その教室

「何やってんだ・・・?」

 

その教室の中は静まり返っていた。

誰も一言も発せずに、みんなただ黙って教室の真ん中に座っている女の子をじっと見つめていた。

そして、彼女はぴくりとも動こうとしない、ただ何やら奇妙な顔が描かれた茶色い紙袋を頭から被っている。

描かれていたのは大きく口が裂けている怪物のような怖い顔で、その片目からは涙を流していた。

 

「袋・・・好きなのか?」

 

教室の中で声を発する権利があるのは、間違いなく教師だけだった。

教室という場所はいつもそうだ、教師は圧力をかけて場を支配する権利を持っている。

彼らがかざす正義の前には、生徒たちの誰もが自分の意見の正しさを主張できない。

 

少ない酸素を鼻から吸い込むと、茶色い紙袋特有の匂いが鼻をついた。

決して嫌いじゃない、なんとなく優しい香りがする。

この匂いが好きなのは、自分が好きな文庫本の匂いと似ているからだろうか。

内藤明日奈はそんなことを考えながらただ呼吸を続けていた。

ここまできたら、もう全ての覚悟はできていたのだ。

変にジタバタしたり怖気付いたりしない自分を多少誇らしくも思っていた。

 

そうこうしているうちに、被っていた紙袋が微かに動いた。

どうやら先生が近づいてきて、彼女の頭から紙袋を脱がせていくのがわかった。

教室の誰もが息を飲んでその様子を見守っていたが、

紙袋が剥ぎ取られて顔をのぞかせた明日奈は、

どこを見つめているのかわからない瞳をしていた。

彼女自身、どうにもこんな展開が不思議すぎて自分の状況が信じられなかったし、

どこに焦点を合わせていれば良いかわからなかったに違いない。

恐れもない、雑念もない、強いて言えばお腹が空いたのを軽く意識していたくらいだった。

 

「・・・内藤、お前、袋好きなのか?」

 

「好きじゃないです」

 

無表情のまま、少し食い気味に返事をしてみた。

教師の持つ絶対的な圧政に対して、少しは反抗心を見せることができたかと、

明日奈はただそんなことだけを考えていた。

 

「じゃあなんだこれ?

 みんなびっくりするだろう」

 

結局、教師の圧力をはねのけることはできなかった。

彼は相変わらず自分が全て正しいような口調で問い詰めてきたのだ。

明日奈は、元からそんなことは不可能だとわかっていたので、

ただ、どうしてやろうかとぼんやりと頭に次々と浮かぶ想念を必死に掴もうとしていた。

 

その時、不可解な気持ちで明日奈の様子を伺っていたのが、

廊下側の出入り口に近い場所に座っていた森 未代奈であった。

教科書を眺めて関心のないふりを装いながら、

全く予想外の展開に自分の思考回路がついてこない。

彼女にとっては珍しいことに、その動揺を隠しているのが精一杯だった。

 

(・・・どうして明日奈がここにいるんだろう・・・私とは何の関係もないはずなのに・・・)

 

教師は何かをくどくどとしゃべり続けていたが、明日奈の耳には届いていないようだった。

明日奈もまた、未代奈と同じようなことを考え続けていたのだ。

 

(・・・どうして、私がここにいるんだろう、あの子のこと、好きでも何でもなかったのに・・・)

 

 

・・・

 

 

 

「というわけだ、お前ら嬉しいだろう?」

 

教壇の机に気だるそうに両手をつきながら教師はそう言った。

独善的に生徒たちの感情を決めつけるのだから、それはもう誰も返事ができなかった。

 

これは明日奈が茶色い紙袋をかぶる1ヶ月前の出来事だった。

ホームルームが始まってドアを開けて入ってきた教師が、

高校卒業を前にお前らにとって良い話があると切り出したのだ。

それが高校生活最後の卒業前旅行の計画だったのである。

 

旅行、と言っても遠出をすることはない。

そんな費用のかかるプランを学校側が提示してくれるわけがなかった。

教師が提案したのは、クラス全員で児玉坂ランドへ遊びに行くという計画だった。

独善的な言い方に嫌悪感を覚えるため、クラスの誰もが喜びを素直に表すことはないが、

推薦入試などで、もう進路が決まっている者、その中でも進路に明るい未来を感じているものは、

消化試合みたいな退屈な授業を受けるよりは幾分も嬉しかったに違いない。

だが、卒業前といってもまだ半年以上も時間は残っており、

センター試験を受ける予定の生徒達にとっては、今はそれどころではなかったかもしれない。

 

「どうした、お前らもっと素直に喜んでもいいんだぞ?」

 

押し付けがましく言われるたびに、生徒達は喜ぶ気持ちを萎えさせていく。

生徒の自主性を伸ばしてやれない、こういうタイプの教師は、

自分が嫌われているということにすら鈍感なのでやりきれない。

 

「恥ずかしいか、そうか、じゃあ家で一人で喜びを噛み締めとけ」

 

そう言って教師は引き続きいつもどおり何か連絡事項をしゃべり続けていた。

教師が書類に目を落とした隙を狙って、未代奈の方へ視線を向けた者がいた。

同じクラスメイトの男子学生、島田の視線を受けた未代奈は、

数秒間だけ視線を交錯させた後、表情を少しも変えないで視線だけを反らせた。

こっちを見るなという暗黙の合図を送ったのであった。

 

一方、卒業しても明確にやりたいことの決まっていなかった明日奈にとっては、

こんな卒業前旅行などはどうでもいいことだったに違いない。

彼女はただ気怠そうに窓の外を見つめていた、青い空を鳥達が自由に飛び交っていた。

 

「おい、内藤、聞いてるのか、おい」

 

あまりにもボーッとしすぎたのか、教師に呼びかけられているのにも気づかず、

明日奈はしばらく窓の外を眺めていたが、やがて隣の席の女子が机を軽く叩いて知らせた。

 

「お前、今日掃除当番だろう、帰る前にちゃんとやっとけよ」

 

明日奈が教師の方を振り向くと、彼は威勢良く彼女を指差してそう言った。

クラスを管理しているつもりかもしれないが、何となく押し付けがましい。

いちいち生徒の自主性をことごとく奪い去っているような気さえもする。

今やろうと思ってたよ、言われなきゃやってたよ、そんな気持ちになる反抗心は、

まだ子供だから沸き起こるのだろうか、それともやっぱりこの教師のやり方が悪なのだろうか。

 

明日奈はどうでもいい考えに頭を支配されたのを嫌悪し、

またプイと窓の方へ顔を向けてしまった。

結果的に、教師の機嫌を損ねることになってしまったことで、

彼のくどいお説教の時間が延長されてしまったのだった。

 

「先生な、この間とっても悲しいことがあったー」

 

どう見ても本当に悲しそうには見えないが、とにかく哀愁を漂わせて話を進める。

教室は教師にとって舞台なのだ、演者としてのもう一つの顔なのだ。

 

「このあいだ掃除をサボった奴がいてな、どうしたのかなと思ってたら、

 何と学校終わりでそのままアルバイト行ってたんだー。

 先生なー、悲しくて悲しくてやりきれなかったー」

 

いちいち語尾を伸ばす口調が悲しみを強調しているのかもしれないが、

あまりにも芝居がかっていて明日奈はうんざりしてしまった。

本当はどうでもいいくせに、仕事だからやってるだけのくせに。

 

「先生何度も言ってるよなー、高校生は勉強が第一だって、

 アルバイトは校則で禁止されてるって、耳にタコできるくらい言ったよなー。

 お前ら先生にタコ見せてみろー、何だー、先生まだ言い足りなかったかー?」

 

はじめはゆっくり穏やかに話していた態度が、

途中から急に怒声に変わり始めた。

そしてまた穏やかな口調に戻る、

そんな風に緩急つけて怒鳴りつけてくるのはいかにも芝居がかっていて、

相手を恐怖で押さえつけようとする意図が見え見えで鬱陶しかった。

だからみんな黙って下を向いたまま、誰も何も喋らなかった。

ただ早くこの退屈な時間が終わって欲しいと願っていたのだ。

そんな中、島田は何やらまたチラチラと後ろを振り返っていた。

視線が交錯するたびに、未代奈は島田から目線をそらした。

 

「おい島田ー、お前話を聞いてるのかー?

 ・・・何だお前さっきから後ろ振り返って、お前あれか、森のこと好きなのかー?」

 

これには教室内でクスクス笑いが漏れた。

島田はすぐに「好きじゃないです」と教師に告げた。

彼は見るからに真面目そうな優等生タイプであり、

女性に対しても奥手そうな雰囲気を醸し出していた。

だからクラスの女子生徒が笑ったのかもしれなかった。

彼はとにかく教師に向かって真剣に否定の態度を見せた。

受験前のこの大事な時期に恋愛をしているなどという印象を持たれるのが嫌だったのかもしれない。

 

「いいんだぞー、別に誰かを好きになるのは自然なことだからなー。

 ただ、受験を控えたこの時期にそんなことをするバカがいるんだったら、

 先生はただただ悲しくて悲しくてやりきれなくなるけどなー」

 

そう言いながら教師はゆっくりと教室中を旋回し始めた。

誰もがうつむいて彼と視線を合わせるのを拒んでいた。

そんな風に力で支配している状況が彼にとって安心するのだろうか。

何にせよ、こういうつまらない大人にだけはなりたくないと誰もが思っていた。

 

「おい内藤、お前まだ外見てるのかー?」

 

やがて教師は明日奈の机の横に立ち止まり、そう話しかけた。

明日奈は視線を合わせることなく、窓の外を眺め続けている。

 

「内藤、お前何考えてるんだー、もっと自分の意見をはっきり言ったらどうだー?

 みーんな思ってるぞ、何考えてるかわからないやつは気持ち悪いってなー」

 

教師が何を話しかけても無視を続ける姿勢に、

ついに彼は明日奈の視線を遮る位置に立ちはだかった。

明日奈の視界に入ってくるのは青空ではなくて、

代わりに水色のシャツとグレーのズボンにすり替えられた。

色はそんなに変わらないのに、爽やかさが一欠片もなかった。

 

「内藤・・・お前まさか放課後にカラオケ行こうとか、

 アルバイト行こうとか、考えてるんじゃないだろうなー、えー!」

 

一般的な学生が好むような趣味嗜好を一律に当てはめられて見られたことに、

明日奈はいよいよ嫌悪感を隠しきれなくなってきた。

彼が生徒の個性など見ようともしていないことは明白だったからだ。

 

教師がまた一歩距離を詰めようとした時、明日奈はついに彼に対して顔を向けた。

余計な対立はつまらない時間の延長戦になることはわかっていたが、

このまま言われっぱなしになっているのも癪だったからだろう。

 

「先生」

 

ところがそう呼びかけたのは廊下側に座っていた未代奈だった。

突然立ち上がり、椅子が動く音が教室中に響き渡った。

教師も不意を突かれて多少驚いた様子で未代奈の方を振り返った。

 

「窓、閉めてください」

 

未代奈は冷静な表情のまま教師にそう告げた。

教師は一瞬どういう意味だかわからずに戸惑っていたが。

 

「・・・そうだ、そうだな。

 先生が話をしている最中に窓の外ばかり眺めているのは良くないからな。

 森の言う通りだ、先生もう窓閉めてぐるぐるとカーテン引こう。

 そうすれば外なんか見ずに先生の方を見てくれるよなー」

 

そう言って窓際まで歩き出した教師だったが、

また未代奈は彼を呼び止めた。

 

「・・・先生」

 

「どうした?」

 

振り返った教師と目があった未代奈は、

目線をそらすようにして淡々と告げたのだった。

 

「そっちじゃなくて、先生の・・・窓です」

 

 

・・・

 

 

 

「そう言うのは、あれだろ、男同士でこっそり教えてくれるもんだろ、なぁ!」

 

そう言いながら社会の窓を閉めた教師は、なぜか怒りを島田にぶつけたのだった。

島田はいつも通り「すいません」を連呼してとにかく事を収めようとした。

 

その後は、さすがに何を偉そうに言っても格好がつかず、

教師もやがて話を切り上げてホームルームは終了となった。

無意味で退屈な時間からやっと解放された生徒たちは、

逃げるようにして教室を走り去って行ったのだった。

 

教室から生徒の数が減っていくにもかかわらず、

明日奈は相変わらずずっと座ったまま窓の外を眺めていた。

未代奈は教科書をカバンにしまいこみながら、そんな彼女の様子を見ていた。

ふと明日奈が振り返って視線が交錯したが、何を話すこともない、

二人は同じクラスメイトだが、友達でもなんでもないのだ。

気まずさの中で未代奈は目線をそらし、そのまま教室を出て行った。

二人とも人見知りな性格をしていたし、友達が多い方でもなかった。

目があったからと言って、積極的に交流を進めるでもなかったのだ。

 

 

未代奈は転校生だった。

数年前、まだ二人が別のクラスだった頃、彼女はこの街へやってきた。

クラスの誰にも言っていないが、彼女は未来からやってきた未来人である。

未来からの留学生、と言うような事実は伏せられているが、

とにかく、ただの転校生ではない雰囲気は隠しても隠しきれていなかった。

転校してきた当初は長い黒髪が印象的で、どことなく常人とは違った表情をしていた。

やがて髪をショートカットにし、それもまた密かに学校では話題になっていたが、

本人はそんなことは気にしていない、噂になっていることも気づいていなかった。

良い噂であれば嬉しいが、悪い噂であれば耳に入れるのも嫌だし、

それに彼女は誰かの意見よりも、自分自身を信じる性格をしていた。

最終的な決断は、誰かの意見によってではなく自分の心によるものだと信じていた。

 

 

明日奈は昔からずっとこの高校に通っていた。

初めの頃、彼女にはたくさんの友達が周囲にいたものだった。

だが、女子特有の陰険な争いに巻き込まれたりしながら、

いつからか孤独を愛するような性格になっていった。

彼女は実は人間と天使のハーフという不思議な出自を持っており、

そんなことも周囲と距離をおく原因の一つだったのかもしれない。

背中から翼を広げて空を飛ぶこともできたのだったが、

もちろん、そんな能力は秘密にして普通の高校生活を過ごしていた。

 

