あなたのために誰かのために ー冬ー

4月中旬、桜満開の春。
ライブ会場は3万人の観客の熱気が渦巻いていた。

レイナはステージ袖で自分の歌う順番を待っていた。
そこから、自分を応援してくれているファンをぐるっと見回し、
早くもジーンと胸に込み上げてくるものがあった。

最後のライブから半年以上のブランク。
不安がないと言えば嘘になる。
しかし、レイナの心はそれ以上に決意に満ちていた。
誰かのために歌いたい。
そう思ってライブに臨むのは、実はレイナには生まれて初めての経験だった。


・・・2ヶ月前・・・


「やっぱり、私には才能なんてなかったのかな」

レイナはそう呟いてペンをパタリとテーブルに落として、
自分も後ろへドサリと倒れて天井を仰いだ。
テーブルの上にはノートがあり、書いては塗りつぶし、
書いては塗りつぶした筆跡が残っていた。

2月中旬、寒さの厳しい冬の季節の折、
彼女は冬眠に入った動物のように、部屋に篭りきっていた。


レイナは、スランプに陥って歌詞が全く書けなくなっていたのであった。


1年半前、新人ロックバンド「ホイップ」のボーカルとして鮮烈なデビューを果たし、
わずか20歳という驚異的な若さであっという間に音楽業界のトップに君臨し、
その年は毎日朝から晩までTVやライブに奔走する日々を送っていた。

デビューから1年間、文字通り眠る間もほとんどなかった。
しかし、メンバーからの要請に応じて新曲の歌詞を書くことには全く問題はなかった。
歌詞を書くことは「ホイップ」ではレイナの担当分野であり、
彼女の若い感性を生かした自由奔放な歌詞のスタイルは、
今時の若者を中心に圧倒的な支持を集めていた。

レイナが得意としたのはロック調のノリの良い曲で、
それは見た目が清楚で美人なお嬢様だったにもかかわらず、
ステージ上のパフォーマンスはまるで人が変わったようにセクシーだという、
彼女のキャラクターのギャップによる魅力を生み出していた。


また、声質はとてもクールで妖艶なものであり、
まるで『アメジスト』のような妖しい紫色の色気を帯びていて、
一度耳にしたら聴衆を虜にさせる、不思議な魅力がそこにはあった。
そして、彼女の声質はロック調の曲とまさしく相性がよかった。
シャープに尖ったナイフのような鋭さと、
堕天使のような危うい雰囲気を兼ね備えてステージ上に輝く様は、
彼女を支持する若者の間で「ロックの女帝」と評され、
とある雑誌には「アメイジングなロックシンガー」とまで絶賛された。
まさにカリスマを絵に描いたような1年を過ごしたのであった。


それが、この無様であった。

天井を見つめたレイナの瞳には全く力は残っていなかった。
スランプに陥ってもう既に半年が過ぎた。
いまだに一曲も新しい歌詞はかけていない。

それでも本人に全く焦りが見られないのは理由があった。
この歌詞はバンドに提供する歌詞ではなく、自分で自由に書いているものだったからだ。

では「ホイップ」は?

昨年末、歌詞が全く書けなくなったレイナに見切りをつけ、
解散に踏み切られたのであった。
結成からわずか1年4ヶ月という短命バンドであった。
巷では、いまだに「ホイップ」の解散を惜しむ声が多いが、
他のバンドメンバーは既にそれぞれ別の道を歩み始めており、
再結成の道は、レイナも期待していなかった。


しかも、レイナのスランプは歌詞を書くことだけに留まらなかった。
彼女はもう、歌を歌うことすら満足にできなくなっていた。
何を歌っても今までのように上手く歌えなかった。
1年間もムチャなスケジュールをこなしてきたツケが回ってきた、
とは本人談だったが、理由が別のところにあることは自分が一番よくわかっていた。


「もはや、立ち上がる気力もないわ・・・」

ひとりごとのように呟いて、体をゴロンと反転させてTVのリモコンを掴み、
そのままピッと電源をつけた。

時刻はまだ午前10時半ごろ、平日だからワイドショー番組が多かった。
適当にザッピングをしていると、ある女性が映っているチャンネルで手を止めた。

「・・・はいはい、また出ましたよ、おおこりゃこりゃ」

TVには派手な身なりをした若い女性が写っていた。
まひるであった。レイナはもう何度もTVに登場するまひるにいささかうんざりしていた。

「関西の歌姫様・・・大変お忙しゅうございますことで」

まひるは関西出身の人気歌手だった。
レイナがスランプに陥る数ヶ月前、音楽業界に燦然とデビューを果たした大型新人で、
年齢もレイナの一つ下でそう変わらない事から、当時は何かと比較される対象だった。
彼女はR&Bやヒップホップ系の音楽をベースとしており、
激しいダンスと大胆な衣装が特徴の、とても声量のある歌手であった。

他にもレイナと異なるところは、関西出身の為か明るくて飾らない性格で、
歯に衣着せぬ物言いでも人気を得ていた。
レイナがまだ活躍していた当時、音楽業界はこの2人で人気を分けていたが、
レイナがスランプに陥った現在は、もはや音楽業界はまひるの独壇場であった。


ワイドショーのコメンテーターが媚を売るようなコメントをしているのを見て、
レイナは嫌気がさした。もっとも、1年前は自分が同じようなコメントをされていた際、
彼女は無邪気に喜んで有頂天になっていた。
レイナは、素直と言えば素直だが、少し子供じみた性格でもあった。


「まひるさんにとって歌うとはなんですか?」
というインタビュアーの質問に対して、まひるは躊躇せずに「キモチ」と答えた。

「なんやかんやゆうて、歌はやっぱりキモチでしょ。うちはそう思います。
 なんぼええ声してたって、キモチなかったら伝わらんし」

コメンテーター達がその回答に大げさに賛辞を送る。
毎回毎回、同じような内容なのに、
みんなよく飽きずにこんな番組ばかり観ているものだとレイナは思った。

「誰も彼も、私の気持ちも知らないで・・・バカヤロー!」

レイナは拗ねた子供のような声を上げてTVの電源を切って、
手をおろしてくる勢いのままにリモコンを放った。

ガチャンと音がしてリモコンは地面に落ちたが、
レイナはゴロンと反対側を向いて目をつぶった。

最近では、このような日々がもう数ヶ月も続いていた。


・・・


突然、電話の着信音が鳴り、レイナは寝転んだまま、
テーブルの上に置いてある携帯電話を手探りで掴もうとした。

手をかさかさとテーブルの上で左右に動かし、
携帯電話の感触を掴み、一気に顔の前に引き寄せた。

「もしもし?レイナ?起きてた?」

電話の相手は親友のりさだった。
レイナは思わず嬉しくて口元が緩むのを感じたが、
いつも通り、少しおどけながら答えた。

「失礼だなぁ君は・・・お昼前のこんな時間に私が寝てるとでも?」
「またそんなこと言って・・・前回電話した時に寝てたの誰よ」
「あれはたまたまであって、私が四六時中寝てると思ったら大間違いだよキミ」
「・・・相変わらずめんどくさい子ね」

もぅ、という感じの対応を見せるりさではあったが、
レイナの子供じみた絡みかたにはもう慣れっこだった。
別にレイナは根が悪い子ではないし、りさはりさで、面倒見が良い性格だったのだ。

「まあ、どうせゴロゴロしてたんだと思うけど、ちゃんと体も動かさないとダメよ。
 ところで、今日は外回りでまたレイナの家の近くまで行くんだけど、
 また前みたいにどこかでランチでもどう?
 どうせ、まだお昼の用意とか何もしてないんでしょ」

レイナはりさの指摘どおり、果たしてゴロゴロしているだけでお昼のあてはなく、
エサを差し出された飼い犬のように、心の中では尻尾をフリフリしていたが、
言葉にはその様子を決して表さずにおどけた様子で返答した。

「うむ、まあ君がそこまで言うのなら付き合ってあげても構わんよ」
「またそんな言い方するんだから・・・別に無理にとは言わないけど?」

りさはちょっといじわるそうにエサをひょいと引っ込める。

「あわわわわ・・・私がわるうございました、ぜひ、ご一緒させていただきます」
「ふふっ、最初からそう素直になりなさいよ。
 じゃあ、1時間後に児玉坂駅前の『バレッタ』で待ち合わせでいい?」
「うん、じゃあそんな感じで」

電話を切って携帯電話をテーブルに戻し、
「いよっと」という掛け声と共に体を起こし、あいたたた、となった。
体を「うーーん」という声と共に思いっきり伸ばしてみた。 
反動で「あぁ!」という声と共に一気に脱力、これで21歳である。

「あー、身体なまりすぎてて、ほんとやばい。
 服、何着てこっかな・・・。」

レイナがこのように始動するのは、りさから電話があった時だけであった。


・・・


レイナが待ち合わせ場所である「バレッタ」に到着したのは12時半で、
約束の時間より10分遅れてのことだった。
店に入っていつもの席の方を見ると、りさが先に席に座って待っていた。
その席は通り道に面して窓があり、外の景色が一望できるりさのお気に入りだ。
レイナは申し訳なさそうに照れ笑いを浮かべながら小走りに席に駆け寄った。

「ごーめん、待った?いや、ちがうのよ、自転車の鍵が見つからなくてさあ・・・。
 いつもあそこに置いてるんだけどなぁ、ほんとおかしいわー」

レイナはりさがまだ何も言っていないのに言い訳を並べ立てた。
りさもレイナのいつも通りの行動パターンに、もう怒ることもなかった。

「とりあえず、座ったら?」

りさの言葉にレイナは申し訳なさそうに肩をすくめて着席した。
いたずらがばれて叱られている子供みたいな顔をしていた。

店内にはDavid Guettaの「Crank it up」が流れていた。

レイナに気づいたウエイトレスが水を運んできて、
りさはデミグラスソースのオムライスセットを、
レイナはミートソーススパゲティのセットを注文した。
どうでもいい話だが、このカフェのウエイトレスは皆、
髪に蝶のバレッタをつけるのが決まりらしい。
あと、店長はなぜか、いつもカウンターの端っこの席で、
仕事もせずにヘミングウェイの小説を読み続けている。
今日はどうやら「日はまた昇る」だった。

ウエイトレスが注文を書き留めて立ち去ってから、
レイナは申し訳なさそうにおそるおそる口を開いた。

「忙しいのにわざわざごめんね」
「別に大丈夫よ、待ち時間もちゃんと有効活用してるから」
「それにしても、りさってほんとこのお店好きだよね」
「ふふ、ここはね、私の原点なのよ」
「えっ、どういう意味?」
「ちゃんと、わかる人にはわかるの」

