転がった玉ねぎを渡せ!

芽衣は激怒した。

それは彼女の人生で初めての感覚だった。

電子レンジで加熱した卵が白い殻を破って爆発するかのように、
芽衣の内側にあるすべての水分が急激に沸騰し始め、
彼女のチャームポイントである白い肌を押し破ったのだ。

白い殻を吹き飛ばした自身のかき乱された心を省みるに、
自らの中にポタポタと溢れ出る黒い水分の存在に恐怖しながらも、
芽衣は徐々にその黒さの中に自らを支配されていった。
人生でまだ誰にも見せたことのない顔を、今そこに呈している。


彼女は比較的に温厚な性格だった。
普段から友人に対して滅多に怒ることもなく、
いつも笑顔を絶やさないことで有名だったのだ。
だがその日だけは、とにかく何もかもが彼女の癇に障ったのだった。

よく整理された店内の雰囲気、綺麗なスタッフの服装、備え付けられている照明の角度、
並んでいる商品のラインナップから店先に立っているマスコットキャラクターまで、
何もかもがすべて壊してしまいたくなるほどに腹立たしくて仕方がなかった。

TVカメラが回っていなかったら、周囲にTV局のスタッフがいなかったなら、
芽衣は温厚な自分の態度を保てていたかどうかすらわからなかった。
彼女をそれほどまでに苛立たせるものはなんだったのか。
それは結局、たった一人の店長の存在が目障りなのであった。


「TVの中の人になる」と決意して田舎から上京した芽衣は、
恋の痛手や売れない下積み時代などを乗り越え、
今では立派なマルチタレントとして活躍していた。
数枚のCDもリリースして歌手としても有名になりつつあったし、
雑誌モデルやCMの依頼などが少しづつ来るようになり、
田舎の家族に胸を張って誇れるほど、今では立派な有名人になっていた。

辛かった時期や失恋の思い出なども、
今となってはそれらの痛みを忘れるために必死に仕事に打ち込めたことで、
当時のすべての過去に対して彼女は感謝していた。
忌々しかったすべての記憶も、現在が輝いていれば印象はすべて変わってくる。
あの頃の自分があったから今の自分がいる、芽衣はそんな風に考えるようになっていた。


それからはすべてが順調だった。
何をしても上手く事が運んだし、周囲のスタッフも自分をうまく持ち上げてくれた。

だが、そのお店の入り口までやって来た時、
芽衣は自分の人生の歯車が、かすかに軋む音を立て始めたのに気がついた。
TVの取材の打ち合わせで訪れたそのお店の店長と初めて顔をあわせた時、
芽衣は得体の知れない気持ち悪さに心臓を掴まれた。
自分と全く違う種類の生き物、その動作のすべてが鼻につく。
心の中に潜む己の黒い悪魔が目覚めるような、
そういう薄気味悪さを感じずにはいられなかった。


お店の名前は「パティスリー・ズキュンヌ」という洋菓子屋だった。

このお店はまだそれほど有名というわけではなかった。
個人経営の小さなお店であり、他のお店に比べると出店は遅い方だった。
初めは周囲の人気店に圧倒されてお店の売り上げは伸びなかったが、
どうすれば売り上げが伸びるのか、どうすればみんなに知ってもらえるのか、
そういう事を考え続けた店長の作戦は次々と当たった。

最初に行ったのは、お店の前にマスコットキャラクターを立てる事だった。
わかりやすいキャラクターがいれば、お店のイメージもわかりやすくてみんなに覚えてもらえる。
だが、ありきたりなマスコットではインパクトが足りない。
色々と検討を重ねた結果、リアルな人間を再現した人形の製作を業者に依頼し、
店長は斬新にもその人形にセーラー服を着せる事にしたのだ。


それがウケた。
巷では「制服のマネキン」が置いてあるお店、という風に話題となり、
地元のお客さんが徐々に足を運ぶようになり、売り上げも順調に伸びていった。

だが、やがて問題になった。
児玉坂の人気店、カフェ・バレッタの店長が異議を申し立てたのだ。

バレッタの店内には似たようなリアルな人形が飾ってあり、
しかも制服を着せているので、ズキュンヌはアイデアを盗作したとバレッタ側は主張した。
実際、バレッタのそれはあまり印象がよくなくて誰も見ていないのだが、
ヘミングウェイを読みふけっている店長の趣味で飾られているらしかった。

しかし、バレッタの店長はずっとヘミングウェイを読み続けているだけで、
基本的に自分のお店の運営にも、他店にも何か文句を言うような人ではなかった。
これはおそらく、そのお店で働いている看板娘が店長に吹き込んだものだった。
その看板娘は先月のハロウィンシーズンには自らゾンビのコスプレを行い、
かぼちゃ味の塩アイスを販売し始めたところ、斬新さが話題になりバレッタの売り上げが急激に伸びた。
ズキュンヌはまだ店内に喫茶スペースを設けていないため、
バレッタが直接の競合相手にはならないが、やがて店内でも軽食を取れるようにする計画があり、
ズキュンヌの店長はこの聡いバレッタの看板娘の動向を注視していた。


今回、ズキュンヌのマスコットにわざわざ異議を唱えてきたのには意味があった。
バレッタは児玉坂に住む誰もが知っている人気のお店であり、
クリスマスシーズンにはケーキのテイクアウトなども行っている。
この領域に関してはズキュンヌはバレッタの直接の競合相手になるからだ。
賢い看板娘がひっそりと趣味で経営していたい店長を焚きつけて、
今回のような苦情へと発展させたことは想像に難くない。

当初、ズキュンヌ側は「こちらの方が先だ」と主張をした。
確かにバレッタは「制服のマネキン」という概念で飾ってはおらず、
そういう意味ではズキュンヌの方が先に概念を打ち立てたとも言えた。
しかしバレッタ側のリアル人形にも一定の支持者がおり、
このままでは対立を深めてしまうだけで印象がよくないと判断したズキュンヌ側は、
やがてマスコットキャラの制服を着せ変えてその事件に終止符を打った。

ところが「衣装を着せ替える」というアイデアがまたしても人気を煽り、
ズキュンヌは巷で話題のお店へと進化を遂げた。
そこで芽衣にTV取材の話が飛び込んできたというわけであった。


・・・


「まふったんです♡」

芽衣は一瞬、自分の目と耳を疑った。

TVの取材の打ち合わせが敢行されたのは11月の少し肌寒い日だった。
パティスリー・ズキュンヌを訪れた時、
迎えてくれた店長は、そのお店に飾ってあるマスコットそっくりの猫顔だった。

いや、それは違った。
マスコットキャラ自体が、店長自身をそっくりモデルにしたものだったのだ。
お店の入り口付近に立つマスコットキャラを指差して店長が言ったのが冒頭のセリフだ。

それが白岸芽衣と春元真冬の出会いだった。

取材を始める前の打ち合わせの段階で、店長の真冬はテキパキと店内を説明した。
マスコットキャラの名前が「まふったん」であることにまず芽衣は度肝を抜かれたが、
スタッフの制服がメイド服である点も芽衣にはまったく理解不可能だった。

また店内の照明はなぜか商品よりもスタッフを(むしろ店長である真冬を)
輝かせるように備え付けられているようにも思えた。

それでもまあ、白を基調とした清潔感のある店内は、
まだ新しいお店の持つ期待感で満ちているような気がしたし、
芽衣が見る限り、商品棚に並べられているケーキはどれも美味しそうで、
真冬の腕が良いことは一瞥してすぐに見て取れた。
打ち合わせに参加する真冬の態度は極めて優等生であり、
どんな風に撮影をするべきなのか、自分でも色々と細かに意見を述べていた。
TV取材のスタッフにもしっかりと配慮しており、
「新商品なんです♡」と新作のマカロンを皆に配っていた。

一緒に来たTVの取材スタッフは真冬の気配りにすっかりファンになったようで、
「また今度プライベートで買いに来るね」という声には、
「えぇ〜!嬉しいです♡」と真冬は両手を頬に当てながら、
その愛嬌のある猫顔で満面の笑みを返した。

後日、芽衣と取材スタッフが幾つかの候補の中から検討した結果、
12月初旬に放送予定の「クリスマスにケーキを買いたいお店特集」の中に、
パティスリー・ズキュンヌを取り上げることに決定した。

芽衣は真冬の語尾にいちいち「♡」が付くのが癪に障ったけれど、
まあこれもお仕事だと割り切り、どのようにこのお店を宣伝するべきか、
ケーキを食べた感想をどのように述べようかなど、
彼女らしく真面目に事前準備を続けたのだった。


・・・


 

冬の寒さの到来を予感させるように、
少しずつ肌寒さを感じるようになってきた11月中旬頃、
パティスリー・ズキュンヌのTV取材は敢行された。

芽衣が取材スタッフと共にお店へやって来た時、
お店の前でマスコットキャラに新しい洋服を着せている真冬が目に入った。

と同時に、芽衣の美しい顔が少し醜く歪んだ。

「あっ、めいやん〜♡」

一度会っただけで馴れ馴れしいあだ名をつけられた事にも、
芽衣は少し驚いたが、満面の猫顔で振り向いて手を振る真冬よりも、
マスコットに着せていた服装の下品さに芽衣は怒りを覚えた。

まるで季節に逆行するようにマスコットの肌は露出していた。
両肩は丸みを強調しながらそのカーブをあらわにしており、
両足は学校だったら校則違反間違いなしのミニスカートによって、
あまりにもいやらしいほどに破廉恥な姿を児玉坂の街に晒していた。

「・・・あの、この前はこんな服は着てなかったですよね・・・」

芽衣は喉に上ってくる怒りを飲み込みながら冷静を装って尋ねた。

「あっ、これ撮影が決まったって聞いたんで、リニューアルしたんです♡
 どうせならまふったんも可愛いほうがいいかなと思って♡ 」

「・・・あら、そう・・・」

芽衣は返す言葉もなく佇んでいたが、
TV取材の男性スタッフは何となくみんな嬉しそうにも見えて、
それがまた彼女の怒りに油を注いだのだった。

芽衣はただ「これもお仕事だから、こらえるのよ」と自分に言い聞かせてやり過ごした。


・・・


だがその我慢も長くは持たなかった。

やがて準備が整い、スタッフがTVカメラを構えて撮影は始まろうとしていた。
芽衣はいったんお店の外に出て台本の流れを再度確認した後、
メイクさんが駆け寄ってきて髪型の乱れを整えた。

周囲には芽衣のファンや近所の野次馬たちが集まってきて、
芽衣はメイクさんが髪型を整えると同時に、
自分の中でTVの中の人である白岸芽衣を意識して整えた。
彼女はTVに映る時、プライベートな顔を出してはいけないと、
自分なりのポリシーを持って仕事をするタイプだった。
今日の服装はバッチリ決まっているし、メイクも悪くない。
縫製工場で働いていた時から自分が目指してきた「TVの中の人」である現在に、
芽衣は幸せを感じながら、この日の仕事も完璧にやり遂げる意志で高ぶっていた。
撮影は生放送ではなかったけれど、芽衣にはスタッフに編集の手間をかけさせないほど、
しっかりと中身のある内容にする事を自分の中で決意していたのだった。


「さて今日やってきたお店は、児玉坂でも注目のケーキ屋さんで〜す!」

取材スタッフの撮影開始の掛け声に合わせて、
芽衣はキラキラしたタレントの笑顔を振りまきながら、
パティスリー・ズキュンヌのお店の前までTVカメラを誘導してやってきた。

「お店の外装を見てください、みなさんわかりますか?
 なんだかフランスにあるようなオシャレなお店だと思いませんか?
 まるでパリにいるみたいな気持ちがしてきますよね」

芽衣は今までTVの仕事で培ってきた経験を活かし、
さすがのコメント力でお店の紹介を続けていた。
将来の方向性に迷った事もあったけれど、
一つ一つ全力でこなしてきた仕事の経験はムダにはならないと思った。
媚びる事なくプライドを持って真面目に続けてきた努力は、
辛い時代を乗り越えて実り、芽衣にしっかりとした自信を与えていた。

「それでは早速、中に入ってみましょう」

芽衣は視聴者の期待感を掻き立てながらお店に近づき、
ゆっくりとドアノブに手を掛け、ズキュンヌの扉を開けて中に入った。

台本では、ここで芽衣が店長の真冬に「こんにちは」と声をかけ、
お店の紹介がインタビュー形式で始まる予定だった。

だが、お店の中に入った芽衣は真冬が着ている制服を見て言葉を失った。
先日訪れた際には秋っぽいベージュ色のメイド服が制服だったはずなのに、
今、真冬が着ている制服は、まるで白いキャミソールかと思われるほどの薄着で、
肩と足の露出具合はマスコットキャラの「まふったん」に瓜二つだった。

「・・・こ、こんにちは・・・」

芽衣は唖然としながらもなんとか台本通りに言葉をつないだ。
だが、自分の発した声がどもっている事に気づいた芽衣は、
ああ、これはもちろん撮り直しになる、と瞬時に自覚したのだった。

「TVの前のみなさ〜ん、こんにちは〜♡」

真冬は両手でハートの形を作りながら芽衣には目線を向けず、
TVカメラのみに対してアピールしているように思えた。

「・・・どうも、あれ〜この前はまた違う制服を着てませんでしたか〜?」

芽衣はカメラが回っている事を意識しながら、
ともかくも撮影を継続しようと試みた。
もちろん、頬は引きつっていたのだったが。

「そうなんです♡
 パティスリー・ズキュンヌでは制服が定期的に変わるんですよ〜♡
 買いに来てくださるみなさんに楽しんでもらうために、
 色々と工夫を凝らしているんです♡」

