った。

なぜか直感的に、この子とは絶対に仲良くなれると思ったのだ。

理屈で説明できるような根拠はなかった、そもそもそれがレイナの特徴だった。

色々なことが心の中でわかっているが、それらは全て直感的なものであり、

例えば嘘をついている人を見破るような能力には優れていたとしても、

それがどうしてなのか、彼女にはなんとなくとしか説明はできない。

だが、怖いくらいにその内心は何か真実を見抜いている時がある。

 

佑紀と出会ってからというのも、レイナは彼女にとてもベタベタするようになった。

レイナと仲が良かった友達などは、そのあまりにも惚れ込んでいる光景に嫉妬すらした。

佑紀もレイナの事が大好きだったし、これまでずっと支え続けても来たのだが、

なぜかこのままではいけないと思ったのか、少し距離を置く事に決めた。

そして佑紀はレイナにも告げずにブロードウェイに旅立ってしまったのであった。

 

「ねぇ~わかしゅ~今までどこに行ってたの~?」

 

「あのねー、ブロードウェイでは聞いちゃダメなのよー」

 

佑紀はうまくはぐらかしながら回答を避けていたつもりだったが、

レイナにとっては佑紀が戻ってきたのだから本当は答えなんてどうでもよかった。

 

 

・・・

 

 

レイナを加えた四人は楽しげに談笑を続けていた。

みんな女子校出身だったという共通点を見つけた事で、

初対面だったレイナと花沙・真冬もすぐに打ち解けて仲良くなった。

 

「ていうかさー、超ウケるんだけどー」

 

花沙の楽しそうな声が店内に響いていた。

ケーキのラッピングが終わるのを待っていた真未は、

なぜか一刻も早くこの場から立ち去りたい気持ちになっていた。

それは自分だけが見た前世で、自分の夫が彼らに対して犯してしまった過ちを、

現世になってまで背負い続けているような罪悪感だったのかもしれない。

 

真未の目の前で新しいケーキをショーケースから取り出してきた店員さんに、

彼女はそっと囁くようにして「いちごはもう取らなくていい」と伝えた。

さっさとこの場を退散するためには、少しでも手間を省く必要があった。

そもそも、別にいちごアレルギーのお客さんなんてどこにもいないのだから。

だが、さっき言った事をいきなり撤回してきた真未を不思議そうに店員さんは見つめた。

 

「それは真冬に50mを7秒で走れと言うようなものだよ」

 

「もうー、なにそれどういう意味ー!」

 

四人で談笑しながら何か楽しそうに盛り上がっていた。

このままではやがて流れ弾が飛んでくる事を真未は予想していた。

四人の内、二人と知り合いなのだから、おせっかいに紹介される危険性もあった。

真未は一刻も早くこの場を離脱する必要性を痛感していた。

初対面でありながら懐かしい顔であるあの二人に、彼女はどんな顔をして向き合えばいいかわからなかった。

 

「・・・もうラッピングも要りませんから」

 

手際の悪い店員さんにイライラしながら、真未はそう囁いた。

なんだったら店員さんの手からケーキを奪って今すぐに逃げ出したいくらいの気持ちだった。

そこをグッと堪えて優しい言葉に変換して伝えたのだ、あたし本当に偉いよ、あたしったら。

 

「そう言えばさ、あそこに立ってる子がうちらの知り合いなんだけど・・・」

 

花沙のそういう声が真未の耳に飛び込んできた。

真未は箱に入ってビニール袋に入れられたばかりのケーキを店員さんの手から素早く奪い、

不気味なほど早足になってお店から出て行こうと出口に向かった。

 

「ねぇ真未~!」

 

花沙が呼びかける声が聞こえないふりをして真未は足を速めた。

このお店は入口と出口が同じである、これが真未の不幸だった。

 

真未が出口に向かっていた時、向かい側から歩いてくる知っている顔が目に入った。

それはとある出版社に勤めるまだ二十代の若い男だった。

彼は真未のお店の常連さんであり、名前を真田と言った。

いつか親友の蓮見と一緒にBar Kamakuraにやってきて、

それ以来なぜかお店を気に入ってくれてよく飲みに来るようになった男だった。

 

どうしてこのタイミングで彼がやってきたのか。

こちらを見てニコリと笑みを浮かべた彼を見ていると、

その足取りのままこのお店に入ってくるのは明らかだった。

声をかけられる前に退散しようと思っていた真未の計画はガラガラと音を立てて崩れ去った。

 

「あれー、真未さんじゃないですか、探してたんですよー」

 

お店に入ってくるなり真田は嬉しそうにそう言った。

彼は決して空気を読むタイプでないことは真未はよく知っていた。

お酒を飲んでも一人で楽しくなって饒舌に話を続けるやっかいなタイプだった。

 

「・・・あら、人違いじゃないですか?」

 

とぼけたふりをして、そのまま真田の横をうまくすり抜けた。

このまま出口を出てしまえば、あとで追いついてきた真田と二人で話せばよかった。

兎にも角にも、このお店を出れば真未の勝利だった。

 

「ちょっと~、それはひどいじゃないですか~」

 

素早い動きで真田は真未の前に回り込んだ。

彼がこんなに俊敏な動きができるなんて予想外だった。

 

「今日はね、真未さんに良い情報を持ってきたんですよ。

 だからそんな冷たい態度は取らないでください。

 ここはルージュじゃないんですからね」

 

Bar Kamakuraの常連さんはみな真未のお店の事を「ルージュ」と呼ぶ。

それがこのお店をスナックだと勘違いさせる原因となっているのだが、

お客さんが呼びやすいと言うのだから真未ももう訂正する事なくそのままにしていた。

だが、常連さんにはどう思われても構わなかったが、

真未のお店の事を全く知らない人達の前でそう呼ばれるのには抵抗があった。

いくら楽しいお店をやっているからといって、スナックのママだと誤解されたくはなかった。

それは真未が密かに誰にも言えずに抱いていた、ささやかなプライドの抵抗だった。

 

「・・・ちょっと真田さん」

 

「なんですか、そんな怖い顔しないで」

 

案の定、真田は空気を読む男ではなく雄弁な男だった。

世の中には「雄弁は銀」という言葉がある。

おしゃべりは余計な事を言ってしまうから黙っているよりも嫌われるのだ。

 

「良い情報ってのはね、これです」

 

真田が真未の前に差し出したのは一枚のビラだった。

真未がそれを受け取って内容に目をやると、それはどうやら演劇のようだった。

 

「どうです?『新訳・牛若丸』ってんです。

 真未さんにぴったりだと思いませんか?」

 

その言葉を聴いた真未は驚きに体が震えた。

真未は因果応報という言葉を思い出した。

まさか前世での因縁を、現代まで引きずっているのではあるまいか。

 

「ほら、前に言ってたじゃないですか。

 真未さんは北条政子の血を継ぐものだって。

 僕ちゃんと覚えてますよ、酔ってても記憶はちゃんとあるんです。

 それでね、今回ちょっと知り合いの伝手でこの情報を耳にしたんです。

 今ちょっとこの業界で話題になってる新進気鋭の脚本家がいるんですよ。

 その人はね、あらかじめ脚本を書いてから役者を選ぶんではなく、

 オーディションで選ばれた役の人に合わせて脚本を書くってんですよ。

 それで、次の作品はどうやら牛若丸を取り上げたいってとこまで決まってまして、

 そこでこういうタイトルにだけ決めてオーディションを開催するってんですよ」

 

真田は相変わらずの饒舌っぷりで、嬉しそうにペロリと舌を出した。

語るのが楽しくてたまらない時に彼がよくやる癖みたいなものだった。

真未はもうこの光景を何度もお店で見かけていたからよくわかっていた。

 

「だからね、真未さんどうです、このオーディション受けてみたら?

 北条政子役だったら、これはもう真未さん以外は適任はいないでしょう。

 だってあの北条家の血が流れている人なんだから!

 それに、ほら前にルージュで言ってたじゃないですか、

 小さい頃にアニーの役を目指してたって、確か最終審査まで行ったんでしょう?

 それってすごいじゃないですか、あのモノマネも鉄板ですけどねー。

 あと、ルージュでたまにやってくれる井上陽水のネタもいいですよね。

 あれ見たらみんな笑い転げますよ、あー思い出しただけで面白いや。

 おっと、話が脱線してしまった、いや、僕が言いたい事はですね、

 役者の夢をもう一度追いかけてみるのもいいんじゃないかって事ですよ。

 だってほら、前言ってたじゃないですか、落語界からもオファーきたことあるって。

 いつかルージュで披露してくれたあの落語、あれ絶品でしたよね、ああ面白いや!」

 

彼は相変わらず一人でベラベラと喋り続ける癖は治らないようだった。

その声は大きく、店内に響いていたので、もちろんあの四人にも丸聞こえだった。

 

「アニーって、真未すごくない!?」

 

「落語界からオファーって、いったいどうなってんの!?」

 

話を聞いていた真冬と花沙が次々と驚きの声を上げた。

ただのBarの店長などではなく、真未はすごい経歴を持った女の子だった。

だが、本人からそんな話を聞いたことはこれまで一度もなかった。

本人は自分はただのしがないBarの店長だと言い張っていたからだ。

 

さっきまで饒舌に語っていた真田はビラを掲げてニコニコと笑っていた。

真未はずっと下を向いて黙っていた、ふと顔を上げた真未の両目にはなぜか涙が溜まっていた。

 

 

パーン、と短い音が店内に響いた。

真未が右手で真田の頬を叩いた音だった。

 

「・・・バカにしてんじゃないわよ」

 

打たれた頬を押さえていた真田は彼女の行動の意味がわからなかった。

わからなかったのが彼の鈍感の最たるものであることを示していた。

 

「・・・ちょっと、どうしたの、落ちついて」

 

喫茶スペースから真っ先に駆け寄ってきたのは佑紀だった。

二人の間に割って入り、争いを収めようとした。

近くで見ると想像以上に中性的で美しい顔をしていた。

これが前世の自分、北条政子が助けた牛若丸だったかと思った。

 

