別れ際、もっとも隙になる ー別れ編ー

そのグループ名を「塩アイス」と命名してから、

三人はたびたびバレッタに集まってよく話をするようになった。

夏休みに入った頃、三人はほぼ毎日のように会っていた時もあった。

 

未代奈にとってはこの街に来てから初めてできた親友だった。

今までソルティーヤくんくらいしかまともに話ができる相手がおらず、

その分バレッタの経営に専念する事ができたとも言えたのだが、

まだ若い彼女にとって、二人の親友ができた事は何よりありがたいことで、

お店の事以外で持てた初めての楽しみだったと言える。

 

舜奈は二人と知りあってから学校の友達とは少しだけ疎遠になった。

もちろん、学校ではそれなりに付き合いを続けているのだったが、

本当に仲の良い友達がどういうものか、二人と出会って知ってしまったのだ。

気を使わずにありのままの自分で向き合える事がどれだけ楽なのか、

それを知ってしまってからは昔の友人達と遊ぼうという気にはならないのだった。

 

きな子にとっても二人はほとんど唯一とも言える親友だった。

明るいように見えて繊細なところもある彼女は、

真の意味で心を許せる友人にはまだ巡り会えていなかった。

二人はどんなにわがままを言っても許してくれる間柄であり、

ありのままで居られる「塩アイス」がとても好きになった。

 

きな子はやがて、二人に自分がアンドロイドである秘密を告げた。

未代奈はもうずっと前からそれを知っていたが、知らない風を装って驚いてみせた。

舜奈に至っては全く知らなかったし、そんな事があり得るわけがないと思って疑っていた。

その舜奈のそぶりを見ていると、未代奈はまだ驚きが足りなかったほうだろう。

だが、未代奈は舜奈と同じように初めて知った、かなり驚いたという風に話を合わせたのだった。

やがて舜奈もその事実を緩やかに受け入れ始め、きな子は打ち明けた事で気分が楽になった。

前よりももっと二人の事が好きになったし、アンドロイドである事は悪い事ではないと、

この経験を通じて肯定的に捉える事ができるようになっていったのだった。

一方、未代奈は少しだけ苦しい思いを感じながらも、彼女自身の事については何も語らなかった。

 

時々、夕暮れ時になると、舜奈はアルバイトへ向かった。

きな子の性格からすると、好奇心からどんなアルバイトをしているのか尋ねるのが自然だった。

最初は未代奈と舜奈でからかいながら嘘のバイトの作り話をしていたのだが、

あまりに純粋なきな子がなんでも素直に信じてしまうので二人はこらえきれずに笑ってしまった。

きな子が怒ったので、やがて舜奈が「Bar Kamakura」で働いている事を彼女に正直に教えた。

するときな子は、その持ち前の好奇心から、その職場を見てみたいと言い出したのだ。

未代奈が「普通に考えたら関係ない人が職場を覗くのは失礼やし、そんなの無理だよ」と制したのだが、

きな子は舜奈が店長さんに了承をとってくれれば大丈夫だと言い張ってきかなかった。

「ノリのいい店長さんなんでしょ?」ときな子が尋ねると、嘘は言えないので「まあ、一応ね」と舜奈は答えた。

 

 

そんな経緯から、三人はある日「Bar Kamakura」を訪問する事になった。

舜奈が店長に話を通し、仕事に興味のある友達が職場をみたいと言っている、と告げたのだ。

店長も始めのうちは渋っていたようだが、最終的にはOKを出してくれたらしかった。

きな子は喜びの声をあげ、未代奈は呆れながらもにやにや笑い、舜奈も職場を見せられるのは少し嬉しそうだった。

 

そうして三人は「Bar Kamakura」へ行くことになった。

その日は集まってお店の2階にある未代奈の部屋で一緒に遊んでから、

出勤時間に間に合うように三人で出かける事になったいた・・・のだが。

 

 

 

・・・

 

未代奈が目を覚ましたとき、すぐ横にはきな子と舜奈がまだ眠っていた。

寝ぼけた目をこすりながら部屋のカーテンを開けると、

もう夕日は落ちかけていて浅い夜の始まる時間だった。

 

何かを忘れているような気がしてぼんやりとしていると、

やがて近くで寝ていたきな子が目を覚ました。

彼女もまた、起きたときに自分のいる場所がよくわからなかったようで、

あたりをキョロキョロと見回して、やがて未代奈と目があった。

「あれっ、未代奈・・・」ときな子が声を発したとき、

それが目覚まし代わりとなって舜奈がゆっくりと体を起こした。

なんとなくセクシーにも見える気だるい雰囲気を醸し出しながら、

携帯で時間を確認した途端、彼女の顔が瞬時に変わるのがわかった。

 

「やばっ!遅刻じゃん!」

 

その焦る声を聞いたことで、やっと未代奈ときな子も状況を理解することができた。

そういえば舜奈のバイト先に訪問する予定をしていて、それまで未代奈の部屋で遊んでいて、

そのまま遊び疲れて誰からともなく眠ってしまったのだった。

未代奈ときな子も時間を確認したが、すでに時刻は出勤時間になってしまっていた。

 

「やばい、これマジ終わりじゃん!」

 

舜奈は半泣きの声を出しながら急いで準備を続けていた。

きな子もその焦る状況にパニック状態になりながらあたふたしていた。

さすがに未代奈も自分の部屋で寝てしまった以上は責任を感じて泣きそうになった。

まだ勤め始めて半年しか経っていないというのに、こんなに大遅刻をさせてしまったからだ。

 

舜奈は身なりを整えるのもそこそこに、部屋を飛び出していった。

未代奈ときな子も焦って舜奈の後を追いかけて部屋を飛び出した。

階段を駆け下りて、まだお客さんがたくさん残っていたバレッタから出て行った。

焦りながら急いで飛び出していく三人の女の子達を見たお客さん達は何事かと思っていたが、

未代奈の代わりに仕事をしていた店長は気にせずに読書を続けていた。

 

 

バイト先である「Bar Kamakura」はバレッタからそんなに遠くではなかった。

児玉坂の街はどんどんと発展を続けていたが、それほど広い街ではなく、

本気で数分走った後に、三人は「Bar Kamakura」が入っている雑居ビルにたどり着いた。

エレベーターを待つ余裕もなく、舜奈は非常階段を駆け上がっていく。

それを追いかけるきな子と未代奈も勢いよく階段を駆け上がっていったので、

三人の足音は鉄製の階段を振動させながら街の空に響き渡った。

 

息を切らせながらお店のドアの前にたどり着くと、

舜奈は立ち止まって呼吸を整えながら心配そうに二人の顔を見た。

まだ若い高校生であり、初めてのバイトだったこともあり、

舜奈はいったいどんな顔をして、どんな風にこのドアを開ければいいのかわからなかった。

もちろん、未代奈もきな子もそんなことは到底わからなかったし、

二人は舜奈を遅刻させてしまった共犯でもあるのだから、

舜奈の悲しそうな表情を見ていると感情が伝染してきて、

思わず三人で「どうしよう」と呟くばかりだったのである。

 

「ちゃんとごめんなさいって言えば大丈夫だよ」

「じゃあ未代奈から入ってよ」

「えっ、ちょっとそれは・・・きな子いく?」

「なんできな子が~!」

「し~っ!」

 

そんな風に小声でこそこそと話をしていたのだが、

きな子はアンドロイドであり、ボリューム調節機能がぶっ壊れているので、

ひそひそ話しはおそらく既にドアの向こう側に聞こえてしまっていた。

三人がドアの前でおろおろとしていると、やがてドアの方が勝手に開いた。

 

ドアの向こうには店長である北条真未が立っていた。

ドアノブに手をかけながら、怒っているのかよくわからない顔で、

ただぼんやりと何も言わずに三人を眺めていたのだった。

無言でいることが何よりも三人にとっては苦痛であり、

それに耐え切れなくなった舜奈がついに頭を下げて大きな声で謝罪の言葉を口にした。

 

「・・・すいません、寝坊しちゃいました!」

 

頭を下げ続ける舜奈を見ても店長は何も言わなかった。

その無言の圧力に押され、顔を見合わせた未代奈ときな子も同じように頭を下げた。

 

「・・・三人揃って寝坊したの?」

 

「・・・はい、本当にすみません」

 

腹の中から絞り出すような謝罪の言葉を述べると、

また店長は何も言葉を返すことなく沈黙を貫いた。

どうも彼女には独特の間みたいなものがあるらしかった。

彼女の声には全く怒りはこもっていない。

淡々と、またボソボソと語る口調が逆に何だか恐ろしくもあったのだが。

 

「三人もいて、誰も起きなかったの?」

 

事実その通りだったので返す言葉もなく舜奈がうなだれていると、

そのピンチを救ってくれる救世主かのように未代奈がゆっくりと顔を上げて答えた。

 

「私がみんなより5秒くらい早くに起きて・・・」

 

何言ってんだこいつ、という表情で店長ときな子と舜奈が同時に彼女の顔を見た。

ただあまりに支離滅裂な回答を返されたことで面食らってしまったのか、

もう店長は怒る気にもならないようだった、そういう意味では未代奈は救世主だったのかもしれない。

 

「・・・もういいよ、さっさと入りな」

 

呆れた様子でそう告げると、店長はドアを開けたままで奥へ引っ込んでいった。

どういうわけだかわからないが、なんとか許してもらえた為、きな子が驚いた嬉しそうな顔で未代奈を見つめた。

舜奈も下げていた頭を上げて、肩を上げて大きく息を吐き出した後で、

三人は多少かしこまりながら店長の後を追ってお店の中へ入っていった。

 

 

・・・

 

 

「入ってる入ってる!いけいけいけいけ!」

 

きな子がそう叫ぶと、未代奈は椅子から立ち上がって画面の前へ歩いて行った。

未代奈は颯爽とスタンドマイクの前に立つと、何かが憑依したように歌い始めた。

曲は今流行りの芸人、オクシデンタルテレビが歌っていた「Perfect Woman」だった。

 

回転するミラーボールの光に照らされながら、

未代奈は一人二役をこなして堂々とした様で歌い続けていた。

きな子は彼女の歌に合いの手を入れながら立ち上がってピョンピョン跳ねている。

楽しいときに自然と体が動きだす、彼女のお決まりの行動パターンだった。

 

「・・・まあね、そりゃ長い人生を生きていれば、仕事行きたくないなーって日もあるよ。

 お酒飲んだ次の日なんか、そりゃ体も重たいしね、いや、そういうもんなのよ実際、

 でもね、まあ社会人ってのはさ、そーいうのも含めて社会人って言われるっていうかさ、

 どんなに辛くても、みんな平等に辛いわけでね、一人だけそういうことやっちゃうとね、

 まあ真未もあんまし偉そうに言えないよ、でもまあ、やっぱ遅刻ってのは甘えって言われちゃうよね。

 そりゃさ、人間誰しも失敗はするのよ、失敗しない人なんて、逆におかしいっていうか?

 完璧すぎる人間なんてね、逆に魅力がないとも言えるのよ、わかるかな、ねえわかる?

 それにしても、ちょっと聞こえてる?あのー、ちょっとだけ音量下げてくれないかな、ねぇ・・・」

 

お店の隅っこでは舜奈が店長である北条真未に説教されていた。

とは言っても真未はそんなに頭ごなしに叱りつけるような厳しい店長でもなかった。

独特の口調で、ときには優しく諭しながら話をしてくれるいい人なのであったが、

この時ばかりは、とにかく未代奈のカラオケがうるさすぎて舜奈は声がよく聞き取れないのであった。

 

 

お店に入った後、予想外にもあまり叱られなかった三人は、

店長が優しかったのに甘えて、空気を読むことをしなかった。

 

「あっ、カラオケある~!

 ねえ、未代奈はどんな曲歌うの?」

 

お店の中に置いてあるカラオケ機器を見つけたきな子はテンションが上がってしまった。

真未は若い子達をいきなり叱りつけるのは大人のやり方ではないと考えていて、

怒らないまでも、じっくりと反省を促すような諭し方をしようと考えていたのだったが、

そんな彼女の心境を察することのないきな子と未代奈は、もう許されたと勘違いしてしまい、

カラオケ機器に夢中になって騒ぎ立ててしまったのである。

 

真未は舜奈が初めて連れてきた未代奈ときな子をいきなり叱るのもおかしいので、

とりあえず舜奈だけを連れて控え室へ行こうとしたのだった。

だがそれを見た未代奈は、もうある程度許されたと思っていた。

正直、きな子は根っからそう信じていたのであったが、

未代奈の場合は、空気を読みながらもこれは大丈夫だと踏んだのだった。

彼女は天然な一面もあるが、そのあたりは非常にしたたかな世渡りをすることもできる。

もちろん、時には常識人として振舞うこともでき、人に対する敬意は忘れない未代奈なのだが、

今回の場合、この店長はとても優しい人で、もうこれ以上こちらが怒られることはないと瞬時に気づいたのだ。

 

「あの~すいません、ちょっと歌っててもいいですか?」

 

舜奈を控え室へ連れて行こうとしていた真未に対して未代奈は大胆にもそう尋ねた。

叱られるのは舜奈だけなのだから、自分たちは暇になってしまうと思ったのだ。

真未はその態度に唖然として返す言葉も見つからなかったのだが、

いつの間にかきな子がもう曲を選んで送信してしまっており、

真未の返事を聞く前に、未代奈はもうスタンドマイクの前に行ってしまったのである。

 

 

ラップパートも歌パートも、すべて一人でこなしていった未代奈は、

「I’m a perfect woman」というフレーズでは首を傾ける決めポーズまでやりきった。

舜奈を叱りたくても音量が大きすぎて遮られてしまった真未は、

もしかしたらこれはあの子の策略ではないかと密かに疑いながら、

このままペースを持って行かれて主導権を握られてはまずいと思った。

真未はもう舜奈を叱るのは諦めて、急に引き締めた表情になってから腕組みのポーズのままマーカーペンを手に取り、

控え室の入り口手前の壁にかかっている縦横共に40cmくらいのホワイトボードに何やら書き始めた。

その猛烈な筆記の勢いが、彼女の二人に対する怒りのレベルを表していたのだった。

 

真未はホワイトボードに何やら書きながら考え事をしていた。

そもそも、舜奈から聞いた話では、この二人はこの職場に興味を持ち、

仕事について学びたいという意欲を持つ舜奈の友人だということだった。

だが、いきなり寝坊してきた挙句、カラオケではしゃぎだす様子を観察しても、

どう考えても真面目な姿勢で仕事を学びにきたとは到底思えなかった。

しかも、見たところ想像よりもかなり若いルックスをしている二人であり、

面接時には22歳ということで通っていた舜奈が連れてくるには若すぎた。

これが真未の頭の中で舜奈の年齢詐称疑惑を再燃させることにもなってしまったし、

とにかくこれは、ちょっと大人の怖さを思い知らせてやれなければならないと真未は思った。

それが何よりも彼女達のためであり、人生の先輩である自分がやるべきことだと真未は感じていたのだ。

 

 

「Perfect woman」の音楽が終わり、きな子が「いぇ~い!」という声を上げた後、真未はすぐに両手を三回ほど叩いた。

大きな音が店内に鳴り響き、それが二人の注意を引きつけることになった。

 

「はーい、そこまでよっと。

 はい、そこの二人もちょっとこっち来て、話があるから」

 

さっきまでと違い、少しだけ怖い感じの声だと悟ったきな子は、

やばい、調子に乗ってしまったので怒られるとビクついた。

それを見た真未は、大人のプレッシャー作戦が成功したと思った。

あの子はちょっと犬みたいなところがあって、いじめすぎると噛み付くところもあるが、

上から目線で叱るとちゃんと言う事を聞くタイプだと見抜いた。

 

同じように、これは少しまずいことになっていると察知した未代奈は、

すぐにスタンドマイクから離れて小走りに真未の方へと駆けつけた。

だが、未代奈がきな子と違っていたのは、その目の力強さであった。

そして、彼女は全く卑屈になる様子もなく、真未もこれは手強いと思った。

少しも悪びれることはなく、キョトンとした表情で真未の目に対して貫くような視線を投げてくる。

おそらく人並みの心臓ではないと、真未は少しばかり畏怖すら感じたのだった。

彼女は間違いなく常人ではない、どこか他人とは全く違う体験をして生きて来たような、

そういう類の育ち方をしたとしか思えない凛とした態度を見せていた。

 

「すみません、思ったより曲が長かったので・・・」

 

まず曲を入れた事が問題なのであったが、未代奈は何か言い訳をすることで問題を他の焦点にずらしてしまう。

客観的に見ると全く言い訳としては成立していないのだが、どうにも彼女は負けず嫌いなのである。

この類の言い訳をする人は、とにかく負けを認めるのが無意識的に、本能的に嫌だと思っているので、

どこか無理やりであっても反論する隙間を見つけてそこから相手の論陣を突破しようとする。

ディベート向きの性格と言えば聞こえはいいが、とにかく自分から折れることは少ない。

ただし、未代奈がこういう負けず嫌いを発揮するのは公の場だけである。

これはつまり、プライベートで気を許した仲間には勝利も敗北も関係なくなるのだ。

ただし知らない人や大勢の人がいる場所で、自分の名誉を損なうような攻撃を受けると、

彼女はその鋭い猛禽類のような目で相手を貫くように見つめ、真っ向から全面戦争の構えで立ち向かうことになる。

簡潔に述べてしまえば、孤高に空を飛ぶタカのように、少しプライドの高い一面を持っているということになる。

もちろん、それは彼女の可愛らしい魅力の一つでもあり、ある意味少し滑稽で愉快な一面でもある。

この気骨を持っているからこそ、彼女は誰にも真似できない個性を備えているのだ。

 

「あのさ、二人はここの仕事を学びに来たってことでいい?

 ねえ、真未この考え方であってる?間違ってない?」

 

腕を組みながら右手のマーカーペンで一人ずつ指し示して行った。

最後に指した舜奈が無言でこっくりと頷いたところで真未は満足げな顔を浮かべた。

 

「はい、オッケー。

 じゃあまず遊びに来たわけじゃないってことはわかってくれるよね?

 ねっ?そこのあなた、その辺りどうなの?」

 

真未はペンできな子を差しながら尋ねた。

きな子は叱られると萎縮してしまって「ごめんなさい・・・」とだけ言った。

 

「いやいやいや、何?

 これじゃ真未がまるでいじめてるみたいじゃない?

 いや、そうじゃないでしょ、お仕事を学びにきたんだよね?

 だったら、それ相応の態度ってものがあるじゃない?

 ねえ、真未なんか間違ってる?ねぇ?

 間違ってるなら言ってくれたらいいから、ねえ?」

 

真未はまるで舞台役者のように二人の前で大振りに立ち回った。

その場の空気は全て真未によって支配されていくのが未代奈にはわかった。

さすが色んな経験を積んできている大人の人だと彼女は思った。

この場で彼女に逆らえる雰囲気など一蹴されてしまったのであった。

 

「これ、うちの店で使ってる伝言板なんだけどさ。

 あたしと舜奈の仕事の引き継ぎで大事なことを書き残しておいたり、

 どうしても伝えたいことを書いておくのに普段は使ってるんだけど・・・」

 

真未はそう言ってから「今日はちょっと使い方が違うから」と二人に告げた。

そして真未はマーカーペンでその伝言板であるホワイトボードを4回続けて叩いた。  

それは学校の先生が黒板を叩くときによく見られるような注意喚起の音であり、

相手を威圧する効果も兼ね備えている彼女なりの作戦だった。

 

「ナマステ・・・わかる?」

 

真未はマーカーペンを未代奈ときな子に指し示しながらそう言った。

ホワイトボードには既に大きな文字で「ナマステ」と書かれていた。

 

「ナマステってどういう意味かわかる?」

 

二人から何も返事がないので、しびれを切らせた真未はまた詰問口調でそう言った。

まるで学校の先生に立たされてお説教をされているような光景だった。

きな子は何て答えて良いか分からずに、心配そうに未代奈のほうへ顔を向けた。

未代奈は毅然として立ち続けていたが、少し思いついた答えがあり、恐る恐るそれを口にした。

 

「インドの・・・基本ですか?」

 

そう言ってからしばらく真未と未代奈は無言のまま見つめ合っていた。

どちらも一歩も譲らない強い目力で火花を散らしていたのだ。

何も知らないひよっこが、図に乗るんじゃないよ、という目つきの真未。

バカにしないでください、それくらいわかります、という態度の未代奈。

両者の間でプライドが激突しながら時間だけが経過していくと、

やがて真未が軽く鼻で笑うようにしてやっと視線を外した。

 

「はっ、何言ってんの?

 あんた全然わかってないじゃない」

 

真未はそう言ってそばで見ていた舜奈のほうへ目を向けた。

舜奈もかしこまってその光景を見つめていたが、店長が何を言いたいのかはすぐにわかった。

 

「舜奈、ちょっと手本見せてあげて」

 

真未がそう告げると、舜奈はキッチンの後ろ側にある冷蔵庫まで歩いて行った。

そして冷蔵庫のドアをおもむろに開けると、中身を素早く見回していった。

 

「これ、うちの店の基本だから、よく見てて」

 

真未はそう言うとマーカーペンをテーブルの上に置き、両手でリズムよく手を叩き続けた。

 

「ナマ、ステ、ナマ、ステ」

 

真未が手を叩きながらそう言うと、舜奈は冷蔵庫の中から何やら食材を取り出しては足元のゴミ箱に捨てていった。

そのスピードは真未が手を叩くリズムに合わせて一つずつ食材が捨てられており、

仕事に慣れていなければそんなに素早く行うのは至難の技だと思われる速度だった。

 

「はいこれ、これがうちの店の基本。

 冷蔵庫に残ってる食材の整理は手早くやらなくちゃいけないの、わかる?」

 

未代奈は眉をひそめながら舜奈が捨てた食材に目をやった。

それはどうやら全てすぐに傷んでしまう生ものばかりだった。

 

「賞味期限を見て判断していくのは仕方ないとしてもね、

 生ものはどうやったってすぐに腐っちゃうから、そういうのは躊躇なく捨てなきゃいけないの。

 いい、考えちゃダメなの、感じるの、手にとって生ものだと感じたらそのままゴミ箱に入れるだけ」

 

真未は「簡単でしょ?」とジェスチャー混じりで言った。

ただし、実際に考えるより感じることができるのは真未のような天性の役者肌の人間だけである。

彼女はおそらく思考よりも感情や行為が先行するタイプであり、

そしてその方が彼女の生き方としては合っていた。

彼女はそうして人生をインスピレーション重視で生きてきたし、これからも生きて行くだろう。

その閃きのまま動くことができるのが彼女のユニークさの源泉なのである。

 

「はい、じゃあまず手を叩きながら言ってみて」  

 

未代奈ときな子は顔を見合わせながら絶句していたが、

とりあえずこの場の空気に逆らうことはできなさそうなので、

両手を前に出して慣れない手つきで「ナマ、ステ」とやり始めた。

 

「いや、違う違う!」

 

真未は苦笑しながらそう言った。

そして、慣れないうちは難しいなら、まず代わり番こに言ってみようかとなった。

だがその時、きな子は何だかおかしくなって思わずにやにやしてしまった。

予想していたよりも仕事がスパルタであり、そして滑稽でもあったからだった。

そして、どうもそんなことを真面目に言ってくる店長の顔を見ていると、

きな子はどうしても笑いが堪えきれなくなるのだった。

それに気づいた真未はこれは許し難い行為だとして彼女の前に一歩出た。

 

「にやにやして、えっ、何、なめてる?」

 

「なめてないです・・・」

 

そう言いながらもきな子は既に半笑いになっていた。

きな子はどうも気づいてしまったのである。

叱られると一度は相手の様子を伺う犬であっても、

飼い主が優しい人だと見抜けば、また態度はガラッと変わるのだ。

この店長さんはどれだけ表面上で厳しい身振りをしていても、

本質的には優しい人だということを、きな子は見抜いてしまったのである。

 

そしてそれは未代奈も同じだった。

先ほどはプレッシャーをかけられて場の空気を支配されてしまったが、

どうやらこの人は怖い人でなさそうだと見抜いてしまった。

そうなると、未代奈のような性格の場合は敬意を持ちながらも甘えてしまうのだ。

 

やがて二人も軽快なリズムで両手を叩けるようになり、

真未の指導の元で代わり番こに、スピーディに「ナマ、ステ」と言えるようになったのだが、

続けるうちに未代奈の声には笑い声が混じるようになってしまった。

 

「なんで下向いてんの?

 ねえどこ見てんの?」

 

真未がその未代奈の半笑いに気づいて修正すべく一歩前に出てきた時、

未代奈はもうさすがに耐え切れずに後ろを向いて笑い出してしまったのであった。

 

 

・・・

 

 

「あっ、もうこんな時間!」

 

慌てた様子で腕時計を見ながら、

階段を駆け下りて行く未代奈は一人そう叫んだ。

二階の自分の部屋から飛び出してきた彼女は、

大きな黒いリュックを肩に掛けながらバレッタまで出てきた。

そこで少し立ち止まり、店内にかかっている大きな鏡の前で少し髪型を直した。

 

「今日もバイト休むの?」

 

カウンター席に退屈そうに座っていたソルティーヤくんが尋ねた。

未代奈は前髪の細かな微調整を繰り返しながらずっと鏡とにらめっこしていた。

ソルティーヤくんの問いかけには返事がなかったが、

思春期の少年少女には前髪が命だという事を考慮すると、

まあ仕方のない事かもしれないと、ソルティーヤくんは諦観していた。

 

やがて未代奈は満足のいく前髪を実現させたらしく、

「よし!」と独り言を言って鏡の前でニッコリと微笑んで見せた。

それからようやくソルティーヤくんの方へ顔を向けて、

なにやらニヤニヤしながら小走りに駆け寄ると、

おもむろに体を捻らせて背中のリュックをソルティーヤくんの前に見せた。

ソルティーヤくんには彼女が何をしているのかよくわからなかったのだが、

目を凝らしてよく見てみると、どうやらリュックの端っこに揺れている物が見えた。

それは猿のキャラクターの可愛いキーホルダーだった。

 

「ねえ見て見てソルティーヤくん、これかわいいやろ?

 きな子とお揃いでつけとるんやけど、

 前は犬が可愛いかなと思っとったけど、

 最近は猿もわりと可愛いかなと思い始めたから」

 

そんな言葉を聞いたソルティーヤくんは内心少し嬉しくなったのだが、

嬉しい感情を見透かされないように涼しい顔をしていた。

 

「またそんなこと言って、次は猫派になっちゃうんでしょ?」

 

「あー猫はアレルギーやから可愛いけど飼えないの」

 

ソルティーヤくんは猫みたいに自由に振舞う未代奈の顔をじっと眺めていた。

昨日の彼女は信用してはいけない、なぜなら今日はどうなるかわからないし、

明日はまた気まぐれに何を言い出すのか誰にも全く読めないからだった。

 

「だから安心して、ウサギも可愛いけどアレルギーやからムリやし。

 そう考えると、やっぱり次に飼うとしたら犬かなー?」

 

「えっ、僕いつ捨てられるの・・・」

 

ソルティーヤくんが「どよーん」とした表情を浮かべていると、

「もうー冗談やんかー」と嬉しそうに未代奈は笑っていた。

だが、彼女の冗談を言う顔は、なかなか冗談とは思えない時がある。

冗談を言うには目力が強すぎるからだった。

 

「あっ、時間ないん忘れとった!」

 

未代奈はまた腕時計を見て急いでいたのを思い出したようだった。

焦っているとは言え、その表情はいつになく明るい。

 

「・・・なんだか楽しそうだね」

 

「えっ、何がー?」

 

未代奈は耳が遠いわけではないと思うのだが、

時々こうして英語で言う「Pardon?」を使う事がある。

本人は英語のリスニングは得意だと豪語しているが、

その辺りもなかなか素直に信じられないとソルティーヤくんは時々思うのだ。

 

「最近のミヨナ、なんだか僕といる時よりも生き生きしてるよ」

 

ソルティーヤくんは未代奈が以前よりも楽しそうに日々を過ごしていることに気がついていた。

「Tender days」を「バレッタ」に改装するまでの一時期を考えると、

確かに若い女の子にとっては貴重な青春を仕事漬けにしてしまったような気はする。

その頃と比べれば、今の未代奈は確かにキラキラ輝いていたと言えるだろう。

 

「えっ、そうー?

 今からきな子と舜奈の三人で夢の国に遊びにいくからかなー?」

 

そう言って未代奈は着ている服装をアピールし始めた。

どうやらパーカーもスカートも靴下も三人で色違いに揃えたらしかった。

 

「そうなんだ・・・きな子ちゃんは元気?」

 

「うん、元気やおー。

 なんか最近はようやく食欲を抑制する事を覚えたみたいで、

 体重も元に戻ったっていっとったよ」

 

未代奈はソルティーヤくんがきな子の近況を知りたがっていると思い、

そんな風に彼を喜ばせるような情報をあえて言ってみた。

だが、彼は浮かない顔をしたままうつむいてしまっていた。

 

「そっか、ストレスから解消されたのかな、ミヨナの翻訳機を使って」

 

ソルティーヤくんは何気ない口調で皮肉交じりにそう言ってみた。

未代奈の表情が少しだけ曇ったのを彼は見逃さなかった。

 

「ごめん、別にミヨナの事を咎めようってわけじゃないんだよ。

 だけど、あの犬に翻訳機を渡すのはさすがにダメでしょ?