その後、クリスマス用のケーキを宣伝するまではまずまず台本通りだった。
クリスマス商戦を勝ち抜くために真冬が創作したケーキは、
真っ白な生クリームを使ったイチゴのホールケーキで、
確かに見た目は綺麗だし、味も悪くはなかったのだが、
「私みたいに可愛いケーキでしょ♡」という余計な一言や、
イチゴを食べる前に「ちゅ♡」とキスをする仕草が全くの蛇足で、
芽衣はイライラを顔に表さずにはいられなかった。

しかし、そこからは真冬の独壇場だった。

お店の照明はなぜか真冬をうまく照らすように周到にアレンジされていたし、
どういうわけか、他の制服に着替えて登場するシーンの撮影も始めた。
(なぜかナース服やキャビンアテンダント風の制服もあった)

また、勝手にカメラさんを引っ張って行き、マスコットキャラの宣伝を始めたり、
そのうち店内に喫茶スペースを設ける計画や、
私は実は洋菓子だけじゃなくて料理も得意なんです、というような、
全く台本にない内容までここぞとばかりに宣伝を始めた。

真冬にとって、今回のTV撮影は大きなチャンスだと感じていた。

子供の頃から秀才だった真冬だったが、
何より勝負どころの勘の鋭さは誰よりも優れていた。
周囲の空気を読みながら上手く自分をアピールする術に長けており、
生粋のスーパーコンピューターであるその頭脳は、
瞬時にあらゆる物事や人々の感情を読み取って高速処理を始める。
本人にとって全く悪気はないのだろうが、
彼女は周囲に対して自分がどう行動すれば最適な利益を得られるのか、
瞬時に理解して行動に移してしまうのだった。

10月のハロウィンではバレッタの看板娘にしてやられた。
だから12月のクリスマス商戦では絶対に負けるわけにはいかなかった。
このTV取材は真冬にとってはお店を拡大するまたとないチャンスであり、
上手くいけばお店の拡張、喫茶スペースの設置にまで繋がり、
将来構想の中にある料理店の出店計画、チェーン店化、デリバリー配送、
目玉メニューの商品化とネット販売、あわよくば百貨店での販売などなど、
彼女の頭の中は向上心の塊のような野望で溢れかえっていたのだった。

ズキュンヌのブランドイメージを高めるためには、
マスコットを立てて話題になった部分にフォーカスすることが大切だと考え、
そのモデルである自分のキャラクターすら売り込んで話題にしようと企んだ。
取材が来る前も、SNSなどを駆使して店舗の宣伝を行ってもいたし、
イメージを上げるためなら、いつか自分で本でも書いて出版してもいいとすら考えていた。

彼女は一分一秒も止まっていられない性格だったし、
決して怯まずに前進を続けるタイプだった。
人心掌握の術にも長けていたし、
相手にメールを送るタイミングも完璧であり、
自ら人々を楽しませるイベントを企画する能力にも優れていて、
おそらく彼女は普通の会社組織のようなところでも出世するタイプだろう。

だから、ここで真冬が行っていたアピールはすべて彼女なりに意味のあるものだったが、
一言で表現してしまえば、世間からはさすがに「あざとい」と呼ばれるものだった。

「チャームポイントは太ももなんです〜♡」

という言葉が発せられたところでさすがに芽衣もブチ切れた。
無言のまま俯いた芽衣は太ももを撮影しているカメラマンへ手を翳し、
「ちょっとカメラ止めてください」とスタッフに告げたのち、
真冬を睨みつけた顔はまさに般若の容貌を呈していた。

「それはさすがにやりすぎだろ」

芽衣の今まで誰にも見せたことのない表情を見て、
真冬はさすがに調子に乗りすぎたかと思い、
頭の中のスーパーコンピューターが瞬時に再計算をし始めた。
この状況を切り抜けるにはどうすればいいか・・・。

「・・・ごめんなさい、私ちょっと浮かれちゃって♡」

真冬は「てへっ」という照れた表情で視線を男性スタッフの方向へ向けてそう言った。
何より四面楚歌を防ぐため、まず周囲のスタッフを籠絡しようとしたのだ。
言葉にするとかなりあざといが、真冬の頭脳は瞬時にこの答えをはじき出していた。
そしてそれは、状況を打破するには最善と思われる一手だったと思われる。

真冬のコンピューターは、さすがに芽衣もスタッフの前で問い詰めてこないと考えた。
だが誤算だったのは、このやり方が芽衣の怒りの火に油を注ぐことになったことだった。

「まあまあ芽衣ちゃん、真冬ちゃんも浮かれてただけで・・・」

釣られた男性スタッフが芽衣をなだめ始めた。
これではまるで芽衣が悪者だったかのように思えてくる。
これが芽衣の虫の居所をさらに悪くさせた。

「浮かれてたら何をやってもいいんですか?」

腕組みをしてキレている芽衣には、
まるで大女優が怒っているような貫禄すらあった。
男なんてバカな魚達に過ぎないのだと感じた。
釣られて惨めに捌かれて干物にでもされてしまえばいい。
こんな魚達には決してLove songなどありはしない。

芽衣には正義感に加えて生来の頑固さがあった。
古風な気質をしている彼女は曲がったことが許せないし、
鉄の意志を固めてしまえば自ら折れることはない。
だが、真冬は真冬で決して折れない鉄のハートを持っていた。

中国の故事成語に「矛盾」という物語がある。
ある男はどんな盾をも貫く矛と、どんな矛も通さない盾を売っていた。
ではその矛と盾がぶつかった時はいったいどうなるのか?
男は自分の論理の不完全さのために返答に窮してしまった。

だが人々は結局、最強の矛と最強の盾の激突が見たいのだ。
どちらかが先に砕け散るのか、それとも・・・。

「悪いけど、これお昼の番組なの」

芽衣は白昼から公共の電波で太ももを晒す事などあり得ないという意味を込めて言った。

「いや〜でも編集でどこを使うかはスタッフさんが決めるから・・・」
「そんなの使うわけないでしょ」

芽衣は間髪入れずにピシャリと制した。

「あと、料理の宣伝とか関係ないでしょ。
 ケーキ屋ならケーキの宣伝をして欲しいんだけど」

真冬は焦っていた。
ここまで来て芽衣の機嫌を損ねてしまっては、
この番組の宣伝を取り止められてしまう恐れもある。
それだけは避けたいと思った。
クリスマス前の、ここは大事な勝負どころなのだ。

「・・・私、めいやんがTV番組で料理を作ってるの観たことがあって、
 それを観てから、私もいつかお店を出したいなぁって思ったんです♡」

真冬は芽衣が過去にTVの料理番組にゲスト出演した時、
料理を作っているのを観た事があった。
だが、そこで影響を受けたというのはさすがに咄嗟についた嘘だった。

真冬は時々、巧妙に嘘を真実の中に忍ばせる。
本人に全く悪気はない、その方が話しが盛り上がるからそうするのだ。
それは嘘と言ってしまえばちょっと意地悪かもしれない。
人間誰しも話を盛る事は無意識にやっているからだ。
だから真冬本人も嘘をついているとは考えていないし、
誰かを傷つける嘘は絶対につかない良心を持っている彼女だから、
まあそういう行為も話し上手として昇華されてしまう。

結局、彼女自身もそういう行為をやめられない。
なぜなら彼女の行為は頭の中の自動計算機が弾きだした結果であり、
その場に最もふさわしい利益を得る行為を導き出しているからだ。
そして導き出された計算結果を行為に移す速度に躊躇はない。
彼女自身が意識しても、おそらくこの手の計算をやめる事はできないのかもしれない。


奇妙なおだてられ方に、芽衣はさらに怒りを覚えた。
絶対にこじつけだと思った芽衣は矛をしまうことはなかった。

「ディレクター、別のお店にしませんか」

ついに禁断の一言を芽衣は告げてしまった。
真冬はピンチの状況を打開するべく計算を続けていた。
彼女は難しそうな顔をして考えているディレクターの顔色を伺いながら、
いったい次にどういう一手を打てば逆転できるのか、
そればかりを考えていた。
真冬は「ピンチはチャンス」だと考える性格をしていたし、
諦める事なく前進を続ける本能を生来備えていた。

「・・・ディレクターさん、私めいやんと料理対決してみたいです」

芽衣は眉間にしわを寄せて真冬の方を向いた。

「私、ずっと料理番組を持つのが夢だったんですよ。
 洋菓子も好きですけど、料理も同じくらい好きで。
 めいやんも料理が得意だし、どうですか?
 番組内で料理対決するっていうのは?」

真冬はディレクターがキレている芽衣に興味を抱いているのを見抜いていた。
今まで誰もこんな顔をした芽衣を見た事がなく、
他のスタッフはうろたえている中で、ディレクターはクリエイティブな観点から、
この芽衣に新しい魅力を感じていたし、それを活かす方法をずっと考えていた。
そこを刺激するしかない、打開策はそこにあると真冬は見抜いた。
そしてそれは、さらなる大きなチャンスをもたらすと、
真冬の鋭い嗅覚は感づいていたのだった。

「私が負けたら、お店の宣伝番組はなくなってもいいです。
 でも私が勝ったら、めいやんと一緒に料理番組をもたせてくれませんか?
 最近、なんでもコラボレーションするの流行ってるじゃないですか。
 結構視聴率も取れるんじゃないかと思うんですよね」

真冬は瞬時にこんなアイデアを生み出す事が出来る。
頭の回転が速すぎて止まる事を知らない。
それでいてあまり嫌味な感じはしないからずるい。

だが芽衣は「ちょっと何勝手に話を進めてるの・・・」

「面白いね、それやろう」

ディレクターは芽衣の言葉を遮るようにそう告げた。

「最近、ちょっと企画がマンネリしてきてたところだった。
 ちょうどいいよ、お店の紹介ばっかりじゃつまらないし、
 真冬ちゃんは個性的で面白いから盛り上がるかもしれない。
 芽衣だって料理の腕を披露する場があれば、
 新鮮な魅力で新しいファンを獲得出来るかもしれない」

真冬は緊張していた顔を崩し、愛嬌のある糸目になって、
「絶対に面白くなりますよ♡」とたたみかけた。

「ちょっとディレクター!」

芽衣は気まぐれなディレクターに怒りをあらわにしたが、
手招きされて呼ばれ、何かを耳打ちされてから、
ふぅーとため息を吐き「それもどうかと思いますけど」とブツブツ言ったが、

「じゃあ真冬ちゃん、2週間後くらいを目処に番組撮影するからまた後日連絡するよ。
 せっかくの対決だから、臨場感のある生放送でどうだろう?
 いや、絶対にその方が面白くなるな、真冬ちゃん、対決の準備をしておいてくれよ」

ディレクターは一人で納得して勝手に話を進めてしまった。
「もうっ」という顔の芽衣と満面の笑みで何かを計算中の真冬を残して。


・・・


真冬には絶対的な勝算があった。
それは芽衣に料理で必ず勝つという勝算ではなく、
料理対決の勝敗にかかわらず、この対決自体がお店の宣伝につながるという確信だった。

番組収録は2週間後、テーマは得意料理での対決だったので、
真冬は着々と準備を進めていった。

披露する料理はカニクリームコロッケに決定し、
番組収録時に着る可愛いエプロンも準備万端だった。
初めてのTV収録に少しばかり緊張も覚えたが、
それ以上にどうやってお店の宣伝を盛り込むのか、
どうやって自分のキャラクターを印象づけるのか、
収録時に採用されそうなキャッチフレーズや台詞まで、
真冬は事細かに勝利の方程式を組み立てていった。


「方程式」と書くと彼女が理数系にも思えるが、
彼女はどちらかと言えば文系の頭脳を持っていた。
台詞の中身も「真冬の」にするか「真冬と」にするかで悩み、
最終的に「の」より「と」の方が他者とのつながりを感じるので、
「真冬と」にすることに決めた。

こういう小さな箇所の違いに気づくのが彼女の頭の良さだった。
元々、一人よりみんなと繋がることに喜びを感じる真冬ではあったが、
見てくれる視聴者と自分が繋がりを持つという方向性が、
自分のお店を繁盛させるのに貢献する事を肌で理解していた。

そもそも、彼女は他人を喜ばせることに生きがいを感じるタイプだ。
正確に言えば、他人を喜ばせている自分に満足感を覚えるのだが、
ギブ&ギブで他者に何かを与え続けていける稀有なタイプの人間だと思う。
彼女の驚くほどのバイタリティーは羞恥心を吹き飛ばして進む。
世間一般から見れば、一見あざとくも見える恥ずかしい度が過ぎるアピールも、
泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロのようにグイグイと前に進む彼女を、
ある意味で周囲も羨ましいと嫉妬してしまうのかもしれない。

ただ、彼女の資質で最も大切な点はその母性愛だと思う。
クレオパトラの鼻がもう少し低かったならという表現に似て、
もし真冬の母性愛がもう少し足りていなかったなら、
歴史は大きく変わっていたかもしれない。
彼女は唯々あざといだけの女性として終始敵ばかり作る状態に陥ったことだろう。
結局、彼女の持つ涙もろい思いやりの心が、
真冬の持つあざとさをすべて中和してしまうのであった。


・・・


だが、その日は朝から彼女のコンピューターに微妙な狂いが生じていた。

番組収録の為にスタジオへやってきた真冬だったが、
当初から出鼻をくじかれることとなった。

楽屋に入った真冬が目にしたのは、
部屋に置いてあった白いコックコートだった。
それは何の変哲もない普通の白いコックコートであり、
真冬からすれば面白みも何もないものだった。

