あなたのために誰かのために ー早春ー

3月上旬、わずかに早春の訪れを感じさせる日差しの中、
まひるは一人で、待ち合わせた人がやって来るのを待っていた。
約束の時間になると、時間ぴったりに現れたのはりさであった。

「あっ、きたきた」

まひるはりさの到着をいつも通りの満面の笑みで出迎えた。
りさは笑顔ではあったが、少し不安そうな様子を仮面の下に隠していた。

「りささん、ど〜もこんにちは、久しぶりやなぁ」
「まひるちゃん・・・本当に久しぶりね」
「まぁ、ゆっくり座って話でもしましょっか」

まひるはどーぞ、という風に満面の笑みに掌をぐいっとお店の入り口へ向けて掲げ、
いらっしゃいませ〜、という感じのポーズで入店を促した。
りさはまひるに続いて店内へ入っていった。


中華料理屋「チンゲンサイ」はむしろりさの方が常連であった。
なぜなら昔ここでアルバイトをしていた事があり、店長とも顔見知りだったからだ。
だから、先ほどまひるのほうが、まるで自分のホームグラウンドへ招くような素振りを見せたのを、
りさはなんとなく呆れて見ていたのであった。


「チンゲンサイ」は中華料理屋と言っても少し小綺麗なお店で、
予約を入れれば静かな個室で食事をとる事もできた。
今回、まひるは予約を入れてその個室を抑えてりさを招いた。

二人は着席し、りさはお店の看板メニューのこだわり豚骨ラーメンを頼んだ。
まひるはメニューを見て「まひるはタンタン味噌ラーメンにするわ」と注文した。

余談ではあるが、「チンゲンサイ」の女性店員は皆チャイナドレスを身にまとっていて、
お店のマスコットキャラクターはぬいぐるみのパンダだった。
これは、りさがアルバイトをしていた当時、りさ自身が考案した制服とキャラクターで、
実際にりさがチャイナドレスで働いたところ、売上が飛ぶように上がり、
店長はりさがアルバイトを辞めてしまう時も必死に引き止めたくらいだった。

それ以来、店長はりさをご贔屓にしていて、いくら居座っても何も言われない。
しかし、常識人のりさは、もちろん常識の範囲で対応するのでいつまでも居座ることはない。
だが、かつて一緒に食べにきたことがあるレイナが、
「デザートおまけしてもらおうよ!」
などとワチャワチャしていたことは想像に難くない。


「え〜っと、どれくらいぶりになるんかなぁ?」

まひるは首を傾げて考えながら言った。

「もう2年半くらいになるわね」

りさは冷静に年月の過ぎる速さを噛み締めながら答えた。

・・・

まひるとりさは過去に顔を合わせたことがあった。

それはりさがまだ大学3年生の学園祭の頃で、
そのころまひるはまだ高校3年生だった。

当時まひるはまだ実家のある関西に住んでいて、
将来の夢を模索していた時だった。
もちろん、歌手になりたいという希望もあったが、
彼女はダンススクールにも通っていて、
また個人的にギターの演奏などもできたため、
色々と将来の方向性を考えることはできた。

もちろん、歌手となった現在では、それらのスキルは全て彼女の武器なのだが、
高校3年生だった当時は、やはりそれでもまだ夢への道は半ばであり、
人並みに漠然とした将来の不安に苛まれていた時期だった。

りさが大学3年生の当時と言えば、
レイナとかずきと3人で「Ms.カミナリ」を組んでいた時期であり、
このバンドは当時の音楽業界に関わる人達の間では知らない人はなく、
高校生のまひるも歌手を夢見ていた為、憧れを抱いていた一人であった。

まひるは当時、まだ高校生であったにもかかわらず、
「Ms.カミナリ」のライブを一目見ようと、
関西から東京まで夜行バスに乗って駆けつけて、
当時の学園祭ライブを目の当たりにしたのだった。

そしてライブが終わった後、感激したまひるは彼女たちにコンタクトを試み、
その時にバンドの打ち上げに忍び込んでりさと知り合ったのであった。


・・・


「そうやった、もう2年以上も前になるんやなぁ」
「まひるちゃんは高校生なのに無理やりこのお店に押しかけてきて」

りさは少しいたずらな感じで笑いながら当時を思い出していた。

「いや、そらあのライブ見せられたらそうなるわ。
 正直言って、『Ms.カミナリ』を超えるバンドは、
 今までもこれからも見ることはないんちゃうかと思うわ」

まひるはレイナに対しては敬語混じりで話しをするのだが、
りさに対してはほとんどため口で話しをする。

実は当時、「Ms.カミナリ」の打ち上げにはレイナは参加しておらず、
まひるはレイナと知り合うきっかけがなかった。
まひるが初めてレイナと顔を合わせたのはお互いプロデビューの後が初めてで、
事務所の先輩にあたるレイナに対しては、必然的に少し敬語混じりになる。

りさは「チンゲンサイ」での打ち上げの際、
まひるとかなり深くまで話し混んだので、
「もう別に敬語じゃなくても大丈夫よ」と言語制約を取っ払った。
まひるも少しためらったが、お互い楽に話せる関係を望んでそれに従った。

ちなみに、レイナは当時打ち上げ開始前に早退したので、
まひるとりさが当時「チンゲンサイ」で出会っている事を特に覚えていなかった。

「・・・それで、どうして今になって急に連絡を取ってきたの?」

りさは少しだけ疑いのある眼差しをまひるに向けながら切り出した。

「この間、レイナさんと会ったんよ」
「どこで?」
「事務所の片付けをしてる時に来はって、
 そこで少し立ち話しをしたんよ」

りさは頭の中で話しの筋を読みながら先の展開を推測している。
もし今のレイナがまひるとバッタリ会ってしまったらどうなるか。
りさはパッと考えただけでも、あまりいい結果が導き出せることはない気がした。


「どんな話し?」
「いや、別にたわいもない話しやねんけど、
 まひるが話しかけたらえらい怒りはって」

りさは心の中で「あちゃー」とつぶやいた。
それはあまりにも二人の関係とタイミングが悪かったし、
まひるの、このあまりにも飾らないスタイルで話しをされたなら、
あの自由で猫のような気質のレイナが冷静でいられるはずはなかった。

「ほんで、まひるもケンカは嫌いやから謝りたかったんやけど、
 レイナさんそのまま走って帰ってしまいはって、
 謝るタイミングを逃してしまったんよ。
 うちもなんか少し無神経やったんかなぁと反省はしてんねんけど、
 なんや今のままやったら、多分うちが謝りに言ってもアカン気がするねん」

ここまで話しただけで、りさはもう先の展開が読めた。
自分のような人間に多く寄せられる期待は「仲介役」だった。
それは、自分が生きてきた人生経験を振り返ってみれば嫌ほど例のあるものだった。
あとの関心は、一体どのような仲介を彼女が求めているのかということだった。


「まひるちゃんは、私にどうして欲しいわけ?」

りさはここが話しの焦点だ、という目線をまひるに向けて問いかけた。
まひるは相変わらずの満面の笑みで答えた。

「なんやもう、まひるとレイナさんが仲良くしたいとか、
 そういう小さいことはもうどうでもええねん。
 りささん、レイナさんを元気にしてあげてくれへんやろか?」

りさは、それならもう以前から取り組んでいるわ、とちょっと呆れた表情をした。


注文しておいた料理がテーブルに運ばれてきた。
二人は話しを止めて箸をつけた。

りさはまひるが食べている姿をちらっと盗み見た。
全く無邪気そうに食べている姿には言葉にしている以上の他意はなさそうだった。
まひるの手首には輪ゴムがついていたが、プライベートでは99%の確率で、
彼女の手首には輪ゴムが付いている、というのはファンの間では有名だった。
本人曰く、これがあることでとても落ち着くらしい。


「『Ms.カミナリ』をまひるが初めて見たときな、
 ものすごい衝撃やってん」

まひるは少し真面目な顔になって切り出した。

「あの時、まひるはまだ高校生で、将来どうしたらいいか迷ってた。
 歌手になりたかったけど、なれるかどうかもわからんかったし、
 家族も将来のことを心配してたから、メッチャ不安やった」

りさは3年前、この場所で初めてまひるに会った日のことを思い出していた。
彼女は将来の夢を熱く語り、同じように「Ms.カミナリ」を絶賛してくれていた。
りさはレイナと掛け合いで歌った曲「七音の歌」がふと頭をよぎった。

「でもりささんとレイナさんのあのライブを見たあと、
 もうまひろには何の迷いもなくなった。
 絶対に歌手になろうって決意して、高校卒業したら上京してきた。
 東京で色々とオーディション受けてた時はメッチャ不安やったし、
 どうしよう、落ちたらもう大阪帰られへんと思ってた。
 どんな顔して帰ったらいいかわからんかったし、もう意地やった」

まひるは自分の過去について語りながら、口調は熱を帯びていった。


「子供の頃な、ダンススクールで、初めはまひる一番後ろやってん。
 それで、前におる子らは同い年くらいやのにメッチャ上手に歌って踊ってて、
 だからまひるもあんな風になりたいって思ってメッチャ練習した。
 そしたら、先生がある日まひるをセンターに選んでくれはった。
 その時に思ってん、歌とかダンスだけが自分を生き生きとさせてくれる、
 本当に好きなことは一生飽きずにやれるんやろうなぁって」

りさはまひるの目がとてもキラキラしていた事に気がついた。
そして、この子の人生のほとんどは「夢を追う」という要素で構成されていると感じた。
そしてそれこそが、この子が歌を歌った時に放つあの
「魂の響き」の正体かもしれないと考えた。

りさもまひるが初めてプロデビューをはたしてからTVで歌っている声を聞いて、
正直、鳥肌が立ったのを鮮明に覚えている。
同じように歌が好きだった人間として、これほどの衝撃はなかった。
自分とは異なる種類の声質とジャンルではあったが、
その圧倒的な声量や繊細な歌声に、りさは正直少し怖気付いた。
それは、レイナが当時まひるの歌声を聴いた時と、おそらく同じであった。

「上京してからのまひるの目標は『Ms.カミナリ』を超える事やった。
 いくら追いかけても追いかけても捕まえられへん目標があって、
 でもそれがまひるを奮い立たせてくれたんよ。
 遠くに見えるゴールに向かって、二人の背中だけを追いかけてた。
 自分がどんなに認められんくても、絶対それはいつか自分の力になると信じて、
 誰にも頼らず、誰にも当たらず、歯を食いしばって闘ってきた。
 それでやっと今の場所にたどり着いたんよ。
 だから二人がおらんかったら、今のうちは絶対におらん」

まひるは水をグイと飲んで口を潤して、なお饒舌に続けた。


「でも、いつの間にか気付いたら『Ms.カミナリ』は解散してしもてた。
 りささんは音楽活動も全部止めてしまいはって、残ったんは『ホイップ』だけ。
 メッチャ残念やったけど、何かしら理由があるんやろうからしゃあない。
 でも、今となってはレイナさんもおらんようになってしまった」

りさは少し下を向いて何かに想いを馳せているようだった。
まひるは話しを続けた。

「すごい簡単に言うとな、まひるは今メッチャおもんないねん。
 何も追いかけるもんも無くなってしまって、
 もちろんファンの人がおるから歌を止める事はないねんけど、
 この先に何かワクワクするもんがあるんやろうかと、時々空しくなるねん」