それでも、もうこの場にいることには耐えられなかった。

真未は佑紀が腕を掴んでいたのを振り払い、逆に両手で彼女の両肩を掴んだ。

 

「・・・強く生きて」

 

「・・・えっ」

 

それだけ告げた真未は、彼女の後ろに立っていたレイナに目配せをして走り去った。

前世で再会することができなかった静御前、牛若丸と末長くお幸せにね。

 

 

・・・

 

 

パティスリー・ズキュンヌから逃げるようにして飛び出した真未は、

Bar Kamakuraに出勤する前にコンビニのトイレに立ち寄った。

涙で崩れてしまった化粧を直し、気持ちを整えてからお店に出ようと思った。

 

トイレで鏡を眺めながら化粧を直していると、

バカな事をしてしまったなあと冷静になってきた自分がいた。

常連さんの頬を思いっきり引っ叩いてしまうなんて、

あたしは店長失格だと自分を責める気持ちがあった。

やってしまった事はもう取り返しがつかないが、

謝ろうにも、おそらくもう真田はお店に現れることはないだろうと思った。

 

化粧を終えて最後に口にルージュを塗り、やがて化粧ポーチに道具を全てしまった。

そのあとで最後に鏡を見て化粧の仕上がり具合を確認した。

特にダメなところは見当たらなかったが、どこか気持ちが乗らなかった。

真未は大きくため息をついてコンビニのトイレをあとにした。

 

エレベーターでビルを上がる。

やがてボタンを押した階にたどり着いてドアが開いた。

細い通路を奥へと進むと、そこにある一室が真未のお店だった。

 

ドアノブに手をかけて扉を開けると、すでにお店は準備中だった。

アルバイトの舜奈がすでに出勤していて一人で準備を進めていたのだった。

 

「・・・早いね」

 

真未はそれだけ短く言ってカウンターテーブルの上に買ってきたケーキを置いた。

彼女がやってきたことに気がついた舜奈は少し手を止めて挨拶をした。

 

「おはようございます。

 あれ、北条さん、もしかしてケーキ買ってきてくれたんですか!?」

 

舜奈は準備をしていた手を完全に止めてこちらへやってきた。

嬉しそうにビニール袋を覗き込むと、パティスリー・ズキュンヌのショートケーキであることがわかった。

 

「やったぁ、舜、これ大好きなんですよー」

 

嬉しそうに飛び跳ねながら舜奈はそう言った。

 

「あのさ、これは一応常連さんへのサービスだからね。

 余ったら舜奈にも食べさせてあげるけど、まずはお客さんに出すんだから」

 

戒める気持ちを込めてそう言ったが、説得力がないなと自分で思った。

さっきの出来事をまだ心の中で引きずっていた。

 

「はーい」と言いながら準備に戻った舜奈だったが、

どうせケーキは余るに決まっているとわかっていた。

真未はいつも少し多めに買ってきてくれていることを知っていたからだった。

 

そんなやりとりがあってから、二人はそれぞれに開店準備を始めた。

真未がお酒の準備をしている時、舜奈は店内を掃除していた。

 

アルバイトを始めたばかりの頃の舜奈を、真未は頼りないと思っていた。

そもそも、彼女には年齢詐称疑惑がつきまとっており、

22歳だと主張している彼女の言葉を怪しいものだと思っていたのだ。

 

だが、何はともあれ仕事を続けてきた舜奈はすっかり慣れていき、

今では一人でも開店準備やお客さんの対応ができるようになってきた。

 

「掃除、終わりましたよー」

 

舜奈がニコニコしながら近づいてきた。

ケーキを買ってきた日の舜奈はいつもこんな顔をする。

まだまだ高校生みたいな無邪気さを彼女は持っていた。

 

「あんたも慣れたもんだね」

 

「舜だってもう一人でも働けますよ。

 ちょっとくらい北条さんが休んだって平気ですから」

 

生意気なセリフにも聞こえたが、真未は同時に頼もしいとも思った。

頭のどこかに、いつか休業したい気持ちが潜んでいたからかもしれないかった。

 

「そういえば北条さん、これなんですけど」

 

舜奈がそう言って持ってきたのは「新訳・牛若丸」と書かれたビラだった。

それを見た真未は先ほどの失態を思い出して少しギョッとした。

 

「北条さんが来る前に真田さんが持ってきたんです。

 北条さんが出勤してきたら渡してほしいって」

 

そのビラを受け取った真未は少し複雑な気持ちになった。

さっきは彼が「ルージュ」と連呼した為に不快な気持ちになったけれど、

心のどこかでこのビラの事は惜しい事をしたのではという思いがあったからだ。

どんな脚本になるのか、そんなことはまだ誰にもわからないけれど、

不思議な事に、昨夜見た夢の物語が真未の頭をよぎって未来とダブって見えた。

こういう事が起きた時に、人は運命というものを信じたくなるのかもしれない。

 

「・・・ふーん、おせっかいだね、あの人もさ」

 

微妙に揺れる心を見透かされたくないと思ったのか、

真未はそんな風に言ってこの話題を終わらせようと努めた。

 

「・・・そういえば、先日お店に来てたあの人、どうなりました?」

 

「先日って、何の話?」

 

「ほらー、あれですよ、落語界のオファー来た話ですよ。

 なんかほら『桂産毛』って名前まで用意してくれてるって」

 

「・・・その名前がさぁ、絶対バカにしてるよ」

 

面白い女店長がBarを経営しているという話で、

時々こういった芸能関係の人達が飲みに来ることもあった。

もちろん、気に入ってくれて常連さんになると、

みんな『ルージュ』とお店の事を呼び始め、

宣伝してくれるのはいいのだが、初めて来る人や知らない人には、

真未がスナックのママをやっていると勘違いをされてしまうのだった。

それは真未にとって心外な出来事であり、好ましくない現実だと思っていた。

 

「・・・北条さんはどうしてこのお仕事をしてるんですか?」

 

舜奈は少しトーンを真面目な風にしてそう尋ねた。

彼女の声の調子が違う事に気づいた真未は、なんとなく少しドキッとした。

 

「・・・どうしてって、なんとなくかな、たまたま性に合ってたんじゃない?」

 

友人の勧めでたまたま始めたお仕事が、割と性に合っていたのでうまくいった。

本当はスナックのママだと思われて風評被害を被る事も多々あって面倒な時もあるのだが、

お客さんの相手をするのは別に嫌でもなかったし、時には居心地よく感じる場所でもあった。

 

「でも、演劇やミュージカルの話をしてる時の方が楽しそうですよね。

 舜、時々酔っ払ってそんな話をしてる北条さんを見てますけど」

 

そんな顔を見られていたのかと思い、真未は少し恥ずかしくなった。

しかし同時に、客観的にそういう自分がいる事を教えられたような気もした。

自分の心の隙間に密かに、ずっと確かにあった女優への憧れ。

 

「舜、北条さんが時々羨ましいんです」

 

「羨ましい?」

 

「はい、だって色んなお客さんがこのお店に来るじゃないですか。

 それって結局、みんな北条さんに会いたいから来てるってことですよね」

 

Bar Kamakuraの人気は、例え「ルージュ」と呼ばれたりすることがあっても、

やはり真未の人柄に惹かれて飲みに来る人が多かった。

そして笑って楽しいひと時を過ごし、またどこかへ帰っていく。

 

「真田さんみたいにお節介な人も中にはいますけど、

 やっぱりちゃんと北条さんの好きな物とか才能を見てくれてる人がいるわけで。

 もちろん楽しいことばかりあるわけじゃないお仕事ですけど、

 一生懸命やっていれば見てくれる人は見てくれてるわけじゃないですか」

 

パーン、という音が真未の耳に響いた気がした。

真田の頬を打ったのは自分だ、でも本当は打たれなければならなかったのは自分自身ではないか。

 

「・・・舜奈、ちょっとお店任せていい?

 あたし、ちょっと行かなきゃいけないとこできたから」

 

舜奈にそう告げると、気づいた時にはもう走り出していた。

スナックのママだと思われたくないなんて、そんなつまらないプライドにしがみついて、

自分は自分の事を見てくれてた人を傷つけてしまったのではないだろうか?

 

エレベーターが昇ってくる時間が待ちきれず、真未は躊躇することなく非常階段を駆け下りていった。

履いていたハイヒールが鉄製の階段を降りるたびに大きな音を響かせていった。

人はどうして走り出したんだろう、きっと今の真未みたいにどうしても伝えたい事があって、

それを伝える人に会いに行くために心に嵐が吹き荒れたに違いない、真未はそう思った。

 

風に髪がなびこうと、体に汗が滲もうと、真未は足を止める事はなかった。

カーンカーンカーンという速いハイヒールの音がビルの谷間に響き渡って空気を切り裂いた。

非常階段の踊り場にたどり着くと、手すりを軸にしてダイナミックに大きく体を回転させる。

そしてまた長く続く階段を甲高い音を立てて躊躇なく下っていく。

 

やがて連続して響いていた音が単発に変化していった。

そして音の間隔はどんどんと長くなり、リズムを失っていった。

そうして真未の足は限界に近づき、気持ちとは裏腹にもう足が痛すぎて走れなくなった。

 

「・・・もうダメ・・・やっぱエレベーター使うんだった・・・」

 

私はどうしてハイヒールなんかで走り出したんだろう?

非常階段にぺたんと座り込んだ真未からは汗が滴り落ちて光っていた。

顔に滲んだ汗は、ひょっとすると涙だったのかもしれなかった。

 

 

・・・

 

 

やさしさとは何なんだろう?