そのコックコートの横にメモが添えられていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「本日の番組収録では、必ずこちらの服装でお願いします」

                      芽衣

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


芽衣には真冬が可愛い服装を持参してくる事を先読みされていて、
先にチクリと矛を刺してきたのであった。

真冬は悩んだ末に計算式をはじき出した。

(・・・見なかった事にしよう・・・)


結局、持参してきた可愛いエプロンを身につけた真冬は、
颯爽とスタジオ現場まで駆けつけた。
カメラのケーブルでわざと転ぶ振りを見せつけて、

「真冬ちゃん、大丈夫?」というスタッフの同情も取り付けた。
「大丈夫です、私すぐ転んじゃうんです♡」とスタッフに微笑みを返し、
さりげなく着用している可愛いエプロンをアピールした。

「真冬ちゃん、可愛いエプロンだね。
 今日の収録用に準備してきたの?」

スタッフはもう釣り針をパクリと飲み込んでしまっていた。

「いやぁ〜、私なんて全然可愛くないですよ〜♡」

そう言いながら可愛い仕草をする真冬に、
世の中の男性達はメロメロになっていく。
小さい頃から家の中で弟を転がしてきた真冬にとっては、      
男心をくすぐることくらい訳はないと考えていた。

「可愛くないなら着なきゃいいでしょ」

真冬が振り向くと、そこには唇を尖らせて目玉をひん剥いている芽衣が立っていた。
真冬は怯まず「めいや〜ん♡」とじゃれる振りをして距離を詰めようとしたが、

「楽屋のメモも見なかったの、本当にドジね」

と高いところから見下してくるような芽衣の視線に、
さすがの真冬も凍えるような冷たさを覚えた。
鉄の矛が鉄の盾と相見えて甲高くて冷たい金属音を打ち鳴らしていた。

真冬は不利な状況を打開するべく、ディレクターを味方につけようとした。
芽衣の後ろにいるディレクターに視線を飛ばし、

「あの、恐縮なんですが、こちらのエプロンの方が可愛いと思うんですけど、
 今日はこれを着て撮影に望んでも構わないでしょうか?
 私のお店の個性をアピールするのにはこちらの方が面白いと思いますし、
 番組的にも盛り上がると思うんです」

真冬は先ほどのスタッフに対する態度とは全く違う様子を見せた。
この手のクリエイティブな男に対してはぶりっこは通じない。
毛嫌いされてしまうだけだ、それよりも相手が面白いと思うユーモアや、
番組企画に対する熱意を見せる方が採用してもらいやすい。
真冬は瞬時に釣り針の餌を変えることで相手を翻弄しようとした。

「・・・悪いけど、今日はこっちの用意した服を着てくれないかな。
 一応、こちらの用意した筋書きもあるんでね」

ディレクターは餌には食いついてこなかった。
この1週間で芽衣がディレクターを取り込んだのかもしれない。
もしくは少し見え見えの餌を放り出しすぎたのかもしれない。
バカにされたと感じられては、後々ディレクターを敵に回すことになる。
それはこの段階では得策ではないと判断をした真冬は、
ここは諦めて用意された制服を着ることにした。
大きな魚を釣るために、小さな魚にはかまっていられないと。


だが、楽屋に戻ってコックコートを着用した真冬は愕然とした。


コック帽が、キツイ。


サイズが小さかったのか、着用してすぐに頭を締め付けられる思いがした。
これはきっと芽衣の嫌がらせだと思った。
コックコートはジャストのサイズを用意していたくせに、
コック帽だけはわざと小さめのサイズを用意していたに違いなかった。

真冬は芽衣の顔を思い浮かべながらTVで観たことがある西遊記を思い出した。
菩薩のような美しい顔をした三蔵法師が、
言うことを聞かない孫悟空の頭に輪っかを取り付けた。
孫悟空が何か悪さをすると、三蔵法師がブツブツと呪文を唱え始める。
そうすると、頭に取り付けられた輪っかが孫悟空の頭を締め付ける。

真冬は「芽衣ならさぞかし綺麗な三蔵法師だろうな」と思った。
映画やドラマなんかに出演しても、美しい役が芽衣には似合う。
自分なんて西遊記で言えば悪さをする孫悟空にすぎない。
どうせ私なんてちんちくりんのお猿さんなんだ。
でも、そんな私をこんなコック帽ひとつで締めつけようとするのなら、
孫悟空なりに精一杯番組の中で暴れてやると真冬は決意した。


本当は真冬だって十分可愛いのだけれど、
芽衣のような美人と肩を並べるとなると、
比較対象として自分がどう見えるのか、
真冬は自分を瞬時に客観的に見て卑下して考えてしまう。
どちらが美しいかなんて、本当は各個人の好み次第なのだけれど、
真冬は自分の立ち位置をきちんと冷静に見つめて処理をするくせがあった。
でも視聴者の人達も、きっと真冬が可愛いと心の中で言うだろう。
声に出して表現してしまうと、彼女のキャラクターを壊すから言わないけれど。


・・・


芽衣は必死に笑いをこらえていた。

スタジオに登場した真冬の帽子がキツキツだったからだ。
通常はカッコよく見えるはずのコック帽だったが、
真冬の頭を締め付ける様が、どうにもおかしくてたまらなかった。

真冬はそんな芽衣を見て「絶対にわざとだ」と確信した。
目を細めて冷たい視線を芽衣に送ってみたが、
その度に手で口を押さえて笑いをこらえている芽衣を見て、
「これはやりすぎだ、あんまりだ」と心の中で思った。

だが、この時はまだ真冬の本当の苦難は始まってもいなかった・・・。


・・・


「白岸芽衣は料理もうめいやん〜!」

マイクを持った司会者が番組のコーナー名を叫びあげると、
隣にならんだ芽衣が手を叩いて番組を盛り上げている。
登場を待ちながら裏でコーナー名を聞いた真冬は、
「私ならもっといい名前をつけるのに」と密かに思った。

この新コーナーは白岸芽衣が児玉坂にある有名店の料理人達と対決し、
その料理の腕を競うというものです、的な説明を司会者が慣れた口調で語り、
芽衣も「初めてだから緊張してます」という風な優等生の会話を交わしていた。

番組ディレクターは難しそうな顔をして椅子に座って見ており、
足を組みながら顎に手をあて、人差し指で頬に淡々とリズムを刻んでいた。

今日の対決相手はこの人だ、という司会者の合図で、
真冬は開いたドアのセットからスモークと共に飛び出した。

「お風呂にする〜?ご飯にする〜?それとも真冬にする〜?
 ダーメ、今日は料理番組だから、真冬はあ・と・で♡」

素人とは思えない慣れた態度でカメラ目線をバンバン飛ばしながら、
真冬は2週間かけて考えてきた台詞をいきなり恥ずかしげもなく披露した。

芽衣のキラキラした表情は一瞬にして曇りのちドシャ降りになった。
この子にはプライドと言うものがないのかと芽衣は思った。
自分が今まで誰にも媚びずに貫いてきたポリシーのようなものを、
真冬はいきなり真っ向から否定するような行為をやってのけたからだ。

黙って見ていたディレクターはこの時、小さく拳を握りしめていたように見えた。
はしゃぐ真冬、怒れる芽衣、そしてそれを見て静かにほくそ笑むディレクター。
このトライアングルの微妙な駆け引きに、番組全体を奇妙な空気感が支配していた。


・・・


「いや〜真冬ちゃん、いきなりの登場でかましてくれましたね。
 素人とは思えないほどにTV慣れしてますね。
 ちなみに、どうですか、今日の意気込みは?」

司会者が番組を盛り上げた真冬を褒め称えるようにして質問を投げた。
芽衣は自分よりも真冬の方が番組的に重宝されているように思えて癪にさわった。

「いや〜、めいやんの料理の腕には到底かなわないと思いますけど、
 私もいつか飲食店を出そうという計画があるので、今日は負けたくないですね♡
 あっ、ちなみに私いま、児玉坂でパティスリー・ズキュンヌって洋菓子店を出してるんです。
 ちょうどタイミングよく、もうすぐクリスマスですね。
 よかったらTVを観ている皆さんもお店に遊びに来てくださいね〜♡」

真冬はカメラ目線でトドメのウインクと投げキッスを披露した。
司会者も調子を合わせて「うぃ〜たまりませんね!」とのろけている。

(・・・何がタイミングよくよ、すべて計算じゃない・・・)

芽衣は鬼の形相になり、何か一人でブツブツと唱えているように見えた。
ディレクターはその様子を観てニヤニヤとほくそ笑んでいる。
真冬は考えてきたとおりの流れを披露できたことに満足していたが、
隣で鬼が降臨して何やらブツブツと唱えているのが居心地悪く感じて、
ふと三蔵法師の呪文を思い出すとコック帽が締め付けられるような気分がした。

(ちょっと調子に乗りすぎたかな・・・ここからはめいやんを少し持ち上げて・・・)

真冬は締め付けられる頭で再計算を行い、場の空気を変えようとした。

「そういえば私、以前にめいやんが料理してる番組を見たことあるんですけど、
 すごい上手に作っているのを観て感動したんですよ。
 あんな美味しそうな料理を作られたら、私なんかが勝てる気がしないです〜♡」

真冬は司会者に目線を向けて話しているが、本当は芽衣に向かって配慮の姿勢を取っていた。

(・・・何言ってんのよ・・・あざといのバレバレよ・・・)

芽衣は心の声で話しているつもりが、
何やらブツブツ独り言をいっているようにも見えた。
電子レンジの卵はいまにも爆発寸前に思えた。
しかし、意外な流れが芽衣の怒りを鎮めることになった。

「そうですか、芽衣ちゃんの料理の腕は確かに素晴らしいですからね。
 真冬ちゃん、ハンデ欲しいですか?」

芽衣は台本にない「ハンデ」という言葉に驚いた。
とっさにディレクターの方を見たが、彼はピクリとも動かない。
だが、かすかに口元から笑みをこぼしているように見えた気がした。


「えっ、やった、いいんですか?
 欲しいです、ハンデ欲しい〜♡」

真冬は勝敗にはこだわっていなかったが、
勝てば芽衣との料理番組に出演させてくれるという約束を密かにディレクター交わしていたので、
こんな流れは渡りに船の申し出だった。

芽衣は突然の流れに混乱を隠せない様子だった。
一体ディレクターは自分に秘密で何を企んでいるのだろう。

「ハンデ欲しいですか、それでは今日は助っ人としてスペシャルゲストをお呼びしています。
 それは・・・こいつらだ!」

派手な音楽と共にまたスモークが焚かれ、
後ろのドアから2人組のシルエットが見えた。

やがてスモークをくぐり抜けて現れた美少女達は、
なぜかピクリとも笑わない全く無表情な顔つきをしていた・・・。


・・・


真冬はこの2人組のうち、1人は見たことがあった。
もちろん芽衣も見たことがあった。
真冬と芽衣だけでなく、おそらく児玉坂の街の誰もが彼女を知っていた。

無表情で現れたのは天才ピアニストの菊田絵里菜だった。
ドイツ出身で音楽の才能に溢れている彼女が、
どうしてこんな番組にゲストとして呼ばれたのか。

もう1人は真冬も芽衣も見たことはなかった。
彼女の髪型はツインテールで、顔の左右に髪の毛が触覚のように垂れていた。
無表情なので感情は読み取れないが、雰囲気から何だか豪快な女の子だということは読み取れた。

「さあ、それでは自己紹介をお願いします!」

司会者は番組を盛り上げるように大声で二人に紹介を促した。
彼はディレクターの意図で操られている人形だった。
彼の行為自体、すなわちそれはディレクターの意思そのものだった。
芽衣は注意深く司会者と二人の美少女の動向を見つめていた。

「私たち、コロッケ姉妹です」

無表情のままで彼女たちは答えた。

「えっ、天才ピアニストの菊ちゃんですよね?」

真冬はその場の誰もが思っていた疑問を代弁した。
絵里菜は何も答えずにただ無表情で真冬の質問を無視した。

芽衣は気になって「こちらの方は・・・」と絵里菜にもう一人の美少女について尋ねた。
絵里菜はこちらの質問には無表情のままではあるが返答をしてくれた。

触覚のある彼女の名前は勝村さゆみと言った。
彼女は絵里菜が以前、激辛うどんを食べる対決をTV番組で行った際、
ライバルとして出演してくれたフードファイターだと説明してくれた。
その時の結果は絵里菜の勝利に終わったのだったが、

「大食いやったら負けてへん、激辛とかはそもそもうちのジャンルちゃうわ」

という風にさゆみ自ら説明してくれた、それも無表情のままで。


・・・


2人の登場に真冬も芽衣も意表をつかれすぎて調子を崩された。
これから一体何が始まるのか、2人にも全く予想ができなかった。

「さて、なぜこの2人に登場してもらったのでしょうか?」

司会者が真冬と芽衣の心を見透かしたかのように司会を進める。

「真冬ちゃん、今日作ってくれる料理はなんですか?」

司会者の質問に真冬は「今日作るのはカニクリームコロッケです」と答えて「あっ!」となった。

「はい・・・コロッケ作るんだったら、コロッケ姉妹の助っ人は心強いですよね?」

司会者はなぜか少し奇妙な笑みを浮かべているように思えた。
真冬はその奇妙な笑みの理由が瞬時にわかった気がした。
彼女は以前TV番組で、絵里菜がだし巻き卵を作る場面を見たことがあった。
その結果は、児玉坂の街の誰もが知っているから述べる必要はない。
天才ピアニストの唯一の弱点は料理の才能が欠如しているところだったのだ。

