やさしさから尼になってる

急勾配な坂を登ると、八幡社が見えてくる。

 

坂はかなり角度の付いた傾斜であるために、

一歩一歩と踏みしめる度、目先に上下に揺れる鳥居の頭部が、

ここまででいかほど登ったのかを示している一つの尺度に思えた。

徐々に姿をあらわにする様は、坂を登る者のひそかな楽しみでもあった。

 

 

八幡神は古来より武家が守護神として勧請したものであったが、

やがて広く一般庶民達の信仰を集めて行き、

後世には何処かしこに八幡を祀る習俗が広まっていった。

この坂の上にやがて姿を現してくる八幡社も、

江戸幕府が開かれる以前、徳川家康がこの地にやってきた時代より、

すでに二十余年の歳月を雨風にさらされて立派に凌いでいた。

その年月は、まさにモミジの歳に近い。

まだ幼童の時分より、モミジは足腰を鍛える早朝の習慣としてこの坂をよく登った。

 

「・・・ちょっと待って!」

 

モミジは声のする坂の下を振り返って眺めた。

高い位置から見下ろす坂は多分に傾斜している。

ひょいと唐芋でも転げようものなら、拾いに行くのは四半刻を要するだろう。

 

遠くから呼びかける疲れはてた声の主はマミであった。

歳は等しいはずであったが、こと耐久力の根比べなるとアミには分が悪かった。

 

「まだ登ってから幾らも立ってないよ!

 早く登らないと稽古に間に合わなくなるって」

 

モミジは闊達な性分からマミを急かした。

剣術道場で本気の稽古をし始めた期間が僅か数年のマミには、

幼少期より足腰を鍛えて登っているモミジに敵うはずがなかった。

 

「八幡様が見てるよ、早く登ってきて!」

 

口調はその剣術と同じく斬れ味がよいが、

モミジはマミに対して決して怒声を発した事などなかった。

この度も剣術の面構えはしまって、菩薩のような笑みを帯びて呼びかけていた。

こんな風に二人の関係は睦まじく、道場の師範すら微笑ましく見守っていた。

 

「・・・八幡様は、私に意地悪してるんかもしれん。

 坂道を登るってのはこんな辛い事なんか」

 

愚痴を垂れながらもマミは決死に坂を登り続けていた。

これは剣術の稽古を始めてからモミジとの日課になっていたが、

長年の稽古で築いた土台が違うせいか、

マミは坂登りに関してはモミジと競う気分すら起こらない。

鼻から敗北を認めている気分すら持ち合わせていた。

 

モミジは剣術道具一式を道端に投げ出して、

一目散に坂を下り始めた。

そして足の止まってしまっているマミが視界に大きくなり、

やがて勢いよく追い抜いては、再度振り帰ってマミの背中についた。

 

「愚痴言ってても坂は平らにならんよ。

 どう言ってても、いつかは一人で登らないとダメだからね。

 二人で登ってる時はこうしていられるけど」

 

モミジはマミの背中を押しながら共に坂を登り始めた。

足を止めていたマミも、緩々とではあるが急勾配を上がり始めていく。

 

「助かった・・・もう膝が折れるところだった」

 

マミは汗を拭きながら嬉しそうにモミジに感謝を告げた。

 

「縁起でもない事言わないでよ、マミはこの坂の名前を知ってて言ってるの?」

 

モミジは鍛え上げられた両腕で一所懸命にマミの背中を押しながらそう言った。

 

「マミ知らんよ、何ていうの?」

 

少しばかり顔をモミジに向けてそう言った。

 

「なんだ、知らないの。

 この坂は『膝折坂』って言うんだってさ。

 昔、当時の町奉行である青山忠成様が将軍様からこの土地を賜った時、

 慣行に倣ってこの辺り一円に老馬を走らせたんだよ。

 倒れるまでずっと馬を走らせ続けていって、 

 やがて馬が膝を折って倒れて死んじまったところに八幡様を建てたって。

 ・・・まあ昨日、師範から私も教えてもらっただけだけど」

 

モミジは笑いながら言ったところ、

「またぁバカにして!」とマミは冗談で怒ってみせた。

己だって昨日まで知らなかったではないかと憤慨して見せたのである。

 

「はは、冗談じょうだん!

 でも、そういう話だから縁起でもないって言ったの。

 大丈夫よ、今は八幡様が私達をちゃんと守ってくれてるから」

 

モミジは背中を押す力を強めてずんずん進めていった。

八幡様は自分に冷たい気もしたが、マミはモミジの助力をありがたく思った。

やがて上下に揺れながら視界に大きくなっていく八幡社の鳥居に、

マミは二人と齢のほとんど変わらない八幡様が二人の間にいる、

そんな風に思っていたし、二人をずっと守っていてくれるような、

自分達を捨てた両親の代わりであるような温かさも感じていた。

二人で坂道を登った後は、必ず二人して境内へお祈りにいったものだった。

 

 

・・・

 

 

慶長十年、江戸幕府内で大きな話題をさらったのは、

徳川家康の後を継いで、嫡男の秀忠が征夷大将軍の座を継いだことであった。

 

長い戦国時代の幕が降り、江戸時代の幕開けを迎えてまだ二年程度での異例の抜擢人事であった。

だがまつりごとの観点から見れば、家康から以後三百年脈々と受け継がれた世襲制度を万全にするための、

徳川家の劇的な政治手法であったことが後世からは見て取れる。

高齢であった家康が存命の内に、早めに秀忠に盤石な体制を築いてもらいたいという、

さすがの天下人である家康の知恵であった。

 

だが、庶民にとってはそんなことは問題ではなかった。

庶民は明日の生活がどのようになるのか、それだけが関心事であり、

難しいまつりごとなどはお上が自由にやってくれれば良いのである。

だから庶民にとっては、征夷大将軍の交代が何を意味するのか、

自分たちの立場から考えているにすぎない。

以前より暮らしが楽になればよし、苦になるなら嫌だという程度である。

 

 

剣術道場などが流行りだしたのはまだ後世、次の将軍徳川家光の時代であった。

慶長十年は、天下分目の関ヶ原の合戦からわずか数年後であるからして、

天下泰平の後世と違って、剣術を流行でやっているのとは訳が違っていた。

それは立派な殺人剣である、目的は相手を殺すことを主としている。

剣術道場などはまだ商売とも認められていないような時分で、

師範という名目があっても、公に認められているものではない。

それは侍崩れのゴロツキ商売となんら変わらない印象を帯びていた。

さらに言うと、時代は女性剣客などは求めていない。

合戦は男の特権であり、女性がそこに足を踏み入れることは野蛮な行為でしかなかった。

だからマミとモミジが剣術なんぞを嗜んでいるのは、世間からは奇妙に映るほかなかったのだ。

 

 

二人とも両親の顔を知らない。

気づいた時には道場を闇商売として開いていた師範に養われて育てられていた。

師範は特に二人に剣術をするように強いる事はなかったが、

モミジは師範の剣術を見ているうちに強さを求めるようになり、

それが生活での克己心を養う事に繋がるのを喜びに、

めきめきと剣術の腕を上げていったのであった。

一方でマミは、剣術の持つ美に魅了されていった。

構えの美しさや立ち回りの鮮やかさを剣術の醍醐味と捉えており、

戦国の世に生まれたにしては、女性らしく戦を嫌っていた。

モミジも強さには憧れを抱いていたが、

それは弱き者を守るための技であり、自己を克己するための心の修行であると思っていた。

 

 

やがて歳月が流れ、関ヶ原の大勢が決した後は、

世の中は徳川家の時代がやってくる事を知る人は知っていた。

庶民もまつりごとに関心などなくとも、世間の噂から流れを察知していた。

 

 

・・・

 

 

足腰の鍛錬から戻った二人は、道場の中で各自練習を始めた。

稽古をつけた年数の分だけ、モミジのほうが腕はあったが、

マミも負けじと腕を磨いていった。

 

だが、まもなく太平の世が来るという風評を聞くにつれ、

マミには剣術の本質である殺人剣の部分はなおざりになっていった。

新しい時代には、剣術は己を鍛える手段にすぎなくなり、

その美を追求する分野も生まれて来るのであるが、

そんな複雑な事をマミが考えていた訳ではなかった。

 

彼女が好奇心のままに取り組んでいた物事の中に乗馬があった。

それもまた、合戦を意識したものでもなく、移動手段としての便利さと、

その技術の美しさがマミの主眼であったのだ。

 

二人とも両親に捨てられた経緯は変わらないはずだが、

モミジはそれにより自己に強さを求めるようになったのに比較して、

マミは自分なりの歩みで独自の観点から成長を遂げていった。

それは結局、一本の刀がもたらした運命の差なのかもしれない。

 

 

道場で剣を振るっている時、モミジは片隅に置かれている刀が気になった。

それはマミが大切に肌身離さず持っていた立派な太刀だった。

 

稽古の最中、モミジが遠くから刀を見つめていると、

その視線の先には気づかずに、マミはモミジを見て笑みを返した。

親に捨てられたときに、籠の中に一緒に入っていた刀であった。

その立派な刀を自分は生まれながらにして持っていた。

刀の柄にはどこか由緒正しい家柄のものではないかと思われる綺麗な家紋が入っていた。

その刀を持って生まれた運命が、マミを強さより美しさを求める性分にしてしまったかもしれない。

逆に何も持たずに生まれたモミジは、世間から身を守れるのは己の肉体のみであり、

世の中には他に何も頼れるものはなかった。

そうであるがゆえに、モミジが剣を振るうとき、その顔は普段とは違う修羅の面構えを帯びるときがある。

二人の間柄は良好ではあったが、心の中まで同じだったかどうかは本人のみぞ知ることであった。

 

 

・・・

 

 

「はぁぁ!」

 

鬼のような気迫でモミジがマミを滅多打ちにしていく。

マミは防戦一方のまま、じりじりと後退しながら防ぐので手一杯である。

 

「やぁ!」

 

モミジの木刀がマミの木刀を宙へ弾き飛ばした。

その時点で勝負ありであった。

 

「・・・やっぱりモミジにはかなわない」

 

手を上げながら木刀を拾いに行ったマミを見て、モミジはいつも甘いと心の底で密かに思っていた。

 

「いや、マミの腕前もすごい、この頃では大差なくなってきた」

 

モミジは心の底を表情や言葉に表すことはなく謙虚に告げた。

道場の稽古で勝ち続けることが彼女の自尊心を満たしていたのである。

 

「モミジが褒めてくれるから。

 褒め上手な人がいないと、マミは投げ出す癖がある」

 

木刀を拾って握りしめながら、マミはしみじみとそう言った。

心の底から切磋琢磨してくれるモミジの存在がありがたかったのだ。

 

「・・・まあ問題ない、すぐに私より強くなるんじゃないか」

 

モミジは笑みを浮かべながら汗をぬぐってそう言った。

「休憩にしよう」とモミジは述べて道場を一足先に出て行った。

マミは部屋の隅に置いてある刀を見つめて、また自分の希望に耽った。

 

(・・・これを持っている限り、いつか母上に会えるんだ・・・)

 

マミにとってその刀は、まさしく母そのものと言っても過言ではなかった。

いつか母に再会して、自分がこの刀を振るっている姿を見せたかったのである。

普通の家柄に育っていない二人にとって、豊かな暮らしなどは望むべくもなく、

身分相応に生きていくことがこの時代の当たり前の慣習だった。

だが、マミが持っている刀は、その全てを覆す可能性のある唯一の希望である。

剣術の世界しか知らない二人にとって、ただ単純にその刀だけが、

二人の差を生んでいる違いであり、何か別の世界に通じる鍵でもあった。

 

 

・・・

 

 

