あなたのために誰かのために ー春ー

4月中旬、ライブ会場へ続く並木道は桜の花が満開に咲き誇っていた。
桃色の花弁はその短い命を儚げに輝かせながら道行く人々を照らし続けていた。

新曲の歌詞を書き上げてから、レイナは事務所を訪れてはライブの準備を着々と進めた。
短期間ではそれほど成果はない事も理解した上で、それでもヴォイストレーニングにも取り組んだ。

関係者との会議では、以前より積極的に自分の意見を述べるようになった。
現実に不満を述べるだけではなく、自らがその現実を変える努力を始めたのだった。

そして、自分にとことん甘い自堕落な私生活にも鞭を入れた。
ある日レイナは音楽プレーヤーで音楽を聴いている時、
自分のお気に入りの曲にタイトルが付いていない事に気がついた。
ほぼ毎日聴いているほど好きな曲にもかかわらず、
その音楽プレーヤーには「トラック6」というタイトルが付いていた。

これは、要するに彼女の怠慢の象徴であった。
1曲目から5曲目まではちゃんと曲のタイトルが入っているのに、
「トラック6」以降は全部「トラック7〜17」という表記なのだ。
自称、機械音痴のレイナは、どういうやり方を取ったのかわからないが、
始めの内は頑張ってせっせとタイトルを入力していたのだろう。
だが、途中で面倒になったのか、やり方がわからなくなったのか、
それとも自分が見るだけだからいいやと投げやりになったのか、
曲のタイトルを入力する事を放棄した。
それによって、彼女は自分のお気に入りの曲のタイトルが自分でわからないという滑稽さで、
だが無邪気にその「トラック6」を毎日のように楽しんでいたのだった。
他人に迷惑をかけるとすれば、その曲のタイトルを言われてもわからないだけだったからだ。


そしてその怠慢に気がついたレイナは、音楽プレーヤーの曲名をコツコツと再入力し始めた。
そんな小さな事を、と思われるかもしれないが、この小さな事が出来ない人に、
他のあらゆる点で自分に厳しくすることができるだろうか?
レイナはそう考えて、こうした小さな堕落を退治することから生活態度を改めた。

しかし、本質が猫であるレイナのような人間は、
残念ながら、その熱はきっとまた長くは続かないだろう。
夏がきて秋がくれば、きっとまたプイと気ままに街を飛び跳ねる猫に戻ってしまうのだ。
でも、それはある意味で彼女の可愛らしい魅力であったし、
周囲の人間も、それを暖かい目で見守って愛でてあげるべきかもしれない。
この気分次第の感情の爆発こそが、ある意味で彼女の天才性の源でもあったし、
さらに言えば、それが猫の正しい飼い方である、それが嫌なら犬を飼えばいい話だ。

ただし、猫の目の前でそんなことを告げると、この猫は調子に乗って暴れまわる。
それもまた可愛いと言えばそうなのだが、たまには少し躾けてあげるのも飼い主の義務かもしれない。



そんな事を行っている間に、あっという間にライブ本番はやってきた。

午前中に音チェックやリハーサルを済ませたレイナは、
ライブの開始を楽屋で待っていた。
レイナは待ち時間、音楽プレーヤーでKE$HAの「Warrior」を繰り返し聴いていた。
もちろん、曲名はきちんと登録されていた。

数多くのアーティストが参加するこのライブは午後14時から始まる予定だった。
レイナの出番はまひるの一つ前であり、最後から2番目であった。

レイナは自分から積極的に他の歌手の方や関係者に挨拶を行っていた。
その中には、本日レイナのバックバンドを務めてくれる方々も混じっていた。

リハーサルの時、ピアノに座っている一人の美少女を見た。
その子がおそらくドイツ帰りのピアニストだったのだろう。
プロデューサーが絶賛するだけあって、その美少女のピアノは極上の音色を奏でていた。
きっと彼女は、今までの人生をピアノに捧げて極上に頑張ってきたのだろうとレイナは思った。

すれ違った時、レイナはきちんと感謝を伝えなければと考えた。
自分の為にわざわざドイツから戻ってきてくれたのだから。
そして勇気を持って彼女に話しかけた。

「グーテン・モルゲン!今日のライブ、お互いに限界まで頑張りましょうね!」

それを聞いた美少女は、少し違うのよ、というような顔をして、

「人はね、限界だと思ってからもうちょっといけるんだよ」

それだけを言い残し、彼女はそのままスタスタと歩いて去ってしまった。
取り残されたレイナは「えっ、私何か悪い事言った!?」と呆気にとられたが、
なんだかそんな彼女がとても可愛らしいと感じて、笑った。


レイナは当日のバックバンドの人達にも挨拶をして回った。
このバックバンドはみんな若い女性達で、黒い学ランに黒いスカート、
頭には赤いリボンをつけていて、なんだかとても硬派な格好をしていた。

とりわけ印象的だったのがドラムの女の子だった。

「今日のライブ、絶対に成功させましょうね!」

とレイナが気を使った言葉をかけた時、

「・・・今日のライブが成功してもしなくても、これ書いてる奴の人生たいして変わんねーよ!」

と意味深な言葉を放ってプイとどこかへ去ってしまった。
レイナは「可愛くない〜!」と気分を害し、プロデューサーに直談判したが、

「・・・あいつはちょっと生意気で口は悪いが、腕はたしかだ」

と言われてしまったので、レイナはそういうものかなと納得した。
納得してから「あの子なら大丈夫だ」と妙な優しい気持ちになり、笑った。


その他にも、キーボードの女の子は元気の塊みたいな顔をしていたし、
ベースの女の子はちょっと自虐的な匂いを醸し出していた。
ギターの女の子はどこかの教会のシスターかもしれないと思えたし、
コーラスで入ってくれる二人は、一人はなんだかメルヘンの国のお姫様に見え、
もう一人は天才落語家じゃないかと思われるようなオーラを放っていた。

リハーサルでまひるとすれ違った時、彼女はよくわからないことを言っていた。

「あのバンドおもろいでしょ?今回、まひるも参加できへんのが悔しいぐらいです」


レイナがひと通り挨拶を終えた感想として、ギターの優しい女の子以外は、
誰も自分の言う事を聞いてくれなさそうな気がした。
そして、こうして見てみると個性もバラバラな人達ばかりだったので、

「このグループをまとめる人は、さぞ大変だろうな、私じゃなくてよかった」

とレイナは無邪気にも言い放った。

でも、個性がバラバラだからこそ良いのかもしれないと思った。
そして妙な優しい気持ちになって、レイナは一人で笑った。


・・・


ライブの日程が決まった日、レイナは手紙を書いた。
手紙の送り先は芽衣と蓮実だった。

レイナはファンレターを読んだことを手紙に書いた。
この手紙がきっかけで復帰のチャンスをつかめたと、
レイナはその内容で率直に彼女らに感謝を示し、
最後に、手紙と共にライブの招待チケットを同封した。
そして、招待チケットはりさにも送った。

しばらくして彼女達から返事が来た。
芽衣は「ぜひ観覧させてもらいます、ありがとう」といったもので、
蓮実は「見に行きたいが外出する勇気がない、TVで観覧させてもらいます」というものだった。
そしてりさは「就業時間中だから見に行きたいけど、ごめんね」といった返事だった。


・・・

芽衣は満開の桜並木を一人歩いていた。

季節が違うため、浴衣こそ着れなかったが、
ライブ会場へ向かう道は、あの日と全く同じ胸の高鳴りを芽衣に感じさせた。

春の心地よい風に吹かれながら、この春風の持つ出会いと別れの匂いを感じていた。
それはどこか切なく、また未来への期待を想起させる不思議な匂いだった。

道沿いにずらりと並ぶ屋台は、季節が変わっても大きく変わってはいなかった。
きっとあの日と同じ人達がまた同じお店を出して、同じ食べ物を提供している。
それはこの変わり続ける現代社会においてとても奇妙な光景ではあったが、
なくなってしまった空き地の事を思うと、芽衣はこのかわらない屋台の不思議に感謝した。