残念ながらレイナには意味がわからなかったが、
いたずらな笑みを浮かべるだけで、りさはもう話題を切り替えた。

「で、調子はどうなの?」

レイナは少しうつむき加減に答えた。

「うん・・・やっぱりダメみたい。
 私には元から才能がなかったんじゃないかなぁ」


「ホイップ」に提供する歌詞が書けなくなった後、
バンド解散につながってしまったため、レイナはしばらく何も書かなかった。
そんな時、「とりあえずなんでもいいから書いてみたら?」と、
歌詞を書くことを勧めてみたのがりさであった。


「やっぱさ、あれなのよ、私ってさ、ほらストイックじゃないほうじゃん?
 こういう自由に書くっていうのはさ、きっと向いてないんだよね。
 とりあえず適当にやってください、って言われるのが私一番苦手だし」


レイナは自分の髪を指でクルクルといじりながら話をしていた。

「そっか・・・でも何か書かないと、このままどうするつもりなの?
 あなた今は仕事を休業しているって身分なんでしょ?
 そんな状態、いつまでも続けられるわけじゃないんだから」

「それは・・・わかってるけどさぁ、なんていうかね・・・あれよ、あれなのよ」

レイナが適切な言葉を見つけ出せずにいると、少しの沈黙の後、りさが口を開いた。

「やっぱりあの雑誌の事件のことをまだ気にしてるの?」

レイナは目線を下へ向けたまま少しだけ悲しそうな顔になった。
彼女の特徴として、溢れる喜怒哀楽をコントロールすることは難しく、
感じたこと、思ったことは全部と言っていいほど顔に出る。
それは、時に彼女の長所であり短所であった。


数ヶ月前、「ホイップ」が突然の解散宣言を行った後、
メディアはこぞって解散の理由を追いかけた。
表向きの理由としては「音楽の方向性の違い」と発表されたが、
何も入念に調査もしていないある雑誌社が、
解散の理由はレイナだと決めつけ、彼女のスクープ記事を載せた。

その内容は非常にデタラメな内容で真実ではなく、
タイトルは「ポンコツシンガー再起不能」というものだった。
歌えない、歌詞が書けないという記事の内容は一切なく、
結局、根も葉もない噂話を記事にしたもので、
レイナはこの記事に大きく心を傷つけられた。


この記事が出る前までは、彼女も一生懸命努力する姿勢はあり、
バンドの為に書こう、歌おうとする傾向はきちんとみられていた。
だが、この記事以降、急速に意欲をなくしてしまったのは明らかで、
りさはみるみる堕落していくレイナの生活を心配していたのだった。

「いやぁ・・・もう別に気にしてないけどさ。
 こういう仕事って調子いい時はお世辞に乗せられて、
 調子が悪くなると、こうやって根も葉もない噂で叩かれて、
 なんかそういうのは身をもって体験したかなぁってだけ」

テーブルに肘をついて両手にほっぺたを乗せて、真面目な顔をしてレイナは言った。

そのタイミングで、ウエイトレスが注文しておいた料理をテーブルに運んできて、
二人はとりあえず料理に手をつけることにした。

レイナは、左腕で頬杖をつきながら、右の手でフォークを掴み、
さっき髪の毛をクルクルさせていたのと同じように、
不機嫌そうな表情でスパゲティをクルクルさせている。


「あの事件は、本当にひどい事件だったと思うよ。
 レイナは何も悪くないし、結局向こうは何の謝罪もなかったんだし」

りさも食事の手を止めて同情の視線をレイナに注いだ。
ビー玉のように透き通った瞳は、見つめていると吸い込まれそうでもあり、
慈愛に満たされた表情をする時のりさは、本当に優しくて美しかった。

「でもさぁ、あれは一つのキッカケに過ぎなかったと思うの。
 だってスランプはその前から始まってたし、結局、あの事件が、
 ・・・ほら、私けっこう気にするタイプじゃん?
 だから結構落ちるとこまで落ちちゃったと思うんだけどね。
 でも、根本的な始まりはそこじゃなかったと思うの・・・」

レイナは今までにない真面目な顔で、だがずっと下を向いて話をしていた。
りさは、少し考えた後、できるだけ感情を込めない言い方で口を開いた。

「・・・かずきのこと?」


・・・


レイナとりさが初めて出会ったのは大学の頃だった。

児玉坂大学の二年生の頃、りさは「ブラウンアイズ」というバンドを組んでいて、
そのバンドのギタリストがかずきであった。

かずきはりさの一つ年下で一年生であったが、
大学に入ってからはバンドを組んで音楽活動をしたいとを考えていて、
入学してからすぐに同級生のメンバーを集めてバンドを組んだ。
プロデビューを目指すためには強力なボーカルが必要だと考えていたが、
同級生にはかずきの求めていた理想のボーカリストは見つからなかった。

りさは小さい頃から歌手になるのが夢だった。
子供の頃から歌を歌うのが好きで、
将来歌手になるためには何が必要か、
しっかりと計画的に考えて努力を続けてきた。
元々は一人で色々とオーディションを受けたりしていたのだが、
友人の紹介でかずきがバンドのボーカルを探していることを知り、
その歌声に惚れられて、加入への熱烈なオファーを受けた。
りさは、かずきの熱烈なオファーがあったこともあり、
これも将来の良い経験になると考えて参加を決めたのだった。


「ブラウンアイズ」結成の年、学園祭で曲を披露した2人は、
大学外にも知られるほどの有名人になった。
りさの歌声はまるで『アクアマリン』のように澄んでいて、
その慈愛に満ちた声質は、聴くものの心を溶かすような「天使の美声」と噂された。
特に、その声質はミディアムからスローテンポのバラードなどと相性がよく、
その手の曲を歌わせれば彼女の右に出るものはいなかった。

学園祭での大成功を収めたりさとかずきは、
将来のプロデビューの夢を真剣に模索し始めた。
互いに曲や歌詞を書き、切磋琢磨するように音楽を磨き続けた。
「ブラウンアイズ」は音楽関係者の間でも密かに有名になり、
将来のプロデビューの可能性は日に日に現実味を帯びてきていた。


その翌年、レイナは一年生として同じ大学に入学してきた。
彼女は生粋のお嬢様という雰囲気の育ちであり、
小さい頃から色々と習い事をやっていたこともあり、
音楽の素養は多少あったにせよ、特に歌手を目指していたわけではなかった。
大学に入ってからも、特に音楽活動をしようとは考えていなかったが、
新入生歓迎会で「ブラウンアイズ」のメンバーと知り合いになり、
なんとなく披露した歌声をかずきに絶賛され、バンド加入のオファーを受けた。


当時、「ブラウンアイズ」はりさだけでも十分な人気を得ていたが、
かずきはレイナの才能を誰かに取られてしまうのはあまりに惜しく思い、
ツインボーカル体制でのバンド形態をメンバーに推薦した。
レイナは人見知りでもあり、ガツガツした性格でもなかったので、
初めのうちは特に興味も持たなかったが、かずきのしつこいオファーにより、
最終的には加入を決意したのだった。

レイナの加入によりツインボーカル体制を採用することもあり、
音楽性やバンド名についても再検討が進められた。
バラードのりさ、アップテンポのレイナというそれぞれのソロの曲調の使い分け、
時には二人のツインボーカルでの掛け合いやハモりなど、
バンドとしての音楽性は彼女の加入によって圧倒的な進化を遂げた。
これを機にバンド名も改められ、「Ms.カミナリ」と名付けられた。


レイナが加入した年の学園祭は、「Ms.カミナリ」の演奏を一目見たいファンが、
はるばる遠方から足を運ぶほどの大盛況となった。
音楽業界人、他大学の学生など、多くの人が学園祭に駆けつけ、
その年の学園祭は昨年以上の大成功を収めることになった。


しかし、翌年に就職活動を控えるりさは、
学園祭を終えた後、突然にしてバンドからの脱退を宣言してしまった。
彼女は一切の音楽活動をやめてしまい、OLを目指して就職活動を始めた。
レイナもかずきもりさに残るように説得を試みたが、
りさの信念は揺らぐことはなく、結局彼女はその後、普通に就職してOLになった。


りさの抜けた「Ms.カミナリ」はレイナのソロボーカル体制へ移行し、
バンド名も「ホイップ」に改められた。
アップテンポの激しいロック調の音楽を中心としたことから、
当時の音楽関係者の目に止まり、ついにプロデビューのスカウトがきた。

しかし、スカウトされたのはレイナただ一人であり、
かずきを含めた他のメンバーは大学内で別のバンド活動を続けることになり、
「ホイップ」のバンド名とレイナだけを取り上げられてしまった形になった。

結局、最終的にレイナはバンド活動を最優先にするため、
しぶしぶではあったが、一人通信制の大学へ移り、
音楽関係者が準備した別のメンバーとバンドを組み、
「ホイップ」のバンド名でデビューを果たした。


・・・


かずきが亡くなったという知らせが入ったのは、
ちょうどレイナがスランプに陥る数ヶ月前の事だった。

レイナはその頃「ホイップ」の活動が多忙を極めており、
りさから知らせを受けたが、かずきの元へ駆けつける事もできなかった。
かずきは他のバンドメンバーと車で移動中、交通事故に巻き込まれたのだった。

結局、りさはかずきの式に参列したが、レイナは叶わなかった。


・・・


レイナは、りさがかずきの名前を口にした後、
しばらく複雑そうな顔をして黙っていた。

店内の音楽はいつの間にか、Justin Bieberの「Be alright」に変わっていた。

レイナはゆっくりと口を開いた。

「・・・そう、結局、あれが始まりだった。
 あの当時は忙しすぎて、一体何がどうなってるのか理解できなかったけど。
 かずきの最期に立ち会えなかった事はとってもショックだったし、
 正直、今でもかずきはどこかで生きてるんじゃないかって思うくらい」

りさは同情の顔をより深めるようにしながら尋ねた。

「・・・それが、今回のスランプの原因なのかな?」

レイナは少し考えた様に窓から見える景色を見つめながら言った。

「うーん、それは正直ちょっとわかんないの。
 私もずっと色々と考えてきたけど、もうあれから半年も過ぎたのよ。
 私だってその知らせを聞いた後、一人で何日も泣き続けたし、
 でもさすがに2ヶ月も3ヶ月も経つと、いつまでも涙は出なくなったしさ。
 確かに、その辺りから歌詞も書けなくなってきたし、
 歌も上手く歌えなくなってきたけど、でももう彼の事は受け入れたし、
 もしそれが原因だとすれば、じゃあどうすれば元に戻れるのかわかんない」