ある夕刻、マミとモミジがいつもどおり剣術の稽古をしていた時、

玄関の戸から呼ぶ声があった。

それはいつも道場にやってくる物売りの男だった。

 

モミジは稽古に耽っており、自然とマミは自分が玄関へ足を向けた。

二人の力関係は、道場の中の強さの序列によって知らず知らず染み付いていたのだった。

 

「へぃ!マミかい、てえへんだよ!」

 

物売りの男は担いでいた荷物を地面に下ろすなりそう言った。

 

「なんだい、珍しい唐芋でも手に入ったのかい?」

 

当時はまだ薩摩芋とは呼ばれていなかった唐芋は、

中国から日本に伝わったばかりだった。

現在の鹿児島にある薩摩地方で栽培が盛んになったことから、

後に薩摩芋と呼ばれて江戸中期から後期にかけて流行したが、

この当時は江戸近辺では栽培されてもおらず、

そんな希少なものは名前は聞いても庶民が容易く口にできるものではなかった。

だが、マミは物売りの男から毎度のようにその唐芋のことを聞いていた。

甘くて健康にも良い唐芋は、やがて流行ることを商人達は見抜いていたが、

お上の許しがなければ劇的な流行を生み出すことは難しい。

庶民が薩摩芋を口にできるようになるのは、後世の八代将軍吉宗まで待たねばならない。

 

「唐芋だって?」

 

先ほどまで稽古に耽っていたモミジがいつの間にかマミの背後にいた。

腕っぷしの強さに比例して、モミジの食欲は旺盛であり、

いつもマミと唐芋の話を聞くたびに、両手に抱えて交互に食べるのが小さな夢だった。

 

「やぁだよモミジ、唐芋の話なんてしてない」

 

マミは笑いながらそう言い、モミジも剣術の時の鋭い顔を忘れてお腹を抱えて引き笑いをしていた。

その声の出ない引き笑いを見て、マミは豪快に声をあげて笑った。

 

「ちげぇよ、そんな唐芋どころの話じゃねぇ!」

 

男は汗の滴るのもそのままに、興奮して話を続けた。

 

「村の高札場の話をもう聞いたか?」

 

マミとモミジは二人して顔を見合わせてから首を横に振った。

 

「俺もあれがなんて書いてあるかわかんねぇけどよ、

 村役場のとっつあんに聞いたところ、すげぇ話なんだよ」

 

男は身振り手振りを大げさに交えながらそう語った。

この時代、文字が読めない人達もまだ多かった為、

高札に書いてある内容を読み聞かせる役目を負う者もいた。

 

「いったいどうしたのさ?」とマミは大きな目で男を見つめて尋ねた。

 

「・・・すげぇかもしれねぇ、おめえさんのあの刀だ。

 ちょっくら俺に見せてくれよ、なぁ!」

 

男は身を乗り出してせがんでくる仕草に、

モミジの方がきな臭さを感じてマミをかばった。

 

「あれはマミの大事な刀だぞ、そう簡単にお前に見せれるかい」

 

モミジはそれが我が事のように男に言い放った。

だが男は引っ込む様子はない。

 

「馬鹿野郎っ!そんな程度の話じゃねぇってんだ!

 家紋だよ、葵の家紋だ、徳川様のだ!」

 

男の様子がまるで怯えているようにも見え、

将軍様の名前を聞いたので、事は尋常ではないと感じた二人は、恐る恐るながら、

男にマミの刀を見せる事を決断した。

 

マミが大事そうに刀を抱えて持ってくると、

男はまなこを凝らしてマミが布包を開ける様を見つめていた。

柄の模様に目が止まった後、

 

「やっぱりだ・・・おめぇそれをどこで手に入れた?」

 

男は狼狽しながら尋ねた。

 

「あんたに言った事なかったか?

 これはマミがここの師範に拾われた時から持ってるもんだ」

 

男は汗を流しながら目の色を変えたように後ずさりし、

地面に顔を伏せる姿勢でかしこまった。

 

「・・・それは間違いありません。

 徳川家の三つ葉葵の家紋でございます」

 

マミはまだ事情が飲み込めずにとろんとした目をしていたが、

後ろに立っていたモミジの顔色はみるみるうちに青ざめていった。

 

 

・・・

 

 

徳川家の家紋は三つ葉葵であった。

 

双葉葵を元に図案化されたものであるが、双葉葵とは文字通り「双葉」であり、

三つ葉というのは存在しない空想上の産物であった。

徳川家康の所縁の地である三河国の武士は、葵紋を家紋としてきた。

 

心を型どったように丸みを帯びた図案は、徳川家康が征夷大将軍になった頃から、

徐々に葵紋の使用がはばかられるようになったという。

だが、往々にしてこの手の物は贋作が出回るもので、それがいつの時代も世の常である。

正式に使用が禁じられたのは百年後の江戸時代中期ごろを待たねばならない。

それまでは御用商人など、特定の身分の間には葵紋の入った道具を持つものもいたらしく、

おそらく偽物を流通させている悪徳業者もいた事であろうと思われる。

 

 

 

マミが持っていたのは、まさしく三つ葉葵の家紋が入った刀であった。

高札に書かれていた内容は、徳川家康公の側室であった西郷局の落胤が、

徳川家の三つ葉葵の家紋の入った刀を持っているというもので、

征夷大将軍を継いだ息子の徳川秀忠が、その落胤を捜索しているというものであった。

 

 

権力者が代わる事による影響は、こういう方面にも見られる事が多い。

事実としてこの時代、秀忠の世になってから西郷の家柄はその恩恵を受けることとなった。

西郷局とは秀忠の母上に当たる人物であり、西郷家に属する人物は優遇されたのである。

 

西郷局は通称「お愛」の方とも呼ばれる。

美人であり人柄も良かったらしく、家康のみならず周囲からも大変好かれていたという。

しかし美人薄命のことわり通りに短命であった。

家康が天下人となる前に、三十代の若さで夭折したと言われている。

 

 

・・・

 

高札に書かれている話を聞き、西郷局が亡くなる以前、

その御産と引き換えに命を奪われたという噂がもっぱら庶民の間で立ち始め、

もしそうであれば、当時の風習などから忌み子となった可能性があった。

例を挙げれば、当時は双子であったり、厄年に生まれた子であっても、

不吉な存在として忌み嫌われて捨て子となったり養子に出されることがあったそうな。

西郷局の落胤も、母上の命を奪って生まれてきたとすれば、

何らかの考え方によって忌み嫌われて捨てられた可能性も考えられなくはなかった。

しかし時代が移り、秀忠からすれば実の妹に当たるこの落とし子を、

見つけて保護したいという考え方は至極妥当なものであり、

家康も秀忠に権力を移譲した手前、口出しはしなかったのだろう。

 

 

マミにはそのような事情はほとんど理解できていない。

ただし高札に書かれている内容を教えてもらってからは、にわかに期待が高まってきた。

自分が想像していた以上に出自は高貴なものである可能性が高まり、

母上はすでに亡くなっているが、将軍様の妹であるという上等な身分である。

大事に持っていた刀と、信じていた希望がついに現実となる瞬間が近づいてきたのであった。

 

 

物売りの男は刀の鑑定をすべきだと申し出たが、マミもモミジもそのような当てはない。

男は自分が知っている呉服屋に鑑定を頼むことを提案した。

将軍様の信頼も厚い呉服屋の亭主であれば、物の真贋を見抜く目に優れており、

仮に本物であった場合、将軍様への取次も容易いであろうと思われた。

 

マミは物売りの男が信用に足るのか、急に心許なくなったが、

「刀を奪う何てことはしません、死罪になんかなりたくないですから」という言葉を信じることにした。

その代わりに、呉服屋への取次賃として、うまくいったあかつきには、

マミから幾らかをせしめるつもりであった。

また、呉服屋からも取次賃を取れば、物売りの男の儲けは倍である。

危ない橋を渡って刀を盗まなくとも、十分に儲けが出る話であったのだ。

 

 

マミは物売りの男の申し出を受けて呉服屋へ刀を持っていくことにした。

刀の事が気になるモミジも同行を願い出た。

マミにもし何かあったら自分が守ると言い張っていたのだ。

 

 

「旦那、お久しぶりです」

 

物売りの男は媚びた姿勢で申した。

 

「それで、噂のあれは持ってきたのかな?」

 

向かいに座っている呉服屋の亭主は威厳を感じさせる物言いである。

よく肥えて垂れ目の容貌からは、御用商人によく見られる胡散臭さはない。

むしろみんなの優しい兄貴といった風格さえ感じさせる。

 

「へぇ・・・これでございます」

 

物売りの男は布包の中からマミより預かった刀を取り出して見せた。

そして両手で掲げるように持って低頭し、呉服屋の亭主に手渡した。

 

「・・・ふむ、確かに徳川家の三つ葉葵で間違いなさそうだ。

 それで、この刀の持ち主はどこにいる?」

 

呉服屋の亭主は物売りの男にそう尋ねた。

亭主の身なりは見るからに一級品である高級な物で揃えられており、

お金に不自由していない様子が一目瞭然である。

 

「へぇ、屋敷の外で待たせてありまさぁ」

 

マミとモミジは外で待たされていた。

まだどこの馬の骨ともわからぬ者を通すわけにもいかず、

物売りの男は二人に外で待つように指示をしたのであった。

 

その時、部屋の襖の向こう側に女性の影が映り、

艶やかに座り込むようにして襖を開いた。

 

「・・・お話し中すみません、外は雨が落ちて参りました。

 立たせている女子達が不憫に思えるのですが、

 屋敷内で雨宿りさせてあげてもよろしいでしょうか」

 

襖の向こうから現れた女を見て、物売りの男はごくりと唾を飲んだ。

年上女房かと思える美しい女性は、手足が長くてすらりとしていた。

所作に現れる気品は、生まれの高潔さを表しているように思えた。

亭主のように着飾っているわけではないが、それでいて艶やかである。

黒髪が流れる首筋を見やると、身震いすら覚えるほどであり、

男はこういう時に自分の卑しい出自を憎まざるを得ない。

自分には生涯をかけても得る事のできない、身分不相応の恋慕であった。

 

「・・・そうか、しかしまだどのように処遇を決定するかわからぬ。

 将軍様の妹君かもしれぬお方ではあるが、お上の承認をまだ得ぬ今、

 どこの馬の骨ともわからぬ子達を屋敷に入れてやることはできぬ。

 呉服屋は妙な入れ知恵をしていたなどと、後で将軍様に疑われてもかなわんしな」

 

対処の仕方から、さすがの御用商人であることが伺えた。

うろたえることなく、利を得ることと身の保全を両方とも確保する術を知り得ている。

 

「・・・そうですか、しかし雨に濡れては可哀想にも思います。

 あまり降られぬうちに帰らせるようにしてはいただけないでしょうか。

 二人してずっと玄関前に立たせておくのは忍びないことです」

 

「二人?