卒業が近づいてくるにつれて、明日奈の孤独は一層高まっていった。

周りの生徒たちはとりあえず大学へ行くもの、勉強は嫌いなので就職をするもの、

明確な意思を持って専門学校へ行くもの、夢を追いかけて芸能人を目指すものなど、

様々ではあるが、一応今後の進路を固めていった。

だが彼女はまだ明確にやりたいことが見つかっていなかったのだ。

もちろん、明確にやりたいことが見つかる状態が正解だというのも、

一つの凝り固まった考え方にすぎず、彼女は何かに固定されるのを嫌っていて、

明確にやりたい事を探す、という一般的なルートすら追い求めなかったのかもしれない。

進路を決定するということ自体、主体的に未来を探しているように見えて、

誰もが親や時間に追い詰められた末の選択でしかないことに、

彼女は薄々感づいていたのかもしれないし、だが真実はわからなかった。

 

風の噂で、未代奈は卒業後もバレッタで働き続けるという話を耳にした。

未代奈はアルバイトが禁止されているこの学校の中で例外的な存在で、

児玉坂の町の中心地にあるカフェ・バレッタで働いていた。

時にはお店のことを優先するあまり、学校に来ないこともしばしばだったが、

これは生計を立てるためであるという例外規定が教師たちにも認められていたのである。

遊ぶ金ほしさやいたずらに刺激を求めて働いているのではないと見なされており、

彼女が早退をしても、遅刻をしてきても、誰も咎めることはできなかった。

そんな特別扱いを受けていたせいもあってか、彼女自身はあまりクラスに馴染めてはいなかった。

明日奈にとって未代奈は、バレッタで働いているのをたまに見かけることはあっても、

別に声をかけたりするような間柄ではなかったし、進路が決まっているのを羨ましくも思い、

自分とは違う種類の人間だと思っていたのかもしれない。

 

 

・・・

 

 

生徒たちが皆、教室から急いで帰路についた頃、

明日奈は一人で気怠そうに掃除用具箱の中から箒を取り出していた。

教室にはもう自分以外誰もいないが、窓の外からは下校中の生徒たちの楽しそうな声が響いてくる。

 

竹で作られた長い箒を両手で持ち、ゴミがありそうもない箇所を適当に二、三回履いた。

そして、すぐに不満そうに手を止めて、箒を無造作に床に投げ出してフラフラと窓際へ向かった。

あぐらをかくようにして机の上に座り込んだまま、彼女はしばらく目をつぶって動かなくなった。

 

下校中の生徒たちのキラキラとした声がこだまし、それが彼女をさらに憂鬱にさせた。

理由は彼女自身にもわからない、ただ悩みもなさそうに無邪気に生きて行く彼らに対して、

侮蔑に似た感情だけがこみ上げてくるのだけは微かに理解できた。

 

かと言って、そんな自分が特別だとも彼女は思っていない。

彼・彼女たちを見ていると同時に、彼女は自分自身をも見つめていた。

それは主体的な行為というよりは、一つの行為に付随するもう一つの視点とでも呼ぶべきものだった。

彼女の頭の中には、一つの考えが生まれるとき、自動的に反対側から別の想念が顔を現してくる。

そして、それらが自分の頭の中で激しくせめぎあった後、頭が焦げ付くように苦しくなる。

後に残るのは理由もわからない、ただの漠然とした不安の霧みたいなものだった。

ふわふわと浮かんでいて、なぎ払っても実体のない気体であり、消えて無くなることはない。

 

一人でいる時、彼女は大抵こんな風に実体のない霧に取り憑かれる。

かと言って、それを忘れることができる誰かと一緒にいたいかと言われると、

自分勝手な自分を受け止めてくれる誰かなどいるはずもないという気もしたり、

誰かとつながるという行為に伴って自動的に発生する友情という輝かしくて鬱陶しい副産物を、

自己責任として引き受けるだけの面倒を抱え込むこともゴメンだと思っていた。

 

一人でいたいわけでもない。

でも、誰かと一緒になりたくもない。

 

どちらかといえば、一人の方が楽だ。

 

彼女は非常にネガティブな消去法という手段で未来を選択していた。

だが、こういう実体のない霧に包まれたことのない人間には彼女の気持ちなどわからないし、

彼女自身もそういう人たちとは自然と距離を置きたいと思っていた。

昔はそういう人が嫌いだった、友達になるのはもちろんのこと、

同じ空間で同じ空気を吸うことも嫌だった。

今となっては、ただそういう人達もいるのだという諦観による認識を覚え、

自分とは違う種類の人間だという決着をつけて眺めているという状態だったと言える。

 

この世界の悲劇は、人々が生まれつき違った性質を持っていることであり、

人間がその異質性を排除しようとする攻撃性を持っていることだった。

お互いに分かり合えないのであれば、適切な距離を置いて暮らしていければいいのだが、

多くの人々は、どういうわけか他者を自己の価値観に巻き込もうとする。

それはおそらく不安の裏返しなのであるか、狭隘な視野による不理解である。

明日奈は、そういう人々と一緒にいることは疲労感を倍増させられるだけであり、

だからいつも孤独を選んでいた、消去法を使ってである。

 

 

ところで、本日の掃除当番は明日奈の他にもいたはずだった。

 

同じように順番に当たっていたはずの女子は早々に逃げ帰ってしまった。

どうやら塾に行くのが忙しいらしく、明日奈にその事情を告げて教室から出て行った。

だが、彼女が嘘をついていることは明日奈には既にわかっていた。

窓から見えた彼女はとても嬉しそうに友達と走り去って行ったからだ。

その様子が塾へ行くそれではないことは一目瞭然だったのだ。

 

どうして彼女が先生に怒られないのかは、これも簡単な理由だった。

その女子がクラスでも可愛い顔をしているというだけであった。

男の教師が可愛い子には優しく振舞っているのは明日奈から見れば明らかで、

こういう理不尽は学生を終えて社会へ出ても往々にしてあることだ。

その女子も自分が可愛いことはわかっているし、それをうまく利用して教師に甘えてみせるし、

そういう狡猾な人たちが組み合わさって成り立っているのが社会である。

 

明日奈は以前、その女子に対して優しく振る舞う男子教師に対して、

「あの子、顔面がいいですよね」と皮肉を言ったことがあったが、

後ろめたい気持ちを刺激された教師はさらに明日奈を嫌悪することになった。

明日奈のように自分に正直で、狡猾に取り繕うことのできない人たちが損をするのが社会である。

 

ところで、掃除当番は男女がグループになって行われるはずであり、

では男子学生はどこへ言ったのか、明日奈にもわからなかった。

ただ、男子はきちんと先生が掃除を監視に来る日とそうでない日を見抜いていて、

そういう情報網を持っている男子生徒は割と大胆に平気でサボることができた。

彼らの計算は、明日奈がそれを先生に告げ口することはないということまで含まれていた。

普段から無口で大人しい内藤明日奈に限って、そんな大胆なことはしないだろう、

あとあと面倒なことに手を出すとは思えなかったし、それに彼女もサボりぐせはある、

お互いに悪いことをしている同士、暗黙の同盟関係が結ばれていると考えていたのだろう。

 

明日奈はただ一人で、窓際の席の上にあぐらをかいて座っていた。

教室の黒板には生徒たちが何か謎の落書きを残したまま帰ってしまっており、

ところどころ列を乱した机や、机の中からはみ出している教科書などが見えており、

まだ熱気冷めやらぬという空気感を残したままだった。

そんな教室をぼんやりと眺めながら、窓の外から聞こえてくる生徒の声だけを聞いていた。

 

やがて、外から賑やかな話し声が聞こえなくなってきた。

先ほどより静かになったのがわかると、教室の中の熱気もすっかり冷めたのがわかった。

自分一人で誰もいない教室、おそらく教師が戻ってくることもない。

無駄にだだっ広い空間を明日奈一人で掃除できるはずもなく、

彼女はただぼんやりとこのバカバカしい世界を見つめていたのだった。

 

やがて彼女は机の上であぐらをかいたまま、ゆっくりと目を閉じた。

外から差し込んでくる太陽が彼女の背中をじわじわと温めて行き、

彼女の後ろの窓は開いており、そこから爽やかな風が吹き込んできていた。

うたた寝をするには最適の気温であり、しばらくの間、明日奈はうつらうつらと揺れていた。

 

そして、彼女はそのまま後ろに倒れこんだ。

 

 

・・・

 

 

目を閉じたまま後ろへ倒れこんだ明日奈は、窓から落下した。

そして、しばらく重力に任せて落ち続けた後、

彼女の背中からは黄金の翼が生えてきて彼女は落下していた姿勢を反転させた。

彼女は静かに窓の外の音を聞きながら、誰もいなくなるのを待っていたのである。

 

翼を使って宙に浮かびながら、明日奈は少しあたりを見回して、

やがて窓からうっすらと立ち上る白い煙を目指して移動を始めた。

それはどうやら2階の男子トイレであることがわかった。

 

「お前、あれどうすんの?」

 

白い煙が窓から出て来ない時は、代わりに男子生徒の声が漏れ出てきた。

また静かになると、勢いよく白い煙が窓から吹き出てきた。

 

「マジ、これはもう誤魔化せないっしょ」

 

男子生徒数人が手を叩いてケラケラ笑っている声が聞こえてきた。

明日奈はタバコの煙がかからないような位置で建物にひっついて耳をすませていた。

 

「大丈夫だよ、バレないから」

 

明日奈が聞いたその声には聞き覚えがあった。

明日奈と同じ掃除当番をサボった張本人であり、

同じクラスで学級委員長である島田の声だった。

だが、教師の前で出す声とは明らかにトーンが違っていた。

 

「そんなこと言ってもよ、センコーに踏み込まれたらおしまいだろ?」

「お前もついてないよな、このタイミングで児玉坂ランドって」

 

島田を茶化す男子生徒の声が大きくなって聞こえてくるのがわかった。

彼らが話をしているのは、先ほどの卒業前旅行の事だった。

ホームルームで教師が生徒たちに告げたあの企画のことだ。

 

「どうする?

 体調悪いって言ってバイト休むか?

 だけどよ、バイト先の人に見つかったらシャレなんねーしな」

 

「それとも、卒業前旅行自体を休んじまうか?

 できねーよな、教師から一目置かれてる優等生の島田にはさー」

 

品のない高い声をあげながら男子生徒たちは笑い続けていた。

どうやら他人の不幸が相当面白いらしかったが、

人間というのはそういうものだしな、と明日奈も冷めた感情で盗み聞きを続けていた。

 

「お前らうるさいな。

 僕がバレるわけないだろ、卒業までもう少しだってのに」

 

島田がそういうと、勢いよく窓から白い煙が吹き出されたと同時に、

彼が吸っていたタバコの吸い殻がさらに勢いよく窓の外へと飛び出して行った。

吸い殻はトイレから投げたとは思えない場所まで飛んで行ったが、

校舎の中のどこかに落ちることは免れない気がした。

島田はそんなことを憂慮することはないのだと明日奈にはわかった。

まさか、優等生の彼が吸ったものだとは、教師たちは夢にも思わないからだ。

 

「あのバイトはな、すっごい面白いんだよ。

 お前らにも話したことあったろ?

 あの児玉坂46のメンバーが遊びにきたって話」

 

島田はふてぶてしい声質で話を続けて行った。

明日奈は、その声に耳を傾けながら、島田が捨てた吸い殻の方をずっと眺めていた。

 

「あ、お前の推しメンがきたってやつか?」

 

「そうだよ、僕も最初聞いたときはビビった。

 マネージャーから無線で飛んできた内容が、児玉坂46のメンバーが来るって話だったからさ」

 

もう一人の男はその話が初耳だったらしく、とても興奮しているのが声でわかった。

早く話の続きが聞きたくて仕方ないらしかった。

 

「そんであれだろ、お前が後ろから脅かしたって話だろ?」

 

前に話を聞いたことのある男がそんな風に言った。

 

「おい、僕が喋ってんだから先に言うなよ」

 

「脅かしたって、どういうことだよ?」

 

島田は不満そうにそう言ったが、初耳の男にはどういう意味かまだわかっていないようだった。

 

島田が働いているのは児玉坂ランドの「その教室」というアトラクションだった。

これはいわゆるお化け屋敷系のアトラクションに近いもので、

シュールで不思議なことばかり起こる学校の中を進んでいくものだ。

様々な仕掛けがある学校の中を謎解きしたりして進んで行きながら、

最後の教室にたどり着いて無事に脱出することができればクリアである。

 

「それでさ、教室の中で色々と俺たちが客を脅かすんだ。

 そんときに来たのが児玉坂46のメンバー、つまり僕の推しメンだったわけ」

 

「マジかよ、すっげえ羨ましい話だな!

