新月の大きさ

 

「今日はお店の新商品を出す日なので、緊張しますね。

 あっ、どんな新商品なのかはまだ秘密なんですけど」

 

そう言いながら、森未代奈は何やらボウルに入れた材料を混ぜ合わせていった。

彼女が働いているカフェ・バレッタにはまだ開店時間まであと少し時間がある。

 

今年の春は思いのほか、早くやってきた。

春一番が吹いたと思いきや、桜も待ちきれずに次々と開花し始めた。

それはまるで日々に心躍らせる彼女の気持ちとリンクしているようだった。

 

彼女はいつもワクワクしていたい。

暖かな季節がやって来ると、気持ちの良い風に吹かれながら、

太陽の日差しを浴びに日向ぼっこに出かける。

彼女は巡り続ける四季の全てを楽しむことができた。

だが、彼女にとって春は特別なのかもしれない。

自然と心が弾むこの季節が好きなのだ。

 

森未代奈は忙しい。

とにかく毎日、バレッタでの仕事に追われている。

そんな忙しい日常を、彼女はどう捉えているのか。

 

「そうですね、忙しいのがすごい好きなので、大丈夫です」

 

彼女は常にポジティブに、全ての仕事と向き合っている。

一緒に仕事をする猿に話を聞いてみると。

 

 

 

「・・・えっ、ちょっと待ってよミヨナ」

 

猿は手に持っていた小型のカメラを下ろしてそう言った。

キョトンとした表情で、未代奈は猿の様子を見つめる。

 

「ちょっと、僕が映り込むなんて聞いてないよ。

 勝手にナレーション入れて進めるのやめてよ」

 

「あっ、大丈夫、後ろ姿だけやから、顔は映らんから」

 

未代奈はそう言って猿からカメラを奪うと、

猿の後ろに回り込んでカメラを構えた。

猿は両手で顔を隠しながらレンズの外へ体を逃がした。

 

「いや、おかしいでしょ、猿が喋ってたら」

 

「だってここは一緒に働く人の感想を入れなあかんのやから、

 ソルティーヤ君に出演してもらうしかないやんか」

 

 

春の陽気は人を惑わせてしまうのだろうか。

今、未代奈とソルティーヤ君が撮影していたのは、

バレッタのお店の中で放映しようと目論んでいた「森熱大陸」という謎の映像作品だった。

これは情熱大陸というTV番組に魅了された未代奈が考え出した案で、

自作自演した番組をお店で流したらいい宣伝になるだろうという魂胆だったらしい。

 

未代奈に飼われている猿であるソルティーヤ君は、

このアイデアを彼女から告げられた時、一瞬耳を疑った。

彼女は正気だろうか、自分で自分のドキュメンタリー作品を撮ろうなんて、

こんな狂気と紙一重のアイデアに彼は身震いを覚えたのだ。

 

「一緒に働く人だったら店長がいるじゃないか。

 まあ、あの人は全然喋らないけどさ」

 

バレッタには無言でずっとヘミングウェイを読み続けている老人がいた。

未代奈は店の隅で座っている彼の方へ一瞬カメラを向けてみたが、やはりこれは放送事故になると思って考え直した。

 

「大丈夫、猿にアテレコしてるってことにすればバレないから」

 

「いや、それだったら店長にアテレコしてよ。

 それに猿に話を聞きましたって、どういうストーリーなの?

 このバレッタのお店の信用に関わる内容だと思うけど・・・」

 

ソルティーヤ君は渋々この撮影の提案を承諾したのだったが、

いざ始めてみると、想像以上にクレイジーな内容に感じていた。

これではお店の宣伝どころか、新手のお笑い映像作品かと思われてしまう。

こんな狂気と紙一重の作品を考えつく彼女はとても個性的で魅力的ではあると認めながらも、

ソルティーヤ君は腑に落ちない様子で彼女の意見に反論せざるを得なかった。

 

「ミヨナ、やっぱり考え直した方がいいんじゃないかな?」

 

「なにが?」

 

「ミヨナがバレッタのことを思う気持ちはわかるよ。

 向かいにあるライバル店のズキュンヌが色々と新しい試みをしてて、

 お客さんを取られないようにバレッタも何かしなきゃいけない。

 そこまではわかる、でもね、果たしてこの映像作品によってバレッタにお客さんがくるかな?

 僕は猿だからお店の経営に口を出すつもりはなかったけど、

 これは多分、すごい賛否両論の作品になると思うよ。

 もちろん、僕はミヨナのことを支持するけどさ、果たして他の人はどう思うかな・・・」

 

ソルティーヤ君は未代奈の機嫌を損ねないように、遠回しに色々と諭してみたが、

未代奈は相変わらずのキョトン顔でその話を聞いていた。

彼女が自分の信念を曲げることがないのはソルティーヤ君もわかっていたし、

何かアイデアを思いついたら誰にも止められないのも承知していた。

彼女はいつも人を驚かせることが好きであり、サプライズを考えるのに夢中だが、

ソルティーヤ君としては、彼女のアイデアが突拍子もないほど凄すぎて、

驚きのあまりいつも心臓に負担がかかっているのである。

 

「もう、撮るって決めたんやからちゃんと協力して。

 まだ休日に密着するシーンが残っとるんやから」

 

そう言って未代奈はまたカメラをソルティーヤ君に向けた。

ついに観念したソルティーヤ君は撮影を受け入れたが、

未代奈がカメラを向けた時、ソルティーヤ君はぐったりとして見えた。

 

「・・・はぁ、そうですね、普段はすごい明るいですね。

 いろんな知識も持ってるし、話していて本当に楽しいです」

 

一緒に働く猿の感想を撮り終えた未代奈はニコニコとしていた。

ソルティーヤ君は彼女が考えたセリフ通り喋ってくれたからだ。

 

「・・・ねえ、これって言論の自由を奪ってない?」

 

「えっ、何か言った?」

 

「いや、何もないけど・・・」

 

カウンターの隅に座っていた老人は本のページをめくった。

今日読んでいたのは、ヘミングウェイの「敗れざる者」だった。

 

 

 

・・・

 

 

 

「今まで本当にありがとうございました!」

 

撮影がひと段落ついたところで、バレッタの店内にあるTVから、

そんな声が流れてきたのが一人と一匹の耳に聞こえた。

TVへ目をやると、そこに映っていたのは児玉坂の街を代表する人気歌手のまひるだった。

 

「えっ、まひるさん、事務所移籍するんだ、知らなかったな」

 

ソルティーヤ君がTVのニュースを観ながらそんなことを言った。

まひるは児玉坂の街で知らない人はいない人気歌手であり、

その力強い歌声と明るいキャラクターは多くの人を楽しませていた。

 

「なんか寂しいね、僕けっこう彼女の歌が好きだったのにな。

 事務所を移籍するってことは、児玉坂の街から引っ越しちゃうってことだから、

 もう街ですれ違ったりすることがなくなるのか、悲しいなぁ」

 

TV画面にはお別れの挨拶をするまひるの姿が映し出されていた。

彼女の隣には、同じ事務所の先輩である桜木レイナの姿もあった。

まひるには花が手渡され、いつもは明るい彼女も少し感極まっていた。

 

「春は出会いと別れの季節やからね」

 

「そうだね、まあ仕方ないと言えるけど、

 児玉坂の街に住んでた人は、どこへ行っても頑張って欲しいと思うよね。

 それにしても、僕と未代奈も随分とこの街に愛着が湧いちゃったもんだ」

 

未代奈とソルティーヤ君は、彼女の留学のために未来からこの街にやってきたのだが、

児玉坂の街は、とても居心地が良く、人々に離れがたい不思議な思いを抱かせる街だった。

この街に一度住んでしまうと、自ら離れて行くのは難しい。

それくらい住み心地が良くて、住人達も温かくて優しい人が多いのだ。

 

一人と一匹はまひるの報道が終わるまでじっとTVを見つめていた。

彼女は大好きな歌をやめるわけではないので、またどこかで頑張ってほしいと思った。

 

「じゃあ、次は休日密着編やから」

 

未代奈はそう言ってまたカメラをソルティーヤ君に手渡した。

彼女の構想では、バレッタで働いている仕事中だけでなく、

オフの姿まで密着すると言うのが大事らしい。

ソルティーヤ君にはその意図がわからないが、とにかく彼女の流儀に従うことにした。

 

「えっ、次も店内で撮るの?」

 

「うん、彼女はカフェがよく似合うってナレーションが入るから、

 カフェでお茶してる様子を撮らないとあかんやろ?」

 

「でも、これだどオンとオフの差がよくわかんないよ・・・」

 

ソルティーヤ君のつぶやきは聞こえなかったのか、

とにかく未代奈はバレッタの店内でありながらも、

次は休日にゆっくりお茶している様子を演出し始めた。

とは言っても、見ている人には同じバレッタの中だとバレバレなはずだが・・・。

 

そんなことをしていた時、バレッタの入り口のドアが開いた音がした。

ソルティーヤ君はドアの方を振り向いたが、そこには誰もいなかった。

 

「あれ、誰か来たと思ったのに・・・」

 

「ほら~、よそ見しないで!」

 

ストローでドリンクをかき混ぜながら、未代奈がプク顔をしていたので、

ソルティーヤ君は慌ててカメラの方を向き直って撮影の準備を始めた。

だが、次の瞬間にはソルティーヤ君の視界は真っ暗になった。

両目を何かに遮られてカメラすら見えなかった。

 

「だーれだ?」

 

瞼に冷たくて柔らかい感触を感じたソルティーヤ君は、

誰かに両手で目隠しをされているのだとわかった。

そして、先ほど聞こえた声には聞き覚えがあった。

彼がその答えを言おうとしていた時、

目を覆っていた両手はすっと引っ込んで、ニコニコと楽しそうに笑う女の子が目の前に姿を表した。

 

「あっ、飛駒さん」

 

そう言ったのは未代奈だった。

そこには制服姿をした飛駒里火が立っていた。

 

「えへへ、びっくりさせてやろうと思って」

 

ソルティーヤ君は驚きのあまりしばらく声が出なかったが、

ようやく冷静さを取り戻して来たところ、またいきなり飛駒里火によって撫でられて揉みくちゃにされた。

 

「ソルティーヤく~ん、飛駒ちゃんはね、けっこう君を求めていたんだよ~!

 いやー、このふさふさした手触りがなんとも忘れられなくてね~!」

 

「うわわ、ちょっと、やめて、くすぐったいよ!」

 

撫でられてこねくり回されたソルティーヤ君は、

たまらず飛駒ちゃんの手から逃れて未代奈の隣へ逃げ出した。

普段から結構虐げられていても、飼い主の側に逃げてしまうのは本能だったのかもしれない。

 

「飛駒さん、急にどうしたんですか?」

 

バレッタはまだ開店前であり、お客さんとして来たわけではないことを未代奈はわかっていた。

そして、そもそも彼女がバレッタにお客さんとして来たことは今までに一度もなかった。

 

未代奈がそう問いかけたが、飛駒ちゃんはすぐに返答はしなかった。

そして、意味深な笑みを浮かべたまま、しばらくしてから口を開いた。

 

「・・・うん、そろそろいっかなと思って」

 

「・・・もう、気が済んだんですか?」

 

その問いへの答えがわからないのか、飛駒ちゃんは窓の外を見つめた。

街路樹の桜のピンクの花びらが鮮やかに風に舞っていた。

その道を若い女の子達が群れをなして楽しそうに笑いながら通り過ぎて行く。

 

「・・・うん、月曜日にジャンブ読めなくなるのは残念だけどね」

 

「それくらいだったら、いつでも送りますよ」

 

未代奈がそう言うと、飛駒ちゃんはにっこり笑った。

本当に送ってくれるかどうかはさておき、その気持ちが嬉しかったのだ。

 

「若い子達に何か言い残すことはありませんか?」

 

バレッタの窓の外を通り抜けて行く女の子達が目に入り、

未代奈がそう尋ねると、飛駒ちゃんは少し考えてから。

 

「壁の花になってはいけない、かな?」

 

「何か深い意味がありそうですね」

 

「・・・いやぁ、大したことじゃないけどね」

 

飛駒ちゃんは照れ臭そうに手で頭をかいた。

椅子に座っていた未代奈はおもむろに立ち上がり、

店の奥へと入って行き、コーラを持って戻って来た。

飛駒ちゃんに席に座るように促してコーラをテーブルの上においた。

 

「いやー森ちゃん、あんたわかってるねー。

 うちはこうして炭酸飲料が飲めればそれで幸せだから」

 

「じゃあ、コーラもまた送りましょうか?」

 

楽しそうに話をしていた二人であったが、

隣で見ていたソルティーヤ君が口を挟んだ。

 

「・・・ミヨナ、気持ちはわかるけど、そんな簡単なことじゃないからね。

 送料がかかるとか、そんな問題じゃないことはわかってると思うけど・・・」

 

未代奈はソルティーヤ君に不満な顔をして見せたが、

飛駒ちゃんが嬉しそうな表情でソルティーヤ君を見つめた。

 

「大丈夫、別に送ってくれなくてもいいから。

 そんなの無理なことは飛駒ちゃんわかってるから。

 でも、森ちゃんがそう言ってくれるのが私は嬉しいのよ」

 

それだけ言うと、飛駒ちゃんはコーラをストローでズルズルと飲んだ。

飲み干してしまったので、未代奈はまた新しいコーラを持って来た。

そして、ソルティーヤ君にこっちへ来るように手で合図した。

 

「それでは、準備をして来ますので、飛駒さんは少し待ってていただけますか?」

 

「うん、ゆっくりでいいよー、うちはコーラ飲んで待ってるから」

 

未代奈とソルティーヤ君が店の奥に引っ込んでしまうと、

一人残された飛駒ちゃんはコーラを飲んでから背伸びをした。

春の陽気のおかげで店内にいても日差しが暖かかったが、

窓枠か何かの部分だけが太陽光を遮っていて、

それがテーブル上にうまい具合に三角形の影を浮かび上がらせた。

それは思いがけない偶然の産物ではあったが、光と影が生み出したその形が、

彼女に懐かしい記憶を辿るきっかけを与えることとなった。

 

 

・・・

 

 

 

「無理だよぉ~、できねえよぉ~!」

 

多くの少年達が沈黙を貫いたまま、険しい岩場を右へ左へ足早に駆け抜けて行く。

そんな中、誰にも見向きもされない少女が一人で立ったまま泣いていた。

 

「やれやれ、お主はここへ何しに来たんじゃ?」

 

泣いている少女が立っている場所から斜め上の岩に、どこからともなく現れた老人はそう言った。

呆れたような顔つきで、泣きやまない彼女の方を見つめていた。

 

「だって、だって水が怖いんだもん・・・うあぁぁ」

 

「忍者になるための修行に、水に関する修行がないとでも思っておったのか?

 事前に誰かに聞けばわかる事じゃろうが、何も調べてこんかったわけじゃな、やれやれ」

 

ため息をつきながら老人はそう言ったが、彼女の耳には届いているのかどうかわからない。

彼女はずっと泣き続けたまま、がっくりと膝をついてしまった。

二人の耳には向かいにそびえる大滝から流れ落ちる水の音が延々と響いていた。

 

老人はそれでも彼女に助けの手を差し伸べることはなく、

ただ黙ってその様子を眺めているだけだったが、

やがて泣き疲れた彼女は座り込んだまま倒れてしまった。

そうしてから、仕方なく老人は岩から飛び降りて彼女の体を抱きかかえた。

 

 

・・・

 

 

次に目が覚めた時、彼女は屋敷の中で眠っていたことに気がついた。

ここはどこだろうと部屋の中を見回してみると、

自分が眠っていた布団のすぐ隣に、水の入った桶が置いてあるのに気づいた。

 

「うわっ!」

 

思わず布団から身体をのけぞらせた時、

襖が開いて隣の部屋から老人が入って来た。

 

「やれやれ、どこまでも水恐怖症のようじゃが、

 忍者になるために来たのであれば、歯を食いしばって修行を続けるんじゃな」

 

老人はそう言って部屋の隅に座り込んで腕を組んだ。

彼女がその桶に入った水に顔をつけるのを見届けるつもりらしい。

 

滝の前で泣き叫んで倒れこんだことに比べれば、

桶に入っている水などはなんてことないはずだった。

彼女は冷静さを保ったまま桶の前に座り、しばらくじっと桶を眺めていた。

 

老人も少女の様子をじっと見つめていた。

見つめること約十分、まだ動かない。

そのまま再度十分が経過、まだ何も起こらない。

さすがに老人も集中力が切れて来た頃、彼女はようやく桶に顔を近づけ始めた。

だが、次の瞬間にはすぐに水から顔を離してしまった。

その時間は約一秒、老人はこれは随分と根気のいる作業だとわかった。

 

 

・・・

 

 

老人達が修行していたのは久保田藩のとある小村だった。

江戸時代、藩主である佐竹氏が久保田城を居城としたことから、

古来、秋田と呼ばれいていた地域は久保田藩と改められた。

 

この時代、忍者というのは現代で言うところのスパイに等しい存在だった。

現代社会では情報というのはインターネットでいくらでも共有されているのだが、

昔は人間が情報を運んでいたために、それを手に入れるのもまた人間の仕事だった。

表面化しない裏の情報を手に入れるには、大名達も忍者を重宝したのである。

 

よって彼らは雇われてその与えられた仕事を黙々とこなして行くことになる。

スパイであるために身を隠す術を覚え、相手を撹乱する技を身につけていった。

その存在は表舞台には現れにくいため、実際にはどの程度の規模の集団がいたのかは定かではない。

だが、いつの世も情報とは相手との駆け引きにおいて何よりも重要なものであるために、

どの地域にも少なからずこのような忍者の集団がいたと考えてもおかしくはないだろう。

 

老人達はその地域に所属する必要上、佐竹氏に仕えていたのであるが、

佐竹氏が外様大名であることが、彼らの集団を多様化させていた。

つまり佐竹氏はこの当時の権力者である徳川家とは関係が薄かった。

徳川家は天下分け目の関ヶ原の合戦で天下を手中に収めた後、

幕藩体制を築きながら、徳川家と近しいものとそうでないものに分け、

その処遇を決めて行ったのであったから、つまり佐竹氏は後者である。

徳川家と親しくないのだから、距離としては遠ざけようとして佐竹氏を北国に追いやった。

それでもいつ謀反を起こされるのかわからないので、常に監視体制にはあるはずで、

そうした情報を手に入れるためには、やはり徳川家も忍者を利用していただろう。

 

そうなると、老人が所属していた忍者集団は表向きは佐竹氏に帰属していながらも、

裏側では徳川家ともつながりを持たなければならなくなってしまった。

これは政治体制が生み出した狭間に生きる彼らにとって死活問題であり、

どちらか一方に偏ることはできず、かと言ってその立場を知られるわけにもいかない。

その微妙な立場を守って生き抜かねばならないのであった。

権力者の間で生きる場合、往々にしてこのような状況は生まれるのであるが、

とにかく、その狭間で生きる仕事の性質が、彼らの処世術を形成して行くのだった。

 

 

・・・

 

 

みんなから爺様と呼ばれている老人が飛駒里火を引き取ったのは、彼女がまだ子供の頃だった。

小さな村の普通の少女として暮らしていた彼女は、

このまま刺激のない人生を続けて行くことに疑問を感じていた。

そして、両親に相談したところ、知り合いである老人に預けられることになった。

飛駒里火は忍者という仕事の本質はわからなかったが、

話を聞くうちに、なんとなくかっこいい仕事であると思った。

とは言え、忍びは男の仕事であり、女性が憧れて忍者になりたいなど、

そんな話はこの時代にはほとんどなく、そもそも憧れを抱くような職業でもなかった。

だから飛駒里火の場合は、かなり特殊だったと言える。

 

30・・・31・・・32秒」

 

爺様がそこまで数えた時、飛駒は桶から顔を上げた。

ゲホゲホと咳き込む様子を、老人は立ったまま見つめていた。

 

「やれやれ、たかが水に顔をつけるだけでこの程度では、

 一人前の忍者になりたいなどと、どの口が言ったものか」

 

「・・・だって、子供の頃に溺れかけたせいで身体が言うことを聞かねえんだもん・・・」

 

苦しそうな表情を浮かべながら飛駒は片手で胸を抑えていた。

爺様は無言のまま、もう一度顔を水につけることを要求していた。

だが、飛駒は分かっていながらも、その要求に応えることができない。

 

「人は誰もが経験によって狂わされる。

 じゃが、一度溺れたからと言って、二度目が必ず溺れるわけでもない。

 それは無意識のうちに自分ができないと思っておるだけじゃ。

 できないと思っている奴は何をやってもできんぞ、まずはできると思うことが肝要じゃ」

 

爺様はそんなことを言ったが、やがて彼女がすすり泣く音が聞こえてきたので、

大きなため息をついて、彼は襖を開けて部屋を出て行ってしまった。

 

 

・・・

 

「ほっ、ほっ、ほっ、よっと!」

 

聳え立つ岩場の頂上に爺様は座っていた。

彼に向かって岩の上を飛びながら近づいて行く飛駒。

 

爺様は自分の元まで登ってきた飛駒に足払いを食らわせた。

足を払われた飛駒は態勢を崩して登ってきた岩場を落ちて行った。

しかし、修行の成果で俊敏な動きができるようになった彼女は、

すぐに空中で姿勢を整え、また颯爽と岩を飛び登り始めた。

 

また爺様の位置まで辿り着いた彼女は、今度は彼の足払いを躱した。

その代わりに爺様に対して拳を繰り出したが、彼は紙一重で全て躱して行く。

やがてその拳を抑えられ、投げ飛ばされてしまったのだが、

それでも彼女はまたすぐに姿勢を整えて向かってきた。

 

「やれやれ、水には弱いくせに、山では無類の強さを発揮するとはな」

 

「じっちゃん、動きが遅いよ!」

 

今度は登ってきた飛駒が爺様を足払いで姿勢を崩させた。

ここは一気に仕留めようと攻撃を繰り出したのだが、

爺様に躱された後、彼は腰にぶら下げていた瓢箪から水を浴びせかけた。

 

「うわぁぁぁ!!」

 

顔に水がかかった飛駒は、やはりその恐怖は克服しきれずに岩場を墜落して行った。

爺様はまた落ち着いた様子で岩場の頂上に座り込んで目を閉じた。

 

 

「じっちゃん、ずるいよここで水使うなんて!」

 

岩場を見上げながら、飛駒は爺様に向かってそう叫んだ。

爺様は目を閉じたまま微動だにしない。

 

「相手に弱点があれば、それを狙うのが戦いの常。

 その弱さを克服できないお主が悪いのではないかな?」

 

そんなことを言っている間に、飛駒はまた颯爽と岩場を登ってきた。

そのスピードの速さは、すでに爺様と互角といっても言い過ぎではなかった。

 

「そんなこと言って、じっちゃんだって弱点くらいあるでしょー!?」

 

「わしにそんなものはない、そんなものがあったら忍びなどやってられんわい」

 

飛駒は色々と考えた挙句、爺様の脇の下をくすぐってみたり、

虫を近づけてみたり、お色気で釣ってみたりしようとしたが微動だにしなかった。

最後にカンチョーでもしてやろうと思ったところを蹴り飛ばされてしまった。

また飛駒は岩場を真っ逆さまに落ちて行った。

 

「やれやれ、美人計とはなかなか考えよったが、

 残念じゃが、もっと色気を磨いてから出直してくるんじゃな」

 

中国の古い兵法の書物にも、歴として美人計はある。

それはどんなに武力を持っている強い相手であっても女性には弱いと言う、男性特有の弱点をつくものであったが、

その技を使いこなすには、いかんせんまだ子供である飛駒には荷が重かったようだ。

 

「ちっくしょー!バカにすんなー!」

 

落下しながらそう叫ぶ声が岩場に反響して聞こえてきた。

 

 

・・・

 

 

そんな風にして、飛駒里火は修行の日々を過ごして行った。

歳が近い仲間達と共に一人前の忍者になるべく腕を磨いて行ったのだが、

残念ながら水への恐怖だけはどうしても克服することができなかった。

それ故に、陸であればどんな場所でも無類の能力を発揮する飛駒も、

海や川ではその能力を十分に発揮することができず、常に落ちこぼれとなった。

また、無類の能力を発揮すると言っても、それは決して運動能力が優れているわけではなく、

むしろ山では野生に還ったような無邪気さを発揮すると言ったほうが正しいのかもしれなかった。

 

彼女は自分でもその未熟さを理解していた。

仲間たちと比較するたびに、自分が劣っている事を痛感する。

何か特殊なことができるわけでもない自分は、

忍者として一人前になれる日がくるだろうか。

夜みんなが寝静まる頃、飛駒は一人で眠れずに月を見上げていたことがあった。

一人静かに心を落ち着かせるには、夜空に浮かぶ月は彼女にとって心の薬だった。

 

「江戸?」

 

飛駒がそんな話を聞いたのは、やはり一人縁側で月を見上げていた夜だった。

爺様が彼女の横に腰を下ろし、その事実を告げたのだ。

 

「そうじゃ、お主らには江戸に行ってもらいたい」

 

「だけどよ、オラ今まで一回も江戸になんか行ったことねぇし・・・」

 

そんな大きな話を聞かされると、喜びよりも不安の方が大きかった。

彼女は忍者になりたいとは思っていても、ここを離れて暮らす自分などはまだ想像もできなかった。

 

「こんな名誉なことはないぞ、わしらにとって江戸の情勢を探ることは、

 それすなわち生き残りをかけた一大事なのじゃ、将軍様のお考えを知ることは、

 将来わしらにとってどのような選択肢があるのかを知ることを意味するのじゃからな」

 

久保田藩の佐竹氏に属することが最も安定した生き延びる術であることは承知だが、

佐竹氏であっても幕府に逆らっては生きてはいけない現実がある。

時には佐竹氏の情報を江戸に漏らし、江戸の情報を佐竹氏に届ける。

幕府専属の忍びにはこのような曖昧な生き方を採る必要はないのだが、

弱い大名の元に仕える忍びは、情勢を見誤ると生きてはいけなくなる。

そんな生き方に「己の意思」が介在する余地などはなかった。

情勢が右へ転べば右へ動き、左へ転べば左へ動く。

ましてや忍びなどは権力の影に生きる生業であった。

誰もやりたがらない事を率先してやり遂げるのが宿命であり、

そこに名を残すことすら許されない、自らがやり遂げた一切は、また自ら闇に葬り去らねばならない。

 

「断ると言うのであれば、わしも無理強いはせん。

 じゃが、これは選ばれたものにしかできん名誉な使命だと言う事を忘れるな」

 

爺様はそう言って夜の闇に紛れて何処かへ消えてしまった。

残された飛駒は自信なさげにうつむきながらも、顔を上げて空を見た。

満月はこんな夜もひときわ美しく輝いていて、自分もあんな風になれたらいいのにと思った。

 

 

・・・

 

 

その翌日、飛駒達は呼び出されて正式に江戸へ行く事を命じられた。

飛駒は眠れない夜を過ごしながらも、一夜かけて受け入れる心を整えてきた。

だが、思いがけない真実を告げられた事で、彼女はまた動揺を隠せなくなった。

 

「抜け忍が出た」

 

抜け忍とは、忍者をやめて脱走した者の呼称である。

先述したように、この時代の忍びとはスパイであり情報の塊である。

脱走者を出すと言うことは、すなわち情報漏洩に等しい。

組織にとって重要な情報を持っている脱走者を許すことはできないため、

こうした場合、刺客を放って脱走者の口封じをするか、

そうでなくとも、抜け忍は二度とその地へは戻れなくなる。

 

だが、飛駒にとって驚きだったのは、その脱走者こそが、

江戸へ行く部隊の頭領となる人物だったことだ。

そして、不在となった頭領の座に就くことになったのは、

他の誰でもない、飛駒里火その人だった。

 

その事実を告げられた飛駒は、口を開けたまま声が出なかった。

誰から見ても落ちこぼれ忍者である自分がどうして選ばれたのか。

抜け人が出たことによる非常事の決定ではあったが、

運命を引き寄せる者とは、こうして時に偶然を味方につける。

だが、飛駒本人にはそんなことは知る由もなかった。

 

 

・・・

 

 

「よくわかんないよ~やっぱり、建物多いし、人多いし、空気濁ってるし・・・」

 

初めて訪れた江戸の街は飛駒にとって恐怖の対象でしかなかった。

情報を集めることが忍者の仕事であったが、まず江戸に関する情報が全くない中で、

飛駒は一人で街を歩きながらその環境に慣れることから始めなければならなかった。

 

「そろそろ聞かなきゃいけないのかしら~。

 でも道案内されてもよくわかんないからなぁ~・・・」

 

まず、隠密に行動しなければならない忍びの宿命を忘れてしまった飛駒は、

田舎者丸出しの様子でオドオドと江戸の街を徘徊し始めた。

人々が歩く速度も速く、なんとなく冷たい表情をしていて忙しそうな人々に、

飛駒は声をかけようにも声をかけられず、結果的には人の目を忍ぶように行動するようになった。

幸いなことは、江戸の人々は忙しく生活しており、飛駒の事など誰も気にしていなかった。

 

「怖いってばぁ~、聞けないってばぁ~・・・」

 

一人でブツブツ呟きながら、飛駒は爺様に託された仕事をやり遂げようとしていた。

仕事とは言っても、ただ江戸の街で買い物をして情報を集めてくるだけなのだが。

 

「てえへんだーてえへんだー!」

 

周囲から急に聞こえてきた声に飛駒は驚いてしまった。

男達が何か忙しそうに走り回っているのだが、

飛駒には何が起きているのかわからない、ただ彼女には周囲で起こる全てが恐怖の対象でしかない。

 

「てえへんだー、こんなところに粋な女子が一人でいるなんて、まったくてえへんだー!