真冬は不安になり「菊ちゃん、カニクリームコロッケってどうやって作るか知ってる?」と尋ねた。

「・・・蟹に何かしらの粉をつけてピッて」

無表情で答える絵里菜に絶句した真冬は不安そうにさゆみを見つめた。

「・・・食べるんやったらうちにまかしとき!」

こちらも無表情で返答、「今日は食べるんじゃなく、作るんですけど!」と素早いツッコミの後、
真冬は瞬時に司会者の方を振り向き、

「ハンデって、これどっちがハンデなんですか?
 この2人いらないです!いや本当に!」

芽衣はうろたえて切実に叫んでいる真冬を見ていて笑いをこらえるのに必死だった。
彼女が動揺すれば動揺するほど、芽衣にはおかしくてたまらなかった。

「さて、制限時間は1時間。
 その間にお互いの得意料理を作っていただきましょう!
 それでは・・・スタート!」


無情にもスタートの合図が鳴り、真冬と芽衣はそれぞれのキッチンへ移動した。
コロッケ姉妹を名乗る2人は真冬側のキッチンへ移動したが、
各々に何か思考があるらしく、対決のために並べられた食材を物色しに行った。


真冬のスーパーコンピューターは生まれて初めてエラー表示を点滅させていた。
今までに経験したことのない事態に、今後の展開が全く読めない。
圧倒的な勝算を確信していた真冬の頭の中の計画はすべてバブルのように弾けて消えた。
そして後からやってきたのは、日本がバブル後の不景気の底をはい続けたような、
いつまでも明けることのない果てしない闇ばかりだった・・・。


・・・


それぞれのキッチンに移動した両者は、
各々の得意料理を今回の対決のために用意してきた。
芽衣はハンバーグを、真冬はカニクリームコロッケを選んだ。

両者ともに似ているのは、焼いたり揚げたりする前に、
形を作ってある程度寝かせておかなければならない点だった。
特にクリームコロッケはしっかりと熱を取らなければ、
最後に揚げる際に形が崩れてしまう恐れがある。
本来なら1時間以上はきちんと寝かせておきたいところなのだが、
今回は生放送での勝負のため、冷やす時間はほとんどない。

だから真冬はできるだけ早くクリームコロッケの中身を作り上げて、
冷蔵庫にできるだけ長く寝かせておきたかった。


・・・


キッチンに移動した芽衣は、慣れた手つきでハンバーグの準備を始めた。

事前に制服を準備された真冬と違い、芽衣は持参のエプロンを身につけていた。
白い肌によく似合う柔らかな印象のベージュニットに可愛いピンクのエプロンを着用し、
今年の手料理を作って欲しい彼女No.1に選ばれそうな出で立ちをしていた。

髪の毛を後ろでくくり、両腕のニットをまくり上げた芽衣は、
スタジオに用意された玉ねぎをキッチンまで持ってきて皮をむき、
軽く水洗いした後、包丁を使って慣れた手つきでみじん切りにし始めた。

カメラが撮影していた芽衣の手つきは本当に鮮やかで、
今まで彼女があまり料理をすることを知らなかったファンにとっても、
またあまり彼女のことを知らない視聴者にとっても、
新しい魅力としてTVの向こう側へ届いていることは間違いなかった。
彼女の好感度はまた上がるだろう、そして芽衣も自意識過剰だなと思いながらも、
自分自身でそれを意識しながら玉ねぎに包丁を落としていた。

みじん切りにした玉ねぎをフライパンに流し込み、
玉ねぎに熱が通る心地よい音が響き渡った。


「料理なんて普通すぎて趣味でもなんでもない」と芽衣は思っていた。
確かに、現代の若者の趣味と言えばインドアでもアウトドアでも、
もっと多種多様な選択肢があるものなのかもしれない。
しかし、逆に料理ができる女子も減ってきている中で、
結局は王道である料理ができる女子は男子から高い評価を受けるのである。

だが、芽衣はこの点、何をやってもあまり自分を褒めることはない。
対照的に真冬は、料理ができることを精一杯アピールしたがる。

真冬からすれば、こんなに美しい人が料理もできるなんて、
芽衣なんて非の打ち所がないように羨ましいとすら感じている。

芽衣からすれば、何をやってもイマイチ自分に自信が持てないのに、
真冬は腹立たしいほどに自らを周囲にアピールすることに長けている。
この怒りの感情の中に、かすかな嫉妬心が含まれているような気もした。
お互いに、自分にないものを相手の中に見ているのかもしれなかった。


玉ねぎに火を通し、冷ましておきながら、
芽衣はボールにミンチやら何やら、ハンバーグの材料を入れてこね始めた。

(・・・1人で作るより、みんなで作る方が楽しそうかも・・・)

ハンバーグをこねながら、芽衣は羨ましくなってチラりと真冬の方を見た。
真冬に被せられているコック帽が目に入り、またおかしみがこみ上げてきて、
せっせと手を動かしながらも、芽衣は笑いをこらえながら吹き出しそうな顔をしていた。
生放送のTVカメラはその自然な彼女の微笑みを電波に乗せていった。

ディレクターはニヤリと笑いながら指をパチンと弾いた。
これだよ、と言わんばかりに・・・。


・・・


真冬は芽衣が可愛いエプロンを身につけているのを見て、
「絶対に私の帽子のサイズはわざとだ」と確信を深めた。
そして芽衣は、こちらを見て笑いをこらえながら料理を楽しそうに作っている。

だが、真冬が頭を痛めていたのはコック帽のせいだけではなかった。
コロッケ姉妹というハンデを抱えて、さてどうやって芽衣に立ち向かおうか。
あてのない冒険に出る旅人のように、真冬は先の見えない恐怖と向き合いながら、
2人にどうサポートしてもらおうかと計算を巡らせていた。
正直、何もしないでもらえると一番助かるのではあるが、
後で編集の効かない生放送で2人をほったらかして1人でせっせと作るのはあまりに印象が悪い。
3人チームのようになっている以上、コロッケ姉妹にも活躍の場を与えてあげなければいけない。


きっとこれははめられた、真冬はそう直感した。
生放送にしたのは、私がきっとこんな風に考えることを計算づくだったのだ。
コロッケ姉妹の登場をサプライズにしたのだって、
ギリギリまで私に計算をさせないための作戦だったのだろう。
では一体なぜ・・・真冬はそんな風に考えてディレクターを睨みつけた。
ディレクターはそんな真冬の顔を見て、かすかに口元を緩めて笑っていた。


とにかく、早く料理を作り上げなければ。
真冬は我に返ってスタジオに置いてある食材置き場へ向かった。
クリームコロッケを作る最初の工程に必要な食材・・・あの子がいない。

玉ねぎがなかった。

真冬はとっさに芽衣を見た。
ハンバーグを作っている芽衣がいくらかの玉ねぎを持って行ったのは間違いない。
しかし、スタジオに用意された食材の全部を1人で抱えていったのか?
果たして芽衣がそこまでのイジワルをするだろうか?
それとも、これもディレクターの仕組んだ罠なのか・・・?

そんな風に、色々と考えを巡らせていた真冬の前を、
転々と通り過ぎる丸い球体が突然にして目に飛び込んできた。


玉ねぎだった。


転がる玉ねぎの先にはさゆみがいて、その玉ねぎを拾った。
そして無表情のままでその玉ねぎを絵里菜に向かって投げつけた。

キャッチボールをしているのだ。

ひたすら無表情で玉ねぎをボール代わりにしてキャッチボールをする2人を見て、
真冬はコック帽がキリキリと頭を締め付けるような錯覚にとらわれた。

(・・・孫悟空、まだ何も悪いことしてないのに・・・)

前途多難すぎる料理対決に真冬は軽いめまいさえ覚えた。
そんな真冬を追い詰めるようにカメラマンの横にいるADさんのカンペには、
「早く料理を作って」という文字が書かれていて手のジェスチャーで文字を指し示している。

(・・・そんなこと言われなくてもわかってるに決まってんじゃん!)

真冬はキャッチボールをしているコロッケ姉妹の間に入り込み、
投げられるボールを必死にインターセプトしようと努めた。
だいたい、このご時世に食材をおもちゃにしている番組なんて見たことない。
しかもその2人は一応は真冬と同じチームに所属しているメンバーである。
視聴者からしたら、パティスリー・ズキュンヌのスタッフと思われる可能性だってあるのだ。
一刻も早くやめさせなければお店のブランドイメージが致命傷になりかねない。

「菊ちゃん、お願い玉ねぎをこっちにちょうだい!」

真冬は哀願するように絵里菜に頼み込んだが、絵里菜は目線を合わそうともしない。
昔TVで見た菊ちゃんは野菊のように素直で可愛い女の子だったはずなのに、
今日の彼女はどうしてこんなに無表情で冷たいのだろうか。

「えー、やだ」とそっけなく答えた絵里菜は玉ねぎをポイとさゆみに投げた。
届かずに床を転々と転がった玉ねぎを拾い上げたさゆみを追いかけようとした瞬間、
真冬は後ろから突然何者かに身体を掴まれた、正体は絵里菜だった。

「ちょっと、菊ちゃん離して!」

何を思ったのか思いっきり抱きついてきた絵里菜は真冬を離してくれなかった。
さゆみは玉ねぎを拾っておもむろにまな板の上に乗せて皮をむき始めた。
そして、包丁を取り出して危なっかしい手つきで玉ねぎを切り刻み始めた。

「食物連鎖、食物連鎖・・・」

さゆみは無表情のまま、ブツブツとつぶやきながらひたすら乱雑に玉ねぎを刻む。
バラバラに解体される玉ねぎの憐れな姿に同情を覚えながらも、
真冬は一つ肝心なことが気になった。

「・・・さゆみん、手洗った・・・?」
「・・・洗ってないよ」

真冬はお店をやっているから衛生観念には敏感だった。
このご時世、食中毒事件でも起こしてしまえばどんなお店も存続できない。

「・・・いま、洗ってないって言った?」
「ううん、言ってない」

「食物連鎖、食物連鎖」と無表情で再度つぶやき玉ねぎを刻みだしたさゆみに、
真冬はゾッとした嫌悪感を覚えずにはいられなかった。

さゆみがこのままクリームコロッケを作ってしまったなら、
きっと食べた審査員は食べたが最後、そのまま息を引き取ってしまうかもしれない。
そして責任は全部自分におっかぶさってくるに違いない。

真冬は食物連鎖を意識した。

私はいま、食物連鎖のピラミッドの最下層にいる。
このまま彼女たちに翻弄されていたら間違いなく食われてしまう。
この番組の尺も、もう随分彼女たちに食われてしまった。
お店だってこのままだと食いつぶされてしまう。
クリスマス商戦の前に、お店をたたむ羽目になりかねない。
このままでは対決の勝敗はどうであれ、自分にとっては損失しか残らない。

絵里菜に羽交い締めにされているこの状態にもかかわらず、
カメラの横にしゃがんでいるカンペスタッフは、
「真冬ちゃん、早く料理作って」というカンペに必死に指をさしてアピールしてくる。
これ、絶対にわざとやってると真冬は思った。
スタジオ中のみんながきっと私を貶めるためにグルになっているに違いない。
ディレクターの口元がまたしても緩むのを、真冬は確かにその眼に焼き付けた。

だが、真冬はプレッシャーに強い女の子だった。
追い詰められれば追い詰められるほど、その本領を発揮する。
彼女のコンピューターのCPUはここから2倍、3倍、4倍まで速度を上げていった。
狂った計算の修正式が導き出されたのだ。

「菊ちゃん、今度ね、菊ちゃんのためにタルト作ってあげる!
 菊ちゃん一人で全部食べていいよ、だからこの手を離して、お願い」

真冬は絵里菜を買収する作戦に出た。

「え〜っ、いつ作ってくれるの?」
「明日作ってあげる!
 あと、菊ちゃんが好きな紅茶のクッキーも作ってきてあげる!」
「え〜っ、やったぁ、絶対だよ、約束破ったら針千本のますから」

絵里菜は相変わらずの無表情ではあったが、
かすかに感情の揺らぎを見せたかに思えた。
催眠術にかかったりしているわけではないことがわかった真冬は、
きっとコロッケ姉妹もディレクターの指示に従っているのだと感じた。


絵里菜から逃れた真冬はさゆみのそばに駆け寄った。

「さゆみん、見て、めいやん料理作ってる姿めっちゃ可愛いよ!
 ほら作ってるハンバーグ、きっとさゆみんのために作ってるんだよ」

さゆみはめいやんを見て「ほんまや、めっちゃ可愛い」と無表情でつぶやいた。
一瞬の注意をそらした時、真冬はまな板に乗っている玉ねぎを奪い取った。
バラバラ殺人事件にでも遭遇したような玉ねぎに哀れみの視線を注ぎながら、
まず、さゆみの触ったその玉ねぎを水で綺麗に洗いなおしてから、
自らも包丁を右手に持って、丁寧にみじん切りを始めた。


最初の段階で随分とタイムロスをしてしまった。
早く作って冷蔵庫に冷やす時間を確保したかったのに。

小さい頃から家族の食事を作ってきた真冬は、
さすがに慣れた手つきで乱雑な玉ねぎを生まれ変わらせていく。
見るも無残だった玉ねぎは、細やかで美しいみじん切りにまで転生した。