 でも、そりゃセンコーきたら一発でバレるだろ」

 

「それが、僕のポジションは絶対にバレないんだよ。

 僕のポジは脅かしメンバーの中でも割と特別でさ、

 通称『推しメン』って言われてて、つまり一般客に混じったふりして客を脅かすんだよ」

 

島田が自慢げに話を続ける。

他の男子学生達は興味津々で相槌を打ち続ける。

 

「僕の役割は最後の教室のとこで、客の背中を押すだけなんだよ。

 だから先生が来たって、一般客のふりしてればバレることはまずない」

 

「なんだかややっこしいな、お前が『推しメン』としてお前の推しメンを押したわけ?」

 

男子学生達は笑いながら島田を茶化す。

島田もついに愉快そうに笑いで同調して返した。

 

「そういうこと、僕が推しメンを押したとき、

 あんまりびっくりしたんで推しメンがまるでアメリカ映画の登場人物みたいに叫んで驚いてたよ。

 目ん玉大きくして『キャー』だってさ、ちょっと涙ぐんでたっけ」

 

島田が高笑いを始めたが、話を聞いていた相手は少し冷めた様子だった。

あまりに自慢話が過ぎたのでうんざりしていたのだった。

 

「お前ばっかいい思いして、なんかつまんねーな。

 だけどよ、あんまりセンコーなめってと痛い目見るぞ。

 センター試験前なのに、めんどくさいことなっても知らねーからな」

 

男子学生がそう言ったが、島田はどうやら余裕の笑みを絶やしていなかった。

明日奈は彼らがタバコを吸うのをやめて話に集中し始めた時から、

トイレの窓から中をのぞいていた。

そこには島田を含む三人の男子学生が立ち話をしているのが見えていた。

 

「大丈夫だよ、僕には協力者がいる」

 

「なんだよそれ」

 

男子学生がそう島田に尋ねたが、島田は何も答えなかった。

代わりに、数秒間を置いてから、突然謎のポーズを見せた。

右手を頭の上にあげ、左手をお腹の前に置き、両手を広げていた。

右足は一歩後ろに引いて、まるでウルトラマンの決めポーズのようだった。

 

「・・・お前、何やってんの?」

 

「児玉坂ランドで働く者だけが知る、秘密のポーズだよ。

 こういうテーマパークにはね、客にはバレないで意思疎通する、

 特別な言葉だったりサインだったりがあるんだよ。

 客の前で『こいつやばい客だから気をつけろ』とか言えないだろ?

 だからこっそりこういうサインとかで伝えるんだよ」

 

「へぇ、おもしれ~な、そんでさっきのポーズはなんのサインなんだよ?」

 

「・・・おい、窓の外に誰かいるぞ!?」

 

もう一人の男子学生が明日奈の存在に気づいてそう言うと、

勢いよくトイレの窓際へダッシュして詰め寄って来た。

 

「・・・金色の羽?」

 

だが、そこには明日奈の姿はなかった。

ただ窓に引っかかっていた金色の羽を除いて。

 

「ビビらせんなよ、鳥だろ鳥。 

 神経質になりすぎだよ、こんなところから覗けるのは、

 スパイダーマンか、とびっきりの変質者だけだよ」

 

そう言いながらも、興ざめしてしまったのか、

少し驚いて危険を感じたのか、島田はすっかり話を打ち切ってしまった。

そして用心深くトイレのドアを開けて外を覗いて出て行った。

 

「・・・金色の鳥って、そんなの思い当たらねーけど」

 

男子学生達はぼやきながら島田の後を追いかけて行った。

 

 

 

・・・

 

教室を去った森未代奈は、まっすぐにカフェ・バレッタへ向かった。

バレッタは彼女が留学中にホームステイをさせてもらっている家であり、

同時に彼女が例外的に許されているアルバイトの職場であった。

 

まっすぐに帰って来て、すぐに部屋に学校用カバンを置くと、

彼女はすぐにクローゼットを開けて制服を脱ぎ始めた。

やがてすぐに私服に着替えてしまうと、また別のカバンを持って部屋を出た。

階段を降りて店先まで出てくると、飼っているペットのチンパンジーが見えた。

彼女のペットのチンパンジーは一緒に未来から来た友人であり、

人間の言葉を話すことができるのだが、この日は何も言わずじっとしていた。

なぜならカフェの中にお客さんがいたからだった。

 

「ソルティーヤくん、もう夏やから、はよ冬眠から覚めて」

 

あまりにも動かないソルティーヤくんをバカにして、

未代奈は笑いながらそんなことを言った。

彼はただじっと未代奈を見つめて何かを言いたげにしていた。

喋る猿だとバレるわけにはいかなかった彼は、

どうしても伝えたいことを伝えるべく、急いでペンをとって画用紙に何かを書き始めた。

書き終えた後、その画用紙を手に持って未代奈の方へと掲げていた。

 

「ひどいよ、猿は冬眠なんてしないよ!」

 

未代奈はそれを一瞥してほくそ笑んだ後で彼を無視した。

お客さんには無口で無愛想な店長が応対していたこともあって、

未代奈は店長に軽く会釈をして、そのまま店を後にした。

 

店先にあった箒を手に取り、玄関先を掃除すると見せかけて、

彼女はそのまま近くの路地裏へと走った。

そして、次に路地裏から出て来た時には、

彼女は箒にまたがって空を飛んでいたのである。

 

 

・・・

 

「おはようございまーす」

 

未代奈は明るく挨拶をしながら廊下を歩いていく。

やがて更衣室に到着し、カウンターで衣装を借りてきた。

このアトラクションの学校は児玉坂高校がモチーフであり、

実際のところ、衣装の制服も未代奈たちが普段着ている物とほぼ同じだった。

先ほど制服を脱いだにもかかわらず、衣装はまたほぼ同じ制服であり、

自分が行なっている行為の不思議さに少し苦笑いながら、

未代奈は急いで着替えて更衣室を後にした。

 

従業員専用の裏口から出て、いつも通り決められたルートを通って道を歩いた。

やがて辿り着いた学校風の建物の従業員専用の裏口の扉を開けて中に入った。

アトラクション管理のマネージャーさんへ挨拶を済ませ、ポジションにつくことを告げると、

未代奈は裏の倉庫に置いてあった紙袋でできた被り物を手にとって裏口からアトラクションへ入った。

 

未代奈はその教室に入る前に怖い顔の描かれた茶色の紙袋を頭からすっぽりと被った。

そして、教室の扉のすぐそばにある隅っこの席に座ってただ静かに待っていた。

 

やがてアトラクションの客がおそるおそる教室を開けると、

そこには茶色の紙袋を被った未代奈が待っているのだ。

お客さんは「ホント、マジ無理」やら「もう帰りたい」やらの声をあげながら、

やがて教室の中で未代奈が一人座っているのを発見する。

ピクリとも動かない未代奈は、まるで制服を着たマネキンかと思うほどである。

背景と完全に溶け合っていて、絵の中に入り込んでしまったように動かない。

お客さんは、どうやら手前の入り口から入って来たので、

もう一つの反対側の出口から出なければならないことを知る。

だが、その出口の前には茶色い紙袋を被った女の子が座っているのが見える。

おそるおそる、だが仕方なくお客さんが未代奈に近づいていくと、

未代奈は急に椅子から立ち上がり、両手をあげてお客さんを驚かせるのだ。

 

そして驚いた客は後ずさりして逃げるのであるが、

このアトラクションが人気を博している理由は未代奈の迫真の演技の他にもう一つあった。

それは、ここで後ずさりをしてくる客を、客のふりして混ざり込んだスタッフが後ろから押すのである。

この役目こそがスタッフ内で「推しメン」と呼ばれる役割なのだが、

巧妙に変装したりしながら混ざるので、複数人のグループで組まされると、

一体誰がその「推しメン」なのかわからないという仕組みなのである。

さっきまで一緒に怖がっていた人が急に裏切って押してくるのだから、

それはそれはびっくりするという仕掛けなのである。

そして、押された先には迫真の演技の未代奈が立っているのだ。

なんと最後には、未代奈は突然のように狂った笑い声をあげるのだから、

客は腰を抜かしながら出口から出て行く、ということになる。

 

ところで、未代奈はお化けが大嫌いである。

 

だが、ホラー映画を見るのは三度の飯と同じくらい好きらしい。

この矛盾をどう読み解けばいいのか、かなり難しい問題なのであるが、

どうも本物のお化けと映画に出てくるお化けは違うと捉えている節がある。

彼女にとってホラー映画はエンターテインメントであり、怖いものではないらしい。

 

だが、この難問に比べて、明白なことが一つある。

それは未代奈が他人を驚かせることは大好きであるという事実だった。

彼女は根っからに勝気な性格であり、とても健全でいじわるな女の子である。

だが、そのいじわるも悪意があるわけではない。

彼女にとってみれば、とにかく楽しいことが大好きなのである。

退屈に過ごすよりは、人生を楽しみたいと思っているところがあり、

もちろん自分が驚かされる側になるのは嫌なのだが、

誰かを驚かせるのは楽しいし、面白い過ごし方であると思っていた。

 

しかし、彼女は時にやりすぎてしまうことがあり、

今までにアトラクションのマネージャーに内緒で顔にゾンビペイントをして来たことがあった。

それを茶色の紙袋の下に施しておき、紙袋を取ってもさらに怖い、という演出を勝手に加えたりした。

さらに驚く客に対して焼肉を奢ってくださいという、ある意味恐怖なセリフを追い討ちのように吐いたため、

マネージャーから軽く叱られたこともあったらしい。

だが、彼女はそんなことでめげる性格ではなかったが。

 

未代奈はかつて友達と遊びに来た児玉坂ランドの魅力に取り憑かれてしまった。

そして、バレッタだけでは飽き足らず、ここでバイトすることを決意してしまったのだった。

面接でシフトのことについて尋ねられた時に「シフトってなんですか?」と何度も尋ねてしまったが、

彼女は未来人なので、現代のアルバイトがシフト制だということを知らないのだった。

 

未代奈はそんな調子だったが、彼女の迫真の演技は評価されることとなり、

新しくできたアトラクション「その教室」の担当となったのだった。

もちろん、バレッタでも働いているので、毎日出られるわけではないが、

リーダーは未代奈の演技を高く評価しており、重宝していた。

 

 

「・・・それにしても、今日はビビったね」

 

お客さんが未代奈の威嚇に驚いて腰を抜かして出て行った後、

「推しメン」として役目を果たした島田がカツラを外しながらそう言った。

未代奈は彼からやたらとガムみたいな甘い匂いがするのに気づいていた。

まるでタバコを吸っているのをごまかすみたいなカモフラージュな匂いだ。

 

「怪しまれるから先生がいるときはこっち見ないでください」

 

未代奈は被っていた紙袋を脱ぎながらそう島田に告げた。

とても冷静な口調で、特に彼女の瞳は驚くほどにまっすぐだった。

 

「いや、だってさ、あれはビビるでしょ。

 そりゃ森さんの顔色をうかがっちゃうよね。

 卒業前旅行がまさか児玉坂ランドなんてさ」

 

教室で見た時と同じように、島田はチラチラと未代奈の顔色をうかがっていた。

未代奈は全く動揺する様子もなく、紙袋を机の上に置いてそこに描かれている顔を見つめていた。

 

「しかもさ、旅行当日の日、二人ともシフト入っちゃってるよ、森さんはどうする?

 やっぱりシフト代わってもらったりして休んじゃう?」

 

「・・・やっぱり、バレるのが怖い?」

 

未代奈は静かに島田にそう聞き返した。

善良でおとなしそうな島田は口元に微かな笑みを浮かべた。

 

「いや、僕はバレることはないと思ってる。

 だって僕はお客さんに混ざって行動する役だし、

 君はその紙袋を被っていれば顔は指されないだろうし、ただ・・・」

 

「・・・ただ?」

 

未代奈は意味深な島田の言葉が気になって続きを尋ねた。

 

「森さんがバラさなければ、ね。

 もちろん、それはお互い様だけどね。

 僕がバラさなきゃ、森さんだってバレない」

 

島田がそう言った時、未代奈は何も言わなかったが、

ただニッコリと微笑みを島田に返したのだった。

それだけで満足した島田は、またカツラを頭の上に乗せて、

次のお客さんのスタンバイのために満足げに教室を出て行った。

 

 

・・・

 

 

「先生なー、嘘はいけないと思うぞー」

 

翌日、一時限目の授業は中止となった。

朝からいきなり先生が激怒する事になったからだった。

こういう場合、授業を受けたくなかった生徒は内心喜んでいたりもする。

あとは、自分とは関係のない教師の怒りを静かにやり過ごせばよかったからだ。

 

先生の横には島田が半べそをかいて突っ立っていた。

時々しゃくりあげる様子を見せながら、ずっと斜め下に視線を落としていた。

 

翌日の朝、投稿してきた生徒たちが驚いたのは、

学級委員長である島田の机の上にタバコの吸い殻が置かれていたことだった。

島田が登校してきた時、既に彼の机の周りには人だかりができており、

タバコの吸い殻を発見した島田は、顔が真っ青になってめまいを覚えたが、

少し狼狽えた後で、すぐに担任の先生へと報告に向かったのだった。

 

「誰がやったんだー、早く名乗り出ないと授業始まらないぞー。

 一体誰が島田の机にこんなものを置いたのか聞いてるんだー!」

 

島田は自分が捨てたはずの吸い殻が机の上に置かれていたことに驚いたが、

それを誰かが自分の机の上に置いたのだと、この日、彼は咄嗟に嘘をついたのだった。

優等生である島田がタバコなど吸うはずがないと思っている教師は、

これが陰湿ないじめ事件であると断定して犯人探しを始めたというわけなのだ。

 

「そうかー、お前らが本当のことを言わないつもりだったらなー、

 先生一人一人の顔をしっかり見てやるからなー。

 嘘ついてないって言うんなら、目をそらさずに先生の顔を見れるよなー」

 

そう言って教師は、教室の中をいつも通り旋回し始めた。

教師はゆらゆらと歩きながら近づくが、生徒たちは誰も目を合わそうとしない。

このままでいくと、全員が嘘つきだと言う結論になってしまうが、

畢竟、誰も目を合わせたくないのは、余計なことに巻き込まれたくないからだった。

 

教師は一人一人の顔を下から覗き込むようにしながら教室内を歩いて行ったが、

やがて、珍しくまっすぐにこちらを見つめてくる生徒に気がついた。

教室の後ろの廊下側の席に座ってまっすぐに見つめてくるのは未代奈だった。

 

未代奈はまっすぐに教師の目を鋭い瞳で見つめると、

やがてゆっくりと視線を下の方へと動かして行った。

教師はその視線の移動に気がつき、焦って社会の窓を両手でチェックした。

今日はどうやら窓はきっちりとしまっていたようだった。

 

「なんだ森、びっくりさせるな」

 

「でも今、うろたえましたよね?」

 

未代奈がそう告げると、周囲の生徒たちは笑いを堪えているようだった。

みんな下向きながら、かすかに笑っているのが教師にもわかったらしい。

 

「目を上から下にこうやっただけで、人ってうろたえるんですね」

 

周囲の生徒たちが笑いをこらえきれなくなっていたところで、

未代奈の顔もかすかに微笑んでいるようだった。

 

「おい、森、大人をからかうもんじゃない」

 

教師は周囲から笑われていることに苛立ちを覚えたのか、

少し怖い口調で場の空気を重たいものにしようとした。

未代奈もさすがにその空気を感じ取ったのか、

かすかに笑っていた表情を引き締めて真顔で教師に向き合った。

 

「そういえば、昨日、島田がお前の方をチラッと見てたよな。

 お前、この件について何か知ってることないのか?」

 

教師がそう未代奈に詰問した時、島田は顔をわずかにあげて未代奈の方を見た。

未代奈がどういう発言をして、どんな展開になるのかが気になったのだが、

とにかく、島田は例の余計なことを言わないようにという視線を未代奈に送ったのだった。

 

「・・・さあ」

 

「さあって、ほら昨日島田がお前のことを見てただろ?