りさは、正直この子はなんて勝手な子なんだろうと思った。
これだけの才能を持って、音楽業界のトップに君臨した今でも、
歌をやめた人間を捕まえて「面白くない」という理由だけで、
人に仲介役を頼んで、自分のライバルを元気付けるようにお願いしている・・・。

「あんな、うちほんまに言葉で説明するの苦手やし、
 うまく言えてるかわからへんけどな、
 そらレイナさんを心配してる気持ちもメッチャあるんよ。
 でも、やっぱり率直に言うと面白くないねん。
 ほんま、何それって思うやろうけど、そうやねん」


りさは理解することが難しい気持ちを冷静さでカバーしていった。
おそらく、この子は本質的に「虎」のようなタイプで、
自分の先に何か「夢」であったり「ライバル」であったりを設定し、
それを追いかけることに生き甲斐を感じるタイプなのではないだろうか。
そして、それを何の悪びれもせずにあっさりと言い切ってしまう無邪気さと、
それでいて本質的な優しさや思いやりを兼ね備えているから嫌味にならない。
サバンナに暮らす虎なのか、海を泳ぐイルカなのかわからないが、
そういう「自由」を絵に描いたような性格をしている、と思った。


「レイナさんを初めて見た時、今でもメッチャ覚えてんねん。
 はっきりした顔立ちでキリッとしてて、オーラがあって目立ってた。
 MCもしっかりしてて、頭がよくて、言葉をちゃんとまとめてしゃべって。
 見た目あんなにお嬢様でふわふわしてるのに、歌うとメッチャカッコよくて、
 なんであんな感じであそこまで歌えるのか、まひるにはわからんかった。
 何かを追いかけてる感じでもないし、夢がありそうにも見えへんのに。
 うちが歯を食いしばって闘ってきたものを、なんであんなに楽々と歌えるのか、
 それだけが見ててほんまに不思議でしゃあなかった」


同じ感想をりさも抱いていた。
レイナはまひるやりさのように、明確な目標や夢を持って歌を練習していなくとも、
周囲が驚くほどの圧倒的なカリスマ性を放つことができた。
あのオーラは一体どこから来るのか、りさも本当にわからなかった。


 「まひるが今でも鮮明に覚えてるんは『Ms.カミナリ』の時に演奏してた、
 『ダブルダッチ・ステップ』。あれはほんまにすごかった。
 レイナさんとりささんの息がぴったり合うツインボーカルで、 
 最後に曲が終わった後、レイナさんが泣き崩れてりささんと抱き合って。
 あんな感じで感情を爆発させるレイナさん、まひるはあの時初めて見て、
 あんな顔もできるんやと思ったし、メッチャ鳥肌がたったのを忘れへん」


りさは「ダブルダッチ・ステップ」のライブを思い出していた。
スタジオで何度も何度も繰り返し練習して、メンバー全員がボロボロになる程練習し、
苦労を重ねた末に本番で大成功を収めた時、レイナは曲の演奏が終わると同時に、
バンドメンバーの誰もが予想していなかったほどに泣き崩れていた。
りさも、あんな顔をしたレイナを見たのはあれが最初で最後だった。


「なるほど、まひるちゃんが誰より一番近くで見てたってわけか・・・」
「えっ、それどういう意味?」
「ううん、なんでもないの、こっちの話」

りさは独り言のようにつぶやいて「ふふっ」と笑った。


「でも、りささんも音楽やめへんかったら、今頃はプロになってたのにな。
 バラード系の曲を歌ったら、正直レイナさんよりりささんの方がすごかったで。
 あんな感じは、まひるには歌われへんなって今でも思うねん。
 声質も違うねんけど、なんていうかメッチャあったかいねんなぁ」

りさは少し照れながら答えた。

「ありがとう。でも、私にはもともと才能なんてなかったのよ。
 もしまひるちゃんやレイナみたいに歌えるんだったら、
 今頃OLはやってなかったかもしれないけど。
 ・・・なんてね、私にはこっちの方がお似合いよ」

りさは、それでも音楽を嗜んだことがある者同士のこうした共鳴を大切にしていた。
それは、音楽を知り、音楽を楽しみ、音楽に苦しんだものだけに許される、
互いの音楽を認め合うことができるという特権的な感覚であり、
ただお互いの歌を聴いたことがある、というだけで全てを理解し合えるような、
そういう類の、極めて特殊な、人間の相互理解の方法だった。
 

 「そんなん、謙遜やわ。
 あの時のライブでも、りささんのソロの曲、めっちゃよかったのに。
 あれなんやっけ、『Mのニット』とか『キティ』、『ひたすらな片思い』やっけ。
 メッチャ可愛くて、多分男の人とかが聴いたら惚れてまうやろって感じの!」

りさは、まひるが褒めているにもかかわらず、
なぜかソロの曲に触れたあたりから暗い表情を浮かべていた。
まひるは、さすがにレイナの時と同じミスを繰り返すことはなかった。


「あっ、ごめんやで、うち、またいらん事しゃべってもーた?
 もうこの辺にしとくわ、おしゃべりはアカンな」


「喋りすぎて全然食べてへんかったわ」と無邪気に笑って、
まひるは残っていたラーメンを食べ始めた。
りさは、なんとも言えない気分になって、残りのラーメンを食べ終えた。
ここの豚骨ラーメンの味が美味しいのが唯一の救いだった。


ラーメンを食べ終えて、「デザートでも頼む?」とりさが尋ねると、
「まひる、ティラミスが食べたい」と中華料理屋にもかかわらず自由すぎる発言に、
りさとまひるは外に出てコンビニにでも買いにいくことにした。

りさは、「ごっちそうさま〜!」と無邪気に飛び跳ねて店を出るまひるを見て、
「まったく私、あなた達のお母さんじゃないのよ」と心の中でつぶやいた。


・・・

 
コンビニでティラミスを買って食べたまひるは大変満足そうな様子で、
りさは食後の散歩でもしましょう、と提案して道をぶらぶらと歩き出した。

少し歩くと、りさが思いついて「この先においしいパン屋がある」と言い出し、
二人はそのパン屋へ立ち寄ってから、その近くの公園に向かうことにした。

そのパン屋に辿りついた時、まひるはとても不思議に思った。
お店に名前が付いていないからであった。

りさとまひるは二人で揃ってパン屋へ足を踏み入れた。
店内は小綺麗で明るく、まだ新しいお店なのかと思わせた。

まひるは小豆パンとドーナツを、りさはカマンベールチーズパンを選んだ。
そして、店内のおすすめコーナーには、見た目が普通の食パンが置かれていた。

「これの何がおすすめなんやろうか?」

まひるは近寄って食パンを手に取ったが、本当に何の変哲もないただの食パンだった。
よく見ると、ポップには「No1パン」と記載がある。

りさは意味深に「ふふっ」と笑って、その「No1パン」を一つ手に取りレジに向かった。

「それ、味が何にもなさそうやで、おいしくなさそうやん。
 それよりこっちのレーズンパンの方がええんちゃうの?」

りさはちょっと不愉快そうな顔をして、「私、レーズン苦手なの」と答え、
「こっちのパンでいいのよ、逆にこれを買わなくて何買うの?」と言い放った。


レジにいたのは若い女の子で、嬉しそうに接客をしてくれた。
このパン屋は期間限定で営業をしているらしく、
彼女も、もう一つの仕事の合間にここでアルバイトをしているらしい。
「No1パン」は彼女のおすすめのパンだった。

「今日は店長さんいるの?」

りさは若い女の子に尋ねた。

「今日はもう一つの仕事だからいないんです。
 次はいつ来るかもわかりません。
 実は、私も、次はいつ来れるかわからないんです。
 またこういう機会があるといいんですけどね・・・」

若い女の子は少し悲しそうな顔になった。
りさは慌てて、「小豆パンとカマンベールチーズパンどっちがおいしい?」と尋ねた。

「う〜ん・・・選べない♡」

若い女の子は無邪気にそう答えた。
りさとまひるはお会計を済ませてパン屋を後にした。

「なんやようわからんけど、『No1パン』買うてあげてよかった気がするわ」
「もう、みんな甘いんだから」

りさは少し膨れてみた気もしたが、
「文字にしても可愛い」のだから仕方がないかともつぶやいた。



・・・


パン屋を出て歩き出したりさとまひるは、
近所にある公園までたどり着いた。

3月上旬の公園にはまだまだ寒さが残っていたが、
今年は少し例年より暖かいような気もした。

今日は特に日差しも暖かく、まひるはわざと日の当たる場所を選んで歩いた。
彼女のように根っから明るい人間は、自然にしていても太陽を欲するようだった。


やがて公園内のベンチを見つけてりさはそこへ腰を下ろした。
まひるも歩きながら近くまで寄って行ったが、座らずに立ち続けていた。

先ほど、地雷を踏みかけてうやむやになってしまった話題を、
もう一歩進める為の糸口を、まひるは探していたのだった。

「あ〜太陽浴びるんはやっぱり気持ちええなぁ。
 レイナさんは今頃何してるんやろうか?
 ここに一緒に連れてきてあげたらよかったかな?」

「レイナはずっと家でゴロゴロしているわ。
 時々、私がご飯に誘い出すけど、それ以外は外出してないみたいだし。
 私だって今まで何もしてなかったわけじゃないのよ。
 でも、なかなか回復の糸口がつかめないのよね」

りさは今回のまひるとの交流を通じて、
おそらくレイナの中にまひるに対するコンプレックスが想像以上にあることを感じた。
そして、それがスランプの原因の一つだとするならば、
やはりまひるが直接的にレイナに干渉するのは極めてまずいと思った。
そうなると、やはり自分が何かをしてあげなければならないのは明白なのだが、
いったいどうすれば良いのか、分からずに考え続けていた。


「まひるも色々と考えてみたけど、やっぱり難しいことはよくわからへん。
 でも、音楽って『音を楽しむ』って書くぐらいやから、
 実はそんなに深刻に考えんでもええんちゃうかなって思うけどな。
 でもそれはまひるのやり方なんかな、他の人に合うかはわからんけど」

りさはまひるの言い分には一理あると感じた。
今のレイナは、おそらく全く音楽を楽しいものだと感じてはいないだろう。
もしそうであれば、彼女をその音楽の原点に回帰させるような、
そういうきっかけが必要なのかもしれなかった。

「音を・・・楽しむかぁ・・・」

そこまで呟いて、りさは何かを感じたように黙り込んだ。

「私には・・・今の私にはそれはできないかもしれないわね・・・」

りさのその言葉を聞いたまひるは「ああやっぱり無理なんかな」という考えが頭をよぎった。
まひるの推測では、おそらく、りさも音楽に対してなんらかの問題を抱えていて、
それが解決しない限り、レイナに対して彼女から働きかけることはないだろう。


「なかなか、人生って思い通りにはいかんのよな〜」

まひるはコートのポケットに両方の手を突っ込んだまま、
敢えて少しおどけた言い方でベンチの周りをぴょんぴょん跳ねた。
りさを動かすのは無理かもしれない、まひるはそう思ったが、
無理なら無理で、もうそれでもいいやと開き直った。

まひるは嘘をつくことと歴史の勉強が苦手であった。
彼女はきっと、通り過ぎた過去にとらわれて生きることよりも、
今ここにやってきている現在を明るく楽しみながら、
そして未来にぼんやりと浮かぶ「夢」を見つめて生きる女性なのかもしれない。
だが、そういう底抜けのポジティブさが、まひるの最大の魅力であった。