君を慰めることか。

あるいは涙の理由を何も聞かないことか・・・。

 

椅子に座って佑紀はそんな風に一人でずっと考えていた。

 

真未が飛び出していったパティスリー・ズキュンヌに残された人達は、

いったい彼女に何が起きたのか、それについて話あっていた。

 

「あの子って何、スナックのママなの?」

 

素直に思った疑問をぶつけたのはレイナだった。

真未の事を何も知らないレイナにとって、

先ほどの話を聞いただけではそう思うのも無理はなかった。

 

「う~ん、別にそういうわけじゃないんだけどねー。

 あの子、Barの店長なんだけど、お客さんがみんなルージュって呼ぶから、

 それでそういう風に勘違いされることが多いみたいなんだけど」

 

Bar Kamakuraへ飲みに行った事もあった花沙がそう説明した。

そういえば花沙には真田の顔もどことなく見たことがあったような気がした。

 

「もしかしたら、そんな風に勘違いされるのが嫌だったのかも。

 ほら、真未ってああ見えて意外と繊細なとこあるじゃん」

 

「ああー、なるほどね」

 

真冬の鋭い指摘に花沙は納得した。

真未をよく知っている二人だけに理解できたことだった。

 

「私だってさ、たまにこのお店の事をキャバクラだって言う人がいて、

 なんかそんなこと言われるとすっごい嫌な気持ちになるの。

 私はただ来てくれる人みんなに喜んでほしいだけなのに」

 

真冬はこの手の誤解が何よりも悲しかった。

だから根も葉もない噂で風評被害を受けた時にはきちんと釈明する。

それでもみんなちゃんとわかってくれているかどうか、時々不安になることもあった。

 

「確かに、そういうのは悲しいよね」

 

佑紀は真冬の意見に同意した。

ただ彼女は同意しながらもずっと客観的な回答を探し求めていた。

 

「キャラクターの悩みっていうのかな。

 そういうのは私にもあるよね。

 よく思うよ、私って一体何者なんだろうって」

 

佑紀はとても冷静にそう言った。

彼女が発言すると真面目なこともあり、

一つの問題が普遍的な問いにまで高められる気がした。

 

彼女の思考は、例えば一つの小さなエピソードを捕らえたとしても、

それを抽象的な概念にまで高めながら展開する傾向があった。

そうすることによって主観的な事件を感情的に解決するだけでなく、

普遍的な真実としての姿を露わにさせようという哲学的なアプローチを取ることになる。

だがそれは、他の人々にとってはあまりに広大すぎる領域に問いを投げかけることになり、

そこまではさすがについていけない、という印象を与えることになってしまう。

それが佑紀の多少のコンプレックスであり、他人と違う捉え方をしてしまう故の孤独だった。

 

「・・・僕があまりに無神経だったんですね」

 

隣に座って話を聞いていた真田がそう呟いた。

良かれと思ってオーディションの事を伝えに来た彼だったが、

思わぬ結果になってしまった事で落ち込んでいたようだった。

 

「でもほら、悪気があったわけではないので」

 

佑紀がすかさずフォローを入れる。

その後を追いかけるようにして真冬も続けた。

 

「うん・・・ちゃんと話をして誤解を解けばきっと大丈夫ですよ」

 

二人が慰めてくれたことで、真田は幾分救われたようだった。

落ち込んだ人が救われるかどうかは、その人の行為が正しかったか正しくなかったかではなく、

その人の置かれている立場や心の状態を把握し、的確な慰めの言葉をかけてあげられるかどうかである。

頭も良くて常識人である佑紀と真冬はそういった能力には非常に長けていた。

 

「・・・そうですよね、ありがとうございます」

 

ところでこういった場合の慰めの言葉というのは「嘘」の範疇に入れられる。

本当のところは真田が無神経であったのが諸悪の根源なのであるが、

真田は彼女達の慰めの言葉がある意味で「嘘」であることがわかっている。

だが、人はわかっていてもその「嘘」を信じることで罪悪感を減らすことに努める。

心の作用というのは、そういった複雑なやりとりを見えなくさせるが、

とどのつまり上手に生きていける人は良い嘘をつくのが上手いことになる。

例えば真冬などは、良い嘘をうまくつく善良で素直な人だと言える。

 

「僕、今から真未さんに謝りに行ってきます」

 

心というのはとても絶妙な構造で機能しているので、

実はあまり疑ったりしないで流れに任せるほうが楽に生きていける。

その人が生きて行くために最良の選択を自動的に取得してくれるのである。

とにかく、こうして真田は立ち直るとすぐに店を出て行った。

 

 

楽しくおしゃべりをしていた四人だったが、真田達のやりとりを挟んだことで空気が変わった。

少し冷え切ってしまった場を再び温める為には、何か新しい話題が必要になった。

再びテーブルを囲んで椅子に腰掛けていた四人の間には、先ほど真田が忘れて行ったビラが置いてあった。

 

「・・・若杉ってさ、なんか牛若丸っぽくない?」

 

真冬がそのビラを見ながらそう言った。

新しい話題が提供されたことで、場はまた熱を帯び始めた。

 

「うん、そう言われると、なんかそれっぽい感じするかも」

 

花沙も佑紀の顔を眺めながら同意した。

レイナだけは不思議そうな顔をしてあまりピンと来ていないようだった。

 

「何それ、でも前にも誰かに言われたことあるなぁ」

 

佑紀は照れくさそうに笑いながらそう言った。

目線はテーブルに置かれているビラに向けられていた。

 

「でしょ!?

 だって名前にも同じ『若』って入ってるしさ、もしかしたら前世は牛若丸だったとかじゃない?」

 

「それはないない」

 

「えーっ、絶対あるってー!」

 

うまく褒めて場を盛り上げながら話す真冬に対して、佑紀は笑いながら軽く否定した。

だが、否定しながらもまんざらでもない風に心は動いていく。

人はどうしても誰か他人に言われたことを心の片隅には置いてしまう。

完全に無視することはできないし、無意識レベルで知らないうちに作用することになる。

そういう意味で言えば、言葉とは簡単に誰かを喜ばせることも傷つけることもできる、

人間に委ねられている最強の武器でもあり最悪の凶器でもある。

 

「・・・でも、これかもしれない」

 

佑紀はビラを見つめながらそう呟いた。

 

「えっ、なになに、もしかしてオーディション受けるとか?」

 

花沙は少し驚いた姿勢を見せながらそういった。

 

「・・・そう、私ってさ、最近ずっと色々なことにチャレンジして来たのね。

 それこそブロードウェイに行ったり、ユーモア教室に通ってみたりもしたんだけど、

 なんかそうしてるうちに自分がよくわからなくなってきて、

 ああ、私っていったい何者なんだろうって思うこともあったのよ。 

 でもなんかそうやって色々と道に迷ったりしながらも、

 やっぱり最終的な夢は女優になることだなって思い出したの。

 それでもう一度、ここでやり直そうと思って児玉坂の町に戻ってきたってわけですよ」

 

佑紀は過去に体験した色々なことを思い出しながらしみじみと語った。

豊富な経験は彼女を強くしたし、自信を与えたようにも見えた。

 

「えーっ、そうなんだ。

 でもブロードウェイで活躍するだけでもすごくない?

 どうやって向こうで成功したのー?」

 

花沙は持ち前の好奇心でそう尋ねてしまった。

 

「うん、それはね、聞いちゃダメなの。

 聞いてブロードウェイで成功した人はいないから」

 

佑紀は右手と左手の人差し指で小さいバツ印を作りながらそう言った。

 

「えーっ、なんで教えてくれないの」

 

「そういうのは全部聞いちゃダメなんだってば。

 まあ、一応向こうではキャサリンって名前で呼ばれてたんだけど、

 でもあれが成功だったのか失敗だったのかも未だによくわかんないしね」

 

佑紀はそんな風に照れながら謙遜して答えたが、

おそらくそれは大成功だったと思われる。

少なくともブロードウェイでの経験は、彼女の心臓を強くしたにちがいない。

 

「えーっ、じゃあ私も受けようかなぁ」

 

嬉しそうに佑紀が持っていたビラに手を伸ばし、

それを見つめながらそう言ったのはレイナだった。

彼女の全ては気分が司っているので、話の流れでそういう気分になったのだろう。

 

「レイナさぁ、歌手が本業だけどスケジュール大丈夫?」

 

「うん、あとでマネージャーに相談してみる。

 だってわかしゅが受けるなら私も受けてみたいし」

 

「なにそれ」

 

目の前でイチャイチャし始めた二人を見て花沙は肩をすくめた。

二人の間にはちょっと入り込めない空気感が見えた気がした。

 

「えーっ、レイナちゃんが本業の歌手以外もやるんだったら、

 私もこれから歌手に挑戦してみようかな、歌って踊れるパティシェになるのが夢だから♡」

 

「あー、それはね、止めといたほうがいいと思う」

 

花沙は多少茶化しながらそう言う。

茶化しながら言ってくれるだけまだ優しさがあった。

 

「もう、なんでよー!」

 

怒ったような表情を浮かべて真冬はそう言った。

顔がクシャっとなって猫みたいな顔だった。

みんなそんな真冬を見て楽しそうに笑った。

出会ったばかりのメンバーもいたけれど、

女子校出身という共通点があった四人はすぐに仲良くなれた。

 

話題はいつの間にか女子に特有の恋愛の話題にも及んだ。

理想の彼氏の話などをしていると、時間はあっという間に過ぎていく気がした。

 

「でもさ、いつか彼氏ができても、私は今と絶対に変わらないと思う!」

 

真冬が断然するように言い張った。

その様子を見てレイナが少し意地悪そうに言う。

 

「えーっ、絶対嘘だね。

 じゃあさ、絶対に女同士の友情を優先させるって誓おうよ」

 

「真冬だったらきっとさ、急によそよそしくなって用事ができた、とか言い出すんじゃない?」

 

佑紀がそんな風に推量した。

意外と誘っても付き合わない彼女の性格を知っていたのだ。

真冬は賢いので、断り方も嫌な感じはさせない器用さを持ってはいたけれど。

 

「じゃあさ、もしそんなことになったらさ、その人は裏切り者だってことにして、

 この仲良しグループから除外するって事で」

 

