君の名前は希望

「おい、どっちがいい?」

 

僕の肩に肘で全体重をかけながら紺野が問いかける。

紺野が指しているのは僕の机の上に置かれている雑誌のとある1ページだ。

 

「俺は断然ながせまる派だね、すっげぇ守ってあげたくなるから、お前は?」

 

僕の机の上に腰をかけて雑誌を見ていた菊池はそう言った。

僕はその質問に対してずっと考えるようにして黙り込んでいた。

 

「いや、もちろん女神のまいにゃんでしょ!

 超絶可愛いじゃん、こんなのぜってぇこの学校にはいないよな」

 

僕が黙っていると紺野が僕の肩にさらに身体を乗り出しながら答えた。

椅子に座っている僕を忘れているかのように興奮して身体を預けてくる。

 

 

二人が話しをしているのは、雑誌に載っていた児玉坂46のダブルセンターについての話題だ。

児玉坂の街で今、大人気のアイドルである児玉坂46を知らないものはいない。

学校の休み時間は、たいていこうした児玉坂46メンバーの話題でもちきりになり、

男子の間では誰が一番の推しメンか、という話題で激しい論争が繰り広げられるのが常だ。

 

来月、新曲を発表することになっている児玉坂46は、

先週の「児玉坂ってどこ?」というTV番組の中で選抜メンバーが発表された。

そこで周知されたのが、新しくダブルセンターになった二人であり、

僕は昨日、早速本屋へ行って特集が組まれている雑誌を買ってきたのだ。

僕と紺野と菊池が眺めているのは、その雑誌の特集ページだった。

 

「そっか、お前まいにゃん派かー。

 だったら話しは早いな、俺このページもーらい!」

 

紺野はそう言って僕の机の上に載っている雑誌から、

おもむろに1ページをビリっと破いてしまった。

その1ページにはながせまるのインタビューが掲載されていた。

 

「いや、正直そっちも捨て難いけどなー。

 まあ俺は昔からまいにゃん単推しで愛を貫いてるから。

 ながせまるはお前にやるよ、しゃあねえ」

 

そう言いながら、菊池は残りの1ページをビリっと破る。

そちらにはまいにゃんのインタビューが載っていた。

自分の欲しかったページを破りとった雑誌を、菊池は雑に投げて僕の机に戻した。

雑誌が惰性でパラパラとめくれて、巻末のポスターが勢いよく広がった。

 

「しまった、忘れてた、ポスターは俺のもんだよな?」

 

菊池は先ほど投げた雑誌をもう一度大切そうに机から拾い上げた。

 

「おい!そりゃないぜ、ながせまるも載ってんだからよ、俺のだよ」

 

菊池が持つ雑誌を奪おうとして紺野は勢いよく手を伸ばした。

菊池は雑誌を胸で抱えるようにして身体をそらして紺野が伸ばした手をひょいと交わした。

二人が奪い合うようにしてじゃれあっている中、ポスターは雑誌から垂れていた。

そこにはダブルセンターの二人が背中あわせで立っている姿が見えた。

 

「おい、返せよ、全くなんでよりによって雑誌が一冊しかないんだよー!」

 

紺野はそう言うと、右手を振りかぶって思いっきり僕の後頭部をはたいた。

はたかれた勢いで、僕の頭はバシっと音を立てて前のめりになった。

 

「ポスターちゃんと見りゃ、二冊必要なことは明らかだよなー。

 一冊じゃ争いになることは誰が見てもすぐわかるぜ」

 

雑誌のポスターを眺めてから折りたたんだ後、分厚い雑誌を片手に持ち、

菊池はそれを思いっきり僕の頬に打ち付けた。

雑誌の衝撃音は、素手よりも乾いて高い音を立てる。

パシッと空気中へ抜けるような音と、激しい物理的な衝撃が僕の脳髄を揺らした。

 

「まあいいんじゃね?

 午後になればまた気の効いた透明人間さんがもう一冊買ってきてくれるよ」

 

紺野は相変わらず僕の方へ乱暴に全体重を乗せてくる。

だが、先ほどから視線は一度もこちらを見たことはない。

 

「というわけで、この雑誌は俺がもらった」

 

紺野は素早く手を伸ばして油断していた菊池から雑誌を奪いとった。

そして、その場から素早く逃げるようにして走り去った。

 

「ちょっと待てよ、ずるいんだよテメーそれ返せよ!」

 

そう言いながら菊池は紺野を追いかけて行った。

去り際に、わざとらしく僕の背中に豪快な蹴りを浴びせてから。

 

 

恒例の透明人間ごっこは終了した。

もちろん、透明人間とは僕のことだった。

こうして昼休みの間に、また本屋へ行って雑誌を調達しなければならなくなった。

だが、とにもかくにもそれを済ませれば透明人間ごっこは円満に終わる。

僕へ向けられる暴力も、とにかくその日はそれで終わるはずなのだ。

 

2限目が始まるベルが鳴り、とにかくそれは僕にとっての救いの合図だった。

まるでボクシングのように1ラウンドが終わった僕は、ボロボロになりながらコーナーへ戻る。

僕を励ましてくれるセコンドはいないが、僕は一人でも闘い続けなければならない。

親をセコンドに招いて心配をかけるわけにもいかないので、不登校という手段は取れなかった。

それは僕のささやかで愚かな最後のプライドだった。

 

 

 

・・・

 

紺野と菊池が最初に始めたこの透明人間ごっこは、

彼らに暇な時間ができればいつでも行われる。

そして、それを見ていた周囲の同級生たちも、

いつしか僕が透明人間であるということに慣れて行った。

 

おそらく、僕に同情してくれている生徒もいたのだろうけれど、

僕と同じ透明人間になることを恐れて決して近づいてはこない。

そして、僕を透明人間だと呼ぶことによって自分たちの身を守った。

僕はいつしか、学年全体から透明人間というあだ名で呼ばれることになっていった。

 

 

・・・

 

2限目の数学の授業が始まり、先生が教科書を開いて何やら話し出した。

そして、いつも通り誰もその授業をまともに聞くことはなかった。

 

学校には秩序がない。

いや、大人たちはきちんとルールを設けて管理しているつもりだ。

だが、実際にはルールなどあっても正しく機能することはない。

 

例えば、何か嫌なことがあれば先生に相談するように言われる。

だが、実際にそれを行ったことが周囲にバレれば、

僕は臆病者のレッテルを貼られることになるし、

紺野や菊池からのさらなる嫌がらせのターゲットになるだろう。

 

先生という存在が、学校全体の平和を守らなければいけないにも関わらず、

おそらく僕と同じようにいじめられていた人が教師になっている場合、

その教師が生徒の暴走を止めることはできるはずもない。

もしくは、ただ自分の安定した生活のために惰性で授業を行っている先生なら、

面倒に巻き込まれるのを恐れて、いじめ現場を見て見ぬふりを決め込むだろう。

また、熱血バカみたいな教師が「俺に相談しろ」的な情熱を見せても、

それを本当に実行すれば、いじめてくる相手にバカ正直に説得を試みたりして、

結局、僕はその教師が見ていないところで嫌がらせに遭うことになる。

 

そうじゃない。

僕が欲しているのは見えない制裁だ。

例えば匿名で教師達に報告する制度であり、

僕の名前や密告がばれないような状況下での制裁。

不正には鉄槌を、罪には罰を、ただそれだけのことなのだ。

 

 

でも学校には秩序がない。

 

それは僕らが大人になる未来への希望を剥ぎ取られる事を意味する。

こんな小さな校内の秩序も守れないのであれば、大人の社会にはもはや期待できるはずもない。

弱肉強食の社会には、真面目に頑張る人が報われるルールなど整備されてはいないのだ。

 

 

授業を全く聞かない生徒達は、それぞれ退屈そうに過ごしているか、

隣の席の友達と大胆にも大声で話をしている者もいた。

教師は注意する勇気もなく、ただ黙々と教科書を読み上げて黒板に向き合っていた。

 

 

僕は窓際の一番後ろの席で、外のグラウンドを見つめていた。

そこでは隣のクラスが体育の授業を行っていた。

男子はサッカーを、女子はドッジボールを、それぞれ楽しそうに取り組んでいた。

 

僕は女子のドッジボールを密かに眺めていた。

こうしているのがばれたら、また紺野や菊池に弄られるのが目に見えている。

でも僕にはこの時間だけが学校の唯一の楽しみだった。

それを止めることなどできないのだ。

 

僕はクラスメイトと楽しそうにはしゃぐ一人の女の子を見つめていた。

眩しく輝く太陽の下でキラキラと輝いている彼女は、

屈託のない笑顔を振りまきながら女友達と話をしている。

 

彼女は誰が見ても納得出来る、学年で一番綺麗なお嬢様だった。

廊下を通り過ぎれば、男子はみな必ず振り向いた。

話しかけるタイミングを探りながら、隣のクラスまで覗きにいく男子も多かった。

 

もちろん、僕にはそんな勇気はない。

だからこの窓から見える体育の授業で見かける彼女しか僕は知らない。

金曜日の二限目、それは僕の中で忘れることのできない時間だった。

 

世の中には美しいものがある。

そして、美しいものは素晴らしい。

これは誰もが思うことで、人間でも同じだ。

 

でも、僕は生まれてこのかた美人は大嫌いだった。

小学校や中学校を通じて、美人に対する僕のイメージができた。

それは、性格が悪いということだ。

生まれつきのルックスの良さにあぐらをかいていれば、

性格を磨かなくても周囲からはちやほやされ続ける。

幼い頃からの経験を通じて、僕のそういった悪いイメージは形成されていった。

 

だが、彼女は美人であったが本当の意味で美しい人だった。

内面から溢れ出る優しさや思いやりの心が光を放っていたのだ。

外見だけが綺麗でも、内面が伴っていなければ表現できない、

そういう本当の意味で美しい笑顔を彼女は持っていた。

 

 

 

・・・

 

僕が彼女を初めて意識したのは、

去年の6月、夏の制服に着替えた頃だった。

 

それはまだ僕が1年生だった頃の話しで、

高校に入学してからわずか2ヶ月後のことだった。

 

僕は1年生からすでに紺野と菊池と同じクラスになり、

入学から1ヶ月で、あの透明人間ごっこは始まったのだ。

 

そして、全学年合同の体育の授業が6月に開催された。

その日は厚い雲が重く立ち込める冴えない天候の中、

僕はグラウンドでドッチボールをしながらも、

紺野や菊池に透明人間ごっこをされながらいじめられていた。

見えないことになっている僕に、ボールを思いっきり当てて不思議そうにしているのだ。

内野にいても見えない設定になっている僕は彼らから逃げる事ができない。

僕は何度もボールをぶつけられて、やがて彼らが飽きるのを待つしかなかった。

 

やがて紺野や菊池も僕に飽きてしまい、僕はやっと外野になった。

それから僕は影をひそめるようにしてひっそりとやり過ごしていた。

騒いでまた見つかってしまっては、透明人間ごっこが再開されてしまう。

それはどうしても避けなければならなかったからだ。

 

そこへ、向こう側から丸いものが転がってきた。

別の場所で女子が行っていた球技のボールだった。

ボールは運悪く僕の足元でピタリと止まり、

向こう側でそれに気づいた女子達が僕を見てケラケラと笑っているのがわかった。

このボールを拾って投げ返したら、僕はまた彼女達に透明人間ごっこをされてしまうのだ。

 

だから僕はそのボールを無視していた。

少しずつ気づかないふりをしてボールから距離を取っていく。

僕がそばにいると女子達もきっとボールを拾いに来られないだろうから、

そうすることで僕も傷つかず、彼女達もボールを自分たちで拾いに来られるからだ。

 

僕はその時、初めて彼女を見たのだった。

遠く彼女の後ろでケラケラと笑う女子達を尻目に、

彼女はじっとこちらを見つめていた。

綺麗に透き通った瞳で、ただ不思議そうに僕がボールから距離をとるのを見ていた。

 

そして、クスクスと微笑みながら、僕の足元に転がっているボールを指さしていた。

僕は戸惑いながら、優しそうにボールを指差す彼女を見つめていた。

少しの間、僕は躊躇したが彼女がずっと待っていて動かないため、

やがて勇気を出してそのボールを拾って彼女に向かって投げ返した。

 

ボールは頼りなくツーバウンドして、彼女の胸の前の両手に収まった。

そうしたら、彼女はただにっこり笑ってお辞儀をして、また振り返って走っていった。

 

僕はしばらく呆然として走り去る彼女の後ろ姿を眺めていた。

誰にも見えないはずの僕の姿が、彼女には見えていたのだろうか?