 例えばお前のことを好きな奴が島田をいじめてるとか、なんかそういう情報も知らないのか?」

 

「・・・昨日?」

 

未代奈は島田の視線を受けてかどうかわからないが、キョトン顔を貫いていた。

その表情は何も知らないを通り越して、何か怖い感じすらするほどだった。

 

「なんだ森、お前昨日のことも覚えてないってのか?」

 

「・・・あんまり記憶がないので」

 

「いや、記憶って、昨日のことだろ?」

 

「・・・記憶がないです」

 

未代奈があまりにキョトン顔で貫き通すので、

教師はなんだか怖い世界に突入したような気がしてきた。

なかなかベテランの政治家の答弁でも、ここまでキョトン顔で通すことはできないだろうに。

 

「・・・もういい、なんだか怖い世界に入ってしまった、まったく!」

 

教師は埒の開かない未代奈に見切りをつけ、また教室を旋回し始めた。

睨みを効かせながら教室を見回すと、明らかに窓の外を眺めている生徒が目に入った。

この状況で全く教師の話に関心を持っていないそぶりを見せていたのは明日奈であった。

 

「内藤・・・窓の外がそんなに面白いかー?」

 

明日奈にターゲットがロックオンされたことが誰の目にも明白だった。

こういう時に集団からずれて目立つ動きをしては命取りになる。

だからどの生徒も同じようにただ黙って下を向いているというのに、

明日奈は相変わらずじっと窓の外を眺めているだけだった。

 

「おい内藤・・・先生の話がそんなにつまらないかー?」

 

そう言いながら教師はゆっくりと明日奈の元へと近づいて行った。

そして、何やらいいことを思いついた様子でニコニコと微笑み始めたのだ。

 

「そうだ内藤、お前昨日掃除当番だったよなー?

 お前掃除した時、タバコの吸い殻とか落ちてなかったかー?

 て言うか、お前本当にちゃんと掃除したのかー、んー?」

 

教師が距離を詰めて行っても、明日奈は相変わらずそっぽを向いたままだった。

その様子に気づいた教師は、また例によって明日奈が見ていた窓を閉めてしまった。

強制的に教師の方を向かなけれがならなくなってしまった明日奈はようやく重たい口を開いた。

 

「・・・やっぱ、人間って何かを崩したいって言う欲求があると思うんですよ」

 

明日奈がボソッと言い放った言葉に、教室内は戦慄を覚えた。

一番動揺していたのは島田だったかもしれない。

一体彼女が何を言い出すのか、全く予想できなかったからだ。

島田本人としては、こんな状況は早くうやむやでもいいので終わらせたかったし、

なんなら犯人をでっち上げても終了させたかったかもしれない。

だから明日奈が責められている間は良かったのだが、

先の読めない答弁を開始すると、それは島田にとっては恐怖でしかなかった。

 

「一つずつ積み上げてきた塔を自らの手でぶっ壊してやるって言う快感を味わえるので・・・」

 

明日奈は教師に面と向かって何やら破壊願望の告白を始めた。

周囲の生徒たちは一斉に顔を上げて明日奈の方へ視線を向けた。

普段は比較的に無口で余計なことを言わない明日奈が何を言い始めたのか、

そして、その言葉が何を意味しているのかに俄然興味が湧いてきたのだろう。

 

「・・・なんだ、内藤、一体それはどう言うこ」

 

「あーーーーっ!」

 

椅子をガタンと言わせて立ち上がったのは未代奈だった。

 

「・・・先生、思い出しました、昨日の夜に食べたのはピーマンの肉詰めです!」

 

彼女が何を言っているのかよくわからなかったが、教師だけでなく、

教室中の生徒がみんな未代奈へ注目せざるを得なくなっていた。

 

「やっと思い出しました、昨日の私は苦手な食べ物を克服しようとしたんです。

 それで、ピーマンに大好きなお肉を詰めたら食べられるかと思いまして、

 でもやっぱりどうしても食べれなくて、それで思い出したくない記憶だからですかね、

 今までどうしても思い出せなくなってたみたいです」

 

未代奈は先ほどまでと打って変わってとても悲しそうな顔をしていた。

嫌いなものを克服できなかった事実が悲しかったのだと思われるが、

誰もがポカーンと口を開けたまま未代奈の発言を聞いていた。

 

「・・・おお、それで島田の件も思い出したのか?」

 

「・・・いえ、思い出せるのはお肉の味だけで、ピーマンの味は思い出したくもなくて・・・」

 

「いや、しーまーだ!」

 

「・・・それについては、記憶がないので」

 

またキョトンとした表情になってしまった未代奈を見て、

教師はがっくりと肩を落としてうなだれてしまった。

その機を見逃さなかったのは島田本人だった。

 

「・・・先生、もう僕は大丈夫です、気にしていませんから、

 みんなもうすぐ試験も近いことですし、僕のことは気にせず、授業を続けてください」

 

島田がしおらしいふりをしてそう告げると、教師は本人がそう言うのだからと、

もうこの件については諦めた様子で島田に着席を命じた。

島田はさっさと席についてホッとしていた様子だったし、

未代奈も相変わらず済ました顔のままで着席してしまった。

明日奈はまた一人で窓を開けて、空の様子を眺め始めたのだった。

 

 

・・・

 

結局、その日の授業は普段通りに進んで行った。

島田の机の上にタバコの吸い殻事件は、

校内全ての教師たちに共有されていた様子で、

どことなく全ての教科の教師たちの顔は厳しめだった。

他のクラスの生徒も、この事件について注意を受けたらしく、

何か知っているものはいないかと尋ねられたと言う。

だが、結局のところ犯人は見つかることなく事件はうやむやに終わった。

ただタバコに対する教師たちの意識は高められていたようだ。

男子トイレなど、タバコの吸い殻がないかどうかのチェックは以前よりも厳しくなった。

 

明日奈は相変わらず教師が喋ることなど上の空であり、

ぼんやりと先ほどの事件について考えていた。

せっかく自白しようと思ったところでうやむやにされた。

昨日、トイレ事件を目撃した後で吸い殻を拾って島田の机の上に置いて帰った。

善良なふりをしてバレない島田を、これで崩せると思っていたのだ。

 

だが、もちろん自分がやったなんてバレたくはなかった。

そんなことをすれば教師たちが騒ぎ出して面倒なことになる。

だからそっと島田の机の上に吸い殻を置いておいたのだし、

島田だけが問い詰められるシナリオになれば最も都合が良かった。

しかし、結果的には島田はうまく難を逃れようとしたし、

不本意ながら、明日奈自身が問い詰められる展開となってしまった。

 

明日奈は変な嘘をつくのは苦手だった。

どうでもいい嘘なら、別につくことにそれほど罪悪感はない。

だが、一線を越えるような大胆な出来事に対しては、

自分がやってないと言えば、他の誰かが疑われることになるし、

嘘をついて逃れようとするのは、なんとなく自分自身が卑怯だと思っていた。

正義感が強いなどと、自分を認めるのは気恥ずかしい思いがしていたが、

それでも明日奈は卑怯なことをする奴が嫌いだったのは間違いない。

 

よくわからなかったのは、自分が破壊願望の告白をしていた時に、

話をうやむやにしてしまった未代奈の存在だった。

誰も聞いていない昨日の食事のことなどを言い始めて、

結局のところ、教師を煙に巻いてしまった。

あれは彼女がただの天然な性格だからだったのだろうか。

それとも、巧妙なテクニックを使って自分をかばってくれたのだろうか。

真相は誰にもわからなかった。

 

 

明日奈は教室の中以外でも未代奈のことを知っていた。

友達とカフェ・バレッタに行くことは何度かあったので、

そこで働いていた女の子だというのが彼女の第一印象だった。

その後、どういうわけか同じクラスになり、座る席がシンメトリーになった。

明日奈が窓際の後ろに座ると、彼女は廊下側の後ろの席だった。

だが、人見知りの明日奈が積極的に話しかけるはずもなかったし、

バレッタで見たことがある程度で知り合いぶるのは良くないと遠慮していた。

つまり、明日奈にとって未代奈は友達でもなんでもなかった。

 

未代奈にとって、明日奈も同じくらいの認識だった。

バレッタに来ているのを何度か見たことはあったのだが、

同じく人見知りである自分が積極的に話しかけに行くでもなかった。

また、未代奈は未来人であり、それを周囲に知られると面倒なことになる。

過去に仲の良い友人を失った経験もあり、積極的に友達を作ろうとはもはや思っていなかったのだ。

基本的にクラスでも一人であり、それほど深い仲にある友人などはいなかった。

 

それでも、未代奈は今朝の明日奈の謎の告白には興味を持っていた。

一体何を言おうとしたのだろうか、どうして不器用にも自ら罪を認めようとしたのか。

タバコを島田の机に置いたのが本当に明日奈であったのか、

未代奈には確固たる証拠もなかったが、明日奈がやったものであったのか、

それとも明日奈が誰かをかばって自分の罪にしようとしたのかは定かではないが、

とても大胆なやり方で何を恐れることもなく毅然とした態度で教師と向き合う彼女に、

未代奈の好奇心が刺激されていたことは間違いなかった。

 

 

だが、それでも二人はお互いに距離を縮めることはなかった。

友人を作るには、あまりにも時間のかかる二人なのだから。

 

 

 

・・・

 

「先生、大変です!」

 

島田がそう言って職員室に駆け込んだのは、数日後の昼休みの事だった。

担任教師は自分を呼びに来た優等生の島田のヘルプに答え、

すぐに教室まで飛んで言ったのだ。

 

「それで、どこなんだ?」

 

「こっちです」

 

島田に促されるままに教室へ誘導された教師は、

この部屋が普段の教室ではなく、ベランダのあるタイプの教室であることに気づいた。

ここは特別な授業の際に使用される教室で、普段はあまり生徒たちも近づくことはなかったのだ。

どうやら先ほどの時間には使われたのか、数式がまだ黒板に書き込まれて残っていた。

 

促されるままにベランダまで連れて行かれた教師は、そこに未代奈の姿があることに気がついた。

彼女はベランダから手すりを超えて下を覗き込んでいるのがわかった。

そして、島田も同じように手すりから下を覗き込むように教師に促した。

 

教師が下を覗き込むと、そこには地面に寝そべっている明日奈の姿を見つけた。

制服姿のまま、どういうわけか地面に横になって寝転んでいる。

 

教師はその姿に気が動転してしまい、冷静な判断が瞬時にはできなかった。

どこかから落下して気絶しているのか、ただ眠っているだけなのか。

とにかく、教師がベランダから大きく手を振って見たのだが、反応はない。

 

「おい、内藤はどうしたんだ?」

 

「わかりません、僕らが偶然あそこで倒れているのを見つけただけで・・・」

 

教師と島田がそんな話をしている中、未代奈も不思議そうに明日奈を見つめていた。

どこかから落下したにしては、あまりにも無傷すぎる様子だし、

おそらく、ただ眠っているだけに過ぎないのだと未代奈は考えていた。

 

「気を失っていたら大変だ、とりあえず下に降りるぞ」

 

「待ってください」

 

教師が焦るように下に降りることを提案するも、未代奈がそれを引き止めた。

どういうことかと教師がいぶかっていると、どうやら未代奈はずっと明日奈を見つめていたようだ。

 

教師もまた明日奈へ視線を戻すと、どういうわけか、明日奈は何事もなかったように器用に立ち上がった。

そして、何やら体を動かしながらまるで体操でもしているようだった。

 

「何だあれは、新手のラジオ体操か?」

 

「・・・さあ」

 

未代奈がそう答えると、教師はとにかく狐に化かされたような気分になった。

いろんなことがめちゃくちゃな展開をしていて、何から正せば良いのかわからなくなっていた。

 

「・・・とにかく、どこかから落ちたわけではなさそうだ。

 まったく、あんなところで寝る意味もよくわからんが、お前ら俺を驚かせるなよ」

 

「・・・すいません」

 

もしかしたら大変なことになったのかと思っていた島田にとっては、

せっかく教師に一番乗りで報告できてポイントを稼げたかと思っていたのに、

逆に怒られてしまい、何とも不愉快な思いを隠しきれなかった。

 

「・・・ところで、お前らこそよく内藤があんなところで寝てるのを発見できたな?

 昼休みにこの教室を使う必要もないだろうに・・・」

 

教師は明日奈の件が何事もなく解決したかと思った矢先に、

今度は報告してきた島田と未代奈に対して疑いの矛先を向けたのだった。

この教師はどうも感情的というか、ターゲットをすぐに変更する癖があるようだった。

 

「逆にお前ら、ここで何してたんだ?