だが、真冬は玉ねぎを切りながら泣いていた。
それはもう、玉ねぎを切っているから泣いていたのか、
別の理由で泣いていたのか誰にもわからなかった。

ただ1つ、真冬は自分がなんて無様な姿を全国に晒しているのだろうと思った。
番組が始まるまでの計算ではこんなはずじゃなかった。
こんなめちゃくちゃな事に巻き込まれてしまうんだったら、
当初のお店の宣伝番組で満足しておけばよかったと思った。
あの時にあざとく色々と宣伝を盛り込むべきじゃなかった。
近年まれに見る、自分の中での痛恨の計算ミスだと真冬は後悔した。


・・・


芽衣は先ほどからじっとこちらを見つめている視線に気がついていた。

ミンチをこねて冷蔵庫に寝かせた芽衣は、
その間にデミグラスソースやハンバーグに添えるグラッセなどを作ろうと考えていた。

そんな時、芽衣はさゆみがこちらをじっと見ている事に気がつき、
なんとなく笑顔で彼女に向けて手を振ってみた。
さゆみは無表情のままだったが、芽衣に手を振り返してきた。
その瞬間、芽衣には彼女が微かに笑みをこぼしたようにも見えた。

餌をくれることがわかった野良猫のように、
ちょこちょことさゆみは芽衣のそばへ駆け寄っていった。

1人で作っていたのが本当は少しさみしかった芽衣は、
さゆみがこちらへ寄ってきてくれたのが嬉しかった。
そして、チームは違うのにもかかわらず「一緒に作る?」と勧誘してみた。
さゆみは無表情のままこくりと頷いた。

芽衣はさゆみが真冬のキッチンで行っていた一部始終を知らなかったので、
自分がデミグラスソースを作っている間、
さゆみにはブロッコリーとにんじんのグラッセを任せることにした。


・・・


真冬は着々と調理を進めていた。
フライパンにバターを敷いて、玉ねぎを飴色になるまで炒めた。

ここで真冬にはアピールするべき場面があった。
カニクリームコロッケを作るのではあったが、
高級なカニやカニ缶を使用するのではなく、
カニカマを投入するのであった。

もちろん、番組的には高級カニもカニ缶も材料として揃えているのだが、
真冬はあえて庶民的なカニカマを使用することで好感度アップを狙ったのだ。
しかし、当初の予定のようにゆっくりとカメラさんにアピールする暇もなく、
真冬はただただ焦りながらせっせと調理を進めていた。
当初の計算では、本当はこんなはずではなかったのに。

「ねえ真冬、これどうかな?」

振り返るとそこには、ナンプラーのボトルを手に持っている絵里菜が立っていた。

「魚介類と相性いいって聞いたことあるよ〜」
「・・・絶対にダメ!」

真冬らしくないキツイ言葉で絵里菜の提案を却下した。
カニカマは確かに魚介類ではあるけれど、
ナンプラーなんて入れられたら匂いがきつくなってたまったもんじゃない。
審査員の方々に未知の味を食べさせるわけにはいかないのだ。

無表情ではあったが、あまりの冷たい態度に少し拗ねたようにも見えた絵里菜は、
ツンとした表情のままでここじゃないどこかへ行ってしまった。
真冬にとっては、彼女がキッチンから離れておいてくれた方が今はありがたかった。


真冬は続いて牛乳を投下し、クリームコロッケの中身を順調に作っていった。
少しホッと一息つきながら調理を続けていると、

「ねえ真冬、こっちのほうがおいしいかも」

知らない間に隣に立っていた絵里菜が持っていたのは、
チョコレート・シロップのボトルだった。

「白と混ぜたらグレイになるかも」

真冬には絵里菜が一瞬だけ悪い顔になった気もしたが、
やはり相変わらずの無表情であった。
頭が疲れた時に絵里菜がチョコを求めるのは彼女のファンの間でも有名だったが、
ここでそんな変な誘惑にほだされてグレイ色のクリームコロッケにされてはたまらない。

「菊ちゃん、それだけは絶対だめだからね」
「いやだ、入れるもん」
「ダメ!絶対にダメ!」

絵里菜は真冬の制止も聞かず、チョコシロップのボトルを強引に傾けた。
本気で入れようとしてきた絵里菜に驚いた真冬は、
とっさにフライパンを持ち上げてチョコシロップが投入されるのを防いだ。

だが、フライパンに引き寄せられるように手の角度を動かした絵里菜は、
チョコシロップを真冬のコックコートの上にこぼしてしまった。
ちょうど真冬のお腹の部分にこぼれたチョコシロップは真っ黒なシミになった。

それを観ていたスタジオ中の誰もが笑い転げたのだった。
みんなが笑う声に気づき、芽衣も真冬のキッチンへ目を向けた。
真冬の白いコックコートのお腹の部分だけ、真っ黒に染まっているのが目に入った。

芽衣はさすがに笑いをこらえきれなかった。
ずっと無表情だった絵里菜とさゆみも、なぜだかカメラに映らないように後ろを向いてしまった。

真冬はさすがに恥ずかしくなってお腹を隠して座り込んでしまった。
全国に流れている生放送で、どうして真っ黒なお腹を晒さなければならないのか。
これではまるで「腹黒」だと思われてしまい、視聴者の印象は最悪だ。

真冬はもう泣きたかった。
お店の宣伝の為に出演したはずなのに、
これではお店の印象を悪くする為に出演しているようなものだ。
今日は何をしても計算通りいかない。

床に一滴の水が落ちた。
鉄のハートを持つ真冬であったが、計算外の出来事に頭がパニックになり、
全てを一度整理する為には涙をこぼすしかなかったのだ。

(・・・でも、負けるのはいやだ・・・)

しかしここからが真冬の真骨頂であった。
根性だけは絶対に誰にも負けない。
この子にはトラウマになるというようなことはないのだろうか?
苦手な運動であっても、大嫌いな昆虫であっても、
どんなに打ちのめされても結局は立ち上がってくる。
彼女にとっての涙とは、ショートしてしまった思考回路をクールダウンさせる為の、
一時的なフリーズタイムでしかなかった。
それが終わると、またコンピューターは全ての情報を整理して、
また未来の予測を次々と弾き出す、今まで以上に冷静な頭脳で。


・・・


真冬は立ち上がった。
お腹には真っ黒なチョコレート・シロップがついているが、
もうそんなことは気にしていなかった。

再計算された未来予測にはディレクターの戦略も、
コロッケ姉妹のいじわるも、全てデータに取り込まれていた。
先ほどは未知の攻撃にやられてしまったけれど、
いったん真冬のデータに取り込まれてしまえば、
もう同じような攻撃は二度と通じない。
真冬とは打たれる度に進化するコンピューターなのかもしれない。


作りかけていたカニクリームコロッケの中身を塩胡椒で味付けし、
テキパキと粗熱をとった後で冷蔵庫に放り込んだ。
揚げる前に少しでも熱をとらなければ崩れてしまうからだ。

後は時間を置いてから取り出し、
小麦粉、卵、パン粉をつけて揚げるだけだ。

真冬は落ち着いて周囲を見渡した。
さゆみはどうやら芽衣のキッチンへ忍び込んでいるらしく、
絵里菜は食材置き場で「お腹すいた〜」と言いながら何かを物色している。
ひとまず周囲にトラブルメーカーはいないため、
この隙にコロッケに添えるキャベツやトマトを準備することにした。


・・・


芽衣は楽しそうだった。

冷蔵庫に寝かせておいたハンバーグを取り出し、
形成しながら小麦粉を振ってフライパンへ乗せた。
「ジュー!」という美味しそうな音が耳に心地よく、
芽衣は自分が久しぶりに楽しく料理ができていることを実感した。

近くには悪戦苦闘しながら人参を切っているさゆみがいたが、
真冬の言うことは全く聞かないさゆみも、
芽衣が優しく包丁の使い方を教えると、素直にその通りに切り始めた。
手つきは危なっかしかったけれど、教えた通りに上達していったので、
芽衣は途中からあまり口出しをしなくなった。
やればできる子なのだろうと思った。

チラッと真冬の方に目をやると、
キツキツの帽子にお腹が真っ黒のコックコートを着て、
それでも一人奮闘していた。

やはりその姿はおかしかったけれど、
さすがに少し可哀想にも思えてきて、
芽衣は心の中で「頑張れ」と応援する気持ちになっていた。
そして、いつの間にかそんな感情が自分の中で芽生えていたことに驚き、
人間の心は本当にわからないものだな、と思った。


ハンバーグを両面ともに焼いた後で一度取り出し、
混ぜておいたデミグラスソースを絡めて火を通し始めた。

いい匂いを嗅ぎつけた犬のようにさゆみがやってきた。
少し多めに作ってしまった芽衣は、完成したハンバーグをさゆみにあげようと思った。
まだ時間にも余裕があったし、また次のハンバーグを焼けばそれでどうにでもなるからだ。

「これ、うちがもらっててもええのん?」

無表情で尋ねるさゆみに、芽衣は笑顔で「うん、いいよ」と答えた。
さゆみは熱々のデミグラスソースがかかっているハンバーグをひょいと箸で取り上げ、
顔色を変えずにそのまま口に運んだ。

「めっちゃうまい」と言ったさゆみは無表情ではあったが、
さすがに少し目元が崩れたように見えた。
しかし、何より芽衣には自分の料理を褒めてくれたさゆみの存在がとてもありがたかった。


・・・


時間に追われていた真冬は、
少し早いとも感じていたが、コロッケを冷蔵庫から取り出した。

コロッケを取り出すとき、入念に周囲を見回していた。
あの姉妹がどこから襲い掛かってくるかもわからなかったからだ。
真冬はそうとう用心深くなっていた。
生放送のカメラに映っていた真冬は、顔は相変わらずのニコニコ笑顔なのに、
行動は非常に用心深くて、そのギャップが視聴者の視線を彼女の黒いお腹に釘付けにした。
純粋そうに見えていたのに、あの子いったい何を考えているかわからないわ、と。


真冬は自分でもカメラの向こうの視聴者の反応を気にしていたが、
もうどうしようもなかった。
今は何よりもこのコロッケを守らなければいけない。
冷蔵庫から取り出したコロッケの中身は、美しい純粋な雪色の宝石のようで、
これこそが視聴者にアピールしたい私の色なのよ、と真冬は目を輝かせた。


キッチンまでコロッケの中身を運んできた真冬は、
油で揚げる準備に取り掛かった。
その前に小麦粉と卵とパン粉で衣をつけないといけない。
小麦粉、パン粉・・・卵がない。


さっきここに準備しておいたはずの卵がなかった。
あの子達の仕業に違いないと思った。
さゆみは芽衣のところに行っているから、間違いなく菊ちゃんだ。

真冬は絵里菜の方向へ目を向けると、案の定、絵里菜は卵を手に持っていた。

「菊ちゃん、卵、それこっちちょうだい!」
「ほい」

何を思ったのか、絵里菜は生卵を真冬に向かって放り投げた。
食材をおもちゃにして落としたら番組に苦情が来るのは明らかだ。
真冬は運動音痴ではあったが、この時ばかりはさすがに俊敏に生卵に反応した。

しかし「ベチャ」。
生卵は真冬の両手の平の上で無残にも割れてしまった。

「割ったら飲む、すぐ飲む!」

絵里菜は無表情ながら鬼コーチのような言い方だった。
食べ物を粗末にする映像を放送するわけにもいかず、
促される指示に従うように、真冬は両手で生卵を飲んだ。

「うげっ・・・って、これ番組違くない!?」
「もういっちょ」

躊躇する間も無く絵里菜は次の生卵を投げてきた。
真冬はさすがに2つ続けて生卵を飲みたくないので、
いつか見たあの番組の教えを思い出して、
キャッチの寸前に手を引くようにしてうまく生卵を捕球した。

「やるじゃん」
「やるじゃんじゃないよ、もう!」

さすがの真冬も少しご立腹だった。
以前TVで見た時は野菊のような素直な子だと思っていたのに、
今日の絵里菜は真冬を不安にさせる天才だと思った。
こんな子だったら、いつかおひたしにして食べてやるとすら思った。


そして振り返った真冬を待っていたのは絶望の光景だった。
真冬の目にその絶望の光景が飛び込んできた瞬間、
彼女はせっかく死守した生卵を「ベチャ」っと床に落としてしまった。


「サイダー♪」

と無表情でつぶやきながら、冷蔵庫から出したばかりのクリームコロッケに、
ドボドボとサイダーを浴びせかけているさゆみがそこにはいた。

さゆみは無表情のまま顔を真冬に向けて言った。

「クリームサイダーなの♡」

・・・


芽衣はもうすでに調理を終えていた。

さゆみが作ってくれたグラッセも出来上がり、
お皿にデミグラスソースで仕上げたハンバーグを乗せ、
隣にブロッコリーとにんじんのグラッセを添えた。

司会者は芽衣の作り上げたハンバーグを絶賛し、
今年のお嫁さんにしたい候補No.1間違いなしですね、などと感想を述べている。
見たところ本当に美味しそうにできており、
視聴者から見たところ、勝敗はもうすでに決まったように思えた。


・・・


カメラマンもさすがに床に落とした卵を映さないように配慮している。
カンペを持ったADは相変わらず必死の形相で「真冬ちゃん、早く作って」を指さしてくる。
司会者はなぜかこのタイミングで「調子のほうはいかがですか?」などと聞いてくる。

「あ’’ぁ?」

追い詰められた真冬は思わず家族にしか見せたことのないような、
とてもぶっきらぼうな顔を司会者に見せてしまった。
母や弟には偉そうにふるまう様を、外面上は見せないように努めてきたのに。