 よっ、お前さん、こんなところで何してんだ、ちょっと俺らと遊ばねぇか?」

 

「・・・いえ、結構です・・・」

 

飛駒は俯いたままそう言った。

江戸の街には見たこともない種類の人達がたくさんいる。

 

「そんな冷てぇこと言わずにさ~」

 

そう言って男達は飛駒の手首を握ろうとした。

あまりにも不躾な江戸の男達の仕草に、飛駒は嫌悪感を隠せなかった。

「きゃあ~!」と叫びながら男を反射的に投げ飛ばしてしまうと、

周りを見る余裕もなく、一目散にその場から走って逃げ出してしまった。

 

飛駒は逃げながら、彼らが追ってきたらどうしようかと、

そんな勝手な被害妄想に襲われていた。

そして、逃げながら隠れる場所を探していたが、

どこに隠れていいのか全くわからない。

無我夢中で走った彼女は、咄嗟に周囲に生えている樹々の枝を折りながら逃げ、

やがてその花や葉の影で体を覆い隠すように壁にもたれてしゃがみこんでしまった。

それで、とにかくどうにか隠れたつもりだったのである。

 

「こりゃ!」

 

飛駒は誰かに頭をポカリと殴られて「ひぃ!」と声をあげた。

そして、顔を掴まれたので万事休すかと思った時、

自分の前に立っていたのは爺様だった。

 

「じっちゃん!」

 

「馬鹿者、誰も追いかけて来たりしとらんわ。

 何を勝手に怖気付いておるんじゃ、しかもそれで隠れたつもりか」

 

飛駒は手に持っていた木の枝に気づいて恥ずかしくなった。

いつの間にこんな物を手に入れたのだろう、無我夢中で気がつかなかった。

 

「やれやれ、そんなことで折られた枝が可哀想じゃわい」

 

「でも、じっちゃん、江戸の街は怖ぇよ~・・・」

 

泣きそうになりながら、飛駒は爺様にすがりついた。

爺様はそんな彼女を冷たく突き放した。

 

「馬鹿者、忍びが他人に恐怖を感じていることを悟られてどうする。

 わしらは決して己の心を取り乱してはならんのじゃ、いかなる時でもな」

 

「・・・ううっ・・・そんなこと言ったって・・・」

 

「良いか、忍びの本質は戦いの強さではない。

 己を殺し、いかにして闇に紛れて生きていけるかが本質じゃ。

 いくら肉体的に強くなっても、お主のような弱虫では何も成し遂げられんぞ」

 

「・・・じゃあ、もうじっちゃんがオラの代わりにやってくれたらいいのに・・・」

 

地元で待っているはずの爺様が江戸の街にいた事がわかった飛駒は、

ついうっかりそんな言葉を口にしてしまった。

どうして彼がここに来ることになってしまったのかも考えずに。

 

「やれやれ、ここまで助けに来てしまったわしがバカじゃったわい。

 気絶するまで放っておいたほうがよかったかのう」

 

飛駒はぐずぐずと鼻水をすすりながら、ようやく少しだけ我に帰った。

自分が頼りないから、来る必要のない爺様をここまで来させてしまったのだ。

 

「ではもう金輪際わしはお主を助けになど来んぞ。

 どうにかして一人でこの江戸の街で立派に生き抜いてみい」

 

爺様は飛駒が持っていた木の枝を奪い取って立ち去ろうとした。

だが、しばらく黙ってから、まだ泣き続けていた飛駒の方を振り返った。

 

「もう二度と壁の花にはなるなよ。

 そんな風に隠れていても誰も助けてくれはせん。

 怖いと思ったら、その瞬間にさらに一歩踏み込む勇気を持て。

 その一歩が、やがてお主を助けてくれるじゃろうて」

 

そう言って、爺様はどこかへ消えてしまった。

 

 

・・・

 

 

それからというもの、爺様はもう江戸に姿を現すことはなくなった。

泣いていてもどうにもならない飛駒は、一人でどうにか過ごして行くしかなくなった。

それでも心と体には負担がかかり、目に見えない疲労感を覚えたが、

それが病なのかどうかもよくわからず、医者を頼ろうにも当てがなく、

ひたすら体調不良に堪える生活が続くことになった。

彼女にとってよかったのか悪かったのか、それはわからない。

 

それは共に江戸までやって来た仲間達も同じような状況だった。

誰もが慣れない環境の中、故郷から届く指令を全うしては肩の荷を降ろす。

そんな繰り返しをしているうちに、江戸班にはやがて絆も生まれて行った。

 

飛駒は怖気付きながらも一つ一つ指令をこなして行った。

初めのうちは逃げ出したくなることばかりだったが、

江戸班の頭領であるという立場がそうさせたのか、

とにかくもうあまり感情を揺さぶられることのないように、

平常心で行動できるようになっていった。

だが、同時に何か以前の自分とは違う何者かになっていくような気もしていた。

忍びの定めとして己の心を押し殺しながら生きていくことで、

様々なことに順応できるようになっていったのだが、

同時に以前のように無邪気に感情を表すことができなくなってしまった。

良くも悪くも人はこうして変わっていくのかもしれないと考えながら、

彼女は肉体的にも精神的にも少しずつ大人になっていった。

 

やがて、久保田藩の忍びの里から江戸班に所属を希望する者も増えた。

爺様は飛駒に手紙を寄越し、それらの者を江戸班で引き受けるように命じた。

飛駒はその命に従い、江戸班に多くの新しい忍び達を受け入れて行った。

総勢四十六名にもなった頃、爺様は手紙とともに彼女に旗を贈った。

その旗には斜面が四十六度に傾斜している三角形が描かれていた。

老人はそれを江戸班の旗印とせよと手紙に書き残していたので、

素直な飛駒はその言葉に従ってそれを江戸班の旗印と定めた。

こうして大所帯となった組織に、統一の旗印を設けることで、

江戸班の絆はさらに強固なものになって行ったのだった。

 

そうして数年の月日が流れた。

 

 

・・・

 

 

 

「飛駒、おい飛駒!」

 

「飛駒ちゃん、ねえ、聞こえてる?」

 

誰かが拳で扉を叩く音がして飛駒里火は目を覚ました。

障子戸から差し込む陽の光は眩しく、もうすっかり太陽が登ってしまった後だということがわかる。

頭を掻きながら体を起こすと、周囲にはたくさんの浮世絵が散らかっていた。

そこでようやく、彼女は自分が何をしていたのかわかった。

 

眠い目を擦りながら、飛駒は扉を開けた。

そこには江戸班の仲間が立っていた。

同じ歳で幼馴染の半蔵とモミジだった。

 

「やっぱりこんなことになると思ったぜ」

 

「飛駒ちゃん、全然出てこないんだから」

 

二人は家屋の中を覗いて、浮世絵が散乱していることに気づいた。

そして、呆れた顔で大きなため息をついてから口を開いた。

 

「おいおい、やっぱいつも通りじゃねーか」

 

「いつも通りってなんだよ、浮世絵見てちゃいけねーのかよ」

 

「別にお前が何したって構わんが、どうせずっと家にこもってたんだろ?」

 

「別にいいじゃん、たまには忍びであることを忘れてもさ。

 浮世絵見てるのがうちにとって一番の憂さ晴らしなんだから」

 

飛駒は家屋の中に引き返して、散乱していた浮世絵を片付け始めた。

そこに描かれていたのは美人画や役者絵、芝居絵の類が多かった。

他にも戯画や奇妙な妖怪の類が描かれた絵などもあった。

浮世絵とはつまり風俗画であり、江戸時代に流行した娯楽の一つであるが、

現実的なものから非現実的なものまで、とにかく江戸の人々は多くの絵を描いた。

田舎から出てきた飛駒は、当初は辛いことが多かったのだが、

やがてこうした田舎になかった娯楽に興じるようになり、

時々ふと失踪し、忍びであることを忘れるために家屋に籠るようになった。

 

「もう、二人とも争うのはやめて!

 こんなことをする為に来たんじゃないでしょ?」

 

モミジに諭されて、二人は争うのをやめた。

そして、半蔵は飛駒に一通の手紙を差し出した。

 

「爺様からだ」

 

飛駒は男から手紙を受け取ると、その場で即座に目を通した。

爺様から手紙が来るときは、いつも何か新しい指令が下るときだった。

 

「・・・じっちゃん、しばらく会ってねーなー」

 

飛駒は手紙を読み終えてから切なそうにそう呟いた。

江戸へ来てからというもの、彼女はずっと故郷に帰っていない。

爺様との繋がりは、たまに来るこの指令の手紙を通じてのみだった。

 

「飛駒ちゃん、悪いけどこの手紙、私達も先に読ませてもらったの。

 だけど今回は飛駒ちゃん一人に宛てた手紙だったみたい、勝手に目を通しちゃってごめんなさい」

 

モミジは申し訳なさそうに頭を下げてそう言った。

半蔵の方は腕を組んだまま、そっぽを向いていた。

 

「偉く爺様に好かれたもんだな。

 江戸班も頭領のお前だけが背負ってるわけじゃないんだがな」

 

半蔵は皮肉交じりにそう言ったが、隣にいたモミジが制した。

この数年の仕事を通じて江戸班の結束は高まっていたが、

もちろん、飛駒に対して好意的な者もいればそうでない者もいた。

半蔵は別に飛駒を嫌っているわけではないが、彼女の立場への嫉妬心はある。

 

「別に・・・うちは一人で江戸班を背負ってるつもりもないから」

 

「ふん、どうだか」

 

「もう、やめて!」

 

血気盛んな若者達がたくさんいる江戸班ではあったが、

忍者が白昼堂々と争いをして目立つわけにはいかないので、

とにかくこの場は堪えることにして、二人は飛駒と別れた。

また家屋の中に戻って座り込んだ飛駒は、大きなため息をついた。

どうしてこんな無駄な争いを起こさなければならないのだろう。

自分が江戸班の頭領という地位にあるせいで、思ってもいない誤解を生んだり、

変な嫉妬の対象にされることを飛駒は好まなかった。

そんな孤独な悩みを抱えるうちに、時々こうして非現実の浮世絵の世界に逃げたくなる。

 

「それにしても、今回の指令はなんなんだろう?

 詳しい内容が全然書いてないからよくわかんないや」

 

飛駒は手紙を机の上に置いて、また憂さ晴らしのために浮世絵の世界へと帰って行った。

 

 

・・・

 

 

「アイヤイヤサッサ~、ハッ、ハッ、アイヤ、アイヤイヤサッサー♫」

 

飛駒が聴いていたのは、この時代に江戸で聴くのは珍しい楽器の音だった。

三線は元々、琉球王国と呼ばれる国(現在の沖縄)で発展した楽器である。

 

「いやいや、素晴らしい音色ですね、感動しました~!」

 

賛辞を述べながら飛駒は手を叩いた。

目の前には満足げな表情を浮かべた女の子がいた。

 

「いや~緊張で手が震えちゃった~」

 

「いやー、そんなこと微塵も感じさせない音色でした、よっ、さすが生姫様!」

 

手を叩きながらも、飛駒は自分が何をしているのだろうかと疑問がなんども頭に浮かんだ。

だが、忍びたるもの、どんな不条理なことがあってもそれらを忍ばなければならない。

頭に浮かぶ疑問は、すべて真っ二つに切り裂いて、頭の後ろの方へ葬り去るべし。

飛駒はそんなことを考えながら、忍者という職業の難しさを思った。

兎にも角にも、忍びというのはどうやら最下層の人間らしいと悟ったのだ。

だが、そもそも故郷にいた時から、村の仲間達の間では階層の底辺にいたことを自負していた飛駒には、

この程度の苦難などなんてことはないと思っていた、そう思ってやり過ごそうとしていたのかもしれない。

 

「ねえ、飛駒ちゃん、見てみて、この三線かっこいいでしょ~?」

 

「いやー素敵ですね、どうやってそんな珍しい物を手に入れられたんですか?」

 

「父がね、この間ちょっと琉球王国の人を連れて来たことがあってね、

 その時に三線もらっちゃったの、それで歌も教えてもらったんだ~」

 

「はー、そうですか、いやはや羨ましい!」

 

老人から届いた手紙には簡潔に、とある城のお姫様の遊び相手になってやってほしいとだけ書かれていた。

そして、具体的な中身には一切触れられていなかったが、手紙の締めのところで、

「これもまた修行の一つ、耐えてみせよ飛駒」と意味深なことが書かれていた。

最初はどういうことかわからなかったが、飛駒はこの姫に会ってからしばらくして意味がわかって来た。

 

「ねえねえ、飛駒ちゃん、もう寝ちゃったの~?」

 

昼間にあれだけ散々褒めちぎったのにも関わらず、生姫は夜に全く眠ろうとしない。

むしろ、夜になればなるほどテンションが上がり、急に奇声を発するように歌い出したり、

変な動きをしたりするものだから、飛駒は流石にこれが連日のことになると徐々に寝不足になっていった。

そして、飛駒が眠れなくて辛いと思っていると、気づけば勝手なタイミングで生姫は眠っていたし、

それでいて彼女は、朝は勝手なタイミングでこちらを揺り起こして来た。

 

「ねえ飛駒ちゃ~ん、起きて~、一人でいてもつまんな~い」

 

眠っていた飛駒の口を両手で塞ぐようにして、生姫は飛駒を起こそうとする。

息ができなくなって苦しい飛駒は、寝返りを打ってそれを避ける。

だが、逃げれば逃げるほど、また生姫は両手で口を塞ごうとしてきた。

 

「ねぇ~、飛駒ちゃん起きて~、なんか面白い話して~」

 

「・・・あー、うるっさい!まだ朝でしょーが!?

 人がせっかく気持ちよく寝てるのに、少しは遠慮ってもんを知りなさい!」

 

「え~、飛駒ちゃん怒った~怖~い、ねえ起きて~!」

 

やがて主従関係がよくわからなくなるほど、飛駒は生姫のお世話をし続けた。

爺様が当初期待したように、飛駒は己を忍ぶことができなかったが、

結果的に生姫は彼女のおかげで退屈がしのげたので飛駒は気に入られたようだった。

 

 

・・・

 

 

ある日、飛駒はまた生姫に呼び出されてお城までやって来ていた。

この姫様がどういう立場の人なのか、詳しいことは聞いていなかったが、

爺様に頼まれた指令なので、邪険に扱うわけにもいかなかった。

 

「ねえ飛駒ちゃん」

 

「今度は何!?」

 

「ちょっと、まだ何も言ってないのに怖~い」

 

「あんたがいっつもわがままばっかいうからでしょ~が!」

 

生姫を丁重に扱わなければならないことは承知しているが、

されるがままでは良いように使われてしまうことを学習した飛駒は、

もう知らず知らずの間に、少しばかり冷たい返しをするようになってしまっていた。

 

「なんか面白いことないー?

 なんだか最近つまんなーい」

 

またいつも通り好奇心が燃えたぎってしまう生姫の悪い癖が出て、

飛駒は正座したまま俯いてため息をついた。

この人は生まれつきお姫様の性分をしているのだが、

お城の中にじっとしているのは性に合っていないらしい。

 

「いやいや、この間うちが捕まえて来たうさぎは?」

 

「えー、だってなんか可愛くないんだもーん」

 

先日も同じような悩みを相談された飛駒は、

色々と考えた挙句、自分がいなくても代理になる生き物がいれば退屈が凌げるのではと思いついた。

そして、思い立ってその辺りにいた鈍臭そうな野うさぎを一匹捕まえて来てやったのだが、

どうやら今日の様子を見ていると、生姫はもうそのうさぎにも飽きてしまったらしい。

 

「そんな勝手なこと言っちゃダメでしょ!

 うさぎだって生きてるんだから!」

 

「えー、でもなんかあのうさぎ見てるとイライラするから、

 昨日はもう食べちゃおうかなーって思ってたくらいだもん」

 

「おい!

 うちがせっかく捕まえて来たのに食べちゃダメでしょ!

 しかも、一応江戸時代は肉食禁止の建前あるからね!」

 

部屋の隅に置かれている木の籠に入っていたうさぎは、

その話を聞いていたのか、怯えるような様子で暴れ始めた。

 

「うるっさいなー、静かにしないとうさぎ鍋にしちゃうぞ、えい!」

 

生姫は無邪気にうさぎの籠をつつく。

飛駒ちゃんは、さすがにかわいそうなのでうさぎを庇おうとした。

 

「こら!生き物を大切にしなくちゃダメ!」

 

二人がうさぎを巡る攻防戦を繰り広げていた時、

突然、誰かの笑い声が聞こえてくるのがわかった。

二人は辺りを見回しながら、どうやら声は屋根の上から聞こえてくるとわかった。

 

「くせ者か!」

 

飛駒はすぐに外へ飛び出して屋根へと駆け上った。

だが、飛駒が屋根に辿り着いたときには、声の主が屋根から飛び降りる後ろ姿だけが見えた。

何やら着物姿の女性だったように思えた飛駒は、すぐに後を追いかけたのだが、

屋根から飛び降りたはずの女性は、もうどこにも見当たらなかった。

 

「おっかしいな、どこ行ったんだ?

 こんな速さで動ける奴なんて、忍びの者としか思えない・・・」

 

相手を見失った飛駒は、諦めて屋根から降りてまた城の中に戻った。

もしかすると生姫が狙われたのかもしれないと考えると、危ないところだったのかもしれなかった。

 

「いやー、生姫様、危なかったですね、もう少しで奴らに襲われ・・・」

 

飛駒が部屋に戻って来たとき、生姫はうさぎの両足を掴んで逆さ吊りにしていた。

 

「えっ、どうかした?」

 

「おい!この状況下で食欲優先かい!」

 

 

その日の夜、このままではいつか生姫に食べられてしまう恐れがあると思った飛駒は、

情けの心からこっそりうさぎを野に返してやることにした。

鈍臭いうさぎは、助けてくれた飛駒に感謝しながら野に帰って行った。

 

 

・・・

 

 

そして翌日、生姫が怒ってしまった。

夕御飯のために楽しみにしていたうさぎが逃げてしまったので、

探してくるように飛駒に命じたのだが、飛駒は自分が逃がしたとは言わず、

ただ何者かによって逃がされてしまったのだと嘘をついてかわし続けた。

だが、結局は生姫の食欲を満たせなかった代償は大きかったらしく、

ついにこのお城をお忍びで出てみたいという要求を突きつけられた。

飛駒はそれだけはめんどくさいので避けたいと思っていたが、

それならあのうさぎをまた捕まえて来て欲しいと言われ、

他のうさぎでもいいかと尋ねても、嫌だあのうさぎがいいと言われたので、

もう困り果ててしまい、連れ出してくれたらお宝をあげると言い始めたので、

ついにここじゃないどこかへ連れて行くということで承諾する羽目になった。

 

「わー、今日は絶好の満月じゃん!」

 

夜、皆が寝静まった頃、飛駒はお城に忍び込んで生姫を連れ出した。

だが、生姫はそんな事情などお構い無しに大声で喋る。

 

「し~~~!」

 

飛駒が口の前に人差し指を当ててそう言うと、

生姫も同じように人差し指を当てて真似してみせた。

 

「ねえねえ、お月様ってどうして隠れちゃうの~?」

 

またすぐに誰も解けるはずのない疑問を口にした生姫は、

すぐに飛駒によって同じように「し~~~!」と諭された。

生姫も同じように人差し指を口元に当てて口をチャックした。

 

「ねえねえ、飛駒ちゃん望遠鏡って知ってる~?」

 

「あんたねぇ!わざとやってるでしょ!?」

 

「何が~?」

 

「お城を出て行くんだから静かにしてくれないと、

 こんなことしてるってバレたら、飛駒ちゃん生きて帰れなくなるでしょーが!」

 

姫様を連れ出すなんて、お城の人々に知られたら怒られるだけでは済まない。

忍びである飛駒には事の重大さはわかっていたのだが、生姫はただお出かけを楽しんでいるだけだった。

 

「それでね、望遠鏡って道具が西洋にはあるんだけどね、

 それを使うとお星様がすっごい綺麗に見えるんだって~。

 なんか父と話してた人が前に言ってたの~」

 

「・・・でも今そんな道具ないんだから」

 

「だからね、こうすればいいの!」

 

そう言って、生姫は親指と人差し指で丸を作って両手で目を囲んだ。

二人は同じように指を通して空を眺めて見た。

 

「ほら、なんだか未来が見えるような気がしない?」

 

「あんたきっとどこでも生きていけるよ、あたしゃ保証するよ」

 

「何それ~、飛駒ちゃん、夢がないな~!」

 

「そんな夢ばっか見ててもね、忍者は生きていけないんだよ!」

 

飛駒はもう生姫の口を強引に手で塞いで、静寂に包まれた夜の城を抜け出した。

 

 

・・・

 

 

「ねえお腹すいた~」

 

飛駒と同じ黒装束を身にまとって忍びに変装した生姫だったが、

お城から出るのが初めてだったので、あまりにもテンションが上がってはしゃぎすぎた。

江戸に辿り着く頃には、もう夜が明けて来ており、お腹も空いてきたのだった。

 

「そだね、うちも」

 

飛駒は持っていたおむすびを取り出して半分こして生姫にあげた。

二人は大樹の根元に腰をおろしながら仲良くそれを食べた。

 

「あー、外でご飯食べるってこんなに美味しんだね~」

 

「そだよ、おめぇそんなことも知らねえんか?」

 

「あー、なんかもっと美味しいもの食べてみたいなー」

 

「それだったらあんた、お城の中にいたほうがよかったでしょ。

 お城の中だったら、美味いものたくさん食べれるのに」

 

「確かに美味しいけど、いつも同じものだから面白くないのよ。

 なんか今まで食べた事ないものが食べてみたいのよねー」

 

「何を贅沢言ってんの、あんた今日の夜にはお城に帰らなきゃいけないんだからね。

 半日お城にいないだけでも、探される可能性があるってのに」

 

飛駒が言った言葉が聞こえていなかったのか、

生姫はお腹が満たされた後は自然と歌い始めた。

本人は三線を持ってくればよかったと後悔していた。

そうであれば、江戸の城下町で自慢の美声を披露できたのに。

 

「ちょっと、あんまおっきい声出さないでよ。

 ただでさえうちら怪しいかっこしてるんだからさ、忍びはねぇ目立っちゃダメなんだから」

 

「えー、せっかく外に出たんだから、気持ちよく歌いたいじゃ~ん!」

 

二人はそんなことを言いながら道を歩いていると、

向かい側からこちらへ向かって歩いてくる女の子が目に入った。

どうも菅笠を深くかぶって顔を隠しているが、

飛駒と生姫が女性だとわかると、女の子は顔を上げてこちらに話しかけてきた。

 

「・・・あの」

 

「・・・はい、何か?」

 

「・・・パンの作り方を知りませんか?」

 

 

 

・・・

 

 

 

そうして話しかけてきた彼女は、

かなり長い旅を続けている様子であり、

話をしている最中に「ぐぅ」とお腹が鳴った。

彼女は恥ずかしそうにしていたが、飛駒は持っていたおむすびを渡し、

それを食べながら木陰で話を聞くことになった。

 

「・・・ずっと一人でパンの作り方を知ってる人を探しているんです」

 

「こりゃまたどうしてそんなものが知りたいの?」

 

飛駒が思い切ってそう尋ねたが、女の子は黙ったまま答えようとはしなかった。

何か言えない事情があるのだろうかと二人で訝っていたのであったが、

女の子は躊躇いながらも重たい口を開いた。

 

「・・・パンが食べたいから♡」

 

そう言って女の子は照れてしまった。

特に深い理由は無さそうに思えたので、彼女はただ恥ずかしがり屋なだけなのだろう。

あまりに純粋な理由だったので、二人は女の子の事を可愛いと思った。

 

「・・・ところでさ、パンってなに?」

 

飛駒はパンの存在を知らなかった。

江戸時代ではまだパンの存在は一般的ではなく、

もちろん庶民の食事として普及していることなどはない。

パンが日本に伝えられたのは、一説には鉄砲伝来と同じ時期と言われている。

江戸時代は鎖国をして外国との交流を閉ざしていたのであるから、

パンが食されていたとしても、それは外国との貿易が許されている長崎だけだと思われる。

 

「私聞いたことあるよー、確か父が言ってた話だと、

 西洋人が好んで食べてるもので、小麦から出来てるんだって」

 

「へー、生姫様けっこう詳しいね」

 

「えへへ、私もいつか食べてみたいと思ってたからねー」

 

褒められた生姫は得意満面に胸をはった。

つまりは食い意地が知識に繋がっていただけなのだが。

 

「私は小さい頃にパンの話を聞いたことがあるんです。

 まだ物心ついたばっかりの頃だったから、両親が話してたそれが何なのかもわかってなかったんですけど。

 でも、そのせいかわからないけど、大人になってからどうしてもパンが食べたくなって・・・」

 

「へー、ちっちゃい頃にそんな話聞いたことあるなんて、

 あんたけっこういい育ちしてるよね、ずっと長崎に住んでたとか?」

 

「・・・いえ、ずっと江戸にいました」

 

「ふーん、まあうちの故郷ではパンなんて聞いたことなかったけどね」

 

「まあ、田舎の方にはそういうのないよねー」

 

「あー、今さらっとバカにしたべ!」

 

生姫がさらっとバカにしたことで飛駒ちゃんに火がつき、

感情的になってあれこれと争い始めた。

その様子を見ていた女の子は、大きなため息をついた。

 

「あっ、お邪魔してすいませんでした。

 この話は聞かなかったことにしてください」

 

「えっ、どこ行くの?」

 