 将軍様の妹君はお一人ではないのか?」

 

「ご友人が連れ添っているようでございます」

 

「そうか・・・何にせよ今日のところはお引き取り願おう。

 将軍様にこの件はお伝えしておきますので、

 後日また通達があれば私より連絡させましょう」

 

呉服屋の亭主はそう告げて物売りの男はまた低頭した。

女房もまた低頭して襖を閉じて行ってしまった。

 

 

・・・

 

 

「ねぇ、どうだった?」

 

物売りの男が玄関から出てきた時、

雨に降られていることも構わず、モミジは会談の結果を尋ねた。

 

「そう急かすなやい、大仕事の後だってのによぉ」

 

男は取次ぎ役を演じている自分の立場に優越感を感じていた口調だった。

普段は相当ぞんざいな扱いしか受けていないのだろうと思われるほど、

屋敷から出てきた男は自慢げで満たされた顔をしていたのだった。

 

「それで、大仕事はどう転んだの?」

 

「へぇ、やはり将軍様の刀である可能性が高いようです。

 今日のところは呉服屋の亭主に刀を預けて参りました。

 後日、呉服屋から幕府へ取り次いでもらって確認していただきましょう。

 もし本物だと確認された場合、将軍様よりまた何らかの通達があるでしょうよ」

 

物売りの男はマミに対して慇懃な態度でそう告げた。

その態度から既に刀は本物である可能性が高いと思えた。

 

「そうか、じゃあまた何かあったら教えてください」

 

マミも丁寧に返答した。

この男に自分の今後の人生が委ねられていると感じていた。

 

「へぇ、もちろんでございます。

 その・・・うまくいった時には、こっちの方お願いしますよ、へっへ」

 

男は指で銭の形を表してマミに報奨を要求した。

男はマミの将来よりも自分の懐具合こそが楽しみだったにちがいない。

 

「唐芋、食べほうだいですな」

 

男は下品な笑みを浮かべてマミに耳打ちしてそう言った。

普段から話をしていたあの唐芋など、将軍様の妹になれば食べ放題だと言うのであった。

 

「そんな、マミは唐芋なんて別に・・・」

「またまたぁ!」

 

マミは唐芋の説を否定して見せたが、男は肘でマミを軽くついた。

その時、モミジが男の頭を急にはたいた。

 

「な、なにしやがる!」

 

男は頭を押さえながら叫んだ。

 

「なれなれしくマミに触るなってんだ!

 お前のおかげじゃないぞ、刀を持ってたのはマミだからだ。

 唐芋なんて余計な話をするんじゃないよ。

 私達は剣術を極めるために生きてんだ」

 

モミジはマミの前に立ちふさがって男にそう告げた。

マミを守るのは自分の役割だと思っていた。

 

「て、てめぇこそ関係ねぇだろうがよ!

 俺がいなけりゃ家紋の事だってわからずじまいだったんだ!

 ちったぁ感謝される権利だってあると思うぜ!

 てめぇこそ一生どこの馬の骨かわからぬ身分のくせによ!」

 

男の投げかけた辛辣な言葉に、モミジは我を忘れて男に襲い掛かった。

それを止めたのはマミだった、友人であったモミジの気持ちは痛いほどよくわかっていた。

自分達は捨て子であり、天涯孤独の身で生きてきたのであった。

それを思い知らされる事は、癒えない傷に塩を擦り付けるようなものである。

 

「てめぇはもうマミ様に関わるんじゃねぇ!

 次に呉服屋に行く時には、もうついてこさせねぇからな!」

 

男はペッと唾を道に吐き捨てて帰って行った。

マミは激昂しているモミジを押さえながら複雑な思いを巡らせていた。

 

 

・・・

 

 

後日、呉服屋の亭主から通達があり、

物売りの男は再度一人で呉服屋へ向かった。

 

呉服屋の亭主の話によると、刀の家紋は間違いなく徳川家の家紋であり、

マミは西郷局の遺児である可能性が極めて高いとされた。

 

刀は物売りの男の手によってマミに返された。

次は本人が幕府へ出頭を命ぜられたため、

マミは明朝早くから物売りの男とともに呉服屋を訪れる事に決定し、

刀を懐に抱きながら、期待と不安を胸に眠れぬ夜を過ごしていた。

 

「マミ・・・まだ起きてる?」

 

襖の向こうからモミジの声がした。

 

「うん、どうしたの?」

 

マミは布団から抜け出して襖を開けて尋ねた。

そこにはかしこまって座っていたモミジがいた。

 

「縁側から見える月が綺麗だよ」

 

向こう側を指差しながらモミジはそう告げた。

マミはモミジと共に寝室を抜け出して縁側へ行った。

 

縁側から見える景色には、三日月が中空に掛かっていた。

虫の鳴き声のする静かな夜に、モミジは縁側から足をぶらりと投げ出し、

マミも同じように足を投げ出して座った。

 

「懐かしいね、子供の頃もよくこうして月を見たよね」

 

モミジはしみじみとした口調でマミにそう告げた。

幼い頃から道場で育った二人には、共通の思い出をたくさん持っていた。

 

「・・・今日が最後かな、一緒に月を見られるのは」

 

モミジはそうポツリと告げて、マミは俯いた。

刀が本物だと証明されれば、もうマミはここへ戻ることはないかもしれない。

そのまま将軍様から何らかの身分を保障されて豊かな生活が始まるのかもしれない。

 

「・・・私はずっとマミを守り続けるよ。

 たとえ将軍様の妹であったとしても、変わらず守り続ける。

 そのために学んだ剣術だから」

 

モミジはマミのほうを向いて無邪気にそう告げた。

月光がモミジの横顔を美しく照らして見えた。

 

「・・・あのさ」

 

マミは静かに口を開いた。

 

「・・・もう大丈夫だよ。

 マミは一人でも自分を守れるくらい強くなった。

 今後の人生はまだどうなるかわからないけど、

 もう一人でも生きていける気がする」

 

モミジは動揺を隠せずに俯いてしまった。

何かがモミジの心の上にずしりとのしかかる音が聞こえた気がした。

 

「だからさ、モミジはモミジの人生を生きて欲しいんだ。

 足手まといの私がいなくなれば、もう守ってもらう必要もなくなる。

 モミジは自由に自分の生活を追求できるって思うから」

 

マミは嬉しそうに語っていた。

重荷である自分がいなくなれば、きっとモミジも楽になれる。

心の底からそう信じて無邪気に語っていたのかもしれない。

しかし、一方で無意識に自分の明るい前途を感じて、

余計に饒舌になってしまっていたのかもしれなかった。

 

「・・・私の生活って何?」

 

モミジがつぶやいた。

悲しみを帯びた口調だった。

 

「・・・ごめん、なんか余計なこと言っちゃったかな?」

 

マミが瞬時にモミジのほうを向いて謝罪した。

刀を持っている後ろめたさがそうさせたのかもしれない。

 

「・・・ううん、なんでもないよ、ごめん」

 

モミジは糸目になるほど笑顔になってそう答えた。

モミジのこの微笑みは幸福を招くような魅力があるとマミは思っていた。

誰にも平等に優しいモミジ、強くて弱いものを守るモミジ、

周囲を明るくさせるその活発な性分をマミは羨んだことが何度もあった。

 

 

二人がしばしの沈黙にかえり、夜はまた静寂に包まれた。

三日月は黙って二人の顔を明るく照らし続けていた。

 

夜風に長くあたりすぎたせいで、マミは少し肌寒さを感じた。

もう夜も更けたことで、また寝室に戻ることにした。

 

「寝る前に厠に行っといたほうがいいよ。

 また起きてくるの辛いでしょ?」

 

モミジは優しくマミの肩に手を置いてそう促した。

 

「ついていってあげるね」

 

モミジはマミの背中に抱きつきながら厠へ付き添った。

「歩きにくいよ」などとマミが言って二人は仲睦まじくしていた。

 

「・・・刀、持っといてあげる」

 

モミジはそう告げてマミの懐に抱えている刀を取った。

「厠に落としたら将軍様に嫌われるよ」と冗談を言って笑った。

マミも同じように笑いながら「ありがとう」と告げて厠へ入った。

 

だがマミが用を済ませて出てきた時、そこにはもうモミジの姿は見当たらなかった。

 

 

・・・

 

 

マミは馬を走らせていた。

 

モミジの姿が消えてしまい、先に寝室に向かったのかと思いきや、

寝室にもモミジの姿は見当たらなかった。

自分の寝室に戻っても、刀を戻してくれた様子はない。

マミは悲痛な胸を押さえながら最悪の場面が頭に浮かんだ。

モミジがマミの刀を盗んで呉服屋へ抜け駆けしてしまったのだ。

 

道場を出て呉服屋の屋敷へ向かうまでの道に、

坂上の八幡社がマミの視線をかすめた。

 

(・・・八幡様、どうして私達をこんな事に・・・)

 

マミは神も仏もない絶望した気持ちで馬を走らせた。

しかし馬はあまり調教されておらず、でっぷりと肥えて短足になっていた。

八幡社を横目に膝折坂を下っていく時に、

マミはモミジが言っていたあの話を思い出した。

 

(・・・馬が膝を折って倒れて死んじまったところに八幡社を建てたんだって・・・)

 

縁起でもない話を思い出した瞬間、乗っていた馬の異変に気がついた。

 

「うわっ!」

 

そして馬は膝から折れるようにして道に倒れてしまい、

マミは落馬して坂道にその身を激しく投げ出された形になった。

 

身体中の痛みに耐えながら、マミは苦しい表情で立ち上がった。

馬は足を痛めているようで立ち上がれる様子ではなかった。

馬体重を絞りきれていない状態で走らせたのが悪かったのかもしれない。

 

マミはゆっくりと足を引きずりながらも歩き出した。

膝折坂は下り道も厳しい、坂道とは人生そのものだとマミは思った。

登り坂で転ぶこともあれば、登った後に下り坂を転がることもある。

八幡社の鳥居を見つめて一心に登る時は喜びもあるけれども、

こうしてただひたすらに下り坂を下る時、一体何を考えれば良いのだろうか。

そこには何の喜びもなく、苦痛と悲哀しか残らないのだろうか。

八幡様は試練を与えるのみであり、決して楽して守ってはくださらない。

 

 

膝折坂を下りきったマミは、そのまま呉服屋の屋敷へ駆けていった。

呉服屋の亭主はマミとモミジの姿を実際には見ていない。

二人で雨に濡れて立っていたあの日、どちらが刀を持つものだとは告げてもいなかった。

先にモミジが刀を持って自分が所有者だと告げてしまえば、

そのまま話が進んでしまう可能性があった。

 

 

マミが呉服屋に辿り着いた時、門の扉が開いているのに気がついた。

おそらくモミジが先に着いて中に入ってしまっているのだと思った。

門の敷居をまたいで中に入ったが、表側の玄関の扉は閉まっていた。

マミは失礼なことは承知だったが、一刻を争う自体に我を忘れて、

玄関の扉を拳で何度も叩いた、鈍い音が闇夜に響き渡るだけで、

中からの反応は感じられなかった。

 

 

マミは思い立って裏口へ回ることにした。

塀伝いに庭をぐるりと抜けて裏側へたどり着くと、

そこには何やら縁側で呉服屋の亭主に掛け合っているモミジの姿が見えた。

 

マミは胸が苦しくなるのを感じた。

幼い頃から親友だったモミジの裏切りは信じたくなかった。

しかし現実に、目の前で刀を持って何かを話しているモミジの姿があった。

たった一つの刀が二人の仲を斬り割いてしまったのであった。

マミは苦しさに耐えながらも縁側へ走った。

 

「モミジ!刀を返して!」

 

マミの叫ぶ声に気がついたモミジと亭主は一斉にこちらを見つめた。

亭主は一瞬混乱した表情を浮かべていたが、すぐさまモミジが答えを出した。

 

「あの女は私の刀を狙う盗人です!」

 

その言葉を聞いた亭主は焦りを隠せなかった。

将軍様の妹君を守れなかったとなれば、罰を受けるのは自分であった。

慌てふためきながら指笛を鳴らした。

すると、呉服屋が雇っているのであろう用心棒が三人ほど姿を現した。

三人とも太刀を手に取ってマミの首を狙って近づいてきた。

 

 

・・・

 

 

マミも腰に帯びた鞘から太刀を抜いた。

道場から師範の刀を拝借してきたのであった。

だが、亭主から見れば正統な刀を持たないどこかの盗人に見えても仕方なかっただろう。

 