芽衣はあの日と同じようにじゃがバター、焼きそば、いちご飴を買って食べた。
焼きそばには、やはりマヨネーズはかけなかった。
いちご飴の風情は浴衣とのコラボレーションの欠如によって少し華やかさを欠いたけれど、
いちご本来が持つ甘さと可愛さは何も変わってはいなかった。

芽衣は思い立って炭酸ジュースも買った。
アパートが建ってしまった空き地の分は、今日ここで一緒に済ませてしまおうと考えていた。
ゴクっと喉を通り抜けた炭酸は、あの日と違って少し喉に痛かった。
そして、唇に残ったほんのりした甘酸っぱさは、やはりあの日のキスには遠く及ばない気がした。


会場はあの日と同じように人でごった返していた。
今回のライブは多くの有名アーティストが参加する事でも人気を博していたが、
とりわけ話題に上っていたのはレイナの復帰と、まひるとの対決だった。
大トリを飾るまひると、その前にソロで復帰するレイナの二人の共演は、
ライブの前からニュースに取り上げられるほどの話題となっていた。

そして悲しいことながら、とある雑誌社は「ポンコツシンガーは歌えるのか?」という風な、
レイナの復帰を怪しむようなネタを取り上げた記事を掲載していた。
その評価は関係者の中でも賛否両論で、本当に蓋を開けてみるまで誰もわからなかった。
ただ一つ異なっていたのは、レイナはもうバッシングを何も気にしていないことだった。

しかし、もちろんこのライブ会場には蓮実の後釜に座った記者達が忍び込んでいて、
小さな欠点を見つけてはレイナの足を引っ張ろうとする黒い影も見え隠れしていた。
それは悲しいことではあるが、この大量消費社会という21世紀の現実は、
その規定概念の殻を食い破って、やがて人間をも大量消費に巻き込もうとしていた。
レイナは「チャンスの順番」を与えられてはいたが、
同時に大量消費の魔物の牙が、彼女の喉元まで迫っているとも言えた。
現代の人間が、過去の人々の戦争時代を「愚かしい」と裁定するように、
未来の人間達は、この現代の我々を「愚かしい」と裁断する日は来ないのだろうか?
この世界には、きっと正しいものはそれほど多くはないのだ。


芽衣は、誰にも引いてもらえない手に幾ばくかの寂しさを覚えながら、
その寂しさの震えこそがリハビリには丁度いいと自らを鼓舞し、
会場の中へと勇敢に歩みを進めていった。
今まで訪れた場所以上に奇妙な感覚が芽衣を支配していて、
本当にここがゴール地点だという思いと、
何か切ないスタート地点でもあるような思いが錯綜し、
芽衣は周囲をキョロキョロと挙動不審に見回しながら人混みを進んだ。

やがて席にたどり着き、ライブ機材がセットされたステージが見えた。
芽衣はライブのパンフレットを手に、それを眺めながら、レイナの登場を待っていた。


・・・


予想に反して、蓮実の気持ちは沈んでいた。

手紙を出した後、看護師の予想した通り、蓮実の罪悪感は薄れていった。
そして、レイナからの返信をもらった蓮実は、レイナがスランプから抜け出したのを知り、
自分が犯した罪の意識から少し解放されたように思えた。

しかし、蓮実のような繊細な人間には、そのライブの日が迫ってくるたびに、
本当に大丈夫だろうか、本当に大丈夫だろうか、という焦りが日に日に高まってきていて、
その不安が彼女の元気を少しずつ少しずつ奪っていった。

また、蓮実は自身の業界経験から、雑誌社の人間がきっとこの会場に忍び込んでいることはよく分かっていて、
それもまた彼女の不安要素の一つとなった。
レイナが何かミスを犯してしまえば、ここがレイナに取って命取りになることを、
蓮実は自分の過去の経験からよくわかっていたのだった。


「蓮実さん」

声のするほうから看護師が駆け寄ってきた。
蓮実のベッドまでたどり着いた看護師は、その手に持っているプラスティックのケースを見せた。

「蓮実さん、見てください、かたつむり、捕まえてきました」

蓮実は看護師が見せてくれるプラスティックケースを覗き込んだ。
巻貝に篭っているかたつむりが何匹も見えたが、
蓮実は特にかたつむりはそんなに好きでもなかったので、どう返答していいかわからなかった。

「こんなにたくさん、外に出てきていたんですよ。
 もうすっかり春が来たって証拠ですよね。
 見てください、とっても可愛いと思いませんか?」

蓮実は激励を嬉しいとは思ったが、ライブ当日の緊張感が高まってきて、
心がざわざわしてそれどころではなかった。
扇風機がそこにあればいいのにと思ったほどだった。
もちろん、今の彼女からはどんな声も発せられなかったし、
別に、好きな人ができたわけではなかったけれど。


蓮実はTVをつけてライブ番組が始まるのを待っていた。
声の出る蓮実であれば、こんなざわざわは「緊張する〜!」
とでも声を発してストレスを解消するのだが、
声を奪われてしまうと、その体の動きだけでは何も解消されず、
ため息とともにレイナの出番を待つほかしょうがないのであった。

看護師は、かたつむりの入ったプラスティックケースを物置台に置いて、
ゆで卵の入ったタッパーを取り出し、それも一緒に隣に置いた。

(後で、レイナさんの出番になったらまた来ますね)

看護師はそうさりげなく視線で合図して、颯爽と部屋を出て行った。


(・・・この二つ一緒に並べるの、相性悪くない・・・?)

蓮実はその二つの透明なケースを眺めながら、レイナの出番を待っていた。



・・・

レイナはステージ袖で自分の歌う順番を待っていた。

レイナより一つ先の出番であった児玉坂46の楽曲、
「行ってらっしゃいコンディショナー」の演奏が終了し、
児玉坂46のメンバーが笑顔で手を振りながらステージ袖へ引き上げてきた。

次はいよいよレイナの歌う番だった。
ちょうど夕方時に差し掛かり、暮れようとしている太陽が、
その鮮やかな最後のオレンジ色を世界に放っていた。
空は青と橙のちょうど混合で、絶妙な美の印象を残していた。
春の夕風も涼しくてとても心地よかった。

「レイナさん、いよいよですね」

後ろから声をかけたのはまひるだった。

「・・・うん。行ってくるね」

レイナはライバルであるまひるに対して、
もうコンプレックスのような物は感じていなかった。
それは、彼女を超える歌を歌う自信がある、という意味ではなく、
例え彼女より上手く歌えなかったとしても、
自分を支えてくれた人達に、自分の歌を聴かせることが何よりも大事だと、
心の底から考えていたからであった。


司会者からの紹介があり、名前を告げられたレイナはゆっくりとステージの中央へ歩いて行った。
観客からは「おおーっ」という歓声と「ええっ!?」という動揺の声が両方上がった。

真っ白で柔らかなワンピースを見にまとったレイナは、
観客が想像していた白い革ジャンのような妖艶なオーラではなかった。
底の高い靴を履いていたわけでもないので、
彼女は本当に小さくて可愛らしく、ステージに咲く一輪の可憐な花だった。


観客は自分が想像していたレイナが登場しなかったことに対して、
それを新しい魅力として素直に受け入れる人々と、
それを期待外れだと捉えて動揺の声を上げる人々に分かれたのだった。

だが、そのような観客の反応に対しても、
レイナはもう動じることはなかった。
自分の中に深く根を下ろした核となる信念があったレイナは、
どんなに風当たりの強い結果に終わろうとも後悔はしないと決意していたのだった。