 

それは本当にたったそれだけのことだった。

だけど、それだけのことを僕はこの先ずっと忘れることはなかった。

 

 

彼女の後ろ姿を見送った後、空の雲が流れていくのに気がついた。

さっきまで重たく張り詰めていたどんよりした雲が、

わずかに隙間を開けて、そこから覗く太陽の日差しがグラウンドに射し込んで来た。

 

僕は今まで特に注意を向けたことがなかったけれど、

僕の足元に影ができていたことに意識を奪われた。

太陽の光は僕の存在を無視することなく、ちゃんと影を残してくれたのだ。

 

 

 

・・・

 

その後、僕達は二年生になった。

不幸にも僕と紺野と菊池はまた同じクラスになったが、

僕と彼女が同じクラスになることはなかった。

いつまで経ってもあの日以上の接点は生まれず、

彼女が僕のことを本当に知ってくれているのかどうかも怪しかった。

 

 

でも、それでもよかった。

週一回、窓際の席から彼女の姿が一目見れるだけで、

僕にとっては紺野と菊池の透明人間ごっこにも耐えられるようになった。

彼らにとって僕が見えていなくても、彼女には僕が見えている。

その事実が何より嬉しかったし、もう他には何も要らないと思った。

他の人に僕が見えていなくたって、彼女にだけ認めてもらえればそれでよかった。

 

 

・・・

 

 

昼休みになり、同級生達が友達同士でお弁当を食べ始めた頃、

僕はそっと学校を抜け出した。

紺野や菊池に言われた通りに雑誌を買ってこなければならなかったからだ。

 

停めてあった自転車に乗って僕は本屋へ向かった。

本屋にたどり着くまでに2回ほどチェーンが外れて、なんとか自分で直した。

僕の自転車にはたくさんの落書きがあり、蹴られたせいか凹んでいる箇所も多い。

家族には見せられないから、自転車は家まで乗って帰ってはいない。

近くの空き地にひっそりと止めて、朝もまたそこから学校へ向かっていた。

 

初めの頃、学校帰りにこの自転車を見つけた時は一人で泣いた。

母子家庭で育った僕が、入学祝いで母親に買ってもらった大切な自転車だったからだ。

僕は何度も断ったけれど、母は僕の遠慮を押し切って新品の自転車を買ってくれた。

でも、僕は僕の不甲斐なさから、そんな大切な宝物すら守れなかった。

家で発見されたらきっと母が悲しむだろうと思い、どこか近所に停める空き地を探しながらも、

そんな自分が悲しくてまた泣いた、自転車は無くしたと嘘をついた。

 

今ではそんな自転車にも慣れてしまっていた。

人は期待をするからその分だけ失望する。

最初から綺麗な自転車に乗ろうなんて思わなければ、

誰が僕の自転車をボロだと言おうが気にもならなくなった。

周囲と自分の間に壁を設け、孤独と友達になることで、

僕はオンボロ自転車に乗ることを恥ずかしいとも思わなくなっていった。

 

 

やがて本屋にたどり着き、自転車を停めて中に入った。

週刊誌コーナーを探し、児玉坂46が載っている雑誌がまだ残っているのを見つけた。

僕はあの二人に言われているから定期的にこんな雑誌を買っていたけれど、

自分自身では興味がなくて全く中身を見たことなどなかった。

 

(・・・そんなに面白いのかな・・・)

 

そんな事が頭をよぎり、僕はパラパラとページをめくった。

やがて今朝あの二人が破ったのと同じ特集ページにたどり着いた。

 

児玉坂46は別に46人いるわけではない。

30数人で構成されているグループであり、

この頃では巷で国民的なアイドルグループとして有名になった。

数年前までは無名なところから健気に努力を続け、

まさかこんなに有名になるなんて彼女達も思いもしなかっただろう。

 

僕は次のページに載っていたメンバー紹介のコーナーを見た。

それぞれメンバーの特徴などが解説されていて、

握手会の売り上げ人気なども特集が組まれていた。

 

児玉坂46のファンは推しメンを選ぶ事で有名だ。

メンバーの中で特に気になる女の子を推しメンとして決めて、

その子を応援し続けるという事でファンとしての活動を楽しむのだ。

 

そう考えてみて、ざっと頭の中で計算を巡らせた。

もし仮に30人のメンバーだとして、ライブに3万人集まったとしても、

均等に割り算をしたなら、会場の中に一人あたり1000人のファンがいることになる。

いったいこの子達はどれだけ多くの人達に影響を与えているんだろう。

一人の人間に影響を与える事だけでもすごいことなのに、

その多くのファンの人達の人生に、いったい何を残していくのだろうか。

 

そんな事を考えていて、僕はめまいがしてきた。

少なくとも僕は、誰の人生にも影響を与えてはいない。

僕は孤独だけが友達だから、自己完結して生きて行くだけだ。

 

僕は雑誌を閉じてカウンターへ持って行ってお金を払った。

買った雑誌をカバンに入れて、僕はまたオンボロ自転車で学校へ向かった。

 

学校への帰り道で自転車をこぎながら僕は考えていた。

みんな好きなメンバーは様々で、そこにはファンの人数だけ人生のドラマがある。

だけど今の僕にとっては隣のクラスの彼女だけが推しメンであり、

今、話したい誰かがいるとすれば彼女だけだ。

 

 

教室に戻ってきたとき、ちょうどお昼休みが終わる頃であり、

僕はとりあえず自分の席に座って次の授業を受けた。

授業が終わったあと、紺野と菊池が近くにいた時、

僕は透明人間として雑誌を机の上にそっと置いたが、

彼らはもう雑誌の事など忘れていたかのように見向きもしなかった。

おそらく、もう飽きてしまったのだとわかった僕は、

彼らを何も刺激しないように、その雑誌をそっと自分の机の中に閉まった。

 

 

・・・

 

 

彼女が文化祭で舞台に立つことを知ったのは偶然だった。

それは幸運にも僕が文化祭委員に選ばれたからだ。

 

放課後のクラス会で、学級委員長が司会をしながら、

文化祭委員を選出する必要があることを告げると、

それは5分もかからずに決定された。

もちろん、僕が手を挙げたわけではない。

紺野と菊池が口々に「透明人間がやってくれる」と言い出し、

クラスのみんなもそれに何も異論を述べなかったからだ。

学級委員長が戸惑いながら司会をしていると、

紺野はそんなときだけ席から立ち上がって、

黒板にさっさと僕の名前を書き付けてしまった。

もちろん、僕の名前は「透明人間」と書かれただけだ。

 

担任教師はもっと真面目に決めなさいと形だけ怒って見せたが、

誰も立候補することもなく、結局は僕に意思確認をしてきたのだ。

「なってもいいの?」と聞かれて、その場の僕に拒否権があると思ったのだろうか?

僕は声も発せずにただうなずくしか選択肢はなかった。

 

 

放課後、文化祭委員だけが集まる会が開かれることになり、

僕はクラスを代表して参加することになった。

そこでは文化祭の演目がすべて取りまとめられていて、

彼女のクラスの出し物が何であるかまでわかった。

ただでさえ学年のアイドル的存在である彼女だから、

僕は何も積極的にならなくても、耳をすませていれば彼女の情報は勝手に集まってきた。

彼女のクラスは今流行っている児玉坂46の楽曲を披露するらしい。

 

 

ちなみに、僕のクラスは誰も積極的に出し物を提案しないので、

担任教師の案で美術系の出し物をすることになった。

演劇やダンスなどはクラスの全員で練習をしなければならないが、

絵や工作のような作品であれば、クラスで一つ提示すればよいわけで、

それに何人が実際に関わったのかはあやふやでよかった。

まるでクラス全員で取り組んだかのように周囲から見えれば、担任教師のメンツも保たれる。

だが結局、そういうやり方にすれば誰も積極的に取り組まないわけで、

誰もやりたがらない仕事を押し付けられる人が出てくることになる。

それは言わずもがな僕のことだった。

 

 

それからというもの、僕は毎日放課後に一人で残ることになった。

校舎内の空き教室を使って、みんなに指示を出して制作を続けなさいと、

担任教師はそれだけ言って後はもう無関心になっていった。

まさか僕がクラスのみんなに働きかける影響力を持っているとでも思っていたのだろうか。

結局僕は、みんなが帰った放課後の時間を使って一人で空き教室へ行くことになった。

 

 

古びた校舎の空き教室は寂れていて静かだった。

僕は並んでいる机と椅子を端っこへ寄せて空間を作った。

そこへ大きな青いビニールシートを広げて上から真っ白な布を敷いた。

鉛筆や絵の具などを傍らにおいて、準備だけは整えた。

 

布はとてつもなく大きかった。

担任教師は、文化祭の日に飾れるような大きい旗をイメージし、

縦1.7m×横2.4mもの長さのある布を用意していたのだ。

みんなで分担して取り組めば、おそらく一人あたり小さな画用紙程度の担当範囲で済むはずだった。

しかし、一人で布の前に座り込んだ僕は、これではまるで人生をかけた傑作に挑む芸術家のように思えたのだった。

茫漠と広がる白さを目の前に、僕はいったい何を描いてよいかわからず、

結局初日は布の前でうんうん唸っただけで帰宅することになった。

 

 

僕にとってまたしても幸運だったのは、文化祭の準備に挑む生徒達の下校時間がほぼ重なることだった。

くたびれた姿勢で自転車置き場まで向かった僕は、そこで彼女の姿を見かけることになったのだ。

 

初めて至近距離で彼女を見た時、僕は緊張して息がつまりそうになった。

僕が停めている自転車から5mくらいの距離で友達と楽しそうに話している彼女は、

おそらく僕の事を意識しているわけもなく、こちらに気づいているはずもなかったが、

僕はいつも何気なくまたがっていた自転車に乗ることすら何だかぎこちなくなった。

 

自転車をこぎ出して校門へ向かった僕は、後ろでおそらくまだ話し続けている彼女を強く意識した。

でも振り返るタイミングがわからず、もう彼女を一目見る機会がないと悟った僕は、

ただ人生で初めてあんなに背中に全意識を集中して彼女を感じていた。

背中を通じて離れていく彼女との距離を測り、流れる風と空気のわずかな振動によって、

僕は彼女が今何を話しているのか、その内容を背中で感じ取りたいとさえ思った。

 

校門を出た後、僕は偶然を装って振り返ってみたけれど、

もうその時には彼女の姿はそこには見当たらなかった。

 

 

 

・・・

 

何日も過ごしている間にわかってきたことがあった。

文化祭の出し物の為に何を描くかではなく、

彼女が何時頃にいつも下校するのかということだ。

 

僕が居残りを終えて教室を出る時、大抵の場合は彼女も下校する時間だった。

何日か続けていてそれがわかってきた時、僕は自転車を停める位置を変えた。

 

僕は彼女をわざと遠くから眺めることに決めたのだ。

以前のように予想もしていない至近距離でバッタリ会ってしまえば、

あまりに緊張しすぎて心臓の鼓動が恐ろしいほど速くなる。

また、あんなに近くで出会ってしまっては逆に意識しすぎて彼女を見ていられない。

だから適度な距離を得ることができるように、登校時に自転車を停める位置を検討したのだ。

 

そして停車位置は校門からかなり離れた場所になった。

今まではすぐに帰れるように校門の近くに停めるようにしていたが、

新しい停車場所では自転車に乗って校門を出るまでに随分と距離がある。

その道沿いには自転車置き場が延々と続いており、

そして必ずどこかに彼女も自転車を停めているのだ。

だから僕が帰る時、自転車置き場に到着すれば、下校時に自然と彼女を見つけられることになった。

 

もちろん、何を話しかけるわけでもない。

ただ遠くから眺めていて、少しだけ横を通過するだけだ。

でもそれだけで十分だった。

今までは週一回の体育の授業で運良く見つけるだけだったし、

雨でも降ろうものなら、体育の授業場所は体育館に変更になる。

そんな時は週一回の楽しみすら奪われることがあった。

それに比べて、文化祭の準備活動はほぼ毎日ある。

彼女と会える可能性が一気に何倍にもなったのだから。

 

 

こうして放課後に彼女の横を通り過ぎることが日課になると、

やがて僕は自分が奇妙なリハビリ運動を続けているような心境であることに気がついた。

今までは特に誰が近くにいても、どうせ彼らには僕の姿は見えていないと思っていた。

だから何をどうするでもなく、自分を気にすることもなかったし、

僕が見えないふりをされても、もしくはクスクスと笑われることがあっても、

ただ淡々と僕は僕として生きていくだけだった。

自分が誰かの世界からいなくなった事で、より好都合だと思うようにもなっていた。

誰に気を使うこともなく、容姿を気にする必要もなかった。

はじめは寂しいと思っていた気持ちも、やがては無感覚になっていた。

 

だが、彼女の横をすり抜ける時だけは違った。

彼女からは僕が見えている、その事実を強く意識することになったのだ。

誰かに見られているという意識は、自分を気にし始めるきっかけになり、

僕は久しぶりに鏡を見るようになったし、朝は寝癖を気にするようにもなった。

 

彼女の近くを通り過ぎる時、その顔をわずかな間眺める時、

僕は彼女の表情から全てを読み取ろうと努めた。

 

文化祭の出し物の練習は順調だろうか?