 そうじゃなきゃ、僕がせっかくきな子ちゃんに猿芝居を打った意味がなくなるじゃないか。

 動物は喋れないのが大前提で存在しているんだからさ。

 もしきな子ちゃんがこの秘密を誰かにバラしたりなんかしたら・・・」

 

「きな子はそんなことする子じゃないから」

 

毅然とした態度で未代奈はそう言った。

いつものように方言でなかったのは、

彼女なりに少しソルティーヤくんに心理的な距離を置いたのかもしれなかった。

 

「うん、彼女を信じてる気持ちは僕にもわかるよ。

 だけどさ、やっぱりあんまり深入りしないほうがいいと思うよ。

 猿にだって縄張りってものがあって、それを犯さないようにして暮らしてるんだ。

 人も猿も、あんまり不用意に近づきすぎると、最終的に傷つくのは自分だよ」

 

ソルティーヤくんが未代奈を心配するように切々と語っていたが、

未代奈は話をあまり聞いていない様子で何やら腕を掻いていた。

 

「どうしたの?」

 

「なんか猿アレルギーになってきたかも」

 

未代奈がそうポツリと呟くと、もうソルティーヤくんは何も言わなくなった。

捨てられて犬を飼われるような未来は避けなければならなかったからだ。

やがて未代奈はかゆそうにしながら静かにバレッタ を出て行った。

 

 

・・・

 

 

世の中には名前と実態が一致しない事が山ほどある。

未代奈たちが向かった児玉坂ランドもその一つであった。

 

児玉坂に住む人々から「夢の国」と呼ばれていたこのテーマパークは、

児玉坂の名前が付いているにもかかわらず、児玉坂の街にあるわけではなかった。

それは東京なんちゃらランドが東京にないのと同じような大人の理由からだった。

 

それはそれとして、児玉坂ランドは児玉坂の街の外側にあった。

児玉坂に住んでいる地主が莫大な資金を投資して作ったこのテーマパークは、

児玉坂の人々だけでなく、全国各地から遊びに来る人々で賑わっていた。

それほど大勢の来客を想定して作る施設になるのだから広い場所が必要になる。

そして、これほど広大な敷地を確保するには、もちろん郊外に作るしかなかったのだ。

東京の地価はそれでなくとも東京オリンピックに向けて高騰していたのだから。

 

 

未代奈は児玉坂の街へやってきてから、一度も児玉坂ランドに遊びにきたことがなかった。

ずっとバレッタの事ばかり考えて生活を続けてきたのだったから無理もなかったのだが、

一緒に遊びに行ったきな子と舜奈がそれを多少バカにしたのは言うまでもなかった。

ここには日常生活から隔離されたような幻想的な世界が用意されてあり、

初めて訪れた未代奈も、その素敵な世界観に感動を覚えずにはいられなかった。

園内には割り箸に手足が生えたようなマスコットキャラクターが手を振りながら歩いていたし、

時々見かけるお店の宣伝用の看板には「1+1=100」と謎の公式が書かれていたりした。

射的ができるアトラクションではハートを目掛けて銃を撃つのだが、

それを外してしまうと、なぜか周囲からあざといという非難の声が飛んだりした。

13日の金曜日には、指定された時間に路上パフォーマンスがあり、

急にどこからともなく人々が集まってきては突然踊り出すという演出もあった。

とにかく、この児玉坂ランドには楽しいものが何でも集まっており、

ここを1日やそこらで全て楽しもうとするのはどう考えても不可能であり、

全てのイベントやアトラクションを語り尽くす事はできないのだ。

 

きな子と舜奈は全てのものにいちいち感動する未代奈を様々な場所へ案内した。

どれもこれも彼女にとっては新鮮なものばかりだった。

どのアトラクションも待ち時間が1時間や2時間は当たり前にあったのだが、

塩アイスの三人で話をしていると、そんな時間はあっという間に過ぎ去ってしまい、

自分達の順番が回ってくるまで長時間待つのも三人には全く苦にはならなかった。

道端に咲くハルジオンの花を眺めながら気持ちの良い散歩をしたり、

一匹で寂しそうに檻に入れられていた無口なライオンを眺めながら何かを考えさせられたり、

ゆらりゆらりとブランコを漕ぎながら、三人で買ったロマンティックないか焼きを食べたりもした。

こんな素敵な体験は、絶対に他では味わえないようなものばかりだったので、

未代奈はすっかり児玉坂ランドに魅了されてしまっていたのだった。

 

「ほんと、未代奈って何にも知らないね!」

 

色々と遊び疲れた頃、きな子が「きな子もう疲れた~!」と言い始めたので、

三人は休憩するために園内にあるレストランに立ち寄ったのだった。

そこでテーブル席に座りながら三人は楽しくおしゃべりを始めた。

 

「未代奈ってさ、テレビとか観ないの?」

 

舜奈の問いかけに、未代奈は寂しそうにこっくりと頷いた。

それを見ていたきな子はニタニタと笑っていた。

彼女は未代奈に意地悪をするのがたまらなく好きなのである。

それが彼女流の誰かへの甘えかたなのだから仕方なかった。

 

「でも六郎丸さんとか普通は誰でもわかるじゃん?」

 

先ほど三人で話をしていた時、ラグビーで有名な六郎丸選手の話になった時、

未代奈だけがよく知らなくて、三人で紙ナプキンに絵を描いてみたのだが、

有名な六郎丸ポーズを教えたにもかかわらず、未代奈はうまく描くことができなかった。

それを見たきな子と舜奈がお腹を抱えて笑い転げたのだった。

未代奈が描いた絵は、誰だかさっぱりわからないおじいちゃんだったからだ。

 

その後、未代奈の描く絵が独特の面白さを持っていることに気づいたきな子と舜奈は、

様々なお題を出しながら三人で絵を描くことにしてみたのだが、

未代奈が描く物はどれも二人が見たことのないようなユニークな物だった。

ヘリコプターには上にあるはずのプロペラはなく、丸い機体の横にはばたく羽のような物が描かれていたし、

自転車にはどういうわけかタイヤが四つ付いていた、しかも絵はあまりに独特で立体感はなかった。

きな子は完全に未代奈をバカにした表情で笑い転げていた。

たまにはフォローしてくれる舜奈も、さすがにおかしすぎて手を叩いて笑っていた。

 

「やっびゃぞ!」

 

あまりにもおかしくなったきな子と舜奈は当時流行っていた芸人さんのギャグを披露したのだが、

未代奈はさっぱり何の事かわからずに一人で困惑してしまった。

 

「ねえ、それ誰のネタ?」

 

「えー知らないのー、時代遅れー!」

 

一人だけ話題についていけない未代奈は悲しそうな表情で彼女たちの服を引っ張りながら尋ねたが、

二人は意地悪な態度で未代奈をずっとからかい続けていたのだった。

 

三人がそんな話をしている間に、レストランはいつの間にかお客さんで満席になっていた。

最近では児玉坂ランドへやってくる団体の外国人旅行者の数も日に日に増えてきており、

どうやらレストランを占めてしまったのは中国人の団体客だった事がわかった。

その中には、その団体客を統率している日本人のガイドさんが一人いて、

レストランへ案内した後は休憩になったのか、一人でゆっくりとお茶を飲みながらくつろいでいる様子だった。

その女性ガイドは「Z」と表記されている旗を持っており、それが旅行団体の目印となっていた。

 

未代奈たちは賑やかになってきていた事には気がついていたのだが、

その団体客達とガイドさんが近くに座っている事には全く気づいていなかった。

自分たちの話題に夢中になっており、周囲の事が全く目に入ってはいなかったのだった。

 

「未代奈って本当に何も知らないね!」

 

「知っとるよー、薄切りジョンソンさんとかー」

 

きな子がからかい続けて来たので、さすがの未代奈も反論する事にした。

自分が知っている流行りの芸人さんの事を例に挙げてみたのであった。

薄切りジョンソンとは欧米人なのだが、日本に来てお笑いをやっている稀有なお笑い芸人だった。

 

「嘘だー、知らないくせにー!」

 

「ちゃんと知っとるもん!」

 

「じゃあ、どんなギャグかやってみてよ」

 

きな子と舜奈に急き立てられた未代奈は、

物知らずであるという汚名を挽回するために彼のギャグを披露する事にした。

だが、彼女達が周囲を見ていなかった事が災難を招くことになった。

 

「Why!? Chinese people!」

 

未代奈は椅子から立ち上がって大声でそう叫んだ。

その大声を耳にした近くに座っていた中国人団体客が一斉に彼女の方を見た。

だが、それにもかかわらず三人は無邪気に話を続けていて周囲の異常には気づいていなかった。

 

「あれ、ちゃんと知ってんじゃん未代奈」

 

「きな子も知ってるよー、ドライヤー25個も買ってどうするんだよ、ってやつでしょ!」

 

薄切りジョンソンは日本に来る中国人の爆買いについて疑問を呈していたギャグがあったのだが、

ところで笑いというのは「修正する」効果があると、ある哲学者は書に残している。

笑いの対象となるのは、集団が持つ共通の常識みたいな物を一つの物差しとし、

そこから一般的に考えて多少ズレていると思われる物である。

そして、社会は笑いによってそういうズレの滑稽さを皮肉ることで、

笑われた対象はそのズレに気づいて次回は笑われないように修正を始める。

未代奈が常識であるはずのギャグを知らないことで笑われ、

次にはそれを笑われないようにするためにちゃんと調べてくるような風である。

 

もちろん、中国人がドライヤーを大量に買うのは、

彼らの文化的背景から導き出される彼らの国の現在の常識であるのだが、

それを日本で行われると笑いの対象となってしまうのもわからないではない。

そういう笑いは各国に無数にあるし、文化が異なる以上は笑いの対象から外れることはない。

異なる文化がある限り、片方から見たもう片方には、異質な物が必ず存在するからである。

 

だが、この手の笑いは国際社会という枠組みでは多少の修正効果をもたらすが、

大きな集団としてそれぞれが個性的な社会文化を持っている限り、

大幅な修正がなされることはない。

むしろ、こうした笑いは攻撃的な要素を秘めているので好ましいとは言い難い。

笑いは人間にとって必要不可欠であるが、攻撃性を完全に排除した笑いはもはや笑いになりにくいし、

どこまで何を抑制すべきなのかは意見が分かれることであろうと思う。

 

だが、そんなことよりも、未代奈たちの周囲の空気はざわついていた。

中国人旅行者たちは自分たちが侮辱されたと思っていたのだが、

それを見た女性ガイドが慌てて立ち上がって旅行者たちをなだめ始めた。

 

「她的不是坏!(彼女が言ったのは悪口じゃないですよ!)

   不是你想的那意思!(あなたがたが思ってるような意味ではないですから!)」

 

女性ガイドはそう言って旅行者たちをなだめ終わると、

続いて先ほど大声をあげた未代奈の方へ顔を向けた。

毅然とした態度で彼女は未代奈たちのテーブルへと歩いて近づいていった。

 

「ちょっと、ああいうのやめてくれます?」

 

彼女は鋭い口調で三人の楽しい空気を切り裂くようにそう言った。

だが、言われた本人の未代奈は意味がわからずにキョトンとしていた。

 

「えっ、なんですか?」

 

「いや、聞こえてるでしょ?」

 

未代奈はいつも通りの反応で聞き返したのだが、

それが全人口の注目を集めようとしていると捉えられてしまい、

その態度がどうやら女性ガイドの鼻についてしまったらしかった。

 

「ああいうのって?」

 

「普通に営業妨害だから」

 

どういう意味かわからなかった未代奈は瞬きが多くなっていた。

突然よくわからない攻撃を受けたというような表情をしていたのだ。

さっきまであれほど騒いでいたきな子は驚いて黙ってしまっていたし、

舜奈もよく状況がわからないままでは余計なことは喋らない方が良い気がしていた。

 

女性ガイドが言葉を述べながら指差す方へ目をやると、

この時点でやっと未代奈は周囲が中国人旅行者でいっぱいになっている事に気がついた。

そして、女性ガイドが座っていた席には「Z」と書かれた旗が立てられていた。

それを見た未代奈はようやく彼女が何を怒っているのかが飲み込めたようだった。

 

「いくらみんなの注目を集めたいからって、

 ああいうあざとい行為はやめてもらえますか?」

 

彼女は旅行者を統率している仕事に支障が出る事を恐れてそんなことを言った。

近年、ガイドの仕事も競争が激しくなっており、お客さんの取り合いが続いていた。

そういう背景もあって、彼女は多少ピリピリしていたのだった。

 

「あなたもやればいいじゃないですか」

 

さすがに一方的に言われっぱなしでは腹が立ったのか、

未代奈もおもわず彼女に対して言い返してしまった。

 

「私、絶対やらないんで」

 

そう言って、彼女は自分の潔癖さを主張していた。

未代奈はどうにかやり返す切り口を探し続けていたのだが、

ふいに彼女の座っていたテーブルに飲みかけのお茶がある事に気がついた。

そして、それがルイボスティーだったことがわかると、

未代奈は絶好の反撃の機会を見つけたとばかりに相手を睨みつけた。

 

「ルイボスティー飲みながら微笑んだの?」

 

女性ガイドはその言葉を受けて少し動揺したが、

何を目的としてそう言われているのかがわからず、

とにかくその未代奈の発言に対しては無視し続けた。

 

「ねえ、だからルイボスティー飲みながら微笑んだのって聞いてるの」

 

こうして始まった二人の全面戦争は5分以上は続いた。

どちらも自己のプライドを守るために相手に譲ることをしなかったせいだった。

やがて「ルイボスティー飲んでるけど、微笑んではいないよ」と言い返したのだが、

「よく一人で微笑んでたけどね」とさも見たことがあるかのように未代奈も言い返した。

 

なぜこの言い合いが5分も続いたのかと言うと、

児玉坂46の「裸でSummer」の歌詞の中にルイボスティーが登場するためだった。

未代奈は女性ガイドがその世界観に浸っていたのかを攻撃し続けたのだし、

彼女はそんな恥ずかしいことをするわけがないと否定し続けたのだ。

 

この二人の共通点は、とにかく恥をかくのが嫌なところであった。

だからお互いにプライドを守るために相手を攻撃せざるをえなかったのだ。

だが、プライドというのは実は盾であり、本当は奥底にある脆さと弱さを暗に物語っている。

しかし、実はその弱さや脆さは自分の思い込みであることもよくあることで、

本当はそんなプライドを捨てることができたなら、真の自分を一つ周囲にさらけ出せることになり、

もっと周囲から本当の自分を愛してもらえる可能性だってあるのである。

だが、言うのは簡単でもやるのは難しいのが人間なのだ。

 

言い合いが終わらないので周りにいた二人が退屈を感じ始めた。

そして、もう耐えられなくなったきな子が女性ガイドの席に置いてあった旗を見て「ゼーット!」と叫んだ。

叫んだというよりは、多少バカにしたようなニュアンスだった。

これにカチンときた彼女は、つかつかと席に戻っては旗を手にとって戻り、

それを実際に掲げて見せながら立派な仕事道具であることをアピールしたのだった。

 

「えっ、知らないの?

 この『Z』の旗すごい好評なんですけど。

 どこにいても見たら一発でわかるって言われるし」

 

「まあ、それはわかるけど・・・」と舜奈が言った。

 

「でもなんか面白い!」ときな子が言った。

 

彼女らの戦争は長期戦になったが、

それを聞いていた未代奈が椅子から立ち上がって彼女の前に出た。

そして、その力強い目で彼女を真正面から見つめた後で口を開いた。

 

「あなたは、なんというか、生活からあざといですよね?」

 

まるで彼女の生き方を全否定するかのような言葉のチョイスに、

女性ガイドは受けた衝撃を隠しきれない様子だった。

 

「マメに旗をあげてらっしゃって、その旗が凝ってるというか。

 ガイドさんとしてはすごい尊敬すべきところですし、

 やってる人も他にもたくさんいると思うんですけども・・・」

 

三人は未代奈が回りくどい丁寧な言い方で攻撃をしながら何を言い出すのか、

固唾を飲み込みながら見守っていた。

 

「あなただけ圧倒的に胃もたれするというか」

 

そんなあまりに痛烈な言葉に、さすがの女性ガイドも苦笑いを隠せなかった。

誰があざといか、という議題を巡って論戦を続けていた二人だったが、

結局のところ、あざとくない人間というのはきな子のような人を指すのである。

それくらい、良くも悪くも生き方が純粋である彼女みたいな人を除けば、

人間は多少あざといものであるし、それも良し悪しはそれぞれである。

 

やがて議題は「マメに旗を上げてるのがあざといアピールなのか?」に移っていったが、

論戦は一向に終わる様子が見られないまま百年戦争へ突入せんばかりとなっていた。

そんな中、二人の話にも飽きてぼーっとしていた舜奈が携帯を見つめて突然叫んだ。

 

「あっ、やっば~、もうこんな時間じゃん!」

 

論戦を続けていた二人は一斉に舜奈の方へ注意を引かれた。

 

「ごめん未代奈、私バイト先に用事があるからもう帰んなきゃいけないんだ~」

 

「えっ、なんの用事?」

 

「えっと、北条さんとちょっと約束があって」

 

「えっ、でも今日は一日ずっと一緒に遊べるって前に言ってたやん?」

 

「それが昨日急に予定が入っちゃって」

 

舜奈が両手を合わせてごめんなさいのポーズをして見せた。

未代奈は残念そうな顔をしていて腑に落ちない様子だった。

 

「でもあの店長さん優しいから断っても怒らんのやないん?

 今日は三人のとっても大事な日やんか~?」

 

「何?またナマステ?」

 

きな子が茶化すようにして舜奈に尋ねた。

 

「いや、今日は別に冷蔵庫の整理ないけどさ」

 

「ナマステってさ~私なんかあれすごい『既視感』あったんやけど。

 あっすごい、これ『既視感』やと思ってインドの基本ですかって言ってみたけど全然違うかったね。

 あれは何の『既視感』やったんやろ~?」

 

「もう!既視感きしかんってうるさいよ!」

 

きな子がそう突っ込むと「もぉ~!」と未代奈がきな子に笑顔でいじけてみせた。

三人が楽しそうに笑っていると、横から割り込む声が聞こえてきた。

 

「あの・・・ちょっと、私ここにいるんですけど・・・」

 

女性ガイドはすっかり置き去りにされているのに腹が立ってそう言ったが、

塩アイスの三人はもうすっかり和やかなムードになってしまって彼女に見向きもしなかった。

やがて舜奈が「ごめんね」と言いながら申し訳なさそうに椅子から立ち上がって帰っていった。

未代奈ときな子は舜奈に手を振りながら彼女を見送ったのだった。

 

「あのー、おーい、無視しないで下さい・・・」

 

「あれ、まだいたの?」

 

「あれ、Zまだいたの?」

 

二人にどこまでも冷たい対応をされた女性ガイドは、

もう怒る気も失せてしまって大きくため息をついた。

こういう相手には怒って見せてもどうしようもないと悟ったのだった。

 

「ああ、もういいです、無駄なことを伝えようとした私がバカでした。

 でもなんか、ここまで言い合うと逆に楽しくなってきた気がする」

 

そう言って彼女は着ていたジャケットの内ポケットから名刺を取り出して二人に渡した。

その名刺には「浜崎瀬奈」と名前が書かれているのが見えた。

 

「私、よくこの辺りをうろついてるから。

 また暇があれば連絡してくれてもいいので。

 まあ大学生だから、これはただのバイトなんだけどね」

 

ただのバイトにしては語学もしっかり身につけているし、

彼女はきっと努力家で只者ではないなと未代奈は思った。

だが、この時はただそう思っただけだった。

 

「よかったら今度一緒に中華街でも行こう」

 

「やだ」

 

「肉まん食べたいねー」と言いながら、未代奈ときな子は立ち上がってレストランを出て行った。

 

「えっ、何この塩対応・・・」

 

瀬奈は周囲の冷たい対応にいじられてとても傷ついてしまったが、

しかし彼女はそんなことで折れるような柔なハートをしてはいなかった。

一人で席に戻ったときにはすっかりルイボスティーは冷めてしまっていたが、

カップを持ち上げて、それをまた一口飲んでから無理にでも微笑んでやった。

 

 

・・・ 

 

 

 

「カントリーロード~ この『坂』~

 ずーっと~ 行けば~

 あの街に~ 続いてる~

 気がする~ カントリロード~」

 

未代奈は坂道を登りながら陽気にそんな歌を口ずさんでいた。

児玉坂ランドからの帰り道、もう少し一緒にいたいというきな子の提案から、

二人は児玉坂駅ではなく、隣町の駅から歩いて帰ることにしたのだった。

空はすっかり茜色に染まっていて、優しい日差しを彼女達の上に落としていた。

今日の楽しかった思い出を語ったり、全く些細な事で話が盛り上がったりしながら、

二人は足取り軽く一緒に坂道を登っていくと、やがて児玉坂駅前が目の前に見えてきた。

駅が近いという事は、駅前に構えているバレッタのお店が近づいているということだった。

 

「あー、もう着いちゃう」

 

未代奈は楽しかった1日が終わる事が悲しくてそんな事を口にした。

本当はもっともっと楽しい時間をきな子や舜奈と一緒に過ごしたかったのだ。

二人は坂道を登るスピードを緩めたり、走り出そうとするきな子を未代奈が抑えたりしながら、

その愉快な笑い声は人通りの少なくなった駅前の大通りに賑やかさを与えていた。

 

「あー楽しかった」

 

バレッタの入り口にたどり着いた時、きな子の方を振り返った未代奈はそう言った。

とうとうお別れの時が来てしまったが、未代奈は前向きに楽しい思い出を噛み締めて、

また明日以降も会えるきな子にきちんと感謝とさよならを告げようと思ったのである。

 

「ありがとう、今日はめっちゃ楽しかった」

 

「うん、きな子も楽しかったよ!」

 

二人は笑顔で笑い合いながら、未代奈はそれじゃと手を振ろうとした時、

きな子はドアの方へ振り向いた未代奈の背中を押して強引にバレッタの中へと入った。

驚いた未代奈は「きな子、どうしたん?」と尋ねたがきな子はずっとニヤニヤと笑っていた。

 

店内は照明がついていなかったので真っ暗になっていたが、

未代奈が手探りに照明をつけた途端、

周囲から突然クラッカーの鳴る音が聞こえてきた。

そこに立っていたのは先に帰ったはずの舜奈だった。

 

「ハッピーバースデートゥーユー♫」

 

舜奈ときな子が手を叩いて急に歌い始めた。

未代奈は嬉しさと驚きで思わず満面の笑みをこぼして照れていた。

店内はいつの間にかカラフルな風船などでデコレーションされていて、

二人が立っている近くのテーブルの上には「みよな」とチョコレートに書かれたケーキが置いてあった。

 

「イェーイ!未代奈おめでと~!」

 

「えー、もうびっくりした~」

 

未代奈は両手で口元を押さえながら感動を隠していたが、

ケーキの上に立っていたろうそくの火を二人に促されるように吹き消した。

また二人の鳴り止まない拍手が店内に響きわたっていた。

 

「えー、舜奈、店長さんとの約束はどうしたん?」

 

「あー、あれ、もちろん嘘に決まってんじゃん!」

 

舜奈は未代奈を驚かせるためについた嘘が成功したので上機嫌に笑っていた。

用事があるふりをして先に帰り、バレッタの店長にお願いして店に入れてもらい、店内の飾り付けを進めていたのだ。

 

「えー、なに、きな子も知っとったん?」

 

「なんか未代奈ぜんぜん気づいてないから、きな子もうずっと一人で笑い堪えてたの!」

 

「あー、だから隣町から歩こうとか言うとったんか~、もう~!」

 

きな子は舜奈と秘密でラインの連絡をしながら、舜奈が飾り付けの準備をする時間を稼いでいたのだった。

きな子と舜奈はお互いの作戦がうまくいったので笑顔でハイタッチしながら喜びを表していた。

 

「あー、きな子もうお腹すいちゃった、早くケーキ食べよう!」

 

「ちょっとその前に・・・これはきな子にも言ってなかったんだけど」

 

舜奈はそう言ってカウンター席の裏側へ回りこみ、何かを手にとって自分の背中に隠しながら戻ってきた。

きな子は聞かされていなかったサプライズに驚いた様子で何かと待ち構えていた。

 

「じゃ~ん!舜奈から二人へのプレゼントでーす!」

 

そう言って舜奈は右手と左手でそれぞれ一つずつプレゼント包装された小さな箱を差し出した。

未代奈もきな子も驚いた表情で思わず声をあげていた。

二人でワクワクしながらプレゼントは何だろうと話し合っていたのである。

 

二人が箱を開けてみると、そこにはハート型の小さなダイヤのネックレスが入っていた。

そして、舜奈の首元をよく見てみると、彼女もすでに同じネックレスを身につけていたのに気がついた。

どうやら彼女はバイト先で稼いだお給料で三人お揃いのネックレスを購入したらしい。

それを渡す機会をずっと待っていて、未代奈の誕生日に乗じて渡すことにしたのだった。

 

未代奈ときな子はお互いにそれぞれ交互にネックレスを付け合った。

首元にキラリと小さく光るネックレスの輝きは、まだ若い三人の絆を象徴するような美しさを放っていた。

未代奈ときな子がそのネックレスに感動していると、舜奈は咳払いをして神妙な顔つきになった。

そして、服のポケットの中から紙切れを取り出してそれを広げて読み始めた。

 

「未代奈、お誕生日おめでとう。

 きな子も、もう誕生日は過ぎちゃったけど、

 三人でお揃いのネックレスがしたかったから、プレゼント受け取って下さい。

 未代奈と出会ってから、なんだか舜は毎日が楽しくて仕方ありません。

 その後、未代奈を通じてきな子と出会って、舜はもっと楽しくなりました。

 三人でいると、本当に楽しくて、嫌なことも忘れちゃうね。

 気を使わなくてもずっと一緒にいられるし、ただ何も意味のない事を話してても楽しい。

 くだらないことばっかり言ってても、仲良くできるっていうのが本当の友達なのかなって、

 舜は塩アイスで過ごすようになってから感じるようになりました。

 きな子はわがままばっかり言うし、未代奈は一人でニヤニヤ笑ってるし、

 もう舜はどうすればいいのってなる時もあるけど、でもいつも助けられてます。

 未代奈はバレッタのことで忙しいと思うし、きな子も時々暴走しちゃうこともあるけど、

 何かあった時は舜が二人の助けになりたいなって思ったりします。

 大したことはできないかもしれないけど、これからも二人を支えていくから。

 だから、これからもずっとずっと塩アイスで仲良くしてください、舜奈より」

 

舜奈はその手紙を読み終えると、その紙切れを畳んで照れ笑いをしていた。

きな子は今までに見せたことのないシリアスな表情を浮かべて頬に涙をこぼしていた。

未代奈はいつもの力強い目と違って優しい瞳をして二人を見つめていた。

 

「舜奈、ありがとう、これ大切にするね」

 

未代奈は右手の指でネックレスのハートをつまんで見せてそう言った。

きな子も同じようにして涙を拭きながら無言で頷いた。

 

それから三人はケーキを切って食べ始めた。

甘いものがそれほど好きではなかった未代奈でも、

そのケーキの味は二度と忘れることはないくらい美味しいと思った。

遠い街から一人でやってきて、仲のよい親友に恵まれて、

楽しい一日を過ごした後で、さらにこんな風に誕生日を祝ってもらえるなんて。

未代奈は故郷で待っている両親にこの喜びを伝えたいと思った。

もう少しお店の経営状況が落ち着いたら、その時は両親に手紙を書こうと思った。

お父さん、お母さん、私は素敵な友達に巡り合えました。

何も心配することはありません、全ては順調です。

そんな風な文面を思い浮かべながら、未代奈は幸福なケーキの味をかみしめていた。

 

世の中にはこんな素晴らしいことがあるんだ。

未代奈は胸のあたりから湧き上がる温かなものを感じていた。

それはカーテンを開いた時に差し込む静かなこもれびのようで、

誰もがこんな優しさに包まれたなら、きっと人間はみんなもっと幸せになれるだろうなと思った。

 

 

・・・

 

 

 

 

冷たい風が外套に吹き付けた。

坂道を登りながら、男は風の進入を許さぬよう、

その外套を両手で押さえつけながら早足になっていた。

 

未代奈の誕生日からしばらくたって、

児玉坂の街にはまもなく冬の訪れが予感されていた。

人々が行き交う道には木枯らしが吹いていて、彼らの帰り道の足を急がせた。

誰もが余計なことを言わなくなり、親しい人々の交流もめっきりと減るのが冬である。

人々は温もりを求めてさっさと建物の中へと帰っていくのだ。

 

男はバレッタのドアを開けると、やっと寒さから解放されたように手を外套から離した。

そして脱いだ外套を無造作に椅子の上に乗せると、自分は椅子に座り込んで店員を呼んだ。

 

「やあ、しばらくぶりだね、元気だった?」

 

源太郎がそう声をかけると、驚いたのは未代奈だった。

彼は寒そうに両手をこすり合わせながらホットコーヒーを注文すると、

鞄の中から何やら本を取り出して読み始めた様子だった。

 

やがて未代奈がコーヒーを持って戻ってくると、

彼はテーブルを占めていた本を脇によけてコーヒーを置くスペースを作り出した。

久しぶりに会った同郷の学生に対し、そっけない態度で引っ込んでしまうのも気が引けたので、

未代奈はしばらく黙って彼が読んでいた本を眺めてみたりした。

その本はフランツ・カフカの「変身」と表記されていた。

 

「この店もすっかり変わっちゃったね」

 

源太郎はコーヒーを一口飲んでからそう言った。

続けざまに「コーヒーもうまくなった」と付け加えた。

 

「僕は君を見直したよ。

 まさか一人でここまで立派なお店にしちゃうなんてね。

 初めて君がここへ来た時は、そりゃあどうなることかと思ったがね。

 泣き虫の女の子が一人で見知らぬ土地へやってきて大活躍、

 なんてのは映画の世界だけの話だからね、夢物語もいいとこさ。

 だけど、君は実際にそれをやってのけたんだからね」

 

源太郎はそう言うとキョロキョロと店内を見回し始めた。

どうやらお目当のものを見つけたのか、満足げにニヤリと笑った。

 

「このキャッチコピーも進化したね。

 なかなか素敵じゃないか」

 

源太郎は店内に貼られていたポスターを指差しながら言った。

ポスターには「児玉坂にこんなに素敵なお店があるのがバレちゃッタ」と書かれていた。

 

「これはまだ納得いってるものじゃありません」

 

未代奈はそう言って褒めてくれた源太郎に謙遜してみせた。

そして、彼女が言ったことは本音でもあったのだ。

このキャッチコピーはとりあえず改善したのだったが、

未代奈がすっかり気に入ってしまったものというわけでもなかった。

 

「そんな謙遜して。

 チョコをちょこっと、よりは全然いいじゃないか。

 少なくともオリジナリティーはある」

 

源太郎はそう言ってからメニューをパラパラとめくった。

何かを注文するには早すぎるスピードだった。

 

「メニューも増えたね、どうも君の好みが多く反映されすぎているのが気がかりだが、

 お客さんにとって選択肢が豊富にあることは良いことだ。

 だが、カフェにイカの塩辛はどうかと思うがね、これは君の夜食か何かかい?