そして、その核とは「誰かの為に歌いたい」という事だった。

レイナはステージを歩きながらりさの存在に想いを馳せていた。
招待チケットを送ったりさは、やはり当日になっても連絡はなかった。
仕事を抜け出せないのかもしれないが、レイナが誰よりも歌を聴いてもらいたいのは、
辛い時にそばで自分を助けてくれた親友のりさであった。
だから彼女が会場に来られない事に対し、レイナはとても残念に思っていた。

しかし、レイナは信じることにした。
大好きな親友が、きっとどこかで自分の歌を聴いていることを。
そして、その場所まで自分が歌を届けてみせると。


レイナがステージ中央までたどり着いた時、
盛り上がっていた観客は、レイナのその第一声に注目して歓声を潜めた。
スポットライトが全て彼女の上に注がれ、数台のTVカメラも全て彼女を狙っていた。

「・・・・」

言葉が出ない。

予想以上に長い沈黙の後、会場がざわつき始めた。
TVは生放送であるため、司会者が放送事故を防ぐために必死にフォローを入れる。

出ない言葉とは裏腹に、言葉にならない感情がレイナの中で渦を巻いて上昇し、
あまりにもフライングすぎる涙が彼女の瞳からポロリとこぼれた。


・・・


レイナが会場で出番を待っていた頃、りさは会社で事務作業をこなしていた。

りさは嘘をついていた。
彼女は招待チケットを受け取った時、何か苦しい想いに胸を掴まれ、
とっさに仕事が抜けられないという嘘をレイナに告げた。

正直なところ、外まわりだと言えばなんとでも時間の調整はできた。
今日終わらなかった仕事は、明日にまわしても差し支えなかった。

りさは複雑な想いに翻弄されながら揺れ続けていた。
頼られると困っている人を放っておけない慈愛の精神と、
本当は自分だって誰かに愛されたいという欲望が綱引きを続け、
りさを正しくまっすぐな道に導いてくれない。

彼女の中に渦巻いていたものは嫉妬であった。
それは友情と対立しない、女特有の微妙ないやらしい本能であって、
それがレイナとりさの友情関係の中に密かに影を巣食っていた。

男性にとって理解が難しいこの種類の感情は、
なぜこのような女同士の友情が成立するのかという点だった。
きっと男性の場合、対立は明確な形の戦いに転化され、
ある意味でもっと悲劇的な結末を迎える事もあれば、
その戦いを通じた屈託のない友情関係が生まれる事も多い。

だが、女性はそうではない気がする。
顔で笑って心で刺す、というような微妙な関係性が成り立ち、
それでいて時には友情を保つことができたりするのかもしれない。

ここでりさが抱いていた気持ちは、このような嫉妬だと言えた。
その無意識の抵抗が、りさの足をライブ会場へ向かわせないのだった。


(・・・私はなんて嫌な女なんだろう・・・)

りさは事務作業を進める手がわずかに震えるのを感じながら、
自分の中にあるこんな醜い感情の存在に怯えていた。
大事な親友の晴れ舞台を、しかも自分が率先して助けた友人を、
なぜ素直に祝福してやれないのだろうか。


なんだか軽い目眩を覚えて目頭を押さえて席を立った。
給湯室に向かって歩き、そこに残っていた洗い物を済ませた。
ふと目の前の鏡を見つめて、自分が密かに醜い顔をしていないかどうかを確かめた。


重たい気持ちを引きずって自分の席へ引き返す途中、
休憩室でTVを見ている人達を見かけた。
映っていた番組は今日の野外ライブフェスの生放送だった。

「おい、知ってるか?
 今日のライブ、レイナがソロで復帰するらしいぞ」

男の人が番組を見ながら話をしていた。

「へぇ〜あいつ復帰できるの?
 去年くらいにポンコツだって散々言われてから、
 すっかり姿を見かけなくなってたけどな」
 
「まひるが出てきてからすっかり影が薄くなったよな。
 そうそう、今日のライブの最後がまひるで、その前がレイナらしいぜ」

「あっちゃ〜そりゃまずいな、またまひるに全部持って行かれちゃうよ。
 もう今度ダメだったら復帰できないだろうな。
 まぁ、今時の歌手なんてどうせ使い捨てだからな。
 うまく売れてたって、ちょっと落ち目になったら数年でポイッだよ」


「アッハッハ」という男達の下品な笑い声が休憩室に響きわたっていたその時、
りさは気付いたら無意識の内に拳を強く握りしめていた。

こいつらに一体レイナの何がわかるのか。
歌を歌う者の苦しみの一部でも何かわかってるのか。
作詞作曲をするたびに経験する、あの枯れた井戸を掘り続けるような孤独や絶望を、
ステージに上がる前のあの押しつぶされてしまいそうな緊張と重圧を、
自己を表現するときに経験するあの存在の消失と紙一重の命の煌めきを、
何か一部でもこいつらは理解できてからそんなことを言っているのか。


りさは次に気付いたときにはTVを見ていた男達の前に立っていた。

「あんたらにあの子の何がわかるの・・・?
 レイナは今日、絶対に立派に歌い上げます。
 あと、あんたらみたいな人達のために、レイナもまひるも歌ってんじゃないわ!」

「おいっ、ちょっと君・・・何をするっ!」

りさはTVのリモコンを取り上げ、TVのチャンネルを変えたあとに電源を切り、
さらに電池を取り出してポケットに入れ、リモコンはゴミ箱に叩き捨てた。
そしてTVのコンセントをブチっと抜き、そのまま男達をキッと睨みつけて走り去った。


自分の周りに集まる鳩を、攻撃する者は絶対に許さない。
りさは結局、そういう女性である。

強調しすぎても構わないと思う。
誰かの為に闘うりさは、この地上で最も美しい女神だった。


自分の席に戻ったりさは、大事なアポイントを忘れていたと上司に告げ、
鞄を手にとって急いで会社を飛び出した。

先ほどTVの映像を見ていた限りでは、レイナの出番はもう間もなくで、
会社から明治野外スタジアムまでは電車では間に合わない。
考える間も無く、りさはタクシーを止めて乗り込んだ。


・・・


走り出してからしばらくして気がついた。
タクシーは渋滞に巻き込まれ始めて前に進まなくなっていた。
りさは腕時計を確認した、このままでは間に合わない。

「どこか近道はありませんか?」
「う〜ん、この時間はどこも混んでるからね」

りさは焦った。
しかし、冷静に考えてから思い出した。
ラジオがある。

「運転手さんすみません、ラジオをつけてもらえますか?」

果たしてライブの生放送はラジオでも中継されていた。

りさは耳を澄ませて放送に聴き入った。
ライブの状況は、まさしくレイナがステージに上がったところだった。

「・・・・」

レイナが喋らない。
観客から声援なのかブーイングなのかわからない音だけが聞こえて来る。


「みなさん、お久しぶりです」

レイナが第一声を上げると、観客は「うおぉ」という歓声に包まれた。
りさに聴こえたレイナの声は、少し涙声に思えた。

「・・・何から話したらいいのか、正直まだよくわかりません。
 昨年、ホイップを解散してからというもの、
 私は歌がうまく歌えなくなってしまい、歌詞も全く書けない状態になりました」

レイナがそこで小休止を置き、「レイナー!」「頑張ってー!」という声が飛んだ。

「・・・ありがとうございます」

そこでまた少しの沈黙が流れた。

「ホイップが解散した後の私の気持ちはなんとも言えないものでした。
 歌うことから解放される安堵感と、そう感じている自分がいる悔しさ、
 みんなで頑張るとメンバーと約束したのに守れなかった自分の情けなさで、
 本当に自分がどうにかなってしまいそうでした」