「この番組なんなんですか?おかしいんじゃないんですか?」

気が利かないというより、おそらくわざとこんな質問をしてくる司会者に、
さすがの真冬も声を荒げて怒ってしまった。
「怒ってるんですか?」という司会者の追撃に「そりゃ怒りますよ!」と返した。

芽衣はそれを見て笑っていた。
笑いが止まらなかった。
怒っている真冬が全然怖くもなんともなかったからだ。
芽衣は「あーおかしい」と言いながら薬指で目尻の涙を拭っていた。


真冬は怒りながら1人で冷蔵庫のほうへスタスタと歩いて行った。
残り時間は20分を切っていた。
もう始めからクリームコロッケを準備している時間はなかった。

真冬は冷蔵庫を開けて、奥に隠しておいた秘密のトレーを取り出した。
中にはカニクリームコロッケの中身が入っていた。

これは真冬の奥の手だった。
最悪の場合を想定し、もしコロッケが形にならなかった場合、
冷蔵庫の奥に隠しておいたあらかじめ準備したこちらのコロッケを使おうと思っていた。
しかし反則ギリギリの技なので、本当に必要に迫られた時以外は使うつもりはなかった。
だが、このような状況下で、もう反則も何もなかった。
やらなければこちらがやられる、食物連鎖の最下層に組み込まれる。


真冬は目を鋭く輝かせて冷蔵庫をパタリと閉めた。
番組開始時のあのぶりっこの真冬はもうどこにもいなかった。
このコロッケだけは絶対にあの子達には渡さない。
これはパティスリー・ズキュンヌが生き残るかどうかのサバイバルだ。
真冬の頭の中のスーパーコンピューターは光の速さであらゆる状況を仮想していった。
蜘蛛の巣を張り巡らせたように、スタジオ内のあらゆる全ての物事が、
真冬の頭脳に残らず取り込まれては分析されていった。

「・・・負けたくない・・・」

真冬は涙を流しながら、そうつぶやいた。


・・・


真冬の視野は広い。

本人自身、常に広い視野で物事を見ようと普段から意識している。
その目的は、自身をアピールすることであり、
自分の影響を他人に広げることで幸福を得ることである。

その目的を遂げるために、どういう理由かはわからないが、
自分以外の多角的な視点から物事を把握する癖がついたのだろう。
知識欲も旺盛で、わからなければ自分で調べるタイプだった。
独立心もあり、例えば得意料理のカニクリームコロッケは、
母親も作れないから自分で作ってみた、という経緯がある。
そのエピソード自体、他の誰もやってない領域を自分で開拓し、
その成功体験を土台にして自己を確立していったことを証明している。

そうやって物事の本質、社会の構造、人間心理などを考えて生きて来た結果、
現在では何も意識しなくとも広い視野で物事が見えるようになったにちがいない。
何もしなくとも、他人がどのように言われれば嬉しいのか、
自分にとって利益を得るように動いてもらうにはどうすれば良いのかが手に取るようにわかる。
それはもう無意識の領域に刷り込まれているために、意識してもやめられない。

真冬のような人は、敵に回したくない。
だが、味方になってくれればこれほど頼もしい人はいない。
しかし、彼女のすごいところは、例え敵対していたとしても、
知らず知らずのうちに彼女の世界に取り込まれており、
気づいたら彼女の弾丸によって心が撃ち抜かれているところなのだ。
あなたのハートにも風穴が開いていないかどうか、一度耳を澄ませてみてはいかがだろうか。


・・・


「真冬、何か手伝おっか?」

絵里菜は無表情に真冬にそう尋ねた。
手に持っている新しいコロッケが狙いなのはすぐにわかった。

「お願い、何もしなくていいからじっとしてて!」

真冬は毅然とした態度で冷たく言い放った。

「え〜、つまんな〜い」

絵里菜は食材置き場に置いてあった蕎麦を持ってきて遊び出し、
児玉坂46の「何もできずに蕎麦を打つ」を歌い始めた。
彼女は根っからのじっとしていられないタイプで、
ストレスを感じると歌を歌うことで発散したりする。

 ごめんね そんなことしか言えない
 おろおろ君を抱きしめるだけで…
 役に立たないもどかしい自分
 それでも 力になりたい

 頑張れ 頑張れ 僕は祈る
 泣いてる 震える 手を握ろう
 頑張れ 頑張れ もう少しだ
 鼻水 すすって 泣き止むまで


蕎麦を打つ振りをしながら絵里菜は無表情で歌っていた。
真冬は「この楽曲、菊ちゃんあまり知らないはずなのにな」と思いつつ、
彼女のアカペラの歌声は澄んでいてとても綺麗だった。


反対側では、なぜかケチャップをいじりながらさゆみも共に歌い始めた。
芽衣も「私もこの歌知ってる」と言って合わせて歌い始めた。
会場のスタッフ達も、知っている人たちは次々に口ずさんでいる。


高温の油にコロッケを潜らせながら、真冬はどこかで聞いたことのある話を思い出した。
それは四面楚歌という故事成語の物語だった。

「四面楚歌」という言葉は孤立していて周囲がみな敵ばかりの状態を指すが、
元々、昔の中国の楚という国の覇王であった項羽という人が敵に包囲された時、
敵軍の漢という国の軍勢が一斉に楚の国の歌を歌い始めた事が由来だ。
項羽の軍勢は、自分の国の民がすでにみな降伏し、祖国の歌を歌っているのかと勘違いさせられた。
そうして戦意喪失を狙ったのがこの漢の軍勢の策略だったのだ。

真冬は高熱の油によって汗をかきながら孤独にコロッケと格闘していた。
このスタジオの中はまさしく四面楚歌だった。
自分以外は全て敵であり、四方から聴こえてくる悲しい歌も、
きっと自分を油断させるための罠にちがいないと真冬は考えていた。

今、真冬は絵里菜とさゆみに挟まれて立っている。
一方は蕎麦をいじりながら遊んでいて、もう片方はケチャップを持って遊んでいる。
自分が揚げているコロッケが完成した瞬間を狙って、
この姉妹が攻撃を仕掛けてくる可能性は高いと睨んだ。
この四面楚歌の状態で、真冬は一瞬たりとも気は抜けないと思った。


・・・


司会者が残り時間を告げた。
残された時間はあと10分だった。

真冬は揚げ物をすくう調理道具を使ってカニクリームコロッケを取り出した。
鍋の油から取り出されたコロッケは、まさに黄金の衣をまとって輝いていた。

油を切りながらキッチンペーパーを引いたお皿にコロッケを映した真冬は、
ここで近づいてきたカメラに向かってコロッケに「ちゅ♡」のポーズをとった。
この土壇場にしてその余裕を見せる真冬には、芽衣もあきれ返るしかなかった。

だが、その一瞬の油断が命取りとなった。

「ねえ真冬、こっち向いて〜」

真冬が絵里菜の方を向くと、なぜか彼女は真冬の携帯を持って勝手に写メを撮っていた。

「ちょっと、菊ちゃん私の携帯どこから・・・」

コロッケから目を離したのはたった数秒でしかなかったけれど、
真冬が次にコロッケに視線を戻した時には、
すでにコロッケの上には真っ赤なケチャップがまるで血の海のように大量にかけられていた。


それを目にした真冬はがっくりとうなだれた。

真冬は両手に持っていたコロッケのお皿をキッチンに置き、
1人でうつむきながら佇んでいた。
ケチャップの海にコロッケを沈めたさゆみ本人と絵里菜は、
まるでハイエナのようにコロッケに群がり、
さっさとお皿を持って向こう側へ行ってしまった。

芽衣はさすがに同情した。
彼女はコロッケ姉妹に関してはディレクターから全く知らされていない。
さすがにこれはひどすぎるのでは、という彼女の優しさが芽生えつつあった。
一生懸命、お互いに正々堂々と戦って、それで勝負を決めたらいいじゃない。
番組を盛り上げるためだと言っても、少し残酷すぎやしないだろうか。
芽衣はすでに真冬を特別な戦友のように思っていた。
初めは大嫌いだったけれど、こんなに必死に頑張っている姿を見て、
さすが若いのに1人でお店を立ち上げただけのことはあると思った。
その自分が持っていない才能に、芽衣は間違いなく尊敬の念を抱いていたのだった。


しかし、その時だった。


真冬は立ち去っていく二人を確認した後、
別の場所に隠してあったトレーをキッチンの上におもむろに取り出した。
そこにはまっさらでまだ揚げられていないカニクリームコロッケが、
白い肌を輝かせてキラキラと光っていた。


芽衣は目を疑った。

(・・・どうして、コロッケはさっき揚げてたじゃない・・・)

真冬はとても真剣な顔で再びコロッケを揚げ始めた。
その動作は運動音痴とは思えないほどに俊敏であり、
とても軽やかな動作であった。


芽衣はコロッケ姉妹が食べている方へ目をやった。
2人は先ほどのコロッケを夢中になって食べている。

その時、芽衣は気づいた。
先に揚げたコロッケは、さゆみがサイダーをかけた方のコロッケだったのだ。


真冬には既に予測済みだった。
過去の情報から読み取るに、コロッケ姉妹は完成と同時に襲ってくると。
それならば、先にクリームサイダーになってしまった方のコロッケを揚げ、
それをおとりとしてコロッケ姉妹を遠ざけてしまえば良いと考えていたのだった。

しかし、サイダーをかけられて水分を含んだクリームコロッケの中身であれば、
柔らかくなりすぎて揚げる時に爆発する恐れがあるのではなかったのか?
芽衣はコロッケ姉妹が食べているカニクリームコロッケを1つ味見してみた。
そして、コロッケの衣の中にもう一層の膜が隠されていることに芽衣は気がついた。

(・・・これは、春巻きの皮だ・・・)

偽物コロッケとは言え、絵里菜とさゆみの目をごまかさなくてはならない。
真冬はとっさの判断でサイダーまみれの材料に適切な処置を施し、
崩れないように春巻きの皮で包んでからパン粉をつけて揚げたのだった。


追い詰められた真冬のCPUの処理速度は上がり、
今となっては涼しい顔でテキパキとコロッケを完成させていった。
プレッシャーがかかればかかるほど、彼女の能力は高まっていく。
誰も彼女の計算からは逃れることができないのであった。


本物のカニクリームコロッケは鍋から揚げられて、
その黄金色の衣を鮮やかに輝かせていた。
キャベツとトマトを盛り付けていたお皿にコロッケを乗せて、
目の前に迫ってきたカメラに向かって真冬は言い放った。

「愛情たっぷりのコロッケ、真冬と一緒に早く食べよ♡」

カメラに向かってウインクを決めた真冬を見て、
芽衣には憎悪と敬意の入り混じった複雑な気持ちが湧き上がって来るのを感じた。
そして、真冬のコックコートのお腹の黒色が、やけに際立って映えているように見えた。

・・・


真冬のカニクリームコロッケが完成したところでタイムアップとなり、
芽衣と真冬の勝敗の行方は審査員の評価に委ねられることになった。

本物のカニクリームコロッケを食べ損ねたコロッケ姉妹は、
少し恨めしそうな顔をして(それでも無表情なのだが)、
先ほど食べた偽物のカニクリームコロッケにかけていたケチャップが、
なぜか彼女たちの左右のほっぺたについて赤い斑点のようになっていた。
どういう風に焦ってむさぼり食えばそんな風になるのか、真冬にはわからなかった。


審査員は5人。
審査方法は極めて単純で、真冬か芽衣のどちらか一方の札を上げる投票制だった。

「2人の料理の味はいかがですか?」という司会者の問いには、
どの審査員も「いい奥さんになれます」やら「普段からちゃんと料理をしてますね」やら、
2人を褒め称える内容ばかりだったので、勝敗の行方は全くわからなかった。


「さて、それでは審査員の方々、美味しかったと思う方の札を上げてください!」

ドラムロールが流れて、真冬と芽衣は2人とも祈るようなポーズで結果を待った。
投票の結果、3対2で真冬のカニクリームコロッケの勝利だった。


真冬の頭上にあったくす玉が割れて、紙吹雪が彼女に降り注いだ。
くす玉からは「真冬ちゃんおめでとう」の垂れ幕が降りていた。

真冬は顔をくしゃくしゃにして飛び上がって喜んだ。
喜んだあと、芽衣に抱きついて涙を流していた。

司会者が「今の心境はいかがですか?」と問うと、

「私なんかが勝っちゃって本当にごめんなさい。
 本当はめいやんのハンバーグの方が美味しかったと思います。 
 TVを見ているめいやんファンの方に申し訳ないです」

と謙虚な言葉を並べていた。

芽衣にはわからなかった。
この謙虚な姿勢が天然なのか、それとも計算なのか。

それはきっと視聴者の誰にもわからなかった。
多分それは、時々訪れる彼女の計算と天然が重なる交点なのだろう。
自動計算機である彼女がその計算を止められるわけはないのだが、
真冬の持つ本来の優しさや思いやりの心が、
奇跡的に冷たいコンピューターに温かさを宿すのだ。

「審査員の先生のご意見を伺ってみましょう。
 先生、真冬ちゃんの勝因はなんでしょうか?」

司会者は番組のクライマックスに向けて盛り上げていく。

「そうですね、カニクリームコロッケは美味しかったですよ。
 お店で出しても問題ないんじゃないでしょうかね。
 逆に、惜しかったのは芽衣さんのグラッセですね。
 これは残念ながらきちんと火が通っていませんでした」