 一つだけ忠告しておこう、夜中にあまり物を食べないほうがいい。

 若いうちはまだ大丈夫だろうが、胃に負担をかけることになるからね。

 あと、よく噛んで食べることをお薦めするよ、そのほうが消化にいい」

 

相変わらず気取った話し方で嫌味なことを言い続ける源太郎に飽き飽きし、

未代奈は軽く応対してから他のテーブルの片付けをし始めた。

 

「おやおや、そう邪険に扱わないでくれよ。

 この街には僕と君しか同郷の人間はいないんだから。

 君の辛さや苦労も人一倍理解できるつもりだよ。

 だからこうして様子を見に来たんじゃないか。

 頑張っているのを褒めることは悪いことじゃないだろう?」

 

源太郎はメニューを続けて確認しながら、

「デザートをもう少し強化すべきだ」と付け足した。

 

「私、甘い物はあまり好きじゃないので」

 

未代奈は少しムカムカしながらそう反論した。

彼女は他人のペースで行動するのが何よりも嫌いだった。

 

「しかし、抹茶を使ったデザートのバリエーションがこれほど豊富なのに、

 その他の選択肢がないのは非常にアンバランスだよ。

 ここからもこのお店が君の嗜好に偏りすぎているのがよく分かる」

 

「だって、ここは私のお店ですから」

 

好き放題に言われて堪忍袋の緒が切れた未代奈は、

あの強烈な眼力を使って源太郎を睨みつけた。

自分が自分の思う通りに盛り上げてきたお店をけなされることは彼女には許せないことだったからだ。

 

「何、怒ってるのかい?

 いや、そんなつもりじゃないよ、僕はただアドバイスしたかっただけなんだから。

 わかった、悪かったよ、もう君のやり方にはケチをつけないようにするよ。

 そうだな、気分を変えてもっと楽しい話をしようか」

 

そう言ってから彼は鞄の中をごそごそとやり始め、

中から光るペンライトを二本取り出して見せた。

源太郎はそのうちの一本を未代奈に手渡した。

未代奈が不思議そうにそれを眺めながらボタンを押すと、

ペンライトは光を放ち色を帯びた。

 

「森ちゃん、これが何か分かるかい?

 そう、これが噂の児玉坂46のペンライトだよ。

 ライブなんかでファンのみんなが振って応援する物だね。

 そしてこれが推しメンタオル、うちわ、生写真・・・」

 

源太郎は次々とグッズを取り出して未代奈に説明して見せた。

未代奈は始めて見るような物ばかりで珍しそうに眺めていたが、

やがて源太郎が興奮を堪えきれないという様子で語り始めた。

 

「そう、僕はね、ついに児玉坂46の握手会とやらに行ってみたんだよ。

 僕が思ったのはね、これはとっても面白いビジネスモデルだということだよ。

 CDを買ったら児玉坂46のメンバーと握手をすることができるんだ。

 握手をする前にはミニライブを見ることだってできる、これはお得だよ」

 

源太郎はチケットのような物を人差し指と中指の間に挟んでヒラヒラと揺らして見せた。

それはどうやら児玉坂46の握手券のようだった。

 

「一つ残念なことは、もう人気が出すぎてなかなか握手券が取れないことだ。

 もっと早くこんな面白い物に気づいていたらよかったんだけどね」

 

源太郎がそんな話をしていた時、ちょうどお店のBGMが変わった。

次に流れてきた曲は児玉坂46の「やべぇ、バレちまッタ」だった。

 

「そうそう、この曲なんかもいいんだよね。

 特に新しくセンターになった子が健気に頑張ってる。

 曲調もいままでにない感じだし、僕はこの手のサウンドが大好きなんだ」

 

「この曲は私も大好きです」

 

未代奈が始めて源太郎の言うことに同意したのがこの時だった。

そして、おそらくこれが最後だったかもしれない。

 

「だけどね、僕が本当に関心を持っているのは、

 この時代に生まれた特殊なアイドルというビジネスモデルについてなんだ。

 これはとても精巧に作られているよ、実にうまくできている。

 もし握手会の会場を空高くから俯瞰してみるとする、

 いったいそこには何が重なって見えてくると思う?

 それはね、僕らが公園で地面を眺めた時に見える物と同じなんだ。

 それは女王蟻に会いに行く働き蟻の行列となんら変わらないんだよ。

 だが蟻の世界と異なるのは、女王蟻の後ろには王様蟻が控えていることなんだ。

 女王蟻が煌びやかな洋服を着ている裏で、王様蟻がそれを統率しているのさ。

 言うなればこれは見せかけのフェミニズムだよ。

 女性が活躍するように上部を飾りながら、実は内部にはまだまだ男尊女卑が残っている。

 もちろん、古来より男性と女性という二つの性が存在する以上、

 そこに生まれるビジネスの本質はなんら変わらないで存続してきた。

 もちろん、ここがその過渡期であり、今後フェミニズムはますます発展していくが、

 欧米諸国と比較すれば、この国の文化的な背景もあって女性が自ら声を上げることは少ないんだ。

 だけれども、そういうサイレントマジョリティーの声は誰に届くこともなく消えていく。

 特に男性たちは都合の良いように解釈して物言わぬ人々は賛成していると言い出す始末だ。

 こんなバカなことはないと思うのだけれど、この国の現在を生きる人々は何も気づかない」

 

源太郎はコーヒーカップを手にとって一気に喉へと流し込んだ。

そして先ほどから語る饒舌さでまた話をつないだ。

 

「僕はね、このアイドルというものをテーマに論文を書くことに決めんたんだよ。

 いつの世も男女の間には様々な形の不等号が存在しているし、

 その大なり小なりは程度を変えて拡大したり縮小したりしているが、

 とにかく、このアイドルという文化はなかなか興味深いものだし、

 歴史的なフェミニズムの発展における通過点として考察してみるならば、

 なかなか面白い題材になるんじゃないかと僕は思っているわけさ。

 僕たち東洋人が考えるテーマにふさわしいとも感じるしね」

 

そう言うと、もう源太郎は椅子にかけていた外套を手にとって席を立ってしまった。

彼が飲んだコーヒーの代金はテーブルの上に残されていた。

 

「そういうわけで、僕はしばらく論文の執筆にとりかかるよ。

 次に会うのはもう少し先になってしまうかもしれないな。

 余計な邪魔が入って気が散らないように、僕は部屋に引きこもると思うし、

 できるだけ短い期間に集中して書き上げてしまいたいと思っているからね。

 つまり、僕が言いたいのはそういうことだよ、君に言いたいことはね、

 まあ大丈夫だと思うけど、僕の邪魔になることはしないでほしい、

 それだけを伝えに様子を見に来たってわけさ。

 だけど、どうやら僕の杞憂に過ぎなかったみたいだね。

 どうやら君は真面目にお店のことだけ考えて仕事をやっているみたいだし」

 

源太郎は外套を身にまとうと、ドアのところまで歩いて行った。

先ほどからカウンターに座って聴いていたソルティーヤくんに気がつくと、

彼は右手を上げて挨拶を交わした。

 

「やあ、ソルティーヤくんもいたのかい、失敬したね。

 まあ僕はフェミニストだけれどアニマル・ライツにはあまり興味がないから。

 残念ながら君の愛読書であるピーター・シンガーも読んでないしね。

 とにかく、森ちゃんが余計なことをしないようにくれぐれも頼みますよ。

 今は猫の手だけでなく猿の手も借りたいような状況なんだからね」

 

そう言うと源太郎はバレッタのドアを開けて外へ出て行った。

 

「やなやつ、やなやつだよ。

 きっと自分が誰からも相手されないから寂しいんだ」

 

ソルティーヤくんは未代奈の足元へ駆け寄りながらそう言った。

未代奈は黙って源太郎が飲み干したコーヒーカップを片付けていく。

 

「いくら少し頭が良くったって、知識をひけらかすやつはロクなもんじゃないや。

 フェミニストなんて言ってるけど、あいつこそ見せかけのフェミニストじゃないか。

 ああいうやつこそジェントルマンを気取りながら一番女性を蔑視してるよ」

 

「こら、ソルティーヤくん、あんまり人の悪口を言ったらあかんよ。

 そんなことしたらソルティーヤくんもやなやつになるだけやから」

 

未代奈は淡々とした様子で食器を洗い場へ持って行って水洗いを始めた。

 

「だってさ、ミヨナは悔しくないの?

 あんなやつに一方的に言われっぱなしでさ」

 

未代奈は黙って食器を洗浄機にかけて動かした。

ゴォーっという音を立てて洗浄機は食器を綺麗に洗っていく。

 

「いちいち気にしたら負けやで、相手にせんかったらええよ、それに・・・」

 

未代奈は何かを決意したような顔でうつむいていた。

 

「私たちがもっと強くならなきゃダメやってことやと思う。

 何があっても負けんように、心を強く持つように・・・」

 

そう言ってから未代奈は止まった洗浄機から食器を取り出して行った。

ソルティーヤくんはしばらく言葉を失ってただ未代奈をじっと眺めていた。

 

「大人になったねミヨナも」

 

ソルティーヤくんは「そういえば最近前よりも綺麗になったね」と付け加えた。

未代奈は照れながらも少し微笑んで彼に返答した。

 

「ほら、私、猫アレルギーやから。

 猿の手しか借りれんから、早く手伝って」

 

未代奈はそう言って洗い終わった食器をソルティーヤくんに手渡した。

ソルティーヤくんはそれを食器置き場まで運んで行った。

 

 

・・・

 

 

 

 

バレッタを出た源太郎は鼻歌まじりに散歩し始めた。

ちなみに、彼の鼻歌は児玉坂46の「不平等」だった。

 

彼はとても清々しい気分で散歩をしていた。

散々悩んだ挙句、ようやく論文のテーマが見つかったのである。

誰も手をつけていない領域を研究するというのはとても難しいことで、

地道に物事を調べながら隙間を探すようなものであった。

世の中というのは大抵の物事にはもう先鞭がつけられており、

誰もやっていないことを見つけるというのは針に糸を通すように困難なことだった。

ビジネスの世界でも、芸術家であっても、彼らは常にその針の穴を探しているのであるが、

答えのない領域に答えを見つけるようなものであり、

運良くその隙間を見つけたとしても、いざ行動しようと思うと勇気が出ないものである。

だが、グズグズしていると誰かに先を越されてしまうことになるし、

とにかく閃きと一気に駆け抜ける集中力が必要とされる仕事であった。

 

彼はずっと部屋にこもって重苦しくて薄い酸素の中で呼吸をしていた。

そこから解放される閃きを得たとき、彼はすこぶる上機嫌になって部屋を飛び出したのだった。

そして思い出したようにバレッタまで足を運び、その閃きを誰かに聞いて欲しくなったのである。

こんな風に、何かに没頭する人は極めて自己中心的であると言えるかもしれない。

その人は自分が閃いたアイデアに夢中になり、全くそれしか見えなくなり、

それが彼の全価値観と等しくなり、ドンキホーテのように無謀な旅に出かけることになる。

 

そんなわけであって、青空の下で彼が吸っている空気は格別のものであり、

街路樹を照らす日差しは希望に満ちており、彼は緑の木々と同じように光合成をしている気分だった。

疲れを知らぬ軽やかな足取りで、彼は新鮮に思える街の景色を堪能していた。

こんな清々しい気分の日は、今まで見たことのある街の風景が一変して見えたりもする。

気づかなかった看板やお店に気づかされたり、見たこともない花が植えられているのに気づいたりする。

考え事をして唸っているときは、全く街の景色を見ていなかったことに気づかされるのである。

 

彼は吹いてくる北風にも負けず、まだ頑張って咲いている花や昆虫や鳥たちに目を向けた。

彼の心には一足早い春が到来していたのであり、今の季節が初冬であることをすっかり意に介していなかった。

 

彼は帰ってから着手し始める論文の構成を考えたりしながら、

やがて昆虫や鳥達に釣られるようにして公園へ入っていった。

そして、大樹の陰となっているベンチに腰を下ろしてまた何やら熟考に耽っていた。

 

「こらー、チョップ勝手に走って行っちゃダメー!」

 

源太郎が目を閉じて瞑想していると、彼の耳には爆音量の声が聞こえてきて彼の思考を遮った。

いったいこの騒音はどこの誰かと思いながらイライラして目を開けてみると、

彼の目の前の草原を一匹の犬と少女が駆け回っているのが目に入った。

 

「もう!さっきお菓子あげたばっかなんだからそんなに食べちゃダメ!

 きな子だってダイエットするために我慢してるんだから!」

 

走り周っていた犬を猛スピードで追いかけてきて捕まえた少女が大声でそんなことを言っていた。

犬はワンワンと何かを訴えるように少女に向かって吠え続け、それを聴いてからまた少女が犬に何やら話しかけていた。

 

「えっ、じゃあディガちゃんと会わせろって?

 もう!また夢みたいなことばっか言って!」

 

その言葉を聴いた源太郎は思わずベンチから立ち上がった。

彼の目が狂っていなければ、彼は確かに目の前の少女が犬と会話をしている様子が見て取れたからだ。

源太郎は驚いた様子で一歩、また一歩と前進し、目を凝らしてその少女と犬を見つめていた。

そして、彼は犬が蝶ネクタイをつけていること、少女の耳にはワイヤレスイヤホンがつけられていることを確認した。

 

(・・・なぜだ、どういうことだ、これはいったい・・・)

 

源太郎は右手で頭を抱えながらゆっくりと少女へと近づいていった。

苦悩に歪んだ表情を浮かべながら、彼はおもむろに少女に向かって話しかけた。

 

「君、その蝶ネクタイとイヤホンはどこで手にいれたんだい?」

 

源太郎がゆっくりと近づいていくと、チョップはきな子を守るようにして立ちふさがり、

彼に向かってワンワンと激しく吠え始めた。

 

「ああ、ちょっと君、この犬を静かにさせてくれないかな?

 僕は犬はあまり好きじゃないんだ、子供の頃に手を噛まれたからね。

 犬は可愛がったって、いつか突然にして裏切るからね、僕はあまり信じないようにしてるんだよ・・・」

 

源太郎が頭を押さえながらきな子に向かってそう言ったが、

チョップはますます激しく猛り狂うように吠え続けた。

犬ほど動物に優しい人間とそうでない人間を見分ける能力を持っている動物もいないのではないか。

 

「えっ、チョップ、どういうこと?」

 

きな子は不安そうな表情を浮かべてそう一人でつぶやいた。

耳元に手を当ててイヤホンを押さえていることが源太郎には確かに見えた。

 

「ねえ君、これはどういうことだろうか?

 君はまるで犬がしゃべっている言葉がわかるように見えるね?

 どういうことかな、この街の人々が犬の言語を理解できるなんて、

 そんなことは学校の先生は一つも言っていなかった気がするんだけれど・・・。

 おかしいな、僕の記憶違いかな、テストはいつも100点だった僕が、

 そんな記憶違いをすることが考えられるだろうか?

 それとも君は誰かからその蝶ネクタイとイヤホンをもらって、

 それで犬と会話できるようになったとでも言うのかな?

 でも誰にそんなことができるだろう?

 僕以外に誰がそんなことができると言うのだろう?

 まさか君は、彼女と知り合いだというのではあるまいね・・・?」

 

何やら絶望的な暗い表情を浮かべながら近づいてくる源太郎を見て、

きな子は意味のわからない恐怖を感じて後ずさりをしていた。

彼にチョップと話をしていることがバレてしまったのも、

彼女の罪悪感を煽ってしまったのだった。

 

「ワンワン!(きな子、逃げろ、こいつは胡散臭いぞ!)」

 

「ああ、うるさいな、犬はいつもうるさいんだ。

 ちょっと静かにしてくれないかな、論文が書けなくなるじゃないか・・・」

 

源太郎は耳を押さえて嫌悪感をあらわにしていた。

彼はチョップがいる限りきな子に近づくことはできず、

神経質になっているのか未代奈のように瞬きが多くなっていた。

 

「・・・なるほど、君は人間じゃないんだね」

 

「・・・チョップ、もう帰ろう!」

 

そう言ってきな子はチョップを連れて猛スピードで走り去ってしまった。

去っていく彼女たちに手を伸ばすようにして静止を呼びかけたが意味がなかった。

源太郎はやっと静かになった公園に一人取り残されて立ち尽くしていた。

公園には小鳥達が木々で戯れる鳴き声だけが響いていた。

 

 

 

・・・

 

「ワンワンワン!ワンワンワン!」

 

部屋の中の物をひっくり返しながら、きな子は何かを探していたが、

チョップは相変わらずずっときな子に向かって吠え続けていた。

おそらく何かをずっと訴えかけているのだったが、

きな子はイヤホンを外していたのでチョップの声は聞こえなかったのだ。

 

「ちょっと、きな子、チョップを静かにさせてちょうだい!

 あんまり吠えさせるとご近所さんに迷惑だから」

 

「もう!わかってるって!」

 

きな子は階段の下から呼びかけてきた母親にそう言って返事をした。

そして、きな子の部屋でずっと吠え続けているチョップのお尻を叩いた。

チョップは痛そうに高い声を上げたが、めげずにきな子の方を向いて吠え続けた。

 

「うるっさいなー!何か用!?」

 

きな子は外していたイヤホンを手にとってぶっきらぼうに耳にはめながらそう言った。

机の上は引き出しから取り出した色々な物でゴチャゴチャになっていた。

 

「きな子、さっきも話した通り、やはりこの蝶ネクタイをくれたあの子を疑ったほうがいい。

 先日、公園で会った男は、我輩が見る限り相当胡散臭い男であることは間違いないぞ」

 

チョップはきな子の前にお座りをして説教を始めた。

実はさきほど、公園から帰った後もこの話題をずっと話していて、

きな子は鬱陶しくなってそれからしばらくイヤホンを外してしまっていたのだった。

 

「今はそれどころじゃないから!」

 

きな子は鬱陶しそうにチョップを無視して部屋の片付けを続けていた。

衣類のポケットの中、クローゼットの隅っこ、机の引き出しの中など、

くまなく何かを探しているのだが、一向にみつからない様子だった。

 

「ないないない!なんでないの~!」

 

机の上に散らばっているガラクタをひっくり返しながらきな子は叫んでいた。

 

「きな子、いったい何を探しているんだ?」

 

「舜奈からもらったネックレスがないの! 

 あれとっても大切な物なのに!」

 

ネックレスのことに必死になっているきな子は話を聞く余裕がないと思ったチョップは、

きな子と一緒にネックレスを探してあげることに決めた。

チョップは人間やアンドロイドよりも優れている嗅覚を発揮し、

家中の匂いをくまなく嗅いで捜索を続けてみたのだが、

彼の鼻をもってしてもとうとうネックレスを見つけることはできなかった。

チョップいわく、この家からネックレスの匂いはしないということだった。

 

きな子は相当ショックを受けてしばらくのあいだ落ち込んでしまっていたが、

チョップから友達には早めに素直に謝った方がいいと諭されたので、

しばらくためらっていたが、やがて渋々謝ることに決めたようだった。

だが、次に会う時に直接言う勇気は持っていないようで、

とりあえずラインを使って謝ることにした。

これであれば相手のショックな反応を直接見なくて済むからだった。

チョップは直接会って謝る方法を薦めたが、結局はあいだをとってラインで謝ることで承知した。

 

「舜奈と未代奈、やっぱり怒るかな・・・?」

 

きな子はスマホを持ってラインを起動させながら不安そうにチョップに尋ねた。

 

「もちろん、怒るかもしれんが、それでも心を込めて謝るしかない。

 こういうのは先延ばしにすればするほど言い出せなくなってしまうし、

 もっと辛い結果になってしまうこともある、早めに言った方がいいんだよ」

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

                       ねえ、二人に言わなきゃいけないことがあるの・・・

 

 

 

何?どうしたの?

 

 

どうしたんきな子、そんなにかしこまって

 

 

 

                       怒らないで聞いてくれる?

 

 

言ってくんないとわかんないよ・・・

 

 

どうしたん?怒らんから話してみ

 

 

 

                       実は・・・

 

 

実は?

 

 

                       舜奈からもらったネックレス無くしちゃいました!

 

 

 

マジか!!しょっく!

 

 

                       ごめん!

                       きな子すっごい探したんだけど見つからなくて・・・。

 

 

 

いや、まあなくなっちゃったものは仕方ないけどさ

 

 

                       舜奈は許してくれる?

 

 

まあ、だって許すしかないっしょ・・・

 

 

                       やったー!

                       未代奈は・・・?

 

 

未代奈、怒ってんの?

 

 

                       うそ・・・怒ってる?

 

 

あれ?未代奈?

 

 

 

                       未代奈ごめん!

                       きな子のこと殴ってもいいよ!

                       だから許して!

 

未代奈、どうしたの?

 

 

                       怒っちゃった・・・?

 

 

おーい、返事がないね・・・

 

 

                       未代奈ーーーーーーー

                       ごめーーーーーーーん!!

 

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 

「どうしよう、未代奈、怒っちゃったみたい・・・」

 

きな子はショックで体の力が抜けたのか、部屋の床にぺたんと座りこんでしまった。

チョップはきな子が持っていたスマホを覗き込んで文面を確認した。

 

「ほら、やっぱりこうなってしまった。

 こういうのは便利かもしれんが、相手の顔を見ない分だけ不安が募ることになる。

 相手が返信をくれないだけで、いてもたってもいられなくなるだろう?

 やはり直接顔を見て謝るのが一番誠意が伝わるものなんだよ」

 

「おそろいのネックレス、未代奈は大切にしてたし・・・」

 

きな子は三人で集まるたびに未代奈が嬉しそうにそのネックレスを触っているのを見たことがあった。

舜奈も三人で遊ぶ時はいつも身につけていたし、きな子も時々忘れてしまったりもしたが、

ほとんどの場合は同じようにネックレスを身につけるようにしていたのだ。

きな子は自分が軽率にもどこかに落としてしまったのか、置き忘れてしまったことを後悔した。

 

「怒っているかもしれんが、とにかく悪いのはこちらなのだから、

 こういう時は許してくれるまで謝るしか方法はないんだよ。

 よし、後で一緒に散歩に行くついでにあの子の店に寄ってみよう。

 そこで直接顔を見て謝罪をすれば、きっと許してくれるにちがいない」

 

チョップは泣きべそをかきそうなきな子の頬をペロリと舐めてやった。

きな子は、その舐められた頬を腕で拭うと、立ち上がって階段を駆け下りていった。

 

 

・・・

 

 

散歩のついでにきな子とチョップがバレッタを通りかかった時、

バレッタの入り口のドアには「Closed」の札がかかっていた。

通りに面した大きな窓から中を覗いてみても、店内には誰も見当たらなかった。

未代奈だけでなく、いつもカウンターに座っているあの店長すらいないのだ。

今までにこんな事はなかったきな子は少し奇妙に思ったのだが、

あの日以来、一向にラインの返事をくれない未代奈の事を考えると、

おそらく彼女は相当怒ってしまって閉じこもってしまっているのか、

お店を休みにしてどこかへ出かけてしまっているのかと考えていた。

あまりにショックを受けて実家に帰ってしまった可能性も捨て切れなかった。

 

きな子はチョップが制止するのも聞かず、多少音が響くようにドアを叩いてもみた。

はじめは恐る恐る叩きながら、やがて思ったよりも大きな音を立ててしまった事に自分で驚いたが、

中から何も反応がないのに不満を抱くと、ムッとした表情になってもっと乱雑にドアを叩いた。

その様子を見てさすがにチョップが身を呈してきな子の暴走を止めたのだった。

 

その翌日も、またその翌日も、きな子はバレッタを覗きに行ってみたものの、

結局、店内の様子は先日と何一つ変わる事はなく、彼女は途方にくれるのだった。

 

そうして4日目を迎えた時、きな子の悲しみは怒りへと変わった。

仮に未代奈が怒っているにしても、ラインを無視するのは酷すぎると思った。

もし何も言わずに実家に帰ってしまったとしても、それはそれで親友としてあんまりだ。

塩アイスの絆はそんなものだったのか、一緒に夢の国へ遊びに行ったり、

共に誕生日会を祝ったりまでしたのに、もちろんネックレスをなくしたのは自分の落ち度だったが、

たかが物をなくしただけで壊れてしまうようなやわな友情だとは彼女は考えていなかったのである。

 

お昼ご飯を食べたあと、きな子は自室にこもって椅子に座ってずっとぼんやりしていた。

チョップは床に伏せて前足を舐めながら手入れをしていたのだったが、

きな子が突然、何かを思いたったように立ち上がった物音に驚いて身を起こした。

 

「きな子、急に立ち上がるとびっくりするじゃないか。

 吾輩の方へ勢いよく滑ってきた椅子がもう少しでぶつかるところだったぞ」

 

「未代奈、大っ嫌い!」

 

きな子はムスッとした表情で突然そう叫んだ。

昨日まで悲しみに暮れて涙を流していたのと同じ人には見えなかった。

 

「いったい何がいきなりどうしたんだ?」

 

「こんなの酷すぎだよ!

 ネックレスをなくしたのはきな子が悪いかもしれないけど、

 それで今までずっと仲良くしてきた友情まで壊れちゃうなんて。

 よくわかんないけど意地張って連絡くれないなら、

 もうきな子、バレッタのドアぶっ潰してでも未代奈に文句言ってやるから!」

 

アンドロイドであるきな子は機嫌が悪い時、

体内の循環機能がうまく作動せずに暴走状態に陥る。

エネルギーが循環されている間はポジティブな明るさを生むが、

歯車が狂ったように調節が効かなくなると、悲しみは怒りに、怒りはまた悲しみに変換される。

あまりに増幅される憎悪は、アンドロイドとしての彼女自身を暴走させていき、

そのパワーはこの児玉坂の街を破壊し尽くすほどの威力を秘めているのであり、

チョップはいつもこんな風になってしまうきな子を必死で食い止めるのである。

 

「・・・よし、わかった、だがきな子、まず落ち着くんだ。

 色々と思うところはあるだろうが、暴力的なのはいけない。

 人間同士は話せばわかりあえるんだ、まず対話の窓口を閉ざしてはいけないよ・・・」

 

「もう十分だよ、あんなにラインしたのに返事もないし」

 

「ひょっとしたら携帯を落としたのかもしれないよ?」

 

「そんなはずないよ、だって直前まできな子達とラインしてたのに」

 

「その時は少し怒ってしまったかもしれんが、後で冷静になって返事をしようとした時、

 携帯をなくした事に気がついたのかもしれないじゃないか、決めつけはよくない」

 

チョップが様々な角度から誤解の可能性を説明していったが、

きな子は頭では理解しているものの、どれも腑に落ちない様子であり、

顔は渋い表情を浮かべたまま、今にもまたカッとなって駆け出して行きそうだった。

チョップはこんな説明で宥めながらも体毛が湿るほどの汗を密かにかいていたのだが、

伊達に長生きしているわけではない年の功で、きな子を落ち着かせてやろうと思っていた。

 

「でも、もう4日も経ってるし」

 

「まだ4日じゃないか」

 

「普通、4日もあれば携帯見つかるし。

 だいたい携帯なくしても未代奈はきな子の家知ってるんだから、

 それなら直接謝りにくればいいじゃん、そしたらきな子だって別にすぐ許してあげるのに」

 

「いや、そもそもネックレスをなくしたのはきな子じゃないか・・・」

 

チョップが余計な一言を言ってしまったので、

きな子の表情がまた曇って行ったのがわかった。

 

「そんなのわかってるよ!

 じゃあチョップはきな子が全部悪いって言うの!?」

 

「そんな事は言ってない、きな子、落ち着いて聞いてくれ、我輩はただ、ワンワンワン・・・」

 

きな子は立ち尽くしたまま右手でイヤホンを外してしまった。

チョップは何かを伝えようとして話を続けているが、もうきな子には何を言っているのかわからない。

 

「・・・こんなの、使わなきゃよかった」

 

きな子は下を向いたままイヤホンを右手で握りしめていた。

その悲しみに満ちた瞳からポタポタと何やら雫が床に落ちていく。

 

「チョップとお話しできるようになってからケンカばっかり・・・。

 何喋ってるかわからなかった時の方が今よりずっと仲良くしていられたのに・・・」

 

きな子は右手に握りしめていたイヤホンをチョップめがけて投げつけた。

イヤホンはチョップの頭に当たって床に落ちてしまった。

チョップがそれを口でくわえて拾っている間に、

きな子はもう部屋を飛び出して何処かへ走り出してしまった。

 

チョップは部屋を飛び出して行ったきな子を追いかけた。

階段を降りてから玄関のドアが閉まる前にすり抜け、

なんとかきな子の後ろ姿が見えるところまで追いついた。

だが、きな子はアンドロイドである為に足が尋常でないほど速い。

チョップが全速力で走り続けてもいい勝負であるのに、

さらにきな子は機械である為にほとんど疲れ知らずなのだ。

彼女が時々、疲れたから休もうというのは精神的な甘えであり、

肉体疲労に由来するものでない事はチョップにはよくわかったいた。

ましてやきな子はまだ若いのでパーツが全然錆びたりしていないのだ。

チョップが追いかけても追いつくはずはなかったのである。

 

そして、チョップにとって災難だったのは、

玄関を飛び出したところに子供達が棒を持って遊んでいた事であった。

犬にとって棒を持った子供ほど恐ろしいものはなく、

彼らの中には無慈悲にも犬を見ると棒で叩こうとする輩がいた。

これは現代ではもう見られない、犬の世間での古い昔話しにすぎなかったのかもしれないが、

人間達もこの様子を観察して「犬も歩けば棒に当たる」という諺を残しているほどである。

チョップは無意識にうちに建物の陰に隠れて子供達が何処かへ行ってしまうのを待たねばならなかった。

そのうちに、もうきな子は何処かへと走り去って消えてしまった。

 

きな子を見失った後、でしゃばると災難に遭うという意味のこの諺を思い出すと、

チョップはもう犬の無力さを思い知らされてしまったのだった。

そして切なげに犬の世界のブルース曲である「いぬのおまわりさん」を口ずさみながら家へと帰った。

犬には泣いている子猫ちゃんのお家を探してあげる事さえできないほど無力なのだ。

人間達は実によく動物達を観察して歌を作っているとチョップは思った。

 

 

・・・

 

 

 

 

「わぁ、嬉しいです!