りさは我が子のスピーチを見守るような気持ちで、
溢れ出そうな涙を必死にこらえていた。


「でも、もう一度歌うことに挑戦するかと聞かれたら、
 正直あの時と同じように歌うことができるかどうか・・・。
 そんな不安がずっと私の頭の中に残っていました」

レイナは少し間をおいて、大きく息を吸い込んで話を続けた。

「私が辛い時期を過ごしていた時、
 一番近くで支えてくれたのは、学生時代に一緒に歌ったことのある親友でした。
 周りの力がなければ立つこともできない自分に対して後ろめたく思いながら、
 でも、そんな情けなくて弱い私の背中を諦めずにずっと押し続けてくれました」

観客はもうヤジも無く、みんな黙ってレイナのスピーチに聴き入っていた。

「そして道に迷った私を支えてくれたのがファンの皆さんの応援でした。
 きっと皆さんの声援がなかったら、今日ステージに立つことすら、
 正直できなかったと思います」

会場からは拍手が沸き起こっていた。
りさは我が子の成長を噛みしめる母親のように胸が熱くなっていた。

「辛かったこの期間、私は一体自分が何のために歌うのかについて考えていました。
 歌が好きだから、じゃあ10年後も20年後も歌っていたいのか。
 今の自分からどんな風に成長して、どんな歌手になっていたいのか。
 必死になって考えました、長い長い終わらない永遠のような苦しい時間の中で、
 答えの見えない問題を必死に考え続けていました」

観客は静まり帰ったまま、レイナの答えに耳を澄ましていた。  

「・・・でもいくら考えても、これから先の自分がどうなるのか、
 そんな大きなことは、やっぱり今の私にはまだ何一つわかりませんでした」

レイナはふぅっと息を吐いて、言葉を繋いだ。

「ただ、一つだけ確かな希望のようなものを見つけました。
 それは自分の為ではなく、誰かの為に歌いたい想いでした。 
 未来の事には何も確証は持てませんが、でも私の目の前には今皆さんがいます。
 だから今の私は、私の歌を聴いてくれている全ての人達の為にただ精一杯歌おうと思います。
 そして今日の日を、私が弱っていた時に必死に元気づけようとしてくれた皆さんへ、
 私からのお返事を返す機会にできたらと思っています」

会場からはまた大きな拍手が沸き起こった。
りさもタクシーの中で祈るように手を合わせていた。

「今、私の歌を聴いてくれる全ての人に感謝を込めて。
 それでは・・・新曲を聞いてください。
 あなたのために誰かのために」

神々しい清らかさで、ピアノの前奏が流れ始めた。
そしてレイナは静かに美しく歌い始めた。


 私のために歌ってくれた
 胸に染みるあの日の歌
 空の下で風に向かい
 さあ今度は 誰かのために
 今 微笑む人が
 愛を分ける番だ
 プリーズ


りさはあの二人で歌った早春の日の記憶を思い出し、
声にならない叫びを心の中に覚え、
気がついたら熱い涙がボロボロと頬を伝っていた。


・・・
レイナもあの早春の日の記憶を思い出していた。

レイナのために、自分の苦しさを押し殺してまで、
勇敢に背中を押してくれたあの世界で最も美しい歌声を思い出していた。

レイナに勇気をくれたのは、りさが背中を押してくれたあの日の歌だった。
それがなければ、今のレイナがステージに立つことは絶対になかった。

そして、それを伝えなければいけないと思った。
自分が歌いかける誰かに、そのりさの勇気を伝えなければ。
ステージに立てないりさの分も、
レイナはりさに分けてもらった愛を、今こそ自分が分ける番だと思った。



・・・


 俯いたら誰にも聴こえて来るだろう
 遠くどこからか 鳥たちがさえずるように
 深い森もアスファルトのジャングルも
 悲しみに暮れたあなたに歌いかける


芽衣はレイナの歌声を聴いて驚いた。
一昨年に自分が同じ場所で聴いた、
あの「触れるものすべてを切り裂くような歌声」とは全く異なる、
包み込むような温かさと優しさがそこにはあった。

そしてその歌声は、どういうわけか心の深い部分へ響いてくる。
自分の目では見えない、自分の手では届かない、そんな心の奥底まで音が響いてくる気がした。

芽衣は胸がどうしようもなく熱くなり、言葉にならない声が喉から登ってくるようだった。

「あの、すいません」

芽衣は突然声をかけられてドキっとして声の方を振り向いた。

「あの・・・パンフレット落としましたよ」

男の人が芽衣の落としたパンフレットを持ってにっこりと笑っていた。
そこに芽衣が見たのは、全く知らない男の人だった。

「あっ、すいません」

芽衣はパンフレットを受け取って、もう落とさないようにカバンにしまおうとした。

その時、芽衣の瞳から熱い涙が溢れているのに気がついた。
そして、その瞬間に一切の真実を理解した。

(・・・私は、あの人に会いたかったんだ・・・)

さっきの男の人が彼であればよかったと、芽衣は心の底で思ってしまった。
それは、決して心のリハビリなどではなかった。
芽衣は、自分が本当は彼の面影を探してさまよい歩いていることに、
自分で自分の気持ちをごまかし続けてきたのだった。


そして、レイナの優しい歌声を聴いていた芽衣は、
この優しい歌声が、彼の優しい顔を芽衣に思い出させることに気がついた。
人間の心の奥底に、誰も触れることのできない領域があって、
そこに触れることはできるのは、大好きな恋人の存在か、
もしくはレイナのような優しい歌声だけだったのだろう。


(何でここまで一人来たのだろう、あなたになんて会えないのに)

知らず知らず、芽衣は彼の面影を追い求めていた。
ここに来ればまた偶然にでも彼に会えるのではないか。
場所の記憶は、時に人にその切なくて甘い感情を引き起こす。
芽衣は自分が強くあらねばならないという自分への厳格さから、
自分の本当の気持ちをごまかし続けていたのだった。


芽衣は止まらない涙をパンフレットで隠しながら、
ひょっとすると彼もこの会場のどこかにいるかもしれないと思った。
もし、今ここで彼に会ってしまったなら、自分はどういう言い訳すればいいだろうか。
なんでもないふりをしながら「久しぶり」なんて声をかけても、
彼は昔のように私の切ない気持ちのすべてを察してくれるのだろうか。


 ああ
 心が癒えたら立ち上がって
 考えればいい 自分にできること


やっと自分の足で歩き出して、彼のことを忘れたと思ったけれど、
芽衣は自分が彼のことを忘れられないでいた自分の弱さに気づいた。
向き合うべき現実は、彼のことを忘れらないでさまよう、この自分自身の弱さだった。

(恋は輝いていたその日々と、同じ時間をかけゆっくりと癒されてくものなのね・・・)


芽衣は今日という日が、新しいリハビリ活動のスタートになるのだと思った。
彼の事、忘れられる日はまだ当分先の事かもしれない。
でも、きっと時間が経てば、ゆっくりとその傷跡も癒されていくだろう。
そして、心が癒えた時、ちゃんと立ち直って、自分にできる事を考えよう。


芽衣はもうボロボロに泣いていた顔を隠す事もなく、
まっすぐにレイナの歌う姿を見つめていた。
こんなに人の心に響く優しい歌がこの世界にあるのかと思った。
そして、自分もいつの日か、絶対にあのステージの上に立ち、
「TVの中の人になる」と決意を新たにし、そして声をあげて泣いた。



・・・


 私のために歌ってくれた
 胸に沁みるあの日の歌
 陽射しの中 頬を拭い
 さあ今度は 誰かのために
 しあわせになった人が
 手を差し伸べる番だ
 プリーズ


ステージ袖でレイナの歌を聴いていたまひるは目をギラギラと輝かせていた。

今までに一度も聴いた事のないレイナの神々しい歌声は、
まるで始めた見た「Ms.カミナリ」の衝撃と酷似していた。

レイナの立つステージ中央から、まるで神風がこの袖まで吹き込んでくるような、
そんな圧倒的なオーラを、レイナは歌いながらに放っていた。
それは「音楽の女神」だとでも形容するしかないような、圧倒的な存在感だった。