そんな風にして四人は独自のガールズルールを生み出したりもした。

まだ無限に広がる果てしない未来を想像して語るほど楽しい事はなかった。

無邪気で全てが許される若さと、それがもたらす青春の美しさ。

それを大切に宝箱にでも永遠に閉じ込めておけるならどれほど素晴らしい事だろう。

 

だが、その美しさに本当の意味で彼女たちが気づくのは、

こういった時間を失う事になる遥か5年、10年先の事なのだ。

人はもし、現在ある幸福に漏れなく全て気づくことができたなら、

それはいったいどんなに幸せなことだろうか。

 

おそらくその美しさを愛でることができるのは決して本人達ではなく、

そういった青春を失ってしまった、彼女達の外側にいる大人達なのだろう。

そしてその大人達から見た、この甘くて瑞々しくて熟れた果実みたいな青春は、

それをいつまでも消える事なく眺めていたいという淡い気持ちを引き起こさせる。

その透明な色を持つ彼女達の存在を、祈りにも似た感情で守りたくなるのである。

 

 

四人はたくさんのおしゃべりをし、時間はあっという間に過ぎ去った。

いつの間にか店の外からは西日が差し込み、四人の横顔を美しく橙色に染めた。

店の壁に掛けられた時計の針は同じリズムで足早に時を進めていったが、

四人の間に流れていた感情は、この傾斜する夕日と同じようにゆるやかに流れて行き、

現在という時がこの夕日の鮮やかさによって心のどこかへ焼き付けられたようにも思われ、

まるでセピア色の記念写真みたいに、この世界のどこかに永久に保存されたような気がした。

 

やがて佑紀が席を立った。

それに合わせてレイナも後を追いかけ、

そのまま横に並んで佑紀の腕に絡みついた。

 

「それじゃあね」

 

佑紀とレイナは歩調を合わせるようにして出口まで歩いて行った。

そこでふと思い出したように佑紀が立ち止まり、

レイナも不思議そうな顔をして同じように立ち止まった。

 

「ひとつだけ、言ってもいい?」

 

振り返った佑紀が残された花沙と真冬に向かってそう言った。

 

「えっ、なに、どうしたの?」

 

真冬が困惑した表情でそう問い返した。

先ほどまでの四人のおしゃべりの中で、何か気になる事でもあったのだろうか。

 

佑紀はニヤッと笑ってこう言った。

 

「・・・やっぱ、児玉坂だな」

 

二人はパティスリー・ズキュンヌを後にした。

 

 

・・・

 

 

佑紀とレイナが出て行ってしまった後、

パティスリー・ズキュンヌではまだ真冬と花沙が話をしていた。

 

「オーディションかー、いいなぁ。

 ねぇ、私が受けたらどうなると思う?」

 

花沙はそう言いながら真冬からの回答を待った。

こういう聞き方をする時、人はもちろん良い答えを期待する。

 

「えっ、ああ、花沙はやめといたほうがいいんじゃない?」

 

テーブルに残ったお皿やコーヒーカップを片付けながら真冬はそう言った。

もちろん、花沙が期待した答えとはまるで違っていた。

 

「ちょっとー、それひどくない?

 なに、さっき私が真冬が歌手になりたいって事を否定したの怒ってんの?」

 

「別に怒ってるわけじゃないって。

 今回はただあの二人だったら受かりそうだけど、花沙は違うかなって思っただけ」

 

食器を全部片付け終わり、テーブルふきんを持った真冬が戻って来た。

テーブルをきれいに片付ける手つきは鮮やかで手慣れていた。

 

「いいもん、どうせ全盛期過ぎた坂田には誰も興味ないんだから」

 

花沙にはいつもこうした自虐を言う癖があった。

ちなみに、自虐は心理的には先手必勝の自己防衛であり、

それは彼女の内に秘めた繊細さを暗に示していた。

 

「もう、違うって!

 だって物語の流れを読んでたら、今回はあの二人って感じするじゃん!

 どう考えても私と花沙が受けたって受からないって」

 

真冬は賢いので物語の流れまで勝手に読む事ができた。

全体の空気を読みながら押すところと引くところを察知する事ができる。

適切な箇所で求められた発言や行動をする事ができるので、

真冬にはおっちょこちょいな行動も、知的な回答も、全てコントロール自在である。

それでいて誰も傷つけないし、場を盛り上げるのだから偉かった。

意地悪に欠点を挙げるとすれば、某関西出身の超ベテラン芸能人の方に似て、

自分が出演している番組をチェックして悦に浸るくらいだろうか。

まあでも、その程度なら可愛いものであるし、彼女ならそれもネタにしてしまうだろう。

 

「じゃあさ、なに、もうここでうちらの出番は終わりってこと?」

 

「だってしょうがないじゃん、私たちは主役じゃないんだし」

 

花沙はあっけらかんとして心に秘めた言葉を放つ。

繊細な心を持っているが、意外に大胆なセンスをしていた。

真冬は場の空気を察知し、自分が出る幕ではないと思えばすぐに引く。

例え悔しくても次のチャンスを待つために鮮やかに引くタイプだった。

 

「えー、やだ、もっと出たいんだけど!」

 

「もー、そんなわがまま言って作者さんを困らせないの!」

 

正直な気持ちを言う花沙はとても素直だと思う。

それを我慢するように仕向ける真冬も偉いと思う。

かなり雰囲気の違う二人だが、頭の良さは児玉坂でもトップクラスなのである。

 

「つーかさー、真冬はいいじゃん、前に主役の時あったじゃん。

 うちはさぁ、初めて登場したのに何でこれだけしか出れないのってなるよね。

 やっぱり作者は全盛期終わった坂田に興味ないってことでしょ」

 

「違うってば、だって作者さんは一人しかいないんだよ?

 あの人にだって仕事もあれば普通の生活だってあるんだよ?

 例えば一本の物語を書くのに仮に早くて平均で2ヶ月はかかるとして、

 メンバー全員で36人だとすると、全員を主役にしたら36×2=72ヶ月かかっちゃうんだよ。

 72ヶ月ってことは1年を12ヶ月として割ったら、少なくとも6年はかかることになるよね?

 そうなったらもう私達だって30歳手前になっちゃうんだよ?

 30歳になって主役で登場しても、もう青春がどうこうとか書けないでしょ?」

 

さすが頭の回転が早くて計算の上手な真冬である。

説明がありがたいことこの上ない。

 

「そう考えたらさ、もうインスピレーションとかアイデアあるものから書くしかないじゃん!

 でも別にメンバーに順位付けしたり誰かを差別したりしようなんて考えてるわけじゃないよ!

 みんな分け隔てなく好きだけど、現実的には全員を一気に登場させることもできないんだから」

 

真冬はこういう時、実に頼もしい人である。

この間、別の物語でさんざん意地悪してしまったことを詫びたいくらいである。

 

「それにね、作者さんは花沙が全盛期終わったなんて思ってないよ!

 むしろ、花沙が思う全盛期よりも今のほうが素敵だって思ってるらしいよ」

 

「えっ、そうなの?」

 

「そうだよ、人間的に成長してるって」

 

「・・・まあ、どうせ作者なんかにうちのことがわかるわけないけどさ」

 

基本的に花沙は褒められると嬉しくて照れ隠しでツンになる。

そして心の中でデレているのは誰から見ても明らかにわかる。

 

「まあこのぐらいでは許さないけどね」

 

それでも突っ張っていく花沙はある意味で面白い。

弱い自分は決して見せたくないのかもしれない。

 

「花沙、『雄弁は銀』って言う言葉の意味知ってる?

 あんまりおしゃべりが過ぎると良くないって意味なんだよ。

 それでさ、黙ってるほうがもっと良いってことを

 『沈黙は金』って言うんでしょ?」

 

「・・・なんかさぁ、うまく丸められた気がしてすっごい嫌なんだけど」

 

児玉坂の町人は数が多い。

だが、みんなどこかで頑張っているし、見ている人はそれを見ているのである。

 

「つーかさ、このくだり必要だった?」

 

「うーん、それはわかんない」

 

佑紀とレイナが出て行った後、

二人はこんな話をしていたのであった。

 

 

・・・

 

 

あれから二週間が経過した。

児玉坂の町は静かに、だが確実に動いていた。

 

まず、あの後で北条真未と真田は互いに謝罪したらしい。

ともに自分の方から先に謝ろうとして譲らなかったので和解には苦労したが、

最終的には以前と変わらないような関係にまで修復された。

真田は時々Bar Kamakuraへ飲みにやってきたし、

真未も相変わらずお店に出勤して彼をもてなしていた。

 

真未はお店の仕事を頑張りながらもオーディションに応募することにした。

そして書類等を準備して郵送し、その結果を待っていたのだが、

心配しなくとも一次審査は楽々と通過した。

二次審査は面接スタイルで行われるということで通知が来ていた。

 

ああ見えて割と素直な坂田花沙はこのオーディションを受けることはなかった。

自分には自分の道があると言い聞かせ、何か自分に合うものを探すと言っていたらしい。

その後、一度だけBar Kamakuraへ飲みに来ることがあり、

あの後で四人が仲良くなったこと、真冬に諭されて自分はオーディションを受けなかったこと、

その分、真未には演技の適正があるから頑張って欲しいことなどを聞かされた。

 

真未にとって意外だったことは、二次面接で春元真冬の姿を見かけたことだった。

どういう理由かわからないが、軽い気持ちで一次審査を受けて通過したらしい。

真未は久しぶりにこんな信じられない性格の人を見たような気もしたが、

好意的に解釈して、おそらく花沙と話をした後に心変わりがあったのだろう。

もしくはあれだけ受けないという前振りをしたのだから、あえて受けてみることでここはアピールになるだろうと、

彼女の鋭い嗅覚がそう判断して絶好のタイミングだと考えたのかもしれない。

だが、二次面接の時にドアを開けて入ってきた途端にわざと転び、

すぐに面接官に助けを求めたということで、こんなあざとい方法では面接を通過するはずもなく、

無事、最終審査には残ることはなかった、二次面接の時のスカートも自分だけなぜか短かったし。

 