マミはゆっくりと間合いを詰めていった。

一対三の状況では、囲まれてしまえば終わりである。

できるだけ一人ずつ相手をするような立ち回りを意識しながら、

素早く相手を斬り殺さなければならない。

今まで稽古を積んできたが、いざ実践になると手足の震えが止まらない。

観念的に生きている事と、本当に追い詰められて生きている人の、

決定的な差はこれかとマミは痛感する思いもあった。

 

 

一人目の刺客の太刀筋は無邪気だった。

 

「ふとどきもの!」と叫ぶやいなや、まっすぐ斬りかかってきたので、

マミは相手の一刀目をうまく受けながらしてから横に斬った。

斬られた刺客は大袈裟に倒れていった。

「見事だ・・・」と死ぬ間際に褒めてくれる褒め上手でもあった。

 

 

二人目の刺客は西洋人かと間違えるほどに彫りの深い顔をしていた。

 

その太刀筋の良さから、運動神経の良さが伺えた。

稽古を積めば自分なんかよりも強くなれる素質を秘めていると思ったが、

生きるためには斬らねばならないとマミは覚悟した。

つばぜり合いから相手を突き飛ばし、肩から袈裟懸けに斬りつけた。

斬られた箇所を押さえながら、こちらもうまく倒れていった。

 

 

三人目の刺客は底抜けに明るかった。

 

楽しそうに刀を振り回してくる様は、狂気すら帯びているように思えた。

それに加えて踊りの素養があるのか、足運びが速いのである。

相手の拍に飲まれてしまい、防戦一方に陥ったマミであったが、

一瞬の隙をついて相手の足に斬りつけ、動きを止めたところを背中から斬りつけた。

「おおきに・・・」と倒れていく捨て台詞からなにわ訛りが感じられた。

 

 

あっさりと三人を片付けたマミは、自分でも自分の強さが信じられなかった。

木刀ではなく太刀を振るったのは初めてであったが、稽古を続けているうちに、

知らず知らずのうちに自分の剣の腕が上がっていたことに気がついたのであった。

やりたいと思う事をやり続けてきた努力は嘘をつかない、

そんな実感が一つの結果として刀を握る手に満ちているのを感じていた。

 

「・・・本当に強くなったね」

 

モミジが拍手をしながら笑顔でそう言った。

しかし、顔は笑っていても心は笑っていないのがマミにはわかった。

モミジの笑みの裏側には、忍耐強いが為の我慢があった。

己を乗り越えていく事、克己こそがモミジの信条であり、

強さと優しさを兼ね備えていた優秀な剣客ではあったが、

分け隔てのない思いやりの裏には、忍耐がもたらす悲しさもあった。

おそらくそれに気づかずにここまできてしまったことが、

こんな悲劇を生んでしまったのだろうとマミは気がついた。

 

「モミジ・・・お願い、刀を返して」

 

マミは哀切にそう告げた。

モミジと戦いたくはなかった。

 

「・・・何を言ってるんだ、これは私の刀だ。

 盗人の分際で偉そうな口を聞くな」

 

モミジは鞘から太刀を抜いて身構えた。

その構えには熟練の気合が満ち満ちていて、

マミにはモミジがいつもの何倍も大きく見えた気がした。

 

「どうして・・・どうしてモミジと戦わなければいけないの!」

 

マミは悲しみに心を捉えられていった。

モミジはいつも自分を守ってくれる存在であった。

これからはお互いに自由な生活が待っていると思っていた、

ただそれだけの事なのに、どうしてこうなってしまうのか。

 

縁側に立つ呉服屋の亭主のそばに女房が駆け寄る姿が見えた。

血相を変えて走ってきた女房は、亭主に何やら話掛けているように見えた。

あの雨の日に仲良く濡れながら立っていた二人がどうして刃を向けあっているのか、

そんな事を思っているようにマミには見えた。

 

「・・・居場所がないんだ」

 

モミジは俯いて悲しそうに呟いた。

 

「もう私が私で立っていられる場所がないんだよ!」

 

モミジは大きく刀を振りかぶってマミに襲い掛かってきた。

 

 

・・・

 

 

人間関係とは平衡である。

 

人は自分の立場を守る為、自分の価値を守る為に必死で生きている。

そして自分が持つものを最大限に誇って生きていく。

持っていないものには最大限にけちをつけて生きていくものだ。

人はそれぞれ持つものと持っていないものは違うけれども、

ある人はそれを金といい、ある人はそれを心という。

またある人はそれを権力といい、またある人はそれを家族という。

 

なんでも良い、ただし他の人より優れていると感じられる何かがなければならない。

それがなければまっすぐ立つ事すらままならない。

まるで膝から折れて倒れていくように坂を転げ落ちていくだけである。

 

 

・・・

 

 

激しく刀を打ち合う音が闇夜に響く。

二人を見ているものは悲しく輝く三日月であった。

空に遊ぶ三日月も、こんな二人を見るのは始めてなのである。

 

刀を合わせながらモミジはマミの強さを感じていた。

 

(・・・本当に強くなった・・・!)

 

猛稽古のせいもあったかもしれない。

しかしひょっとすると、刀の家紋の正当性が、

マミに自信を与えているのかもしれなかった。

血統主義というのは悲しい不平等な思想かもしれないが、

誰もが口にしない真実であるのは間違いないのかもしれなかった。

選ばれし者であるという自信がマミを強くしていったし、

選ばれし者ではないという不幸がモミジを狂わせていった。

 

 

だが、剣術の腕前で言えばマミはやはりモミジに敵わない。

太刀の速さと勢いがまるで違うのである。

踏み込みの速さ、振りかざす一撃の重みが違うのである。

じりじりと追い詰められていくマミは、

こんな事になるならモミジが将軍様の妹になっても構わないとすら思えた。

どうして二人が戦っているのか、その悲しさの方が勝っていたのである。

 

モミジの斬撃がマミの腹部をかすめた。

着物の帯に痛々しい刀傷が残った。

避けられると思った一撃ではあったが、マミの動きが鈍ったのだ。

 

「・・・どうした、動きが鈍いよ」

 

モミジはマミを挑発したが、マミが足を引きずっている事に気がついた。

 

「足を怪我しているの?」

 

モミジはそう言ってマミを見つめ、マミは瞬時に足を押さえた。

 

「・・・膝折坂の話、本当だったよ」

 

「・・・何の事?」

 

「モミジが教えてくれた馬の話、本当だった。

 ここへ来る途中、乗っていた馬の膝が折れて転んだんだ。

 あの険しい坂は、馬すらも転ばせる恐ろしい坂だった」

 

モミジはいつか語ったあの話を思い出していた。

マミの背中を押しながら語ったのだ。

 

「そんな険しい坂を、人間が登れるものかな?

 でも私たちはそれを登ってきたんだよね。

 毎日毎日、来る日も来る日も登り続けてきた」

 

「それがどうしたっての!」

 

モミジは感傷的な話に対して激昂していた。

 

「私は決して順調に登れてなかったかもしれない。

 転んだこともあったし、モミジはいつも背中を押してくれた。

 でも今わかったことは、私もモミジの背中を押してたんだってこと」

 

モミジはマミが何を言っているのかわからなかったが、

マミは確信を深めた決意の眼差しをしていた。

 

「誰が速いとか遅いとか、誰が転んだとかうまくいったとか、

 そんなのは本当は重要じゃないのかもしれない。

   速いモミジは遅い私がいたから立っていられた。

 遅い私は速いモミジがいたから支えてもらえた」

 

「・・・わかってるよ」

 

マミはモミジが放った一言に驚いた。

 

「・・・わかってるけど、あんたがそれを言うから嫌いなんだ」

 

モミジは静かに刀を頭上に振り上げた。

 

「・・・刀の所有者であるあんたが!! 」

 

怒涛の勢いで刀を振りかざしたモミジであったが、

間一髪でその太刀を避けたマミは、

すくい上げる形でモミジの太刀を振り払うと、

モミジの刀は高々と空を舞った。

モミジは刀を吹き飛ばされた勢いで両手を上に挙げた姿勢になって倒れた。

 

マミは空から落ちてきた刀を拾い、丸腰になって倒れているモミジを見つめた。

モミジは大の字になって空を見つめていた。

 

「・・・斬れ」

 

モミジは悲しそうな声で言った。

 

「私たちの剣術は殺るか殺られるかだ。

 敗北はすなわち死、それを覚悟して戦ってきたんだ。

 だから、斬ればいいよ」

 

モミジは目をつぶって覚悟を決めたようだったが、

その身体が死の恐怖に震えているのが微かにわかった。

マミは刀をモミジに向けてかざした。

 

「この刀には唯一斬れないモノがある・・・」

 

マミは話ながら大粒の涙を流していた。

 

「・・・それが友だ」

 

モミジは目を閉じていたが、その閉じた目から光るものが溢れていた。

 

「そして、こんなもの!」

 

マミはおもむろに刀の両端を持って掲げると、

瞬時に降ろした勢いに任せ、膝で刀をへし折ってしまった。

 

「マミ!何を馬鹿なことを!」

 

モミジは起き上がってマミに叫んだ。

だが時すでに遅しであり、刀は真っ二つに折れてしまった。

 

「・・・どうして!」

 

「私が欲しいのは地位でも名誉でも唐芋でもない。

 一緒に坂を登ってくれる友達だから」

 

マミはモミジに向かって歯を見せて微笑んだ。

 

「道場への帰り道、また背中を押してもらわないと一人じゃ帰れないからさ」

 

モミジはその言葉を聞くと、自分のした事を恥じた。

刀に嫉妬したばかりに、本当に大切なものを見失ってしまったと気づいた。

 

「・・・ごめん」

 

「私の方こそ、いつも迷惑かけてごめん」

 

マミはそう言ってモミジをかばった。

 

「そして、これからも迷惑かけるね」

 

モミジはマミのその言葉を聞くや否や、マミに駆け寄って抱きしめた。

そして二人は仲良く手をつないで道場へ帰って行った。

帰り道にある膝折坂を、また二人して登るために。

 

二人が出て行くのを見ていた呉服屋の亭主は、

安堵の表情を浮かべていた女房の肩に優しく手を置いた。

亭主と女房が見上げた空には、やはり安堵の表情を浮かべた三日月が輝いていた・・・。

 

 

・・・

 

 

 

 

 

 

 

「・・・って感じなんですよ」

 

グラスに注がれたウイスキーを口に運びながら真田は言った。

テーブルに置いた後、グラスに残っていた氷がカラリと音を立てて店内に響いた。

 

組んだ両手の親指を何度も交差させながら北条真未は俯いて黙っていた。

しばらくの沈黙の後、意を決した表情で口を開いた。

 

「・・・あの・・・違くない?」

 

真未の正面に座っていた真田と蓮実は顔を見合わせた。

 

「・・・結構・・・違くないですか?」

 

蓮実の座っている方と逆の窓の外を見つめた真田は、

口の中の舌を頬に強く押しつける仕草を取りながら、

どう説明するべきか迷っているような様子を見せていた。

 

蓮実は軽く下唇をかみながら俯いていた。

軽い後悔と罪悪感を噛みしめているようにも見えた。

 

「・・・そうですね、まずこういうのは全く同じではダメなんですよね。

 アイデアと言うのは最初のインスピレーションにすぎないわけで、

 それは朝顔が芽を出したようなものなわけですよ。

 でも蔓が伸びてくると支柱がなければうまく育ててあげられないでしょう?