友達との関係はうまくいっているか?

今日は何か良い事でもあったのだろうか?

 

そんな小さな事を、その一瞬の表情から読み取ろうと思っていた。

そんな大きな事を、そのわずかな下校時刻に企んでいたのだ。

 

 

・・・

 

 

そうして僕の毎日は輝き始めたのだった。

放課後から下校までの間が、僕にとって最も幸福な時間だった。

 

もちろん、空き教室で一人で進めている美術作品の制作も含めての事だ。

ある日、担任教師に何か言われたであろう学級委員長の女の子が、

文化祭の作品の進行具合を確認しにやってきたことがあった。

その当時、僕はまだ何も書き始めておらず、

様々な案を自分なりにスケッチブックに描いているだけだった。

 

ちなみに、僕の美術の成績は下から数えたほうが速く、

元々一人で何かをデザインする能力などはなかった。

スケッチブックに描かれていた物を見た学級委員長は、

どれもこれも作品としてふさわしくない事を見て取った。

 

担任教師から任せられた以上、このままではまずいと思ったのか、

彼女が提案してきたのは児玉坂46のロゴマークを描き上げることだった。

クラスでも大変な人気だった児玉坂46のロゴマークを大きな布に描きあげれば、

まるでクラスの総意によってその作品が創られたようにも見えるだろう。

また、他の学年やクラスから見ても、児玉坂46のロゴマークを描いて嫌がられる事はない。

むしろ、これだけ大きな布に描けば、まるで旗のように飾ったとしても立派に見える。

 

僕は結局この案を最良だと思い採用する事に決めた。

彼女は描き上げる対象が決定したことで、自分の責務を果たせたと思ったのか、

嬉しそうにすぐ担任教師に報告しに帰って行った。

僕は彼女はそんなに悪い人ではないと思ったが、積極的に僕を手伝うことはないだろうと思った。

だってもしそんなことをしたのなら、彼女も僕のように透明人間の仲間入りを果たすことになるからだ。

ましてや、僕と放課後に二人っきりの状態になることは避けたかったに違いない。

仲が良いなどという変な噂を立てられたくもなかっただろう。

彼女にとって僕は決して透明人間ではなかったが、

見えていても触れることは決してできない忌み嫌われた存在だったにちがいない。

 

 

誰もいなくなった空き教室で、僕はいつか買ったあの雑誌を手元に置いていた。

児玉坂46の特集ページに載っていたロゴマークをスケッチブックに描き写しながら、

そのイメージを大きな白い布の上に重ねていった。

一からデザインなどできない僕でも、すでに形あるものであれば真似して書くことはできた。

 

それからというもの、毎日放課後が来るのが楽しみになった。

お昼は相変わらずの透明人間だったが、放課後は一人で黙々とロゴマークを描くことに集中できた。

そして、その作業が終わった後は下校前の彼女を見つけては横を通り過ぎて帰る。

それだけの日課が僕の全てになった、幸福な全てだった。

 

 

 

・・・

 

彼女と出会った事で心境の変化は他にもあった。

それは、僕が透明人間である昼間に、絶対に彼女に会いたくないという気持ちだった。

 

紺野や菊池が僕の頭を叩いたり蹴ったりするとき、

僕は彼女が偶然にも僕のそばを通り掛からない事を願った。

他の人からは見えなくても、彼女からは僕が見えてしまうからだ。

クラスでは空気のような存在である僕も、彼女にはその無様な姿が見えてしまう。

放課後や下校時が楽しみになる一方で、昼間の耐え難い苦痛は増していった。

そこまで願うのであれば、僕は紺野や菊池に立ち向かえばよかったのかもしれないが、

そんな勇気があるのなら、とっくの昔に彼らに歯向かっているだろうし、

そもそも僕が透明人間になることはなかっただろう。

 

だから僕が祈っていたことは、早く来年になってしまって、

紺野や菊池と違うクラスになることだけだった。

そして、もし運良く彼女と同じクラスになれるなら更に良かった。

今の僕にとっては、そんな淡い未来だけが唯一の希望だった。

 

 

・・・

 

 

児玉坂46のロゴマークを描いた旗は順調に完成に近づいていった。

ある日、下書きに沿って絵の具で着色をしているとき、担任教師が僕を訪ねて空き教室までやってきた。

 

彼女が僕に対して告げたことは、よくやっている僕を褒めるよりも先に、

どうしてみんなと一緒にやらないのかという問題だった。

文化祭の出し物を一人で仕上げても意味はない、

自分が文化祭委員なのだから、進んでみんなを巻き込みながら進めないといけない、

誰もやりたがらないからと言って自分だけで仕上げようというのは間違いだという説教だった。

 

僕は悔しい思いを噛み締めて黙って相槌を打っていた。

教師が本当に何もわかっていないのか知らないが、

僕が感じている苦悩など気にかけてくれない事だけは理解できた。

僕が欲していたのは綺麗事の正論などではなく、

しかも僕に対してではなく、クラスの彼らに対する叱責だった。

どうして真面目にやっている自分が叱られなければならないのか。

 

僕の態度があまりにふてくされているように見えたのかもしれない。

担任教師は後で差し入れとしてジュースとお菓子を持ってきたが、

僕は結局その差し入れには指一本触れる事はなかった。

 

案の定、だからと言って担任教師が他の生徒たちを注意することはなかったので、

放課後の空き教室に彼らが手伝いに来るようなことはなかった。

もちろん、今更手伝いに来られてもお断りしたいくらいだった。

僕が描き上げていた児玉坂46のロゴマークが入った旗は、

もうまもなく完成する予定だったからだ。

 

 

「わぁ、すごいじゃん」

 

僕の後ろの教室の戸がガラガラと音を立てて開き、

学級委員長が部屋に入ってきた。

担任教師が差し入れしたジュースを飲んでいるかどうか、

確認するために彼女を送りこんだのかもしれないと僕は考えた。

 

「もうすぐ完成?」

 

そう尋ねられて、僕は彼女の方を向き直さずにただ首をこくりとやった。

無愛想に思われた僕はどうせ嫌われるのだろう。

それでよかった、早くこの場から彼女に去って欲しかったから。

 

予想に反して彼女は立ち去らず、僕が仕上げにかかっていた旗の周りをぐるりと回り始めた。

そして様々な角度から眺めることで作品の出来を確かめているようだった。

 

「よく一人でここまで描けたね」

 

僕の向かい側に立った彼女はそう言った。

褒めているつもりなのか皮肉を言っているのかわからず、

僕はただ黙々と絵筆を動かし続けていた。

 

「まだ帰らないの?」

 

しつこく僕に話しかけてくる彼女を不思議に思いながら、

もう関与して欲しくない僕は冷たく突き放すことを選んだ。

 

「関係ないだろ」

 

エンブレム型のロゴマークに紫色を塗りながら、

その三角形を着色して埋めれば完成するところまで来ていた。

作品に没頭している僕の邪魔をしてほしくはなかった。

 

僕の冷たい言葉の効き目があったのか、

彼女は何も言わずに教室を出て行った。

ドタンという教室の扉が閉まった音がして、

また僕の周囲は静かになった。

 

その集中力のままで描き上げた旗はついに完成した。

絵筆を置き、完成した旗を少し離れて出来をチェックしてみた。

我ながら驚くほどに完成度は高いと思った。

生まれて初めてこの短期間に作ったにしては上出来だった。

 

やり遂げた達成感と、終わってしまった寂しさを抱えながら、

僕は教室を後にして下校することにした。

ちょうど時刻は彼女と遭遇することができる時間帯だったからだ。

 

今までにない充実感で満たされながら、

僕は教室の鍵を職員室に返し、自転車置き場へと向かった。

自転車を停めてある場所に辿りつき、いつもどおり鍵をつけて動かしながら、

今日は彼女がどの辺りにいるのかを確認し始めた。

2、3箇所ほどめぼしい場所があり、その辺りを重点的に探した。

 

しかし、彼女は見つからなかった。

 

旗を仕上げた達成感があったからか、反動で僕の失望感は大きかった。

いつもどおりの時間に来て彼女が見当たらないことは今までなかった。

今日は演目の練習を休んだのだろうか、友達とケンカでもしたのだろうか、

何か家庭の事情で早退でもしなければならなかったのだろうか、

余計な考えが脳裏を次々とよぎりながら不安をかきたてた。

 

僕はいてもたってもいられず、もう一度めぼしい場所を探してみた。

普段とは少し外れた場所や、練習している可能性のある校舎の入り口など、

いつもならそこまで探さない場所までくまなく探してみた。

 

それでも彼女は見つからなかった。

さすがに何か事情があったのだろうと納得して諦めかけたその時。

 

「ねえ」

 

僕は突然後ろから声をかけられてドキッとして振り向いた。

そこに立っていたのは学級委員長だった。

 

「もうやめなよ、みっともないよ」

 

担任教師が差し入れしてくれたジュースとお菓子を抱えながら、彼女は僕を見てそう言った。

やはり彼女は僕のことを監視していて、差し入れに手をつけるかどうかを気にしていたのだ。

 

「彼女、今日はいないよ。

 昼休みのとき、男の人と一緒に早退してるのを私見たから」

 

その言葉に込められた意味がたくさんありすぎて、

僕はとにかく色々とめまいを覚えた。

ただ真っ先に感じたのは、彼女を盗み見していた罪の意識と、

それがもたらすであろう、この僕の幸福な日々の終わりだった。

 

「あの子、多分彼氏いるよ。

 私も別にあの子と仲良いわけじゃないけど、

 何人か仲良くしてる男子がいるのは知ってるから。

 それに・・・」

 

学級委員長は少しためらいながらも、

その最後に言いかけた言葉を続けて口にした。

 

「あなたが付き合えるわけないじゃない」

 

想像の斜め上を行く答えを浴びせられた気がした。

それは、僕が今まで彼女と付き合う自分などは想像したことがなかったからだ。

自分が釣り合うわけもないことは自覚していたし、

彼女と僕の間の距離が埋まることがないこともわかっていた。

だからその言葉はとても的外れなものだったけれど、

それでも何かしらの現実を突きつけられたような気がした。

僕が願っていたのは、この幸福な日々がただ続いていく事だけだったのだけれど、

それすらいつか終わりが来ることを暗に告げられたような気がしたからだ。

 

 

 

・・・

 

学級委員の女の子に残酷な言葉を浴びせられた後、

僕は無言で自転車に乗ってその場を去った。

何か返事をする気もなかったし、そんな言葉も浮かばなかった。

 

いつも通り自転車は家の近所に停めて、僕は帰宅した。

自分の部屋で制服を脱いで楽な服装に着替え、

机に向かって座りながら鞄からあの雑誌を取り出した。

なんども見ながら記憶に焼きつけたロゴマークを眺めて、

それでやっと涙が出てくるのがわかった。

 

学級委員長から浴びせられた言葉を思い出す。

あの子は多分彼氏がいる、あなたが付き合えるわけない。

 

付き合えるかどうかまでは考えたことがなかったけれど、

彼氏がいるかどうかについても想像したことはなかった。

今こうしている間にも、誰か自分以外の男と会っているのだろうか。

そんなことを考えると、キュッと胸が痛くなるのがわかった。

 

そしてまたあのロゴマークを見つめた。

僕には彼女の写真がない。

だから、僕が彼女を想うとき、

それはこのロゴマークを見つめるしか方法がなかったのだ。

児玉坂46と彼女には直接の関わりはなかったけれど、

彼女が文化祭で児玉坂46の楽曲を披露する、

その事実だけが僕と彼女を繋いでいたし、

あの大きな布に描いたエンブレムだけが、

僕が表現できる唯一の彼女への気持ちだった。

 

 

僕は恋をしていたのだ。

 

 

今まで何も自分のことなんてわかっていなかった。

ただこの幸せな日々が続いてくれさえすれば良いと思っていた。

それは淡い憧憬であり、ただ映画を見ているようなものだった。

 

胸を締め付けられる痛みを感じたとき、

彼女がいなくなった世界を初めて想像した。

そして空っぽになった世界は全ての意味を剥ぎ取られたのだ。

彼女のそばにいられるという居心地の良さを知ってしまった以上、

二度と孤独には戻る事もできず、一人ではもう生きられなかった。

 

 

その日の夜は人生で一番長かったように思えた。

明日を待つ時間がこんなに長かった事はいままでなかった。

心は締め付けられる痛みでボロボロになりながらも、

彼女に会いたい、ただ彼女に会いたいと僕は願っていたのだった。

 

 

 

・・・

 

翌日、クラス会で学級委員長によって、

僕が製作した児玉坂46のロゴマークが入った旗がお披露目された。

 

昨日の段階ですでに完成していた事を知っていた彼女は、

もう間もなくに迫った文化祭の作品が完成した事を報告したのだ。

彼女の発言によって、僕は空き教室まで作品を取りに行く事になり、

完成した作品を黒板の前に掲げたとき、クラスからは「おおっ」っという声が上がった。

 