レイナはフォークでクルクルしていたスパゲティを口に運んだ。
食欲だってちゃんとある、という事をアピールしたかのようだった。

りさは水を飲んで喉の渇きを潤してから、
慎重に言葉を選ぶ様な面持ちで言った。

「・・・でも、昔付き合ってた男の人が亡くなって、
 そう簡単に受け入れられるものなのかしら?
 私だったらもっと引きずってしまうような気がするけど・・・」


レイナも同じような神妙な面持ちになって答えた。

「・・・そりゃ私だって全く引きずってないと言えば嘘になるけど、
 私はりさみたいに優しい人じゃないしさ・・・。
 もちろん、今までの人生で一番泣いたよ。
 これでもかってくらい一人で部屋で落ち込んで泣いた。
 でも、「ホイップ」の仕事も忙しかったから、
 正直いつまでも泣いていられなかったし・・・。
 そう考えているうちに、もう涙は出なくなっちゃったのかも」

りさは複雑そうな顔で黙って聞いていた。
レイナは話を続けた。

「だから、もうこれ以上かずきに原因を求めても、 
 私にはどうすれば立ち直れるのかわからない。
 きっと他にも色々と理由はあってね、でも、ほら私ってさ、
 いろんな事をいっぺんに出来ないタイプじゃない? 
 色々と考えると余計に動けなくなっちゃうし・・・
 は〜あ、やっぱりダメだ、こういう話をすると、 
 私ってどこまでも暗くなっちゃうのよね・・・」

レイナは子供がシュンとする時のような表情になってしまった。
りさはこういう顔をされると、母性本能がくすぐられるのか、
より一層、レイナに対して何か助けてあげたい衝動に駆られてしまう。


「そうね・・・でもきっと大丈夫よ。
 きっと理由は複雑に絡まってるからすぐには見えないだけ。 
 ほら、お花だって咲くには時間がかかるじゃない?。
 すぐには解決出来なくても、きっと昔みたいに歌えるようになるから」

困った人を絶対に放っておけないりさのような人間は、
誰かを助ける、励ますという行為を通じて、
その人間が持っている魅力を爆発させる。
この時のりさの顔には、何かとても美しい物が見えた。
そういう慈愛の精神が、彼女の歌声にも表れているのであった。

二人はしばらくの間、沈黙を保つことになった。
話が止んだ時、どうやら店内に響き渡るJustin Bieberの歌声もレイナに告げていた。

(Don’t you worry, Cause everything’s gonna be alright…)


・・・

「すみませーん」

りさは店員を呼んでデザートを追加してもらえるように頼み、
デザートはすぐに運ばれてきた。
りさはココナッツミルクヨーグルトを、レイナはショートケーキを注文した。

りさの店員への呼び声はよく澄んで、相変わらず美しい声だった。
レイナはその声を聴いてから言った。

「りさの声、ほんっと相変わらずよく通るよね。
 もう私の代わりにりさが歌詞書いて歌ってくれたらいいのに」

りさは少し嬉しそうな顔をして見せたが、母親のような厳しさを忘れず、

「何言ってんのよ、それはあなたの仕事でしょう?
 私はOLなんだから、OLの仕事をしてお金を稼ぐの。
 あなたはあなたのやるべき事があるんだから、甘えないで」

「え〜、りさ冷たいよ〜!」

レイナは別に一人の時はちゃんとしっかりしているのだけれど、
甘えさせてくれる人がそばにいる時は、どうしても子供みたいに甘えてしまう。
こういう時、りさは「私はそばにいない方がいいんだろうか?」と悩む事もある。

「全くもう・・・子供みたいなんだから。 
 いつまでも甘えないで、ねぇ、私のヨーグルトちょっと食べる?」

「あー、ごめん、私ココナッツミルク好きくないんだよね・・・。
 しかも固めのヨーグルトはちょっとNGな感じで・・・。 
 てか牛乳が無理なんだよなー・・・。
 生クリーム嫌いだからさぁ・・・あっ、でもショートケーキは大好物なの!」

「えっ、でもこの間、そこの近くの『チンゲンサイ』って中華料理屋で、
 レイナ杏仁豆腐食べてたよね?あれってココナッツミルクでできてるんだけど」

「えっ、あれ?それは大丈夫みたい」

「・・・あんたホント意味わかんない!」

レイナは自分の好き嫌いの多さを別に悪い事だとは思っていない。
好き嫌いの少ないりさからすれば、こういうのは時にちょっとイラッとすることもある。
しかし、りさは友達の間で好き嫌いを強制するほどやかましくはなかったし、
レイナが細かい事を指摘されるのが嫌いな事もよくわかっていた。

ちなみに、人間は好き嫌いや食べる順番などで、その性格がわかるような気もする。

参考までに、レイナはショートケーキのイチゴを最初に食べるタイプだったし、
もっと言えば食べる順番にはあまり強いこだわりはなかった。

りさは最初に少しだけ好きな物を食べるが、
好きな物は全部食べずに残しておいて、先に嫌いなものを食べた後で、
最後に残しておいたものをパクりと食べるタイプであった。


「まあいいわ、とにかく、もうちょっと歌詞を書くの続けてみなさいね。
 人間、為せば成るのよ、諦めちゃだめよ」

レイナはちょっとふてくされた子供のような顔をして言った。

「え〜、もう行っちゃうの?さみしいよ〜」

「OLはね、ゴロゴロしてるだけじゃ食べていけないの。
 ちゃんとお金を稼がなきゃいけないんだからね。
 あんたも、一人でさみしいかもしれないけど、
 諦めずにもうちょっと頑張ってみなさい。
 忘れないで、何もなくても、人間は生きてるだけで丸儲けなんだからね」


「・・・頑張ります」


二人はお会計を済ませて「バレッタ」を後にした。

お会計の時、レイナは奥に座っている店長をチラ見した。
店長は相変わらずヘミングウェイの「日はまた昇る」を読み続けていた。


・・・


レイナがりさと「バレッタ」で食事をしてからもう一週間が過ぎていた。

あれから、レイナは何度も何度も歌詞を書こうとチャレンジしてみた。
ロックな曲に似合いそうなカッコイイ言葉を探してみたり、
何か自分の声質に合いそうなセクシーな言葉を書き並べてみたりした。

しかし、結局何も書き上げることはできなかった。

りさは冷静な論理的思考と、豊かな博愛の精神で構成されていて、
わりと物事を順序よく、冷静に分析して解決していくことができる。

一方、レイナはもっと直感的なタイプだった。

例えば、服を買いに行く時に、直感で全てを選んでしまうと、
帰ってきてから服の色が全て同じ色だった、ということもある。

調子に乗って飲みたい飲み物をたくさん摂取して、
後で胃腸に負担がきてから後悔する、ということもある。

制御できない感情表現から、喜怒哀楽が大きいのだと思われ、
しかもその感情を振り回しながらドンドン直感で進む結果である。
嬉しい時は太陽のように笑い、沈む時は海より深く沈む。
普通の人間より振れ幅が広い分、喜びも悲しみも人より大きいのかもしれない。

しかし、だからこそ、ある種のユニークで自由な、天才的な結果を生むこともある。

時に描き出す奇抜な絵や、常人とは異なるボキャブラリーのセンス、
選ぶプレゼントの独特なチョイス、服や音楽の好みの幅広さと気分次第の選択。

もちろん、彼女の本業であるステージ上での人が変わったようなパフォーマンスも然り。

少し脱線するが、彼女が直感の人であると思われるエピソードとして、
「焼肉」より「焼いた肉」や「焼かれた肉」もしくは「焼いてみた肉」、
などという表現が好きだというものがある。

一見、さっぱりわからない。
本人も、言葉では説明できない、だが確かに何かを感じている。

ひょっとするとそれは、「焼肉」という名詞が帯びる静止的な印象より、
「焼いた肉」が持つ主体的行為性、「焼かれた肉」が持つ受動的行為性、
「焼いてみた肉」の持つ、軽い試験的な主体的行為性が持つ、
(それが主体的もしくは受動的にせよ)静止的な名詞が持たない、
言葉の中に秘められた「行為の持つ動態」を好んでいるのではないだろうか?

もしその仮説が正しいとするのであれば、
彼女の脳内は、ひょっとすると、激しく直感が常に動き回っていて、
止まっているよりも活発に動くことを欲するような、
そういう本能的な精神を持ち合わせているのではないかとも思われる。


さて、長々と直感的であるということを述べてきたが、
論理的に考えるということができないというわけではない。

もちろん、レイナは育ちもよく、才能に溢れていて、
何をやらせてもそつなくきちんと頭で考えてこなすことができた。
芸術、スポーツ、勉強、全て人並み以上にできたし、
それを彼女自身は努力をしていたと自認していたと思うが、
正直なところ、それは多分に才能が多くを助けてくれていた結果と言えた。

例えば、歌が上手くない人、足が速くない人、勉強が得意でない人に対して、
彼女は軽蔑するような無礼な気持ちは一切もたなかったが、
それは努力の差であるという風に多少は考えていた。

しかし、彼女は非常に優秀であったためか、
自分が努力が足りないとも、また自分は才能に恵まれているとも気づかなかった。
もっと言えば、彼女はあまり周囲と比較する気もないのかもしれない。
競争心がなくとも愛を独り占めできるような環境で育ったのかもしれない。


この物語の中で、レイナがぶつかっていた壁は、
結局は、色々な事情に端を発した「初めての挫折」に過ぎないかもしれない。

しかし、ここまで述べてきたように、 
直感的に全てを恵まれた才能で過ごしてきた人間に、
どこかで一つの歯車が外れたような挫折を乗り越えるのは非常に難しいと思う。

一人では立ち直れない人間が、どうすれば立ち直ることができるのか。
レイナはイライラしながら答えが出ない自分を嫌悪していた。

彼女は、まさしく「立ち直り中」であった。


・・・


その日、レイナは眠ってしまった後、奇妙な夢を見た。

人間に飼われていた一匹の可愛い猫が、飼い主の目を盗んで外へ飛び出した。
初めは広い世界を走り回れる自由に歓喜し、一日中、飛び跳ねて遊びまわった。
知り合った犬と友人になり、色々と話しをして、結局その日は別れた。
やがて自分で夜の餌を探す苦労に疲れ、ウトウトと眠っていた時、
背後で何者かに見られている恐怖を感じた。
その恐怖の源は一匹の美しい虎で、鋭い眼光でこちらを狙っていた。

・・・
 
アリエス、トーラス、ジェミニ、キャンサー♪

レイナがいつものように歌詞を書くチャレンジに打ちのめされて、
疲れて眠り込んでしまった時、彼女の電話に着信があった。
着信音は児玉坂46の「あらためて語られたロマンス」であった。


レイナはゆっくりと眠い体を起こし、携帯電話を見た。
マネージャーからの着信だった。

「もしもし、レイナちゃん?元気してる?
 あのさぁ、悪いんだけど、もしよかったら事務所まで来てくれない?
 さっき部屋の片付けをしてたんだけど、ほらレイナちゃん休業中でしょ?
 申し訳ないけど、私物をちょっと引き取りに来てくれないかな。
 事務所のスペースも限りがあるからさー、悪いけどよろしくね」