 舜、金平糖大好きなんで~」

 

未代奈が失踪してから3日目の夜、

舜奈はいつも通り「Bar Kamakura」へ働きに出ていた。

この頃では舜奈のことを贔屓にしてくれるお客さんもできていて、

バーへ遊びにきた時にお土産をくれる人もいたのである。

そして、彼らはいつも金平糖を舜奈に差し入れる。

なぜなら、店長である北条真未が事あるごとに、

彼女の好きな食べ物は金平糖だとお客さんに告げるからである。

お客さんは、お寿司やお肉よりも金平糖が好きなことを訝ったが、

舜奈は面接時にごまかしてしまった以上、その設定を守るより仕方なかったのだ。

 

お客さんから金平糖を受け取って控え室へ戻った舜奈は、

自分のカバンの中に金平糖を入れてから大きくため息をついた。

カバンの中には、先日もらった金平糖がまだ入っていた。

 

(・・・下手な嘘はつくもんじゃないな・・・)

 

舜奈が控え室のパイプ椅子に座って肩を落としていると、

店長の真未が外から舜奈を呼びつけた。

カバンを置いて控え室を出て行くと、真未がお客さんに出すお酒の準備ができたところだった。

 

「2番のテーブルにこれお願い」

 

「あー、あの金平糖くれた人ですか」

 

舜奈はあのお客さんのところへ行くとわかった時、

また作り笑いを浮かべなければならないことに気疲れを覚えたのだった。

もちろん、始めの頃の舜奈は金平糖好きを公言することに何の抵抗もなかった。

2週間くらいはずっとそのキャラを使ってお客さんの注目を集めることもできた。

しかし、こんな風にたくさんのお客さんが差し入れをくれるようになってから、

舜奈はこんなバカみたいな嘘をついてしまったことを後悔し始めた。

こんな時には、もちろん金平糖は食べたふりを装わなくてはならなかったし、

その演技がまたさらなる金平糖を呼び込むことになるだろう。

舜奈はいつ果てるかもわからない金平糖地獄に巻き込まれて辟易としていた。

もしこれをお寿司や焼肉と言い換えていれば、ひょっとしたら差し入れは違っていたかもしれない。

そんなことを考えていると、この金平糖が好きだという嘘は誰も得しない上に、

自らの首を絞めながら、さらに美味しい差し入れを得る機会すら奪っているとわかって悲しくなってきた。

だが、この金平糖の嘘を認めてしまうと、ひいては年齢詐称疑惑に火をつけることになる。

店長の真未はおそらく見逃してはくれないだろう、きっと一つの疑念は飛び火してさらなる炎上を生む。

舜奈にとって、ここはどうしても金平糖のボーダーラインを譲ることはできなかったのである。

このボーダーに縛られていたことに気づいていたとしても、それはどうしようもなかったのだ。

 

「どうも、お酒、お待たせしました」

 

「あー舜奈ちゃん、いつもありがと」

 

舜奈が何とか作り笑顔を整えてお客さんのテーブルへお酒を運んでいくと、

年配の男性客が愛想よく彼女を迎えてくれた。

 

「いえ、こちらこそいつもありがとうございます。

 さっきもらった金平糖、もう早速食べちゃいました。

 舜、金平糖好きすぎて我慢できないんですよー」

 

キャピキャピした態度でぶりっ子に努める舜奈は、

これが仕事だと自分に言い聞かせながら話を合わせていた。

 

「おお、そうかそうか、全く舜奈ちゃんは単純だなー。

 そんなに喜んでくれるなら、また金平糖いくらでも買ってきてあげようか?

 お寿司とか焼肉とか言われたら困るけど、全く安上がりな子だなー!」

 

単純なのはどっちだよ、と舜奈は思いながらも笑顔をキープ。

そしてケチかよ、とも舜奈は思ったが表情には表さないように努めた。

 

「そういや、最初に舜奈ちゃんに会った時、

 習字で『金平糖』って書いてくれたの見せてくれたもんなー。

 そんなに好きなのかって、おじさんびっくりしちゃったけどねー」

 

(・・・おいおい、これ以上黒歴史を掘り起こすのやめてくんない?・・・) 

 

「えーっ、まだ覚えてたんですか~!

 恥ずかしいですからもう早く忘れてくださいね~!」

 

漏れ出そうな心の声はうまく閉まったままで、舜奈はようやくお客さんの側から離脱することができた。

またカウンターのところへ戻ってくると、舜奈は解放感から思わずため息をついてしまった。

 

「ありがと、舜奈、ちょっといい?」

 

カウンターに立っていた真未が控え室を指差しながらそう言った。

何かまずいことでもしてしまったのかと舜奈は思った。

さっきのお客さんへの対応がいけなかったのだろうか。

 

連れられて控え室へ入ると、真未は舜奈をパイプ椅子に座らせてドアを閉めた。

外で流れていたBGMのボリュームが壁に遮られてとても小さく思えた。

 

「いろいろ無理・・・してない?」

 

とても優しい声で語りかける抽象的な質問に、舜奈は一瞬ドキッとした。

店長が何に対してそう尋ねているのか真意が分かりかねたからだった。

 

「お気遣いありがとうございます、舜は大丈夫です・・・」

 

漠然とした問いかけには漠然とした返事をすることでボールを投げ返した。

ここからさらに具体的な質問に入っていくことになるのだとしても、

とにかく年齢詐称疑惑だけは再燃させてはならないと舜奈は思っていた。

そして、その手前にある防衛線である金平糖の疑惑についても、

ここを突破されると本丸が守りきれなくなる恐れがあると思い、

舜奈は必要以上に心の防御を固めていった。

彼女の知らないうちに両手を組んで身を守るような姿勢になっていた。

無意識がそうさせるのであり、舜奈自身は何も気づいていない。

言葉がいくら嘘をついても、ボディランゲージは嘘がつけなかったのに。

 

「金平糖、出して」

 

店長がどういう意味でその言葉を急に口にしたのかわからなかったが、

ついに追求が始まったかと舜奈は心臓が縮みあがる思いがした。

第一の砦である金平糖が崩されれば、やがて年齢詐称疑惑の城も時間の問題だ。

籠城戦を行ったところで、沈黙が何よりも雄弁に嘘をついていることを物語ってしまう。

そして、嘘をついていたことがバレれば、自分はやっと始めたこのバイトをクビになるだろう。

ここを追放されて親に連絡されて、もう二度とバイトなんかさせてもらえないかもしれない。

 

舜奈が何も動けずに黙って座っていると、

真未は急につかつかと前に歩み出て舜奈のカバンをとった。

そして、中から先ほどお客さんにもらった金平糖を取り出すと、

それを自分の服のポケットの中に突っ込んだ。

 

「ほら、同じものばっか食べてたら飽きちゃうでしょ?

 独り占めしないで私にもちょうだいよ、ね?」

 

真未はまだ舜奈のカバンの中に他の金平糖が入っていることを見つけると、

それも取り上げて全部自分のポケットの中にしまい込んだ。

ポケットは金平糖で膨れ上がってみすぼらしいほどパンパンになってしまっていた。

 

「何、バレたら怒られると思ってた?

 別にいいんだよ、無理して好きじゃないもの好きって言わなくても」

 

舜奈は椅子に座ったままで顔を上げることができなかった。

バレたらっていうのは、一体どこまでの範囲を指しているのかわからなかったからだ。

 

「あたしもさ、前にお客さんに好きだって言った物をたくさんもらったことあったのね。

 でも本当にたくさんくれるから、もう嫌いになったとか言い出せなくなっちゃってさ。

 どうしようかと思ってたけど、正直にもうたくさんすぎて要りませんって言ったら、

 別に怒られることもなくお客さんはちゃんとわかってくれたのよ。

 もちろんね、バカ正直になんでも言えば良いってもんじゃないけどさ、

 だけど嫌いな物を好きっていうより、好きな物を好きだって言った方が楽しいじゃない?」

 

舜奈はようやくゆっくりと顔を上げて真未の方へ視線を向けた。

金平糖の話をしているということが明確にわかったからだった。

 

「それにさ」

 

今度は真未が舜奈から目線をそらせた。

 

「そんな嘘がバレたからって追い出されるとでも思った?」

 

真未は目をそらせていたが、舜奈は朧げながらわかってきた。

おそらく、この人は年齢詐称なんてとっくにわかっているのだと。

わかっていて、おそらく見逃してくれているのではないかと。

そして、ひどい嘘をついた自分をここから追放する気なんてないことを。

 

真未に対して何も返事をすることができなかったが、

舜奈はうつむきながら黙って頬に涙の跡を残していった。

思えば金平糖のボーダーなんて勝手なルールだったのだ。

越えてしまえばわかった、そんなものは愚かなレガシーだったのだと。

 

「かわいいネックレスしてるじゃん」

 

涙のせいで鼻水が出てくるのをすすっていると、

真未は何を思ったのか突然そんなことを言った。

それは舜奈が身につけていたあのお揃いのネックレスのことだった。

 

「かわいいけど、舜奈の年齢ならもうちょっと大人っぽいのつけてもいいんじゃない?」 

 

「・・・これ三人のお揃いなんです、前に連れてきた二人と・・・」

 

手で涙の跡を拭いながら舜奈は笑ってそう言った。

年齢詐称をわかっていながら軽く当てこすっている真未と、

バレているのを知りながらも若い子達に合わせているということにして、

舜奈もとりあえずバカ正直に本当の事を言うのは避けたのだった。

真未はニッコリと微笑みながら控え室のドアを開けて出ていった。

 

「あっ、ママ、なんで俺が舜奈ちゃんにあげた金平糖持ってんの!?」

 

「あんたたちバッカじゃないの!?

 みんながみんな同じ物を持ってくるもんだから、

 もうあの子食べきれないくらい金平糖持ってんの。

 だからその分はあたしがもらったってわけよ。

 全く女の子の気持ちがわかんないんだからー!」

 

「なんだ、そうだったのかよ。

 かわいそうに舜奈ちゃん言い出せなくなってたんだなー。

 よし、今度はちょっと奮発してお寿司でも買ってこようかな!

 でも、ママにはあげないよ」

 

ドアの向こう側からそんな声が漏れて聞こえてきた。

あんな風に振舞っているけれど、店長は本当にいい人なんだろうなと舜奈は思った。

独特の癖の強いやり方ではあるけれど、優しくフォローをしてくれるし、

これは誰からも嫌われるはずのない人徳を備えていると舜奈は感じていた。

そして、自分はいいバイト先を見つけたものだと再認識したのだった。

 

しばらく控え室で休憩していると、舜奈は急にあの身分証の事を思い出した。

バイトの面接で年齢詐称疑惑を吹き飛ばしてくれたあの偽造カードをくれたのは未代奈だった。

思えば自分がここで働けているのは全て未代奈のおかげだった。

きな子がネックレスを無くしたラインを最後に彼女と連絡がつかなくなってから3日が過ぎた。

 

きな子と違って舜奈は未代奈が怒っているとは考えられなかった。

それはネックレスを無くした本人ではないからそう思えた部分もあっただろうが、

そもそも未代奈はそんな事でショックを受けるにしても、怒る性格をしているとは思えなかったからだ。

あんなに温厚な彼女と連絡が取れないのは、おそらく何か特別な理由があるのだろうと思っていた。

 

しかし、そもそも未代奈は何者なのだろう?

あの身分証をどうやって偽造したのだろう?

今まで不思議に思った事はあったにしても、

それを追求してよく考えた事は舜奈にはなかった。

そんな事を考えようとしても、いつも未代奈のほんわかした顔を見ると、

考え事をしていた事がいつの間にかどこかへ消え去ってしまうからだった。

あの微笑みを疑う気になど、今までこれっぽっちもなれなかったのだ。

 

だが、未代奈のいない空白の3日が流れると、

舜奈にはこうした冷静な思考も徐々に芽を出してきた。

思えば舜奈は未代奈がどこからきたのか、

どこの学校へ通っているのか、そういう事は何も知らなかった。

掘り返せば掘り返すほど、彼女は未代奈の事を何も知らなかった事に今更ながら気がついた。

スマホを取り出してラインを見ても、あの日から未代奈とはやはり連絡が取れない。

これは何か大きな事件にでも巻き込まれたかも知れない。

舜奈はとりあえず明日にでもきな子と会って話をしようと思った。

そして、店の方から井上陽水の曲が流れてきたのに気づくと、

真未がアフロのかつらを持って舜奈を呼びに来た。

 

「舜奈、休憩中で悪いけど、お客さんが呼んでんのよ」

 

舜奈は椅子から立ち上がって凛とした表情を見せると、

何かが吹っ切れたように控え室を颯爽と出て行った。

 

 

・・・

 

 

きな子がバレッタのドアをぶち壊さずに済んだのは、

彼女がお店にたどり着いた時、そこに舜奈が先に到着していたからだった。

 

昨夜、まず一人でバレッタを見に行ってみようと仕事終わりに考えついた。

今まで舜奈はきな子ほど毎日のように未代奈の様子を気にはしていなかったし、

わざわざバレッタを見にきた事もなかったのだが、

外からお店を見る限り、道路に面した窓は全て中が見えないようにシャッターで封鎖されていたが、

入り口のドアから微かに見える店内の様子では、これはたんなる休暇中ではないかとも思えた。

きな子がもう4日もこの状態だと舜奈に告げた時も、

おかしいとは思いながらも、旅行にでも出かけているかもしれないと思った。

しかし、それにしても不思議なのはあのカウンターに座っている店長も見当たらないことだった。

なぜなら、今まで未代奈が休みを取っても、一人であの店長がお店を運営していたし、

それが未代奈ほどうまくできていなかったにしても、最低限の事はやってくれていたはずだったからだ。

 

「バレッタの前なう」

「なう」

 

二人は未代奈も加わっているグループラインでそんな事を送ってみた。

もし気がついてくれれば、出てきてくれるかもしれないと思ったからだった。

きな子はこれですぐに閉じこもっている未代奈が出てきてくれる事を願ったが、

やはり彼女からは何の反応もなく、二人は寒いお店の外に取り残されていた。

 

「・・・やっぱり返事こないね」

 

きな子が寂しそうにそう呟いた。

彼女は自分がネックレスを無くしてしまった後ろめたさから、

間違いなく未代奈が自分に対して怒っているのだと思い込んでいた。

 

「未代奈は別にきな子に怒ってないと思う」

 

「なんでそう思うの?」

 

「未代奈が今までうちらにキレたことあった?

 食べ物の恨みならともかく、ネックレスなくしたくらいで怒んないって」

 

舜奈がそう諭すと、きな子は腑に落ちない表情を続けていたが、

ではどうしてこんな状況になっているのか、彼女にはさっぱりわからなかった。

 

「とりあえず、寒いからどっかいこっか」

 

二人は沈黙してしまったので、とりあえず近くのカフェに入る事にした。

寒さをしのげる場所でゆっくりと話をしようと思ったのだった。

世の中的にはもうすぐ12月に入ろうとしている事もあり、

二人がとりあえず入ったカフェには綺麗なイルミネーションが付いていた。

壁や柱に伝わせてある小さなライトが色とりどりに光ってとても綺麗だった。

 

「三人でイルミネーション見に行くって約束したのに・・・」

 

メニューを見ていた舜奈に対してきな子はそうこぼした。

やがてきな子がコーラを、舜奈がココアを頼んで二人はテーブル席に向かい合った。

 

「翻訳機だってまだ返してないのに」

 

運ばれてきたコーラについていたストローを口にくわえながら、

しょんぼりした様子できな子は独り言を言っていた。

湯気の立ち上るココアのカップを両手で持ち上げながら、

舜奈が「翻訳機って何?」と尋ねる。

 

「未代奈がくれた翻訳機。

 そのおかげでチョップとお話しできるようになったんだけど。

 でも、今日はそのせいでまたチョップとケンカしちゃった・・・」

 

「えっ、ちょっと何言ってんの?

 チョップってきな子の飼ってるあの犬の事?」

 

「あっ、今持ってない。

 イヤホン家に忘れてきた」

 

きな子は服のポケットなどに手を突っ込んで探していたが、

自分が激昂してチョップに投げつけた事をすっかり忘れていた。

未代奈の事を考えるのにいっぱいいっぱいになっていたからだった。

きな子が翻訳機の事を舜奈に説明すると、舜奈は信じがたいような顔をして聴いていた。

舜奈は、まだきな子がアンドロイドであるという事実すら正確には受け止められていないのに、

犬と話をする道具がこの世にある、しかもそれはおもちゃレベルではなさそうだという事実に、

本当に気が滅入って頭がおかしくなってしまいそうだった。

目の前に広がる突拍子もない現実をいきなり受け止める事は困難を極めたが、

きな子に対して未代奈がかつて身分証を偽造してくれた事を話しているうちに、

これは確かにきな子の言うことも嘘ではなさそうだという気持ちに移り変わっていった。

きな子も偽造身分証の件については驚いてしまって困惑した表情を浮かべてしまった。

 

「きな子さぁ、未代奈の実家がどこか知ってる?」

 

「ううん、聞いた事ない」

 

「未代奈ってさぁ、まだ高校生だよね?

 どこの学校に行ってるんだろう」

 

「さぁ、きな子もわかんない」

 

きな子がストローを吸うとズズッと音を立てた。

コーラはすでに全部飲み干してしまっていた。

そして、二人の間にはしばしの沈黙が流れた。

 

「えっ、ぶっちゃけさぁ」

 

ココアの入ったカップをテーブルに下ろして舜奈は尋ねた。

 

「未代奈って何者?」

 

舜奈がそう言ってしまってから、

二人共しばらく何もしゃべらなくなってしまった。

次に何を話せばいいのか二人ともわからなくなっていたからだった。

 

その時、二人のスマホが同時に音を鳴らした。

二人が焦って同時に自分のスマホを確認すると、

その画面には確かに未代奈と思われるラインメッセージが届いていたのだった。

 

「たすけて」

 

 

・・・

 

 

「今日はフィンランドと同じくらい寒いですね」

 

トイレから出てきた未代奈は淡々とそう言った。

特段寒そうな仕草は見せていなかった。

 

「森ちゃん、フィンランドに行った事あったっけ?」

 

その様子を見て源太郎は不思議に思ってそう尋ねたが、

「もう雪は積もりました?」と質問に質問で返されてしまった。

要するに、源太郎の質問は無視されてしまったのである。

 

未代奈が源太郎の質問を無視したのは、

もちろん彼の存在が彼女にとって目障りだったからだ。

トイレに入って隠れてラインメッセージを送ろうとしたのに、

外から早く出る事を急かされたせいでちゃんとした本文を送れなかったのである。

 

彼女がきな子と舜奈に送ろうと思っていた本文とは。

 

「たすけて。

 チキン南蛮もう嫌や・・・」

 

 

・・・

 

 

「じゃあ、ごめんね、痛くしないからさ」

 

そう未代奈に告げると、源太郎はロープを両手に持ち、

器用に未代奈の体に巻きつけて後ろ手にくくりつけた。

そして、未代奈はおとなしくまた部屋に帰って行って床に座った。

未代奈の座った横にはケージに入れられているソルティーヤくんの姿もあった。

 

「さて、僕はちょっと老人の様子を見てくるよ。

 一人で何をしているか、わかったものじゃないからね。

 悪いけどしばらくの間、おとなしくしててね」

 

源太郎はそう告げると部屋を出てしまった。

外側からドアの鍵をかける音が部屋に響いてから静寂がやってきた。

 

「まったく、やなやつだよ」

 

ソルティーヤくんはケージの中で覇気無くうなだれるようにそう言った。

狭いペット用のケージの中に入れられているので精神的に疲れてしまっていたのである。

 

「・・・悔しい」

 

未代奈はそう言って一人でポロポロと涙を流し始めた。

ソルティーヤくんはその美しい涙を見てますます源太郎が許せなくなってきた。

 

「こんな可愛い子を泣かせて、何がフェミニストだよ!

 おまけに僕に対してはペット同然の扱いだって、まったく信じられない!」

 

ソルティーヤくんは内側からケージを揺らして見せたがビクともしなかった。

彼のケージは未代奈の背の高さでは手を伸ばさないと届かない高さの家具の上に置かれており、

後ろでくくられた手では未代奈もさすがに手が届かなかった。

 

「大好きだったはずのチキン南蛮に対してそんな風に思ってしまう時が来るなんて・・・」

 

未代奈は大粒の涙を流し続けていたが、ソルティーヤくんは自分が想像していた内容と違い、

何やら未代奈の個人的な葛藤について涙しているのがわかると呆れてしまった。

 

 

・・・

 

 

未代奈が源太郎に監禁されてから4日が経過したが、

彼は未代奈に対して何も乱暴な態度をとる事はなかった。

 

4日前、未代奈がきな子と舜奈とラインをしていた時、

突然バレッタのドアを開けて入ってきた源太郎は、

勝手にドアにかかっていた「Open」の札を「Closed」にひっくり返してしまった。

そして、少しだけ怖い顔をして未代奈に部屋の奥へと入るように命じた。

カウンターに座っていた店長も店の奥へ入るように言われたのでそれに従った。

ソルティーヤくんは反抗したので、源太郎によって多少手荒くもてなされた。

気づいた時には彼はいつの間にかケージの中で眠っていたのだった。

 

部屋の奥へと入れられた未代奈は源太郎に身の回りを調べられた。

そして、持っていた余計なものは基本的に取り上げられてしまった。

それから源太郎は公園で少女が犬と会話をしている様子を見かけた事、

その翻訳機とイヤホンは自分と未代奈しか持っているはずがない事を告げ、

未代奈がそれを渡したのかどうかだけ質問したのだった。

未代奈はどうせ嘘をついてもバレると思ったので嘘はつかずに正直に述べた。

源太郎も未代奈が正直に告白したので怒るような素振りは何も見せなかった。

 

「僕は静かに論文が書きたいんだ」

 

源太郎は未代奈にそれだけ告げると、部屋の机に向かって何やら書き物を始めた。

ものすごい勢いでパソコンのキーボードをブラインドタッチで入力していった。

 

この部屋はあの店長のものだった。

フェミニストである源太郎は、女性の部屋へ踏み込むわけには行かず、

店長を別の個室へと移動してもらい、彼の部屋を使わせてもらうことになった。

こうして源太郎は自分のノートパソコンをこの部屋に持ち込み、

未代奈とソルティーヤくんを部屋の隅に監禁したままで論文を書いていたのだった。

彼は就寝時とトイレに行く以外、ずっとこの部屋にこもりっきりになっていた。

食事すらこの部屋で済ませた、それが未代奈をやがて苦しめる事になったのである。

 

彼の望みはとにかく「静かに論文を書く」事だけであり、

それを邪魔しない限りは彼はとても温厚に未代奈達を扱ってくれた。

逃げ出せないように見張られているが、トイレに行く事もできた。

彼自身も何かを食べなければならないので、食事は買い出しに行ってくれた。

だから未代奈とソルティーヤくんが餓死するような心配は決していらなかったのである。

 

だが、源太郎は美食家であるくせに、論文に集中すると他に何も目に入らなくなるのか、

食事に何を食べても一向に頓着する事はなくなっていったのだ。

もちろん、朝・昼・晩と3回の食事はバランス良く提供してくれていた。

朝はちゃんとパンを焼いてハムや卵を添えてくれたし、紅茶も入れてくれた。

夜は豪華にする主義なのか、お肉やお刺身などが提供されることもあった。

それらは彼にとって休憩時間に等しいものなので、彼自身もバランスを考慮したし、

たっぷりと時間を費やして準備をすることを厭わなかったのだ。

だからその恩恵を受ける形で未代奈も立派なご馳走にありつくことができた。

ソルティーヤくんは相変わらずバナナばかりだったが、それに文句をつけることはなかった。

 

源太郎なりに考えた結果、未代奈を静かに閉じ込めておくのには、

まず何よりも食事に気を配らなければならないことを理解したのであった。

彼女が自分の論文を書く邪魔にならないように、余計な事を考えたりしないように、

とにかくこの部屋の中でじっとしておいてもらうには食事を豪華にするしかなかったのだ。

自身が美食家である事からも、それは別段彼にとってなんら難しい配慮ではなかった。

 

だが、残念な事に彼は昼食にだけは十分な配慮ができなかったのである。

それは、彼自身が朝食の後から論文作成に躍起になってしまう結果、

没頭の極致に至ると食を忘れてのめり込んでしまうからだった。

特に調子がいい時などは昼食によって中断されるのをひどく嫌った。

集中力が続く限り書き続けたいのが彼の信条だったのである。

 

それが未代奈に悲劇をもたらすことになった。

初日は彼もまだ配慮があったもので、早めに休憩に入って買い出しに行った。

彼は未代奈の好みを聞き出していたので、チキン南蛮弁当を買ってきた。

それには未代奈もたいそう喜んだもので、彼も自分の選択眼の正しさに自己満足した。

 

だが2日目になると、彼は昼食の時間を少し遅らせてしまった。

それによって買い出しが遅れたため、残っているお弁当がチキン南蛮弁当しかなかったのである。

彼はこれは失敗したと思って未代奈に対して謝罪しようと思っていたのだが、

予想に反して未代奈はチキン南蛮弁当に対してまた喜んで見せたのである。

彼女いわく、チキン南蛮は大好きなのでいくら食べても食べられるという事であった。

彼は彼女の力強いその言葉を鵜呑みにしてしまったのが悲劇の始まりだった。

 

3日目、もちろん源太郎は没頭に没頭を重ねて昼食の時間は遅れた。

だが、彼はもうあまり何も特別深い心配をしていなかった。

自分が何を食べるのかは昼食に限ってはどうでもよかったし、

早く食べてしまって論文作成にかかりきりになりたかったからだ。

彼自身、2日目と3日目の昼食に自分が何を食べたかさえ、もはや覚えていなかった。

そして、弁当屋に残っていたのは、やはり未代奈の大好物のチキン南蛮弁当だけだった。

 

4日目、源太郎は珍しく早めの休息を取る必要に見舞われ、

彼はこの日はゆったりと昼食の準備ができることになった。

そして、彼は早めに切り上げて颯爽と弁当屋へと出かけたのだが、

2日目と3日目に適当なもので済ませた反動からか、重たいものが食べたくなった。

そして彼は自分用にチキン南蛮弁当を買う事になってしまったのである。

彼はお弁当を一つ取ったが、もし自分だけがチキン南蛮弁当を食べていたのなら、

おそらく未代奈は機嫌が悪くなってしまうかもしれないという恐怖を感じた。

その日はまだ時間が早かったので海苔弁当も明太子おにぎりも高菜ごはんも、

アジフライ弁当を除いたありとあらゆる食材が弁当屋にはまだ残っていたのにもかかわらず

(アジフライ弁当だけがいつ行ってもなかったのは、おそらく店員になんらかの問題があったのだろう)、

彼は疲れた脳で考えた結果として、愚かにもチキン南蛮弁当を未代奈に買ってきたのだった。

 

 

そして、それを見た未代奈は表向きは嫌そうな顔を見せなかった。

それが彼女のプライドからくる強がりだと見抜けなかった源太郎は、

これで昼食は余計ないざこざを起こさずに済んだと勘違いしてしまった。

未代奈はもちろん黙ってチキン南蛮弁当を食べたのであるが、

途中、さすがに4日連続のチキン南蛮は嫌だという想念が頭をよぎった。

彼女は黙々と食べ続けたものの、自分がそんな事を思ってしまうなんて、

全く予想だにしなかった結果に納得がいかなかったのである。

おそらく、中1日あけてのチキン南蛮であれば彼女は軽く受け入れた事だろう。

だが、4日連続でのこってり油とタルタルソースはさすがに飽きてくるものだ。

彼女は悔しくもあり、だがさすがに辛い事もあり、トイレに行くふりをしてラインを打った。

きな子と舜奈に対して愚痴をこぼしてしまったのである。

 

どうして未代奈が携帯を持っていたのかについては、

源太郎がやってきた時、とっさにスマホをシャツの中に隠したからである。

彼は未代奈の着ている服のポケットなどは調べ尽くしたものの、

フェミニストであることから、さすがにシャツの中まで調べることはなかった。

未代奈はそうしてスマホだけを隠し通して、隙を見てトイレに隠したのだ。

 

 

未代奈がどうして大人しく捕まっていたのか?

どうして逃げ出そうとしなかったのか?

それは、どうせ逃げきれないことをわかっていたからだった。

 

源太郎は自分が論文を書く間、未代奈に余計なことをしてほしくなかった。

この期間、何か彼の気に触るたびに、彼は彼女を監禁しようとするだろうし、

そんなことをしていては彼の執筆は遅れ、彼を苛立たせるばかりである。

それであれば、こんな風に食事も提供してもらえるのだから、

彼が論文を書き終わるまで大人しくしておこうと思ったのである。

また、未代奈はきな子に翻訳機を渡してしまったことが彼を激昂させたのを知り、

自分が余計なことをすればきな子たちに迷惑がかかってしまうことを恐れたのである。

彼は未代奈を閉じ込めておけば問題は起こらないと踏んでいたようだし、

未代奈も彼女が一人で監禁されていれば周囲が平和に過ごせるならそれでいようと思った。

 

そんな風にして4日が過ぎてしまったのである。

ラインが通じない間、きな子や舜奈が心配しているとは、

未代奈は全く想像もしていなかったのだった。

 

 

しばらく経ってからドアの鍵が開く音がした。

ドアノブが回って源太郎が部屋に戻ってきたのだ。

 

「やあ、大人しくしてたみたいだね。

 老人の様子も見てきたが、部屋の机の前から一歩も動いていなかったよ。

 ずっと読書にふけっている様子だったから、もう放っておいた。

 まあ、さすがに僕も老人を縛り付けるわけにもいかないからね。

 大人しくしていてくれて助かったよ、本当にね」

 

そう言って、源太郎はまた机に向かって座った。

先ほど書き上げた箇所を確認し、また猛烈な勢いで続きを書き始めた。

未代奈はまだずっと泣き続けていたが、おそらく彼女のプライドが許さなかったのだろう。

明日の昼食はチキン南蛮弁当以外にしてください、とは口が裂けても言わなかったようだ。

 

 

・・・

 

 

きな子と舜奈は走っていた。

急いでカフェを出て一目散にバレッタまで走った。

 

「未代奈どうなってんだろ・・・」

 

「わかんないけど助けなきゃ!」

 

二人は未代奈が何者なのかについて気になっていたが、

とにかくあのメッセージを受け取った以上、

余計なことを考えている暇などなかったのだ。

あれはきっと二人だけに送った秘密のSOSだと思った。

そうだとすれば、彼女を助けられるのは二人しかいない。

 

舜奈が息を切らしてバレッタの入り口までたどり着いた時、

きな子の息が全く上がっていなかったのは、彼女がさすがアンドロイドだからだ。

 

舜奈がまずドアを激しく叩いた。

未代奈がそこに囚われているのかは定かではなかったが、

二人にとってバレッタ以外は行くあてが思いつかなかった。

もし仮にここに未代奈がいなくても、何か彼女の部屋からヒントが見つかるかもしれない。

そんなことを思いながら舜奈は誰か中にいたら聞こえるくらいの音でドアを激しく叩いていた。

 

「ダメだ、中に誰もいないのかな?」

 

「こうなったら、ドアを壊そう!」

 

きな子は自分なら簡単にドアくらい潰せると思っていたが、

さすがに舜奈がそれは止めさせたかった。

 

「ダメだよ、そんなことしてもし中に誰もいなかったら、そん時はうちらがヤバイじゃん」

 

「でも、このまま黙って待ってても未代奈を助けられないし!」

 

そう言ってきな子はドアから少し後ろに下がり始めた。

助走をとって体当たりでもしようと考えていると思った舜奈は、

そんなことは絶対に止めさせなければと思って彼女を羽交い締めにした。

だが、さすがに舜奈ではアンドロイドの怪力を持つきな子を止めることはできない。

 

「ダメだってば、ちょっと!」

 

「うりゃぁぁー!」

 

舜奈を背中に乗せたままダッシュを始めたきな子だったが、

ドアに体当たりをすると思った瞬間、内側から何者かがドアを引いた。

きな子は急に止まることができないまま舜奈と一緒に店内に転がり込む形となってしまった。

 

二人は店の中で足がもつれて転んでしまうと、

ドアを開けた何者かが先ほど引いたドアをゆっくりと閉めた。

二人が起き上がりながらドアの方向へ目をやると、

そこに立っていたのはいつもカウンターに座っていたあの店長だった。

 

「君たち、ここから一刻も早く立ち去りなさい。

 ここは君たちのような者の来るべきところではない」

 

店長はそう言うと、ムスッとした顔のままでカウンターの椅子に座った。

そして、そこに置いておいた本を手にとってまたページをめくり始めた。

 

 

・・・

 

 

店内は開店時のような明るい照明はついておらず、

老人が座っているカウンター周辺だけが最小限のライトで照らされていた。

いつも通りカウンターの一番端に座って、彼は普段通りボーッとした生気のない表情で読書を続けていた。

 

もつれあって飛び込んできた二人はそれぞれ立ち上がったが、

暗い店内に不気味に浮かび上がる老人の顔が恐ろしく見え、

しばらく顔を見合わせながら二人は緊張感に包まれてごくりと唾を飲んでいた。

 

「・・・突然すいません、私たち、未代奈を訪ねて来たんですけど・・・」

 

舜奈はおそるおそる話を切り出してみたものの、

老人はムスっとした表情のまま何もしゃべらずに本のページを繰った。

 

「ここにはおらん」

 

「じゃあどこにいるの!?」

 

老人は表情を変えることなく答えたが、

きな子はすぐに問い詰める勢いでそう追求した。

 

「もう実家に帰ったよ」

 

「嘘だ!?きな子たちそんなこと全然聞いてないし!」

 

「何か言いたくないことでもあったんじゃろ、わしに聞かれても困る」

 

老人はまた淡々と本のページをめくった。

静かな店内に紙が擦れる音だけが悲しく響いた。

 

きな子は何か釈然としない視線を老人へと向けていた。

彼女は未代奈から確かに受け取った「たすけて」のラインメッセージの事を考えていた。

そして、その証拠がある以上、この老人の言う事が全然信用できなかったのである。

 

「だって・・・」

 

きな子が思わず未代奈からメッセージを受け取った事を言ってしまおうとした時、

舜奈はきな子の腕を掴んで彼女を制止した。

きな子は舜奈の顔を見た時、舜奈は黙って首を横に振った。

この状況では手の内を明かさない方が良いと舜奈は直感的に感じていたのだった。

 

「すいません、突然こんな風に押しかけて失礼なのはわかってるんですけど、

 もしよかったら未代奈の事、少し教えてもらえないでしょうか?

