春、シオンが泣く頃

ー読む前の注意事項だよー

 

 

読者の皆さんこんにちは。

 

この小説を読み進めていく中で、音楽を流すことを強要される箇所が出てくるよ。

っていうか、やっぱ強要はしたくないから、嫌じゃなければ従ってくれたらで全然いいよ。

 

なんでそんなことするのかって?

だって作者がそこでどうしても流してほしいって言うからさー。

魅菜は強要するのはよくないって反対したんだけど、

なんかもう書きながら勝手にそこで流れてきたからって、

なんかそういう印象が付いちゃってるみたいで。

だから流しながら読んでもらうとよりいい感じになるんだってさー。

 

あっ、そうそう、一応流してほしい曲は「強がる蕾」と「ハルジオンが咲く頃」の2曲だけだから、

それだけいつでも聴けるように準備して読んでくれたらいいんだってさ。

 

だけど、魅菜はみんなのこと強制はしたくないから、

本当に気が向いたらでいいからね。

音楽流しながら小説なんか読めるかって人はほんとに無理しないでね。

 

なんか作者的には実験的にそういうのやってみたらしいけどさ、

そんなの読む方の勝手じゃんって魅菜は思うのね。

ほんと、作者ってマジ勝手なやつだからさー。

こいつの言うことなんか全部聞かなくてもいいからねー。

 

まあそんな感じで、それじゃ物語の始まり始まりー。

魅菜も物語の途中で出てくるから、その時は暖かい目で見守ってね。

 

じゃあ始まりまーす。

また後でね、ばいぴち~。

 

by 川戸魅菜

 

 

 

・・・

 

その街には風が吹いていた。

 

どこかへ足早に向かっていた男が歩みを止めて急に振り返った。

そのどこからか吹いてきた風は彼の頬を優しく撫でて吹き抜けていく。

 

この風はいつから吹いていたのだろうと男はふと思った。

風はどことも知れぬ彼方から突然やってきて、

そして誰かを意識させることも無く静かに去っていく。

 

それは無色透明で、ただ空気を押し流していく為だけに存在している。

この地球がある限り、気圧の変化に合わせて風は生まれてまた消えていく。

誰が願ったわけでも頼んだわけでもない、風は自然にやってきて去っていく。

 

歩いてきた道を振り返った男は、また前を向いて歩き出した。

珍しく奇妙な感傷に囚われてしまったことを恥じた男は、

少しイライラしながらその歩みを速めた。

やがて遥か向こう側に、こんな極東の国には珍しい形状の高い建物が見えてきた。

その尖塔を目指しながら男はひたすらに足を進める。

そこに特別な用事があるわけではない、それはもちろん彼の仕事にも関係ない。

彼ほどの仕事熱心な男が仕事に関係ない場所へどうしても足を向けてしまう、

その事実が彼をイラつかせているのかもしれなかったがどうしようもなかった。

 

やがて建物の入り口に辿りついた男は、正面の門をくぐって中へ足を踏み入れていった。

門と建物の間にある樹々が植えられた庭をどんどんと進みながら慣れたやり方でさっさと裏口へ回り込んだ。

建物の裏口のドアを拳で二回ほどノックし、中から返事がなかったが、

そんなことはお構いなしに男はドアノブに手をかけて押し入るようにして中へ踏み込んでいった。

 

建物の中には木製のテーブルが幾つか並べられた部屋があり、

十数人程度が団欒できる憩いの場が設けられていた。

奥にはキッチンが備え付けられており、そこの蛇口から水が流れる音がしていた。

 

男は慣れたやり方で勝手にその部屋に侵入し、テーブルの横にある椅子に乱雑に腰をかけた。

両腕を頭の後ろに回して組み、体重を思い切り椅子に預けながら、退屈さを隠すこともなく露わにしていた。

やがて奥のキッチンの蛇口から水が流れる音が止んだ、スリッパが床に擦れる音が聞こえる。

 

「・・・シスターはいないのか?」

 

足音の方を振り返ることも無くぶっきらぼうに男は尋ねた。

スリッパが擦れる音が近づいてきて男のいる部屋に入ってきた。

 

「ええ、今日は少し用事で出ております」

 

優しい声が男の後ろから聞こえて来る。

勝手に上がり込んだ礼儀知らずの男とは対照的に、

老人の態度は柔らかくて人当たりがよかった。

やがて男の背後で老人がなにやら作業をする音が聞こえ、

テーブルの上にはカップに入ったホットコーヒーが運ばれてきた。

男は礼を言うこともなくそのコーヒーカップに口をつけた。

そしてまた退屈そうに腕を頭の後ろに回してふんぞり返った。

 

「待たせてもらうぞ、構わんな?」

 

コーヒーを持ってきてくれた老人に一瞥もくれることなく、

男はそう言いながら椅子にもたれたまま動かなくなった。

老人はうっすらと口元に笑みを浮かべながら返答する。

 

「はい、どうぞごゆっくり、そのうち帰ってまいりますから・・・」

 

またスリッパが床に擦れる音を引きづりながら老人は奥へ引っ込んでいった。

男にとってはその音が耳障りでならなかったようで歯を食いしばって耐えていた。

だが、本当はそんな音に心を乱されているわけではなかったのだ。

プライドの高いこの男は、自分がどうしても抗えない力でここへ来てしまったこと、

そしてシスターが帰ってくるまで待つしかないというこの屈辱的な事実に、

イライラを抑えきれなかったのだが、それでもシスターを待つという選択を覆せない。

その事実が何よりも彼のような人間には悔しかったに違いなかった。

 

(・・・まったく、今日は嫌な風が吹く日だ・・・)

 

 

 

・・・

 

「あれ、なんだろう?」

 

坂道を登りながら帰り道を急ぐ一人の女性がそう言った。

そして、彼女はせっせと健気に動かしていた足を止めてしまったのだ。

自分の目の前、道路の上に突然にして現れたそれが視界に入ってから、

彼女は目を訝しげに細めてから、右手を口元に当てながらしばし左右を見回した。

辺りには誰も見当たらなかった。

 

いったい何が起こっているのか、彼女は理解に苦しんだが、

気づいた時には道に落ちている物体の目の前にちょこんと座り込んでしまった。

 

(えっ、何、どういうこと・・・?)

 

彼女は難しい顔のままでそう心の中で思った。

今、自分の目の前で起きている出来事がどうにも腑に落ちない。

こんなことがあるわけがないと、彼女の理性は判断している。

だが、なぜか彼女のスーパーコンピューターの計算処理速度が遅い。

どうやら彼女の感情がその目の前の物体に抗えない魅力を感じているようだった。

 

「ツンツン」

 

誰も見ていないはずなのに、そんな言葉を口から漏らしながら、

彼女はおそるおそる右手を伸ばして、その人差し指の先で物体をつついてみた。

透明ケースに入ったその物体は、黄色、ピンク、緑、茶色の4種類の色をしており、

彼女の人差し指に押されてもビクともしない、もちろん彼女もただつついてみただけなので、

初めからビクともさせようとも思っていないが、どうしてこんなところにマカロンが落ちているのか、

肩と足を出した露出度の高い服装をしているこの女性には理解できなかったのである。

 

道に落ちている物を拾って口にしてはいけません、なんてことは幼稚園児でも知っている。

だが、秀才であるはずの春元真冬にも弱点はあるのだ、それがこのお寿司より大好きなマカロンである。

気づけばもう3分くらいこの道の上のマカロンを見つめて座り込んでしまっていた真冬は、

普段の冷静な判断力を失って、ついにこの禁断のお菓子にフラフラと手を伸ばしてしまった。

 

その時。

 

真冬は後ろから何者かに抱きつかれたのがわかった。

相手は彼女のお腹を両手で抱きしめるような形で背中からしがみついてきた。

普通であれば、このような痴漢行為に遭遇した時、人は悲鳴をあげるのだろうか?

いや、真冬は声ひとつあげられなかった、もちろんこの方がリアルな反応なのかもしれない。

突然の恐怖に捕らえられた時、人は想像している以上に何も行動になど移せないものだ。

だが真冬の場合、これはマカロンの魅力によって骨抜きにされてしまっていたのだ。

実は背中に覆いかぶさる痴漢の恐怖など、真冬は微塵も感じていなかった。

これはアイドル目、童顔科である春元真冬の生態を完璧に知り尽くした者の犯行だったのだ。

放たれた餌によっておびき寄せられ、まんまと釣り針にかかってしまったのである。

 

「わっ!」

 

振り向いた真冬の後ろから抱きついていたのは大人の女性だった。

イタズラが成功した時の、ちょっと鼻に皺のよった笑みを浮かべながら、

そんな子供っぽさが大人の体に同居している彼女は「ふふふ」と声を漏らした。

 

「・・・何やってんですか、塚川さん・・・」

 

振り向いた途端、前方から聞こえてきた声に、真冬はまた顔を前に向けた。

そこに立っていたのは彼女が見たこともない綺麗な女性だった。

真冬の低い視線から見上げた彼女の脚は、長くてまるでエッフェル塔のようだった。

 

「あっ、眞木ちゅん!」

 

塚川麻紀は思わず体を真冬から離し、右手で口を隠しながらそう叫んだ。

こんなところを見られて恥ずかしいという照れ笑いを浮かべながら。

 

 

・・・

 

 

「えっ、それガチで言ってるんですか!?」

 

立ち話もなんだからお茶でも飲もうという塚川麻紀の提案で、

通りがかった新渕眞木は目の前にあるお店、パティスリー・ズキュンヌに入った。

このお店は児玉坂の住人ならもはや誰でも知っている有名店だ。

名物店長は、先ほどマカロンによって捕獲された春元真冬だった。

 

「えーっ、寂しい~!」

 

眞木の驚いた反応に真冬も続いた。

表情を曇らせて悲しみをいっぱいに表現しているようだった。

 

「え~、そんな顔しないで」

 

笑顔を維持していたが、どこか寂しそうな表情で真紀は言葉を返した。

真冬の悲しそうな表情を見ていると自分の心も同調してしまう。

真紀はそういう性質を持って生きている人なのだ。

 

 

真紀がパティスリー・ズキュンヌへやってきた理由、

それは真冬へのお別れの挨拶だった。

 

TVで活躍する真冬を観てからというもの、

真紀はよくこのお店へ来てケーキを買うようになった。

常連さんになり、来店するたびに店長の真冬とも交流を深めるようになり、

自分がアパートの管理人をしていること、教会でボランティアをしていることなど、

様々な身の上話もするような仲になっていたのだ。

真冬がマカロンに目がないことも本人から聞いたことがあり、

お別れの挨拶も兼ねてちょっとしたおふざけをしたのが冒頭のいたずらであった。

 

「・・・りさ先輩には話したんですか?」

 

ショックを隠しきれないながらも、眞木はそう尋ねた。

りさは眞木の会社の先輩であり、真紀の親友でもあったので、

この話をしたことがあったのか確認したかったのだ。

 

「・・・うん、もうそろそろかなって話はずっとしてたから」

 

真紀がここで二人に告げた話とは、

彼女が近いうちに児玉坂の街を出るという知らせだった。

 

真紀自身、児玉坂の街の生活に不満を感じていたわけではない。

むしろアパートの管理人の仕事はそれほど辛いわけでもなく、

教会のお手伝いも、十二分にやりがいを感じながら暮らしていた。

 

だが真紀は周りから見えている姿以上に内心は活発であり、

限られた自分の人生の中でやりたいことを後悔なくやりきるために、

常に年齢などから逆算してこれまでも日々を生きてきた。

児玉坂の街に来る前から、彼女はずっとそうやって生きてきたし、

その方針は常に変わっていない、それが彼女のポリシーである「マイペース」であった。

彼女は優しそうで穏やかな人柄に見えながらも、

千人が反対しても信じた道を一人で進むタイプの人間だったと思われる。

 

「・・・そっかぁ、まあ仕方ないですけどね。

 あーでもやっぱ寂しいですねー、もっと仲良くしたかったのに」

 

「・・・うん、眞木ちゅんとはせっかく仲良くなれたのにね」

 

「そうですよね、仲良すぎて同居でもするかって一時期は盛り上がったくらいですもんね」

 

共通の友人のりさを通じて知り合った二人は仲良くなった。

意気投合してかつてはルームシェアでもしようかと盛り上がったこともあったらしい。

だが、仲がよくても一緒に生活するとなると話が違うこともある。

おそらく、二人は同居すると食べ物の趣味も観たい映画の趣味も合わなかったりすることに気づくのだ。

それなのに男性の趣味だけはバッティングしてしまって揉めたりするかもしれない。

 

「えー、真紀に会えなくなると思うと寂しい」

 

いつもケーキを買いに来てくれていた常連さんが引っ越しすると聞いて、

むしろそれだけの間柄だったからかもしれないが真冬は寂しく感じていた。

突然の知らせだったこともあり、真冬は思いがけないほどに悲しくなって涙を流していた。

 

「うん私も寂しいよー、真冬のケーキすっごく好きだったから」

 

わざわざお別れの挨拶を告げに来るだけのことはあって、

ただの常連客としてではなく、真紀は真冬のことを好いていたのだろう。

真冬は真紀にとって児玉坂の街で出会ったかけがえのない存在の一人だったのだ。

 

「また児玉坂に来るときに買いに来るからね」

 

そう言いながらテーブルの上に置いてあったマカロンの箱を両手で前に進めた。

先ほどいたずらをして真冬を捕獲したあのマカロンだった。

 

「・・・うん、わざわざマカロンまでありがとう」

 

真冬は渡されたマカロンの箱を両手で胸に抱きしめながらそう言った。

 

「・・・じゃあ、もうそろそろ行くね」

 

真紀はそう言って席から立ち上がった。

先ほどしていた話では、まだ挨拶回りをしなければならないらしく、

この先もお世話になった方々を訪問する予定を立てているらしかった。

 

「うん、また絶対にお店に遊びに来てね」と真冬は告げた。

「じゃあ、あたしも仕事に戻らなきゃ」と眞木も椅子から立ち上がる。

お店の扉のところで何度も手を振りながら真紀はその場を後にした。

 

 

 

・・・

 

春風が楽しそうに過ごす人々の休日を吹き抜けていく。

家族連れや恋人達が眩しくて溢れるばかりの笑みを帯びながら、

柔らかな日差しを受けて幸せそうに何処かへ歩いていく。

 

人々の嬉しそうな表情はまるで鏡のように太陽光を反射して輝く。

その眩しさを全身で感じながら、川戸魅菜は裏に隠れて出番を待っていた。

 

辺り一面を覆うような軽快な音楽が流れ始め、魅菜はふっと全身に気合をいれる。

人々は辺りをキョロキョロと見回しながら、表情からは笑みがこぼれていく。

 

建物の中に潜んでいた魅菜達が一斉に飛び出して辺りはさらに歓声に包まれた。

魅菜は人々の熱狂に合わせるように両手を上に掲げたりしながら軽快なステップで躍り出た。

家族連れのお父さんやお母さんが子供達を見ながら魅菜達を指差している。

5歳くらいの女の子は身体を弾ませてジャンプを繰り返している。

その子の弟はまだ2歳くらいなので、何が起きているのかよくわかっていないようだった。

 

明るいダンスミュージックへと音楽が切り替わり、魅菜達は隊列を組んで踊り始めた。

そのパフォーマンスを見て「可愛い~!」という黄色い歓声が飛ぶ。

子供達だけでなく、女子高生くらいの女の子達も嬉しそうに携帯で写真を撮っている。

その視線に気づいた魅菜は、彼女達の方向を意識して手を振ったりポーズを決めたりする。

 

やがて音楽に合わせてフィニッシュを決めた魅菜達はポーズを決め、

どこからか彼女達の後ろで大型クラッカーのような音が響いて辺りは紙吹雪が舞った。

魅菜は自分に紙吹雪が降りかかっても微動だにしないでポーズを決めて動かない。

周りからは声援と拍手が鳴りやまず、彼女達はまだ隊形を崩せないようだった。

 

音楽が鳴り止んだ後、しばらく経つとまた別の音楽が流れ始めた。

今度はダンスミュージックではなく、もっとのどかで休日にぴったりなカントリー調のものだった。

 

その音楽が流れ始めると、魅菜達は隊列を崩して自由に動き始めた。

先ほどまで見ていた子供達や女子高生がカメラを持って魅菜達に駆け寄ってくる。

「一緒に写真撮ってもらってもいいですか!?」の問いかけに魅菜は無言でこっくりと頷く。

そして近くにいた男性が親切にもカメラ持って撮影役を買って出る。

魅菜は周囲を飽きさせないような様々なポーズを撮ってその被写体となる。

 

これが彼女の仕事だった。

魅菜のアパートの管理人をしている塚川真紀は彼女がこの仕事をしていることを知らない。

それは魅菜が真紀に対して何も余計な私情を話していないからなのだが、

彼女の元来の性格なのか、特別仲の良い友人以外、魅菜はこの仕事のことを打ち明けてはいなかった。

そういうわけで、周囲の人々からすれば魅菜が普段はどこで何をしているのか、

知っている人はほとんどいないというわけなのだ。

 

 

・・・

 

 

歩いているだけでみんなから手を振ってもらえるため、

魅菜はまた建物の中へ戻る時でも余念なく手を振り返すのだ。

それが人気者の宿命だと魅菜は考えていた。

ひと時も気を抜くことなく、誰もに夢を与え続けなければならない。

この時も、建物の影に隠れてしまうまで、魅菜はずっと手を振り続けた。

 

「おつぽ~」

 

先ほどまで全く私語をしていなかった魅菜も、

控え室へ戻る廊下では仲間達に声を掛ける。

先ほどまでの動きとは違う、とてもリラックスした態度だ。

夢を与える時間は終わったのだからそれも当然だと魅菜は思う。

いつもいつでも四六時中あんな風に振舞っているわけにはさすがにいかないからだ。

 

控え室に戻ってきた魅菜はロッカーから財布を取り出して自販機へ向かった。

そして小銭を投入して冷たい飲み物でも買おうと思っていたのだ。

 

「おい魅菜、やめろよ」

 

ロッカールームのソファーに座っていた男が魅菜にそう呼びかけた。

 

「何が?」

 

男の方へ顔を向けながら魅菜が答えた。

その魅菜の仕草で、男は笑いをこらえるために瞬時に顔を右腕に伏せた。

 

「勘弁してくれよ、マジウケるって」

 

左手に持っていたジュースをこぼしてしまいそうになりながら男は笑いを堪える。

かまわず自販機のボタンを押した魅菜は、ガタリと音がした取り出し口に手を差し入れる。

購入したジュースを取り出すと、何も言わずに魅菜はそれを男に手渡した。

 

「開けて」

 

魅菜は短くそう言い放つと向かいあっているソファーに腰を下ろした。

男は魅菜から渡された缶ジュースを指先でプシュッと開けてから魅菜に差し出した。

 

「サンキュー」

 

ソファーの間に置かれたテーブルにジュースを置き、

魅菜は両手でゆっくりと大きな頭に手をやった。

そして被っていた猫の大きな頭をスポッと脱いで横に置いた。

短くまとめていた魅菜の髪の毛は汗で湿っていた。

 

「控え室戻ってきたら先に頭取ってくれよな。

 その格好で自販機でジュース買ってたら変質者だろ」

 

魅菜は男がそう言うのを聞きながら、あまり気にしない素振りでジュースを飲んだ。

「ぷはぁー」と声を上げながら仕事終わりの至福の時を堪能していたようだ。

 

「あたしこの格好気に入ってんだからいいでしょ。

 別に猫だってジュースくらい買うご時世だし」

 

魅菜は少し火照っている頬を冷ますように続けて飲み物に口をつける。

左手でパタパタと顔を仰ぎながら髪の毛を気にして手で後ろへやった。

 

「それってどんなご時世だよ。

 しかも暑いくせに矛盾してない?