 児玉坂高校の規則では恋愛禁止だってこと、知ってるよなー?」

 

教師は島田と未代奈の双方の顔を見比べながら語気を強めていった。

どうやら気づいたら片思い、という状態までは思想の自由で許すことはできても、

実際に校内で男女交際をするのは許されていないのが児玉坂高校らしかった。

 

「何もしてないです」

 

島田は微妙に視線をずらしながら教師に何度もそう答えて返した。

どうやら島田は嘘をつくときに何度も同じ言葉を繰り返す癖があるらしく、

それを見抜いた未代奈は、これは逆に怪しいので先生に問い詰められる恐れを感じていた。

 

「じゃあこの教室で何をしてたんだ?」

 

「・・・それは」

 

島田が汗を流しながら答えあぐねていた時、

何を思ったのか、未代奈は突然教室の中へと走り出した。

そして、黒板消しを手に取ると、すごい勢いで闇雲に黒板を消し始めた。

 

教師がその様子を呆気にとられて見ていると、

やがて未代奈は突然止まり、黒板消しを投げ捨てて剣道の面を打ち始めた。

 

「・・・おい島田、あいつ何やってんだ?」

 

「・・・わからないです」

 

何度も面打ちを繰り返し、何度目の面打ちかで突然にしてまた動作をやめると、

未代奈はまた涼しい顔に戻って二人を見つめて言い放った。

 

「剣道やってたんですよ」

 

どこまでもシリアスな表情を貫いて、未代奈は堂々としていた。

そう言われれば、なかなか良い面打ちだったような気もしていた。

 

「三年間くらい、中学校の時」

 

教師がポカンと口を開けながらその言葉を聞いた後、

間髪入れずに未代奈は「嘘なんですけど」と言い放って笑った。

そして、そのまま笑ったまま教室を走り去って出て行ってしまった。

 

「そういえば、最近剣道をやってたって嘘つくのにハマってるって彼女言ってました・・・」

 

「そんな嘘ついて、何の意味があるんだ?」

 

「わからないです」

 

本当に分からなかったのだろう、島田は一度しかその言葉を言わなかった。

 

「そういえば内藤は」と言って教師はもう一度ベランダから下をのぞいたが、

どういうわけか、明日奈も全力で何処かへ走り去ってしまったのだった。

 

「・・・お前ら、もうつまらんことで俺を呼ぶなよ、まったく」

 

「今日、数学の授業なんてあったかな」とぼやきながら黒板をジロジロみて、

島田にジェスチャーで消しとけという合図を送って教師は去って行った。

島田は教師が出て行った後、急いで黒板消しを手にとってそこに書かれていた数式を全部消した。

それは二等辺三角形の証明の公式か何かだったが、消し終わった島田は黒板消しを投げ出して一息ついた。

 

そして、ベランダにもう一度目を向けた時、そこに何かが落ちているのが目に止まった。

島田がまたベランダへ出て近づいてみると、それは金色に輝く鳥の羽であることがわかった。

 

 

・・・

 

 

教室を走り去った未代奈は、教師達が追いかけてこないことを確認して一息ついた。

そして、ゆっくりと廊下を歩き始めたときに、向かいに立っている人がいるのに気づいた。

 

それは明日奈だった。

彼女は真っ直ぐに未代奈の方を見つめてそこに立っていた。

どういう表情も読み取れない、冷めた表情をしていた。

もちろん、どういう表情も読み取れないといえば、

未代奈の表情もそうだった、二人はお互いに何も読み取れず、

ただ向き合いながら棒立ちになって時間だけが流れて行った。

 

ただ一つ、客観的に見て言えることは、

この二人はそれぞれに自由に生きているということだった。

 

おそらく二人は、どんな規制の枠にも縛られない。

この大人の作り出した窮屈な社会などはもってのほかである。

彼女たちは思うがままの感性で、誰に媚びて生きていくこともない。

二人はそれぞれのやり方で、自由に空を飛び続ける生き方を選ぶのだろう。

それがまったくタイプの違うように思える二人の共通点だった。

 

おそらく、彼女たちを脇から眺めている我々凡人には、

彼女たちがあまりに自由に羽ばたいているために、

次にどんな奇行を犯すのか、まったく見当もつかないのだ。

だが二人ともそれぞれに持っている内側の芯は相当強く、

心の形は違えど、生きる上で誰に屈することもない。

また自由に生きている分、自分は自分であり、他人は他人である。

そうして他の誰かを自分の生き方に強制させることもない。

それは自らが誰かに強制されることを好まないからでもある。

 

未代奈の根っこは明るかった。

もちろん、彼女の中の感覚ではネガティブに陥る時もあるだろう。

だが、比較的に彼女は明るくて未来を強く信じている。

彼女は繊細な一面もあるが、それ以上に大胆な性格をしていて、

何よりも最大の長所は、嫌なことを忘れて生きていける事だった。

もちろん、色々と忘れてしまうので時に短所になることもあるが、

この忘れるという性質が、彼女を明るくさせていたと言える。

 

明日奈は対照的に暗い。

だが、明るいことが良い、暗いことが悪いという一般論で語っているのではない。

俗に言われる暗い人とは、実は人一倍繊細な人であって、

繊細でない人にはその気持ちは理解されない。

彼女はそれほど未来を強く信じてもいなかったかもしれない。

彼女は大胆な面もあるが、それ以上に繊細な性格をしていて、

誰よりも深く物事の本質を見つめてしまう性質を持っていた。

常人よりも頭の中に溢れる情報や感情が多くなることで、

それを処理することに、おそらく常人の倍以上の疲労を感じている。

彼女の場合、諸々の呪縛から解き放たれたいが為に空を飛んでいると言えた。

 

おそらくこの二人が出会うのは空の上なのだ。

我々常人が立っている大地の上ではない。

こうした彼女たちには彼女たちなりの理解の方法があり、

想像以上に以心伝心で通じ合っていたのかもしれなかった。

 

 

長い廊下で二人は何も言葉を発せずにしばらく見つめ合っていたが、

やがて、明日奈の方が先に動きを見せた。

彼女は何を思ったのか、右足を引き、右手をあげ、左手を腹の前に置き、

島田たちが話しをしていた、あの児玉坂ランドで使われているというポーズをとった。

 

それを見ていた未代奈は、澄ました表情のままであったが、

瞬時にそのポーズをとった明日奈に幾分動揺させられた。

そして、今度は未代奈の方から明日奈に歩み寄る姿勢を見せたのだが、

二、三歩足を進めたところで、明日奈は急に後ろを振り向いて走り去ってしまったのだった。

 

未代奈は足を止めたまま、走り去っていく明日奈の背中だけをじっと見つめていた。

 

 

 

・・・

 

 

「先生、チャッス買ってきました」

 

島田が買ってきたチャッスを教師に手渡した。

それは見るからにただのペットボトルに入ったただの烏龍茶だったが、

貼られているラベルには商品名として「チャッス」と確かに書かれていた。

 

「おい島田、烏龍茶じゃなくて麦茶はなかったのか?」

 

「すいません、でもそれならちゃんと『むぎチャッス』って言っていただかないと・・・」

 

 

あれから月日は流れて、三年生の卒業前旅行は決行された。

島田たちのいるこの場所はもう児玉坂ランドである。

ここではユニークな商品が売られており、

普通のお茶は「チャッス」、ポテトチップスは「ポトポトポットス」と呼ばれている。

それはこのテーマパークの決まりなので、誰もがそういうふうに呼ぶのである。

ここのスタッフもお客さんも、その呼び方で統一しなければならない。

それがこの夢の国、児玉坂ランドのルールだった。

 

児玉坂ランドが夢の国と呼ばれて愛されているのには理由があった。

それは新しいアトラクションが次々と追加されていくことだ。

この間までなかったので言えば、児玉坂ランドには無数のドローンが飛んでおり、

それが回転してマシュマロを飛ばしてくる、これが最近は子供達に大層受けているという。

そのマシュマロの食感がみずみずもちもちであることは言うまでもない。

 

また、夏限定でスカイダイビングを取り入れる予定があるらしく。

みんな「な・つ・だ!」と叫びながらダイビングするというものらしい。

夏にはスイカが無料で配られて食べ放題だし、春にはチューリップの花が綺麗に咲き乱れる。

また、ひときわ謎なのが、そのチューリップ花壇のそばにあるお風呂屋さんであり、

看板には「入浴条件:いやらしい目で見なければ」と書かれているものである。

これはちょっと子供達にはあまり見せられないので、賛否両論あるらしいが。

 

 

とにかく、児玉坂ランドは夢のような場所なので、

あまり浮かれていなかった生徒たちも、さすがにここに到着すると浮かれ始めた。

だが、あまりにも自由行動をさせると収拾がつかなくなりかねないので、

先生はあくまでもグループごとの行動をするようにあらかじめ班を決めていた。

 

 

グループに基づいた報告制で遊びにいくことを許可すると、

先生たちは先生たちで固まってレストランで休むことにしたようだった。

ずっと管理しているのも大変であり、先生たちも休みたかったのだろう。

 

島田はこのタイミングが来るのを虎視眈々と狙っていた。

チャッスやポトポトポットスを差し入れた後、「先生たちは休んでください」と促し、

クーラーの効いているフランス料理屋、サンクエトワールへと向かわせた。

大人たちはそこで美味しい料理に舌鼓を打っていてもらいたかったのだ。

教師たちをそこへ押し込んだ後、島田の計画はようやく始まるのである。

 

 

この日、天候に恵まれていたのは生徒たちにとって幸いなことだった。

だが、学生たちにとって天候が良すぎることもまた悲劇である。

特に校長先生の話が長かったりするともっと最悪だ。

この日、幸いにして校長先生のスピーチなどはなかったが、

強い日差しに当たれば、必ず倒れる生徒の一人や二人は出るものである。

 

その日、倒れた生徒というのは未代奈であった。

彼女は教師たちがサンクエトワールへ入って行った数分後、

グループ行動していたところ、軽いめまいを覚えて倒れた。

他の生徒たちが心配していたところへ駆けつけたのが島田だった。

 

「森さん、あまり日差しに強くないんだ、アレルギー持ちだし」

 

島田はグループのメンバーにそう説明しながら、未代奈に肩を貸した。

そして、日陰のベンチに休ませることを提案し、自ら率先して未代奈を隅へと連れて行った。

他の生徒たちは未代奈を心配していたが、せっかく来たんだから遊ばないとダメだと島田に促され、

他の生徒たちは彼らだけでここじゃない何処かへと遊びに行ってしまった。

 

「・・・森さん、もう大丈夫だよ、演技しなくても」

 

生徒たちが走り去っていくのを見送った島田は未代奈にそう告げた。

不敵な笑みを浮かべながら未代奈の方を見た島田だったが、

未代奈は一向に演技を止めようとはしなかった。

 

「森さん、慎重になるのはわかるけど、もう誰も見てないよ」

 

島田はもう一度未代奈にそう告げたが、ベンチに座っていた未代奈は、

目を閉じたまま動く気配を見せなかった。

 

「・・・えっ、まさか本当に?」

 

どうやら演技のつもりが、本当にぐったりしていることが判明した未代奈は、

島田と一緒に「その教室」のアトラクションへ向かうはずだったのだが、

太陽ノックにやられたせいでしばらく動けなくなってしまった。

こんな風に、未代奈は嘘を真顔で言うし、真顔で嘘みたいなことを起こすので、

凡人には本当の彼女が一体どういう人なのか、知る由も無いのである。

 

勤務時間に間に合わないと思った島田は、未代奈を残して先に一人でアトラクションへと向かった。

未代奈も、少し休んでから、あとで一人で「その教室」へと向かうことになった。

 

 

・・・

 

 

 

「アッハッハッハッ」

 

未代奈が狂った笑い声をあげると、お客さんたちは腰を抜かして出口から出て行った。

逃げて帰ったお客さん達の最後尾にいた島田がカツラを取った。

 

「ふぅ、やっぱり二回目の客は手強いね。

 だって僕が後ろから押すことをもう知ってるし、

 誰かが変装して紛れ込んでることも知っちゃってるからな」

 

先ほど来たお客さん達は、どうやらこのアトラクションは2回目の体験らしかった。

島田のような「推しメン」はそれを承知でも嘘をついて紛れ込んで、

なんとかして未代奈が驚かせるタイミングで後ろから押さなければならない。

だが、人は同じことに二度驚くことは基本的にないのである。

島田の仕事は二回目の客には極めてやりにくかった。

しかも、最近ではツイッターなんかで「推しメン」が押してくることを、

あらかじめ調べてくるお客さんもいて、最初から疑ってかかってくる客もいた。

島田はこんなご時世だから仕方ないと思いつつ、SNSはやかましいと多少思っていた。

 

一方の未代奈が担当するパートは、どういうわけか何度でも怖かった。

ここで脅かしてくるということがわかっている場合でも怖いのである。

こうした未代奈のクレージーな、迫真の演技があるからこそ、

このアトラクションは人気を保ち続けているのかもしれなかった。

 

「それでも、これだけ怖がってくれるんだから森さんの演技力はすごいよ。

 椅子から立ち上がるタイミングもバッチリだもんなあ、尊敬に値する」

 

「いえ、私なんてそんな」

 

未代奈は紙袋を脱いで謙遜して見せた。

先ほどの体調不良はもうすっかり治ってしまったらしい。

彼女は南国の太陽よりも、フィンランドのような涼しい北国へ行った方がいいのかもしれない。

 

「それにしても、先生達がおとなしくしてくれてればいいけど。

 前に打ち合わせした通り、先生達が来た場合、僕は変装はしないから。

 バレたら面倒なことになるし、あともちろん、後ろから押すのもやめる」

 

「押さなかったら全然面白く無いですけどね」

 

未代奈は少し島田をからかって見せた。

変装もせずに教師を後ろから押す姿を想像して見たのだろう。

いじわるな笑みが彼女から溢れるのがわかった。

 

「森さん、お願いだから笑わないでよ。

 僕だって先生と一緒に真顔でここまで来るだけである意味怖いんだから」

 