「また一人でパンを探しに行きます」

 

「えー、一緒に探そうよ!」

 

生姫は笑みを浮かべてそんな事を言った。

さっきまで怒っていた飛駒は驚いた表情になった。

 

「だってうちらもパン食べてみたいじゃん」

 

「そりゃそうだけど、あんた今日の夜にお城に戻らなきゃいけないのに!」

 

「えっ、お城に住んでるんですか?」

 

「あっ、いや、えっと」

 

「うん、そうだよー、私お城に住んでるお姫様なのー」

 

その話を聞いた女の子はびっくりして手で口を塞いだ。

飛駒がうっかり口を滑らせたのがいけないのだが、

何も憚る事なく自分の立場を知らない人に告げてしまう姫も姫だった。

 

「えー、すごい」

 

「いえいえ、ところであなたの名前は?」

 

生姫はさらっと尋ねたのだが、彼女は俯いてしまって答えなかった。

 

「・・・ごめんなさい、言えないんです」

 

「何か深い事情があるって事?」

 

「いえ、そんなんでもないんですけど・・・」

 

女の子が困っていると、そこは男前な飛駒が間を取り持った。

 

「別にいいよ、それじゃ、城下町の南の方で知り合ったから、

 とりあえずうちらは『みなみちゃん』って呼ぶことにしようよ」

 

「あー、それいいね、可愛いじゃん」

 

飛駒と生姫はその名前をえらく気に入ったようで、

二人でやんややんやと楽しそうに騒ぎ始めた。

 

「それじゃあ、おいしいパンを探しに行きましょう!」

 

「あー、生姫様、全然お城に戻る気ないしー!」

 

「・・・ありがとうございます、私一人でどうしたらいいかわからなかったから♡」

 

そうして三人はパンを探す旅に出ることになった。

どこを探せばいいのか、何の手がかりもないままに。

 

 

・・・

 

うしてパンを探すことに決めた三人であったが、

勢いだけで決めてしまった為に、どうやって探すかという方法は考えていなかった。

生姫は飛駒がなんとかしてくれると思っていたし、飛駒は生姫が言い出しっぺだから責任を取るべきだと思っていた。

みなみちゃんは一人では探す当てもないパンを探してくれるという二人を頼ろうと思っていたので、

こんな状態ではどうやってもパンが見つかるはずはなかった。

 

「だってあんたがパン探すって言ったんでしょーが!?」

 

「そんなの私一人じゃわかんないもーん」

 

「もう二人とも喧嘩はやめて!」

 

「だって私そもそも白米派だしー」

 

「だいたいパンを探すって言っても当てがなさすぎるんだよ、うちも流石にみなみちゃん何か知ってると思ってたし」

 

「えー、そんなこと言われても、みなみわかんなーい♡」

 

そんな調子で時間だけが過ぎて行く中、これでは埒が明かないと思ったので、

飛駒は一旦生姫にはお城に帰ってもらうことにした。

そして、みなみちゃんには江戸の街で宿に泊まってもらい、

その間に江戸班の情報網を頼ってパンに関する情報を探してもらうことに決めた。

 

 

江戸班の情報網を頼ったのは正解だった。

彼らは様々な人脈を当たってパンに関する情報をかき集めた。

本来、忍びとはこういう仕事をするために存在するのである。

 

 

江戸時代に、パン祖と呼ばれる人物がいる。

江川英龍という洋学に通じている男の関心は国防だった。

この時代、外国船が日本に現れることが政治上の極めて重要な問題であり、

それに対処するべく西洋式砲術の導入を提言していたのが江川英龍であった。

 

パンもまた西洋から入ってきた食べ物であり、

洋学に詳しい者がパンの製造法を知っていても何ら不思議ではなかった。

実際、彼は日本で初めてパンを焼いた男として知られていたが、

彼は幕臣の立場であり、そんなに簡単に面会が叶う人物ではなかった。

だが、江戸班の情報網によって、どうやら江戸にもパンの作り方を知っている者がいるとわかった。

長崎から伝わったパンの焼き方は、江川英龍のような一部の人々の間でだけ伝えられて、

こうして遠路はるばる江戸まで登って来ていたのだった。

 

「膝折坂が~ど~こにあるか~なんて~♫」

 

飛駒が聞いた情報によると、そのパンの焼き方を知っている人は、

どういうわけかこのあいだ長崎から江戸へやって来たという。

そして、膝折坂という坂の上に住んでいるということらしいので、

飛駒は生姫とみなみちゃんを誘って共に坂を登って歩いた。

膝折坂という不思議な名前を聞いたことがなかったので、

生姫は歩きながら上機嫌に歌っていたのである。

 

「生姫ちゃん、それ何の歌?」

 

彼女があまりにも上機嫌に歌っているので、飛駒が気になって尋ねた。

 

「えっ、今私が勝手に作った歌だよー」

 

「すごいね、即興でなんでも作れるの?」

 

「うん、だいたい作れるよー」

 

「じゃあさ、パンの歌も作ってみてよ」

 

「えー、いいよー、パ~ンどうしてあなたはパ~ンなの~♫」

 

「おおー、よくわかんないけどすごいね、みなみちゃん」

 

「えっ、ごめん、聞いてなかったー♡」

 

「・・・おい!」

 

もうすぐ念願のパンの焼き方が知れると思うと、

みなみちゃんは上機嫌でニコニコと笑っていた。

一方の生姫も上機嫌の時はとにかく歌っていた。

こんなまとまりのない三人ではあるが、どういうわけかわからないが、

並んで坂を登っている姿は清らかでとても美しかった。

共通点があるとすれば、三人とも心が純粋な美少女だという事だ。

 

やがて三人は膝折坂を登り終えると、そこに立っていた館の扉を叩いた。

 

「すみませーん、どなたかいませんかー?」

 

飛駒が大声で叫んでみたが、中から返事はなかった。

 

「あれー、誰もいないのかなー、すーみーまーせ~ん!」

 

生姫も自慢の透き通った声を張り上げてみたが、やはり反応はなかった。

 

「だめだこりゃ、お留守なのかもしんないね」

 

「なんでー、ちょっとみなみちゃんも呼んでみてよ」

 

「えっ、うん、おーい、どなたかいませんかー♡」

 

みなみちゃんの呼びかけた声は蚊のささやきくらい小さかったが、なぜか突然館の扉がガラッと開いた。

 

「・・・何か用ですか?」

 

そこに現れたのは、飛駒達と同じ歳くらいの女だった。

この女がパンの作り方を知っているというのだろうか?

 

「あっ、あのー、うちらここでパンの作り方を知ってる人がいるって聞いて来たんですけど」

 

「・・・それで?」

 

「それで、私たち美味しいパンが食べたいので、作り方を教えて欲しいんです」

 

「・・・えー、やだ」

 

その女はぶっきらぼうにそう答えた。

そのあまりの冷たさに驚いて、生姫は目を大きく開けた表情をしていた。

 

「そんな・・・みなみパンがどうしても食べたいんです・・・ダメですか♡」

 

「・・・仕方ないなー」

 

女の子はそういうと、三人を館の中へ招いた。

そんなことよりも、彼女の態度の変化に腑に落ちない二人。

 

「あのー、なんかさっきからみなみちゃんにだけ優しくないですか?

 私たちも同じようにお願いしてたときはあんなに冷たかったのに」

 

「・・・あたし、可愛い子が好きだからさー、そりゃ仕方ないよね」

 

「ちょっと、そりゃ差別だよ~!

 うちらだって可愛いって言われたいのに~!」

 

「だってさぁ、お願い仕方が全然違うじゃん」

 

「何が違うの?」

 

「語尾の♡」

 

そんな自分達の力ではどうしようもないことを要求されて、

飛駒と生姫の二人は世の理不尽さを思った。

そんなこと、自分達の努力で埋められるものなのか。

 

「いや、そんなこと言ったってさ、そりゃ作者がそれつけるかつけないかの問題でしょーが!

 うちらそんなのどんだけ頑張ったってどうにかなるもんでもないし」

 

「いやいや、そんなことないよ、語尾の♡はね、可愛いの天才にしかつけれないの。

 それかめちゃぶりっ子な場合かの二種類かな、後者はね、あたしは大嫌いだけど」

 

その女にはどうやらかなり独自の理論があるらしかった。

そんなところで言い争っていても仕方がないので、三人はとにかく中へ入った。

女の子の部屋は江戸時代にしては珍しいほど派手で、西洋趣味が見受けられた。

長崎では外国と貿易をしているので、そうした装飾品や家具なども手に入るのだろう。

 

三人が案内された奥の部屋には窯があり、それはおそらくパンを焼く窯だった。

今まで見たこともない設備を見た三人は興奮して騒いでいたのだが、

肝心のどうやってパンを作るのかについて尋ねなければならない。

 

「普段はね、この場所へは誰も連れてこないよ。

 あたし地元では長崎の魔法使いって呼ばれてるの。

 みんなの心に魔法をかけちゃうぞ、なんて言ってね。

 でも、みんなをびっくりさせるには、魔法のタネを明かさないことが大事なのよ」

 

人々は自分にとって原理がわからないものを魔法と呼んだりして尊がる。

外国人から教えてもらったパンを作る方法を使って、

秘密裏にパンを作り出して見せるのならば、人々はそれを魔法のように尊がるのかもしれない。

 

「でも今回は特別だよ、可愛い子を連れてきてくれたお礼みたいなもんかな」

 

そう言って女の子はみなみちゃんをジロジロと眺め始めた。

その様子は、彼女をどう料理するか考えている魔女みたいに思えた。

 

「とにかくさ、早くパンの作り方をうちらに教えてよ」

 

「えっ、物の頼み方知ってる?」

 

その女は尊大な口調でそう言った。

飛駒は唇を噛み締めたが、ものを教えて貰うのだから仕方ないと耐えた。

そして、膝を折って地面に手をついて頭を下げた、いわゆる土下座である。

 

「お願いします!

 哀れなうちらにパンの作り方を教えてください!」

 

飛駒はこれ以上ないくらいの美しい土下座をしたのだが、

その女は腕を組んで呆れた表情でそれを見つめていた。

 

「いや、違う違う、何もわかってないね」

 

「ここまでしてもダメなんですか!?」

 

「そんなんじゃないって、あたしはただ可愛い女の子が欲しいだけだから」

 

そう言ってその女はみなみちゃんの手をとってジロジロと眺め始めた。

これは危ない奴に捕まってしまったかと、それを見ていた生姫もゴクリと唾を飲み込んだ。

 

「この子をあたしに貸してくれたらパンの作り方を教えてあげてもいいよ」

 

「お代官様!

 それだけはどうかご勘弁を!」

 

飛駒は頭を下げ続けたが、彼女の興味はもうみなみちゃんに向いていた。

ジロジロと見ていたかと思うと、彼女は突然着物を持ってきて彼女の前で照らし合わせ始めた。

 

「あたしさー、可愛い女の子にいろんな格好をさせるの好きなんだー。

 だからさ、みなみちゃんをちょっとだけ実験台にさせてくれない?

 こういうの西洋ではモデルって言うんだけどね、まあそんなこと言ってもわかんないか」

 

その女は勝手にみなみちゃんの顎を持ち上げたりしながら品定めを始めていた。

何をされるのかわからない恐怖に、みなみちゃんは不安そうな顔をしている。

 

「・・・いいよ」

 

「みなみちゃん!」

 

「もともと、私がパンの作り方を知りたいって言い出したんだし・・・。

 それに、モデルって言うのもなんかちょっと面白そうだし」

 

みなみちゃんがそう言うと、その女はニヤリと笑みをこぼした。

可愛い子をさらに可愛くするには、どんな魔法をかけてやろうかとワクワクしているのだ。

 

「じゃあ、私は水でいいわ」

 

「えっ、どう言うことですか?」

 

その女が告げた言葉の意味がわからなくて、生姫は尋ね返した。

 

「パンを作るには綺麗な水が必要だってこと。

 別に何でも作れるんだけどさ、やっぱり綺麗な水で作ってみたいじゃない?

 噂ではなんか地底湖の水とかで作ると美味しいとかなんとか」

 

みなみちゃんを献上したにも関わらず、その女はまだ要求を続けてきた。

何か面白いことをするのが好きなのか、どうせやるなら良い素材を求める癖があるのだろう。

 

「地底湖・・・?」

 

「そう、地底湖、なんか狭い洞窟みたいなところを抜けていかなきゃいけないらしいけど」

 

その話を聞いて、みなみちゃんも生姫も一斉に飛駒を見つめた。

この指令はどう考えても彼女がするべきだと思ったらしい。

 

「えっ、うちが行くの?」

 

「だってそんなのお姫様がすることじゃないじゃん」

 

「生姫ちゃんずるいよ、そんな時だけお姫様持ち出して~!」

 

「じゃあみなみちゃんに行かせる?」

 

「え~、みなみ行きたくな~い♡」

 

「ほらね」

 

そんな会話の流れを作り出されて、飛駒は追い詰められてしまった。

危険な任務はいつも忍びに回ってくる、それが宿命か。

 

「ほらほら、シャキッとして頂戴よ、いつまでも土下座なんかしてないでさ」

 

その女は飛駒を挑発し続けた。

そこまで言われてしまっては、飛駒も黙っていられない。

 

「わかったよ、わかりましたよ!

 うちが行けばいいんでしょ!

 ああ、行きますよ、その代わり、地底湖の水を取ってきたら、

 パンの作り方を教えて、みなみちゃんを返すって約束してくれるんでしょーね!?」

 

「いいよー、地底湖の水があれば美味しいパンも焼けるんじゃないかなー?」

 

その女はもうみなみちゃんにどんな着物を着せようかに夢中で飛駒に一瞥も向けなかった。

飛駒は決意したようにシャキッと立ち上がり、その少年のような凛々しい顔つきを見せた。

 

「ごめんね飛駒ちゃん・・・私がいければよかったんだけど」

 

生姫が嘘泣きをするような口調でそう言った。

本当は行くつもりもさらさらなかったが。

 

「もともと行くつもりもないくせに、そんなこと言わないでよ!」

 

「あっ、ばれたー?」

 

無邪気な笑顔で生姫はそう言った。

こうして、飛駒は一人で地底湖を探すことになった。

 

 

・・・

 

 

「飛駒、わかったぜ」

 

女の館でみなみちゃんが色々と着せ替え人形にされているのを見ていた飛駒のところへ、

江戸班の仲間の一人、半蔵が身を隠すようにしてやって来た。

 

「美濃の国の洞窟の奥に、地底湖と呼ばれる場所があるらしい。

 そこにある洞窟を抜けて行くと、奥にはこの世の物とは思えないほどの美しい湖があるという」

 

半蔵は飛駒の横に立ちながら小声で話をした。

情報は他の誰かに漏れるとまずい。

特にそれが価値の高い情報であればあるほど。

 

「そうなんだ、わかった、ありがとう」

 

「だが、噂では一人前の忍びであっても迂闊には近づかん場所らしい。

 どうしても行くなら、複数人で行った方がいいかもしれんぞ。

 一人で行けば、迷ったら最後、出られなくなる者もいると聞く」

 

洞窟の奥は道がいくつもあり、狭くて暗い道であるために、

よほど精通している人物に同行を依頼するか、自分達が来た道がわかるように、

目印をつけながら進むなどをしなければ帰ってこれなくなる。

最短で進んでも三時間程度の時間はかかるというので、

もし迷ったりでもすれば、ほぼ丸一日は暗闇の中で過ごさなければならなくなる。

 

「いや、うちは一人で行くよ。

 みんなには迷惑をかけられないから。

 これは江戸班のみんなには関係ないことだし、

 うちにとっての修行でもあるからさ」

 

飛駒はそう返したが、半蔵は渋い顔をしていた。

 

「わかった、それにしても相変わらず一人で背負いこむやつだな。

 カッコばっかりつけるのはよして、少しは俺たちを頼ってくれてもいいのによ」

 

「別にそんなんじゃないよ」

 

「どうだか」

 

半蔵は少しだけ黙り込んだ後「案内人を手配しよう」と告げた。

そして、また何もなかったようにその場を静かに離れて行った。

 

飛駒は一人佇んで考え込んでいた。

当初、爺様から任されたのは生姫の相手をすることだった。

それが思わぬ方向へ物事が展開して行くことになった。

爺様は自分が地底湖へ行くことを止めないだろうか?

自分がいなくなったら、江戸班は頭領を失うことになる。

だが、こんな関係のないことに江戸班を巻き込むわけにもいかない。

葛藤が心を揺らす中、飛駒は決意したように顔を上げた。

 

「・・・みなみちゃん、うちは地底湖にい」

 

「髑髏の着物も可愛いけど~、でも今はもうちょっと大人な感じがいいかも♡」

 

「そっかー、もう髑髏時代は卒業しちゃったのかなー?

 若い時って髑髏が気になる時あるよねー。

 無性に大人に反抗したくなる時とかさー」

 

「そんなのないよ、もうみなみも大人だもん♡」

 

飛駒は目の前でいつの間にかキャピキャピとモデルを楽しんでいるみなみちゃんを見て、

二人の邪魔をしないように忍ぶようにして館を出て地底湖へ向かった。

 

 

・・・

 

 

案内役は吉兵衛という中年の男だった。

彼は地底湖へ続く洞窟について詳しいらしく、

半蔵が今回のために手配してくれた男だった。

 

飛駒は吉兵衛に連れられて地底湖の洞窟へ入った。

太陽の行き届かない暗闇は空気がひんやりと冷たくて肌に沁みた。

冷えるというのは本能的に人間に恐怖感を抱かせるような感覚がある。

恐怖を感じた時に背筋が凍るというのは、

冷気が恐怖と何らかの繋がりがあることを示しているのかもしれない。

 

そして、洞窟の中は視界が悪い。

光の欠片も届かないというのは不自然である。

人間の生活を通じて全く光がないという状況は少ない。

夜の暗闇には月明かりがあり、家屋の中には行燈の火が灯る。

光も射す気配がないほどの暗黒というのは余程恐ろしい。

吉兵衛は火打石を使って小さな提灯に火を入れる。

油が切れるなどふとした弾みで、飛駒達は足止めをくらい、

また火を起こすまで暗闇に拘束されることになる。

さらに洞窟内では聴覚も暇を持て余すことになる。

無音という状況はやはり人間にとって不自然であり、

そんな時に初めて音の温かさを知ることになる。

 

泥水で現れた岩の間を潜り抜けながら、

飛駒は吉兵衛の後を追いかけて暗闇を進んだ。

わずかな隙間は人が通り抜ける際にはひどく困難な通路になる。

おまけに足場も悪いとなるとなおさらだ。

岩肌には泥がついていて手で触ると滑りそうになる。

地下水が溜まっている箇所は底の深さが見えない。

日光が届かないために水温は極めて低く、

この場所にとっては春も夏もあまり大差がない。

泥は衣類に引っ付いて動くには負荷になる。

洞窟の構造は人間に都合よくできていることはなかった。

大自然にとって人間は何も特別な存在などではないのである。

 

どこをどう進んでいたのかわからなかったが、

飛駒はもう随分とこの中にいるような錯覚に陥った。

異質な空間では時間さえも普段と同じように流れる気がしない。

時間は空間よりも感覚との連動性の方が強い気がする。

人間が客観的に測ることができる時間などは幻のようなものである。

一体、誰がこの世界を客観的になど測れるのだろうか。

人間が真実を知るにはあまりに個体性にこだわりが強すぎるし、

悟りによってそれを脱するには人生はあまりにも短すぎる。

 

だが、今の飛駒にとっては永遠のような時間に思えた。

楽しいことは早く過ぎ去るくせに、どうして辛い事は長く感じるのか。

この感覚器官こそが人間をどこかへ縛り付けている元凶であり、

そうであるからこそ、人は幸福を目指したくなるのかもしれない。

なぜなら、この体感時間を真正面から受け止めてしまうと、

幸福を求める事は、蜃気楼に手を伸ばすようなものだからだ。

この永遠に続くような暗闇の中で飛駒は光を求めていた。

光のありがたみもまた、太陽の下では気づくことができない。

未来を求めて暗闇に飛び込んだはずだったのに、

光のない世界では目的すら見失いそうになる。

 

飛駒は知らないうちに足が止まっていたことに気づいた。

狭い通路を垂直に登らなければならないところで、

聞こえてくるのはただ己の呼吸の音だけになっていた。

一体自分がなぜここにいるのかもわからない。

苦しさだけが自分の全てに置き換えられて行く。

 

「何かやりたいことがあったんだよなー!?」

 

前方から足が止まってしまった飛駒を見た吉兵衛が叫んだ。

普段から必死に修行をしているつもりだった飛駒だが、

やはり自分はまだ半人前の忍者だったのだと思い知らされる。

そんな自分を嫌いになる事はしばしばあるのだが、

そんなことを今していても何も状況は変わらない。

吉兵衛の声に励まされて、飛駒はかろうじてここへ来た目的を思い出した。

 

「・・・パンを、美味しいパンを作らなきゃ」

 

「・・・パン?」

 

吉兵衛はよくわからない様子で呟いた。

飛駒が地底湖を目指す目的を彼は知らないのだった。

彼にとっては地底湖を目指すことそれ自体が楽しみである。

そこにある水を持って帰りたい飛駒の気持ちはわからない。

 

飛駒は身体中から力が湧いてくるのを感じた。

どういう仕組みかはわからないが、

人間には何かをしなければならないという意思がある。

無意味な世界には生きる価値もないのだ。

本当はからっぽの世界に何かを求めて生きているにせよ、

滑稽ではありながら確かな喜びもそこにある。

 

飛駒の足はまた動き始めた。

滑りやすい岩に足を取られながらも、

先ほど苦労した垂直に狭い通路を登りきった。

人が一人やっと通れるような隙間を潜り抜け、

泥水で底の見えない中で足場を探して進んだ。

やがて地下水が通路を狭めている箇所に差し掛かると、

飛駒の身体は無意識のうちに抵抗を始めた。

向こう側へ行くには泥水に顔をつけて岩を潜らねばならない。

だが、飛駒には幼少時に溺れてしまった記憶がある。

それが彼女の勇気と真っ向から抵抗して身体を萎縮させてしまう。

 

水をくぐり抜けようとしたところで過呼吸になりそうになった。

飛駒は身体が震えてこれ以上進めないと感じて後退した。

頭ではわかっていても、身体の記憶を無視するのは難しい。

過去の全てが今の自分を拘束して動けなくしてしまう。

心に背負って来たものが重荷になって前に進めない。

 

もし一人だったら逃げてしまったかもしれない。

人は何か理由がなければ心を支えることは難しい。

誰かと繋がる事は自らに責任という後ろ盾を得るようなものでもある。

賞賛される事、非難される事、それら全てが良くも悪くも人を前に駆り立てる。

決して美しい理由ばかりが支えてくれるのではないにせよ、

ある程度そうして自分を追い詰めることが前に進む為には必要な時もある。

 

飛駒は決意してもう一度狭い通路を進んだ。

顔に泥水を受けて汚れてしまいながらも、彼女は無事にその狭い隙間を抜けた。

吉兵衛も安堵したような表情で彼女がやってくるのを見守っていた。

そして二人はまだ続いている道のりを進み続けた。

やがて狭まっていた道が開けてくると、吉兵衛が照らす提灯の先に、

今までとは違う景色が広がっているのが飛駒には見えた。

宝石のような青を放つ地底湖の水がそこにはあった。

 

だが、飛駒が奇妙に思ったのは、そこに飛駒達よりも先に誰かがいたことだった。

吉兵衛が照らす提灯の先には、かすかに着物姿の女性が見えた。

女性は音も立てずにただじっと地底湖の水を眺めていて、

その場にしゃがみこんでその水をすくったかと思うと、

こちらを振り向いて飛駒の存在に気がついた。

次の瞬間、吉兵衛が何者かによって後ろから拘束され、

手に持っていた提灯が地面に落ちて光は揺らめいた。

飛駒が後ろを振り返ると、吉兵衛は二人組の男に手で口と身体を抑えられていた。

黒装束を身をまとっているその姿は飛駒からすればすぐに忍びだと言うことがわかった。

無意識のうちに飛駒は腰につけていたクナイを手に掴んで投げた。

ただ威嚇する目的で放ったものであり、黒装束の男達は怯んだ隙に吉兵衛を逃してしまった。

それを見た飛駒は短刀を鞘から抜いて瞬時に斬りかかった。

男達も刀を抜いてそれを咄嗟に防いだのだが、姿勢を崩してしまうと、

そのまま走り去って逃げるようにこの場からいなくなってしまった。

 

「大丈夫ですか!?」

 

飛駒は倒れていた吉兵衛に駆け寄った。

倒れた時に身体を打った程度で大事には至らなかったようだ。

彼の無事を確認した後、飛駒は思い出したように地底湖の方へ目を向けた。

そこにはもう先ほどの着物姿の女性は見当たらなかった。

 

 

・・・

 

 

「地底湖の水、持って来たよ!」

 

江戸に帰って来た飛駒は、またあの女の館を訪れていた。

地底湖で汲んできた水を疑い深そうな表情をする女に手渡す。

 

「これ本当に地底湖の水?

 その辺の池で汲んできた水じゃないよね?」

 

「なんで疑うのー!?

 飛駒ちゃんが汗水垂らしてちゃんと取ってきた水だよ!」

 

女はそれでも訝しそうに水を眺めていたが、

じっと眺めた後で、ようやく飛駒の主張を認めてくれたようだった。

 

「飛駒ちゃん、お帰り~♡」

 

奥の部屋から出てきたのはみなみちゃんだった。

彼女が着ていた着物には兎の模様があしらわれており、

質素が美とされた江戸時代の着物としては異端なほどに豪奢だった。

それにしても、その可愛らしい模様が彼女によく似合っていて、

その女の奇妙奇天烈な発想力を侮れない気がした。

可愛さに磨きがかかって、もはや可愛いの天才である。

 

「ああ、みなみちゃん!