 無理しなくていいって」

 

男は手に持っていたうちわで魅菜をパタパタと仰ぐ。

「あーいい感じ」と目を閉じながら魅菜はそれに甘えた。

 

「山根はさぁ、着ぐるみ着ないからわかんないんだって。

 これ着てると超人気者になれるんだから。

 みんなこっち見て手を振ってくれるし、超可愛いって言ってくれるし」

 

魅菜の向かいに座っていた山根は白シャツに黒ベストを着てマジシャンの格好をしていた。

彼は魅菜とは役割が異なり、路上パフォーマーのような形で観客の前に登場するのだ。

二人とも出演する時間は異なるが、場所は隣同士であったために休憩中によく控え室で会うことになった。

 

「それはお前じゃなくてノギニャンに向けられた人気だろ?」

 

ノギニャンとは魅菜が着ている着ぐるみの猫のキャラクターの名前だった。

子供から大人まで老若男女を問わずに知られている国民的な人気アニメのキャラであり、

魅菜がこの役を獲得できたのはとても運が良かったとも言えた。

 

「うるっさいなぁ、ほっといてよ。

 別にあたしノギニャンになんか1ミリの興味もないから。

 ちゃんとアニメも見たことないし、でも本人が楽しんでるんだから別に良くない?」

 

魅菜は缶ジュースをテーブルに置くと、また猫の頭を取ってすっぽりとかぶってしまった。

そして顔を動かしながらキャラクターになりきっておどけていた。

 

「マジで、お前それ失礼すぎじゃね?

 毎回来るあのノギニャンの大ファンの女の子とか、めっちゃ羨ましそうにキラキラした目で見てんのに」

 

「ああ、あのハロウィンでもないのにいつも忍者のコスプレしてる子?

 何しに来てんだろうね・・・暇なんじゃない?」

 

どうでもいい話でしょ、と言わんばかりに魅菜はその話題をぴしゃりと片付けた。

周囲がどう言おうが、魅菜はそれを必要以上に気にする性格ではなかったのだ。

 

「別に大して興味ないけどさ、一応こうして同席したから社交辞令で聞いとくね」

 

魅菜は缶ジュースを口にくわえたまま、少しもごもごするような声で言った。

 

「売れないマジシャンのとこには客来てんの?」

 

視線をちらりとだけ山根に向けて魅菜はそう尋ねた。

視線を向けられた山根は、待ってましたとばかりに身を乗り出して答える。

 

「それがな、聞いてくれよ、すげぇんだぞ。

 昨日な、シルクハットの中から鳩出すいつものマジックやったのよ」

 

魅菜はスマホを取り出して何やらいじっていて、

山根の話を本当に聞いているのやら良く分からない様子。

 

「いつもは誰も見てくれないのにさ、ずっと俺の前でニコニコしてる女の子がいたのよ。

 だから俺も嬉しくなっちゃってさ、いつもより太った鳩を取り出してやったんだよ。

 そしたらその女の子がすげぇよろこんでさ、あれは見せたかったなぁ」

 

魅菜は誰かとラインでもしているのか、相槌を打つこともなく右手を動かしている。

文章を打ち終わったのか、自分のタイミングで一息ついたところで「ふ~ん」とだけ相槌を打った。

 

「あれはきっと俺に惚れてると思うんだよな、俺が取り出した太った鳩をずっと追いかけてさ。

 すげぇ可愛い子だったぜ、俺はもうちょっとでロマンスがスタートするかと思ったけどな」

 

「じゃあなんでロマンスはスタートしなかったわけ?」

 

魅菜が冷たい言い方で問い詰めると、山根は頭の後ろを手で掻きながら、

 

「いやー、声かけたんだけどさ、びっくりしたのかまるで鳩みたいに逃げられちゃって・・・」

 

山根がバツの悪そうな顔でそう語ると、魅菜はちらとだけ山根に視線をやり、またスマホに視線を落としながら言った。

 

「あんたさ、幸せ者だよね、お客さん一人なのに」

 

山根はへへへと笑いながら受け流そうとした。

魅菜は間髪入れずに言葉を繋いだ。

 

「恥ずかしくない?誰もいないところで一人で鳩だして」

 

「誰もいないことはないだろ、女の子が一人いたし」

 

「逃げられてんじゃんか」

 

「うるせぇなぁ」

 

「しかもさ、それ別にあんたのこと見てないから、その子鳩が好きなだけだから」

 

魅菜は容赦なくストレートな言葉を山根に浴びせる。

変なお世辞を言ったり嘘で飾ったりするのは性に合わないのだろう。

 

「あたしはそんな寒いのやだからさ、黒歴史を増やすのごめんだし。

 まだノギニャンでもやってるほうがいっかな」

 

そう告げると何も反応のない山根をよそに、魅菜はノギニャンの頭をすぽりとかぶり、

ソファーから立ち上がって控え室を出て行こうとした。

 

「次に会った時はさ、ちょっとは気を効かせてマジックで缶ジュースでも出してみて?

 じゃないとあんたのことこれからずっと『鳩男爵』って呼び続けるから」

 

「なんだよそのあだ名」

 

「なんでもないし・・・黒いベストがお似合いだから適当に呼んでみただけ」

 

ノギニャンはこちらを振り向きもせず、左手だけを上げてさよならの仕草をした。

 

「じゃあね、ばいぴち」

 

 

 

・・・

 

坂道を徒歩で登る少女の姿があった。

はるか向こうの高い場所に教会の建物についている十字架が見える。

寺屋蘭々は左手に持っている紙で住所を確認しながら、

どうやら目的地はあの高い場所にある十字架の建物であることがわかった。

 

(・・・ああっ、遅れてしまいました)

 

腕時計で時間をちらちらと確認しながら、蘭々は少しずつ駆け足になる。

額にはうっすらと汗をかいていて、本音としてはこれ以上急ぎたくはなかった。

だが、彼女はアルバイトの最中であったため、時間厳守は絶対だったのだ。

 

健気に坂を小走りで登りきった蘭々は、息を切らしながら教会の建物の方へ向かった。

こんな場所へ来るのは彼女にとって初めてのことだったが、

なんだか表玄関から入って良いものなのかわからず、

裏口を探してみたり、表玄関から中をそっと覗いてみたりしながら、

要するに誰かが現れて助けてくれる状況を待っていたのだった。

 

(・・・お~い、誰かいませんか~・・・)

 

しばらく庭をうろついてみても誰も出てこず、

これはどうしようもないと諦めた蘭々は、

やはりその性格上、表玄関から堂々と進む勇気が出ず、

先ほど見つけた裏口の扉をそっと開けて中の様子を伺うことにしてみた。

 

「・・・あの~、すいませ~ん、ノギハットです・・・」

 

蚊がなくような声で恐る恐る呼びかけるも、

部屋の中からは誰も返事をする者はいなかった。

 

「・・・あの~、誰かいませんか、ピザの宅配ですけど・・・」

 

蘭々が呼びかけるも、やはり部屋の中からは誰の返事もなかった。

 

(・・・頼んどいて留守なんて、いったいどういうことでしょうか・・・)

 

仕方なく、蘭々は靴を脱いで玄関を上がった。

手前に見えていたテーブルの上に置かれていたケーキが目に入った。

ピザにケーキ、誰かのパーティなのでしょうか?

それにしてもどちらかで十分ではないのでしょうか?

これだけ食べると結構お腹がいっぱいになりそうだと蘭々は余計なことを考えていた。

 

「・・・今何時だ」

 

部屋の奥から男の低い声が聞こえ、蘭々は歩みを止めた。

突然の声にドキッとしたのもあったが、

遅れてしまったことを気にしているところへ、

どうやら怒っているらしい返事だったのが心に負荷をかけた。

 

「・・・今何時だと思っていると聞いているんだ」

 

蘭々は心の中でオロオロとしながらも、

遅刻してしまったのは自分のせいだとわかっていた。

慣習上、これほど配達が遅れてしまった場合、

大幅な割引を提示するか、最悪の場合はピザを無料にするしかなかった。

そうやってクレームを回避するのがマニュアルに沿った正しいやり方だったのだ。

 

「・・・この度はピザの配達が遅れていまい、大変ご迷惑をおかけしました。

 お詫びのしるしにピザを半額にさせていただきますので、どうかこれでお許しくださいませんでしょうか・・・?」

 

蘭々はマニュアルに書かれていた言い方でスラスラと謝罪の言葉を述べた。

我ながらスムーズに言えるようになったなと、少し成長を感じた気もした。

一生懸命心を込めて謝罪をすれば、きっと事情を理解してくれると信じていた。

 

「・・・お前、常習犯だろ?」

 

心臓にドキッと痛みが走り抜けて、蘭々は声の主を探した。

どうやら向こう側にある椅子に腰掛けている男の声らしいとわかった。

こちらへ背中を向けて座っているために顔がわからない。

 

「謝罪の言葉が流暢すぎる・・・よほど練習したか、何度も同じミスをやっているか・・・」

 

何度目の謝罪かは数えてはいなかったが、確かに蘭々の遅刻はこれが初めてではなかった。

2度、3度と遅刻を繰り返すうちに、セリフが上達したのは間違いなかったのだ。

 

「・・・すみませんでした、もうこんなことは二度とないように気をつけます。

 お詫びとして、ピザはもう無料にさせていただきます、ご迷惑をおかけし・・・」

 

頭を下げながらそこまでセリフを述べていたところで、

蘭々は自分の前に人の気配があるのを感じた。

その嫌な感覚に気づいて顔を上げた時、目の前には男の顔が飛び込んできた。

いつの間にか椅子から立ち上がってこちらまで来ていたのだ。

 

「・・・うるせー口だな」

 

目の前に男の顔があったことと、怖い声で返事をされたことと、

そしてどこかで聞きなれたような男のセリフに蘭々は瞬時に呼吸を忘れてしまったようだった。

 

(・・・ああっ、このセリフは・・・!!!)

 

蘭々は条件反射的に両目を閉じた。

彼女の頭の中には、このセリフが想起させる情景が浮かんでいた。

あれは確か、大好きだった少女漫画でドSな男の子に唇を奪われる場面だ。

ドSな男の子は「うるせー口だな」と言いながら無理やりキスして女の子の唇を塞ぐのだ。

ああっ、私の好きな場面だけど、でも実際に自分がそんな場面に遭遇するなんて、

しかも相手がどんな人かわからないのに、さらになんでもないアルバイトの途中でなんて、

どうしてこんなシチュエーションでいきなり、どうしようまだ何の心の準備もできていないのに・・・。

 

そんな想いが瞬時に頭の中を稲妻のように駆け巡りながら、

知らないうちに両手を強く握り絞めながら硬直している自分に気づいた。

1秒・・・2秒・・・3秒・・・4秒・・・と蘭々は永遠のような時間を数えていた。

 

 

 

 

 

 

あれ、何も起こらない?

 

 

 

 

 

真っ暗な瞼の向こう側が気になって、蘭々は恐る恐る目を開けてみると、

いつの間にか男は向こう側へ行ってしまい、蘭々は一人おいてけぼりになっていた。

 

悔しいやら恥ずかしいやら、なんだか少し残念な気もするやら、

なんで残念な気持ちがしなきゃいけないのやら、

とにかく一人妄想が暴走しすぎて勝手に肩透かしを食ってしまい、

複雑な感情に絡まりながら蘭々は顔が真っ赤になってしまった。

 

「・・・おい、いつまでボーッと突っ立ってるんだ?

 とりあえずこっちへ来てここへ座れ、話がある」

 

男は先ほどまで自分が座っていた椅子に腰掛けながら、

まともにこちらも見ずに指のジェスチャーだけで蘭々を呼びつけていた。

 

 

 

・・・

 

この男は、シスターを待っていた。

真紀の知り合いの刑事であり、名を中西と言った。

 

中西の前に座らされた蘭々は、申し訳なさそうに恐縮していた。

恐る恐る視線を上げてみても、中西は腕組みしながら椅子にもたれかかり、

さらに足を組んで空中をボーッと見つめているように見えた。

いったい何を考えているのかさっぱりわからず、

とりあえず、これからは良いことが起こるわけもないことは蘭々にもわかった。

冷めたピザはとりあえずテーブルの上に置いてある。

ここまで冷ましてしまったお叱りをこれから受けなければならないと思った。

 

だがしばらく何も話さない中西を見て、蘭々はさらに気分が重たくなってきた。

何も言われていないのに、勝手にあれこれと嫌なことを思い出してしまった。

このピザ屋のアルバイトを始める前、彼女は蕎麦屋で働いていたこともあった。

だが、思いっきり指を汁につけたままお客さんに蕎麦を出してしまったことで、

お客さんからも店長からも叱られてしまい、結局はそのバイトを辞めることにもなった。

 

そのトラウマも振り切って、なんとかまた新しいバイトを見つけたのがノギハットだった。

だが、女性店長のこのお店は想像していた以上に大繁盛のお店だったようで、

ピザ宅配の依頼がひっきり無しにやってくるのであった。

蘭々はなれないうちからも必死になって配達をしていたのであったが、

あまりの忙しさに配達遅れを乱発してしまうようになっていた。

このお店の女性店長は非常に優しいので何も怒るようなこともないが、

一番怖いのはお客さんからのクレームだった。

またクレームをきっかけにしてバイトを辞めるような辛い思いはしたくなかった。

 

「・・・で、原因はなんだ?」

 

「・・・えっ?」

 

「遅刻した原因はなんだと聞いている」

 

なんと言えばいいのだろう、トカゲみたいな目をしている人だと思った。

睨まれるだけで皮膚に氷を押し付けられたみたいに冷たい痛みを感じる。

 

「・・・すみません、宅配の注文が多すぎるもので・・・」

 

「人手が足りないのか?」

 

「そう言われるとそうです、でもこれ以上バイトも雇えないんです」

 

「なぜだ、儲かっているならバイトを雇えば済む話だろう?

 雇う余裕がないなら、今いる人数でなんとかするしかない。

 いや、むしろそうすべきなんだろうな・・・」

 

中西は顎に手を置いてトカゲみたいな目を蘭々へ向けてジロジロと見つめる。

なんだか見られているだけで拷問を受けているような気にすらさせられると思った。

 

「この教会からお前の店はそんなに遠くはないはずだ。

 注文数が多すぎて捌けないなら初めからそう伝えるべきだ。

 だが、現在のやり方で効率が悪い点を改善することも同時に考えろ。

 お前のやっているのはサービス業だ、客を待たせるなんてのは最悪なことだ」

 

一生懸命頑張っているのにこんな結果になってしまって、

なんだか蘭々はこの場から逃げ出してしまいたいと思ってしまった。

自分の不甲斐なさと悔しさで涙が出てくるのをこらえるので必死だった。

 

「・・・女の涙ってのは行き止まりだ、それ以上誰も踏み込めなくなる。

 だが、俺はそんなに甘くはないぞ、涙は決して最良の解決策ではないからな」

 

中西は突然椅子から立ち上がり、テーブルの上に置かれているケーキの前に行った。

 

「いいか、サービス業ってのは客を喜ばせなければならない。

 どうしてここにケーキがあるかお前にわかるか?」

 

蘭々は中西が何のことを言っているのか全くわからなかった。

ピザ屋とケーキ屋を比較しようとしているのだろうか?

 

「これはさっきここのシスターの行きつけのケーキ屋の店長が持ってきたものだ。

 シスターがこの街を離れるという話を聞いて、お代は要らないからと言って置いて行きやがった」

 

そういえば蘭々は不思議に思っていた。

どうして教会なのに神父さんやシスターがいなくてこんな男がいるのだろうと。

だがどうやら、ここのシスターはこの街を離れてしまうらしいと知った。

もしかすると、自分の店のピザはその為のお別れパーティのピザだったのかもしれないと気づいた。

 

「俺は別にこんなケーキは注文していないし食べたこともないが、この店が流行っていることは想像するに容易い。

 サービス業として客を喜ばせるタイミングとポイントを知り尽くしているからだ。

 おそらく、この店だって忙しいはずだが、言い訳一つせずにちゃんとケーキを持ってくる。

 しかもデリバリーのタイミングも最高だ、勘が鋭いんだろうな」

 

蘭々はテーブルの上に置かれていたケーキの箱を眺めてみた。

どうやらこれは児玉坂の人気店、パティスリー・ズキュンヌのケーキだということがわかった。

 

「ケーキなんて形が崩れやすい物はバイクで配送することはできないが、

 それでも精一杯の速度で走って届けに来たんだろうな。

 なぜか玄関先で転んでやがったが、ケーキだけは崩れないように守りやがった。

 俺はその姿勢に、このケーキ屋の店長の仕事に対するプロ意識を感じずにはいられなかったぜ」

 

「・・・でも」

 

言われたい放題の状況に蘭々もさすがに腹が立ってきた。

ケーキ屋とピザ屋は全然違う、だってケーキは遅れても冷めないじゃないか。

保冷剤を入れておけばそんなに問題にならないけど、

ピザは焼いてから遅れれば遅れるほど容赦なく冷めてしまう。

 

「・・・私だって一生懸命走って来たんです!

 これでダメだって言うなら、もうどうしたらいいのかわかりません!」

 

感情的になってしまって涙が溢れてきた。

自分ってダメだなとわかるけれど、どうしようもなかった。

 

「配達用のバイクは?」

 

「・・・私、免許持ってません」

 

「ならせめて自転車で届けろ」

 

「・・・私、自転車乗れません」

 

中西は両手を挙げて大げさなジェスチャーをして見せた。

これ以上はもうお手上げだと言わんばかりに。

 

「・・・お前の店は色々と問題があるな。

 まあ、お前一人のせいだとは言わない。

 だがな、免許がないやつに配達させたり、お前が自転車に乗れないことは、

 客にとっては一切が関係ない事だ、客は早く届けてくれるという結果だけを待っている。

 当然、遅れたピザを持ってくる店には二度と注文などしなくなる。

 しかも大抵の場合、何が悪かったのかを指摘してくる事もなく静かに消えていく。

 それでいて二度と戻ってくることはないんだ、それの方が俺よりよほど非情だと思うが」

 

ノギハットの女店長は優しいから何も言わない。

しかし、なぜかこのお店はとても人気があるらしく、

年中無休で働いても注文が絶えないお店だった。

 

おそらく店長の人徳でこのお店は成立していたのだ。

今まで考えてこなかったけれど、そういえば配達が遅れることで、

お店のブランドイメージを下げてしまっていたかもしれなかった。

遅刻して届けた時、お客さんは何も言わないけれど、

本当は心の奥底でクレームを上げていたのかもしれない。

 

「この世界には神経を研ぎ澄ませなければ見えない物がたくさんあるんだよ。

 それを感じるには、もっと日頃から他人のことに意識を向けなきゃならない。

 自分の理由じゃなく、他人の理由に合わせられるかどうかが大人になるってことだ。

 言っとくが、俺は単純にサービス業だけのことを諭してるんじゃないぜ。

 それしかわからないってことは、お前がまだ曇った目でしか見れていないということだ」

 

中西はそんなことを言いながらテーブルの上に置かれていたピザの箱を開けた。

冷めきったトマトソースとサラミの乗っているピザが姿をあらわにした。

 

「他人を喜ばせることを考え、それを実践すればいい。

 そうすれば結局はそれが返ってきてお前の評価に繋がるのさ。

 だが、何をするにしても自分の気持ちを優先させるな。

 こんな冷めたピザを届けても誰も喜ばない。

 それはよく覚えておくことだな」

 

中西がそこまで言った時、部屋の扉が開いた。

そこには何やらたくさんの紙袋を抱えた真紀が帰ってきたようだった。

 

「あっ、中西さん、いらしてたんですか?

 ・・・この子は?」

 

若い女の子が椅子に座らされている現場を目撃した真紀は、

何やら普通ではないことが起こっていると理解できた。

しかも、女の子はほとんど泣きそうな表情でそこに座っている。

 

「いや、泣きそうな犬みたいな顔をして入ってきたんでな。

 少し暇つぶしの相手にしてただけだ」

 

そんなことを言いながら中西はテーブルの上のケーキの箱を指差した。

 

「先にもう一人来てたぜ、引っ越し祝いにってな」

 

そう言われた真紀は紙袋をテーブルの上に置いてからケーキを確認した。

箱を開けてみると、どうやらメッセージカードとブロマイドが入っているようだった。

真紀はそのメッセージカードを取り上げると、開いて中身を読んだ。

 

「・・・すごい、さっき会ったばかりなのにこんなに早く・・・」

 

蘭々は目の前で真紀が感動している様子を目の当たりにして、

とても悔しいけれどなんだか自分に足りない物がわかったような気がした。

 

「えーっ、真冬に後でお礼の電話しなきゃ」

 

蘭々はケーキに残っていたブロマイドがチラッと目に入った。

肩を出した洋服を着て笑っている女性の姿が写っていた。

これがケーキ屋さんの店長なのだろうか・・・?

 

「・・・このサービスは余計だがな」

 

中西はそのブロマイドを持ち上げて眺めながらそう言った。

 

「えーっ、私毎回これ楽しみにしてるんですよ!