そして真未は二次面接の時に若杉佑紀が参加しているのを見かけた。

母が倒れたので面接に遅れた、というシチュエーションで演技を披露したようで、

真面目な性格を活かした迫真の演技で二次面接を通過したのではないかという噂が流れていた。

 

やがてやってくる最終審査に向けて、真未は動揺を隠せないでいた。

おそらく佑紀は最終審査に残っているだろうし、前世の因縁が確かならば、

間違いなく彼女が牛若丸に選ばれることだろうと思っていた。

そして、一緒に受けた桜木レイナも最終審査に残っている可能性が高かった。

彼女はそもそも児玉坂では知らない者がいないほど有名な歌手であったし、

「バカリボンの騎士」の出演を経て、舞台関係者からの評価も高かったからだ。

 

真未はあれからあの枕を使って眠ってみた。

だが、義経がおしっこをしたせいで、枕にタオルを敷いたりしながら使ったためか、

もうあのような前世の夢を見ることはできなかった。

真未は枕を目の前に睨みつけ、一度はタオルを外して直に枕に頭をつけようかと葛藤したが、

朝起きた時に髪が臭くなっているのはレディとして失格だというプライドが勝り、

結局、まともに枕を使用することなく最終審査の日を迎えた。

 

 

・・・

 

 

真未は朝起きると出かける準備を整えた。

昨夜はいつもより早めに仕事を切り上げて休んだし、

体調もすべてバッチリ整えていた。

 

義経にはいつもよりも多めにチーズをあげてみた。

それがひょっとしたらオーディションに受かる可能性を高めるかもしれないと思ったからだった。

 

このオーディションに参加してからと言うもの、彼女はBarの仕事も楽しくなった。

好きなことや目標に向かって頑張っていれば、自然と心が弾むのがわかった。

それが普段の仕事にも良い影響を与えることになり、お客さんからもいい顔をしてると褒められることが増えた。

 

出かけるまでに少し時間が余ったので、真未は部屋の片付けをしていた。

そしてその時、ずっと放置していたあの枕の袋が目に入った。

 

 

 「ZENSE」は最高の睡眠をお届けする製品の追求のため、様々な実証実験を続けてきました。

  今回は多くの人々が関心を寄せる「夢」に着目。

  朝起きた時に夢の内容を忘れてしまった、という残念な結果を防ぐため、

  枕を研究しながら夢を鮮明に覚えていられる最高の寝心地を追求いたしました。

 

 

真未は説明書きを再び読んでみた。

「ZENSE」というブランドがどこのメーカーの名前かわからないけれど、

忘れてしまった夢の内容を取り戻そうなんて考えたのはロマンのある会社だと思った。

 

(・・・夢、確かに忘れてたもんな・・・)

 

ふとスマホが鳴り、出発の時間になった真未はスマホのアラームを止めてカバンにしまった。

靴を履いてから少し考えて、もう一度部屋に戻ってあの枕を手に取った。

そしてもう一度靴を履いて外に出ると、朝日が目にとても眩しかったのを感じた。

 

階段を降りて住んでいたアパートを出て、裏側へ回るとそこにはゴミ置場がある。

真未はその枕を燃えるゴミの置場所へ置いてからオーディション会場へ向かった。

 

少し離れた場所で振り返って、あの枕を遠くから眺めた。

どうして私はこの枕を貰ってしまったのだろう。

こんな枕を貰った人はこの世界で私しかいないんじゃないだろうか。

今を逃したら、もうこんな枕を手に入れることはないだろう。

 

でも真未は再びそれを拾うことはなかった。

くるっと向こう側へ体を翻し、そのまま振り返ることなく歩いて行った。

 

(・・・夢は見るものではなく、叶えるものさ・・・)

 

寝て見る方の夢ではなく、追いかける方の夢に関しては、

人は忘れることは少ないが、その情熱を忘れてしまうことは多い。

あの時はあんなに強い気持ちがあったのに、という経験をした人は多数いることだろう。

そしてその情熱を思い出すことはそう容易なことではなく、

刻一刻と変化を続ける自分に、自分を構成している肉体や感情に、

なんらかの刺激を与えてその気分を取り戻さなければならない。

 

しかし、それをコントロールすることは至難の技である。

同じ刺激に人は鈍感になっていくし、すぐに種類の異なる刺激を求めるからだ。

モチベーションを維持するにはなんらかの劇的な要素が必要になるし、

誰か第三者からの予期せぬ刺激がないと発奮材料にならない。

だからそういう何かに出会えた時、人は感謝しなければならないのだ。

 

枕に出会い、枕を捨てた。

たった一度きりの出来事であったけれど、

不思議な経験を通じて、今の真未の体には力がみなぎってくるのを感じていた。

そして自然と笑みをこぼしながら、半ばスキップでもしそうなくらいの気持ちで、

真未は決戦のオーディション会場へと向かうのであった。

 

 

・・・

 

 

オーディション会場には最終審査に残った人々が集められていた。

今回の「新訳・牛若丸」はまだ脚本が決まっていないということで、

なんと配役すら決まっていないという異例の舞台として話題になっていた。

配役は、合格した人の中から選んで脚本に反映されることになるという。

 

だが会場に足を踏み入れた真未には、おおよそ合格する人の顔ぶれがわかっていた。

あの夢の中で見たメンツに似ている人達が多数集まっているのがわかった。

あれは佐藤兄弟の顔、こっちは確か平家の誰かだったかな、そうそうこれは伊勢義盛だ。

 

そんな感じで、おそらく合格者になりそうな顔ぶればかりを見つけた真未は、

その中で一人だけ見るのも嫌な人物を見つけた。

自分の夫の役になる頼朝役の男性である。

あの夢に出てきたのと瓜二つの、とても醜悪な顔をしていた。

 

(・・・こいつとは絶対に夫婦になんかならないから・・・)

 

落ちればいいのにとすら思っていた。

百歩譲っても舞台の上でしか夫婦になることはないと思った。

真未の心の中に宿ってしまった罪悪感の根源は彼なのである。

そういう憎しみの心がメラメラと真未の中に湧き上がってきた。

 

参加者の中に取り分け背が高い男性が混じっていた。

あれはきっと夢の中で見た弁慶だろうと真未は思った。

夢の中と違って髪の毛が生えていたし頭巾もしていないのでよく分からないが、

あの衣装を全てイメージをして重ねてみれば、それは間違いなく弁慶だと思った。

なんだ、現代に転生した弁慶はわりとイケメンで背も高い、これはずるいと思った。

 

しかし、よくこれだけのメンツが揃ったなと真未は思った。

世の中に「引き寄せの法則」なんてものがあるとすれば、

きっとそれは私が使える能力に違いないと思った。

だって前世で活躍したこれほどのメンツをこの会場に揃えさせたのだから。

 

 

・・・

 

 

やがて最終審査が始まった。

真未達は胸にそれぞれ割り振られた番号で識別される。

オーディションに合格するまでは、みんなただの12番とか35番とかでしかない。

過去に数多くのオーディションを受けてきた真未であったが、

選ばれるまでは何者でもないというのこの緊張感はいつも通り彼女の元へもやってきた。

だが、そこから選ばれた後、あのなんとも言えない充足感に満たされる感覚を、

彼女はゆっくりと全身に取り戻すようにして思い出していた。

 

 

最終審査は数人グループを作ってエチュードを行うことになった。

「一緒にやりませんか?」と声をかけてきた佑紀とレイナにドキッとしたが、

真未は顔見知りであった彼女達のオファーを断るのも不自然なのでその申し出を受けた。

だが、誤算だったのは、男女比のバランスを取るためという理由で、

誰ともグループを組んでいなかったあの頼朝に似た男が三人のグループに追加されることになった。

その時、真未は露骨に嫌な顔をし、その男が萎縮したのが見てわかった。

 

やがて真未達の順番がやってきた。

四人の目の前には用意されたテーブルと椅子に座った審査員達がいて、

スーツを着ている者もいれば、わりとカジュアルな格好をしている人もいた。

男もいれば女もいる、若い人もいれば年配の人も混じっていた。

 

やがてアシスタントの人が持ってきたマイクを受け取り、

一人の髭を生やした男が立ち上がって話を始めた。

 

「えー皆さん、おはようございます。

 おそらくご存知の事と思いますが、今回の舞台にはまだ脚本がありません。

 どのような演出をするかも、具体的に決まっている事は何一つありません。

 今回のオーディションは役者を選別する目的と同時に、

 この舞台の脚本や演出にインスピレーションをいただく目的も兼ねています。

 どうぞ、そういう意識を持って皆さんに演じてもらえればと思います」

 

この男は、おそらく舞台監督だろうと四人は思った。

初対面だからそう感じるのかもしれないが、冷徹な大人の目をしているように思えた。

何を見透かされているかわからない状況で、演者達はとにかく自分の魅力を最大限にアピールするしかない。

 

やがて四人は牛若丸、静御前、北条政子、頼朝という配役になりきって、

架空のエチュード(即興劇)を始める事になった。

四人が同じ場面に登場する場面は、本当はないはずであったが、

そういう架空のシチュエーションが許されるのもエチュードならではである。

四人は大筋のストーリーだけ事前に決めて、後はアドリブに任せることにした。

 

「ああ、牛若様が懐かしや」

 

鎌倉へ連れられてきた静御前が、頼朝と政子に強制されて舞を踊る場面だった。

先ほどまで頼りなさげに見えていたレイナだったが、

エチュードが始まると人が変わったように静御前を見事に演じていた。

歌も踊りも、もちろん本業が本業だけに素晴らしく、さすがと審査員達も息を飲んだ。

 

「・・・静御前」

 

「そのお声は、まさか牛若様!?」

 