 お恥ずかしい話なんですけど、私たち未代奈の事、本当に何も知らなくて。

 仲良くしてた割に、実家の事とか、何か悩んでたのかとか・・・。

 そういうのもし何か知ってたら教えて欲しいんです」

 

舜奈は何か未代奈に関する手がかりでも得られないかと思ってそう質問した。

老人は何やら思い悩んだ後で大きなため息をひとつつき、読んでいた本をゆっくりと閉じた。

 

「真実はいつも過酷じゃが、それでも聞きたいのか?」

 

老人は本を片手に持ちながら二人の方を見てそう尋ねた。

自分で要求した事ながら、舜奈は何やら返答に窮して黙り混んでいると、

きな子が身を乗り出しながらすぐに返事を返した。

 

「聞きたい!

 未代奈の事、ちゃんと知りたいから!」

 

きな子がそう告げると、老人は少し視線を外した。

どこか遠いところを見つめるような目つきになっていた。

 

「とんでもない子じゃったなぁ」

 

「えっ?」

 

「泥棒じゃよ、牛タン泥棒」

 

予想もしなかった話の流れにきな子はキョトンとしてしまった。

 

「・・・牛タン?」

 

「仙台から買ってきたお土産の牛タンをじゃよ、

 きちんと彼女の分だけ分けておいたのにもかかわらず、 

 いつの間にか素知らぬ顔してポケットぱんぱんに詰めてのう。

 言っても聞かないのでおまわりさんに来てもらったんじゃ。

 全く、児玉坂の若い女の子達は牛タンに目がなさすぎて困ったもんじゃよ。

 次からしっかりとチケット制にせんとならんかのう」

 

おまわりさんという単語に驚いて声も上げられずにいると、

バレッタの外でサイレンを鳴らしたパトカーが走り抜けていく音が聞こえてきた。

きな子はそこに未代奈が載せられて運ばれていく映像を頭の中で想像してしまった。

そして、窓の外を見てバレッタを出て追いかけようとしたところを舜奈にまたしても腕を掴まれた。

 

「それで、未代奈はどうなったんですか?」

 

舜奈が少し怖い顔をして続きを要求した。

彼女が今まで見せた事のない真剣な表情だった。

 

「帰ったんじゃろうな、フィンランドに」

 

「フィンランド・・・なんで?」

 

「だって、フィンランド人じゃからのう」

 

老人の謎の回答に二人は困惑した表情を浮かべていた。

想像もつかないような展開に頭の整理が追いつかないのだ。

 

「先日も故郷が懐かしそうにわしに聞いとったよ。

 朝食を食べるよりも先に、雪は積もっているかってな。

 東京ではなかなか雪は積もらんから、雪が積もると故郷を思い出して嬉しいんじゃろうの」

 

きな子が呆気に取られていると、老人は「フィンランド」とまた繰り返してから読書に戻ってしまった。

もうこれで話は済んだだろうという態度で彼はまた静かにページをめくる紙の音を鳴らした。

 

「えっ、どういうこと?

 もうきな子意味わかんない」

 

きな子は眉をひそめたまま舜奈の方を見た。

舜奈は冷静な表情のままで読書にふけっている老人を静かに見つめていた。

 

「使えねえな」

 

舜奈がボソッとつぶやいた言葉が影響したのか、

老人がページをめくる音に少しばかり動揺が混じった。

舜奈は相変わらず椅子に座っている老人に対して冷たく向き合っていた。

 

「常識考えろよ」

 

突然超毒舌になった彼女は、腕を組みながら老人を説教し始めたのだ。

普段なら親にしか言わないような強い口調で、舜奈はなぜか老人を咎め始めた。

 

「なんですか、その前髪は?」

 

老人は少し狼狽した様子で舜奈の方へ目を向けた。

舜奈はまるで教育係のような雰囲気で冷たい視線を向けてきた。

 

「いつもよりボリューミーですね」

 

舜奈がそう指摘すると、老人は「最近切ってないからかのう」と言った。

そう言って髪の毛を少し気にするような仕草を見せていた。

 

「なんですか、そのシャツは、じゃあ?」

 

舜奈は一向に詰問を止める様子はなかった。

敬語ではあるがキツイ口調で次々と目に止まる容姿を毒舌で咎めていくのだった。

 

「ボタンがしまってないじゃないですか」

 

舜奈が指摘したのはシャツの袖口のボタンだった。

きちんとしまっていないので少しラフに手首が露わになっていた。

 

「おお、さっき手を洗うときに外して閉め忘れたかな」

 

老人は指摘してくれてありがたいという様子でボタンを閉め始めた。

だが、舜奈は何かを確信したように老人を追い詰めていく。

 

「じゃあなんですか、その本は?」

 

袖口のボタンへ手をやっていた老人はピタリと動きを止めた。

手がうまく動かなくてボタンがまだ止められていなかった。

 

「いつも読んでいる本と違うじゃないですか」

 

きな子は舜奈がそう言うのを聞いてカウンターの上に置かれていた本へ目を向けた。

その背表紙にはフランツ・カフカの「変身」と書かれているのがわかった。

 

「・・・クックックックック、アーッハッハッハッ!」

 

老人はどういうわけか今まで見せたことのない様子で高らかに笑い始めたのだった。

これは何かが面白いという常人の笑いの類ではなくて、

もはや地上とはるかに距離のある高みから狂人が下界を見下ろしてあざ笑うような、

そういった高慢で人を馬鹿にしたような類のものであった。

おそらく、老人は何かユーモアで面白くなったのではなくて、

自分が予想していなかったほど相手に骨があるのがわかったときの、

自らの落ち度をあざ笑う非常に趣味の悪い類のものだった。

 

「アーッハッハッハッ・・・なかなか愉快じゃのう・・・。

 ところで、カフカの「変身」は素晴らしい読みものじゃよ。

 そんなに厚い本でもないから、機会があれば読んでみるといい。

 ザムザがどうしてこんなことになってしまったのか、

 物語の表面だけではなくて、実存主義的な見地から読み解くことができれば、

 少しはお主らの人生の見方も変わるじゃろうて・・・」

 

様子がおかしくなった老人を前にして、

きな子と舜奈は少しだけ後ずさりをした。

 

「近頃の若い子たちは物事の表面を撫でるようにしか味わうことができん。

 これは本を読まなくなったからじゃ、特に流行りの薄っぺらい物が誇張され、

 さも感動を呼び起こすように広告で宣伝されておるからそれに惑わされる。

 本当に良い物を知らずに、偽物を本物と信じ込まされて生きているのじゃ。

 そして、世の中は声が大きい物が勝利するようになっておるのじゃから、

 その声に流されるままに誰かが作り出した常識を疑うことなく生きて行く。

 それが誰かに作られた虚像であるとは、おそらく死ぬまで気付くことはあるまいて・・・」

 

老人は本をカウンターに置いて腰を上げた。

そして立ち上がって二人の方へゆっくりと歩みを進めてきた。

 

「TVで宣伝する物を憎め、電車の広告を疑え、誰かと同じであることを嫌悪せよ。

 このままではSNSの嘘情報に惑わされて真実が何かも分からなくなっていくじゃろう。

 ショッピングセンターに置いてある価値のない物についているプライスタグを破り捨てよ、

 価格に惑わされずに本物の価値を見つけよ、自分が本当に良いと思うことを信じよ。

 全米が泣いたなんてキャッチコピーは無視せよ、アメリカ人にとって良い物と、

 日本人にとって良い物が同じであるはずがなかろうて・・・」

 

老人が二人に近づくたびに、二人は同じ距離だけ後ずさりを続けた。

逃げてはいけないはずだと頭ではわかっているのだが、

体はどうしても前に行かずに後ろへばかり動いてしまう。

 

「・・・いったい、あなた誰なんですか」

 

舜奈は勇気を振り絞ってそういう言葉を吐き出した。

先ほどまでの堂々とした表情は崩壊するギリギリで保たれているだけだった。

 

「まったく、どうしてこうなのだろうね」

 

薄ら笑いを浮かべながら老人はまた喋り始めたが、

どうも口調は先ほどまでの老人のそれではなくてもっと若々しいものだった。

 

「価値のある物を生み出そうとする人間を、

 どうして世間は皆よってたかって邪魔をするのだろう?

 時間はどうしてこんなに不平等に人間に与えられているのか?

 神様は実に不平等だよ、時間を必要とする人間にも、

 時間を必要としない人間にも等しく分け与えたなんてね」

 

そう言い終わると、老人は着ていたベストの内側からおもむろに銃を取り出した。

それをまっすぐきな子と舜奈に向けて掲げたのだから舜奈は驚きのあまり腰がぬけてしまった。

 

「頼むから邪魔しないでくれないか・・・僕はただ静かに論文を書きたいだけなんだ。

 だが、君たちは少し深入りしすぎたんだよ、ここには来るなって言ったのに」

 

舜奈は銃口を向けられている恐怖でもはや動けなくなってしまった。

きな子はそんな舜奈の肩を支えながら相手を睨みつけていた。

 

「君たちの罪は重い・・・。

 フェミニストである僕が女性に銃を向けることになるなんてね。

 こんなことは僕のポリシーに反することなんだが、

 人は誰しも止むに止まれぬ事情によって突き動かされていくものさ。

 自己を貫いて生きて行くのはなかなか難しいものだね」

 

そういいながら「おっと、忘れてた」と老人はこぼした。

 

「この格好のままで君たちに向き合うのは失礼だったね。

 どうせ深入りしすぎたんだ、最後にはちゃんと真実を知りたいよね?」

 

そう言って老人はくるっと右回りに一回転した。

すると、どういうわけか回転を終えて二人の方を見た時には、

もう老人は若者の姿に変わってしまっていたのだった。

二人は手品のようなやり方にさらに驚かされてしまい、

舜奈に至っては、源太郎が回転した瞬間に思わず顔を伏せたほどだった。

 

「はい、これで僕の紳士的な態度は守られたわけだ。

 別にそんなに驚かせるつもりはなかったんだけどね。

 こんな風じゃ、まるで僕がアニメの悪役か何かのように見えるじゃないか。

 まったく、僕は全然そんなに悪いやつではないんだけどね。

 ルールに則って粛々と物事を進めているだけなんだよ。

 まあ、君たちにはわからないか、でももうそんなこともどうでもいいね」

 

源太郎は「ごめんね、さよなら」とつぶやいて持っていた銃の銃口を引いた。

舜奈は目を閉じてしまったが、突然きな子に押されて体がテーブル席の下まで吹き飛んだ。

そのおかげで源太郎が発砲した弾丸は二人の間を通りすぎて壁にめり込んだ。

その反動できな子はいつの間にか素早くジャンプしてカウンターの上に飛び乗ってしまった。

まるで威嚇する猫のように源太郎のことを恐ろしい目つきで睨んでいた。

 

「なんと、これほど精巧なアンドロイドだったとは!

 だが、こんな時代に君が生き続けることがどれだけくるしいか、

 やがてわかる時が来るだろうさ、人間たちの身勝手さをね」

 

そういいながら源太郎はきな子の方へ体を向けて銃を乱射した。

きな子はカウンターの上を走りながら間一髪でかわし続け、

やがて奥まったところにあるキッチンに置いてあるフライパンを手に取った。

源太郎が放った弾丸は全てフライパンによって防がれてしまった。

 

「じゃじゃ馬め、なかなか可愛らしい魅力じゃないか!

 だけど、少しはおしとやかにすることも覚えた方がいいんじゃないか」

 

源太郎は弾切れになった銃のマガジンを取り出してすぐさまリロードし、

間髪入れずにきな子に向かって銃を乱射し続けた。

 

「うるさい!おせっかい!」

 

きな子はキッチンに置いてあったお皿をフリスビーのように源太郎に投げつけた。

源太郎はどんどん飛んでくるお皿を全て器用に避けては銃を撃ち返した。

 

「舜奈!早く!」

 

きな子がそう叫ぶと、テーブルの下で怯えていた舜奈はハッと我に返った。

だが、源太郎がそれに気づいてきな子に背を向けて舜奈へ銃口を向けた。

 

「躊躇してたらダメだよ、体が先に反応するくらいに前に出なきゃ!」

 

源太郎はそう言ってテーブルの下に隠れている舜奈へ向かって発砲したが、

瞬時にテーブルを横倒しにしたことで弾はテーブルによって弾かれた。

 

そして、決意したようにテーブルから飛び出した舜奈は、

バレッタの奥へと続く道へ向かって走った。

洗い場を抜けて奥へと続くドアを通り抜けようとした時、

またしても源太郎は発砲しようとしたのだが、咄嗟にきな子が投げたフライパンによって姿勢を崩された。

舜奈は間一髪のところを免れてドアの奥へと走り去ってしまった。

源太郎がそれを追いかけようとすると、きな子が前に立ちふさがって道を塞いだ。

 

「君はまったく、言うことを聞かない子だ」

 

温厚な口調で話しを続けていた源太郎であったが、

さすがに思い通りにならない邪魔ばかり入ったことで、

少しずつ顔が引きつっているのが見て取れた。

 

「きな子をバカにするな!!」

 

きな子が全力で鼓膜が破れそうになるほどの大声をあげたので、

源太郎はしかめっ面になりながら不愉快そうに左手で耳を塞いでいた。

 

「ああ、また論文が遅れてしまうじゃないか・・・論文が・・・」

 

源太郎は左手で髪の毛をかき乱しながらそう言った。

苦悩の表情が顔全体を支配してしまいそうだった。

 

 

・・・

 

 

 

バレッタの店の奥へと続くドアを通り抜けた舜奈は、

源太郎が追いかけてこられないようにドアの前に近くの家具を置いて塞いだ。

もしきな子が彼を倒して一人で追いかけてくるとすれば、

彼女の怪力によってドアは粉砕されるだろうと考えたのだ。

そして奥にいるかもしれない未代奈を探しに行こうと思ったが、

この際だから他の部屋も色々と見てみようと思った。

今まで、未代奈の部屋には入ったことがあったのだが、

その他の部屋を見たこともなく、もしかしたら何かヒントが隠されているかもしれないと思ったのだ。

 

バレッタの奥には幾つか部屋があり、商売に関係する物が置いてある荷物置き場もあれば、

カフェ以外にも生活することができるように冷蔵庫やキッチンがある部屋もあった。

舜奈は2階へ続く階段を上る前に、ひとまず1階から部屋を調べて行った。

そして、物置き場の横にある小さな個室のドアを恐る恐る開けてみると、

湿気と誇りにまみれたような空気の重たい部屋に一人座り込んでいる老人の姿を見つけた。

彼は机に向かってヘミングウェイの「武器よさらば」を読み続けていただけであったが、

振り返った彼の顔を見ると、舜奈は先ほどの源太郎が化けた姿を思い出して驚きの声を上げてしまった。

彼は読書をやめてこちらへ近づいてきたが、そのあまりに無表情で生気のない顔を見ていると、

この部屋の重苦しい空気も影響して、彼女には恐怖しか感じなかったのだった。

 

腰を抜かしてしまった舜奈に手を差し伸べるようにして、

老人は彼女の手を引っ張って体を起こしてくれた。

そして、確かに髪の毛が源太郎のそれより少しぺたんこになっているのを確認し、

彼は偽物ではないと、舜奈はようやく安心することができた。

 

「すいません、未代奈はどこですか?」

 

舜奈がそう尋ねると、老人は何もしゃべらずに黙って人差し指を立てた。

どうやら2階をさしているのだとわかると、舜奈は「ありがとうございます!」と告げて部屋を出た。

彼が何も声を出さなかったことが、本物だという証拠だとして舜奈をより安心させた。

 

2階へ上がる階段まで戻っている途中、源太郎がまったく追いかけてこない事に気づくと、

おそらくきな子が彼を食い止めてくれているのだろうと舜奈は思った。

先ほどのきな子の俊敏な動きには舜奈もさすがに驚いてしまった。

アンドロイドだとは聞いていたが、そんな事を今の今まで真面目に取り合っていなかったのだ。

彼女自身は見た目も人間と変わらないのだから、何を特別視する事もなかった。

 

だが、こうして異常な運動能力を目の当たりにすると、

彼女が普通の人間ではない事がゆっくりとではあるが現実として形を帯び始めた。

そして、もしかするとそれは、未代奈にも同じ事が起こるのではないかと舜奈は恐ろしくなった。

 

今まで気にもとめずにやり過ごしてきた事実が露わになっていくときに、

人間はパラダイムシフトを経験する事になる。

これまで見てきた全ての物事の見方が瞬時にして塗り替えられてしまい、

あらゆる自分を取り巻く環境や見え方が激変してしまうのである。

それはとても極端すぎて初めは信じることすら容易ではない。

まったく別の視点から物事を見るということは、

今まで信じてきた価値観や自分自身を全て否定することにつながり、

長い時間をかけて築き上げてくればくるほど、それは否定する事ができなくなる。

昨日の自分を否定する事が容易ではないのは、社会が人格に一貫性を求めることもあり、

また突然の変化を人々が恐れるからである。

だが、実は人間は細胞レベルでは日々まったく生まれ変わっているとも言えるし、

少しずつ少しずつ気づかないうちに人は誰もが変化を経験している。

それは自分すら騙すようなスピードであり、本人すら気づかないのだが・・・。

 

 

舜奈が2階への階段を駆け上がると、またそこには幾つかの部屋があった。

相変わらず殺風景で何一つ目指すべきところが決められない建物だったのだが、

一つの部屋だけは明らかに生活感が漂っていた。

そこは以前、きな子と未代奈の三人で眠った事のある彼女の部屋だった。

舜奈は瞬時にここに未代奈がいるはずだと思ってその部屋の方へと足を向けた。

 

ドアを開ける前に、舜奈は大きく呼吸を整えてから神妙にノックをした。

中から何も返事がないところを見ると、この部屋ではなかったのかもしれなかったが、

とにかく探し続けるしかないと思った彼女は恐る恐るドアノブに手をかけた。

ゆっくりと回して見ると鍵もかかっておらず、ドアは音も立てずに開いた。

 

部屋の中は白を基調とした家具が置かれていた。

ここがまさしく以前、舜奈も訪れたことのある未代奈の部屋だった。

そういえば、未代奈は北欧の雰囲気が好きなので、部屋は北欧風に揃えていると言っていたことを思い出した。

白い壁や窓枠、テーブルや椅子、ソファーなども白で統一されてあり、

カーテンから漏れる光が自然の温かみを感じさせる気持ちの良い部屋だった。

舜奈が部屋に入ると、どうやら未代奈はこの部屋の中にいないことがわかった。

それでも何か未代奈に関する手がかりがないかどうか、

舜奈は申し訳ないと思いながらも少し部屋の中を探ってみることにした。

 

ベッドの近くに何か置いてあると思って近づくと、そこにはイカの塩辛が入ったプラスティック容器が置かれていた。

シーツは何か紅茶のシミのような物が付着して汚れていて、ゴミ箱には使い終わったティーパックが捨てられていた。

食べかけの物が置かれているあたり、未代奈がまだ近くにいるのではないかと舜奈は思った。

その他で気になったのはソファーの後ろの背の低い戸棚の上に置かれていたパソコンだった。

隣には緑の麗しい観葉植物が置かれていたが、その横にあるノートパソコンは、

付属のケーブルも乱雑に置かれており、ノートパソコン本体にはうっすらと埃すら積もっていた。

おそらくこれは使いかたがわからなくなって、そのまま放置されたのではないかと思われた。

近くに置かれていた説明書には何やら折り目やらメモが挟まっていたのだが、

サポートデスクの電話番号に丸印がつけられており、彼女がかなり格闘した後が見受けられた。

おそらく、何度も何時間も電話で尋ねた挙句、一人では使いかたがわからなくて諦めたのだろうと思われた。

 

本棚には外国物のファンタジー系の絵本や小説、ホラー映画のDVDなどが並んでいた。

その絵本や小説などは部屋の雰囲気にあっていたのだが、

異常なほどずらりと並べられたホラー映画の数々は、ある種の狂気を感じさせ舜奈に恐怖を与えた。

おそらく数は100作品を超えており、殺人鬼やらゾンビやらのパッケージがあまりにもグロテスクだった。

もしかすると、ここに未代奈の闇が詰まっているのかもしれないと舜奈は寒気がしてきた。

本棚の隅には「猿の惑星」シリーズがずらりと並んでいたが、端に追いやられているところを見ると、

未代奈はあまり観ることを好んではいなかったように思われた。

どういうわけか、グロテスクなホラー映画の間にスタジオジブリの作品が時々入っていた。

それらの作品は一緒に並べるには好ましくないように思われたのだったが、

このごちゃ混ぜこそが未代奈の頭の中かもしれないと思うと、

舜奈にはこれがありのままの未代奈なのかもしれないと思った。

 

壁際には衣類などが収納できそうなクローゼットがついており、

舜奈は申し訳ないと思いながらもその中身を覗いてみることにした。

そこにはきちんと整理された衣類があり、ジャケットやロングコートなどもかかっていた。

その足元には何やらユニークなよくわからないガラクタのような物が置かれていた。

まくら、手鏡、ブローチ、キックボード、口紅、そしていつの日か舜奈が受け取ったあの免許証があった。

舜奈はそれを拾い上げてまじまじと見つめてみたが、やはりいつか見た通りの偽造免許証だった。

舜奈は何だか恐ろしくなってきたので、その免許証はまた元の位置に戻してクローゼットを閉じた。

 

確かに存在した偽造免許証を再確認し、舜奈はなぜか疲労感を感じた。

この部屋が未代奈の頭の中を再現した場所だと置き換えるとするならば、

清純と狂気があまりにも乱雑に入り乱れていて、どうしてこんな風に存在できるのかと不思議に思えたからだった。

きっと彼女の脳内でも、きっちりと区画わけなどされているのではなくて、

こんな風に全ての物が入り乱れていて、それでいて均衡を保っているのだろう。

これほど混沌とした美少女は、世の中にはなかなか見つけることなどできないにちがいない。

 

なんとなく軽いめまいを覚えた舜奈は少し疲れて部屋の中にある白い椅子に腰掛けた。

その椅子の向かいには白い机があり、メガネとヘアゴムと数冊の小説、そしてノートが置かれていた。

舜奈はそのノートの表に「留学日記」と書かれているのが目に入った。

舜奈は未代奈が留学していたなどと言う話をこれまで聞いたこともなかったので、

どこかへ留学していた過去があったなんて全く知らなかった。

これはあまりにもプライベートな物かも知れないと思って遠慮しようとしたが、

直近の日付が数日前になっていることが奇妙に思い、舜奈は思わず目を通してしまった。

 

 

 

・・・

 

 

11月15日 晴れ

 

今日はとてもいい日だったので晩御飯はウニを食べた。

毎月15日だけはいっぱい食べてもいい日と決めている。

お寿司は私の命だと言っても過言ではない食べ物だ。

もちろん、明太子だって捨てがたいけれど。

そう考えると、食べ物に順位をつけるなんてひどいことはよそう。

カレーだって肉まんだって、それぞれの魅力があるのだ。

そういえば帰り道でキャベツを見た。

最近ロールキャベツを食べていないので作りたくなった。

いつか暇ができたら美味しいお抹茶を飲みにいきたいなぁ~。

寝る前のイカの塩辛は私の至福の時間です。

 

 

11月14日 晴れ

 

昨日、夜中にどうしてもお腹が空いてしまってマルゲリータピザを食べた。

それだけでは収まらなくてナゲット、ポテト、ダブルチーズバーガーまで。

今、目の前にはおにぎり4つと唐揚げ2つがある。

あれほどダイエットしようと決めたのに・・・。

本当に自分が不甲斐ない。

でも、炭水化物は好きなのでやめられない。

はぁ。

 

 

11月13日 晴れ

 

今日はうどんを2杯食べてしまったけれど、

3杯目は我慢してつゆに天かすをいれて食べた。

でも、これではダイエットにはなってない・・・。

お正月にはどうせお雑煮やらお寿司やら、

かまぼこやらかにしゃぶやらを食べてしまうのだから、

どうにかしてそれまでには痩せなければいけないのに・・・。

最近、1日1個はパンを食べるようになってしまった。

そういえばチキン南蛮も食べたいなぁ~。

 

 

・・・

 

 

「留学日記」と題されてはいたが、

直近の内容はほとんど食べた物を書いているだけであり、

舜奈はなんとなく未代奈らしいと思って少しホッとした。

これで太らないのだから、どういう羨ましい体質をしているのか。

それとも、本当は食べていないのに食べた風に書いているのだろうか。

だが、それはなんのために?

 

そんなことを考えながらペラペラとページをめくってみた。

ほとんどが食べ物の話題であり、特に変わった様子も見られなかったが、

舜奈は、ではなぜこの日記に「留学」と題されているのか腑に落ちなかった。

何かヒントになることが書かれている箇所はないかと探していると、

舜奈は過去に未代奈と遊んだ時の記録がないかを確かめようとした。

そして、それを発見した舜奈は自分が読んでいる文章が真実なのかどうか、

すぐに素直に受け入れることができずに茫然としてしまった。

 

 

・・・

 

 

10月15日 晴れ

 

今日はきな子と舜奈と一緒に夢の国へ遊びに行った。

児玉坂の街へ留学に来てから、まだ一度も行ったことがなかった。

二人から見ると私はとても世間知らずな女の子だと言うことらしい。

それでも、私は私なりに頑張って色々なことを学んでいるつもりだ。

ずっとこの街で育ってきたわけじゃないから、知らないことはもちろんある。

でも、ちゃんと語学だって勉強してから来たわけだし、

今でも時々単語帳を持って新しい言葉を覚えたりしている。

最近、面白いなと思ったのは「既視感」という言葉だ。

フランス語では「デジャヴュ」というらしいけれど、

日本語で「既視感」と言った方がなんとなくかっこいい気がする。

 

舜奈が用事で先に帰ることになって、

残念だと思いながらきな子とバレッタまで帰ってくると、

舜奈がそこでサプライズ誕生日パーティの準備をして待っていてくれた。

三人一緒にケーキを食べたり、お揃いのネックレスをくれたり、

こんな嬉しい日は児玉坂の街に来てから初めてぐらいかもしれない。

私は二人に何をしてあげられるわけでもないけれど、

このネックレスは私の一番の宝物になると思うし、

塩アイスのこの3人でいつまでも一緒にいられたらいいな。

 

 

 

・・・

 

 

5月27日 曇り

 

 

先日、きな子のスイッチを切り替えて何でも食べられるようにしたことで、

どうやらきな子は太り始めてしまったらしい。

しかも、どうやらワンちゃんとの仲がうまくいっていないので、

そのストレスでたくさん食べてしまい、それが原因で太っているみたい。

だから、きな子がダイエットできるように動物翻訳機を貸してあげた。

これは別にそれほど高性能な物でもないけれど、

飼っているワンちゃんの言葉はわかるようになるだろうから、

それでうまく仲直りをしてくれたらいいな。

でも、ソルティーヤくんはチンパンジーなのに喋れるけど、

私は別にそのおかげで特別に仲良くなれてるとも思わないけど。

言葉なんてオートマティック・テレパシーで上手く伝えられない時とか、

伝えたい感情サンプルがデータ内ですぐに引っ張り出せない場合に、

それを補うみたいに使うだけだと思っていたけど、

この時代の人達にとっては言葉がなければ始まらないみたい。

でも、これも留学してから始めてわかったことかもしれない。

やっぱり留学っていろんな発見があるなぁ。

きな子はちゃんとワンちゃんと仲直りできたかな?