そこには本物そっくりに描かれた児玉坂46のエンブレムがあった。

盾のように形取られた模様と、その真ん中には46という数字が入っていた。

また盾の中には右斜めを頂点とした三角形が紫色に描かれている。

 

紺野も菊池も予想外の出来に驚いている様子だった。

適当に押し付けた仕事を、透明人間が予想以上の出来で仕上げてきたからだ。

彼らも児玉坂46については大ファンだった為、どこにもケチのつけようがなかった。

 

とは言え、誰も僕をとりたてて褒める事はなかった。

僕に関わるとろくな目に合わない事は誰もがわかっていたので、

作品には感嘆しながらも、僕の名前を出したりする事は決してなかったのだ。

 

 

クラス会が終わった後、僕はロゴマークが入った旗を空き教室に戻した。

しかし僕にとって予想外だったのは、その旗が学校中の注目を集めるようになった事だ。

 

ある日、休み時間に空き教室の前に人だかりができているのを見つけた。

僕のクラスの生徒達が、自分たちの作品があまりにもすごいという事を噂し始め、

結局は他の学年やクラスの生徒にも話題になったのだった。

僕は空き教室の外からも旗が見えるようにいつも置いていたので、

鍵が閉まっている教室の外から、通りかかった生徒達が旗を覗くのが流行ったのだ。

 

 

僕にとって意外だった幸運は、彼女もまた僕の旗を覗いてくれていたことだった。

児玉坂46の楽曲を一緒に披露する友人達と、話題になっていた旗を覗きに来ていたのだろう。

もちろん、覗いている彼女も他の生徒達も、まさか僕一人で描いたという事は知らなかったに違いない。

でも、僕にとっては彼女が一目でも僕が描いた旗を見てくれた事が何よりも嬉しかった。

 

こういう結果に辿りついたとき、僕は初めてなぜ自分があのロゴマークを描いたのかわかった気がした。

もちろん、当初は全くこんな結果を予想はしていなかったけれど、

彼女が児玉坂46の楽曲を披露する以上、僕が同じように児玉坂46の旗を描く事によって、

お互いに共通点を持つことで距離が縮まる可能性は十分にあったと言えるだろう。

ただ、没頭して描いていた当時、僕はただあのロゴマークを描く事だけが、

僕にとって幸福な事だったとしか考えてはいなかった。

彼女との接点である児玉坂46しか、僕が彼女に近づく手段などなかったのだから。

 

 

だが、僕のそんな喜びを全てひっくり返すような出来事が起きた。

 

それは文化祭を翌日に控えた金曜日の事だった。

文化祭委員が集まる会で、文化祭当日の最終打ち合わせをした時だった。

 

打ち合わせが終われば、後は翌日に向けて準備をして終わりである。

だが、その打ち合わせ中に、彼女と同じクラスの文化祭委員の会話が耳に飛び込んできた。

 

 

文化祭を最後に、彼女は転校してしまう。

 

 

僕はそれを聞いた時に自分の耳を疑ったけれど、

話をしていた人達に真実を問いただす勇気もなかった。

具体的な転校理由も何もわからなかった。

 

とにかくわかった事は、文化祭が彼女にとっての最後のステージになるという事。

僕にとって幸福だった日々は、もうすぐ終わりを告げてしまうという事だった。

 

打ち合わせが終わった後、僕一人だけ席を立つ事ができなかった。

ただ僕に対してずっと閉口して何も答えをくれない沈黙の金曜日に、

僕はやり場のない悲しみを抱えて一人うつむく他はなかったのだ。

 

 

 

・・・

 

金曜日の授業は全て終わり、全生徒が文化祭の準備に取り掛かっていた。

僕らのクラスも同じようにして準備を行っていた。

 

完成した児玉坂46のロゴマークが入った旗は、

目に付きやすいように体育館の中の高いところへ飾られる事になった。

舞台では演劇やダンスを披露するクラスがリハーサルを行っていて、

児玉坂46の楽曲を披露する彼女達もまた、そこで最後の調整を行っていた。

 

担任教師は旗を飾る場所を指揮しながら、クラスの何人かが体育館の二階へ上がり、

そこから旗を吊るしながら飾る位置を確認していった。

多くの同級生達は下から吊るされている旗を見上げながら、

他のクラスよりも立派な出来であるこの旗に満足げな様子だった。

 

旗を飾る位置が決まり、そこに固定した後、

担当教師がお疲れ様とねぎらいながら拍手をした。

それを見て、同級生達も満足げにみんなで拍手をした。

何も知らない人達がその光景だけを見ていれば、

まるであたかもクラス全員で取り組んだ作品のように見えただろう。

 

僕はもう、その作品の手柄を独り占めしたいなどという気持ちはなかった。

ただ、ステージで仲間達とダンスの振りを最終確認している彼女が、

少しでもこの旗を見てくれていれば嬉しかったし、

この旗によって少しでも勇気付けられてくれていればそれでよかった。

 

僕は黙って旗を眺めながら、この不思議な気持ちについて考えていた。

 

僕は彼女に恋をしているのかもしれない。

でも、付き合うなどということが叶う事のない願いだという事は十分にわかっているし、

こんな幸福な日々もいつか終わりが来る事もきちんと理解している。

もしかしたら彼女にはすでに彼氏がいるのかもしれないし、

本当は僕の事など彼女の頭の片隅にも残っていないのかもしれない。

 

もちろん、何か奇跡が起こって僕が彼女と付き合えるなんてことになったら、

それはこれ以上ない幸せだという事は間違いないのだが、

そういうあわよくばというような気持ちがこの旗を生み出したわけではなかった。

それは気付いたら片思いをしていたという、この美しい気持ちに付随した、

もっともっと純粋な水晶のように透き通った一筋の希望のようなものだった。

 

孤独に包まれて生きていた僕の存在を肯定してくれた彼女に、

僕が拒否していたこの世界の美しさを教えてくれた彼女に、

例え一時的にだとしても愛のそばでしあわせを感じさせてくれた彼女に、

もし彼女が僕の存在をやがて忘れてしまうのだとしても、

どうにかして伝えなければならない感謝の気持ちだった。

 

 

 

・・・

 

旗を飾り終えた生徒達は、準備を終えたという事で解散していった。

これであとは明日の文化祭を待つばかりだった。

 

僕はずっとその場に立ち尽くしたままで旗を眺めていた。

それは旗を作り終えた満足感などではなく、

むしろ彼女に伝える最後の機会になるかもしれない文化祭を前に、

一足先に燃え尽きてしまったような喪失感だったかもしれない。

 

やがて偶然にも、彼女達のリハーサルが舞台の方で始まった。

僕は旗を見るのをやめて、そちらに視線を向けて彼女をまっすぐに見つめた。

彼女のリハーサルを見るためにこの場所で待っていたわけではなかったが、

周囲からすればそんな風に見えていたかもしれない。

 

リハーサルで流れていた曲は児玉坂46の「邪気イズム」だった。

彼女はグループのセンターとして華麗に踊っていた。

 

 

 ねえ シャキッとしてちょうだい

 私をホントに好きならば

 虜にするその瞳で

 夢を語ってみて

 ねえ シャキッとしてちょうだい

 誰かに奪われないように

 ハートを掴んだまま

 私を見てて

 

 

難しいダンスを一生懸命に踊っている彼女を見て、

僕は感動を覚えずにはいられなかった。

下校途中に見かけた彼女から何度も想像した光景が目の前にあった。

文化祭が近づくにつれ、自信に満ちていったり、時には落ち込んだり、

そういう感情の変化を、僕はただすれ違う一瞬の表情から読み取るしかなかったからだ。

 

僕はそのリハーサルをずっと見ていたいとも思ったけれど、

「邪気イズム」のパフォーマンスを見ているうちに目が覚めた気がした。

彼女を応援できるのは、間違いなく今だけなのだ。

まだ燃え尽きている場合ではなかった。

明日はもっと全力で彼女のパフォーマンスを応援しなければならない。

 

「まだここにいたの」

 

後ろから声をかけてきたのは学級委員長だった。

僕はその声を無視してパフォーマンスを見続けていた。

 

「そんなに彼女の応援をして、いったい何の見返りが欲しいの?

 『あなたがいなきゃ私困る』とでもいって欲しいわけ?」

 

そんなことは僕にだってわからなかった。

もちろん、そんなことを言ってくれたら嬉しいに決まっているが。

 

「残念だけど、あなたがやっている事はやりすぎなのよ。

 下校時刻に待ち伏せなんて、バレたら職員室に呼び出されるだけじゃすまないわよ」

 

そうか、僕がやっていた行為は周囲から見ればそういう風に思われるのだ。

確かに、純粋な気持ちでやっていると言っても誰もわかってくれないだろう。

 

「あの旗だって、あなたが本当はどういう気持ちで描いたか私わかってるのよ。

 あなたは彼女に搾取されてるだけだってわからないの?

 そんなにあなたの時間を費やしたって、彼女はあなたのことなんか見向きもしてくれないわ」

 

搾取という言葉の意味がよくわからなかった。

僕はこの行為を通じて失ったものなど何もなかったからだ。

 

「いいかげんに目を覚ましたらどう?

 現実を見なさい、いつまでも夢ばかり見てないで」

 

そこまで言われた後、館内にいた教師に声をかけられた。

舞台のリハーサルに関係ない生徒はもう退出するように促された。

僕は彼女に特に何を言い返すこともなくその場を立ち去った。

 

 

 

・・・

 

翌日、児玉坂高校の文化祭が開催された。

 

校内には生徒達が準備したお店が出ており、

賑やかに声を張り上げながら出店で食べ物を販売していた。

僕らのクラスと同じように美術作品を製作したクラスは、

校舎内に様々な看板やポスターなどを出しており、

体育館で演劇やパフォーマンスをするクラスの生徒は、

自分達で印刷した宣伝用のビラを配り歩いていた。

 

僕は特に何に興味を示すということもなく、

ただ登校してからお昼が過ぎるのを待っていた。

昼食時には案の定、紺野と菊池に売店で色々と買ってくるように言われ、

僕はもうすでにそのミッションを無事にクリアしていた。

もちろん、いつものように何発もビンタや蹴りが入ったが、

そんなものは今の僕にとっては大した苦痛ではなかった。

台風が過ぎていくのをじっと待つように、

僕は目立たぬようにただ静かにその運命を受け入れていた。

 

やがて、紺野と菊池が教室を出て行ってしまうと、

僕は教室に掛かっている時計をへ目をやった。

そして僕は鞄の中から文化祭のスケジュールが記載されたプリントを取り出した。

14時から始まる児玉坂46のパフォーマンスには赤ペンで下線が引かれていて、

まもなく彼女達がステージに上がる順番がくるのがわかった。

 

僕は誰にも見られないように教室を抜け出し、

周囲を見回して誰もいないのを確認し、勢いよく体育館へ向かって駆け出した。

 

体育館の入り口に到着すると、すでに入り口にはたくさんの観客が集まっていた。

館内は飲食が禁じられているので、入り口付近でたむろしている人々は、

きっと14時前になったら一斉に中へ移動を始めるのだろう。

僕は入り口の人だかりをすり抜けるようにして館内へ入った。

 

幸いにも、ステージではまだ一つ前のクラスの出し物が行われていた。

僕が驚いたのは、僕らのクラスの旗の前に人だかりができていることだった。

ステージから真向かいに吊り上げられたロゴマークの描かれたその旗。

どうやら児玉坂46の楽曲のパフォーマンスを目当てでやってきた観客が、

待ち時間の間にその旗を眺めているようだった。

不思議なことだが、旗はもはや独立したクラスの美術作品ではなく、

まるで次の児玉坂46のパフォーマンスを盛り上げるためにそこにあるように思えた。

高々と吊り上げられたエンブレムは、威風堂々とその空間に華を添えていた。

 

 

僕は恐る恐る館内を見回した。

僕の予想が正しければ、紺野や菊池もこの場所でパフォーマンスを待っているはずだ。

彼らは児玉坂46の大ファンであり、先ほど教室を出て行ったのも、

きっとこのパフォーマンスを見るのが目的だったに違いない。

 

僕の予想通り、館内のステージ前の席に彼らの姿を見つけた。

館内は飲食禁止のはずなのに、何か食べ物や飲み物を持ち込んでいる。

そして深々と椅子にもたれかかりながら、目の前の舞台には興味を示さず、

迷惑にも大声ではしゃぎながら次のパフォーマンスを待っているようだった。

 

僕はその行為を止めるほど勇敢でもない。

ただ心のどこかで淡く期待していた前方の席を諦め、

彼らに見つからない後方の席へ目立たないように移動した。

 

 