そこに現れたのは佑紀が演じる牛若丸だった。

本当は牛若丸は奥州にいるはずで登場するのはおかしいのだが、

幻影が見えるという設定にすれば辻褄が合うと思ったのである。

 

「私だよ、見えるかい?」

 

セリフを述べて登場した佑紀を、審査員は目をこらすようにして見つめていた。

その中性的な美しいルックス、男らしく頼もしい中にも儚い仕草を見せる演技、

また彼女が真面目で努力家であるという背景まで全て演技から透けて見える気がした。

何よりも、女優になりたいという強い想いを感じることができたし、

もし選ばれたなら命懸けで舞台に挑んでくれるであろうという確信があった。

 

「何!?あれは義経、どうしてここに!?」

 

頼朝役を演じていた男はそういうセリフを吐いた。

この演技には特に何も光るものは見えなかった。

あの鎌倉幕府を開いた源氏の大将を演じるには多少役不足にも見えた。

 

「・・・・」

 

頼朝役の男の隣に座っていた政子役の真未は既に号泣していた。

彼女は照れ屋で恥ずかしがりではあったが、心はとても純粋だったのだ。

あの夢で見た場面とオーバーラップする眼前の場面と、

そこに現れた、前世では叶うことがなかった牛若丸と静御前の対面シーンに、

もはや演じるとかそういう次元ではなく、真未個人として涙をこらえきれなかった。

 

牛若丸役の佑紀も、静御前役のレイナも、頼朝役の彼も皆、戸惑っていた。

先ほどの話ではここまではなんとなくストーリーを決めていたのである。

その事前の話し合いによれば、次のセリフは真未の番だったからだ。

 

「・・・政子、おい政子、あれはなんだ?」

 

気をきかせた頼朝役の男がアドリブで真未に問いかけた。

当初の予定ではここで北条政子のセリフであり、

 

「あれは生き別れた牛若丸の幻影でしょう、おおなんと悲しい二人の定め」

 

といった風な真未のセリフがあり、悲劇的なこの物語を盛り上げる予定だったのだ。

そのセリフが出てこなければ、この物語の悲壮感が極まらない。

 

「・・・おい、政子、聞いているのか?」

 

頼朝役の男は焦ってまたアドリブを述べた。

この役に受かりたくて必死なのか、男は額に汗びっしょりだった。

予定外の流れにノミのような心臓が悲鳴をあげていて耐えられない様子だ。

 

佑紀もレイナもさすがに少し動揺し始めた。

予定通りに行かないのであれば、誰かがどこかでアドリブを入れて流れを変えなければならなかった。

 

「・・・ええい、義経の亡霊め、叩き切ってくれるわ!」

 

耐えきれずに男が気をきかせてアドリブで流れを作り出した。

その後の展開はどうにかみんなで考えていくしかない。

とにかく男は腰に帯びた刀を抜く仕草をして立ち上がった。

 

「うるっさいわねぇ!!」

 

突然立ち上がって吠えたのは真未であった。

その気迫は審査員の誰もが震え上がるほどであり、

その絶妙の間は、おそらく彼女にしか作り出せないものだった。

 

「・・・あんたねぇ、器が小さいってのよ!

 そんなんだから義経一人においしいとこ持ってかれるんでしょ!?

 何が鎌倉幕府よ、あんた一人じゃ平家も何もやっつけられてないじゃない!

 そんなんでいいとこ取りして歴史に名前だけ刻んじゃってさぁ、

 ふざけんじゃないわよ、あの二人の方がよっぽど偉いっつーの!」

 

突然の咆哮に驚いたのか、頼朝役の男は立ち上がる寸前で転んで尻餅をついてしまった。

そして自分が予定していた展開にならず、その為に次のアドリブも口から出てこず、

ただただ目の前で吠えた自分の妻に怯える頼朝の姿がそこにあった。

 

「あたしが見たいのはねぇ、こんな悲しい物語なんかじゃないのよ!

 それじゃあ何も変わらないじゃない、何年たっても・・・人間は何も変わらないじゃない!」

 

一人で大粒の涙を流している真未を、審査員も演者達も唖然として見つめていた。

どういう感情が彼女の中に渦巻いていたのかわからず、気まずい空気が場に漂う結果となった。

 

(・・・あーあ、やっちゃった・・・)

 

真未の涙の理由は、おそらくは途中から悲しみにすり替わっていった。

せっかくのオーディションを自分のせいで台無しにしてしまった。

やはり自分が夢なんか見るべきではなかったのだ。

それはあの枕が見せてくれた夢ではなく、舞台に立つという現実の夢を。

 

「・・・変わらないなんてことはないさ、人は変われるんだ」

 

真未の涙がまだ悲しみだった頃、その気まずい空気を打ち破ったのは佑紀のアドリブだった。

静御前の元から離れ、北条政子の手を取った牛若丸は一人で語り始めた。

 

「人間はそんなに箸にも棒にもかからない存在ではないはずだ。

 もちろん、時には愚かな存在に成り下がってしまう事もあるかもしれない」

 

審査員達は耳打ちしながら何やらひそひそと話し合っている。

予想もつかない方向へ進んでしまったエチュードに対して何かを話し合っているのだろう。

 

「だがそんな愚かな人間が、同じように温かな心を生み出している。

 神様は私たちに喜怒哀楽すべての感情を授けたのはなぜだろう?

 それはもしかすると、時には喜んで、怒って、哀しんで、楽しんで、

 そういう風に人生をより豊かにたくさん味わう為じゃないだろうか」

 

もはや真未も佑紀も、時代劇である設定を飛び越えたセリフ回しをしていた。

見ていた審査員もさすがにこれには難しい顔をしているものも見受けられた。

 

「ひょっとしたら誰かがこんな風に言うのかもしれない。

 私たちが生きているこの現実こそが悪夢なのかもしれないと。

 それは寝ている時に見ている夢とは違って、一生冷めることのない悪夢。

 でもそれは、私たち人間の心が生み出してしまった現実という世界。

 そこから目をそらすことも、逃げ出すこともしちゃいけない」

 

どうしてだろうか、その理由は全くわからなかった。

だが真未が見ていた牛若丸の目にも自分と同じように涙が光るのが見えた。

もしかするとそれは、千年の時空を超えた人間の魂が呼び起こした涙なのかもしれなかった。

 

「私達が見たいのはハッピーエンドの物語。

 だからこそ私達はこの目覚めている現実世界で夢を見るのかもしれない。

 遠くて儚くて、幻のように一生手の届かないかもしれない夢を見続けて、

 そうして現実と理想の狭間をもがき苦しみながら進んで行くのかもしれない」

 

真未が流している涙は、もう悲しみではなくなっていた。

その頬を伝う涙は温かくて、ギュッと締め付けられた胸は、

この世のものとは思えないほど苦しくて美しい痛みだった。

 

「私はただ、なんだか心が揺れたよ、と言ってもらえる作品を皆さんに届けたいのです。

 その為に理想という儚い夢を見て、愚かかもしれないけど台本のない人生を生きて行くつもりです」

 

審査員や演者という括りを飛び越えて、

その場にいる者はみな牛若丸の演技に飲み込まれていた。

真未の瞳に映っていたのは、あの夢の中で見た頼もしくて美しい牛若丸そのものだった。

 

「人間は過去を美化していく生き物です。

 この舞台がどのような物語になるのかは私にはわかりませんが、

 現代を生きる私達が創る牛若丸は、決して過去を美化したものにしたいとは思いません」

 

その舞台の中心で語りかけていた牛若丸はゆっくりと間を置いて、

そして深く息を吸い込んでから言葉をつないだ。

 

「私は、未来を美しく化かしたい。

 牛若丸という名前が誰かの希望になれるような、

 そういう素晴らしい物語が創れたらいいなと思っています」

 

そばで見ていたレイナも号泣していた。

彼女は頭で理由を探るよりも、ただ直感に任せて何かを感じていた。

現在を生きる自分達だけでなく、もっと多くの人を巻き込んだ涙であることを。

 

「・・・だから皆さん、どうか、どうか、よろしくお願いいたします」

 

牛若丸は審査員に向かって深く、長いお辞儀をした。

審査員席に座っていた女性が拍手をし始めた。

広い会場に響きわたるその単音は、やがてパラパラと続いた拍手に巻き込まれていった。

 

 

・・・

 

エチュードを終えたオーディションの参加者達は一旦部屋から出された。

控え室で待っている間に審査員が最終審査をし、合格者を選び出すということだった。

 

エチュードを自分のせいで台無しにしてしまったと思っていた真未はみんなに謝った。

だが、誰一人彼女を責める人はいなかったし、頼朝役の彼は真未にはもう逆らえる雰囲気でもなかった。

 

佑紀は自分でもよく分からない感動に心を掴まれていた。

自分が演じたとも思えないような、何かが憑依したとでも言えるアドリブに、

あれほどスラスラと言葉が出てきた事にも驚いていた。

 

レイナも何か心に引っかかる物を感じていた。

静御前を演じている自分が、これほど自然体のままで演じられる事の不思議さを覚えていた。

確かに歌や踊りには本業の経験が活かせていたが、感じていたのはそういうものではなかった。

 

やがて控え室に男性が一人やってきて、合格者の名前を呼び始めた。

真っ先に呼ばれたのは真未であり、また熱い涙がこみ上げてくるのがわかった。

呼ばれていく合格者は真未が夢で見た顔ぶればかりだった。

やがてあの頼朝役の男が呼ばれ、弁慶役の男性も呼ばれた。

レイナの名前も漏れる事はなく、最後に呼ばれたのは佑紀の名前だった。

 

 

名前を呼ばれた合格者達は、また審査員のいる部屋へ通された。

ぞろぞろと部屋に入ってきた合格者達は一同並んで審査員の前に立った。

 

一人一人の名前が呼ばれ、合格した理由などが具体的に語られていった。

 

レイナは初めこそ有名人であるネームバリューで注目されていたが、

実際に演技を見たところ、その打って変わった豹変ぶりが評価された。

普段のポンコツ風な姿からは想像もできないステージ上での才能が溢れていたらしい。

 