この圧倒的な存在感はなんだ、まひるは高鳴る鼓動を感じながら目を凝らしていた。
そして、まひるの瞳に映ったのは、春の到来を告げる「春雷」だった。


りさだ。


レイナの隣に立っているのはりさの幻影だった。
レイナの肩に優しく寄り添うようにして立っているりさは、
一人で歌っているレイナを優しく包み込んでいた。
そして、レイナの歌声が放つこの優しさは、まさしく、りさの「天使の歌声」だった。

だがそれだけではなかった。
天使と堕天使が融合したような完全性で光を放つ様は、
りさの甘い歌声だけによるものではない。
それはレイナ本来の持つ「妖艶な歌声」と融合した、
全く新しいカミナリの一撃だった。


りさは間違いなくステージに立っている。
まひるはそう感じた。
そして、この自分の心の底まで響いてくる優しい音は、
とても温かく、また人間を奮い立たせるような力を秘めていると感じた。
それは自分の持つ「魂の響き」に酷似した、深く人間の存在を響かせる音だった。


・・・


 人の影はどこにも見えないかもしれない 
 傷ついた者は 息殺し怯えてるんだ
 呼んだりせず 確かめたりもしないで
 目を閉じてそっと静かに歌いかけて


蓮実はTVの前でレイナの歌声を聴いて驚いた。
自分が取材し続けていた時には見せなかった真っ白なワンピース姿で、
その神々しい様は「かっこいいレイナ」ではなく「美しいレイナ」だった。

看護師は蓮実の側に寄り添って手を取りながら、
レイナの歌う歌詞を聴いていた。
自分が書いた手紙の意図は、正しく伝わったのだと感じた。

看護師は思った。

一体、どれだけの人が「音楽に癒された」という事実を知っているのだろう、と。
日々何気なく聴いている音楽や、好きな歌手のライブに参加することが、
その人の健康にどれだけの良い影響を与えていることだろう、と。
それはあまりに身近にありすぎて気がつかないのかもしれない。
具体的な統計など、誰も取っていないのかもしれない。

最終手段としての西洋医学はある。
だが、簡単にその身体を切り刻む前に、
治療手段としての「音楽の力」がもっと注目されるべきではないか。
現に、蓮実のような原因不明の病に対しては、
もっと人間の深い根源的な部分にアプローチをしなければ意味がない。
ただ人間を薬漬けにして、その心を置き去りにして、
そんなものはレイナの歌声に勝てるはずがないと看護師は思った。


 ああ
 心と心が共鳴して
 生きる痛みを忘れられるでしょう



蓮実はこの歌声を聴いて、これなら大丈夫だと感じた。
レイナは間違いなく、完全に復活した。
しかも、今までのレイナを超える魅力を携えて帰ってきた。

そしてこの歌声は、蓮実の心の底まで響いてきた。
空っぽの心に、悲しみの音だけが鳴り響き、
その生きる痛みだけが反響していた蓮実の心に、
その優しい歌声はそっと触れてくる。

そして蓮実の空っぽの心にはレイナの優しさの歌が反響し、
今まで生きるのに苦しかったこと、辛かったことなどの想いは、
すべてどこかへ消え去ってしまった。
そこにはただ、温かさと優しさだけが残って反響を続けていた。


この優しさはなんだろう?
蓮実はボロボロと溢れる涙を拭うことも忘れて考えていた。
そして彼女の頭に一曲だけ似たような歌を見つけた。

それは「アメイジング・グレース」だった。


 Amazing grace how sweet the sound
   That saved a wretch like me.
   I once was lost but now am found, 
   Was blind but now I see.

 アメイジング・グレース
 なんと素晴らしい言葉だろう
   私のような愚かな人間も救ってくれた

 自分を見失っていた時期もあったが
 今は大丈夫
 見えなくなっていたものも
 今は見える


蓮実は大好きなこの曲が脳裏に浮かんだ。
そして改めて思った。
レイナの優しい歌声は、
まさにこんな私のような愚かな人間も救ってくれた、と。


「まさに、アメイジングだ・・・」

「えっ、蓮実さん、今・・・」

看護師は蓮実が「アメイジング」と声を発したのを確かに聴いた。

蓮実は声を取り戻した。
その原因は誰にもわからない。
現代の医学ではわからない問題かもしれないし、
それは神のみぞ知る答えかもしれなかった。

「あっ・・・声が、出た」

蓮実は心の中で嵐のような感情が吹き荒れて、
その暴風は蓮実の心を唸るようにかき乱し続けていた。

「ほら〜やっぱり思った通りでした」

蓮実は「えっ?」と言って看護師を見つめた。
看護師は無邪気な笑みを浮かべて蓮実の手をギュッと握りしめた。

「蓮実さん、とっても優しい声してますね。
 私が想像してた通りの・・・」

蓮実は自分の胸の底からこみ上げてくる熱いものを、
もうこれ以上は堪えることができないと感じた。

そして蓮実は、自分が褒められた声を、
もう二度と自虐には使わないと心に誓ったのだった。

そして、こんなにも優しい歌を歌えるレイナのように、
自分ももう一度「歌の力」を信じてみよう、
そして諦めた歌手の夢を追いかけてみようと思った。


「蓮実さん、これ見てください」

蓮実が看護師の指し示すほうに目をやると、
そこには巻貝から顔を出したかたつむり達がいた。

「ほら、この子達も、蓮実さんとお友達になりたいんですよ。
 春になりましたし、この子達も連れて、
 公園にでも行きませんか?
 そこで、ゆで卵を一緒に食べましょう!
 蓮実さん、じゃ〜ん!」


看護師は隠していた小箱を取り出して箱を開けた。
中には様々な塩が入っていた。
ハイビスカス塩、サリーナ湖の塩、伊達の旨塩、
ウユニ塩湖の塩、赤穂の焼き塩、パキスタンの黒岩塩・・・。


「蓮実さんの好きそうなお塩を揃えておきました!
 私と一緒に『塩部』を作りませんか?
 もちろん、部長は蓮実さんですよ。
 きっとかたつむりさん達もお塩を食べたがってますよ」


蓮実はレイナの優しい歌に心を動かされながら、
ずっと背中を押し続けてくれた看護師に感謝した。
そして、溢れてくる感情にべそをかきながら、
もうこれ以上、感情をこらえきれなくなった。


「・・・かたつむり・・・塩・・たべれないよ・・・」


蓮実は看護師の手を握ったまま、声をあげて泣いた。



・・・


 一人じゃないんだ
 必ず 誰かいる 
 同じように傷つき孤独を感じて… 
 あなたに似た人
 ここにもいるんだよ
 世界を思いだそう


レイナは自分が苦しんでいた日々を思い出していた。
ずっと一人で家の中で辛い思いを抱えて、
こんなに可哀想なのは世界で私だけだと思った。

でも決して一人ではなかった。
同じように苦しみながらも背中を押してくれたりさ。
陰ながら私の復帰を応援してくれたまひる。
失恋に苦しんで手紙を寄せてくれた芽衣。
声が出なくなって悲しみにくれた蓮実。


そしてこの世界のどこかに隠れている痛みを抱えた人々。

そんな同じように苦しんでいる人々に対して、
少しでも痛みが和らいでくれればという願いを込めて、
レイナは自分の想いを歌に乗せた。

華やかなステージに見えるかもしれない。
立派な人間に見えるかもしれない。
でも、本当はただの弱い1人の人間でしかない。
ここで歌ってる歌手だって、どこかで傷ついているあなたと、
何一つ変わることはない。
こんなに私は弱い存在なのだ。
私のような愚かな人間もここにいるんだよ。