 そういう形でうまくアレンジしていく事がこういう場合は大切なんですよ」

 

真田は身振り手振りを加えてペラペラとまくし立てる。

蓮実は相変わらず罪の意識なのか表情は冴えない。

この場を真田の存在に頼りきっているように思えた。

 

 

その時、店の向こう側から女の子が歩いてきた。

手に丸いトレーを持って上に3つの小鉢を乗せていた。

テーブルの前に来ると、女の子はその3つの小鉢をテーブルに置いた。

 

「・・・舜奈、こんにゃく切るの下手すぎじゃない?」

 

真未は小鉢の中身を覗きながら女の子に耳打ちしてそう告げた。

 

「すいません、でもあの包丁の切れ味が悪くて・・・」

 

舜奈はすまなさそうに言い訳を残してカウンター席へ戻っていった。

それを見て真未の隣のテーブルに座っていた初老の男が舜奈に声をかけた。

 

「あー舜奈ちゃん!こっちにお酒追加!」

 

いくらか酔った男はそう叫んだ後、

彼の携帯電話の着信音が鳴り響いた。

 

「・・・もしもし、あー、なんだよお前やっと仕事終わったのか、

 わし?わしはあれだ、今ルージュに来てるんだよ。

 お前こんなクリスマスイブの夜にいつまで仕事なんかやってんだよ!

 早く来いよ、今夜みたいな日はパーっと飲めばいいんだよパーっとよぅ!」

 

真未はその泥酔しているお客を冷たい視線で見つめた。

男は真未と目があったため、ずるそうな笑顔になり手を立てて謝罪のポーズをとった。

 

「へっへっへ、今お前のせいでママに睨まれちまったじゃねぇかよ!

 お前が早く来ねぇから悪いんだぞぅ!何?これねぇってのか?

 バカな事言ってんじゃねぇよ、さっさと来いよな、おい!

 じゃああれだ、お前の会社の近くの店に移るからそっちこい、なっ!」

 

男は一方的に携帯電話を切って背広の内ポケットに入れると、

「舜奈ちゃん、やっぱお酒はいいや、お会計!」と真っ赤な顔で叫んだ。

千鳥足でフラフラと立ち上がると、財布から適当にお札を取って舜奈に手渡した。

 

「ウィ~舜奈ちゃんの唇はいつ見てもセクシーだね~」

 

男はフラフラと舜奈の唇に手を伸ばしていった。

 

「ちょっと!うちのお店はお触り禁止ですけど!」

 

席に座っていた真未が男に向かって吠えた。

すると男はまたずるそうな笑みを浮かべて、

 

「冗談だよ、冗談!ママは怖いんだから」

 

舜奈はレジから戻ってきてお釣を男に渡してからお見送りに行った。

真未は一つため息を残してまた真田と蓮実の方を向いた。

 

「こういうお店もなかなか大変だね~」

 

蓮実は真未をねぎらうように声をかけた。

 

「まあいつもの事だけどね」

 

真未は大した事はないと言う素振りで答えた。

本当は見送りにいった舜奈の事がいくらか気がかりだった。

 

三藤舜奈はお店では22歳で通っている。

アルバイトを探しに来た彼女を面接した時、

履歴書には22歳と記入してあったから真未もそれを信用したが、

街で彼女が制服を着て歩いているのを偶然にも見かけた人がいた。

だが、真未はその噂を知人から聞いただけで実際に見た事はなかった。

しかしその年齢詐称疑惑にもかかわらず、彼女の見た目は大人っぽかったため、

お店に来るお客さんには22歳という事で違和感なく通っている。

真相を確かめる事もできるのだが、真未は知らないふりをしている。

ただ、酔ったお客が彼女に触るなどの行為に及ばないかどうか、

その一点だけが親心のような気持ちから心配だったのだ。

 

 

「すーも何か飲む?」

 

真未は飲み物のなくなった蓮実に気を使って尋ねた。

真未は蓮実の事を「すー」と呼ぶ。

はすみの「すー」だ。

 

「あっ、ううん、あたしはもういいや。

 あんまし飲みすぎたらやばいし」

 

手を出して拒絶するような仕草をして蓮実は遠慮した。

真田の方は構わない様子で、また自分の目の前にあるウイスキーの水割りグラスをグイッと口に傾けた。

 

「・・・それでこの小説の話なんですけどね。

 いやー原作のアイデアは本当に素晴らしいと思うんですよ。

 僕も蓮実さんから話を伺った時は面白いと思ってワクワクしたわけです」

 

二人のやりとりに割り込むように、真田が話を戻して饒舌に語り始めた。

それを見ていた蓮実はまた申し訳なさそうにしんみりした表情を浮かべた。

 

「特にこのモミジが嫉妬に狂って刀を奪って逃げる場面が秀逸ですね。

 親友だと思っていた人物の裏切りと決闘はドラマティックだと思います。

 親のいない二人の孤児が、家紋の入った刀を巡って悲劇に巻き込まれる。 

 そして決闘を経て二人の絆がさらに深まっていくというわけです。

 ただ・・・」

 

真田は言いにくそうに目を少し泳がせた。

 

「この最後のシーンの呉服屋の亭主が女房の肩に手を置くという描写・・・必要ですかね?」

 

その話を告げられた真未は特徴的な大きな瞳をキョトンとさせて真田を見つめていた。

何が起こっているのかわからないといった雰囲気に飲まれながら。

 

「・・・いやね、悪くはないと思うんですよ、ただあれだけ用心棒を斬られた呉服屋の亭主が、

 二人が友情に目覚めて去って行ったのを見送って肩に手を置いて終わるのは・・・。

 なんというか、その・・・自然の摂理に反してるって言えば言い過ぎなんですが・・・」

 

真田は困ったように頭を少し掻きながら蓮実を見つめた。

蓮実は真田に見つめられて少しドキッとした表情をして作り笑いを浮かべた。

 

「・・・いやーあたしも真田さんに色々とアドバイスをもらいながら書いてたんだけど、

 ちょっとこの部分を書いてる時、なんか気持ち悪いというかしっくりこなくて。

 あれかなー、用心棒を殺してない設定にしたら大丈夫なのかなー、とか思って」

 

真未は大きな瞳を微動だにさせずに軽く瞬きをして蓮実に視線を向けた。

蓮実が一体何を言っているのか真美には理解ができなかった。

 

「・・・えっ、どういうことですか?」

 

真未はこらえきれずにそう質問した。

 

「いやいや、違うんですよ、あのー、あれです。

 そうそうこの話の設定なんですけどね、やっぱり孤児である設定を活かすには、

 孤児を探す強い動機が必要になると思うんですよね。

 そこでいくと、将軍の座をついだ秀忠が母親である西郷局の血筋を優遇した点ですが、

 これは史実なんですよ、だからそれに引っ掛けて徳川家康の隠し子にしたほうが盛り上がるわけです」

 

「そうなのよー、真田さん本当に腕のいい担当さんだから歴史に詳しくてさー。

 なんか呉服屋の娘って生き別れる動機に乏しい気がしてね。

 いや、別に真未の原案が悪いってわけじゃないのよ。

 ただ、小説にするにはアレンジすることが必要だってことなのよね。

 あたしもさぁ、小説家になってから色々と書いてみてるけど、

 物語に肉付けすることが結構大事なんだなーってわかってきたっていうかー」

 

畳み掛ける真田と蓮実の饒舌さに、真未は言葉を失っていた。

この人達がいったい何を言いたいのかさっぱりわからなかったからだ。

 

真未はただ、新人作家として生計を立て始めた友人の蓮実が先日飲みに来た時、

お酒を飲んで盛り上がった時に自分が話したとっておきの物語を聞いて、

 

「それは絶対面白い!アメイジングな物語だよ!絶対芥川賞取れるって!」

 

といって上機嫌に帰って行った蓮実を見送っただけだ。

小説が書けたら出版する前に見せてくれるという約束を残して去って行ったのを見送っただけだ。

 

 

・・・

 

 

お店のドアが開いて舜奈が戻ってきた。

特に何も問題はなかったようにカウンターに戻って仕事をしていた。

 

「・・・あの・・・これなんですけど」

 

真未が重たい口を開くと、真田と蓮実は異常なほどの集中力を使って耳を傾けていた。

まるで重要な政治問題を語る総理大臣の答弁を聞く時くらいの奇妙な集中力で、

一言一句を聴き漏らさないようにする新聞記者のような雰囲気を二人は醸し出していた。

 

「・・・別にその、徳川家がどうとか、そういうのはいいんだけど」

 

真田は真未の次の一句に集中しすぎてゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「・・・落馬・・・してるじゃない?」

 

蓮実は、いよいよ核心をついてきた、という気まずい表情を見せ、

ごまかすためにグラスを手にとって飲み物を飲もうとした。

しかし、先ほど断ったためにグラスには飲み物は入っていない。

氷が解けだしたわずかな水分を、蓮実は必死にすすった形になった。

 

「あのー、いや私も別にいいんですけど、でも、その、

 この物語で大事なのは殺陣と乗馬の場面なんですよー・・・。

 だから用心棒を斬ってないとカッコつかないし、

 その・・・落馬してるとか・・・そもそも何でってなるわけじゃない?」

 

真未はせっかく小説を書いてくれた蓮実も、

わざわざ来てくれた出版社に勤めている蓮実の担当をしている真田も、

どちらも傷つけないように気を使って言葉を選びながら話した。

 

「・・・そうなんですよ、さすが目のつけどころが鋭いですね!」

 

一瞬だけ溜める間を設けた真田は、すぐに強い口調で言葉を投げかけてきた。

まるで真未のその問いかけがまさしく正当な疑問です、とでも言うように。

 

「僕もですね、この乗馬のシーンを劇的にしたいなと思って、

 何かいいアイデアがないかと頭をひねっていたわけですよ。

 そしたらですね、膝折坂の八幡社の話を見つけたんです」

 

真田はグラスをまた傾けて口を潤した後、

テーブルに置くとすぐに次の言葉をつないだ。

 

「江戸時代の書物である『御府内備考』というものがあるんです。

 これは幕府が作らせた地誌ですから、今でいう政府出版の東京の郷土誌みたいなものでしょうか。

 この書物の中に徳川家康が青山忠成に土地を譲った時のエピソードが載ってましてね。

 ちなみに東京にある青山の地名は、青山家の屋敷があったのが由来だそうです」

 

真田は得意そうにペロリと舌を出す仕草をして話を続けた。

 

「そのエピソードというのが作中に加えられた膝折坂の話なんです。

 青山忠成が老馬を走らせて、膝を折って倒れて死んだところに八幡社を建てた。

 八幡社ってのはわりとどこにでもある神道の神社みたいなもんです。

 それよりも面白いのがね、膝折坂って今でも実際にある坂なんですよ。

 いったいどこだと思いますか?東京都内にある有名な坂です」

 

真未にとっては真田の話をしているのがいったいどこの坂か検討もつかなかった。

ただ、カウンターで舜奈が洗い物をしながら児玉坂46の「邪気イズム」の鼻歌を歌っているのが聞こえた。

 

「その坂には、今は乃木神社が建っています。

 御府内備考には八幡社が建っていると書いてあったらしいのですが、

 江戸時代にあった八幡社は現代には残っていません。 

 しかし、いつの時代もこの坂は神様に守られるようにできているんですね。

 不思議な因縁だと思いませんか?」

 

蓮実は身を乗り出して話を継いだ。

 

「真田さんが言うには、馬が転んで死んじゃうっていうのがポイントかもしれないんだって。

 昔からそういう動物がなぜか立ち止まったり事故とかが起こるところには神様がいるって考えられて、

 そこに神社を建てたりする考え方があったのかもしれないんだってー」

 

真田は蓮実の方を向きながら話を続けた。

 

「そうなんです、単純に坂は高い場所にあるから、そこに神様がいると考える事もできるけど、

 馬に事故が起きて、それを畏怖する気持ちから怒りを沈めるために社を建てるのは割と妥当な考え方だと思う。

 江戸時代に膝折坂と呼ばれていた坂は、あまり人通りがなかった事から幽霊坂とも呼ばれていた。

 まあこれは俗称みたいなもので、人気のない通りをこう呼んだだけらしいですけどね。

 同じように幽霊坂と呼ばれていた坂は江戸の町にはいくつもあったらしいです。

 江戸の町は徳川家康が幕府を開く以前は、本当に何もない土地だったわけで、

 人口だって少なかったし、まだこの近辺もそんなに栄えてなかったんですよね。

 まあとにかく、この膝折坂は、他にも行合坂やらなだれ坂やらの別称があったらしいけれど、

 最終的には明治や大正を生き抜いた軍人である乃木希典大将の名前をとって現在は乃木坂に改名された」

 

蓮実はワクワクを真美にわかってほしいという顔である。

 

「ねー、なんか面白くない?