 季節ごとに写真が変わるから次は何かなってワクワクするんです」

 

真紀はフォローではなく心からそう思っている様子でそう言ったので、

中西はその写真を真紀にひょいと手渡した。

 

「・・・やれやれ、こんなのが好きなやつもいるらしい」

 

中西は呆れたような表情で蘭々に向かってそう言った。

その表情は、相変わらずトカゲのような目をしてはいたのだが、

さっきよりも幾分接しやすい態度に変わっていたように思えた。

 

「あなたも、よかったら一緒にケーキ食べる?」

 

真紀は蘭々を見てそう声をかけた。

たかがピザの宅配で、しかも遅れて迷惑をかけたのに、

そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないと彼女は思った。

 

「・・・いえ、大丈夫です、お気持ちだけで・・・ありがとうございます」

 

蘭々は立ち上がって丁寧に深々とお辞儀をした。

そのかしこまりすぎた態度に、真紀は納得いかない様子だった。

中西が彼女に何かしたのではないかと思ったのだ。

 

「・・・悪かったな、別にお前だけに説教したいわけじゃなかったんだ。

 大人は時々説教くさくなるんだ、世間はいい加減なことばかりで成り立っているからな。

 たまたま俺が暇していた時にやってきたお前が運が悪かったんだ、許せ」

 

その時、教会の表玄関の方向から神父がやってきた。

 

「真紀さんお帰りなさい、中西さんがお待ちでしたよ。

 おや、注文したピザが届いたんですか、どれどれ、おや、これは・・・」

 

神父はテーブルの上の冷めたピザを見て言葉を詰まらせたようだった。

その顔を見て、蘭々はお客さんが喜ぶ顔と、何も言わずに悲しんでいる顔の両方が理解できたと思った。

 

「大丈夫だよ、こんなものは電子レンジがあればどうにでもなるだろう?

 俺だっていつも事件にかかりっきりの時は冷めてようがなんだろうが関係なく腹に入れる。

 冷めてるくらい大した問題じゃないだろう?」

 

そう言って中西はさっとピザをとって電子レンジに入れてしまった。

さっきまで言ってたことと真逆の行動に、蘭々は困惑を隠しきれない。

 

「ああ、そうですね、ごくろうさんでした」

 

そう言って神父はピザの代金をきちんと蘭々に支払った。

 

「・・・えっ、でも、いいんですか」

 

なんだか申し訳ない気持ちになった蘭々はまた余計なことを言ってしまった。

 

「相変わらず、うるせー口だな、黙って受け取ればいいんだよ」

 

電子レンジで温まったピザを口に運びながら中西はそう言った。

自分で注文したものでもないのに、しかも勝手に上がり込んだ客先でこの態度。

他人に説教をしておいて、最後にはピザの代金をフォローしてくれて、

アメとムチが入り混じりすぎて蘭々にはわけがわからなくなっていた。

 

「おいしいピザをありがとう、次は中西さんの職場に届けてあげてね」

 

そしてこのシスターの態度もなんて優しいんだろうと蘭々は思った。

さっきまでの説教地獄がまるで嘘のような解放感だった。

 

「・・・俺の職場に泣きそうな犬みたいな顔で現れたら承知しないからな、覚えとけ」

 

言ってることがめちゃくちゃすぎて、この人はとんだ歪んだ人だと蘭々は思った。

とにかく、許してもらえたし、次の配達もあるはずなのでお店に帰ることにした。

 

荷物を持って玄関まで着て靴を履いた後、蘭々は勇気を出して振り返って言った。

 

「・・・あのっ!」

 

「なんだ?」

 

「・・・私、犬、ぜんぜん大丈夫です!」

 

「はっ?」

 

「・・・失礼します」

 

中西は蘭々の言っている意味がよくわからなかったが、

そんな事を気にしている間もなく蘭々は出て行った。

 

教会を出てから、一刻も早く戻らなければいけない事に気づいて、

蘭々は来る時に登ってきた坂道を走りながら駆け戻っていった。

もう冷めたピザを届けるわけにはいかないと思いながら。

 

(・・・あの人、歪んだ人だけど、私は嫌いじゃない・・・)

 

 

 

・・・

 

蘭々が出て行った後、真紀はすぐに教会の告解部屋へ向かった。

帰ってきたばかりなのに忙しく動き回る真紀を見て、

中西は訝しそうにしながらその様子を見つめていた。

 

「やっと帰ってきたと思ったら、今度はなんなんだ?」

 

中西は椅子に座ってピザをかじりながら尋ねた。

ピザは神父が真紀のささやかな送別会のために注文した物だったのだが、

中西のような図々しい男はまるで自分のテリトリーであるかのように振る舞うのだった。

 

「あの加湿器、貰ってもらおうと思って」

 

「誰に?」

 

そう言いながら真紀は告解部屋から両手で加湿器を運んできてテーブルに置いた。

 

「よく教会の前まで犬の散歩にやってくる女の子がいるんです。

 話をしていたら欲しいって言ってくれたからあげようと思って」

 

「・・・もしかして、声のバカでかいガキじゃないだろうな?」

 

「そんな言い方はひどいですよ、ちょっと元気な女の子ですけど」

 

そう言って真紀は加湿器を持って玄関から出て行ってしまった。

 

(・・・南野きな子だな・・・アンドロイドのくせに、錆びても知らねぇぞ、まったく・・・)

 

 

・・・

 

 

「あーっ、出て来た、お姉さ~ん!」

 

加湿器を運んできた真紀を見て、教会の庭で犬と遊んでいた女の子がブンブン手を振っていた。

嬉しそうに庭を駆け回っていた犬も、真紀の方を向いて尻尾を振っている。

動物というのは、時に人間以上に優しい人を見分ける能力があるらしい。

 

「ごめ~ん、おまたせー!」

 

箱に入った加湿器を持って現れた真紀は、そのまま胸の位置に抱えてきな子に渡した。

きな子も胸の位置で箱を受け取り、嬉しそうに笑いながら加湿器の箱を見つめていた。

 

「はい、この子、かしおくんって言う名前なの、まだまだ頑張り屋さんだから可愛がってあげてね」

 

告解部屋で信者の方々の話を聞く時、真紀はこの加湿器のかしおくんをよく使っていた。

児玉坂の街を出てしまっても、別に新しい部屋でも使えないことはないのだが、

真紀はこの街への愛情もあって、使ってくれる人がいるなら残していこうと考えていたらしい。

 

「うん!チョップよりももっと可愛がるね!」

 

チョップというのはきな子の飼っている犬であり、

今この場に居合わせているのだが、どうやらその言葉を聞いて拗ねてしまったようだった。

 

「ほら、そんなこと言うからチョップくんが拗ねちゃったよ」

 

真紀がふてくされていた犬に話掛けると、犬は黙って尻尾を振って真紀に近寄って行った。

先ほどまでとはまるで違った様子で、おとなしく真紀に頭を撫でられて嬉しそうだ。

 

「こら!チョップ!」

 

きな子はチョップの顔を両手でグッと挟み込み、無理やりに自分の方へ顔を向けさせた。

 

「よそ見、しないで!」

 

どうやらきな子は犬に対しても嫉妬深いらしく、愛犬が他の人と仲良くすると愉快ではないようだ。

無理やりに姿勢を変えられてしまったチョップは、うつむきながら座り込んでいた。

 

「あっ、そうだ、お姉さんもワンちゃん飼ってるんだよね?」

 

きな子が思いついたようにそう言った。

そして次の瞬間、チョップに着せていた犬用の服を脱がせ始めた。

 

「じゃあこれ、かしおくんの代わりにお姉さんにあげま~す!」

 

「えっ、これ貰っちゃって大丈夫なの?

 チョップくんのお洋服じゃないの?」

 

「えへへ、チョップは何着も持ってるから大丈夫だよ!」

 

服を脱がされたチョップは体を大きく動かして身震いをした。

ブルブルと毛並みが揺れて、どうやら服を脱いで逆にせいせいしたようにも見えた。

 

「ありがとう、じゃあ大切にするね」

 

「うん!」

 

そう言ってきな子は加湿器を抱えながら帰って行った。

「寂しいけどお姉さんも頑張ってね~」と言い残して。

 

 

 

・・・

 

「やっと用事が済んだか」

 

きな子が走り去ったのを見ていた真紀の背後へ、

中西はいつの間にか建物の中から出てきていたらしく、声をかけた。

 

「どうも、お待たせしちゃったみたいでごめんなさい」

 

真紀は中西の方を振り向いてぺこりとお辞儀をしながらそう言った。

 

「・・・まあ、待っていたのはこちらの勝手だからな。

 悔しいが、あんたが戻ってくるまで帰るわけにはいかなかったんでね」

 

「何か大事な御用でもあったんでしょうか?」

 

中西は色々と特殊な任務に従事しているタイプの刑事であり、

過去には真紀も色々と助けてもらって世話になった。

彼がわざわざ会いに来るなんて、普通の要件とは思えなかったのだ。

 

「・・・いや、ただ顔を見に来るだけじゃ理由にならないか?」

 

中西は視線を空に向けながらそんなことを言った。

そんな柄でもないことを言った中西に、真紀は内心おかしく思った。

 

「・・・いえ、そんな、会いに来てくださっただけで私は嬉しいです」

 

 

・・・

 

 

建物の外へ出た二人は、そのまま外の風に当たりに散歩へ出かけた。

春の陽気に包まれた風が二人を柔らかく包みながら吹き抜けていく。

 

「こうして児玉坂の街を歩けるのもあと少しだな」

 

先日、仕事の用事で近くまで来たとき、中西は教会へ立ち寄った。

その時に真紀は用事で出かけていて不在だったのだが、

神父の口から真紀が近々この街を去ってしまうという話を聞いたのだった。

 

以前、真紀と知り合って以来、孤独だけが友人だった中西が、

珍しく心を許せる相手として真紀を認めたのだった。

そしてそれからというもの、時々は教会に立ち寄るようになっていったし、

真紀が不在でも神父とたわいもない話をしたりする間柄になっていた。

そういう事もあり、あの教会は中西にとってすでに自分のテリトリーのように振るまえる場所になっていた。

中西はあまり認めたくなかったが、彼にとって心安らげる場所になっていたことは確かだった。

 

「人生は延々と続いていくが、こうして期限が設けられるというのも悪くないんじゃないか?

 人は永遠に続くと思われる時間には怠惰を持ってやり過ごさなきゃならなくなるが、

 限られた時間に対しては、一刻を争うように真剣に対峙できるようになる。

 まったく、自分勝手な生き物だと思うがな」

 

両手をポケットに突っ込みながら、周囲の景色を見ながら中西は歩いていた。

気づいたら目の前には児玉坂公園が見えてきた。

 

「そうですね、毎日がとっても充実していますし、感謝の気持ちを持って過ごす事が出来ています」

 

真紀は目を閉じて大きく春の息吹を胸いっぱいに吸い込みながらそう言った。

ポカポカと暖かな日差しが彼女の頬に当たり、とても健康的な美しさを現出させていた。

 

「この街を出てどうするんだ、という質問は嫌というほど受けていると思うが・・・」

 

中西が真紀に会いに来た理由として、正直な所はもちろん今後の事が知りたいからであった。

だが、おそらく誰しもに同じ説明を何度も繰り返した事であろう事も容易に想像ができたし、

将来の事について不安もなく対峙できる人なんてほとんどいるはずもない。

中西はそんな事を聞く事は野暮な事だと理解していたし、

尋ねても答えが返ってくるはずもないだろうという事は承知していた。

それでも、やはり気にならないと言えば嘘になるのだ。

 

「・・・まあそれは聞かなかった事にしてくれ、答えは風の中だ、それでいい」

 

普段と違って少し歯切れの悪い話し方をしてしまう事に中西はイライラしてしまう。

右往左往しながらまっすぐに話ができないなんて事は彼にはあまりないことだからだ。

 

「・・・率直に言おう、あんたがいなくなるのは俺にとって一大事だ。

 いや、この児玉坂の街にとってとても大きな出来事である事は間違いない。

 街の真ん中に、大きな空洞ができてしまうくらい、何かが抜け落ちていく気がしている」

 

二人は歩きながら児玉坂公園の中へと入っていった。

すっかり春めいた公園には色とりどりの花が咲き乱れており、

鮮やかな色彩に満たされた空間には生命の力を感じさせられるほどだった。

 

真紀は立ち止まって咲いている花達に触れては匂いを嗅いだ。

まるで生きとしいけるものすべてにきちんと挨拶をしているように、

彼女は一つ一つ、丁寧に向き合いながら、その命を尊重しているように思えた。

 

「あんたがこの街の象徴だったと言っても過言ではないと思っている。

 どうしてこの街がこれほど栄えたのか、どうして坂を登るように進んでいけるのか。

 それは目に見えない精神的な要素として、あんたの存在がいたからだと思えてならない」

 

中西はのんびりマイペースに自分の前を歩いていく真紀にそう語りかけた。

とても強い女性であるはずなのに、その挙動は常にしなやかで柔らかだと思った。

木々達の間をすり抜けては、またふわふわと、だが優しく彼らを包み込むように流れていく。

 

「そんな、大げさすぎますよ」

 

道端にしゃがみこんで、ひっそりと咲いている花にも目を向けながら、

真紀は笑顔で中西の方へ顔を向けてそう言った。

 

「私一人でそんなこと、できっこありませんから」

 

すっと立ち上がると、また方向を変えて真紀は歩き出した。

やがて向こう側から公園ではしゃぐ誰かの声が聞こえてきた。

その方向へ目を向けると、先ほど教会で加湿器をあげたきな子がそこにいた。

もう一人は真紀もなんとなく知っている女の子だった。

あれは確か、Bar Kamakuraでアルバイトをしている女の子だ。

名前は確か、三藤舜奈ちゃんだったと真紀は記憶している。

真紀とBar Kamakuraの店長は児玉團というバンドを組んだことがある。

その時に、確か少しだけ顔を合わせたことがあったと記憶していた。

 

(・・・あの子達、お友達だったんだ・・・児玉坂は狭いなあ)

 

そんなことを思いながら内心で微笑んでいると、

真紀は近くのベンチに座りながらその二人を見つめている女の子に気づいた。

その女の子も真紀は見たことがあった。

友人とよくランチで利用するカフェ・バレッタのアルバイト店員の子だった。

 

中西もその存在には気づいたようで、少しばかり緊張の面持ちになった。

実は中西達が密かに捜査を続けているのがこのバレッタというお店だったのだ。

見た所は普通のカフェなのであるが、裏では様々な悪い噂が飛び交っており、

何が真実なのかは定かではなかったが、中西たちのチームではバレッタといえば誰もが「ああ、あそこか」とわかる。

それくらい児玉坂の街では要注意なお店となっていて、少しでも尻尾をつかんだなら、

いつでも踏み込んで捜査をしてやりたいと考えているほどであった。

 

中西のそんな思いを真紀は知らない。

真紀は、そういえばバレッタにはまだ挨拶を済ませていなかったと気づく。

特に親しい間柄というわけではなかったが、お互いに顔くらいは知っているはずだと思った真紀は、

絶えない笑みを携えながらベンチの方へと歩みを進めていった。

 

「こんにちは、未代奈ちゃん、だよね?」

 

真紀が近づくと、女の子は少し驚いた表情を見せた。

 

「・・・どうして私の名前を知ってるんですか?」

 

「お店で働いてる時、名札を見ちゃってたから、驚かせてごめんね」

 

真紀がそう告げても、未代奈の表情は相変わらず訝しげだった。

気を許すまで少し時間がかかるタイプの性格かもしれないと真紀は思った。

 

「ここ、座ってもいい?」と真紀が尋ねると、また驚いたような表情を見せたが、

未代奈は「はい、どうぞ」と返事をしたので真紀はそそくさと隣に座った。

 

「私、バレッタのオムライス、よく食べるんだけど、あれすっごい美味しいよね。

 卵がふんわりしてて、私すっごいみんなに宣伝してるんだよ、あれは食べた方がいいって」

 

「え~っ、そうなんですか、そう言ってもらえると嬉しいです」

 

中西は大樹に背を凭せかけながら二人の会話を聞いていた。

こうしているのは、実は中西にとっては真紀を護衛しているつもりだった。

 

「そうなの、でもね、残念ながら私はもうすぐこの街から引っ越しちゃうから、

 もうなかなか食べに来る機会がなくなっちゃうんだー、今までありがとうね」

 

「えー、そうなんですかー、そんなの寂しいです。

 またいつでも食べに来てくださいね」

 

「うん、また児玉坂に来たら食べに行くね」

 

真紀が微笑みかけると、やっと未代奈もニコッとしてくれた。

少しとっつきにくいように見えても、本当は可愛らしい女の子なのだと真紀は思った。

 

中西は相変わらず未代奈のことを警戒していたようだが、

どんな相手でもガードを解かせてしまう真紀には自分にないものを感じ、

そういう人間的魅力に対しては尊敬の念を覚えずにはいられなかった。

 

真紀は自分の名前を未代奈に告げた。

「じゃあこれからは未代奈って呼ぶね」と告げると、

未代奈は照れくさそうに「じゃあそれでお願いします」と答えた。

 

そんな風にして、しばらくたわいもない話をして笑いあった後、

真紀は少し気になっていた方向へ話を向けることにした。

 

「ねー、そういえばさっきから向こうをずっと見てたけど・・・」

 

「あっ、見られてました、えー、恥ずかしいー」

 

未代奈は両手をほっぺたにあてて照れているようだった。

お店では時々塩対応な様子も見せる未代奈だったが、

話していくと普通の年頃の女の子なんだなと真紀は思った。

 

「あの子達ね、きな子ちゃんと舜奈ちゃんって言うんだけど、

 二人とも私の知り合いなの、未代奈ちゃんもあの二人のこと知ってるの?」

 

「・・・」

 

未代奈はその質問については突然にして沈黙を盾にしてしまった。

今まで盛り上がってきたムードが、一気に沈んでいくのが中西には見て取れた。

 

「あっ、ごめん、余計なこと聞いちゃった?」

 

「・・・いえ、私だけ一方的に知ってるっていうか・・・。

 たぶん向こうは私のことを知らないと思います」

 

未代奈は少し悲しそうな口調になってそう答えた。

事情はよくわからないが、気づいたら片思い、というものかもしれないと真紀は考えた。

きっと二人の輪に加わりたいけど、人見知りだからできないのかな。

 

「・・・じゃあ、話しかけちゃおうっか!?」

 

「・・・えっ!?」

 

真紀はそういうと突然、自分の右手で未代奈の手を取ると、

彼女を引っ張るようにしてきな子と舜奈がいる方向へと駆け出した。

中西はそれを見て、警戒を続けながら二人の後を追いかけて行った。

真紀は他人の心を汲み取ることができる才能に溢れており、

嫌味なく親切にしてあげることができる性格をしていることは承知していたが、

中西はこれ以上、彼女が未代奈に近づくことは危険だと考えていたのだ。

 

未代奈の手を引きながら、やがて二人はきな子と舜奈がいる場所へとたどり着いた。

きな子と舜奈も、遠くから二人がやってくるのが見えていたらしく、

特にきな子は「あー、お姉さんだー!」と笑いながら手をブンブンと振ってくれた。

 

「きな子ちゃん、また会っちゃったね。

 そっちの子は舜奈ちゃんだよね?」

 

「えっ、あっ、もしかして塚川さんですか!?」

 

驚いた顔で聞き返してきたのは舜奈だった。

過去に会った時に挨拶を交わした程度しか面識はなかったが、

仲間内でも優しくて評判の良い美人である真紀なので、

一度でも会えば忘れない印象があったのだろう。

 

「あっ、覚えててくれたんだ。

 そう、このあいだ真美に会ったよ。

 お店かなり繁盛してるみたいだね」

 

真美とはBar Kamakuraの店長、北条真美の事だ。

真紀はそれほどお酒を飲む性格ではないので、

一人でBarに行くような事はないのだが、

児玉團のメンバーで集まる時には大抵Bar Kamakuraを利用させてもらったりした。

 

「えー、お姉さん、舜奈と知り合いだったの!?」

 

「うん、児玉坂の街は広いようで狭いよね」

 

真紀達が話をしている間、未代奈は終始うつむいていた。

中西はそれを把握していたし、何か奇妙な行動はとらないかどうかを見張っていた。

 

「それでね、この子なんだけど・・・」

 

真紀は隣に立っている未代奈を二人に紹介しようとしていた。

人見知りみたいなので、多少は時間がかかるかもしれないが、

自分が間に立って仲を取り持てば、きっと仲良くなれると信じていた。

 

「あー、きな子この子知ってるよー!