りさは先ほど購入した食パンを取り出して、ちぎって鳩にエサをあげ始めた。
最初は「可愛い」と言いながら機嫌よくパンをあげていたりさだったが、
そのうちパンを求めて集まってきた鳩の群れに囲まれてしまい、
最終的には「もうあっちいって〜」と喚きながらパンを遠くへ放り投げ始めた。

だが、彼女が投げるパンは全く遠くへ飛んでいかず、
彼女の近くにポトリと落ちるため、余計に鳩が彼女に向かって集まってくる。

「パンあげるから余計に集まってくるんや」

まひるはその光景を見て笑いながら関西人らしいツッコミを入れた。

まひるは自業自得の状況で鳩に怯えるりさを見て、
この人は本当に可愛い人だなと思った。
自分には、一生努力しても、そんな可愛さで生きることはできないと思った。
もちろん、まひるだって可愛らしい魅力をたくさん持っていたが、
まひるが感じたそれは、生まれ持った性質の違う魅力のことであった。

そのうちりさは、「キャッ」と声をあげてベンチから飛び上がって鳩から逃げてきた。
そして鳩の群れから逃げてきて少しホッとしていると、
その鳩の群れの近くを男の人が自転車でビューッと通りすぎていった。
鳩達は急にやってきた自転車に驚いて慌てて飛び去ってしまった。

「あっ、なんでそこにいるってわかって通るん!?」

もう通り過ぎていってしまった自転車の方向をキッと睨むりさを見て、
まひろは「やっぱり未来はもっと楽観的でええかな」と考えた。


・・・

ある日、りさは仕事を終えて帰宅した後、
気づいたらソファーで知らない間に眠りこんでいた。
その時、りさは不思議な夢を見た。

・・・

朝、りさは駅のホームで電車を待っていた。
すると突然、目の前に一つ年下くらいの男の子が現れて、
何を思ったのか、不意にりさに近づいてきて、
急にりさのポニーテールを指差し、
「こっちのほうが似合いますね」とポツリと言った。

りさは男の子の突然の行動に驚いたが、
何より驚いたのは自分の顔が真っ赤になっていたことだった。

すると、目的地へ向かうために各駅停車の電車を待っていたはずが、
どういうことかやってきた電車はみんな特急列車ばかりだった。

・・・


ハッと目が覚めた時、また同じ夢を見たという感覚に陥った。
疲れている時、りさはいつもこの同じ夢を見るのだった。

まひると公園で別れてから数日間、
りさはずっとレイナのことを考え続けていた。
しかし、いくら考えても彼女に何をしてあげられるのかわからず、
同時に、自分の生活を差し置いて他人の事ばかり考えている自分に、
なんだか妙な気持ちの悪さも感じたものだった。


(どうして他人の心配でこんなに悩まなくちゃいけないのよ・・・ )


「バカみたい」と思ったりさは自分の夕食を作る準備に取り掛かった。

りさは冷蔵庫からオクラとチーズ、豚肉、
さらにニンニクとズッキーニを取り出した。

先にオクラとチーズを豚肉で巻き、戸棚から持ってきた耐熱皿に並べ、
料理酒、みりん、塩こしょうをかけてレンジに入れた。

次にフライパンにオリーブオイルをひき、
みじん切りにしたニンニクを入れ、
輪切りにしたズッキーニも入れ、炒めて味を整えた。

レンジから先ほどの料理を取り出してお皿に並べた。
ズッキーニもフライパンからお皿に盛り付けて料理は終了した。


料理をしている間、りさは全ての煩雑な問題から抜け出すことができた。
この瞬間は余計な雑念も、人生のいやらしさも、醜い嫉妬も入り込む隙はなく、
ただ純粋においしい料理の匂いと、ただ純粋な人間の手作業だけが残された。
ひょっとすると、女には料理がある分、楽に生きれるのかもしれないと思った。


慣れた手つきで手際よく作業を終えたりさは、
こちらも慣れた手つきで「キティ」を作り上げた。
その甘さはりさの気分次第でいつも少しずつ違った。

りさはテーブルに運んだ料理の味をひとり楽しみながら、
また一人で「キティ」を飲んだ。


「キティ」の甘さが舌に触れる時、りさは心地よい感覚に包まれた。
それは自分がこの人生をかけて欲している甘さかもしれないとすら思った。
その赤い液体が喉を通り抜けて自分の身体中の隅々まで染み渡る時、
りさは恍惚とした喜びに震え、今ならこの命さえ投げ出しても構わないとすら思えるほど、
甘い堕落した気分になることもあった。


やっと少し幸福な気持ちになってきたりさは、お風呂場へ行って湯船に湯を張った。
今日は余計な重荷を全て取り払い、あらゆる痛みが全て落ちるまで体を沈めていようと思った。
パチンと指でスイッチを弾いて浴室の灯りを消し去って、一度、世界を全て闇に返した。
友人から貰ったアロマキャンドルにそっと優しく火を灯し、
その一点から淡い光が浴室中に広がっていくのを感じ、
そしてまるで世界の始まりであるかのように静かに目をつぶって、その光の美しさに寄り添った。
バニラの優しい香りが空気中に広がって、りさはとても耽美的な気分に沈んでいった。


りさは柔らかい光の明滅に揺られながら、浴槽の中で一人、とても美しかった。


・・・


りさが小学生の時、嫌がらせをしてきた男子に対して、
虫をその子の机の中に入れて仕返しをしたということがあった。

りさはとてもたくましい。
男兄弟の中で育ってきたからか、
生き抜く力を小さな時から人しれず養ってきたのかもしれない。
腕力でかなわない男兄弟の中で自分を確立しなければいけないのだから、
どんなに辛い現実が立ちはだかったところで、
結局は自分の力で乗り越えなければならなかったのかもしれない。

だから、仕事も友人関係も恋愛も、現実を全て主体的に制御しようとする。
テキパキと卒なくこなして、しかしそれは全て彼女の努力に裏打ちされたものだった。

そして、彼女はとても優しかった。
誰かに頼られると断れない性格で、面倒見が良くて涙もろい。
それが彼女のたくましさと融合して、この慈愛の女神のようなキャラクターになる。

でも、時々全てを投げ出して誰かに甘えたくなる時もある。
燃えるような恋に全身を預けて、たった一言、甘い言葉をかけてもらえれば、
それでその人のために命を投げ出してもいいとすら思える時もある。
彼女の中のロマンスが、現実を全て吹き飛ばしてしまいそうになることもある。

彼女は常に揺れていた。
それは姉という役割と妹という役割の狭間であったかもしれないし、
男性のようなたくましさと、女性のようないやらしさの狭間であったかもしれないし、
耽美的なロマンティズムと厳格的なリアリズムの狭間であったかもしれなかった。


もしかすると、彼女はそこに揺れるキャンドルの炎なのかもしれない。
美しく揺れて、美しく瞬いて、美しく煌めいて・・・。


・・・


りさはお風呂から上がると、毎日の習慣としてボディークリームを体に塗った。
ふわっとした良い香りが、またりさを包み込むと、また一つ癒される気がした。

明日は休日だったので、風呂上がりにはまた「キティ」を飲んだ。
心を綺麗に洗った後の「キティ」は、さっきより深く体に染みていく気がした。

眠る前にストレッチをしながら、ふと新しい靴が欲しくなった。

りさは上京前、少しだけ縫製工場で働いていたこともあるくらい、
アパレル全般に対して強い興味を持っている。
それは、自分の魅力をよりよく表現するためには欠かせない要素であった。

彼女は洋服も靴も好きだったが、特に靴を選ぶ基準はかなり厳しかった。
素材、デザイン、サイズ、はき心地など、全てにおいてしっかりと吟味した。
そして選ばれた靴達だけが、彼女の美しい足に収まることができた。

靴選びは人生の伴侶を選ぶのに似ている。
自分にピッタリ合うものを、外見だけでなく中身までしっかりと理解して、
そして、人生を長く一緒に歩いていけるものだけを選ぶからだ。
彼女は買い物に出かけると、いつも慎重に、一方でとても情熱的に靴を選んだ。
時に優柔不断にも思えたが、それは彼女がやはり常に揺れているからかもしれない。


なんだか少し寂しくなってきて、りさは音楽を流した。
曲は児玉坂46の「ごめんね、きっと」だった。


 ごめんね ずっと
 気持ちに気付かなくて
 やさしいあなたに
 今日まで甘えてた


りさはこの歌詞を聴くと、いつも不思議と涙が出てきた。
好きな曲を音楽プレイヤーに集めていくと、
彼女の選曲は、なぜか自然とバラードばかりになった。


 あなたと歩いてきた今日までの道を
 今でも一度だって後悔してない
 胸の奥に輝いてる 
 大事な宝物


こうして夜の闇に包まれて、一人涙で心を浄化して、
りさは自分を慰めながら今日まで生きてきたのだった。


歌が鳴り止んだ時、ふと窓際で育てていたヒヤシンスが目に入った。
白いヒヤシンスは鮮やかに咲いていたが、りさは今まで全然気がつかなかった。

(もうそんな時期になったのね・・・)

ヒヤシンスは寒さに当たらないと花が咲かないという。
花芽もつかない時分、ヒヤシンスはわざと戸外に置かれて寒さに当てられる。
そして早春になって花が咲くと、その耐えてきた分の花を咲かせる。
しかし、白いヒヤシンスの花言葉は「控えめな愛らしさ」であり、
決して派手に咲き誇るわけではなく、謙虚に、健気に、美しく咲くのだ。


・・・


3月上旬、本格的な春はまだやってきてはいなかったが、
日が差すとポカポカと心が洗われるような日々も増えてきた。

りさは翌朝、眼を覚ますと、押入れから古いギターを引っ張り出した。
お気に入りの靴を履いて家を出て、楽器屋で新しいギターの弦を購入し、
家に帰って弦を張り替えて、慎重にチューニングを合わせた。

りさはひとつ大きく深呼吸をして、一つ一つの弦を鳴らして音を確かめる。
6弦の音は予想以上に心に重たい響きを残し、
1弦の音は想像以上に心に刺さる響きを残した。

C、D、E、F、G・・・。

りさの心は、初めこそギターの弦の振動によって同じように揺さぶられたが、
コードを奏でると、どの和音もそれぞれの持つ優しさの音色で様々にりさの心を撫でた。

何かが胸の底からこみ上げてくるように感じ、
またそれをグッと飲み込んで、りさはギターを鳴らし、作曲を始めた。


開けた窓から差し込む暖かい日差しが、りさのギターのボディを照らし、
アコースティックギターの木の温もりが一層際立って映えた。
窓から吹きこんでくる柔らかい風の中には、
早春の訪れを想起させる、何か淡い希望が含まれていた・・・。


・・・


【早春の発熱】



「小さすぎる僕を・・・」

ボールペンでノートに歌詞を書きつけて、レイナは少し考え込んで左手を口元へあてた。
また少し続きを書いては、グシャグシャとボールペンで歌詞を塗りつぶした。

「・・・宇宙・・・」

左手で頬杖をつきながら、レイナはいつになく真剣な顔で歌詞を書き続けていた。


・・・

3月上旬

暖かな早春の自然光がレイナの部屋に射し込んで、カーテンを銀色に染め上げていた。
そして、カーテンから漏れた光は部屋の中を終始、柔らかく照らし続けていた。

だが、そんな暖かなひだまりの中で、レイナは一人寂しくまだ眠っていた。
時計は午前10時を指しているが、まるで世界はレイナだけを取り残し、
その活動を続けているようにさえ思えた。