 どうしたのその格好?」

 

「なんか色々と着せてもらったんだけど、

 あの人が言うにはこれが一番似合ってるんだって、飛駒ちゃんはどう思う~♡?」

 

その時、飛駒の後ろの扉が開いた。

そこに現れたのは、これまた豪華な羽織物を身に纏った生姫だった。

 

「生姫ちゃん、ど、どうしたのその格好?」

 

「だって私も可愛いって言われた~い!」

 

不満そうな表情を浮かべながら生姫はそう言った。

この妹気質のお姫様は、たいそう負けず嫌いなのであった。

 

両手に花の状態になった飛駒であったが、

二人とも立派な衣装を見に纏っているために動きづらい。

よって、パンを焼く作業ができるはずもなかったので、

最終的にはパンを焼く作業も飛駒が担うことになった。

華やかな二人は彼女の後ろで応援する役割を頑張るらしかった。

 

そして、その女もまた腰を下ろしたまま立ち上がろうとしなかった。

飛駒がどうすればいいのかわからずに立ち尽くしていると。

 

「今からあたしが言う通りに作れば大丈夫だから。

 誰が作ってもいい感じになると思うし」

 

面倒臭そうにそう告げると、女は大きなあくびを一つした。

手伝おうとする気はさらさらないらしかった。

気にしているのは自分の着物と髪の毛のことだけだった。

普段からよく作っているパン作りなど、もう飽きてしまったのだろうか。

 

そしてその女の指導の下、飛駒はパンを作り始めた。

小麦粉、地底湖の水、塩、麹などを混ぜ合わせてパン生地を作る。

その様子に好奇心旺盛な生姫が覗き込んで来る。

もうすぐ念願叶うみなみちゃんは嬉しそうに微笑んでいる。

 

「美味しくできるかな~♡」

 

みなみちゃんが待ちきれずにそう言うと、

生地をこねる飛駒も生姫も嬉しそうに笑った。

だが、その女だけは極めて冷静だった。

 

「あんまり高望みしないほうがいいよ。

 こういうのって味より見ための方が大事だったりするからさ」

 

先ほどまで嬉しそうに笑っていたみなみちゃんの表情が曇った。

生姫もこの人は何を言い出すのだろうという目で見つめている。

 

「結局さ、いくら美味しくても見た目が良くなかったら誰にも食べてもらえないし。

 味とかって中身なくても、綺麗に見えればみんな美味しいと思い込むもんだよ」

 

その女は畳に座ったままでぶっきらぼうにそんなことを言った。

そのせいで、誰もがなんて言っていいかわからない雰囲気に包まれてしまった。

そして、その女は紙と筆を持ってさらさらと何かを書き始めた。

 

「はい、できました」

 

その女はそう言って次の川柳を読み上げた。

 

目標を たてたところで 見ためだよ

 

 

その女が読み上げた五七五に込められた人生訓には、

言いようのない切なさと儚さが込められているように思えた。

だが、そんなことにも構わずに飛駒は生地をこね続ける。

 

「・・・何ですか、それ」

 

みなみちゃんが思わず尋ねてしまった。

もうすぐ美味しいパンができるというのに、

どうしてそんな悲しいことを言うのか理解ができなかったからだ。

 

「えっ、見た目だよ、って」

 

その女は冷めた様子でまたそう言った。

みなみちゃんは悲しそうな表情を浮かべていたが、

飛駒の生地をこねる力はどんどん強くなって行った。

 

そして。

 

「・・・ばっきゃろー!!」

 

飛駒はこねていたパン生地を掴んでいきなりその女に向かって投げつけた。

パン生地はその女の頬に思いっきりぶつかって跳ね飛んだ。

 

「ちょ、ちょっと飛駒ちゃん、やりすぎだって!」

 

常識知らずの変人である生姫でも、さすがにこの状況は止めにかかった。

それくらい飛駒の投げたパン生地の勢いは凄かったのだ。

 

「あんたねー!

 さっきから聞いてればなんか悲しいことばっかり言ってさー!

 せっかくみんなで美味しいパンを作ろうってのに、

 そんなんじゃ気分が台無しじゃんか!」

 

真っ白な小麦粉が手についていたせいで、

身振り手振りが大きいと、その分だけ粉が宙に舞う。

みなみちゃんも生姫も思わず身を引いてしまったが、

飛駒は構わずにその女の胸ぐらをその真っ白な手でつかんだ。

その女は先ほどのパン生地のせいで出た鼻血を拭きながら顔を伏せた。

 

「・・・大きなお世話よ、あんたに何がわかるって言うのよ」

 

「あーわかんないよ!わかるわけないよ!

 世の中そりゃ見た目が優れてればうまく行くことも多いだろうし!

 だけどね、そんな見た目ばっかりみんなで競い合ったって、

 こうして誰一人パンをこねようとしなくなるだけなんだよ!

 何だよこんな綺麗な着物ばっかり着て!」

 

飛駒はわざと真っ白な手でその女の着ていた着物を汚し始めた。

その女は大切な着物を汚そうとする飛駒を信じられない様子で見ていた。

そして、彼女の着物が汚れた後で、飛駒はその真っ白な手で、

自分の着ていた服まで汚し始めたのだった。

 

「うちはね、こんなに汚れたってなんてことないよ!

 だってさ、見た目なんか気にしてないんだから!

 誰かから可愛く見られたいって思ったって、 

 そう思ってるうちは可愛くなんてなれやしないんだよ!」

 

その女は真っ白に汚された着物を見ながら狼狽えていた。

今までこんなことを誰かに言われたこともなかったのだ。

 

「うちが言うのもなんだけどさ、可愛さって見た目だけじゃないよ。

 そりゃ、世の中見ためで得してる人なんて山ほどいると思うよ。

 だけど、本当の可愛さって言うのは、そんな見ためだけのことじゃなくて、

 誰かを喜ばせるために他人の為に一生懸命に何かをやってみたりとか、

 ときには損をするようなことでも進んで引き受けたりとかするときに、

 この子いい子だな、なんか愛おしいな、支えてあげたいなってなるんだよ。

 だから可愛く見られたいって考えて可愛く見せるように振る舞っているうちは、

 本当はそんなの全然可愛くもなんともないんだよ」

 

 

その女は呆然として何て返していいかわからなかった。

その場で誰も動かない時間がしばらく流れてから、

飛駒が思い立ったように紙と筆を取って来て何やらさらさらと書き上げた。

 

「はい、できましたー!」

 

そう言って飛駒は自分が書き上げた文字を読み上げた。

 

 

かわいいは きっと後から ついてくる

 

 

そう言ってから飛駒はその女に微笑みかけた。

 

「・・・ねぇねぇ、一緒にパン作ろーよー!」

 

飛駒は無邪気にそう言った。

その女は飛駒の目を見ているうちに吸い込まれそうになった。

あまりにも曇りのない瞳をしていたからだった。

もしかすると、彼女の周りには目に見えない磁力が発生していて、

知らず知らずみんなを巻き込んで行くような力があるのかもしれない。

 

「・・・うん、あたしも一緒に作らせてもらってもいいかな・・・?」

 

「・・・いいよ、作ろう作ろう!」

 

生姫もみなみちゃんも、綺麗な着物を着ていることなど忘れたように、

笑みをこぼしながら楽しそうにパン生地をこね始めた。

 

「あー、なんだかお腹すいちゃったなー。

 でも聞いて、今日ね、私ご飯抜いて来たんだー。

 美味しいパンをお腹いっぱい食べる為に」

 

一生懸命パン生地をこねながら生姫はそんなことを言った。

お腹は空いているが、表情はとても生き生きしていた。

未来への希望がこのパンにたくさん詰まっているからだろう。

それが彼女のドヤ顔に現れているように思えた。

 

「はい、まあこんな感じでいいかなー」

 

その女はパン生地の状態から判断してそう言った。

いよいよパン作成は次の段階へと進むのだ。

 

「あー疲れた、じゃあここから八時間寝かせたらいいのかなー♡」

 

「うん、そうだよ、そしたら次はいよいよ焼けるから」

 

「あー楽しみだねー、飛駒ちゃん頑張って地底湖行って来た甲斐があったよー」

 

三人はそんなことを言ってパン生地を寝かせてから外へ休憩に出かけた。

お腹をすかせた生姫は、衝撃のあまり一人で立ち尽くしていた。

 

「えー!!

 なんで誰も教えてくれなかったのー!

 今から八時間も何も食べないで待てるわけないじゃーん!

 みんなのバカバカバカー!!」

 

生姫は怒りながら拗ねた表情をしていたが、

一生懸命パン生地をこねた後だったので、

そんな表情もまた可愛さで溢れていた。

 

 

・・・

 

 

「設定温度が大事だからね」

 

八時間後、すっかり辺りが暗くなった頃、

その女はパンを焼く段階になってそんな忠告をした。

窯の温度は素人ではなかなかわかるものではなく、

玄人の彼女くらいになってようやくわかってくる。

 

その女は三人に見本を示すようにパンを窯に入れて行く。

三人もそれを真似るように、それぞれこねたパンを窯へ運ぶ。

 

「いいよ、そんな感じ。

 これでまず一回焼いてみて、それからまた二度焼きするから」

 

「えっ、二回も焼くの?」

 

それはさすがに知らなかった飛駒が尋ねた。

この江戸時代のパンの焼き方は二度焼きをする。

江川英龍もそうしてパンを焼いていたと言う話が残っている。

 

「うん、長崎であたしが教わったのはそんなやり方だよ」

 

飛駒は少し不安になりながらもその女の指示に従った。

素人の自分が考えるよりも、玄人の彼女の方が師匠である。

師匠の言うことは素直に聞くと言うのが彼女が忍びとして学んだことだ。

 

「ねー、もう無理ー!!」

 

結局、朝から絶食を貫いていた生姫が叫んだ。

彼女は負けず嫌いなので自分の信念を曲げることはない。

ジタバタしながら空腹と戦ってパンを待ちわびていた。

 

「いやいや、あんたが勝手に朝飯とか食って来ないからでしょ~が」

 

「だって美味しく食べたいじゃーん!」

 

「生姫ちゃん、もうちょっと待ってね、きっと美味しくできるから♡」

 

「ダメーもう死んじゃうー、お腹と背中がくっついちゃうー!

 ああパン、どうしてあなたはそんなにできるのに時間がかかるの?」

 

駄々をこね続けてバタバタ暴れている生姫に、

流石の飛駒も多少口調が悪くなった。

 

「うっせぇバーカ、おとなしく待ってろよ!」

 

「あーなんかみなみもお腹すいて来ちゃったー♡」

 

「ねえむーりー!はーやーくー食ーべーたーいー!」

 

「もう!あんた今年で何歳よ!

 ちょっとくらい待ちなさいよ、子供じゃないんだから!」

 

「何歳でもお腹すくのは一緒なのー!

 ねえまーだー!?」

 

生姫は空腹のためにさらに暴れ始め、飛駒の背中にもたれかかった。

飛駒は生姫をおんぶして赤ちゃんのようにあやしながらパンが焼けるのを待った。

生姫は苦痛の顔に悶えながら飛駒を羽交い締めにしたり首を締めたり顔を両手で撫でたりしている。

 

「あのー」

 

「はい?」

 

その女はパンを焼きながら呼びかけた。

何か異変でも怒ったのだろうか。

 

「つーか、まじうっさいんですけど」

 

「すみません」

 

 

・・・

 

 

二度目の焼き加減には気をつけろとその女は言った。

退屈だから眠ってしまいそうになるのだが、

薄目を開けて見極めなければならないらしい。

 

生姫はすでに退屈すぎてうつらうつらとしており、

飛駒も彼女のお守りに疲れ果てた顔をしていた。

みなみちゃんは念願のパンが窯から出てくるのを期待して待ちながら、

一人だけこの時間に頑張って耐えていた。

 

「そろそろかな」

 

その女がそう言った瞬間、三人は一気に目が覚めた。

目が覚めたのは彼女たちではなく、彼女達の中の食欲かもしれなかったが。

 

その女は窯の中を覗いてパンが十分に焼けていることを確認すると、

慎重にそのパンを窯の中から取り出す作業を始めた。

待ちきれない三人はその様子を覗きながら興奮していると、

窯に入れる前のパン生地とは明らかに違う色に変化していた。

そして窯の中から焼きたてのパンのいい匂いを察知すると、

三人は急に笑顔になってはしゃぎ始めた。

生姫などはわけがわからないハイテンションで両手を頬に置いて左右に揺れたりしていた。

 

その女は自慢げな表情でパンを取り出すと、お膳の上にとりわけ始めた。

洋食であるパンには和式であるお膳は不似合いではあったが、

江戸様式に合わせて提供しなければならないのだから仕方ない。

焼きあがったパンは一人一つずつ取り分けられ提供された。

 

「あー、美味しそうー!」

 

「へーこれがパンなんだー!

 

「やったー、やっとできた♡」

 

三人はずっと求めていたパンが完成した喜びに満たされた。

まだ誰もパンと言うものを見たことがなかったので、

薄茶色でまるで煎餅のような形をした目の前の食べ物こそが、

西洋人の主食であるパンなのだと知れた喜びが大きかった。

 

「やばい、うち感動して来たよ。

 こういうのに弱いんだよね、努力して完成した喜びが半端ない」

 

飛駒の意見に二人も異論がない。

その女も三人が喜んでいるのを見て満足げだった。

こうして一緒にパンを作ってよかったと思えた。

 

「じゃあ、いただきますか」

 

飛駒がそう言ったので、二人も頷く。

 

「いただきまーす!」

 

三人はそれぞれお膳に乗っていたパンを手にとってかぶりついた。

そして、その初めての食感に驚きを隠せなかった。

 

「・・・か、硬い」

 

「噛みきれない・・・♡」

 

「顎が外れそう・・・」

 

江戸時代に考案されたパンは現代人が思っているよりも何倍も硬かった。

それは何よりも保存性を意識して作られたこともあり、二度焼きによって水分が限界まで飛ばされているからだった。

 

「なんか口がぱさぱさするね・・・あれっ、うちの取って来た地底湖の水はどこに入ってるの・・・」

 

「西洋人は毎日こんなの食べてるなんて、顎がすごい発達してるんじゃないのかな・・・」

 

「えー、何、パンってこんなもんだったの?」

 

みなみちゃんはずっと憧れて来たパンに対するイメージが崩壊する音を聞いた。

両親があれほど熱心に話をしていたパンとは一体なんだったのか。

それとも、人々が抱く幻想というのは、手に入れた瞬間に姿を消すのだろうか。

どうであれ、みなみちゃんには一つの言葉が頭に浮かんでいた。

 

「えー、美味しくなーい♡」

 

他の二人も当然思ってはいたが口に出さなかったセリフを、

彼女はあっさりと口にしてしまった。

そして、誰にも食べられようとしなくなったパン達がそこに寂しげに残された。

 

「いや、だってパンってこういうもんだよ。

 三人がどんな想像をしてたか知らないけど、長崎で教えてもらったのはこうだし、

 西洋人だって硬いってわかってるけど、ちゃんと食べてるし。

 だってそれは・・・」

 

その女がパンについて誤解を解こうと話をしていた時、

何者かが館の入り口の扉が開く音がした。

すぐさま男達が館に勝手に上がり込んで来て叫んだ。

 

「星姫様!ご無事でしたか!」

 

「えっ、あなた達、どうしてここに?」

 

男達はみなみちゃんの前に跪いた。

飛駒達には一体何がどういうことかよくわからない。

そして男達はパンを見つけると、目を輝かせて喜んでいた。

 

「星姫様、やりましたな」

 

「これでお父上もお喜びになりますぞ!」

 

男達は非常に興奮しながらみなみちゃんにそう告げた。

これにはみなみちゃんもどういうことかよくわからない。

 

「えっ、どうしてお父さんが?」

 

「何を言っておられますか、パンは我らの兵糧になるではありませんか。

 これで十分に戦に備えることができると言うものです」

 

その説明を聞いてもみなみちゃんはよくわからない。

自分はただパンが食べたかっただけなのだが。

 

「さっき言いかけたけど、パンは戦さの時の食料として注目されてるんだよ。

 お米と違って日持ちするし、だから偉い人達はみんなパンの作り方を知りたがるの。

 あたしてっきり三人ともそんなの知ってて頼んで来てるんだと思ってた」

 

三人ともそんなことはまるっきり知らなかった。

それよりも、飛駒と生姫はみなみちゃんが「星姫」と呼ばれたことに驚いていた。

素性を隠していたけれど、どうやらどこかのお姫様だったのか。

 

「それにしても、お主ら何者だ?」

 

「星姫をたぶらかしてこんなところへ連れて来よって!」

 

男達は腰に差していた刀に手をかけながらそう告げた。

飛駒もつい癖で刀に手を伸ばしてしまったが、

みなみちゃんこと星姫が間に入って両手を広げて立ちふさがった。

 

「違うの、これは私が勝手にやったことなの!」

 

「みなみちゃん、一体どう言うことなの?」

 

飛駒は彼女が素性を隠してこんなことをしていた意味がわからず尋ねたが、

それが男達を刺激してしまうことに繋がってしまう。

 

「星姫様をそのような名前で呼ぶとは無礼者!」

 

「貴様、忍びの者だな?

 道理で胡散臭いなりをしているわけだ」

 

飛駒はどうでもいい理由で罵倒されたが、そんなことにはもう慣れていた。

忍びはどこに行っても忌み嫌われる存在で、よく知らない人から理由もなく嫌われることは多かったからだ。

 

「うちなんかよりも、そんな言い方をするあんたらの方が失礼だと思うけどね」

 

「何を、ほざけ!!」

 

男が斬りかかろうとしていた時、またその場に誰かがやって来た。

新たにやって来た男達は、生姫を見つけるとすぐに駆け寄って来た。

 

「生姫様、どこへ行ったかと心配しましたぞ!」

 

「あっ、見つかっちゃった?」

 

生姫はあっけらかんとして舌を出して笑っていた。

毎日のように勝手にお城を抜け出していたので、ついにバレてしまったらしい。

 

「さあ、こんな汚いところにいてはいけません、帰りましょう!」

 

「えー、もうちょっと遊びたいのにー」

 

「いけません、姫様はお城にいてくださらないと困ります。

 ご自身の身分をわきまえてくださらんと。

 お城にいることが姫様の役割なのですから、さあ」

 

男達は生姫の手を無理やり引っ張って連れて行こうとした。

生姫は抵抗を繰り返したが、男達は力づくで引っ張り続ける。

彼らは姫を連れて帰らないと殿様から叱られてしまうのだが、

こうして彼らはまだ若い姫の好奇心をどんどんと奪い続けていく。

 

だが、それを見ていた飛駒は彼らの手を振り払った。

 

「貴様、一体何をする!?」

 

「お姫様だからって、一人で街を出歩くのはいけないことですか?」

 

飛駒がそう告げると、男達は反射的に刀に手をかけた。

 

「貴様、雇われた忍びの分際で!」

 

「人間誰でも外の景色が見たいとか、そう言う気持ちになることだってあるでしょう!」

 

「貴様に何がわかる、姫様はまだ子供だ、子供は大人の言うことを聞くもんだ」

 

そう言って男達はまた生姫の手を掴んで引っ張った。

生姫はそれに抵抗する素振りを見せていた。

 

「そんな、誰かの言うことを黙って聞いているなんて、そんなの人形のすることじゃないか!」

 

「だからって勝手なことをされては困るんだよ、いいから手を煩わせるな」

 

男達は生姫を引っ張りながらも、道を開けさせるために飛駒の肩を突いた。

押された勢いで飛駒は少しだけ後ろに動かされたが、すぐに姿勢を立て直した。

 

「そんなつまらないことで・・・彼女がただ若いってだけで自由が許されないのだとしたら・・・」

 

男達のせいで彼女の心に火が灯ってしまった。

彼女の中で燃え上がる火を止めることは極めて難しい。

飛駒派思わず刀に手をかけて構えた。

 

「大人に邪魔はさせない!」

 

飛駒が刀を抜いて飛びかかると、男達は体勢を崩しながらもそれを受け止めた。

別の男が斬りかかって来たのを、飛駒は軽々とした身のこなしで躱した。

 

その間、飛駒は隙を見て生姫と星姫の手を取って館を飛び出した。

そうして坂道を共に駆け下りて行ったのだが、そこにはまた予期せぬ事態が待ち受けていた。

 

「そこまでだ、貴様ら神妙にせい!」

 

三人の行く手を阻むようにして現れたのは、飛駒が地底湖で見かけた黒装束の男達だった。

飛駒は地底湖から戻った後、館にやって来る前に江戸班の仲間達に彼らの調査を依頼した。

江戸班によると、どうやら地底湖で見かけたのは幕府方が雇った忍びの者ではないかと噂されていた。

 

「貴様ら幕臣が囲っている兵糧の秘密を探ってどうするつもりだ?」

 

「・・・うちら、あんたらが何のこと言ってんのかわかんないけど」

 

「とぼけるな、パンの作り方を探し回っていたくせに」

 

そんな話をしていると、館の方から先ほどの男達が走って追いついて来た。

そして、幕府方の忍びに道を塞がれているのを見かけると瞬時に抜刀した。

 

「貴様ら、姫様に何をするつもりだー!」

 

「貴様らこそ、姫を使ってパンの秘密を探ろうとはな」

 

 

この時代、パンとは庶民が食べるようなものではなかった。

それは鎖国という閉ざされた文化の中に流入して来た海外からの新技術に等しい。

 

江川英龍がパン祖として知られているのは、幕臣である彼が外国船を打ち払うために大砲を揃えていたのと同じように、

戦になった場合の食料としてのパンの可能性を探っていたというのがもっぱらの理由だった。

彼は別に美味しいパンを作ろうと思ったわけではなく、戦争が長期戦になったとしても、

米よりも日持ちするパンの方が合理的な食料だと考えたのだった。

だから水分を極限まで飛ばしたような硬いパンを作ったのだ。

 

権力者はいつの世も利益を独り占めしたいものであり、

鎖国という閉鎖的な状況を作りながら、各地を搾取する構造を徳川家は作り上げた。

長崎を通じて海外から入って来る外国の情報は誰のものでもないのだが、

その中には徳川家を転覆させようとする新しい技術が流入して来てもおかしくはない。

ましてや、幕臣が目をつけた戦のための食料に関することを知ろうとするのは、

徳川家に反乱を企てる者だと見なされる危険性は否定できないだろう。

君子危うきに近寄らずであり、事情を知っているものはパンになど容易に手を出さない。

星姫の父親は戦の新しい食料になるという観点からパンの話をしていただけで、

娘がまさかそれに興味を持つとは思わなかったのだろう。

 

飛駒達を挟んで、二つの勢力が争いを始めかねない睨み合いになっていた。

 

「私のパンのことで争うのはもうやめて!」

 

星姫はやけになってそう叫ぶと、どさくさに紛れて持って来たパンを忍び達に投げつけた。

そのパンは忍び達に当たったり、当たらずに道に転がったりした。

 

「星姫様!

 パンを投げちゃダメだよ、あれは食べ物だよ!」

 

「だって、武器がパンしかないんだもん・・・」

 

星姫は悲しそうな表情を浮かべてそう言った。

何か他の手段を用いてこの争いを止められるのであれば良かったが、

何もできない以上、手に持っていたパンを使って戦うしかない。

 

「・・・私、武器がパンしかない」

 

星姫は突然、自分の無力さに涙をこぼした。

自分にもっと力があれば、こんなことにならなかったはずなのに。

 

「大丈夫、武器なんていくらでも手に入るよ。

 ないなら別のものを探せばいいだけじゃない」

 

「・・・うん、そうだね」

 

「そうだよ、他にも美味しい食べ物いっぱいあるよ~」

 

生姫は泣いていた星姫の肩を抱きながら慰め始めた。

そんな二人を狙うように、幕府方の忍びは容赦なく襲いかかって来た。

飛駒は二人を守るようにして刀で相手を弾き返していた。

やがて姫様達の護衛達もこの争いに加わっていき、

もうどうにも収拾がつかなくなってしまった。

 

「西洋にはスパゲッティって食べ物もあってね、江戸では食べない牛肉とかも食べるらしいよ。

 長崎に伝わってきたカステラってお菓子も甘くて美味しいんだって。

 ほらほら、武器になりそうなものいっぱいあったじゃん!?」

 

「・・・うん、でもそれ全部武器にしてたら、めっちゃ太っちゃうじゃん」

 

「大丈夫だよ、ほら、一時期太ってても、ちゃんと痩せたらみんなそんなことすぐ忘れるから」

 

「ねぇ~~~~!ひどくない!?

 遠回しに昔はデブだったって言うのやめて~!!」

 

生姫は少しばかり冗談を言ったつもりだった。

別に多少太ってても可愛いのだし大丈夫と思っていたのだが、

どうやら星姫様は怒ってしまったようだった。

飛駒もつい二人のやりとりを見てしまったが、

だが、怒っていても可愛いので、そんな彼女もまた魅力的だった。 

 

「飛駒ちゃん、危ない!」

 

飛駒が姫達の方へよそ見をしていた時、

幕府方の忍びが斬りかかって来るのを避けられなかった。

生姫の声でようやく相手の動きに気づいたのだが、

このまま斬られて万事休すかと思われたその時、

黒い影が飛駒の目の前に現れて彼女を守った。

 

「・・・飛駒ちゃん、大丈夫?」

 

「・・・えっ、えっ、えっ、あ、あ、秋羅様ーー!!」

 

黒装束に身を包んだ秋羅様は、相手の刀を受けた姿勢から蹴りを入れた。

相手は後ろに吹き飛んで転んでしまった。

 

「き、貴様、徳川家に忠誠を誓ったのではなかったのか!?」

 

「残念だが、俺は誰にも仕える気はない。

 金をもらえれば仕事をする、ただそれだけなんでな」

 

秋羅(アキラ)様はそれだけ言って飛駒の方を振り向いた。

それすなわち敵に背を向ける格好になったのだが、一向に気にしていなかった。

 

「あ、秋羅様、どうしてここに?」

 

「爺様から色々と話を聞いたよ。

 どうやら飛駒ちゃんが危ない事に巻き込まれそうだから助けてやってくれって」

 

「でも、秋羅様は抜け忍になったって聞いたのに・・・」

 

秋羅様は飛駒が忍びの里で忍者になるきっかけになった人だった。

女性でありながら男性に引けを取らない実力の持ち主だった彼女は、

子供の頃から飛駒の理想の人であり尊敬する忍びの一人だった。

だが、飛駒がまだ小さかった頃に抜け忍となって里からいなくなって以来、

どこで何をしているのか飛駒は全く知らなかった。

 

「ああ、俺はただ自由に生きていたいからね。

 誰かに縛られたりするのは、俺の性に合わないからな」

 

「でも抜け忍になったら処罰されるって聞いた事あったけど・・・」

 

忍者組織を抜けることは即ち情報漏洩を意味するのであり、

組織を抜け出したものは殺されるのが忍びの掟であった。

だから飛駒にとっては、秋羅様はもし生きていたとしても、

二度と里には戻れず、追われる身になったのだと思っていた。

 

「爺様はそんなに小さい人じゃないよ。

 あの人は俺が自由に生きたいって選択肢を認めてくれたんだ」

 

秋羅様は忍びの里を抜け出して以来、どこにも所属せずに自由に生きていた。

時には幕府に雇われて仕事をしたり、時にはまた場所を変えて別の人の依頼を聞いたり、

何かにずっと所属して生きるという習俗を抜け出して暮らしていた。

 

「何が自由だ・・・秋羅、貴様のような輩のことを不忠者と呼ぶのだ!」

 

幕府方の忍びがそう吐き捨てた。

忍者としての倫理観では確かにそうだった。

一般的な感覚では理解できなくても無理はなかった。

 

「秋羅様って言ってください~!

 私の憧れの人なんだから~!」

 

飛駒は相手を睨みつけながらそんな事を言った。

秋羅様はそれを聞いて苦笑いを浮かべていた。

 

「あんな飛駒ちゃんの顔、見た事ないんだけど」

 

「ねー、なんか、いつもと違う感じがする~♡」

 

姫達がそんな事を言ったが、飛駒は照れ臭そうにモジモジしていた。

こうして普段なら見せない女の子の顔を露わにしてしまったのだった。

 

「それより飛駒ちゃん、君は早くみんなの元へ行ったほうがいい」

 

「どういう意味ですか?」

 

秋羅様は一瞬ためらいの間を置いてから話を続けた。

 

「飛駒ちゃん、気を確かにして聞くんだ。

 半蔵がやられた。

 おそらくこいつらの仲間に」

 

秋羅様は幕府方の忍びを睨みつけながらそう告げた。

飛駒は予想もしなかった話の展開に耳を疑った。

 

「こいつらの事を嗅ぎ回っていたのがバレたんだろうな。

 それで逆に江戸班の事を嗅ぎ回られるようになった。

 だから君の館を尋ねた半蔵が何者かにやられたんだよ」

 

「そ、そんな!!