 バレッタで働いてる女の子でしょ!?」

 

その声を聞いた未代奈が少し動揺した事が中西には見て取れた。

ほんの少しだけ、何かを隠していてそれを知られたくないような、

そういう人間の仕草が垣間見えたような気がしたのだ。

 

「そうなの!きなちゃん見た事あったんだ!?」

 

真紀は嬉しそうな声を上げた。

見た事があるなら紹介するのも容易いと思ったのだ。

 

「私もよくバレッタに食べに行くんだけどね。

 いっつもオーダー取りに来てくれる子なの。

 未代奈ちゃんって言うんだけどね」

 

真紀はそう言いながら両手で未代奈の肩を掴んだ。

少しだけ前に押し出すようにして、友達になれるように背中を押してあげようとしたのだ。

 

「えへへ、じゃあ未代奈も一緒に遊ぼうよー!」

 

きな子の方から進んで誘いをかけてくれた。

これで大丈夫だと思ったのだが・・・。

 

事態が動いたと思った中西は瞬時に木の陰から飛び出した。

だが、特に真紀達に危害が及ぶような事はなく、

ただ未代奈が突然、何も言わずに走って逃げ出してしまったのだった。

 

「・・・!?」

 

「未代奈ちゃん!?」

 

中西も真紀も、きな子も舜奈もそれを見てあっけにとられてしまった。

よほどの恥ずかしがり屋なのだろうか、あんな風に逃げ出さなくても良かったのに。

 

 

・・・

 

 

未代奈が走り去ってしまった後、みんな何が起きたのか理解できなかった。

中西は何も大事が起こらなかった事に安堵していたのだが、

きな子と舜奈もどうしたらよいかわからずに呆然としていたし、

真紀は自分が余計なおせっかいをしてしまったのかと多少落ち込んだ。

 

「ごめんね、ただ二人に彼女を紹介しようと思っただけだったんだけど・・・」と真紀は謝ったが、

別にきな子と舜奈も真紀を咎めるでもないし、誰にもそんな権利はなかった。

 

「・・・なんでだろう、舜、あの子の事知ってるような気がした」

 

舜奈は自分でもわからない不思議な感覚に陥りながらそう呟いた。

「あの子と会った事あるの?」ときな子が問いかけたが、

「いや、会った事はないけど・・・」と舜奈は答えた。

 

児玉坂の街はそんなに広くないので、ひょっとするとどこかですれ違ったのかもしれない。

誰もがそんな事を考えながら、走り去ってしまった未代奈の事は諦めるしかなかった。

 

「またどこかで会ったら仲良くしてあげてね」と真紀は二人に伝えてその場を後にした。

 

 

・・・

 

 

児玉坂公園から教会へ向かう道を歩きながら、

中西と真紀はまた何やら話を続けていた。

 

「あんたはお節介な人だな」

 

中西は先ほどの未代奈の事件を思い出しながらそう言った。

真紀はまだその件の事を心に引きずっているのであまり痛いところを蒸し返されたくなかったのだが。

 

「・・・いや、親切な行為だと思うぜ、俺にはできねぇからな」

 

中西も口が滑って余計な事を言ってしまったと思って柄にも無く訂正した。

だが、真紀はやはりまだショックから完全には立ち直れていなかった。

 

「ごめんなさい、あんな事になるなんて思わなかったから・・・」

 

「いや、俺に謝ることじゃねぇよ」

 

中西は背広の内ポケットから煙草を取り出してジッポで火をつけた。

吐き出す煙が真紀の方角へ流れないよう、風向きなどを計算して一応気を使っているらしかった。

 

「何かを残したかったんだろうな」

 

「・・・どういう意味ですか?」

 

「人は誰しも場所に対して強い思いを抱くものだ。

 例えば、キリスト教徒達は自分達の故郷を『シオン』と呼ぶ。

 これは彼らの聖地エルサレムの事を指しているんだが、

 自分達にとって大事な場所っていうものを人は持ちたがるんだ。

 だからその土地を巡って宗教戦争が起きたりするんだがな」

 

真紀はいつかそんな話を神父から聞いた事があったような気がした。

キリスト教とイスラム教は、彼らの聖地が同じ場所にあるため、

今でもその土地を巡っての宗教対立が続いている。

一つしかない場所を取り合うのだから、争いは終わる事無く永遠に続く・・・。

 

「郷土意識ってやつだな、そういうものは誰にでもあるもんだ。

 土地なんて地球上にこれほど余っているにもかかわらず、

 人は誰しも生まれた場所を故郷と名付けて大事にする。

 物質的に見ればどこでもかわりばえしない同じ土地なんだが、

 人は心があるばかりに、それを特別な認識で捉えてしまう」

 

そう言われれば確かに、人間は故郷を離れたってどこでも生きていけるけれど、

ただ生まれた土地を一生忘れる事はないし、長い事住んだ場所には愛着が湧いてくると真紀は思った。

 

「あんたは児玉坂に対して愛着が湧いてしまっているから、

 ここを去る前に何かを残していきたいと考えているんだろうよ。

 まったく、どこまで人がいいんだか」

 

加湿器だって持って行けばまだ使えるけれど、

未代奈だって離れてしまえばなかなか会う事もないのだけれど、

真紀は自分が去る前に残る者達に何かを残してあげたかったのだ。

それは愛着が湧いている場所、児玉坂に関する人達だから・・・。

 

「だからこそ余計に心配になるんだよ。

 あんたがいなくなった後、これほど大きな愛の柱がなくなって、

 この街が崩れてしまわないかって言う事がな」

 

中西は空に向かって煙草の煙をフーッと大きく吐き出した。

煙は空に立ち上って、すぐに形も無く消えてしまった。

 

「聖書に出てくる話で、ソドムとゴモラという街の話しがある。

 神の言い付けを忘れた人間達が自分達の好き勝手に暮らし始め、

 堕落した人々はやがて滅んでしまったという事だ。 

 人間は、ともすれば大事な事を簡単に忘れる生き物だというエピソードなのかもな」

 

中西と真紀はやがて教会の入り口へたどり着いた。

門をくぐって中に入ると、真紀はくるりと中西の方を振り向き、

しばらく沈黙した後、やがて祈りにも似た言葉を一人ささやいた。

 

「・・・あの子達ならきっと大丈夫」

 

 

 

・・・

 

中西が真紀と別れて帰った後、教会では真紀の送別会とも言えるパーティが開かれた。

神父さんを始め、仲の良かった信者の方々が真紀の事を思って開いてくれたのだ。

もちろん、真紀は自分でも料理の腕をふるってその方々にお礼をした。

そんな風にして、真紀が児玉坂を去る日は刻一刻と近づいてきていたのだった。

 

だが、もう一つ教会で残されたイベントがあった。

真紀が児玉坂を去る当日の午前中、礼拝を兼ねてたくさんの人が教会に集まる日がある。

そこで真紀はきちんと最後の挨拶をしようと思っていたし、

それには仲の良い友人達も招待していたし、中西にも同じように声をかけた。

 

「また何かあったら困るしな」と言いながら中西は出席する事を了承した。

中西にとって、彼女が児玉坂にいる以上、彼女を守る事は当然の責務だと考えていた。

トカゲのような冷たい目を持つ男だが、一度信用した相手には義理堅い一面もあった。

 

 

夜になってアパートへ帰宅した真紀は、自分がいる間にしなければならない仕事を考えていた。

真紀がこの街を出て行った後、ここには入れ替わりで新しい管理人がくる事になっていた。

とはいえ、責任感の強い真紀なので、いい加減な形で引き継ぎをする事は微塵も考えつかなかったに違いない。

全てをきっちりと終わらせてから後任者に引き継ぎたいと思っていた。

 

真紀が住んでいる管理人室の片付けはもうすでに終わっていた。

この街を出て行く事は、実は彼女にとってはずっと以前から考えていた事だったのだ。

だが、特に親しい友人以外には管理人を辞めて街を出る事は伝えておらず、

今後の予定が詳細に決まるまでは、街を出る事は公には語ってこなかった。

 

特に、アパートの住人にはギリギリまで話をしないつもりでいた。

後任者が決まるまでは、不安にさせてもいけないので話はできなかったし、

伝える頃には引き継ぎをうまく終わらせるくらいの流れで進めたかった。

 

しかし、真紀には不安に思っている事があった。

それはアパートの住人である魅菜にこの事を伝えていなかった事だった。

魅菜は真紀と個人的にも仲良くしていた間柄だったが、

先述した通りアパートの住人にはギリギリまで公にはできなかった。

魅菜もアパートの住人の範疇に入れられるので、例外扱いはできなかったのだ。

それが真紀にとって一抹の不安となっていた。

仲が良かっただけに、秘密にしていたみたいに誤解されたくはなかった。

 

自分が管理人をしているうちにやらなければならない仕事をリストアップし、

それを一つ一つ終わらせていこうと考えて真紀は着手し始めた。

以前は住人の部屋の椅子が壊れていたため、それを手作りしてあげた事もあったし、

真紀は自らの手で工夫を凝らして何かを作るのが好きだったようだ。

 

真紀が廊下の電灯を交換していると、アパートの玄関が開く音が聞こえた。

階段を上がってくる足音から推測するに、これは魅菜だと思った。

真紀のように管理人を長く務めていると、人は足音からでもそれが誰かを判断できるようになる。

そう考えると、人間は熟練すれば世の中にある様々な、

滴り落ちる水滴のようなわずかな情報であっても、何かしら鋭敏な感性によってかぎ分けるならば、

生きていく上で有利になるような選択ができるようになるのではないだろうか。

 

案の定、階段から登ってきたのは魅菜だった。

 

「あっ、電灯替えてくれてるのめちゃ助かるー。

 昨日の夜とか廊下暗くて転びそうになっちゃってたしー」

 

魅菜の明るい声を聞いて、真紀は自分のやってる事が誰かの役に立ってるとわかって嬉しくなった。

まだお昼の事件を少し気にかけてしまっていて、いろんな事がお節介ではないかとどこかで心配していたのだ。

 

「うん、やっぱ建物の中は明るい方がいいよね」

 

椅子を台座代わりにしながら電灯を交換し終えた真紀は、

「よいしょ」と言いながら椅子から降りた。

 

「魅菜ちゃん、あと何かしてほしい事とかない?」

 

「えー、別に今んとこ特にないよー。

 またあったらいつでも真紀に言うからその時にお願いするねー」

 

そう言って携帯をいじりながら部屋に入ろうとする魅菜。

真紀はこのタイミングで伝えなきゃいけないと考えていた。

 

「・・・魅菜ちゃん、ちょっと大事なお話があるんだけど」

 

「ん?どしたの?」

 

部屋のドアノブに手をかけて半分まで開けてから止まって魅菜が言った。

 

「・・・実はね、今月いっぱいで私、ここの管理人を卒業する事になったの。

 でも、大丈夫だよ、私がいなくなってもまた新しい管理人さんがくる事はもう決まってるし、

 引っ越ししたら児玉坂の街を離れる事にはなるけど、別に一生会えないってわけじゃないし」

 

真紀が色々と話している時、魅菜は相槌も打たずにただ耳に音を入れているようだった。

 

「だけど、ここにいられる間にやれることはやってあげたいなって思ってるんだ。

 だから、もし何か私にできることがあったらなんでも言ってね」

 

真紀は言おうと思っていたセリフをきちんと告げることができた。

魅菜の反応がまだ来ない間、不安が彼女の胸をざわざわと駆け抜ける。

 

「・・・あっ、そうなんだー、おめでとう」

 

少しだけ驚いたのか、魅菜の返事にはワンテンポのずれがあった。

だが、声質は特にそんな様子もなく、冷静でいつも通りの魅菜だった。

 

「そうだよね、真紀にはこんな仕事よりもっといい仕事があるって、

 あたし前からずっと思ってたんだ、よかったね、これでもう電灯とか替えなくても済むし」

 

魅菜は携帯で誰かにラインのメッセージを器用に作りながら話を続けた。

画面に視線を落としたまま、二つの動作を同時に処理しているようだった。

 

「やってほしい事かー、なんだろうなー、今んとこ何も思い浮かばないから、

 またちょっとあとで考えとくね、でも別に無理しなくてもいいよー。

 新しい管理人さんが来たらその人にやってもらえば真紀の手を煩わせることもないし」

 

やってほしい事を考える仕草を見せながらも、

真紀を気遣ってそんな風に言った魅菜はそのまま部屋に入ってしまった。

 

真紀の脳裏を色々な思いがかすめた。

思ったよりもあっさりとした彼女の対応に肩透かしを食らったのは間違いなかった。

もうちょっとショックを受けるんじゃないかと思っていた部分もあり、

それは自意識過剰だったのかと恥ずかしくなったのもある。

手を煩わせないようにと考えてくれたのは魅菜の配慮かもしれなかったけれど、

自分を頼りにしてくれなかった事への寂しさみたいなものもあった。

真紀にとって告げるのをためらっていた重要な出来事が、

終わってみるとそんなに考えすぎる事もなかったのかという、

ひとりよがりな杞憂だったのかという想いの落差もあった。

 

(・・・そうよね、ちょっと自意識過剰だったかな・・・)

 

真紀は「はぁ」とため息をついて管理人室へ帰って行った。

 

 

 

・・・

 

「おつぽ~」

 

控え室へ戻ってきた魅菜はいつも通りノギニャンの着ぐるみを被っていた。

夏になるとさすがに暑いのですぐにでも脱ぎたくなるのだが、

冬から春くらいにかけては、別にあまり気にならないので、

魅菜は控え室へ向かう時も特に着ぐるみを脱ぐ事はない。

 

「おつかれ~、って魅菜だよな?」

 

「聞かなくてもわかるでしょ」

 

山根にはいつも冷たくあしらう魅菜がいる。

魅菜はアメとムチを使い分ける事はなく、基本的にムチだけである。

アメを欲するならば別の子とコンビでも組むしかなかった。

 

「いや、ノギニャン入ってると顔見えねぇから誰だかわかんねえだろ?

 もし別の人が入ってて勘違いして気まずくなったらいやじゃん?」

 

「はぁ、心配しすぎでしょ、だってノギニャンやってるのあたししかいないし」

 

この児玉坂ランドでは多数のアルバイトが働いているのだが、

パフォーマーに属する人々はそれほど数は多くない。

モデルのオーディションなども受けながらバイトをしている魅菜は、

毎日決まったプログラムに出演する事は難しいのだが、

幸いな事にノギニャンのダンスパフォーマンスは隔日の演出だった。

山根はと言えば、これはもう毎日のようにパフォーマンスに出ていた。

そうであるがゆえに時間の縛りはあまりなく、好きな時に何回かパフォーマンスをする、

という決まりを守るのであれば、ある程度時間の都合は好きにできたのだ。

とにかく、魅菜はノギニャンを任されていたし、誰か他の人に代わってもらった事もない。

 

自分のロッカーの暗証番号で鍵を開けると、魅菜はロッカーの中から財布を取り出した。

ノギニャンの格好のまま、魅菜はいつも通り自販機の前へ向かう。

 

「あー、ちょっとまった!」

 

山根がノギニャンの前に立って行方を阻んだ。

 

「あんた何なの、あたしの至福の時間を邪魔する気!?」

 

パフォーマンスの後はたくさん汗をかくため、

魅菜は自販機を「オアシス」と呼んでいたし、

これを邪魔するものは例え友人でも容赦はしなかったし、

ましてや山根など、チョップでも浴びせてしまっても構わないと思っていた。

あまり知られていないかもしれないが、魅菜は空手の黒帯を持っている有段者だ。

 

「ハットの中には何もありませんね~」

 

山根は被っていたハットの中身を見えるように魅菜に向けた。

中には確かに何も入ってはいなかった。

 

「ハットから鳩出すの、くだらないからもうやめたら?

 親父ギャグすぎて誰もわらえないんだけど」

 

そんな風にして魅菜がまず言葉で「どけよ」という意思を示す。

だが、山根はもう彼女のムチに慣れているのでこれくらいでは動じない。

 

「くるりんぱ!」

 

山根がハットをくるっと回すと、中に手を突っ込んだ。

そうして、何もなかったはずのハットの中から缶ジュースを取り出した。

 

「・・・鳩男爵もなかなかやるじゃん」

 

「おい、缶ジュースだしたらその名前で呼ばないって言ったじゃんよ」

 

「じゃあ缶ジュース男爵くらいに昇格してあげよっか?」

 

山根が持っていたジュースを取ると、魅菜はソファーに座って猫の被り物を脱いだ。

今日はとりあえず自分でプルを引いて缶ジュースを開けて飲んだ。

 

「まあでも、言われたことをそのままやるってつまらなくない?

 なんかオリジナルのアイデアとかなかったの?」

 

「そんなもんがあったら、俺はとっくにTVに出てスターになってるよ」

 

山根の自虐的な言い方に、魅菜は初めて「ははっ!」と笑った。

 

「山根もたまには面白いこと言うじゃん」

 

「面白いのはお前だけな」

 

そんな風にして休憩時間は過ぎて行ったのだが、

魅菜が携帯を触りながら友人に写メを送ろうとしていると、

過去に撮った真紀の写真が目に留まった。

そこには真紀がシスターのコスプレをして恥ずかしそうに写っていた。

 

「・・・ねえ、山根ってさー、ダンスとか踊れたりするっけ?」

 

「ああっ、ダンス?

 一応これでもパフォーマーとして5年はやってっからね。

 一通りの事はできるつもりではいるけどな」

 

山根は人差し指で鼻下をこすりながら自慢げにそう言った。

マジックだけでなく、山根はダンスや小話など、

観客を楽しませる術はわりと多彩に身につけていた。

 

「この日ってさ、山根は暇してる?」

 

魅菜は携帯のカレンダーを山根に見せながらそう尋ねる。

 

「えっ、何のお誘いだよ、あーこの日は無理だわ。

 て言うか魅菜だって無理っしょ?

 この日はお互いにここでバイトの日じゃんか」

 

「だから聞いてんだよ、バイト代わってくれって言ってんの」

 

山根はどうもピンと来ない様子で眉を潜めている。

これだからあんたは売れないんだよと魅菜はちょっとイライラしていた。

 

「あんたの休憩時間にさ、ノギニャンの役、代わってくんない?

 終わってからマジックに戻ったって別にバレないじゃん?」

 

「珍しい事言うもんだな、お前今まで休んだ事ねぇじゃんよ」

 

雨が降るんじゃねーの、というジェスチャーをしてみせた山根。

その仕草が癪にさわったので、魅菜は黙って山根の足を踏みつけた。

 

「イテテ、ちょ、お前何すんだよ!?」

 

「代わってくれるか代わってくれないかだけ答えればいいから。

 ノギニャンの方が鳩出してるよりよっぽど楽しいと思うけどね」

 

山根は顎に手を置いて少し考えたふりをしながら、

 

「別に代わってやってもいいけどよー、

 それほど大事な用事があるってことか?