そして、レイナは突然りさからの電話を受けた。


「もしもし、レイナ?」
「・・・うん、もしもし、どうしたの?」

レイナはこの時、もう歌詞を書くことすら放棄して寝ていた。
まひるとの一件があった後、自分の不甲斐なさに嫌気がさして、
もう何もする気が起きず、ただ絶望を抱いて眠る、という日々を淡々と過ごしていた。

「どう、元気してる?」

レイナは今となってはもう誰にも会いたくない気分になっていて、
親友のりさからの電話ではあったが、何か嫌な予感がしてとっさに嘘が口から出た。

「えっ・・・うん、ああ、昨日の夜からじゃっかし熱っぽいんだけどね・・・」

りさは、口ぶりが怪しいりさを少し疑いながら尋ねた。

「えっ、大丈夫なの?看病に行こっか?」

レイナは「しまった、そうなるか」と嘘をついたことを瞬時に後悔した。

「・・・あっ、いや、そんな別に大したことないからさ、大丈夫、うん・・・」

りさは、このやり取りだけでレイナが仮病を使っていると見抜いた。
りさはレイナが彼女自身の感情を隠せないことをちゃんとわかっていて、
それゆえに、決して自分に嘘などつけない事を長い付き合いからわかっていた。


りさは昨日、ギターを弾きながら曲を作った。

そしてノートパソコンでギター伴奏だけの「オケ」を作成した。
それに合わせて歌うことで、とりあえず最低限は曲の形になる。
とてもシンプルなものだが、音楽を創る人にとっては、
初めの一歩とも言える、とても大事な作業だった。

「昨日ね、久しぶりに曲を作ったの。
 それでね、歌詞も半分書いてみたの。
 でも、その続きがどうしても書けなくなっちゃって。
 だから、レイナに残りを一緒に考えて欲しいんだけど」


そう告げて電話を切って数十分後、りさは半ば強引にレイナの部屋に乗り込んだ。
レイナは電話を切ったあと「これはまずい」と自分の嘘を隠蔽すべく、
せっせと布団を敷き、洗面器に水を入れて枕元に置き、おでこに乗せるタオルを準備した。

りさが部屋に到着したとき、レイナはちょっと気だるそうなフリをして応対した。

「熱・・・測ろうか?」
「あっ、いや、さっきもう測った、微熱・・・くらい・・・」

レイナは下がらない熱がまだ微妙に気だるいのよ、という雰囲気を演じていたが、
りさはもうそれ以上いじわるに攻撃することはせず、ささっと部屋に上がり込んだ。

「辛い時は、いつでも頼ってくれたらいいんだからね」
「うん・・・ごめん」

レイナはありがとうと言うべきところを、「ごめん」としか言えなかった。
りさはテキパキとレイナの部屋を片付け始め、
布団に寝ているレイナをよそに、マグカップにお茶を入れてくれた。
そして自身のノートパソコンを開いてテーブルに置き、
「この曲なの」とレイナにイヤホンを渡してオケを聴かせた。

レイナにコード進行やメロディーラインを簡単に説明した後、
「あと、これが、私が書いた歌詞」とレイナにノートを見せた。

「じゃ、続きをお願いね」

りさはポンと突き放すようにレイナを一人テーブルの前に残し、
部屋の少し離れた場所へ移動して、ひだまりの中で持参してきた雑誌を読み始めた。

レイナは歌詞を書く気分では全然なかったが、
りさが近くで見張っていることもあり、渋々ながらペンを握り、
りさが書きかけの歌詞の続きを書き始めたのだった。


・・・




「小さすぎる僕を・・・」

ボールペンでノートに歌詞を書きつけて、レイナは少し考え込んで左手を口元へあてた。
また少し続きを書いては、グシャグシャとボールペンで歌詞を塗りつぶした。

「・・・宇宙・・・」

左手で頬杖をつきながら、レイナは黙々と歌詞を書き続けていた。



(私は、彼女の彼氏が好きだった・・・でもそれは、私だけの秘密だ)


りさは自宅で作曲を終えた時、歌詞を書き始めた。
久しぶりで何を書けばいいかわからなかったりさは、
まず初めに、頭文字を適当に「あいうえお」と置き、
そこから思うがままに歌詞を書き始めていった。


インスピレーションに任せて書き連ねて行った歌詞は、楽曲の半分まで完成した。
りさは初めから半分しか書き上げるつもりはなかった。
レイナと合作にして、この曲の歌詞を完成させようと考えていたからであった。
それが音楽の原点に回帰する、レイナのリハビリになるのではないかと考えたのだ。

 (あ)の人が今どこで何をしてようと
 (い)まの私には全くもって関係ない
 (う)まれた場所に戻り一人働いていようと
 (え)いえんを誓った人と二人暮してようと
 (お)おきすぎる夢を二人で
 (か)たりあった日々が私の私の記憶から消えていく


理論よりも直感に委ねてすべてを書き上げた後、りさは自分で歌詞を見つめてみて、
すぐに、これはかずきの事を書いた歌詞だと気がついた。


レイナが加入してくる前に「ブラウンアイズ」を組んでいた頃、
りさは自分の歌を褒めてくれたかずきの事が大好きだった。
「二人でいつかプロデビューする」という大きな夢を語り合い、
切磋琢磨を続ける音楽活動を通じて、ずっと密かにかずきに想いを寄せていた。

レイナが加入して「Ms.カミナリ」を組んだ時、
レイナの歌を絶賛したかずきを、りさはかなり嫉妬もしたけれど、
かずきが喜ぶならその方が良いと思い、バンド活動を続けた。
そして、レイナという親友を得たことで、音楽活動も絶頂期を迎えた。

その後、かずきとレイナが付き合い始めたという事実を知ったりさは、
もうすべての音楽活動が嫌になり、一人でその苦しみを抱えて泣いた。
やがて、彼女はそっと身を引くようにしてバンドを脱退していった。

それ以来、歌詞も曲も一切書かなかった。
歌を歌うことが、何よりも辛くなってしまったのだった。



りさは書き上げた歌詞を見た時「これはかずきへのレクイエムだ」と思った。
直接的な表現は無意識的に避けられているけれど、
歌詞の「物語の流れ」を読み取ると、それはあまりにも明白だった。
そしてこれは「自分自身の恋へのレクイエムだ」とも思った。


これは、ずっと深い心の底に眠っていた自分の想いが歌詞になったのだ、とりさは思った。
それとともにりさの気持ちも、ずいぶんと軽くなった。


しかし、情熱的に書き上げた歌詞を、冷静に見直してみた時、
りさはさすがに、これをそのままレイナに見せるのはなんとなく気が引けた。
レイナはどうせ自分がかずきを好きだったことは何も知らないし、
これを見たって何も気づかないだろうけれど、
かずきへの密かな恋心の匂いが歌詞の中に漂うのを少し恥ずかしいと感じたりさは、
歌詞の中の「私」という箇所を「僕」という表現へ改めた。
一人称を男性視点にすり替えることで、全く別人の物語だと感じさせることに努め、
さらに歌詞に漂う、自らの淡い恋心の匂いを薄める事で羞恥心をごまかしたりさは、
こうして自分の秘密を隠し続けたのだった。


・・・


レイナはりさが書いた歌詞の前半部分を見て、
とても奇妙な歌詞だと思った。
なぜ女性が書いた歌詞なのに一人称が「僕」なのかよく分からなかった。
そしてこの歌詞の物語がいったい何のことを書いているのかも。

ざっとりさの書いた歌詞を見直した後、
とりあえず曲の世界観を崩さないように、
一人称の「僕」は引き続き踏襲することにしたが、
あとはレイナも直感に任せて歌詞を書き進めた。



 やりたいことあるならやればいいと
 言った表情から そばにいてという想いが伝わって
 泣きそうな僕を見て
 何でそっちが泣くのと君は笑う
 小さすぎる僕を宇宙の果てみたいと笑い
 君は君は俯いて肩震わせ手を振るから
 抱きしめた

 三月僕はそこを去り 5時間後にはここにいた
 大きすぎるけれど二人で語り合った夢が
 僕の僕の目の前で現実に でも君は今どこに


直感的に、無意識的に書き上げられた歌詞は、かずきの事だった。

「ホイップ」が音楽業界人の目に止まり、
レイナがスカウトされて歌手デビューを約束された時、
レイナは一緒に夢を追ってきたかずきと別れるのを惜しんだ。

レイナがかずきに自分だけがスカウトされた事実を告げると、
「やりたいことがあるならやればいい」と背中を押してくれたのだった。
だが、レイナはそのかずきの寂しそうな表情を直感的に見抜いて、
気づいた時には大粒の涙をボロボロとこぼしていたのだった。

そんなレイナを見たかずきは「何でそっちが泣くの」と笑った。
ずっと泣き続ける小さなレイナを「宇宙の果てみたい」と笑って、
かずきは離れてしまう寂しさに肩を震わせて「さよなら」と手を振った。

気づいた時には、レイナはかずきを抱きしめていた・・・。  
 
三月にレイナは大学そばのアパートを去り、
5時間後には今の住居へ移ってきた。
かずきと語り合った夢を叶えたレイナだったが、
いったいかずきは今どこに・・・。


レイナは、自分がなぜこんな歌詞を書いてしまったのか、
その理由が全くわからなかった。
だが、そこに確かに現れたのは「かずきへのレクイエム」であり、
「自分自身の恋へのレクイエム」であった。
そして、自分の胸の中にずっと長い間つかえていた何かが、
音もなくスッと、どこかへ溶けて消えていくのを感じた。


・・・


「これで完成?」
「うん・・・まだ仮だけど」

歌詞を書き上げたレイナは「仮病じゃなく本当に疲れた」と言わんばかりに、
布団へ戻り、おでこに濡れタオルを乗せて目を閉じた。

りさは最後のワンフレーズが余っているのを見つけ、
自分が冒頭に書いたフレーズをリフレインとして付け加えた。

 あの人がいまどこで何をしてようと
 いまの僕には全くもって関係ない


これで歌は完成した。


・・・


レイナはそれっきり布団の中で目を瞑ってしまった。
「歌詞はあなたの要求通り書き上げたけれど、
 これ以上はもう勘弁して」という彼女なりの抵抗に思えた。


レイナは歌詞を書き上げることはできたけれど、
まだ歌を歌うことは怖いのだった。

りさはそんなレイナの臆病を瞬時に見抜き、
厳しい母親のような優しい心を持って彼女の背中を押そうと考えた。


りさはテーブルの前に座り、ノートバソコンを開いた状態のまま静止し、
ゆっくりとテーブル上のメトロノームを指で弾いた。

「チッチッチッチッ」という機械音が静寂を切り裂いてリズムを刻んだ。

それは、りさからレイナへの目覚まし時計のようなメッセージでもあり、
止まってしまった二人の時を再び目覚めさせる秒針の音のようでもあった。


りさはノートパソコンに繋がれたイヤホンを手に取り、
メトロノームのリズムを確認した後、その機械音を止めて、
両耳に静かにイヤホンをセットした。
最後にノートバソコンのキーを押し、曲が流れてくるのを待った。


りさは自分が書いた歌詞の部分を静かに歌い始めた・・・。


・・・

レイナは自分を叩き起こそうとするメトロノームの音をとても鬱陶しく思い、
そこまでお節介なら意地でも寝たふりを続けてやると決めこんでいた。
レイナは表情をピクリとも動かさず、平静を装ったままで目を閉じ続けた。