 名も知らない 顔も知らない
 会ったことない誰かのために
 みんなが歌い続ければ
 誰もがきっとやさしくなれる


3万人のライブ会場は神々しい雰囲気に包まれていた。

お互いが誰か知らない者同士が集まった会場で、
ただ、この優しい歌を聴いていると、
自然と心が癒されていく気がした。
自分の心の中にレイナの優しい歌声が鳴り響き、
そして自分たちの心がこんなに空っぽだったと気づいた。


嫌な事が会った時、人はその嫌な気分を誰かにぶつける。
そしてそのぶつけられた誰かが、また誰か他の人にぶつける。
そんな負の連鎖は、時には人間を愚かな方向へ導いてしまう。
勝ち負けだけが絶対視されるこの世界で、
敗者はいつもこの惨めな気持ちを引き受けなければならない。
そして、その惨めな気持ちはまた名も知らぬ誰かへぶつけられ、
敗者は敗者を呼ぶ、そこには誰も勝者などいない。


この惨めな気持ちは、誰かにぶつける事でしかなくならないのだろうか?
その答えはレイナが教えてくれているような気がする。
本当に伝えなければいけないのは、そんな惨めな物ではなく、
もっと優しくて温かいものではないだろうか。
そして、それができるのが「音楽の力」ではないだろうか。
音楽家は誰よりも医者なのではないだろうか。

そして、音楽の仕事に従事する人達へ、
そんな偉大な力がある事を信じてみてもいいのではないだろうか。
そして、その力で人を癒してはもらえないだろうか。
まだ人間が解明していない不思議な力を持つ、
「音楽」を奏でる仕事に誇りを持ってはいただけないだろうか。


温かい気持ちになった観客は、
隣の人が例え見知らぬ人であったとしても、
自然に手を繋ぎたくなった。

人間は幸福であれば、幸福な行動が取れる。
この愛の連鎖を、見知らぬ誰かのために歌えるなら、
例えそれが瞬間的な儚い奇蹟のようなものだったとしても、
この世界はもっと優しくなれるのではないだろうか。


 私のために歌ってくれた
 胸に沁みるあの日の歌
 陽射しの中 頬を拭い
 さあ今度は 誰かのために
 しあわせになった人が
 手を差し伸べる番だ
 プリーズ



神々しいピアノの伴奏が終わった時、
レイナは音もなく静かに泣いていた。


会場の多くの人も泣いていた。
そんな事がただ一曲の音楽によって可能だろうか?
それは「音楽の女神」がもたらした一瞬の奇蹟かもしれない。

だが、この世界に幸福があるとすれば、
このような「音楽の力」を信じるところにあるのではないだろうか。



会場の人達はレイナに対して終わる事のない拍手を送った。
そして、レイナは泣きながら深々と長いお辞儀をした。

ドイツ帰りのピアニストも、学ラン姿のバックバンドも、
みんなレイナの周りに集まってきて彼女に抱きついた。
そしてレイナはあの「ダブルダッチ・ステップ」の時のように、
泣き顔を隠す事なく感情を爆発させて喜んでいた。


・・・


観客の拍手とバックバンドのメンバーに見送られ、
レイナはステージ袖まで戻ってきた。
そこには次の出番を待っているまひるがいた。

「レイナさん・・・お疲れ様です」

まひるは相変わらずの満面の笑みで挨拶をした。

「まひるちゃん・・・」

レイナはぐしゃぐしゃの泣き顔で声も出なかった。

「・・・ええもん、見してもらいました。
 あれはあの日に見たカミナリやった・・・」

レイナは相変わらず涙が止まらない。

「昔見た時、一瞬で輝いてすぐ消えてしもた・・・。
 でもあのカミナリは、まだ消えてなかったんですね。
 さっき、春の空に光るカミナリを、まひるはちゃんと見ました」

レイナはまひるが陰ながら自分に一曲分の時間をくれた事を思い、
でもそれを全く恩着せる様子もないその姿に、
本当に感謝を伝えなければならないと思った。
そして必死に言葉を探した。


「・・・アホ・・・」

レイナは泣きながら精一杯の言葉でつぶやいた。


「・・・誰がアホやねん!」

まひるはニヤッと笑ってそう答えた。


そしてまひるの瞳が恐ろしい虎のようにギラギラと輝きだしたのをレイナは見た。

「さあ、ほな、まひるの番やから行ってきますわ。
 ああ、やっぱこの感じやわ〜、めっちゃゾクゾクする!
 おもろいわぁ、ほんま、今日はおもろいわ。
 なんか今までにないくらい最高のライブになる気がするわ〜」


まひるは嬉しいのが堪えきれないというように、
自然とピョンピョン体を跳ねさせている。
きっと、その天性のダンスと歌声で、
さっきの自分以上のパフォーマンスを披露するのだろうなとレイナは思った。


まひるは颯爽とステージに向かって歩いて行った。
3万人の大観衆がまひるを迎えた。

・・・


まひるを見送り振り返ると、
そこにはOLの格好をしたりさが立っていた。

「・・・あっ、りさ!」

レイナは走ってりさの近くへ駆け寄ったが、
りさの様子が少し変である事に気がついて足を止めた。

りさの顔は化粧が涙で崩れてボロボロで、
たった今到着したばかりというふうに見えた。

「・・・りさ・・・歌、聴いてくれた?」

レイナは恐る恐る尋ねた。

「・・・聴いたわ・・・さっきここへ来るタクシーの中のラジオで」

りさは不気味な様子のままでそう答えた。
レイナはりさが歌を聴いてくれたことは嬉しかったが、
その様子が少しおかしいことが気がかりで態度を抑えていた。


そして、レイナの直感はあの「早春の発熱」の1日を思い出させた。


(・・・今の僕には、全くもって関係ない・・・)

りさが立ち去った後、レイナはりさの書いた歌詞を一人で復唱しながら、
その奇妙な感覚がどうも腑に落ちなかった。

どうして最後のリフレインにあのフレーズを持ってきたのだろう?
どうしてこんなに念押しに「関係ない」なんて突き放すのだろう?

強調すればするほど、それは反対の意味を帯びてくる気がしたのだ。



「・・・なんでよ」

りさは小さな声でつぶやいた。

「えっ?」

「なんであんたばっかりそんなおいしいとこ持ってくのよ!」

りさは突然感情を爆発させて叫んだ。
レイナはびっくりして何も言えなかった。

「なんでよ?なんであんたはそんなに私の欲しいものばかり手に入れるのよ?
 どうして私から全てを奪っていくの?
 私、バカみたいじゃない、会社を抜け出してこんなところまで来て、
 タクシーの中でボロボロになるまで泣いて・・・」

りさはポケットの中からリモコンの電池を取り出して握りしめていた。

「あなた、いったい私の何なのよ?
 どこまで私から奪えば気が済むのよ!
 私から大切な音楽を奪って、それで・・・それで・・・」

りさは枯れていた涙がまたボロボロと溢れてきた。

「・・・ごめん・・・」

レイナはどうしようもない状況に、ただ謝るしかなかった。
グスッ、グスッっというりさのすすり泣く音だけが響いた。


「・・・ごめん、私、あなたに嘘ついてた」

りさは沈黙を破って話を始めた。

「今日、仕事が忙しいから来れないなんて、
 あれは真っ赤な嘘よ。
 本当は、来たくなんかなかったの・・・」

りさは手に握りしめていた電池をバラバラと地面に落とした。

「あと、もう一つ嘘をついてた」

その時、レイナの直感はすでにりさが言うであろう答えを見抜いていた。

「私・・・かずきのことがずっと好きだった!」

りさはそう言ったきり俯いて言葉を発しなくなった。


「・・・私もね、りさに嘘ついてた」

りさは驚いて顔を上げた。

「・・・あの日、熱が出てたなんて、あれは嘘だった。
 本当は、りさに会いたくなんてなかったの」

りさは「何それ」と言って笑いだした。

「・・・あんたね、それバレてないと思ってたの?
 バッカじゃないの?
 そんなの初めからわかってたわよ。
 わかっていて、あんたの部屋に上がり込んだんだから。 
 あんたが私に嘘なんて、つけるわけないんだからね」