 一体何があるんだよ、それを教えてくれたら代わってもいいぜ」

 

山根が疑り深そうな表情で魅菜の顔をジロジロと見ている。

そのうち、右手をグーにして左手の手のひらをポンと打った。

とても古典的な動きをする山根は、さすが5年もバカみたいに鳩を出し続けるだけあると魅菜は思う。

 

「あーわかった、あれだろ、男とデートだろ?」

 

「はー?そんなんじゃないって」

 

「じゃあ言えないような用事ってなんだよ、

 他に何があるって言うんだよ?」

 

山根はイジワルそうな顔をして魅菜を問い詰めた。

普段やられている分の仕返しをしたかったのかもしれないが、

魅菜からすると面倒くさい質問である事この上なかった。

 

「もういいよ、あんたそんなんだからモテないんだよ。

 今の話はなかった事にして、もう山根には頼まないから」

 

そう言うと、魅菜はノギニャンの頭を持って控え室を出て行ってしまった。

山根が「図星なんだろー」と言いながら茶化す声が外までかすかに聞こえてきた。

 

 

 

・・・

 

「一番後ろいってみよう」

 

真紀は教会の信者たちが座る長椅子の一番後ろに座ってみた。

そこからはいつも神父さんが話をする場所がよく見える。

真紀はその隣に自分がいつも立ってお手伝いをしている姿をイメージしてみた。

思っていたよりもよく見えているんだなぁと思ったのだった。

 

どうして真紀がこんな事をしているのかと言うと、

自分があの位置で話をする姿がどう見えるのかを知りたかったからだ。

真紀がこの街を去る最終日の礼拝の際、最後にみんなの前で話をするようにと、

神父から告げられていたのだった。

 

もし時間があれば来てくれると嬉しい、という控えめな彼女らしさで、

仲の良かった友人たちを誘ってみたりもした。

ズキュンヌで会った真冬や眞木、親友だった樫本奈良未や瀬藤りさにも声をかけていた。

忙しければ大丈夫だよ、と遠慮がちに声をかけたのだったが、

真紀がこの街を去るとなると、さすがにみんな出席を快諾した。

 

その中にはもちろん魅菜も含まれていた。

魅菜は以前、教会のイースター祭を手伝った事もあったし、

神父さんも信者の人達にも顔を覚えられていた。

彼女が来てくれるなら久しぶりに会う信者さん達も喜ぶだろうと思ったし、

礼拝は午前中だけなので、魅菜も出席してくれることになった。

 

ただ、真紀は魅菜には別のお願いもしていたのだった。

児玉坂を去る前に、最後の日に袴を着てみんなと写真を撮りたいと思った。

写真と言えば、魅菜は真紀の写真を撮るのが好きだったので、

これは喜んで引き受けてくれるだろうと思ったのだ。

だが、残念ながら魅菜は午後からアルバイトがあるらしく、

礼拝には出席できるが、真紀の要望には答えられなかったのだった。

真紀も無理強いをする性格ではないので、それ以上は何も言わなかった。

 

とにかくも、こうして真紀が児玉坂を去る日は近づいてきていた。

最後の日の予定も埋まっていき、礼拝を終えると信者の皆さんと食事会、

その後は袴に着替えてみんなと撮影会、そのままレンタル業者へ寄って袴を返却し、

その足でそのまま電車に乗ってこの街を離れるという事になっていた。

 

 

 

・・・

 

「どうも初めまして、よろしくお願い致します」

 

老人は帽子を取って深々とお辞儀をした。

真紀もそのお辞儀の深さに負けないように頭を下げた。

 

あと1週間で真紀がアパートを出て行く事になっており、

新しく管理人となる後任者が挨拶に来ると聞かされていたのだ。

そこでやって来たのが挨拶をした老人だった。

 

その後、住人達に挨拶をして回ったのだが、

住人達の誰もが驚いていたようだった。

だが、そもそも真紀がアパートの管理人の仕事をするのが珍しい方であり、

後任者としてやってきたこの老人が特別に年配なのではなかった。

しかし、誰もが若い真紀とこの老人を比較せざるを得なかったのだ。

今後、何かあった時にはこの老人を頼らなければならないと考えると、

真紀がいるうちに頼んでおけることは頼んでおきたいと誰もが思ったのだった。

 

そして住人達は真紀に仕事をお願いし始めた。

部屋の中で古くなった箇所があればなんとかできないかと相談を持ちかけたり、

備え付けの家具などで傷んでいるところがあれば、修理をお願いしたりもした。

 

そして今日は魅菜のお願いを聞く順番だった。

老人を見た魅菜は、やはり他の住人達と同じように、

真紀がいるうちに頼めることは頼んでおきたいと思ったのだ。

そこで魅菜が依頼したのはベッドの修理だった。

 

真紀は新しいベッドを手作りで作ることもできると提案したのだが、

使う材料の見積もりを取って魅菜に見せたところ、

申し訳ないけどそんなにお金に余裕はない、という返事だった。

そこで悩んだ結果、真紀は牛乳パックでも作れなくはないよ、と提案したのだが、

さすがにそれでは背中が痛くて眠れなくなると思った魅菜は、

現在あるベッドを修理する方法が一番良いと判断して真紀にそれを頼んだ。

 

「お待たせ~!」と張り切ってやってきた真紀はチノパンに地味なシャツを着ていた。

赤い帽子とメガネは必要がなかったと思われたが、彼女的にはこれも必要だということらしかった。

 

魅菜も助手として手伝うことになった。

もともと、自分のベッドだし、真紀一人に作業をさせるわけにもいかなかったからだ。

また、魅菜の胸中は定かでないが、この街を去ってしまう真紀との思い出作りとしても、

最後に一緒に作業ができることを望んだのかもしれなかった。

 

作業を始めた当初「今日は鎖骨が見えないね」と魅菜は言った。

真紀がシャツのボタンを一番上までしっかりと留めているからだった。

魅菜は部屋に隠し撮りをした真紀の写真を加工したポスターを貼っており、

そこには「鎖骨まで可愛い」という文字を書き加えるほど真紀のことが好きだった。

 

だが、この日はとにかく鎖骨などを気にしている場合ではなかった。

ベッドの修理を行うために、一度ベッドをバラバラに分解してしまったのだ。

そして傷んでいる部分だけ材料を交換して補強しようとしたのだったが、

真紀があまりに真剣に取り組もうと考えたあまりにかなり時間がかかってしまった。

 

このまま行くとベッドが完成しなくてまずいと思った二人は、

とにかく大急ぎでベッドの修理と再構築を進めた。

最後の方はかなり雑になってしまったのだが、

そうしてなんとかベッドは再度組み立てられたのだった。

 

「できた~!」

 

なんとか夜までに完成した真紀は上機嫌にそう叫んだ。

急ぎすぎて結構雑になってしまったことを魅菜は多少心配していたけれど、

とにかく完成したことだし、一度ベッドに寝転がってみて完成度を確かめようとした。

 

「じゃあ、いっせーのーせ!」

 

二人は仲良く完成したばかりのベッドに寝転がってみたけれど、

ベッドは無残にも足が外れて崩れ落ちてしまった。

真紀と魅菜はもつれたような状態で崩れてしまったベッドの上にいた。

 

こんな状態になりながらも真紀はベッドがすごいフィットしているといって憚らなかったが、

魅菜は魅菜でこの二人の予想外の密着状態を喜びながら起き上がらずにいつまでも真紀にくっついていた。

 

この時、表情にも出していないし、言葉も口にしてはいなかったけれど、

魅菜は密かに思ってしまったのだった。

 

(・・・このまま、ずっと離れたくない・・・)

 

 

 

・・・

 

「寒くない?大丈夫?」

 

瞼の裏側にわずかな光を感じながら真紀はそう尋ねた。

隣にはもう一つ布団が敷いてあり、そこには魅菜が身体を横たえていた。

 

「うん、寒くないよ、大丈夫」

 

魅菜は目を瞑りながらそう答えた。

真紀も同じようにして目を瞑っている。

二人して上を向いて天井に顔を向けながら、

布団の中に入ってもうすぐ眠ろうとしていた。

 

結局、二人はベッドを壊してしまったという事実を受け止め、

魅菜が今夜眠る場所を失ってしまったことを認識した。

そこで、責任を感じた真紀が魅菜を管理人室に誘ったのだ。

真紀はお客さん用の布団を引っ張り出して魅菜のために床に敷いた。

 

「ふかふかだね」

 

魅菜はそういった。

布団の感触に対して言ったのか、別のことを指していたのかは定かではない。

 

「そうだね」

 

真紀はごろりと身体を動かして魅菜の方に身体を向けながらそういった。

 

「楽しかったね」

 

真紀は続けてそう言った。

照れくさいからか、魅菜はそれには答えなかった。

ちなみに、管理人室には手作りの椅子が置いてあったが、

魅菜はそれには座らなかったという。

 

「一個、聞いてもいい?」

 

魅菜は目を閉じたまま真紀に尋ねた。

 

「何?」

 

「これからさぁ、真紀はどうするの?」

 

魅菜が発した声は沈黙の部屋の隅っこへ吸い込まれて行った気がした。

真紀がしばらく何も答えなかったからだ。

この部屋の物はもうほとんど先に新しい家に送ってしまっていた。

残っているのは小さなボストンバッグくらいのもので、

生活感がなくなっている余計な空間が二人を包み込むようにして存在している。

そのせいか、不都合な事を全て吸い込んでくれるブラックホールみたいな暗闇が、

この問いかけをなかった事して吸い込んでしまったみたいに魅菜には思えた。

 

「・・・」

 

「ごめんね、嫌なら答えなくていいよ」

 

「ううん、嫌じゃないよ」

 

静寂の部屋はもう午前零時を回ってしまっただろうか。

二人は適度に疲れてもいるはずなのに眠れなかった。

お互いにこれが一緒に居られる最後の夜になるような気もしていたからだろう。

世界に自分たちの声だけしかないような、ひっそりと続けられる会話に、

人はこういう瞬間を永遠に保存しておきたくなるのだと感じていた。

昼間の喧騒もなく、まるで同じ時間を生きているとは思えないほど夜は別の顔をみせる。

それは人間もまた同じで、暗闇は人の心を不安にもセンチメンタルにもさせるし、

どういうわけか言葉には本音がちらちらと顔をのぞかせたりもする。

夜は人間にとって敵か味方か、議論の余地は多い事だと思う。

 

「言えない事が半分と、怖いのが半分って感じかな・・・」

 

「・・・」

 

魅菜は真紀の心の扉から内側を覗いたような気がして、

やっぱりもうそれ以上は踏み込まないようにしようと思った。

この扉を開けて踏み込むと、何か嫌な事があるという感覚があったからだ。

 

魅菜は適度な距離感を保つことが大事だと考えていた。

大事なものにはそっと手を触れずに眺めているのが丁度良い、

繊細なガラス細工を触れたいからといって壊してしまわないように、

綺麗に見える状態で保管しておくようなやり方を好んだ。

 

そもそも、魅菜は遠慮がちな女の子だった。

大胆な性格をしていながらも、自分を卑下して考えてしまうことが多い。

自分を押さえつけようとするものに対しては負けじと反抗するのだが、

自分にとって素晴らしいものに対してはそれを憧れとして理想化していき、

その輝かしさを損なわないように丁寧に愛でるような性格をしていた。

自分がそこに触れることは決してなく、触れることはタブーだと思っていた。

 

自分と理想には距離がある。

その距離はあって当然であり、埋めるなんておこがましい。

そもそも、理想なんてのは手が届かないから理想なのであって、

それを現実にすること自体が理想を壊してしまう第一歩なのだ。

だから人は理想を掲げて邁進し、辿り着いた途端に幻滅し、

また別の理想を見つけてはまた猪突猛進に進んで行く。

この虚無の連続こそが人生であり、そうであれば適切な距離をとることは、

この無限ループから逃れる唯一の良案であったかも知れなかった。

 

しかし、人間とは矛盾する生き物だ。

むしろ矛盾しているから人間なのだ。

頭で決めたルールを徹頭徹尾ロボットのように守れるならば、

愚かしい罪を犯すこともないし、だが幸福な過ちを得ることもできないだろう。

 

理想を幻滅に変えてしまうことは甘美である。

刹那の甘美と永遠の喪失が同時にやってくるのである。

何かを得ることは何かを失う恐怖を同時に抱くことになる。

また何かを失うことは何か新しい物を得る機会を同時に得ることにもなる。

 

そこには繰り返す生と死がある。

どちらかだけに留まる事が人間には可能なのだろうか?

 

管理人室には壁に古い時計がかかっていて、その振り子が右に左にと揺れていた。

静かな部屋に刻まれる時間は、眠れないこんな夜には何倍も長く感じる。

 

「なんだか眠れないね」

 

そう言って真紀は布団から起き上がった。

 

「あたしも」

 

魅菜も同じように言って目だけを開けた。

顔を横に向けて真紀と目があった。

真紀はこんな状況でも優しく微笑んでくれた。

 

真紀は立ち上がってカーテンを引いてみた。

月光が窓から差し込んで部屋が瞬時に明るくなった。

 

真紀はなんとなく李白の漢詩「静夜思」を思い出した。

李白についてはそんなに詳しく知らないけれど、

昔読んだ小説に「李白さん」って登場人物が出てきたとき、

気になって少し調べた事があったのだ。

 

 

 床前看月光 床前(しょうぜん)月光を看(み)る

 疑是地上霜 疑うらくは是(こ)れ地上の霜かと

 挙頭望明月 頭(こうべ)を挙げては山月(さんげつ)を望み

 低頭思故郷 頭を低(た)れては故郷を思う

 

 

旅先の宿、眠れない夜に月を見て、李白はこの詩を詠んだのだろう。

もしかすると今日みたいな夜だったのかなと真紀は思った。

月明かりが地上の霜かと思えるくらいに美しくて、

顔を挙げてその月を見ては、また下を向いて故郷が恋しくなったのかもしれない。

 

人は長く住んだ場所を離れるだけで、どうしてこんなに寂しくなるのだろうと真紀は思った。

別の場所でまた今夜みたいに月を見たとき、児玉坂の街を恋しくなる自分もいるのかもしれない。

 

その時、真紀は庭先に何かを見つけた。

まるで地上の霜みたいに照らされているいつも見慣れた庭に、

いままで気づかなかった物を見つけたのだ。

 

「ねえ、ちょっと外に出てみない?」

 

真紀は魅菜を誘って外に出てみることにした。

 

 

 

・・・

 

(※もし嫌じゃなければ、ここからは「強がる蕾」を聴きながら読んでね by魅菜)

 

 

春の夜には心地良い風が吹いていた。

パジャマ姿のままで庭先に出た二人は、

両手を上に挙げて伸びをしてみた。

「まだ朝でもないのにね」と真紀が言って二人は見合わせて笑う。

 

「なんか、静かだね」

 

魅菜がポツリとつぶやいた。

これから真紀がいなくなってしまう事なんて全部嘘なんじゃないかと思えるくらい、

辺りは静かで全てが止まっているように感じた。

でも、これが嵐の前の静けさってやつなのかとも思った。

なんだか人生って意地悪だなと感じなくもなかった。

 

サンダルの音を立てながら小走りに真紀が隅っこへ向かう。

パジャマの裾を手で引っ張って、なんだか子供みたいだ。

この人の内面は大人っぽさと子供っぽさが同居していて、

時によって違う顔をみせるのだからそれはそれは魅力的だ。

 

そのまま隅っこにしゃがみ込んで、両手で自分の体を抱きしめるようなポーズをして小さくなった。

そして何も言わずにその隅っこにある何かをじっと見ているようだった。

 

そのうち、くるっと顔だけを魅菜の方へ向けて手招きするように魅菜を呼んだ。

呼ばれた魅菜は訝しげに呼ばれるほうへと向かう。

そこで真紀が見つめていた物は、まだ咲いていない小さな花の蕾だった。

 

「毎日ずっと通り過ぎてたのに気づかなかったね」

 

真紀は花の蕾を見つめながら笑顔でそう言った。

何の花だろうと思いながら魅菜も同じように真紀の隣にしゃがみ込んだ。

 

「気づかなくてごめんね」

 

そう言いながら真紀はその花の蕾を撫でた。

そんな風に優しい瞳で見つめる真紀を見て、

どうしてそんなにいつでも清々しい表情でいられるのかと魅菜は思った。

この人にだって悲しいことや憂鬱なことだってあるだろうに。

 

きっと強い人なんだな、と改めて思った。

もちろん、いままでだって誰より近くで彼女を見てきたし、

誰よりも真紀の事を想ってきた自負はある。

先ほど部屋の中で少しだけ垣間見たように、

彼女にだって不安はあるのだ。

それもちゃんとわかっている。

新しい出発に向かって、強がっている部分もあるけれど、

それでも、この花みたいに地に張った根は強いのだと魅菜は思った。

 

「お水、あげよっか」

 

真紀は立ち上がると小走りにまた部屋の中に戻っていった。

こんな庭の片隅で勝手に蕾をつける花なのだから、

きっと生命力は強いだろうと魅菜は推測していたし、

雨でも降れば勝手に花をつけるのだろうと思った。

それでも水がなければ植物は生きていけないものだし、

それをあげたいと思う真紀はきっと優しい人なのだろう。

 

にこにこ微笑みながらジョウロに水を入れて戻って来た真紀は、

また同じように座り込んで話しかけるように花に水をやった。

 

「早く大きくなーれ」

 

月光が真紀の横顔と花の蕾を照らす。

魅菜はカメラで写真を撮るのが好きだったけれど、

こんな場面はどう頑張ってもカメラに収める事は出来ないと思った。

こういう景色は頑張って目に焼き付けるしかないのだ。

まだ人類の科学では捉える事のできない、

心が作用する事で生み出される美しさだった。

 

(・・・この子が咲く頃には、私はもう・・・)

 

真紀は水をやりながらそんな事が頭をよぎった。

この花が咲く姿は見えないけれど、きっと立派な花になる事は間違いないと思った。

 

「ねえ魅菜ちゃん」

 

「何?」

 

「この子の事、見てあげてね」

 

水をやり終わった後、真紀はまた花の蕾を優しく撫でた。

世の中には追い詰められた極貧のせいで水を盗む人もいるというのに、

こんな風に癒しの力として水を与える人もいるのだ。

魅菜はその姿を見ながら、きっと愛は与える物なのだと思った・・・。

 

 

(※強がる蕾、ここまでだよー by魅菜)

 

 

 

・・・

 

「はっくしょん!!」

 

隣でくしゃみをするのを見ていたりさがカバンからティッシュを差し出した。

それを受け取った眞木は「すいません」と先輩に気を使う口調でそれを受け取った。

 

「大丈夫?風邪でもひいた?」

 

「・・・あー、なんだろ、誰か私の事噂してんですかね?」

 

りさの気遣いに、眞木はそんな風に答えた。

その推測は正しかったのだけれども。

 

 

真紀と魅菜が共に過ごした夜は明けていき、

あっという間に真紀が児玉坂を離れるお別れの日がやってきた。

 

午前中から始まる礼拝に参加するべく、友人である瀬藤りさと新渕眞木がやってきたのだった。

この二人だけでなく、真紀の親友である樫本奈良未は誰よりも早くやってきていたし、

パティスリー・ズキュンヌの春元真冬も初めて礼拝にやってきたようだった。

その他にもたくさんの信者達がやってきていたし、もちろん川戸魅菜も参加していた。

 

礼拝堂はいつもよりもたくさんの人々で賑わっていたが、

早めに来た奈良未はかなり前の方の席に座っていたようだし、

りさや眞木、真冬などもできるだけ前の方の席を狙っていたようだ。

そんな中、魅菜は一番後ろの席でひっそりと始まるのを待っていた。

 

いつも通り神父が演台に上がって礼拝は始まった。

初めて来た奈良未や真冬、滅多にこないりさや眞木などは、

この礼拝の方法をどうすれば良いのかわからず、

ただ儀式的な事が終わるのを見学して待っていた。

失礼な話で申し訳ないけれど、彼女達が見に来たのは真紀だったからだ。

 

やがて神父の話が終わり、礼拝も終わりに近づいてきた頃、

神父から眞木がこの街を離れてしまうという事が告げられ、

最後にここで挨拶をしてもらいますと紹介された。

 

真紀が演台に登場すると、礼拝堂の中から「アモーレ!」という声が響いた。

 

「誰アモーレって言ったの?」

 

真紀は笑顔になりながら信者の皆さんに語りかけた。

 

「私は皆さんの事アモーレですよ」

 

礼拝堂の信者達が楽しそうに笑った。

厳かな場所である礼拝堂だが、この教会にやってくる信者達は、

ただキリストの救いを求めているだけではなかった。

礼拝が終わった後に神父や真紀と過ごす時間や、

悩みを打ち明けるために告解部屋に入る時など、

まさしく真紀の愛を求めて集まってきていたのである。

 

「皆さんも明日お仕事の方とか学校の方もいらっしゃると思うんですけども」

 

真紀はそんな皆さんにとって身近な話題から語りかけた。

自分ではなく、常に相手の立場で相手を想う彼女らしいやり方だった。

 

「お忙しい中来ていただいてありがとうございます」

 

真紀は来てくれた皆さんに向かって深々と頭を下げた。

 

「児玉坂の街に来て、偶然にもここでボランティアのお仕事をさせてもらって、

 大変な事もありましたけど、それ以上にとても楽しい事がありすぎて、

 辛い事もふっとんじゃうくらい、毎日がすごく楽しかったです」

 

信者達はみな次々と拍手をした。

その姿を見ていた奈良未はもう既に涙で頬を濡らしていたし、

一番遠い席の魅菜も遠くから写真撮影をしながら応援していた。

実は裏口では中西が扉にもたれかかりながらスピーチを聞いていたし、

誰もが彼女の言葉に必死に耳を傾けていたのだった。

 

「児玉坂の街を離れてしまうと、もう皆さんと定期的にお会いする機会はなくなっちゃうんですけど、

 綺麗事とかじゃなくて本当に皆さんの事を応援していますし、その・・・皆さんにも夢があると思うんですよ・・・」

 