マネージャーはこちらの意見を聞くより前に勝手に電話を切った。
もちろん、レイナは自分が意見を主張できる立場でないことはわかっていたが、
こんな形で優しく、じわじわと追い詰められていく自分が惨めで泣きたくなった。
歌えない自分には1円の価値もないのだと考えると、
それはあまりに辛くなるので、もうそのあたりで考えるのを止めた。

服を選ぶのが面倒なレイナは、適当にそれらしい上下のセットアップを身につけ、
上から全身を覆うロングコートを羽織って隠してしまうスタイルで決着をつけた。
そしてマネージャーに言われた通りに私物を引き取りに事務所へ向かうことにした。


・・・

今のレイナの部屋は会社が提供してくれている寮なので、
事務所へは歩いてもそうかからないほどの距離にある。
いつもならすぐに辿り着ける距離ではあったが、
ふと今後、この部屋をいつ追い出されるかもしれないと考え始めると、
足取りは自然と重たくなり、事務所への道はまるでいばらの道にすら感じた。
一歩一歩、足が傷つけられて体力を奪われていくような気さえもした・・・。


ようやく事務所に到着して周囲を見渡すも、
電話をかけてきたマネージャーは見当たらなかった。
土曜日だから出勤している人は少なくて、
数人の社員が好きな音楽を流して自由に残った仕事を片付けていた。
流していた曲はレベッカの「フレンズ」だった。

レイナはとても居心地悪く感じてひそひそと通路を抜けて、
私物を置いていた部屋のドアを開けると、
そこにいたのはマネージャーではなく、なぜかまひるだった。

「あっ、レイナさん、急に呼び出してすいませんねぇ〜」

まひるはレイナを見るなり満面の笑みでそう話しかけた。


・・・
まひると会ったことは2度ある。

1度目はまひるがデビューする時、同じ事務所に所属することになったため、
まひるの方から挨拶にやってきた時。

2度目は同じ歌番組に参加した時、この時もまひるの方から楽屋へ挨拶にきた。


レイナはその当時、自分の仕事が眠る暇もないほど忙しかった為、
いちいち挨拶に来る人の顔や名前など覚えてはいられなかった。
それはとても失礼な話しだとレイナは感じてはいたが、
これだけ忙しいのだから、そこはもう勘弁してほしい、
という風に理由をつけて自分の至らなさに決着をつけていた。

だから、この2度の出会いでも、正直特に何もまともに話しをしたことはなかった。
ただ、年齢も近いから、別に先輩後輩の縛りはなく仲良くやりましょう、
というような話しをしたことは確かだった。
そのように、話しの内容はほとんど記憶に残っていなかったのだが、
ただ、歌番組で初めてまひるの歌声を聴いた時の衝撃は、今でも鮮明に覚えていた。

まひるが歌番組で披露したのは彼女のデビュー曲で、
彼女自身が作詞と作曲を行った「向日葵のような、タンポポのような」という曲だった。

まひるが歌い始めたところで、レイナはその圧倒的な存在感に飲み込まれるのを感じた。
彼女の歌声を、もし宝石に例えるのならば『ゴールデンタイガーアイ』だろう。
彼女が発した声は、まるで満月にむかって吠える虎のように、
力強く一直線に天を貫いた。
しかし、それでいて、なぜかとても繊細な優しさも兼ね備えていた。
その優しさはりさのもつ慈愛の優しさとはまた違った種類の、
それは太陽に向かって咲く向日葵のような、
見るものの心を温かく照らしてくれるような、
そういう類の優しさだった。
ただ、何よりもまひるの歌声には、
レイナとりさが持っていなかった「魂の響き」が宿っていた。
それは貪欲な虎が獲物を追い求め続けた後に得られるような、
そういう特殊な能力の類なのかもしれなかった。


レイナはまひるの歌を聴き終えた後、得体の知れない恐怖感に震えた。
ちょうどこの頃、かずきが亡くなったという知らせがあってから1−2ヶ月後であり、
レイナの精神状態も決して優れていたとは言えなかったが、
その歌番組で披露した自分の歌声は、いまだかつてないほどに酷いものだった。


・・・


「何ボ〜ッとしてんですか?うちの話し聞こえてます?」

レイナは当時の歌番組のことを思い出して呆然としていた。
思い出してからすぐ悟ったのは、この記憶はできるだけ思い出さないように、
自分の心の奥底に沈めてずっと今まで過ごしてきたことだった。

「・・・あっ、ごめん。どうしてまひるちゃんがここに?」

レイナはハッと我に返って自分を整えて返答をした。
しかし、整えるべき自分とは、いったい何者なのだろうとも思った。

「レイナさんが使ってたこの部屋なぁ、まひるが使うことになったんです。
 でも初めはマネージャーさんに、そんなん恐れ多いから、
 うちは別にいいですって言ったんやけど、お前が使えってうるさいから。
 でも、レイナさんまたすぐ戻って来はるやろうし、
 別に私物を置いといてもうちは別に気にせえへんし、
 だからまひるはどっちでもいいです、レイナさんの好きにしてください」

まひるはニコニコとしながら隅っこに片付けられてたレイナの私物を指差した。

レイナは隅っこに片付けられていた荷物を見て、
「ああ、これが今の私の姿だなぁ」と少し感傷的になった。
それほど大きくないダンボール箱に入っていた荷物は、
過去に衣装として使用した私物の白い革ジャンと、
2通のファンレター、今までリリースした「ホイップ」のCD4枚、
ファンの人から頂いた謎の古代生物のぬいぐるみ2点セットだけだった。

「・・・なーんだ、これだけか」

レイナはダンボールを漁って中身を確認して呟いた。
わざわざ引き取りに来てくれなんて言うから高価なものでも置いてたかと思ったが、
どれもこれも、今のうらぶれたレイナからしたら、
何の価値もないガラクタのように思えるものばかりだった。

(別に、全部捨ててもいいかな・・・)

レイナは中身を見つめながら密かに心の中でそう呟いた。
何を取っておいても、すべては過去の栄光にすがっているだけに思えるし、
何より、今はどれもこれも見たくないのが本音だった。
嫌なことを思い出してしまいそうで、見ると頭が痛くなりそうだった。

「何これ〜めっちゃ可愛いやん〜!」

まひるはレイナの後ろからひょいとダンボールを覗き込んで、
古代生物のぬいぐるみを取り上げてそう言った。

「なんか見ためメッチャ気持ち悪いけど、逆にメッチャ可愛くないですか?
 これ送ってきたファンの人、どんな人なんやろ〜?
 まひると同じ関西人ちゃうかな〜、なんか同じ匂いするわ〜」

「・・・そんなに欲しいなら、あげよっか?」

まひるの持つ天然な明るさは、今のうらぶれたレイナには少し眩しすぎた。
無邪気に纏わりついてくる態度が少し鼻についたのか、
レイナは冷めた目でまひるを見ながらそう言った。

「いや、でもこれはレイナさんのもんやし、
 レイナさんが持って帰ってお家に飾っておいてください。
 そしたらファンの人もきっと喜ぶやろうし」

レイナはまひるの親切心を、この時ばかりは迷惑に思った。
「あなたに私の何がわかるの?」という卑屈な心が、
今のレイナを支配している状態では、多少しかたなかったかもしれない。

そして残念な事に、レイナは自分の感情を隠すことができない。
喜怒哀楽の「喜」や「楽」ならいいが、それらは既に枯れ果てていて、
自分一人の家で十二分に「哀」をブチまけている以上、
残っているものは、誰にも歓迎されない「怒」の感情だけだった。

「・・・いや、もういいって・・・」

レイナはそれでも堪えようと思って下を向きながら声を押し殺した。
自分の中でこのような醜い感情が湧き上がってきたことは、
今までの人生で一度もなかった。
レイナは、自分がまさかこのような醜い人間の一面を持っているとは、
考えたこともなかったのだった。

「あっ、これファンレターやん。
 まひるファンレター読むのメッチャ好きなんですよ〜。
 落ち込んでる時とか、読むとポジティブになれるし。
 中身に何が書いてるか、メッチャ気になりますよね〜」

まひるはダンボールの中からファンレターをひょいと取り上げて、
ニコニコして見つめながらレイナに話しかけていたが、
レイナはもう自分の火にこれ以上は油を注がないでくれと願った。

「・・・私、こういうの向いてないんだよね・・・」

まひるは無邪気にレイナを励まそうとして話しかけていただけだったが、
さすがにレイナの声が震えていることに気がついて、しまったと思った。

「・・・あっ、いや別に、そんな向いてないとかないですよ。
 レイナさんのファン、いっぱいおるし、こうしてファンレターだって・・・」

「私のファンなんて、もうほとんどいないよ・・・」

レイナはイライラした声をまひるのセリフに被せて叩き潰した。
まるでそれは暑い夏の日に飛ぶハエを、不愉快すぎてあまりにムカムカして、
丸めた新聞紙か何かでピシャリと叩き落としてしまうような、
ああいう人間の心理状態に似ていた。

「・・・いや、うちはそんなつもりで言ったんじゃなくて、
 ただ、ファンの人が書いてくれた手紙とかって、
 やっぱりその人のキモチがこもってるもんやし、 
 それを捨てたりすんのはアカンやろなぁって思うだけで・・・」

レイナは心の中で、これらの荷物を事務所で処分してもらおうと考えていた。
別に今の自分に必要なものでもないし、どうしようが自分の勝手だと思った。
だが、まひるにその心を見透かされていたのも、彼女のプライドに触った。

(この子さえいなければ・・・)

一瞬そんな醜い考えまで頭をかすめて、泣きたくもなった。
レイナはまひるがもっと性格の悪い子だと思っていたし、
それでどうにか憎しみの感情をぶつけることでやり過ごしてきた。
しかし、こんなに性格のいい子だとわかったことで、
次からこの憎しみの感情をぶつける先もなくなり、
それらは今後、全て自分に返ってくるだろうと思うと、息が詰まりそうになった。

「・・・持って帰る」

自分の中から湧き出てくる怒りの感情を全て無理やり飲み込んで、
真下を向きながら苦しそうに、ただレイナはその言葉だけを吐き出した。

家から持ってきた少し大きめのトートバッグに、
ダンボールに入っていた古代生物のぬいぐるみ、CD、ファンレターを詰めて、
最後に肩にかけて帰るかどうかで迷ったが、白い革ジャンも無理やりに詰め込んだ。

「・・・じゃあ、さよなら」

大きく膨らんだトートバッグをぐいっと持ち上げて肩から後ろに回し、
サンタクロースみたいな担ぎ方になって、レイナはその部屋を飛び出した。
もはや泣き顔で鼻が真っ赤になっており、サンタなのかトナカイなのかよくわからなかった。