 半蔵は、半蔵は無事なんですか!?」

 

飛駒は取り乱しながら秋羅様に尋ねた。

仲間がやられたのは自分のせいだと責任を感じていたからだった。

 

「大丈夫、命に別状はないよ。

 今、モミジがそばに付いてくれてる。

 まだ君の館にいるはずだ」

 

秋羅様はそう言って飛駒ちゃんの頭を撫でた。

そして一人立ち上がって敵の方を睨みつけた。

 

「さあお前ら、こんなところで事を構えるのは勝手だが、

 江戸三百年の泰平を乱すなんて事を一体誰が望んでいるのかな?」

 

秋羅様がそう恫喝すると、男達は皆怖気付いた。

幕府方の忍び達も、姫様の護衛の者たちも、

勝手に争いの火種になっては国を巻き込んだ戦になる可能性があった。

どうせお偉方同士の政治によって揉み消されるのだろうが、

そうなれば処罰されるのは自分達であって事を起こすのは得策ではない。

 

「生姫様、ここは早く帰りましょう。

 我々には徳川家と争う気など毛頭ないのですから」

 

「星姫様、我々も徳川家と争っても得はありませぬ。

 パンのことはもう忘れて、一刻も早くお国に帰りましょう」

 

冷静になった姫の護衛達は、賢明な判断を下した。

事を荒立てるのは得策ではないのでいち早く矛を収める事に決めた。

 

「飛駒ちゃん、仲間の元へ行ってあげてくれ。

 なんだか嫌な胸騒ぎがするんだ。

 どうも奇妙なことが起きているような・・・」

 

秋羅様が飛駒にそう告げると、

生姫も星姫も無言のまま頷いた。

飛駒は神妙な面持ちでしばらく考えていたが、

やがて顔を上げて立ち上がった。

そして秋羅様に礼をして二人の方を見つめた。

 

「・・・二人に会えて楽しかったよ。

 もし機会があったら、また一緒に遊ぼうね」

 

飛駒はそれだけ言い残すと、館の方へと走って行った。

幕府方の忍び達が追いかけようとしたところを、

秋羅様が回り込んでその道を塞いだ。

 

「どうしてもやろうってんなら、容赦はしないぜ」

 

秋羅様は腰を落とした居合抜きの構えをして刀に手をかけた。

先ほどまであんなに優しかった目が狼のように鋭く光った。

 

「命が惜しくなかったら、かかってこい!」

 

 

・・・

 

 

飛駒が自分の住んでいた館に戻った時、

その様子から何者かに襲撃された様子が見て取れた。

扉は強引に破られており、所々破壊されたような跡があった。

 

飛駒が中に入ってみると、そこにはモミジの姿が見えた。

一人で横になっている半蔵に寄り添いながら涙を流していた。

 

「・・・飛駒ちゃん!」

 

モミジは飛駒が帰ってきたことに気がつくと、

駆け寄ってきて彼女の胸に飛び込んだ。

飛駒は彼女の肩を抱きながら呆然としていた。

目の前で横になっていた半蔵は深い傷を負っていたからだった。

 

「半蔵は、半蔵は無事なの!?」

 

「うん、大丈夫。

 でも、私、半蔵をこんな姿にした奴を許せない・・・」

 

モミジは震えながら泣き続けた。

飛駒は彼女の頭を撫でてから半蔵の元へ駆けつけた。

 

「・・・半蔵、生きてるか?」

 

「・・・飛駒か、遅えよ」

 

半蔵は身体中に包帯を巻き付けられていて、

片目しか見えない状態であったが、何とか呼びかけには答えた。

 

「・・・ごめん、うちのせいで」

 

「・・・バーカ、俺の力不足だよ」

 

半蔵は蚊の鳴くような声で微かに笑った。

飛駒は彼の姿を見ているうちに、不意に気づいたら泣いていた。

 

「半蔵!

 全部うちのせいだ、江戸班の頭領なのに仲間も守れないなんて!」

 

「・・・うるせぇな、傷が痛むから静かにしてくれよ」

 

半蔵がそう言うと、飛駒は手で涙をぬぐいながら黙った。

だが、涙がとめどなく溢れでてやりきれない気持ちになる。

 

「・・・いいか、お前が全部を背負ってるわけじゃねーんだよ。

 なんでも自分一人で抱えこみやがって、カッコつけんじゃねー。

 お前はわかってないかもしんねーが、お前のことはすでにみんなのことなんだよ。

 だからみんなのことは、それもまたお前のことなんだよ。

 江戸班を舐めんじゃねーぞ、って今の俺が言えたことじゃねーけど」

 

半蔵は傷が痛むのか、少し苦しそうな表情をした。

飛駒は何もできずにそばにいる自分が苦しかった。

 

「・・・半蔵をこんな目に合わせたやつは誰だ!?」

 

飛駒は堪らず声をあげた。

自分が館にいれば、襲われたのは自分だったかもしれない。

半蔵は自分の身代わりになったのだと飛駒は思っていた。

 

「・・・わからない、幕府が絡んでることは間違いないと思うんだが」

 

「わからないって、敵の姿も見てないってこと?」

 

「いや、見たよ、だが、信じられるかわからないが、

 そいつは飛駒、お前とそっくりのやつだったんだよ・・・」

 

飛駒はゴクリと唾を飲んだ。

自分とそっくりのやつとは一体誰なのか。

 

「俺がお前を尋ねてこの館までやって来た時、

 もうここは何者かに荒らされた後だったんだ。

 それで俺は心配になって中を覗いて見た。

 そしたら、部屋の中にお前が座っていたように見えた」

 

この館を襲ったのは、多分幕府方の忍びだと飛駒は推測した。

それはおそらく間違いっていないと思っていた。

 

「・・・俺はお前がいたんだと思って中に入ったんだ。

 だが、俺がお前だと思ったそいつは、見た目はそっくりなんだが、

 どうもしっくりこなかった、表情に感情がほとんどないんだ。

 それで俺はおかしいと思った、そいつはお前ではないと悟ったんだ。

 案の定、そいつは俺を見ると襲いかかって来やがった。

 しかし、驚いたのは、そいつの動き方は全くお前そっくりだったんだ」

 

飛駒は半蔵の言うことを理解するのに時間がかかった。

半蔵を襲ったやつは何者なのか、目的はなんだったのか。

自分にそっくりだと言うのは、どうにも影武者を想起させる。

そうだとすれば、飛駒の立場を乗っ取ることが目的なのだろうか。

 

「だが酷なことを言うが、そいつはお前より強かった。

 お前にそっくりな奴であれば、ひょっとすれば水が弱点かもしれないと思った俺は、

 そいつに水を浴びせたんだ、だが全く効果はなかった。

 そりゃそうだな、そっくりだとしても、全くの赤の他人なわけだからな」

 

そこまで喋ってから半蔵は咳き込んだ。

あまり無茶をさせるわけにもいかないと思った飛駒は、

半蔵の手を取って両手で握りしめた。

 

「もうあまり喋らないで。

 半蔵の仇はうちが討つから!」

 

「・・・爺様が危ない」

 

半蔵は絞り出すような声でそう言った。

どう言う意味かわからなかったが、聞き返すとまた無理に喋らせてしまう。

 

「じっちゃんが・・・?

 でもじっちゃんは江戸にいないはずじゃ?」

 

「・・・飛駒ちゃん、爺様はいつも江戸にいるわ」

 

突然、モミジが後ろから口を挟んだ。

 

「えっ、どう言うこと?」

 

「爺様は飛駒ちゃんには黙っててって言われてたんだけど、

 昔からずっと江戸に住んでいて、私達のことを見守ってくれてたのよ」

 

色んなことが急展開して、飛駒は目が回りそうになった。

今まで信じて来た事実が覆る時、人は新しい現実に慣れるのに時間を要する。

 

「そんなこと、なんでそんなことを?」

 

「見守っていても助けない、辛いことは自ら乗り越えさせる。

 それが爺様の私達への優しさだから・・・」

 

モミジは両手を胸に当てながらそう言った。

江戸に来てからの数年間、爺様はずっとそばにいたのだ。

 

「・・・爺様は奴を追っていった。

 俺の仇を取るって言ってな、いまのお前と同じように・・・」

 

半蔵はまた苦しそうに息をし始めた。

モミジが駆け寄って容体を確認した。

飛駒は考えていた、爺様が追いかけて行ったのなら、

自分が出る幕などないのだろうと。

きっと半蔵の仇を取ってくれるだろうと。

 

「・・・行ってやってくれ飛駒、爺様じゃ奴は斬れない」

 

「・・・どうして?」

 

「お前にそっくりな奴を斬り捨てられるほど、爺様は非情じゃない・・・」

 

飛駒は爺様がかつて言った言葉を思い出していた。

相手と戦うときに弱点を責めるのは当然の行為だと。

そうであれば、自分と似た格好をしている敵を送り込むのは、

爺様にとっては最もやりにくい戦いになるかもしれない。

 

「じっちゃんはどこ?」

 

飛駒は決意を固めてそう聞いた。

爺様を助けに行かなければならない。

 

「江戸城、北の丸の方角へ行ったみたい。

 さっき斥候に出た者の話だとね」

 

モミジがそう言うと、飛駒はもう館を飛び出していた。

あたりはすっかり暗くなっていて、外はもう誰も歩いてなどいなかった。

月のない夜は、薄暗くて闇がいつもより深かった。

 

 

・・・

 

 

飛駒は館を飛び出して江戸城の方向へ向かった。

江戸城にはいくつかの門があるが、北の丸とは文字通り北口であった。

 

城の周りには堀が巡らされているため、水が苦手な飛駒には突破するのが難しい。

そして、割とすぐに頭に血が登ってしまう飛駒みたいな人間には、

何も考えずに正面突破することが一番手っ取り早かった。

 

北の丸に到着した飛駒は、そこに立っていた門番達を叩きのめして中に忍び込んだ。

翌日には騒ぎになるかもしれないし、彼らにとって不名誉な結果は公表されずに闇に葬られるかもしれない。

だが、秘密裏には犯人に追っ手が出されるだろう、だがそんなことを考えている暇はもうなかった。

 

北の丸の辺りは代官屋敷が集まっていた。

こんな月の出ない夜には、誰も無闇に外を出歩いたりすることはない。

飛駒は闇の中で辺りを見回していると、木の陰から人が出てくるのが見えた。

 

「やあ、遅かったね飛駒ちゃん」

 

そこに現れたのは、半蔵の言った通り飛駒にそっくりの人間だった。

身につけている忍者の装束も同じであり、隣に並ぶと見分けがつかないくらい瓜二つだった。

 

「あんたが半蔵をやったのか!?」

 

飛駒は思い出すとまたカッとなって叫んだ。

彼女にとっては仲間がやられる方が自分がやられるよりも辛い。

 

「そうだよ、私の正体を見破ったみたいだから邪魔になったんだ」

 

「あんたは一体何がしたいんだよ!

 うちの真似なんかして、ふざけんなよ!」

 

「まあまあそんなにムキにならないでよ。

 感情的に話したって効率が悪くなるだけなんだから」

 

飛駒にそっくりの女はこちらを嘲るように微かに笑った。

その表情は飛駒が取るような表情ではなくて、

それは彼女が飛駒ではないことを微かに示していた。

半蔵もこうした微妙な仕草を読み取ったのだろう。

だが、もし半蔵が正体を見破らなかったとしたら、

こいつは飛駒のふりをして江戸班を乗っ取ったのかもしれない。

 

「単刀直入に言おうか飛駒ちゃん。

 君は今日から別名を名乗ってこの江戸を出て行くことだ。

 そうすれば君はこれ以上、大切な仲間を失わずに済む」

 

そう言って彼女は道端を指差した。

あたりが暗くてわかりづらかったが、人が倒れているのが見えた。

飛駒は考えるよりも先に身体が反応して駆け寄った。

 

「じっちゃん!」

 

そこには忍者の黒装束をボロボロになるまで斬り刻まれた爺様が倒れていた。

身体中から血を流しており、一人ではもう動けないような状態だった。

 

「・・・飛駒か、よく来てくれた」

 

「じっちゃん!!」

 

飛駒は両手で爺様の手を取った。

彼は何か布のような物を握りしめていた。

それは、三角形の模様が描かれた江戸班の旗だった。

だが、すっかり血で汚れてしまっていて、

それに触れた飛駒の両手にも血がついてしまった。

 

「・・・幕府の追っ手は撒いたのか?」

 

「秋羅様が来てくれたよ、じっちゃんから聞いたって!

 でもごめんね、うちが余計なことしたからこんなことに。

 どうしてこんなに誤解ばかり生んじゃうんだろう・・・」

 

飛駒の目には涙が浮かんでいた。

パンの件に首を突っ込まなければ、江戸班が狙われることはなかったかもしれない。

 

「・・・そんなことはない、幕府の奴らは何か口実を探していただけじゃ。

 権力者は臆病じゃからな、危害を加える恐れがあると思うものは全て排除しようとするんじゃ。

 人は皆、その心に溜まった鬱憤をだれかにぶつけることで解消しようとする、だからお前のせいではない」

 

飛駒は腕で涙を拭った。

そして木にもたれ掛かってこちらを見つめていた彼女を睨みつけた。

 

「・・・奴には気をつけろ。

 お前に似た姿をしておるが、残念ながら今のお前よりも数段強い。

 悪いことは言わん、ここはわしを置いて逃げるんじゃ。

 三十六計逃げるに如かず、時には退却もまた戦術なり」

 

「なるほど、確かに合理的だね。

 その意見をくれる爺様はなかなか素敵だな」

 

だが飛駒の頭には逃げることなど思いも浮かばなかった。

勝てるわけがないとしても、逃げるわけにはいかない勝負もある。

飛駒はそんなふうに考えていたし、何より理性より感情が逃げることなど許さない。

 

「じっちゃん、悪いけど今はじっちゃんの言いつけは守れそうにないよ」

 

飛駒は爺様が持っていた江戸班の旗を握りしめてまた相手を睨みつけた。

だが、爺様はその重体でなお、飛駒の顔へ手を伸ばして頬に触れた。

 

「・・・良いか飛駒、己の心を押し殺せ。

 それがわしがお主に教えてきた忍びとしての心構えじゃ」

 

「大丈夫だよ、心配いらないよ、じっちゃん!

 今まで遊んできたわけじゃない、これまでだってずっと修行してきたんだ、うちは強くなったんだ!」

 

そう言って飛駒は爺様が握っていた旗を手にとって頭に鉢巻のように巻いた。

爺様の手を両手でとって胸のところに置くと、彼女は立ち上がって歩いて行った。

 

「どうしてうちは見ず知らずの人からこうも嫌われるんだろうね、今まで何か悪いことしたかな?」

 

飛駒は戦いの前に手足をブラブラとさせながらそんなことを言った。

飛駒の向かいに立っている相手は、不思議そうな顔をして何かを考えているようだった。

 

「その問いの答えは簡単だね、ただの君の思い込みだよ。

 誰も君が思っているほど他人のことなんか気にしちゃいないからね」

 

「・・・あんたはうちのことを嫌ってるんじゃないの?」

 

「好きも嫌いもないね、私はただ君を片付けて坂を壊すだけだよ」

 

「・・・坂?そんなことしてどうなるって言うのさ?」

 

飛駒には相手の目的がよくわからない。

姿形は似ているが、根底の部分がまるで異なっているからだ。

 

「道が合理的になる。

 坂道というのは無駄が多い、歩くだけでも肉体に負担がかかるからね。

 私は江戸にある全ての坂を壊す、それが私の唯一の目的だから」

 

「・・・あんた、おかしいよ。

 あんたからはまるで感情を感じない、そんなもの知りもしないみたいに」

 

「感情か、わかるよ。

 それを再現することはできるが、それは遊びであって酷く無駄が多いものだね」

 

彼女はそうしてから刀に手をおいて構えた。

飛駒も同じように構えをとった。

 

「こうして話しているのも無駄だね、さあ始めようか」

 

彼女は抜刀すると、猛烈なスピードで飛駒に襲いかかった。

飛駒もまた、同じように本気で立ち向かって行った。

 

 

・・・

 

勝負はあっけなかった。

爺様の言う通り、彼女は飛駒よりも断然強かった。

見た目は同じでありながら、スピード、パワー、スタミナ全てにおいて飛駒を上回っていた。

 

飛駒は何度向かって行っても相手に一撃も与えることはできず、

爺様と同じように全身を斬り刻まれるように体力を奪われて行った。

 

「・・・はぁ、はぁ」

 

「もう無駄なことはやめないか、何度やっても君では私には勝てない」

 

「・・・まだ、まだだ!」

 

飛駒は力を振り絞って立ち向かって行ったが、

彼女が軽くかわしただけでつまづいて転んでしまった。

もう体力も限界に近づいており、足に踏ん張る力が入らない。

 

「精神論は本当に無駄だね、根拠のない努力をすることは力の浪費だよ。

 勝てないことがわかっているのだから、せめて命を無駄にしない選択肢を取ればいいのに。

 私は別に君の命を奪おうと言っていない、ただこの江戸を出て行ってくれればそれでいいだけなのに」

 

飛駒はかろうじてまた立ち上がったが、足元がふらついて力が出ない。

頭から流血しているせいで、視界が悪くなって前もろくに見えない。

もはや彼女を立たせているのは、江戸班を背負っていると言う責任感だけであり、

この若さの少女が背負うには、それはあまりにも大きすぎるものだった。

 

「・・・飛駒」

 

息も絶え絶えで呼びかけられた声が聞こえた。

後ろに目をやると、倒れていた爺様の声だとわかった。

 

「・・・飛駒、月は出とるか?」

 

「・・・月?」

 

飛駒はそう言われて空を見上げた。

だが、今夜は闇が深く、空に月が出ていなかった。

 

「・・・出てないよ、じっちゃん」

 

「・・・いや、月は出ておる、今宵は新月じゃ」

 

飛駒は爺様の言う意味がわからなかった。

それは何かの例え話なのか、それとも意識が朦朧とする中で、

幻覚のようなものを見ているのかすら判断がつかなかった。

だが、爺様は思いの外しっかりとした口調で話を続けた。

 

「江戸の人々は皆、月を見ることを好む。

 十五夜のお月様は美しいと誰もが言う。

 じゃが月には満ち欠けがある、満月はやがて欠けていき、

 空から消えてしまう、そうして見えなくなった月を人々は新月と呼ぶ」

 

飛駒は爺様がうわごとを言っている訳ではないことがわかった。

そうであれば、爺様は自分に何かを伝えたがっているのだと解釈した。

 

「人々は皆、月がどこかへ行ってしまったと思う。

 そして、また月が満ちて満月になるのを待ちわびる。

 しかし、実は月はどこへも消えておらんのじゃ。

 月は実はわしらから見えないところへ隠れておるだけで、

 新月の大きさは満月のそれと何も変わることはない。 

 時に姿を現し、時に闇に隠れ、そうして月は生きている。

 わしが言っている意味がわかるか、飛駒」

 

これはきっと何かの例え話なのだろうと飛駒は思った。

爺様が話をしている本当の意味はわからない。

だが、飛駒の目から涙が止まらなかった。

理由もわからないのに、泣いているのは不思議だった。

あまりに極限状態に身を置いているせいで、

もう自分がどう言う感情になっているかもよくわからなかったのかもしれない。

 

「飛駒、ここは退がれ。

 自分の心を押し殺すのが忍びじゃ。

 忍びは非難される、世に嫌われる職業じゃが、

 それは誰もやりたがらない事に率先して手を汚すからじゃ。

 だが、そうした人がいるおかげで世の中が動いて行くこともまた事実。

 決して表舞台に現れなくとも、影で誰かを支えたり、

 情報を運んできたり、誰も手をつけたがらん事を引き受けたり、

 人前に立たなくてもやれることは、忍びには山ほどある。

 そして、己の功績を誇るな、驕るな、忍び続けよ。

 人々は目には見えない新月の大きさを知ることはないかもしれんが、

 闇に隠れ、影で人々を支えるお主を理解してくれる人もきっといるはずじゃ」

 

飛駒は朦朧とした意識の中で空を見上げた。

空は暗くて何も見えなかったが、そこには確かに新月が浮かんでいるはずだった。

人々から見えず、存在も理解されないけれど、影に隠れて力を蓄えている月が。

飛駒はずっと満月として輝き続けることばかり考えてきた。

江戸班の頭領として、それは当然のことだったからだ。

自分が先頭に立って組織を引っ張って行くことばかり考え続け、

そして、それは何よりも自分にとっての誇りでもあった。

それを失うことの恐怖と、自由を得ることの慰めを天秤にかけながら、

飛駒の心は揺れていた、揺さぶられ続けておかしくなりそうだった。

何が正しいのか、何を選ぶべきなのかも自分ではわからなかった。

それを自分で正しく選ぶには、まだ飛駒は若すぎた。

 

「そこまでよ!」

 

飛駒はまた、どこかから声が聞こえてきたのがわかった。

ぼんやりとした視界で捉えたのは、屋敷の屋根の上に乗っている着物姿の謎の美少女だった。

彼女は確か、生姫の城の屋根の上と地底湖で見たあの女の子だった。

てっきり幕府の手先と思っていたのだが、それは飛駒の思い込みだった。

 

「飛駒さん、逃げましょう!」

 

謎の美少女は屋根の上からそんな事を言った。

どうやら彼女は自分を助けに来てくれたらしい。

そう思った瞬間、飛駒の全身から一気に力が抜けた。

自分がその後どうなったのか、飛駒自身は覚えてはいない。

力が抜けたまま後ろへ倒れてしまった彼女を、

謎の美少女は助け出し、その場を離れたのだった。

 

 

・・・

 

 

次に飛駒が目覚めた時、彼女は知らない街にいた。

道は灰色に固められていて、空はくすんでいて息苦しさを覚える。

街には鋼鉄でできた箱に人々が乗り込んで猛スピードで走っている。

建築物には木材以外の素材が使われていて、風も入ってこない。

部屋に置いてある箱には人が入り込んでいてその中で歌ったり踊ったりしている。

 

謎の美少女は食べ物を提供する「かふぇ」と言うお店を営んでいて、

どういうわけか親切にも食べ物をたくさん分けてくれた。

だが、黒い汁は苦いし、肉は奇妙なほど形が整って切り分けられていた。

飛駒はこの街の名前が児玉坂である事を後ほど知った。

 

 

未来人であった謎の美少女、森未代奈が好奇心を抑えられず、

江戸時代へ遊びに行ったのがこの事件の始まりであった。

わざわざ着物を纏ってウキウキした様子でソルティーヤ君とタイムスリップしたのだが、

その一瞬の隙をついて何者かが未来から刺客を送り込んでしまった。

それは現代で例えるならコンピューターウィルスみたいなもので、

飛駒をベースに生まれたAI(人工知能)だった。

このウィルスAIは江戸時代に送り込まれた瞬間、飛駒の情報をベースに彼女を模倣するようにすぐさま成長し、

さらにそこからディープラーニング(深層学習)を繰り返して自ら成長を続けて行く。

それは、やがて飛駒の立場を乗っ取ることで歴史のシナリオを変えてしまおうとした。

つまり、未代奈がタイムスリップした隙をついて送り込まれた刺客が、

未来の歴史を変えてしまう恐れを秘めていたのであった。

 

 

初めは楽しい歴史散歩を楽しんでいた未代奈であったが、

まずソルティーヤ君が事の異変に気付いた。

どうやらAIが正当な歴史のシナリオに干渉し、飛駒達がパンを探している事を幕府に漏らしたのだ。

だから幕府は江戸班に狙いを定めて攻撃を仕掛けてきた。

そのおかげで飛駒達は幕府の忍びから狙われることになり、

さらにそれでは満足しなかったAIは、飛駒のような人間にとって最も苦しい事、

飛駒の仲間達を攻撃するという作戦を実行し始めたのだった。

 

未代奈は好奇心のままに自分の故郷にある地底湖が見たかったのだが、

そこになぜか幕府の忍びが現れたのが、異常の発端だった。

ソルティーヤ君はどうも奇妙なことが起こっていると気づき、

飛駒とAIの戦いに割り込む形で彼女を救い出した、と言うわけだった。

 

 

 

それから数年の月日が流れた。

児玉坂にはアイドルグループが発足したし、未代奈は長かった髪を切ったし、

飛駒はこの現代社会の生活にすっかり馴染んでしまった。

月曜日になると週刊少年ジャンブを買いに行ったし、

忍者が題材になっている漫画にたいそうのめり込んだ。

お菓子は何を食べても美味しいし、炭酸飲料という刺激のある水はうまかった。

江戸時代から持って来たはずの江戸班の旗はいつの間にか失われ、

一説によると未代奈が洗濯してくれた時に風に吹かれて飛んで行ったらしい。

それを拾った人が、どういうわけかそれを気に入り、やがて児玉坂46というアイドルグループができ、

そのグループの象徴となるマークに、その三角形が採用されていた事をテレビで知った。

 

ソルティーヤ君は、未代奈が過去の人間を連れて来ることになってしまった事に最初は戸惑ったが、

飛駒がひっそりと生きて行く事を約束してこの街で暮らす事を認めた。

彼女は見るもの全てが目新しいこの世界で、様々な事を学び続けた。

何よりも、自分がいた江戸の街にこれほど発展している未来がある事、

その中でも坂の名前が取り上げられて街の名前になっていることなどには驚いた。

江戸時代にあった坂は、どれも名無しの坂ばかりだったからだ。

児玉坂がどこにあるかなんて、彼女は何も知らずにやって来た。

そして、この街には今やたくさんの人々が暮らしている事を知った。

 

 

・・・

 

 

飛駒はバレッタの席に座りながら外の景色を眺めていた。

日差しが気持ちよくて、桜の花びらも舞っている。

この街を離れるにはちょうど良い季節だと思っていた。

春は出会いと別れの季節であり、季節は変わり続ける。

このタイミングが最適ではないかと自分では考えていた。

 

そんな時、窓の向こう側に道路を挟んで立っているお店、

パティスリー・ズキュンヌが目に入った。

そうだ、変わらない季節もあるのだと思い出した。

ズキュンヌの店長、春元真冬のことである。

飛駒は以前、ズキュンヌでケーキを買ったこともある。

児玉坂の街はそれほど広くないので、住んでいる人はだいたい知っている。

道を歩けば、近所の名物おじさんが一人や二人いるように、

いつも忍者コスプレをして歩いていた飛駒の事を知らない人はいなかった。

もちろん、彼女が本当は何者であるのかを知っている人は未代奈しかいなかったが。

 

懐かしいなと思いながらズキュンヌを眺めていると、ちょうどお店から誰か出て来た。

それはまさしく噂をしていた店長の春元真冬だった。

彼女はお店の開店準備をしているように見えたが、

なにやらお店の外に垂れ幕をつけているらしかった。

飛駒はそれが気になって目を凝らしてその様子を見ていたのだが、

その垂れ幕に書かれてあった内容に驚きを隠せなくて不意に立ち上がった。

 

「・・・閉店セール!?」

 

飛駒は耐えきれずにバレッタを飛び出した。

 

 

・・・

 

 

「さて、今朝も始めるとするかー」

 

早起きは三文の得とは昔の人が言ったものであるが、

毎日朝早く起きるのは結構辛いことである。

だが、彼女たちにとってはそれが日課となっていた。

なぜなら、それくらいしかまだやることがないからである。

 

「・・・あのー、なんかちょっと私思っちゃったんですけどー」

 

「ん、なになに、どうしたの?」

 

「・・・毎日掃除するのって、結構大変ですよねー、なんて」

 

天下詩月は言い出しにくかった事を思い切って言葉にしてしまった。

それは、もう箒を持って早朝の街掃除を始めてからはや半年が過ぎていたからだった。

 

「えっ、えっ、それってどういうことかなー?」

 

若杉佑紀は質問の意図がわからずに尋ね返した。

だが、本当はうっすらわかっていたが認めたくなかったのかもしれない。

 

「・・・いや、別に大したことじゃないんですけど、

 ほら、なんかみんなでお店開いたりとかできたら楽しいと思うんですよね。

 でもほら、私たちの軍団ってそういうのないじゃないですかー。

 ボランティア活動って私すっごい大好きなんですけど、

 でもそれだけじゃあ活動費とかも稼げないし・・・」

 

詩月は言いにくい事を遠回しに表現していった。

側で箒を持っていた阪内珠弐と梅川千波も無言で頷いていた。

 

「あー、なるほどねー、なんとなく言いたいことはわかった」

 

若杉は腕を組みながら深く頷いて見せた。

三人は心臓がドキドキバクバクするのに耐えながら返事を待っていた。

 

「要するに三人はあれでしょ?