時間が迫ってくるに連れ、館内の観客が増えてくるのを感じた。

僕は椅子に座りながら後ろを振り返ると、

入り口にはさっきより多くの観客がこちらへ向かってきており、

しかし誰もが入場してから一度後ろを向いて僕の製作した旗を見ていた。

ひょっとすれば、もう僕らのクラスの制作発表とは思われず、

やがて始まるパフォーマンスを盛り上げるための装飾とみなされていたのかもしれない。

僕にとっては、ステージ前の席を抑えられなかった鬱憤を、

その旗が代わりに晴らしてくれていたような気がする。

彼女たちの盛り上げに一役買えたのならそれで本望だと思った。

 

 

やがてどこからともなく音楽が鳴り始めた。

これは児玉坂46のライブが始まる前にいつも流れるお決まりの曲だ。

ファンたちはこの曲を聴くといつもテンションが高まるらしい。

館内に並べられた椅子に座っていた観客達も、

その音楽を聴きながら楽しそうに盛り上がっていた。

 

そして、その音楽が終わろうとした時、

舞台前の幕が左右にゆっくりと開き始めた。

照明のついていないステージ上には、幾人かの女子達の影が見えた。

 

次に音楽が切り替わり、リハーサルで見た通り「邪気イズム」のイントロが流れ始めた。

歓声は大きく揺れ、パフォーマンスの始まりを歓迎しているようだった。

 

ステージ上がライトで明るく照らされて、女子達の姿が観客席にも明らかになった。

僕が想いを寄せていた彼女はセンターで凛々しい姿で立っていた。

 

 

 

・・・

 

僕はあの日のことを思い出していた。

 

転がってきたボールを無視していたら、

彼女はずっと僕がボールを拾うまでこっちを見て待っていてくれた。

そうして僕に初めて影ができた、彼女が僕の存在を見つけてくれたから。

 

僕があの日に見た笑顔そのままで、彼女はステージで輝いていた。

キラキラと楽しそうな表情を浮かべて、難しそうなダンスを軽々とこなしていく。

毎日必死に練習してきたからだろう、身体が自然に動くまで訓練したのだろう。

おそらくステージ上で照明を浴びるのが嬉しいのかもしれない。

そんな光を放つように弾ける笑顔の彼女達を見ていると、

多くの観客達も自然とつられて楽しい気持ちになっていくのがわかった。

 

 

僕にはもう多くを望む気持ちはなかった。

ステージ上で歌って踊っている彼女を見ているだけで、

それが僕の将来にどう関わるとか、彼女が僕のものになるとかならないとか、

そういうことはすべて小さなことのように感じていたのだった。

ただ一つ思うことは、生きていることの素晴らしさだった。

この世界に僕が存在しているということの感激だった。

 

彼女が見せる表情の一つ一つに胸がキュッと締め付けられる。

こんなに心が切なくなる恋があるなんて知らなかった。

そこにただ彼女が存在しているという事だけが愛しい。

それだけで世界は真っ赤なバラ色に染まっていく。

どんなに嫌な事があっても、どんなに辛い事があっても、

彼女の微笑みが見られるのなら生きていける気がする。

 

 

クラスの仲間達からはぐれものにされ、

ただ孤独へ逃れて傷つく事を避けてきた過去。

多くは望まない、痛みを最小限度に抑えてやり過ごす。

そんな毎日の繰り返しだけを僕にもたらした世界を、

僕は今までどれほど憎んできた事だろう。

でも、今はそれほど憎んできた同じ世界が、

こんなに美しいと思えるなんて考えもしなかった。

 

胸がじんわりと温かい。

彼女の存在がそこで生きていて、

そして彼女の存在がこれからも続いて生きていき、

僕はその事にただ静かに感謝する事が出来る。

ただそれだけでいい、ただそれだけでよかった。

たったそれだけの希望がここにあるだけで、

こんなにも世界は美しく輝き出すものなんだ。

 

 

「邪気イズム」の音楽が鳴り止み、観客席は拍手に包まれた。

止まる事なく次の曲「25日の給料日」が流れ始めた。

ポップで明るい曲調に合わせて照明もカラフルになった。

 

激しい踊りを続けているのに、彼女達は息も乱れない。

ただ汗がダンスの振りに合わせて滴っているに違いなかった。

ノンストップで続くパフォーマンスに僕は心を奪われていった。

 

3曲目の「リコピン」へと続き、4曲目の「サイコロ記念室の可能性」が終わった後、

そこで初めてMCが入り、ステージ上の女子達が話を始めた。

 

「みなさんこんにちは~!」

 

センターの彼女が代表して観客に呼びかけると、

他のステージ上の生徒達もそれぞれ観客に挨拶をしていた。

 

「お忙しい中で私たちのパフォーマンスを見ていただいて本当にありがとうございます」

 

そうして頭を下げてお礼を述べた彼女に続き、他のメンバーもお辞儀をした。

会場からはその謙虚な姿勢に対して拍手が沸き起こった。

 

「私たち2年B組は、今TVでも大人気の児玉坂46さんの曲がやりたいということで、

 この文化祭までの期間、ずっと遅くまで残ってみんなで練習をしてきました」

 

センターの彼女が周囲のメンバーにも目配せをしながら語り続ける。

 

「今ステージには上がっていないクラスメイトのみんなは、

 照明をしてくれたり、ステージセットを作ってくれたりして、

 本当にみんなで一丸となって頑張れた文化祭になりました。

 次の曲で最後になってしまうんですが・・・」

 

ここまで話をした時、舞台袖から花束を持った生徒達が現れた。

そのサプライズの演出を、周囲のみんなは拍手で迎え、

センターの彼女は左手で口を押さえながら驚きを隠しきれない様子だった。

 

彼女はその花束を受けとり、花束を渡してくれた生徒と抱き合った。

他のメンバー達はずっと拍手を続けていたので、

観客達からも自然と続けて拍手が生まれて来た。

 

花束を抱えながら、他のメンバー達に促されるようにして前に出た彼女だが、

何かを話そうとするたびに手で口を押さえてしまう。

言葉よりも先にこみ上げてくる感情が抑えきれないようだった。

 

「・・・今回の文化祭は私にとってこの学校での最後の文化祭なので、

 こうしてみんなで頑張れて本当に嬉しいです・・・」

 

時々、涙で声を詰まらせながら精一杯話す彼女を僕はずっと見ていた。

あんな風に涙を流している彼女を、僕は今まで見た事はなかった。

 

「・・・色々な事情があって転校する事が自分の中で決まって、

 でもそれでもなかなか友達には言い出せなくて・・・。

 すごく辛い思いを一人で抱えていた時もありました」

 

心に溜まっていた何かを全て吐き出すように話をする彼女を見て、

僕は彼女の事を見ていたようで、本当は何も見る事ができていなかったと感じた。

彼女が一人で抱えてきた苦悩や寂しさを、僕は察してあげることはできなかったし、

もちろんそんなものは当事者にしかわかりえない感情なのかもしれないけれど、

振りまく笑顔の裏側にある苦労や悲しみを、本当はもっと理解してあげたかった。

 

「・・・転校してしまうことは、やっぱり寂しいですし、

 不安な事ばかりを考えてしまうんですけど・・・」

 

言葉を詰まらせて涙を流しながら彼女は必死に話し続けた。

今ステージに立っている自分がきちんと語らなければならないと、

そういう強い意志と決意があるのだと僕は感じた。

 

「ここから見た今日の景色を忘れずに、

 また新しい気持ちで次の学校でも頑張ろうと思います」

 

館内からは大きな拍手と声援が飛んだ。

僕はそのなかで一人取り残されていた。

拍手も声援も送れないでいたからだ。

こんな風に無情にも時が刻まれていく残酷さと、

何かが終わっていく切なさがないまぜになって心に押し寄せる。

 

 

彼女は拍手と声援に祝福されながら、ステージ上でメンバーと抱擁を繰り返している。

あれほど泣き続けているのに、涙は枯れる様子もなかった。

 

「あたし達もあんたの事忘れないから」

「そうだよ、ずっと友達だよ」

 

ステージ上の女子達はそうやって彼女に声をかけた。

 

「あとあれっ!あれもすごいよね!」

 

女子達の一人が僕たちの方を指差しながらそう言った。

それは僕ら客席から遥か後方を指し示していた。

 

「2年A組の旗ってさ、あれほんと偶然なのかな!?

 なんかあたし達のステージに合わせてくれたみたいじゃない?

 しかも出来がめちゃくちゃすごくてびっくりなんだけど」

 

その女子が指差していたのは僕が描いたあのロゴマーク入りの旗だった。

館内の誰もがその指差す方を見てはざわついていた。

 

「・・・A組が本当に素敵な旗を作っていて私たちもびっくりです」

 

彼女がまさしく僕が作った旗について言及した時、

僕は一瞬、呼吸を忘れたように身体が緊張感を覚えた。

予期していなかった展開に、僕の思考が事実に追いついていない感覚。

 

「練習が終わった時、A組の人が旗を作っているのを見た事がありました。

 空き教室の後ろから眺めていただけですが、とても一生懸命に取り組まれていて、

 これは良いものが出来上がるだろうなぁと思っていました」

 

今彼女が語っていた事は、僕が全く知らない事実だった。

その事実は今までこの世で確実に起きた出来事であったはずなのに、

僕が知らなかったという一点によって、僕の世界からは抜け落ちていたのだ。

 

彼女が口にした「A組の人」というのは間違いなく僕の事だった。

僕以外にあの旗の制作に関わった人などいない。

彼女は僕が旗を作っていた後ろ姿を通りすがりに見ていたのだ。

僕が彼女を見ていただけでなく、逆方向のベクトルもまた存在したのだ。

大勢の観客の中で、彼女が僕の存在について言及したという事実が、

僕の存在を極めて輝かしいものにしていくのを感じていた。

 

「私たちのステージに合う物を作っていただいてありがとうございました。

 ただの偶然かもしれませんが、相乗効果が出ると嬉しいですね。

 私たちもあの旗がもっと映えるように、最後の曲を精一杯頑張りたいと思います」

 

僕はただ無我夢中であの旗を作っていただけだった。

それがこんな形で彼女からの感謝の言葉を受ける事が出来るなんて。

彼女が承認してくれた僕の存在が、彼女に何かしら僅かであれ貢献できた。

それだけで嬉しかった、ずっと忘れないで大切にしたいと思った。

この感謝と返礼によって積み重ねられていくお互いの感情には、

たとえ瞬間的な煌めきであったとしても清らかさがあった。

そして何か醜くて卑しい魂が入り込む余地のない、

人間の心の中に芽生える確かな希望だった。

 

「それでは聴いてください、児玉坂の詩」

 

ステージ上で女子達がフォーメーションを組んで、

サイリウムを輝かせながら最後の曲を踊り始めた。

 

涙をこらえながら一生懸命踊る彼女達。

児玉坂46への憧れが彼女達の一人一人の胸にあるのだろう。

カバー曲を披露する事で自分達も憧れに近づく事を願い、

そうしてキラキラ輝く青春時代を過ごしていく。

彼女達にとっては、児玉坂46の存在こそが希望なのかもしれない。

 

やがて全てのパフォーマンスが終了した。

2年B組の生徒達がみんなでステージ上に出てきて手をつないでお辞儀をした。

観客達は大きな拍手で彼女達を見送り、やがて幕が閉じた。

 

次のプログラムへの休憩時間になった館内は、

座っていた観客達が立ち上がって移動を始めた。

ステージに感動した観客達は、退出する前にあの旗へ向かう。

そこで携帯電話を取り出して写真を撮っていく。

それがやがてSNSを通じて拡散されていくのだろうか。

誰も僕が一人で作ったという事実は知らないままで。

 

僕はただ、ステージを終えて今頃また泣いているであろう彼女が、

この文化祭の思い出として同じように携帯電話で旗の写真を撮り、

彼女の携帯フォルダの中に永遠に保存される事を願うだけだった。

 

そして僕は立ち上がって真っ直ぐに前を見た。

前方から歩いてくる2人組が見えた。

気怠そうな表情を浮かべて首を動かしながら歩いてくるのは、

もちろん僕の大嫌いな紺野と菊池の2人だった。

 

 

さあ行こうか、処刑の時間だ。

 

 

 

・・・

 

鉄の味は久しぶりだった。

ヘモグロビンに含まれる鉄分は舌を通じて苦痛を増幅させる。

それは悔しさと混ざって記憶に刷り込まれていく。

 

体育館から退出した僕は、誰も見ていない校舎の裏へ連行された。

そこからは鉄の味を口の中で何度も味わうことになった。

後頭部から蹴りか何かの衝撃を受けた時に、

自分で口の中を噛み切ってしまったからだろうと分析した。

 

紺野が前方から走ってくる。

全体重を預けたドロップキックによって僕は後ろへ吹っ飛んで空を仰ぐ。

視界に入ってくる黒い雲が低く立ち込めた空を見上げながら、

やがて菊池の甲高い笑い声が耳に響いてきた。

 

次は塩味が舌に沁みた。

鉄の味に飽きた自分にとっては良い口直しになった。

ただ、頬を伝ってきた雫の跡が少し痒い。

だが、手を動かしてその痒みを解消する気力はなかった。

 