メトロノームの音が止み、レイナはついにこの冷たい戦争に勝利したと思った。
だが、りさはアカペラに近い状態で曲の最初のパートを歌い始めた。


 あの人が今どこで何をしてようと
 いまの僕には全くもって関係ない
 うまれた場所に戻り一人働いていようと
 えいえんを誓った人と二人暮してようと


久しぶりに聴いたりさの歌声は、相変わらず天使のように美しかった。
穏やかな早春のひだまりの中で、透明に澄んだ優しい歌声が響いていた。

そして、その歌声を聴いていたレイナの心の中に、
鮮やかな直感が、まるで春雷のように激しくレイナを貫いた。


 おおきすぎる夢を二人で
 かたりあった日々が僕の僕の記憶から消えていく


りさは天使のように一心に春の日に向かって歌い続けていた。
その後ろで寝ていたレイナは、体を布団から起こし、
彼女の隣に座って、静かに彼女の右耳のイヤホンを取った。

そのイヤホンを自分の右耳に装着し、レイナはそっと静かに歌い始めた。


 やりたいことあるならやればいいと
 言った表情から そばにいてという想いが伝わって
 泣きそうな僕を見て
 何でそっちが泣くのと君は笑う
 小さすぎる僕を宇宙の果てみたいと笑い
 君は君は俯いて肩震わせ手を振るから
 抱きしめた



りさは久しぶりに聴くレイナの歌声に、そっと目を瞑って耳を澄ませた。
彼女の声質の特徴である妖艶さは相変わらず健在だったが、
何よりもこの曲に乗せている彼女の感情の繊細さを、りさは全て漏らさず聴き取った。
それはレイナから今までに聴いたことがないほどに、優しくて美しい歌声だった。


 三月僕はそこを去り 5時間後にはここにいた


二人は掛け合うような歌パートを歌い上げた後、
りさは「いくよ」という目の合図をレイナに投げかけた。
そして二人は呼吸を合わせ、二人の心に鳴る音を高らかに歌い上げた。


 大きすぎるけれど二人で語り合った夢が
 僕の僕の目の前で現実に でも君は今どこに


ハーモニーではなかったけれど、二人のユニゾンパートは、
まるで天使と堕天使が一つに融合したような完全性を放ち、
春の訪れを告げる「春雷」のように、早春のひだまりに響きわたった。
二人の心と心は、まるで一つに繋がれたかのように互いの心を打ち鳴らし、
お互いがお互いの響きを確かめ合いながら、音は心の中を何度も反響し続けた。
その二人の音は、まさしく愛の音楽とでも形容するに相応しいものだった。


 あの人がいまどこで何をしてようと
 いまの僕には全くもって関係ない


ユニゾンパートが終わり、最後のリフレインに差し掛かった時、
レイナはゆっくりと着けていたイヤホンを外し、
まだ歌い続けているりさの横顔を眺めていた。
そして、この自分の横でいま歌っている天使は、
おそらく、今この地上で最も美しい存在ではないかと、レイナの直感は告げていた。


・・・

りさは音楽を止めて左耳についているイヤホンを外した。
ちらっとレイナの方に視線を向けると、レイナは無言で微笑みを返した。
その顔を見たりさの唇には、うっすらと喜びの笑みがこぼれていた。


「・・・お腹すいちゃった、何か買ってくる」

レイナは颯爽と立ち上がって部屋を出て行こうとした。

「・・・えっ、それで行くの?」

りさはレイナを見つめて、部屋着のまま出て行こうとするレイナに尋ねた。

「・・・うん」

レイナはそのまま部屋を出て行き、りさも立ち上がってレイナを追いかけた。



・・・


(彼女が私の彼氏を好きだったことを私は知っている、でもそれは、私だけの秘密だ)


レイナが布団に寝転んでりさの歌声を聴いていた時、
まるで春雷のように彼女を貫いた直感とは、
りさが書いた歌詞の本当の意味であった。


一人称は僕だったけれど、あの歌詞全体に漂う「物語の流れ」は、
間違いなくかずきの事を歌っていると、その時レイナの直感が告げたのだった。

そして、だからこそ、その「物語の流れ」を引き継いだレイナは、
無意識的にかずきとの別れのエピソードを歌詞の後半に付け加えたのだった。
それは、論理的に説明するのは極めて難しい空気の中に漂う感覚のようなもので、
だからこそこの手の問題の解決は、りさよりもレイナの方が遥かに優れていた。


そしてレイナはあの時訪れた一瞬の直感で、りさがどんな思いでこの曲と歌詞を書き、
それをどんな思いであのひだまりの中に身を委ねて歌っていたのか、
その全てを瞬時に理解した。


だからレイナはそのあまりにも勇敢な親友の歌声に心を動かされ、
布団から立ち上がって、自分も歌を繋いだのであった。



レイナは、今日、この勇敢な親友が自分の為に歌ってくれた、
この地上で最も美しい歌を、生涯忘れる事はないだろうと思った。


・・・

食料を調達に向かう道の途中、レイナは無言でりさに体当たりをした。
「もう、何よ」とりさは少しそのいたずらに対して怒って見せたが、
 それが今のレイナなりの、りさに対する精一杯の感謝の表現方法だった。


「レイナ、何食べたい?」
「う〜ん、え〜っとね〜、いまの気分はカレーかな!」
「あっ、カレーいいね!じゃあ私が作ってあげる」
「いぇ〜い!」

二人は買い出しを終え、レイナの部屋でカレーを作って仲良く食べた。
りさは「あれっ?熱は下がったの?」と言ういじわるな言葉が時々頭をかすめたが、
無邪気にカレーを食べるレイナを見て、もう何も言わないようにした。

カレーを食べ終えて片付けまで済ませてくれたりさは、
「それじゃまたね」とだけ言い残して部屋を去った。

レイナはりさがいなくなった部屋の中で、
テーブルに向かってりさの書いた歌詞を読み返していた。

「・・・全く持って・・・関係・・・ない・・・」

レイナは座りこんでいたテーブルの前から、そのまま後ろへバタっと倒れた。
そして、もう一度起き上がり、腑に落ちない表情で髪をかき分けた。



・・・

ここまで読んでいただいた方には、
いったんこのまますぐに「早春の発熱」のPVを見ていただく事をお勧めします。
そこまでを含めて、この物語を読む、という出来事が完結します。

あの美しいPVの中の二人を、そっと眺めてやっていただければ幸いです。

・・・


この時期、彼女はPharrell Williamsの「Happy」を好んでよく聴いていた。


りさと合作をしたあの日の翌日から、
レイナは一人で事務所を訪問しては頭を下げ続けていた。

「かずきへのレクイエム」を形にできた事で、
レイナの胸の中に巣食っていた得体の知れない何者かが消え去り、
レイナは前向きな姿勢を取り戻していた。


また歌手として復帰したい。
そうして再起を強く決意して立ち上がったレイナではあったが、
もちろん、自分の観念だけでは思い通りにならない現実も、
彼女の前に立ちはだかっていた。
信用は、築くには恐ろしいほどの手間と年月がかかるが、
失うのはあっという間で、それを取り返すにはひとりよがりの観念ではなく、
たっぷりと時間をかけた誠意のある行動が求められた。


レイナは個人的にも「ホイップ」のメンバーに連絡を取っていた。
過去に自分の不手際で迷惑をかけた事実を謝罪し、
もう一度、自分と一緒に音楽をやってほしい、チャンスが欲しいと懇願した。
しかし、「ホイップ」のメンバーはそれぞれにソロ活動をするもの、
他のバンドを組んで活動しているもの、プロデューサーに転向したものなど、
様々な現実生活の制約があったため、レイナの希望は結局叶わなかった。

レイナは自分の強い想いとは裏腹に、現実は厳しいという事実も思い知らされた。
リアルな世界は、自分の強い気持ちと決して連動しては動いてくれず、
ひとり空回りし続ける歯車に、心を強く保つことは容易な事ではなかった。

レイナがここでめげることがなかったのは、自分自身の為というよりは、
背中を押してくれたりさの好意を無駄にしたくないという気持ちだった。
そして空回りを続ける歯車ではあったが、それでも決して回転を止めないということが、
このような現実の壁を突き破るには最善の良策であるというのも事実であった。

そんなある日、レイナは事務所を訪問した時、
彼女のプロデューサーに呼び止められた。


「4月中旬、1曲、ソロだ」

プロデューサーは部屋に入ってきたレイナにまず簡潔にそう告げた。

レイナは困惑していたが、とりあえず前向きな話であることを理解し、
すぐに「ありがとうございます」とまず頭を下げた。


「来月、明治野外スタジアムで春の野外ライブフェスというのをやる。
 様々なアーティストが参加するライブイベントだ。
 そこで1曲分の時間をお前にやる。
 だが、1曲だけだ、それ以上はお前には割けない」

プロデューサーは椅子に深々と腰をかけながら淡々と述べた。

「ソロ・・・ですか?
 ホイップは?」

「それは諦めろ。
 こっちも色々と手を回してみたが、残念だが無理だ。
 各メンバーのスケジュールの調整がつかない」

プロデューサーはお手上げだ、という仕草をして首を振って答えた。

レイナは少し不安そうに下を向いた。
バンドメンバーがいなくて一人でステージに立つなんて、
レイナは今まで想像したこともなかった。

「心配するな、バックバンドのメンバーは何とかして集めてやる。
 今、ドイツに行ってる凄腕のピアニストにも声をかけてるところだ」

レイナはありがたい気持ちと申し訳ない気持ちの両方が湧いてきて、
どちらをどのように先に表現するべきかわからなくて困惑した。

「・・・私の為なんかにわざわざドイツから戻ってきてくれるなんて、
 なんだか本当に申し訳ないです・・・」

プロデューサーは少し含み笑いを浮かべながら言った。

「別に遠慮することじゃない。
 彼女らがこうしてお前を助けるのは当然のことだ。
 だがな、お前自身はどうなんだ?」

レイナはプロデューサーの言葉の意味がわからず沈黙を続けた。


「・・・新曲を用意してある。
 ミディアムテンポで聴かせるタイプで、
 ピアノ伴奏から始まって、ピアノ伴奏で終わる楽曲だ。
 歌詞はすべてお前が書いてこい。
 時間はもう一ヶ月しかないぞ」

レイナはその話を聞いた時、
今まで歌ってきた曲調とは全く違うものになる予感がした。
そして、そのような曲は自分には向いていないのではないかと不安になった。


「・・・昔、俺がお前を「ホイップ」のリーダーに選んだ理由わかるか?」

レイナは何か悪いことをして怒られているような気がして、萎縮して聞いていた。

「お前はな、一人では歌えないタイプだ。
 一人だとすぐに自分の殻に閉じこもって出てこなくなる。
 そして誰かにそこから救い出してもらうのを指をくわえてずっと待っている」

レイナはりさの顔を思い出していた。

「常人では持っていない不思議なオーラを持っているにもかかわらず、
 一人で歌わせると、そこそこで満足して止めてしまう。
 だから無理やりにでもリーダーにしてやったんだ。
 バンドメンバーの事を気にかけ、バンドメンバーからも助けてもらえるようにな」

レイナは大学の時に「Ms.カミナリ」を組んだ時の事を思い出していた。
自分一人では歌手になろうなんて、きっと想像もしなかっただろう。
かずきが自分を見つけてくれて、りさが私の背中を押してくれて、
それで自分はやっとステージで輝く事ができたのだと思った。