 

 

4月23日 曇り

 

 

今日、舜奈がアルバイトの面接に無事合格した。

もし年齢のせいで不合格になってはいけないと思い、

私は舜奈のために運転免許証を用意してきたのだけど、

舜奈には偽造だと言われてしまった・・・。

せっかく用意したのにとてもショックだった。

どうして偽造なんて言うのだろうと思って後から調べると、

どうやらこの時代の人達の運転免許証は国が発行するものらしいとわかった。

やっぱり色々と調べないとダメだなと少し落ち込んだ。

私の住んでいる時代では自動車は全部タイヤなんてないし、

運転手なんていなくて、道路もないし自動運転で運んでくれるから、

自分で運転したい人なんてよっぽど懐古趣味の人だけだ。

自動車には自動制御機能が付いているから事故なんて起こらないし、

だから運転免許証なんてただの自己満足のカードだと思ってた・・・。

思えば、この時代の自転車とかヘリコプターとかもちゃんと見たことない。

タイヤが4つ付いてる自転車とか、蝶みたいに羽ばたくヘリコプターなんて、

そんなものをこの時代の人達はまだ見たことがないのだから、

うっかりして未来から来たことがばれてしまわないように気をつけなくちゃ。

それにしても、絵を描くって難しいな。

今まで手で絵を描いたこともなかったし、コンピューターが自動補正してくれないから、

イメージした通りに形になってくれないし・・・。

だいたい、この時代のコンピューターはややこしすぎる。

パソコンの設定とかややこしすぎてサポートデスクに8時間も電話したけど、

それでもよくわからない、携帯もバッテリー切れたらどうすればいいのだろう・・・。

わからないけど誰かに聞いたらまた世間知らずってバカにされちゃうしな・・・。

まったく、留学って大変。

 

 

・・・

 

 

「ソルティーヤくん、晩御飯はなんやろうね」

 

店長の部屋で拘束されたまま座っていた未代奈は、

まだ晩御飯の時間には早いのにそんなことを質問した。

部屋を出て行った源太郎が帰ってこないので、

どうやら早めに食事の準備に取り掛かったと思ったようだ。

 

「さあね、僕にはいつもバナナしかくれないよ。

 別に僕はそれで十分だけどさ、どうせ猿だから」

 

「別にそんなに猿を卑下することないやんか。

 猿には猿の権利があるって言うとったの忘れたん?」

 

「そりゃ、こんな狭いカゴの中に入れられてりゃ、

 僕の自尊心だっていつか枯れ果てちゃうよ」

 

ソルティーヤくんは監禁生活が長すぎて疲れ果てていた。

未代奈はおいしいものさえ食べられれば元気なのだ。

源太郎は静かにしている限り、未代奈が本を読んでいても、

DVDを観ていても別に咎めることはないからだった。

もちろん、彼がいない間はこうして手足を拘束されているが、

彼が部屋にいる間、彼女は自由に行動できるのである。

だが、ソルティーヤくんは最初に源太郎に刃向かったため、

彼の自由は約束されてはいなかったのである。

 

「はぁ、未来にいた時は楽しかったなぁ。

 未代奈が買ってくれた筋斗雲に乗って空を飛び回って、

 孫悟空ごっこして遊んだりもしたもんだったね・・・」

 

「ソルティーヤくん、ないものねだりはあかんよ。

 児玉坂の街に留学するって決まった時に、

 この時代のアナログさを楽しむって約束したやんか」

 

「そりゃそうだけどさ・・・ミヨナだって箒で空飛びたいでしょ?

 もちろん、この時代でそんなことして誰かに見つかったら、

 そりゃ先生達の耳に入れば僕らは強制送還されちゃうよ。

 だけど、あいつは同じ留学生のくせに僕らを監禁までして、

 結局、最終的には自分の身がかわいいだけじゃないか。

 先生の手先みたいに留学生は相互監視すべし、だってさ・・・」

 

未代奈とソルティーヤくんがそんな話をしていると、

部屋の外から誰かの足音が聞こえてきた。

足音はだんだん近づいて大きくなってきており、

どうやら誰かがこちらにむかってきているのがわかった。

 

「あいつ、帰ってきやがったな!

 今度という今度はここから出すように文句いってやる!」

 

「・・・ソルティーヤくん、ちょっと待って」

 

未代奈は拘束されたままの状態でソルティーヤくんを制止し、

部屋のドアの方向を見つめて高速瞬きを行った。

 

彼女の瞳にはコンタクトレンズ型のコンピューターが付いている。

これは瞬きの回数によって反応し、カメラ機能を起動させたり、

対象物を捉えて自動的に検索エンジンにかけて分析したりできる。

現代で言うグーグルグラスの進化版のようなものである。

壁などの障害物があっても、生物の放つ熱量をキャッチすることができるのだ。

 

「違う、源太郎さんじゃない。

 舜奈、どうして・・・?」

 

「どうしたんだよ、ミヨナ?」

 

「しっ!ソルティーヤくん黙って!」

 

未代奈がいつになく厳しい口調になったので、

それに威圧されてソルティーヤくんは黙り込んだ。

静かになってしばらく耳をすませていると、

やがてドアがゆっくりと開いて向こう側から舜奈が姿を現した。

 

「未代奈!」

 

「舜奈、どうして?」

 

舜奈は拘束されている未代奈の姿に驚いて駆け寄った。

おそらく源太郎の仕業だと思った舜奈は未代奈を拘束していた縄を解いてやった。

 

「だってあんなライン送ってきたら心配するじゃん!」

 

未代奈はチキン南蛮の愚痴が誤解を招いたことに気がついたが、

うっかり誤解を招いただけだとは言い出せずに手で口を押さえていた。

ただの愚痴だったつもりが、SOSメールみたいに見えてしまったのだった。

 

「ああ、ごめん」

 

「それより、きな子を助けなきゃ!

 お店の方であの人を食い止めてくれてんの!

 ていうかさ、あの人って何者?

 うちらに銃を向けてきてさ、

 未代奈、なんとかしてよ!」

 

「えっ、銃を!?」

 

未代奈が驚いた様子で立ち上がると、

舜奈と一緒に部屋を出て行こうとした。

その時、後ろからケージをガンガン叩く音が聞こえ、

振り向いた未代奈はソルティーヤくんを助けるのを忘れていたと気づいた。

 

「ああっ、ソルティーヤくんごめんごめん」

 

未代奈はすぐに駆け寄って彼をケージから出してあげた。

なまった体をほぐすようにしてソルティーヤくんが肩を動かしていた。

舜奈は一人離れたところで佇みながら、未代奈とソルティーヤくんを見つめていた。

 

「・・・チンパンジーってさ、未来ではみんな喋れるもんなの?」

 

舜奈はそう言ってしまってから、自分が何を言ってしまったのか、

その重大さに気づいて両手で自分の口を押さえてしまった。

だが、舜奈の声を聞いた未代奈とソルティーヤくんは瞬時に凍りついたように固まり、

ゆっくりと舜奈の方を振り向いて驚いたような顔で見つめていた。

 

「・・・舜奈、何言っとるん?

 ソルティーヤくんはただのチンパンジーやから喋れるわけないやんか」

 

そう言いながら未代奈はソルティーヤくんの頭をポンポン叩いていた。

ソルティーヤくんも、それに合わせて「ウキッ!ウキッ!」と、

徹底的にバカな曲芸猿のようなふりをするのに努めていた。

 

「ほら、早くきな子を助けに行かんと!」

 

「・・・うん」

 

未代奈はソルティーヤくんを連れて先に部屋を飛び出した。

正直なところ、あの日記を読んでしまった舜奈は、

もう未代奈を助けるのも恐ろしく、かと言って源太郎の元へ戻ることもできず、

迷った挙句、何も考えないようにしてここまでやってきたのだった。

 

とりあえず、今は未代奈の背中を追いかけるより術を知らず、

舜奈は眩暈がしそうな頭を気力で支えながら彼女を追いかけて行った。

 

 

・・・

 

 

(・・・撃ち抜く場所が問題なんだ、誤射するわけにはいかない・・・)

 

きな子によって舜奈を追うことを食い止められた源太郎は、

どうしてもきな子を突破することができずに手こずっていた。

それというのも、彼がコンタクトレンズ型コンピューターでリサーチしたところ、

彼女の両腕には核ミサイルが搭載されていることがわかったからである。

間違えてその場所を撃ち抜いてしまえば、自分を含めた児玉坂の街ごと全て消し飛んでしまう。

また、彼女の駆動部であるエンジン部に異常をもたらすようなことになっても、

これまた彼女自身が暴走してしまい、おそらく街は壊滅状態になってしまう。

きな子は何も自覚していなかったが、彼女が盾になっていること自体が、

源太郎にとっては大きなハンデを背負っているようなものだったのである。

しかも、ターゲットが動く以上、誤射する可能性はさらに高くなる。

 

「未代奈を返せ~!」

 

きな子は猛スピードで弾丸を躱しながら源太郎のそばへ駆け寄った。

全身の体重を預けて体当たりを食らわせると、

源太郎は吹き飛ばされて、そのまま後ろの壁に激突した。

普通であれば、全身骨折して立ち上がれないほどの衝撃が加わっていたはずだが、

源太郎はほとんど傷を負っていない様子で立ち上がった。

彼の着ている衣服はこの時代のデザインに合わせていたが、

未来の素材を使っているので、衣類としての柔軟性を持ちながらも、

鋼鉄の数倍以上の強度を兼ね備えていたのである。

 

「やれやれ、一体君を造ったのはどこの誰だい?

 この時代にこれほどのアンドロイドが存在するなんて、

 歴史には残っていないはずなんだけどな・・・」

 

源太郎は高速瞬きをしてきな子を分析していたが、

彼女のデータはどこにも見つからず、分析は不可能だった。

 

「ひょっとすると未来人がまたルール違反を犯したか?

 まったく、森ちゃんといい、みんな勝手なことばかりするんだから」

 

「未代奈は何も悪いことしてないよ!」

 

「まあ待ってよ。

 僕は君を造った人が未来人かもしれないと言っているんだ。

 そうだとすると、君は僕らと同じ時代の仲間だということになる」

 

きな子は源太郎が何のことを言っているのかわからなかった。

彼女を造ったウナギ博士はきな子が小さい頃に亡くなってしまったし、

彼がどこから来たのか、何者だったのかは今となっては誰もわからないのだ。

 

「だけどね、君たちアンドロイドの社会的立場は、

 僕らの時代だってまだ十分に考慮されてはいないんだよ。

 人間はロボットを差別して奴隷としか考えていない。

 君が生きるこの時代も、やがて人間達は君達のことを憎むだろう。

 君たちが活躍する時代が来れば、人々は自分達の存在意義が脅かされると考える。

 そして仕事も全て君たちがこなすようになれば、彼らには労働すらなくなる。

 だが労働がなくなれば賃金が得られなくなるんだよ。

 だから人々は君たちロボットを憎み始めるんだ。 

 君たちロボットは忌み嫌われた存在として過ごすことを余儀なくされる。

 そして、人々がこの旧来の雇用と賃金の社会システムを変革するのに数十年の歳月を必要とするんだ」

 

未代奈や源太郎が住む未来には、すでに人間が労働から解放されてしまっている。

このロボットやコンピューターを基礎とした新しい社会システムを生み出すのに、

人類は避けられない幾度の戦争を経験せざるを得なかった。

 

現在、週休2日制度が当然となっているように、

コンピューターとロボットの発展が著しく進むと、

人々は多くの仕事を彼らに任せることが可能になった。

そうして、やがて週休3日、週休4日というように労働日数は短縮されていった。

 

だが、コンピューターやロボットがあまりに自動化を推し進めると、

単純作業は全て自動化されてしまい、人間がする仕事がなくなってしまった。

そうなると、人々は仕事失って失業してしまうことになった。

機械にはできない仕事をする、というお題目の下で、

人間にしかできない仕事に価値を置き始めたのだったが、

全ての人間をスキルアップさせることなどはできるはずもなく、

やがて失業した多くの人々が仕事を求めて暴動を起こすことになった。

コンピューターやロボットで自動化を進めようとする資本家達と、

人間に仕事を取りもどそうと訴える労働者達の間で対立が起き、

やがては資本家達の資金を貧しい人々へ分配させようとする流れとなった。

だが、もちろんそれほど簡単に資本家達がお金を手放したはずもなく、

公平な分配制度を求める労働者達と、お金を取られたくない資本家達の間で、

意見を譲ることのない硬直状態が長期間にわたって続くこととなった。

 

そんな風にして社会不安の状態が続くと、

社会は乱れて略奪や殺人の類の犯罪が増加していった。

やがて人々は貨幣経済をコンピューターやロボットによって自動化し、

人間はただ余暇を過ごすだけの存在に、つまり労働をなくしてしまうことを考えた。

人々が生産活動をしなくとも、ロボットは人間に必要な物を提供し続けた。

人々は週休5日になり、週休6日になり、最終的には週7日全ては休日となった。

こうして、従来からの価値観である労働によって賃金を得るという常識を覆し、

人類は新しい社会システムを生み出すことに成功した。

 

もちろん、コンピューターが進化を続けると、やがてシンギュラリティーの問題が持ち上がった。

シンギュラリティーとは、簡単に説明するとコンピューターが人間の知性を超える現象である。

機械が自動的に優れた知性を生み出し、それはやがて人類を超えて自動的に発展していく。

だが、これは人間が機械によって支配されてしまう未来が危惧されたこともあり、

人間はコンピューターが自動的に知性を生み出して進化することを許さなかった。

あくまでも人間が最も優れた存在であり、機械は人類の奴隷であるという思想が一般化されていった。

やがて貨幣経済を自動的に動かすコンピューターを制御する人間だけが仕事を持つことになり、

彼らは世界を動かしているという特権階級のような思想を生み出していった。

その他の人々は、余暇を楽しむことで日々を過ごしていくことになった。

 

合理的な事は全て機械に任せてしまった事で、

人間が生み出す価値のある行為は芸術に集約されていった。

芸術だけはコンピューターが唯一生み出す事ができない物とされ、

人間の創造力を駆使して生み出される最高の価値を持つ物と認められた。

 

科学の進歩は人間の脳力を高める事にも繋がった。

パソコンやスマホのように言語を入力する作業を省くために、

音声認識機能が充実し、やがてキーボードを叩くような原始的な作業は失われた。

機械が行っているような大量の情報を処理するためにも、

人間は言語によるコミュニケーションを極力減らすことにし、

脳内でイメージされた感覚や感情をテレパシーのように、

相手に直接的に伝える方法を科学的に生み出す事に成功した。

脳内で生み出されたイメージをキャッチしたコンピューターは、

瞬時に相手のコンピューターを経由してそのイメージを丸ごと感覚で伝えてしまう。

こうすれば、言語によって取り違える事もなく、大量の情報を一気に伝達する事が可能になった。

ラインのスタンプで感情を伝えるように、未来の人々は伝えたい感情をイメージしたり、

もしくは過去に蓄積された感情のデータサンプルを利用する事によって、

相手に伝えたい喜怒哀楽の感覚を簡単に伝えられるようになった。

(もちろん、これを悪用してウィルスのように悪感情を送りつける輩も生まれるが)

 

 

人々は進化したヴァーチャル空間での芸術を楽しむ事もできたし、

それは脳内でイメージした物を誰でも簡単に絵を描くように具現化できたりする。

手を使ったりペンを使ったりする必要はなくなってしまったので、そういった方面の能力は失われてしまった。

現代の人間が漢字を書けなくなってしまったり、そろばんができなくなるのと似たような現象である。

貨幣経済はコンピューターが動かしてくれるので、人々は通貨への価値を見出せなくなっていき、

優れた芸術家が尊ばれるようになり、人々もこぞって芸術能力を高める事に躍起になっていった。

 

だが、ここまで全てが自動化されると、やがて懐古趣味が生まれてきた。

人間が労働していた昔を懐かしみ、わざわざ苦労した時代を恋しく思う人々もいたのである。

そうした人々は、自動化された車をわざとマニュアルで運転したくなったり、

コンピューターを介したテレパシーで伝えられることを、古めかしい言語で気取って伝えてみたりした。

CDがあってもレコードを聴く人たちがいるような現象に近いものである。

言語などは自動翻訳機で幾らでも瞬時に翻訳することができるのだが、

こうした人々はわざわざ苦労をして身につけた能力を尊ぶのであるから、

そんな楽を追求したりせずに、昔ながらの方法で言語を覚えていくのだった。

 

やがてタイムマシンのように時を超える方法を発明した人類は、

それを利用して過去へ旅行する人々を生み出していった。

もちろん、危険な時代には渡航すべからずという勧告もでているが、

21世紀初頭の日本は平和な時代だったので何も問題はない。

そして、学生達はやがて留学という形で過去へ行きたがった。

そうして児玉坂の街へやってきたのが未代奈と源太郎だったのである。

 

だがもちろん、未来人達は過去の人々に姿がばれてはいけないし、

そのルールを破った者は強制的に連れ戻されることになっていた。

未代奈と源太郎は同じ留学生として相互監視の関係にあり、

どちらかがルールを破った場合、それは両者の責任となった。

だから源太郎は未代奈が勝手なことをして正体がバレることを恐れたし、

それによって自分も同罪とされてしまうことを避けたかった。

そして、彼はせめて自分が論文を書き上げてしまうまでは、

未代奈を監禁して余計なことをしないようにと謀ったのである。

 

ちなみに、フェミニストである源太郎の視点から見れば、

この時代の女性の社会的な立場は圧倒的に低く、

特にこの日本は、諸外国と比較しても遅れていた。

未来の世界では男女平等はもっと当たり前の概念となっており、

女性の社会進出が著しく進んでいることもあり、

女性が社会的に不利な立場に立たされることによって被る被害も少なかった。

もちろん、人間の肉体そのものを芸術として見せる舞台やダンスなど、

その手の娯楽は存在していたのであるが、児玉坂46のようなアイドルはない。

人間そのものを商品と見なす場合に気をつけるべき項目が山のように存在し、

例えば恋愛禁止という設定は女性の権利を奪うものではないかという主張もあり、

グラビア撮影ではむやみに性を売り物にしていないかという監査が入ることになる。

握手会に関しても、大量の不特定多数の人と握手をするという仕事自体、

かなり特殊なものとみなされて、過酷な労働なのではないかという意見も生まれ、

その実施に関しても、参加者側にもかなり規律が設けられていたし、もっと警備も強化されていた。

握手をする側の精神的かつ肉体的な疲労も考慮され、1日に握手をする人数も制限された。

とにかく今現在、この時代に行われているような形式の握手会に関しては、

未代奈や源太郎達の住む未来には存在していなかった。

だから、源太郎はこの時代のアイドルという仕事に興味関心を抱き、

遅れているフェミニズムの観点からフィールドワークを通した論文を書こうと思ったのである。

 

 

・・・

 

 

きな子を造り出したウナギ博士が何者なのか、

そんなことはきな子にも源太郎にもわからなかったが、

源太郎はきな子の心理的な動揺を誘っていた。

自分がアンドロイドであり、みんなと少し違っているということは、

きな子にとって多少のコンプレックスであり、

アンドロイドとして自分の人生をどう生きて行くのか、

きな子にはまだ明確な指針も持っていなかった。

 

ウナギ博士がきな子のご両親に残した遺言によると、

きな子は世界初の愛情を生むアンドロイドだということだった。

だが、そんなものは未代奈や源太郎の住む未来の世界でも存在していない。

ウナギ博士の壮大な計画は失敗し、きな子の存在は歴史の影に埋もれてしまったのか、

それとも彼が未来からやってきてきな子に希望を託して死んでいったのか、

真実はわからないが、実際のところ、きな子は人間よりも何倍も純粋であり、

そうであるがゆえに、普通の人々よりもまだ人間の心についてはよく理解していない部分も多かった。

 

きな子には源太郎が言っている事の意味がよく分からない。

だが、アンドロイドである自分がこの社会を生きづらい存在である事を指摘している事はわかった。

その微妙に心が揺れ動くさまを、源太郎が見逃す事はなかったのである。

 

「ごめんね!」

 

源太郎は一瞬足が止まってしまったきな子を目掛けて発砲した。

発射された弾丸は一直線にきな子の心臓部へ飛んでいき、

彼女は撃ち抜かれた衝撃で3-4mは後ろへ吹っ飛んでしまった。

そのまま仰向けに倒れたきな子は、なんとか上半身を起こそうと努めたが、

やがて力尽きたのか、そのまま天を仰いで倒れてしまった。

 

「嫌な事は忘れて生きて行くに限るよ・・・。

 よけいな自意識は自己を苦しめるだけだからね。

 生まれてきた時代に恵まれるかどうかで、

 人の価値観や生き方なんていくらでも変わりうるんだから」

 

源太郎が銃を持った腕を下げた時、バレッタの奥のドアが開いて、

走ってきた未代奈と舜奈が店内に入ってきた。

そこに倒れているきな子の姿を見つけた二人は愕然とした表情で、

舜奈に至っては棒立ちのままで一歩も動く事ができなかった。

自分の身代わりになってくれたきな子を守ることができなかった後悔が、

彼女の胸を締め付けて、すべての感情を締め出してしまったのだった。

 

「きな子!」

 

棒立ちになっていた舜奈を置いて、

未代奈はすぐさま倒れているきな子の側へ駆け寄った。

彼女はきな子の上半身を起こして顔を覗き込んだ。

きな子は目を閉じたままピクリとも動く気配がなかった。

 

「えっ、死んだらいやや!

 きな子、ねえ、返事して、きな子ー!」

 

未代奈はポロポロと大粒の涙をこぼしながらきな子のほっぺを叩いた。

ソルティーヤくんは怒りに震えながら毛を逆立てて源太郎に対して唸り続けていた。

 

未代奈の涙の雫がきな子の頬の上に数滴ほど落ちた時、

きな子はうっすらと瞼を開けて未代奈の方を見つめた。

今にも消えてしまいそうな儚い瞳をしていた。

 

「きな子!」

 

「・・・未代奈・・・よかった・・・無事で・・・」

 

「そんな無理して喋らんでいいよ・・・すぐに病院に行こ」

 

きな子は黙って微かに首を横に振った。

 

「だって!」

 

「・・・きな子ね・・・未代奈が無事なら・・・それでいいの」

 

きな子はまた辛そうに一瞬だけ目を閉じた。

また目を開いた時は、先ほどよりも辛そうな表情になった。

 

「森ちゃん、心配しなくても大丈夫だよ。

 痛みなんてすぐに消えてなくなってしまうさ。

 何も感じずにすべてを忘れていくだけなんだから・・・」

 

源太郎は銃をブラブラさせながら未代奈にそう声をかけたのだが、

未代奈は彼に一瞥もくれる様子はなく、ずっときな子を見つめていた。

 

「・・・きな子ね・・・未代奈と一緒に・・・色んな美味しい物食べれて・・・嬉しかった・・・」

 

「そんなこと言わんで!

 また一緒に美味しいものいっぱい食べよ、ね?

 きな子は何食べたい?」

 

「・・・うなぎかな」

 

きな子は一瞬、口の中に唾液が出てきたのか、

それを飲み込むような仕草を見せた。

それが未代奈をさらに切ない気持ちに追いやった。

 

「うん、わかった、じゃあ今度いっぱいうなぎ買ってくるから、

 きな子のために用意しておくから、いつでも食べにきていいよ・・・」

 

「・・・ホント?」

 

「うん、二人の約束」

 

「・・・約束・・・」

 

そう呟いたきな子は、とても幸福そうな表情になった。

そして、嬉しそうな笑みを浮かべたままゆっくりと目を閉じていった。

 

「きな子!きな子!」

 

未代奈は抱きかかえているきな子の上半身を激しく揺さぶった。

舜奈はその様子を見て恐る恐る二人に近づいていった。

あまりの結末に、彼女はどんな声も発することができなかった。

やがてどこかへ締め出されてしまっていた感情が緩やかに舜奈に戻り、

やっと冷静な悲しみの感情を思い出して、彼女の頬にも涙が伝った。

きな子の体を揺さぶり続けている未代奈のそばに駆け寄り、

動かなくなってしまったきな子を恐々見つめてみると、

きな子はやがてくすぐったそうにニヤニヤとした笑みを浮かべ始めた。

そして、舜奈は覗き込んだきな子の顔が寄り目になっているのを認めた。

 

「えっ!?」

 

未代奈と舜奈が同時に声を出すと、

きな子はもう耐えられないという様に声を出して笑い始めた。

それを見て驚いていたのは源太郎だった。

一体何が起きたのか誰にもよくわからなかった。

 

「・・・もうムリ、だって未代奈の顔が面白いんだもん!」

 

きな子はそう言いながら未代奈の手を振り払って起き上がった。

彼女は立ち上がると両肩をぐるぐると動かして見せた。

そして、右手をおもむろに服の中に突っ込むと、

中から分厚い少年誌を取り出して見せた。

その少年誌には、源太郎が撃った弾がめり込んでいた。

 

「もう!

 あいつが油断したところを捕まえてボッコボコにしてやろうと思ってたのに!

 未代奈が来るから作戦が台無しじゃんか!

 まあいっか、うなぎ食べ放題の約束も取り付けたし!」

 

そう言うと、きな子は両手で持っていた雑誌を真っ二つに破り捨ててしまった。

源太郎は店内のマガジンラックから雑誌がなくなっているのを認めた。

いつの間に懐に忍ばせたのかはわからなかったが、自分が仕損じた事はよくわかった。

 

「まったく、君は僕より演技が上手いかもしれないね。

 人をバカにする才能があるよ、全くもって不愉快だ」

 

源太郎はそう言ってまた銃口をきな子へと向けた。

きな子も威嚇顏になって今にも飛びかからん様を呈していた。

 

「二度目からは気をつけろって、児玉坂46の歌にも何かあったね。

 僕もようやく目が覚めた、今度は容赦しないよ」

 

源太郎がそう言った時、先ほどまで泣いていた未代奈が源太郎の方を見つめた。

そして、その銃を向けている様子を見て、何かイライラした様子になった。

きな子はドッキリを企てたつもりだったが、未代奈にはもう冗談が通じなかったようで、

きな子が復活したのにホッとする様子も、笑顔を浮かべる事もなく、

何か怖い表情を浮かべたまま立ち上がって源太郎の方を鋭い目つきで睨みつけた。

 

「・・・もうやめてください」

 

静かな声のトーンでそう言ったが、源太郎は気圧されてしまった。

銃口を向ける先に立ちはだかり、何も恐れる様子もなくつかつかと歩み寄ってきた。

 

「・・・私の大切な友達に手を出すのは、もうやめてください!」

 

未代奈は感情を爆発させた様にしてそう叫んだ。

今まで見た事がない様に、舜奈もきな子も源太郎も驚いてしまった。

未代奈は銃口の先まで歩み寄り、逆に銃を持っている源太郎の方が手が震えてきた。

 

「しかし、僕はただルールに則ってだね・・・」

 

源太郎がそう言った時、未代奈は鋭い目でまた睨みつけた。

彼女の瞳にはあらゆる感情が見当たらない。

ただ氷の様に冷たくて、すべてを貫くように鋭利で、

その奥に潜んでいる狂気が透けて見えてしまうくらい透明な、

絶対に折れる事のない鋼鉄みたいな瞳を彼に向けていた。

 

源太郎はその瞳に睨まれて、体が身震いするのを感じた。

そして、どういうわけか心の奥底では別の感情が生まれていた。

この頼もしさ、力強さ、そういったものへの畏怖の気持ち。

やがてそれらは彼女への尊敬心へと姿を変えていった。

源太郎は本能的に彼女には逆らえない事をこの時に悟った。

 

彼がフェミニストであることの源泉は女性への敬意だった。

彼は本能的に女性の方が男性よりも強い生き物であることを知っており、

動物や昆虫などのあらゆる生物でも、雄よりも雌の方が強いということから、

彼は人間にも、どこかでその傾向を探し続けていたのかもしれない。

それは男性にとっては、どこかで母親を探し求める心理的なマザーコンプレックスの要素が絡んでおり、

女性の中にある絶対的な強さへの憧れを抱き続けているのかもしれなかった。

 

源太郎はその強さを未代奈の瞳の中に見たような気がした。

肉体的には男性の方が強くとも、精神的には女性の方が男性を凌駕している。

その彼女の折れることのない精神力に源太郎は魅せられてしまったのだった。

 

「・・・わかったよ、ごめん、僕が悪かった」

 

そう言って源太郎は持っていた銃を捨てた。

床に落ちた銃は誰もいないところに転がって止まった。

 

「君がそこまで覚悟を決めているのなら、

 僕がこんなことをする必要なんてなかったんだ。

 閉じ込めたりして、すまなかったね。

 それに女性に対して銃を向けるなんて、まったく僕はどうかしてたよ・・・」

 

源太郎が銃を捨てても、未代奈はまだ鋭い眼光を光らせていた。

彼はこれ以上気圧されるのはメンツに関わる問題だと感じて、

立ち尽くしている三人の間をすり抜けて奥のドアの方へと帰っていった。

 

「僕は静かに論文を書きたいだけなんだ、ただ論文を・・・」

 

彼の声が遠くなってしまうと、未代奈はつかつかとドアまで歩いて行き、

そのドアを躊躇することなく思い切り閉めてしまった。

その剣幕に舜奈もきな子も唖然として何も言えずにいたが、

怖い顔をして振り返った未代奈は、少し無理をして笑って見せた。

 

「心配かけてごめん」

 

未代奈がそう静かに声をかけると、場の緊張感がかすかにほぐれた。

最初に動きを見せたのはきな子だった。

 

「あいつ何なの?

 きな子がボッコボコにしてやろうと思ったのに」

 

「もう、そんな怖いこと言わないの」

 

未代奈がなだめるときな子はまだ不満の様子だった。

人間達の輪に入る隙がないと思ったのか、

ソルティーヤくんは先ほど源太郎が投げ捨てた銃のところへ行き、

その銃を掴んでジロジロと眺め回していた。

きな子がそれを見て「ダメ~!」と叫んだ。

ソルティーヤくんは驚いてすぐさま銃をまた床に置いた。

 

「未代奈、なんともないの?」

 

「うん、ごめん、もう大丈夫やから」

 

きな子が心配そうに尋ねたものの、未代奈には何も異常がないのを知るとそれでひと安心した様子だった。

 

「だって未代奈がライン返してくれないから、

 きな子、未代奈に嫌われちゃったかと思ってたのに」

 

「あーごめん!