「マジうぜぇんだよなぁ透明人間」

 

紺野がどこからかぼやいている。

空を仰いでいる僕に確認する術はなかったが、

おそらく僕に視線を合わせることはしていないはずだった。

それが彼らの透明人間ごっこのルールだったからだ。

 

「これが目的だったなんてなー超あざといし」

 

菊池は僕に一瞥もくれずに脇腹を蹴る。

先ほどの体育館での一部始終を見ていた二人には、

どうやら僕が彼女に褒めてもらうために旗を作ったと勘違いしているようだ。

 

「クラスの出し物を一人で作る権利を得たと思って調子乗って、

 それを利用して惚れた女を喜ばせようなんてよー。

 誰にも見えないからってやりすぎじゃないの透明人間さんよ。

 クラスの出し物はみんなの為にあるんだからさー」

 

紺野が遠くからそんなことを言ってから、菊池が唾を吐いた。

その唾は僕の頬に命中し、涙の雫跡は汚されてしまった。

 

「一人で作る権利を乱用しちゃいけないよな。

 じゃあ俺たちにだって嫉妬の権利はあるんだぜ。

 どうだ、こんな俺たちウザいかー?」

 

菊池はそう言いながら視線を合わさずに倒れている僕の顔を踏んだ。

じゃりっとした食感が口の中に溢れてきた。

また新しい味覚が刺激される、土の味は人生で初めてだったかもしれない。

 

平均時間は長くても15分程度だった。

その時間を超えると彼らは飽きてどこかへ行ってしまう。

それが今までの僕の経験からはじき出した透明人間ごっこに関する計算の回答だ。

 

だが今日は長い。

体感時間として長いだけなのだろうか。

それとも、やはり今日の僕はいつもより目立ちすぎたからか。

だが、こんな状況で腕時計を見るわけにもいかなかった。

余計に彼らを刺激し、制裁時間の延長を申請するようなものだ。

 

ふとここから逃げ出してしまおうかという思いが頭をかすめた。

人気のあるところへ逃げ込んでしまえば彼らも無茶はできない。

だが、抵抗することは翌日以降の制裁強化につながる。

今日だけを考えていてはいけない、長期的に考えると、

ここは耐えしのぐべきだ、その方がトータルで考えてメリットがある。

 

逃げ出すという選択肢を頭から取り除いた僕は、

動く菊池の靴底からわずかに見え隠れする空を眺めていた。

低く垂れ込めた暗雲を見ていると、雨は近いとにらんだ。

早く降り始めてくれれば、この二人も退散するに違いなかった。

 

「だいたい透明人間はやりすぎなんだよなー。

 見えないからってストーカーは良くないぜ」

 

菊池がやっと足をよけたと思ったら、

次は紺野が倒れている僕の上にまたがってきた。

視線は一切合わさずに両手で僕の頬をからかうように強くビンタする。

 

「帰り道に待ち伏せとか気持ち悪いからなー。

 ストーカー、ダメ、ゼッタイ」

 

紺野の右手が僕の両方の頬を締め上げるように掴んでくる。

顔が醜く歪み、手が触れると傷口にあたって痛みを感じる。

今日の僕は絶対に親には見せられない顔をしていると思った。

家に帰ってからどう誤魔化せばいいのかだけを考えてやり過ごしていた。

今の痛みに集中することは辛さを増すだけなので極力避けたかった。

 

「お前が付き合えるわけないんだからよー」

 

頬を締め上げられながら宙へ持ち上げられた。

ギリギリと締め付けて頭をブンブンと揺らされる。

僕はおもわず両手を顔に持ってきて防御しようとすると、

それに気を悪くしたのか、紺野は突然手を離して右手で思い切り僕の頬を打った。

 

「人生に変な期待を持っちゃいけないよ?

 透明人間は見えないようにひっそりと生きていくんだから」

 

菊池がそばに立って囃し立てる。

僕は思い切り打たれて横を向いた時に視界に入ってきた女性を見ていた。

 

それは学級委員長だった。

 

そしてピンときた。

ああ、きっとあの子が彼らに僕の行為をバラしたのだ。

旗の制作で居残りをした後、帰り道に彼女を見ていた行為を、

きっと彼女が二人にバラした為に彼らはこんな事を言っているのだと思った。

 

あの子が恨めしい気持ちが僕の心の中に浮かんだ。

どうしてさらに僕を追い詰めるような事をするのだろう。

直接的に手を下さなくても、誰かを追い詰める情報を拡散する人は、

もっともタチの悪い加害者になる時代が来ているのだ。

 

そして僕にはもう学級委員長の姿は見えなくなった。

紺野が左手で僕の頬を打ったからだ。

僕は強制的に反対側の景色を見るように強いられた事になる。

 

そこまでしてから、紺野が僕の身体の上から離れた。

彼の体重がふわっと消え去って僕は軽くなったような気がした。

 

「なんかつまんねーわ」

 

紺野がそう呟くと、僕は心の中でガッツポーズをした。

ようやく彼らも飽きてくれたのだろう。

いつもより20分は長かった気がするけれど、

なんとかここまでで矛を収めてくれるのだろうと思った。

 

「もう帰るか?」と菊池が尋ねる。

 

紺野は携帯を取り出しておもむろに僕が倒れている姿を写真に撮り始めた。

そして、その画像を見てひと笑いしてから菊池に見せつけた。

それを覗き込んだ菊池も歯を見せてあえて声を出さずに笑っていた。

 

「そうだ菊池、あいつ連れてこいよ」

 

紺野が菊池にそういった時、僕は何かまだ嫌な予感を感じた。

 

「もうステージ終わってっからどっかその辺にいるだろ?

 あのセンターで歌ってた子だよ、こいつのお気に入り」

 

紺野がいった言葉を聞いて、菊池はニヤッと笑った。

「連れてきてどうすんだ?」と菊池が尋ねる。

 

「決まってるだろ、あの旗を作ったのはこいつですって教えてやるんだよ」

 

おそらく、彼らの狙いは僕のプライドを傷つける事だったのだろう。

けれど、僕の脳裏をよぎったのは、文化祭の思い出を傷つけられる彼女の悲しみだった。

自分がステージ上で発言した事が、なぜか誰かを傷つける事につながっていた。

そんな事実を知ってしまったら、彼女の文化祭の思い出が台無しになってしまう。

 

「そりゃいいな、おもしれぇ!」

 

菊池はそう言って嬉しそうに笑った。

紺野もそれを見て指を弾いて菊池にGoサインを出した。

 

「じゃあちょっくら行ってくるわ」

 

菊池はそう言って彼女を探しに行こうとした。

 

「・・・あんっ?」

 

菊池は探しに行こうとしながらも足を動かさずにそう言った。

僕が彼のズボンの裾をつかんでいたからだ。

そして僕は無言で菊池の顔を見上げていた。

 

「何すんだよ、離せよ」と言って菊池はもう片っ方の足で僕を蹴った。

僕はそれでも菊池の足を離さなかった、一生離すつもりはなかった。

 

そして僕は菊池の視線が僕を捉えていた事を確信した。

彼の視線は僕を見つめていて、僕の視線は彼の目を見つめていた。

 

やがて紺野がやってきて思いっきり僕を蹴り上げた。

僕の身体は宙に浮かぶほどだったけれど、足をつかんだ手は離さなかった。

そして僕は紺野の顔を見つめ、僕は紺野の視線も確実に捉えた。

 

「・・・見えたか」

 

僕は無意識でそう呟いた。

 

「・・・僕の姿が・・・見えたか」

 

これほどの抵抗をしてしまったのなら、僕は彼らの制裁に延長申請を出したようなものだ。

経験則から言えば、おそらく2倍の時間くらいには延長されてしまうかもしれない。

さらに翌日、翌々日までボーナスステージが待っているに違いないし、

それは下手をすれば翌週、翌月まで毎日のように特別制裁が追加される可能性だってあった。

 

 

それでも。

 

 

それでも、彼女を傷つけさせるわけにはいかなかった。

 

 

 

・・・

 

 

やがて雨が降りだしたが、紺野と菊池は僕をいたぶる事を止めなかった。

僕が延長申請を出してしまったからだった。

 

一体どれだけの時間が延長されてしまったのだろうか。

雨水が彼らの怒りの熱を冷まさせないほどに、僕は彼らを意地にさせてしまったのだ。

 

あれからずっと二人掛かりで蹴られたり投げ飛ばされたりして、

顔や制服が泥だらけになってしまったが、それでも僕は菊池の足を離さなかった。

僕に生きる力を与えてくれた彼女を傷つけることだけは何があっても許さなかった。

 

それは彼女が希望だったからだ。

この汚れた救いようのない醜い世界で、それでもたった一つ輝く希望。

そんな希望を僕だけのつまらない理由で傷つけられてしまうわけにはいかなかった。

 

これは彼女に好かれたいとか、同情して欲しいとか、

そういう気持ちから出た行為ではなかった。

これは例え彼女が自分に振り向いてくれなかったとしても、

他の誰かの為にあの微笑みを守らなければならないという想いから出たものだった。

 

やがて彼ら二人の勢いも弱まってきた。

さすがに疲れてきて飽きてきたのかもしれない。

これは僕にとっては新発見だった。

長時間耐え続ければ、いくら挑発し続けても彼らだって疲れてしまうことがあるのだ。

しかし、同時にもう僕の意識も途切れてしまいそうなほど朦朧としていた。

 

「お前のせいでびしょ濡れになっちまったじゃねーかよ!」

 

紺野は自分が怒りに狂って続けてきた暴力の責任を僕に押し付ける。

視界に映る彼らの頭髪は雨で湿って跡形もないほど崩れてしまっていた。

 

「紺野、やべーよ、先公きやがった!」

 

菊池が向こう側を指差しながら紺野にそう告げた。

僕は薄れゆく意識の中で、ようやくの終焉を心から歓迎した。

 

「・・・ちっ!お前わかってるだろうな?

 もし俺たちがやったなんて言ってみろ、この程度じゃすまねぇからな」

 

紺野は倒れている僕にそう告げて唾を吐いた。

 

「・・・お前もだぞ」

 

紺野が誰かにそう告げるのが聞こえ、僕は朦朧としながらそちらを見た。

紺野がそう告げたのは、あの学級委員長だった。

 

そう言い残すと、紺野と菊池は走って何処かへ行ってしまった。

僕は安心感から緊張が解けて、そのまま深い眠りに落ちていった。

 

 

 

・・・

 

「・・・起きて」

 

僕はどこかから自分を呼ぶ声を聞いた。

 

「・・・ねぇ、起きてったら」

 

肩を揺さぶられるようにして寝返りを打った僕は、

ふっと瞼を開けた先に真由子がいることに気がついた。

 

「のぞみが熱出してるみたいなんですよ。

 さっき測ってみたら38度5分もあるんです。

 あなた病院に連れて行ってあげてくれない?」

 

僕はそれを聞いて瞬時に身体を起こした。

いつの間にかリビングで眠ってしまっていた事に気がつき、

被っていたブランケットをはねのけると、

心配になって急いでのぞみの部屋へ向かった。

 

ゆっくりとドアを開けるとベッドで横になっているのぞみが見えた。

部屋の中に入って寝ているのぞみのおでこに手を当てると、

反対の手を自分のひたいに当てて体温を比較した。

そしてすぐに真由子の言っていたことは間違いでないことを確認した。

 

気づいたら傍に真由子もやってきていた。

僕の肩にもたれかかりながら心配そうにのぞみを見つめている。

 

「ちょっと熱あるね、すぐに病院に行く準備をしよう」

 

僕はそう言うと、のぞみのおでこから手を離し、

自分の部屋へ行き、外出用の服に着替えることにした。

クローゼットからコートを取り出していると、

後ろからやってきた真由子が袖を通すのを手伝ってくれた。

 

「ちょっとだなんて言うけど、38度5分ってかなり高いわよ」

 

心配性の真由子は僕の発言が不満だった様子でそう付け加えた。

 

「わかってるよ、君は家で待っていてくれ」

 

僕は彼女にそう告げ、のぞみを連れて家を出た。

 

 

・・・

 

 

「ちょっとした過労でしょうな。

 おそらく急激な環境の変化などで疲れが出たのでしょう」

 

聴診器をつけた絵に書いたような医者がそう語った。

のぞみはベッドで横になって点滴を打っている。

 

「そうですか、大したことなくてよかったです」

 

僕が安心した顔でそう告げると医者は笑った。

 

「大切な娘さんなんですな」

 

医者は人の良さそうなおじさんという風貌だ。

僕は何の手がかりもなしに近所の病院を訪ねたが、

ここは今後も世話になっても悪くないと思っていた。

 

「妻が心配性なんですよ。

 僕もうたた寝をしているところを叩き起こされました」

 

恥ずかしそうに頭をかきながら答えると、

医者は屈託なく笑いながら返した。

 

「どこもそうですよ、かみさんには敵いません」

「ええ、そうですね」

 