「はい、大丈夫です。

 少し想像してみただけなので」

 

そう言って未代奈はまた手で口を抑えて笑いをこらえていた。

彼女はきっと想像力が豊かなのだろうと島田は思った。

 

「とにかく、僕が先生とこの教室まで来たら合図出すから。

 二人で決めたあのセリフね、『ワタボコリが舞ってる』って言うからさ。

 それ言ったら先生が来た合図だから、絶対に声を上げないでね」

 

未代奈は紙袋を被っているのでよく前が見えない。

だから先生が来たかどうかわからないために、島田が合図を出すことに決めたのだ。

そのセリフに関しては、未代奈が宣伝ついでに言って欲しかったらしい。

 

脅かした後で、最後に笑い声をあげるというのが一連の流れであったが、

声を発してしまうと、紙袋の中身が未代奈であることがバレてしまう。

だから、島田は示し合わせるようにサインを出して、未代奈に気づかせることで、

最後の笑い声の部分を省略してもらえばいいと考えていたのである。

そうすればあとは、アトラクションが終了したと思った先生が、

その先の出口から出ていくことで、彼らの安全は確保されるのである。

 

「なんだか、もっと面白くしたいですけどね」

 

未代奈はホラー映画が好きなだけあってか、

こうした危険な状況でもスリルを求める性格をしているらしい。

せっかく先生が来るのだから、もっと面白い方法で驚かせたいようだ。

 

「掃除道具箱の中からチェーンソーとか出したら面白いかな~?」

 

「いや、この教室はそんなアメリカンなホラーアトラクションじゃないからね・・・」

 

児玉坂ランドにはそんな子供達が恐怖するようなアトラクションはなかったが、

未代奈は以前にも、13日の金曜日に行われるストリートパフォーマンスに、

ジェイソンが参加してくれることを提案したらしいが、見事に却下された。

かなり怖すぎて、そんなバカなでは済まされないと思われたらしい。

 

「そんなサプライズはいらないから、ちゃんとやってね」

 

「ええ、わかってます。

 私、これでも結構ちゃんとしてるんで」

 

未代奈がそういうのを聞いてから、島田は教室を出て行った。

未代奈はわかってると言うが、彼女の奇抜な行動は予想不可能なので、

島田にはそれが一抹の不安として頭から離れなかったのだが。

 

(・・・心配しなくても、もっと面白いことになるからさ・・・)

 

島田はまたカツラを装着して次の出番に向けて準備を進めた。

 

 

・・・

 

 

児玉坂ランドに初めてやって来た明日奈はというと、

グループ行動という縛りをそもそも嫌ったこともあり、

特に理由はないが決められたグループから逸れて行動していた。

こんなところで遊ぶなんてリア充な喜びは自分には向いていないと思っており、

自分を置いてさっさと遊びに行ってしまった連中を多少軽蔑していたかもしれない。

 

「・・・金はここだからな」

 

明日奈は一人でそうつぶやいて財布を取り出した。

グループに与えられたはずのお金をくすねて来たようだった。

これでは明日奈を置いて行ったグループ達は何もアトラクションに入ることができないが、

無料でも割と楽しめるのが児玉坂ランドの良いところなので大丈夫だろう。

その辺に生えている苔を虫眼鏡で探しているだけでも楽しめるし、

今日はどうやらボランティアでリリーナイトのヒーローショーもあるらしい。

演者は嫌らしいが、ロボットダンスコンテストなんかも開かれているそうだ。

 

とにかく明日奈はくすねたお金を使ってレストランに入った。

お腹が空いてしまったので、ご飯にカップラーメンがかけてあるメニューを頼んだ。

頼んだ料理が出て来る前に、「とりあえず持っときますか?」と尋ねられて、

どういうわけか割り箸を渡されたが、割り箸をいくら持って帰っても無料なのが児玉坂ランドのウリだった。

割り箸はこのテーマパークの支持者から善意の寄付として全国から送ってもらえるようになっているらしかった。

 

頼んだ料理が出て来ると、明日奈は家で食べているようにそれを食べた。

中にはちゃんとポトポトポットスが入っていて食感も良かった。

渡された割り箸は、それを食べるのに十分に役立った。

 

お腹がいっぱいになった明日奈は、あまりアクティブな方ではなかったが、

せっかく来たのだから、一応は児玉坂ランドを見て回ることにした。

適当に見て回ったのだが、今最も人気のあるアトラクションは二つあった。

一つはトイレで盗み聞きした島田が働いているという噂のある「その教室」であり、

もう一つは熱い夏にぴったりのアトラクション「逃げ水」だった。

 

「逃げ水」は文字どおり、参加者には水筒が与えられて、

オフィスを真似た迷路の中でウォーターサーバーを見つけ出して、

無事に水をたくさん汲んで出口まで逃げたら成功というものだった。

水筒に入れた水の量でポイントを競うという要素があり、

何度でも楽しめるのがウリらしかった。

 

明日奈が外から様子を見ていると、今日のチャンピオンは、

どうやら本物のOLさんだということらしかったが、

あんな大人が本気になって参加するなんて驚きだった。

他にも無邪気に参加する九州から来た女の子達の姿も見えたが、

こういうのが世間にウケるんだな、と思っただけで明日奈はもう興味をなくし、

その場をすぐに立ち去ってしまった。

どうやら彼女達のいい先輩になるつもりなんて更々なかったようだ。

 

明日奈はそのまま「その教室」のアトラクションにも行ってみた。

だが、学校風の建物の中を進んでいくタイプのものだったので、

これもまた外から眺めるだけで満足することにした。

出口から出てくるお客さん達が大層怖がりながら飛び出して来て、

興奮した口調で何やら盛り上がっているのがわかった。

「最後の袋をかぶった女の子が怖かった」というのがもっぱらの評判のようだった。

しかし、それ以上は興味を持つこともなく、明日奈はまたふらふらとその場を離れた。

 

その後、一人でふらふらと彷徨っていると、

何やら近くに池があることがわかった。

 

「わっ、すごい、めっちゃいる!」

 

そこまで歩いて行ってみると、池の中には大量の鯉が泳いでおり、

どうやらそれが彼女のお気に召したらしかった。

 

明日奈はくすねたお金を使って近くで鯉の餌を買い、

それを手のひらに乗せて池の中に落とし込むと、

池の中の鯉達は大きく口を開けて我先にと餌に群がって来た。

それがどうやら楽しかったらしく、珍しく彼女は楽しそうに声をあげて笑っていた。

 

「内藤、こんなところにいたのか」

 

後ろから突然声をかけたのは担任教師だった。

島田に連れられてレストランに押し込められたはずだったのに、

どうしてここに来たのだろうと明日奈は訝った。

 

「今日はグループ行動だったはずだが、一体どうしたんだ?」

 

教師が明日奈の横に立って池の中を眺めながらそう尋ねたが、

明日奈は何を答えることもなく餌をどんどんと投入していった。

池の中の鯉達がちゃぽんちゃぽんと跳ねる音だけが響いていった。

 

「ここまで素直に欲を出されると、可愛いもんですよね」

 

可愛いも何も、あまりに数の多い鯉は見るからに少し気持ち悪かったが、

明日奈は楽しそうに餌をやりながらずっと笑っていた。

 

「おい内藤、その餌は無料じゃないだろう?」

 

「・・・タダだった」

 

明日奈は咄嗟に嘘をついて餌やりを続行したが、

先生は呆れた表情で池の柵にもたれかかりながら話を続けた。

 

「まず、お金は返しなさい、みんなが困っているんだぞ」

 

教師はそう行って手のひらを差し出したので、

明日奈は渋い顔をしながら財布を取り出してそれを手のひらに乗せた。

あとはもう用事が済んだでしょうと言わんばかりに餌やりに熱中し始めた。

人間のように複雑な感情が入り乱れるめんどくさい生き物よりも、

こうした単純な生き物を見ている方が楽だったのだろう。

 

「この間なー、内藤どうして地面に寝てたー?」

 

先生は手に乗せられた財布をポケットにしまいこんでからそう言った。

背中で柵にもたれかかっているので、目線は全く明日奈の方を見ていなかった。

 

「・・・あの日、すごい眠かったんで、気づいたらいつの間にか寝てました」

 

明日奈は多少面倒臭そうにそう返答した。

教師はその返答を聞いて、少し明日奈の方を見つめたが、

すぐにため息をついて空を見上げた。

 

「先生なー、お前のことを心配して言ってるんだぞー。

 地面に寝るような奴が真っ当な社会人になれるわけがないからだー。

 お前まだ進路も決まってないんだろ、いい加減に地に足をつけなきゃ・・・」

 

教師は説教を続けていたが、明日奈は全く聞いてなどいなかった。

 

地に足をつける。

そうして堅実な歩みを求める大人達は、

満足した人生を送っているのだろうか?

だけど確かなことは、そんな大人達は翼を退化させて飛べなくなるのだろう。

 

もちろん、夢みたいに空を飛ぶことばっかり考えて、

翼もないのに崖から落ちるような人生を歩む人も悲惨だ。

夢ってなんだろう、どう生きるのが正しいのだろう。

きっと正しいことなんてない、答えなんて見つからない。

 

明日奈はそんな先の事を考えても、何をしたらいいのかわからなかった。

誕生日がやって来て、幾つ歳を重ねたって、プレッシャーが増えていくばかり。

他の人達と比べれば、自分が至らないところなんて無数に見えてくる。

変わろうとしたって、やっぱり自分は自分だから気軽に友達を作るとか、

後輩をご飯に誘うとかできるわけもなかった。

 

考えれば考えるほど、焼け焦げていく頭の中。

 

「・・・とにかく、餌をやり終えたらグループに合流するんだぞ。

 それはもう先生見張ってないからなー、先生との約束だ。

 餌をやり終えたら、とにかくグループに戻るんだ、いいなー」

 

「・・・はーい」

 

池の中の鯉が身を乗り出して明日奈の投げた餌を食べた。

こうしていると余計な事を考えなくていいから楽だった。

鯉は素直で正直に生きていると明日奈は思った。

 

「まったく、この調子じゃあ他にも勝手に行動してるやつがいてもおかしくないな・・・」

 

教師は独り言を言いながら明日奈の周囲から去って行った。

 

・・・ 

 

 

「おい、センコーそっち行ったかも知んねーぞ」

 

疲れ果てた表情で鯉の餌やりを続けていた明日奈だったが、

池の近くで男子学生が何やら電話をかけているのに気がついた。

それはどうやら島田とトイレで話をしていたあの二人であり、

一人が携帯で電話をかけながら誰かと話をしているようだった。

 

「・・・ああ、どこ行ったかまではわかんねーけど、

 レストランでじっとしてるってことはなさそうだぜ。

 そっち行ってる可能性もあるから気をつけるんだな」

 

そう行って男は携帯を切った。

 

「しっかし、島田も計画が甘いよな。

 センコーがレストランでじっとしてるわけねえし。

 俺が見つけて連絡しなかったら、これ絶対ばれてただろ」

 

男が笑いながら誇らしそうにそう語る。

明日奈はただ池の鯉に餌をやっている人のふりをして耳をすませた。

 

「違うんだよ、ほら島田言ってただろ?

 あいつには協力者がいるって」

 

「ああ、そういえば言ってたな、それどういう意味だったんだ?」

 

「なんでも、島田の他にも一緒にバイトしてる奴がいるらしいんだよ。

 だから最悪の場合、そいつを裏切ってセンコーに売り渡しちまうって作戦らしい」

 

男達がその話をしていた時、急に池の方でドボンという大きな音がした。

何があったのかと見に言ってみると、大量の餌が池に投げ入れられており、

池の鯉達が半狂乱になって餌に群がっている様子が見られた。

 

「うわっ、これ誰がやったんだよ。

 こういうのはちょっとずつやんねーとダメだろ。

 つーか、これ気持ち悪すぎて見てらんねー」

 

余計なものを見てしまった男子生徒が嘔吐する寸前まで達していた頃、

手に持っていた餌を全て投げ捨てた明日奈は、無意識のうちに黄金の翼で空を羽ばたいていた。

 

 

・・・

 

「ねえ見てー、可愛い~♡」

 

明日奈が池を離れて空に飛び立った後、

上空から何やら人の群れができている箇所に気がついた。

どうやら猿の曲芸か何かをやっているようだったが、

明日奈は気にせずに「その教室」を目指して飛んで行った。

 

群衆の中で猿は器用に飛び回ったり、バク転をしたり、

周囲の観客を沸かせていたが、「ゴリラじゃん」という観客の声には威嚇顔を見せていた。

 

ひとしきり芸を披露して観客からバナナをもらったソルティーヤ君は、

もうおしまいとばかりに群衆から離れて行って、器用に木に登ってバナナの皮をむいて食べた。

 

「・・・まったく、ミヨナは猿使いが荒いんだから」

 

そう行ってソルティーヤ君は胸元の服の中から双眼鏡を取り出した。

木の上から双眼鏡を使って眺めているのは担任教師の行方だった。

 

この日、未代奈のペットである喋るチンパンジー、ソルティーヤ君は、

教師達が「その教室」に近づいた場合に未代奈に知らせる役目を負っていた。

 

「間違いないね、こりゃまずい展開だよ」

 

ソルティーヤ君は双眼鏡をしまいこんで、今度は携帯電話を取り出した。

木の上に隠れながら、耳に携帯を当てて器用に電話を鳴らした。

 

「あっ、もしもし、ソルティーヤ君~?

 久しぶりやね~、元気にしとった~?」

 

「相変わらず明るいね、ミヨナは。

 それより大変だよ、先生がそっちに向かってるよ」

 

「あっ、そうなん~?

 結構早めに着きそうな感じなん~?」

 

「・・・ミヨナすごい呑気な感じで喋ってるけど大丈夫なの?