夢、という言葉を口にしたのは、きっと誰よりも叶えたい夢が真紀にあったからではないだろうか。

そしてこれだけ愛した児玉坂の街を去る決心をしたのも、その新たな夢を叶えるための一歩だからなのだろう。

 

「ひとつでも多くみんなの夢が叶うといいなと思っています・・・」

 

中西は裏で聞きながら素晴らしいスピーチだと思っていた。

心から本音で話していて、何一つ嘘はなく、信じられる。

これだけ嘘にまみれた世界で児玉坂の街が支持される理由は、

間違いなくこういうところにあるのだと中西は考えていた。

それが彼女をもってして「愛の柱」と彼が呼んだ理由であったし、

この嘘と欺瞞で溢れた世界に、唯一信じられる光として輝いているのだと思っていた。

 

ありきたりな言葉であり、使い古された何の変哲もないフレーズだけれど、

児玉坂の街には「愛」があった、それがここにいるみんなの総意だったと中西は思っていた。

どんな魅力的な人達がいても、それが上辺だけであれば誰も感動はしない。

心に響く何かを届けられるのは真紀の持つような一生懸命な「愛」であったし、

その「愛」を生み出すための「努力」「感謝」「笑顔」であったのだ。

それが得られない限り、技術論や小手先だけの工夫など何の意味も持たないだろう。

何をするにも、心から溢れ出る強い想いに勝るものはないのだ。

それが純粋であればあるほど、きちんと相手の心に訴えかけるのだから。

 

 

こうして真紀の最後の挨拶は終わったのだった。

 

 

 

・・・

 

礼拝堂での挨拶が終わり、真紀がみんなに囲まれていた頃のことである。

児玉坂の街のとあるお店では大変な事が起こっていた。

 

「・・・はい、もしもしこちらノギハット児玉坂店です」

 

電話を取ったアルバイトの女の子を見ていたのは蘭々だった。

先ほど配達から帰ってきたばかりだが、その電話はまた新しい注文である事は明らかだった。

 

「はい、承知いたしました、はい、ありがとうございます、失礼します」

 

そう言ってアルバイトの女の子は電話を切って何やらメモを回した。

オーダーを通してピザを焼いてもらうためだった。

 

「まったく、店長がいない日にこんなに忙しくなるなんてねー」

 

先ほど電話を取ったアルバイトの女の子は蘭々にそう告げた。

先日、休みがなく働いてばかりの店長が、

「もはや楽しみは食しかない」というような事を言っていたので、

これは休ませてあげたほうがいいと思った蘭々はこう言ったのだった。

 

「あの・・・明日は私達だけで頑張りますから、店長は休んでいただいて大丈夫です」

 

その言葉を受けて、店長は有給休暇を申請したのだった。

蘭々はいい事をしたと思っていたが、予想以上にお店が忙しくなり、

他のスタッフ達からすれば、あの一言がなければこんなに忙しくならなかったのにと、

あまりに忙しいためにそんな事を考えてしまうようになっていた。

先ほどのアルバイトの女の子の一言も、ちょっと嫌味じみた感じに聞こえたのはそのためだった。

 

もちろん、別にこのお店のスタッフの仲が悪いわけではない。

ただ人は忙しくなると、そのイライラを誰かに当たらずにはやり過ごせない生き物なのだ。

 

蘭々は自分が言ってしまった言葉の責任の重さを痛感していたのだった。

それでも愚痴もこぼさずに配達を続けていたのだったが、

先ほど注文が入ったピザの届け先を見て、蘭々は目を疑った。

 

それは児玉坂教会だった。

先日、あれほどこっぴどく説教を食らったあの教会に、

またピザを届けなければならない。

 

人は嫌な事があるとトラウマになる。

嫌な記憶が脳に刷り込まれているせいで、

無意識のうちにそれを避けようとする本能が働いてしまうからだ。

 

蘭々はピザが焼けるのを待っている間、中西の顔を思い出していた。

あの歪んだ人は嫌いではなかったが、今度冷めたピザを届けようものなら、

確実に許してはくれないだろう、嫌われてしまうかもしれないと思っていた。

しかもこの忙しい日に限ってそんな注文が入るなんて。

 

蘭々は壁に掛けられたカレンダーを見てハッと気づいた。

今日は日曜日だったので教会では確か礼拝がある日だ。

という事は多くの信者達が集まっておいしいピザを待っているはずで、

ひょっとすると中西やあの時に会ったシスターもいるかもしれない。

もしかすれば、この街を去ると言っていたあのお姉さんの大事な日かもしれない。

 

(・・・自分の気持ちじゃなくて、他人の気持ちを優先させなきゃ・・・)

 

ピザを取り出すタイマーの音がジリリリリと鳴り響き、

スタッフがオーブンからピザを取り出して箱に詰め始めた。

その音にハッとなった蘭々は、何かに気づいた。

 

(・・・あの人が言ってたのは、もしかしてあのお姉さんの事・・・?)

 

他人の気持ちを優先させる事を考えていた時、

あの時に微笑みかけてくれたあのシスターの顔が浮かんできた。

きっとあの人が言っていたのはあのお姉さんみたいになれってことかな?

 

「はい、ピザの準備できたよ」

 

「・・・あっ、はい、じゃあ行ってきます!」

 

慌てた様子でピザを袋に入れると、それを掴んで蘭々はお店を飛び出した。

走っていこうかと思っていた時、お店の前に止めてあった自転車に目が止まった。

このお店のスタッフが自由に使っていい自転車だった。

 

あれから、蘭々は密かに自転車に乗る練習を始めた。

だが、練習ではそこそこ乗れるようになったけれど、

いままでまだ配達の時に自転車に乗ったことは一度もなかった。

 

いままで見たことのない鋭い目つきをして、

蘭々は思い立ったように自転車にまたがった。

弱い自分を奮い立たせるように自分にはっぱをかけながら、

蘭々はペダルに足を置いてゆっくりと漕ぎ始めた。

自転車は頼りなく揺れながらも進んでいった。

 

(・・・走れ!Bicycle・・・!)

 

蘭々は心の中でそう呟いた。

 

 

 

・・・

 

ノギハットを飛び出した蘭々はペダルを漕ぎながら教会へと向かった。

初めてこんな形で配達に自転車を利用したため、

すれ違う人々や横断歩道、信号などに気をつけなければならなかった。

意気込みとは裏腹に、やはり結構時間がかかってしまったのだ。

 

 

しかし、苦手というトラウマを克服するためには、

やはり人は成功体験を積まなければならない。

苦手を苦手のままで放っておいても、そこに後ろめたさが生まれたり、

何か弱点を隠し続けるだけで、それは自分の自信にはつながらず、

結局は自分の弱さを強烈に意識するだけになってしまう。

 

人間は長所だけを伸ばしていくのはたやすいし、

その方が伸び代は良いし、弱点を隠してくれる場合もある。

もちろん、元より苦手なものは苦手な理由もあるもので、

例えば運動神経が良くない人が無理にマラソンを極めようなどはしない方が良い。

それよりは自分の得意分野が文科系なら文科系の特技を伸ばした方が効率が良いからだ。

 

これもちょうど自転車の両輪のようなもので、

長所を伸ばすことと短所を補うことの両方をうまく回転させなければならない。

結果として「自分はできる」という成功体験を一つずつ積み上げるだけで、

自身のベースとなる部分に自信がついてくるように思われる。

何をやってもある程度人は時間をかければできるようになるものだし、

そのちょっとした差異が人間の成長を大きく変えることにもなりかねない。

 

 

蘭々はとにかくペダルを漕いでいた。

そんな成功体験とか苦手克服とか、難しいことは考えていない。

むしろ人は一生懸命の時には何も考えられないはずだ。

 

だが、自転車初心者である彼女にとって、

心臓破りとも言える児玉坂に差し掛かった時、

今まで通りペダルを漕いでも進む量が減ってしまった。

推進力が減るとバランスをとることが難しくなる。

前かごに入っているピザを見守りながら、

蘭々は必死でペダルを漕いでいた。

 

(・・・ああっ、もうだめだ、どうしよう、どうしよう・・・!)

 

推進力が減ったことでハンドルを揺らしながらバランスをとらざるを得なくなった蘭々は、

グラグラと右へ左へと揺れながら危なっかしい様子で坂道を登っていた。

本当はそれほど傾斜はないのだが、自転車初心者の彼女にとっては、

児玉坂は思ったよりも急斜面に感じていたのだった。

 

そしてバランスをとるためにハンドルを右に切った時、

ついに堪えきれなくなった車体は大きく揺れて右方向へ倒れかかった。

 

もうダメだ、と思って目を閉じた。

だが、どういうわけか自転車は倒れない。

目を開けて前かごを見ると、ピザがなくなっている。

 

ふと顔を上げて自分の右側を眺めると、そこにはピザの袋を持った中西が立っていた。

彼の左手は蘭々の乗っていた自転車のハンドルを握って支えていた。

 

「遅すぎだ、何時だと思っている」

 

突然現れた中西に、蘭々は思わずハンドルから両手を離してあわあわとなってしまった。

 

「危ないから手を離すな、どうせ倒れたら心が折れてしまうくせに」

 

蘭々はそう言われて「・・・ああっ、すいません」と言いながらハンドルをしっかり握った。

 

「坂道なんて無理に漕がなくてもいいんだ、辛かったら降りて推しても進めるだろうが」

 

言われた通り、蘭々は自転車から降りて手で推し始めた。

中西は蘭々に目をやることもなく、ピザの袋を抱えたまま前を進んでいく。

勝手に持って行くならもう配達はここまででいいはずなのにお代は払ってくれない。

遅かったから怒っているのだろうかと、蘭々は不安で何も言えなかった。

 

やがて二人が教会に辿り着いた時、ちょうど礼拝が終わったところだったようで、

真紀が多くの人達に囲まれて祝福を受けている最中だった。

 

蘭々が自転車を推したままで教会の門をくぐると、

向こう側で蘭々に気づいた真紀が手を振ってくれて、

そのまま小走りで走ってきて抱きしめてくれた。

どういうわけかわからなかったけれど、ああこれがゴールだったんだと思って、

なんだか切なくて苦しくてちょっぴり涙が溢れてきてしまった。

 

「ちょうどいいタイミングで来てくれたんだね、ありがとう」

 

真紀はそんな風に言ってくれた。

 

(・・・いえ、あの、偶然です・・・)

 

蘭々はそう心の中でだけ言った。

 

ピザの袋を持っていた中西はそれを真紀に渡した。

そしてピザの代金をポケットから取り出して蘭々に渡した。

さっきくれなかったのは、ここまで連れて来たかったのかなと蘭々は思った。

 

「・・・俺はここで失礼するが、そいつにもピザを食わせてやってくれ」

 

中西は真紀にそう告げると、何やら厳しい表情でその場を離れようとした。

 

「・・・でも、私、すぐに帰らないと次の配達が・・・」

 

「一枚くらい食う時間はあるだろう?

 熱々のピザの味を忘れないように覚えておくんだな」

 

中西はそれだけ言うと、礼拝堂の奥にある控え室の方へ行ってしまった。

去っていく中西に向かって蘭々はしどろもどりになりながら、

 

「ほんとなんか・・・不器用な人間でごめんなさい・・・」

 

ペコペコしていた蘭々には中西の顔はよく見えなかったが、

なんとなく、口元に意味深な笑みを浮かべていたようには見えた。

 

 

 

・・・

 

礼拝堂の裏口から続く道の先にもう一つ部屋がある。

そこにはキッチンがあり、いつもそこで礼拝の後で信者達は団欒する。

中西が勝手に上がり込んでくつろいでいるのもこの部屋だった。

 

中西はそちらへ向かいながら用心深くなっていた。

右手は背広の内側に入れて拳銃を握っているようだった。

 

中西が蘭々と教会まで戻ってきた時、

彼はみんなに取り囲まれる真紀ではなく、

そちらにみんなが注意を惹きつけられている間に走り去る影を見ていた。

 

そして中西は確信していた。

それはあのバレッタで働いている森未代奈だということを。

 

彼女は何かを胸に抱えながら隠れるようにして教会の裏側へ向かったのだ。

中西は自分の存在が悟られないように後をつけていった。

 

周りをキョロキョロしながら部屋のドアを開けた未代奈は、

そのまま中に入って扉を閉めてしまった。

中西はそのドアの横にぴったりくっついて中の様子を探る。

ここからもう一度出てくるならそこで取り押さえようと思っていた。

もし彼女がこっそりと忍び込んだのならば、

もう一つの出口である表口から出ることはためらわれるだろう。

そちらにはまだ信者達が誰か残っているかもしれないからだ。

 

中西はドアに耳をつけて中の物音を聞いていた。

何かをしている物音は聞こえるのだが、

それからしばらくして音は途絶えた。

いよいよ出てくるのかと、中西はドアから壁に身を引き、

彼女が出てくるのを今か今かと待っていた。

 

だが、いくら待っても彼女は出てこなかった。

おかしいと思った中西は、警戒しながらもドアを開けて部屋に踏み込んだ。

 

そして、そこにはもはや彼女の姿はなく、

ただテーブルの上には何やらビニール袋に入れられた箱が置いてあった。

爆弾の可能性があると考え、恐る恐る箱を開けてみると、

そこにあったのは3色の色をしたアイスクリームだけだった。

 

逃げられたと思った中西は、もう一つの出口である表口へ向かった。

そこには礼拝を終えた神父が信者達と話をしていた。

「ここに誰か女が来なかったか?」と神父に尋ねたが、

さっきからここにいたが、誰も通っていないということらしかった。

 

狐に化かされたような奇妙な思いがした中西は、

こめかみを押さえながら腑に落ちない表情をしていた。

だが、目の錯覚だなどと信じたくはなかった。

彼女は確かに部屋に入っていったし、中で物音もしていた。

しかし、一体どうやって部屋から出て行ったのかはどうしてもわからなかった。

一人でボーッと立ったまま考え事をしていると、向こう側から真紀がやってきた。

 

「・・・中西さん、どうしたんですか急にいなくなって」

 

心配するようなセリフだったが、蘭々にきちんと挨拶をしなかった彼に対して、

少し怒っているような感情も混じっていたように中西には思えた。

だが、中西は今それどころではなかった。

 

「・・・部屋の中に置いてある3色のアイス、あれはあんたのか?」

 

中西は少しため息混じりにそう尋ねたとき、

教会の門のところに立っている未代奈の姿を見つけた。

 

「3色のアイス・・・?バレッタの塩アイスのことですか?」

 

真紀はそう言ってから中西の目の色が変わったことに気づき、

彼の見ている方向へ目をやった。

同じように教会の門のそばに立っている未代奈の姿が見えた。

 

中西はまるでバカにされているように感じて立ち尽くしていた。

ここから読み取れる未代奈の表情は凛としていて「私が何か?」とでも言っているように見えた。

部屋に忍び込んだのは間違いなかったが、何も悪びれる様子もなく、

まるでこちらが尾行していたのに気づいていたようにふてぶてしい態度だった。

 

真紀が未代奈に気づいて遠くから手を振ると、

それに気づいたのか、彼女はすっと走り去ってそのまま姿を消してしまった。

 

「・・・そんなに人見知りなのかな・・・」

 

真紀は中西が見たというアイスは未代奈が持ってきてくれたのだと好意的に解釈した。

中西はそれ以上彼女を追いかけるのは止めた。

おそらくこのまま追いかけても捕まえられないことをわかっていたからだった。

別にアイスに毒が入っているわけでもなかったので、

とりあえず彼女のことを考えるのはもうやめることにした。

 

(・・・いつか必ず尻尾をつかんで見せる・・・)

 

 

 

・・・

 

未代奈の出現で少し混乱が生じたものの、

礼拝を終えた真紀を取り囲む人々は絶えなかった。

 

とりわけ仲のよかった奈良未などは自分の事のように号泣していたし、

真紀も同じように泣きながら二人は抱き合ったりもしていた。

 

りさと眞木、真冬なども抱き合いながら涙を浮かべていた。

積もる話もあっただろう、色々な児玉坂での出来事を思い出していたにちがいない。

 

魅菜はと言えば、適切に距離を置いてその光景をカメラに収めていた。

真紀の幸せを祈りながらパシャリ、パシャリとシャッターを切るたびに、

なんだか切なさが込み上げてきてやるせなくなってくるのがわかった。

 

やがて、礼拝が終わった後に昼食会が開かれる事になり、

蘭々が持ってきたピザが振るまわれることになった。

時間はあまりなかったが、蘭々は中西に言われた通り少しだけ参加することにした。

中西には遅いと言われたが、走ってくるよりは断然早く着いていたので、

実は比較的時間に余裕はあったのだ。

 

真紀を取り囲む群れが流れてゆき、皆は昼食をとる部屋へと向かったが、

カメラを持っていた魅菜は一人で立ち尽くしてその場に残っていた。

 

それに気づいたのはりさだった。

りさと魅菜は、以前から真紀を通じて知り合った仲で、

会うのは久しぶりだったがお互いにちゃんと覚えていた。

魅菜の様子がおかしい事に気がついたりさは、

振り返って魅菜のもとへ駆け寄ったのだ。

 

「魅菜ちゃん、どうしたの、みんな行っちゃうよ?」

 

りさが心配そうな表情を浮かべて近寄ると、

魅菜は持っていたカメラをりさに強引に預けてしまった。

 

「ごめん、私これからバイトだからもう行かなきゃ。

 真紀の袴姿を見たかったけど、このカメラで収めてあげて」

 

魅菜はそれだけ言うと教会の門に向かって走り出した。

無理やりカメラを預けられたりさはそれを両手で抱えて困惑していた。

 

「・・・ちょっと!なんで私こんな役ばっかりなのー、もう!」

 

面倒見の良い人間は色々と他人の仕事を引き受けてしまうのだった。

りさはカメラのストラップを首からかけてカメラを両手で構えた。

使い方は簡単だから撮影する事は問題ないとすぐにわかった。

 

りさが遅れて部屋に入っていった時、すでに昼食会は始まっており、

みんながそれぞれピザを食べながら談笑していたのだった。

 

「あっ、りさ、ピザおいしいよー、食べて食べて」

 

真紀は自らピザを1ピースとって紙皿に乗せて持ってきた。

その様子を見て、りさは早速カメラを構えてパシャリとやった。

 

「あれ、そのカメラ・・・」

 

「魅菜ちゃんのよ、頼まれちゃってね」

 

りさはそう言いながら部屋の中にいる人々にカメラを向け始めた。

パシャリパシャリと写真を撮りながら、会話を続ける。

 

「これからアルバイトがあるから行かなきゃいけないんだって。

 こんな日でも休めなかったのかな、ちょっと可哀想だよね。

 だって魅菜ちゃんほど真紀の事好きだった人もいないじゃない?」

 

カメラを向けられた蘭々はピザを食べながら小さな声で「おいしい~」と言った。

その声は残らないが、満足げな表情はカメラの中にしっかりと収められた。

 

「でも何かちょっと様子が変な感じだったけど・・・。

 あんなに急いで行かなきゃいけないものかな?

 最後に真紀に挨拶くらいしていけばよかったのに」

 

カメラを覗きながらくるっと振り返って、りさは真紀にレンズを向けた。

そこでりさが見た真紀の表情は、いつもの真紀の笑顔ではなかった。

 

「・・・真紀?」

 

ファインダーから顔を話してりさが呼びかけた。

 

「・・・ううん、ごめんね、なんか変な顔してた?」

 

真紀は瞬時に笑顔を取り繕ってそう答えた。

魅菜の事が心配でたまらないのだと言う事は、

付き合いの長いりさにはすぐにわかったのだ。

 

「お仕事があるならしょうがないよね。

 でもきっと魅菜ちゃんは大丈夫だと思う」

 

真紀はまるで自分を納得させるようにそう言った。

そして一瞬見せた暗い顔はもう忘れたように、

また談笑しているみんなの輪に戻っていったのだった。

 

 

 

・・・

 

教会を後にした魅菜はそのままバイト先である児玉坂ランドへ向かった。

午後のパフォーマンスからはノギニャンとしてダンスをしなければならなかったからだ。

まだパフォーマンス開始までは十分時間があったのだが、

個人的にあの場所に留まっているのが嫌になったので早めに抜け出してきたのだった。

 

守衛さんに挨拶をして、持っていたセキュリティーパスを入り口でかざして中に入った。

ここで働く者はスタッフだけが通れる裏口から入園する事になる。

いつも通り衣装を借りるための受付を済ませて、魅菜は着替え部屋に向かった。

 

誰もいない部屋でノギニャンの着ぐるみを身にまとい、

最後にノギニャンの頭を上からすっぽりとかぶれば完成。

部屋を出る前に出口の前に置いてある鏡を見るのがここで働くスタッフのマナーだ。

見ている限り何もおかしいところは見受けられなかった。

 

着替え部屋を出ると、なぜかそこには山根が待っていた。

いつもはパフォーマンス終わりの休憩時間に遭遇するばかりで、

こんな時間から会う事はほとんどなかった。

 

「おつぽ~」

 

こう呼びかけたのは山根だった。

これはいつもの魅菜の口癖の挨拶だったのに。

 

「何、キモいんだけど」

 

魅菜は軽い調子で寄ってきた山根に言葉のムチを打った。

もちろん、山根はそんな事では折れないある意味強靭な心を持っていた。

 

「今日やっぱやんの、パフォーマンス?」

 

「はぁ?やるに決まってんじゃん、何言ってんの」

 

魅菜はもう山根を無視して廊下を歩き始めた。

山根はそれを見て魅菜の後を追うようにして歩き始めた。

 

「前ちょっと言ってたじゃん、ノギニャン代わってほしい日があるって。

 さっき携帯でカレンダー見てたらさ、あれ今日だなって思ってさ」

 

「あんたが余計な事聞くからもういいって言ったでしょ?