・・・

事務所を出て、家に帰る道すがら、レイナはさっきの自分を猛烈に反省していた。
「私ってこんなにダメ人間だったっけ?」と誰かに聞きたい気分だった。

やってくる時にきた道を逆に辿る道のりは、
いばらが足に刺さるような痛みすら、もう感覚がなかった。
肩の後ろに回したトートバッグが精神的な意味でとても重たく感じ、
ふと古代生物のぬいぐるみが頭をよぎった時、
ああ、こんな重たい荷物を背負って、私はまるでカタツムリみたいだ、と嘆いた。


・・・


8月のライブ会場は観客の熱気に包まれていた。

超大型新人ロックバンド「ホイップ」の初ライブが、
ここ明治野外スタジアムで行われると聞いて、
芽衣は入手困難と噂されていたライブチケットを、
知り合いや友人のコネをフル活用して、なんとか2枚手に入れた。

芽衣にとって、ここが勝負どころだという気負いがあった。
ずっと片思いしていたバイト先の男の子は「ホイップ」の大ファンで、
「このライブは絶対に見たい」としきりに言っていたからだ。

チケットを手に入れてからも、芽衣は胸のドキドキを抑えられず、
どうやって彼に渡せばいいのか、女友達に何度も相談に乗ってもらいながら、
デートに漕ぎ着けるまでのシナリオを繰り返し繰り返し練っていた。

「絶対にうまくいくよ」「ビビっちゃだめだからね!」

色々と励ましてくれる明るい女友達との恋話は、
芽衣の人生にとって最も幸せな瞬間の一場面だった。
彼女の中で、恋が占める幸福の割合は高い。
しかしそれは、普通の女の子であれば誰しもが持つであろう、
なんの変哲も無い、無邪気な憧れと、人生の理想像だった。

果たして計画は上手くいった。
彼は「ホイップ」のライブチケットを喜んで受け取ってくれた。
そして、芽衣は彼との初デートのチャンスをつかんだのだった。

・・・

街を歩くと、どこかで風鈴の音が鳴っていたのが聞こえた。
夏はもうすぐそこまでやってきていた。

芽衣の友達はデート当日の服装についてや、
手をつなぐタイミングなど、事細かにレクチャーしてくれた。
この手の妄想は、ひょっとすると現実よりも幸福なのかもしれない。
芽衣とその友達はいつもつまらない話をしてはケラケラと笑い、
芽衣は足をバタバタさせながら何度もライブチケットにキスをした。
友達はそんな芽衣を見てひょいとチケットを奪い、
いたずらっぽく破るそぶりをして、芽衣は「あ〜ん」と嬉しそうに笑った。


ライブ当日、芽衣は思い切って浴衣を着てデートに出かけた。
彼がその浴衣を「可愛いね」と褒めてくれたことだけで、
芽衣はその一日が人生で最高に幸せな日だと思えた。


ライブ会場の外には、夏のお祭り等に欠かせない屋台がたくさん出ており、
芽衣はじゃがバター、焼きそば、いちご飴などを買って彼と一緒に食べた。
彼が見ているので、芽衣は焼きそばには大好きなマヨネーズはかけなかった。
そんな自分を少し可笑しく「ふふ」と笑い、でもその焼きそばの味はとても美味しかった。

また、会場へ向かいながら、続けて食べたいちご飴の鮮やかな赤色が、
芽衣の浴衣の持つ和の雰囲気とよく馴染み、
二人の夏の風景をよりいっそう華やかに彩った。
そして、忘れられない夏の記憶として、芽衣の脳裏にゆっくりと確かに刻まれていった。


・・・


会場の中へ入ると、大勢の人が我先にと自分の席へ向かって流れていく。
2階席以上は指定席もあったが、芽衣のチケットはアリーナの自由席で、
一定の範囲は区分けされているものの、その枠内での場所は早い者勝ちだった。

芽衣はこの予想以上にごった返している人の群れに驚き、
指定席を取っていなかったことを一瞬後悔したが、
雑踏の中で芽衣が彼とはぐれてしまいそうになった時、
彼は少し恥ずかしそうに芽衣の手を握り、人混みを抜けて進んだ。

芽衣は偶然がくれた奇跡に感謝して顔が赤くなった。
彼に悟られないように団扇で顔を隠しながら、
人混みをどんどん手を引いて進んで行く彼に、
このまま時が止まってくれたらいいのにと思った。
夏の暑さと会場の人混みで、二人が繋いだ手は少し汗ばんだけれど、
そのままずっと離したくない思いと、嫌われたくない思いとが交錯し、
切ない気持ちに戸惑いながら、うまく手を繋ぎ直すタイミングを計った。


無事に席にたどり着いて、入場時にもらったパンフレットを二人で眺めた。
彼は「ホイップ」のレイナを児玉坂大学の学園祭で見たことがあること、
レイナの歌声のとても素晴らしいこと、楽曲の素晴らしいことなどを、
とてもとても情熱的に芽衣に語った。
芽衣はレイナについて熱く語る様には少し嫉妬もしたけれど、
彼の真面目で熱っぽく語る無邪気な瞳を見て、嬉しそうに話を聞いていた。

やがてレイナがステージに登場し、ライブがスタートすると、
彼は芽衣よりもライブに集中し始めた様子だった。
そして、手に持っていたパンフレットが邪魔になってきたのか、
少し都合が悪そうな渋い顔をし始めた。
芽衣はその様子に気づき「どうしたらいい?」と彼に尋ねた。
彼は少し申し訳なさそうに、
自分のパンフレットを芽衣のカバンにしまって欲しいと頼んだ。

芽衣は「わかった」と言って彼のパンフレットをカバンにしまった。
彼は申し訳なさそうな照れた笑顔を残して、またライブの方へ集中し始めた。
芽衣は彼がライブにばかり集中しているのを少し寂しく感じつつも、
彼の役に立てた自分がとても嬉しくて、小さな満足感を抱いて、
自分もライブを一緒に楽しもうと気分を切り替えた。


ライブ開始直後、一曲目に演奏された「ホップステップ」は軽快なアップビートの楽曲だった。
ギターのリフが印象的な曲で、シンプルなエイトビートに乗せて、
ステージ上のメンバー達は一体感を高めて楽しそうに体を揺らしていて、
それを見た会場のファンたちも自然と体を揺らしていった。

バンドメンバー達が曲のイントロを演奏していた時、
レイナは一人、大きな特効の爆発音と共に姿を現した。

ステージに颯爽と登場したレイナは白い革ジャンを身にまとっていた。
顔のパーツはどれもはっきりとして整っていて、スタイルの良さ、弾けた歌声など、
どこを切り取っても圧倒的なオーラがあり、自分より年下とは思えないほどだった。

芽衣は歌手志望の女の子だった。
田舎から上京し、歌手になるために色々とオーディションを受けていたが、
残念ながらまだ芽は出ていなかった。
彼女は自分がまだたどり着けないステージの上に、
あの若さで立っているレイナを羨ましく感じた。

「ホイップ」は息つく間もないほど、次々と曲を披露していった。
芽衣がいいなと思ったのは「堕天使のナイフ」と「ミーアキャット」、
そして「ダルチェの赤い靴」だった。
どの曲の歌詞も斬新でカッコよく、しかも彼女の曲の雰囲気にピッタリだった。
触れるものすべてを切り裂くような歌声、聴衆を惹きつけるミステリアスな妖艶さ、
その小さな体のどこからそんな爆発的なエネルギーが生まれてくるのかと思うほど、
このライブのレイナは美しくてカッコよかった。


レイナの圧倒的なパフォーマンスと共にライブは終盤を迎え、
そのハイライトシーンでは会場の後方から数百発の花火が打ち上がった。
その鮮やかな光景は、芽衣の心に永遠なるものの美しさと人生の無常を同時に喚起させ、
この一日が自分の人生でも、極めて特別な夏になるに違いないという強烈な印象を残した。


・・・


ライブが終わり、感動冷めやらぬ観客は賑やかな様子で会場を離れていった。
芽衣と彼も、その流れに乗りながら、はぐれないように手を繋いで出口へ歩いた。

駅へ続く道は人混みで混雑していて、いつまでたっても前へ進まなかった。
芽衣が少し疲れた顔で困っていると、彼は芽衣の手を引っ張って人混みを抜けた。
夜は更けていったが、「少し待ってから帰ればいい」と彼が言ったので、
二人は混雑を避けて人のいない空き地へ忍び込んだ。

彼は近くの自動販売機でジュースを2本買って帰ってきた。
芽衣は彼からその炭酸ジュースを受け取った時、
甘酸っぱい恋の欠片が胸に染みていくように感じた。
そして幸福とは、こんなにも胸を苦しくさせるものかと思った。
それは昨日と今日が同じように続いてきたとはまるで思えない、
突然にしてやってきた幻想世界であって、芽衣は美しい目眩すら覚えた。


さっきのライブの余韻を二人で楽しみながら、
芽衣は自分も歌手を目指している秘密を彼に告げた。
彼は「それはいいね」と笑って、「応援するよ」と芽衣に告げた。
芽衣は、思いついたようにして立ち上がって彼の前に出て、
先ほど見たライブの光景を再現するようにして歌い始めた。
彼は芽衣の声を『ダイヤモンド』みたいな声だね、と褒めてくれた。
「どういう意味」と芽衣は尋ねた時、「清純無垢な感じ」と解説した。

もしくは白雪みたいな透明感がある、とも言った。
その話を聞いて、芽衣は自分の子供のころの入学式は必ず雪が降った、
小中高全部、というエピソードを彼に披露した。
「じゃあ雪女だったのか」と冗談を言った彼に対して少し拗ねて、
「白い肌がチャームポイントなだけよ」と少し膨れた言い方で返答し、
ちょっと離れてまたレイナの歌真似をし始めた。


芽衣は、しばらくご機嫌に歌いながら踊っていたが、
ステップの途中、不注意でグキッと足をひねってしまった。
「いたっ」と叫んで思わず座り込んでひねった足首を抑えた。
せっかく彼の前で可愛い女の子を演出していたのに、
ここに来て自分のそそっかしさの本性が出てしまったと芽衣は恥ずかしくなり、
これで彼に嫌われてしまう、見捨てられると心の底で思った。

彼は立ち上がって芽衣のそばに駆け寄り、心配そうに足をさすった。
「お前本当にバカだな」と彼は笑顔で芽衣に告げ、
芽衣は罵られているはずなのに、
心の底から湧き上がるとてつもない喜びを感じて、
自分というものが「女」という塊で出来ていることを強く意識した。
そして、女というものの「弱さ」も同時に見透かされた気がした。

芽衣は羞恥心で顔を背けたが、
彼は芽衣の顎を手でグイッと彼の方へ向けて、少し強引にキスをした。
少し息苦しくて、しかし、とても温かくて、
芽衣は、恋とはなんて残酷で美しいものかと思った。
そして、離れた後、さっき飲んだ炭酸ジュースよりも甘酸っぱい何かが、
唇にほんのりと残って輝いていたのを感じた。