真未はあれほど世界観を無視した形で進めてしまったにもかかわらず、

あれだけの気迫と熱のこもった演技ができる者はなかなかいないと高評価だった。

彼女独特の間や舞台上での度胸、そうした部分での天性の資質を審査員は感じていたようだ。

 

そして、真未の隣に立っていたのはあの頼朝役の男だった。

彼は演技こそ光るものはなかったが、真未に罵倒される様が素晴らしく、

妻に尻に敷かれる夫を演じさせるならうってつけだという理由で選ばれた。

まさしく真未のおかげで合格したようなところがあり、今後も頭が上がらないだろう。

 

最後に呼ばれた佑紀だったが、これはもう満場一致の合格だったらしい。

何よりも中性的な美少年を演じるには彼女ほどの適任者はおらず、

またエチュードで見せた堂々とした姿が審査員の心に焼き付いて離れなかった。

セリフ回しこそ現代風だったが、審査員の目には頼もしい牛若丸が映っていたに違いなかった。

 

 

そういった理由が次々と語られた後、

アシスタントが持ってきたマイクを手に取ったのは、

佑紀達のエチュードの時に真っ先に拍手をしたあの女性だった。

 

「まず初めに、皆さん合格おめでとうございます。

 私が今回の脚本と演出を務めさせていただきます。

 先ほど皆さんのエチュードを見せていただいて非常に感動しています」

 

先ほどの舞台監督とは打って変わって、

彼女は物腰柔らかな雰囲気の女性だった。

年齢はおそらく40代だと思われるが、服装もきちんとしており、

品のある雰囲気から年齢よりも若く見えて綺麗だった。

 

「なんせまだ台本がないものですので、

 今回みなさんを選ばせていただいた基準は、

 私にインスピレーションをくれたかどうか、

 そういうポイントに重点が置かれてしまいました。

 逆に言えば、みなさんは私にそういう刺激を与えてくれたと言うことです。

 これはとても素晴らしいことだと思いませんか?」

 

真未も佑紀もレイナも、この女性には好感を持った。

自分のことを認めてくれる人というのは、往々にして自分に似ていることが多い。

そういう人達と一緒にやっていけることはとても幸福な結果を呼び寄せることが多いだろう。

 

「特に若杉さん達のグループのエチュードはとてもユニークでしたよ。

 型にはまらない演出が逆によかったように思えますね」

 

女性は少し意地悪にふふっと微笑んだ。

真未はその言葉を聞いて少し照れてしまったが、

結果的にあれでよかったのだと内心ホッとする思いもあった。

 

「あら、私ばっかり喋ってしまってもつまらないわよねぇ。

 じゃあ私からも少しだけ質問させてもらおうかしら。

 そうね、じゃあ桜木レイナさん、あなたに質問させてもらうわ」

 

レイナは名指しされてドキッとした。

自分は難しいことを問いかけられるのにはあまり慣れていないし、

佑紀と違って自分はそういう質問にうまく返答できるタイプではないと知っていたからだ。

 

「あなたの本業は歌手だったと思いますけど、

 今で大体どれくらい歌手をやっているのかしら?」

 

「・・・これで3年目くらいですかね」

 

レイナは学生時代にバンドを始めた頃を思い出しながらそう答えた。

そう答えて、初めて自分がそんなに長いあいだ歌手をやってきたことを実感した。

 

「なるほどね、じゃあ今後は何をやっていきたいと思っているの?

 よかったら少し教えてもらえるかしら?」

 

レイナは眉をひそめて斜め下を向いた。

彼女の最も苦手な質問にぶつかってしまったからだった。

 

「・・・確かに3年もやってきて、色々と変化はあったんですけど、

 一つ変われたことは、自分の弱いところを誰かに見せられるようになったことでしょうか。

 今まではそういうカッコ悪い自分を見せるのが嫌だったんですけど・・・」

 

レイナは人生最大のスランプを乗り越えてソロデビューを果たし、

その間に自分の弱さや甘さを直視することになった。

現在の仕事はある程度順調であり、坂を上っている思いはあった。

 

「ただ、自分の中で一つ完成してしまった感じもしていて・・・。

 今後はどんな風にしていけばいいのか、何を見せていけばいいのか、

 自分ではわからない部分を逆に教えていただきたい感じもします」

 

レイナは基本的に笑っていたい人だった。

その楽観的な姿勢で人生を楽しんで生きていくタイプであり、

佑紀のようにシリアスに人生に向き合って克己していくのとは生き方がまるで違っていた。

 

「ふふっ、あなたはとても正直な人ですね。

 もちろん、あなただけじゃなく、ここに合格した人はそうね。

 とても純粋でピュアな魂を持った方々ばかりだと私は思っています」

 

彼女はレイナの一生懸命な回答を受けて、やはり柔軟な対応を示した。

頭ごなしに叱られるような嫌な思いをせずに済んだレイナは少しホッとした。

 

「私はそういう人達と一緒に舞台を創っていきたいと思ったからです。

 脚本を書いていると時々思うんです、どうして私は悲劇を書くのか、

 どうして今回は喜劇を書くのか、そういう理由を自分の心に問いかけるの」

 

レイナだけでなく、佑紀も真未も、彼女の話に聞き入っていた。

決してレイナ一人にだけ話かけているわけではないと思ったからだった。

 

「それはね、書き上げた時の自分の精神状態に左右されていることも多いの。

 書き上げた私だって無意識的にそういう人間の心に左右されてしまうのね。

 でも、私だって本当はハッピーエンドが見たいのよ、悲しいのは嫌だもの」

 

佑紀は先ほどのエチュードでの自分のセリフを思い出していた。

自分が述べたセリフも、そういえば無意識的に心に左右されていたのかもしれない。

 

「だけどね、やっぱり神様は喜怒哀楽を人間に与えたのよ。

 さっき佑紀さんが言ったように、私達は笑ってるだけじゃなくて、

 時には怒ったり、泣いたりもするんだもの、心はなかなか思う通りにならないわ」

 

そう言ってから、彼女は少しだけ厳しい目をした。

物腰は柔らかくとも、芯のしっかりした女性であることは間違いなかった。

 

「悲劇を書くのはね、やっぱり世の中には悲しみがあるからなの。

 すべての人が楽しく笑って過ごせるなんて綺麗なことはないの。

 厳しい現実に涙して、そういう人生を過ごす人だっているわ。

 レイナさんはきっと楽しい人生を過ごしたいのだろうけど、

 楽しく過ごすには、やっぱりそれ相応の努力と忍耐も必要よね」

 

やはりこの人は優しいだけの人じゃないなとレイナは思った。

彼女の心の中には誰にも見せない汗や涙が光っているのかもしれなかった。

 

「だけど喜劇を書くのはね、それでもやっぱり笑っていたいからなの。

 それはレイナさんの考えている気持ちと変わらないのよ。

 佑紀さんが言ったように、人間は理想と現実の狭間で揺れる生き物よね。

 努力したり、時には諦めてしまったり、挫折して涙することだってある」

 

レイナは自分がスランプだった時を思い出していた。

佑紀は常に葛藤し続けてきた自分の人生を思っていた。

真未はあの枕で見た前世の悲しみを思い出していた。

一つの言葉に対する反応は各人様々であり、それが一つの真実でもある。

 

「でも私はそれでいいと思っているの。

 完璧な人なんて、それこそ人間味がなくてつまらないわ。

 辛いことや悲しいことがあったら思いっきり泣いたっていいのよ。

 そうやって人間は成長していく生き物なんだから」

 

彼女はニコッと微笑みながら合格者達の顔を見つめた。

その瞳には温かな愛情が含まれていたように思えた。

 

「でもね、もう3年もやってきた、なんて考えないでほしいの」

 

彼女はレイナの目をまっすぐに見つめてそう言った。

そうして鋭い瞳を輝かせてから、表情は一転して笑みに変わった。

 

「あなた達にはまだ無限に広がる未来が待ってるのよ。

 そんな風に落ち着いて考えるのは、せめて30歳か40歳くらいになってから。

 まだまだ若いのに、自分が何かを完成させたなんて思っちゃダメよ。

 もっと格好悪いくらい必死に、貪欲に何かを求めるくらいでちょうどいいんだから。

 答えがわからないなら、答えがわかるまで考える努力だけは続ける。

 それでもわからないなら、目の前にある事を何でも一生懸命にやっていくこと。

 こんなおばさんになった私だって、まだまだ何かを完成させたなんて思っていないのよ」

 

そう自虐的に言って彼女は笑った。

それを聞いていたレイナ、佑紀、真未の三人は、

この舞台に臨むことが、また自分達にとってゼロからのスタートになると思った。

今までに築いた自分自身を、良い意味で破壊してまたゼロから何かが始まる気がした。

 

「さて、とは言ってもまだ物語も演出も、何も決まってないのよね。

 うーん、まったくどこから手をつけたらいいのかしら」

 

口元に人差し指を当て、困惑した表情を浮かべながら彼女はそんな風に言った。

今回のチャレンジもまた、彼女にとってゼロからの出発であったのだろう。

 

「真未さんが言ってたように、悲劇の牛若丸を書いても、

 それじゃあ人間は何も変わらないのかもしれないわね・・・。

 そうなると、私には喜劇の牛若丸を書くしかないのかしら。

 そんなの従来からの牛若丸ファンの人に認めてもらえるのかな?

 まったく、とっても難しい宿題を皆さんから頂いちゃったわ」

 

首を傾げながらそういった彼女は、どこか嬉しそうだった。

難しい課題であればあるほど、創造性が求められる。

それが彼女を成長させる可能性につながるからかもしれない。

 

「でもね、私はそんな皆さんと一緒に成長していきたいの。

 私が何かを与えることがあれば、皆さんから何かを教えてもらうこともある。

 まだ手元には何も台本がないけれど、それは私達の人生だって同じこと。

 この先どうなるのか、わからないからこそ頑張れるんじゃない?