「リーダーに抜擢した俺のセンスは正しかったよ。
 お前は頼りないと言われながらもバンドメンバーを何とかまとめあげ、
 各メンバーの個性を活かした素晴らしいバンドを作る事ができた。
 でも、残念に感じた部分もあった、お前がお前の個性を抑えてしまったことだ。
 お前は確かにバンドの顔だったが、なぜかいつもとても涼しい顔をしていた。
 俺が期待していたのは、お前が持っているその深いオーラを爆発させて、
 ステージで熱いパフォーマンスをしてくれることだった。
 でも、お前は結局ずっとクールなリーダーのままだったな」

レイナは自分がリーダーを務めていた事にそんな深い理由があったとは知らず、
今まで通り過ぎてきた色々な過去の記憶にこの真実をひとつ加えて、
そこにどのような効果を生んできたのかを、自ら振り返って頭の中で検証していた。


「だがな、次はお前自身でステージに立つ番だ。
 お前に『チャンスの順番』が回ってきたんだよ。
 このまま『そこそこ』の歌手で終わりたいか、
 それともそこから大きく飛躍したいのか・・・それは自分で考えろ」

レイナは悪い事をして怒られた子供のようにシュンとしてしまった。

レイナは昔から細々とした事を指摘されるのが大嫌いだった。
自分が持っている自由な感性の翼を、他人のお説教でへし折られてしまうようで、
この手のお説教はレイナにとって自信を喪失させるだけで、
彼女の為の薬になったことは一度もなかったのであった。
自分はもっとナチュラルな存在でありたかったし、
自分をもっと褒めて伸ばしてほしいと周囲に密かに期待していた。


「・・・これは怒ってるんじゃないぞ。
 みんなお前に期待しているからこそ、叱ってるんだ。
 意味を取り違えるな・・・」


レイナは心を見透かされたような気がしてドキッとした。
また、自分の隠せない感情が周囲に漏れていたのだと思った。

「・・・それだけだ。
 じゃあ、早く歌詞持ってこいよ」


プロデューサーはそれっきり無言になって自分の手帳を確認し始めた。
レイナは「ありがとうございました」と述べてその部屋を後にした。


・・・


レイナは部屋を出てからマネージャーとこの先のスケジュールの確認をし、
4月の野外ライブに関する関係者との打ち合わせを行った。
歌詞を書く為には何らかのインスピレーションが必要なので、
披露する新曲の「デモ音源」も聴かせてもらった。
曲を聞いた感想は、レイナがやはり思っていた通りで、
今まで歌ってきた楽曲とは全く異なるジャンルのものだった。

ステージ衣装は革ジャンでもなく、真っ白なワンピースと決定し、
レイナはそんな今まで着た事のない姿をどうしても想像することができず、
もしわがままを言うことが許されるのであれば、多いに反対意見を述べたかった。
しかし、今の自分の立場は藁をもすがるようなものだったので、
自分の想像力を駆使して、何とか自分とその真っ白なワンピースとの和解を試みた。

関係者たちの意見として、「ホイップ」のメンバーが集まらない以上、
今までと違ったレイナの魅力を発掘できなければ意味がないという論調だった。
革ジャンでロックを歌ってきたレイナに、誰が真っ白なワンピースを想像するだろう。
これだけでも十分話題になるに違いない、という打算的な思惑が働いていた。

レイナ自身、周囲のそのような打算的な思惑には嫌気がさしていて、
純粋な芸術的感性を、大人の損得感情で害されてしまうような気もしていた。
この微妙なラインの折り合いをつけることはとても難しい問題で、
この世界がこの仕組みで回っている限り、理想論はただの机上の空論でしかなかった。


結局は「満場一致」という得体の知れない無責任な方法で、
自身が納得しないままにレイナの新曲の方向性は決まり、
世界はその方向へレイナを置き去りにして走り出したのだった。


・・・


打ち合わせを終えたレイナが会議室を出ると、
そこには会議室で次の打ち合わせを待っていたまひるがいた。

「あっ、レイナさん、お久しぶりです」

まひるは相変わらずの屈託のない笑顔でレイナに話しかけた。
彼女のような性格は、たとえ見ず知らずの他人であっても、
何か話を交わすということは至福の喜びであって、
人見知りを基本とするレイナとは対照的であった。

「・・・あっ、まひるちゃん」

レイナは先日のあの気まずい別れ方を思い出して恥ずかしくなり、
思わず顔を伏せてしまったが、あの時のように沈んでいる気持ちではないので、
これを機に謝るべきだと心を整えた。
しかし、言葉を先に放ったのはまひるであった。

「レイナさん、この間はホンマにすいませんでした。
 なんかうち、無神経にいらんこと言ってもうたみたいで。
 レイナさん悪くないんで、あんまり気にしんといてください」

まひるは淡々とした表情で、しかしわずかな笑みを携えて謝罪を行った。
彼女の天性の無邪気さを何とか抑えるには、抑揚のない声を出すしか、
その方法はないと言わんばかりの光景だった。

レイナは謝るべきは自分であるのに先手を取られたことで、
なお一層自分が情けなく思えた。
しかし、とりあえず関係の修復はできたので、それはそれで良しとした。

「いや、まひるちゃんは何も悪くないよ。
 悪いのは私だから、本当にごめんね。
 まひるちゃんこそ気にしないでね」

その言葉を聴いたまひるは、これでもう大丈夫とばかりに抑制を外し、
従来の無邪気な笑顔に戻った。

「なんかレイナさん、元気になりましたね。
 よかったです、りささんも心配してはったから」

レイナはその言葉を聞いて驚いた。

「えっ、どうしてまひるちゃん、りさのこと知ってるの?」

まひるは先日りさと「チンゲンサイ」で会ったこと、
それよりも昔に学園祭で一度会っていたことを簡単に説明した。

「りささん、レイナさんの事でずっと悩んではったから、
 だからどうなるかと思ってたけど、上手くいったんですね」

「・・・上手くいったって、どういうこと?」
「いや、なんでもないです、こっちの事です」

まひるは「えへへ」とでもいう顔をして誤魔化した。
自分の知らないところで何か色々と動きがあったのだということだけ、
レイナはこのやり取りの中から感じ取っていた。

「それより、レイナさんも明治野外ライブ出るんですよね。
 まひるメッチャ楽しみにしてますよ〜。
 一緒のライブに出るのとか初めてですし」


レイナは、人の噂というのは本当に無責任に広がるものだと痛感した。
この世に「内緒だよ」と言って話を進める人ほど信用ならないものはないと思った。
人間は自分の事を棚に上げて、他人の噂を流しては、大抵はそれを非難して楽しむ。
自分も同じような欠点を持っているのに、自分はさも完璧な人間であるようにみなし、
他人が持っている自分と同じ欠点を非難するが、自分はずっと永久無罪なのである。
そして、自分もその汚らしい人間に属するのだからやりきれないとレイナは思った。


「・・・うん、出るけど、ソロなんだよね・・・」
「ソロっていいじゃないですか、まひるもずっとソロですし」
「でも私さ、こういうの一人でステージ出た事ないし、
 なんかさ、スポットライトが自分だけに当たってるのが想像できないのよね」

レイナは後輩にこんな事を相談しているなんて、
自分の中のプライドが少しズキリと疼いたが、
それよりも今は不安の方が大きくて、そんな事をかまっていられなかった。

「でも、別に一人じゃないですよ。
 まひるだってずっとソロですけど、バックバンドの人変わっても、
 それはそれで新しい出会いで楽しいですし。
 それに、ライブ見に来てくれるファンの人は毎回違うし、
 その人達の事考えたら楽しいじゃないですか。
 こんなまひるのライブ見に来てくれるなんて、
 ほんまメッチャありがたいことやなぁって思いますし」


レイナは、やっぱり今の自分はこの子より上手く歌えることはないと思った。
言葉には上手く表せない感覚だったが、この子の見ている景色と、
自分が見ている景色は全く違う高さにある、と直感が教えていた。

それとも自分がネガティブすぎるのかもしれないとも感じたが、
それはレイナがネガティブというより、二人を比較した場合には、
どうしてもまひるの圧倒的なポジティブが勝ってしまうため、
レイナがネガティブに見えてしまうだけなのであった。

しかし、レイナも元来、根は明るいほうではあるので、
この手の問題は比較にすぎず、どっちが良い悪いではない。
だからレイナは自分なりの明るさで頑張ろうと決意した。

「まあ、難しく考えてもよくわかりませんけど、
 音楽やし、音を楽しめばいいんですよ。
 だからまひるもレイナさんの音を楽しみにしてるんです」

そこまで話をして、誰かが遠くからまひるを呼びかけた。

「あっ、スタッフさん呼んでるんで、まひるちょっとお先に失礼します。
 ほな、ライブ楽しみにしてますね」

まひるはニッコリ笑って走り去っていった。

レイナも新しい自分の可能性をどう表現するべきか戸惑いはあったが、
まひるに負けてはいられないと思い、自分を鼓舞しながら帰ることにした。
颯爽と歩き出し、イヤホンを耳に突っ込んで、音楽プレイヤーの再生ボタンを押した。


(・・・Clap along if you know what happiness is to you・・・)
    
                       (Because I’m happy)

(・・・Clap along if you feel like that’s what you wanna do・・・)


レイナは、音楽を聴きながら、人間は嬉しい時には自然と体が弾むものだなと思った。
そしてこの感覚をそのまま自分の音楽にぶつければいいのだと、
レイナの直感がそう教えているような気がした。


・・・


事務所から帰宅したレイナは、すぐに楽な服装に着替え、
テーブルの前に座りながらイヤホンを耳につけ、
新曲のデモ音源を何度も聴きながらメロディーを覚え始めた。
レイナの勘の良さをもってすれば、それはそんなに難しいことではなかった。

しかし、この曲のキーは今までの楽曲とは違ってかなり高いキーだったので、
歌いこなすにはもっと練習をしなければならないとレイナは感じていた。
その歌の練習時間を確保しなければならないことと、
そして、一ヶ月しか時間がないこともあって、
レイナは残された時間が多くはないことを痛切に感じ、
早速、その新曲の歌詞を書こうと試みた。


しかし、何かを書こうとしてもいつも直感で書き上げるレイナは、
その直感がこちらに味方してくれない限り、結局何も書けないのだった。
新曲は今までとは全く色の違う優しいメロディーであり、
今までロック系の歌詞ばかり書いてきたレイナには、
その頭に浮かぶ言葉はどれもその楽曲にしっくりハマるものではなく、
どれもこれも今の自分にはふさわしくないと感じていた。


結局、作詞に行き詰まってしまったレイナはりさに電話して気分転換を図った。

「りさたん〜?♡」
「うわっ、ちょっと、何よその呼び方、気持ち悪いわね・・・」
「りさたんに会いたかったよ〜♡」 
「・・・レイナからかけてくるなんて珍しいじゃない、どうしたの?」
「そうなのよ〜、ねぇちょっと聞いて〜?」


レイナは次のライブの出演が決まったこと、
そのためには新曲の歌詞を用意しなければならないこと、
次の曲はロック調ではなくて、しかもワンピースで歌うのだということなど、
自分が今、不安に思っている点を並べてりさに相談した。