 こうやって街の掃除してるのもいいけど、

 もっとトキトキメキメキするような事したいわけでしょ?」

 

それを聞いた三人は明るい表情になって笑みをこぼした。

婉曲な表現に終始してしまったが、自分達の思いは通じたかと思ったのだ。

 

「そんな皆様に耳寄りな情報ですよ。

 今日、これからとある場所で普段とは違う特別な活動をする予定ですから」

 

「えっ、脱出ゲームとかそういうのですか?」

 

珠弐はそう尋ねてみたが、若杉は人差し指を振った。

 

「あの、私、全身タイツ着る系のお仕事はちょっと・・・」

 

「あっ、それは私も絵が心配だからやらないから大丈夫。

 まあ小説だから絵とか関係ないけどね。

 とにかく、ここは軍団長に任せておきなさい」

 

若杉は手で胸を叩いて軍団員を安心させて見せた。

その時、近くを通りかかった4歳くらいの女の子と目が合い、

お母さんのところへ走って行きながら「ねぇ、あのお姉さんキレイだったー」と言うのが聞こえた。

 

「・・・ああ、この一言でとりあえず三年は生きれます。

 ほら、実は早起きは三年の得だったんだよね!」

 

軍団長はご機嫌になりながら、箒を握りしめた。

そして、特別活動に向けて、とりあえず朝の掃除をみんなで始めることにした。

 

 

・・・

 

 

「あー、急がなきゃ遅れちゃう」

 

鈴見絢芽は腕時計で時間を確認しながら早歩きになっていた。

パティスリー・ズキュンヌでアルバイトをしている彼女は、

毎朝シフト通りに出勤しなければならない義務がある。

 

それなのに今朝はどう言うわけか朝少し寝坊した。

昨日の夜は疲れ過ぎていてソファーでそのまま寝てしまったからだった。

彼女にとって家のソファーは最も気が休まる場所ではあるのだが、

そこに寝転んだが最後、何もやる気が起きなくなってしまうことがある。

だが、今日はどうしても遅刻はできない出勤日だった。

 

絢芽は何かを得るには何かを失うしかない事を理解していた。

遅刻しないで間に合わせるには、時間を短縮するしかない。

では何を短縮すれば良いのか、食事だろうか、髪型だろうか、

いや、合理性を考慮すると最も優先順位が低いのは服装だ。

普段は出勤してからお店の制服に着替えるのであるが、

時間短縮のためには自宅から制服を着て行けばいい。

そうすればお店で着替える必要はないので楽である。

とにかく、この日の絢芽はそういう決断をした。

 

だが、もうすぐでズキュンヌのお店に到着するという時になって、

絢芽は向こう側から4歳くらいの女の子が歩いてくるのが見えた。

そして、その4歳くらいの女の子はどういうわけかこちらをじっと見つめてくる。

今まで生まれてこのかた、あまり子供と関わって来なかった絢芽であったが、

その女の子はずっと彼女の方を見つめてきたのである。

そして、女の子はお母さんから離れてこちらへ駆け寄って来て尋ねた。

 

「ねーねー、どうしてあそこのお姉さん達は掃除してるのー?」

 

絢芽は突然子供に話しかけられてびっくりした。

こんな不慣れな状況に一体どうしたものかと考えながらも、

絢芽は女の子が指差していた方向へ目を向けた。

そこには四人の女性がこんな朝早くから箒を持ってせっせと掃除をしていた。

 

「・・・うーん、そうだねー、きっとボランティア精神に溢れてるんだよー」

 

絢芽は返答に悩みながらも頑張ってそう答えた。

子供に人見知りを発揮するわけにもいかない。

自分だってもう立派な大人なのだから、

ちゃんと大人として社会的な模範とならなければ。

そんな事を絢芽は考えていたのである。

だが、それにもかかわらず、女の子は首を傾げてよくわかっていないようだった。

おそらく横文字が難し過ぎたかと思った絢芽は、言葉を言い換えて説明を試みる。

 

「ほら、街を掃除するのっていいことじゃない?

 人ってさ、いいことをすると、なんか気持ち良くなるでしょ?

 だから、あのお姉さん達はきっとお掃除してるんだよー」

 

絢芽は今度こそ上手く答えられたと内心では自画自賛していた。

絢芽にとって今までどう接していいかわからなかった子供に対して、

こんなに自然に受け答えができたことに何より自分自身が一番驚いていた。

彼女にとって今日が新しい世界の扉を開けた一日になったのだ。

だが、子供の疑問は止まる事を知らない。

 

「じゃあどうしてあのお姉さんは口に割り箸を咥えながら掃除しているのー?」

 

絢芽はそう言われてせっせと掃除をしているお姉さんを見た。

あれは真冬店長の友人の若杉さんであることを確認したが、

なぜ彼女が割り箸を咥えているのかについては模範回答は何もなかった。

 

「・・・うーん、そうだねー、なんでだろうねー・・・」

 

子供はまた首を傾げて不思議そうにしている。

これには絢芽もたいそう困り果ててしまったが、

絢芽は子供達へ説明する使命感からなんとか答えをひねり出そうとした。

 

「・・・ほら、キャラってさ、一度ついちゃうとなかなか変えられないじゃない?

 大人の人って色々なものに縛られて生きてるから、スポンサーの意向とかもあったりするし、

 それに読者の方は、割り箸があるってだけで喜ぶ人もいるんだよ、だから咥えてるんじゃないかなー?」

 

子供はその回答がよく理解できなかったようだが、

とりあえず次の質問に切り替えたようだった。

 

「じゃあ、どうして他の三人のお姉さんは悲しそうに掃除をしているのー?」

 

子供がそう言ったので、絢芽は他の三人のお姉さんへ目を向けた。

確かに、言われた通り他の三人は悲しげな顔で掃除をしていた。

それは、もう一生分の掃除はやったのではないかと言う徒労感のように見えた。

 

「・・・うーん、そうだねー、お姉さんもねー、詳しいことはわからないけど、

 これもキャラ付けの問題かなー、お掃除ってキャラから発展するものがあんましないから、 

 作者もどうしてあげたらいいのかわからなくなってるのかもしれないねー」

 

事情はよくわからなかったが、絢芽はなかなか的確な回答をしてみせた。

だが、子供達の疑問はやはり尽きることのなく溢れ出す石油のようなもので、

もし僅かにでも火がついてしまったら、それは危険極まりないものでもある。

 

「じゃあどうしてあのお店の店長さんのスカートは短いのー?」

 

おっと次はどうやら自分達のお店に関する興味に変わって来たかと絢芽は思った。

そういう質問であれば遠慮なく答えられると絢芽は多少気楽に答えた。

 

「・・・そうだねー、寒そうだよねー。

 でも、スカートを短くすることで、足が長く見える・・・って思ってるの!

 そんなことないんだよ、あのねー、でもあの店長さんのことはあまり真似しないほうがいいかなー。

 ほら、あざといって言葉聞いたことあるかな、あのスカートの丈はね、わざとやってるんだよ。

 それをね、世間ではあざといって言うの、男性の注目を引きたいのかなー、よくわかんないけどね」

 

絢芽はこれまた上手く説明できたと多少自惚れていた。

そして、ここまでくると、知らず知らず内心では「次の質問カモンカモン」と思っていた。

私がこんなにフリーで質問に答えるなんて、普通なら絶対にあり得ないんだよとも考えていた。

ちょうど一人なの、今だけチャンス!

 

だが、次の質問で絢芽は言葉に詰まってしまった。

 

「じゃあ、どうしてお姉さんの着てるTシャツの肩の部分は破れてるの?」

 

絢芽は絶句して、自ら着ていたTシャツの右肩の部分を見つめた。

確かに、謎のキリトリ線なるものがあり、しかもそれがあるにも関わらず、

どう言うわけかもっと上の方を切り取って肩を出していた。

考えた通りのサイズで切り取ったらおかしかったのだろうか。

謎はたくさんあり、またそれが子供達の好奇心をそそる。

だが、絢芽はとにかく自らが時間短縮のために選んだ選択が裏目に出て、

こんな恥ずかしい指摘を受けることになるとは思わなかったので激しく後悔した。

そしてこの質問には一体どのように答えれば良いのかわからなかった。

 

「・・・うーん、そうだよねー、なんで破れてるんだろうねー・・・」

 

絢芽は自分でそう言いながら悲しくなってきた。

一体どうしてこんな破れたTシャツを着て仕事をしているのだろう。

機能性を考えても、どう考えても布の面積がおかしいに決まっている。

そして、こんな破れたTシャツが制服だと言うお店は何なのだろう。

どうして自分はこんなふざけたルールに従っているのだろう。

もっとちゃんとしたマイルールが自分の中にあるのではないだろうか。

こんな服を着て働いている姿を見たら、実家の両親が心配しないか。

こうしていつの間にか、自分は何か大切なものを失いかけているのではないのか。

 

「・・・貧乏だからー?」

 

子供は容赦なくとどめを刺してくる。

ああそうか、貧乏とも思われるか、と絢芽は思った。

 

「・・・いや、貧乏なわけじゃないかなー」

 

「じゃあ貧乏ごっこ?」

 

「・・・ごっこって言うか、そんなごっこはきっと誰もしないと思うけどなー」

 

「じゃあそれは何ごっこなの?」

 

「・・・そうだよねー、お姉さん何ごっこしてるんだろうねー、バカみたいだよねー・・・」

 

もう答えが見つからなくて困り果てていたところに、

子供のお母さんがやって来て、子供の口を抑えて頭を下げた。

「すいません、失礼なことを言って」と謝られたのだが、

絢芽は誰もが思っていることを子供が素直に代弁してくれただけだと思った。

きっとみんな思っているけど言わないだけなのだ、大人は理性的だから。

 

子供が親に連れられて去ってしまうと、目の前には店長の真冬が立っていた。

そういえば、もうお店は目と鼻の先まで来ていたのだ。

 

「・・・絢芽、さっきの話だけど・・・」

 

「ああ、真冬さん、聞いていたんですか・・・」

 

絢芽は真顔のまま俯いていた。

変なところを見られてしまった気まずさもあった。

 

「・・・絢芽って、私のことあざといと思ってたの?」

 

やはりさっき子供にした話を聞いていた真冬は、

その部分を追求して来たのだった。

 

「・・・はい、思ってました」

 

「えっ、あっさり認めないでよ」

 

「・・・だって、あざといじゃないですか」

 

二人ともどこかぎこちなくて目線を合わすことができない。

二人から距離を取ること10m程度、4人のお姉さんは今でもまだ掃き掃除を続けていた。

 

「・・・絢芽はそのTシャツについてどう思ってるの?」

 

絢芽がうまく答えられずに沈黙を貫いていると、

さっきとは別のわんぱくな子供達が数名やって来て、

「あれ、服破れてるぞ、貧乏ー!」と囃し立てた。

真冬さんも同じ肩が破れたTシャツを着ていたので、

子供達はやんややんやと指差しながら走り抜けて行った。

 

「・・・私、もうこんな生活嫌です!」

 

絢芽はそう行ってお店の中へ入っていった。

真冬店長は破れたTシャツの肩の部分を見ながらため息をついた。

真冬のため息から離れること10m程度、掃除をしているお姉さん達もまたため息をついた。

 

 

・・・

 

 

飛駒がバレッタを飛び出してズキュンヌまでやって来た頃、

真冬と絢芽はそんなやりとりをしており、真冬もお店の中へと入って行った。

そして、やって来たのは飛駒だけではなかった。

TVカメラを抱えた報道陣も、どうやらズキュンヌが閉店すると言う噂を聞きつけ、

ここまで急いで駆けつけて来たようだった。

報道陣は取材への意欲が抑えられず、既に店の外からでも写真を撮っていた。

 

「あれっ、飛駒!?」

 

「あっ、飛駒さん!」

 

お店の前の道を掃除していた四人が飛駒に声をかけた。

飛駒はこんな風に、児玉坂の街では神出鬼没な存在だったので、

見かけると誰からも声をかけられるのだ。

 

「どうしたのこんなとこで?」

 

「いや、だってほら、閉店セールって書いてるし」

 

飛駒は慌てた様子でズキュンヌに関わっている垂れ幕を指差しながらそう言った。

 

「あー、でも多分ほら、理由は音楽性の違いとかだと思うよ」

 

若杉がそう言うと、残りの三人は苦笑していた。

なるほどそう言うことだったのかと、飛駒もようやく真相を理解した。

 

「まあ、だいたいオチわかってるけど、一応見てみる?」

 

若杉はそう言ってズキュンヌの入り口の扉を開けて飛駒を中へ入れた。

そして、自分達は何やら外で別の準備を始めたようだった。

 

 

・・・

 

 

「どうして閉店するんですか?」

 

報道陣から質問が飛ぶと、カメラマン達もシャッターを切り始めた。

お店の中に机と椅子を並べ、店長の真冬を始めアルバイトの三人もそこに座っていた。

 

「そうですね・・・私たち今までずっとこのお店を開いて頑張ってきたんですけど、

 どう言うわけかいつも私が買い出しにパシられるようになっていって、

 あれ、これおかしくないってみんなに不満をぶつけたのが始まりで、

 じゃあ私たちも店長に言いたいことたくさんありますってなってしまって、

 とどのつまりその、閉店のきっかけは理屈ではなくて、この胸の衝動から始まったと言いますか・・・」

 

真冬店長が話を進めるたびにフラッシュが焚かれる。

児玉坂に住む人々はみんなこのお店を利用して来ただけに、

この事件には割と話題性があり、どんどんお店の前に人だかりができていった。

 

「あんな名曲を引用してふざけたこと言って舐めてるんですか?」

 

記者からそんな質問が飛ぶと、またフラッシュが止まらない。

ちょっと予想よりも斜め上の質問が来たなと思っていると、

よく見たら記者の中にスーツを着て紛れ込んでいたのは内藤明日奈だった。

たまにこの店にやって来て、何も買わないと言いながらツンツンして、

結局何かを買っていく常連の女の子だった、どうしてこんなところに紛れているのか。

 

「・・・いや、舐めてるわけじゃないですけど、

 ちょっと何か上手いこと言おうと思ったら勝手に引用されてしまったと言いますか・・・」

 

「いや、勝手に引用されることはないんじゃないですか?

 これは店長が意図的に言及された事ですよね?」

 

明日奈がどうしてこんなに詰めてくるのかわからなかったが、

店長の真冬はグッと堪えて大人の対応をしなければと考えていた。

 

「まあその、つまり私が買い出し行くのはおかしくないって議論の中で、

 じゃあ私たちもこんな制服着せられたり肩出させられたりしてるのってパワハラじゃないですかって言われてしまって、

 今の世の中的にパワハラって言葉だけが一人歩きするのはちょっとまずいなって思い始めて、

 それならみんなの自主性を尊重してやって行こうかってなった時に、じゃあ閉店しますかって選択肢が出て来て・・・」

 

「あれ、めっちゃ理屈っぽいですよね?

 さっきこの胸の衝動から始まったとかなんとか言ってたのに」

 

「・・・あの、はい、すいません」

 

「わかればいいんですよ、わかれば」

 

明日奈はようやく満足した様子で口を閉じた。

どうしてここまで言われなければならないのかと思いながら、

真冬店長は次の質問を待っていた。

 

「あのー」

 

「はい、どうぞ」

 

手を挙げたのはまたしても女の子だった。

どこかで見たことがあるお嬢様みたいな子だ。

 

「閉店セールってタルトが無料とかになったりしますか?」

 

これはなかなか良い質問が来たと思った真夏店長は、

ようやく気を取り直してまた回答し始めた。

 

「さすがに無料とかにはなったりしないですけど、

 でも閉店セールだからもちろん割引とかもしますし、

 今日だけ限定の新作のみかんケーキとか、

 結構色々と見所はあると思うんですよね♡」

 

「でも私、ずっと前から個人的にタルトもらえるって約束してたのに、

 まだ全然作ってもらってないんですけど、あれは作る作る詐欺だったんですか?」

 

これは変な質問だなと思ってよく見てみると、

質問していたのは児玉坂では有名なピアニスト、菊田絵里菜だった。

常識知らずの変人であるので、こんなオフィシャルの場で危険な質問を投げかけて来たのである。

もちろん、カメラマンは決定的な瞬間を狙ってフラッシュを浴びせかける。

 

「一般のお客さんからはお金を取ってるのに、特定の個人には無料で提供すると言うのはどういうことでしょうか?」

 

本物の記者の方々もその話を聞いて鋭い質問を投げかけてきた。

話があまりに大きくなりすぎてまずいことになりそうな予感がしたので、

真冬店長は焦りながら事態の収拾に動かなければと感じていた。

 

「いや、そんな口約束で盛り上がったこともありましたけど、

 私もまだ若かったですし、ホントにそう思ったんですけど、

 プライベートで言った発言なので、お店の事とはちょっと関係ないかなと。

 まあでも、そんな昔の事をずっと覚えていてくれるのは嬉しい事なので、

 質問をしてくれた菊ちゃんには本当にダンケシェーンって感じですかね」

 

ダンケシェーンのセリフのところでまたフラッシュが焚かれた。

周りに座っていた三人は真冬店長のセリフに笑いそうになっていたが、

なんとか下を向いたりしながら必死に耐えているようだった。

 

「・・・あの、私が滑ってるみたいに思われるのも嫌なんでそういうのやめてください」

 

「・・・はい、ごめんなさい」

 

菊ちゃんはそんな事を言って質問を終えた。

なんだか最終的には謝罪させられる流れがおかしいと思いながら、

真冬店長はまた次の質問を募集した。

 

「・・・あの、いいですか」

 

「はい、どうぞ」

 

次の質問者もまた女の子だった。

どういうわけかすごく怒った顔をしている。

 

「さっきからあなた達の言ってることが全然信じられないんですけど、

 全部、咄嗟に嘘をついてやり過ごしてるってことはないでしょうか?」

 

なんだか正義感に溢れた質問だなと思ってよく見てみると、

その女の子は児玉坂の街でも有名な正義のヒーロー、

リリーナイトの変身前の姿、紀上百合子だった。

怒らせると正義の名の下に成敗されてしまうので、

これは慎重に回答しなければと真冬店長は思っていた。

 

「いや、本当はもっと当たり障りのない話をすることになると思っていたんですけど、

 結構さっきから鋭い質問がバンバン出てくる中で、私としてはかなり真摯に答えているというか、

 咄嗟に体裁を繕って嘘をついていると言うことはないと思いますけど・・・」

 

真冬店長はそう答えたが、まだ百合子の怒りは収まっていないようだった。

何か他に原因があるのかもしれないと思った。

なぜなら、彼女はトレーニングウェアみたいな格好で縄跳びを持っていたからだ。

外で運動をしていた時に、閉店セールの垂れ幕を偶然見かけ、

閉店される前にクレームを言いに咄嗟に駆け込んできた可能性があった。

 

「でも、そこに座っているアルバイトの女の子ですけど、 

 この間、私ケーキを買いに来た時に、お会計ですねって言ってから、

 急に怖い顔して「バァー!」ってやって来たんですよ。 

 私、怖くて腰抜けちゃって、夜眠れなくなっちゃったんですよ!

 だいたい、夜怖いの見ちゃうと女は一人じゃ眠れないって言いますし、

 正義のヒーローはそもそも忙しくて寝る時間ほとんどないのに、

 不眠症になっちゃって、いったいこれどうしてくれるんですか!」

 

真冬店長は自分のお店の従業員がそんな事をしていたなんて知らず、

誰のことを指しているのかと思って見てみると、それはお笑い芸人志望の田柄美織だった。

面白いことが好きな彼女だったらやりかねないと思いながら、回答は彼女に任せることにした。

 

「・・・そうですね、確かにちょっとドッキリにハマってた時期があって、

 なんか、面白いかなって思ってやってみたら意外とみんな喜んでくれてたので、

 そのうちなんか、それを見たいお客さんも増えたし、まあ別にいっかなーと思って・・・」

 

美織は自分なりに答えたし、笑ってくれている記者もいたのだが、

この回答ではお店的にまずいと感じた真冬店長は間髪入れずに話をごまかした。

 

「でも、このあいだ百合にゃんお店にきてくれてたんですけど、

 テーブルに座ってケーキ食べてくれてて、お会計の時になったら、

 『財布を忘れちゃいました、てへ』みたいなことを言ってまして、

 それが可愛くて面白かったので、私達からお菓子をあげたんですけど、

 まあ私達もそう言う意味では彼女にドッキリさせられたからおあいこかなって・・・」

 

真冬店長のフォローのおかげで、記者の興味は百合子に向けられた。

無銭飲食をする正義のヒーローとはこれいかに。

 

「いや、でもその後ちゃんと走って取りに行って払いました。

 そういうこともありますけど、強さと弱さの共存が私のヒーロー像なので」

 

百合子は焦ったが、ヒーローとして世間体もあるので、

そう誤魔化してなんとかやり過ごした。

記者がまた真冬さん達に目を向けた頃、百合子は密かに美織に向かって膨れて見せたのだが、

その様子を写真に撮っていた記者もいて、怒った顔も可愛いヒーローとしてまた後日有名になるのであった。

 

「でも、最後に一つだけ言わせてください!」

 

「はい、なんでしょう?」

 

「語尾の♡はやめてください。

 私、そういうの大っ嫌いなんで」

 

百合子は負けず嫌いだったので、もはやそれは関係ないクレームだったが、

それでも最後に言っておきたかったのだろう。

 

「いや、それはもう、可愛いの天才だから出ちゃうんで♡」

 

「それあざとすぎて、マジいらねぇ」

 

「いや別にあざとくしてるわけじゃないし」

 

「ほんとコイツ嘘つきクソ野郎なんで」

 

あまりにヒートアップして来たので流石に周囲が止めに入った。

これ以上発展しても共倒れにしかならず誰も得しない。

彼女はあまりに純真すぎて生放送には向いていないというか、こちらがドキドキしてしまう。

 

 

「・・・はい、と言うことで質問は以上でしょうか?」

 

真冬店長は記者達を見回して確認したが、

どうやら一通りの質問は出きったようで、もう誰も手をあげる人はいなかった。

 

「・・・それでは最後に、みんなでの共同作業として、

 このお店の制服であったこのTシャツの肩の部分を切りたいと思います」

 

そう言って真冬達は今着ているのと同じピンク色のTシャツを取り出した。

新しいものはキリトリ線がまだ切られていないので肩は露出していない。

これを切ることになんの意味があるのか、その場にいた全員誰もわからなかったが、

とにかく、真冬達四人はその肩の部分にハサミを入れて肩の布を切った。

そして、その切り終えた布をテーブルの上においた時に、

カメラマン達はその布に対して一斉にフラッシュを焚いた。

撮り終えた後、その布は早速ただのゴミと化した。

 

「あのー、ここにゴミ置いてかないでくださいよ」

 

記者からそんな言葉が飛んだ時、「そう言えば、外に掃除のお姉ちゃん達いたよ」と言った人がいた。

記者達が外に目を向けると、若杉佑紀が低姿勢で入って来てその布を片付けて行った。

そしてまたテーブルの上が綺麗になると、真冬は最後の挨拶を始めた。

 

「・・・はい、それではこの辺りで会見はお開きにしたいと思うんですけど、

 今行われたことは全部茶番でございまして、閉店はしませーん!」

 

真冬店長がネタばらしでそう告げたが、記者の人達も内心気が付いていたのか、

誰もびっくりしないままゆるゆるとした時間が流れることになった。

 

「いや違うよ、フリが長すぎるし、しかも見てる人がもうこうなることわかってるから、

 こんなに尺とる必要あったのかって疑問しかないよ」

 

記者席にいた明日奈が的確にツッコミを入れたが、

とにかく真冬はめげずに本題へと入っていった。

 

「と言うわけで、閉店はしないんですけど、

 せっかく集まってくれた皆さん、本日セールしますんで、

 ケーキとか買って帰るのとかどうですかね?

 スタッフもみんな肩出しのTシャツ着てますし、

 可愛い子を愛でてからケーキを食べるものありかなって」

 

「えっ、じゃあやっぱり閉店詐欺だったんじゃん」

 

菊ちゃんがそう言うと、百合子が身を乗り出してきた。

 

「だから言ったじゃん、コイツは嘘つきクソ野郎だって」

 

「いや、咄嗟についた嘘じゃなくて、前々からちゃんと考えて来た企画だから・・・」

 

「・・・こういうのをやるから嫌なんですよ私は~!」

 

お店の方針に馴染めない絢芽が不満をぶちまけた。

彼女はこのお店の制服を脱いでサヨナラをしたかったのに、

無理矢理にこんなことをやらされていたのかも知れず、

やはりこれはパワハラではないかと言う質問が再燃し、

記者達は再度フラッシュを焚き始めた。

人間一つ嘘をつくと何かと信用を失うもので、

また何かと何でもかんでも標的とされてしまうもので、

財務省の公文書を書き換えたのも真冬さんですかやら、

新しい事務所を立ち上げて独立することで、

軍団員達の処遇はどうなるのか、と言った別の軍団の時事ネタまで、

質問が噴出して場は収まりがつかなくなって来た。

カオスになり始めた頃、お店の外で何やら拡声器で話す声が聞こえて来た。

 

「えー、毎度お騒がせしております、パティスリー・ズキュンヌでございます。

 この度の閉店セール詐欺につきまして、店長の春元真冬が言い出したことですが、

 どうか皆様あまりお気になさらずにやり過ごしてくださいませ。

 そこで、どうせお集まりいただきました皆様に、私どもからの提案でございますが、

 本日限定で、こちらお店の前でお箸、スプーン、フォーク、ナイフなど、

 食事をするのに最適なアイテムを数々取り揃えて販売しております。

 また、使い古したお箸、スプーン、フォーク、ナイフなどは、

 こちらで無限回収させていただいておりますので、

 リサイクルにもご協力いただきながら、エコ活動にもご参加いただけます。

 本日限定でございますので、どうぞ、お気軽に声をお掛けください」

 

飛駒が外を覗いてみると、どうやら先ほどまで清掃していた四人が、

簡易テーブルを組み立ててそこに食器などをおいて販売しているのがわかった。

若杉は初めからこの閉店セールが詐欺であることを知っていて、

そこに合わせて食器類の販売を目論んでいたのだ。

これが彼女の言う、本日の特別活動の内容だった。

なんてことはない、ズキュンヌのおこぼれ商法であった。

 

「あれ、有名なユーチューバーの人じゃね?」と言う声が通行人から上がり、

若杉は違った形で握手を求められたりもしていた。

しかし、特にお箸が売れることはなく、世間の厳しさを痛感していた。

キャラが渋滞していて、一体何屋なのかわからないのかもしれない。

 

 

「あれ、びり愛は?」

 

店内にも店外にも人が溢れてごった返していたが、

真冬店長はいつの間にかアルバイトの綿投びり愛がいなくなっていることに気が付いた。

店長に反抗的な彼女だから、もうこのお店に嫌気がさしてしまったかと思ったが、

人でごった返していた店内で、ひときわ怪しい人々が紛れていることに気がついた。

頭に水泳用のゴーグルをつけながら、小指にネイルをしていた奇妙な連中の肩に担がれているのはびり愛だった。

 

「あっ、びり愛、ちょっとあなたたち営業妨害なんですけど!」

 

「みなさん、みかんケーキは買ったらあきませんよ~!