 ちょっと最近は忙しかったから返事返せなくて」

 

何も知らないきな子はそれを疑う事もなかったが、

彼女が監禁されていた事実を知っている舜奈にとっては、

源太郎との関係などをごまかそうとしているようにしか感じなかった。

何もしていないのに銃を向ける人と一緒にいるなんて、

こんな異常事態を大丈夫で済ませられる話ではないと舜奈は思っていた。

 

「じゃあ未代奈はきな子がネックレス無くしたこと怒ってないの?」

 

「うん、怒ってへんよ、ちょっとショックやったけど」

 

「あ~、ごめ~ん!」

 

きな子は未代奈にすがるように謝罪したが、

「もういいよ~」とほんわかした様子で許す未代奈。

そのネックレスを身につけていた舜奈は、

一人そのダイヤを指先でつまみながら考え事をしていた。

その動きを、未代奈はかすかに見ていたような気がした。

 

せっかく来てくれたけど、今日は遊ぶ時間がないと未代奈は二人に告げ、

きな子はとりあえず未代奈が無事だったのでそれで引き下がろうとした。

舜奈は頭の中で、きっとまたおとなしく部屋に戻るのかもしれないと思った。

源太郎は部屋の奥へと消えてしまったが、未代奈は二人に気を使っているし、

彼と未代奈の関係は一向に謎に包まれたままでよくわかっていない。

源太郎がこれ以上、未代奈に無理を強いることはないと思われたが、

未代奈がしばらくの間、彼から自由になれるとも思えなかった。

二人は何かを隠し通そうとしているし、うやむやにしてしまいたいと思っているように感じた。

 

「じゃあ、また今度遊びにきてね」

 

バレッタのドアの外まで見送りに出てきた未代奈は、

去っていく二人にそんな風に声をかけた。

 

「あっ、そういえば!」

 

帰り際、きな子が何かを思い出したようにそう叫んだ。

 

「あいつ、なんか未来がどうとか言ってたけど、

 それってどういうことだったんだろう?」

 

未代奈は苦虫を噛み潰したような顔になり、

どう答えたらいいのか考えあぐねていた。

彼女は笑って何も返答しなかった。

 

「・・・未代奈たちが未来から来たってことだよ」

 

舜奈はそう言って未代奈の目を見つめた。

未代奈は冷静な目つきのままで舜奈と見つめあう形になった。

 

「えっ・・・どういうこと?」

 

「未代奈は未来人だってこと」

 

舜奈が間髪入れずにきな子に返答をすると、

未代奈は何も言えずに俯いてしまった。

きな子はこの展開の意味がまだよく飲み込めず、

ただ何もできずにそばにいるだけだった。

 

「・・・ごめん、未代奈の部屋で日記見ちゃった」

 

舜奈はそう言って未代奈と同じように俯いてしまった。

きな子もようやく意味を理解し始めてきたのだが、

騙されているんじゃないかと思い、何を信じていいのかよくわからない。

先ほどきな子が仕掛けたドッキリの仕返しではないかとも思っていた。

 

「・・・でも、大丈夫だよ。

 舜も言い出せない嘘をついちゃったことあるけど、

 それで苦しむよりは、正直に言っちゃった方が楽だって、

 最近よくわかったんだよね、それで別に何が変わるわけでもないし。

 失いたくないから人は怖くて嘘をついちゃったりするけど、

 そんな嘘をついたくらいで嫌われちゃったりしないから」

 

舜奈が強い気持ちで視線を上げると、

未代奈も俯いていた顔をゆっくりとあげて舜奈の顔を見た。

舜奈はにっこり笑って見せた。

 

「あーあ、やっとできた親友が、

 一人はアンドロイドで、もう一人は未来人でしたーなんて、

 そんなこと言って誰が信じてくれるんだろー?」

 

少し茶化した感じで舜奈がそう言うと、

未代奈は何を思ったのか、突然のように大声で笑い始めた。

 

「・・・ハッハッハッハッ、アーッハッハッハッ!」

 

やがて手を叩いて何がおかしいのかわからない狂気を発すると、

きな子も舜奈も気味が悪くなって多少後ずさりをした。

それでも一向に構わずに未代奈は大声で狂気の笑いを続けた。

 

「アーッハッハッハッ!

 ごめん、だって未来人とか言い出せないじゃん!」

 

未代奈は笑いながら明るい様子で冗談のようにそう言った。

きな子と舜奈も未代奈が楽しそうに笑っているのを見て、

照れ隠しにせよ、これで三人の間には嘘がなくなったと思った。

 

「もー!未代奈ー!」

 

「いろいろと世間知らずだからおかしいと思ったんだよー!」

 

「ごめーん、だってこの時代のギャグとかお笑い芸人さんとか知らないしさー」

 

「どうりでちょいちょい言葉間違えてると思ったー!」

 

「えー、これでもここ来る前にめっちゃ勉強してきたんやけど」

 

「リスニングは得意だとか言ってるけど、

 えっ、なんですか、とかちょいちょい聞き返すし」

 

「えー、だって日本語ってめっちゃ難しいんやもん!

 でもこれでも単語の勉強とか毎日しとるよー」

 

「でも間違ったまま覚えてるの多いし!」

 

「もう、きな子のいじわる!」

 

 

三人はバレッタの外でワイワイ言いながら明るい調子で話し続けた。

未代奈が色々と世間知らずだったこと、絵を描くのが下手だったこと、耳が遠いように思えたこと、

単語や言葉尻を間違えて言ってしまったり、時々みんなとはずれた発言をしてしまうこと、

それらは全て未来と現代の習慣の違いからもたらされた誤解だったことを理解しあった。

今まで分かり合えなかった部分まで踏み込んで理解を深めることができたので、

三人は今までに感じたことのない充実感に満たされていた。

本当の意味で、塩アイスの友情はさらに固い絆で結ばれたと感じたのだった。

 

「まあいいや、未代奈が元気そうでよかった」

 

舜奈はもやもやした思いを全て吐き出してスッキリしたのか、

先ほどまでとは打って変わったように明るい声を出すようになった。

隠していたことを洗いざらい言い合ったことで、

これで心置きなく帰ることができると思ったのだった。

 

「うん、ありがとう、私は大丈夫やから」

 

未代奈も笑顔でそう返答した。

きな子も楽しそうにピョンピョン跳ねている。

 

「約束したうなぎ、今度食べにくるから!」

 

「もう、まだ覚えてたの?」

 

「きな子、そういうことはちゃ~んと覚えてるから!」

 

そんな冗談を言い合いながら、三人は手を振って「じゃあね!」とさよならを告げた。

まだ興奮が冷めやらぬのか、きな子と舜奈は歩きながらまだ嬉しそうに何やら話を続けていた。

 

そんな風にして20歩くらい二人が歩いていったところで、

きな子の横を歩いていた舜奈は、突然胸から赤い血を流して膝から地面に沈み込んだ。

確かに後ろから銃声が聴こえたきな子は、瞬時に後ろを振り返った。

そこには、きな子が信じることのできない光景が広がっていた。

 

「・・・だって、こうするしかないじゃない・・・」

 

 

・・・

 

 

 

生気のない表情を浮かべながら、

未代奈は先ほど源太郎が持っていた銃をこちらに向けていた。

そして、舜奈に向けられていた銃口は、今度はきな子に標準を合わせられた。

 

「ミヨナー!」

 

きな子が声も上げられずにいると、駆け寄ってきて声をあげたのはソルティーヤくんだった。

彼はきな子をかばうようにして彼女の前に立ち、大きく両手を広げていた。

 

「ソルティーヤくん、そこどいて」

 

「いやだ、こんなのどうかしてるよ」

 

ソルティーヤくんは未代奈が何を言っても動く気配はなかった。

身長が足りないのできな子を覆い隠すこともできていないが、

彼は彼なりに両手を大きく広げてきな子を守っていたつもりだった。

 

「やっぱり、喋れたんだ」

 

きな子はいつか公園で見た猿が目の前でしゃべっているの見て、

あれは自分の聴き間違えではなかったことを確信した。

今までバカな猿を演じ続けていたソルティーヤくんは、

とても後ろめたい気持ちになり、きな子の顔を見る勇気はなかった。

 

「ごめんよ、だってこの時代では猿はしゃべっちゃいけないんだもの。

 喋る猿なんてあっという間にマスコミに取り上げられてしまって、

 全ては未代奈に迷惑がかかることになっちゃうからさ・・・」

 

ソルティーヤくんはきな子の方を振り向かずにそういって少しうなだれた。

 

「きな子、誰にも言わないよ」

 

「ダメだよ、もう源太郎にばれてるんだ。

 あいつは未代奈が勝手なことをしたって、きっと先生達に告げ口するよ。

 そうすれば、未代奈は留学停止になって未来に強制送還されてしまうことになる」

 

「じゃあ、きな子達を殺すの?」

 

聴こえていたはずなのに、ソルティーヤくんはしばらく返事をしなかった。

自分の行動が矛盾していることをわかっているから、何も言えなかったのだ。

 

「殺しはしない、忘れてもらうだけさ」

 

「忘れる?」

 

「うん、あの銃は別に殺傷能力のある武器じゃない。

 撃たれた者は未来に関する記憶だけをきれいさっぱり忘れてしまう。

 でも、それは・・・」

 

そう言ってソルティーヤくんは涙で言葉を詰まらせた。

それはきな子が未代奈のことを忘れてしまうということ。

それは、またきな子がソルティーヤくんのことも忘れてしまうということだった。

 

「ソルティーヤくん、ごめんね」

 

銃口を向けながら未代奈はそう言った。

ソルティーヤくんは大好きなきな子が自分のことを忘れてしまうことに耐えられなかった。

 

だが、それは未代奈も同じ気持ちだったのだ。

大好きな親友達が自分のことを忘れてしまうのに、

彼女が平気な気持ちでいられるはずもなかった。

その証拠が、彼女達を見送った20歩の躊躇だった。

未代奈は二人を見送りながら背中を目で追っている時、

心の中に切なさが溢れてきて泣きそうになっていた。

 

もっと正確に言えば、先ほど一緒に笑いあっていた時間も、

終わりに近づくたびに、別れたくない気持ちがどんどんと募っていった。

どうしてこんなに自分は欲深くなってしまうのだろうと思っていた。

離れたくない、帰って欲しくない、そんな気持ちをぐっと堪えながら、

彼女は精一杯微笑んで手を振っていたのだった。

 

やがて、堪えていた全てが決壊し、未代奈の目から大粒の涙が溢れてきた。

それでも泣き崩れてしまわないように、彼女は背筋にぐっと力を入れた。

姿勢だけは真っ直ぐに、銃口はきな子へ向けたままで耐えていた。

体の中に爆弾を抱えているきな子を誤射することは許されない。

自分がしっかりしていなければ、殺すつもりはない親友を本当に殺してしまうことになる。

未代奈は義務感と責任感でからっぽの心を満たしながら、一人切なげに立っていた。

 

「ごめんよ、ミヨナ。

 本当に一番辛いのはミヨナだって僕もわかってる・・・。

 でも、なんでこんなに辛いんだろう、彼女が僕のことを忘れるって、

 そんなこと考えたくないし、あってほしくない。

 だけど、これが現実だなんて、誰がそんなの受け止められるんだろう?

 誰が無神経にそんなに強く耐えていられるんだろう?

 僕にはわからないよ、もうわからないんだ・・・」

 

ソルティーヤくんも目の周りをびしょびしょに濡らしていた。

顔の周辺にもたくさん毛が生えているために、涙はすぐに吸収されてしまう。

 

「じゃあさ、きな子はチョップと話せるようになったことも忘れちゃうのかな・・・?」

  

きな子は寂しそうにそう尋ねた。

ソルティーヤくんは、あの犬のことを思い出すと嫉妬心が沸き起こってきたが、

きな子の大切な犬なのだからと思い、そこはグッと堪えた。

 

「そうだね、きっと忘れちゃうね。

 だけど、僕たち動物は元々喋ることができないんだよ。

 それがこの時代の常識なんだから、ただあるべき姿に戻るだけだ」

 

「きな子、まだチョップにごめんねって言ってない。

 ケンカしちゃって、そのままなんて嫌なのに・・・」

 

きな子も悲しい気持ちが湧き上がってきてしまったのか、

辛そうにうつむいてしまった。

 

「言葉があるから余計なケンカも増えちゃうよね。

 だけど、本当は言葉なんてどうだっていいことなんだよ。

 僕たちの住む未来の世界では、人間だって言葉なしで分かり合えてるし、

 だけど言葉を懐かしむ人もいて、そういう人々は未代奈みたいに言葉を学ぶんだ。

 この面倒臭いやり方に人間が尊い価値を見出す時代もやがてくるんだよ。

 でも、本当は僕たち動物も体の動きで言葉の代わりに何かを伝えているし、

 それを読み取る力があれば、人は動物の意思を理解することだってできるんだ。

 本当に大事なのは心なんだよ、そんなに形だけにこだわらずにさ・・・」

 

ソルティーヤくんはそこまで言って、大きくため息をついた。

未代奈は自分がきな子を撃たなければならないことを覚悟していたし、

きな子は自分が未代奈に撃たれなければならないことを覚悟していた。

自分がそんな二人の間に入って邪魔する権利なんてないのだ。

未代奈が未来に連れ戻されないようにするためには、

こうして決着をつけるより他には方法などないのだから。

それがわかっていて、自分は愚かにもそこに立っていた。

それが腹立たしかった、もどかしかった、許せなかった、情けなかった。

ソルティーヤくんは、もう自分がこの位置を去るべきだと感じていたが、

どうしても自分からきな子の前を立ち去ることができずにいた。

そうしていると、自分の体が持ち上げられて宙に浮いたのがわかった。

きな子がソルティーヤくんを後ろから抱きかかえて持ち上げたのだった。

 

「ありがと」

 

そう言ってきな子はソルティーヤくんの頭にキスをした。

ソルティーヤくんはきな子の顔を振り返ることもできず、

きな子にまた地面に降ろされた後、涙を拭いながら何処かへと走り去ってしまった。

 

 

ソルティーヤくんが去ってしまい、未代奈ときな子の間には遮るものは何もなかった。

相変わらず銃口は真っ直ぐきな子の方を向いているし、今度はきな子の懐には雑誌などもなかった。

 

「撃たれると痛いのかな?」

 

きな子は急にそんなことを言った。

こんな状況で適切な言葉など見つからなかったからだ。

 

「ううん、ちょっとチクっとするだけ。

 すぐに撃たれた事も忘れるし、傷跡も残らないから」

 

きな子は隣で倒れていた舜奈へと目を向けた。

あれだけ撃たれたのだから、きっと傷だらけの舜奈だと思っていたが、

すでに撃たれた箇所は綺麗に再生されてわからなくなっていた。

弾丸というよりも、体の中に埋め込む薬みたいなものなのかもしれないと思った。

 

未代奈は銃を持つ手が小さく震えているのが自分でもわかった。

それはきな子を誤射してしまうという恐怖からではなく、

今から撃つ相手の事をこれほど愛してしまっているという事実がそうさせたのだった。

 

たとえきな子や舜奈が未代奈の事を忘れてしまったとしても、

きっと明日もまた同じようにすれ違う事はできるのだ。

同じ街に住む者同士、どこか会えない場所へ行ってしまうわけではない。

そんな風にして、いつでもまた会う事は可能なはずなのだが、

この別れ際、未代奈は二人の事がもっと好きになってしまった。

 

「きな子ね、未代奈の事、忘れても忘れないから」

 

きな子はもう未代奈に身をまかせるように覚悟を決めていた。

両手を開いて彼女が撃ちやすいような姿勢を取っていた。

 

「ムリだよ、ちゃんと忘れちゃうから」

 

「わかってるよ、でも忘れても忘れないの。

 きっと撃たれた舜奈だって同じだと思う」

 

未代奈もきな子も、頬を伝う涙を拭う事なく向き合っていた。

きな子は覚悟を決めたのか、やがてゆっくりと目を閉じた。

 

「でも、もし万が一、きな子と舜奈が未代奈の事を忘れちゃったら、

 その時にはもう、塩アイス溶けちゃうのかな・・・?」

 

きな子は目を閉じたまま切なげにそう呟いた。

考えたくないけれど、自分が未代奈の事を忘れてしまった未来を想像してしまったのかもしれない。

 

「・・・とけへん」

 

未代奈は左手で涙を拭いながらそう言った。

そして、右腕をしっかりと構えて銃口の狙いをきな子の胸へと定めた。

 

「もし、二人が私の事を忘れてしまったとしても、それでも・・・」

 

未代奈は覚悟を決めたようにしっかりと前を向きながら力強く言い放った。

 

「それでも、塩アイスは永遠やから」

 

 

・・・

 

 

きな子の前から走り去ったソルティーヤくんは、

バレッタの二回にある倉庫へと向かった。

埃の積もったドアノブを回すと、倉庫の中は乱雑に散らかっていた。

 

その中からソルティーヤくんは欲していた物を見つけて引っ張りだした。

それは埃をかぶっていた重たい黒い鎧と白銀の槍だった。

ソルティーヤくんは息をフーッと吹きかけて鎧と槍から埃を払うと、

それらを身に纏って勇ましく部屋を飛び出していった。

 

 

・・・

 

 

きな子を追いかける事を諦めてしまったチョップは、

彼女の事を心配しながらもウッドデッキに寝そべっていた。

きな子が無事に帰ってくる事を願いながらウトウトとしていると、

突然、彼の鼻に付く臭いを感じて立ち上がった。

この臭いをチョップが忘れる事は決してなかった。

それはもっとも彼が忌み嫌う種族の獣臭だったからだ。

 

チョップは毛を逆立てて威嚇態勢を整えた。

それはいつか公園で出会ったソルティーヤくんである事は間違いなかった。

彼はどこから入ってきたのか、突然チョップの目の前に現れたのだった。

 

「おい、貴様、寝込みを襲うとは不届きなやつ!」

 

チョップは力のかぎり吠えたが、

どうやら南野家の家族は出払ってしまっているらしく、

彼がいくら吠えても止めにくる様子はなかった。

 

「相変わらず犬っころはうるさいね。

 もっと品のある態度を取れないのかな。

 これが猿と犬のおつむの違いなんだよね」

 

「なんだと!

 猿風情が偉そうに!」

 

丸腰に蝶ネクタイをつけているだけのチョップとは対照的に、

ソルティーヤくんは立派な鎧と槍を持っていた。

その槍を真っ直ぐチョップに突きつけて彼は話を続けた。

 

「君が僕の言う事を聞かないというのなら、

 僕は君に決闘を申し込んで白黒はっきりとつけなきゃならなくなる。

 もちろん、きな子ちゃんはそんな事を望んではいないんだ。

 だから僕が言っている意味は、君がおとなしく僕の言う事を聞くべきだという事だ」

 

「貴様らはいつもそうやって相手を見下してかかる・・・。

 そんな調子だから誰からも嫌われていくとなぜわからないんだ!」

 

「しっ、静かにしたまえよ。

 ご近所さんに迷惑がかかってしまうだろ。

 僕が要求する事は二つだけだ。

 一つはその蝶ネクタイとイヤホンをこちらに渡す事。

 もう一つは・・・おとなしくそれを実行してくれたら君に告げよう」

 

「貴様、もったいぶりおって!」

 

「頭の悪いやつだ、きな子ちゃんがどうなってもいいの?」

 

「なんだと!?

 貴様、きな子に何をした、どこへやった!」

 

チョップは今にも飛びかからんばかりに怒りの形相となった。

こんな事もあろうかと、ソルティーヤくんは鎧を着てきたのだ。

これなら噛まれる場所は少なくなり、ダメージは最小限で済む。

 

「僕が言っている意味がわからないかな。

 僕は君と決闘をしたくないと言っているんだよ。

 だからこうして交渉に来たんじゃないか。

 時間がない、単刀直入に済ませてしまおう。

 きな子ちゃんは君とケンカしてしまった事を後悔している。

 だから、彼女を許してあげて欲しいということだよ」

 

「ふん、そんなこと言われなくともわかっておる。

 貴様には関係のないことだろうが!」

 

「そんなにカリカリしないでよ。

 めんどくさいなぁ、これだから犬はさぁ・・・」

 

ソルティーヤくんがそう言うと、チョップは彼に飛びかかった。

間一髪のところでソルティーヤくんが身を躱すと、

彼はチョップからもっと距離を置いて話を続けることにした。

 

「まったく・・・もう野蛮なことはやめにしよう。

 そんなことはきな子ちゃんが望んでいないことだ」

 

「貴様からケンカをふっかけといてよく言えたものだな!」

 

「もういいよ、とにかく、その蝶ネクタイとイヤホンは返してもらうよ。

 そうしなけりゃいけないんだ、あるべき姿に戻らなきゃ」

 

「あの女が勝手にきな子に渡した物を今更返せとは。

 身勝手もいいところだな、やはり猿を飼う女なんて・・・」

 

「おい、ミヨナのことをバカにすると許さないぞ。

 彼女は僕の大切な飼い主なんだからな」

 

また槍を向けようとしたソルティーヤくんだったが、

これ以上またややこしい展開になることが分かったのだろう。

彼はその槍を捨てて攻撃する意思がないことを示した。

チョップもその姿勢を見て、さすがに少し威嚇態勢を緩めた。

 

「・・・もうやめよう。

 いがみ合ったって何も生まれないよ。

 率直に言おう、今きな子ちゃんはバレッタの前の道に倒れてる。

 怪我はない、すぐに意識を取り戻すと思う。

 だけど、それまで彼女の側にいてあげてほしいんだ」

 

「貴様、きな子に何をした!?」

 

「僕が何かをしたわけじゃない、こうするしかなかったんだ。

 だけど、僕はもう彼女の側にいてあげることはできないんだ。

 だからこうして頭を下げて頼みにきたんだよ」

 

そう言ってソルティーヤくんは反省のポーズを取って見せた。

悔い改めるという姿勢を十分に見せつけるために。

 

「頼む、何も言わずにその蝶ネクタイとイヤホンを返して、

 そして一刻も早くきな子ちゃんの元へ行ってあげてほしい」

 

ソルティーヤくんがすっかり反省していることを見て取ると、

チョップはもう怒る気も失せてしまった。

彼が槍を捨てたのだから、チョップも紳士的な態度で臨まねばならなかった。

 

「わかった、ここは一時停戦としよう。

 人間たちにこれ以上、犬猿の仲なんて言葉を言われたくもないからな」

 

そう言ってチョップは彼に背中を向けた。

これは動物界では非常に勇気のいる行為だったと言える。

相手が攻撃してくる可能性があるにもかかわらず、

背中を見せるというのは、相手を信用しなければできなかったからだ。

 

「イヤホンはそのテーブルの上にある。

 蝶ネクタイは、我輩の首についているから勝手に外して持っていけ。

 それを済ませたら、我輩は一刻も早くきな子の元へ向かうことにしよう」

 

ソルティーヤくんはテーブルの上に置いてあったイヤホンを取ると、

次にチョップの背中に近づいて器用に蝶ネクタイをはずしていった。

チョップが噛み付いてくる可能性も捨てきれずにドキドキしていたが、

二匹はとても紳士的に事を済ませる事ができたのだった。

 

イヤホンと蝶ネクタイを鎧の中にしまうと、

ソルティーヤくんはまた槍を拾って出て行こうとした。

そして、その前に少しだけチョップの方を振り返った。

 

「悪かったね、犬の中には君みたいに勇敢なやつもいたんだな」

 

その素直な態度を見たチョップも、少し照れながら答えた。

 

「ふん、猿も簡単に一括りにはできないものだ。

 チンパンジーはなかなか優秀な部類かもしれんな」

 

それを耳にしたソルティーヤくんも少し照れた。

 

「じゃあね、ボーッと外を歩いて棒に当たらないように」

 

「ふん、そっちこそ木に登る時には落ちないようにせいぜい気をつけるんだな」

 

二匹とも歯を見せてニヤリと笑った。

ソルティーヤくんが槍を持って南野家から出て行くと、

チョップもそれを見送ってから家を飛び出してきな子のところへ向かった。

 

 

ソルティーヤくんは玄関から出て行くのは気が引けたので、

入ってきた時と同じように塀をよじ登って外へ出て行った。

その塀を降りた時、うかつにも彼はその姿を通行人に見られてしまった。

 

「キャーーーーーー!!ぶ、武装したゴリラ!!」

 

ソルティーヤくんが声の方を振り向くと、そこには腰を抜かして倒れている女の子の姿を見つけた。

 

「やっぱりあれは夢じゃなかったんだ!

 武装したゴリラは本当にいたんだ!

 あーどうか命だけは助けてください!」

 

女の子は助けを請うように両手を合わせ始めたので、

ソルティーヤくんはゴリラではなくチンパンジーだと主張したかったが、

そんな事をするわけにもいかないので、彼は呆れてすぐに走り去ってしまった。

 

 

・・・

 

 

 

「とんでもないものを見てしまった・・・」

 

電柱の陰で小さくうずくまりながら、浜崎瀬奈は震えるように呟いた。

まだ先ほど目の前で繰り広げられていた事が夢か幻だったのではないかと思えてならない。

誰かが誰かを銃で撃つ場面なんて、映画以外でなら、人生できっと一度だって見る機会がない人も多い。

それを自分は見てしまった、家政婦は見た、とかそんな簡単な言葉で終わらせることなんてできない。

冗談を言う余裕だってない、なぜなら彼女の目の前で猿が人間の言葉を喋り、

未来人が銃を手にとって記憶を消すために人間とアンドロイドを撃った、なんて話は、

きっと誰に話してみたところで信じてもらえるはずもないのだし、

ラジオに投稿したって、冗談みたいなネタとして取り扱われる程度だろうと思ったからだ。

 

瀬奈は電柱の隅に隠れてまだ動けずにいた。

未代奈がきな子を撃つシーンは、さすがに怖すぎて直視できなかったので、

耳を塞いだまま電柱の陰に隠れてやり過ごしてしまったのだった。

銃声が塞いだ耳に容赦なく突き刺さった、クラッカーが炸裂したみたいな音だった。

 

「・・・なんで私なんですか・・・」

 

とんでもない事件の、おそらく唯一の目撃者になってしまった自分を、

彼女は喜ぶよりも恐ろしさで胸いっぱいになってしまっていた。

好奇心が旺盛な彼女ではあったが、これは少し刺激が強すぎだと思った。

たまたま通りかかった道で、少し前に知り合った人達が立っているのが見えて、

近くに駆け寄ろうと思ったら様子がおかしい、咄嗟に電柱に隠れて一部始終を見守ってしまった。

たったこれだけのことで、彼女はとにかく大変な事に巻き込まれてしまった事を自覚した。

こんな平和な児玉坂の街で銃声を聴く事だってあり得ないと思っていたのに、

本当か嘘か信じがたいエピソードがおまけについてきてしまったのだ。

彼女が思ったのは、うかつな行動をとれば自分も同じ目に遭うという恐怖だった。

先日はあんなに可愛らしい女の子だと思っていた未代奈が実は未来人であり、

ルールだかなんだかよく分からないが、容赦なく他人を射撃するのだ。

 

ところで、まず白昼堂々と銃を撃つなんてのがどうかしてると思う。

幸か不幸か、バレッタの周囲には全く人が見当たらなかった。

だけど、こんな大胆な事を人目につくところで堂々とやるべきではない。

普通ならもっとひっそりとした路地裏かなんかで行われて、

犯人はすぐに逃走、事件は闇の中、そういうことなら理解はできる。

だが、真昼間から数発の銃声を轟かせて、そして撃った相手を放置してゆっくりと立ち去る。

こんな事がまかり通るのが不思議でならなかった、もちろん未代奈が未来人ならどうとでもなるのかもしれないが。

とにかく、こんなことは瀬奈の頭の中ではあってはならないことだった。

大好きなきゅうりにバニラアイスをつけるくらいなしな組み合わせだった。

バニラアイスをつけられるきゅうりもかわいそうだし、今回の場合は自分が何よりかわいそうだと思った。

 

精一杯の愚痴を自分の中でこぼした事で、瀬奈はようやく冷静になる事が出来た。

いつまでも隠れていても仕方ないと思い、覚悟を決めて電柱の陰から現場を覗いてみた。

未代奈はもちろんいなくなっていたが、撃たれたきな子と舜奈はまだ道に倒れたままだった。

 

「・・・おーい、大丈夫ですかー、起きてたら返事くださーい・・・」

 

あたりに誰もいない事を確認すると、瀬奈は恐る恐る倒れていた二人に近づいてみた。

見たところ撃たれたはずの傷はもう見当たらず、ただ気を失って眠っているだけに思えた。

多少ビクつきながら、瀬奈はきな子の足を指でつつき、舜奈のほっぺをペチペチと叩いた。

二人には全く反応はなかったので、この状況をどう処理すべきか彼女は途方に暮れた。

 

(・・・どうしよう、ここで見捨てると、それはそれで後々まずいことになりそう・・・)

 

二人を見捨てた事を誰かに目撃されていても厄介な事になるので、

瀬奈はここから勝手に逃げ出すこともできずにいた。

救急車を呼ぼうかとも思ったが、そうなると確実に警察に事情聴取されてしまう。

その事が未代奈にばれてしまった場合、今度は事件の目撃者である自分が狙われることになる。

そんなことはコーラに納豆を組み合わせるくらいまずいことだったので、

彼女的にはどうしても避けたかったし、自分はこの事件とは距離を置いていたかった。

瀬奈がそんな風にどうしようとまごついていると、やがて遠くから犬の声が近づいてきた。

やけに慌てた声でワンワンワンワンと吠えまくっている。

犬は猛スピードで走ってきて、瀬奈の方へ向かってやってきた。

 

「えっ、ちょっと、私が犯人じゃないからね!」

 

瀬奈は犬にも誤解されてしまっていると思った。

犬はあたかも瀬奈が容疑者であるかのように吠えたくってくる。

 

「違います、誤解です、なんて犬に言ってもわかんないよな~・・・」

 

どうしようと頭を抱えていた瀬奈だったが、犬はちゃんと理解したのか吠えるのを止めた。

だが、未だに訝しそうに彼女の方を睨みつけているのは変わらなかった。

 

瀬奈は何とか自分の意思を犬に伝えるために必死にボディーランゲージをやって見せた。

自分はきな子や舜奈を助けようとしたのだ、悪いことはしてない、疑われるのは心外です、と。

 

犬はそれをきちんと理解したのか、もう瀬奈に敵意を向けることはなくなった。

そして、きな子の服を噛みながら連れて行こうとしたのだが、もちろん犬にそんなことはできない。

それを見ていた瀬奈は、自分が助けるより仕方なく思い、きな子と舜奈の身を起こして運んで行った。

犬は瀬奈に指示を出しながら、とにかく二人をきな子の家へと連れて帰ったのだった。

 

 

・・・

 

 

舜奈ときな子を撃ち抜いた未代奈は、

銃を右手に持ったまま、うなだれた様子でバレッタに戻った。

ドアを開けて中に入ると、いつの間にか店長がカウンターに座っていた。

そして、未代奈が帰ってきたところを見ると、何を思ったかおもむろに立ち上がった。

読みかけていたヘミングウェイの「武器よさらば」をカウンターの上に残して、

彼は未代奈の目の前にやってきた。

 