 今の乃木坂は昔の膝折坂ほど坂は急じゃないらしいんだけど、まだ残っていて、

 やっぱりそこには土地の守り神がいてくれるってすごくない?

 ほら、いま児玉坂46って流行ってるじゃない?

 だからこういうエピソードを盛り込んだらどうって真田さんがアドバイスくれたのよー」

 

「・・・ほー」

 

真未はどんどん進む話に、半ば置いていかれている気持ちを保ちながら、

関心してみせるだけで精一杯だった。

 

「そうなんですよ、このエピソードを活かすためには、

 乗馬のシーンで転んだ方がドラマティックだと思うんですよね。

 坂道が持つ厳しさと、それを乗り越える友情っていう展開の方が、

 うまく乗馬をこなしてマミが駆けつけるよりも面白くないですか?

 ただですねー、いや別に大した事じゃないんですが・・・その、ゴホン。

 あのセリフ要りますかね?」

 

真未は真田のいうあのセリフとはどのセリフかわからない。

 

「えっ、どのセリフの事ですか?」

 

「いや、あの、別にあっても困らないんですけどね。

 ああ、でもない方がちょっとだけいいかなぁって程度なんです。

 あの・・・『この刀には唯一斬れないモノがある・・・それが友だ』ってやつです」

 

それは真未が絶対にこのセリフだけは入れたいと自信を持っていたセリフだった。

目が点になっている真未を見て、すかさず蓮実は説明を継いだ。

 

「あの、あれよ、別に絶対に要らないってわけじゃなくてね。

 ちょっとその部分だけ昭和の匂いがするっていうか・・・。

 いや、私ほら昭和はすごい好きよ、レトロなものとか。

 でもほら、いまは平成生まれの読者が見てるっていうか・・・」

 

真未にもいよいよ彼らが何を求めているのかわかってきた気がした。

そして思わず遠慮していたセリフがぽろっとこぼれた。

 

「・・・えっ、なに、ダサかったかな?」

 

「違う違う違う違う!あたしそんなこと言ってないよ~!」

 

蓮実は慌てて席から立ち上がって否定した。

真田も真未の一言にドキッとさせられたが、逆に自分を落ち着かせるように努めた。

 

「・・・いやいや、そういうことじゃないですよ。

 全体統合の話をしているんですよね、例えば洋室にこたつを置くと不自然でしょう?

 和室にモダンなベッドを置いたってミスマッチですよね。

 そういう話ですよ、一つの場合にふさわしい物でも、場合が異なればふさわしくない事もある。

 だから真未さんが思っているような意味では決してないです。

 全体的な視点で見て、そこに合うか合わないかというだけの話です。

 いくら素晴らしいブーツを持っていても、和服には合わせないでしょう?

 そういう話ですよ、あまり深く考えてはいけません」

 

真未はなんだか難しい言葉をこねくり回してごまかされた気がした。

 

「しかしどうでしょう、全体統合の観点から見ると、

 あのセリフは他のセリフに変えた方がバランスが良くなると思いますが、

 真未さんはどう思われますか?」 

 

真田は真未の出方を伺うような目つきでそう尋ねた。

こちらの返答の仕方によっていくつもの返答パターンを準備しているようにも思えた。

 

「・・・あのセリフは私が一番大事だと思って考えたセリフなので、

 あの部分だけは変えることはできません、あと・・・」

 

「・・・なんですか?」

 

「呉服屋の亭主が女房の肩に手を置く場面も、 

 あれは私の中で大事なラストシーンなので変えるつもりはありません」

 

真未は先に説明された呉服屋の亭主のシーンについても、

彼らが不満を抱いていることを察知して反駁した。

蓮実は少し気まずそうに成り行きを見守りながら、そわそわと肘を擦っていた。

 

「・・・わかりました。

 そういうことであれば仕方ありません。

 ではこの小説は僕達からの真未さんへのクリスマスプレゼントとしましょう!」

 

真田はテーブルの上に置いてあった小説を指で軽くたたいてみせた。

まるで粋なプレゼントを渡す仕草であるかのように・・・。

 

 

・・・

 

 

「・・・どういう意味ですか?」

 

真未は訝しげに尋ねた。

 

「言葉通りの意味ですよ。

 僕達はこの小説を真未さんへのクリスマスプレゼントとします。

 この蓮実さんが書き上げた小説を個人的に真未さんに差し上げます」

 

真田はニッコリと微笑みながら蓮実の方へ顔を向けた。

蓮実は心まで笑っていない作り笑いをしていた。

 

「ただですね、弊社の事情としてこちらの小説は出版できません。

 出版に至る経緯として、社内の合意を得る必要があるのですが、

 それには幾つかの基準もありますし、残念ながら真未さんの原案は、

 惜しくもその基準から全体統合として満たない部分があったからです。

 本日はそれを打診させていただきましたが、どうしてもご本人様が譲れないのなら、

 僕達もそれを無理強いすることはできませんし、それが真未さんの美学だと思います。

 本来、芸術というのは経済行為に優先する精神的な創作活動だと思いますし、

 僕にとっても真未さんの強い意志の力には敬意を表したいとすら感じていますよ」

 

真田は相変わらずニコニコと不敵な笑みを浮かべて饒舌に語っていた。

まるでこれまでの全てのシナリオが順調に進んでいることを喜んでいるかのように。

 

「・・・出版できないんですか?」

 

真未は真田を見つめてそう言った後、視線を蓮実に向けた。

蓮実は目をつぶって申し訳なさそうな顔をしていた。

 

「・・・そういう言い方をすればそうなりますね。

 社内の賛成を得られなかったのは、僕の力不足で・・・悪いのは僕だと思います。

 しかしですね真未さん、僕は真未さんの小説の原案から教えてもらったことはですね、

 やっぱり友情の素晴らしさですよね、これは本当にいいですよ。

 刀をモミジに盗まれたはずなのに、最後には自ら折ってしまって、

 最終的には経済的な豊かさや地位よりも友情を優先する・・・。

 いやー、実に素晴らしいお話じゃないですか?

 裏切られた相手を寛大な心で許す、これこそが真未さんのポリシーではないですかね?」

 

真田はウイスキーに幾分酔いながら、自分の説明にもかなり酔っていた。

アルコールを口に含む度に、その饒舌はいっそう加速していくのだった。

 

「そうそう、蓮実さんから伺ったんですが、真未さんの苗字は北条らしいですね?

 あの鎌倉時代の北条政子の子孫だと聞きましたが本当ですか?

 いやー本当だとしたらすごいことですよ、僕みたいな人からすれば、

 あの北条家の血を継いでいるだけで尊敬してしまいますよね。

 歴史の欠片と対面している気分とでもいいましょうか、

 もうなんだか真未さんに北条政子の面影が重なって見えるようですよ。

 あっ、知っていますか?北条政子は夫の死後に出家して尼になったんですよね。

 何か思うところがあったのかもしれませんね、そうして慈悲の心を追求しながらも、

 尼将軍なんて呼ばれるほど裏では獅子奮迅の働きを見せたんです。

 まさに真未さんにその血統が受け継がれているんじゃないですかね。

 きっとそうだ、やっぱり真未さんは家紋の入った刀を持っているんじゃないですか?」

 

シナリオ通りに事が運んだ事が彼をここまで高ぶらせたのかもしれなかった。

 

 

真未はもう真田と蓮実が何を狙ってこのクリスマスイブの夜にお店を訪れたのか理解した。

おそらく蓮実は酔った勢いで交わした出版の約束を守れなかったのだ。

書いたはいいが出版社側の抵抗に遭い、色々と書き直しを申し付けられたあげく、

最終的には反対に押し切られて出版できない事になったに違いない。

それを申し訳なく思って謝罪をしたかったのだけれど、真未が落胆するのを恐れて、

それでこの真田という男を連れてきてやんわりと出版できない事実を告げようとしたに違いなかった。

わざわざクリスマスのタイミングまで合わせて、うまいことこじつけながら。

 

(・・・「悪いのは僕なんだ」なんてずるい言い方をしないで・・・)

 

真未はこんなに遠回りの愛情で諭されるやり方に、苦しさが胸いっぱいにこみ上げてきた。

もっと冷たく突き放して諦めさせてくれても良かったのにと思った。

だいたい、自分の原案には刀を膝で折るなんてシーンは盛り込んでいない。

それは真田がアレンジしたものを、酔ってしまって原案からあったものと勘違いしているだけだ。

変におだてて真未を傷つけないようにして、先祖の北条政子にまで言及して褒めては持ち上げて、

今の話題は、その奇妙なやさしさから尼にまでなっていた。

私の小説を否定する事と、尼の話をする事は、もう全く関係ないと真未は思った。

そんなやさしさなら、もう間に合っていた。

 

 

真未は盛り上がっている真田の横で、小さくかしこまっている蓮実を見つめた。

病気を患って雑誌社を辞めてから、以後何となく将来の道を模索していた時、

ふと小説の懸賞に応募してその才能を開花させた蓮実。

デビューしてから努力して書いてきた作品群も、

やがては壁にぶつかる時もある、その愚痴をこぼしにやってきたこのお店。

話している内に誰よりも仲良くなって親友になってしまった蓮実を、

助けたい一心から自分の中に秘めていたこの物語を話しただけだったのに、

それがこんな惨めな結末を生むなんて真未も蓮実も予想すらしなかった。

それはアルコールに飲み込まれた一つの悲劇だったのかもしれない。

 

(・・・あなたのことを憎めたら楽だったのにね・・・)

 

複雑な思いで俯いてしまった真未と蓮実をよそに、

アルコールに飲まれた真田は一人でずっとしゃべり続けていた。

その奇妙なやさしさを言葉の中にちらほらと織り交ぜながら。

 

 

(・・・やさしくしないで・・・)

 

 

・・・

 

 

「ほんっっとうにごめんなさい!」

 

真未のお店の扉を閉めて歩き出した瞬間、蓮実は真田にすぐ懺悔した。

 

「・・・いや、まあなんとかなったから良かったですよ。

 でも蓮実さん頼みますよー、もう酔った勢いで安請け合いしないでくださいね。

 だいたい、蓮実さんミステリー小説を書いてる作家でしょ?