 これはみかんのパクリです、気をつけてくださいね~♡」

 

そう言って、彼女はびり愛を担ぎ上げて走り去ってしまった。

菊ちゃんは、それが勝村さゆみの仕業であることがわかったので、

お店の扉を開けたところまでは追いかけた。

二人は昔、コロッケ姉妹としてTV番組で共演したこともあったし、

フードファイターとして戦ったこともある戦友でもあったからだ。

 

だが結局、さゆみはどこかへ走り去ってしまったので捕まえることはできなかった。

おこぼれ商法によってスプーンを販売していたが、なかなか売れなかった天下詩月は、

TVで観たことがあった天才ピアニストの菊田絵里菜がここにいたことに感動し、

つい席を離れて彼女のあとを追いかけてしまった。

人はどうして走り出したんだろう?

その答えは、きっとこうして心が燃えて来てしまったんだろうと詩月は思った。

 

「あれ、ちょっと、仕事中なのにどこ行くの?」

 

お箸を販売していた若杉は、思わず詩月を追いかけてしまった。

そして、真実はいつも過酷である、と言うことを思い知らされることになる。

 

「菊田さんですよね?

 私、いつもTVで観てました」

 

「あっ、そう、ありがと~!」

 

詩月は菊ちゃんに握手を求めてしまったが、

菊ちゃんが快く応じてくれたので感動した。

児玉坂の街に引っ越して来て、憧れの人に会えてよかったと思う。

 

「・・・菊田さんって、軍団作らないんですか?」

 

それは、悪気なくさらっと言っただけだった。

だが、後ろから誰かが追いかけてくる足音が聞こえ、

詩月が振り返ると、そこには呆然と立ち尽くす若杉の姿があった。

 

「あっ、違うんです、私、入りたいなんて言ってないです!」

 

「あー、これは噂には聞いてたけど見た事なかったやーつか。

 参ったなー、真実はいつも過酷だなー、そっかそっか」

 

若杉は天を見上げたり、俯いたりしながら必死に耐えていた。

泣いたっていいじゃないか、と言う内なる心の声が聞こえたが、

自分は多数キャラがあるが、泣くキャラではないなと思い、

色んなことに耐えながら人生を考えたくなった。  

 

「・・・今まで結構楽しかったことあったね、みんなでご飯行ったりとか、

 一緒にギャグ考えたりとか、でも全部私一人だけだったのかな、楽しかったのは・・・」

 

若杉は過去の楽しかった思い出を振り返りながら微笑んだ。

涙をこらえるために、微笑むしかなかった。

 

「・・・そんなことないです若杉さん。

 そんな思い出ファーストな考え方はダメですよ。

 もっと明るい未来を考えませんか?

 未来にはきっと答えがあるはずですから・・・」

 

そんなことを言いながら軍団長に手を伸ばす詩月。

その手を恐れるように後ずさりする若杉。

二人の心の隙間は埋められなかった。

どうしてもっと隙間を大事にできなかったのか。

 

「・・・解散だー!」

 

若杉はそう叫ぶと、一人でここではない何処かへ走って行ってしまった。

先ほどまで食器を売っていた簡易テーブルの前を走り抜けた時、

それを見ていた珠弐は一人で若杉を追いかけて行った。

 

「若杉さん、私は尊敬していますからー!」

 

「嘘だー、誕生日覚えてないくせにー!」

 

二人はとにかくそうして何処かへ行ってしまった。

 

その場に残された詩月は誤解がこんなに膨らんでしまって一人で泣きたくなった。

落ち込んでいると、目の前に立っていたのは飛駒だった。

 

「後輩ちゃんも色々と大変だね、先輩みんなに礼儀正しくしたら、

 それはそれでなんか言われるし、誤解されちゃうし」

 

飛駒は詩月の肩に手をポンと置きながらそんなことを言った。

「まあまあ若様もギャグだから気にしないで」と付け加えた。

 

そして、食器売り場では千波もまた一人で取り残されてしまった。

たった一人でこの食器を売り続けなければならないのかと絶望していると、

向こうの電信柱の陰から誰かがこちらを覗いているのがわかった。

何だろうと思って目を凝らして驚いたのは、そこにいたのは千波の憧れの人、

TVで大活躍している有名タレントの白岸芽衣だった。

 

「・・・えっ、あれ、白岸さん!?

 うそ、まさか本物に会えるなんて!

 あ~めっちゃ可愛い、やばい、え~どうしよう!」

 

千波が児玉坂の街に憧れて引っ越して来たのは、

TVでいつも観ていた白岸芽衣の影響だった。

そんな憧れの人を見かけたのだから、興奮するのも無理はない。

感動のあまり自然に溢れ出る涙を拭ったりしながら、

売り場に取り残されたはずの千波が一人ではしゃいでいると、

何やら外が騒がしいと気づいた真冬が外に出て来た。

そして、千波が見ている方向に目をやると、

そこに電信柱の陰からひょっこりと顔を出している芽衣を見つけた。

その様子はまるで仲間になりたそうにこちらを見ているスライムみたいな可愛さがあり、

乙女の羞恥心みたいなものが存分に溢れ出ているように見えた。

 

「・・・あっ、しらぎしはん、本当はこっち来たいはずなのに照れちゃって~♡」

 

千波もまた、あのいじらしい感じがナイスひょっこりで可愛いなと思っていた。

そして、食器を売る使命を忘れてその魅力に引き寄せられて行く。

知らないうちに二人は隠れている芽衣に近づいてしまっていた。

 

だが、人間が近寄ると恥ずかしがって隠れる小動物みたいに、

芽衣は電信柱の陰に顔を隠してしまった。

あんなに照れなくてもいいのに、どこまでも恥ずかしがりやな姿が可愛いなと思いながら、

二人は電信柱の方へ歩みを進めて行くと、随分距離を詰めたところで、

また芽衣が電信柱からひょっこりと顔を顔を出したのだが、

それはまるで獲物が近づいて来たので本性を表した毒蛇みたいな顔だった。

 

「・・・かわい・・・くない、こ、怖い!!!」

 

千波はあまりの衝撃にそんなことを言ってしまった。

そこにいたのは、今までTVの中で観てきた可愛かった白岸さんではなかった。

 

「・・・閉店するって聞いたから忙しい中来てやったのに・・・真冬、覚悟はできてんだろうなー!?」

 

唇がひん曲がって、目玉がギョロついて、般若みたいな顔をしていた芽衣の姿を見て、

千波はあまりにも恐ろしくなってその場を逃げ出してしまった。

真冬は蛇に睨まれたカエルみたいになって狼狽えていた。

閉店が詐欺であった事で、その話をしながら帰ってしまった記者もいて、

おそらくその話を立ち聞きしてしまったのだろう、彼女は容易に許してくれそうもなかった。

 

「・・・でもそこまでして来ちゃったってことは、それだけ私の事が好きだって事だよね・・・?」

 

狼狽えながらも、真冬はどこまでも好意的に解釈してその場を収めたかったが、

その余計な一言が芽衣のプライドを傷つけることになって火に油を注ぐ事になる。

好きだなんて認めたくない芽衣には、こんな風に騙されて敗北する事は許されない。

また彼女の顔が歪んで来たので、真冬は、ここは潔く降参をみとめる事で矛を収めてもらおうと思った。

 

「・・・うそ、うそです!

 じゃあまあ、今回の勝負はもう私の負けって事で♡

 ねっ、今回のことはもう水に流しましょ~、まあいいかって感じで・・・」

 

「・・・まあ・・・よくねえんだよ!!」

 

芽衣は結局、怒りが収まる事はなく真冬を追いかけ始めた。

真冬も捕まらないように辺りを逃げ回り始めたのだった。

 

こうして食器売り隊(どこまで本気で売りたかったかは定かではないが)は勝手に空中分解し、

ズキュンヌに集まっていた人々も解散しようかと思っていた頃、

またお店の入り口から声が聞こえて来た。

先ほどまで若杉が使っていた拡声器を使って誰かが喋っていたのだ。

 

「えー、毎度おさわがせしております。

 さゆみかん軍団の乗っ取り活動でございます。

 ズキュンヌで売られているみかんケーキは、

 そもそもみかんを使った商品が売れると言う計算のもと作られましたが、

 実際には、世にみかんの普及活動をしている我々にそれを作る権利があり、

 また今回の閉店セール詐欺という炎上商法、

 その店の前で食器を売るという便乗商法、

 こうした悪意のあるセール手法に惑わされることなく、

 我々さゆみかん軍団が作ったオリジナルのみかんケーキ、

 こちらを購入されることをぜひお薦めいたします。

 さあ、こちらの食器を片付けさせていただきまして、

 今からみかんケーキの特売会を始めさせていただきます。

 どうぞ、皆様お気軽に声をおかけください」

 

さゆみかん軍団の次藤みりんがそうアナウンスすると、

寺屋蘭々と坂木トト子が食器を片付け始め、代わりにみかんケーキを置き始めた。

そのケーキはみりんの手作り感が半端ない感じだったのだが、

「元祖みかんケーキ(本物)」とトト子が即席に紙に書いてテーブルに貼った。

蘭々はお客さんに「こんな売り方変ですか?」と尋ねながらも、

「私負けません」と意気込みを述べて販売を始めた。

 

集まっていた人々は最終的に残ったみかんケーキに注目して行ったが、

その時、歩道からカメラのシャッターを切る音が聞こえてきた。

報道陣の人かと思いきや、そうではなくて、どういうわけかわからないが、

うさぎの耳をつけて歩いている女の子を、一人の女子がカメラで執拗に撮影しているのだった。

 

「・・・ねぇ~~~!」

 

「いやー、みな子ちゃん可愛いね、やっぱりあなた可愛いの天才だわ~!」

 

「気持ち悪いからもうやめてよ~!

 みな子、うさぎの耳つけて街歩くのとか恥ずかしいし・・・」

 

どうやら写真を撮っている女の子が無理やりコスプレをさせていたらしい。

写真を撮っていたのは川戸魅菜であり、昔から可愛い女の子の写真を撮るのが好きだったが、

優秀な被写体がこの街を去ってしまって以来、次の被写体を探し続けていたのだ。

それが、街で偶然発見した越野みな子だった。

 

「いいよ~その笑顔めっちゃいい!

 紙袋からはみ出してるフランスパンもいい味出してるね」

 

「えっ、これ~?」

 

そう言ってみな子は紙袋の中からフランスパンを取り出した。

それを持って武器のように構えて欲しいと魅菜はリクエストを出す。

恥ずかしがりながらも、みな子は言う通りにしていく。

 

「いいね、そのいたずらな感じ最高~!」

 

魅菜が楽しそうに撮影をしていると、

ズキュンヌの周りに集まっていたお客さん達も、

その可愛いの天才の仕草に夢中になっていった。

みんなが気になってジロジロと見学を始めると、

「見ないで」とツンツンしたかと思うと、

「・・・やっぱり見てね♡」とデレた。

その語尾の♡の破壊力は只者ではなかった。

 

 

そんなこんなで、結局ズキュンヌに集まっていた人々は、

みんな可愛いの天才の後をついて行ってしまった。

風が吹いて桜の花びらが宙に舞った。

戦いに疲れた戦士達は、みなそれぞれ無言で帰宅して行った。

結局、お店の前に残っていたのは真冬店長と明日奈と飛駒だけだった。

 

「悔しいな~上手くいくと思ったのに~」

 

「あんたそんなことばっかりやってると、

 いつか本当に閉店するときに誰にも信じてもらえなくなるよ」

 

「でも、私も前世では絶対に可愛いうさぎさんだったのにな~。

 みな子ちゃんに負けないくらい可愛かったはずだし♡」

 

真冬はそんなことを言ってウインクして見せた。

飛駒はこれが偽物の語尾の♡だとわかった。

可愛いの天才が放つものとは、月とスッポンくらいの差があった。

 

「まあ、鈍臭いうさぎだったけどね」

 

「えっ、どう言うこと?」

 

「私が命の恩人なんだから、少しは感謝しなさいよ」

 

真冬は何のことやらよくわからない顔をしていた。

その隣に立っていた明日奈は、風に散る桜の花びらを手のひらで受け止めて、

目を細めながらその風情を味わっているように見えた。

 

「・・・散る桜、残る桜も、散る桜」

 

「・・・なにそれ、どう言う意味?」

 

飛駒が尋ねたが、明日奈はぼんやりとした表情でしばらく何も答えなかった。

 

「・・・春は眠くなりますね」

 

「いや、それ答えじゃないし」

 

「・・・そしてお腹も空きますよね」

 

「じゃあ、真冬んとこでケーキでも買えば?」

 

それを聞いた明日奈は冷たい視線で嬉しそうな真冬を見つめた後。

 

「・・・いえ、結構です」

 

「もう、なんでよ~!」

 

「あらあら、素直じゃないんだから」

 

そう言いながらも明日奈はその場を立ち去ろうとしない。

真冬は明日奈と腕を組もうとして振り払われた。

だが、やはり明日奈は立ち去ろうとはしない。

 

「あんた、ここ数年で一番キャラ変わっちゃったね。

 アニメの敵キャラが変身し続けて、最後はクールで物静かな奴になるみたいな変化してるよ。

 でも、そーいうやつが最強だったりするんだよね、アニメだと」

 

「・・・何それ、まあ褒められてるなら喜んでおきます、わーい」

 

その明日奈の言葉には、もちろん感情がこもってなどいなかった。

 

「・・・あー、それにしてもどうしよう、ケーキいっぱい売れ残っちゃったし・・・・」

 

「ちっ、しょうがないな、一個だけ買ってやるか」

 

「何それ、めっちゃ上から目線」

 

飛駒ちゃんがそう言ったが、明日奈は気にしていない。

 

「春はママが誕生日だからだぞ、仕方ないから真冬の作ったまずいケーキで我慢してやる」

 

そう言って明日奈はフラフラとお店の入り口へ向かった。

真冬もケーキを買ってもらうために、その後を追いかけて行った。

 

その時、バレッタから着物を纏った未代奈が姿を現した。

飛駒はそれを見つけると、真冬と明日奈に手をふってサヨナラを言った。

 

「じゃあ、またね」

 

「うん、飛駒ちゃんもまたお店に遊びにきてね♡」

 

道路を渡ってバレッタまで辿り着くと、

飛駒は振り返ってまだ手を振り続けている真冬を見た。

明日奈は真冬に手を持たれて強制的に手を振らされていた。

飛駒もそれを見て笑いながら手を振って、そして真冬と明日奈はお店の中に入っていった。

 

「なんだか、ひどくわちゃわちゃしてたみたいですね」

 

制服姿のままでズキュンヌの方を見つめていた飛駒に、

まるでお別れを告げるように街路樹の桜の花びらが降り注いだ。

この街ともついにおさらばする時がやってきたのだ。

 

「・・・やっぱり、未練あるんですか?」

 

未代奈がそう尋ねた時、飛駒は満面の笑みになった。

 

「全然さみしくなんかないよ、だってうちはもう一人で戦うって決めたからね。

 森ちゃんも、あんましうちのこと気にしないでもいいよ。 

 だってこれからの主役は、この街に残るみんなだから」

 

そう言って、飛駒は荷物を取りにバレッタに入っていった。

バレッタからは入れ違いにソルティーヤ君が未代奈の足元へ駆け寄ってきた。

 

「・・・強い人ですね、飛駒さん」

 

未代奈はそう呟いたが、ソルティーヤ君はそれについて意見があった。

 

「そうかな?

 だって誰よりもこの街が好きそうなのに、

 どうしてあんなに平気な感じでいられるんだろう?」

 

「どう言うこと?」

 

ソルティーヤ君はバレッタの中で笑顔で荷物をまとめていた飛駒を窓越しに見て言った。

 

「忍びの常なのかもしれないね。

 自分に平気だって言い聞かせることで、さみしい本当の自分を押し殺してるのかも。

 きっと弱い自分を誰にも見られたくないんだと思うけど、

 本当に悲しい時は泣いたっていいと僕は思うけどな」

 

ソルティーヤ君がそんな風に言ったのを聞いて、

未代奈は一人で考えこんでしまった。

飛駒さんは本当は何を感じてるんだろう。

これから江戸時代に一人で戻って、

もう二度とこの街には来られなくなる。

そんなことは、もしかしたら何も現実味がないのかもしれない。

日々が過ぎ去ってから、少しずつ実感することなのか。

 

「それにしても、飛駒さんがこの街を離れる日に、

 偶然にもあんなにみんなが集まってわちゃわちゃするなんて、

 なんかすごいよね、まるでみんな飛駒さんがいなくなることわかってたみたい。

 ねぇ、ソルティーヤ君もそう思わん?」

 

未代奈にそんなことを言われて、ソルティーヤ君は待ってましたとばかりに解説を始めた。

 

「でも心理学者のユングに言わせると、そういうのは偶然でもなんでもなくて、

 理由もなく起きる偶然の一致みたいなものをシンクロニシティって彼は呼んだんだ。

 人の意識は深いところではみんな繋がってるって彼は言ってたみたいだけど、

 僕らの住む未来でも、人間の心についてはまだよくわかんないからね。

 機械は発達して合理的な世の中はやって来たけれど、逆に心は置き去りになった。

 でも、イルカは超音波で意思疎通してるし、この世界だって目に見えない電波で繋がってるし、

 じゃあ心から僕らには見えない何かが発せられていたりしても不思議じゃない。

 そうして心と心が呼び合ってるなら、それは素敵な事だなって猿のぼくでも思うよね」

 

そんなことがもし可能であれば、例え飛駒が江戸時代に帰ってしまっても、

時間と空間を超えて繋がりを持ち続けることができるかもしれない、

未代奈はぼんやりと一人でそんなことを考えてしまった。

携帯電話やパソコンを使って、電波で繋がることは楽だけれど、

人間は生まれたままでも分かり合える心の機能があるのではないか。

そんなところにサイコキネシスの可能性も研究の余地が残されていて、

いつかそんなメカニズムが解明される日がやってくるのかもしれない。

本当にそんな日がくるのか、事実はよくわからなかったけれど、

そんなことを考えるのは幸せなことだと未代奈は思った。

 

 

だが、いつまでも考えていても答えはわからないので、

未代奈はソルティーヤ君を連れてまたバレッタに入った。

笑顔で荷物の整理をしていた飛駒は、

二人が来たのを見つけて声をかけた。

 

「ねえ、これは持って帰らせてもらってもいいかな?」

 

そう言いながら飛駒はアニメのポスターを取り出した。

イケメンの男の子達が白シャツで凛々しく描かれているものだった。

 

「江戸時代に帰ったらジャンブもないしアニメも観れないし、

 せめてこのお宝ポスターだけは部屋に飾っておきたいのよ~!

 ねえ、ソルティーヤ君、これだけは見逃して、お願い!」

 

そう言ってからのスライディング土下座をして頼まれてしまったので、

いつもは厳しいソルティーヤ君も、認めるしかなかった。

ポスターを一枚持って帰ったところで、歴史に影響を与えるわけでもない。

 

「やったー!!!

 ソルティーヤ君大好き~!」

 

飛駒に抱きしめられて、ソルティーヤ君が照れていると、

ご機嫌になった飛駒はそのポスターに描かれているイケメン達を紹介し始めた。

 

「えっとね~これがまこちゃんでね~これが・・・」

 

そんな感じで説明していた時、彼女の不注意ではあったのだが、

ポスターを強く引っ張ってしまったせいで、ポスターが軽く破れてしまった。

 

「ああ~~~!!!!」

 

飛駒はショックのあまり膝をついて叫んでしまった。

それを見ていた未代奈もソルティーヤ君もかける言葉がなく、

ただ手を口に当てて涙を堪えていた飛駒を黙って見守っていた。

 

飛駒はしばらくの間、立ち上がることができなかったが、

やがて無言のまま立ち上がり、その破れたポスターも含めて、

荷物をまとめてからそれを背中に背負った。

 

「・・・よし・・・じゃあ・・・行こっか・・・」

 

飛駒はフラフラしながらバレッタの扉を先に出て行った。

そんな寂しい背中を見送りながら、二人は歩いて後を追いかけた。

 

「・・・飛駒ちゃん、強い人だね」

 

ソルティーヤ君がそう呟いた。

未代奈は口には出さなかったが密かに心の中で呟いた。

 

(・・・本当に悲しかったら、泣いたっていいんですよ、飛駒さん・・・)

 

 

 

・・・

 

 

未代奈が乗る箒にまたがって、

二人と一匹は江戸時代へタイムスリップした。

飛駒が倒れて意識を失ったあの日に戻ることにしたのだ。

 

真冬店長が「私の前世は絶対に可愛いウサギだった♡」と言い張るので、

それを確かめるために江戸時代に遊びに行った未代奈の旅は、

鈍臭いウサギを見つけて笑い飛ばしたことで終わったはずだった。

だが、未来から何者かが歴史を変えてしまう危険性を持つウィルスを送り込んだために、

飛駒を随分と長く児玉坂の街に引き留めることになってしまった。

 

歴史は変わってしまうのだろうか?

もしそうなったら、江戸のすべての坂道は消されてしまい、

児玉坂の街が存在する未来もなくなってしまうことだろう。

あのAIウィルスを駆除する方法をソルティーヤ君は知っていたけれど、

飛駒がその方法を採用することに反対したことで取りやめになった。

 

こんな重大なことを、個人の裁量に任せることは恐ろしいことで、

ソルティーヤ君も随分と悩んだが、児玉坂の街に住んでいた飛駒は、

江戸時代にいた頃とは比べものにならないくらい成長を遂げた。

そして、飛駒自身が日々修行を続けて来たと言うのだから、

ソルティーヤ君もそれを信じることにした。

こうして一人と一匹は、飛駒を無事に江戸時代に送り届け、

ペットボトルに入った炭酸飲料を数本お土産として手渡した後、

また箒に乗って児玉坂の街に帰ってしまったのだった。

 

 

・・・

 

 

「あれ、飛駒ちゃん、また来たのか?」

 

月のない暗夜、木陰からまた飛駒そっくりのAI飛駒が現れた。

だが、AI飛駒は黒装束を身にまとっていて、飛駒は制服を着ていた。

 

「・・・どういうことだろう、君は随分と大人になったみたいだけど」

 

何かが腑に落ちないのか、彼女はずっと考え事をしているように見えた。

頭の中に埋め込まれているデータを洗い出して理由を探しているのだろう。

だが、飛駒が時空を超えて戻って来たことなどはわかるはずもなかった。

 

「・・・だけどまあ、君が泣き虫であることは変わってないようだ」

 

彼女は飛駒を見つめながらそんなことを言った。

飛駒は制服姿のまま、そこに立ち尽くして静かに涙をこぼしていた。

 

「・・・冷静に合理的な判断が下せないうちは無駄が生まれる。

 そんな状態では私に勝つことができないと、どうしてわからないのか」

 

「・・・あんたに何がわかる?」

 

飛駒が静かにそういうと、AI飛駒は不可解な表情を見せた。

飛駒が言っている意味を解読しようとしているのだ。

 

「・・・過去のない孤独なあんたに何がわかる?」

 

「過去?

 それなら私にもある、たくさんの情報をインプットして、

 今の私を作ってくれたデータという過去が存在するよ」

 

彼女は高速でデータ処理をしているのだろう、

インプットされた情報を解析し、効率よく無駄のない計算をし、

相手を倒す最適な解答を見つけ出そうとしていたのだ。

 

「・・・そんなの過去じゃない。

 あんたは今まで何かに苦しんだことがあったか?

 うちはあるよ、胸はって言えるよ、

 たくさんありすぎて何が何だかわからないくらいある・・・」

 

飛駒は手で自分の胸を押さえながらそう言った。

制服のスカートが風に吹かれて揺れていた。

 

「苦しむ?

 どうしてそんな無駄なことをするんだ?

 苦しみは目的遂行にとっては負荷でしかない。

 取り除いたほうが楽に生きていけるのに」

 

「・・・そうかもしれない。

 苦しみがなければもっと楽に生きてこられたかも。

 うちもそう、今まで散々苦しみ続けて来て、

 今になっては本当の自分の心とかよくわからなくなった。

 打たれて傷ついて倒れて立ち上がって、また打たれて。

 そんな繰り返しばっかりで自分を見失うこともあった」

 

そんなことを言いながら、飛駒は足を前に進めた。

相手との距離を詰めながら、間合いをはかって行く。

 

「もっとシンプルに考えたほうがいいよ。

 答えはいつだって計算式の向こう側にある。

 それ以外はバグかエラーだ、排除すればいい」

 

AI飛駒も刀に手をかけながら一歩距離を詰めて来た。

コンピューターによって弾き出される最適化された動作によって、

その抜刀速度は人間の技のレベルを超えて行く。

 

「・・・だけど、そんな苦しんだ日々がなかったら、

 ここにいる飛駒里火は存在しなかったんだよ。

 あんたから見れば無駄に見えるかもしれないけど、

 それら全てが今のうちの個性なんだ!」

 

二人は同時に抜刀して斬りかかった。

その速度はほぼ互角であり、刀がぶつかり合ってまた後ろに下がった。

 

「・・・スピードだけは上がったみたいだね。

 これは計算式を修正しないといけないな・・・」

 

そう言いながら、彼女はまた高速でデータ処理を行っていた。

目の前の現実に適応し、自動で学習を繰り返すことで、

AI飛駒は自動的に強くなって行くことができた。

修行をして技を磨く飛駒とは成長プロセスが全く異なる。

 

「・・・あんたには、何かやりたいことがある?」

 

飛駒は静かに相手にそう尋ねた。

地面には先ほど踏ん張った場所に彼女の足跡が残っていた。

 

「・・・やりたいこと?