レイナは少し悲しそうな顔をして俯いた。
そして・・・


「もう一つ、嘘ついてた」

「えっ・・・どういうこと?」

レイナは息を吐き覚悟を決めて言った。

「私、あなたがかずきを好きなの全部わかってた」

その時、レイナの後ろから「ワーッ」っという大歓声が上がり、
ライブの準備が整ったまひるのMCが始まった。
レイナは歓声が上がった方を振り向いた。
レイナが最後に放ったセリフは、大歓声に飲み込まれて消え去ったのだった。


「・・・えっ、今なんて言ったの、よく聞こえなかった」

りさがそう言ったのを聴いて、
レイナはゆっくりとりさの方へ振り向き直し、
少し下を向いて下唇を噛み始めた。

そして、みるみるうちに、子供がべそを書いたようなぐしゃぐしゃな顔になり、
ズーッと大きく鼻水をすすった後、震える涙声で、りさに返事を返した。

「・・・ううん・・・何でもない・・・」

レイナは感情のダムが崩れたようにりさの元へ駆け寄り、
その胸に抱きついて、声を上げて、泣いた。


ー終幕ー

あなたのために誰かのために ー自惚れのあとがきー



この作品は筆者にとって2作目の小説だった。
1作目は「あらかじめ語られるロマンス」を題材に書いてみたが、
読み返してみると余りにも出来がひどい為にお蔵入りにすることに決めた。

本作品を書く動機となったのは、
やはり「私のために誰かのために」の楽曲が持つ魅力だった。
筆者はこの歌が大好きで、特に歌詞に大変共感を覚えていたのだった。
そこで、この優しい歌を題材に「音楽の力」をテーマにして書いてみたいと思った。
実はその時点で、主人公がステージでこの歌を歌うラストの場面が頭に浮かんだ。

では、そのラストの場面へつなげるためにどうすれば良いか。
誰が主人公になるべきかを考えていくことになった。
この楽曲を歌う5人の歌姫達の中から、筆者なりのオーディションが始まったのだった。


正直なところ、5人の歌姫達はそれぞれの素晴らしい魅力を持っていたので、
主人公を選ぶ際にはとても甲乙つけがたい状況だった。
ただ、筆者の感性を追求していった所、どうやら「誰かの為に」歌えるのは、
りさであるという結論を得た。

では、りさが主人公になるのか?
しかし、自分の中で主人公には成長の余白がなければならなかった。
りさは「誰かの為に」歌える資質を備えてはいたが、
主人公になるには少し器用すぎるキャラクターに思えた。

色々と模索を続けていた中、筆者は「早春の発熱」のPVにたどり着いた。
このPVの中で歌っている2人の美しさに魅了されたのと同時に、
その2人の関係性から想像を膨らませることで物語を構成しようと考えた。
そうなると、必然的に表の主人公はレイナ、裏の主人公はりさと配役が決まった。


レイナという主人公は筆者の中でしっくりときた。
それはキャプテンとして活躍している彼女が主人公になることは極めて稀で、
だからこそ面白いし、周囲が彼女をサポートするという物語の進行が、
とても美しい展開をもたらすという副産物まで得ることができたように思う。

この物語の中で、レイナは直感の天才肌に書いた。
一見、周囲の人々に迷惑をかける非常識な人物にも見えるかもしれないが、
実は深いところで誰よりも直感を働かせて見抜いている猫のような存在。
日常とステージ上のギャップこそがレイナの一番の魅力であり、
だからこそこの物語の結末のような奇蹟を呼び起こすことができる。
やはりそう考えると、最後にステージに立つ主人公はレイナ以外にはいなかった。

筆者は、このレイナの自由奔放な魅力を大変気に入ってしまったし、
その才能を爆発させてラストシーンまで駆け抜けてくれたレイナに賞賛を送りたい。
次に何を見せてくれるのかわからない、奔放で魅力的な存在感。
そういう不確定の要素が多いのは見ている側もドキドキする。
少し不器用な面もあり、でも素直だったり鋭い一面も見せてくれる、
まだ成熟しきっていない故の期待や成長の余白を眺めているのが、
今回レイナを書いていて一番面白いところだった。
物語の展開上、序盤では必要以上に情けない姿を描いてしまったけれど、
それはステージ上の素敵な場面を書いて償ったつもりではあるのでご容赦いただきたい。

個人的に言えば、もう少しホイップのライブ場面を描きたかったのはある。
かっこいいロックを歌うレイナもまたとてつもない魅力を秘めているのであるが、
あまり物語の展開に関係ない描写を増やしすぎても話しが長くなるので割愛させていただいた。
だが、読者の方の想像の中で、かっこいいレイナが歌っている姿が見えていれば幸いである。


対照的に、少し申し訳ないと感じているのがりさである。
彼女は時々作中でメタ表現を用いる場面があるが、
これは筆者が無意識的にりさに心を許していたということを表している。

筆者が物語の展開で困った時、悩んだ時、往々にして助けてくれたのはりさだった。
彼女は万能プレーヤーなので、どんな役回りでも展開でも引き受けてくれた。
レイナはそんな立場でもないし、また彼女があまり有能に動くと物語として成り立たない。
そういう意味で、筆者はかなりりさには助けてもらったと感じている。

「誰かの為に」動けるのはりさだった。
そういう意味では、この物語はりさがいないと始まらない。
それくらい彼女は重要なキャラクターなのだ。
そして、物語の中でもひたすら頼もしい人物として書いている。

彼女はレイナと違って、一人でも困難をある程度乗り越えていけるタイプの人物である。
そして、自分だけでなく周囲の人間の背中を押して励ますこともできる。
だが、ラストシーンではそんなりさの完璧さをあえて崩して、
その心の中の葛藤と寂しさを書いてみた。
そうすることで、もっと人間らしいより魅力的なりさになったと筆者は思っているが、
申し訳無さを覚えるのは、彼女をステージに立たせることができなかったことだ。
そして、優秀なキャラであるがゆえに損な役回りばかり押し付けてしまった。

そんな風に感じてしまうのは、筆者がとてもりさを気に入っているからだと思う。
書くのに行き詰まった時、相談に乗ってくれた友人であるかのような、
そういう頼もしさをりさには感じているし、ある意味では影の主人公だと思っている。


まひるに関しては、当初はもっと悪役を演じてもらう予定をしていた。
ただ、まひるはそんな役を引き受けるキャラクターではなかった。
どう描いても、彼女は悪役には染まってくれなかった。
むしろ、そうなってしまうとかなり奇妙なキャラになってしまい、
全くリアルに感じなくなるようにも思えたのだった。

だから、構想を変えてもう自由に動いてもらった。
キャラクターが持つ性格に沿って、好きなように動いてくれという思いを込め、
書き進めていった結果として、このような不思議なライバルとなった。
しかし、結果的にこちらの方がリアルだと思い、筆者は大変満足している。
まひるの存在は、キャラ設定をした後では作者すらキャラを無理強いできないという、
一つの例として筆者にはとても面白い体験となった。

まひるを描く時、彼女を歌手としては最強のキャラに描きたかった。
それは実際に彼女の持つ歌唱力がやはり圧倒的だと感じたからだった。
そして、彼女の持つ底抜けの明るさは、この物語に漂う苦痛や苦悩に対して、
とても明るい一筋の光となって作品に暖かさをもたらしさと感じている。