・・・

(1年半後)


芽衣は一人で電車に揺られていた。

休日、眠る時間以外でぽっかりと時間が余ってしまった時、
芽衣はよく一人で色々な場所へ出かけるようにしていた。

時には郊外の森の中まで足を運ぶこともあった。
大自然の中で鳴く野生の鳥の声を聞くたびに、
何か心がすーっと清らかになっていく気がした。

都内の遊園地に行くこともあった。
絶叫系マシンが嫌いな芽衣だったが、
一人で並んで、一人で泣きながら戻ってきた。
その度に、何か心がふっと軽くなる思いがした。


芽衣は、2ヶ月前に付き合っていた彼と別れた。

男女が別れる時に、理由を明確にするのは難しい。
お互いの環境が異なってしまうことや、
別に好きな人ができてしまうなど、
明確な理由がある場合もあるかもしれない。

しかし、恋愛はいくら現在が繋ぎ止めていても、
どんなに永遠のように思える今日があっても、
明日には突然にしてその熱が消えてしまうこともある。
一生懸命育ててきた植物が、突然枯れてしまうことがあるように、
恋愛がどのように成長し、また突然にして枯れてしまうのか、
それは本人達にも、誰にも、決して論理的に説明できるものではなかった。


それはあのライブの夏の夜に、昨日までと違う今日が突然やってきたように、
恋の終わりもまた、昨日までと違う今日がやってくるようににして突然消えてしまう。
恋人達はただ、二人の間にあるその想いが消えてしまわないように、
日々そっと、祈りながらロウソクの火を消さないようにして、
見守り続けることしかできないのだ。

だが、恋は残酷にも突然にしてやってきて、そこに嵐を巻き起こす。
それはとても甘い誘惑の色を帯びていて、
誰もそれに抗うことはできない。
そして男女の中に巻き起こした嵐はやがて去り、
美しい記憶と痛々しい傷跡の両方を残していく。


彼が芽衣の元から離れて行った時、
芽衣はこの世の終わりが来た、とでも形容するくらい泣いた。

冷静かつストイックで、決して他人に弱みを見せない芽衣が、
心が折れてしまったように泣きはらした。

もちろん、彼女の真面目さとプライドは、
仕事に穴を開けることはなかったし、決してバイト先に遅刻することもなかった。
友達や仲間に対してはいつもどおり面倒見がよくて優しく、
できるだけプライベートな痛みが仕事に影響しないように必死で耐えていた。


だが、休日になると、疲れて眠っている時は問題ないが、
それ以外の時間がとても苦痛になった。

部屋の中で音楽をかけて、少し大きめのベッドの上でボーッと過ごすのが、
芽衣の休日の楽しみだったが、あれ以来、色々と心が落ち着かなくなった。

やがて涙も出なくなったが、夜になると途端に寂しさを感じるようになり、
無駄に部屋の掃除を始めたり、何度も洗濯機を回したりするようになった。
さっき洗ったような気がした靴下も、もう一度洗ってしまう有様で、
回っている洗濯機を眺めているのが好きだったし、それで寂しさを忘れることができた。


やがて、趣味の料理などに没頭して失恋の痛手を忘れようとも努めた。
先日はハンバーグを作り、昨日はカツ丼を食べて、今日は金目鯛の煮付けに挑戦した。
嫌いなトマトもマヨネーズをかければ食べれるようになったし、
苦手な牛乳も、スーパーで吟味した結果、濃いものは美味しく飲めることがわかった。

彼女は、臆病な性格ではあったが、
自分には厳しいタイプだった。

学生時代には女子野球でピッチャーをしていて、
はじめはマウンドからキャッチャーまでボールが届かなかった。
しかし、負けず嫌いの彼女は、人知れず練習を繰り返し、
2度、3度とマウンドに上がる内に、素晴らしいピッチャーになった。

そういう克己心が彼女にはあった。
だから彼女は決して他人に弱みを見せないし、
自分に厳しい分、時には他人にも厳しくなる。
自分に甘いのが大嫌いだったし、行動も必然的に痛みを克服するように努める。


そんな時に見つけたのが、先述した一人のお出かけだった。

彼と一緒に出かけた場所に、一人で出かけていくこと。
これが一番失恋の痛みに効く薬となった。
理由はわからないけれど、終わった後にすーっと心が楽になる気がした。

芽衣はこれを「心のリハビリ活動」と名付けた。
彼と一緒に出かけた場所を一人で訪れることで、
心から目を逸らさずに、ちゃんと現実に向き合って
それを乗り越えることができると考えた。
実際に効果は上がっていて、心は以前よりかなり軽くなってきていた。


彼女は色々な場所へ出かけて行った。

映画館、カフェ、中華料理屋、カラオケ。
PARCO、109、児玉坂神社、競馬場・・・。

あらゆる彼との思い出の場所をしらみつぶしに訪問した。


そして、今、彼女は電車に揺られていた。

やっと自分の足で歩き出すことができた。
彼の事を忘れて、新しい自分として生まれ変わる事ができる。
そう思いながら彼女が向かっていたのは永福町駅だった。


永福町駅の改札を出て、向かいの道路をまっすぐ渡った。
大勝軒というラーメン屋の脇の道を歩いて進み、
先の十字路を曲がって坂を下りていくと、
そこは彼の家が見える場所だった。


芽衣はこの彼の家が見える場所こそが最終地点だと思った。
彼の思い出に一番近い場所で現実を見つめながら、
そして自己の再生をやり遂げる。
その決意を込めてこの場所までやってきたのだった。


思った通り、この場所の思い出の力は強力だった。
心がグイッと引っ張られてかき乱される気もした。
そして、しばらく過去の記憶を辿りながらその場所と対峙し続けた。


しかし、芽衣には達成感は得られなかった。
おかしいと思いながらも、どうやらここが最終地点ではないのではないかと考えた。

「あっ」と声をだして、芽衣は思い出したように駅へ歩き出した。
もう一つ、行かなければならない場所があった。

電車に乗り込んで目指すは明治野外スタジアムだった。
ただ、何も理由がなくこの場所に立ち入る事はできないので、
芽衣はむしろ、彼とキスをしたこの近くの空き地を探す事にした。

空き地を探しながら芽衣の手には、
あの日、引っ張られて走った彼の手の温もりが生々しく蘇る気がした。
胸がとても苦しい、しかしこれがリハビリの目的なのだと言い聞かせ、
芽衣は必死で空き地を探し続けた。

しかし、目的地にたどり着いた芽衣は大きなショックを受けた。
そこにはもう空き地はなく、新しいアパートが建っていて、
芽衣の記憶とは少し違った形になってしまっていたのだ。
あの夜、あそこで彼とキスをした記憶は、
もう芽衣には感じる事はできなくなってしまった。
全て、流れた時間によって上書きされてしまっていたのだった。


・・・


途方に暮れて家に帰った芽衣は、相変わらず寂しさを埋めるべく、
洗濯機の前に立ち、回転し続けている衣類を眺めていた。

行き場のない思いを抱えながら、ただ心の中でグルグルと回り続ける自分の思いと、
洗濯機の中の衣類が似ているような気がして、バカバカしくて小さく笑った。

そして、良いアイデアが閃いた。

芽衣は急いでベッドの上に戻り、ノートパソコンを開いた。
検索サイトに「ホイップ」と打ち込んでエンターキーを押した。

しかし、そこにはまたショックな出来事が待っていた。
「ホイップ」は数ヶ月前に解散し、レイナは無期限の活動停止を表明していた。

(・・・どうして・・・昨年は元気に歌っていたじゃない・・・)

芽衣はレイナの近況を検索サイトで徹底的に調べた。
わかる情報は限られていたが、どうやら彼女はスランプに陥って、
まったく活動できる状態にないことまでは判明した。

(・・・何よ、こんなのあんまりよ・・・)

芽衣は落胆した。

芽衣はもう一度レイナのライブを見に行きたかった。
空き地はもうないけれど、ひょっとすると自分の最終地点は、
彼女のライブ会場ではないかと思い当たったのだ。
だが、現状のままではレイナはライブを開く事はないだろう。

しかし、芽衣は諦めなかった。

(・・・世の中に不満があるのなら、まず自分を変えることよ・・・)


芽衣はレイナの所属事務所の住所を調べた。
それは案外すぐに見つけることができた。
彼女の所属事務所のホームページからファンレターの宛先を調べ上げた後、
芽衣はすぐに封筒と便箋を買いに行った。

一度ライブを見ただけの人間が、こんなものを書くなんてバカげてるかもしれない。
でも、自分のリハビリ活動がかかっているのだ、そう芽衣は自分に言い聞かし、
レイナに向けてテキパキと手紙を書き上げた。

翌日、バイトに向かう途中の道で郵便ポストを見つけた芽衣は、
自分の思いを込めた手紙を投函して、いつも通りバイト先へ向かった。


・・・

蓮実は憂鬱を抱えていた。

雑誌社に勤める蓮実は、とある週刊誌の音楽分野の担当者として、
様々な歌手やバンドグループなどの記事を書いていた。

田舎から上京してきた当初、蓮実は歌手を目指していた。
歌を歌うことが好きだった蓮実は、密かにオーディションなどを受けていたが、
何度も落選が続いた結果、そんな叶わない夢を追いかけている自分が恥ずかしくなり、
いつの日か、その夢をそっと胸の奥にしまいこんで、現実的な仕事を探して就職した。
蓮実はこの時期にオーディションに落ち続けたことで、
自分のルックスと声にコンプレックスを抱えてしまった。
自分には、憧れの職業である歌手なんてふさわしくないのだと考え、
学生時代から図書館で読書するのが趣味だった蓮実は、
自分の好きな音楽分野の記事を書ける今の雑誌社に採用されて仕事を始めたのだった。


昨年の8月、蓮実は「ホイップ」のデビューライブに関する記事を書いた。
「アメイジングなロックシンガー」という表題と共にレイナを絶賛したその記事は、
読者からの反響が大きく、その週の雑誌は今までにないほど飛ぶように売れた。

デビュー前から大型新人の期待を背負っていた「ホイップ」だったが、
まだ売れる前のバンドであったため、比較的社歴の浅い蓮実に取材のチャンスが回ってきたのだ。
蓮実は明治野外スタジアムで行われた「ホイップ」のデビューライブに足を運び、
そこでレイナの衝撃的なパフォーマンスに圧倒された。
蓮実は自分がかつて目指していたステージの上に、燦然と輝いている若いレイナに、
自分が過去に目指していた姿を体現していることを認め、すぐに好感を抱いたのだった。

蓮実は自分が心の底から好きなものに対しては熱く語れる性格であり、
レイナに心底惚れ込んだこのライブの後、徹底的にレイナのことを調べ上げて、
彼女を絶賛する記事を書き上げたのであった。