 今回のなんかジャンル違いもいいとこ~でしょ、どうして引き受けたんですか?」

 

真田はホッと一息をつきながら蓮実にそう話した。

 

「いや、もうほんっっとうにごめんなさい、引き受けた時の事なんにも覚えてないんです・・・。

 ただ、お酒に飲まれたその日の後でまた真未にあった時に、

 あの子がやけに嬉しそうに小説を期待してるって話をするもんだから、

 あたしも何か断りきれなくなっちゃって・・・」

 

蓮実は自分を責めながらそう弁解した。

 

「まあ、二人してとりあえずダメ元で書き上げたし、

 会社には出版断られたけど、クリスマスプレゼントって形にして、

 一応ちゃんと思いを込めて個人的には完成したものを渡せたんだし、

 もう今回のはそれでいいじゃないですか?」

 

真田は先ほど論理で詰めるように話していた時よりも優しげで、

元来の気質である穏やかな雰囲気を取り戻していた。

 

「あ~でもなんか罪悪感が残ってるわ~。

 何かホント、あたしがモミジになってマミの刀を盗んだみたいな感じ」

 

蓮実はまだ軽くショックから立ち直れていないが、

真田はもう小説の話にはケリをつけた気持ちになっていた。

 

二人はビルのエレベーターに乗って1Fのボタンを押した。

 

「しかし、あのママいい子ですよね」

 

真田はエレベーターの中でポツリとつぶやいた。

個室の中だったので、その言葉は深く耳に残った気がした。

 

「僕すごい友達になりたいタイプの人ですよ。

 一緒にいてすごく楽しかった。

 何だろう、このお店が流行ってる理由、わかる気がするな。

 きっと真未さんといると嫌なことも全部忘れられて、

 お腹が痛くなるまで笑い転げて・・・。

 また個人的に飲みに来ようかな、スナック・ルージュだっけ?」

 

真田はエレベーターの中にかかっているお店の名前が表記されているプレートから、

スナック・ルージュの名前を探したが見つからなかった。

 

「・・・あれ、ないんだけど、でも今確かにお店から出たのに」

 

真田はゾッとした、まさか存在しない幽霊店だったのではないだろうかと思った。

 

「あのー、違うんです、あの店、『スナック・ルージュ』じゃなくて、

 本当の名前は『Bar Kamakura』って言うんですよ、ほら」

 

蓮実が指をさした先には、確かにBar Kamakuraのネームプレートが掛かっていた。

 

「えっ、でもさっき中にいたお客さん、確かにルージュって言ってたけど・・・」

 

「それ、常連さんの間での通称なんです・・・。

 ほら、真未と舜奈ちゃん二人ともすごい唇がセクシーじゃないですか。

 だから常連さんの間ではルージュって呼び名になってるんですよ。

 でも初めて来る人はみんな勘違いしちゃうんですよね。

 人によってはスナックと勘違いして接客を求める人もいるらしくて、

 真未も実際のところ困ってるらしいんですけど」

 

 

真田はその説明を聞いてひとまず安心した。

 

「よかった・・・くちびるおばけが出たわけじゃなかったんだね」

 

「またまたそんなこと言って、舜奈ちゃんと真未に惚れちゃったんじゃないですか?」

 

そう茶化しながら、蓮実は狭いエレベーターの中で真田の腕を肘で突いた。

 

「そりゃまあ、二人とも美人だからなぁ・・・」

 

そう呟いた後、ちょっと寂しそうな顔をした蓮実を見逃さなかった真田は、

その様子を見て一人くすくすと笑い始めた。

 

「ちょっと何ですか、なんで笑うんですか!?」

 

「・・・僕は蓮実さんの方が二人よりよっぽど可愛いと思いますけどね」

 

真田はニヤニヤしながら蓮実の顔を見てそう言った。

 

「ちょ、ちょっと何言ってんですか!?

 あたしなんてブッサイクで全然可愛くないですって!」

 

焦りながら照れているのを誤魔化すために、蓮実はそんなことを言った。

他の子をわざわざ可愛いなんて強調して言うのは、本当は自分がそう言われたいくせに、

と真田は思って内心くすくすと笑い続けていたが、

 

「いやいや、蓮実さんの方が可愛いですよ」

「ちょっと、もう止めてくださいよ」

「いや、本当ですって」

「もういいから」

「あれ、そんな照れた顔もまた可愛い」

 

真田はこんな風にわざと蓮実を誉め倒して、

逃げ場のない狭いエレベーターの中でくしゃくしゃに照れる蓮実をからかっていじめていた。

 

「・・・えー!ちょっと、もういやー!」

 

真田は困っている蓮実を見てはははと笑い続けていた。

 

 

エレベーターが1Fに着いて外に出ると、

外は雪が降っていて街中が白い景色に包まれていた。

二人がビルを離れて歩き出して大通りに出ると、

道路沿いには雪化粧を施されたプラタナスの街路樹が並んでいた。

そしてここを最後に、二人は別々の帰路につく事になる。

 

「・・・雪すごいね、寒い」

 

蓮実はニット帽子にロングコートでマフラーを口が隠れるまで巻いていたが、

それでも12月のホワイトクリスマスの夜は凍えるほど寒かった。

手袋をした手をポケットに突っ込んで少し震えながら白い息を吐いていた。

真田はそんな蓮実を少し心配そうに隣を寄り添って歩いていた。

 

「本当にすごいですね、蓮実さんの帽子に雪積もってますよ」

 

真田が何気なく蓮実の帽子に積もっていた雪を払いのけた時、

二人の距離がほとんどなくなるほどの近さにいることに蓮実は気がついた。

視線の高さには真田の胸元があり、そしてふと上目遣いで見上げると、

真剣な顔で雪を払いのける真田の顔がそこにはあった。

 

蓮実の視線を感じたのか、真田はふと俯いて蓮実と目があった。

その予期しなかった視線の交錯に、蓮実は予期しなかった胸の高鳴りを覚えた。

真田も照れくさそうにドギマギとしながら、少しづつ縮まっていく二人の距離。

そして二人は白い景色に包まれながら、蓮実は口元に巻いていたマフラーを右手で少し下げて目を閉じた・・・。

 

 

 

 

 

「ポン」という音とともに、蓮実の肩に優しく触れる手を感じた。

蓮実が閉じていた目を開けると、対面していたはずの真田は蓮実の横に立っていた。

 

 

「・・・うん、さっきは否定しちゃったけれど、こういうラストシーンも案外悪くなかったかもしれないなぁ」

 

そういってイタズラっぽく笑いだした真田に、蓮実はほっぺたを膨らませて怒っていた。

 

「ムカつくー!」

 

蓮実は積もっていた雪をブーツで蹴り上げて真田に飛ばした。

真田は「メリークリスマス~!」と叫びながら雪の積もるプラタナスの立ち並ぶ道を走って帰って行った。

 

 

 

・・・

 

最後のお客さんであった真田と蓮実が帰った時、

時計の針はもう夜の22時を指していた。

舜奈はいつも通りテキパキと後片付けをしていたが、

真未には、ふと年齢詐称疑惑の件が頭に浮かび、

ちらりと舜奈に視線を投げかけてみた。

しかし舜奈は「なんですか~?」といつもどおりにこやかに笑っている。

 

 

「舜奈、今日はもうあがっていいよ。

 後は私が片付けておくから」

 

真未は何となく後ろめたい気持ちになったのか、

真実を確かめる事は避けて、舜奈を早めに上がらせる事に決めたのだ。

 

「ええっ、大丈夫ですよ、気を使ってもらわなくても、

 残念ながら舜はクリスマスの予定ないですから」

 

大人っぽい声で冷静に答える舜奈を見て、

本当は何歳なんだ、いくつサバを読んでるんだい、

真未はそんな事を密かに思っていた。

真田と蓮実に変に優しい嘘をつかれたせいか、

少しばかり疑りぶかくなっている真未がそこにはいた。

 

 

「いいからもう帰りな、こんな日に遅くまで働くもんじゃないよ。

 下手な包丁さばきで指を切って、傷だらけになられてもこっちが困るからさ。

 親御さんに申し訳が立たないじゃないか」

 

真未がそういうセリフを吐く時、舜奈は真未の指にタバコが見えるような気がする。

それくらい人生の酸いも甘いも知り尽くした気怠いオーラが真未には漂っている。

実際にはタバコも吸わない真未は、ママとしてもまだ21歳と異例に若い。

 

「・・・わかりました、じゃあ今日はもうお先に失礼します」

 

舜奈はママの命令に潔く従った。

真未はこんな風に従順な舜奈をとても好ましく思っているが、

お客さんにいじられている時に非常にノリがよく対応するのを見ていると、

いつかこの子は大成するのではと密かに思っている。

だが、履歴書に22歳と書いてきた事は、少しばかり浅はかだったのではないか、

自分より年齢が上なわけないじゃない、と真未は思っていた。

 

 

舜奈が裏部屋へ引っ込み、着替えや帰宅の準備を整えている時、

真未は窓から外の景色を眺めていた。

雪景色のホワイトクリスマスに、一人残された孤独な後片付け・・・。

 

(・・・私も唐芋なんて食べられる人生じゃないよ・・・)

 

にぎわう街を行き交う恋人達もいれば、こんな日に寂しく働いてる人もいる。

真田は気を使って家紋の入った刀を持ってるなんて言ってくれてたけど、

自分にはそんなものは持っていないと真未は思った。

将軍様の妹君になれる資格なんてどこにもない、現実はもっと厳しいのだ。

 

 

真未がそんな事を考えていると、裏部屋から帰宅準備を終えた舜奈が出てきた。

にやにやした笑みを浮かべている舜奈の手にはお皿があり、

切り分けられたケーキがその上に乗っていた。

 

「・・・北条さん、メリークリスマ~ス!」

 

舜奈は笑顔でそう言った、サプライズケーキだったのだ。

 

「ちょっと、あんたこれどうしたの?」

 

「北条さんが話しこんでたとき、お客さんがくれたんです。

 なんでも今年すごい流行ってるお店の人気のケーキらしいですよ」

 

真未がケーキを見ると、生クリームに大きないちごが乗っていて、

ケーキの中段部分がチョココーティングされているデザインだった。

 

「なに、今年はこんなダサいケーキが流行ってるの?

 全く世の男どもはホント見る目ないよね、ちょっと新しい事したらすぐ釣られちゃってさ」

 

「まあまあ、そう言わずに食べてくださいね」

 

舜奈は先ほどまで真田と蓮実が座っていた席にケーキを置いた。

 

「それじゃ、お先に失礼します」

 

舜奈は真未に向かってぺこりとお辞儀をした後で立ち去ろうとした。

 

「はい、お疲れ様、帰り道で事故とかに遭わないように気をつけなよ」

 

真未はそう言ってから、少し考えて言い直した。

 

「・・・いや、事故ってもいいんだよ、それを笑い飛ばせるくらいになればさ。

 私も昔はよく事故したもんだよ、でもそれをいじってもらって笑えればいいんだよ」

 

舜奈は振り返って言った。

 

「北条さん、いったい何の話をしてるんですか?」

 

「・・・うん、私はいったい何の話をしてるんだろうね・・・」

 

舜奈はお店のドアを開けて帰って行った。

 

 

・・・

 

 

 

舜奈がいなくなったお店の中で、真未は一人で後片付けを始めた。

テーブルに残ったグラスや食器などを片付けている時、

真田と蓮実の座っていたテーブルに残っている小鉢を見つけた。

小鉢の中のこんにゃくを使った料理は、下手に切られていて不恰好だった。

 

(・・・そりゃ残されちゃうよな・・・でもうちの包丁そんなに切れ味悪かったかな?)