どんな状況になっても彼女の心は折れないし、ひたすらに前に進む。
そういう野性味を持っているまひるのキャラは描いていて痛快だった。
レイナにもりさにも、まひるが投げかける明るさが良い刺激となり、
物語をいい具合に前に進めてくれたと感じている。

贅沢を言えば、もう少しステージ上の場面を描いてあげたかったが、
最後の場面など、筆者の下手くそな描写を加えるよりは、
読者の想像の中で歌っているまひるの方がリアルかと考えて描写をやめた。
そしてこの方が良かったのだと今でも思っている。


芽衣の場合、これは実は少し難しかった。
彼女について色々と情報を収集しても輪郭が見えてこない。
実は全く本当の姿を見せてくれていないのは彼女だった。
何も見えてこなくて困っていた際に感じたのは、
おそらく彼女は仕事とプライベートをきっちりと分けるタイプだと感じた。
だからあまりプライベートの本性を見せてくれないのだと考えた。

芽衣の性格は良いように言えばきちんと物事や感情の区分けができている人。
あえて少し悪く言えば体裁を気にする人なのかと思った。
外では誰よりも綺麗であり、家では誰よりも自由な格好をしている人だから、
またカメラの前と楽屋裏でも違う表情を見せる人なので、
それはつまりオンとオフが誰よりもしっかりと分かれているように思えたのだ。
そういう二面性をあえて少し意地悪に「強がり」という解釈で筆者は捉えてみた。
(別に悪い性格だと言うのではない、無意識でそういう行動を取る人なだけだ)

また、細かに観察していくと、彼女は見た目の華やかさとは裏腹に、
実はとても古風な女性であることが見えてきたように思った。
レイナやりさ、まひると違って相手に主導権を委ねるようなところがあり、
だからこそ割とグイグイ引っ張ってくれる彼に登場してもらうことにした。
そして古風な印象から、夏の花火大会のようなイメージが浮かび、
物語の中の場面へと繋がったのだった。

ただ、彼女ほどのキャラをこれだけに押し込めてしまうのはあまりに惜しく、
何かないかと探していた時、「立ち直り中」の歌詞がインスピレーションとなった。
作中で、芽衣の場面から「立ち直り中」の前奏が突然にして鳴り始め、
「私のために誰かのために」と二重奏のような形で物語は展開を始める。
実際、この物語のキャラクターは皆なにかしら立ち直り中であり、
A面とB面のようにテーマが重なりあって展開をしていくことになる。
実はこれは執筆中に訪れた偶然なのだが、結果的に良い二重奏になってくれた。


だから、彼女は作中では、ある意味で立ち直り中の方の主人公なのだ。
レイナと逆側から歩き出して、最後にはレイナと重なりあって、ともに立ち直る。
彼女の強い意志はレイナに影響を与えたし、逆もまた然りだった。

そして、芽衣の持つ古風な女性美を表現することに努めながら、
悲しくも切ない結末へ向かって進んで行くことになる。
初めはこの古風な魅力を描くのに苦労もしたのだが、
書き終わる頃には、筆者はこの芽衣の女性らしいキャラクターがとても好きになった。
欲を言えば、芽衣にも歌う場面をもっと書いてあげたかった気もする。

また、気づいたかどうかわからないが、りさも蓮美も芽衣も、
実はともに同じ縫製工場の出身であり、実は「立ち直り中」のPVとこの物語はつながる。
あのPVで芽衣が上京し、TVの中の人になる前だと思ってもらえれば良いのだ。


蓮美の場合、これも少々申し訳なく思った。
物語の展開上、どうしても見えないところで傷ついてもらう役が必要だった。
5人の中で誰にしようと考えても、蓮美以外は適任がいなかった。

なぜなら、蓮美は優しすぎるからだ。
だからりさと同じで少しばかり損な役割を演じてもらうことになってしまった。
だが、彼女が持つ個性はとても頭が良くてユーモアを持っていることだった。
その頭の良さを尊重し、雑誌記者という役割に収まってもらった。
おかげで話がかなり膨らんで、色々と問題提起にもつながっていった。
また、蓮美の持つ面白さからか、筆者も知らず知らず喜劇的なタッチになった。
これもまひるとは違う意味での明るさと面白みが物語に加えられたように思う。

途中で登場する看護師が誰なのか、もうお判りかと思うが、
実は当初は全く登場の予定はなかった。
しかし蓮美から声を取ってしまった場合、誰も会話ができないと話が進まない。
そこで病院だし看護師を出そうと決めたところ、なぜか看護師が饒舌に喋る。

ちょっと喋りすぎであり、これはいったい誰なのか、と筆者も思っていた。
そして、自分の無意識が誰を登場させたがっているのか筆者も気がついたのだった。
これはアナザーワールドの彼女だ、「ごめんね、ずっと」の看護師である。

ただ、役割上は標準語を話しているし、彼女を超えた話ぶりをしているので、
あくまでもアナザーワールドの看護師として止め、名前を出さなかった。

結局、この2人を登場させたことで面白いように物語は書き進んだ。
そしてやはりこの2人が揃うと喜劇的に会話は弾んでいったし、
何より、この2人の友情関係を書けたことが筆者にはとても幸せだった。
蓮実がピンチになった時、やはり助けるのはこの看護師であるし、
そういう助けられる人徳を持っているのが誠実で誰にも分け隔てのない、
蓮実の一番の魅力であると思う。

5人それぞれにクローズアップした場面も書いたが、
それぞれが各人の魅力を発揮してくれたように感じている。
レイナは奔放、りさは慈愛、まひるは自由、芽衣は古風、蓮美は誠実。

しかし、他の作品と比べてもらうと一目瞭然なのだが、
この作品の文体はかなり奇妙である。
それは5人のキャラクター以外にも筆者が6人目として存在している。
そして時々ふと唐突に顔を覗かせて饒舌にしゃべってくる。
小説としてはこのやり方はあまり好ましくないと個人的には感じていた。
物語の余白を残せず、筆者は饒舌に語りすぎているとも思った。

だが、結局これは筆者もこの楽曲に対して思い入れが強く、
口を閉じてはいられなかったのであると解釈した。
だから5人だけに任せず、おせっかいに顔を覗かせては語ってしまった。
嫌味な感じと余白のない様が気になったが、これはこれで魂の叫びであるし、
多少文体が気に入らなくても、これを直してしまうとそれはそれでおかしくなる。
だからこの熱のこもった筆者の語りもあえて残してみた。

少し余談をする。
3作目の「Gute Reise」はこの作品の後に書いたものだ。
比較してみるとこの筆者のこもった饒舌な熱は3作目には姿を潜め、
またリアリズムすぎた本作を突き抜けるようにして、
少しシュールな遊び心が3作目以降には加わったのがわかると思う。
実際のところ、「Gute Reise」からの良い意味での突き抜け方が、
筆者にとっては少し革命的でもあって、
それで披露する順番としてはあの作品を1番目に持ってきた。
本作は長編なので、最初に披露するにはちょっと躊躇してしまったのであった。


この物語は今回の作品群の中では唯一の長編だが、
もうこんなに長い作品を書くことはできないように思う(技術的にも時間的にも)。
これは5人分をまとめて一つの作品に収めたようなところがある。
また、「私のために誰かのために」と「立ち直り中」の二重奏でもあり、
途中には「早春の発熱」のPV映像を小説化という実験も試みていて、
それらが最終的に一つに重なるラストシーンに向かっていく。

これ以外の作品は、登場人物1人ずつに焦点を当てた短編集なので、
こんな大きな構想はなかなか立てれないし、
ある意味で、この大きな構想が勝手に筆者に降りてきたのは、
やはり楽曲の持つ世界観の大きさの賜物であったなと筆者は思うのである。


ー終わりー