 なんで変な事ばっかり覚えてんのよ」

 

魅菜はノギニャンの姿のままで早歩きをして山根を巻こうと思った。

だが、山根もそのスピードに合わせて早歩きをしていた。

 

「携帯にメモっておいたから覚えてたんだよ」

 

「そんなこといちいちメモんなくていいし。

 細かいことを気にする男ってマジで女々しいから」

 

魅菜は食らいついてくる山根にノギニャンのままで肘鉄をくらわした。

みぞおちをやられた山根は一瞬両手で腹を抑えてひるんだが、

それでも諦めずに歩くスピードを上げて魅菜を追いかけた。

 

二人はいつの間にか廊下を抜けてスタッフ達が出番を待つ大きな休憩室にたどり着いた。

ここでスタッフ達はご飯を食べたりすることもできるのであり、

自分の出演する時間ではない時には、ここで休む人たちも多い。

魅菜は個人的に人の多いところはあまり好かないので、

いつも山根のような変わり者しかこない小さめの休憩室で休むのだが。

 

なんとなく山根に会いたくないと思っていた今日は、

珍しくこの大きな休憩室で出番を待とうと思っていたのに、

結局山根が付いてくるので、魅菜はここも通り過ぎてしまうしかなかった。

 

「なんか大事な用事があったんじゃねーのかよ」

 

山根がしつこく質問をしてくるので、もはや魅菜は返事をするのも煩わしく、

ただ振り払うようにひたすら何度も肘鉄をくらわせ続けた。

周囲で見ていたスタッフ達は、いつもは温厚なはずの可愛らしいノギニャンが、

マジシャン風の男にまとわりつかれて肘鉄をくらわせているという異常な光景に驚いていた。

 

「あとで後悔しねーのかよ」

 

山根がその言葉を告げた時、ノギニャンはふと立ち止まった。

そしてくるりと振り向いてしばらく山根を見つめた後、

無言のまま思いっきり本気のローキックを山根にくらわせた。

 

山根はさすがに「うげっ」と声を上げて太ももを抑えてうずくまった。

周囲は凶暴化したノギニャンの振る舞いにさすがに騒然となってきていた。

 

魅菜はそのまま立ち去ろうとしたが、山根は足を引きづりながらも後をついていった。

山根がどこまでもついてくるので行き場所がなくなってしまった魅菜は、

何を思ったのか児玉坂ランドの場内に続く通路を選んで歩き始めた。

 

それを見ていた周囲のスタッフはさすがに慌てた様子で携帯で連絡を入れている者がいた。

あんな二人がお客様のいる場所へ出て行く事はさすがにまずいからだった。

 

 

 

 

・・・

 

「こっちこっち、早く早く~!」

 

児玉坂ランドの入園ゲートをくぐった飛駒里火ははしゃいでいた。

もう何度も来ているこの場所ではあったが、何度来ても楽しめるのが児玉坂ランドの魅力だった。

 

「あ~なんか光合成するの久しぶりやわ~」

 

もう一人の女の子はそう言いながら両手を伸ばしていた。

おとなしそうに見えるけれど、太陽の日差しを浴びるのは好きなのかもしれない。

 

「最近なんか食しか楽しみがないって言ってたもんね」

 

「うん、なんか最近ちょっと仕事が忙しかったから・・・」

 

飛駒ちゃんはリュックを背負ってうれしそうに足踏みをしていた。

もう楽しみすぎて待ちきれない様子だ。

 

「だって最近はずっとピザばっかり焼いてたもんね」

 

「うん、でも今日はバイトの子達が休んでいいよって言ってくれたから・・・」

 

女の子は少し申し訳なさそうな表情を浮かべていたが、

久しぶりに羽を伸ばせる機会は嬉しかったようだ。

  

「でも実はここ、ちょっと前にも来ててん。

 飛駒ちゃんには言ってへんかったけど」

 

「なんで~それなら言ってよ~私も一緒に見たかったよ~」

 

女の子は少し前にもお休みをもらえた事があり、

その時には一人で児玉坂ランドに来ていたのだった。

彼女が飛駒ちゃんに言わなかった理由は、

たまには一人でゆっくりと楽しみたいからだった。

だがそれは、飛駒ちゃんといるのが嫌だという事ではなく、

彼女は飛駒ちゃんがノギニャンを見たいのを知っていたからだ。

一方、彼女は別に見たいものがあったので、

たまには気を使うことなく一人で見たかっただけなのだ。

 

彼女は優しすぎて他人に気を使いすぎるところがあるが、

そういう性格が、時々ふっと彼女を一人になりたくさせる時があるのだ。

それを咎めるのはちょっと彼女を理解していないことに等しい。

優しすぎる人間は、時に人より余計な心労を抱えてしまう。

目に見えない小さな気苦労を溜めてしまうよりは、

時々一人にさせてあげて発散させてあげるほうが良いだけなのだ。

 

「まあ一人になりたい時もそりゃあるよね~。

 もし見たいものがあったら遠慮なくそっちに行ってくれていいからね。

 私はノギニャン推しだから、それさえ見られれば満足だから」

 

「うん、実はもう見たいものは決まってんねん。

 あ~なんかワクワクしてきた、休み取れるってわかった時からめっちゃ楽しみにしてたから」

 

二人はそれぞれに期待を抱きながら児玉坂ランドを歩いて行った。

それぞれが見たいパフォーマンスの場所を園内マップで確認しながら歩いて行くと、

突然、飛駒ちゃんが女の子の肩に手を触れて呼びかけた。

 

「えっ、えっ、えっ、ねえ、あれってもしかしてノギニャンじゃない!?」

 

肩を叩かれた女の子がマップから顔をあげて飛駒ちゃんが指差すほうを見ると、

普段はあまり見かけない位置で歩いているノギニャンを見つけた。

 

「あれ~今日はなんでこんなとこにおるんやろう?」

 

「なんか特別なイベントとかがあるのかな?」

 

飛駒ちゃんははしゃいでいたが、女の子がよく目を凝らして見ると、

どうもノギニャンの後ろをついて回る男の人が見えてきた。

そして、どうやら信じられないことだが、ノギニャンはその男の人にずっと肘鉄をくらわせていた。

 

ちなみに、ノギニャンは明治時代の偉人、乃木希典が可愛がっていた野良猫が、

どういうわけか交通事故に遭ってしまい車にはねられて死んでしまった妖怪だという設定らしい。

設定上、いつも将軍みたいな服を着ていることになっているが、

性格は極めて温厚で、あんな風に肘鉄を食らわせるような設定はどこにもなかった。

 

「・・・飛駒ちゃん、今日のノギニャンはもしかしたら見やんほうがいいかも。

 なんかたぶん、中に入ってる人に嫌なことがあったんやと思う・・・」

 

「うわ~聞こえない聞こえない、ノギニャンはノギニャンだから!

 中に人とか入ってないから! 」

 

飛駒ちゃんは両耳を手で押さえて首をブンブン振りながら抵抗をしていた。

女の子はもっとよく目を凝らして見ると、今度は後ろで肘鉄を食らっている人に目が留まった。

それは実は彼女がお目当てとしていたマジシャンだった。

 

「あっ、ごめん飛駒ちゃん、やっぱり気になるから見に行かへん?」

 

そう言うと、彼女はもう自然と走り出していた。

飛駒ちゃんも「ああっ!」と目を覆いながら彼女を追いかけていった。

 

 

 

・・・  

 

掟破りの園内まで逃げてきた魅菜は、ノギニャンとして周囲に愛想を振りまきながら、

同時に追いかけてくる山根に対しては肘鉄をくらわせ続けていた。

 

さすがにこの状況を見た観客達は事の異常性に気づき始めたようだった。

「今日のノギニャンどうしちゃったの」という声がひそひそと聞こえ始め、

家族で来ている親達は、子供の注意を引きながらそちらには視線がいかないように努めていた。

 

魅菜はイライラする気持ちを周囲から「かわいい」と呼ばれる事で晴らしたかった。

だが、今日はどれだけ愛想を振りまいても誰もかわいいと言ってくれなかった。

それというのも、彼女の後ろをついてくる山根がいるからだ。

邪魔な奴がついてくるせいで、ちょいちょい肘鉄をくらわせているから、

そのせいで周りの観客達がノギニャンの可愛さを愛でることに集中できていないのだ。

 

どこまでもついてくる山根にさすがに腹が立ったノギニャンは、

ついに山根のほうを振り返って思いっきり彼の頭上にチョップをくらわせた。

スイカを素手で割るという噂が立つほどの魅菜のチョップを食らった山根は、

さすがに頭を押さえてその場にうずくまってしまった。

 

着ぐるみの上からでも十分な手応えを得た魅菜は、

そのまま振り返って山根を置いて行こうとした。

だが、山根はうずくまりながらも何かを言っている。

 

「・・・かっこばっかつけてんじゃねえよ」

 

「はぁ!?」

 

山根にそう言われた魅菜は思わず振り返って声を出してしまった。

いつもは無口なはずのノギニャンが話してしまったことで、

さすがに場内は騒然として人々が二人の周りに集まってきてしまった。

 

「好きなら好きって言って何が悪い」

 

山根はどうやら勘違いしているようだった。

魅菜がバイトを休みたい理由は好きな男とのデートだと思いこんでいたようだ。

 

「適切な距離ってもんがあるんだよ私には」

 

魅菜はそうとは知らずに真紀との関係のことを想定して返事をした。

 

「傷つくのが怖いだけじゃねえか」

 

山根の言葉は魅菜にはどう捉えていいかわからなかった。

私が怖い、どういう意味だよ。

 

「・・・あんたに偉そうに言われる筋合いはないんだけど」

 

二人がやりとりをしている時、近くで見ていたスタッフが無線機で上司に連絡をしていた。

状況を見守りながらも、なんとか大事にならないうちに幕引きをはかりたい様子だった。

 

「やらないで後悔するより、やって後悔しろよ。

 無様な方がまだかっこいいってもんだ」

 

頭を押さえながら無様な格好の山根がそう言った。

ちょうどこの頃、駆け寄ってきた観客達の中に飛駒ちゃん達の姿もあった。

 

山根は右手で頭を押さえながら、左手は後ろで何やらゴソゴソしていた。

次の瞬間、左手にハットを持って立ち上がった山根は、

ハットをくるっと回して見せた。

山根がハットの中に手を突っ込むと、彼が取り出したのは一輪のバラの花だった。

 

「・・・何の冗談?」

 

「俺は、魅菜の事が好きだ」

 

突然の事に魅菜は何が何やらわけがわからなくなった。

からかわれていると思った魅菜は何も答えなかった。

 

「いっつも俺のマジックをけなしてばっかのお前だけど、

 俺はそれでもお前と一緒にいるとなんだか楽しいんだ。

 これはマジでガチな告白だからな、冗談なんかじゃねぇぞ」

 

山根は真剣な顔つきになって魅菜にそう伝えた。

周りで見ていた観客も予想外の展開に興味を惹かれ始めたようだった。

 

「・・・はぁー、マジで意味わかんないし、

 それに私の事なんか好きな人がいるわけないじゃん・・・」

 

こんなにみんなが見ている場で何をしているのか、

魅菜は混乱しながらも少し照れながらそんな事を言った。

 

「俺はもうわかってる、お前に別に好きな人がいる事を。

 だからお前が俺の気持ちに応えてくれないのもわかってるんだ。

 だけど、ちゃんと顔を見せて答えを教えてくれ。

 俺が好きなのはノギニャンじゃなくて、魅菜だからな」

 

魅菜はやっと山根が何かを勘違いしている事に気がついた。

だが、それは勘違いだなんてこんな場ではとても言えなかった。

 

周囲の観客達の興味は、もちろんの事ノギニャンの中の人が誰なのか、という事だった。

男が愛の告白をしていて、その相手がどんな人なのか気にならない人はいない。

観客達は無言でその状況を見つめながらも、ノギニャンが頭をとって素顔を見せてくれるのを期待していた。

 

魅菜はこの追い詰められた状況で怖くなってきた。

自分の心の奥底に押し込めていた恐怖感が湧き上がってきて、

心をバクバクと容赦なく打ってくる事に気づいた。

ここで着ぐるみを脱いだら、中に入っているのがこんな奴だと知られたら、

明日からはもう誰もノギニャンを見に来てくれないのではないか?

本当はとっても臆病な自分がみんなにばれてしまうのではないか・・・。

 

(・・・私って、傷つくのが怖かったの・・・?)

 

山根が放った言葉が戻ってきて魅菜をさらに追い詰める。

そして、こんな公開処刑みたいな場所に追いやられて、

周囲にこれだけ見られている状況で愛の告白に気の利いた言葉なんて返せるだろうか?

だけど、もうこれは脱ぐしかない、脱ぐ以外の選択肢は周囲の期待によってもう剥ぎ取られてしまっている。

 

魅菜はゆっくりと両手でノギニャンの頭に手をかけた。

そして恐る恐る重たい頭を外していった。

今までノギニャンの頭によって遮られていた視線が全て直接魅菜へと向けられた。

汗をかいている魅菜の頬を、優しいそよ風が撫でていくのがわかった。

 

「おおっ!!」という歓声が周囲から上がった後、

周囲はざわざわと何かを話し始めた。

魅菜の顔を見た事で彼らの期待は満たされたらしかった。

 

「えー、かわいいじゃん!」

「うん、想像してたよりかわいい!」

 

魅菜は一瞬、自分の耳を疑ってしまった。

あんなにビビってしまっていた自分がバカみたいだと思った。

とりあえず、魅菜の心から一つ重たいものがなくなっていった。

 

「やっと顔を見せてくれたな」

 

山根はそう言ってバラを持っている手を近づけてきた。

魅菜はその勢いに負けてバラの花を受け取ってしまった。

両手でそのバラの花を持ちながら、胸が高鳴るのがわかった。

 

「ごめんなさい!」

 

次の瞬間、そう言いながら魅菜はバラの花を両手で山根の胸元へ突きつけた。

それによって周囲がまたざわつくのが魅菜にも感じられた。

魅菜にはわかっていた、彼らの次の期待は、この告白を受ける事、だという事を。

 

「・・・気持ちはとっても嬉しいんだけど・・・」

 

魅菜はモゴモゴと正直な気持ちを語り始めた。

 

「いや、嬉しいっていうか、ほんと私なんかにはもったいないっていうか、

 こんな事予想もしてなかったっていうか、今何言っていいかわからないっていうか・・・」

 

魅菜はまとまらない思考でとりとめもなく話し続ける。

いつも冷静だった彼女が、柄にもなく取り乱してしまっていた。

 

「だけど、ごめん、私やっぱり山根の事はそういう風に見れないっていうか、

 いい友達としか考えられないから、だからこの花は受け取れません・・・」

 

魅菜は強くバラの花を両手で掴み、申し訳無さも込めながら返却の意志を示した。

その姿を見て山根は観念したのか、差し出されたバラの花をまた受け取った。

 

「・・・ほんと、なんかごめんね。

 私ってさ、ほんと空気とか読めないからさ、

 こんな風にみんなをシラけさせることしかできないし、

 だからもう、やっぱり私なんかがここに来るべきじゃなかったっていうか、

 もっと他のかわいい子にスポットが当たればよかったのにって・・・」

 

そう言いながら魅菜は辛くなってきて少し涙声になっていた。

ノギニャンの頭をとったことは、やっぱり後悔しかなかったのかもしれないと思った。

傷つくことってのはやっぱりとっても辛くて痛くてそんな当事者にはなりたくなかった。

 

そんなことを思って言葉に詰まってしまった魅菜が俯いていると、

何やら周囲は次の瞬間に「おおーっ!」という歓声が上がった。

どういうことだろうと思って顔を上げてみると、

山根が持っていたバラの花からスルスルと国旗が引っ張り出されていた。

それは古典的なマジックだったので、間違いなく山根の仕業だった。

 

山根はバラを持つ手と反対の手でスルスルと国旗を引っ張っていき、

やがてバラの花はなくなって消えてしまった。

それを見ていた観客達は彼に拍手をもって答えた。

 

「バカだなお前は」

 

「・・・?」

 

「ほら、これでシラけてなんてなくなったろ?

 お前は自分を見せることを怖がりすぎなんだよ」

 

山根はそう言うとハットを脇に抱えた。

 

「どうだ?やって後悔した気分は?」

 

「・・・辛い」

 

「俺だって辛いよ、フラれることわかってて告るなんて」

 

山根はそう言うと右手をハットの中に突っ込んだ。

 

「だけどやらないで後悔するよりはよかったと思ってるよ。

 でもな、思っているほど怖くはないもんだぜ。

 自分一人じゃないんだから、いつだって誰かは味方だ」

 

山根は右手をハットから取り出すと、

そこにはでっぷりと太った鳩が姿を表した。

それと同時に、そばで見ていた観客の女の子の表情がパーっと明るくなった。

 

「ノギニャンがちょっとくらいいなくたって、

 俺がこの場を盛り上げてやるからさ。

 だから、せめてやってから後悔してこいよな!」

 

山根が右手で鳩を空に放り投げると、

鳩はバサバサとその翼を広げて飛びたった。

 

次に山根がハットをくるくると回すと、

今度は太った鳩が次から次へと何羽も姿を現しては飛んで行った。

 

「フラれた悲しみを込めて、いつもより多く飛ばしております~!」

 

そんなことを言いながら山根は連続して鳩を出し続けた。

いつも通りの古典的なマジックだが、こんなに連続して出すのは魅菜も見たことがなかった。

彼なりにない知恵を絞って考え出した応用テクニックだったのかもしれなかった。

 

「あ~っ、飛駒ちゃんあれ見て~、めっちゃかわいい~♡」

 

幸いなことに、観客の中にいた彼女が喜んでくれたために、

周囲の観客達もそれに釣られて喜び始めたようだった。

観客の視線はもう山根に移ってしまっていて、

魅菜はノギニャンの頭を横に置いたままポツリと取り残されていた。

 

呆然と立ち尽くしながら動けずにいると、

そばで見ていたはずの忍者のコスプレをした女の子が近づいてくるのが見えた。

 

「こういうのってさー、どっかで一回ドカーンってバラバラにならなきゃいけないんだよ」

 

魅菜はこの子が突然何を言いだしたのかよくわからなかったが、

いつもノギニャンを見にきてくれている子だということはわかっていた。

 

「それでさ、なんかちょっとずつこう再生されて固まっていくっていうか。

 だけどさ、思ってるよりもみんなが助けてくれるからさ、

 やばいって思っても、ああ一人じゃないんだって救われるんだよね」

 

話がとても抽象的なのでどう理解していいのかはわからなかったが、

とにかくこの子は自分とは経験値が違うんだろうということはわかった。

 

それだけ言って飛駒ちゃんはにっこりと微笑みかけたあと、

魅菜の肩をポンと軽く叩いた。

 

「大丈夫、味方しかいないよ」

 

 

(※よければ「ハルジオンが咲く頃」を流してください by魅菜)

 

 

次の瞬間、魅菜はノギニャンの頭を置き去りにしたまま走り出していた。

場内から着替え部屋に向かう途中、場内の様子を観察していた上司を突き飛ばしてしまったが、

魅菜はそんなことに躊躇することなく走り抜けていった。

 

「フラれた悲しみを込めて、いつもよりも太っております~」

 

山根はボロボロと涙を流しながら太った鳩を出し続けた。

あんな小さなハットからどうやっているのかわからないが、

無限に思えるほど太った鳩が出てくるのを見ていると、

女の子は日頃の嫌なことなんて全部忘れてしまったように喜んでいた。

 

「あ~、もうあかん、めっちゃ太ってる~♡」

 

彼女が異常な喜びを見せたおかげで、観客は湧き続けた。

彼女の喜びのポイントを理解できる者は誰もいなかったが、

それでもあれだけ喜ぶ姿を見せられると、

なんとも平和な光景であり、観客達も悪い気はしなかったのだ。

 

だが、しばらくすると、スタッフ達がその周囲に集まってきた。

ノギニャンのパフォーマンスがもうすぐ始まるというのに、

肝心のノギニャンは晒し首になって床に落ちているし、

着ぐるみの下半分は魅菜が持って行ってしまったし、

わけのわからない鳩マジックが延々と続いているし、

児玉坂ランドのマネージャーはさすがにこれはやめさせなければと思ったのだ。

 

そこへやってきたのは飛駒ちゃんだった。

「なんだ君は」というマネージャーに対して飛駒ちゃんはこう言った。

 

「若い時はそりゃ今しかできないこともたくさんあるでしょう!?