 

残っていた小鉢、割りばし、グラスをトレーに乗せて引き上げた後、キッチンに戻って包丁を眺めてみた。

特に刃こぼれもしていないし、切れ味が悪そうな様子は何も感じなかった。

 

(・・・まあいいか・・・)

 

食べ残しを仕方なく生ゴミ入れに捨て、空になった小鉢やグラスを洗い始めた。

静かになった店内に、洗い物をすすぐ水の音だけが響き渡っていた。

 

その時、ポケットに入れていた携帯の音が鳴った。

手を拭いて取り出して見てみると、蓮実からのメールだった。

 

・・・

 

 じょー、今日はごめんね~(;_;)

 また時間ある時にゆっくり語ろうね。

 メリークリスマ~ス\(^o^)/

 

・・・

 

蓮実は真未の事を「じょー」と呼ぶ。

北条のじょーだ。

 

真未はもう一度包丁を手にとってじっと眺めてみた。

そして、誰もいないに決まっているのだけれど、

念のために少しだけ周囲を見渡して誰もいないのをちゃんと確認して呟いた。

 

「・・・この刀には唯一斬れないモノがある・・・それが友だ」

 

真未は包丁をそっと戻して、また洗い物を始めた。

 

(・・・ダサいかなぁ・・・)

 

真未は洗い物をしながらそんな事を考えていた。

きっとダサい事はないが、自分が言うと面白く聞こえてしまう。

だから真田もその空気に乗ってあんな風に言っただけだ、と真美は考えた。

 

洗い物をしながら、まだテーブルに残っているケーキを眺めた。

そして、その横に置かれているあの小説の原稿も一緒に。

すべての後片付けが終わったら、また読み返そうと思っていた。

 

 

「・・・だいたい何よ、偉そうにアレンジしたとか言ってたけど、

 よく考えたら私の考えたところだけダサいわけじゃないし。

 あの真田とかいう奴が考えた、刀を膝で折る最後のシーンだって、

 なにあれ、膝折坂とかけてんの?ダジャレか何かのつもり?

 だいたい落馬して怪我した足で、どうやって硬い刀を折るっつーの」

 

 

気づいた時には一人でぶつぶつと独り言が口からこぼれていた。

自分の生き方について迷うことも多々ある。

聖なる夜の幸福な気持ちを、自分は決して享受しているとは言えない。

それでもテーブルに残されている小説原稿とケーキを見ていると、

嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちが真未の胸中を揺らしていて、

ただ、長い人生の中で、こういうクリスマスの過ごし方も、

1回くらいだったら悪くない、そういう気持ちだけは確かにあるように思えた。

 

 

洗い物をすべて終えた真未はタオルで手を拭いた。

そして舜奈が切ってくれたケーキを食べながら小説を読み返そうと思った。

その時、小鉢やグラスと一緒に引き上げてきた割りばしがまだ残っているのに気がついた。

 

「・・・・」

 

真未は静かに割りばしを手に取って見つめた後、

両手で端を持って掲げ、振り下ろすとともに膝で割りばしを折った。

パキッと乾いた音がして、割りばしは真っ二つに折れた。

 

 

「・・・バッカみたい」

 

 

真未は折れた割りばしをしばらく見つめた後、隅に置かれていたゴミ箱に投げ入れた。

折れた木片のささくれが、ゴミ箱の頭から毛羽立った先を少し覗かせて、やがて蓋の下に消えた。

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

やさしさから尼になってる ー自惚れのあとがきー

 

 

本作品は筆者が日本に帰国してから書いた3作目の作品である。

「転がった~」と本作の間に実は1作品あるのだが、

ちょっとまだ発表するほど納得がいっていない点があり、

今のところ保留となっているので、こちらが先に発表となった。

 

読んでみたらわかると思うが、本作の執筆期間は極めて短かった。

TVを見ていてインスピレーションを受けてから少しインターネットで情報を集め、

そのまま一気に集中して書き上げる事となった作品である。

感覚としては「グーテ・ライゼ」に一番近く、怒涛の勢いで書き進める事ができた。

 

もちろんそれは、真未の原案によって大筋がもう決まっていたからであり、

そこに肉付けしていく作業だけで済んだ事が大きい。

実際に、スナック・ルージュもといBar Kamakuraの構想は随分前からあり、

このお店の存在をいつ児玉坂に出現させるかの時期を探っていたのであった。

 

本作は本当はクリスマスの発表には予定していなかったが、

一気に書き上げた事もあり、うまく絡めてクリスマスバージョンにまとめてみた。

真未がどう思っているかわからないが、このBar Kamakuraの役割は大きい。

なぜならまだまだ背景がわからない、でも楽しいお店がここに誕生したのだから。

今後どのようにでも書き足していける場所であって、カフェ・バレッタに匹敵する存在感がある。

アルバイトの舜奈だって、まだ書き足す余地が山ほどあると思っている。

 

しかし、作風としては真未は怒っているかもしれない。

でも、本当に嫌いだったらわざわざ時間をかけて書いたりしない。

本作はTV放送を見てから、番組での制作にはコストがかかるけれど、

筆者が書くだけならば無料で実現できるのではないか、

という思いつきが執筆の動機となった。

面白いアイデアを腐らせてしまうのは惜しいと思ったからだ。

彼女の原案を筆者が手を加えることで共作となる。

決して盗作したつもりはない、手を加えるのが面白いのでは?

という思いつきが本作の全ての発端だった。

 

だから作中の小説原稿は、ある意味で筆者から真未へのプレゼントなのである。

落馬しているところは盛り上げるための茶化しであってご容赦していただきたい。

セリフだって別にダサくない、むしろよくできていて面白すぎたので逆に茶化してみただけだ。

 

また、途中に出てくる蓮実と真田の場面は、

これもある意味で筆者からの蓮実への妄想クリスマスのプレゼントである。

「あなたのために~」を書き上げた後、筆者には蓮実の声が聞こえた気がした。

 

「・・・えっ、こんな入院する役やだ~、もっといい役が良かったな~」

 

なんとなくそんな声が聞こえた気がしたし、筆者も申し訳なく思っていたので、

今回は彼女の好みに沿って妄想クリスマスを再現してみたのである。

ただ、結末的にはまた怒られてしまうかもしれない。

だが、真未と蓮実の仲良しコンビの関係を描けたのが筆者には嬉しかった。

気を使いすぎて言い出せなくなる蓮実、気づかない間になぜか損な役割に収まっていく真未。

どちらもなんとなく目に浮かぶような光景であり、でも二人の素敵なキャラクターだと筆者は思っている。

 

本人達は「こんなのやだ~!」と思っているかもしれないが、

やはり筆者にとってはそのままの二人で最高なのである。

それが二人の色であり、個性であり魅力であると思っている。

 

そういえば、本作のリサーチの部分について触れておくと、

マミを徳川家康の隠し子とした点で、西郷局には隠し子がいたという事実はない。

だが、色々と歴史を調べていくと、家康の息子の秀忠の母上である西郷局の娘にすることが、

一番時代背景にしっくりくるのでそうさせていただいた。

 

江戸時代初期の設定として、筆者は昭和の戦後すぐをイメージして書いていた。

筆者世代までを含め、戦争を知らない世代はやはり豊かな暮らしをしているために、

学力や生活水準などは高く、社会も安定しているために娯楽も多い。

だが、戦争を体験している世代は、もっと苦労をしていて人間が強い。

その分、不安定な学生時代や貧しさから余裕はないし優雅さはない。

マミとモミジは戦争中に生まれ、すぐ戦争が終わった世代のイメージである。

実際の戦争には参加したことはないが、まだ豊かな平和の時代を享受はしていない。

戦争は知らないが、決して豊かではない時代を貧しくも必死に生きる若者というイメージである。

 

 

筆者は今の平成の世を江戸時代に似ていると個人的には思っている。

歴史を知れば、平和とは儚いものであることを知ることになる。

日本の歴史でも戦争がなかったのは江戸300年ぐらいのものである。

そしてその平和な時期を通じて学力は高まり、娯楽も増えていった。

江戸後期の日本人の識字率の高さ、絵画や能や歌舞伎など、

今でいう漫画、映画というふうに、風俗事情は似ていると思う。

もちろん、これは乱暴な意見であることは認めるが、

筆者としてはそう感じる部分が少なからずあると思っている。

 

 

ちなみに、作中で述べられている唐芋の話であるが、

江戸中期から後期にかけて流行したのは事実であるが、

江戸初期から知られていたという事実は知らない。

これは筆者の想像である。

ただし江戸初期には日本にすでに到来していたのは事実である。

 

現代でも世の中というのはビジネスマンが最も聡く、

何が次に流行るかなどは見抜いているものである。

だが、政治が規制緩和をしてくれないと手をつけられない。

その構図をそのまま江戸時代にはめ込んだだけであるが、

あながち人間の社会は変わっていないのではないだろうか。

 

 

さて、膝折坂で馬が死んだところに八幡社を建てた話は史実のようだが、

馬が死んだところに社を建てた理由は作者の推測にすぎない。

真田は自信有り気に話しているが、本当のところは筆者にもわからない。

 

しかし事故が起きた場所の霊を鎮めるためにお地蔵さんがいたりすることを考えても、

人間は人間の範囲を超える不可思議な出来事に対してはカミという存在を立てて納得をしてきたと言える。

例えば京都にある車折神社の名前の由来は、貴人が牛車で神社の前を通った時、

牛が倒れて車が折れたということから名付けられたそうである。

このエピソードは馬が倒れることに似ていないだろうか?

なんらかの不可思議な事が動物等に起こった時、その場所にカミがいると考えるのは、

人間の心理としてわりと自然な考え方な気もしないだろうか?

そういう意味ではあながち真田の推測も間違っていないように筆者は考えている。

 

 

ふとしたことから乃木坂の歴史を調べることになったが、

土地というのは非常に面白い研究対象であることは間違いない。

風水などに考えられる土地の持つパワーなど、人間の目には見えない何かがあるように思えるし、

そういう意味では八幡社や乃木神社に守られ続けている乃木坂という土地は、

筆者にとって見ればとても良い土地なのではないかと思ったものであり、

この土地にゆかりのある人たちが、みんな幸せになってほしいものだと願う次第である。

 

 

ちなみに、余談ではあるが。

 

真田は架空の人物であるが、筆者の体験が生みだした人物でもある。

これは実際、随分昔に筆者がお遊びで小説を書いて応募したことがあった時、

電話をかけてきた出版社の営業さんとの会話が元になっている。

 

当時のその小説は、今から思うとひどいものであり(今でもひどいものだが・・・)、

初めて書いたものであり、とにかくこれはないだろうという内容のものであった。

でも電話をかけてきた営業さんはやけに優しくて、えらく内容を褒めてくれたものだった。

しかし最後に出てきた言葉は、自費出版に繋げませんか?

という話の結末だったことがあり、すごく腹立たしかったのを覚えている。

結局、ビジネスのために嘘をつかれていたのである。

 

 

また、どうして筆者はこんなにスナックやらバーやらを書くのか、という疑問については、

調査したからというのもあるのではあるが、実は母親が昔スナック経営をしていたのが大きい。

経済上の理由からスナックで筆者の学費などを稼いでくれていた母親の元で、

実は筆者も舜奈のようにアルバイトさせてもらったことがあったのである。

今回の作品はその時の経験が形になったものであることを強調しておきたいと思う。

 

 

だから別にスナックやバーに入り浸って遊んでいるような人間では決してなく、

むしろ未だに仕事の付き合いなどで無理やりそういう場所に連れて行かれることがあったとしても、

筆者はいつもお店側の視点になってしまうために何一つ楽しくない。

逆に母親に苦労をかけた切ない記憶ばかりが浮かんできてしまうために、

そこでヘラヘラしているお客達を必要以上に嫌悪してしまうほどである。

筆者はかなりのいじわるであり変わり者ではあるが、

酒も飲まないしタバコも吸わないしギャンブルもしない、

非常につまらないくらいに真面目な人間であることだけは誤解のないように強調しておきたいように思う。

 

 

まあ、最後にこんな笑えない話を書いてしまってなんだけれども、

そんな切ない思い出もこんな作品に生まれ変わってくれたのだから、

それはある意味で喜劇ではなかろうか、大いに笑ってくれたら幸いである。

 

 

ー終わりー