男同士での定番の世間話といえば怖いかみさんの話だ。

そういう共通点を見つけて人は距離を縮めていく。

 

「どこにお住まいですか?」と医者は尋ねた。

 

「先日、こちらに引っ越してきました。

 以前は児玉坂に住んでいたんですが・・・」

 

僕は腰を低くしてそう答えた。

新参者というのはいつも腰が低くなる。

新しいコミュニティーに参加する際の礼儀みたいなものだ。

 

「そうですか、東京から来られましたか。

 都会から来られたんじゃあ、このあたりは何もないでしょう」

 

地方の人が東京から来た人と話しをする際には、

必ず地元を卑下してこんな風に話しをする。

これも一つの礼儀であり、そして返答にも礼儀作法がある。

 

「いえいえ、うるさいところよりこちらの方が落ち着けますよ。

 仕事の都合でこうなったとはいえ、空気もきれいだし穏やかで、

 実はこちらの方が娘にとっては良いのではないかと思っています。

 転校することになってしまった事は申し訳なく感じていますが」

 

僕はベッドで眠っているのぞみを見ながらそう言った。

病院で点滴を打って安心しているのか、先ほどより顔色は良い。

 

「おそらく、引っ越して来られて環境が変わった事で、

 目に見えない疲れが出てしまったんでしょう。

 今日はもうこんな時間ですから、

 大事をとって今夜はここで過ごしてもらって、

 明日の朝にまた様子を見にきてはいかがですか?」

 

医者は親切心からそう言っているように見えた。

僕が時計を見たとき、針はもう夜21時を指しているのに気がついた。

そういえばまだ夕食をとるのも忘れていたのだった。

引っ越してきたばかりで部屋もまだ片付けきれていないし、

そんなところへのぞみを連れて帰るのも疲れさせるだけかもしれない。

 

「そうですね、ではそうさせてもらいます。

 明日の朝にでもまた迎えに来させてもらいますので」

 

僕はそう告げて診療室を後にした。

退出時に見えたのぞみは、もう安心して眠っているように見えた。

 

 

 

・・・

 

「あなた、どうだった?」

 

家に着くなり靴も脱がない間に真由子は尋ねてきた。

 

「大丈夫だよ、明日の朝にはもうきっと熱は下がってるさ」

 

僕は先ほどメールでも同じように返した内容を再度告げた。

心配性の真由子は体調管理や食事管理に非常にうるさい。

 

靴を脱いでコートを掛けた僕は、やっとの事で解放されてリビングへ行った。

リビング以外の部屋はまだ荷物もきちんと整理されていない。

僕はソファーに腰をかけてリモコンの電源を入れてTVをつけた。

 

「あなた夕食はどうします?」

 

「簡単なものでいいよ、もう時間も遅いしね」

 

お腹が空いていたのは確かだったが、

この時間ではどうせ真由子はあっさりしたものしか出してくれない。

昔から物事を仕切る癖がある彼女は、家事も基本的にすべてルールを作っていた。

ゴミ出しの順番や子供の面倒を見る順番、親に顔を出す頻度や夕食の献立など、

一定の決まりがあり、まるでマネージャーか何かのように細かいのだ。

 

「やっぱり、転校してきたのが負担だったのかしら?」

 

料理を作りながら真由子は僕に話し掛けた。

 

「そうかもしれないね。

 でもそれは仕方のないことじゃないか。

 友達とお別れするのは辛かったかもしれないが、

 人はいつか離ればなれになるんだし、 

 新しい環境でもまた人間関係を築けばいいのさ。

 そうやって人生は続いていくんだから」

 

僕はTV番組を観ながらそんな風に答えた。

TVでは「あの人に会いたいスペシャル」という番組が放送されていた。

よくある懐かしの芸能人などの現在を探る番組だ。

子役だった女の子が大きくなって誰だかわからなくなっていたり、

もう結婚して母親になっていたり、そういう近況を皆は知りたがるのだ。

 

「あなたはいつもそんな簡単に言いますけど、

 みんなあなたみたいに強い人ばかりじゃありませんよ」

 

真由子は不満そうにそう言った。

お皿に料理を盛り付けている、何か完成したようだ。

 

「君は僕を強い人なんて言うのかい?

 君は僕がそんな人じゃない事は知っているだろう?」

 

TVをつけっぱなしのまま立ち上がって、

僕は食事が並べられたテーブルの席へついた。

真由子が作ってくれたのは野菜の炒め蒸したものとわかめスープ。

案の定、炭水化物であるごはんは少なめだった。

 

「なんだ、今日はいつもより質素だな」

 

予想通りとは言え、それを超える質素さに、

僕は思わず口を滑らせてしまった。

余計な事は言わない方が良いはずだったが。

 

「・・・」

 

真由子はそれについては何も答えなかった。

僕はやれやれと思ってとりあえず箸をつけた。

 

「うん、これうまいな」

 

一口食べてからそう言ってみたが、反応はなかった。

相当怒っているのか、それとも気遣いが下手すぎたか。

いずれにせよ少し面倒な事になると思った。

 

「・・・なんだよ、何怒ってんの?」

 

僕は箸を置いて姿勢を正した。

何も後ろめたい事もしていないし、

怒られるような事もないので僕は堂々としていた。

 

「・・・これ」

 

真由子が膝から取り出してテーブルに置いたのは古びた一冊のノートだった。

それを見た瞬間、僕はのぞみを病院へ連れていく前の記憶を思い出した。

 

この家に引っ越してきてから、今日はずっと荷物の整理をしていたのだ。

そして古い荷物を引っ張り出していた時、このノートを発見したのだった。

それを読みふけっている間に、僕はいつの間にか寝てしまったのだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

2015年9月21日 (月)晴れ

 

本日も放課後に文化祭の出し物である児玉坂46のロゴマーク入りの旗の制作を進める。

文化祭まで残り十数日となったが、制作は順調でありまもなく完成の予定だ。

 

空き教室を出て自転車置き場へ向かう。

今日もまた、彼女が友達と話している姿を目撃する。

表情は昨日に比べて明るい、何か良いことがあったのかもしれない。

 

 

2015年9月22日 (火)曇り

 

放課後に紺野と菊池に絡まれたため、旗の制作に入る時間が遅くなる。

貴重な時間を奪われて腹立たしい、だが気にしている暇はない。

雑誌と見比べてみても遜色ないほどに上出来になってきている。

自画自賛かもしれないが、決して悪くないように思える。

誰か第三者に見て判断してもらいたいものだが、残念ながら僕には友達はいない。

 

下校途中、今日も彼女の姿を見つけた。

今日は髪を後ろでアップにしていて、とても美しい。

姿勢が良いため、後ろ髮を上げると非常に綺麗に見える。

くくった髪の下に覗く首筋も肌が白くて透き通っているように見える。

これは僕の一番好きな彼女の髪型である。

 

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ノートの中身はそんな風にしてずっと続いている。

これは僕が高校時代につけていた日記帳だった。

 

いつの間にか眠ってしまったために、ノートをどこに置いたか忘れていた。

おそらく僕が寝てしまった間に、帰宅した彼女がこのノートを見つけたのだろう。

単なる生活に関する内容であれば問題なかったが、

これはかなりプライベートな恋愛に関する内容が綴られている。

それを見てしまった真由子が怒ってしまったのだろう。

 

「・・・ああ、見たのか」

 

僕は恥ずかしい気持ちもありながら、本当は怒る権利もあったのかもしれない。

プライベートな部分を、例え夫婦とは言え勝手に見られてしまったのだから。

だが僕は、真由子の気持ちに配慮して怒ることは止めておいた。

 

「・・・ごめんなさい、勝手に見てしまって」

 

怒られると思ったのか、真由子の方から先に謝ってきた。

先に謝られると、もう後出しで怒る事は何だか悪者になる気がしてしまう。

 

「・・・いや、別に気にしてないよ」

 

そう言ってお互いに距離を測り合う。

真由子なら見るだろうと思っていたところもあった。

どんどんと僕の心にぶつかってくるタイプの彼女なら。

 

「どうしてこういう物を残しておくの?」

 

真由子は素朴な疑問を装って尋ねた。

語気が強くなっているのを僕は見逃さなかった。

 

「別に意図的に残しておいたわけじゃない。

 僕だって今日までノートの事はすっかり忘れてたよ」

 

僕は嘘をつくつもりもなかったから正直に言った。

 

「でも、今日はノートを見てたんじゃない。

 楽しそうにあの頃を思い出してたんでしょ?」

 

「別にそんなんじゃないさ」

 

「じゃあ、これ捨ててもいい?」

 

真由子はノートをひょいと手に取ってそう尋ねる。

 

「そんないじわるな言い方はよしてくれよ」

 

僕は子供じみた真由子の対応に呆れてしまった。

嫉妬しているとは言え、こんな真由子を見るのは久しぶりだった。

 

「わかってるよ、女性は上書き保存する生き物だって。

 言い訳するわけじゃないが、男性はファイル名をつけて保存する生き物だ。

 でもそれは歴史を残しておくという行為であって感情は伴わないよ。

 僕が今愛しているのは真由子だけだからね」

 

僕は男女の恋愛観の違いを述べてみたが、これで収まるとは思えなかった。

まったく神様はいじわるだ、男女の間にわざとケンカの火種を残している。

だから夫婦というものはお互いに向き合うことはできない。

向き合うのではなく、夫婦関係とは二人で同じ方向を見るものだ、

そんな風に誰かが言っていたのを思い出した。

 

「なんだかずるい」

 

真由子は僕を責めた。

思えばこんな風にケンカをするのも久しぶりだった。

いつもは二人の間にのぞみがいてくれるからこんな風にはならない。

 

 

 

・・・

 

紺野と菊池が走り去ってから、僕のそばに駆け寄ったのは学級委員長だった。

泥まみれになって倒れている僕のそばに座り込んで、僕を抱えるようにして身体を起こしてくれた。

 

教師達に通報してくれたのは彼女だった。

ボロボロになった僕を見て、これは大問題だと感じた教師達は、

後日、紺野や菊池を呼び出して停学処分に決めた。

誤魔化しきれない傷跡を残してしまった彼らの敗北だった。

そして、そこまで苦しくとも耐え抜いた僕の勝利だったのだ。

 

 

・・・

 

 

「私がいなかったら、あなたは助からなかったのよ」

 

真由子はそうボソッと呟いた。

少し押し付けがましい表現ではあったのだが、

嫉妬の権利からそう言っているなら、僕は寛大な心で許そうと思った。

 

「わかってるよ、感謝してるだろ」

 

僕はこの日の話をされるたびに彼女にこんな風に告げる。

彼女が紺野と菊池にストーカー云々の話をしたと僕が勘違いしていたのが気に食わないらしい。

真由子は決して二人には告げておらず、誰か他の人が噂した話が紺野と菊池に伝わったらしかった。

とにかく、僕と真由子の始まりの1日は、あの文化祭の日だったのだ。

 

「それなのにあなたは、やっぱりあの子の事ばっかり書いてて・・・」

 

真由子に助けてもらったとは言え、二人が恋に落ちるのはもう少し先で、

僕の日記は、あとしばらくは転校して去ってしまった彼女についての記述が多い。

 

「ちゃんと先まで読んだのか?

 その辺りの日付ばかり読んでそう言ってるならそっちの方がずるいよ」

 

僕はノートを真由子から奪い取って、真由子に関連した内容のページを開いて見せた。

それを見て真由子は少し嬉しそうな表情を浮かべたように見えたが。

 

「ごまかさないで、あの時私があんなにあなたに想いを寄せてたのが、

 この日記を見てなんだかバカみたいって思ったのよ。

 透明人間なんてあなたは言ってたけど、私にはずっと見えてたんだから」

 

真由子は確かに僕に何度も話かけてくれる存在ではあったが、

学級委員長の肩書きがあったのに加えて、アタックの方法がとても不器用だったので、

僕はずっと彼女が義務感から僕に接していると思っていたのだ。

絵を描く事が壊滅的に下手なことがコンプレックスだった彼女は、

あの旗の制作を手伝うような素振りも見せなかったのだし・・・。

 

「悪かったよ、僕が鈍感だったことは」

 

鈍感だった上に、当時の僕は本当に弱かった。

引っ込み思案だったし、いじめられていた僕なんかを、

どうして彼女が好きでいてくれたのか、そんなことに気づくはずもなかった。

 

「でも、信じてよ。

 今愛してるのは真由子だけだって事は。

 僕は嘘つかないよ、絶対に」

 

その言葉を聞いて少しずつ感情が穏やかになってきたのか、

真由子はふぅーとため息をついた。

 

「まあいいわ、あなたが嘘つかないの知ってるわよ。

 バカみたいに真面目な人だったから私も好きになったんだし。

 だいたい一人で文化祭の出し物を作る人なんていないわよ」

 

自分だってバカみたいに不器用にアタックしてきただろ、

僕はそんな風に思ったが口にするのは止しておいた。

この夫婦はどちらも愚直で譲らないところがあるのだ。

今日はなんとか僕が譲ってここら辺にしておこう。

 

「あっ、あれ観て!