芽衣はドキッとした。
さゆみに任せていたグラッセだったが、
途中から全くチェックをしていなかった。
うまくやっているように見えて、やはり失敗していたのだ。


芽衣はさゆみが無表情で自分を見ていることに気がついた。
その表情には感情が読み取りにくかったけれど、
「ごめんなさい、ごめんなさい」という声が芽衣には聞こえた気がして、

「すいませんでした、私の腕がまだまだ未熟だったもので・・・」と審査員に謝罪した。

審査員の先生は、

「芽衣さん素直でいいですね。
 あなたみたいな完璧に見える方でもうっかりミスはあるんですね。
 逆に、見てる皆さん親近感を持ったんじゃないですか?」

と好意的に受け止めたコメントをしてくれた。

さゆみは相変わらずの無表情で芽衣を見つめていた。
芽衣はさゆみに向けて軽くウインクをした。
2人の間に何も言葉はなかったけれど、
なぜだか分かり合っていたような、そんな風に真冬には見えた。


「それではですね、最後になりますが、
 真冬ちゃん、この対決に勝利したら何か願いが叶うんですよね?」

司会者はいよいよクライマックスのテンションで真冬に期待感を抱かせた。
真冬もディレクターと約束していた芽衣との料理番組の約束を思い出していた。

「えっ?ホントにいいんですか?
 めいやんと料理番組を一緒にしたいのが希望だったんですけど。
 えっ!?本当に叶えてもらえるんですか?」

真冬は頑張った甲斐があったとしみじみ感じた。
この新しい料理番組を通じて自分のキャラを売り込んでいければ、
その効果でズキュンヌの売り上げも比例して上がっていくだろう。
また、昔から料理番組をやりたいと思っていた真冬にとって、
1つ大きな夢が叶うことになる、むしろそちらの方が彼女にとっては嬉しかった。

「実は、ディレクターさんがもうあらかじめ番組タイトルまで考えてくれてました。
 後ろのボードをごらんください!」

司会者が手で示す方には、白い布が被せられたボードが掛かっていた。
そこへコロッケ姉妹の2人が左右から布を持ってオープンのスタンバイをしていた。

真冬は喜びの糸目になり、ぴょんぴょん飛び上がって喜びを隠しきれなかった。
芽衣は敗北したためか、少し複雑そうな面持ちでボードを見つめていた。

「さあ、それではどうぞボードオープン!」

掛け声と共に、コロッケ姉妹は自分達のほっぺについていたケチャップを人差指で拭い、
その指を口に入れた時、今まで無表情だった2人が初めていたずらな笑顔を浮かべた。

同時に二人は白い布を引っ張り、ボードは視聴者の目の前に現れた。
そのボードに書かれていた番組名は「ドッキリ大成功♡」だった。


テッテレーというドッキリ成功時に流れるお馴染みの効果音が流れた。
コロッケ姉妹はもう全く無表情ではなくゲラゲラとお腹を押さえて笑い転げていた。
芽衣は1人、相変わらず少し複雑そうな面持ちで真冬に同情の視線を注いでいたけれど、
やはり真冬の驚いた顔を見ている内に、申し訳ないけれど笑いが止まらなくなった。


「はい、ということでいかがでしたでしょうか。
 今回の『白岸芽衣は料理もうめいやん』。
 そろそろお時間となりました。
 それではまた会う日までさようなら〜」


「えっ、えっ?」とあたふたしている真冬を置いて、
司会者は締めの言葉を吐いて共演者達もカメラに向かって手を振り始めた。

終了直前、スタジオのカメラは全て真冬に向けられた。
司会者は「真冬ちゃん、番組の感想を一言」と振り、

「素人にこんな手の込んだドッキリ仕掛けるなんて、一体どうなってんのよ〜!」


・・・


「ここだよ、このお店!」

塚川麻紀は嬉しそうにお店まで近づき振り返ってそう言った。
親友の樫本奈良未は彼女の後をゆっくりと追いかけて歩いてきた。

「このお店がどうかしたの?」

奈良未はいぶかしげに麻紀に訪ねた。

「先日のTV番組観てないの?
 マルチタレントの芽衣ちゃんと対決した店長さんのお店、ここだよ」

奈良未はそのTV番組を観ていなかった。
麻紀は「観てないの〜」と残念そうに言いながらも、
奈良未のためにその番組内容を丁寧に説明し始めた。


・・・


12月24日のクリスマスイブ。
児玉坂の洋菓子店、パティスリー・ズキュンヌには行列が出来ていた。


ドッキリ番組の放送後、あまりの面白さに「あの店長は誰だ?」の問い合わせが殺到し、
ぜひともドッキリではなくて2人の料理番組を実現して欲しいという声も上がった。
だが、あのディレクターは料理番組を実現させることはなかった。

あのディレクターが動かなくとも、他のメディアは真冬に興味を示し、
ワイドショーも連日取り上げるようになったし、
色々な雑誌のクリスマス特集でも、ケーキを買いたいお店No.1に選ばれていた。

お客さん達は口コミでも噂を広め、今では誰が言い出したのかわからないが、
マスコットキャラのまふったんの頭に触れば頭が良くなる、
肩に触れば女子は色気が出るなど、根も葉もない噂が飛び交うようになっていた。

今年の12月は、間違いなく世間にはまふったんブームが来ていた。


・・・


「それでね、クリスマスケーキ、先週このお店に予約したの!」

麻紀は嬉しそうに奈良未にそう告げた。
奈良未はあまり興味なさげに聞いていた。

「あっ、これがまふったんだよ」

麻紀は店頭に立っていたまふったんを見て奈良未に告げた。
マスコットキャラのまふったんはこの雪の降る寒い中、
肩と足の出た赤と白のサンタクロースファッションで健気に立っていた。
まだ今日はあまり触られていないのか、肩には2cm程度の雪が積もっていた。

「・・・なんかこれ、見てるだけで寒いんだけど」

奈良未はまふったんの猫顔の笑顔を見ながら、
季節に逆行しているファッションを着せる店長のセンスをいぶかった。
でも、世間とはそういうものに飛びつくからなと、終始冷めた目で眺めていた。

「まふったんの頭触っておこうかな、ならみんは?」
「あたしはいい」

奈良未には麻紀の熱意は伝わらなかった。

「番組を観てないからしょうがないよね」と麻紀は微笑みながら話を止め、
予約してるケーキ取りに行ってくるね、と混み合っている店の中へ入っていった。


・・・


「おまたせ、ごめんねまたせちゃって」
「いや、大丈夫だよ」

お店から出てきた麻紀はクリスマスケーキの箱を持っていた。

「ねえ、見てみて、このイチゴの乗った生クリーム&チョコケーキすごい人気なんだよ」

透明プラスティックからわずかに覗くケーキを指しながら麻紀は熱弁した。

「何がすごいってね・・・あれ、これどうしたの?」

麻紀はまふったんの肩に何やら布きれのような物が被さっているのに気がついた。
その布きれは、露出されていたまふったんの寒そうな肩を全て多い隠していた。

「・・・ああ、なんか見てるだけで寒かったから」

奈良未は淡々とそう述べて、その布きれを自分が被せたと告げた。
麻紀は「なんだか笠地蔵みたいだね」と微笑んだ。

おとぎ話の笠地蔵では、老人が売れ残りの笠を、
雪の中で寒そうに立っている7体の地蔵に被せてあげた。
最後の1体の分が足りなくなった老人は、最後の地蔵には自分の手ぬぐいを被せてあげたのだ。

その日の夜、寝ていた貧しい老夫婦の元にたくさんの食料や財宝が届いた。
老夫婦は扉を開けてみると、6体の笠地蔵と1体の手ぬぐいを被った地蔵が去っていくのが見えた。
この地蔵から貰ったもので、老夫婦は良い年を過ごすことができたという。

「まふったんの恩返し、あるかな?」

麻紀は楽しそうに弾む声で尋ねた。
麻紀はこういう純粋でユーモアのある話題が好きだった。

「たぶん、ないと思う。
 そんな純粋な気持ちから出た行為じゃないから」

奈良未は冷静な意見を返したが、
「きっとあるよ」と麻紀は優しそうに笑って雪道をゆっくりと歩き始めた。

「寒いから帰ってDVDでも観ながらケーキ食べよっか」
「・・・ごめん、あれまだ返してなかった・・・」

「別に返すのいつでもいいよー」という麻紀の明るい声が響き、
二人はパティスリー・ズキュンヌを後にした。


「・・・Mission complete・・・」

奈良未は立ち去り際に小さく呟いた。
寒空の下に満面の笑みで立っているまふったんの肩には、
何やらオシャレな布きれが冬の冷たい風に揺れていた。


・・・


暖かそうなロングコートに身を包んだ女性がまた1人、
パティスリー・ズキュンヌを訪ねてやってきた。

女性は店頭に立っているまふったんに何やら変な布きれが被さっているのに気づいた。

世間では何かともてはやされているこの露出度の高いマスコットキャラクターを、
彼女は決して好いてはいなかったけれど、
彼女と同じようにそう感じている誰かが、寒そうに思ってまふったんの肩を隠したのだろう。
その人が誰かはわからないが、少なくとも今の彼女の孤独感を幾分埋めてくれた。
 
女性はパティスリー・ズキュンヌの中へ入った。

店内はたくさんの人で大繁盛していた。
彼女もまた、予約していたクリスマスケーキを取りに来た1人だった。

店内ではたくさんのスタッフが働いていた。
注文数に追いつくように、店の奥では忙しそうにケーキを作っているのだろう。
クリスマスのおすすめケーキは通称「腹黒ケーキ」と呼ばれるケーキだった。
本当の名前は「真冬の特大イチゴと生クリーム&チョコケーキ」だ。
だが、ネット上では通称「腹黒ケーキ」で通っていた。

全体的には生クリームでコーティングされているが、
ホールケーキの周辺部分の中段が、
黒いラインを引いたようにチョコレートで固められていた。
要はホールケーキの上と下が生クリーム、真ん中がチョコになっていた。
そして上に乗っているイチゴは格別大きくて顧客の目を引くものだった。


女性は忙しそうに働いているスタッフに目をやった。
彼女が探している人が、お店の中にいるのではないかと思い、
でも会いたい気持ちと会いたくない気持ちの半分で揺れていた。

ふと、店の奥で働いている女性と目があった。

「あっ、めいやん〜♡」

と彼女に気づいた真冬は相変わらずの猫顔の笑みで声をかけた。


お店にやってきた女性とは芽衣だった。

芽衣はクリスマスケーキの予約をしていたのだけれど、
どうして自分がここにやってきたのか、自分でもよくわかっていなかった。
この矛盾した気持ちはいったいなんなのだろう。
大嫌いだったはずの真冬の腹黒ケーキを、どうして自分が買わなければならないのか。


・・・


「お疲れ様でしたー」

収録が終わり、ディレクターが手を叩いてスタッフをねぎらっていた。
生放送が終了したことで、出演者もスタッフも緊張が解けて和やかなムードになっていた。

あのコロッケ姉妹は、放送が終了した後も、まだゲラゲラと笑っていた。
真冬はそれを見て1人でほっぺたを膨らませていた。

「真冬、お腹真っ黒なんだけど〜」
「さすがにあのくだりはアカンわ〜無表情とか無理やわ〜」

あの時、なぜか後ろを向いていた2人は見えないように笑っていたのだ。
きっとさすがにあのくだりは台本になかったハプニングだったのだろう。

「ていうか、うちらホント頑張ったよね〜」
「ホンマ、ディレクターさんの要求が高すぎるわ〜ずっと無表情とかムリムリ」

ヘラヘラと笑っている2人を見て、真冬はもうさすがに疲れていた。
お店の存亡をかけた戦いがドッキリだったなんて、きっとこの気持ちは誰もわかってくれない。

さすがに芽衣は真冬に「ごめんね」と謝った。
ズキュンヌでこの企画をディレクターが思いついた時から、
芽衣はディレクターに耳打ちされてドッキリであることは知らされていた。
だから彼女にとってこの対決の勝敗などは最初からどうでもよかった。
でなければさゆみにグラッセを任せたりはしない。
結局、孫悟空だけが1人でお釈迦様の掌の上を駆け回っていただけだったのだ。

「めいやんひどい!だからこの帽子もサイズ小さかったんでしょ!」
「えっ、それはわざとじゃないけど」
「えっ・・・」

コロッケ姉妹がそれを聞いてお腹を押さえて笑い出したので、
さすがの芽衣もつられて笑い出してしまった。

真冬は恥ずかしくなって怒りの矛先をディレクターに向けた。

「ひどくないですかー!こんな前フリの長いドッキリなんて!」

ディレクターはニヤリと笑って、

「おかげでいい番組が撮れたよ、これでお店のいい宣伝になったじゃないか」

ディレクターは特に悪びれる様子もなく、不遜な態度で去っていった。
後に残された真冬は、相変わらずコロッケ姉妹の笑い声に飲まれていた。


・・・


芽衣は真冬に声をかけられてドキッとした。
大嫌いだったあの子に、いったいどんな顔して返事したらいいのかわからなかった。

真冬は忙しい中でわざわざ芽衣の予約していたケーキを自ら取りに行った。
そして大切そうに抱えて芽衣のところまで運んできた。

真冬はにっこり笑って、

「めいやんからはお代はいただきません♡」
「えっ、いいよ、払うよ」
「いいの、私からのクリスマスプレゼント♡」

真冬はウインクして芽衣にケーキを渡した後、
またすぐに店の奥に走って帰ってしまった。

芽衣は真冬が奥に引っ込んでしまったので、
しかたなく彼女が置いていったケーキ箱の袋を手に取り、
お店の出口に向かってスタスタと歩き始めた。

出口まで近づいてきた時、ふと歩みを止めた。
このまま帰ってしまって本当に後悔しないのか。
芽衣は何か大事なことを伝えなければならない気がしていた。
それを伝えなければ、ここへ来た意味がない。