「・・・というわけでさぁ、私も悩んでいるところなわけです」

「・・・でもよかったじゃない、ライブが決まったんだったら。
 そんな贅沢ばっかり言ってないで、もうちょっと頑張ってみなさいよ」

「いや〜それがさぁ、もう何書いていいか全くわかんなくってさぁ。
 ねぇ〜何が悪いんだろう?
 でもね、私なりにちゃんと考えてるのよ? 
 それでね、さっきからちょいちょい書いてみてるんだけどさぁ、
 でもなんかしっくりこないんだよね〜。
 ていうかさ、ワンピースって何って感じじゃない?
 この私がワンピース着て歌ってるのとか、全くイメージできないんだけど。
 もうこういう無茶振りほんとダメなんだよなぁ・・・。
 ねぇ〜かわいそうじゃん私、今メッチャかわいそうな子だよ?」
 もうやだ〜、ねぇ〜、りさたん助けて〜りさたん〜♡」


この自分勝手な甘えんぼ攻撃には、さすがのりさも呆れた。

「はぁ・・・もう知らないわよそんなの・・・。
 あのね、ステージに立つのはあなたなのよ、私じゃないの。
 どうすればいいかなんて、私にだってわからないわよ。
 もうそんなに嫌なら、歌手やめなさいよ。
 あなたは何の為に歌ってるの?本当に歌いたいの?
 人はね、きっと本当にやりたいことしか心からはできないのよ」


りさの口調はいつになくキツく、どこか機嫌が悪いのかもしれなかった。
レイナは空気を読まずに自分勝手に甘える素振りをしたことを後悔した。

「あっ、ごめん、空気読まなくて・・・」

「・・・別に大丈夫よ。
 ただね、私ももうこれ以上あなたを助けられないわよ。
 私がそばにいると、あなたは私に甘えてばかりじゃない?
 時々思うのよ、私はあなたのそばにいない方がいいのかなって」

レイナはプロデューサーに言われた言葉を思い出していた。
「お前は誰かに助けてもらうのを指をくわえて待っている」的な言葉を。

「だからね、もうここからはちょっと自分一人で頑張ってみなさい。
 別に、あなたを一人にしたいわけじゃないのよ。 
 ただ、あなた個人で立ち上がらないと、この先どうにもならないと思うの」

「・・・わかった、ごめんね、りさ」

「あとね、レイナ。
 その野外ライブの事だけど、
 おそらくあなたの出演を交渉してくれたのはまひるちゃんよ」

「えっ!?なんで?」

レイナは驚いてさっきまひると話した内容を記憶から引っ張り出そうとした。

「このあいだ『チンゲンサイ』で会って話をした時、
 最後にあの子『レイナさんをライブに出演させたい』って言ってたの」

レイナはただ黙って耳を澄ませていた。

「それで私が『そんなことできるの?』って尋ねたら、
 『レイナさんが出演しないならまひるも出演せえへんって言うねん』って。
 確かに、今の音楽業界で彼女の影響力は大きいから、
 そんなワガママを言われたら、関係者も動かざるを得ないと思うの」

「・・・なんでまひるちゃんが私の為にそこまでしてくれるの?」

レイナは不思議に思ってそう尋ねた。

「あの子にはあの子なりの理由があるとは思うんだけど、
 でも、私やあの子があなたを助けるのは、それはもう当然のことなのよ。
 ただね、あなたはそれでいいの?あなた自身はどうしたいの?」


レイナは自分の見えないところで色々な力が支えてくれていることを知り、
なんと言葉を述べていいのかわからないような気持ちになった。

「ごめん、ちょっと仕事に戻らないといけないから、ここで切るね。
 だから、もうちょっと頑張ってみなさい、あなたは一人じゃないんだからね」


りさは電話を切った。


・・・

 
自分の為に、なぜこれだけ多くの人が助けてくれているのか。
レイナはその意味がよくわからなくて腑に落ちない気持ちもしたが、
とにかく、支えてくれる人たちの為に頑張るしかないと思った。


そしてノートに「誰かの為に」と書き付けた。


自分が歌いたい理由は?
正直、レイナにはわからなかった。
自分が望んで歌手になったわけでもなかったレイナは、
自分がこの先ずっと歌手を続けていきたいのかも、
実のところはよくわからなかった。

将来のことは誰にもわからない。
誰もが手探りで何かを探し求めて、ただひたすらに現在を進むだけだ。
その繰り返しが、いつの間にか予想もしなかった未来に通じていくのかもしれない。

レイナは自分が子供のころ、今の年齢で歌手をやっている自分を想像したことはなかった。
そして、同じように、10年後、20年後の将来に、
いったい自分がどうなっているのかなんて、誰にもわからなかったし、
現時点で考えたとしても、それはきっと大きく違う着地点に降り立つことになるだろう。
その不安は、きっとレイナだけでなく、すべての人々の共通課題である。


レイナは思った。
これからのことは今考えても仕方がない。
自分は、今感じることを、ただ一生懸命にやるだけだ。
現在やっていることが必ずしも将来の為につながるかはわからない。
ひょっとすると、また時が経って今のこの想いも薄れてしまうかもしれない。
今頑張る努力も、また未来には怠け者の自分に戻って水泡に帰すだけなのかもしれない。
でも、今は今だ、現在を一生懸命に生きることは、
少なくとも、現在に生きている自分と周囲の人々には意味のあることだ。

そして、今感じていることは、1ヶ月後のライブに向けて努力し、
今の自分を支えてくれる「誰かの為に」歌うことだけだった。


そしてレイナの直感は閃いた。

レイナは颯爽と立ち上がり、
部屋の隅に置きっぱなしになっていたトートバッグを取りに行った。

中身を確認し、白の革ジャン、ホイップのCD4枚、ファンレター2通、
謎の古代生物のぬいぐるみ2点セットを取り出した。
そして、取り出してみて改めて思ったのは、

「・・・気持ちわるっ!」


・・・


トートバッグから私物を取り出したレイナは、
「ホイップ」の象徴であった白い革ジャンとCDをクローゼットの奥にしまいこんだ。

「さようなら、また会う日まで」


レイナは一人でつぶやいた。


古代生物のぬいぐるみをテーブルの上に並べ、
ファンレター2通も同時にそこに置いた。

レイナは「誰かの為に」歌いたいと感じていた。
そして、自分の中から取り出す言葉では、
今回の歌詞は書き上げられないと考えたのだった。
「誰かの為に」歌いたいのであれば、その「誰か」を少しは知らなければならない。

そしてファンレターのことを思い出したのだ。
これを読むことが、作詞のキッカケになればいいと考えたのだった。


レイナは今まであまり真剣にファンレターを読んだことはなかった。
歌手になった当初はまだ時間的に余裕があったこともあり、
また自分が「TVの中の人」になったのを嬉しく思う気持ちもあって、
ファンレターやプレゼントが届くたびに事務所から持って帰ってきていた。

だが、その後に売れっ子になったレイナのスケジュールは本当に寝る間もなく、
ファンレターを読む暇があるなら睡眠をとって仕事に備えたほうがよかった。
それはそれで正しい選択で、体調を崩させてまで読ませるファンレターの方がエゴの塊だった。

しかし、レイナの場合、いつの間にか時間のある時でもそれを読まないという習慣になった。
結果的に初心を忘れ、ただ忙しい仕事に振り回されていく日々にストレスが溜まり、
いったい自分は何がしたかったのかを見失っていくことにもつながってしまったのだった。


人間というのは難しいもので、自分の為だけに頑張るのは限界があるし、
次の仕事の為に今の仕事を頑張るというのは、一見、正しいようでいてどこか怪しいものだ。
それで得られるささやかな収入が生活を支えているという現実はあるものの、
また、仕事そのものが本人にとって楽しいのであれば、それは本質的に意味があるのだが、
楽しくもない仕事を頑張る理由を、いつか次の楽しい仕事が来るはずだという淡い希望にすり替え、
それをとりあえず続けているのであれば、それは幻の人参を追っている馬である。


とはいえ、馬は走り続けなければならない。
だから本当に何の為に自分は走り出したのか、その心の原点に帰る作業を、
時間の合間を見つけては検討してみる必要があるのかもしれない。

そして、結局のところ馬は「今走ること」それ自体が「生きる事」なのかもしれない。
ゴールを目指して走るとしても、ゴールは永遠に辿りつけない蜃気楼のようなもので、
たどり着く頃には消えてしまい、また新しい蜃気楼を追いかける必要に駆られる。

おそらく、蜃気楼ではない本当のゴールに到達してしまった時、
馬の存在は、もはや自身の存在を消失するしかなくなるだろう。
それほどの「完璧」に到達する必要があるのかどうかもよくわからないが、
しかし、おそらく、この世界には本当のゴールなどというものは存在せず、
すべての馬の見ている目的地は蜃気楼なのだろう。


・・・


レイナは1つ目のファンレターを開封した。
差出人は芽衣という女性だった。


・・・


初めまして。

この手紙を読んでくれているかはわかりませんが、
自分自身の問題でいてもたってもいられず、
とてもバカげた行為だと思いながらも手紙を書かせていただきました。


はじめに私の事を書いた方がいいですね。
私は児玉坂に住んでいるあなたより2つ年上の女性です。
一昨年の8月、ホイップのデビューライブを当時お付き合いをしていた彼と見させていただきました。
あれ以来、ステージ上でのレイナさんの活躍がずっと脳裏に焼き付いています。


でも、ごめんなさい。
正直なところ、私はあなたの大ファンというわけではありません。

ただ私自身も歌手を目指していて、あなたの活躍する姿に尊敬の念は抱いています。
だからと言って、私のお願いが正当な行為だと主張するつもりもありません。
とても愚かな行為だという事は理解しています。


私は、数ヶ月前に彼氏と別れました。

その時は生きる事が苦しくてたまりませんでした。
ただの失恋だと言われれば、確かにその通りです。
でも、私にとっては世界の終わりと言っても過言ではありませんでした。
当時の私には、生きるとは悲しみそのものでしかなかったのです。


でも最近、心を癒す良い方法が見つかりました。
それは彼氏と出かけていった場所に一人で出かけて行く事でした。
この方法を実行してから、私の心はどんどん癒されていきました。

ある時は、郊外の森を訪れて鳥の声を聞きにいった事もありました。
またある時は、都会のオフィス街を日夜歩き回った事もありました。
とても奇妙に思えるかもしれませんが、それによって私の悲しみは減ったのです。

しかし、困った事がありました。

私と彼氏が訪れたとある場所は、もうアパートが建ってしまって、
もう当時の面影を残してはいませんでした。
そして、「ホイップ」も解散してしまって、
もうそのライブを二度と見に行くことはできなくなりました。


そこでお願いがあります。
どうかもう一度復帰してライブを行っていただけませんでしょうか。

バカげた自分勝手なお願いだということは理解しています。
ただ、私の心はレイナさんのライブに行くことをどうしても必要としていて、
そして、今の私にとってはそれだけが生きる意味なのです。
どうあがいても叶わないかもしれないとも思いましたが、
現実に不満を述べるだけでなく、まず自分を変えて行動しよう、
そう思って、とてもバカげているこのお手紙を書く事にしたのです。


噂ではレイナさんもスランプに陥っていると聞きました。
私に何ができるわけでもないですが、
もし何かお役に立てることがあれば何でも言ってくださいね。

レイナさんが無事に復帰されることをお祈りしています。

芽衣

・・・


この手紙の解釈は想像以上に難しいとレイナは思った。

まず、この人はレイナの大ファンというわけではなく、
おそらく正直に言って、過去に偶然ライブを見ただけなのだった。

そして、レイナの音楽が聴きたいわけではなく、
ただ自分の失恋を癒す為だけにその会場に足を運びたがっている・・・。


とても奇妙な理由ではあったが、レイナが共感できたところは、
同じように失恋の痛みを経験したことがあるポイントだった。
レイナが「かずきへのレクイエム」を書き上げて心が軽くなったように、
きっと彼女にとっては思い出の場所をもう一度訪れることが、
彼女なりの失恋の傷を癒すリハビリ運動なのだろうと解釈した。
彼女もレイナと同じで「立ち直り中」なのだろう、と。

もう一つ、レイナはこの手紙を通じて初めて理解できたことは、
自分のライブに足を運んでくれる人が、決して自分の大ファンだけではないことだった。

今までレイナは、ライブに足を運んでくれる人は全て彼女の歌を求めていると考えていた。
しかし、芽衣は彼女の歌などが目当てではなく、そのライブ会場に足を運びたいだけなのだ。
一体、このような人に対して自分はどう対応するのが正しいのか、レイナはわからなかった。

まず考えたのは、どうせ会場に来るのであれば自分の歌を聴いてほしいということだった。
自分の大ファンではない人に対して、どうやったら喜んでももらえるのかを考えなければいけない。
ではどのようなパフォーマンスをすればよいのか?
もちろん、おそらく会場の大半は自分のファンで、歌を楽しみに来てくれている人が多い。
その人達を喜ばせることが第一ではあるが、それ以外の人には一体何ができるだろうか?