 ここで働いてることばれちゃったら怒られちゃうんでしょ?」

 

「あ~、そうやけど、たぶん大丈夫やと思う。

 ばれないようにするつもりやから~」

 

「とにかく、僕は知らせたよ、これで僕の役目は終わりでしょ?」

 

「うん、ありがと~」

 

「ところでさ、余談なんだけど」

 

要件が終わったはずのソルティーヤ君はまだ話をつないだ。

どうやらまだ言い足りないことがあるらしい。

 

「ん~、どうしたん?」

 

「なんか風の噂でさ、僕の血液型がB型だってミヨナが言ってるって聞いたんだけど」

 

「え~、言っとるよ~、違うかったっけ~?」

 

「え~ゴホン、これネット情報だからあってるかわかんないんだけど」

 

「うんうん」

 

「どうやらチンパンジーのほとんどはA型とO型で構成されてるらしいんだよね。

 人間と違ってさ、動物には結構多い血液型が決まってるみたいなんだ。

 だからね、僕がB型である可能性は極めて低いと思われるんだよね」

 

「へ~、そうなんやね~」

 

「あとね、どうやらこれもネット情報なんだけどさ、

 ゴリラの血液型ってほぼ100%でB型らしいんだよね」

 

「うんうん」

 

「これってさ、遠回しに僕をゴリラってディスってるって捉えていい?」

 

「あー、だからソルティーヤ君そんなにゴリラっぽい見た目をしてたんやね~。

 遺伝子レベルでゴリラに近かったんやん~」

 

「いや、何、ミヨナ僕の血液型を訂正してくれる気はないってこと?」

 

「え~っ、だってどこも訂正する必要がないやんか~」

 

「そんな・・・」

 

「もう話は終わった~?

 忙しいからもう切るね~」

 

そう言ったあと、無情にも電話は切れてしまった。

意気消沈してしまったソルティーヤ君は、がっくりと肩を落とした拍子に、

木の上から滑り落ちてしまい、下にいた子供達に大層笑われることとなった。

 

 

・・・

 

 

友達からの電話を受け取った島田は一人ほくそ笑んでいた。

まさか本当に教師がここまで来るとは思ってもいなかったが、

来たら来たで面白いことになる程度で済ませられる自信があった。

 

何食わぬ顔をして先生と合流したあと、教室の中に入って行って、

そこで未代奈に合図を送るのをうっかり忘れたふりをすればいいだけだった。

それだけで、偶然を言い訳にした完全犯罪が成立することになる。

先生が来たことを知らない未代奈は声を上げて笑うことになり、

やがて紙袋を脱がされて素顔がバレてしまうことになる。

そこで、自分は何も知らないふりを貫けば、未代奈だけ先生に怒られることになる。

 

もちろん、本当にそんなことをしたら、未代奈の性格のことだから、

島田に対して全面戦争も辞さない構えで猛反撃をされることになるのだが、

彼は未代奈がそれほど強烈な性格をしていることをまったく知らないのだった。

普段のふわふわした外見しか知らないのだから、気の強い彼女の一面など見たことがない。

だからこんな愚かしい計画を立てることができたとも言える。

 

 

・・・

 

 

ソルティーヤ君から電話をもらった未代奈はワクワクしていた。

まだお客さんが教室に入って来ないうちに、未代奈は紙袋を脱いで、

椅子から立ち上がって掃除用具箱の前まで歩いて行った。

そして贈り物の蓋を開けるときみたいにワクワクした気持ちのまま、

掃除用具箱を開けると、そこには制服を着たマネキンが入っていた。

これはバレッタに飾ってあったものを持って来たのである。

体調が悪いふりをして島田と別れた後で隠れて運び込んだのだ。

 

もし先生が来た場合、未代奈はこの制服のマネキンを身代わりにしようと思っていた。

そうすれば、万が一袋を取って顔を見られたって自分だとバレることはないし、

そのマネキンを自分だと思っている間抜けな先生と島田を掃除用具箱の中から覗くことができた。

未代奈はマネキンの代わりに掃除用具箱に隠れて一部始終を観察しようと思っていたのだった。

 

もちろん、本当にそんなことをしたら、未代奈の性格のことだから、

掃除用具箱の中で爆笑してしまい、耐えられずに掃除用具箱の中から飛び出してしまうだろう。

彼女はとにかく楽しいことが好きな性格なので、面白いことを考えついた場合、

それを実行せずにはいられない、実行してから失敗して反省するタイプである。

しかも、たとえ失敗したとしても、美味しいご飯を食べて眠れば忘れてしまう体質である。

だからこんな愚かしい計画を立てることができたとも言える。

 

 

・・・

 

 

島田の友人達の話を盗み聞きしてしまった明日奈は困惑していた。

翼で空を飛んで「その教室」のアトラクションへ向かいながら、

どうして自分がこんなことをしているのかもわからなかった。

別に正義を掲げて生きるなんて大それたことを考えるでもないし、

今回のことは鯉に餌をあげていた自分には何の関係もないことだし、

ベランダのある教室の外に隠れて空を飛びながら二人が密談してるの見てたけど、

途中で飽きて寝ちゃったらゆっくり墜落して地面に寝てたように勘違いされてしまったし。

つまり、別にそんなに強い関心を持って追っかけて来たわけでもない。

 

自分が関わってもろくなことにならないのは明白だったのだけれど、

誰かを裏切ったり、マナーを守らない人間だけは大嫌いだった。

何か大きな理想とか夢とか、そういう美しい理念はないけれど、

自分の目の前で起こる、なんかむかっ腹が立つことに対しては、

素直にムカつくって言いたいし、言えるような気がしていた。

 

だから、彼女はこんな火中の栗を拾うような真似をしたのだろう。

 

 

 

・・・

 

担任教師は児玉坂ランドを巡りながら考えていた。

バラバラに行動しているグループを発見するのに効率の良い方法は、

人の集まる場所へ行くことである。

 

彼は歩いているスタッフに人気のアトラクションを尋ね、

それが「逃げ水」と「その教室」であることを突き止めた。

「逃げ水」には思った通り、たくさんの生徒達が集まっていたが、

どこかのカリスマOLが高得点を取って人気者になっているくらいで、

特に変わったところは見られなかった。

 

彼はその場を離れて「その教室」へと向かった。

「その教室」はまるで自分が働いている児玉坂高校とそっくりの外観をしており、

こんなアトラクションへわざわざ入る気もしないものだったが、

そこで見つけたグループには島田と未代奈の姿がないことに気がついた。

二人の行方を尋ねると、体調が悪そうだったので途中で別れたということだった。

担任教師は他の先生達に連絡をいれてみたが、体調不良で休んでいる生徒などいなかった。

これは怪しいと思い、そして木の葉を隠すには森の中という言葉があるように、

この学校の形をしているアトラクションが極めて怪しいと思ったのである。

 

「諸君、ようこそ児玉坂高校へ参った。

 私はこの高校の校長である」

 

教師がアトラクションの入口へ着くと、

校長役のスタッフがそんな風に迎えてくれた。

かなり気合の入った演者であり、本当に高校にいるような雰囲気だった。

 

「先生」

 

そう呼びかけられて振り向くと、そこには島田が立っていた。

学ランを着た、いたって普通の島田である。

 

「お前、グループから離れてどこいってた?」

 

「すいません、森さんが体調悪くなって倒れたので、

 近くのベンチまで運んで休んでいたんですが、目を離した隙にどこかへ行ってしまって」

 

島田はこのバイト先で培った演技力で巧妙に教師を騙した。

いつもこうしてお客さんに何かと理由をつけてどこかの段階でグループに混じる。

そして仲間のふりをしておいて、最後に裏切って押すのが彼の役目だ。

 

「どこかへって、大変だ、早く探しに行かんと・・・」

 

「さあ、諸君、教室のあちこちに隠されている謎を解いて、

 この学校から出られるかな?」

 

「あっ、先生、もうアトラクション始まっちゃいますから、早く入りましょう」

 

「こら、島田、押すな・・・」

 

そう言ってアトラクションから抜けようとする教師を島田は無理やり押し込んでしまった。

 

 

・・・

 

アトラクションの中は本当の校舎みたいな作りになっていた。

初めのミッションは、職員室の先生の机の中からテストの答案を盗み出せだった。

それを終えると、次のミッションは校長先生の部屋の額縁の裏にあるへそくりを探し出せだった。

また次のミッションは、国語の教科書から落書きされてある偉人の顔を探せだった。

音楽室の間違い探しゲームでは、バッハの髪の毛がパンチパーマになっていたし、

美術室では児玉坂の様々な画伯達の絵が飾られてあったのだが、

どれも幼稚園児並の下手さであり、どういうわけか未代奈の絵もそこには飾られていた。

どのミッションも、上手く行ったと思われる箇所で人が飛び出してきて驚かされた。

テストの答案を盗んだ瞬間に非常ベルが鳴るし、へそくりを見つけた瞬間に校長が怒って乱入して来るし、

落書き通りの夏目漱石がファンキーに踊り狂う場面も見られた。

 

こんな風にして、担任教師は次々と度肝を抜かれていったのだが、

とにかく、彼が見て教育上適切だと思われるものは一つもなかった。

こんなものが世間にウケているのかと思うと悲しくなったが、

このアトラクションを考え出した人は、よほど学校が嫌いだったのだろうし、

それを生み出したのが自分たち教師の責任だとまでは思い至らなかったようだ。

 

もちろん、中にはまともな内容のものもあった。

特に二等辺三角形の証明の公式を書くものなどは極めて真っ当であったが、

その部屋には、島田がうまく誘導して教師を侵入させない間にクリアした。

なぜなら、その公式は島田と未代奈が密談をしていた時に書いていた数式であり、

二人してアトラクションの攻略法について雑談していた時に書いたものであったから、

それが見られるとまずいことになると、島田は分かっていたからだった。

 

こうして、教師は生徒をこんなアトラクションのあるテーマパークへ連れて来たことを悔やんだが、

とにかくも、二人は最後の教室にたどり着くことができたのだった。

教師が教室のドアを開けると、そこには紙袋を被った明日奈が席に座っていたのだった。

 

 

・・・

 

 

教師に続いて教室に入った島田はその光景を見て愕然とした。

まず、通常は紙袋を被っていなければならないはずの未代奈が普通に着席していた。

紙袋を被っている様子もなく、ただキョトンとした表情のままでそこにいた。

 

そして、窓側の方の席に、もう一人、こちらは紙袋を被って座っている人がいた。

顔は隠れているが、長い髪が袋から少しはみ出ているし、

何よりも彼女の細い体のラインは、顔が見えなくても一目瞭然で彼女だとわかる。

 

そこに広がっていたのは島田が想像していたのとは全く違う景色だった。

彼は計画通りに運んでいない展開に違和感を感じ、なんとなく嫌な予感ばかりが彼の背筋を凍らせた。

 

担任教師は何も言わずに黙ったまま、明日奈が座っている席へと進んで行った。

島田及び彼と同じグループだった人たちは、各々教室に入りながら、

明日奈と教師を取り囲むうような形で教室内に展開していた。

島田は教師の真後ろに離れて立ち、心臓が口から飛び出そうになりながら次の展開を伺っていた。

 

「何やってんだ・・・?」

 

教師が呼びかける声にも明日奈は反応を見せなかった。

不気味に静まり返った沈黙が島田の胸を締め付ける。

 

「袋・・・好きなのか?」

 

二度目の呼びかけにも反応を見せなかった明日奈へ、

教師は黙って前に踏み出して両手で彼女に被されている紙袋を外した。

そこには真っ直ぐな表情を浮かべた明日奈がいた。

あまりにも無表情で、一体何を考えているのか読み取れず、

島田は知らず知らずのうちに体全身に力が入っており、

変な汗を身体中にかいているのに気がついた。

 

「・・・内藤、お前、袋好きなのか?」

 

「好きじゃないです」

 

食い気味に明日奈が言い放った。

相変わらずどこを見つめているのかわからない表情のままで。

 

「じゃあなんだこれ?

 みんなびっくりするだろう」

 

その呼びかけにも明日奈は何も答えなかった。

そんな様子が気になっていたのは未代奈だった。

教科書を開いて普通の生徒を装っていながらも、

教師達が教室に入ってくる前、明日奈が窓から入って来た時のことを思い出していた。

どういうやり方がわからないが、未代奈が掃除用具箱を眺めている間に、

彼女は窓から入って来て、そして机の上に置いておいた顔の描かれた紙袋を取り、

そのまま窓側の席へ持って行き、黙ったままそれを被ってピクリとも動かなくなったのだ。

彼女は未代奈に何も言わなかったし、その目的を話すこともなかった。

紙袋を取られた未代奈は、掃除用具箱の制服のマネキンを仕掛けるわけにもいかず、

ただ普通の格好をして席に座る他なかったのである。

 

「おい無視か内藤、先生なー、無視はダメだと思うぞー。

 袋をかぶって教室にいる・・・」

 

「先生」

 

明日奈は突然教師の顔を見上げ、そう呼びかけた。

不意を突かれた教師は言葉を発するのをやめてしまった。

 

「島田がタバコ持ってます」

 

島田の嫌な予感は的中し、まるで体全身に稲妻が走ったように感じた。

どうしてタバコの事が彼女にバレているのかも意味がわからない。

予想もしていなかった展開に、冷静に頭を働かせることもできない。

 

「島田・・・」

 

「持ってないです」

 

教師はゆっくりと振り向きながら島田の方を睨みつける。

島田は彼が振り向くよりも先にタバコを持っている事実を否定した。

彼がなんども同じセリフを吐くのを見ていて、

これは嘘をついているのだと未代奈はわかったのだった。

 

「本当か?」

 

「見ました」

 

「島田・・・出せタバコ!!」

 

教師が持っていた紙袋を怒りで揺らしながら島田に対して吠えた。

島田はもう、訳がわからなくて、ただ震えながら同じセリフを吐くしかなかった。

タバコを持っている事がバレたら、今後の進路の話も危うくなってしまう。

 

「・・・持ってないです」

 

「内藤!