芽衣は勇気を振り絞り、真冬の方へ振り返り、そして叫んだ。

「真冬、頭大きいよ!一緒に頑張ろう!」

店内はその大声を耳にして誰もがシーンと静まり返った。
芽衣はまた振り返ってそそくさとお店を出て行った。

店の奥でその声を聞いていた真冬は吹き出した。

(・・・頭大きいのと一緒に頑張るの関係なさすぎでしょ!・・・)


・・・


その日の仕事を終えた真冬は帰宅し、
冷えた体を温めるために湯船に浸かった。

真冬に生まれたくせに寒さに弱い彼女は、
よく肩や足の出ている服を選んできているくせに、
なぜ自分が風邪をひきやすいのかもよくわかっていなかった。

そういえば帰り際、まふったんの肩に布きれが被せられているのを見つけた。
布きれは本当にただの布きれだったけれど、なんだかオシャレな柄をしていた。
被せてくれた人はきっとオシャレでセンスのある人なのだろうと真冬は思った。

お風呂から上がり、いつもどおりボディクリームなどのケアを施してベッドに横になった。
鏡台の前に座り、まふったんの肩に被せられたいた布きれを自分の肩に当ててみた。

(・・・どういう意味かよくわからないけど、なんだか嬉しい・・・)

真冬はお地蔵さんのような屈託のない笑顔になって笑った。
そして布きれを折りたたんで大切にしまい込んだ。


芽衣と出演したあのドッキリ番組を、今でも真冬はよく観ている。
あの時に録画しておいた内容を、自分の携帯電話で観れるように設定していた。

クリスマスの売り上げは予想以上だった。
適度な仕事の疲れを感じながら、今日もやはりあの番組を少し観ることにした。

そこに映っていたのは、ドッキリに引っかかっている愚かな自分だったけれど、
芽衣もコロッケ姉妹も、今となってはなんだか懐かしい友人に思えた。

「バカになってよかった」

真冬はポツリとつぶやいた。
当時はまるで自分がバカみたいだと思ったけれど、
一生懸命頑張ったことが売り上げにつながったし、
何より大切な友達と、かけがえのない思い出を得たような気がしていた。

「次は来年のバレンタインデーだな〜♡」

真冬はきっとまた何か面白いアイデアを考えつくに違いない。
誰かを喜ばせることが、彼女にとって何よりの幸福なのだ。
たとえ誰かが「あざとい」と呼んだとしても、
彼女はその溢れるエネルギーで突き進み、
そして陽気に周囲を巻き込みながら、
きっと出会った誰かを幸せにしていくのだろう。


携帯電話をベッドの横に置き、アラームをセットした。
寝ようかなと思った時に、ふと足元のクローゼットに目が止まった。

(・・・もしかしたら、ここを開けておいたらここからサンタさんが来るかも・・・)

そんな子供のような無邪気な思いつきに、バカバカしくも淡い期待が頭をよぎり、
自分の中の計算を度外視して、真冬はクローゼットを開けたまま寝ることにした。

サンタクロースが本当にやってくるのかは、それは誰にもわからないけれど。





真冬が眠りについていた時、携帯電話の音が鳴った。
携帯にメールが届いていたのだ。

真冬は眠い目をこすりながら携帯電話を手にとってメッセージを確認した。

「ねぇ真冬、タルトまだ〜 by菊田」


・・・


予約したクリスマスケーキを持って帰宅した芽衣は、1人で夕食を作って食べた。
クリスマスを1人で過ごすのも、もう最近では慣れてしまっていた。

食器を流し台に片付けて、ズキュンヌで貰ったケーキをテーブルの上に置いた。
こんな大きいケーキを貰ってしまっても、結局は1人では食べきれない。
明日、仕事先に持って行って残った分はみんなに分けようと芽衣は思った。


ケーキの箱を目の前に置きながら、芽衣はあの時の事を思い出していた。


・・・


生放送の収録が終わった後、芽衣はなぜか気持ちが晴れなかった。
それがなんなのか、芽衣自身にもよくわからなかったけれど、
思い立って先に立ち去ったディレクターを追いかけたのだった。


「すいません、お話があるんですが」
「なんだ?」

芽衣は何から話したらいいかわからなかったが、
とにかく頭に浮かぶ事を話そうとした。

「ドッキリだとは聞いていましたが、あれはやりすぎじゃないですか?」

芽衣からとっさに出た言葉は真冬をかばった内容だった。
芽衣は自分自身でも次にいったい何を言い出すのかわからなかった。

「ちょっとかわいそうじゃないですか。
 せっかく一生懸命頑張っていたのにあんなに邪魔して・・・。
 彼女が勝ったんだし、料理番組だってさせてあげたらいいじゃないですか。
 それに何ですかあの無表情な2人組は・・・ひどすぎませんか?」

ディレクターは少し考えていたがゆっくりと答えを返した。

「お前だっていつも無表情じゃないか」

芽衣はドキリとした。
しかし同時に、何を言われているのかわからなかった。
いつもプロ意識を持って笑顔を絶やさずに頑張っている自負はあったからだ。


「・・・今日の収録の時はいい顔してたな。
 いっぱい笑ったり怒ったり楽しんだりしてた。
 白い殻を破ったんじゃないか?
 これからもその調子でやってくれたら嬉しいよ」

白い殻を破ったという意味が芽衣には理解できなかった。
電子レンジに入れられた卵は、収録中には爆発しないように笑顔で包み込んだはずだ。

ディレクターはこちらに視線を向けてくれない。
上の空で独りごとを言っているようにも見えた。

「作り笑顔を振りまいたって、誰もそんなの見ないぜ。
 完璧な白岸芽衣なんて演じても、誰も共感を覚えない。
 視聴者が観たいのは、そんな人間味のない芽衣じゃないからなー」

芽衣は言われている意味をすぐには飲み込めなかった。
自分の頑張ってきたやり方を全否定された形で、
そんなのすぐに噛み砕いて飲み込めるはずがなかった。

「まぁ、深く考えなくても大丈夫だよ。
 あの子がいてくれたら、お前も変わっていくさ。
 まったく、いい友人を見つけたな」

いい友人が真冬を指しているのは明らかだったが、
芽衣は自分と正反対の真冬を友人のカテゴリーに入れるのは躊躇した。

「お前は美人すぎて損してるなー。
 いや、もちろんトータルの人生は最高に得してるよ。
 でもまあ、俺的には真冬にキレてる時の般若の形相の方が美しく見えたけどな」

ディレクターは芽衣の般若の形相を思い出して笑っているようだった。

「あと言っとくけどな、俺はお前らの料理番組を撮る気はないぞ。
 俺は視聴者が求めるものなんか死んでも撮らないからな。
 そんなもの他の誰かに撮らせておけばいいんだ。
 俺は俺にしか見えてないものを撮る。
 それが例えお前にとって不愉快なものだったとしてもだ。
 もし反論があるなら言ってくれたらいい、間違ってるなら反省はするさ。
 趣味悪いとか、そういう個人的な批判はよしてくれよ。
 そういうのは、もう俺の人生で聞き飽きてるからな」


そんな言い方されたら今の芽衣には反論などできなかった。
まだ言われた意味すらうまく消化できていないのだ。
こんなに一気にまくし立てるなんて卑怯だと思いながらも、
何も言い返せない自分が悔しかった。


「じゃあな」

ディレクターは去っていった。

・・・


芽衣はじっとクリスマスケーキの箱を見つめていた。
ディレクターの言葉はまだ腑に落ちていない。
消化不良のままの胃袋に、ケーキなんて食べられるわけないと思った。


(・・・なによ、私には私のやりかたがあるのよ・・・)


芽衣は答えは1つではないと思った。
ディレクターから見た意見も1つの真実、自分の意見もまた真実。

(・・・正しい答えなんて、誰にもわからないわ・・・)

芽衣はリモコンでTVをつけた。
そして録画してもう何度も見返しているあのドッキリ番組を再生した。


真冬が不幸になるたびに幸せそうに笑う自分がそこには映っていた。
この番組を観たあと、芽衣の表情が柔らかくなったと言ってくれる人も確かにいた。

(・・・だけど、絶対に屈折してる喜びよ、おかしいに決まってる・・・)

芽衣はリモコンで巻き戻して、真冬のコックコートが真っ黒になる場面をまた再生した。

(・・・でも・・・楽しかった・・・のかな?)

何度見ても面白い、笑いが止まらなかった。
真冬が不幸になる場面は、やっぱり何度見てもたまらない。


「私ったら嫌な女」とつぶやいて、嬉しそうにケーキの箱を開けてみた。
噂の腹黒ケーキが芽衣の目の前に登場した。
この特別に大きいイチゴは、真冬の大きな頭の象徴に違いなかった。

「転んでもただじゃ起きないんだから」 

芽衣は、ふふふと笑ってケーキを眺めていた。
ケーキの真ん中部分に引かれている黒いチョコレートが一番好きだった。


そうして芽衣がケーキをまた箱にしまおうとした時、
ふと中にメッセージカードが入っているのに気がついた。

芽衣はそのメッセージカードを取り出して開いた。
そして、そのメッセージカードの中から何かが落ちた。

・・・

よい子のみんな〜、メリークリスマス♡

今年も、みんながよい子にしてたから、

かわいいかわいい真冬サンタがやって来ましたよ〜♡

みなさん今年はいいことありましたか〜?

いいことあった人も、そうじゃなかった人も、

真冬の手作りケーキを食べれば元気100倍だぞ♡

独りで過ごすクリスマスがさみしい人も大丈夫!

真冬があなたのことずっと見てるよ〜♡

・・・

メッセージカードから落ちたのは真冬のブロマイドだった。
拾ってみた芽衣の目に飛び込んできたのは、
肩をあらわにしたサンタのコスプレをしている真冬が、
イチゴに「ちゅ♡」っとキスをしている姿だった。



そのまま時が止まったかのような沈黙の数秒間が流れた後、
芽衣はゆっくりと動き出した時間の中で、メッセージカードとブロマイドをそっとテーブルに置いた。

そして銀色のフォークをおもむろに手に取り、尖った先端を無表情でじっと見つめた後、
仕事場へ持っていく事などもう忘れたように、何も躊躇することなくケーキの黒い部分へ勢いよく突き刺した。


ー終幕ー


転がった玉ねぎを渡せ! ー自惚れのあとがきー



本作品は筆者が日本に帰国してから書いた第1作目である。
クリスマスの時期が迫る中、どうせならクリスマスシーズンの話題を盛り込んで書いてみようと思い、
10月頃に執筆していたものである。

この経験で面白かったのが、歌をリリースする歌手が経験するであろう、
時期を先取りして作品を作るという不思議さを味わった事であった。
世間ではまだ冬の訪れもない頃、筆者は一人で冬景色をあれこれ想像しながら書いていた事が、
なんとも面白い体験をさせてもらったように感じている。

そして本作は今までと違って必殺技であったり変な場所に飛ばされたりするような、
非現実な飛び道具技をあまり使っていない。
現実世界で起こりうる範囲で心理描写を増やしているつもりであり、
それは真冬が持つ魅力であるあざとい心理を書く事から始まったのであったが、
比較的リアリズムな作風の中で行き詰まる事なく楽しく展開していけたという、
筆者の中で新しい満足感を得る事につながった。

それでも校正の段階になって見直してみると、甘いところばかり目立った気がした。
見直せば見直すほど嫌になるので、もうそれは諦めることにした。

今回はクリスマススペシャルという事で、楽しい物語にしたかったし、
今まで登場してきたキャラクターも比較的に多く登場させることにした。
芽衣のその後の様子を描けたのも面白かったし、
今後もこんな風に、一度登場したキャラのその後を描く事で、
成長していく様を描いていこうと思うようになった。
だから、一度登場したキャラクターも、今後またこんな風に再登場する事はあるだろう。
幸いながら、一度書いた事のあるキャラクターは動かしやすい。
筆者の感覚に馴染んでくれているからである。


さて、怒られそうなのは真冬である。
物語の中であまりにもいじめすぎたので怒っているかもしれない。
でもまあ、怒っても怖くないのが真冬であり、
本当はいじられて嬉しいのだからきっと許してくれるだろうと思った。
そんな風に許してくれるキャラの方が遠慮なく描けるので本当は楽なのである。


そういえば断っておかなければならない事があった。
筆者はあまり普段から料理をする機会はない。
だから作品内で書いた内容はひたすら調べながら書いたのである。
実際にカニクリームコロッケを作ってみる事にも挑戦した。

※サイダーを入れる実験まではできなかったが、
 本当のところをいえばそれもやりたかったくらいである。

こんな程度だから料理の描写や工程は間違いもあるかもしれないし、
玄人からしたら甘いと思われる箇所も目に付くかもしれない。
例えば最後の腹黒ケーキも、実際に作る事が出来るのかもわからない。
ケーキの調理方法については難しすぎて実践できなかったからだ。
おそらく作れるにしても味のバランスもおかしいし、
経済的にも非効率でコストだけかかるケーキになるだろう予感はする。
だから実際にはこんなケーキはこの世に存在しないのかもしれない。
しかし、筆者は何としてもこのケーキを実際に見てみたい。
この世に二つとないものを作るのが、筆者のような人間の楽しみなのである。

ということで夏に生まれたほうの方、ぜひ作ってみてはくれませんでしょうか???


ー終わりー