反響が大きかった事に気分を良くしてか、上司は蓮実をレイナの専属記者に抜擢した。
大好きなアーティストの記事を書ける楽しさに、蓮実の仕事への熱はどんどん高まっていった。


ところが、レイナの様子がおかしくなった。

今年の8月頃からパフォーマンスには以前ほどのキレが見られなくなり、
蓮実は彼女の大ファンであったためにいち早くその微妙な変化に気がついた。
不思議に思った蓮実は、彼女の周囲の関係者へ徹底的に取材を行い、
どうやら学生時代に付き合っていたレイナの元彼が、
交通事故にあって亡くなってしまったという事実を掴んだのであった。

蓮実が憂鬱を抱え出したのはその頃からだった。

交通事故のネタを素直に上司に報告したところ、彼の返答は、
「よくやった、直ちに記事を書いて雑誌に載せろ」だった。
蓮実はあまり周囲に自分の我を通す方ではなく、
周囲の人に感謝して、和を重視する人間性の持ち主であったが、
さすがにこの件に関しては自分の心に違和感を覚え、
モジモジとしながらではあったが、上司に率直に自分の意見を述べた。

「あの・・・申し訳ないんですけど、レイナを傷つける記事は書きたくないです・・・」

上司は「はぁ?」と呆れた顔をして笑った。
そして急に怖い顔になり「お前はバカか」と蓮実を罵った。
彼の言い分は「こんなスクープを書かないで一体お前は何の仕事をするんだ」だった。

蓮実は入社以来、この雑誌社の仕事に歌手以外の新しい生きがいを見出していたが、
この事件以降、急速に自分の仕事に誇りを失い始めた。
結局、この一件は会議で蓮実が猛反対し「証拠不十分では記事にできない」
という嘘をついて、最終的には掲載を取りやめることになった。
しかし、嘘をつくのが嫌いな蓮実にとって、一体自分が何をやっているのか、
この仕事に対しての意義を問い始めるきっかけとなったのであった。


そしてまた、蓮実の危機がやってきた。

数ヶ月後の歌番組に出演したレイナは、あまりにも酷いパフォーマンスを披露した。
大型新人のまひると共に出演した番組では、その対比が大きく話題となっていた。

これに対して上司は「レイナの出来の悪さを叩く記事を書け」と蓮実に命令した。
蓮実はやはりレイナを傷つける記事は書きたくないと撤回を懇願したが、
歌番組の件は誰もが知る周知の事実であったため、反論は意味をなさなかった。

しかし、それでも蓮実は自分の信念を持って反抗を続けていた。
そして、蓮実は上司からレイナの専属記者の地位を剥奪され、
会社の窓際の席へ移る羽目になってしまった。
結局、歌番組の記事は他の記者によって執筆されて掲載された。


窓際へ移されて仕事が激減した蓮実は、当初は落ち込んで葛藤したが、
「端っこの誇り」を胸に抱いて、小さなプライドを抱いて仕事を再開した。
レイナの専属を外れた蓮実ではあったが、関係者とのコネはやはり強く、
ほっておいても自然と情報は蓮実の元へ集まってきた。
上司も、これだけ抵抗する蓮実をクビにしない理由はそんなところにあった。


そして、その年末に最大の危機がやってきた。

いつもは遠くから余計な干渉をしなくなった上司が蓮実のデスクまでやってきた。
蓮実は大体何を言われるのかわかっていた。
勝手に情報が集まってくる蓮実の元には「ホイップ年内解散」という噂は、
かなり固い情報としてすでに耳に入っていた。

上司は蓮実を見てニヤリと笑った。
そして「わかってるよな」とだけ蓮実に告げた。
蓮実は下を向いてモジモジしていた。
彼女にはこういう時に抑えられない仕草があった。
それは自分の片手でもう一方の肘をこすりながら話をすることであった。
そして、この時はその癖を抑えることが全くできず、
今までにない心の不安と共に、蓮実は肘をこすり続けた。

「いや、えっと、何のことですかね・・・」
蓮実は目線を合わせずに俯いたまま上司に返答した。

上司は蓮実に対して大きなため息をひとつついた後、
「最後のチャンスをやろう、お前が一番詳しいはずだ、お前が書け」
そう言い残して上司は彼女のデスクを後にした。


この期間、蓮実は日々を葛藤して過ごした。

蓮実は知識に対して憧れを抱いていた。
自分は決して聡明ではないと謙遜をしていたが、
常に政治や経済にも幅広い関心を持ち、知識は人がより賢く生き抜くための力だと信じていた。

また、文才やユーモアも多分に持ち合わせており、
プレゼンテーションなどにもその才能を遺憾なく発揮した。
そのコミュニケーション能力は非常に高く、
周囲に対して自分や他人を、嫌味なく、上手く宣伝することに長けていた。

そうして、これまで他人への配慮や感謝を常に忘れることなく円滑な人間関係を築いてきたが、
蓮実はこの頃から妙な引き笑いや肘をこする動作が日を重ねるごとに増えていった。
周囲から「無駄な笑顔」と評されるほどに必要以上の笑顔に努めるようにもなった。


彼女のモットーは「他人に甘く、自分に甘く」だった。
見たところ不思議に思える表現ではあるが、彼女なりの機知に富んだユーモアだった。
つまり彼女は誰も傷つけることなく、誰からも傷つけられることなく、
そういう優しい世界のあり方を希望していた。
彼女は誰よりも悲しみを熟知し、そしてもし平和な日々を過ごせるのであれば、
自分がピエロになることすら厭わない、そういう心の底から優しい女の子であった。


そんな自分が、なぜ大好きなレイナを傷つける記事を書かなければならないのか?
なぜそこにある平和を自ら壊すような真似をしなければいけないのか?
誰かを傷つけて得られる喜びなんて、そんなものに何の意味があるのか?

蓮実は学生時代にのめり込んだ剣道を通じて「忍耐」と「克己」を学んだ。
そして、その優しい性格から、どこまでも耐え続けた、乗り越えようと努めた。
しかし、肉体的な苦痛ならまだしも、精神的な、とても無意味な葛藤に、
蓮実は心身ともに疲れ果ててしまった。


最終的に、生活を捨てることができなかった蓮実は、
「ポンコツシンガー再起不能」という記事を書いて雑誌に載せた。
しかし、彼女なりの反抗として、知っている事実とは一切関係ない事を書いた。
後に記事の信憑性が問われることになり、蓮実は会社と揉めることになった。
そして、もう色々と我慢できなくなった蓮実は退職届を提出して会社を辞めることに決めた。



だが、最大の悲劇はその後に待っていた。

退職手続きをしながらも、お世話になった人々に最後のお礼周りをしていた時、
蓮実はレイナの関係者からある事実を知らされた。
レイナは蓮実が書いた記事をきっかけに立ち直れないほどのスランプに陥り、
歌はおろか歌詞も全く書けない状況に陥って休業状態になっているという。
果たして「ホイップ」は噂通り年内に解散し、レイナは歌えないシンガーに転落した。


そして、蓮実の声に異変が起きたのはその頃からであった。


・・・


「声帯に異常はないようです。
 とはいえ、気管支喘息も全く関係ありません。
 原因は精神的なものかもしれませんが、理由は不明瞭です。
 少し入院して休養をとって様子を見た方が良いかもしれません」


医者はその生涯で何度も似たようなセリフを繰り返すが、
もう飽き飽きした役者のように、繰り返す度に熱を失うのだろうか。
蓮実に告げた言葉の中には彼の感情が全く見受けられなかった。


・・・

新しい年も明け、まもなく2月も中旬に差し掛かろうとする頃、
蓮実は都内の児玉坂病院の一室に入院していた。

辞職後、少ししてから新しい仕事を探したいと考えていた蓮実であったが、
レイナがスランプに陥ってしまったという事実を知ってからというもの、
自分の声がどんどん出なくなっていく異常に気がついて、すぐに病院へと足を運んだ。

過去、気管支喘息や花粉症などで声に不調を覚えたことはあったが、
今回はもっと深刻な状態であった。
蓮実自身、身体的に何も異常がないことは過去の経験から感じていた。
しかし、なぜかはわからないが声がどんどん出なくなっていく。
今となっては、日常的な会話にまで支障が出始めていて、
周囲の人間とは筆談をしてコミュニケーションを取るようにすらなっていた。


(私の声は、一体どうしちゃったんだろう・・・)

蓮実は入院生活を始めてからと言うもの、
原因不明の声の状態に悩み、生活に対する気力すら少しずつ失っていった。
やがて彼女は外に出るのも面倒になり、
生活の大半は病室でTVを見たり読書をしたりして過ごすようになっていた。


「蓮実さん、調子はいかがですか?」

蓮実がTVで「昭和の名曲」という番組を見ていると、
蓮実の担当の女性看護師が部屋に入ってきて蓮実に声をかけた。

蓮実は声が出ないため、体のジェスチャーで「元気です」という仕草をした。
生活に対する気力は減退していたが、蓮実は無理してできる限りの笑顔を作って返した。

看護師は蓮実の身辺をテキパキと整理し、
「寒いので首が冷えないほうがいいかもしれませんね」と言って、
蓮実の首にタオルを巻いてくれたり、
「抗菌作用があるから喉に良いと思いますよ」と言って緑茶を差し入れてくれたりもした。

その行為は普通の看護師にとっては少し行き過ぎた仕事内容に思えたが、
もう一ヶ月以上も入院をしている蓮実にとっては親切にしてくれることがとてもありがたかった。

蓮実は少し申し訳なさそうな顔をして、手元にあったノートに「すみません」と書いた。


看護師はその文字を見て、ニコッと笑って「またそんなこと言うんですから」と返した。

「私が蓮実さんを助けるのは当たり前のことです。
 蓮実さんはすぐに申し訳ないって言いますけど、
 私だって誰かの役に立てて嬉しいんですから、
 もうそんなこと言わないでください。
 私にできることがあれば、なんでも遠慮なく言ってくださいね」

蓮実はそんな親切な看護師に「ありがとう」とノートに書いて返答した。
またニコっと笑って看護師は部屋を出て行った。


蓮実はTV番組「昭和の名曲」に視線を戻した。
彼女は昭和の歌手達が大好きだった。

蓮実は小さな頃から昭和の歌姫達に励まされて育ち、
「歌には大きな力がある」という事を信じていた。
こんなに自分に勇気をくれた歌があるのだから、
自分だっていつかそういう歌を歌えるようになりたいと、
心の底で願いながら決意して上京してきたのだった。