未代奈は彼の姿を見ると、自然と右手の力が抜けて銃を床に落とした。

そして、そのまま崩れるようにして店長の胸を借りて声をあげて泣いた。

その泣き声は、先ほどの様に何かを覚悟したような、張り詰めたものではなく、

等身大の彼女そのままの、まだ若い女の子の幼い泣き声だった。

大好きだった親友たちを、自らの手で撃ち抜いてしまったこんな悲しみを、

未代奈はどうすれば忘れる事ができるのだろうと思った。

 

 

それから数日後、源太郎は予定より少し遅れてしまったが、

無事に論文を書き上げることができ、未代奈は解放されることになった。

きな子と舜奈は偶然通りかかった女の子と犬によって助けられたとの噂を耳にした。

犬はあまりにも勇敢だとマスコミに取り上げられることもあり、

CMのオファーが来たという噂もあったが、犬は丁重にお断りしたらしかった。

一緒にいた女の子は、素晴らしい人命救助として表彰されそうになったが、

二人を運んだ後でどういうわけか姿をくらませてしまったということだった。

 

源太郎から解放された未代奈はいつも通りバレッタで仕事を再開した。

だが、何をやっても悲しくて悲しくて、思うように仕事がはかどらなくなり、

ソルティーヤくんも心配していたが、どうすることもできなかった。

落ち込んだときには、未来の母親に連絡をとって相談したりもした。

彼女は真剣にこの児玉坂の街を去ろうかと悩んでいたほどだった。

こんな辛さと悲しみを抱いたまま、やって行ける自信がなかったのだ。

 

それでも、未代奈はやはりこの街に残ることにした。

まだやり残したことがたくさんあるような気がしたのだ。

そして、何よりも弱い自分に負けたくないと思った。

そんな風にして彼女が本来持っている強い心を取り戻すことに成功し、

けじめをつける意味で、彼女はトレードマークだった長い黒髪を切った。

ショートヘアーは初めのうちは見るのも慣れなかったものの、

イメージを変えながら、彼女はまたゆっくりと新しい自分を創造していった。

 

 

バレッタに来るお客さんからデザートに関するリクエストが多いことを知ると、

未代奈は新しいメニューを考え出そうと決めた。

そして、やがて三色のアイスクリームを思いついたのだ。

水色の金平糖味のアイス、黄色のうなぎ味のアイス、

そして白のバニラアイスの三色で盛り付けたものだった。

このデザート「塩アイス」は巷で大好評となり、

未代奈は店内に貼り付けるポスターまで作成することにした。

企画段階からキャッチコピーはもう決まっていた。

「それでも、塩アイスは永遠だから」と企画書にメモが残されていた。

 

お客さんから「塩アイスひとつください」とオーダーされると、

未代奈はいつも嬉しい気持ちになってキッチンへと入る。

だが、いつも三色のアイスをディッシャーで盛り付ける時、

未代奈はきな子と舜奈のことを思い出さずにはいられなかった。

そして、アイスを作っている時にいつも涙を流してしまうのである。

その涙はポロポロと零れ落ちるために白いバニラアイスに混入し、

それが隠し味となってバニラアイスは塩バニラ味に変化した。

お客さんはいつも塩味が絶妙だと褒めてくれるのであったが、

それは未代奈の涙であり、作りかたはもちろん企業秘密であった。

塩アイスを運ぶ頃には、泣きつかれた未代奈はついぶっきらぼうになってしまい、

お客さんには塩対応で提供してしまうのである・・・。

 

 

・・・

 

 

ある日、未代奈がいつも通りバレッタで仕事をしていると、

きな子が友達を連れてバレッタにやってきた。

未代奈は入ってきたきな子に一瞬ドキッとしたのだが、

彼女はもうすっかり忘れてしまっているのか、

未代奈の方に目を向けることもなかった。

 

きな子と友達はメロンジュースを注文した。

彼女の省エネモードは解除されているはずだったが、

きっと未代奈との記憶は忘れてしまったのだろう。

メロンジュースしか注文しなかったのを見ると、きな子はおそらく、

自分が色々な物を食べられることもすっかり忘れてしまっているに違いなかった。

 

未代奈は仕事をしながらもどこかできな子の事が気になってしまった。

ふとした拍子に彼女の方を見てしまうこともあった。

きな子の向かいの席に座っている可愛らしい小顔の女の子に嫉妬してしまうこともあった。

その度に、もう昔のことは思い出さないようにしようと自分を責めた。

きな子は何かを話しながら楽しそうに笑っていたし、未代奈はもうそれでよかった。

 

やがて、彼女達がお店を立ち去ろうとした時、

きな子が一人でお会計を済ませるためにレジにやってきた。

未代奈は少し緊張しながらレジで待っていたが、

きな子は無邪気そうににこにこしながらやってくると、

レジ横に飾ってあった塩アイスの小さなPOPに目を留めていた。

未代奈は素早くお会計を済ませながら、

「塩アイスはいかがですか?お持ち帰りもできますよ」と尋ねてみた。

きな子は不思議そうに少し考えた後で返事を返した。

 

「今度一緒に食べよう、もう一人別の子も誘って!」

 

きな子がそういった真意は未代奈にはわからなかった。

すっかり記憶を失っているはずのきな子がどうしてそんなことを言ったのか。

そして、きな子の後ろに小顔の女の子が控えていたにもかかわらず、

どうしてその子ではなく、別の子を誘うことを提案したのか。

別の子とは舜奈のことだったのかどうかも定かではないし、

たまたま3つあるアイスだから3人で食べることを述べただけかもしれない。

だが、とにかく未代奈はきな子の返答に満足してにっこりと微笑み返したのだった。

それを訝しそうに小顔の女の子は見つめていたのであったが、

この時の未代奈は、まだそんなことを知る由もなかった。

 

 

・・・

 

 

道に倒れていたきな子はすっかり記憶を失っていた。

チョップと瀬奈が家に運び込んだ後で目覚めた時、

彼女はただ長い間眠りについていただけといった様子であり、

周囲の心配をよそに、いつもどおり無邪気で元気だった。

 

ただ、以前と違って色々な物を食べることはなくなっていた。

未代奈に関する記憶が抹消されてしまったせいで、

自身の体に関する記憶も失われてしまったようだった。

両親は以前と同じように色々な料理を作るのだが、

きな子は食べられないと決めつけて以前のように偏食に戻った。

きな子がそう思い込んだ以上、無理に食べさせることもできなかった。

 

チョップはソルティーヤくんと約束した通り、

ケンカしたまま別れたきな子にもう無茶は言わなかった。

きな子自身、チョップと話をした記憶も忘れていたし、

おそらくケンカをした事実さえも思い出せなかったのだろう。

そして、きな子はディガちゃんのCMのことも忘れていたし、

その話題でチョップをからかうこともなくなっていた。

CMオファーが来た時、チョップが頑なに嫌がるのを見て、

もったいないのに、とずっとこぼしていたくらいだった。

 

「わかったー!

 後で見に行くからー!」

 

お父さんが車の中に忘れ物をしたから見てきてくれときな子に言った。

それを受けてきな子が返事をしたのだった。

 

車が停めてある少し離れた駐車場まで、

きな子はチョップを連れていった。

散歩がてらに車の中を探せばいいと思っていたのである。

チョップは歩くたびにきな子の方をチラチラと見ていたが、

あんなことがあった後だったので、少し心配だったのだ。

しかし、きな子はそんなことはどこ吹く風で歩いていく。

忘れてしまったことなど気にせずに、惜しいとも思っていない様子で。

 

南野家の車が目と鼻の先までやってきたとき、

通りすがりの女の子がチョップを見て近くまで寄ってきた。

散歩中に女の子から可愛いと言われることはよくあったので、

チョップはまたファンサービスだと思って凛々しく努めていた。

女の子はどういうわけかわからないが忍者のコスプレをしており、

可愛らしい少年みたいな容姿をしていた。

 

「わー、このワンちゃん可愛いねー!」

 

女の子がそう言ったとき、チョップの耳がピクリと動いた。

そして、猛烈な勢いで尻尾を振り始めたチョップは、

本能の赴くままに女の子の方へ向かって突進していった。

きな子は散歩紐を持っていたのだが、それを振りほどく勢いで、

チョップは女の子にまっしぐらで愛想を振りまいていた。

 

「こらー!チョップ勝手に走って!」

 

「おーおー、どうしちゃったの、飛駒ちゃんのことそんなに好きなの?」

 

女の子が「よろぴくぴくぴく!」と言うと、チョップは半狂乱の様子で尻尾を振り続けていたので、

もうきな子は呆れてしまって一人で車の方へ行ってしまった。

 

きな子は車の鍵を開けて車内へと入った。

お父さんが言っていた忘れ物を探していると、

シートの下に何やらキラリと光るものを見つけた。

何だろうと思って手を伸ばすと、それは舜奈からもらったネックレスだった。

だが、きな子はこんなネックレスの事は全く記憶になかったので、

これが自分が無くしたものだとは気づくことはできなかった。

だが、それを見ていると、どういうわけか胸がギュッと切なくなるのだ。

そして、意味もわからない涙が目から溢れ出てくるのだった。

 

「なんで・・・こんなに・・・胸が苦しいの・・・?」

 

今まで感じたことのないよくわからない感情に、

きな子は立ち上がる気力もなくしてその場に座り込んだ。

そして、そのネックレスをギュッと握りしめながら、

きっと自分は何か大切なものを失ってしまったのだと、

そう心の中で確かな想いを抱くのだった。

 

 

 

・・・

 

こんな風にして、ようやく小説の冒頭まで戻って来るのである。

舜奈は何かを忘れたままバレッタの窓から未代奈を見つめていたし、

未代奈は源太郎の制止を振り切ってバレッタを飛び出してしまった。

 

あの事件の後、源太郎はもう未代奈を監禁することはなかった。

むしろ、力強い未代奈の瞳に魅せられてしまった源太郎は、

彼女に好意を抱き始めたし、時々バレッタを覗きに来るようにもなった。

逆に未代奈は、もうあの事件以来すっかり源太郎の事が嫌いになっていたし、

基本的には彼の事を無視してやり過ごすようになっていた。

 

 

ソルティーヤくんと共にバレッタを飛び出した未代奈は、

箒とラジオを持って空を飛ぼうと思っていたのであるが、

ふと未代奈が急に立ち止まって、後ろを追いかけていたソルティーヤくんは彼女にぶつかった。

 

「ちょっと、急に立ち止まってどうしたの?」

 

「ソルティーヤくん、ちょっと立ち寄りたいところがあるんやけどいい?」

 

「立ち寄りたいところ?」

 

 

・・・

 

 

学校の友達と別れた舜奈は、いつもどおり夕方にはアルバイトへ向かう。

バレッタの窓から覗き込むのがすっかり習慣になってしまった彼女だったが、

忘れてしまった記憶については、もう取り戻す事はできなかった。

きな子と出会った事は覚えていたものの、それが未代奈を介してのはずだったのに、

そこだけすっぽりと記憶が抜け落ちていて、どうもパズルのピースがうまくはまらない。

そんな奇妙な気持ちを抱きながら、舜奈は何となくもやもやした生活を続けていたのだった。

 

「おはようございまーす」

 

「Bar Kamakura」のドアを開けると、舜奈はいつもどおり控え室に向かおうとした。

カウンターのところには、もうすでに店長である北条真未が開店準備を着々と進めていた。

 

「あー舜奈おはよう、あのさー、突然こんな事聞いてあれだけど、なんか最近いい事でもあった?」

 

「えっ、急になんですか?

 別に特に何もないですけど」

 

舜奈がよくわからないという様子でぶっきらぼうに返答すると、

真未は首をかしげた様子をして見せた。

 

「あっそう、じゃあこれなんなのかな?

 あたしも最近、なんだか忘れっぽくなっちゃってさー。

 色んな事が思い出せないのよ、いったいどうしたんだろうね・・・」

 

真未はそう言って控え室を指差した。

舜奈が控え室へ見に行ってみると、そこには花束が届いていた。

その花束に包まれていたのは桔梗の花だったのだ。

 

「誰から贈られて来たのか、何も書いてないのよ。

 今日、真未が出勤してきたらいきなり置いてあってね。

 しかもさ、これ見てよ」

 

真未はそう言って舜奈を呼び寄せた。

舜奈が呼ばれる方へ行ってみると、そこにはお店で使われていた伝言板があった。

 

《君に贈る花が、やっと見つかりました、舜奈、頑張れ!》

 

そのBar Kamakuraの・・・いや、こう呼んだ方が未代奈には適切かもしれない。

そのスナック・ルージュの伝言板には、誰が書いたのかわからない応援メッセージが残されていた。

 

「あれっ?

 そういえば、舜奈あのネックレスもうしてないの?」

 

真未は冷蔵庫を開けながら舜奈にそんな事を聞いた。

舜奈は伝言板に書かれている文字と桔梗の花を見ながら、

自分の記憶にないネックレスの話を持ち出された瞬間、

理由のわからない熱い涙がポロポロとこぼれてくるのに気がついた。

 

「・・・ネックレスって、なんの事ですか?

 舜、そんなもの、買った覚えもつけた覚えもないんですけど・・・」

 

「あれっ、そうだっけ?

 なんか前に見たような気がしたんだけど、私も最近忘れっぽいからさー」

 

舜奈が撃たれた後、ネックレスは未代奈が回収したのだった。

未代奈との思い出につながる事は全て取り除かなければならなかったからだ。

そうでなければ、偶然見つけたきな子のように、忘れ去られた記憶から、

よくわからない切ない感情だけが蘇ってしまう事になるのだから。

だが、未代奈が贈ったこの桔梗の花とルージュの伝言は、

きな子のネックレスと同じ効果を舜奈にももたらしてしまったのだ。

 

「さてと、今日も頑張って準備しようかね・・・あれっ、舜奈、どしたの?」

 

真未がふと気づいた時、舜奈は伝言板を見て号泣していた。

桔梗の花束を抱きしめて、舜奈はよくわからない感情で声をあげて泣いた。

 

「わたし・・・なんか、頑張らなきゃいけない気がする・・・」

 

 

・・・

 

 

花屋に寄ってから「Bar Kamakura」へ花束と伝言を残した未代奈は、

これで用事は全て済んだとばかりに上機嫌になっていた。

ソルティーヤくんは、彼女のそばでそんな様子を観察しながら、

最近の未代奈は、もうすっかり元気を取り戻したのだと思った。

新しいショートヘアーもすっかり見慣れてしまったし、

とてもよく似合っていると思っていた。

 

「さて、後は手紙を出しに行くだけやね」

 

未代奈は手に持っていた箒に跨ろうとしたが、

ソルティーヤくんが慌てた様子でそれを止めた。

 

「ちょっとちょっと、ミヨナ!

 こんな街中でいきなり空を飛んだら怪しまれるじゃないか!

 せめてもっと人気のない路地裏とかに行かなきゃダメだよ」

 

「えー、誰も見てないのに」

 

「それでもダーメ!

 源太郎はもうあれ以来つっかかってこないけど、

 誰かにバレたらまた面倒な事になるのを君は忘れたの?」

 

未代奈はプク顏をして少し膨れて見せたが、

さすがに同じ過ちを繰り返すわけにはいかないと悟ったので、

ソルティーヤくんの忠告を素直に受けて路地裏へと向かった。

周囲に誰もいないことを確認してから、未代奈は颯爽と箒に跨った。

 

「じゃあ、行くよ、ソルティーヤくん」

 

「オッケーだよ!」

 

未代奈が念ずると、やがて箒はふわりと浮いて地面から離れた。

そして、ゆっくりと高度を上げながら、未代奈とソルティーヤくんは空へ舞い上がった。

 

(・・・すごい、箒で空を飛んだの・・・!?)

 

路地裏の隅でその様子を見ていたのは瀬奈だった。

彼女は非常食のキュウリをかじりながらこの機会を虎視眈々と待っていたのである。

おかげで決定的な場面を目に焼き付けることができたのだった。

 

 

・・・

 

 

「ソルティーヤくん、ラジオをつけて、いま手が塞がってるの、早く!」

 

「はいはい」

 

未代奈が嬉しそうにセリフを述べると、ソルティーヤくんはラジオをつけた。

ラジオから流れてきた曲は松任谷由実の「優しさに包まれたなら」だった。

 

「あー、やばーい、今すっごい楽しい!」

 

ソルティーヤくんは嬉しそうな未代奈を見守りながら何も言わなかった。

この街に来てから、彼女は随分成長したものだなと思ったのだ。

子供みたいに無邪気な性格は変わらないし、相変わらずたくさん食べるし、

よくわからない事で泣くし、お腹が空いている時に食べ物がないと怒るけれど、

あんなに辛い時期を乗り越えて、彼女はまた元気に空を飛び回っているのだ。

きっと、彼女はこんな風に、そしてこれからも、まだこの街で生きて行くのだろう。

 

調子に乗ってビュンビュン飛び続けると、

やがて向こう側に同じように箒で飛んでいる女の子の姿が見えてきた。

未代奈は手を振りながらその子の方へと近づいていった。

向こうの女の子も、同じように未代奈へ手を振っていた。

 

「こんにちは、あなたが宅急便屋さん?」

 

「そうよ、あなたはこの街で修行してるの?」

 

黒い服に赤いリボンが印象的なその箒に跨った女の子は、

そんな風に気さくに未代奈に対して話しかけてきた。

 

「うん、ところで、この手紙を未来まで届けてくれる?

 お父さんとお母さんに渡して欲しいの」

 

「ええ、わかったわ。

 でも、未来までだったら一瞬で着いちゃうけどね」

 

そう言って、宅急便屋の彼女は未代奈の手紙を受け取って、

またどこかへ飛んで行ってしまった。

 

 

・・・

 

 

「母さん、未代奈からの手紙だよ!」

 

手紙を受け取ったお父さんは嬉しそうに家へ駆け込んできた。

その様子を見たお母さんは家事の手を止めてお父さんの方を見つめた。

 

 

お父さん、お母さん、お元気ですか。

私もソルティーヤくんもとても元気です。

仕事のほうもなんとか軌道に乗って、

少し自信がついたみたい。

落ち込む事もあるけれど、

私、この街が好きです。

 

 

お父さんが手紙を読み上げると、お母さんはそれを嬉しそうに聴いていた。

若くして一人で大変な場所へ言ってしまったあの子も、

良い人達に恵まれて元気でやっているのだと思うと嬉しくなった。

 

 

「ソルティーヤくん、私、この児玉坂の街が好きなの!」

 

「わかってるよ。

 きっとみんなも君の事を応援してくれてるはずさ。

 だって、ミヨナはいつもこの街の為に全力だもんね!」

 

「あっ、ソルティーヤくん、言い忘れとったけど」

 

「どうしたのミヨナ、そんなに改まって?」

 

「この箒、サルスベリの木で作ったんよねー。

 ああ、早く滑っていくとこみたいなー」

 

「だからか・・・なんか滑りやすい材質だと思ったんだよ・・・」

 

 

ソルティーヤくんが箒の上から滑り落ちないようにあたふたしていると、

その様子を見ていた未代奈は耐え切れなくなって大声をあげて笑い始めた。

 

「・・・ハッハッハッ、アーハッハッハッ!」

 

未代奈はいたずらに宙返りなどを繰り返しながら、

楽しそうに児玉坂の街の上に広がる澄んだ青い空をどこまでも飛んで行った。

そして、未代奈が楽しそうに空を飛びまわっていたちょうどその頃、

バレッタでは店長がヘミングウェイの「武器よさらば」を読み終えたところだった。

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

 

 別れ際、もっとも隙になる ー自惚れのあとがきー

 

 

この物語は筆者の頭の中に相当長い間眠っていた。

児玉坂の構想を思いついた頃から、未代奈が未来人だという設定は決まっていたし、

ある程度の構想は当初からこんなふうに固まっていた。

 

しかし、もったいぶったこともあり、少し書く事から逃げていた事もあり、

形にするのがこんなに遅くなってしまったのである。

だが、構想していたのが長かった分、書き出すと結構な長さになってしまった。

 

あとがきでも書きたい事はたくさんある。

長文で申し訳ないがお付き合いいただければ幸いである。

 

未代奈を見たとき、この子のキャラクターは未来人だとしっくりくると思った。

すべての辻褄が、未来人であれば当てはまるように思ったのだ。

また、筆者は手塚治虫のSF系の作品が好きな事もあり、

未来を取り扱った物語も書いてみたいという欲望が前からあった。

 

この物語の構想を練っていたとき、未来の事について書くのが難しかった。

どうせ書くなら徹底的に調査してやりたいと思っていた事もあったが、

膨大な時間が必要になるし、そんな事をしても仕方ないと思った。

 

もちろん、筆者も子どもの頃に漠然と考えていたよりも、

大人になってから色んな知識を得る事によって、

昔よりも具体的に近い未来を予想できるようにはなった。

子どもの頃、大人はどうやって未来の事を想像しているのか、

すごいと思っていたが、新聞でも読んでいればそれはそう難しくもない。

10年先くらいに自動車は自動運転になるだろうし、

スマホの画面は曲がり、音声認識や指紋認証などの機能は進化する。

電化製品にはITが網羅されるし、すべてスマホでコントロールできるようになる。

ロボットやAIが進化すると、工場作業やサービス業のあらゆる場面でコンピューターが活躍し、

無人化されたコンビニや、ロボットによる農作業、ドローンによる荷物の宅配など、

この程度の未来はある程度予測できるようになるのだ。

 

だが、その先は難しい。

手塚治虫の漫画を読んでいると面白いのだが、

作中に巨大なカセットテープが登場したりする。

携帯電話はなかった気がして、すべて配線が繋がれていた気がする。

要するに、手塚氏も当時の技術から未来を予想して書いているのだが、

技術の進歩を予測しきることなどは誰にもできないのである。

だから、よほど調べても正確な未来なんて誰にもわからないのだから、

もう未来の設定は筆者の独断で設定してしまおうと思った。

異論や反論はあるのは認めるが、これは一つのお遊びにすぎないのである。

 

 

だから、こんな未来になるとは限らないし、筆者も思わない。

だが、架空の未来を設けることの意義は、現在を客観視できることである。

 

人間は過去を歴史で知ることができる。

愚かな戦争や、差別や、不平等な歴史など、

現在から客観的に見れば過去は馬鹿らしい気もする。

例えば、昔は女性には選挙権がなかったが、

それを今から見るとおかしいと思えるのだが、

おそらく、当時を生きている人々にはそれが常識だった。

だから、その常識を変えようとすることもなかったし、

何も疑わずに信じてしまっていたと思われる。

 

だが、未来を一つ想定して見るとどうだろう。

未来の世界は現在よりもさらに色々なことが進歩する。

そうすれば、パソコンやスマホでいちいち文字を打つことも、

服が既製品として大量生産しかできずに、オーダーメードすると高くつくことも、

語学の単語をいちいち覚えることも、本を1-2時間かけて読むことも、

料理をしなければならないことも、言葉を話して理解しあわなければならないことも、

筆者にとってはとても遅れていて面倒なことに感じてしまう。

 

現代、いまここにある習慣、常識などはすべて途上であり、

物事はすべてが進行中であるに過ぎないことが見えてこないだろうか?

その観点を獲得することができれば、世の中の常識という言葉に騙されずに済むことができるようになる。

そんな風に筆者は思っている。

 

 

作中で源太郎はフェミニズムについて語る。

筆者もそれほどフェミニズムに対して詳しいわけでもないし、

様々な落ち度やツッコミどころがあるかもしれないが、

筆者が感じていることは、歴史的に見ていまの社会はすべて男性が作りあげたものであり、

女性のための社会には全然なっていないということである。

 

率直に行ってしまえば、筆者は雑誌のグラビアなどが大嫌いである。

なぜならば男性が男性を喜ばせるために女性を利用しているからだ。

男性が中心となって作り上げた社会で、消費者は男性をターゲットにしている。

 

もし、女性が中心となって作り上げた社会で、消費者は男性をターゲットにしていれば、

ひょっとすると的外れで面白くないかもしれないが、女性の権利は守られると思う。

 

それはこういうことだ。

筆者はセクシーグラビアや水着写真などを載せられる女性達が、

あの姿を望んでやっているのではないと思っているからだ。

もちろん、自ら望んでいるのであれば、それを止める権利もない。

やりたい人はやる自由がある、だが、それが本当に強制でなく自由な心からでた場合に限る。

 

ではなぜやらなければならないのか?

それは男性中心社会で作り上げられた常識によってがんじがらめにされているからだ。

それをしなければおかしい、みんなやってる、当たり前のことだから・・・。

 

筆者はまったくそんな風には思っていない。

これは明らかに女性の嫌がることを無理やりやらせているし、

現代の常識である資本主義社会の目的である利益を生むためにさせられている行為である。

 

だから筆者は作中で通貨が価値を失ってしまった未来を提示した。

そんなことはあり得ないと思うだろうか?

もちろん、現代の社会システムではあり得ないだろう。

誰もが盲目的にお金だけを追い求め、それがあれば何でもまかり通るこの時代では・・・。

 

人々は単純思考であるからして、

目に見える形のあるものを数値化して求めていく。

りんごを1個よりも100個作った方が儲かる。

 

例えば、お年寄りに電車で席を譲っても、

その人がどの程度喜んだのかは目には見えない。

何が帰ってくるわけでもない、心が豊かになる程度だ。

それは形にならないし、数量や数値で計れない。

 

そして、形のないものは失われても気づかない。

だが、例えば沖縄に行って鍵のかかってない家を見ると、

この安心感のある社会、信用で成り立っている心の社会、

そういうものの素晴らしさを痛感したりする。

だが、人々はそんな目に見えないものを失っても、

取り戻そうと本気になる者などいないのだが・・・。

 

まあとにかく、筆者はそういう思考回路をしているので、

水着の写真が載っている写真集などを買うことはない。

世の中はその方が売上が上がるのはわかっているのだが、

間違っている世の中に賛同する気はさらさらない。

筆者一人が買わないくらいでどうにもならないのであるが、

これは個人的な信念、誇り、生き方である。

誰かが賛同してくれるかどうかは定かではない。

 

 

話が逸れてしまったので戻そう。

 

この物語を思いついたきっかけは、未代奈が銃を撃つあのMVであり、

撃つ側である未代奈と、撃たれる側であるきな子と舜奈が、

共に深い愛情を持ちながらお互いに向き合っている場面が浮かんだ。

これは、撃つ方は愛情を持って撃ち、撃たれる方も愛情を持って身を委ねる。

この心の中の愛情と、撃つという行為のアンバランス、不一致が、

ある意味で劇的な場面となって筆者の頭に深い興味を抱かせたのだった。

 

とりわけ「忘れても忘れないから」というきな子のセリフは一番気に入っている。

きな子は本当に規格外の動きをするし、危なっかしいやり方しかしないできない子だが、

論理的でないこの愛情に満ちた物言いが、筆者にはとてもユニークで魅力的に思える。

この返事を未代奈のセリフで「それ矛盾してるね」にしようと試みたのだが、

あまりに場面がおちゃらけてしまうので、残念ながら取りやめたのだ。

それにしても、未代奈はネタが豊富すぎて、書いているうちに長くなってしまう。

それが結局、この子のキャラの強さの勝利であると言っても過言ではあるまい。

 

 

ちなみに、筆者はジブリ作品では「もののけ姫」や「風立ちぬ」が大好きである。

これはおそらく男性が主人公になっているからだと思われる。

筆者がアシタカや堀越二郎みたいにカッコ良い人になりたいと思うように、

未代奈は「魔女の宅急便」や「耳をすませば」を見ているのだろう。

 

そうして筆者はこの二つの作品を観てみたのだが、

魔女宅のほうの糸井重里さんのキャッチコピーは、そのまま未代奈のことだと思った。

彼女は色々あって落ち込んだこともあっただろうし、

今となってはそんな過去を乗り越えて元気に頑張っている。

だからこのキャッチコピーをそのまま未代奈に当てはめた物語にしようと思った。

 

 

「別れ際~」に関しては楽曲が相当好きで、

これは当時もアンダー楽曲だと思えなかったし、

両A面シングル、というようなイメージだった。

それぐらい魅力的な曲なので、書くのにも気合が入った。

 

逆に、それが長くなりすぎた要因かもしれない。

ソルティーヤくん(英語のソルティー《塩味の》に由来)とチョップのやりとりなど、

関係ないくらい膨らんでしまったが、筆者の深層心理から言わせれば、

この二匹の関係は、日本人と中国人をどこかで想定してしまっていると思う。

お互いの譲らない論理は反抗し合うし、それが止まるのは物語のように、

双方の共通の利益、目的を持つことができたときだと思われる。

 

 

そういえば、この作品を見ていると、筆者はよほど塩アイスファンだと思われる。

塩アイスに限らず、筆者はメンバー同士が勝手に作るユニットが好きだ。

そういうユニットで実際に曲までもらえたのはりんご軍団くらいで、

大抵はビジネス的な理由で採算が取れないので大人たちに否定されてしまうのだろう。

わからなくもないが、寂しい限りなので、こうして物語として応援してしまったりするわけだ。

 

 

さて、作中で色々と次回への布石を打ってしまっているが、

実は個人的な理由から、少しだけ執筆を停止しようと思っている。

それは筆者の仕事の事情もあり、執筆にしばらく時間を割けないからだ。

今まで、メンバーの卒業に合わせて書いたりしてきたのだが、

今後はそう簡単には間に合わせることもできない気がしている。

 

だが、まだ書けることも、書きたいこともあるので、

また余裕ができて気持ちが乗ってくれば書くかもしれない。

浜崎瀬奈も少しだけ登場させたが、もっと書いてあげたいキャラでもある。

 

そういえば、未代奈の方言に関しては、

これは完全に耳コピでしかない。

岐阜方言について調べたわけでも詳しいわけでもなく、

TVやラジオの喋り方を何度も聴いて雰囲気を真似ただけだ。

筆者は岐阜出身でもないし、親族がいることもない。

だから、間違っている箇所があるかもしれないが、

そこはもうご容赦願いたい部分である。

 

思えば、この言葉のコピーが難しくて、

執筆が予想以上に長引いてしまったこともある。

だが、今となっては勝手に脳内再生されるくらいだ。

書いている間、そうとう未代奈と仲良しになれた気がしている。

もちろん、筆者が勝手に思っているだけだが。

 

それにしても長い物語になってしまった。

読んでくれた方には感謝しかない。

あとがきも長すぎるのでこの辺にしようと思うが、

どうしても別れ際というものは切なくなってきて終わることを躊躇させられる。

「別れ際~」の歌詞は本当に素敵だなと思わずにはいられない。

 

 

ー終わりー