レイナが感じたもう一つの難しい問題は、
観客というのは極めて都合の良い解釈からこちらを見ているということだった。

レイナが一つの解釈と表現で何かを観客に発信しても、
観客の受け取り方は十人十色で、良く解釈する人もいれば悪く解釈する人もいる。
自分の顔が好きな人もいれば、声が好きな人もいるし、ファッションが好みの人もいれば、
性格が良いと思ってくれる人もいる。
そして、その性格を正しく理解してくれる人もいれば、それを間違って解釈して捉えて、
それを真実と思ってこちらを見つめている人々もいるだろう。

こちらが投げかける1球に対して、向こうは100球も1000球も返してくる。
正直、そんな千本ノックは拾いきれないし、でもこちらが正しい返球コースを要求するのも、
それはそれで正しいかどうかはわからない。


結局、こんな問題は真面目に考える人だけが悩み苦しんで損をするものなのかもしれない。
しかし、相手に喜んでもらいたいという一心で色々と考えているこの自分の思考に対して、
それを「バカげた考え」だと一蹴することは、レイナにはできなかった。
簡単には答えの出ない難しい問題だと思ったけれど、
そのキャッチボールの中で球を取りこぼしてしまうことがあったとしても、
あるいはこちらの投げる球を誤解されてしまったとしても、
大事なことは、それに動じずにピッチャーマウンドに立ち続けることだとレイナは思った。
そして、9回最後までマウンドに立ち続けたピッチャーにしか見えない景色もきっとあるのだろう。
少なくともレイナは、そういうピッチャーにはスタンディングオベーションで健闘を讃えたいと思った。


・・・


レイナはもう一つの手紙を開封した。
差出人は蓮実という女性だった。

・・・

こんにちは。

こんな手紙を書いてしまって本当にごめんなさい。
まず、私はレイナさんに謝らなけいといけません。

去年、ある雑誌にレイナさんの悪口を書いた記事が載りました。
あれ全部、書いたのは私です。
本当にごめんなさい、今になってとても後悔しています。
レイナさんの事を傷つける事を書いてしまって、
しかも内容は嘘ばっかりで、本当にごめんなさい。

あの記事を書いてから、レイナさんがとても傷ついた事を知りました。
歌も歌えなくなって、歌詞も書けなくなったと聞きました。
私なんかのせいで、レイナさんがそんな事になってしまったなんて、
本当に悲しくて、悲しくて辛いです。
でも、本当に辛いのはレイナさん自身だと思うので、
私にできる事は、ただひたすら謝り続けることしかありません。


あんなことを書いておいて、こんなことを言うのはどうかと思われるかもしれませんが、
私はレイナさんの歌が大好きです。
歌だけじゃなく、顔も、スタイルも、服装も、性格も全部尊敬しています。

私もいつかレイナさんみたいに誰かを元気にできる人になりたいです。
だからレイナさんも、私が書いてしまった記事を気にしないでください。
早く元気になって以前のように復活されることを祈っています。

本当に、本当にごめんなさい。


蓮実

・・・

レイナはこちらの手紙に対してもひどく驚いた。

まず、昨年のゴシップ記事の謝罪の手紙だったことだ。
「ポンコツシンガー再起不能」と書かれたあのデタラメ記事は、
彼女によって書かれたものであったことが判明し、
そして、彼女自身がその謝罪の手紙を寄せてきたのだった。

この記事のレイナへの影響としては、
直接的なスランプの原因ではなかったにせよ、
落ち込んでいるレイナにトドメを刺す効果を発揮したものだった。
この記事が出てからというもの、レイナは確かに人間不信に陥ったし、
最後の努力を止めてしまって失意の底を彷徨うことになった。

ファンレターという形でこのような手紙が届くとは、
レイナ自身が全く予想していなかったことだったので、
この手紙を読んだ素直な感想として、気持ちが幾分和らいだ。
内容からはどこか奇妙な感覚が漂っていたが、
悪口を書いた後、素直に反省して非を認めたのであれば、
もうそれで十分だろうとレイナは思った。
ファンの気持ちを知る手がかりにはならなかったが、
この手紙はこの手紙で、レイナの心をいくらか軽くさせた。


・・・


手紙を読み終えたレイナの目の前には、開封された2通の手紙と、
謎の古代生物のぬいぐるみだけがテーブル上に置かれていた。
その古代生物の2体のつぶらな瞳が、なぜかレイナを見つめていた。

(この子達は一体何だったんだろう?)

「まぁいっか」

そう言って手紙を持って立ち上がった時、
レイナは蓮実の封筒の中に、もう一枚手紙が入っているのを見つけた。

もう一度座り直して手紙を取り出し、
レイナは目の前に広げて黙読を始めた。


・・・

レイナさんへ

初めまして。
私は児玉坂病院に勤めている看護師です。
現在、蓮実さんの担当看護師をしています。

誠にお節介ながら、勝手に蓮実さんのお手紙を読んでしまいました。
そして、本当にお節介ながら、このお手紙を添えることにしました。

蓮実さんは今、児玉坂病院に入院をしています。
身体的に問題があるわけではないのですが、
デタラメ記事がレイナさんの事を傷つけたと知った時から、
なぜか蓮実さんの声が出なくなってしまったのです。


蓮実さんはあんな方だから、ご自身では何もおっしゃらないのですが、
声を失った蓮実さんはとても傷ついています。
彼女は歌を歌うのが大好きで、以前は歌手を目指していました。
でも、その夢を諦めてとある雑誌社に就職しました。
そして、自分の意思とは裏腹に、あのような記事をかかされてしまったのです。


実は、蓮実さんは以前、レイナさんの専属記者をしていて、
レイナさんのデビュー時に「アメイジングなロックシンガー」と書いたのも彼女です。
彼女は本当にレイナさんのファンで、レイナさんを心から尊敬しています。


蓮実さん自身がお手紙を書いた事で、少しは彼女の精神的な罪悪感は減ると思いますが、
彼女にとって最もよい薬は、やっぱりレイナさんご自身が元気に復帰される事だと思います。


私からレイナさんにお伝えしたい事があります。

どうか、忘れないでください。
この世界は、見たところとても平和に思えますが、
本当に苦しんでいる人々は誰にも見えないところで生きています。
そして、1日1日と、その悲しみの音が心に鳴り響き、
しかし、誰にもその存在を知られないように、ただただ怯えているのです。

でも、例えば私がこの手紙を書いた事を、
蓮実さんにお伝えしたりするような事はご容赦ください。
繊細な方々を決して傷つける事なく、ただ静かに癒してあげてください。


この世界は空っぽです。
だから悲しい音がずっと反響を続けています。
私たちの心も空っぽです。
満たされているのは表面上だけの事です。
そして、まだ誰もその音が自分の中で鳴っている事も気付いていません。

私達のように医療に従事するものが癒せる事は限られています。
まだ誰も気がついていませんが、目に見える身体を治療したところで、
それは本当に上辺を撫でているだけで、全く根本的な治療にはなっていません。

おそらく遠い未来に、レイナさんのような方こそが、
本当の意味で最高の医者であった事に皆が気がつくのだと思います。
ひょっとすると、国家予算すらそこに割かれる日が来るかもしれません。
レイナさんのような人が増えれば、この国の医療費すら減少するかもしれません。

でもその日まで、きっと人間が人間として生きる痛みは消えないかもしれません。
いえ、正しく言うならば、きっと痛みは一生消えることはないのです。
ただそれを忘れられるかどうかです、忘却とは幸福なのです・・・。


少し話が脱線してしまいましたね。
ただ、私が言いたかった事は、
レイナさんのような方々には、皆様方が理解されている以上の力を秘めていて、
その力を使ってどうか蓮実さんのような方を癒してあげて欲しいのです。

こんな名もない、顔もわからないただの看護師からのお願いで恐縮ですが、
どうか蓮実さんをよろしくお願いします。

・・・


まともなファンはいないのか。

レイナは手紙を読み終えて、少し可笑しくなった。
ファンレターを参考にしようと思ったら、
2通とも普通のファンの方ではない手紙が入っているなんて。
ただ、レイナはこれらの手紙を読めて本当に良かったと思った。
本当に伝えたい事があるからこそ、これらの手紙は届いたのだ。


看護師の手紙から、蓮実の手紙だけを読むだけではわからなかった真実が伝わってきて、
物事は本当に一面を見るだけでは理解できない事を痛感した。
またレイナは、蓮実という女性は、きっとあまりにも素直で優しい人なのだろうと想像した。
声が出ないという辛い立場にありながら、自分が傷ついている事は全く語らず、
ただただ自分の犯した罪だけを懺悔し、傷付いたレイナの身だけを案じてくれた。
こんな彼女だからこそ、この看護師のような人に助けてもらえるのだろう。
二つの手紙はセットで初めて意味を持つ。
二人の支え合う関係性がなんとなく透けて見える気がした。

そして、物事とは決して表面的な見方にとらわれてはいけないとレイナは思った。
もっと深いところに真実は存在し、それを見つけるのが自分の仕事だとすら思った。


手紙の後半の医療費が云々の箇所は、医療業界で働いた人が、
その経験から得た一つの解釈かもしれなかったし、
ひょっとするとただの大げさな妄想かもしれなかった。
真実はわからないけれど、レイナは何か大きな手応えを得ていた。
それは歌の持つ偉大な力とでも言うべき何かであった。


レイナはこうして手紙を読み終えた後、
そのまま食事をする事も忘れて一気に新曲の歌詞を書き上げた。
彼女の直感が味方をしてくれたのだった。


歌詞を書き終えて満足し、手紙を片付けようと手に取った時、
あの看護師の手紙の裏にメッセージを見つけた。

(このぬいぐるみ達は、ちょっと遅いバレンタインプレゼント!)


レイナは古代生物のぬいぐるみ達を部屋の良く見える位置に置いて飾ることにした。
そして、ちょっと距離を置いてそのぬいぐるみ達を見つめて、

「私にとっての気持ち悪いは褒め言葉だからね」

とつぶやいて、心の中で謝罪した。


・・・春へ続く・・・