 ちょっとぐらいバイトをサボったってバチは当たらないですよね。 

 しかもあなた達の仕事は観客を楽しませることじゃないですか?

 今こんなにみんな喜んでるのに、これをやめさせるなんて、

 おかしいじゃないですか、私は認めません、絶対に!」

 

一応、飛駒ちゃんも児玉坂ランドのお客様だということもあり、

マネージャーもその意見に反対することはできなかった。

しかも、その場にいた観客達も飛駒ちゃんの味方をして「そーだそーだ!」と言うので、

もうマネージャーのできることはノギニャンの頭を拾って撤収することだけだった。

 

 

 

・・・

 

着ぐるみを脱いで服を着替えた魅菜は、児玉坂ランドを飛び出した。

どうせみんなが応援してくれるのだったらやり切ろうと思っていた。

自分に与えられたステージを、やらないで後悔するよりやって後悔しようと。

 

携帯で時間を確認すると、すでにかなりの時間が経過していた。

おそらく、もう昼食会も終わっていて、袴での写真撮影会も終わる頃だった。

カメラを渡したりさは真紀の袴姿をしっかりと撮ってくれているだろうかと考えた。

いや、それよりも自分の目に焼き付けなければならないと思った。

あれはカメラでは決して撮れない、心が作用した美しさだ。

 

そんなことを考えた時、魅菜はふとあの時に真紀と見た花の蕾を思い出した。

そして、実はあの花の水やりを新しい管理人に頼んだことも思い出していた。

 

真紀と入れ替わりで新しい管理人がやってきた後、

最初のうちは魅菜も毎日様子を見に行ってあげたのだが、

やがてその花の生命力の強さに気づいてしまった。

これは調べたところ、ハルジオンの花だとわかった。

 

ハルジオンの花は繁殖力も強く、多少放っておいても枯れたりしない。

だからこそ道端のようなところにどこにでも根を張って花を咲かせるのだ。

魅菜は花の名前なんてあまり知らないけれど、この花の事だけは忘れないと思っていた。

 

真紀がどこにいるかわからなかった魅菜は、

児玉坂ランドを飛び出した際に電話をかけてみたが繋がらない。

ラインでメッセージを送ってみても反応がない。

おそらく、みんなと盛り上がっているから気づかないのだろうと思った。

 

もしかすると最後にアパートに戻っているかもしれないと思った魅菜は、

駆け足でアパートの管理人室を目指して進んでいった。

だが、ノックしても返事がない。

そもそも今はもう真紀ではなく新しい管理人がいるはずだった。

 

それでも最後の挨拶にやってきているかもしれないと思った魅菜は、

返事がないドアのノブに手をかけて回してみると、

がちゃりと音がして鍵のかかっていなかった扉が開いた。

 

そこで魅菜が見たのは、布団を敷いて横になっている新しい管理人の姿だった。

 

「・・・どうしたんです、大丈夫ですか?」

 

魅菜はドアを開けて中に入って老人に話しかけてみた。

老人は「あいたたた」と言いながら布団から体を起こした。

 

「やれやれ、年をとると体が言う事をきかんようになるんじゃ。

 ここ数日ずっとこんな調子でな、ギックリ腰なんじゃよ」

 

老人は辛そうに腰をさすりながらそう言った。

体が悪いのは同情するけれど、魅菜にとって今はそれどころではなかった。

 

「すいません、ここに真紀はこなかったですか?」

 

「えっ、真紀さんは来てないよ。

 確か今頃は、坂下のどこかのお店で撮影会でもしとるかな?」

 

その情報を聞いた魅菜は、とにかく坂下のお店を当たってみようと思った。

このアパートも教会も全て坂を上ったところにあり、

とにかくこの辺りにはいないという事がわかったのだった。

 

「そうですか、わかりました、安静にしててくださいね」

 

魅菜は老人にそのように告げた時、ふと思い出した。

 

「そういえば頼んでいたハルジオンの花は・・・?」

 

「ああ、すまんのう、腰が痛くて近頃は見に行っとらんわい」

 

その言葉を聞いて、魅菜はとりあえず管理人室を出た。

そして、急いで庭に回り込んで花の蕾のところへ向かった。

なんとなく嫌な予感がしたのだ、直感というやつだ。

 

どうしてだろう、何が起こったのだろう。

あれほど生命力の強いと言われていたハルジオンの蕾は、

どういうわけか萎れて枯れてしまっていたのだった。

 

魅菜はがっくりと肩を落としてハルジオンの花の前で膝をついた。

こんなことになるなら変なネットサイトで調べた知識なんて信じなきゃよかったと思った。

何よりも真紀に託された二人だけの秘密の約束を果たすこともできなかった不甲斐なさが、

魅菜の胸いっぱいに充満してきて泣きそうになってしまった。

 

「永遠の花なんて無いんだよ」

 

その声は魅菜の後ろから聞こえてきた。

魅菜が驚いて後ろを振り向くと、白い服のコスプレをした女の子が立っていた。

何だろう、なんかのTVで見たことのあるキャラクターだと魅菜は思った。

 

「花の命は限りがあるから、一度きりだからこそ精一杯咲くの。

 だけどみんながみんな花を咲かせられるとは限らない。

 蕾のままで萎れちゃう子だっているんだから」

 

魅菜は思い出した。

この人はTVで見たことがあった。

児玉坂を守っていると巷で噂のヒーロー、その名もリリーナイトだ。

なんだか胡散臭いから今までちゃんと番組を見たことはないけど、

目の前に実際に現れたらその存在を信じ無いわけにはいかなかった。

 

「水をやっていればいいとか、それだけじゃ植物は育たないの。

 ちゃんと愛情を注いだり、話しかけたりしてあげなきゃ」

 

そう言いながらリリーナイトはしゃがみこんで枯れてしまったハルジオンの蕾を撫でた。

すると、何が起こったのか枯れてしまったハルジオンの花はみるみるうちに蘇り、

そのままむくむくと大きくなって蕾を広げて花を咲かせたのだった。

 

「・・・どういうこと!?

 ねえ、一体どんな魔法を使ったらこんなことできるの!?」

 

魅菜は驚いて思わずそんなことを尋ねてしまった。

自分だって魔法が使えるなら、みんなの心に魔法をかけてしまいたかった。

 

「魔法ってわけじゃないけど・・・一応これでもヒーローだし・・・」

 

よくわからなかったけれど、とにかくこれが彼女の能力なのだろうと魅菜は思った。

目の前でこんなことを見せつけられたら信じないわけにはいかなかった。

 

「・・・私さぁ、基本的に正義の味方とかって偽善者だって思ってたけど」

 

魅菜は立ち上がってリリーナイトを見つめて言った。

 

「あんたはみせかけだけじゃないってことはわかった。

 今度からは一応TV見てみるね、一応だけど」

 

それが魅菜なりの精一杯の感謝の表現方法だった。

 

魅菜は見事に咲いたハルジオンの花を目に焼き付けた後、

また急いで駆け出して坂を下っていった。

 

 

(※もしまだ曲が流れてたら、この辺りで一度消しちゃってね by魅菜)

 

 

・・・

 

 

アパートを出た魅菜は管理人の老人が言ったことを参考に、

坂下まで降りて行ってから、周囲のお店を捜索し始めた。

こんなことなら詳細な場所を聞いておけばよかったと思った。

唯一連絡先を知っているりさも、おそらくお別れ会に集中してしまって携帯に気づいてくれない。

 

そうして魅菜がお店に飛び込んで色々と捜索していた時、

すれ違うようにして真紀たちはとあるお店から出てきていた。

そこには袴姿をして卒業証書を入れた丸筒を持っている真紀がいた。

 

卒業証書は仲間たちが用意したものだった。

児玉坂を去ることを卒業に見立てて真紀に送ったのだ。

お店から出てきた真紀は、最後にまた一人一人とハグをして別れを惜しんでいた。

 

「それじゃ、もう行くね、またね」

 

真紀は名残惜しい気持ちをぐっとこらえて手を振って歩き出した。

そこにいた仲間たちもみんなで手を振って彼女を送り出して行った。

 

そして真紀は振り返って一人で坂を登り始めた。

この坂を登ってから駅に行って電車に乗るのだろう。

その後ろ姿を、仲間たちはずっと飽きること無く見送っていた。

 

ずっとずっと長いこと住んできた街の坂を登る。

真紀にとって児玉坂は、いつか中西が言ったように、

キリスト教徒たちにとっての聖地「シオン」と同じようになっていた。

絶対に忘れることのない場所、いつでも気軽に帰ってこれる場所。

そして中西が心配したように、この街はソドムとゴモラの街のようにはならないと思った。

後に残された仲間たちは、きっと立派にやってくれると真紀は信じていたからだ。

 

真紀はそう信じながら慣れ親しんだ坂を一歩ずつ登った。

彼女が登っていくたびに、優しく彼女の頬を撫でる風が吹いた。

春はもうこの街を包むように暖かく輝いていた。

 

登っていく途中、知らず知らずのうちに真紀はつぶやいてしまった。

 

「・・・努力、感謝、笑顔、私たちは児玉坂、上り坂」

 

2回ほど繰り返してつぶやいたところで足を止めた。

そして、その言葉を噛みしめるようにしてもう一度繰り返した。

 

言葉の内容を噛み締めた後、また真紀は歩き始めた。

 

その時。

 

 

(※またハルジオンが咲く頃を始めから流してください、絶対だよ by魅菜)

 

 

 

「真紀ー!!」

 

後ろから大声で呼び止められて真紀は思わず振り返った。

そこには、集まった仲間たちのセンターに立つ魅菜の姿があった。

 

「アパートの庭にとっても綺麗なハルジオンが咲いたよー!!」

 

塚川真紀に代わりなどできる者はいない。

それでもみんなでこの街を支えていくんだと魅菜は思った。

どんな時だって、きっと一人じゃない。

それが児玉坂を形作っている愛だと思った。

 

その魅菜の声を聞いた真紀は精一杯の声で返事をした。

 

「努力、感謝、笑顔、うちらは児玉坂、上り坂!」

 

そうして涙を流しながら残された者たちに呼びかけたのだった。

 

「さよなら」

 

そう言って真紀は右手で涙をぬぐった。

 

「さようなら・・・さようならー!!」

 

そして笑顔を見せてまた振り返って坂道を歩き出した。

 

 

魅菜は児玉坂ランドでノギニャンの頭を脱いだ時のことを思い出していた。

周囲に自分をさらけ出すのはとても勇気のいることだったけれど、

山根の言う通り、やらないで後悔するより、やって後悔したほうがよかった。

 

変な猫なんか被ってる場合じゃなかった、と。

 

そして、今は全く後悔などしていなかった。

清々しい気持ちでやりきったことで何かが吹っ切れてすっきりした。

これなら大丈夫だと思った、今なら大丈夫だ。

 

今なら、やっと言える。

 

魅菜は遠くに見える真紀の背中を見て叫んだ。

 

「大好きだよーー!!」

 

これ以上出ないくらい大きな声で叫んでみた。

すると真紀はこっちを振り返ってにっこり微笑んだのだった。

 

「また児玉坂で会いましょう!」

 

手を振りながら真紀はこちらに返事をしてくれたのだ。

 

「大好きだよー!」

 

それだけを言い残すと、また彼女は振り返って坂を登って行ってしまったのだった。

 

 

 

・・・

 

児玉坂を出て行った真紀はまた新しい街で生活を始めていた。

あれからしばらく経った今、既に彼女は新しい道を歩き始めていたのだ。

 

ある日、家の郵便受けに手紙が届いていた。

真紀はそれを取り出して差出人の名前を見た。

そこには「中西」と書いてあったのを見つけたのだった。

 

真紀はその手紙を持って部屋に戻り、封を切った。

そして中身を取り出して読み始めた。

 

 

・・・

 

 

久しぶりだな、元気でやってるか?

遅い手紙だなって、まあそういうなよ。

こっちにだって色々と事情があるんでな。

だがまあ、こういうのも悪くはないんじゃないか?

 

あんたがいなくなってからというもの、

やはりみんなも寂しくなったのは事実だった。

だが、俺が心配したようなことは起こらなかったよ。

残された者達があんたの残した物をしっかりと受け継いでいたからだ。

 

川戸魅菜なんかも元気でやってるようだな。

あんたがいなくなってようやく覚醒してきたのか、

あいつらしい憎たらしさを発揮して頑張ってるみたいだ。

 

あんたはどうだ?

新しい道を歩く感触は?

楽しいこともあれば、なかなか思い通りにならないこともあるだろうな。

 

だけどな、こんな手紙を書いているやつもいるって思い出してくれたら嬉しい。

あれから随分と時間は経ってしまったが、それでも手紙を書きながら俺はあんたのことを思い出したよ。

きっと俺だけじゃないぜ、児玉坂のみんな、同じようにあんたのことを想っているさ。

 

そう考えるとどうだ、遅くなってしまったかもしれないが、

新しい道を歩くのに、いい刺激にはなるんじゃないか?

時には昔を振り返り、そしてまた明日に向かって歩くのも悪くはないだろう。

 

そういえば、ある人はあんたをハルジオンの花に例えたかもしれないが、

俺はあんたはそよ風のような人だと思うな。

どこにいても誰の邪魔をすることもなく、

ただ優しく吹き抜けてみんなを癒していくんだからな。

きっとまた新しい街にもいい風が吹いていることだろう。

 

それじゃ元気でな。

俺はもうこの先あんたに会えなくなるのは寂しい限りだが、

あんたのことは忘れない、出会えてよかったと思っている。

あんたは本当の意味で美しい人だった。

 

ああそうだ、返事はいらないぜ。

姿形は見えなくても、きっとどこかからあんたのことを応援してるからな。

あんたが俺を含めたみんなのことを想ってくれてるってことも、

目には見えなくても感じることができる気がするぜ。

 

幸せになってくれよ。

それじゃあな。

 

 

・・・

 

 

真紀は手紙を読み終わると、とても大事そうに手紙を封筒の中にしまった。

それから軽く伸びをして、真紀は窓を開けて新しい街の空を眺めてみた。

窓の外に吹いていたそよ風は、真紀の頬を優しく撫でるように吹き抜けて行ったのだった。

 

 

 

ー終幕ー

 

春、シオンが泣く頃 ー自惚れのあとがきー

 

 

この作品は書く予定をしてから随分と時間がかかってしまった。

それはひとえに作者の私情が絡んでしまっているのでお恥ずかしい限りである。

 

いろいろな事情から「裸足でざまぁ」の方を優先して書くことになってしまい。

結局、そんなこんなで色々とあって物語を書く気力を一切失ってしまった。

 

もう本当に書くのは止めてしまおうと思っていた時、

やっぱりせっかくこうして色々なきっかけから書き始めた物語を、

むしろ物語なんて書いたこともなかった筆者が、

どういうわけか書けるようになってしまったこの能力を(しょぼい能力だが)、

無駄にするのはもったいないと思って執筆を再開したのであった。

 

しかし、酔った。

酒にでも自分にでもない。

 

電車にである。

 

この物語の半分は毎日の通勤電車で書き上げた。

もうそこで書くしか忙しい中で作品を生み出すことはできないからだ。

最近の筆者には以前ほどの時間が取れる余裕はなくなってしまったし、

それも理由で書くのをやめてしまおうと思ったのだが、

隙間を大事にして・・・やって行こうと決めたのだ。

だから、読者の皆さんは筆者が電車酔いしながら書いたこの物語に、

大いなる同情を寄せながら読んでもらえれば幸いである。

 

しかし、休日に残りの半分を書き上げた時は多少自分に酔った。

ナルシズムだとか自惚れだとか、幾らでも言ってくれたまえ。

畢竟、何か作品を生み出す人というのは多かれ少なかれ自己陶酔せずにはいられない。

自分が面白いと思って書かねば、読む方も絶対に面白くないからだ。

(無論、読者が面白いと思ってくれているのかはわからないけれど・・・)

 

 

さて、筆者のことはもういいので作品の内容に移ろう。

 

そんなこんなの筆者の事情に本作品は巻き込まれて、

当初予定していた締め切りより大幅に遅れに遅れ、

内容もすっかり想定していたのと変わってしまったのだ。

 

当初、真紀がもっとメインで行く予定だったし、

魅菜の登場シーンは今回書き上げた内の5分の1くらいだったと思う。

 

だが、筆者の事情で延期を食らっているうちに、

思いの外に魅菜が活躍するストーリーのネタが増えてしまった。

じゃあ思い切って真紀と同じくらいの活躍をさせてあげようと思った。

そういった紆余曲折を経て、今作は出来上がったのである。

 

 

物語を書くのはジグゾーパズルを組み立てるのに似ている。

全体の完成図をイメージに描きながらも、

手持ちのピースでうまくハマる物を集めながら組み立てていく。

そうした幾つものピースの塊が出来上がってから、

それらの塊がまたうまくハマって全体図につながっていく。

 

筆者の中で手持ちのピースがうまくハマったのが中西と蘭々だった。

いや、本当に蘭々がこんな中西なんかと上手くやっていけるのかは知らない。

だが、とりあえず中西は蘭々の言葉に置き換えると「歪んだ人」に近いと思った。

 

中西は筆者の中のドS成分だけを取り出して培養したような存在なので、

実際の筆者はこんなにひどいやつではない。

もっと優しくて、紳士的で、思いやりがあって・・・ゴホン、ゴホン、すみません。

 

あと、中西も言っているが、彼の言っていることは何も蘭々にだけ言っているわけではないし、

たまたまドSの中西のピースに上手くはまったのがドMの蘭々だっただけのことだ。

散々いじめてしまったが、あまり気にしないでほしい。

 

 

ちなみに、本作品には次回以降の作品へ続く伏線がかなりある。

それというのも、筆者が堪えきれずにちょいちょいと書いてしまうからであるが、

まあ、これ以上はまた作品が出来上がってからお話することにしましょう。

ただ一つ言いたいのは、太った鳩が好きな女の子が書けたことは大満足だった。

 

 

魅菜に関しては、山根というかわいそうなキャラを生み出してパズルのピースを合わせた。

山根は筆者のかわいそうな成分だけを取り出して培養したような存在なので、

実際の作者はこんなにかわいそうなやつではない。

もっと強くて、たくましくて、カッコよくて・・・ゲホッ、ゲホッ、もうやめます。

 

魅菜はきっと筆者の意見に色々と賛同してくれるとは思えない。

本作でも筆者の勝手な理想を押し付けて彼女を動かしているし、

それでも、筆者には憎たらしくて可愛らしい魅菜を書くのは本当に楽しかった。

そんな調子が伝染して、なんだかあとがきもおちゃらけてしまうほどだ。

まあでも、彼女にはいつまでも憎たらしい悪ガキとして暴れまわっていてほしい。

 

 

最後になりましたが、真紀の卒業を祝って書くはずだったのに、

こんな形になってしまって本当にゴメンなさい。

 

でも、きっと優しい真紀は許してくれるのだ。

本当に素晴らしい人でしたね。

 

この先も、素敵な人生が彼女を待っていることを祈りながら、

今作はこれにて筆を置く次第でありまする。

 

 

 

ー終わりー