 目的とは違うものなのか?」

 

「・・・うちにはあるよ。

 うちはまだ生きたい、生きて大切な仲間達を守りたい」

 

飛駒は力を込めて右手で刀を握りしめた。

身体の奥底から力が湧いてくるのがわかった。

そして、顔を上げてみると、自分の立っている周囲に、

児玉坂で出会ったみんなが立っている姿が見えた。

左を見ても、右を見ても、大切な仲間達の姿が浮かんだ。

そして、堪えきれない涙が飛駒の頬を流れた。

 

「・・・うちはもう逃げることはできないんだ。

 だって、うちはもうみんながいる未来を見ちゃったから、 

 自分がここで一人であんたに勝たなきゃ、坂を守らなきゃ、 

 大切な仲間達が存在しない未来がやって来てしまう。

 そんなことはさせない、だってうちは一人じゃないから・・・」

 

この心の奥底から湧き出る力はなんだろう。

飛駒はそれが優しさだと気付いた。

いつの間にそんなものが自分の心に生まれていたのだろう。

きっと、今まで傷ついて来た分だけ、知らないうちにみんなに優しくなれたのだ。

飛駒はまた一歩前に足を進める、その度に地面には彼女の足跡が残る。

 

「・・・うちは児玉坂を守るためだったら、ぶっ倒れたって構わないんだよ!!」

 

飛駒は涙を流しながら刀を構えて相手に飛びかかって行った。

先ほど計算して弾き出したよりも、数倍早いスピードであり、

AI飛駒はまた再計算を求められた。

斬りかかってくるパワーも以前とは段違いであり、

何度計算を繰り返しても一向に正確な答えがはじき出せない。

 

だが、飛駒に押されて行くAI飛駒はやがて何か答えを見つけた。

そして、一瞬の隙をついて腰に帯びていた瓢箪から水を飛駒の顔に放った。

その動きが読めなかった飛駒は、水が顔にかかったことに怯んで動きが一瞬止まってしまった。

 

「・・・残念だったね、弱さを克服できない人間には、私を倒すことはできないんだ」

 

鋭い閃光のような太刀は、一瞬で飛駒の体を真っ二つに切り裂いてしまった。

全てが終わったかに見えたその時、斬ったはずの飛駒の体が水となって弾け飛んだ。

 

「・・・なんだ、これはどういうことだ?」

 

目の前には地面に落ちた水と、斬られた制服とペットボトルが転がっていた。

どうやら水はペットボトルに入れられて制服と背中の間に挟まっていたらしい。

 

「・・・忍法『逃げ水』の術、なんちゃって」

 

飛駒は制服の中に着込んでいた黒装束の姿になり、

いつの間にか相手の後ろに回り込んでいて、

刀を振りかざして敵を真っ二つに斬り裂いた。

敵はそのまま音もなく地面に倒れたまま動かなくなった。

 

「・・・ペットボトル見たことないからこんな技は読めなかったよね、残念でした」

 

そう言いながら飛駒は刀を鞘にしまった。

そして、地面に落ちていた制服を拾い上げると、

それを大切そうに両手で抱きしめた。

 

「・・・みんな、大好きだよ」

 

 

 

 

・・・

 

 

「私、ブロックの線を踏まずに歩くってのがすごい好きで、

 ちっちゃい頃からよくやってます」

 

桜の花が散った後も、森熱大陸の撮影は続いた。

ソルティーヤ君はカメラを持たされ、未代奈と街に連れ出された。

 

今年は春がやってくるのが早かったので、

桜も早めに咲いて、早めに散ってしまった。

季節が移ろうのは何となく儚い。

そこには日本人的な美的感覚があるのかもしれない。

「もののあはれ」とは江戸時代の学者によって提唱された考え方で、

しみじみとした情緒、無常観などを日本人は美しいと感じるのだという。

形あるものは変化し、盛んになるものはやがて衰える。

ずっと変わらない季節などは、ズキュンヌの店長の真冬さんくらいのもので、

この世界の四季は移ろいながら変化を続けて行く。

一時期の美しさを留めておきたい気持ちもわかるけれど、

人は移り変わって行くものを楽しむ気持ちも大切なのかもしれない。

 

 

「でもあれですね、森熱大陸さんはこうやって、休日でも密着してくださるんですね、大変だー」

 

未代奈は街を歩きながらソルティーヤ君のカメラに向かって話しかける。

実際には、未代奈が駄々をこねるので、渋々付き合ってあげているのだが、

この現実を見れば、いかに映像作品というのが真実の一部を切り取ったものであるかよくわかる。

そんな風にソルティーヤ君は考えていた、いや、考えなければやりきれなかった。

 

「ふぅー、これであと少しやね」

 

どこかのビルの屋上で、未代奈とソルティーヤ君はジュースを飲んで休憩していた。

普通の人は休むならカフェを探したりするのだが、普段からカフェで働いている二人は、

誰もいないビルの屋上に箒にまたがって飛んで行く方がゆっくり休めると思っていた。

 

「まったく、長かったよね、僕もうくたびれちゃったよ」

 

「もうなんでよー、ソルティーヤ君は何にもやっとらんやんかー。

 ずっと取材を受け続けてたのは私やのにー」

 

彼女にはソルティーヤ君がこの異常な遊びに付き合わされているというストレスは理解できないらしかった。

だから、このパワハラに対しては、ソルティーヤ君は心を押し殺して忍ぶしかないのだ。

 

「そういえば最近、僕面白いもの見たよ」

 

「えっ、なになに?」

 

「とある研究者がね、猿が温泉に入っているのはストレス解消のためだって証明したんだよ。

 人間にはわからないかもしれないけど、猿にだってちゃんとストレスはあるんだね」

 

「へー、そうなんやね。

 でもよかったやん、ソルティーヤ君は元々そんなストレスとは無縁やから」

 

未代奈はそう言って何食わぬ顔でストローでジュースを飲んだ。

それとなく遠回しに伝えようとしたのに、やはりそれは無駄な努力だったようだ。

 

「あー私も休日にゆっくりしたいなー」

 

「じゃあこんな映像作品を撮らなきゃいいのに・・・」

 

「でも休日にも努力を怠ったらあかんやろ?

 バレッタの為に色々と学ぶことは大事なんやから」

 

(・・・この映像作品が、一体なんの役に立つのだろう?)

 

心の声は秘めたままで、ソルティーヤ君もジュースを飲んだ。

ビルの屋上から見える空は澄んでいて、流れる雲は自由そうに見える。

ソルティーヤ君はあの雲になれればいいのにと思った。

 

「でもあれやねー、たまにはのんびり美術館とかも行きたいなー」

 

両手で伸びをしながら猫みたいに未代奈はそう言った。

彼女は好奇心が旺盛すぎて、昨年と今年では別人くらい好みが変わることもある。

 

「そうだね、あの雲を見てたら、僕はマグリッドなんか思い出しちゃったよ」

 

マグリッドはシュールレアリスムの画家で雲の作品を多く描いていた。

そんな絵が見たくなるのだから、彼のストレスの程度も相当である。

 

「へー、ソルティーヤ君も猿やのに絵とかわかるんやね。

 そうだなー、私はピカソの絵が見たいかなー」

 

未代奈がそんなことを言ったので、ソルティーヤ君は多少ムッとしたが、

彼女がピカソといったことには内心少し笑った。

そして、思わずその気持ちが言葉に現れてしまった。

 

「なるほど、そういえば、ミヨナの絵はピカソかシャガールみたいだもんね」

 

「そう!

 ピカソの独創的で芯がある感じとか、めっちゃ好きなんよね~」

 

(・・・あれ、皮肉が通じてないな・・・)

 

独創的すぎて異次元の絵を書いてますねという皮肉だったのだが、

あまりにもポジティブな未代奈には前向きな言葉として処理されてしまったらしかった。

どうあがいても、ソルティーヤ君は未代奈にはかなわないのであった。

 

 

「さて、そろそろ最後のシーンを撮らないとね。

 さっ、ソルティーヤ君、カメラの準備はいいー?」

 

「はいはい、さっさと撮って家に帰ろうー」

 

「おっ、ちょっとやる気出てきたやんか。

 じゃあ、これが最後のセリフやから」

 

そう言って、未代奈は紙を渡した。

それを広げると、なにやらメモが残されていた。

 

「なに、僕がこの質問を読めばいいの?」

 

「うん、それで私がそれに答えるから」

 

彼女が考えた最後のシチュエーションというのは、

ビルの屋上の手すりの前で、未代奈は空を見上げている、

そこで最後のインタビューを受けるという設定らしかった。

 

「・・・森さんって、いつも楽しそうですね」

 

ソルティーヤ君がカメラを回しながらセリフを読み上げると、

未代奈はわざとらしく「あっ、そう見えますかー?」と返答した。

 

「嬉しいです・・・でも、色んな事ありますよ、やっぱり・・・人間なので」

 

猿にも色々と気苦労があることをわかってくれないだろうかと思ってしまったソルティーヤ君だが、

どうやらこの感じだと、この森熱大陸もそろそろクライマックスを迎えると思った。

そして、次の質問を見て、多分これが最後のセリフになるのだろうと思った。

 

「・・・森さんにとって、バレッタとは?」

 

「・・・バレッタとは・・・うーん・・・」

 

未代奈は少し悩むふりをしてタメを作ってから。

 

「私には無くてはならないものなので・・・」

 

ソルティーヤ君のカメラはまっすぐ未代奈を捉えていた。

緊張感が高まる中、最後のセリフに差し掛かる。

 

「酸素みたいな感じですかね」

 

この瞬間、ソルティーヤ君の疲労感はピークに達した。

こんなラストシーンを撮る為に、ここまで撮影を続けて来たというのか?

彼女は一体何を言っているのだろうか?

彼女を理解できない凡猿である自分がいけないのか?

それとも、この異次元の答えには何か深い意味があるのか?

なんにせよ、彼女がまたドヤ顔をしている意味がわからない。

自分は今まで未代奈と誰よりも近くで一緒に過ごして来た親友だと思っていたが、

それでもソルティーヤ君には未代奈が言っている意味が理解できなかった。

もう存在が異次元すぎる、ある意味でかっこいい、でも変人すぎる・・・。

 

 

ソルティーヤ君ががっくりと肩を落としていると、

未代奈が靴の先でツンツンと蹴ってくるのがわかった。

なんだろうと思って顔を見上げると、紙を見てというサイン。

ソルティーヤ君が紙を見ると、どうやらまだ質問が残っていたようだった。

さっき蹴られた足元は映っていないので、カットせずに撮影を続行できた。

 

「・・・えっと、じゃあ、あなたにとって児玉坂の街とは?」

 

ソルティーヤ君が読み上げると、未代奈は嬉しそうな表情を作って、

 

「そうですねー、私にとってこの街は・・・」

 

 

 

(・・・みんな、大好きだよ・・・)

 

 

 

 

その声は、どこから聞こえて来たのかはわからなかった。

だが、未代奈もソルティーヤ君も、確かにその声を聞いた。

おそらく、この街の人みんなが、今の声を耳にしたに違いないと思った。

理由はよくわからないのだけれど、未代奈もソルティーヤ君もそれを確信していた。

その声は時間と空間を超えて、みんなの心に響いたのだ。

 

「・・・私にとって・・・この街は・・・」

 

突然のことに驚いてしまい、さっきまで考えていたセリフが全部飛んでしまった未代奈は、

そんな状態でありながらも、どういうわけか、自分でも理由のわからない涙を流していた。

そして、同じ声を聞いたソルティーヤ君もまた、理由のわからない涙が溢れてくるのがわかった。

これはなんだろう、胸が熱くなって、息苦しくて、それでいて温かい。

 

「・・・あの人が必死で私たちに繋いでくれたバトン・・・かな」

 

未代奈は震える声でそう言って空を見上げた。

空はどこかにつながっているような気がしたからだ。

それもまた理由などわからない感覚だった。

 

(・・・飛駒さん、あなたが全てを捧げて守ってくれたこの街は、今日もこんなに輝いていますよ・・・)

 

未代奈は目を閉じて、何かを祈るように手を合わせた。

理由などわからない、ただ手を合わせれば想いは届くような気がしたのだ。

 

 

今回の事件を通じて、ソルティーヤ君は気づいたことがあった。

この街に住む人々は、必ず感謝の言葉を口にする。

そして、何事にも一生懸命で努力を怠らない。

誰かと出会った時には、いつも素敵な笑顔を見せてくれる。

 

努力、感謝、笑顔。

それがこの街に託され、そして未来に受け継がれていくバトンではないか。

そして、そうであるからこそ、この街はこんなにも美しいのではないか。

 

 

「・・・ありがとうございました・・・」

 

未代奈は空に向かってお礼を述べた。

そしてそれは、きっとまた時空を超えて誰かの元へ届いていたのかもしれない。

 

 

ー終幕ー

 

 

 

 

 

 

新月の大きさ ー自惚れのあとがきー

 

 

そんなわけで書き終わったこの物語でしたが、

最後の部分を美しい感じに書き終えてから自分で読み返して笑ってしまった。

「炎上商法」やら「嘘つきクソやろう」やら「般若の顔」やら、

どの辺りが努力、感謝、笑顔を体現しているのか、全くわからなかったからだ。

卑怯、罵倒、癇癪なら理解できるのだが・・・。

 

まあそんなこんなで、何とか書き終えました。

MVで最高の小ネタを仕込んで楽しませてくれる素敵な監督さんがいますが、

筆者の場合は本当に最低な小ネタの詰め合わせ物語なのですよね。

どうしてこんな感じに書いてしまうのか、自分でも良くわかりません。

本能と言いますか、でもこれが楽しいのだから酷い性格ですよね。

自分でも自分のことを「ドSクソ野郎」だなと思うことが最近増えました。

まあそんな筆者のことはどうでもいいので作品について語りましょう。

 

 

約一ヶ月前、締め切りはいつくらいかなと思っていると、

卒業コンサートの日程が予想よりも早いことを知り驚愕した。

これはきつい勝負になるだろうと思いながら、とにかく筆を進めてきた。

それまでには書き終えたいという思いから、仕事と寝てる時間以外は全て執筆に当てた。

移動中も休憩中も、ずっと物語に向き合ってきたが、未だ納得していない部分も多い。

 

「新月の大きさ」の構想は数年前からあった。

踏み出せなかった理由は、歴史が絡んでくる物語なので、

そのリサーチをするには膨大な時間がかかるからだ。

筆者の完璧主義が障害となり、中途半端はストレスが溜まる。

だが、とにかく書き終えなければならないので、もうその辺は諦めた。

細部の甘いところはもうご容赦いただき、物語のメッセージ性や喜劇的な場面を楽しんでもらえれば嬉しく思う。

 

物語に秘められたメッセージは、詳細に語ってしまうと物語にした意味がなくなる。

新月の大きさのエピソードや飛駒が自分そっくりの敵と戦うことなど、

いろんなところに意味はある、読み取ってもらえると嬉しい。

 

ただ、これはきっとわからないだろうから書いておくと、

最後に飛駒が戦いに向かう江戸城の北の丸とは、今の日本武道館のある場所である。

江戸城は現在は皇居になっており、北の丸のあたりは公園になっている。

 

ちなみに、新月の大きさが過去の構想である事から、

児玉坂の街にやってきてからのわちゃわちゃパートはシンクロニシティの影響下にある。

筆者は46時間TV を生で見れずに悔しい思いをした人であり、

ネタはちょいちょい見て拾った程度なので完璧ではない。

最後に飛駒が左右に仲間たちの姿を見て、最後のセリフを吐く場面は、

シンクロニシティのMVの2番の動きからインスピレーションを得ている。

彼女が何かを抱きしめていた絵が、筆者のセリフでは「みんな大好きだよ」と翻訳されたわけだ。

ところで、シンクロニシティは、この節目に素晴らしい楽曲だと思います、素敵です。

 

 

 

敵がAIになったのは、最近筆者が読んでいる書物や関心に寄るところが大きい。

ロボットや人工知能が人間を凌駕する時代、人間は人間を再定義しなければならなくなる。

合理性では敵わなくなる時、人はまた何か存在意義を探すことになるはずで、

人間だけが持つ非効率的で非合理的な部分に価値を求めるのではないか、

というのが今までの作品でも書いてきた筆者なりの考えなのである。

合理性だけで突き詰めると、もはや人間は人間の存在価値を肯定できなくなる。

本当はそんな時代にすでに到達していると筆者は思うのであるが、

社会を維持する必要からか、秩序を崩さないためか、人間は自分たちに嘘をつき続けていないか。

筆者はいつもそんなことを思いながら生きてきた、よくわかってもらえないかもしれないが。

難しいことを書いていくと長くなるし、きっと面白くもないからやめにしますが。

 

 

もっと身近な話をすると、物語の中で出てくるパンについてだが、

あれはパンの歴史について調べて見た時に、偶然発見したものだ。

日本では江戸時代に初めてパンが作られたという。

 

ちなみに、その時代のパンは作中で書いたように固くて美味しくないものだった。

 

 

下の写真は実際に筆者が170年前のパンを再現しているという、

「パン祖のパン」をネットで購入してみたものだ。

 

当時の焼き方を再現して作られているパンがどんなものか気になったからだ。

 

 

 

 

 

 

ちなみに感想は、目をつぶって持たされたら河原で拾った平たい石と勘違いする硬さだ。

この表現はかなり的を得ていると思う、川に投げたらうまい具合に跳ねて飛んでいきそうだ。

 

 

 

そして肝心の食感は、噛んだ瞬間に笑ってしまった。

石でもかじって食べようとしているような気がしたからだ。

これで殴られたら痛いし、本当に武器にでもなる硬さである。

味はといえば、水分が極限まで飛ばされているのでボロボロとこぼれ、

口の中はすごくパサパサする、よって美味しいものが食べたい人には向かない。

ただ、物珍しいのが好きな人、パンのスペシャリストを目指す人は、

買って食べてみるのもいいのではないだろうか。

 

 

 

 

さて、話が変わるが筆者はナルトを4巻まで読んだ。

本当は全部読んでから書きたかったが、締め切りが許さなかった。

もっと漫画っぽい描写にしても良かったかと悩んだが、

ナルトのコンセプトは「海外から見た忍者」であり、

日本古来の忍びとは少し見方が異なると思った。

筆者が元々考えていたのはもっと日本らしい忍びであり、

彼女へのメッセージ性を考慮してこのような仕上がりになった。

 

面白かったのは秋羅様について調べた時だった。

彼女の存在はまさしく今の時代にふさわしいと思った。

多様性の時代、自分を貫いて個性を追求して生きることは、

昔ではあり得なかったと思うし、今の時代に合っていると思うのだ。

 

飛駒に関しては、今回の物語を書くために過去から現在まで見返したし、

長所も短所も含め、彼女という人間を再発見したような気がしている。

こんな一面あったのか、こんなことを考えていたのかもしれないなど、

キャラ構成とは離れた部分でも理解が進んだと思っている。

 

 

この作品を書くことになったのは、ここが一つの時代の節目だと感じたからでもある。

飛駒は本当はもっと早くに活躍させてあげたかったができなかった。

過去から来てまた過去に戻って彼女は児玉坂の街を去る事になった。

彼女の存在は、今までの歴史を振り返らせるきっかけになっていると思う。

彼女が走り抜けて来た日々全てが歴史そのものだったからだ。

 

そして彼女自身、これからは個人としての道を進む。

残された人々もまた、残された道を進む。

思いの丈は全て物語に込めたので、これ以上は語らない。

今までに感謝し、これからに期待しよう。

 

ただ一つだけ言えることは、筆者はこの先の彼女の人生をずっと応援している。

 

 

・・・

 

 

ここから先は少し思うところを書こうと思う。

作品とは全く関係ないことなので、興味がない人は読まなくても大丈夫である。

筆者個人の思いだったり、考え方などをそんなに噛み砕いて書くつもりもなく、

わかる人にはわかるかもしれないし、わからない人にはわからないかもしれないように書く。

 

 

人々は時代と共に生きていく。

時代が変われば職業は変わる、仕事の内容もやり方も考え方も変化する。

少しばかり「職業としてのアイドル」について先日考えていた。

それを書いてみようかと思っている。

 

ちなみに筆者はTVやライブを観ていて、周りの観客と同じように熱狂できない。

それは結局、アイドルを何か特別な物だとどうしても見れないからだ。

おそらくそんな風に観れる人は、マスメディアの魔法にかかっていると思う。

 

昔のアイドルは特にその魔法が強かった。

TVがほぼ全てのメディアの核であった為、そこに登場する人の人間らしい情報は排除されて来たし、

その箱の中の世界は特別な権力を獲得して行った。

こうした言い方をすると悪いように感じるかもしれないが、

昔の芸能人は勘違いをしている人があまりにも多い。

一人で電車も乗れない、衣装に何百万もかけていることを自慢する。

その時代は言うなればTVバブルであり、芸能人に富が集中していた。

ITバブルの時代にはIT企業に富が集まっていたような現象と同じようなものだ。

そうして特権世界の住人だと勘違いした古いタイプの芸能人はいまでも多いし、

いまでも芸能人になりたい人は、そんな世界を夢見ている人も多いと思う。

 

 

現代はTVというマスメディア一強の時代は終焉し、SNSなどの台頭もあり、

芸能人でも個人に関する情報が巷に溢れるようになって行った。

また、それを観る側にも発信する権利が与えられるようになったことで、

双方向で影響を与えることが増えたし、エゴサーチをする芸能人も増えた。

これはいけないことでもなく、この時代においては当然の行為だと思う。

誰だって自分がどう観られているのかを気にするし、それが手軽に見られるのだから。

だが、それによって過剰に自分のことを意識するようにもなるし、

心ない人たちの声まで拾ってしまうことになる、メディアが増えるというのは、

アイドルのあり方にも変化を与えたことになる。

 

 

ユーチューバーなどに代表されるように、ショールームなどを使ってもそうだが、

今はCtoC、つまり個人が個人に対して情報を発信できる時代になった。

アイドルは会社が雇っているタレントなのでBtoC、法人が個人にサービスを提供している。

 

筆者はこんな風に「職業としてのアイドル」としかアイドルを見れない。

だから熱狂することはできないし、同じ人間としてただ可愛い子だな、くらいの認識になる。

なぜなら、アイドルというビジネスモデルは会社が可愛い女の子を集めてお金を稼ぐものであり、

それ以上でもそれ以下でもなく、筆者は魔法がかかっているような世界には生きれない。

 

 

職業としてのアイドルを捉えるならば、なりたい動機はおそらく収入ではない。

なぜなら、アイドルの収入曲線はちょうど逆U字型になるだろう。

若いうちだけ突出して高く、年齢が上がっていけば下がっていくことになる。

一般的に、他の職業と比べると短期的に稼ぐには向いているが、

生涯を通じて続けられる仕事ではないからだ。

 

とは言え、アイドルになってしまった人は仕事として収入を稼ぐことも考えなければならないし、

そうした人は、アイドルをやめて転職をしてもいいし、その先を考えなければならなくなる。

 

SNSの台頭によって、アイドルとユーチューバーもある意味でライバルになる。

タレントは皆、その自己ブランディングによってイメージを持っている。

企業にとってはその商品価値を利用してCMや広告に採用する。

その部分だけはタレントにもユーチューバーにも垣根はなくなって行く。

影響力のある人が広告には向いているのだから。

 

アイドルをやっている人は、多かれ少なかれ今まで築いて来た自己ブランドイメージがある。

グループが持つブランド力に影響を受ける部分、個人としてのブランドイメージなど、

各人様々だと思うが、アイドルのその先を狙うにはその「自己ブランド力」が大事だと思う。

その社会的に持っているイメージを利用して、服をプロデュースして成功する人もいれば、

タレントとして継続して行く人もいる、とにかく何をするにも影響力が裏方の仕事の人よりもある。

その知名度を使って何ができるかが、その先には大事になると思う。

 

 

そして何よりも、もはやアイドルの数は多すぎる。

ビジネス論でいえば、ここからは淘汰されてくる時代で、

ただアイドルになっただけでは、その他大勢と同じで埋れてしまう。

これからは、なってから何をするのかが問われて行くだろう。

 

なってから普通に仕事をしていれば、それは普通の会社員だ。

組織にとっては普通に働いてくれる社員は取り替えのきく存在でしかない。

だが、その組織に所属していながら個人の知名度を高めることで、

組織外の仕事に貢献したり、将来的には自分の副業などに繋がることもあり、

そういうことの方が長期的に見れば重要な場合もあったりする。

 

先に書いたように、マスメディアからSNSのような多メディアに時代が移ると、

ニッチな領域にも注目されることが増えてくる、ユーチューバーなどもまさにそうだ。

大食いや子育て、○○好きタレントなど、細かなニーズが市民権を得てくる。

今までよりも多様性が求められるようになれば、個性が重視される。

 

筆者的には「アイドル+1」の時代だと思っている。

「アイドル+2」でもいい、アイドル以外に何か個性を身につけ、

それによって特定の分野だけで仕事を取ってくるのも大事で、

アンダーであってもそれを実践している有能な人などは、

今の時代性を理解しているなと感じることもある。

 

もちろん、だから安泰だなどと楽観視することなく、

+3、+4を狙って欲しいし、その+2以上は相乗効果で化けることもある。

 

例えば、

 

モデル×服作り=自己ブランド立ち上げ

 

演技×語学=海外舞台

 

スポーツ知識×トーク力=解説系タレント

 

コスプレ×演技=2次元舞台系タレント

 

 

 

などなど。

 

考えれば、ショールームなんて自由な場があれば、

好きな家電を毎回紹介しても、家電アイドルになれるかもしれないし、

好きなアート作品を公開すれば、ネット個展が開けるようなもので、

アイドルは知名度がすでにあるのだからフォロワーも多く、

何か突破口を開く可能性は大いに秘めていると言える。

別にアイドルを辞めてからエステサロンを開いてもいい。

知名度とブランドイメージが悪くなければ流行るかもしれない。

 

 

はっきり言って、アンダーだからって悲観する時代ではない。

チャンスなんてどこにでも転がっている時代なのだ。

そのためには個性的な人間になることを筆者としてはオススメする。

そしてつまらないことで自己ブランドイメージを損なわないで欲しい。

オフィシャルに生きることは、他の人よりもモラルなどが問われることも多い。

筆者などはそういうのが嫌なので、有名になりたいとはこれっぽっちも思わないけれど。

 

筆者などはつまらない人間なので大きなことは言えないが、

あまり他の人の考えに左右されずにやりたいことをやっているつもりだ。

要するに、このニッチな領域で成熟したのはつまり、

 

アイドル×小説=児玉坂の世界

 

 

というわけで、これも結局は何か今までに得た個性の掛け算に過ぎない。

でもあまり誰もやっていない領域なので、珍しいという価値はあると思っている。

筆者は別にこの趣味を公にしようという気持ちは毛頭ないのでやらないが、

もっと広めて有料コンテンツにしたり、サイトに広告をつけて収益を得てもいいかもしれない。

仕事にしたい人は、そんなことをやってみてもいいかもしれないと思う。

(公にするには権利の問題など、色々とあるかもしれないが・・・)

 

余談だが、アイドルになる人には少なからず自己顕示欲がある。

自分を見て欲しい、自分がすることを知って欲しい、名を残したいという欲がある。

筆者などは名を残す意味がわからないし、人間の個体性が好きになれないというか、

偶然持って生まれてきた自己を誇ろうという気持ちには到底なれない。

(もちろん、深層心理には屈折した自己顕示欲はあると思うが)

これは時に長所であり時に短所であるが、自分を誇る事はとても愚かなことに筆者は感じる。

それは人間には自由意志があるという前提での話であり、筆者の哲学の前提とは合致しないからだ。

だが、自己顕示欲がある人は、自分を発信していて楽しいのだから羨ましい。

何かを発信したり影響を与えたりすることに向いていると思う。

その欲を利用して、やりたいことや興味のあることはどんどん発信したらいいと思う。

 

 

そんな感じで、筆者はアイドルを一つの職業としてしか見ていない。

だが、そんな風に見る視点もまた何かしら面白いかもしれない。

アイドルになることが目的ではなく、次に何をするかへ視点を向ければ、

可能性は無限大にあると思うし、悲嘆に暮れている時間などないと思う。

是非ともこれからのアイドルには個性的になって欲しいと筆者は期待する。

別に悪いとは言わないが、写真集を出すというような旧来的なビジネスよりも、

自分達で動画作成をしたり、本を書いたり、映画監督をしたり、服をプロデュースしたり、

アニメを作成したり、徳川埋蔵金を探し続けたり、アフリカにアイドル文化を伝えに行ったりして欲しい。

 

 

かつて作家の司馬遼太郎は、明治時代の日本を、坂の上の雲を目指した時代と例えた。

だが、それでは坂を登りきった後で、あの雲には手が届かなかったことに気づく。

雨雲が発達すれば土砂降りになり、あの坂道を登る時代はよかったと過去を美化してしまう。

 

ある程度坂を登りきってしまってから加入する人々は、

これからは坂を登る世代ではないかもしれない。

筆者としては坂の上の宇宙まで飛び出すような心構えで、

個性を光らせて発信してくれるアイドルが出てくることを願う。

そうなれば、面白いのでもっと注目してしまうかもしれない。

 

 

卒業する人も、そうでない人も、新しい人も、これからの道は続く。

ここで書いたことをもし見た人がいれば何か参考になるかもしれないし、ならないかもしれない。

筆者もまた道半ばである、ほかの誰かと何も変わらない未熟者である。

ただ、ともに坂の上の宇宙を目指してくれる人に出会いたいと願っている。

 

 

ー終わりー