 児玉坂46が出てる!」

 

先ほど付けっぱなしにしていたTVを指差して真由子はそう言った。

TVでは「あの人に会いたいスペシャル」がまだ放送されていたのだ。

画面には30~40歳になって大人になった児玉坂46のメンバーが出演していた。

 

「うわーみんな大人になっちゃったね。

 もう結婚とかしてるメンバーもいるみたい」

 

先ほどの事はもう忘れたように真由子は無邪気だ。

児玉坂46といえば文化祭のステージパフォーマンスが思い浮かびそうなものだが、

それはやはり僕だけであって、彼女には気にならないのかもしれない。

 

「僕らも同じように年をとったじゃないか。

 それにしても2020年の東京オリンピックでCMしてた時、

 最年少の子はまだ20歳くらいだったけどな」

 

時間の流れの速さを感じながら、僕もしみじみとTV画面を見つめた。

番組の中の僕と同じくらいの男性タレントがコメントしている。

「若い頃は児玉坂46といえば僕らの希望でしたよ~」なんて言いながら、

「児玉坂の詩」のダンスの振りを披露して見せて会場は沸いていた。

 

僕らはTV番組を見ながら過去を懐かしむ気持ちになっていった。

時間の流れは残酷なほどに早い、でもその過ぎ去った時間が美しくもある。

郷愁は僕らの胸をゆっくりと温めて癒してくれるような気がする。

 

「この子達は、いったいどれだけ多くの人達に希望を与えたんだろうね。

 人間が誰か一人の心の中に残るだけでもなかなか大変だと思うけど、

 児玉坂46のメンバーは何万、何十万の人達に影響を残してきたわけだろ?」

 

僕がそう発言しながら思い出していたのは文化祭の時にセンターで踊っていた彼女の事だった。

彼女に出会う前、僕はまさかあんなに誰かを恋しくなる自分がいるなんて想像することもできなかった。

もし彼女と出会っていなければ、僕は真由子に素直に心を開けたかどうかもわからない。

未来はときめきと出会いに溢れている、そう教えてくれたのは何よりも彼女との出会いだったし、

それがなければ真由子との出会いもポジティブにとらえる事が出来なかったかもしれない。

 

真由子には理解してもらえないかもしれないが、僕の心の中にあの時の彼女はずっと残っている。

それは現在の恋愛や結婚を否定するものとは異なるあり方で、僕を支えてくれているのだ。

普段は思い出す事もない、忘れて記憶の彼方に封じ込められているだけかもしれない。

だが、ふとした瞬間に、それこそ今回の日記帳のようにふとしたあり方で記憶から目を覚ます。

そうして青春の1ページとして永遠に忘れられない美しい光を僕の心に残してくれているのだ。

 

「そうね、私なんて誰一人の心にも影響を残せやしないけど」

 

僕の心を察したのか、また真由子が少し拗ねたようにそう言った。

 

「そんなことはないよ、僕は君がいてくれてとても感謝してる」

 

僕は真由子の手をとって握りしめた。

少し照れてしまったのか、真由子は立ち上がって食器を片付け始めた。

 

矛盾に思われてしまうかもしれないけれど、今の僕にとって最も大切なのは真由子だ。

人は歴史を振り返りながらも、一番大切なのは現在を生きることだからだ。

僕に言わせれば、過去と現在を天秤に乗せて比較するのはちょっと違う。

過去があるから現在があり、でも現在を過去のためにおざなりにしてしまうのも違う。

僕の心の中には文化祭で踊っていた彼女も、真由子も、ともに存在する。

両者ともにいてくれなければ、現在の僕を形成することはできないからだ。

 

僕が一人でそんな事を考えている間に真由子はテキパキと食器を洗っていた。

すべての片付けが終わった後、真由子が熱いお茶を入れてくれたので二人で飲んだ。

 

「のぞみには悪いけど、こんな風にゆっくり過ごすのも久しぶりね」

 

真由子はやっと少し笑顔になってくつろいだ態度を見せた。

 

「そうだね、昔の事を振り返るなんて事も久しぶりだ」

 

そんな事を話ながら、僕らはTV番組を観ていた。

色々な意味で、児玉坂46は僕らの青春だった。

 

 

 

・・・

 

「もう大丈夫ですよ」

 

翌日の日曜日、僕は車に乗ってのぞみを迎えに行った。

昨夜の熱はすっかり下がりきっていて退院しても問題なかった。

 

「ありがとうございました」と僕は医者にお礼を告げ、

のぞみを連れて病院を後にした。

 

のぞみを車の助手席に乗せ、自分は運転席に座った。

家までの道は10分程度のドライブになる。

 

「もう気分悪いとかないか?」

 

僕はハンドルを握りながら話しかけた。

 

「うん、もう大丈夫、お腹すいたけど」

 

「そっか、帰ったらママがご飯作って待ってるよ」

 

食欲があるという事はもう大丈夫だと僕は思った。

引っ越しに伴うストレスが原因だと感じていた僕は、

なんだか後ろめたい気持ちが何処かにあったのだが、

すっかり回復したのぞみを見て安心した。

 

「明日からはまた学校だな、大丈夫か?」

 

転校先の学校に行った時、のぞみは緊張していたらしい。

僕に似て少しおとなしいところがあるのぞみは、

真由子からすれば心配の種になるみたいだ。

 

「うん、大丈夫」

 

のぞみはそう簡単に答えた。

 

「・・・前の学校のお友達とは離れてもずっとお友達だから。

 それにパパがよく言ってるじゃん、未来はキラキラしてるから、

 きっと新しい友達がたくさんできるよって」

 

子供は親の言葉をよく聞いているんだなと思った。

そして僕は自分がそんな事を言っていたんだと気がついた。

人は自分の言葉にそれほど注意を払っていない。

自分が周囲に対して無意識で何を話しているのかは、

こんな風に鏡のような役割を果たす子供から学ぶ事も多い。

 

「そうだね、きっと大丈夫だよ」

 

僕はそんな風に答えた。

それはあの日、文化祭を最後に転校してしまった彼女に対して、

何も声をかけられなかった分も含まれている気がした。

 

 

・・・

 

 

「ママただいまー!」

 

のぞみは帰ってくるなりそう叫んだ。

部屋の奥から真由子が出てきて僕らを出迎えた。

 

「のぞみ、もう大丈夫?」

 

「うん、大丈夫だよ!」

 

元気なのぞみの姿を見て真由子も安心したようだった。

昨夜の出来事を通じて、僕らの夫婦仲もさらに良くなった。

そのまま三人でのぞみの明日の学校の準備を始めた。

 

「靴や体操服は使い回したらいいらしいわ」

 

真由子は転校先の学校へ行って色々と聞いてきたらしい。

新しく買い換えるのももったいないので、

本当に必要な物以外はむしろ使い回してくださいとの事らしい。

 

「そっか、じゃあ新しい物って言うと名札くらいのものか」

 

前の学校で使っていた名札には「児玉坂小学校」と書かれているので、

これはさすがに使えないので新しい物が必要だった。

真由子は準備がよく、もうすでに新しい名札を手に入れていた。

 

「じゃあ後は名前を書くだけだな」

 

僕が名前を書いてあげようとすると、のぞみは自分で書くと言いだした。

前の学校で漢字を習ったから自分で書きたいらしかった。

 

「それなら書いてみるか?」

 

「うん」

 

僕がペンを渡すと嬉しそうにのぞみは名札に向き合った。

真剣な顔をして自分の名前を名札に書いていく。

あまりにも真剣な顔をしているので僕は横でそれを見て微笑んでいた。

 

「書けたよ~!」

 

僕が少しだけよそ見をしている間に、書けた事をアピールしてきた。

 

「そうか、見せてよ」

 

僕がのぞみにそう告げると、嬉しそうに名札をこちらへ向けてきた。

そこには不器用ながらも一生懸命に書いた彼女の名前が見えた。

 

 

 ・・・

 ・野・

 ・仲・

 ・希・

 ・望・

 ・・・

 

 

「あら、うまく書けたじゃない」

「へへへ」

 

褒められて嬉しそうな希望は、真由子について行ってしまった。

もうお腹が空いて昼食が待ちきれないのだろう。

 

僕は一人残されて彼女が書いた名札を見つめていた。

僕が名付けた娘の名前。

それは僕があの日に見た確かな光。

 

「パパ~ご飯できたよ~!」

「はーい!」

 

僕は希望の呼び声を聞いて立ち上がり、真由子の待つテーブルへ向かった。

そこには真由子が作ったオムライスに向き合いながら、

ケチャップを持って名前を書いている希望が嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

 

ー終幕ー

 

君の名前は希望 ー自惚れのあとがきー

 

 

この物語を書こうと決意した日は忘れもしない。

2015年12月17日、目を疑うような知らせが舞い込んできた時だった。

アンダーライブ日本武道館での突然の発表だった。

 

そして翌年2016年1月7日の驚くべきブログでの発表がさらに僕の背中を押した。

盤石だと思っていた世界が、突然音を立てて崩れていくような喪失感を覚えた。

 

「君の名は希望」の小説があったら読みたい。

筆者はファン心理からずっとそう思っていた。

けれど、それは叶わないだろう事も同時にわかっていた。

 

それはこの曲が持つ世界がすでに完璧に確立しているからだ。

歌詞と楽曲が完璧に融合して既に奇跡的な美しさを実現しているのに、

そこにわざわざメスを入れて手を加える何かを生み出そうなんていうのは、

それは愚か者しか飛び込まないハイリスクの領域だと言える。

そんなリスクを取って、さらに既にある完璧を凌駕しなければならない。

誰も手を出さないし実現不可能だと思われるそんな取り組みには、

産みの親である秋元先生だって容易には手を出さないだろう。

 

それでも筆者はいつか書こうと思っていた。

筆者のような人間には別に何も失うものなどないし、

ハイリスクであっても何も問題はないからだ。

素人が遊びで何をやっていたって別に構わないと思っていた。

 

そうだとわかっていても、ここにはなかなか手を出せなかった。

自分の中で機が熟した時、そこに着手しようと思っていた。

それはおそらく、あと1年か2年か3年か・・・。

 

筆者はとても愚かだった。

それを教えてくれたのが冒頭の二つのニュースだったのだ。

無情にも時は流れていく、変わらないものなどない。

伝えなければならないのは今だと知った。

今ここにある感謝の気持ちを伝えなければきっと後悔する。

そんな事を思った。

 

粗削りでも、不格好でも構わないと思った。

ただ筆者の胸中に見える物を一生懸命に書こうと思った。

 

 

この物語には特定のメンバーは誰も出てこない。

誰かを想起させるような言葉を少しだけ織り込んでいる程度だ。

この物語に登場する主人公の好きな「彼女」というのは、

それは様々なメンバーの総体だと捉えてもらえればいいと思っている。

 

作風としては比較的に歌詞に沿っている流れを取っている。

オリジナルを尊重しながらも、筆者の想いを込めようと思った。

筆者的には誰にでもわかりやすいポップミュージックを作曲したような気がしている。

自分一人ではこういう作品は書かなかっただろうし、

おそらくもっとひねくれた内容にアレンジしてしまうからだ。

だがそれを止めてあえてシンプルに進めていこうと思っていた。

 

筆者はこんな風に書いてみたけれど、しかし本来的にはこんな事は蛇足である。

歌詞の世界には余白があり、それが背後に無限の可能性を残している。

そこに余分な筆をくわえて物語を生み出すという行為は、

本来残されている余白を埋めて固定化しようとする試みになる。

これは美しい余白を汚してしまう行為だと言うことも言えるからだ。

 

だから筆者が断っておきたい事は、これは多数ある物語の一つの可能性に過ぎないと言うことだ。

目に見える形にはなっていないかもしれないが、本当はファンの人の数だけ無数に物語は存在し、

そこには様々なストーリーを持つ「君の名は希望」があるはずだからだ。

 

 

物語の中に登場する幾つかの人物の名前については、

特に何か意味があってつけているわけではない。

何かをつけなければいけないからたまたま拝借しただけだ。

別に深読みしないでもらえれば幸いである。

 

 

伝わったかどうかはわからないが、ここで書きたかったのは感謝である。

流れていってしまう時間と、やがて終わってしまう活動を、

惜しまないと言えば筆者は大嘘つきになってしまう。

それでも忘れないだろうし、ふとした時に思い出すだろうし、

そういう物をただこの機会に書き残しておきたかった。

 

もし本作が何も伝える事ができなかったならば、それは筆者の力不足である。

もし何かを伝える事ができたとするならば、それはこの曲が本来持っている魅力だと思う。

 

いま筆者が感じているのは、ただただこんな美しいグループに出会えて幸せだという事実である。

どうか彼女たちが、これからも誰かの希望であり続けて欲しいと願ってやまない。

 

 

 

 

ー終わりー