 なんで嘘をつくんだ」

 

激情型の教師が我に返ったのか、今度は明日奈を問い詰めようとして振り返った時、

明日奈はもう先ほど座っていた席にはいなかった。

 

「内藤・・・」

 

明日奈はいつのまにか席から立ち上がり、一人で教室の出口に向かって歩いて行った。

未代奈はその姿を体の向きを変えて目で追いかけて行った。

そして、教室の出口から出る直前、彼女は立ち止まり、あの謎のポーズを残した。

彼女はそのポーズのまま、鋭く教師と島田を睨みつけ、やがて黙って教室を出て行った。

 

教室の誰もが、彼女の奇怪な行動の意味が全くわからなかった。

教師もどうして良いかわからず、唖然としてその様子を見つめているしかなかった。

 

あの彼女の残して行ったポーズの意味がわかっていたのは二人だけだった。

島田は、彼女がタバコの事実を知っていた事、そしてあのポーズを残したことから、

島田がこの児玉坂ランドで働いている事実を知っていることを教師にバレないように暗に示したのだと悟った。

タバコの疑いをかけられたまま、児玉坂ランドで働いていることまでバレてしまえば、

島田の運命が転がっていく先はもう決まったも同然である。

これは言うなれば、明日奈なりの武士の情けのようなものであった。

 

そして、明日奈が教室から立ち去ってしまった後で、

未代奈はようやく彼女の行動の意味が理解できたのだ。

つまり、彼女が自分をかばってくれたのだということを・・・。

 

 

・・・

 

 

明日奈が出て行ってしまった後、教師は混乱した頭でどうしたらいいかわからず、

とりあえず、島田の方を振り返って彼に話しかけていた。

 

「・・・島田、あれ、内藤は一体どうしたんだ?」

 

島田は何も答える事ができなかった。

タバコの件を暴露され、ここでバイトしていることは容赦してくれたが、

あのポーズはつまり、お前流石にいい加減にしないとチクるからな、という意味なのだ。

 

そして、島田にとってもう一つ恐怖だったのは、

未代奈が何かを決意したような強い表情で島田を見つめていたことであった。

その彼女の強い瞳から島田は逃れる術を持たなかったのである。

島田からは、彼女がゆっくりと立ち上がって予備の紙袋を取り出し、

それを頭からすっぽりと被ってしまったのが目に入った。

 

島田が怯えているのを見て、後ろを振り返った教師は愕然とした。

先ほど追い払ったはずなのに、また紙袋女が一匹増えていたのであったから。

彼にはもう意味がわからない、最近の子供たちは、こんな時代のせいでおかしくなってしまったのか。

 

「どうした・・・?

 おい、どうした森・・・?」

 

教師と島田は紙袋を被って座っている席の前にやってきた。

島田は内心震えながら、しっかりと教師の後ろのポジションを陣取っていた。

未代奈の覚悟した強い瞳を見た以上、彼には他に選択肢はなかったのだ。

 

「お前それ流行ってんのか?

 お前もその袋好きなのかー?

 答えなさい森・・・森?・・・おい、森だよな?」

 

教師がそう行って島田の方を向いた瞬間、

未代奈は大きな椅子の音を響かせながら急に立ち上がった。

そして、それにびっくりした教師を、島田は未代奈の合図に合わせて背中を押した。

 

「ちょ、ちょっと、おい、押すな島田!」

 

教師はうろたえていたが、島田は容赦なく後ろから背中を押し続けた。

これが「推しメン」としての彼の仕事なのである。

教師はなぜ島田が押してくるのか意味がわからなかったが、

紙袋を被っている相手に向かって背中を押されるのは恐怖でしかなかった。

 

「ちょ、押す・・・島田押すな!

 ちょっと、取りなさい袋を!」

 

教師が近寄ってきたタイミングで、未代奈はチャンスとばかりに突然両手を上げた。

びっくりした教師は腰を抜かしそうになったが、島田はそれでも教師を押し続けた。

押し続けたというよりは、もう押し続けるしかなかった。

 

「アッハッハッハッハッ!」

 

ビビり続ける教師と、嫌でも教師を押し続ける島田の滑稽な姿を見て、

未代奈は楽しくて楽しくて仕方がなくなってしまい、笑いが止まらなくなった。

この時の未代奈の笑い声は、普段の威嚇のそれではなくて、

本当に心から楽しくて仕方がない時の笑い声だったのだ。

 

 

(・・・せっかくかばってやったのに、バーカ・・・)

 

 

廊下を歩きながら教室を離れて行った明日奈の耳に未代奈の高笑いが届いた時、

明日奈は教室の中で何が起こったのか大体わかっていた。

未代奈の行動に対して呆れた表情をして見せたのだったが、

少しして、自分の行動のバカさ加減にも呆れてしまったのだった。

 

「・・・バッカみたい」

 

明日奈はそうつぶやいて、翼を広げた。

児玉坂ランドから一足先に学校に戻ることにしたのだった。

 

 

・・・

 

 

学校の屋上には心地よい風が吹いていた。

日差しも適度に気持ちよく、青空と白い雲の配分も申し分なかった。

 

明日奈は頬をなでる風を感じながら目を細めた。

忘れたくとも忘れられない想念が頭を駆け巡る。

 

(・・・どうしてあんなことしちゃったんだろ、何の得もないのに・・・)

 

明日奈にとってみれば、変な正義感を掲げてでしゃばったみたいでやりきれなかった。

庇ってあげたのにも関わらず、結局、未代奈と島田は今頃お説教を受けているのだろうから。

どうせ後で、教師のとばっちりは自分にも飛んでくるのだろうと思った。

島田からも逆恨みをされるかもしれない、タバコの件もあまりにストレートに暴露してしまったから。

 

(・・・わかってるよ、私が素直じゃないことくらい・・・)

 

明日奈は肩をあげて大きなため息をついた。

考えても考えても、身体は思う通りに動くこともないし、

何か絶対的な答えが出るわけでもない。

ただ頭が焦げ付いていくだけだ。

言葉を一人で飲み込み続けて、それをぐるぐる回していたって、

そんなのやがてショートするだけなのはわかっていた。

 

 

少しだけ強い風が吹いて、明日奈の髪の毛が揺れた。

その乱れた髪の毛を手で戻す仕草をしながら、不意に屋上の扉の方が見えた。

そこには、無表情なままで突っ立っている未代奈の姿があった。

 

明日奈と目があって、数秒後、未代奈はニッコリと笑った。

職員室で教師にどれだけ酷く叱られたかもしれないのに、

この表情ができる彼女は只者ではないタフさを持っていると思った。

 

「島田はどうだった?」

 

ゆっくりと歩いてきて明日奈の隣に座った未代奈に対して、明日奈はそう尋ねた。

 

「タバコは持ってたからバレちゃったみたい。

 あそこでアルバイトしてたことは、何とか誤魔化せたかな」

 

「ごまかしてあげたんでしょ?」

 

明日奈がそう問いただすと、未代奈は無言でニッコリと笑った。

 

「だって、ちゃんと先生の背中を押してくれたから」

 

あの状況で明日奈に暗に脅され、未代奈にあれだけ強い瞳で見つめられたら、

おそらく島田には背中を押す選択肢しかなかったのであったが、

とにかく未代奈はうろたえる教師と追い詰められて必死に背中を押す島田を見れたので満足だったらしい。

せっかく明日奈が庇ってくれたのであったが、あそこまでされては、

逆に未代奈のような人間にはプライドが許さない。

あえて真正面から正々堂々とぶつかってやろうという気持ちがふつふつと湧いてきて、

ここでバイトをしていることがバレても構わないという覚悟を持って、

先生を驚かせてやろうと決意していたのだった。

巻き込まれた島田は、もし教師を押すことを拒絶したなら、

未代奈は島田が働いていたことを告げ口するだろうし、

黙っていてもらうためには、その未代奈の挑戦に協力せざるを得なかったのだ。

 

「ねえ、あのポーズはどこで知ったの?」

 

未代奈は話題を切り替えて明日奈に話しかけた。

児玉坂ランドのスタッフしか知り得ないポーズをどうして知っていたのか気になったのだ。

 

「別に、偶然島田が話してるのを聞いただけだよ」

 

「えっ、じゃあ、あのポーズの意味知らないでやってたの?」

 

未代奈は楽しそうにニコニコしながらそう言った。

明日奈はそういえば、あのポーズの意味については知らないままだったことに気づいた。

児玉坂ランドのスタッフだけが使う秘密のサイン・・・。

 

「あのポーズ、なんか意味あんの?」

 

明日奈がそう尋ねると、未代奈は含み笑いをしながら教えてくれた。

 

「あれはね、『このお客さん、なんか半魚人みたいな顔してるよね?』のポーズだよ」

 

「はぁ、どの辺が?」

 

「ほら、頭の上にあげた右手が魚の背びれみたいに見えるやん?

 お腹の前に置いた左手はお腹のひれを表しとって、

 それぞれが体の真ん中で半分こしとるように見えるから、半魚人になったんやって」

 

未代奈はあのポーズをわざわざ明日奈の前でして見せた。

だが、どっからどう見ても、そんな風には見える気もしなかった。

 

「絶対嘘だ」

 

「嘘ついとらんよ」

 

「だってそもそも、お客さんに対して失礼すぎじゃん」

 

「うん、だからこれは正式なやつじゃなくて、

 アルバイト同士で誰かが勝手に考えたやつらしいって」

 

明日奈はその答えを聞いて、あまりにバカバカしくて思わず笑ってしまった。

 

「本当に?

 つーか、それいつ使うの?」

 

「えー、結構使う機会あるよー。

 よく見てみたら、世の中半魚人に似とる人は結構おるから」

 

未代奈がそういうので、明日奈は上を向いてしばらく考えてみた。

そう言われれば、半魚人みたいな顔をしてる人と知り合ったこともあったようななかったような。

 

「まあそう言われれば、時にはあるかもね」

 

「ないよ」

 

失笑しながら未代奈はいじわるそうにそう言った。

 

「お前コラ、おい」

 

「ごめん」

 

未代奈が言い出したくせにないとか言ったので、

明日奈は思わず素に戻って口調が悪くなってしまった。

だが、この子といると、自分の頭が焼け焦げることもない気がした。

嫌なことをうまく忘れさせてくれることができて、

お互い自由に、気楽に、やっていける友人をやっと見つけたような気がした。

 

明日奈は久しぶりに何も考えずに心から笑った後、

その場でゆっくりと立ち上がり、同じように立ち上がった未代奈の手を取った。

 

「・・・いこー」

 

「・・・うん」

 

そう言ってニッコリと微笑みあった二人は屋上の扉に向かって走り出した。

長かった卒業前旅行の1日は、いつのまにか夕日が遠くの山に沈んでいく手前まで暮れていた。

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

 

その教室 ー自惚れのあとがきー

 

 

この作品を思いついたのは、もうかなり前だったので忘れてしまった。

 

明確に書くことを決意していたのは、ちょうど「赤飯様」の中のみりん編で、

児玉坂ランドに「その教室」というアトラクションがあるエピソードを挿入した時だった。

その頃の物語にも、ちゃんと島田が後ろから押して来るというネタは入れているので、

あの頃にはこの物語の半分は頭の中で構成されていたはずである。

 

だが、おそらくこのMVを見た当初から、これはもう描かれることがわかっていた気もする。

確か、この不思議なMVは間違いなく小説にできると見た瞬間に思っていたはずだし、

筆者の頭の中に電気が走ったのを記憶している、だが未代奈と同じであまり明確な記憶はないが。

 

それというのも、頭の中に長い間眠りすぎていて、書く暇が全くないからである。

現在も4作くらいのアイデアは筆者の頭に浮かんで形を作ろうとしているのだが、

そのうちの2作はかなり調べないといけないし、割と長くなる感じがしているので手が出せない。

他にもテーマだけ決まってるものを含めるとかなり数はあるのだけれど、書く時間がない。

筆者の本業も忙しくなってきているので、趣味にあまり時間を割けないのである。

 

しかし、久しぶりに書いてみると、やはり楽しかった。

本作の登場人物の二人に関しては、もうそれほどリサーチする必要がないし、

ある程度イメージすれば的確に動いてくれるので結構な短期間で書き上げることができた。

 

この二人は似ていない部分もあるが、かなり似ている部分もある。

表面的な部分よりも内面的な部分、コアの部分で似通っている気がしている。

だからきっと仲良くなれたのだと思うし、不思議な友情の深め方を作品を通して表現してみた。

 

書いていてわかったのは、明日奈は思っていることを内に秘めるので、

どうしても自己葛藤のような表現方法ばかりになってしまうし、

未代奈は思っていることを何でもあっけらかんと口に出してしまうので、

対話パートで誰かと話をする場面を描くことが多くなってしまった。

二人の違いはこういうところにあるのだが、最後のシーンで二人を喋らせると、

不思議なことにすんなりと交流を始めるのが面白かったと言える。

共通点といえば、おそらく二人は気楽に、適当に、わちゃわちゃやるのが合っているのだろう。

重たい感じになることはなく、無責任に散らかした感じに進んでいくのである。

それがこの二人の根本的に同じ匂いのする部分なのかもしれない。

 

時間がなかったこともあり、挑戦的な手法は用いていないし、

ストーリーもそれほど凝ったことができたわけでもない。

挑戦的な手法は、また色々と考えていることもあるので、

いつかまた別の作品で披露する機会があればいいなと思っているが、

あまり気を張って書いても疲れるばかりなので、

今回はこの二人のように、いい意味で肩の力を抜いて好きに書かせていただいた。

半魚人のポーズについては、筆者が見たまま、感じたままを述べただけである。

ネタ元も何もないオリジナルで、あまりにもひどい解釈なので、

こんなアンダーグラウンド作品でしか披露できないと思われるのだが、

まあ最近は疲れすぎたOLさんが宙に浮いたりするご時世なので、

実写化してもいけるかな~と、適当に妄想を広げている筆者なのでした。

 

 

 

ー終わりー