 それでも、私は皆さんが輝いている姿が見たいの。

 皆さんのハッピーエンドを心から願っています」

 

そんな風にして彼女はスピーチを終えた。

合格者達は拍手をして彼女に感謝の意を示した。

 

舞台監督から今後の予定が発表され、

稽古の日程もおおよそではあるが知らされた。

何よりもまず、彼女の台本が完成するのを待つ必要があったのだが。

 

審査員達がその場から退場し、合格者達も適時解散となった。

合格者同士はお互いの合格を祝うようにして交流しながら自然と仲良くなっていった。

 

その中で、真未は佑紀に話かけた大男の姿を見逃さなかった。

二人がどのような話をしているのか、真未にはまったく聞こえなかったけれど、

前世での因縁が確かならば、この二人に今後どういうことが待っているのか、

真未には薄っすらと未来が透けて見えて来るような気もしていた。

そんな事は露知らず、佑紀は男の話に相槌を打ちながら微笑んでいた。

 

花沙から聞いた、あのパティスリー・ズキュンヌでの四人の口約束。

それが本当に果たせるのかどうか、疑問に思っていたのは真未だけだったけれど、

でももうこれ以上は深く考えるのは止めようと彼女は思っていた。

前世の因縁とか、二人の恋の行方とか、私達の未来とか、

そういった台本は、きっとどこをくまなく探したとしても、

この世界のどこにも用意されてなどいないのだから。

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

 

狭間 ー自惚れのあとがきー

 

 

荒唐無稽で真面目な物語を書いてしまった。

矛盾するようだが、これが読み終えた時の感想だった。

 

このあとがきも、どこから手をつけていいのか悩むところである。

 

まず、予想していたよりも長編になってしまった。

書いているうちにどんどんと長くなっていったのである。

まずこれには牛若丸の物語から語らねばならない。

 

筆者にとってチャレンジだと思って取り組んだのは、

歴史に基づいた時代劇を書いてみたいと思ったことだった。

まず、まるで歴史小説を書く作家が取り組むように、

丹念に歴史を調べて人物像を浮き彫りにしていこうと企んだ。

そしてそれは見事に失敗に終わったのである。

 

その言い方は少し自嘲的になってしまったが、

開始当初の思惑と最終的に辿り着いたところが違っていたからである。

最初はもっと細かな資料を調べつくして歴史に即した物語にしたいと思っていた。

筆者はあまり荒唐無稽にアレンジした歴史小説を好んでいなかったこともあり、

嘘みたいなエピソードを適当に付け加えるのは控えようと思っていたからだ。

だが、進めていく間にその考え方も変化して、最終的にはこのような物語になった。

 

まず、筆者は書物やインターネットを元に調査を始めた。

源義経について書かれている書物は「吾妻鏡」、「玉葉」などに加え、

後代に書かれた「義経記」など様々にあることがわかった。

本当に時間があるのであれば筆者はこれらをくまなく読んでみたかったが、

さすがに無理であったのでそれはやめておくことになった。

 

「吾妻鏡」や「玉葉」などは当時に書かれた歴史書や日記などの読み物なので、

かなり真実に近い内容が書かれているのであろうと思われるが、

「義経記」などは後の時代に脚色された物語であろうと推測される。

佑紀のセリフを借りれば「美化された過去」であると言えよう。

 

当初、筆者は「義経記」などは嘘の物語であろうと思っていたので、

そこからのエピソードは拾わずに進めようと思っていた。

「吾妻鏡」や「玉葉」とも食い違う箇所が見られる「義経記」の物語は、

おそらく後代になって理想化された義経であるためにちょっと綺麗になりすぎていたからだ。

 

しかし、あまりにも歴史的事実にこだわり過ぎても幻想性に欠けることがわかってきた。

そもそも現代の我々から過去の歴史の良し悪しを語ることは、当時の価値感もなにもわからないため、

そんなことは到底無茶な話なのだが、あまりにリアルな義経は幻想性を剥ぎ取られすぎて、

それは物語として取り上げるに値しないほど寂れた人物に陥っていってしまったからだ。

そして、そこには筆者の描きたい牛若丸はいないことがよくわかってしまったからでもあった。

 

 

では筆者の描きたい牛若丸とはなんなのか?

それは初めて佑紀を目の前で見たときに感じたあの感覚だった。

この小柄で中性的な姿を初めて生で見たとき、筆者が感じたインスピレーションは義経だった。

わずか数秒の対面で剥がされていく中、筆者の心に残ったのはなぜか源義経だったのだ。

筆者の中に蓄積されている知識や経験などの集積が、おそらく彼女を見たときにそう直感として現れたのだ。

 

そして筆者はずっと、なぜ自分は彼女に義経を感じたのだろうと考え続けていたところ、

義経の幼名が「牛若丸」であることに気がついた。

物語の中でも語られたのだが、同じ「若」の漢字を持つ二人に何か運命めいたものを感じ、

 

「牛若丸+若杉佑紀」

 

というのが今回の初めのインスピレーションであり、この物語の核となった。

冗談みたいな話であり、本当にただそれだけに過ぎないのだが、こうした核のようなものが出来上がれば、

自然と物語を書き始めることができるようになるのである。

 

あとはこの二人を上手く縫い合わせていく作業になった。

その時点で筆者が目論んでいた幻想性の剥ぎ取られた義経像は姿を消すことになり、

幻想性を帯びた新しい牛若丸が物語の中で呼吸を始めることになった。

そして、そうなった以上はもう「義経記」のエピソードを排除する理由もなくなった。

筆者の見えた幻想的な風景を、歴史的真実であろうがなかろうが積み上げていくことにした。

無論、あまりに無茶苦茶なことはしておらず、大筋としては歴史的に間違ってはいないはずなのだが。

 

 

また、物語が長くなってしまった理由は丹念に調べ過ぎたこともある。

今回のために、筆者はわざわざ吉野まで千本桜を見に行くことにもなったし、

義経の鎧だと伝えられている遺品や蔵王堂、吉水神社なども訪れた。

そうしたフィールドワークを重ねたことが、書きたい気持ちを煽ってしまうことになったのである。

人里離れた吉野はなかなか行くのは難しいし、桜の咲く季節に訪れることは至難の技だが、

今回はそれが偶然にもかなったし、義経達が歩いたであろう道を色々と散策できた。

何よりも吉野山に咲き乱れる千本桜の光景は素晴らしいものだった。

 

 

さて、この物語の中の牛若丸は歴史に残っている本物よりもかなり良い性格であると思う。

それは基本的に佑紀の性格をベースにしているし、筆者の理想とも重なっているからだ。

 

主人公である彼女を調べていたとき、実はとても驚いた。

おそらく筆者と彼女は相当気質が似ていると感じたからである。

それは「真面目で精神主義者」だという点でぴったりと重なるからだ。

ただ彼女はその心を絵に表現する人であり、筆者はその心でもって文章を書く人である。

しかし基本的に、おそらく相当似通っている部分があり、理解するのに苦労はあまりなかった。

むしろ似通っているために物語の中で衝突する部分がほとんどなかった気がしている。

彼女の思考に寄り添う時、それは自然と筆者の考えに近いものを持っていたからだ。

 

わざと違う部分に着目するのであれば、彼女は倫理が好きで筆者は哲学が好きだという点かもしれない。

彼女は抽象思考で物事を考えることができるが、結論はいつも人の道に外れることはない。

それはハッピーエンドが見たい、という倫理を重視する点に置かれているのではないかと思われる。

筆者も抽象思考で考えるのだが、結論は人の道に外れてもその真実の現象を見定めようとする。

むしろ道を外れるような思考を好むために、わざと悲しみを覗いて自己を苦しめる時が多い。

佑紀の方が筆者よりも「善良」であり、筆者の方が「愚者」であるように思える。

あくまでも筆者が感じたことであるが。

 

それでも最後までほとんど別の人間を書いているという違和感は少なかった。

もちろん、彼女の方が筆者より「賢明」であり「几帳面」だと思われるが。

 

 

物語の後半戦は真未の視点で展開することが多かった。

これは彼女がちょうどいい名前のハムスターを飼っていたから選ばれることになった。

当初はここまで活躍させる思惑はなかったのだが、やはり書き始めると止まらなくなった。

 

彼女はやはり書いていて面白いのだ。

キャラクターがユニークで何をやっても愉快に展開してくれる。

もちろん、あまりこんな風に書かれるのは真未も好まないかもしれないが、

それだけ魅力のあるキャラだということで許してほしい。

 

女子高組が出てくる場面は、すべてがある種のお遊びである。

もちろんストーリーの関係上、皆を集合させる場所が必要になり、

佑紀と関係の深い真冬のお店を登場させることになった。

4人が揃った場面には、この4人特有の美しさみたいなものを感じた。

 

読んでいただくとわかることだが、これは結局のところ舞台に臨む者達へのメッセージである。

別にこの3人だけがそういう目標を掲げているわけでもないし、

他にも演者として優れた人達もグループには沢山いることは明白である。

今回はたまたまこの3人の物語ということに収まっただけだ。

 

また、主役が佑紀になったため、ジェンダーが一つの主題になっている。

筆者は男女に「らしさ」などは求めるつもりもないし、その辺りは自由で良いと思っている。

だが、生き物としてはやはり男女の間には明確な違いはあると思っている。

筆者は男性なので女性の考え方は結局のところよく分からないのだが、

男性から見た視点を弁慶の姿を借りて語ることになった。

筆者は男性でありながら、実際にはあまり男性が好きではないし、

今後やってくる時代には、女性が力を発揮することが、

時代を切り開いていく一つの新しい可能性になると思っている。

 

現代社会はそういった男性が作り出してきた今までの歴史と、

これから女性が参与してくる未来のちょうど狭間にあるのかもしれない。

そういった希望を、女性読者に語りたかったのかもしれない。

稚拙な文章ながら、何かが伝わっていれば幸いである。

 

 

ー終わりー