蓮実は忙しく働いていた日々を離れてみた事で、
忘れていた自分の原点の気持ちを思い出していた。
やっぱり自分は歌手になりたかったのだなと自分の深層心理に気づき、
そして同時に今現在、声が出なくなっている事にとても悲しくなった。
あんなに卑下して嫌悪してきた自分の声が、
いざ本当に出なくなってみると、歌を歌えるというなんでもない事が、
とてもありがたい事だったのに痛烈に気付かされたのであった。


TVからは「Sweet memories」が流れていた。
蓮実は幼き日に何度も歌ったその大好きな曲を、
心の中で口ずさんでみた。

こんなに美しい歌なのに、こんなに心の中で見事に歌っているのに、
現実世界には一切の音が生まれてこない事が悲しくてたまらなかった。
ドレミファソラシドは彼女にとってまるで夢物語くらい遠くにあって、
自分の中から音が出せない現在では、生きることは痛みでしかなかった。
心はまるで空っぽで、巨大な悲しみの音だけが繰り返し反響しているだけだった。
そしてその悲しみの音が響く度に、蓮実の瞳からは繰り返し津波のように涙が押し寄せた。
それはまるで波の打ち寄せる岩に鎖で繋がれたアンドロメダのように、
蓮実はやがて自分がその津波に飲み込まれてしまう事を想起せずにはいられなかった。



「蓮実さん」

ふと呼びかけられた事に気がついて、蓮実は声のする方を振り向いた。
涙が頬を伝っているのに気づいて、慌てて両手で顔をゴシゴシと拭った。

「蓮実さん、今歌っていませんでした?」

看護師はニコっと笑いながらハンカチを蓮実に見せて、
蓮実の顔からその涙を拭い、そんな風に質問した。

蓮実はノートに「聴こえたの?」と書いた。

看護師はまたニコっと笑って「やっぱり」と答えた。

「蓮実さん、歌がお上手ですね。
 とってもよかったですよ」

蓮実は出てもいない声を褒められて少し悲しくも感じたが、
看護師が思いやりでそんな風に言ってくれているのだと考えて、
「ありがとう、私ってどんな声かな?」と調子を合わせてノートに書いた。

看護師はノートをちょっと見て、またニコっと笑って答えた。

「とっても優しい声でした。
 控えめだけど上品で、とっても誠意があって・・・。
 例えるなら『ホワイトパール』みたいな声でした。
 知ってますか?真珠って「月のしずく」とか「人魚の涙」って呼ばれてるんですよ。 
 溢れた水滴が、結晶になって美しい宝石になったんです」

蓮実は、ただの一時的な入院患者である自分にここまで励ましてくれる人がいて、
自分は本当に周囲の人に恵まれているなと、嬉しくてまた泣きそうになった。
偶然にもこういう優しい人が自分の周りに集まってきてくれることが、
神様が自分に唯一与えてくれた才能だとすら思った。


蓮実はありがたく思って、またノートに「本当にありがとう」と書いた。

看護師はそれを見てちょっといじわるそうに笑った。

「蓮実さん、優しいんですね。
 ご自身の書いてるノート、ちゃんとご覧になられたことありますか?」

看護師はふふっと笑ってノートを手にとってページをめくって蓮実に見せた。
自分のノートの8割が飽きもせず「ありがとう」という感謝の言葉ばかりで埋まっていて、
蓮実は自分がまるで文才のない子供みたいで、単純でバカじゃないかと思った。

「バカみたい、じゃないですよ」

看護師は蓮実の心を見透かしたようにして答えた。

「蓮実さんは、これだけ日々誰かに感謝しているって事です。
 世の中は上辺だけ感謝して見せている人もたくさんいますけど、
 本当に感謝している人は、その人の発している言葉や、
 その人の書いたノートを見ればちゃんとわかるんです、誤魔化せません」

看護師は急にキリッとした顔になって真面目な話ぶりになり、
蓮実は、ああこの人はニコニコ笑ってるけど、内心は熱い人なんだな、と感じた。

「人はみんな『チャンスの順番』があるんです。
 今日ステージに上がる人もいれば、明日ステージに上がる人もいる。
 今自分が望むべき場所にいないからって、それを卑下する必要はないんです。
 そのチャンスの順番が来る時まで、じっと力を蓄えればいいんです」


蓮実は熱っぽく語る看護師の話に少し感動して、
パチパチと手を叩いて看護師に感謝を表した。

(そうだ、「辛」という字に「一」を足すと「幸」になるんだった。
 失った数だけ、人は強くなれる。
 チャンスの順番が来たなら、またトップギアで頑張ればいい・・・ )

蓮実は忘れていた大事な事を思い出したようにニコっと看護師に笑みを返した。
看護師も同じようにニコっと微笑みを返し、立ち上がって窓の外を見た。

「・・・2月はまだ寒いですけど、3月になればきっと少しは暖かくなりますね。
 春が来れば、花も動物も人間も、みんなまた動き出すんです。
 冬は春に向けて力を蓄えていれば、少しぐらい休んでいたって構わないですよ」
 
蓮実はノートをじっと見つめ、「努力+運」と書き付けた。
人は運だけでは長続きしない、状況を変えるには努力が必要だと思った。


看護師は蓮実の部屋にある物を少し片付けて出て行く時、
ふと立ち止まって顔を蓮実の方へ振り向けた。

 「・・・手紙、書くといいと思います」

看護師はそう言って部屋を出て行った。

蓮実は、レイナの事を含め、今までの一切の経緯を、
この看護師には筆談を通じて伝えた事があった。
主治医の先生よりも、この看護師の方が親身になってくれたからだった。
身体的な問題よりも精神的な問題だと考えていた看護師は、
蓮実の心の中にある罪悪感を、レイナへ手紙を書く事で浄化させたらいい、
という風に考えていたのだった。


(・・・手紙か・・・書いて、みようかな・・・)

ふとTVの方に目を戻すと、
「昭和の名曲」は山口百恵の「ひと夏の経験」を映していた 。

蓮実はさっき書き付けたノートの「努力+運」の後ろに「+真心」と書き加えた。


・・・


あれから2週間が過ぎた。
蓮実の声は相変わらずだったが、精神状態は少しずつ良くなっていた。

TVには「ミラクル8」というクイズ番組が放送されていて、
蓮実はその番組を見て感心していた。

クイズ番組を見ていると、蓮実は人間の力の偉大さを感じる事が出来た。
信じられないような奇跡だって、人間なら起こせるかもしれないと蓮実は信じていた。

司会を務める芸人「びーふすとろがのふ」のボケとツッコミが好きで、
蓮実はこの番組を毎週欠かさず見ていたのだ。

蓮実は真剣な顔で一緒になってクイズの内容を考え、
時には司会者の鋭いツッコミに笑った。

蓮実の引き笑いには、やはり声は出なかったが、
顔には少しずつ笑顔が戻ってきていた。


「蓮実さん」

看護師がまたいつものようにニコニコしながら部屋に入ってきた。
蓮実は同じようにニコっと笑顔を返して挨拶をした。

「少しずつ元気になってきたみたいですね。
 これ、よかったら食べてください。
 自宅で作ってきたんですよ」

看護師はカバンの中からタッパーを取り出して蓋を開けた。
中にはゆで卵が入っているのが見えた。

「あとこれ、友人がフランスで買ってきたお土産のお塩です。
 蓮実さん、お塩好きなんですよね?
 これ美味しいかわからないですけど、
 よかったら食べてください」

蓮実は看護師の思いやりに感激して、体でガッツポーズをとって、
ニコニコしながら感謝と喜びを表した。
蓮実はゆで卵を手にとって食べてみた。
中身は半熟固めくらいでちょうどよかった。

看護師は蓮実の「おいしい」という表情を読み取ると、
よかった、という安堵の表情を浮かべた。

「蓮実さん、ちょっと聞いてくださいよ。
 さっきね、公園でかたつむりを見たんです」

蓮実は、彼女が一体何の事を言っているのかよくわからなかったが、
彼女が嬉しそうに話すため、顔でうなずいて相槌を打った。

「知ってますか?
 かたつむりって冬場は落ち葉の下や土の下に隠れて、
 殻の中に閉じこもって冬眠してるんですよ」

蓮実は、フムフムと思いながらゆで卵を咀嚼していた。

「湿気を好むから梅雨の時期に現れる印象があると思うんですけど、
 実は春になると冬眠を終えて外に出てくるかたつむりもいるんです。
 それで、時には冬の時期でも気温が暖かいと勘違いしてでてくる子もいるんですよ」

蓮実はフランスのお土産の塩をゆで卵にかけて食し、
この塩のランキングは結構上位の方だなと考えながら話を聞いていた。

「それでね、今日みたいなまだ冬の日にも出てきた子もいたんですよ。
 とっても『せっかちなかたつむり』だと思いませんか?
 それとも、この子がせっかちなんじゃなくて、
 実際にもうすぐ春がやってくるんでしょうか・・・?」

蓮実は咀嚼を続けながら、ちょっとこの看護師の話のポイントがわからず、
なんて答えたら良いのか思いつかず、とりあえずノートに「ゆで卵おいしい」と書いた。

看護師はそのノートの文字を見て「よかった」と告げ、
「春になったら一緒に公園にでも行って、またゆで卵食べましょう」と言って微笑んだ。


蓮実はその看護師の表情を見て、助けてくれる人は純粋にありがたいと思った。
そして、少し神妙な面持ちになって、枕の下に隠しておいた手紙を取り出して見せた。

「あっ、蓮実さん、手紙書いたんですか?」

蓮実は、少し複雑そうな顔をしてコクリと頷いた。
レイナの事を思い出すのは、やはりまだ辛そうではあった。

「ごめんなさい、辛かったのに無理させてしまって・・・」

蓮実はその言葉を聞いて、ブンブンと顔を左右に振って答えた。
そして、手紙を両手でしっかりと差し出して、ペコリと看護師に頭を下げた。

「わかりました。
 このお手紙、しっかりと受け取りました。
 午後に外出しますので、その時に出してきますね 」

蓮実は合掌し、この看護師さんを拝んだ。
ノートに「お願いします」と書き込んだ。

看護師は人の役に立てるのが嬉しかったのか、
手紙を両手でしっかりと胸のところで抱えて、
部屋を出て行った。


看護師は受付でノートパソコンを使ってレイナの事務所のホームページを見つけ、
手紙の送り先の住所を調べあげた。
そして、ふとその受付に飾ってあった古代生物のぬいぐるみ二つを手にとって、

(レイナさんもきっと心が弱ってるに違いない。
 このお気に入りの可愛いぬいぐるみ、あげたら喜ぶかもしれない)

そう考えて、ぬいぐるみ2つを手紙と共にカバンに入れて病院を出た。

郵便局について手紙とぬいぐるみの郵送手続きを待っている間、
誰かの役に立っている自分の喜びを深く深く胸の奥で噛み締めながら、
ああ、お手紙を代わりに届けるって、私はまるで伝書鳩みたいだ、と小さく笑った。


・・・早春へ続く・・・